2023年5月29日 (月)

モーツァルト 五重奏曲 K452 プレヴィン

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もう散ってしまったが、モッコウバラ。

細かい花びらがびっしり、枝垂れるように咲く春~初夏のお花です。

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モーツァルト ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調 K.452

    ピアノ:アンドレ・プレヴィン

    オーボエ:ゲルハルト・トゥレチェク

    クラリネット:ペーター・シュミードル

    ホルン:フォルカー・アルトマン

    バスーン:フリードリヒ・ファルトル

                        (1985.4 @ウィーン)

シュトラウスに独占された耳を洗い流してリセットさせてくれる音楽。

やはりモーツァルトはいい。

あれこれ、頭を使うことも、詮索・研究することもいらない。

心のままに聴くことができる音楽、それがモーツァルト。

音楽の神様は偉大だ、ワーグナーやシュトラウスのような音楽も、バッハやモーツァルトのような音楽も、多様な作曲家たちも世につかわせて下さった。
いつになく、そんな風にも思いながら、このよどみない、清潔な音楽を聴いた。

1784年の作品で、ピアノ協奏曲の16番と17番に挟まれた曲。
サロンでもてはやされたモーツァルト、協奏曲的な要素を持ち込み、ピアノと管楽器との絡み合いの妙を楽しませてくれる音楽。
変ホ長調というくったくのない、深刻さもない、まったくもって明るく、のびやかな作品でありました。

3つの楽章で、冒頭は、ラルゴのまるで緩徐楽章のような前奏があって、これはピアノソナタに木管の伴奏がついたかのような印象。
あとの主部の穢れない無垢なる音楽はステキだ。
2楽章では、ピアノをともなった、木管楽器のそれぞれの魅力と持ち味が堪能できる。
朝ごはんを食べながら聴くと、実に幸せな気持ちになれる。
ピアノ協奏曲の3楽章のようなロンド形式の清潔な終楽章。

プレヴィンのマイルドなピアノに、ウィーンのまろやかな木管。
聴いていて目に浮かんでくる、ウィーンフィルの奏者たちのあの音色がここに。
それと混然一体となった、同質の音楽性を持ったプレヴィン。

音楽家プレヴィンの優しい本質がうかがえる演奏でありました。
ありがとうプレヴィン、ありがとうモーツァルト、そしてありがとうウィーン。

なんかね、これ聴いてて、ウィーンに行きたくなりました。
もうこの歳になったら無理だろうけど。

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2023年5月23日 (火)

R・シュトラウス 「エレクトラ」

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今年の花の巡りはとても早くて、ここ南関東ではツツジは連休前には咲き乱れて終わってしまいました。

加えて、真夏のような暑さも連休明けからあったりして、はやくもぐったり。

爽やかなな晩春~初夏の趣きはなくなってしまった。

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でも、今年のツツジの色は濃く、鮮やかだった。

3月から、先だってのノット&東響の実演まで、「エレクトラ」を数々聴きまくりました。

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本blog2度目のシュトラウスのオペラ全曲シリーズ。
4作目の「エレクトラ」。
シュトラウス44歳、1908年の完成。
「サロメ」と連続して書かれ、オーケストラ作品では、「家庭交響曲」と「アルプス交響曲」の間にある。

ギリシア三大悲劇詩人ソフォクレスの「エレクトラ」を演劇化したホフマンスタールの台本によるもので、ここからホフマンスタールとの完璧なるコラボが生まれ、名作を次々と編み出すことになる。
サロメは旧約聖書、エレクトラはギリシア悲劇、ともに不貞の肉親が絡み、殺害もある。

モーツァルトの「イドメネオ」に出てくる、いつも怒っているのが「エレクトラ」は同じ人物。
ミケーネ王である父アガメムノンを、その妻クリテムネストラと不倫を結んだエギストらに殺された、長女エレクトラが父の敵を討つという復讐劇と。
気が弱く女性的な妹クリソテミスと、復讐の実行犯になる姿を隠してを帰還する弟オレスト、エキセントリックで夢見心地のエレクトラ3姉弟の対比も鮮やか。
サロメより舞台に出ずっぱりで、しかもよりドラマテックな強い声を要すエレクトラ役はオペラの難役のひとつでしょう。

サロメより不協和音や激しい響きに満ちていて、甘い旋律や、陶酔感に満ちた響きも次々に現れるから、ワーグナーの延長、さらにはマーラーやシェーンベルクなどを聴き慣れた現代の聴き手からすると聴きにくい音楽ではない。

116名の巨大な編成を要するオーケストラは、サロメに続いて当時、いろんな比喩やカリカチュアを生んでいる。

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サロメに続いて似たような題材をあえて選択したシュトラウスは、明朗・晴朗なギリシャの世界ではないものをここに描きたかった。
緻密な作風はさらに進化し、ライトモティーフも複雑極まりなく、ときに音楽はエキセントリックで禍々しく、強烈極まりない。
一方で、情熱的な高揚感はサロメの比でなく、その意味ではシュトラウスの音楽のなかで最高に熱いものだと思う。
ここしばらく、エレクトラを聴きまくり、その思いはとどめになったノット&東響の演奏会で決定的となりました。

 シュトラウスは、ワーグナーを信望しつつ、その作風はワーグナーと違う次元に、このエレクトラで立ったと語っている。
不協和音の多用と無調に至るすれすれの音楽。
さらには歌唱も、まるでオーケストラの一員のようにレシタティーボ的に存在しなくてはならないし、一方オーケストラと対比しつつ、装飾的な存在とオーケストラの伴奏を受ける際立つ存在となるように書かれている。
 だから、シュトラウスは、サロメとエレクトラは、メンデルスゾーンの妖精の音楽のように軽やかに演奏しなくてはならないと、若い指揮者に向けて極めて実現の難しい金言を残している。
この言葉を実際の演奏で実現したのは、ミトロプーロスとベーム、サヴァリッシュ、アバド、そしてウェルザー・メストだと思います。

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ソフォクレスの原作悲劇にある、このオペラの前段のなかには、オペラで触れられてないこともあります。

クリテムネストラには前夫がいて、その美貌にほれ込んだアガメンノンにより前夫は戦死に追い込まれる。
さらに長男も復讐を恐れたアガメンノンに殺害される。
母クリテムネストラとその夫アガメンノンの従弟エギストは、かねてより不倫関係だった。
クリテムネストラにはほかに娘もいたが、アガメンノンの戦争必勝祈願の生贄にされてしまう。
こうしたくだりが、クリテムネストラがアガメンノンを憎悪して、ことに及んだ動機でもある・・・・

こうしたエピソード活かした舞台が、2020年のザルツブルク、ワリコフスキ演出だと思う。
オペラが始まるまえ、クリテムネストラ滔々と怒りを込めて語るシーンがある。

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「エレクトラ」は1幕ものですが、7つの場面からなりたってます。
さらにこの7つは、大きな単一楽章とみることで、シンメトリー的なシンフォニックな存在として、起承転結の4つの楽章としても捉えることができます。
このあたりは以前読んだ、金子健志さんのプログラムノートの受け売りです。

Ⅰ ①待女たちによる前段の説明、プロローグ
  ②エレクトラの父への思い、回想、仇討ちの決意
  ③エレクトラとクリソテミスと対話

Ⅱ ④生贄の行進、クリテムネストラとエレクトラの対話、
   母の悩み、
エレクトラの夢判断と母娘の決裂

Ⅲ ⑤オレストの訃報とエレクトラの決意
   クリソテミスへのダメだし

  ⑥エレクトラとオレストの邂逅

Ⅳ ⑦クリテムネストラ、エギストの殺害、姉妹の勝利
   エレクトラの歓喜の踊り

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【聴きどころ】

待女たちはクリテムネストラの配下だから、エレクトラをくさすわけだが、なかにひとり、エレクトラを讃える待女がいる。
その同情あふれる歌とオーケストラの音色の変化を確認。

有名な「Allein」で始まる長大なモノローグ。
だれも、いない、ひとりっきりだ・・・
この楽劇の全貌をこのシーンが要約している。
アガメンノーーン、父の殺害の回顧と妹弟と3人でこの恨みを晴らして、最後は勝利の踊りをしましょうぞ!

姉と妹の性格の違いの際立つシーン。
なんといっても、クリソテミスが子供を産んで普通の女性として暮らしたい、という歌唱シーンがすばらしすぎで大好き。

禍々しい生贄行進の音楽。ベームの映像を観ると、リアルすぎてキモイが・・・
クリテムネストラは呪いや魔除けの宝飾をたくさんつけていて、音楽もそんな雰囲気を醸し出し、さすがシュトラウス。
苦悩のクリテムネストラの独白~エレクトラが相談に応じ、徐々に核心に迫る~エレクトラはついに殺害されるだろうと予告
この3つシーンの流れにおける音楽の推移もまったく見事で、心理描写にぴったりと付随していて、音楽は新ウィーン楽派の領域にも通じたものを感じる。
エレクトラの爆発はここでも強烈だ。(それに反比例する弟の死を聞いた母の不気味な高笑い)

意図的にまかれたオレストの訃報に、いよいよ自分たちでやらねばと妹に迫るエレクトラは、決心できない妹に呪われよ!と絶叫。
どのシーンでも最後には怒って、すごんでしまうが、ほんと歌手はたいへんだ。

オレストとの再会は、その名を3度呼ぶが、いずれもその表現が変わる。
強かったエレクトラが女性らしさも見せるステキなシーンだ。
ロマンティックな音楽は、のちのシュトラウスのオペラの前触れで、ばらの騎士やアリアドネ、アラベラにも通じるものと思う。

クリテムネストラは今度は笑いでなく、断末魔の叫びを2発!
サロメのヘロデ王のような、すっとこどっこいじゃないけれど、なにもしらないエギストはやはり間抜けな存在として、妙に軽いタッチの音楽になっていて、殺られちゃうのに気の毒なくらい。
性格テノールからヘルデンまでがエギストを歌うが、もう少し聞かせどころが欲しかったと思うのは私だけ?
しかし、この場面の音楽は「ばらの騎士」のオクタヴィアンとオックスのやり取りを想起させたりもする。

 同時に起きた政権転覆の騒ぎに、姉妹は興奮。
その歓喜の爆発を維持しつつ、オーケストラはエレクトラの踊りで熱狂的となり、これまた聴き手は、シュトラウス・サウンドを聴く喜びの頂点を味わうことになる!
最後は楽劇冒頭のアガメンノンの動機が投げつけられるようにして愕然と終了!
サロメと同じく、急転直下のエンディングのかっこよさ!

