2025年1月 9日 (木)

J・シュトラウス 皇帝円舞曲 ジュリーニ指揮

2025

遅ればせながら、2025年、ことしも好きな音楽ばかり聴いて、観てまいります、勝手ながらよろしくお願いいたします。

画像は、まだ紅葉の頃、富士の頂きの見える丹沢湖周辺で撮影しました。

今年の音楽家アニバーサリーは、有名どころでは、ヨハン・シュトラウス(Ⅱ)の生誕200年とショスタコーヴィチの没後50年です。

それなりに歳を食ったので、J・シュトラウスの生誕150年の1975年をよく覚えてます。
ウィーンフィルハーモニーがベームとやってきて、伝説となった名演の数々を残しましたが、モーツァルト41番とともに、ウィンナワルツのコンサートを行いました。
一方のウィーンの雄、ウィーン交響楽団もハインツ・ワルベルクの指揮でウィンナワルツの演奏会を開きました。
NHKFMでも、ウィーン音楽週間、ザルツブルク音楽祭でのシュトラウスの演奏の数々を放送しました。

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      J・シュトラウス 「皇帝円舞曲」op.437

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ウィーン交響楽団

       (1975.4.14  @ORF スタジオ、ウィーン)

めずらしき、ジュリーニのウィンナワルツ。
この録音も1975年のシュトラウス・イヤーでのもの。
ジュリーニのDG時代以前の録音をあつめたグレートコンダクターシリーズのなかの1組。
放送録音から取られたもので、いまや貴重な音盤だと思います。

ジュリーニは、ウィーン交響楽団の指揮者となり、同じ75年前後には、大曲ばかりを取り上げていて、先に書いた通りNHKFMでも何曲か放送されました。
ミサ・ソレニムス、ヴェルディのレクイエム、マーラーの9番などでしたが、それらに交じって「美しく青きドナウ」もありました。
いずれも録音しましたが、いまやヴェルディのみがまともに聴ける状態。
青きドナウは録音に失敗し、片方のスピーカーしか鳴らないという残念な結果に終わりました。

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しかし、わたしはライブでジュリーニの青きドナウを聴けました。
1975年秋に来日したこのコンビ。
10月3日に文化会館で聴きました。
公演パンフは67年のサヴァリッシュとの来日の様子が表紙でした。

  ウェーベルン パッサカリア
  モーツァルト 交響曲第40番
  ブラームス  交響曲第1番
  シュトラウス 美しく青きドナウ~アンコール

このような今思えば夢のようなプログラム。
指揮棒を拳で握ったようにして指揮するジュリーニの姿と、圧巻のブラームスは、いまでも脳裏にしみついてます。
青きドナウでは、会場がホッとしたように、柔らかいウィーンの響きに一瞬で和んでしまったものです。

この音盤で聴く「皇帝円舞曲」は、ジュリーニらしい、ゆったりと勇壮、キリリと引き締まった演奏で、それでありつつ柔和な表情と歌心にもあふれてます。
ときおり漏れ聞くことのできるジュリーニのうなり声と鼻歌のような声。
明るいイタリア人気質さえ感じるけれど、そこはブラームスがお好きのジュリーニ。
真面目一徹のユニークなウィンナワルツでした。

Wiener-simphoniler-1

ジュリーニとウィーン響のコンビは短い期間だけでしたが、幸せな結びつきだったかと思います。
正規録音がブルックナー2番、ワイセンベルクとのモーツァルト、ミケランジェリとのベートーヴェン、ベルマンとのリストと協奏曲ばかりだった。
この時期にDGがもっと録音をして欲しかったと思うのは私だけではないでしょう。
ずっとのちの、ウィーンフィルとのコンビより、ウィーン響の方が時期的にもジュリーニはよかったと思うので。

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2024年12月31日 (火)

ディーリアス アンドリュー・デイヴィスを偲んで

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遠くに見晴らす富士と箱根の山と相模湾の夕日。

隣町、大磯の小高い山からの眺望。

都会を離れて数年が経ち、このような自然に囲まれて過ごす幸せと、老いてゆく親、自分の仕事、ちょっと離れたとこにある自宅や家族、孫たい・・・・そんなもろもろを思いつつ1年をまた締めくくる日がきた。

今年も、多くの音楽家や芸術家が亡くなり、訃報に接するたびに悲しみと時の流れの無慈悲さを思うのでした。

日本人にとっても、世界の人々にとっても小澤さんの死はまさに巨星発つという点で大きなインパクトをあたえました。
それとピアノの巨人とも呼ぶべきポリーニの死も驚きとともに受け止めました。

しかし、実は、私がもっともショックだったのは、アンドリュー・デイヴィスの死でした。
まだ記事は起こしていなかったので、年末最後の日に美しいディーリアスを聴いて亡き名匠を偲びたいと思いました。

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  ディーリアス イギリス狂詩曲~ブリッグの定期市

   サー・アンドリュー・デイヴィス指揮

  ロイヤル・スコテッシュ・ナショナル管弦楽団

      (2011.12 @グラスゴー)


サー・アンドリュー・デイヴィス(1944~2024)。
2月に80歳を迎えたばかりで、2024年4月20日に80歳でシカゴにて逝去。
白血病を患い急逝してしまったことに驚愕の想いでした。

A.デイヴィスといえば、70年代半ば頃から主にCBSへの録音、とくにドヴォルザークの交響曲全曲やボロディンの交響曲など、カタログの穴を埋めるようなソツのない音楽造りの存在で、当時は高名なコリンに対し、もうひとりのデイヴィスなどとも呼ばれましたね。
そんななかで、印象的だったのが、デュリュフレとフォーレのレクイエムで、清廉で飾り気のないピュアな演奏が作品の本質をついておりました。
本国のイギリスでポストを得ずに、まずは1975年にカナダのトロント響の指揮者となり、そこで大成功。
EMIと契約して惑星やメサイアなどの録音も残しました。
トロントのあとは、イギリスに戻り、1988年にハイティンクのあとのクラインドボーン音楽祭の指揮者となり、ここでオペラ指揮者としての才覚も発揮し、同時期にBBC交響楽団の首席指揮者となり、ここでのポストがデイヴィスの絶頂期となりました。
プロムスでの数々の演奏、とくにLast Nightは、ユーモアあふれる語り口と精悍な髭面とで大人気に!
シカゴのリリックオペラ、メルボルン響、ピッツバーグ響(3頭体制)の指揮者なども歴任。
ここ数年では、イギリス音楽の伝道師として、シャンドスレーベルを中心に、トムソン、ハンドリー、ヒコックスらの亡きあとの最重要指揮者として活躍していました。
まだまだやってほしかった英国音楽作品の数々。
それが残念で、わたくしはサー・アンドリューの死がとても痛手だったのです。

オペラ指揮者としては、グライドボーンでのいくつかのDVD、なかでもシェーファーとのルルは名作だし、バイロイトのローエングリンでの指揮も自分では大切な放送音源です。
シュトラウス指揮者としても実に優秀で、ばらの騎士やカプリッチョ、メルボルンでの英雄の生涯など、いずれも忘れ難いものです。

今宵は、サー・アンドリューの残したディーリアスの録音から、ブリッグの定期市の楚々としつつも味わい深い演奏を聴きながら、年内の締めといたしました。
いろんなオーケストラを指揮したデイヴィスのディーリアスは、ほぼ集めましたので、来年以降また取り上げたいと思います。

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今年もつつがなく、たくさんの音楽を聴けたことに感謝です。

へんな話ですが、音楽を聴けるためにも元気でいなくちゃと思うし、そのためにも諸事がんばらねばとも思う次第。

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来年もよき1年でありますように。

ご覧頂いたみなさまも、音楽とともにありますこと、よき1年をお過ごしいただきますように。

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2024年12月29日 (日)

ブルックナーを演奏する会 交響曲第8番(第1稿)

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2024年も押し迫り、隣町のひらしん・平塚文化芸術ホールに行ってきました。

生誕200年のアニバーサリーイヤーだったブルックナー、内外ともに数多くの演奏会で取り上げられました。

自分にとっては今年、最初で最後のブルックナーのコンサートが平塚で。

2011年の大震災を受け、翌年の7番から始まったブルックナーの演奏専門の神奈川中西部で活動するアマチュアオーケストラ。

8番は2回目だそうですが、前回は通常耳にする第2稿ハース版で、このたびは初稿版・第1稿を果敢にも取り上げてくれた。

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       ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 1887年初稿版

  河上 隆介 指揮  ブルックナーを演奏する会

         (2024.12.28 @ひらしん 平塚文化芸術ホール)

