2017年10月15日 (日)

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 クルレンツィス指揮

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ある朝の芝増上寺と東京タワーと月。

この日の頃は、10月とは思えないくらいの陽気で、暑いくらいだった。

でも、その後、沖縄をのぞいて、日本は秋から初冬の気温に。
しかも、秋雨前線も発生しちゃった。

すっきりした、高い空の秋晴れが恋しい。

で、爽快・痛快なる話題の指揮者によるモーツァルトをば!

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   モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

      ドン・ジョヴァンニ  :ディミトリス・ティリアコス 
      ドンナ・アンナ    :ミルト・パパタナシュ
      ドン・オッターヴィオ :ケネス・ ターヴァー   
      ドンナ・エルヴィラ  :カリーナ・コーヴァン
      レポレロ                :ヴィート・プリアンテ         
      ツェルリーナ         :クリスティーナ・ガンシュ
      マゼット                 :グィード・ロコンソロ          
      騎士長             :ミカ・カレス


  テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ

            (2015.11.23~12.7 ペルミ国立歌劇場)


ギリシアのアテネ生まれの45歳、サンクトペテルブルク学んだことから、ロシアを拠点に活動。
シベリアのノヴォシビルスクの劇場のポストからスタートし、そこで、手兵ムジカエテルナを創設、その手兵とともに、ペルミの歌劇場へ移動し、いまは、そのオケが劇場のレジデントオーケストラとなっている。

ここ10年ぐらいで、ロシアの地方都市でそのキャリアを急速に積み上げ、気鋭のオペラ指揮者として、脚光を浴びているのが、クレンツィス。
今夏は、ザルツブルクにも登場して、ティトを指揮している。

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豊富な動画を通じて、この指揮者のやんちゃぶりは、かねてより見聞きしていたが、ダ・ポンテ三部作のうち、最新の「ドン・ジョヴァンニ」を半年ほど前に入手し、その豪華な装丁を眺めるだけで、どうにも聴く気がおきなった。
特段に理由はありません。

10月に入ってようやく聴きはじめたら、そう、もう面白くてしょうがない。
まとめて聴く時間がなかなかないので、毎日、少しづつ聴いて、さらに通しで2度。

古楽から現代まで、なんでもこなす指揮者にオーケストラ。
そのオールマイティなフレキシビリティと、その音楽の雄弁さを裏付けるのが、彼らの「自由さ」であろう。
数々の動画でも感じるが、ともかく彼らは、自由に音楽する楽しさを謳歌しているんだ。

この3時間あまりのドン・ジョヴァンニでも、最初から最後まで、音楽は生き生きと息づいて、弾んで、爆発して、泣いて、怒って、悲しんで、と人間の機微を余すことなく表出しまくる。
初めて目にする名前の歌手たちも、全般に軽量級ながら、きわめて雄弁で、それぞれが表情に富んだ歌唱と、情の機微を歌いだす。

ふんだんに配置された有名なアリアたちも、目からウロコが落ちるくらいの新鮮さに満ちていて、オケも歌手に一体化して、まるで歌手のようにふるまっているのが面白い。

レシタティーボも、うかうかしていられない。
チェンバロでなく、フォルテピアノの丸っこい響きだが、快活そのもので、これまた雄弁なものだから、歌手も普通に流さずに、真剣に歌う場面となってるし、その時の歌手の心情に寄り添うような感情表現もみせたりする。
さらに、ビオラ・ダガンバなどの古楽器も添えて嘆息するような雰囲気もふんだん味わえるのが新鮮。
それらが饒舌に感じさせないのは、音楽に生命が宿っているからに他ならない。

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                  (ペルミ劇場での録音風景)

プロモーションビデオを見たが、クレンツィスは、モーツァルトがいまの時代に降臨したら、どのように感じ、表現するだろうか・・・などと話している。
なるほど、当時の楽器を使い、その頃の響きを再現するのでなく、同じ楽器や奏法、歌唱でも、いまにあるわれわれ現代人のモーツァルトなわけだ!
 そして、「ドン・ジョヴァンニ」は、デンジャラスでダークかつミステリアスなドラマだとも。

従来の考えや因習にとらわれない、こうした発想に基づく音楽創造は、欧州や米国、日本の音楽都市からは生まれにくいし、育ちにくい。
シベリアの地や、ウラルの地で、自由に活動するクレンツィスを地元の人々は熱烈に歓迎しているようだ。
思えば、かつてのゲルギエフもマリンスキーと、ラトルがバーミンガムと、ヤンソンスがオスロと、ロトが手兵のレ・シエクルと、成し遂げたような、ローカルな非メジャーが、音楽を面白くしてくれるのだ。
思えば、ペトレンコもシベリア方面の出自だ。

Photo

工業と芸術の街、ペルミの位置図。

こうしてみると、モスクワやサンクトペテルブルクは、より欧州寄り。
ペルミのある広域でのウラル地域は、中東や西アジアにも近い。
それにしても、ロシアは広大で、右側にさらにさらに広がって、日本のお隣まで。

ペルミの劇場のHPや、そちらの映像を見ていたら、楽員や合唱団の顔ぶれが多彩であることに気が付く。

ペルミの劇場のHP ⇒ http://permopera.ru/en/

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グーグルマップ先生から使わせていただく劇場の冬景色。
大河が流れ、水運の交通の要衝でもある工業都市ペルミを、マップで俯瞰して見るのも楽しく、とても美しい街と実感できましたよ。

今頃、クルレンツィスの指揮で、トラヴィアータと、21日には、コンサートで、プロコフィエフの古典交響曲と、ショスタコーヴィチの9番。
遠く離れた日本で、ロシアの地で起きている音楽発信を見守るのもいいものだ。

そして、ドン・ジョヴァンニの後半をもう一度聴き、地獄落ちの場面のスリリングな演奏と歌唱に息をのむ。
その後の一同集合の大団円が、付け足しのように思えるのも、この演奏の凄さなのかもしれない。
こんな鮮烈なドン・ジョヴァンニのあと、伝統的なベームのプラハ盤をちょこっと聴いてみたけれど、これはこれでキリリとしていて、モーツァルトの音楽のすばらしさを楽しめるものと感じた。
昔からすると、これほどまでに、音楽表現の多様性を、こうしてふんだんに受け入れることができる現代が、隔世感とともに、ほんとに恵まれていると痛感する。
  

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2017年10月 9日 (月)

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲 ブレンデルの古い盤

Shibaura

日の出直前の竹芝桟橋から。

日の出スポットは、もうちょっと左側だけど、倉庫やマンションが立ち並び、見えません。

あの豊洲も見えましたよ。

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     ベートーヴェン  ピアノ協奏曲全曲

       Pf:アルフレート・ブレンデル

    ヴィルフレット・ベッチャー指揮 シュトゥットガルト・フィルハーモニー(1番)

    ハインツ・ワルベルク指揮 ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団(2番)
                     ウィーン交響楽団(3、4番)

    ズビン・メータ指揮 ウィーン交響楽団(5番)

                    (1961、66、67年 ウィーン)


私の、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の初聴きは、この1枚。
1970年のベートーヴェン生誕200年の年に出た、ダイアモンド1000のベートーヴェン・シリーズ。
当時はまだ、そんなに有名じゃなかったブレンデルの協奏曲が4枚の廉価盤で登場した。
小学生のこづかいからの千円は、とても痛かったので、ラジオで聴いて、印象的だった1番のみを購入し、すでにスター指揮者だったメータが、なんと廉価盤になっていた5番は、どうしても買えなかった(というか、皇帝をまともに聴いたことがなかった)

ともかく1番の初々しさと、豊富なメロディが好きだった。
ブレンデルの若やいだピアノも、いまもって色あせてなくて、もう48年も前の記憶のまま。
 ずっと後年、この全集を揃えたのは、社会人になってから、VOXからCD化されたもので。

目玉だったメータ指揮する5番に、ちょっとがっかり。
いまも変わらないブレンデルの豊かなピアノに、メータ指揮するオーケストラは、せかせかとハイスピードと、音圧の強さでもってがんがん進める。
まさに若気の至り、かと思いきや、2楽章はとても神妙で美しく、そして3楽章は、威勢よく終了、と。

それにしても、この一番古い、いまから半世紀も前の録音に聴くブレンデルのピアノの妙技はいかがなものだろう。
誠実に、一音一音を弾き進めながら、そこに柔和さと、デリケートさ、そして、歯切れのよさも十分。
音が、丸っこく感じるのは、録音のせいもあるが、やわらかい。

オーケストラでは、ワルベルクの指揮するものが、際立った特徴はないが、やはり安定感と、安心感がある。
ウィーン響とあるが、かつてのレコード時代は、ウィーン・プロムジカ管弦楽団とか表記されていたもんだ。