【CD編】

①ショルテイ&ウィーンフィル(1966~7)

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 カルショウのプロデュース、リングのあとにエレクトラ。
 さらにこの翌年からばらの騎士を録音。
 サロメよりも、いっそう切れ味と爆発力の増したショルテイ。
 ウィーンフィルの音色は刺激臭なく見事に緩和。
 サロメと同じく、ニルソンの声で刷りこまれたエレクトラ。
 怜悧たる声とレンジの広さ、安定感など、ニルソンの代表的な録音だろう。
 ジャケットも怖いが、これが刷りこみイメージに。
 ニルソン、コリアー、レズニック、シュトルツェ、クラウセ

②ベーム&ドレスデン(1960)
 エレクトラを生涯、指揮し続けたベーム。
 録音はさすがに古くなったが、刺激的な表現はなく音楽的で純度高い。
 ドレスデンの古風な音色も悪くない。
 さらに素晴らしいのがボルクの声。
 少しも古めかしくなく、いまでも全然新鮮だし。
 alleinの登場時から漂う大女優のような品もある雰囲気は好き。
 マデイラの妹は可愛い、画像調べたら美人すぎてびっくりした。
 ボルク、マデイラ、シエヒ、ウール、Fディースカウ

③ベーム&ウィーン国立歌劇場(1967)
 モントリオール万博へのウィーンの引っ越し公演のライブ。
 大阪万博の3年前、やはり外来の音楽イベントはたくさんあった様子。
 モノラルだし、舞台の声の音像は遠い。
 そんな状態でもニルソンの強靭な声はよく通って聴こえる。
 ライブならではで、燃えるベームも最終場面では興奮状態に陥る。
 ニルソン、リザネック、レズニック、ウール、ニーンシュテット

④ベーム&メトロポリタン(1971)
 メトにたびたび来演していたベーム。
   アーカイブ見てたら1957年にドン・ジョヴァンニでMETデビュー。
 78年まで、毎年のように客演して様々なオペラを指揮してます。
 マイスタージンガーやローエングリンも、ヴォツェックも普通にやってる。
 驚きはオテロまで振ってる。
 こちらはモノながら録音もよく、歌手もオケも実によく聞き取れる。
 金管はアメリカンで、明るく野放図だがベームも思い切り鳴らしている。
 ここでもニルソンの声は際立ち、オケを圧してしまうその声がよくわかる。
 リザネックの優しいクリテムネストラもよくて理想的。
 マデイラがクリソテミスなのも豪華。
 まさにMETならでは。
 ニルソン、リザネック、マデイラ、ナギー、ステュワート

⑤小澤征爾&ボストン響(1998)
 われらが小澤さんのボストン時代の代表作のひとつ。
 エレクトラを得意にした小澤さん、新日フィルで1986年に聴きました。
 その後も、オペラの森、ウィーン時代もシュターツオパーで上演してる。
 オケがさすがに巧いのとライブだが、録音の良さにも安心感あり。
 重さや刺激臭少なめ、ついでに毒気なしの洗練されたシュトラウスサウンド。
 さすがに小澤さん。
 ベーレンスの烈女というより、意志を持ったひとりの女性といった表現。
 新鮮でユニークで聴き疲れない。
 ルートヴィヒの存在感も貴重な録音。
 ベーレンス、セクンデ、ルートヴィヒ、ウルフング、ヒュンニネン

⑥バレンボイム&ベルリン・シュターツオパー(1995)
 バレンボイムの演奏には、強烈さはなし。
 オーケストラの響きは見事にコントロールされ、耳に心地よく明るい。
 かつても克明なベルリン・シュターツカペレの姿はもうない。
 95年には、新鋭だった歌手ばかりだが、その後大成していったメンバー。
 ポラスキのタイトルロール、マークのクリソテミス。
 シュトルクマンのオレストと、さらにボータのエギストらがそれにあたる。
 バイロイトで活躍した故ヴォトリヒまでちょい役で登場。
 みんな素晴らしい。そして要が、マイアーのクリテムネストラのすごさ。
 (過去記事より)

⑦シノーポリ&ウィーンフィル(1995)
 
Elektra-sinopoli
 
 ウィーンフィルの絶叫しない音色を自在に操る。
 そして見事なまでのクライマックスと熱狂を導き出す。
 エギストが現れてからの後半の盛上げ方なんぞ素晴らしいの一言につきる。
 義父・母が逝ってしまってからの熱狂と、最後の強烈なエンディング!! 
 ウィーンフィル最高。
 スターを揃えたキャストに文句なし。
 圧倒的なパワーとキレのよさを聴かせるマークのエレクトラ。
 同様にドラマテックだが、優しい声の持主ヴォイト
 このアメリカン巨大コンビは、ちょいと聴きもの。
 さらに、マッチョな
レミーのエギストも、シリアスすぎて怖いくらい。
 シュヴァルツイェルサレムの唯一ドイツ・コンビ。
 生真面目に歌っていて、不可思議ないやらしさが出ているように思う。


【録音篇】

①スウィトナー&ベルリン国立歌劇場(1967)
 youtubeから発掘、音悪くない。
 旧東側のベルリンサウンド、スウィトナーの顔が浮かぶ
 スティーガー、ドヴォルジャコヴァ、メードル、スウォルク、グルーバー

②シュタイン&ウィーン国立歌劇場(1977)
 ウィーンでの日常の上演のひとコマ。
 ベームのようなシュタインの熱い指揮。
 80年に日本に持ってきたW・ワーグナーのプロダクションか。
 シュレーダーファイネン、ジョーンズ、ルートヴィヒ、バイラー、アダム
 配役が素敵だ。

③ウェルザー・メスト&クリーヴランド(2004)
 快速メストの20年前のエレクトラ。
 優秀なオーケストラを得て、解像度も抜群でスコアも浮き彫りに
 クリーヴランドのシェフも長く、コンサートオペラも毎年。
 ブリューワー、ガスティーーン、パーマー、ローヴェ、ヘルト

④マゼール&ニューヨークフィル(2008)
 youtubeからの贈り物。
 NYPOが音源を無償で解放していた時期のものか?
 テンション高し、粘り多し、おもろい。
 さすがはマゼールで、オケも抜群に巧く、CD化希望。
 ポラスキ、シュヴァンネヴィルムス、ヘンシェル
 マージソン、トーヴェイ

⑤ネルソンス&ロイヤルオペラ(2013)
 ダイナミズムを活かし、局面の各所では大見えを切るネルソンス!
 構えの大きさ、腰の低いところでの重厚さはシュトラウスの明澄さ不足。
 なれど、音楽の迫真さと引き込む力は強し。
 ガーキーの同役を聴いた一号。
 強烈さはあるも、発声が好きになれなかった。
 ガーキー、ピエチョンカ、シュスター、ディディク、ペテルソン

⑥ビシュコフ&BBCso(2014)
 
Goerke

 プロムスでのコンサート形式。
 テンション高し、ビシュコフとBBCの相性よし、観衆の反応よし。
 ガーキーもめちゃ拍手を浴びていて、アルバートホールをうならせた。
 パワーに依存し、やはり喉を揺らすような声が時おりでる。
 効果のための表現と、自分には感じたアメリカン的なわかりやすい歌唱。
 ガーキー、バークミン。パーマー、クーンツェル、ロイター

⑦サロネン&メトロポリタン(2016)
 映像分に同じく、そちらでコメント

⑧ビシュコフ&ウィーン国立歌劇場(2020)
 
 Elektra-wien

 2015年に始まったラウフェンベルクの演出。
 コロナ禍のストリーミングで視聴したが、演出は好きになれない。
  エレベーターで上下する地下に押しこめられたエレクトラ。
 上階の連中との対比。
 エギストの殺害はエレベーター内で丸見え。
 殺害されたクリソテミスが血みどろでエレベーターを上下する。
 こんな気分悪い演出は、2020年に取下げられた。
 いまはアバドのときのクプファー演出がウィーンのエレクトラ。
 ここでもウィーンフィルの魅力。
 ビシュコフのまっしぐらな指揮もよし。
 ガーキーもウィーンで成功、パワー頼みだけど、細やかな歌唱も目立つ。
 過剰な表現は収まりつつあることを確認できた。
 ガーキー、シモーネ・シュナイダー、マイヤー、フォレ、エルンスト

⑨ウェルザー・メスト指揮ウィーンフィル(2020)
 映像分に同じく、そちらでコメント

【映像篇】 

①ベーム&ウィーンフィル(1981)

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 ベームの白鳥の歌はエレクトラだった。
 シネマとしてのG・フリードリヒ演出は、最大公約数を描いたもの。
 亡くなる直前のベームの指揮は、優秀な音質にして出して欲しい。
 最後の演奏が、なぜにウィーンとエレクトラだったかを音で確認したい。
 リザネック、リゲンツァ、ヴァルナイ、FD、バイラー
 リザネックの迫真の歌唱と演技。
 みんな大好き、音源少ないリゲンツァの動く姿。 
 超レジェンドのヴァルナイの禍々しさと、バイラーの老いたヘルデン。
 ぎらぎら・びんびんのFD。
 なにもかも貴重な記録なエレクトラ。

②アバド&ウィーン国立歌劇場(1989)
 
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 アバドの唯一のシュトラウスオペラとなった。
 オケを抑えて音量も色彩もあえて控えめにしたアバド。
 それに対するウィーンの観客の評価は、クプファー演出とともに厳しかった。
 アバドらしい演奏だし、音源だけでの復刻もして欲しい。
 95年のベルリンフィルとの演奏も出て来ないものかな。
 アガメンノンの顔らしきものを舞台にしたクプファー演出は暗い。
 歌手は豪華だが、ベルリンのときのポラスキで聴きたい。
 マルトン、ステューダー、ファスベンダー、グルントヘーパー、キング
 ステューダーが断然すばらしい。

③ガッティ&ウィーンフィル(2010)
 ここでもウィーンフィル、ウィーンフィルだらけなのだ。
 ガッティの適度に荒れて、力強さとスマートさもある指揮がいい。
 顔のドアップばかりで、全体像のつかみにくい映像にフラストレーション。
 みんな顔がすごいんだよ。
 とくにテオリンさま。
 そのテオリン、言葉が不明瞭だが、やはり威力は満点。
 ここでもマイヤーが味がある。
 レーンホフの演出は、いつものようにダークな感じで、得意の白塗りも。
 ラストのクリテムネストラの宙づり遺体には興ざめだな。
 テオリン、ウェストブロック、マイヤー、ガンビル、パペ
 
④サロネン&メトロポリタン(2016)
 
Elektra-met-2

 サロネンのクールかつ激熱なオーケストラが素晴らしい。
 故シェローの演出は、ビジュアル的には渋く静的な感じ。
 極めて演劇的で、個々の歌手たちに求められる演技力。
 指一本に至るまで厳しい指導があったものと思われる。
 悪の権化みたいな母と、娘エレクトラの母娘の情も。

 これを表出した秀逸な解釈。
 他の多くの出演者も、みんな演者として細かに機能してる感じ。
 バイロイトのリングで革命的な演出をなしたシェローの行き着いた先。
 それはもしかしたら、歌舞伎や能の世界かもしらん、しらんけど。
 マイヤーさんと、シュティンメさんが素敵すぎました。
 ピエチョンカ、ウルリヒ、オーウェンス

⑤ウェルザー・メスト&ウィーンフィル(2020)

Elektra-most

 ワリコフスキの驚きの演出、しかし納得感あり。
 生贄感を漂わせる実験病棟のような空間が舞台。
 そこで足を清め、殺菌したりするような足湯が中央に。
 エレクトラは花柄ワンピース、妹はピンク皮のミニスカスーツ
 ちょっと病んでる感じの姉に、不満で一杯、積極的な妹
 姉と妹が、その行動も、ともに入れ替わっている。
 義理父は本気で殺され、実母は足を清め、丁寧に弔う。
 実行犯を見た弟は、頭を叩かれおかしくなってしまう・・・
 いやはや、驚きの演出だった。
  でもね、ホフマンスタールとシュトラウスはそこは採用しなかった。
 そこを持ちこんだことは賛否あるし、ここまで手を突っ込んでいいのか
 そんな風にも思うが・・・でも新鮮ではあった。