初稿版を演奏会で聴くのは今回が初めて。
今年、ルイージがN響で取り上げたが、そちらは録音で済ませました。
そのルイージ、かつての手兵のウィーン・トーンキュンストラと2022年にも演奏していて、ORFでの放送を聴いたものですが、チューリヒでも正規録音を残しているので、よっぽど初稿版が好きなのな・・という程度の認識だったその初稿版。

ブル8視聴歴半世紀あまり、ベームやカラヤンで痺れるほどの感銘をいだき、あまりの畏れ多き大作に、おいそれとは聴くことのできない崇高な名曲と思い込んで過ごしてきた。
ハース版もノヴァーク版2稿も、自分にはさしたる変わりはなく、クナッパーツブッシュだけが演奏はいいのに改訂版とはなんぞや・・でした。
そんな自分がインバルの全集を買ったときに聴いて驚いた8番の初稿。
え?なに?あまりの違いに拒絶反応しか出なかった自分も思えば若かった。
以来、ロクに聴いてこなかった8番の初稿版。
そして今日でした。

「河上氏とブルックナーを演奏する会」の真摯で夢中の演奏が、ブルックナーのまるで新しい曲を聴くかのような新鮮極まりない感銘と驚きを与えてくれたのでした。
初稿以外を聴き慣れた耳にとって、あれ?どこいった?あ、そう、そこ・・・と思いつつもすっかり慣れて音楽に集中して浸りきることができたのも、ひらしんのホールの鳴りっぷりの良さと響き、その反応の良さにもありました。

洗練された7番のあとに、こんなにも粗削りで感性の赴くがままの8番がどうして来たんだろう。
聴き慣れた2稿以降での主旋律に、また違う聞き慣れないフレーズが絡んだりしてくる。
パウゼもまた唐突にやってくるし、表情の変化も激しく、強弱もまったく違うか所も多発。
 深淵さがしっかりあるも、その1楽章の終わりはファンファーレ的にフォルテで終わる。
2楽章スケルツォの中間部はぜんぜん別物になっていて、これはこれで平和感がありよろしいし、牧歌的。
背筋を伸ばして聴き入ってしまう3楽章アダージョは、おなじみのとおりに進行し、ハープのアルペジオも美しい。
がしかし、シンバルの高鳴るあそこ、若い頃には、そこで身を震わせてきいたあの場面では鳴らずに、クライマックスは持ち越され、ちょっとすると3発のシンバルがトライアングルもともなって2回にわたって連発して驚きと同時に、これもありだなと納得。
その後のホルンとワーグナーチューバを伴う弦の慰めと癒しの場面はこの版でも実に美しく、この日のオーケストラも最高の音をかもしだしていた。
続く胸わきあがるフィナーレの冒頭も、ほぼ同じくで、オケの金管群もブリリアントでした。
大好きな木管による鳥のさえずりのようなパッセージは出現の仕方がぜんぜん異なり、全体のなかに埋もれてしまう感じ。
以降も驚きながらも、すっかり音楽と演奏に魅せられつつ、いよいよ遠大なエンディングがくるかと待ち構えると、じわじわ高鳴っていくどころが、音楽は意に反して静まり、じわじわ感で攻めてくるかと思いきやふんわりと終わってしまう。
前から初稿版に感じていた不可思議な残尿感伴う印象は、ここだったか・・と思い起こした次第。

しかし、90分の全曲をじっくりと、誠意あふれる演奏をまじかで聴いた印象は自分には「初稿版は宝の山」だったということ。
すっかりなじんだマーラーの7番も若い頃は、なんでもありの謎にあふれた曲に感じらたが、たとえは悪いがそれと同じように、まだまだわからない8番初稿版。
これから楽しめるという喜びをもたらせてくれた。
2017年に神奈川フィルでやったとき、公私ともに忙しく会員でなくなってしまい、聴き逃したのが残念です。
ノット&東響の4月シーズンオープニングは聴きに行く予定。

終演後、ブルックナーのスコアを掲げて作曲者を讃える指揮の河上さん。
10年以上、同じメンバーでブルックナーを演奏し続けてきたオーケストラのみなさま。
素晴らしい演奏、ありがとうございました。

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2025年9月には、大船で9番(ハース&オーレル版)の演奏が予定されてます。

異なる版でブルックナーを聴く楽しみも、今後の目標のひとつとなりそうです。

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平塚駅から西方を望むときれいな空が。

小高い山は大磯の高麗山。

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2024年12月25日 (水)

クリスマス with アカデミー マリナー指揮

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クリスマスがやってきました。

今年ほど世界が不穏で、日本もまたその影響を受け、われわれ庶民の実生活にもその影響がおよんだ年はないでしょう。

それでも世界はクリスマスを祝い、楽しむ気持ちは忘れていません。

いろんな国々の街の様子をリアルタイムで見ることができるネット社会の恩恵。

キリスト教国でない国でも、街々は華やかなイルミネーションでキラキラしてます。

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素敵な宗教画、ヨセフとマリアに幼子イエス、そして当方の3博士。

イエスの生まれた場所、ゆかりの地などが、いま世界の紛争の当時地になっているという悲しみ。

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   1.3時を過ぎて(英キャロル)   2.神の子は今宵しも(18th)
 3.ディンドン (仏キャロル)       4.木枯らしの風は吠え(ダーク)
   5.シンフォニア(バッハ)       6.昔、ダヴィデの村に(ゴーントリット)
   7.サセックスキャロル        8.何とかぐわしい(仏キャロル)
   9.御子がお生まれに(仏キャロル)       10.キリストの幼児から(ベルリオーズ)
  11.サン・ファミーユの休息(ベルリオーズ)    12.薔薇の花がほころんだ(プレトリウス)
  13.きよしこの夜            14.静かに、静かに(独キャロル)
  15.イエスのために(プレトリウス)        16.ひいらぎと蔦は(英キャロル)
  17.聖なる3博士(コルネリウス)             18.明日が私が踊る日(英キャロル)
  19.神の子イエスさま(カートパトリック)  20.パーソナント・ホディ(独キャロル)
  21.もろびと声をあげ(独キャロル)22.りんごの木なるイエス(ボストン)
  23.あめにはさかえ(メンデルスゾーン)
       
       教会の鐘:聖バーロソミュ教会、クルカーン、サマセット州

      S:ジョシュア・ローズマリー
      T :イアン・ボストリッジ
      Br:ジェラルド・フィンリー

   サー・ネヴィル・マリナー指揮

  アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

        (1994.1.4~8 @セント・ジョンズ教会、ロンドン)

本格的なクリスマスアルバムです。
伝統的な英仏独のクリスマスキャロルを中心に、中世からバロック期の作品、バッハやメンデルスゾーン、ベルリオーズといった本格クラシカル作曲家のクリスマス作品を一堂に集めた1枚。

正直いって渋いです。
キラキラしたクリスマスのイメージを期待すると100%裏切られます。
ヨーロッパでずっと聴かれ、歌われてきた人々の伝統あるクリスマス音楽。
アメリカの楽しくワクワクするようなクリスマス音楽、日本の商業主義におかされたその場だけのメリークリスマスとはまったく異なる世界がここにありました。
マリナーとアカデミーだから、楽しくさわやかなものなのだろうと思い込んでいたら大間違いでした。

CDの冒頭と最後に、教会の清らかな鐘の音がおさめられてます。

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 聖バーソロミュー教会、いかにも英国国教会の厳かな雰囲気

滋味あふれる優しいマリナー卿に導かれ、心休まる静かなクリスマスが過ごせました。
イブや、クリスマス当日の家人が寝静まった夜更けに、しずかに聴くに限ります。
たいへんなこと、嫌なことばっかりあった年だなぁ、と思いつつも、こうして静かなクリスマスと年末を安全に過ごすことのできる幸せをかみしめることができました。

お馴染みの定番の曲も、ここでは手作り感さえ感じる温もりの優しさにあふれてました。
バッハのクリスマス・オラトリオ、ベルリオーズのキリストの幼児も、いずれもサワリにすぎませんが、充足感あふれる素晴らしい演奏です。

マリナー卿が亡くなって、もう8年ですが、たくさんあるマリナーの録音の数々、まだ聴いていない音盤もたくさんあります。
それらのうちの1枚でした。
マリナーは、アンダーソンや定番クリスマスソングなど、フィードラーやオーマンディらが何度も録音した、いわゆる「クリスマス・アルバム」を意外にも録音しませんでした。
膨大なレコーディングを残したマリナー卿の以外な一面ですが、それもまたマリナーらしいところなのかもしれません。