たまに聴くと、懐かしい響きに包まれていて、ホッとする、一番古いブレンデルのベートーヴェンでした。


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   ベートーヴェン  ピアノ協奏曲全曲

         Pf:アルフレート・ブレンデル

   ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

                     (1975、76、77 ロンドン)


前回は30代半ば、そして10年後、押しも押されぬ中堅ピアニストとなったブレンデル、2度目のベートーヴェンは、専属となったフィリップスレーベルから、ハイティンクとの共演で。
数あるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集で、全体として一番好きなのはこれ。
ソリストと指揮者、それぞれの思いや音楽が完全に一致していて、スタイルが統一されていて、とても凛々しい。

若やいだ1番と2番から、中期の深淵さと、壮麗さのスタイルへと移ってゆく、3、4、5番と聴き進めてゆくと、この演奏の必然性がとてもよくわかる。
それぞれの番号ごとに、とてもいい演奏なのだけれど、全体としてとらえると、こうしたベートーヴェンの音楽の神髄を導き出してやまない感じがする。

とりわけ、素敵なのが、いずれの曲も、その緩徐楽章。

ギャラントだけど、美しい旋律に満ち溢れた1番と2番のそれ。
よりロマンティックに傾いた3番は、オーケストラもほんと美しい。
で、バックハウスが「神への祈り」と呼んだ4番のそれは、神妙なる調和の世界で、深みも。
華麗な楽章に挟まれた「皇帝」の2楽章もまた、神妙なる静的な世界。

ブレンデルの柔らかいピアノの音色で聴く、これらは、ほんとに素晴らしくって、秋の夜長にぴったりです。
2番なんて、もう、泣きたくなるようなピアノに、音楽であります。

もちろん、アレグロやフォルテの楽章もとても魅力的だし、いい音楽に、万全の演奏ですよ。
でも、年を経ると、こんなベートーヴェンの聴き方も、いいなぁと心から思います。

しかし、ブレンデルのピアノって、音が豊かです。
中庸の美でありながら、じっくりと聴くと、音が弾み、輝き、優しく語りかけてくる。
でもそれ以上に主張してこないから、安心して聴いていられる。

それとまったく同じことがハイティンクとロンドンフィルの、いぶし銀でありつつ、ちょっとくすんだ渋さのオーケストラと、ふくよかで、恰幅もほどよいハイティンクの作り出すサウンドがとても素晴らしい。
 ハイティンクとロンドン・フィルは、この時期にロンドンで、これら協奏曲も含めた交響曲チクルスをやっていて、そちらもコンセルトヘボウとはまた、一味違った名演になっていることはもう、みなさま、ご存じのとおりです。
 そして、「皇帝」におけるスケールの大きさは、若きメータのものと比べると、まるで大人と子供くらいに感じます。

そして、アナログ最盛期のフィリップスの深みのある名録音も、わたくしには最良のものでありました。

秋の夜、暮れ行く空を眺めながら、二日間にわたり、ブレンデルのベートーヴェンを堪能しました。

ちなみに、ブレンデルのあとふたつ(レヴァインとラトル)は、聴いたことがありません。
あと、ハイティンクの指揮では、アラウ、アシュケナージ(映像)、ペライア、シフがありますが、いずれも未聴・・・・。
ともかく、この歳になっても、あれこれ気になるもの、欲しいものが尽きませぬ・・・・
聴く時間は有限なのに。。。。
 

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2017年9月30日 (土)

フラヴィアーノ・ラボー イタリアン・テノール

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9月23日、お彼岸の東京タワー。

ブルーです。

で、どこか、テノールな気分。

往年のテノール聴きました、そして、クールに熱くなりました。


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なんだかなぁ、すぎるジャケットで、いろんなものに見えてくる・・・
お口直しに、別バージョンを拾いました。
Labo

    ヴェルディ    「運命の力」

  ポンキエッリ  「ラ・ジョコンダ」

  プッチーニ   「ラ・ボエーム」 「トスカ」 「トゥーランドット」

  ジョルダーノ  「フェドーラ」

       T:フラヴィアーノ・ラボー

 フェルナンド・プレヴィターリ指揮 ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団

                             (1954 ローマ)


フラヴィアーノ・ラボーの名を知る方は、だいたい、私より上の世代ぐらいでしょうか。
NHKが招聘した「イタリア・オペラ団」は、1956年より1976年まで、8回にわたって来日し、日本に本物のオペラを根付かせる原動力ともなった。
伝説級の公演の数々。

私が記憶にあるのは、1971年の第6次のものからで、そのあと73年は、NHKホールのこけら落とし、さらに76年は、実際にその舞台に立ち会うことができた。
その71年に、カラフ。73年に、カヴァラドッシとラダメスを歌ったのが、ラボーでありました。

小柄で、おっさん体系だけれども、その声は野暮ったさの一切ないスマートで洗練されたもので、かつ、力強さと輝かしさにもかけてはいない。
ベルゴンツィや、後輩のカレーラス系の声のイメージといえばよいかな。

正規録音としては、DGのスカラ座の「ドン・カルロ」ぐらいしか、ちゃんとしたものでは出ていなかったので、このアリア集の復活はとてもうれしい思いをしました。

モノラルながら、実に明晰な録音で、ラボーの素晴らしい歌声を楽しむことができます。

ラボーは、1927年生まれ、ロマーニャ州ピアチェンツァ県の出身で、イタリアでもどちらかというと、北西に位置する場所。
イタリアの北と南、その気質も大きく異なる。
そんなことも思いながら、イタリアの地図を眺めたりしながらラボーの声を聴くのも楽しい。
1991年に、交通事故で亡くなった新聞報道を見たときは、ちょっと驚き、寂しい思いをしたものだ。

73年の「トスカ」は、テレビを通じて何度も観劇しました。
赤いドレスの美しいカヴァイヴァンスカのトスカと、小柄なおじさん、ラボーのカヴァラドッシは、伝統的で、ゴージャスな舞台と演出とともに、ほぼ初「トスカ」だった自分のトスカ体験の刷り込みとなりました。

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ラスト、ローマの早朝の朝焼けのなかの処刑シーンでは、その空の色の美しさも、これまた刷り込み。
この頃に出た、メータ盤のジャケットが、たぶん、この舞台のものだったはずで、レコ芸にその盤の書評を書いていた桜井センリさんが、体験されたローマの朝のことに触れていて、私も、まだ見ぬローマのことを憧れでもって想像したものだ。

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懐かしい思い出ばかりのフラヴィアーノ・ラボーの歌声。

最近は、ワーグナーとシュトラウス中心のドイツ・オペラぐらいしか、新しい演奏は聴かないので、イタリアものの最近の歌手は、名前すらわからなくなってしまった・・・。
古いのしか知らない、聴かないイタリア・オペラなのでした。

 ヴェルディは、ここでは、ドン・アルヴァーロのアリア1曲だけだが、この耳洗われるような正統歌唱に、居住まいを正したくなる想いがする。
残りのプッチーニにも、涙が出そうなくらいに、こころが熱くなった・・・・

どれ、爽やかなイタリア産の白ワインでも開けて、もう一度聴こう。

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2017年9月18日 (月)

ブルックナー 交響曲第8番 ショルティ指揮ウィーンフィル

Shiba

何日か前の東京の壮絶な感じの夕焼け。

このあと、西の方から台風がやってくるのでした。

そして、60年代、ウィーンを中心に嵐を呼んだ指揮者を。

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    ブルックナー  交響曲第8番 ハ短調

    ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                     (1966.11・12 ゾフィエンザール)


ほんとは大好きだけれど、めったなことでは聴くことが少なくなってきていた曲、それが、「ブル8」であります。

「ブル7」は、あまりにも演奏されすぎて、食傷気味。
曲が偉大すぎて、大きすぎるから、8番を敬遠。
9番も、やたらに好きだけれど、こちらは彼岸の曲にすぎるから、逃げてる風があるかもしれない。
だから、ブルックナーは、1、2、4、5、6番を普段聴きしてる。

そんな自分が、ふと気になったのが、ショルティの指揮する「ブル8」。

一般的には、シカゴとの全集録音の一環が、「ショルティのブルックナー」ということになるだろう。
しかし、ショルティが60年代、ヨーロッパを中心に、オペラ指揮者として活躍していた頃のブルックナーやベートーヴェン、マーラーの録音があることに、はたと思い出し、それらを聴いてみようということになったのだ。
 それらは、古いレコ芸の広告や、ロンドン・レコードの冊子などで見て、記憶の片隅にあったもので、これまで聴いてなかったけれども、ノスタルジーをかきたてる、そんな存在でもあったのだ。

で、手始めに聴いてみた「ショルティ&ウィーンフィルのブル8」。

いや、これが、実に爽快であった!