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 メストとウィーンフィルの俊敏で繊細なオケ。
 ストゥーンディテの没頭感あるエレクトラ。
 歌も演技も本物、オケを突き抜けるグリゴリアン。
 エグいけど、母親らしいバウムガルトナー。
 ローレンツ、ウェルトンの男声もよい

⑥ノット&スイス・ロマンド(2022)
 ジュネーヴ大劇場のピットに入るスイス・ロマンド。
 おのずとその首席もピットに立つ。
 ノットはジュネーヴで実際の上演をしてから東京に来る
 今年12月には「ばらの騎士」が予定されている。
 ここでのノットの指揮は、かなり抑制的だったが、テンポは速い。
 だが、緊張感や迫力は東響の方が上だ。

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 ウルリヒ・ラッシュという人のヘンテコな演出というか装置。
 土星のような巨大な輪っかが常に回っていて、歌手はそこで歌う。
 命綱もついていて、正直歌手はたいへんだと思う。
 黒づくめのダーティな舞台でわけわからなかった。
 ちゃんとした舞台でやって欲しかったいい歌手たち。
 スウェーデンのブリンベリはよきドラマティックソプラノ。
 ミンコフスキのオランダ人でゼンタを歌ってる。
 ヤクビアク、バウムガルトナーの女声もよい。
 ロウレンツ、シェミレディの男声は渋い。

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2022年2月の上演。

今年2023年の春には「パルジファル」をやったみたいです。

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たくさんのエレクトラを視聴し、歩いていてもエレクトラの色んな旋律が頭をめぐるようになりました。
この作品から2年後には「ばらの騎士」が生まれるなんて、信じられないと以前は思っていたけれど、こんだけエレクトラを聴くと、各処にばら騎士の萌芽を確認することもできました。

再びシュトラウスのオペラの私の作成した一覧を。
われながら、時おり見返しては視聴の参考にしてる。
わかること、それはホフマンスタールは偉大だったし、最高のコンビだったということ。

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次のシュトラウスは、もう何度も登場、「ばらの騎士」です。

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2023年5月14日 (日)

R・シュトラウス 「エレクトラ」ノット&東響

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ジョナサン・ノットと東京交響楽団のシュトラウス・オペラシリーズ第2弾、「エレクトラ」。

サロメの時と同じく、2公演の一夜目、ミューザ川崎にて観劇。

翌々日のサントリーホールは完売とのこと。

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 R・シュトラウス 楽劇「エレクトラ」

    エレクトラ:クリスティーン・ガーキー
    クリソテミス:シネイド・キャンベル=ウォレス
    クリテムネストラ:ハンナ・シュヴァルツ
    エギスト:フランク・ファン・アーケン
    オレスト:ジェームス・アトキンソン
        オレストの養育者:山下 浩司
    若い召使 :伊達 達人
    老いた召使:鹿野 由之
    監視の女  :増田 のり子
    第1の待女:金子 美香
    第2の待女:谷口 睦美
    第3の待女:池田 香織
    第4の待女:高橋 絵里
    第5の待女:田崎 尚美

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
              二期会合唱団

    演出監修:サー・トーマス・アレン

       (2023.5.12 @ミューザ川崎シンフォニーホール

前作サロメに比べると、日本では格段に上演頻度が下がるエレクトラ。
サロメ以上に、オーケストラメンバーを要してさらに大編成となり、歌手陣も女声ばかり、多くなった。
加えて、劇中の肉親への殺害シーンがあるので、似た筋建てのサロメよりはより残虐になってしまった。

エレクトラの日本初演は、1980年のウィーン国立歌劇場の来演。
そのあと、1986年の小澤征爾指揮で新日フィルのコンサート形式上演、1995年のシノーポリとドレスデンのコンサート形式。
若杉弘&都響(1997)、デュトワ&N響(2003)とコンサート形式演奏が続き、2004年の新国立劇場、2005年の小澤のオペラの森上演。
16年ぶり演奏が、このたびのノット&東響です。
こうしてみると、8回の演奏機会のうち、舞台上演は日本では3度だけなのですね。
今回、最高の演奏を聴くことができて、舞台にぜひとも接したいと思う次第です。
ちなみに、わたくし、小澤さんの新日での演奏を聴いてまして、簡単な舞台を据えての日本語訳上演だったと記憶しますが、小澤さんの抑えに抑えた抑制された指揮ぶりが思い起こせます。

このたびのエレクトラ、なんといってもいまエレクトラ歌手としては、世界一とも言われるクリスティーン・ガーキー。
その圧倒的な声と歌唱に驚かされ、会場の聴衆のまさに息をのむような瞬間が続出しました。
連続する7つの場面の、最初の待女たちによる物語の前段以外、ずっと舞台に立ち続け、歌い続けなくてはならないエレクトラ。
咆哮するオーケストラに対峙するように、その上をいくように声をホールに響かせなくてはならない難役、しかもオーケストラはピットでなく、舞台の上。
昨年のグリゴリアンのサロメもオケに負けない声を飛ばす能力にあふれていたが、ガーキーのエレクトラはまさに、パワーそのもの。
エレクトラが決意を歌い上げたり、母を攻めたり、妹に復讐を迫ったり、弟と歓喜を分かち合ったり、最後には念願成就で爆発したりと、都合5回もエレクトラには絶唱部分があり、それらがみんな鳥肌ものの歌唱だったのがガーキーさんだ。
ガーキーのエレクトラは、海外の放送をいくつも聴いており、2013、2014、2020年のものがある。
これらと比べ、さらにはメットでのブリュンヒルデも含め、私は彼女の発声、とくに喉の奥を揺らすような独特のビブラートがあまり好きではなかった。
その特徴は、ルネ・フレミングにも通じていた雰囲気だ。
しかし、実演を聴いて、ガーキーの声からそうした揺らしは霧消したように感じ、声はよりストレートになったやに感じましたがいかに。
アメリカンな体形の彼女だけれど、その眼力を伴った演技もなかなかで、トーマス・アレン卿のシンプルで的確な演出に味わいを添えてました。
ちなみに、ガーキーさん、滞在中に千葉の震度5の地震を体験してしまい恐怖を味わってしまった様子。
彼女のSNSでは「WHOOP WHOOP WHOOP EARTHQUAKE」と驚愕されてました!

ダークグリーンのドレスのエレクトラ、それに対比して鮮やかなレッドのドレスの妹。
クリソテミスのキャンベル=ウォレスの素晴らしい声にも驚いた。
まっすぐな声で、こちらも耳にビンビン届くし、情熱的な表現も申し分なく、この役の女性らしさもいじらしく、平凡な生活を送りたいと願う場面では感動のあまり涙ぐんでしまった。
このあたりのシュトラウスの音楽は実に見事なものだ。
彼女のジークリンデあたりを聴いてみたい。

レジェンド級のメゾ、ハンナ・シュヴァルツのクリテムネストラは、79歳という年齢を感じさせない彼女の健在ぶりに舌を巻き、逆に苦悩に沈む姿を淡々と歌い、その味わい深さは忘れがたいものとなった。
憎々しい役柄だけど、母の姿も見せなくてはならないが、老いた母の娘の言葉にすがる様子は素晴らしく、ガーキーとの静かな対話が感動的。
シュヴァルツさんは、数々のフリッカ役、ブランゲーネ、アバドとのマーラーなど、いずれも私も若き日々から聴いてきた歌手。
これだけでも忘れがたい一夜になったと思ってる。

ヘロデ王にも通じる素っ頓狂なロール、エギストだけれど、もっと歌ってもらいたいと思ったのがファン・アーケンの声。
トリスタンもレパートリーに持つアーケンさん、バイロイトでタンホイザーを歌っていたようで、調べたら私も録音して持ってました。
エギストの断末魔は、コンサート舞台だと、袖から出たり入ったりでやや滑稽だったがしょうがないですね、すぐに死んでしまう風に書かれてないので。

若いアトキンソンのオレスト、美声だけれど、オケにやや埋もれがちだった。
この声で、英国歌曲などを静かに味わいたいものです。

5人の待女に、日本のオペラ界の実績あるスターが勢ぞろいした贅沢ぶり。
禍々しいオペラのプロローグが引き締まりましたし、エレクトラに唯一同情的な第5の待女の存在も、これでよくわかりました。
いろんなオペラで必ず接しているのは、男声陣も同じくで、安心感ありました。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ノットと巨大編成の東京交響楽団。
サロメ以上の大音響を一点の曇りもなく、クリアーの聴かせることでは抜群。
場をつなぐ、いくつかのシーンでは、リミッター解除ともいう感じで、ガンガン鳴らしてまして、これまさにシュトラウスサウンドを聴く喜びを恍惚ととにに味わいました。
一方、緻密で精妙だったのがエレクトラとクリテムネストラとの会話で、シュヴァルツの老練な歌いぶりに合わせたもので、耳がそば立ちましたね。
あと、感情的な爆発のシーンも思い切りオーケストラを歌わせ、そのピークのひとつ、姉と弟の邂逅のシーンでの陶酔感は鳥肌ものでした。
コンマスのひとり、ニキティンさんを第2ヴァイオリントップに据えたことも、ソロや分奏が多くあるシュトラウスのスコアを反映してのもので、オケがいろんなことをしているのを見つつ、歌手と字幕を目まぐるしく見渡すことに忙しさと快感を覚えました。
ヴィオラが2度ほどヴァイオリンを持ち換えで弾くシーンがあると事前に読んでいたが、実はそれはわかりませんでした。
ちょっと気になる。

ということで、このコンサートに備え、昨年のサロメいらい、手持ちのエレクトラ音源と映像20種以上をずっと確認してました。
そのあたりの仕上げを次回はしようと考えてます。
しばらく、頭の中がエレクトラだらけとなります。

次のシュトラウスシリーズは、何になるのかな?
無難に順番的に「ばらの騎士」か?
いきなり、「影のない女」を期待したいがいかに。



大喝采のミューザの模様。
youtubeに動画をあげました。

満員の東海道線に乗り帰宅。
乾いた喉をビールで潤し、狂暴なまでに空いたお腹をラーメンで満たし、エレクトラをまた聴きました。

Elektra-03

若い頃なら終演後は、街へ繰り出し一杯やったものですが、もう若くない自分はもうこれで十分。
耳もお腹もご馳走さまでした。

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2023年4月22日 (土)

バックス 「ファンドの園」 バルビローリ指揮

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ネモフィラと富士山。

秦野市の弘法山の中腹にある広場にて。

この日は黄砂の影響で、富士がやや霞んでしまったのが残念だけど、まるで楽園のような美しいブルー。

初夏のような日が連続して、桜も一気に咲き終わってしまいましたが、次々にいろんな花がはじけるように咲き誇り、忙しいです。

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わずかに残っていた牡丹桜とネモフィラ。

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  バックス 交響詩「ファンドの園」

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハレ管弦楽団

         (1956.6.10 @マンチェスター)