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まだ手にしていないマリナーの音盤で、来年の目標としては、ハイドンのネイムズシンフォニー全曲、シューベルトの交響曲全集、シューマンの交響曲全集、モーツァルトの交響曲の後半、セレナーデなど、たくさん、たくさんあります。
思えば、未聴のマリナーがあることの楽しみよ。

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よきクリスマスを🎄

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2024年12月21日 (土)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ノット&東響

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サントリーホール、カラヤン広場のクリスマスツリー。

この日は、ジョナサン・ノットと東京交響楽団のR・シュトラウスのオペラシリーズ第3弾にして最終回、「ばらの騎士」を観劇。

17時に開演して、20分休憩を2回はさんで、再びこのツリーの横を通ってホールを出たのは21時30分になってました。
カットなしの完全版で、コンサート形式での簡易なオペラ上演は、これまでの2作と同じくして、サー・トーマス・サレンの演出監修によるもの。

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これまでの2作もタイトルロールに世界ナンバーワンの歌手を据え、他役も超一流で固めた、まさにノット監督の人脈をフルに活かした配役による上演でした。
サロメにグリゴリアン、エレクトラにガーキーと、いずれもいまでもその歌声は耳にこびりついている。
今回の配役も実に素晴らしい布陣です。

結論から申しますと、多く観劇してきた「ばらの騎士」の上演・演奏のなかで、いちばん鮮烈な感銘を受けることとなりました。

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 R・シュトラウス 「ばらの騎士」

  マルシャリン:ミア・パーション 
  オクタヴィアン:カトリオーナ・モリソン
  ゾフィー:エルザ・ブノワ         
  オックス男爵 :アルベルト・ペーゼンドルファー
  ファーニナル:マルクス・アイヒェ 
  マリアンネ、帽子屋:渡邊 仁美
  ヴァルツァッキ:澤武 紀行
  アンニーナ:中島 郁子

  ヴァルツァッキ:デイヴィツト・ソー    
  歌手:村上 公太

    警部、公証人:河野 鉄平
  執事(元帥家)、料理屋の主人:高梨 英次郎
  動物売り、執事(ファーニナル家):下村 将太
  3人の孤児:田崎 美香、松本 真代、田村 由貴絵
  モハメッド役:越津 克充

 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団

   演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2024.12.13 @サントリーホール)
  

満席のホール、いつものように颯爽とあらわれ、さっと指揮を始めると、高揚感たっぷりのホルンで素晴らしい音楽ドラマの幕が開く。
左手に二人掛けソファ、右手はテーブルに2脚の椅子、ステージ右奥には衝立。
これだけが舞台装置で、歌手たちはこれらの椅子に腰かけつつも、基本はほとんど立ちながらの演技で歌う。

「ばらの騎士」は、あらゆるオペラの中で、5指に入るくらいに好きで、その舞台もたくさん見ておりますが久々の実演。
かつて「ばら戦争」といわれ、短期間に「ばらの騎士」がいくつも上演されたときがあり、まだ若かった自分、いろんな意味でのゆとりもあり、そのほとんどを観劇し、来る日も来る日も「ばらの騎士」の音楽が頭のなかを渦巻いていたものでした。
2007年のこと、あれからもう17年が経過し、脳裏を「ばらの騎士」がよぎり続ける日々がまた再び来ようとは・・・・

素晴らしいオーケストラ、素晴らしい歌手たち、集中力の高い聴衆、これらすべてが完璧に決まりました。

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サロメとエレクトラで、巨大編成のオーケストラを存分に鳴らしまくり、ワーグナーの延長とその先にあるシュトラウス・サウンドを堪能させてくれたノットと東響。
エレクトラからわずか2年後の1910年の「ばらの騎士」は、歴史絵巻の素材から、18世紀に時代を移し、音楽は、軽やかで透明感あふれるモーツァルトを意識した世界へと変貌。
ホフマンスタールとの膨大な往復書簡のなかで述べているように、「フィガロの結婚」を前提としても書いている。
そのホフマンスタールも、メロディによる台本の拘束は、モーツァルト的なものとして好ましく、我慢しがたいワーグナー流の際限のない、愛の咆哮からの離脱を見る思い、だと書いてました。
ワーグナー好きの自分からすると、なにもそこまで言わなくても、とホフマンスタールに言いたくはなりますがね・・・
しかしシュトラウスは台本に熱中し、台本が完成するより先に作曲を進めてしまったくらいに打込んだ。

モーツァルトの時代には存在しなかったワルツが随所に散りばめられ、それはこのオペラの大衆性をも呼び起こすことにもなりますが、その数々のワルツをふるいつきたくなるくらいに、まるで羽毛のように軽やかに演奏したのがクライバー、ゴージャスに演奏したのがカラヤン。
しかし、ノットはワルツでもそのように、ワルツばかりが突出してしまうことを避けるかのように、シュトラウスが緻密に張り巡らせた音楽の流れのなかのひとコマとして指揮していたように思う。
うつろいゆくシュトラウスの音楽の流れをあくまで自然体で、流れるように聴かせてくれ、近くで歌う歌手たちとのコンタクトもとりつつ、歌い手にとっても呼吸感ゆたかな安心できるオーケストラ。
シュトラウスの千変万化する音楽の表情を、ノットは巧まずして押さえ、東響から導きだしていたと思う。
その東京交響楽団が、先日の影のない女でも痛感したように、シュトラウスの煌めくサウンドと名技性とを完璧に演奏しきっていて、我が国最高のシュトラウスオケと確信。
是非にもCD化して世界に広めて欲しい。
 多くの聴き手と同じように、3幕での3重唱の高揚感と美しさには、美音が降りそそぐようで、あまりの素晴らしさに涙が頬を伝うのを止められず・・・
音源で聴いていると、女声3人の歌声でスピーカーがビリついてしまう録音もあるくらいだが、ライブでの演奏ではそんな不安はこれっぽちもなく、まさに心の底から堪能しました。

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5人の主要歌手たち、脇を固めた日本人歌手たち、いずれの皆様、賛辞の言葉を尽くしてもやむことができないほどに素晴らしかった。

驚きの素敵な歌唱とその立ち居振る舞いをみせてくれたミア・パーションのマルシャリン。
モーツァルト歌手としての実績のみが頭にあり、こんなに大人のそして優しさと哀しみを表出できる歌手だったとは!
声量も充分で、ホールに響き渡るその澄み切った声は、北欧の歌手ならではで、クセのない揺れのほとんどないクリアボイスで歌われる1幕のモノローグには、もう涙を禁じえなかった。
これでドイツ語のディクションにさらなる厳しさも加わったらより完璧。
いまこれを書きつつ、外をみると風に散る枯葉が舞ってました。
彼女の歌とノットの作りだしたあの儚い場面を思い出し、そしてこれまで観てきたマルシャリンたちの1幕の幕切れのシーンをも回顧して、なんとも言えない気持ちになってきたのでした。。。
ゾフィーが持ち役だった彼女が、こうしてマルシャリンに成長してきたその姿は、まるでかつてのルチア・ポップを思い起こす。
もしかしたら、きっとマドレーヌも素晴らしく歌ってくれるのでは・・・

会場を驚かせた歌手、オクタヴィアンのモリソンは、この日がオクタヴィアンの初ロールだということ。
豊かな声量と安定感あるメゾの領域は、これまた驚きの連続でした。
これで軽やかさが加わったたら最強のオクタヴィアンになるかもです。
気になって手持ちの録音音源を調べたら、ピッツバーグでモツレク、BBCでスマイスのミサ曲などを歌ってました。
フリッカも歌い始めたようなので、マーラーの諸曲も含めて、今後期待大の歌手です。

対するゾフィーのフランスのソプラノ、ブノワも実にステキでして、そのリリカルな声は、薔薇の献呈の場では陶酔境に誘われるほど。
まさにこれが決り、最終シーンでもうっとりさせていただきました。
一方で、現代っ娘的な意思の強さも歌いだす強い声もあり、幅広いレパートリーをもつこともうなづけます。
オクタヴィアンとゾフィーの2幕におけるヴァルツァッキ達の踏込み前までの2重唱、このオペラでもっとも好きな音楽のひとつですが、これもまた天国級の美しさなのでした。

大柄なオーストリアのバス、存在感たっぷりのペーゼンドルファー。
ハーゲン役として音源や映像でいくつか聴いていたが、初の実演は、深いバスでありながら小回りの利く小気味よさもありつつ、上から下までよく伸びるその声、実に美声で破綻なく安心の2幕のエンディングでしたね。