快刀乱麻、鬼のような形相で切りまくるブルックナーでもありながら、すべての音符が明快で、もやもやした、神棚に祀り上げられてしまったような、どこか遠い、崇高すぎるブルックナーではない。
手の届くところにある、ウィーンフィルのブルックナーでもあった。
そう、なんたって、プロデューサーは、ジョン・カルショーであり、音楽エンジニアは、ゴードン・パリーなのだ!!
 66年の録音といえば、58年から始まった、ショルティ&ウィーンフィルのトリスタンを挟んでの「リング」録音が、65年に終結したその翌年。
ホールもスタッフも、みんなおんなじ。

当時は、まだ難解な大曲だった「ブルックナーの8番」を、あの「リング」と同じく、優秀な録音で、明快に、わかりやすく聴いてもらおうという意欲が、演奏者・録音スタッフたちの共通認識だったかもしれない。

録音後、はや50年が経過し、そんな風に思える演奏なのだ。
この1年前、デッカは、同じコンビで7番、メータで9番をリング界隈で残しているのも、そうした意図があるのかもしれません。

全曲は、約75分。

速いところは一気呵成、それと、ドラマティックに燃え上がるところでは、壮年期のあの激しい、切るような怒涛の指揮ぶりが伺われるような、そんなすさまじさもあるけれど、さらに、音圧も強くて、はっきりしすぎの感もあるけれど、でも、相対的に、ブルックナーとしての伸びやかな佇まいと、まばゆさに欠けていないと思いながら聴いた。
ことに、圧巻の終楽章フィナーレは、有無をいわせず、かっこいい!

 で、なんといっても、ウィーンフィルの美しさ。
いまのオールマイティなウィーンフィルにない、ローカルな言語で語られるブルックナーは格別であった。
オーボエを中心に、鄙びた雰囲気の木管に、柔和なホルンに、丸みをおびた金管、そして懐かしいほどの親しみあふれる弦。
 これらを、しっかり捉えたデッカの録音。
あの「リング」の録音の延長線上にあるといっていいかもしれない。

この国内盤の解説には、リングの合間をぬって録音とあるが、それは間違い。

 「アラベラ」     1957年
  「ラインの黄金」  1958年
 ベートーヴェン 交響曲第3番、5番、7番 1958、59年
 「トリスタンとイゾルデ」  1960年
 「サロメ」       1961年
 「ワルキューレ」 1962年
 「ジークフリート」 1964年
 ブルックナー 交響曲第7番 1965年
 「神々の黄昏」          1965年
 ブルックナー 交響曲第8番 1966年
 「エレクトラ」           1966,67年
 「ばらの騎士」          1968年

ウィーンでのショルテイの録音は、あと、ワーグナーの管弦楽作品があるけど、こんな年譜かな。
こうしてみると、ひとつのレーベルが、ウィーンでのオペラ録音をとても計画的進めていったことがよくわかる。
あと、ショルティは、ローマやロンドンで、ヴェルディの録音を同じように行っていた。

ともかく、どちらかというと避けていた、この作品に、この演奏、大いに気にいりましたぞ。

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2017年9月16日 (土)

ザビーヌ・ドゥヴィエル モーツァルト・歌曲アリア集 「ウエーバー三姉妹」

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秋の気配の増す東京。

台風が冷たい風を送ってくる。

夕暮れの空も不穏だが、雲の流れは美しいものだ。

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    モーツァルト 「ウェーバー姉妹のための歌曲・アリア集」

        ザビーヌ・ドゥヴィエル

   ラファエル・ピション指揮 アンサンブル・ピグマリオン
     
        ピアノ:アルノー・ディ・パスカル

         (2015.1.12~18 パリ、ノートルダム・デュ・リバン教会)


1777年、21歳のモーツァルトは、マンハイムに向かい、かの地で劇場主・バス歌手・教育者・写譜家のウェーバーに会い、父が教育した4人の姉妹歌手、ヨゼーファ、アロイジア、コンスタンツェ、ゾフィーとも出会うこととなる。

モーツァルトは、アロイジアに恋をしてしまい、彼女のために多くのアリアを作ることとなるが、その恋はあたわず、職を求めて母と共にパリに向かい、あげくには、職もなく、母も失ってしまうモーツァルト。

そんなウェーバー家の娘、三人に係わる作品を集めた1枚。

【プロローグ】

①バレエ音楽「レ・プティ・リアン」序曲
②「ああ、お母さん聞いて」
③「寂しい森のなかで」K.388
④「パントマイム「アルカンドロよ、私は告白しよう」K.294
【アロイジア】

⑤アリア「ああ、できるならあなた様にお教えしたいものです」K.418
⑥レシタティーボとアリア
  「テッサリアの民よ、‥私は求めはしません、不滅の神よ永遠なる神よ」K.316
⑦アリア「わが感謝をうけたまえ、やさしい保護者よ」K.383

【ヨゼーファ】

⑧アダージョK.410
⑨アリア「すでにやさしき春は微笑み」
⑩「魔笛」~「復讐の炎は地獄のようにわが心に燃え」
⑪英雄劇「エジプトの王タモス」間奏曲

【コンスタンツェ】

⑫「魔笛」~僧たちの行進
⑬ソルフェージョ K.393 第2番
⑭ミサ曲 ハ短調 K.427~精霊によりて

まさに、序の快活に始まるプロローグ部分。
パリを目指す途中で立ち寄ったマンハイムでの作品たち。
パリに着いたのち、「きらきら星変奏曲」となる「ああ、お母さん聞いて」は、透き通るようなドゥヴィエルの声が、聴く者の耳をとらえて離さない。

3人への作品のなかでは、おそらく歌い手としての才能と実力、そしてその力量にもモーツァルトは惚れていたアロイジアへのものが一番充実している。
ベルカントの歌い口を、モーツァルトは、彼女をオペラ歌手に仕立てるために教え、見事なコロラトゥーラとなった。

コロラトゥーラといえば、技術的にさらに高度なものがったのが、ヨゼーファ。
なんたって、夜の女王を歌ったのだから。
でも、モーツァルトは、ヨゼーファが苦手だったらしい。

そして、アロイジアに結婚されてしまい、残ったのがコンスタンツェ。
伝えられるものは、常に悪妻として名前が知られるが、実際はどうだったのだろうか。
歌い手としての力量は、姉ふたりからは、かなり劣るとされ、事実、彼女を想定してかかれた大ミサ曲のソプラノパートの1曲は、平易なもの。
しかし、そのシンプルながら、メロディアスな美しさは、モーツァルトの愛情のこもった愛らしさをたっぷり感じるし、その原曲ともなっている、ソルフェージュも美しい。
 こんな曲と、ドゥヴィエルの素敵な歌声を聴いていると、コンスタンツェは、モーツァルトにとって、可愛い妻だったのでは、と想えてきました。
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フランスの美人なソプラノ、ザビーヌ・ドゥヴィエル。

まだデビュー、5~6年ながら、ヨーロッパでは大活躍の彼女。
チェロと音楽学を学んで、同時に歌手も目指した。
フランスの同系統のソプラノ歌手としては、ナタリー・デセイとパトリシア・プティボンのあとを継ぐタイプです。

ちなみに、プティボンの新譜がこのところ途絶えていて、毎年出ていたコンピレーションアルバムももう何年も出てないし、日本では発売もされなかったものもある。
そのアルバムも渋い内容になって、レパートリーも本格化したゆえにだろうか・・・
DGから、ソニーへの移籍もこの前発表されてたし・・・・

それはともかく、ドゥヴィエルのレパートリーも、先輩のそれをしっかり歩みつつあり、ともの、夜の女王を歌っても、その復讐に燃えるアリアは、ちっともおっかいないところはなく、先鋭さはあるものの、ピュアな歌声で押したようなユニークなものだ。

そして、彼女の声の美しさを堪能できるのが、きらきら星の曲と、K.316のアリア。
透明感あふれる歌声と、感性の豊かさを、そのまま歌に乗せることができる、そんなしなやかさと、歌い口のうまさにもあふれてる。
技巧の凄さも目をみはるものがあるが、それはごく自然な雰囲気なところもいい。
 この歌声に、ずっとひたっていたいと思わせる素敵なザビーヌさまなのでありました。

ネット上で、たくさん彼女の歌が聴けますよ。

あと、指揮をとるピションとピグマリオン・アンサンブルの先鋭ながらも、躍動するような生き生きとした演奏が思わぬ聴きものだ。
ピションはカウンターテノールであり、指揮者でもあり、学究者でもあって、ネットで調べたら、実に新鮮で清冽なバッハの演奏を聴くことが出来た。
この人にも注目をしたいところ。