久々に取り出したバルビローリの懐かしの1枚。
英国パイレーベル原盤をテイチクがレコード時代には廉価盤で発売し、CD時代初期にも数枚がCD化された希少な国内盤。
今では外盤、ダットンレーベルあたりで出ているでしょうかね。

この1枚の白眉は、ディーリアスの悲しいぐらいに美しい「田園詩曲」で、もう15年も前に記事にしてました。
ほかの収録曲は、ディーリアスでは「かっこう」「楽園への道」「イルメリン」「フェニモアとゲルダ」などの定番。
あとこれまたステキな、バターワースの「シュロプシャーの若者」が入ってます。
そして私の好きなバックスも。

三浦淳史さんのCD解説をもとに。
サガ(北欧伝説)に基づくもので、祖国を守った英雄「ベール族のアキレス」が、大洋の支配者の娘「ファンド」の誘惑に負けてしまい、これまでの英雄的な行動を忘れてしまう、というもの。
 この伝説をバックス流に、「ファンドの園」を「海」にたとえ、ファンドの魔法の島にうちあげられた船の乗組員たちが遭遇する饗宴の様子、そのあと高波がおこって、島全体が飲み込まれてしまうことになる・・・、やがて海は静まり、ファンドの園も消えてしまう。
 こんな風にイメージされた、一服のバックス独特のケルト臭あふれる清涼かつ神秘的な音楽。
1916年の作品。

この曲、ブライデン・トムソンの指揮のバックス交響詩集で、これもまた15年前に記事にしてました。
アルスター管弦楽団という北アイルランドの本場オケと、シャープでダイナミックなブライデンの指揮が、録音の良さもあって抜群な演奏だった。
B・トムソンの録音は1984年のデジタル録音で、いまから40年近く前。
それより遡ること1956年、ぎりぎりステレオごく初期の頃の録音がバルビローリとハレ管のもので、分離のいまいちさ、音の混濁、音の遠いイメージなどから、いまの最新の録音からも聴きおとりのするトムソン盤よりも、はるかに昔の音に聴こえる。
でも、それが実はいい。
古風な、もしかしたらたどってきた道を振り返るような、郷愁をさえ感じさせる、そのいにしえ感は遠い世界のレジェンドにも通じるもの。
多少のもこもこした雰囲気は、バルビローリの情熱と共感をともなった熱い指揮でもって、なおさらに愛おしく感じます。

そこそこに歳を経て暮らす、若き日々を育った場所での生活。
地域を周り巡るたびに見つけ出す新鮮さ。

愛好してきた英国音楽に通じる郷愁の音楽が、いまこそ身に染み入るようになってきました。

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ちょっと場所を変えて、眼下に見入る秦野の街。

ブルーの海のような幻想の世界。

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2023年4月14日 (金)

R・シュトラウス 「平和の日」 二期会公演

Shibuya-01

日曜の午後の渋谷。

信号が変わるたびに、この群集が渡る光景、駅へ向かう人以外はいったいどこへ?

わたしのいまいる小さな町の人口ぐらいの人数がここにあるくらいだ。

学生時代を過ごしたワタクシの昭和の渋谷は、もう見る影もない。

隅々まで知っていたのに、迷子になってしまう。

人をかき分けて、この日はオーチャードホールへ。
最愛の作曲家シュトラウスのオペラを観劇に、苦難をもろともせずに向かう。

この多くの人々は、平和と自由を享受し、危機と、もしかしたら来るかもしれない苦難という言葉は知らないようだ。

Friedenstag2023

       R・シュトラウス 「平和の日」

  司令官:小森 輝彦  マリア :渡邊 仁美
  衛兵 :大塚 博章  狙撃兵 :岸浪 愛学
      砲兵 :野村 光洋  マスケット銃兵:高崎 翔平
  ラッパ手:清水 宏樹 仕官  :杉浦 隆大
  前線の仕官:岩田 建志 ピエモンテ人:山本 耕平
  ホルシュタイン人 包囲軍司令官:狩野 賢一
  市長 :持齋 寛匡  司教  :寺西 一真
  女性の市民:中野 亜維里

 準・メルクル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
           二期会合唱団
       合唱指揮:大島 義彰
       舞台構成:太田 麻衣子
       (カヴァー マリア:冨平 安希子)

         (2023.4.9 @Bunkamura オーチャードホール)

日本初演、アジア圏初演、2日目に観劇してきました。

舞台にあがったオーケストラの前に、簡易な装置を据えたセミステージ上演。

わたしにとって、シュトラウスはヨハンでなくてリヒャルト、そしてリヒャルトはオペラ作曲家です。

15作あるオペラの12作目。
主要な管弦楽作品はとっくに書き終えていて、オペラ以外では、かの明朗なるオーボエ協奏曲や二重協奏曲、メタモルフォーゼンなどが残されているのみ。
オペラでは、タイトルとは裏腹な、言葉の洪水のような「無口な女」の半年あと、1936年6月の作曲が「平和の日」。
本作以降が「ダフネ」(1937)、「ダナエの愛」(1940)、「カプリッチョ」(1941)となります。

このシュトラウス作品の流れで「平和の日」を捉えてみると感じるのは、シュトラウスらしからぬ表層感といきなりの平和賛歌の唐突感。

もう15年も前の弊ブログ記事で、作品の成り立ちやドラマはご確認いただけましたら幸いです。

「平和の日 シノーポリ盤」

CD1枚サイズのオペラを本格舞台で上演するにはコスト的にも大変。
シュトラウスが想定した「ダフネ」とのダブルビルトも集客的にも難しい。
ということで、今回の二期会セミステージ上演はその点でまず大成功。

そして独語上演では歴史と伝統のある二期会の公演、スタッフも協力者もすべてにおいてシュトラウス演奏に適材適所の安心の布陣。
舞台奥に紗幕的なスクリーンを配置し、そこにドラマの進行にあわせてイメージ動画が流れる。
30年戦争当時の神聖ローマ帝国らしき地図や、戦端の模様、教会の鐘など、音楽とドラマに巧みにリンクしていてわかりやすかった。
ただ最後の地球は、正直、新味に乏しく、各国の平和の文字であふれるところもうーーむ、という感じだった。
思えば、地球で平和裏に終わる演出は、これまでいくつ見てきただろうか。
パルジファル、キャンディードなどが記憶にあり。

その紗幕の向こうに合唱が配置。
びっしり並んだオーケストラを指揮する準・メルクル氏に、歌手たちはその指揮者に背を向けて歌うわけで、オペラ上演と真反対。
舞台袖上部に指揮者を映すモニターが据えられていたし、メルクルさんは、巧みに歌手たちに見やすいように、そして的確に指揮しておりまして関心しました。

手持ちのCDはいずれも海外盤なので、今回字幕付きでじっくり堪能できたのは、ほんとにありがたかった。
これまでちょっと曖昧だった部分がすっきり解決、みたいな感じ。
市長などが司令官を訪れ、市民の疲弊の説明と講和を進めるが、頑なな司令官は午後に決定を知らせると話す。
その午後に教会の鐘が打ち鳴らされるわけだけど、宗教をひとつの理由とした戦渦で、久しく鐘は鳴ることがなく、それを司令官の意志と思った市長や市民たち、そんな平和の誤解がよく理解できた。
 頑迷な司令官はそんなの知らない、敵司令官の訪問にも頑なな態度を崩さなかった。
このあたりのいきさつが、今回とてもよく理解できた。
 あと司令官夫妻の二重唱では、熱烈な愛の二重唱だと思い込んでいたけれど、お互いの思いのすれ違う言葉の応酬だった。
それでもマリアのモノローグから、夫妻の二重唱、そのあとのオーケストラの間奏など、まさにシュトラウスの音楽の醍醐味を痺れるような感銘とともに味わうことができました。

フィデリオや第9みたいだと思いつつ、合唱幻想曲をも想起してしまう、そんな歓喜の爆発エンディングは、衣装をコンサートスタイルに変えた登場人物たちが舞台前面に並び立ち、割と前列だったワタクシは、思い切り皆さんの力のこもった力唱のシャワーを浴びることになり、興奮にも包まれたのでした。

1975年の若杉弘さんの指揮する「オテロ」が、わたくしの初オペラで、初二期会でした。
以来、二期会のオペラは多く観劇してきましたが、日本初演の上演も多数経験できました。
なかでも、「ジークフリート」「神々の黄昏(日本人初演)」は自分的に誇るべき体験でしたし、シュトラウスも多くの日本初演を二期会で体験できました。
そして今回の「平和の日」も忘れえぬモニュメントとなりそうです。

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ウォータンやシェーン博士など、いくつもの上演で聴いてきた小森さん。
やはり素晴らしい。
ドイツ語がまず美しいのと、歌としての自然さがまったく違和感なくなめらか。
独白的な場面も、めちゃくちゃ説得力があって、渋い演技とともに堅物の司令官の姿を見事に描ききってました。

あと驚きは渡邊さんのマリアで、あの長大なモノローグを情熱的に見事に歌ってのけて、女声好きのシュトラウスの残した聴かせどころを大いなる共感とともに表現してました。
この場面では、後期のシュトラウスの透明感と諦念のような作風も感じるので、思わず涙ぐんでしまった。
今後の二期会のシュトラウス上演に渡邊さんと、今回カヴァーに入っていた富安さんは欠かせない存在となりそうです。
あのモノローグをいま聴きながら書いてますが、いろんな要素が詰まってますね。

大塚さんの衛兵、深いバスは、かなり前にグルネマンツを聴いたことを思い出しました。
ほかの諸役も、二期会のオペラでお馴染みの方ばかりですが、よくよくおひとりひとり見て聴いていると、なんと難しい歌唱なのかと痛感。
シュトラウスの楽譜は、きっと歌手も楽器もおんなじ扱いで、高難度で、よくぞこんなの暗譜して歌えるなと感心してしまうことしきり。
これら諸役で、案外の決め手役は、イタリア歌手としてのピエモンテ人で、ドイツ人のなかにあるイタリア人的な輝きと明るさが特異な役柄。
しかも今回は、演出で司令官の意図を察して行動する役柄だけど、つねにその行動に不安と疑問を持っている。
ルルでのアルヴァ役が記憶にある山本さん、いい声響かせてました。

先に触れたオペラ指揮者としてのメルクルさんの手練れぶり。
「ダナエの愛」を聴き逃したのは痛恨ですが、新国のリング以来のメルクルさんでした。
なによりも大編成のオーケストラを過不足なく響かせつつ、歌手の声もホールに明瞭に届けなくてはならない。
その意味で、オーケストラをコントロールしながらも、斬新なシュトラウスサウンドを堪能させてくれた。
もっと大胆に、豪放にやることもできたかもしれないが、東フィルから繊細かつスマートな音響を引き出してました。
久々の東フィルも実にうまい!