多くの録音やバイロイトのライブでもおなじみのアイフェのファーニナル。
暖かく人のよさのにじみ出たアイフェのバリトンは、現在、最高のウォルフラムやグンターだと思いますが、貪欲な市民階級の役柄を歌わせても、どこか憎めず、いい人オジサンにしてしまう。
性急なまでに貴族へのステップアップを狙い、一目を気にする小人物であるが、憎めない、最後は娘の幸せを願う父親に。
そんなファーニナルを見事に歌い演じるアイフェでした。

せんだって、ヴェルデイのレクイエムで見事なソロを聴いた中島さんのアンニーナ、ここでも充分に存在感を示してまして、小回り効く澤武さんのヴァルツァッキとともに、狂言回しとして、このオペラになくてはならない役柄であることを認識できました。
テノール歌手の村上さんも、驚きの渾身の美声で、ステージ上の登場人物たちもまさに聞惚れるほど。
刑事コロンボのようなコートをまとった警部の河野さんも、役柄にはまった歌唱と演技で、オクタヴィアンの投げる衣装を受け取る姿もまた楽しい場面でした。
そしてもったいないくらいの渡邊仁美さんのマリアンネも、舞台を引き締める役割をそのお姿でも担いました。

モーツァルトシリーズからシュトラウスまで、演技指導の名歌手トーマス・アレン卿の手際のいい仕事は、制約の多いコンサートスタイルにおいても、簡潔で納得感あるものです。
これだけ有名なオペラになると、大方の場面は、こちらの想像力で補うことができるからこれでいいのです。
3幕の悪戯の仕掛けなど、客席も使ってみた方がおもしろいかも、とは思ったりもしましたが、登場人物たちが、指揮者やオケの奏者たちに絡んだりする場面などユーモアたっぷり。
モハメド君のハンカチ拾いも、定番通りでよかったです。

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歳を経た自分が、元帥夫人に共感し、思い入れも以前にもまして深めてしいます。
日々揺れ動く気持ち。
自分を見つめることで、いまさらに時間の経過に気付く。
自戒と諦念、そして、まだまだだと、あらたな道へと踏み出す勇気を持つべしとも思う自分。


こんな儚い気持ちを感じさせてくれるドラマに、シュトラウスはなんてすばらしい音楽をつけてくれたものだろうか。
シュトラウス晩年の「カプリッチョ」にも人生の岐路に差し掛かった自分は、格段に思い入れを感じる今日この頃。。。

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過去記事 舞台観劇

 「新国立劇場 シュナイダー指揮」

 「チューリヒ歌劇場 W・メスト指揮」

 「ドレスデン国立劇場 ルイージ指揮」

 「県民ホール 神奈川フィル 沼尻 竜典指揮」

 「新日フィル コンサート形式 アルミンク指揮」

 「二期会 ヴァイグレ指揮」

過去記事 音源・映像

 「バーンスタイン&ウィーンフィル」
 
 「ドホナーニ&ウィーンフィル」

 「クライバー&バイエルン国立歌劇場」

 「ギブソン&スコティッシュ、デルネッシュ」

 「ビシュコフ&ウィーンフィル」

 「クライバー ミュンヘンDVD」

 「ラトル&メトロポリタンオペラ」

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手持ちの映像から、ガーシントン・オペラでのパーションの元帥夫人。
この演出がお洒落でセンスあふれるものでした。
数回目のシュトラウスのオペラ全作シリーズ、次は「ばらの騎士」を予定してまして、そこで音源や映像の数々をレビューしたいと思います。

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2024年12月10日 (火)

3つのシンフォニエッタ(風の作品)

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隣町にある厳島湿生公園のイルミネーション🎄

厳島神社を島として取り囲むような泉があり、そこは清水が湧いていて古くから野鳥や生物の住む湿性池となってます。

奥に見えるのは大山で、丹沢からの清らかな水系がこの町にも流れてます。

シンフォニストとしてその時代の先端を走ったマーラー(1860~1911)、オーケストラ音楽を極め、オペラ作曲家としてワーグナー後の大家となったR・シュトラウス(1864~1949)。
このふたりの大物と同時代か次の世代の作曲家3人のシンフォニエッタないしは、シンフォニエッタ的な作品を聴きます。

 ・ツェムリンスキー (1871~1941)
 ・シュレーカー   (1873~1934)
 ・コルンゴルト   (1897~1957)

この3人、いずれもユダヤ系であることから戦渦においては大きすぎる影響を受けていることも共通するが、ともにオペラ作曲家でもあったことが共通。
コルンゴルトだけ、年代が少しあとだが、そのため師匠はツェムリンスキーだったりする。
3人ともに、生前は大きく評価され作曲家として、また演奏家として大人気だったし、コルンゴルト以外は教育者でもあったので、弟子筋も多岐にわたっている。

そしてシンフォニストとしてはどうだったかというと、3人ともに本格的な交響曲をいくつも書くタイプではなかった。
・ツェムリンスキー 交響曲第1番、第2番、「抒情交響曲」
・シュレーカー   交響曲op1
・コルンゴルト   交響曲 嬰ヘ長調
ツェムリンスキーには2曲の本格交響曲があるけれど、ちょっとイマイチで、後年の充実期の素晴らしい声楽交響曲の抒情交響曲にはおよばない。
シュレーカーの作品も習作的な雰囲気を出ないがシュレーカーの匂いはする。
そしてコルンゴルトの交響曲はウィーンを出てアメリカに渡ったあと、またウィーンでひと花・・という時期だけにJ・ウィリアムズにも影響を与えたゴージャスシンフォニーだ。

交響曲は3人に濃淡あれど、シンフォニエッタ的な作品は、いずれもそれぞれの特徴が満載で実にステキなものだ。
最近、この3つの作品の演奏頻度があがっていて、海外ネット配信でたくさん聴けてます。
やはりマーラー後の音楽、シンフォニー作品に聴き手の裾野が広がっている。
作曲年代順に。

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     コルンゴルト シンフォニエッタ op.5  (1912)

  ヨン・ストゥールゴールズ指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニック

                     (2011.8.10 @ヘルシンキ)

もう大好きすぎて、音源はほぼ持ってます。
演奏会でも2度経験、いつもつい聴いてしまうし、過去記事もたくさん。
同じことばかり書いてるので、コピペします。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、天才出現の驚きを持って聴衆に迎えられる。
14分あまりの大作で、のちのアメリカ時代の「交響曲」の片鱗をうかがうこともできる佳作。
そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲。
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、この大きな規模。
完成は、1913年、16歳のときにワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。


シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。
本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴り、決め所の随所で響きます。
大胆な和声と甘味な旋律の織り成すこの音楽は、このあとのシュレーカーやツェムリンスキーの作品よりも、ある意味先を行っているともいえます。
ハープ、チェレスタ、鉄琴、ピアノなどの多用は、ほかのふたりと同じく、やはり当時、いかに珍しかったか興味深い。
のちにハリウッドで活躍するコルンゴルトのその下地がすでに出来がっているし、オペラ作曲家としてのドラマの構成力もここでは十分に発揮されている。
楽天的ではありますが、ともかく、ワタクシを幸せな気持ちにしてくれる、ほんとにありがたい音楽です。
いまの時期のクリスマスイルミネーションにぴったり。

フィンランドの指揮者ストゥールゴールズは、お国もののシベリウスを当然に得意にしているけれど、マーラー以降の後期ロマン派から世紀末系の音楽もさかんに指揮して録音も残してます。
最近ではBBCフィルの指揮者としてショスタコーヴィチを連続して取り上げて評価をあげてます。
ヘルシンキフィルのコルンゴルトとは珍しいと思い、カップリングの「空騒ぎ」との2枚組、興味津々で聴いたものですが、これがどうして、軽やかで、そしてコルンゴルトに必須の煌めきと、近未来風サウンド、イケイケ風の明るいドタバタ調など、さらにはウィーン風の軽やかなワルツなど、ともかく普通に素敵にコルンゴルトしてるイケてる演奏だったのでした。
10年以上を経過し、ストゥールゴールズには、いまの手兵BBCフィルともう一度やって欲しい。

この曲の海外ネット放送も、いくつも聴いてます。
注目の女性指揮者、マリー・ジャコーの指揮するウィーン響の今年の録音は、ウィーンのオケだけに、そしてフランスの指揮者だけに実に敏感かつしなやかな演奏。
ジャコーは、デンマーク国立菅の指揮者であり、ウィーン響の首席客演、次期ケルンWDR響の指揮者になることが決ってます。
 あと、次期といえば、東京交響楽団のノットのあとの指揮者、ロレンツォ・ヴィオッテイがやはりウィーンのオケ、ORF放送響との2018年ライブも愛聴していて、こちらもヴィオッテイ向きの作品なので、リズム感あふれる躍動感とキラキラ感がよろしいのです。
さらにはライブ録音としてはコンロンとケルンのものも、コンロンお得意の分野だけあって素晴らしい聴きものでしたね。
いやぁ、ほんとこの曲好き💛