若い演奏家がどんどん出てきますね。

それでは最後に、ザビーヌさまの「キャンディード」を。

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2017年9月 9日 (土)

ディーリアス 「ブリッグの定期市」イギリス狂詩曲 私のディーリアスの原点へ

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毎度で恐縮、かつ、おなじみの吾妻山からのお盆の頃の眺望。

夏の終わりに、今年の夏を回顧すれば、前半は猛暑。
本来の、日本のふるさとの夏を謳歌したかったお盆の夏は、まったくの不発で、曇り空と小雨の日々。

海と空の境界も、曇り空で曖昧。

その後も、猛暑が数日襲いましたが、9月に入っても、関東は涼しく、おとなしい残暑となっております。

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  ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

   サー・トーマス・ビーチャム指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

                    (1956.10.31)


わがノスタルジーを再び語ります。。。

ディーリアス好きの、原書ともよぶべき、ビーチャムのステレオ初期の1枚。

これは、ディーリアンたちの踏み絵とも呼ぶべき1枚で、もしかして、バルビローリから入った人でも、このビーチャムのディーリアスは、必ず聴いていることと思う。
ネットで見つけたこの素敵なジャケットをお借りしました。

弊ブログを始めた、ごく初期の2005年12月に、「望郷のディーリアス」として記事にしております。
もうあれから、12年も経っていることも驚きだけれども、その記事の内容にも、進歩も進化もなく、でも読めば、その想いは変わらいことに、なんだかうれしくも、確信とともに自身の音楽への歩みと嗜好にブレがないこと、なかったことが確認できて、妙に爽快な想いになったりしてます。

 少し、その昔の記事をなぞるようではありますが、わたくしのディーリアスとの出会いを、改めましてここに残して置こうと。

それは、わたくしが中学1年生のときであったでしょうか。
1971年、すでに、クラシックに目覚め、カラヤンのマジックにかかり、数少ないレコードは、カラヤンやアルゲリッチ&アバドの協奏曲などで、FMからの放送をむさぼるように聴き、いろんな音楽や演奏を吸収していった時代。

レコード欲しい、欲しい、を連発してた子供の夢を叶えようとしていた父母に、今思えば、どれだけ感謝をすればいいのでしょうか・・・・。
ホテル関係の仕事をしていた父が、あるとき、30枚ぐらいのレコードを抱えて帰ってきた。

狂気乱舞のわたくしでしたが、その1枚1枚を検分すると、海外のレコードばかりで、しかも、ジャズやポップスが主体で、クラシックは、ほんの数枚。
でも、なんでも吸収したい貪欲な中坊のワタクシは、なんでもかんでも聴きました。
 その音盤は、赤いものや、青いものもあり、テスト盤の無印みたいなものも。
きっと、ホテルの館内用のものや、もしかしたら、米軍放送局の払い下げみたいなものなども含まれていたのでしょうか。

クラシック系では、フルトヴェングラー、クリスティアン・フェラス、ミルシュティン、ストコフスキー&フランス放送管、カーメン・ドラゴン、などに混じって、白紙のジャケット&白紙のレーベルに、「ビーチャム、デリアスを振る」と書いてあった1枚が。

これが、わたくしと、ディーリアスとの出会い。

いまから、46年前のこと。

ともかくわからない。

ビーチャムってだれ?

デリアスって誰って・・・・

それでも、貴重なレコードですから、日々、何度も聴きました。
そうするうちに、当時、ベートーヴェンやドヴォルザーク、チャイコフスキーの名曲ばかりだった自分の耳に、旋律はあるものの、全体がぼやっとして、はっきりしないその音楽たちが、自らその音楽を語りだすように感じた日がいつしかやってきました。

 そう、多感な中学生ですから、学校のこと、クラスメートのこと、女の子のこと、そして、妙に厭世的になったり、人生とはなんぞや的な、ひよっこ的な想いに浸ったりしていたわけであります。
 そんなときに、なんとはなしに、「ビーチャム、デリアスを振る」のレコードをかけていました。
そして、自室から見ると、目の前は小高い山があり、富士山のてっぺんが晴れた日には、そのうえに見えたりしてました。
そこから見る、壮麗な夕暮れは、自分のなかでの原風景でもあり、そして、さまざまな想いとともに、このディーリアスの音楽がしっかりと結びつくようになり、完全に受け入れることとなったのです。

レコ芸の付録のレコードデータ集のような冊子から、ビーチャムとデリアス(=ディーりアス)をひも解き、その作曲家や曲名がわかったのは、それからほどない中3ぐらいのとき。

以来、私のディーリアス探訪が始まりました。

その完成形は、社会人になってから、EMIから発売された、「ディーリアス・アンソロジー」で、ターナーの絵画をあしらった数十枚のレコードの、ほぼすべてを入手し、そこにあった、私にとって、英国音楽の師とも呼ぶべき、三浦淳史さんの名解説とともに、ディーリアスをむさぼるように聴いたものでした。
1981年ごろのことにございます。

CD時代になってから、EMIからの諸作の復刻、シャンドス、ハイペリオン、ユニコーンなどの英国系レーベルがふんだん
ディーリアスの音楽を、まさに、幅広く聞くことができるようになりました。

 ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

オーストラリア生まれのグレインジャーは、英国邦各地の民謡を採取し、すてきな音楽に編纂したが、そのなかのひとつ、リンカンシャー州で得たものが、「ブリッグの定期市」。
1905年のこと。
テノール独唱とアカペラの合唱のハミングによる美しすぎる佳作。

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   8月5日のことだった。
   すがすがしく晴れたその日
   ブリッグの定期市に僕はでかけた
   愛しい人にあうために

   朝、雲雀の声と共に
   心はずませ僕は目覚めた
   愛しい人に会えるのだ
   ずっと会いたかったあのひとに・・・・


              (宮沢淳一 訳)

 こんな風に、愛する人に会える喜びを歌いつつも、後半では、そんな想いや、人間そのものも、不滅ではないという、もの悲しい展開になる。

グレインジャーと親交を得て、その許諾のもと、これを原曲にして、書かれたのが、ディーリアスのイギリス狂詩曲。
そのスコアには、先の詩の冒頭の二節が書かれている。

朝靄を感じるような曖昧だけれど、夏の一日の始まりを思わせる清々しい冒頭部。
ここを聴いただけで、わたくしは、遠くに置いてきた自分の若き日々や、故郷の山や海、そして、懐かしい白レーベル・白ジャケットのレコードまで、一瞬にして脳裏に浮かんでくる。
 わたくしにとって、ノスタルジーのかたまりのような、イギリス狂詩曲。

そして出てくる「ブリッグの定期市」の主題。
1度しか行ったことがないイギリスの田舎道を、車で自ら走ったことがある。
どこまでも続く緑と、丸っこい丘、そして可愛い家の集まる集落に水辺。
そんな光景を見た。
それがそのまま音楽になったような気がする。

ビーチャムの凛々しいディーリアスの演奏には、この作曲家を愛しぬいた優しさと使命感のような厳しさもある。
固めのロイヤルフィルの響きと録音も、妙に自分の刷り込みにもなっている。

ディーリアスの音楽との出会いを作ってくれたあのレコード。
あのレコードを運んできたくれた父も、とうの昔に世を去ってしまった。
文字や画像、匂いや味などで、むかしを偲ぶことはできるけれど、音楽は、その時の自分はおろか、感情にまでも遡って体感させてくれるように思います。

Azuma

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2017年8月30日 (水)

ブリテン 戦争レクイエム ハイティンク指揮

Ninomiya_galas_1

この画像を、ここに載せるのは、もう何度になるでしょうか。

ガラスのうさぎ。

夏には、多くの千羽鶴が寄せられるようになり、平和祈願の発祥地のようにもなってます。
私の育った神奈川の小さな町。
終戦直前、近くの平塚市には、軍需工場があり、すさまじい空襲を受けたが、この町には何もない。
にもかかわらず、駅に停車していた貨物車を狙い機銃掃射。
疎開していた親子に着弾し、お父さんが亡くなった。
 いまは、建て替えられたけど、子供の頃の駅舎には、銃痕が残っていました。

ともかく、戦争忌避の思いは誰もあり、そして過去を反省する思いは、人類がみな共用すべきものと思います。
そのうえで、日々緊迫する世界情勢に対応するための施策を、施政者は批判を恐れずになして欲しい。

毎夏に聴く音楽。

そして、年とともに、この音楽への共感が増し、その都度の感銘を深めていく。

画像は、コンセルトヘボウらしいものとして拾いました。

Haitink

   ブリテン  戦争レクイエム

     S:フェイ・ロビンソン    T:アンソニー・ロルフ=ジョンソン
     Br:ベンジャミン・ラクソン

   ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
                      アムステルダム・コンセルトヘボウ合唱団
                       オランダ少年合唱団

                    (1985.10.27@コンセルトヘボウ)

カセットテープに残した、NHKFMの放送音源。

山ほどある段ボールのなかのカセットテープとVHS。

この先の人生も考え、取捨選択をするように心がけ、がんがん処分、そしていかにして、自らのライブラリーに残すか。

音源については簡単だった。
ヤマハのCDライターが壊れてしまい、超シンプルな、USBカセットテープ再生マシーンを導入できて、さくさくPCへ取り込み中。

真っ先に取り込んだのが、「ハイティンクの戦争レクイエム」だ。

これがまた、実に素晴らしい演奏だったのだから!