二期会の積極的なネットでの広報や、専門家や出演者による解説など、事前のお勉強にとても役立ちました。
加えて最後にお願い、というか提案。
このような珍しいオペラはリブレットの理解が必須で、国内盤もないなか、海外盤に頼らざるをえない。
広瀬大介さんの素晴らしい翻訳は、当日販売するとか、有料配信するとかできないものか。
有名オペラ以外は、こうした手段も取って欲しいと思います。

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1月末に営業終了した東急百貨店。
連結するBunkamuraも、このオペラ上演翌日より、一体再開発のため長期休館となりました。
オーチャードホールは、日曜のみ開館するようですが、1989年のオープニングを思い出します。
シノーポリ率いるバイロイト音楽祭の引っ越し公演でこけら落とし。
結婚したばかりで余裕のなかった当時のワタクシ、泣く泣くこの上演は見送りましたことも懐かしい思い出です。

変貌に次ぐ変貌をとげる渋谷の街。
「私の昭和の渋谷」は遠い過去のものになってしまった。
地下に潜ると迷子になってしまうし、地上も景色が変わってしまわからない。
途切れることのない人の流れに戸惑うワタクシ、まさに「さまよえるオジサン」でした。

昼食を取ろうにもラーメン屋や行列店ばかり。
外人さんだらけ。
大人の残された空間のようなお寿司屋さんをみつけ、すべりこんで一息つきました。

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人ごみに流されたあとの一杯は極上でございました。

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お手頃ランチ握りも極上。

静かな店内をひとたび外へ出るとまたあの雑踏。

東京一極集中は、日本にとってほんとによろしくないな。

でもオペラは楽しい。

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2023年4月 7日 (金)

シュレーカー 「はるかな響き」夜曲 エッシェンバッハ指揮

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桜満開の小田原城のライトアップ🌸

城内外、お堀の周りも桜満開。

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月も輝き、ロマンテックな夜でした。

Schreker-eschenbach


  シュレーカー 「はるかな響き」夜曲

         「ゆるやかなワルツ」

          室内交響曲

          2つの抒情歌

           S:チェン・レイス

         5つの歌

           Br:マティアス・ゲルネ

         「小組曲」

         「ロマンテックな組曲」

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮

     ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 2022.5,6 @コンツェルトハウス、ベルリン)

忽然とあらわれたシュレーカーの音楽の新譜。
しかも指揮が、ばっちりお似合いのエッシェンバッハ。
その濃密な音楽造りと、没頭的な指揮ぶりから、マーラー以降の音楽、さらにはナチスの陥れにあった退廃系とレッテルされた音楽たちには、きっと間違いなく相性を発揮すると思っていたエッシェンバッハ。
いまのベルリンの手兵と、しかもDGへの万全なるスタジオ録音。
シュレーカーファンとしては、そく購入とポチリました。
おりからの急速で訪れた春と咲き誇る桜や花々に圧倒されつつ、連日このシュレーカーの音盤を聴いた。

フランツ・シュレーカー(1878~1934)

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・

ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
どこか遠くで鳴ってる音楽。

過去記事を引用しながら、各曲にコメント。

①「はるかな響き」の夜曲は、オペラ2作目で、いよいよ世紀末風ムードの作風に突入していく契機の作品。
3幕の2場への長大な間奏曲。
はるかな響きが聴こえる芸術家とその幼馴染の女性、それぞれの過ちと勘違い、転落の人生。
毎度痛い経歴を持つ登場人物たちの物語が多いのもシュレーカーの特徴。

夜にひとり悲しむヒロインの場面で、これまた超濃厚かつ、月と闇と夜露を感じさせるロマンティックな音楽であります。
鳥のさえずる中庭の死を待つ芸術家の部屋への場面転換の音楽で、ヒロインと最後の邂逅の場面。
トリスタンの物語にも通じるシーンであります。
エッシェンバッハらしい、濃密な演奏は、かつてのシナイスキーとBBCフィルのシャンドス盤があっさりすぎて聴こえる。
オペラ「はるかな響き」過去記事


②「ゆるやかなワルツ」
ウィーン風の瀟洒な感じの小粋なワルツ。
小管弦楽のために、と付されていて、パントマイム(バレエ)「王女の誕生日」との関連性もある桂作です。
クリムト主催の芸術祭でモダン・バレエの祖グレーテ・ヴィーゼンタールから委嘱を受けて作曲された「王女の誕生日」。
原曲も美しい組曲ですが、この繊細なワルツも美しく、演奏もステキなものでした。
(「王女の誕生日」過去記事)

③「
室内交響曲」
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の濃密かつ明滅するような煌めきの音楽。
文字通り室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケに加わっている。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっている。
オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、これまでのオペラの旋律が何度か顔を出す。
エッシェンバッハの作り出す煌めきのサウンドは、とりとめなさと、醒めた雰囲気と、輝かしさとが綯い交ぜとなったこの音楽の魅力を引き立てているし、オーケストラも緻密だ。

④⑤「ふたつの抒情歌」「5つの歌曲」
初聴き、もしかしたら初録音のオーケストラ伴奏の歌曲で、これはこのアルバムの白眉かもしれない。
まだ聴きこみ不足だが、くめども尽きない世紀末感に満ちた濃密な歌曲集。
この時代、数多くの作曲家がホイットマンの詩に感化され歌を付けたが、「ふたつの抒情歌」はホイットマンの「草の葉」につけた歌曲で、1912年の作曲。
「5つの歌曲」は1909~22年の作で、アラビアンナイトに基づく原詩への歌曲。
ともに初なので、まだ詩と音楽、つかみ切れてませんが、ともかく美しくて深くて、味わいが深い。
これが歌手の力も強くて、チェン・レイスのヴィブラートのない美しいストレートボイスがえも言われぬ耳の快感をもよおす。
レイスさんは、イスラエル出身で、いま大活躍の歌手だけど、ずいぶんと前、「ばらの騎士」のゾフィーを聴いてます。
はい、美人です。
 M・ゲルネの深いバスによる5つの歌曲も、濃厚で味わい深く神々しいまでの声で、作品が輝いてる。
夜ふけて、ウィスキーをくゆらせて音量を抑えて聴くに相応しい静かでロマンテックな歌曲だった。

詩の内容とあわせて、もう少し掘り下げたい歌曲集でした。

⑥「小組曲」
1928年のシュレーカー後半生の終盤の作品。
オペラでは、もう人気も低下し、未完も含めると最後から3作目「歌う悪魔」は今にいたるまで上演記録はほんの数回で、音源もなし。
ラジオ放送局から、国営ラジオ放送用の新しい音楽を作曲するよう依頼された。
室内オーケストラのためのシュレーカーの小組曲は、放送マイクの限界を念頭に置いて作曲され、電波上でおいて初演された作品で。
これまではあまり例のないの音楽演奏と初演の試み。
しかしこの後、シュレカーのキャリアが下り坂になるとは本人も思うこともあたわず。
失敗したオペラ、出版社との契約のキャンセルや国家社会主義者からの政治的圧力、そしてベルリン音楽大学の作曲教師の辞任やほかの役職の辞任により、このあと数年で彼の人生は終了。
 こんな苦境の時期の作品は、表現主義的で、とっきも悪く、室内オケへの作品ながら、数多くの打楽器、ハープ、チェレスタなどの登用で多彩な響きにあふれてます。
そんな雰囲気にあふれた「小組曲」、シュレーカーがこの先、どんな作風に進んでいくかの指標になるような作品。
でも、後続の少しの作品だけでは、シュレーカーの「この先」は予見することができない。
いまでは死が早かったシュレーカー、その後を期待したかった。

⑦「ロマンテックな組曲
4編からなる1902年の作品。
オペラで言うと初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる初期作品。
歌劇「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだったが、この組曲は、どちらかというと、のちの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なロマンティシズムを感じさせる桂品。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」ともいえる存在。
ウェーベルンの「夏風・・」風な「牧歌」に濃厚でシリアスな雰囲気のシャープな味付けでどうぞ。
スケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快さもありつつほの暗い。
インテルメッツォは、以外にも北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

こうした作品には軽いタッチで小回りよく聴かせることのできる器用なエッシェンバッハ。
2枚組のこの大作CDのラストを飾り、爽やかさををもたらせてくれました。

ベルリン・コンツェルトハウス管は1952年創設の旧東ベルリンにあった、あのザンデルリンクのベルリン交響楽団です。
4年前からエッシェンバッハが首席で、次の首席はヨアナ・マルヴィッツが決定している。
ちなみに今のベルリン交響楽団は、旧西ベルリンにあったオケがその名前のまま存続している団体。
両オケとも、5~6月に来日するようで、ともに見栄えのしないプログラムでございます。

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 独墺のこの時代の作曲家の生没年

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

 以下、ヴェレス、ハース、クラーサ、アオスラー、ウルマン等々

私が音楽を聴き始めた頃には、こんな作曲家たちの作品が聴けるようになるなんて思いもしなかったし、その存在すら知るすべもなかった。

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音楽を聴く方法、ツールの変遷とともに、世界のあらゆる情報が瞬時に確認できるようになりメディア自体が変化せざるを得なくなった。

高校時代をこの城下町に通って過ごし、駅前にあった大きな本屋さんで毎月レコード芸術を購入して、食い入るように読んでいた。
どんなレコードがいつ発売されるか、それがどんな演奏なのか、海外の演奏会、新録音のニュース、ともにレコード芸術が頼りだった。

そのレコード芸術が今年7月で休刊となるそうだ。
時代の流れを痛感するとともに、感謝してもしきれない思いを感じます。

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2023年3月23日 (木)

神奈川フィル @小田原三の丸ホール 

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毎度おなじみ小田原城。

自分の育った神奈川西部エリアに帰ってきてから1年。

小田原と平塚には始終行くようになりましたが、鶴首していたのがこのふたつの街に出来た新しいホールでのコンサート。

平塚のホールは先月に行きました。

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昨年オープンした小田原三の丸ホールでは、待望の神奈川フィルの演奏会♪

お堀のすぐそばの、まさに三の丸が位置した場所にできたホール。

長年、小田原の文化の中心だった市民会館が閉館し、その跡を継いだのがこちらのホール。

市民会館は何度かその舞台にも立ったこともあり、寂しいものですが、この美しい新ホールには今回まったく心奪われました。

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2階のホワイエから望めるお城と背景は丹沢連峰、この左手奥には箱根の山々も見えます。

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落ち着いた雰囲気のホール、先日聴いた平塚ひらしんホールよりも天井高で、音の広がりのよさを予見できる造り。

そして実際に聴いてみて、素晴らしい音響に感嘆。

フォルテからピアニシモまですべてがよく聴こえ、どんな強音でも楽器ひとつひとつが聴こえる分離の良さと、併せて音のブレンド感も豊か。
ずっと浸っていたい安心で気持ちのいい響きと聴こえの良さでしたね。
サントリーホールはいいけど、響き過ぎる。
実にちょうどいい三の丸ホールで、県立音楽堂を新しくしたような音だと思いました。
次は声やピアノも聴いてみないものです。

Kanaphil-odawara

  ブラームス    ハンガリー舞曲第1番、第5番

  ドヴォルザーク  チェロ協奏曲 ロ短調

  マーク・サマー  Jukie-O~ジュリー・オー
                     (アンコール)
     チェロ:宮田 大

  チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

    飯森 範親 指揮  神奈川フィルハーモニー管弦楽団

        (2023.3.19 @小田原三の丸ホール)

ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキーという同時期に活躍した民族色の強い作曲家たち。
しかも昨年のホールオープニングに来演した都響のオールブラームス・プログラムからの流れを意識して飯森さんが選んだものとありました。

それで付け足しとも思われたハンガリー舞曲の意味がわかった。
オーケストラを乗らせ、整える意味、観客も乗せるという意味では短い舞曲はよかったかも。
5番のラストではパウゼに溜めをつくって、飯森さん、観客を振りむいて、どう?っていう仕草をしましてリラックスムードも作り上げましたね。