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   シュレーカー 室内交響曲 (1916)

 クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 @コンツェルトハウス、ベルリン)


オペラばかりを追いかけて聴いてきた私にとって、シュレーカーの「室内交響曲」は、やや遅れて自分にやってきた存在。
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、そのオペラの濃密な世界に通じるような、かつ明滅するような煌めきの音楽。

文字通り1管編成の室内オーケストラサイズの編成で、最低人数は24人とありながら、打楽器各種、ピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが加わっているので、余計に近未来的煌めきサウンドとなっていて、まさにシューレーカーの目指した音の色を感じることができる。
のちにオケの編成を広げてシンフォニエッタに改編する意向もあったこともうなずける音楽。

1916年ウィーン音楽院の創立100年を記念しての作品で、初演は翌年1917年3月にシュレーカーの指揮でウィーンのムジークフェラインにて。
あの黄金のホールで、この曲が初演され、どう響いたか、思うだけでうっとりしてしまう。
単一楽章ながら、連続する4つの章からなり、交響曲の形式を保っている。
1915年に着手され未完のままになったオペラ「Die tönenden Sphären」(単純に訳すと「音の出る球体」)からの引用がなされていて、さらには、このあとの「烙印を押された人々(1918)」を先取りする旋律も感じるほか、「はるかな響き」「音楽箱と王女」にも通じる旋律も私は聴いてとれた。
シェーンベルクが「室内交響曲」をマーラーが活躍中の時分、1906年に書き、それは交響曲の新たな姿やあり方のひとつを示してみせたわけだが、同じ室内交響曲としても、シュレーカーの方には革新性は少なめで、先に書いた通り、音色と色彩に光をあて、さらにはオペラ作曲家としての歌やドラマをも求めた交響曲となったと思う。

エッシェンバッハの演奏は、完璧なもので、指揮者の特性と音楽が合致したもの。
録音も最新のものだけあって素晴らしい。
CDではこの盤のみの保有ですが、シュレーカーの代表曲だけあり、色々出てます。
最近の海外演奏では、マーク・エルダーの指揮によるものが出色だった。

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  ツェムリンスキー シンフォニエッタ op.23   (1934)

 ジェイムス・ジャッド指揮 ニュージーランド交響楽団

       (2006.6 @ウェリントン)

友人であり義理の兄弟でもあったシェーンベルクが1934年にアメリカに逃れ、その年にツェムリンスキーはプラハやベルリンから活動拠点をウィーンに移し、そしてこのシンフォニエッタを完成。
1935年にプラハで初演後、作者の指揮でウィーンを始め各地で演奏。
しかし、1938年にツエムリンスキーはアメリカへの亡命を決意し、ニューヨークに移住。
シェーンベルクは西海岸のロサンゼルスで名声を博していたのに比し、ツエムリンスキーはまったく忘れ去られた作曲家として埋没してしまうが、1940年の暮れに、ミトロプーロスがニューヨークフィルでこのシンフォニエッタをアメリカ初演を行い、成功を収める。
友人をずっと気にかけていたシェーンベルクは、西海岸でのこの曲の演奏会を聴き、ツエムリンスキーを励まし、これでアメリカでの成功の始まりとなることを願いますと手紙を書いた。
しかし、悲しいことに、病気がちだったツエムリンスキーは、その数日後に亡くなってしまう。

「非常に重く」「一定の歩調でと記されたバラード」「ロンド・非常に元気よく」
この3つの楽章からなるが、2楽章では、作品13(1910年)のメーテルリンク歌曲集の最終章が引用されている。
この章は、「城に来た・・」というタイトルで、王が王妃に、どこへ行く?夕暮には気をつけてと問う内容で、とても寂しく暗に別れを歌う内容。
この音楽がそのまま2楽章では使われていて、ナチス台頭で身の置き所に不安を感じていたツエムリンスキーのこのときの心情そのものです。
淡々としつつも、哀しみと死の影を感じるこの音楽は深いです。
1楽章では、先だって取り上げたクルト・ヴァイルを思わせる辛辣な雰囲気もあり、終わりの方では次にくるメーテルリンク歌曲のさわりも出てくる。
3楽章は、明るいなかにも陰りあり、そしてツエムリンスキーが後半生で強く打ち出したエキゾシズム満載で忘れがたいリズム感もあり。
来年には取り上げたい、この頃に作曲されたオペラ「白墨の輪」の音楽の雰囲気も感じます。

「人魚姫」とカップリングされたジャッド指揮によるCDは、とても明快で録音もよく、この作品に馴染むにはまったく問題ないです。
手持ちの音源には、コンロン、ピンチャー、P・ハーンなどの演奏会録音もありますが、ネット録音したベルンハルト・クレーの演奏が一番いい。1980年録音のコッホ・シュヴァン盤で入手難です。

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3人の作品をこうして何度も聴いて思ったこと。

3人は無調(すれすれまで行った作品もあるけど)や、12音、過度の表現主義や新古典主義にも向かわず、後期ロマン派の流れを忠実に汲み、そこにとどまったのだということ。

そして、あの時代のユダヤの出自という宿命が、かれらの音楽の次の可能性を狂わせてしまった。

でも、いまを生きるわたしたちには、彼らの作品をこうしてちゃんと聴くことができる時代になったこと、このことが幸せなのです。

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 コルンゴルト シンフォニエッタ 過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

 「アルブレヒト指揮 ベルリン放送響」

 「寺岡 清高 指揮 フィルハーモニック・ソサエティ・東京 演奏会」

 シュレーカー 室内交響曲 過去記事

 「はるかな響き 夜曲 エッシェンバッハ指揮」


 ツェムリンスキー シンフォニエッタ 過去記事

 「大野 和士 指揮 東京都交響楽団 演奏会」

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2024年12月 1日 (日)

プッチーニ 「トスカ」 レッシーニョ指揮

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 昨年にオープンの港区の麻布台ヒルズ。

近くの役所まで行く用事があり寄ってみましたが、クリスマスイルミネーションはこの日の翌日からで、スタッフが慌ただしく準備中のところを拝見しました。
都会から離れてしまったので、早々に行けないけれど、夜はさぞかし奇麗だろうなぁ。

さて、2024年11月29日は、プッチーニの没後100年の命日にあたりました。

1858年12月22日生まれ、1924年11月29日没。

いうまでもなく、最後のオペラ「トゥーランドット」を完成することなく、咽頭がんの手術も功を奏さず亡くなったのが100年前。
ちなみに、ワタクシは、プッチーニの100年後に生まれてます。

中学生のとき、NHKがプッチーニのテレビドラマを放送して、わたしは毎回楽しみにして観たものです。
かなりリアルにそっくりで、吹き替えの声は高島忠夫だった。
中学生ながらに思ったのは、プッチーニがずいぶんと恋多き人物で、ハラハラしたし、またあらゆるものへのこだわりが強く、妥協を許さず、ちょっとワガママに過ぎる人だな、、、なんてことでした。
トゥーランドットのトスカニーニによる初演もリアルに再現され、リューの死の後、悲しみにつつまれるなか、トスカニーニが聴衆に向かって、「先生が書かれたのはここまででした・・」と語る場面で泣きそうになってしまった。

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  プッチーニ 「トスカ」

   トスカ:ミレッラ・フレーニ
   カヴァラドッシ:ルチアーノ・パヴァロッティ
   スカルピア:シェリル・ミルンズ
   アンジェロッティ:リチャード・ヴァン・アラン
   堂守:イタロ・ターヨ
   スポレッタ:ミシェル・シェネシャル
   シャローネ:ポール・ハドソン
   看守:ジョン・トムリンソン
   羊飼い:ワルター・バラッティ

  ニコラ・レッシーニョ指揮ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団
              ロンドン・オペラ・コーラス
              ワンズワース少年合唱団

      (1978.6  @キングスウェイホール、アルバートホール)

これまで「トスカ」を記事にしたことが限りなく多く、最後にリスト化してますが、没後100年にも、やはりこのオペラを選びました。
プッチーニのオペラ、基本、ぜんぶが好きなのですが、いまは「ラ・ロンディーヌ」が一番好き。
でも、初めてのプッチーニは、「ボエーム」や「蝶々さん」よりは「トスカ」だった。