ともかく美しい。
ハイティンクとコンセルトヘボウが、もっとも蜜月に結ばれていて、指揮者の個性も、オーケストラの音色も、そしてコンセルトヘボウというホールの響きも、完全に一体化している時期のものゆえの美しさ。

ふっくらした音を、入念に醸し出すハイティンクとコンセルトヘボウが、ブリテンの緻密に書かれた音楽の、優しさと、デリケートな繊細さを素晴らしく描きつくすのだ。
ディエス・イレでの強烈な咆哮は、録音のせいもあるが控えめ。
そう、この曲に、痛切さや、壮大さ、そして、強いメッセージ性を求める向きには、このハイティンクとコンセルトヘボウの柔らかな響きは、もの足りなく思えるかもしれない。

でも徹底した平和主義者で、弱者のことに目線を多く向けたブリテンの優しさを、この演奏には感じることができるかもしれない。
カセットテープから起こした音源だから、音に芯が少なく、もっといい録音状態であったら、いますこし印象はかわるのかもしれないが。

3人のイギリス人歌手たちは、それはもう素晴らしく、完璧。
ことに、ロルフ・ジョンソンの鬼気迫る歌と、ラクソンの美声は聴きものだった。

オランダ放送協会のデジタル録音でした、とのアナウンスまで入っている、このNHKFM音源。本家での正規音源化はならぬものだろうか。
東ベルリン時代にベルリン響に客演した、A・ギブソンの録音ももってます。
あと、サヴァリッシュとN響、シュライヤー、FD夫妻のものなんかも。

60年代は、作曲者本人の自演盤のみしかなく、それが絶対とされた「戦争レクイエム」。
いまいくつのCDが出てることだろうか。
作者の手を離れて、多くの演奏家たちによって、この作品が、どんどん名曲として確立してゆき、聴き手の心を世界中で揺さぶるようになった。

平和を唱えていても、相手があることだから、一方的に事を起こされる不条理もある。
でも、戦争はご免だ。
この曲、あの大きな国で演奏されちゃったりするんだろうか??

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2017年8月26日 (土)

ワーグナー 「ラインの黄金」 ネルソンス指揮

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盛夏の頃の、靖国のみたま祭。

光の具合が、かっこよくて、あの楽劇の神々の入場のシーンを思い浮かべることもできる。

毎日の生活、日々、脳内には音楽がそのシーンに応じて流れているんだ。

Tanglewwod
 
 ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

 ウォータン:トーマス・マイヤー         フリッカ:ステファニー・ブライズ
 ローゲ   :キム・ベグリー           ドンナー:ライアン・マッキンリー
 フロー    :デイヴィット・ブット・フィリップ  フライア:マリン・クリステンスセン
 アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー ミーメ :デイヴィット・カンゲロッシ
 ファゾルト:モリス・ロビンソン          ファフナー:アイン・アンガ            ウォークリンデ:ジャックリーン・エコールス   ウェルグンデ:キャスリーン・マーティン
 フロースヒルデ:レネー・タトゥーム       エルダ  :パトリシア・バードン 

    アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団

                    (2017.07.27 @タングルウッド)


世界の夏の音楽祭巡り。

こんな驚愕の上演をネットで、しかも高音質にて楽しめました。

ボストン響は、ありがたくも、ネットストリーミングで、シンフォニーホールでの定期も、かなりの数をUPしてくれていて、たくさんの音源をPC録音することができてます。

音楽監督のネルソンスの、マーラー、ブルックナー、ベルリオーズ、ばらの騎士全曲、アイーダなどなど、あと、客演常連の、ハイティンク、デュトワ、ドホナーニ。

さて、「ネルソンスのラインゴールド」、オーケストラの充実ぶりが、腕っ扱きのボストン響だけに、いやでも引き立ちます!
ともかく、うまいし、音色に欧州風のコクと、響きの美しさがある。
シンフォニーオーケストラで聴くワーグナーならではの面白さは、鳴らし上手のネルソンスの指揮もあって、無類の楽しさ。
 ライトモティーフの扱い方が、リアルで、かつアメリカの聴衆にもわかりやすく、と聴かせている(と勝手に想像)ものだから、次々に舞台や、登場人物の動きが音を通じて、脳裏に浮かぶくらい。
 だからだろうか、いくぶんじっくりと指揮したものだから、演奏時間は2時間30分と長め。
職人ヤノフスキの今年のバイロイトにおけるラインの黄金は、2時間21分くらい。

ネルソンスは、ワーグナーに積極的に取り組んでいるが、バイロイトでのねずみローエングリンも、実に堂々たるワーグナーを聴かせた。
ティーレマンの重厚ヘビー級のワーグナーとも違う。
持前の音楽への集中力と、推進力は、聴き手を引っ張っていく積極性にあふれていて、一方で、じっくりと音を掘り下げるシーンもいくつも見受けられた。
 ラインの黄金の場合、ライトモティーフの扱いは、まだまだシンプルだが、それらが多層的に絡むところや、フライア=女性への憧れのモティーフでの透明感など、ネルソンスの指揮に新鮮なものを多く感じた。

ネルソンスとボストン響は、来シーズン、トリスタンの第2幕を取り上げる。
歌手は、なんとカウフマンがついにトリスタン。
ニールント、藤村美穂子、ゼッペンフェルトという豪華版だ。

主役級は定評ある歌手たちで、聴きごたえあり、なかでもマイヤーの若々しく、知能犯的なウォータンは素晴らしい。
ベグリーのローゲもベテラン。
あとの歌手たちは、よくも悪くも、アメリカンな感じで、明るくて、それはそれでよろしい。

タングルウッドの情報をネットで調べたら、ネルソンス氏、ずいぶんと肥えてしまった!
髭ヅラだし、黒服で腹出なので、怪しい雰囲気漂ってるよ。
カリスマ性が出てきたといえば、そうかもしらんが・・・。
日本公演は、チケット高いし、買っても行けない危険性あるしで、どなたか見て、聴いてきてくださいまし。

いずれにせよ、バレンボイムやティーレマンばかりでなく、新世代のワーグナー指揮者が次々にあらわれるのは、うれしい限りであります。
ペトレンコ、ジョルダン、ネルソンス、ネゼ=セガンたちのワーグナーに注目。
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まだまだ暑いけど、夏も終盤。



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2017年8月15日 (火)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 バイロイト2017

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7月25日より、今年もバイロイト音楽祭、始まっております。

グーグルで、バイエルン州のバイロイトの周辺をいろいろ俯瞰してみましたよ。

バイロイトは、地図で見ると、ニュルンベルクやバンベルクに近く(それでもそこそこ距離ありそう)、チェコとの国境も近い。

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こんな位置関係を頭に置きながらバイロイトからの演奏を聴くのもまた一興。

人口約7万人の町の北方面にあるのが、ワーグナーが辺境伯劇場に目をつけてから、自分の作品専用の劇場を築くにいたったバイロイト祝祭劇場。

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劇場の周辺の通りは、ご覧のとおり、ワーグナー作品の登場人物たちの名前で埋め尽くされてる。

トリスタン通りとか、ウォータン通りとかね!もうたまらんです。

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   ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

    ザックス:・ミヒャエルフォレ         
    ポーグナー:ギュンター・グロイスベック

    フォゲルゲザンク:タンセル・アクツィベク 
    ナハティガル:アルミン・コラチェク

    ベックメッサー:ヨハンニス・マルティン・クレンツィル 
    コートナー:ダニエル・シュムッツハルト
 
    ツォルン:パウル・カウフマン  
    アイスリンガー:クリストファー・カプラン

    モーザー:ステファン・ヘイバッハ   
    オルテル:ライムント・ノルテ

    シュヴァルツ:アンドレアス・ヘール    
    フォルツ:ティモ・リッホネン

    ヴァルター:クラウス・フローリアン・フォークト  
    ダーヴィット:ダニエル・ベーレ

    エヴァ:アンネ・シュヴァンネウィルムス   
     マグダレーネ:ヴィーケ・レームクル

    夜警:ゲオルク・ゼッペンフェルト

   フィリップ・ジョルダン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                     バイロイト祝祭合唱団
                                            エーベルハルトト・フリードリヒ:合唱指揮