前半の目玉、宮田大さんのドヴォコン。
ほんとは、エルガーが聴きたかったと思いつつ、実に久方ぶりのドヴォルザーク。
まさにメロディーメーカーだなと楽しみつつ聴きました。
1楽章はソロとオケがしっくりくるまで見守りましたが、楽譜なしの暗譜の飯森さんの指揮がなかなか的確でありつつも、ソロとの齟齬もややあったかな、と思いました。
でもですね、2楽章の牧歌的かつ詩的な演奏はもう絶品。
神奈川フィルの木管のソロの素晴らしさにみちびかれ、チェロソロが入ってくるところなんざ感涙ものでした。
この楽章でのソロとオケとの幸せな交歓の様子、聴いて、見て、本当に幸せな気分になりましたね。
終楽章も好調のまま、なんやら自然に囲まれた小田原の街の緩やかさと、温厚な機微をその音楽と演奏にと感じることができたのでした。
宮田さんの豊かで繊細なチェロの音色は神奈川フィルにぴったり。

アンコールがすごくて、ドヴォルザークを食ってしまったかも。
ジャズチェロというジャンルがあるかどうか知らないが、まさにそんな感じで、ファンキーさリズム、そして歌にあふれた佳曲で、ピチカート、胴たたきも駆使した技巧的な作品。
めちゃくちゃよかった、大拍手でしたよ。

後半は、神奈川フィルも出演のドラマ「リバーサルオーケストラ」でみなさんにすっかりお馴染みのチャイコフスキー5番。
ドラマではこの作品がちょこっとアレンジされて、運命的なあの動機と2楽章のロマンテックな旋律が随所で流れてました。
最終回、オーケストラの存続を決めるコンサートでは、まさにこの交響曲が勝負曲となり、晴れやかなラストシーンとなっておりました。
わたしの席のお隣には小学校高学年ぐらいの少女を伴ったお母さまがいらして、後半が始まるときに少女はお母さんに、「いよいよチャイ5だね」とささやいてました。
こうして、クラシック音楽も広がりを見せていくことに、音楽を聴く前から感動しちゃいました。

この曲が自分も小学生以来大好きで、もう半世紀以上はいろんな演奏で聴いてきましたが、神奈川フィルでの実演はこれが3度目で一番多い。
その神奈川フィルの演奏会も仕事のこともあり、生活環境の変化もありで、実に7年ぶりとなりました。
舞台に並ぶ神奈川フィルのメンバーのみなさん、半分以上は懐かしく、知悉の方々。
そんな神奈フィルメンバーが奏でるチャイ5は、ドラマでも田中圭演じる指揮者、常葉朝陽の言葉によれば、チャイ5はみんなに聴かせどころがある交響曲。
ほんとその通りで、スコアを見ると、どの楽器も、第1も第2もみんなまんべんなく活躍するし、めちゃくちゃ難しいし音符の数もはんぱなく多い作品。
それぞれのソロや聴かせどころでは、〇〇さん、〇〇ちゃん、頑張れとドキドキしながら聴く始末。
プロのオケだからそんな思いは不要だけれども、自分にとって神奈川フィルは、そんな思いでずっと聴いていたオーケストラだった。
聖響さんの時代のときの公益社団法人への法人格見直し時における存続危機に一喜一憂しながら応援したオーケストラ。

7年もご無沙汰してしまった反省と後悔も、このチャイ5の素晴らしい演奏で気持ちの高ぶりをとどめようがない状況になりました。
冒頭のあの動機を奏でる管楽の演奏から、こりゃまずい、涙腺が・・となりました。
オーソドックスな飯森さんの指揮にみちびかれ、観客もすぐにチャイ5に入り込みました。
アタッカで続いた2楽章、若いホルン首席の方、マイルドでブリリアント、完璧でした、心配した自分がバカでした。
めくるめくような甘味さと、感傷の交錯、ロシア系の濃厚さとは真反対にある神奈川フィルの煌めきのサウンドは、かつてずっと聴いていた音とまったく同じ。
石田組長はいなくても、小田原で聴いてるこの音は神奈川フィルサウンドそのものだった。
もうここで泣いちゃうと思いつつ聴いてた。
休止を置いて、まろやかな3楽章。
終楽章もアタッカで続けて、さて来ましたと会場の雰囲気、おっという感じになったのもドラマの効果でしょうか。
堂々と、でも軽やかに、しなやかにすすむ。
指揮の飯森さんも、ときにオケに任せつつ、ときにドライブをかけつつ、すっかりのりのり。
お馴染みの楽員さんたちが、隣同士で聴き合い、確認しあいつつ、体を動かしつつ、そしてなによりも楽しそうに演奏してる。
もうめちゃ嬉しい、テンションめちゃあがり。
そして、ラスト、コーダで金管の堂々たる高らかな咆哮、指揮者は指揮を止めてオケに任せ、その開放的なサウンドが三の丸ホールの隅々に響き渡る。
それを五感のずべてで感じるかのような喜びたるや!
込みあがるような感動と興奮を味わいつつ終演。

声掛けはお控えくださいとの開演前のアナウンスに、ブラボーは飛ばせませんでした。
もう、いいんじゃね、と思いますがね。



飯森さんの合図で、撮影タイム30秒。
しかし、みなさんあわてて起動しても、なかなか間に合いませんねぇ(笑)
こんどは起動タイム1分、撮影タイム30秒でお願いね。

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こちらは1年前の城址公園の桜。

2022年4月8日の撮影ですが、今年はその頃にはもう散ってしまうでしょう。

桜の花は儚いですが、音楽はずっと変わらず、わたしたちの傍らにいてくれます。

Kanaphil-odawara-1

神奈川フィル、また聴きに行こう。

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2023年3月18日 (土)

ヴィヴァルディ 四季 マリナー指揮

Azuma-kawazu-02

12月に開花し、まだ健在の吾妻山の菜の花。

2月終わりごろですが、そろそろ終了。

そして今年は本格的な春が、すごく早くやってきました。

Azuma-kawazu-04

家の近くの公園では河津桜が3月初めに満開となり、いまはもう葉桜に。

色の濃い桜が早く咲き、白や淡い色調の桜はそのあと。
でも、もうちらほら咲きだしていて、ソメイヨシノ、山桜の満開ももうすぐ。

Marriner_vivaldi_1_20230317210901

  ヴィヴァルデイ  「四季」

    サー・ネヴィル・マリナー指揮 

 アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

        (1969 @ロンドン)

わたしのような世代の聴き手には懐かしいこのジャケット。

1971年に当時のロンドンレコードから発売された「マリナーの四季」。
大ベストセラーとなりました。
申すまでもなく、当時の四季は、イムジチの独占状態で、その後にイタリア合奏団、ミュンヒンガー、オーリアコンブ、パイヤールと続き、併せて室内管弦楽団のブームが起きました。
覚えてますよ、1970年の万博でも、その室内管弦楽団がいくつも来演しました。

そのあと、直後に登場したのが、マリナー&アカデミー。
これまでの演奏と一線を画した、時代考証と楽譜の綿密な見直しを経た学術的な探求を経て、当時生まれて初めて音にされたような斬新な音楽造りでありました。
サーストン・ダートやホグウッドもその学術チームの一角にあって、マリナーが創設したアカデミー室内管の清新な演奏でもって、当時の聴き手にとっては斬新きわまりない「四季」が生まれた。
当時の自分に遡ってコメントしてる自分ですが、それがいまや、ピリオドによる古楽奏法がバロック以前の作曲家では一般化して定着してしまったいま、マリナー&アカデミーの四季は、一時代前の存在に押し戻してしまった感があります。

当時のレコ芸の付録での宇野先生の評価「奇想天外と思えるほど自由自在にスコアを取り扱い、かつて耳にしたこともないような豊かな表情を生み出した。装飾音、エコー、ロマン的な強弱法、音色の変化、オルガンの使用などがそれだが、根底に近代的な爽やかなセンスを持つので、濃厚な演出が誇張やあくどさを伴わず、かくも個性的な名演となったのである。」1975年

以前の記事での自分のコメント、「多弁なチェンバロに、驚きのオルガン使用、鮮やかな歌いまわしと極端なダイナミズム。
いや、これはこれで、いま聴いても、極めて音楽的だし、マリナーらしい清々しい爽やかさと気品がってとても気持ちがよろしい。
まだまだ鮮度を保ってる、マリナー&アカデミーの四季であります。」

温厚で緩やかな従来演奏と、その後の大指揮者たちのゴージャスな演奏と中堅・若手による俊敏で音楽的な演奏、それらの狭間にあって多彩な表現で清冽な「四季」を聴かせてくれたのがマリナー&アカデミーだと思う。

くり返しますが、いまや現代の楽器でも四季をやるときは、ピリオド奏法を意識せざるを得ない時代になり、古楽器オケでベルリオーズまで演奏できる時代となりました。
前の記事でも書きましたが、いま活躍する指揮者たちは、四季を録音しなくなりました。
やりそうなラトルでさえ振らないし、ネルソンスがやるとは思えない。

2007年にマリナーはN響に来て四季を演奏してくれました。
モーツァルトの41番の2曲のコンサート、聴きに行きましたが、レコードの演奏と同じ。
オルガンを使いつつ、まろやかでかつ爽快な演奏でした。
思えば、晩年のマリナーを何回か聴けて、いまではよき思い出です。

Max-ernst

国内盤の初出ジャケットで使用された絵画は、マックス・エルンスト(1891~1976)の作品。
日本だけのものだったのかもしれない。
インパクトあふれる絵で、爽やかアカデミーとはちょっと違うイメージだけど、シュールレアリスムのこの作風は、不気味だけれども、いろんな季節を織り込んでいるようにも感じる。
当時のマリナー&アカデミーの四季が与えたインパクトは、こんなジャケットにしてしまいたくなるほどに大きかったのかもしれない。
いまではジャケットは穏健なイギリス絵画になってます。

Atami-05

桜の開花の早い今年、雨模様も予報され、桜好き、お花見好きのわれわれ日本人は焦燥にも似た不安と焦りを覚えている。

アバドが晩年にモーツァルト管あたりで、四季を取り上げてくれていればよかったな・・・と思います。

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2023年3月11日 (土)

12年前のあの日のブログ

Radeian

庭の梅の花と、借景は近くの河津桜。

東日本大震災から12年。
月日は早いもので、もう12年。
バブル崩壊とリーマンショックのあと、日本はこの震災で完全に停滞期に入ってしまい、いまでもそこから抜け出さない成長できない国になってしまった。
言葉を替えれば、いや、批判を覚悟に言うと、日本の担ってきた技術力や製造、開発力が、近隣の特定の2国に移転されてしまった。
災害は日本の宿命だけれども、昔なら被災は大きくてもエリアは特定されたが、いまやインフラがつながり、日本中が一体になっているので被害の拡散はかつての比ではないと思う。

ともあれ、12年の経過、亡くなられた方々に追悼の念を捧げたいと存じます。

以下は、震災当日のblogです。
地震の記録としても再度読み返しました。

あと、3月12日には、神奈川フィルの定期演奏会が不安ななかにも開かれ、忘れがたいマーラーの6番を痛恨の心持ちで聴きました。
その時の記事も、続いて再掲しました。
長いですが、これもまた震災の記録です。