何度も書いてて恐縮ですが、1973年のNHKホールのこけら落としに招聘された第7次イタリアオペラ団の演目のひとつが「トスカ」。
「アイーダ」「トラヴィアータ」「ファウスト」と併せて4演目、中学生だった自分、すべてはテレビ観劇でした。
ライナ・カヴァイヴァンスカ、フラビアーノ・ラボー、ジャン・ピエロ・マストロヤンニの3人で、指揮は老練のファヴリティース。
演出は伝統的なブルーノ・ノフリで、その具象的な装置や当たり前にト書き通りの演技、初めて見るトスカとしては理想的でしたし、なんといっても赤いドレスの美人のカヴァイヴァンスカの素晴らしい演技に、子供ながらに感激しましたね。

以来、トスカは大好きなオペラとして数多くの音源や映像を鑑賞してきましたが、そんななかでも、いちばん耳に優しく、殺人事件っぽくない演奏がレッシーニョ盤。
久しぶりに聴いても、その印象です。

デッカにボエーム、蝶々夫人とカラヤンの指揮で録音してきたフレーニとパヴァロッティのコンビ。
数年遅れて、デッカが録音したが、指揮はカラヤンでなく、生粋のイタリアオペラのベテラン指揮者レッシーニョとなった。
当時、わたくしはちょっとがっかりしたものです。
この録音は78年で、カラヤンは翌79年に、DGにベルリン・フィルと録音。
ザルツブルクがらみでなく、フィルハーモニーでのスタジオ録音で、こちらはリッチャレッリとカレーラスを前提とした商業録音だったので、レーベルの関係なのか、カラヤンの歌手の人選にこだわったのか、よくわかりません。

しかし、じっくりと聴いてみて、この歌手たちであれば、カラヤンでなくてよかったと、いまも思います。
カラヤンならリリックなふたりの主役を巧みにコントロールして、見事なトスカを作り上げるとは思いますが、カラヤンのイタリアオペラに感じる嵩がかかったようなゴージャスなサウンドは、ときにやりすぎ感を感じることもある。
マリア・カラスが好んだレッシーニョ。
イタリア系のアメリカ人ではありますが、アメリカオペラ界の立役者で、全米各地にオペラ上演の根をはったことでもアメリカでは偉大なオペラ指揮者と評されてます。
もちろんカラスとの共演や録音が多かったのが、その名を残すきっかけではありますが、それのみが偉大な功績となってしまった感があります。

歌を大事にした、オーケストラが突出しない流麗な「トスカ」。
このようなオペラ演奏は、最近あまりないものだから、ある意味新鮮だった。
3人の主役たちのソロに聴くオーケストラが、いかに歌を引き立て、歌詞に反応しているか、とても興味深く聴いた。
一方で、プッチーニの斬新なサウンドや、ドラマテックな劇性がやや後退して聴こえるのも確かで、ここではもっと、がーーっと鳴らして欲しいという場面もありました。
当時、各レーベルで引っ張りだこだったロンドンの腕っこきオーケストラ、ナショナルフィルは実にうまいものです。

フレーニとパヴァロッティ、ふたりの幼馴染のトスカとカヴァラドッシにやはりまったく同質の歌と表現を感じます。
嫉妬と怒り、深い愛情と信仰心で、トスカのイメージは出来上がっていますが、フレーニのトスカはそんなある意味、烈女的な熱烈な存在でなく、もっと身近で、優しく、ひたむきな愛を貫く女性を歌いこんでいる。
1幕で、マリオと呼びながらの登場も可愛いし、教会の中で嫉妬に狂う場面もおっかなくない。
「恋に生き歌に生き」は、心に響く清らかな名唱です。
ラストの自死の場も無理せず、フレーニらしい儚い最後を感じさせてくれた。

ヒロイックでないパヴァロッティのカヴァラドッシも、丁寧な歌い口で、あの豊穣極まりない声を楽しむことができる。
この頃はまだ声の若々しさを保っていて、テノールを楽しむ気分の爽快さも味わえました。

わたしには、スカルピアといえば、ゴッピだけれど、それ以外はミルンズであります。
役柄にあったミルンズの声は、ここではときに壮麗にすぎて、厳しさや悪玉感が不足しますが、やはりテ・デウムにおけるその歌唱には痺れますな!

当時、超大ベテランだった、イタロ・ターヨの妙に生真面目な堂守や、脇役の定番シエネシャルも味わい深く、のちに大成するトムリンソンがちょい役で出てるのも楽しいものだ。

アナログ最盛期のデッカ録音、プロデューサーは、ジェイムス・マリンソン。
エンジニアリングにケンス・ウィルキンソンとコリン・ムアフットの名前があり、この頃のデッカならではの優秀録音が楽しめました。
キングスウェイホールとヘンリ・ウッドホール、響きのパーシペクティブや音の芯の強さではキングスウェイホールが、ほかのレーベルの録音でも好きなんですが、おそらく1幕はキングスウェイホール。

この時期のレコード業界はまさに黄金期でした。

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 「トスカ」過去記事

「マゼール指揮 ローマ聖チェチーリア」

「シュタイン指揮 ベルリン国立歌劇場」

「シャスラン指揮 新国立劇場」

「カリニャーニ指揮 チューリヒ歌劇場」映像

「T・トーマス指揮 ハンガリー国立響」

「コリン・デイヴィス指揮 コヴェントガーデン」

「マゼール指揮 ローマ聖チェチーリア」独語ハイライト

「テ・デウム特集」

「メータ指揮 ニュー・フィルハーモニア」

「没後100年」

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カヴァイヴァンスカのトスカ(1973年 NHKホール)

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2024年11月28日 (木)

ヴァイル 交響曲と7つの大罪 マルヴィッツ指揮

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横浜のランドマークタワーのツリー。

今年の横浜は、ベイスターズ日本シリーズ優勝もあり、ブルー系のカラーで包まれてます。

半世紀あまりにおよぶ横浜大洋DeNAホエールズベイスターズのファンであるワタクシ。
前回のリーグ優勝は甲子園で立ち会えたし、そのときの日本シリーズも球場には入れなかったものの、近くで応援。
もう若くもないので、今回は冷静にテレビ観戦で、じんわりくる喜びをかみしめました。

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横浜はあかぬけた都会だけれども、東京とはまったく違う、ちょっとローカル感もある都会。

あか抜けた都会に憧れ田舎から出てきた娘の物語・・・クルト・ヴァイルの「7つの大罪」を真ん中に据えた見事なアルバムを聴きました。

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 クルト・ヴァイル (1900~1950)

  交響曲第1番「ベルリン交響曲」(1921)

  バレエ「7つの大罪」(1933)

  交響曲第2番 「交響的幻想曲」(1933)

  ヨアナ・マルヴィッツ指揮
         ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団 


   アナ1とアナ2:カタリーネ・メールリンク
   家族:マイケル・ポーター、ジーモン・ボーデ
      ミヒャエル・ナグル、オリフェール・ツヴァルク

            (2024.1.3~5、2.5~7 @コンツェルトハウス、ベルリン)

ヨアナ・マルヴィッツのDGへの本格録音の第1弾。
マルヴィッツは、私が以前より注目していた指揮者でして、幣ブログでも2度ほど記事を起こしてます。
ヴァイオリンとピアノを学び、ピアニストとしてスタートしたあとは、オペラハウスで指揮者として各地の劇場で活躍。
ニュルンベルク州立劇場の音楽総監督を2018年から6年間つとめ、そこでオペラ・コンサートのレパートリーを拡充し、オーケストラも躍進した。
そしてエッシェンバッハのあとを受けて、ベルリン・コンツェルトハウス管の芸術監督に2023年に就任してDGとも契約。
バイロイトへの登場も必ずあるし、欧米各地のオーケストラに客演中のなか、手兵と日本にも1~2年内にはやってくると思います。
その際には、お願いだから名曲路線や人気日本人ソロとの共演でなく、本格的なプログラムでやってきて欲しい!
これ、ほんと切実に思う、昨今の外来オケの演目は悲しすぎるから・・・・

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ご多分に漏れず、ユダヤ系であった戦中を生きたドイツ人作曲家、クルト・ヴァイルは多難な50年の短い生涯だった。
ブレヒトとの「三文オペラ」(過去記事あり)ばかりが有名なヴァイルだけれど、それ以外の本格作品はあまり聴いたことがなかった。
印象として、晦渋な雰囲気を常に持っていて、プフィッツナー、ブゾーニ、ヒンデミット、アイスラーなどとともに、どうも苦手意識を持ってました。
そんな思いを一掃、というわけにはいかないけれど、交響曲とアイロニーに満ちた声楽付きバレエを聴いて、ヴァイルという作曲家の時代ごとの変遷や、オーケストラ作品としての面白さなども実感できました。