                演出:バリー・コスキー

                  (2017.7.25 @バイロイト祝祭劇場)

2017年のバイロイトは、マイスタージンガーがプリミエ。

演出は、オーストラリア出身のバリー・コスキーで、現在、ホモキのあとを継いでベルリン・コミュッシュ・オーパーの芸術監督。
楽しそうな「魔笛」は、どんな演出をする方だろうと、コスキーの名前が発表されたときから、ダイジェストを見ていたが、ベルリンの舞台のトレイラーをいくつかをこの際いくつも確認して、ともかく普通のことはしない、情報過多の舞台に目が回る思いだった。

ともかく細かくて、舞台の人々が主人公以外にも、いろんな動きをしていて、目が離せない。ダンス的な面白い動きを、それこそ音楽に合わせて登場人物たちに取らせるところも、ユニークだ。

オーストラリア出身ではあるが、ネットで調べたら、ヨーロッパのユダヤ系の出自で、同性愛者でもあるという。

まず、バイエルン放送のネット配信を録音し、音楽だけ一度聴いた。

 パルシファルを1年だけ指揮したジョルダンの指揮、前奏曲から明るく軽めの歩調。
やや前のめりになりがちの始めのほうだったけど、だんだんと調子をあげて、豊かな音楽を紡ぎだすようになったのは、さすがジョルダン。
 しかし、なんか変。
そう、パウゼ、間がそこここにあるのである。
ティーレマンと対局にある音楽造りだが、そのティーレマンが当初多用したパウゼともまた違う。

あと、多彩な顔触れの歌手たち、聴いていて、みんなとても上手いし、完璧な歌唱。
そして、誰も、軽妙な歌い口を感じるし、重厚な歌声はどこか排除されているようにも感じた。

BR放送では、動画ストリーミング配信をしているが、日本では観る事ができない。
しかし、探しまくったら、ネット上で、なかなかの高画質で全曲を楽しむことができた。
昔では、冬まで正規音源は待たねばならなかったのに、ほんとに隔世の感ありです。

で、全幕観劇しました。

まったく予想外の舞台に驚きと笑い。

そして、音楽だけ聴いていて、ちょっと気づいた点が、舞台を観て納得。
そう、パウゼの多用は舞台の必然からだし、歌手たちの軽さは、よりいっそうデフォルメ化された動作によって理解できた。

ニュルンベルクのないマイスタージンガーは、今年生誕100年のヴィーラント・ワーグナーの斬新な演出に始まったわけだが、コスキーもニュルンベルクの伝統的な教会や丘はなし。
あったのは、なんとニュルンベルク裁判の法廷だ。
連合軍のMPまでそこには詰めている按配。

この舞台を、最初から事細かに書き始めると、まったくもってキリがないから、おもしろ部分だけチョイスして残しておきます。

画像はいずれも、BR放送局のサイトから拝借しております。
毎年、いち早く、バイロイトの様子をお伝えいただき、感謝に堪えません。

Ich borgte das Bild von der Stelle vom BR, die Station ausstrahlt.

Ich lasse dich sofort einen Staat von Bayreuth vermitteln und danke dir jedes Jahr sehr.

コジマの日記から、ヴァンフリート荘1875年8月13日の出来事が忠実に再現。
前奏曲からもうそれは始まっていて、これじゃぁ、壮麗な前奏曲の演奏なんて、できっこないわな、と思った。

Levilistziwagner  

日記記載のとおりに、ヘルマン・レヴィ、フランツ・リストが訪ねてくる。
ザックスは、最初から3幕の最後まで、ずっと登場しっぱなしで、ワーグナーそのもの。

Bayreutherfestspielediemeistersinge

さらに、ワルターもワーグナーだし、エヴァは、まるきりコジマ。
ダーヴィットもワーグナーで、ピアノのなかから、ミニワーグナーがたくさん出てきて、レヴィやリストの膝のうえに乗っちゃったりしてる。
 親方たちは、なんとピアノのなかから続々と登場。
レヴィは、ベックメッサーに変身し、リストはポーグナーに成り変わる。
音源では、チーン、チーンという音が何だろうと、気になっていたが、それは、親方たちが点呼に応じて、手持ちのティーカップをお互いに乾杯しあってのものだった。
親方たちは、まるで中世の絵画から抜け出してきたようななりをしていて、一番片隅では、ベックメッサーがユダヤ人的な雰囲気の衣装で、ミルクを飲み、種なしパンのサンドを頬張っている。

 ワーグナーやコジマの自画像で囲んだコーナーに隠れ、裁判官の持つ小槌(ガベル)を額縁に叩きつけるベックメッサー。その後ろで、ワルターは、ピアノの上に立ち、資格を問われた歌を披露するが、親方たちは、ばかみたいに首をふったりしているし、ワルターの歌に興奮と動揺を隠せない。なかには、ワルターに惚れてしまったオネエ系の親方がいて笑える。
そんななか、ザックスとポーグナーは喜びを隠せない。

1870年11月27日、月のようにしつらえられ満月のように光る時計は、9:30。
ワーグナーとコジマが芝生で、ピクニック。
そこへレヴィが出てくるが、リュートを渡され追い出される。
ワーグナーはザックスにかわり、コジマ(エヴァ)は、リスト(ポーグナー)に家に戻される。
ザックスの感動的なモノローグのあと、エヴァがワルターのことを探りにくるが、見た目、まるでコジマ。
 ワルターとエヴァとの逢瀬と、親方たちへの怒りの場面では、フォークトはバリトンの声を響かせ驚かせ、さらにいろんな楽器を吹き鳴らしながら背景に人々があらわれ、ワーグナー批判をデフォルメしてみせる。
 パウゼや歌い崩しの加減は、この場面や、続くザックスとベックメッサーの掛け合いの無類の面白さの背景にある。
演出に合わせ、音楽を一体化させている。
 舞台は喧騒に陥り、人々が出てきて、時計は逆回りに。
芝生は片づけられ、連合軍MPがワーグナー像を持ってくる。
ワーグナー批判のベックメッサーは、ダーヴィットを中心にして痛めつけられ、リュートも壊され、ワーグナーの肖像ではがいじめにされる。

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そして、ハンスリックか?いや、ワーグナーか、のデフォルメされたかぶり物を被せられ、ユーモラスなダンスを。でかい、同じ顔の風船がふくらみ、そしてまた徐々にしぼんで行くが、ベックメッサーの頭のてっぺんと、風船のてっぺんには、ユダヤ民族の象徴たる、ダビデの星の印が見てとれる。
のちのパルシファル初演者レヴィもワーグナーが作り出したこと、ユダヤとワーグナーの切ってもきれないことを例えたのだろうか。れそともワーグナーが、ベックメッサーに例えた批判の最先鋒ハンスリックの萎む姿だったのだろうか・・・・・

前奏曲が始まる前、舞台にはテロップで、1945年1月4日、ロイヤルエアフォースとか、メッサーシュミットとか、ドイツ青年とか、暗号「奇妙な音楽」(たぶんドイツ軍の機銃掃射?)とか、単語しか抽出できない自分には、こんなものしか判明しないドイツ語の文章が流れた。。。。。ちゃんとした識者の解説を待ちたい。

幕が開くと、舞台は裁判所のようである。

3幕の深々とした前奏曲の間中、ザックスは、ずっともの想いに沈んでいて、その前にはワイングラスに赤ワインに、籠のなかには食事が。
モノローグのあと、ダーヴィットが出て、戸書きでは、聖書を思いきり閉じてびっくりするのであるが、ザックスは、テーブルのものを思い切り弾き飛ばすというちゃぶ台返しをする。

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ちなみに「聖ヨハネの日」は、6月24日。
ニュルンベルク裁判は、1945.11.20~1946.10.1

ワルターが起きてきて、ザックスと曲作りでは、まっとうな運びだけれど、やはり大きな休止がからむし、ふたりは顔近すぎだし、表情がとても豊かで、ワルターの曲がどんどん進化してゆく様子が映像ではよくわかる仕組みだ。
ザックスは、ものすごい勢いで詞を書きとめるんだ。
 次は、ベックメッサーのお忍び。舞台の奥には、米英仏ソの連合国の旗。
怪我を負ったベックメッサーは音楽に合わせ踊るが、証言台で、ミニユダヤ人たちに取り囲まれ、まるでダメじゃないかと、非難される様子。
 あとはザックスとの滑稽なやりとり。このふたりは、名優だ。