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 【2011年3月11日のブログ】

震災最中ながら、被災がこれ以上広がりませんよう、祈るばかりです。


大手町と神田の間くらいで、客先と面談後、ビルを出たとたんに揺れました。
現実とは思いたくない、あぁ、これでもう・・・と思うくらい・・・・。

建物がら人々が出てきて、おろおろとしていて都内はパニック状態。
当然に、携帯はつながりません。
東京駅にむかうと、JRも地下鉄もすべて止まってる。
タクシー乗り場は、延々と続く長蛇の列。

事務所のある田町まで休みながら歩くこと2時間。
街は、人であふれかえり、道路は雑踏のようだ。
車も超渋滞。
ビックカメラやヤマダ電気は、シャッターを降ろしている。
カフェやラーメン屋さんは満員。
コンビニやパン屋さんも満員。
スーパーには、買い出しの若手社員がチラホラ。
頭巾をかぶったおびえた小学生に付き添う母親。

テレビで刻々と流される各地の被害。
背筋が寒くなります・・・・。
被災されている地域の方にはお見舞いの言葉もありません。
                       17:30

Uchikanda

地震発生時の様子です。

Ichihara

千葉の自宅から見えた市原製油所の火災。
25Km離れてますが。
「この影響で有害物質が雨に混ざって降ってくる・・・」という風評が出て、わが住宅にも管理組合が注意を促すように貼り出してます。
しかし、これはどうも間違いらしい・・・・。(コスモ石油のHP)
むしろ心配は、原発。


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 【2011年3月12日のブログ】

いまも続く大震災の余震。
そして、被災の甚大さが次々に明らかになっていて、むごいくらいの映像が報道されています。
その被害はまだ継続中だし、連鎖する地震も不安をあおって、今後、何がおこるかわからない・・・。
私の住む千葉や、職場の東京では、スーパーやコンビニに食品がまったくなくなっている。
物流が寸断され、日常ではなくなってしまった。
赤水だし、都市ガスは停止、電気も計画的に停電の予告・・・・。
交通機関もまだ不完全。
帰れなかった自宅に戻った土曜、食器は割れ、お気に入りの置物も落ち、部屋は混乱。
身近に起こっている事象です。

それでも、こうしてネットはつながっている。
この強いインフラは、災害時の教訓となろうか。

でも、こんな思いは生ぬるい。
むごたらしい映像を見るにつけ、東北・茨城の皆さまにみまわれた惨状に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
親戚もいますし、仕事柄、仲間も多いし、始終伺うことが多かった地。
青森から福島までの太平洋沿岸。いずれも訪問したことがある思い出深い地です。
どうか皆さん、ご無事でいらっしゃってください。

Kanaphill_201103


  マーラー 交響曲第6番

 金 聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
       (2011.3.12@みなとみらいホール)

今日、12日土曜日は、神奈川フィルハーモニーの定期演奏会の日。

開催が危ぶまれましたが、yurikamomeさんから、決行のご連絡。
帰宅しなかったもので、都内から横浜まで、スムースに移動。
ひと気の少ないみなとみらい地区(ほとんどのお店がクローズしてます)、そしてみなとみらいホールは、3割~4割の入り。

こんな時に、音楽を聴くという、どこか後ろめたい感情・・・・。

今朝から、そんな思いにとらわれ、中止も半ば期待していた。

しかし、主催者側と演奏者側の熱い思いが、そんな思いを払拭してしまう、たぐいまれなるコンサートとなったのであった。

正直いって、わたしには、いま、言葉がありません。
特殊なシテュエーションが作用し、演奏する側と聴き手が一体となって、高みに達してしまう。
不謹慎ではありますが、マーラーの6番ほど、そんな思いを高めてしまう曲はありません。

この曲は、何度も実演に接して、「もう封印」などと思ってきた演奏ばかりなのです。

アバドとルツェルンの来日公演は、わたしのコンサート経験No1で、病後、復調のアバドが喜々として笑みを浮かべながら指揮するもと、その無垢な指揮者に、全霊を尽くす奏者たちが無心で、夢中になって演奏する神がかった演奏。

ハイティンクとシカゴの完璧極まりないなかに、スコアのみがそこにあるといった完全演奏。

どちらも忘れえぬ体験。

そして、聖響&神奈川フィルのマーラー6番は、そのどちらでもない、悲しいくらいに美しく、痛切で、感情のこもった真っ直ぐな演奏だった。

それでいて、流れの良さを大切にしたスマートさも。

正直、こんなに心のこもった、全身全霊の演奏が聴けるとは思わなかった。

わたしは、指揮者と演奏者が一体化しているのが、うれしくって、まぶしくって。

そして、音楽が素晴らしくって。

そしてなんといっても、この震災が悲しくって、恐ろしくって、テレビで何度も見た映像が、辛くって、何度も何度も鳥肌が立って涙ぐんでしまうのであった。

 しかし、音楽への前向きな取り組みは、マーラーの絶望的な思いとは逆に、明日もある未来を予期させる若さと逞しさを感じさせました。

ハンマーで心かきむしられた終楽章。
あの、あまりに特異なエンディング。

指揮者も奏者もすべて動きを止め、その静寂がいつまでも、永遠に思われました・・・・・。

演奏会の冒頭。
聖響さんは、いまのこのとき、演奏家にとってなにができるか・・・、それはいい音楽をすること。義援金の募集のこと、などを話され、わたしたちも一緒に、長い黙祷を捧げたのでした。

この演奏会。
開催を決意した主催者側、果敢に一心不乱の演奏を繰り広げた聖響&神奈フィル、ホールに集まった音楽を愛する聴衆・・・・、心が一体になりました。
こんな時に、コンサートなんて・・・、という思いを一蹴してしまうような、心のこもった、愛に満ちた演奏に救われました。
どうか、奏者と聴き手が達したこの思いが、被災地の皆さまに少しでも届きますように。
そう、明日も、明後日も、まだあるんですから!

アフターコンサートは、意を決して集まったいつもの神奈フィル応援隊の皆さんに、首席チェロの山本裕康さんをお迎えして、短いながら充実の時間を過ごせました。
その間にも、お店のテレビでは、第一原発のガス爆発を報じるなど、まったくもって尋常ではない状況にありました・・・・。

こうしている間にも、余震や余波の揺れが起きてます。
家人ともども不安で寝不足です。
みなさま、ご養生ください。

そして、被災地のみなさまには、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。

Minatomirai20110312

ひと気のない、みなとみらい地区。

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以上、引用再掲失礼しました。

次の発災にも心掛けなくてはなりません。

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2023年3月10日 (金)

ラフマニノフ 交響的舞曲

Atami-02

早咲きの桜、温泉と海の街、熱海に咲くのが「熱海桜」

Atami-04

かなりの濃いピンクと、小ぶりの花は市内を流れる糸川沿いに咲き誇ります。

1月末から咲きだして、このときは2月半ばで、数日前のあいにくの雨と風でかなり散ってしまったといいますが、それでも美しく可憐で、鳥たちが蜜を求めて木々を渡ってましたね。

  ラフマニノフ 交響的舞曲 op.45

3つの交響曲と交響的舞曲、さらに交響合唱曲「鐘」は、ラフマニノフのシンフォニックな一連の作品で、5つの交響曲ともいえるかもしれない。
2023年はラフマニノフの生誕150年。
メロディアスな音楽の好きなワタクシ、これまであらかたのラフマニノフ作品を聴き、blogにも書いてきました。
ピアノ協奏曲なら2番、交響曲も2番というのが日本でのラフマニノフ。
ほかの作品もルーティン感あるものの、なかなかに桂曲で、欧米ではいまや2番の交響曲と同じくらいに演奏頻度のたかまったのが「交響的舞曲」です。
わたしの正規CDは少なめだけど、海外の放送で始終取り上げられてるので、録音音源が最近やたらと増えて、たくさん手元にある交響的舞曲をここにまとめておこうと思いました。

Atami-06

ラフマニノフのほぼ最後の作品。
ピアノ連弾による作品をオーケストレーションしたのが1940年で、亡命先のアメリカのビバリーヒルズで亡くなる3年前。
本国への憧憬にも満ちた哀愁ただようシンフォニックダンス。
陽光あふれるハリウッドで生活しつつ、スイスにも行き来していたラフマニノフは、忘れえぬロシアの感傷を音符に乗せたわけです。

オーマンディに献呈し、フィラデルフィア管弦楽団で初演。
アメリカは作曲家も指揮者、奏者、歌手たちが自由を求めて拠点を移す、輝きあふれる国だった。
いまのおかしくなってしまったアメリカとは大違いに、当時はヨーロッパからやってきた芸術家たちの楽園であったと思う。
この当時のアメリカがあったから、いまわれわれはヨーロッパから逃れた作曲家たちの作品や、演奏家たちの録音を聴くことができるわけだし。

バレエ音楽としても想定していたからから、その舞曲の名が示すとおり、全編弾むようなリズムが漲る。
1楽章が行進曲調、2楽章はワルツ、3楽章はスケルツォ、そしてジャズっぽいリズムと熱狂。

甘味な旋律とうねり、むせぶような情念とメランコリー、当時埋もれていた第1交響曲の引用や、ラフマニノフ作品に毎度おなじみの、ディエス・イレの引用もちゃんとある。 
ピアノも活躍し、サキソフォーンの活用が画期的。
ワルツも瀟洒で哀愁に満ち溢れていて、しかも暗さ漂い、お酒飲みつつ聴くと憂鬱さえ酒のツマミになる
しかし最後には、舞踏の祭典、スピーディな展開の中に、終結のディエスイレの場面に向けて音楽が収斂してゆき、ダイナミックにジャーンと音楽を閉じる。
銅鑼の一音がオケが引いたあとも残る印象的なエンディング。
すっごくかっこいいよ。
この銅鑼の響きが終わらぬうちに拍手が始まってしまうのがこれまで聴いてきたライブ音源の常。

Symphonic-dance

楽譜では銅鑼は、ほかの楽器が止んでも倍以上伸ばすように書かれていて、演奏によって長さも異なるし、あまり聞こえない演奏もあったりするので、そのたりも比較して聴くのも楽しい。

 【フィラデルフィア】

Rachmaninov-1-seguin

  ヤニク・ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団

          (2018.9 フィラデルフィア)

CD初期のマゼールの演奏で目覚めたこの曲、正規CDは10種ほど保有。
そんななかからフィラデルフィアの3種。

最新のものは、セガンと初演オケのDG盤で、これを皮きりに交響曲を全部録音するそうだ。
生々しい録音でやや潤い不足だが、セガンの持ち味である生き生き感と若々しい歌いまわしはほんとに気持ちがいい。
ほんとに巧いオケ、いいオケと実感できる演奏。
でも陰りや望郷感は不足。いまはそれでいいのだろう。ある意味客観的で長く安心して聴ける。
最後のドラは、うわ~ん、うゎ~とよく鳴る。
カップリングの交響曲第1番のほうがよいかも。
セガン氏、DGとどっぷりで録音も性急にすぎるかも。
かつてのモントリオールの仲間たちとの録音にある新鮮さと大胆さがなつかしく、フィラデルフィアでは慎重にすぎるのかも。
メットで劇場経験をさらに積んで次のステップに期待だ。
わたしは、ワーグナー指揮者になることを予見しているがどうだろう。