20歳の交響曲第1番、ブゾーニの弟子であった頃で、同じころには弦楽四重奏やピアノ作品なども書いている時期。
マーラーやシュトラウス、無調の影響、さらにはシェーンベルクやシュレーカーなどを思わせる雰囲気があり、現代人の耳みは案外と聴きやすいし、あとベルクの退廃と甘味の響きも感じた。
単一楽章ではあるが、このCDでは4つのトラックに分割されていて、交響曲の体を立派になしていることもわかる。
不協和音も心地よく感じられ、とっつきの悪さよりは、辛辣さが交響曲の形式をまとった結果がそうなったのだと思われた。
マルヴィッツによると、この楽譜はイタリアの修道院に保管され、道女たちがそれを隠し、ユダヤ人の手によるものとわからないように最初のページは切り取られていたそうだ。
生前は演奏されず、初演は1957年に、N響でお馴染みのシュヒターの指揮だった。
表現主義詩人のロベルト・ベッヒャーの劇と関連付けられているとされるが、ヴァイルはそのことに関してスコアや文章になにも残していないとされる。
私は2番よりも1番の方に魅力を感じ、曲の最後に平和なムードが一瞬でも訪れる場面が気にいった。
ヴァイルは、本格作品を書くかたわら、困窮から作曲や音楽学を教え、その門下には、クラウディオ・アラウやアブラヴァネルがいることも、歴史のひとコマとして興味深いです。

やがてヴァイルは1幕もののオペラなど、劇作品も書くようになり、ロッテ・レーニャにも出会う。
ブレヒトと共同で、乞食オペラの改作「三文オペラ」を書いたのが1928年。
人気のあがったヴァイルは、ナチスに目を付けられ、ドイツでの活動に不自由さを感じパリへ向かった。
パリで合流したブレヒトと、裕福な英国人から委嘱を受け、歌うバレエ「7つの大罪」を作り上げたのが1933年で、同年にシャンゼリゼ劇場で初演。そのときの指揮者がモーリス・アブラヴァネルで、ソプラノも妻となったロッテ・レーニャ。

7つの都市を1年間づつ滞在し、遍歴する女性の物語で、アナというこの女性は分身のようなふたつの性格を持ち、「『罪人』に内在する相反する感情を伝えるために、ブレヒトはアンナの性格を、実用感覚と良心を持つ冷笑的な興行主のアンナ1世と、感情的で衝動的で芸術的な美しさを持ち、非常に人間的な心を持つ売れっ子のアンナ2世に分割した」。
姉妹は、ミシシッピ州のルイジアナから出て、幸運を求めて大都会を遍歴、メンフィス、ロス、フィラデルフィア、ボストン、テネシー、ボルティモア、サンフランシスコと続き、それぞれが「怠惰、高慢、激怒、飽食、姦淫、貪欲、嫉妬 」という人間の持つ闇ということで象徴。
男声はそれを見守り、揶揄する家族の役柄となっている。
最後はミシシッピ川の流れるルイジアナに帰る姉妹は、7年の月日を回顧して、小さな家に帰ってきたと神妙に曲を閉じる。

32分ほどのリズム感あふれる曲だが、とても聴きやすく、三文オペラを聴いた耳にはまったく問題なく楽しめる。
本格シンフォニーである①とはまったくの別世界で、軽妙さとジャズのイディオム、さらにはメロディアスなドイツの声楽作品なの延長的な存在が極めて皮相なこの題材を多彩に描いている。
結構楽しめましたね。
バレエ最新の上演映像のトレーラーをネットで観たりもしましたが、内容が内容だけに、けっこう🔞的に描かれてましたよ。

ベルリンを去る直前に書き始めた交響曲第2番は、パリの社交界の著名人から依頼を受けたもので、1934年にパリで完成。
ヴァイルの最後の純粋クラシカル作品で、こちらはうって変わって3楽章形式の新古典主義的な明快な音楽。
初演はコンセルトヘボウでワルターの指揮で、ワルターはこの作品がいたく気にいり、ニューヨークやウィーンでも指揮した。
ワルターは、この交響曲に名前をつけるように提言、フランスでは「幻想」とも呼ばれたらしい。
コンサートでの演奏機会も多く、音源も2番は多くあり、事実ワタシのヤンソンスのものを持っていた(でもすっかり忘却してる)
シンプルな2管編成で、リズミカルでかつメロディも明確、無窮動的な終楽章も面白く盛り上がるし、全体に1番よりもずっと聴きやすい。
金管や管楽器のソロもみんな楽しいし、オーケストラとしては演奏しがいがある作品なんだろう。
CDを持っていたことを忘れてしまう、演奏会で聴いても、もしかしたら忘れてしまう、そんな印象がヴァイルの2番なのかもしれない。
第1交響曲が、当時のドイツの伝統の流れを汲むものだったのに対し、ドイツを出て遍歴の経験を経たあとの第2交響曲は、これで本格クラシカル作品が終わってしまったけれど、世界を観たヴァイルの心情の吐露なのかもしれない。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

マルヴィッツのヴァイルに対する思いと熱意を感じる1枚。
CDリブレットでも、彼女はその思いを語ってます。
ニュルンベルク劇場時代、ピアノを弾きながら、曲目解説をよくやっていて、いくつか見たことがありますが、彼女は学究肌でもあり、その探求心と分析力な並外れた才能だと思います。
劇場で培った全体を見通し、構成を大切に、オケや舞台を統率してゆく指揮者としての能力の並外れている。
ベルリン・コンツェルトハウスの高性能ぶりも、優秀録音でよくわかりました。

次のDGへの録音が待ち遠しいです。

ちなみに、ここ数年で各放送局から録音したマルヴィッツの指揮した音源を列挙しておきます。
モーツァルト「リンツ」、ヴァイオリン協奏曲、「フィガロの結婚」「コジ・ファン・トウッテ」
ベートーヴェン 7番、シューベルト 9番 、マーラー 1番
ワーグナー 「ローエングリン」
コダーイ ハーリ・ヤーノシュ、ガランタ舞曲
チャイコフスキー ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、ロココ
ラフマニノフ ピアノ協奏曲3番
シュトラウス ティル、「影のない女」
プロコフィエフ 古典交響曲
ベルク ルル交響曲
ブリテン 戦争レクイエム
あと夏の野外コンサートでは、ガーシュイン、バーンスタイン、新世界など
逃した録音としては、プロコフィエフ「戦争と平和」もあります。
どうでしょう、多彩でしょう。

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もう女性指揮者とか、「女性」をつける必要性のない、あたりまえの時代になりました。
マルヴィッツさん、次のバイエルン国立歌劇場の指揮者になると予感します。
来年はベルリン・フィルにもデビューです。

 ヨアナ・マルヴィッツ 過去記事

「ローエングリン」 2019.5.25

「戦争レクイエム」 2021.8.14

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2024年11月23日 (土)

ヴェルディ レクイエム 神奈川フィル400回定期 沼尻竜典 指揮

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色づく秋のみなとみらい。

神奈川フィルハーモニーの記念すべき第400回定期公演に行ってまいりました。

久々の土曜の横浜は、かつて始終通っていた頃と、その人の多さと整然と開発が進む都市計画の進行とに驚きました。

ともかく忙しく、せっかく感銘を受けたコンサートですが、blog起こしがなかなかできず、1週間が経過してしまった。

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  神奈川フィルハーモニー 第400回記念公演  

       ヴェルディ レクイエム

      S:田崎 尚美   Ms:中島 郁子
        T:宮里 直樹   Bs:平野 和

  沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
         神奈川ハーモニック・クワイア
         クワイアマスター:岸本 大
    ゲスト・コンサートマスター:東 亮汰

       (2024.11.16 @みなとみらいホール)

300回記念公演は、2014年に川瀬健太郎の指揮でマーラー「復活」で、わたくしも聴きました。
さかのぼること、200回は現田茂の指揮で「蝶々夫人」(2003)、100回は佐藤功太郎の指揮で「田園」ほか(1992)、さらに1回目は大木孝雄の指揮で、ペルゴレージのスターバト・マーテル(1970)、このような歴史があります。