エヴァ登場し、ザックスへの感謝も件の証言台で。
トリスタンからメルケへと、音楽も、心情の演出描写もなかなか。
麗しい五重唱も、5人の配置がよろしく、フレンドリーな雰囲気もいい。

場面転換の場では紗幕が降りて、またメッセージ。
今度は、ザックスの劇中の台詞で、ベックメッサーが失敗した歌の責任を訴えられ、自らの証言者を紹介するところ。

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さぁ、祭りの場面だが、裁判所で行われ、空は見えない。MP立ってる。
群衆が思いきりストップモーションをかける。時計は思い切り逆流。ジャンプ激しい。
もうむちゃくちゃ。
ダーヴィットのワーグナーが、コジマの肖像の前で踊り、ミニワーグナーが出てきて、コジマに敬意を表する・・・子供たちか。(ジークフリートとふたりの孫かな)
音源のときは、意味不明だったぶつ切れの拍手は、親方たちの入城ごとに起きるものだった。だが可愛そうなことに、ベックメッサーのときは拍手なし。。。

まるきりワーグナーのザックス登場で、逆流時計は11:40で止まり、ザックス=ワーグナーは称賛を受けまくる。
 ガラスに映る無機質な蛍光灯、黒電話、マイク・・・みんな裁判所の再現

小槌の一打で、一同飛びはね、ベックメッサーは、連合国風の女性の奏でるハープにのって、証言台で荒唐無稽に歌う。
親方たちは、ヘッドホンで不怪訝そうに怪しみながら聴く。
やがて、ぐちゃぐちゃになってしまい、みんななにもかも、ザックスのせいとしたあげく、つまみだされてドアをビシャっと閉められちゃった。

証言台で責められるザックスにかわり、証言台の下から上がってきたのは、これまた完璧なワーグナと化したワルター。喜ぶ親方たちと、ことにオネエ親方。
ワルターの歌唱は、親方、群衆を異様なまでに魅惑しつくし、大いなる称賛を得る。
 連合国の旗は折れるようにして消え、ザックスの差配はこれでよかったですか?となる。

ワルターが親方を否定したあとは、全員があっという間に舞台から消え、時計も暗くなり、ザックスひとりが証言台に立ちつくす。
「親方たちをさげすんではならぬ・・・」感動のザックスの最後の証言は、最初はやたらと説明的に、どうしようもなかったんです的な必死の訴えかけに見えるし、ともかくフォレの歌と共に、やたらと説明的。

Diemeistersingervonnuernbergbayre_3  

そして、舞台奥から、オーケストラと合唱がせり出てくる。
よくみると、エヴァ=コジマも片隅に座っている。
ザックス=ワーグナーは、観客に思いきり背を向け、渾身の指揮で、オケと合唱を導き
、最後は大きく手を広げて幕となる。

                   

メモを取りながら見ていたけれど、途中から力が入って、すいません長文となってしまった。
不愉快に思われましたら、読まないでくださいまし。

しかし、どうでしょう、コスキーの「ワーグナーだらけのマイスタージンガー」。
反ユダヤのワーグナーが、その音楽で人々を魅了し、戦時にはプロパガンダにも利用され、ワーグナー一族もその波をうまく乗りこなした。

ユダヤ系たるコスキーの見た、「ワーグナーの夢と、自己弁護」って感じかな。

識者の見解を読んでみたいものです。

このコスキー演出に、歌手も指揮者も完全によりそい、音だけでは誤解を生みかねない、CDになりにくい上演となった。

指揮者ジョルダンに、一部ブーが飛んだのもそんなことだろう。
コスキーにも盛大なブーが飛んでいたが、歌手で唯一ブーされた、シュヴァンネウィリムズはちょっと気の毒だった。
彼女の声はエヴァ向きじゃないし、コジマの見た目もトウがたっていて、あんまり若々しい歌を聴かせることができなかったのでは、と。

技巧を駆使し、自在な歌い回しを見せたフォレのザックスは、それこそ音源だけでは、歌い崩し的に聴こえてしまうかも。
しかし映像で見て、その細やかな表情をともなった演技に付随した歌と見ると、それは称賛に値するし、昨今の映像化を想定した演出優位の舞台では、こういった巧みな歌唱が主流となっているのだろう。
 そういう意味で、完璧で火の打ちようのなかったフォークトのワルター。
あと、びっくりするほど歌も演技も面白かったクレンツィルのベックメッサーが最高!
カーテンコールでは、ザックスに次ぐ2番手でした。

あ~、面白かった。
賛否両論のコスキー・マイスタージンガー、年を追って定着することでしょう。
あと、ジョルダンの指揮も、もっとよくなると。

今年のバイロイトは、あと、「リング」「トリスタン」「パルシファル」でした。
いずれもこれからゆっくり楽しみます。

そして、来年、2018年は、「ローエングリン」が新演出。
ロサンゼルスオペラのユーヴァル・シャローンの演出、ティーレマンの指揮に、なんと、アラーニャのタイトルロールに、ハルテロスのエルザ、マイアーのオルトルート。
「マイスタージンガー」「トリスタン」「オランダ人(再演)」、そしてなんと、「ワルキューレ」のみの上演で、指揮は、ドミンゴ!

まだまだ、世界は、バイロイト、そしてワーグナーに呪縛されっぱなしだ。
あっ、なんたって、自分も!

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2017年8月 6日 (日)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 二期会公演2017

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観たいなぁ~、と思っていたら、大の音楽仲間から、行きませんか?とのお誘いをいただき、お譲りいただいた「バラキシ」。

ワーグナーとシュトラウスが国内で上演されるときは、何があっても観劇してた自分ですが、仕事の不芳や、チケットを不意にしてしまうことの恐怖から、ここしばらく、舞台から遠ざかっていました。

行っちゃう。そう、これを第一に行動すればいいんだ。
巧みに、仕事も先回りして、手を打って・・・・、あっ、かつてはそうしてたんだな。。。

いやはや、ともかく、久しぶりのオペラ観劇、ほんとにありがとうございました。
感謝感激でありました。
Rosenkavalier

R・シュトラウス  楽劇「ばらの騎士」

   元帥夫人:林 正子       オックス男爵:妻屋 秀和
   オクタヴィアン:小林 由佳   ゾフィー:幸田 浩子
   ファニナル:加賀 清孝     マリアンネ:栄 千賀 
   ヴァルツァッキ:大野 光彦 
  アンニーナ:石井 藍
   警部:斉木 健詞         執事:吉田 連
   公証人:畠山 茂         料理屋の主人:竹内 公一
   テノール歌手:菅野 敦     孤児:大網 かおり
   孤児:松本 真代         孤児:和田 朝妃
   帽子屋:藤井 玲南        動物売り:芹沢 佳通
   ほか
   モハメッド:ランディ・ジャクソン レオポルド:光山 恭平

 セヴァスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団
                        二期会合唱団

   演出:リチャード・ジョーンズ

                     (2017.7.26 @東京文化会館)


オペラ観劇歴、通算7度目となる、この日の「ばらの騎士」。

何度も観てしまうのは、なによりも、その音楽がとてつもなく素晴らしいことで、劇作家ホフマンスタールとともに成しえたこのオペラは、ワーグナーの意匠を継いだ、シュトラウス独自の音楽と劇との高度な融合たる「楽劇」という名にふさわしいものと思う。
 ちなみに、シュトラウスは、この作品を最後に、楽劇の呼称を取りやめてしまう。

さてさて、今宵の舞台は。

ロンドン出身のR・ジョーンズの演出は、グラインドボーンですでに上演されたものをそのまま導入したもので、ご自身や、スタッフも来日して、本家の舞台そのままに再現したもの。

 ジョーンズの舞台は、かつて新国立劇場で、ショスタコーヴィチの「ムツェンスクのマクベス夫人」を体験済で、舞台の中に、さらに額縁的な空間を築き、その中で行われる劇に、より客観性と既視感を持たせるという、観る者にとって、とても心理的な作用をあたえるもののように思われたものだ。

 今回の「ばらの騎士」も同様に、文化会館の舞台のなかに、もうひとつ額縁が据えられ、われわれ観客をそれを、どこかの物語のように、客観的に観るとともに、まばゆさとポップな色彩につつまれた舞台空間に幻惑されるという、さらなる第三者的な立場を体感することとなった。
これぞ、われわれの「夢の世界」の構築ではないだろうか。