Rachmaninov-sym3-dutoit1

   シャルル・デュトワ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

         (1990.10 フィラデルフィルフィア)

同じく初演オケを指揮したデュトワ盤は、このオケの首席に就任前の録音。
デッカらしからぬ録音の冴え不足が、このシリーズに共通の弱点。
どこかしっくりこない、燃焼不足、潤いや張り不足で、ピチピチしてたモントリオールでのデュトワとなんか違う。
モントリオールはセガンのオケとは違うが、ここでもモントリオールだ。
スタイリッシュに過ぎるのも難点で、この音楽の尖がった部分がスルーされてる。
ラストの銅鑼は少なめ。

1996年のN響ライブ音源も聴いたが、同じ印象で、さらにNHKホールの殺伐とした響き、あと当時のN響の重くて硬い音色も・・・

Rachmaninov-ormandy

       ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

        (1960 フィラデルフィア)

初演コンビの20年後のCBS録音。
ゆったりと堂々とした演奏で客観的ななかにも哀感や切実さもありで、もしかしたらオケのなかにも、そんな昔でない時期に欧州・露から来た人も多かったかもしれない。
アメリカから見たロシア、いまの敵対と憎しみの感情とはまったく違った、まさに望郷感あるいにしえの音色。
指揮者もオケも、新世界にいながら過去を見ているような演奏だと思う。
きらびやかなフィラデルフィアサウンドは、郷愁と裏返しだったのではないかと、ほかの演奏を聴いても感じるようになった。

皮肉なもので、フィラデルフィアの3つの正規録音、古いものが一番好みだった。
いまのアメリカの社会の行き過ぎた狂気は各大都市では深刻で、民主党政権の牙城である西海岸やペンシルバニア州など、そこでの暗澹たる映像を目にすることができる。
そんななかでも衝撃だったのは、フィラデルフィアのダウンタウンでの薬中で自滅・壊滅している人間を失った人々の姿・・・・
世も末感あり。
アップストリームにあるオーケストラの面々には無縁だろうが、かねてより憧れたアメリカのメジャーオケとそこに紐づいた都市の印象が、片側だけ崩壊してしまった気分なのだ。

 【ベルリン・フィル】

Rachmaninov-symphpnicdances-maazel

  ロリン・マゼール指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

         (1985 @フィルハーモニー)

第3番と同じく、マゼールとベルリンフィルのCDによって目覚めた。
容赦ないくらいにクールで、べらぼうにうまいオーケストラに快感を覚えたものだ。
マゼールにしては恣意的なくらいのマーラーとは比べ物にならないくらいに慎重さも見せるが、オケの雰囲気も併せ青白いブルーな色調がいい。
長らく聴き、刷りこみにもなってる演奏で、今思えばもっと激しくやって欲しいとも思えるが、でもね、好きな音盤です。

  サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

         (2014 @ロンドン、proms)

正規録音として、バーミンガム時代と2010年のベルリンフィルとの録音もありますが、それらは未聴です。
promsでの演奏を録音したものですが、これが実によろしい。
ラトルらしく重心低めの響きですが、メロディに敏感で、エッジも効いててオケの俊敏さが際立ってる。
マゼール盤が穏当に聴こえてしまう。
ラストのアッチェランドはすごいし、銅鑼もかなり長く引き伸ばし、ファンキーなプロムスリスナーさんたちがよくぞ拍手を我慢したものだと思わせる。

  キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                      (2020 @フィルハーモニー)

以外と慎重な演奏、テンポもゆったりめで、タイムも36分越え。
品のよい歌いまわしと、テンポを上げるときはギア切替が見事でメリハリの豊かな演奏。
弦を中心にベルリンフィルの威力を満喫。銅鑼の伸ばしもなかなかのもの。
もっとやれるんじゃね?と贅沢な思いも抱くことも確か。

 【大家たち】

Rachmaninov-previn

  アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

        (1974 @ロンドン)

ラフマニノフ2番がいま人気曲になった、その立役者がプレヴィン。
リズム感あり、スピード感も伴って、総じてカッコいいと思える演奏。
ワルツのふるいつきたくなるような優雅な歌わせ方もさすがにプレヴィンで、スタジオ録音ながらプレヴィンのうなり声も聞こえる。
銅鑼も正しく鳴っている。久々に聴いてやっぱりいいと大満足。

  マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

          (2017 @ミュンヘン)

ヤンソンスには3つの録音があり、最初のサンクトペテルブルクでの演奏は燃焼不足、コンセルトヘボウとのものは濃厚な演奏とは反対にある、ヨーロピアン的な演奏。
しかし、バイエルンでの録音では音楽造りのうまさが前にも増して感じられ、コンセルトヘボウと違う機能的なバイエルンのオケの有機的な暖かな音色が大いに寄与している。
大人の演奏で、オーケストラを聴く喜びも味わえる。銅鑼もほどよく長く響く。
思えば、この2年後にヤンソンスは亡くなってしまう。


      レナード・スラトキン指揮 デトロイト交響楽団

       (2012 @デトロイト)

セントルイス響を育て、そこでの初期のころのラフマニノフが懐かしい。
スラトキンらしい、スマートかつリズム感あふれ弾むような演奏で、おなじみのあの指揮ぶりが思い浮かぶような嬉しい内容にあふれてる。
ワルツも歌いまくり、メランコリー充分、ラストの銅鑼もすばらしい一撃が鳴り渡り、決まった。
アメリカのオケのブラスと打楽器のうまさ、明るさも満喫。

      ユーリ・テミルカーノフ指揮 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー

       (2008 @ルツェルン)

大御所登場。豪放磊落、大づくりでありつつ、勢いあふれ、ダイナミックな箇所では、オケの威力が爆発する。
豪快に、太筆で一気に書き記したような巨大な演奏。
わたし的にはちょっと疲れてしまう。かも。

 【中堅、大活躍の方々】~ネット放送より

  アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団

       (2014 @タングルウッド)

ゴージャスな演奏。ホールトーンのよさにボストン響の巧さも加わって、そんな風に聴こえる。
しかしネルソンスの指揮は重心低く、重機関車のような歩みでスケールのデカいもので、一方で緻密もあるから聴きごたえも十分。
ディエス・イレが一番壊滅的に聴こえる演奏で、いろんなか所で気が抜けない面白さがある。
銅鑼も豪快に決まったが、ボストンのお客さん、拍手が早いよ。

     トマス・ダウスゴー指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

      (2018 @ロンドン)

快速指揮者ダウスゴーは、わたしの好きな指揮者で、音盤はかなり集めましたがこの曲の録音はまだないので、貴重なライブで、しかもオケがロイヤルフィルという珍しさも。
ダウスゴーらしいスピード感あふれる演奏で、かつサバサバぶりも心地よい。
2楽章の抒情も薄目な響きがかえって透明感を与え北欧風。
3楽章の疾走感もカロリーは押さえつつダウスゴーしてましたね。
銅鑼も見事にきまり、聴衆も沈黙を守りました、気持ちがいいです。

  ヴァシリー・ペトレンコ指揮 オスロ・フィルハーモニー

       (2013 @proms)

これまたカッコいい演奏だ。
快速で緩むことがなく、一気に聴かせる一方で、しっかりとラフマニノフ節のつぼを押さえていて満足させてくれる。
違う方のペトレンコさんが、曲によっては守りに入るような慎重ぶりを示すのに、ヴァシリーさんの方はより好き放題にできるのか、緩急自在ぶりと、適度な荒れ具合があってラフマニノフの心情を映し出しているかも。
銅鑼はプロムス民にかき消されてしまった・・・

 【女性指揮者】~ネット放送

  カリーナ・カネラキス指揮 BBC交響楽団、ボストン交響楽団

       (2018 @proms  、2022 @タングルウッド)

アメリカ出身のカネラキス、ずっと聴いてきました。
オランダ放送フィル首席とベルリン放送響、ロンドンフィルの首席客演のポストにある。
ボストンへのデビューだった昨年の演奏は、慎重な構えがおとなしめの演奏に終始した感があり。
それ以前のBBCでのプロムス演奏では、音楽への共感がにじみ出たような積極的な演奏で悪くない。
彼女のレパートリーはまださほどでなく、ルトスワフスキとワーグナーが好きなようで楽しみ。

  ダリア・スタセフスカ指揮 BBC交響楽団

       (2019 @ロンドン)

昨年のジャパンpromsの指揮を担った彼女、ウクライナの出身のフィンランドの指揮者。
ウクライナ愛が強く、彼女のツィッターをフォローしているが、ウクライナを憂い、ややもすればリアルな戦場の実情をツィートしてる。
そんな彼女の戦渦まえの演奏だけど、重厚かつ生々しいほどのラフマニノフへの共感ぶりがうかがえ、熱くて存外に濃厚な音楽になった。
濃厚さと爆発力も備えた驚きの名演だと思う。


 【若手の面々】

  ステファヌ・ドゥヌーヴ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー

       (2020 @ミュンヘン)

  エドワード・ガードナー指揮 サンフランシスコ響、ベルゲン・フィル

       (2018 @サンフランシスコ、2022 @エディンバラ)

  ジェイムズ・ガフィガン指揮 シカゴ交響楽団

        (2017 @シカゴ)

  ニコラス・コロン指揮 フィンランド放送交響

        (2020 @ヘルシンキ)

  ダニエーレ・ルスティオーニ指揮 アルスター管弦楽団

       (2021 @ベルファスト)

      ラハフ・シャニ指揮 ボストン交響楽団

       (2023 @ボストン)

もう長くなりすぎるので、個別にはコメントしませんが、このように今後の指揮界を担う若手もこの作品を積極的に取り上げてます。

このなかで一番安定感があり、堂々としていたスタンダードな演奏は、ガードナーとベルゲンフィル。
ガードナーは大曲をわかりやすく、しかもかつてのコリン・デイヴィスのように熱いものを感じさせる指揮者で、今年は「パルジファル」も聴くことができた。

あと素敵だったのがイタリアのルスティオーニの演奏。
彼はアルスター管の首席を務め、ヨーロッパの主要劇場とメットでもひっぱりだこのオペラ指揮者でもあります。
旋律の歌わせ方が実にうまく、アルスター管から明るくきらびやかな音を引き出していて、ラストの熱狂もなかなかのもの。
この指揮者は今後ももっと活躍すると思いますね。

注目のイスラエル出身のシャニさん、6月に手兵のロッテルダムと来日するが、プログラムを見てがっかり。
ブラ1と悲愴をメインに、日本人奏者と協奏曲で、チケットもそれで値が張ってる。
イスラエルフィルの首席に加え、ミュンヘンフィルの指揮者になることも決定。
ボストンとのこの演奏も機をてらわない正攻法の演奏で、3つの楽章をそれらがあるがままに聴けせてくれる。
返すがえすも、日本の呼び屋さんの見識を正したいものだ。

Atami-05

今年は寒暖差激しかったものの、3月に入ってから暖かい日が連続。

河津桜も葉が増えて見頃を過ぎ、ほどなくソメイヨシノの開花も始まりそうです。

花粉は辛いが、春は楽しみ。

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