合唱を伴う大きな作品が、こうした記念公演にはプログラムに載ることは、世界のオーケストラのならいとなってますが、昨今はマーラーが選ばれることが多いのがトレンドかと思います。
そこでヴェルディのレクイエムを取り上げたことの慧眼。
世界に蔓延する不穏な出来事、日本は一見平和でも、海外では不条理な死が横行しているし、いま我々は常に不安に囲まれ囚われて生きています。
ヴェルディの書いたレクイエムの持つ癒しと優しさの側面、オペラの世界も垣間見せる、そんな誠実な演奏が繰り広げられ、満席の聴衆のひとりひとりに大きな感銘を与えることになったのでした。

プレトークでの沼尻さんのお話しで、このレクイエムのなかに、ヴェルディのオペラの姿を見出すことも楽しみのひとつと言われて、バスの歌にリゴレットのスパラフチレを思い起こすこともできますね・・、とのことで、私もそんな耳でもこの日は聴いてみようと思った次第でもあります。

そんな聴き方のヒントを得て、聴いたヴェルディのレクイエム。
ヴェルディの中期後半から後期のスタイルの時期の作品という位置づけでいくと、レクイエム(1873年)の前が「アイーダ」(1871)で、アイーダは劇場のこけら落としなどの晴れやかな節目に上演されるように、輝かしさとダイナミズムにあふれたオペラだが、それは一面で、登場人物たちの葛藤に切り込んだドラマがメイン、最後は死の場面で静かに終わる。
少し前の「ドン・カルロ」(1867)も原作が優れていることもあるが、グランドオペラの体裁を取りつつも、ここでも登場人物たちの内面に切り込んだヴェルディの円熟の筆致がすばらしく、ソプラノ、メゾ、テノール、バリトン、バスに素晴らしい歌がちりばめられていて、これらの歌手は、そっくりそのまま「レクイエム」のソロを務めることができる。
そして、レクイエムを聴きながら、自分では一番思い起こした作品は、「シモン・ボッカネグラ」で1857年の作品を、1881年に大幅改訂している。
レクイエムのあと「オテロ」(1887年)まで、オペラを書かなかったが、そのかわり「シモン」の改訂を行った。
主人公の死で終わるシモン・ボッカネグラ、そのラストはまるでレクイエムそのもの。
わたしはそんな風に、この日のレクイエムを聴いた。

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素晴らしかった4人のソロのみなさん。
このメンバーであれば、もっと自由に好き放題に歌わせて、オペラティックなレクイエムを描くことも可能だったでしょう。
しかし、沼尻さんの作りだすヴェルディのレクイエムは、ソロもオーケストラも、合唱も、すべて抑制の効いた真摯なる演奏だったので、4人のソロが突出することなく、淡々としたなかに集中力の高い歌唱に徹してました。

なかでも一番良かったと思ったのがメゾの中島さん。
繊細精緻な歌唱で、一音一語が明瞭、耳にも心にもよく届くそのお声は素晴らしい。
この演奏の1週前には、ノット&東響でデュリュフレのレクイエムを歌っていて、行けなかったけれどニコ響で視聴ができました。
 あとバスの平野さんも、驚きの深いお声で、ビジュアル的にもギャウロウを思い起こしてしまった。
田崎さんのソプラノも素敵でしたが、この曲のソロには強すぎるお声に思えて、もう少しリリックな方でもよかったかな、と。
でも、リベラメの熱唱は実に素晴らしく感動的でした。
テノールの宮里さん、ずばり美声でした。やや硬質な声はプッチーニもいいかも。
インジェミスコは聴き惚れました。

「怒りの日」で3度、「リベラメ」で1度、あのの強烈なディエスイレが登場するが、いずれも激しさや絶叫感は少なめで、4回ともに均一に轟くさまが、壮麗さすら感じるものでした。
カラヤンなどは、最後のディエスイレにピークを持っていったりして、聴き手を飽きさせない演出をするが、こたびの演奏では、そんな細工は一切なく、ひたすらヴェルディのスコアに誠実に向き合う着実な演奏で、抒情的な場面をあますことさなく引き出した桂演だったのでした。

ベルカントオペラのようなソプラノとメゾの二重唱「レコルダーレ」は美しい限り、圧巻だったのは4重唱と合唱の「ラクリモーサ」における悲しみも切実さというよりは、慰めを感じ、思わず涙ぐんでしまうほどだった。
若い頃、この作品のFM放送をエアチェックするとき、90分テープを用意すると、ちょうどA面の45分で、このラクリモーサが終わりました。
ほとんどが、すぐさまカセットを入れ替えることで完璧に録音できましたが、そうはならなかった演奏がベルティーニとN響のものでしたね・・・

光彩陸離たる「サンクトゥス」はみなとみらいホールが今回一番輝かしく響いた瞬間だった。
木管と弦のたゆたうようなトレモロに乗った、美しい「ルクス・エテルナ」では、素晴らしい音楽と演奏とに身を委ね、ホールの天井を見上げて音がまるで降ってくるのを感じていた次第。
そして、最後のソプラノを伴った劇的な「リベラ・メ」でした。
音が止んだあとの、ホールの静寂。
この素晴らしいヴェルディのレクイエムの演奏の終わりをかみしめる感動的な瞬間でした。

大規模な合唱団とせず、プロフェッショナルな精鋭で構成された神奈川フィルハーモニック・クワイアの精度の高さも大絶賛しておきたい。
あと、もちろん神奈川フィルは、これまで聴いてきた神奈川フィルの音でした。
そして、その音も若々しくもなった感あり、自分にはまた懐かしいあの頃の美音満載の神奈川フィルでありました。

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急に深まった秋は冬にまっしぐらで、みなといらい地区も秋から冬の装いに。

イルミネーションもいくつか撮りましたが、アドヴェントは死者のためのミサ曲にはそぐいませんので、ここでは貼りませんでした。

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次の神奈川フィル、さらには来シーズンは何を聴こうかと思案中。

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2024年11月12日 (火)

プロコフィエフ 「束の間の幻影」 アンナ・ゴウラリ

Entoku-07

何年か前の京都の圓徳院のお庭。

京都好きの娘の念願は、京都でお式を挙げること。

流行り病で、異国の方はまったくおらず、静かな京の街なのでした。

Prokofiev-visions-fugitives-chopin-piano

 プロコフィエフ 「束の間の幻影」op.22

          ピアノ:アンナ・ゴウラリ

              (2013.10 @ノイマルクト)

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ。

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

ピアノの名手でもあったプロコフィエフがピアニストにならず、作曲家としての道を歩んだことは幸いなことでした。
5歳のときに書いたピアノ作品が作曲家としての処女作という。
1909年、18歳のときに作品1となるピアノ・ソナタ1番、最後のソナタ9番は、ずっとあと1947年56歳のとき。

ほかの諸作でもそうですが、プロコフィエフは年代とそのときの居場所や政治背景などで、その作風が目まぐるしく変わったが、その根底にはいつもクールなリリシズムがあったと思います。
いくつもの顔を持つプロコフィエフの作風において、気まぐれ的な即興性という側面があり、自身は「スケルツォ的」とも呼んだらしい。
そんな様相は、交響曲やオペラにも見出せます。
そして、案外とその代表格のような作品が「束の間の幻影」という小品集。

1915年24歳の頃に作曲され、1917年に出版されたので作品番号は22がついてます。
ソナタの3番や「古典交響曲」などと同じころ、さらには「賭博者」も控えていた時分。

20曲の小品を集めたもので、それぞれが独立しているとも言えるし、またまとめて聴くことで、聴き手は次々に変わるプロコフィエフの即興性を、まるで万華鏡でも見るがごとく味わうことになる。
「束の間の幻影」という、極めて印象的なタイトルは、ロシアの詩人コンスタンティン・バリモントの詩からとられたもので、この日本語訳も実によくできたものだと思います。
いかにもタイトル通りの、まるで感覚的であり、気まぐれ的でもあり、姿を捉えようもない不可思議さも感じたり、印象派風でもあり、神秘主義的でもあり・・・なんでもありの感じの小品が数分単位で連続している。

あらゆる刹那の瞬間に私は世界を見る、変わりゆく虹の色の戯れにくまなく映えた世界を」バリモント

ここ数日、静まった夜間に、この曲を何度も流したりして過ごしました。

なにも考えることなく、ぼんやりと聴いて、そして寝てしまうのです。
これもまたプロコフィエフの音楽の世界なんだな。

ロシアのタタールスタン出身で、現在はドイツで活躍中のアンナ・ゴウラリの硬質でありながら、煌めくような美感も感じるピアノが素敵でありました。
カップリングのショパンの3番のソナタが辛口の演奏で、これがまた実に素晴らしい。
彼女のほかのショパン、スクリャービンなども聴いてみたいものです。

ゴウラリさんのバッハです。



深まる秋

Entoku-08

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