 本来の舞台設定は、マリア・テレジア傘下のモーツァルト時代で、ここでは、ワルツなんてなかったから、このオペラでは、ホフマンスタールとシュトラウスの巧みな創作。
しかし、ジョーンズが置いた舞台は、シュトラウスたちが、まさに作曲したその時代。
1910年ごろ、ときは、世紀末で、シュトラウスは大半の交響詩を作曲し、オペラは、サロメとエレクトラで、当時の前衛的な存在だったけれど、「ばらの騎士」で、見事な古典帰りをみせた。。。、そんな時代背景は、マーラーがその最後の時を刻んでいたし、シェーンベルクは十二音音楽をすでに完成させていた。
 そんなモダンと、追憶の乱れる世紀末に、ジョーンズは着目したのではないかと思った。

観劇してて、賛否はともかく、普通と違う、おやっとした場面を列挙(備忘録です)。
長々とすいません。

高揚感とむせ返るような前奏は、幕を閉じたまま演奏され、オクタヴィアンの第一声の直前に幕が開く。
そこには、肉襦袢らしきものをまとったマルシャリンが、シャワーを浴び、入浴中。
オクタヴィアンは、まだまだ元気で、あがった婦人に抱き着きまとわりつき、ふたりはイチャイチャ。
 オックス男爵の突然の来訪には、モハメット君が、ちょろちょろしながら、婦人の使用したスポンジをクンクンしてるし、付け毛なんかも、懐にいれようとしながらも、執事に静止されちゃう。憧れ強すぎのモハメット。
 オックス男爵は、お付きのレオポルドを息子のようにしていた。
その男爵、客席から見てたら、寺門ジモンそっくり。
あと、アンニーナは、メイクのせいもあるけど、渡辺直美だった。
 元帥夫人が、鏡に映る自分の姿に哀しみを感じ、皆を遠ざける場面では、ひとり、フロイトが立会い、彼女のモノローグを聞く。
オクタヴィアンが再び現れるとともに、フロイト氏はいなくなるが、アンニュイに浸る元帥婦人は、ソファのうえで、哀しみと現実とを歌いながら丸くなる・・・可愛いのだ。

幕が開くと、そこはファーニナル家なんだけど、一面に壁がしつらえてあり、ドアがひとつの閉鎖的な部屋空間の場面。オクタヴィアン到着のワクワク感は弱めで、眼鏡っ子のゾフィーが、スタイリスト風の連中にお仕着せ人形のように、ハレの日のドレスに着替えさせられている。
マリアンネは、ドアを開け閉めしながら、期待あふれる外の様子を伝える。
さて、いよいよ騎士登場の段になって、壁が上がり、黄金色の壁に、FANINALと光文字で書かれた奥壁と玄関風の階段と大広間が目の前に広がり、閉塞感は吹き飛び、ここで颯爽と登場するオクタヴィアンに、会場のみんなが釘付けとなり、シュトラウスの美音に酔いしれるわけだ。
 ばらの献呈の場面では、見つめあう二人が、前後に揺れ、彼らの心の揺れも表現される素敵なシーンだったが、聴衆からは、ユーモアと見たのか、笑いが起こったのは、どんなもんだろうか・・・・
 さて続いて、婿殿の登場では、従者レオポルドがかなりのわがもの顔風に目立つ。
婿は、ゾフィーを商品のように扱い、テーブルの上に載せて、司法書士やら法律家連中も、そこに加わる。
イライラを募らせるオクタヴィアン。
ふたりの束の間の逢瀬は、また前壁で仕切られ、私の大好きな美しい二重唱が行われる。先の広い空間よりは、今度はとても好ましい密室が出来上がった。
ふたりのイタリア人に見つかり、通報され、また大騒ぎとなり、オックスの棒寂無人ぶりはピークとなり、オクタヴィアンが、剣も持たずに、決闘を申し入れたあげく、使用したものは・・・、なんと、銀の薔薇で、オックスのお尻をプスリと!
そのあとは、あまりイジリようのないオーソドックスな展開。
おしりの痛いオックスは、極上の酒とオクタヴィアンに寝返ったアンニーナがもたらした偽の手紙に、すっかりご機嫌になり、例のワルツを。
田舎から引き連れてきた部下たちは、1幕で、物売りから巻き上げた、ちょっとエッチな写真集をビロビロと広げ、オックスはさらにご満悦。

前奏曲では、幕を開けずに、しばらくオケピットの演奏に集中。
オックスをおちょくる居酒屋は、ド派手な色使いに、幾何学模様の壁紙の三角空間的な部屋。いたずらのリハーサルでは、壁にあるスイッチを押すと、ソファーがでっかいベットにするすると変身する仕掛けに失笑(笑)。
 オックスとレオポルドの登場、それからオーストリアの民族衣装風のオクタヴィアン。
レオポルド君は、仕掛人側が放った女性の色仕掛けにひっかかり退場し、以降、オックスにとっては役に立たない。
ステテコに鬘も取って禿げ頭となったオックスと、酒をグビグビ飲んじゃうオクタヴィアンの楽しい掛け合い。泣き上戸となったオクタヴィアンは、果物ナイフで、はたまた、天井から降りてきたロープで自殺を図ろうとして、オックスのオロオロぶりも半端ない。
 その後、ぞろぞろ出てくる、お化けや、オックスの妻と称するアンニーナや子供たち、オクタヴィアンもそろって、男爵を責めるところでは、全員がキョンシー風の動きになっておもろい。
 そんなこんなで、警察がやってきて、裁判風になり、そして、取り調べはまるで刑事ドラマのよう。
 最後に、ドタバタ劇の締めくくりに登場するマルシャリンは、ゴールド系のモードファッション。彼女に諭し、諭されたオックスが大騒ぎでもって退出したあとは、このオペラのもっとも美しいシーン。
 揺れ動くマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの3人に、ドアの隙間から憧れをもってもって覗うモハメットに注目。
クライマックスの3重唱、真ん中に金色のマルシャリン、右手に水色のオクタヴィアン、左手にパープルのゾフィー、背景はブルーの部屋。
マルシャリンが引き立つ、鮮やかすぎる色彩で、聴く3人の美唱に酔いしれる。
 幕引きのシュトラウスとホフマンスタールの機智あふれる場面では、モハメット君が、ちょろちょろと侵入し、探し出したのは、ソファーに忘れられたマルシャリンのショール。
思い切りそこに顔をうずめて、嬉しそうに退出して、楽しくエンディング。

                   
舞台に、映像に、ばらの騎士はいくつも観たけれど、どの演出もそれぞれに楽しかった。
オットー・シェンクの時代背景にも、ト書きにも忠実な伝統的な演出を、おそらく基軸にして、出来上がってきた様々な演出。

そんななかで、今回のR・ジョーンズ演出は、原色的な色彩と、額縁的な空間とで、かなりユニークな存在に思えた。
そんな中で行われる、微細なまでに凝った演技。
私には、それがやや過剰に思われた。次々に目移りしてしまい、音楽に身をゆだねることが出来ない。
まぁ、これが昨今のオペラ演出の風潮なのだから、あれこれ言わず、全体を楽しめばいいんだけど。

オクタヴィアンに傾きがちな視点を、マルシャリンに引き戻し、しかもモハメット君が懸想する大人の女性を描きつくした。
レオポルドが目立ったのも新しい。
そして、ゾフィーは操り人形のようだったけれど、徐々に自分の意志で動く機微がよく見えるように。あげればキリがない・・・

 さて、そんな舞台で、演技も、そして歌唱も完璧だった日本人歌手たち。
安定感と余裕すら感じる妻屋さんのオックス。
3人の女声の美しすぎる調和も、大いなる聴きもの。
アリアドネの作曲家以来、ファンになった、凛とした小林さんのオクタヴィアン。
幸田さんの美声は相変わらずだけど、声に力が少し増して、より多くホールに響かせることが出来るようになった感あり。
 あと、なんといっても素敵だった、大人の女性としての元帥婦人を歌った林さん。
1幕のモノローグで、手鏡を見てから変化する彼女の想い。
フロイト博士の臨席のもと歌われるその場面における林さんの歌と演技には、ほんとホロリときました・・・・。
誰しも、男も女も、そんな想いや歌に、自分を重ね合わせることができる、この作品の一番素晴らしい場面であることも実感できた。

 二期会のおなじみの歌手のみなさんも、出色、とくに二人のイタリア人たちはよかった。

 オペラの手練れ、ヴァイグレの指揮は、もう少しシュトラウスの音楽の色香が欲しいところではあったが、力強い読響から、まとまりのよい、柔らかな響きを引き出すことに成功していたのでは。
初日だったから、後になるほどよくなっていったことでしょう。

久しぶりのオペラ。
盛大なカーテンコールまで、楽しく観劇することができました。

舞台の模様はこちら、Classic news

SPISにてご覧ください。

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