2017年2月 4日 (土)

シベリウス 交響詩「タピオラ」 ハンニカイネン指揮

Hijiridai

最近行ってないので、過去の北海道ネタから。

本州では桜が咲いている頃、道内・美瑛あたり、雪が溶け始め、湖水の氷もなくなり始めた。

日本は南北に広い。

昨日あたり、南と北で、50℃も気温が違ったという。

 ここは、美瑛近郊の貯水湖で、車のなかからぱしゃりと撮影したもの。

寒くて、外には出られませんでしたよ。

今回も冬っぽい音楽を。

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      シベリウス 交響詩「タピオラ」 op112

     タウノ・ハンニカイネン指揮 ロンドン交響楽団

                       (1958 @ロンドン)

シベリウス、ほぼ最後の頃の作品。
1925年62歳で、「タピオラ」を仕上げたあと、1930年の最後の作品までは、楚々としたピアノ作品や、小品しか残さず、以来27年間、悠々たる隠遁生活を送った。

そんなシベリウスに、晩年の作品、とレッテルを貼るのはおかしなことだが、でも、そうとでもいいたくなるほどに、行き着いた到達境と、くみとり、尽しがたい味わいと内面の深さを感じることができる。
1年前に書かれた交響曲第7番の、究極の交響曲とも呼べそうな濃縮された音楽の在り方にも、相通じるかもしれない。

フィンランドの大叙事詩「カレワラ」は、シベリウスの音楽のひとつの源泉ともいえるが、この「タピオラ」もそう。

「カレワラ」に出てくる、森の神「タピオ」の領土が「タピオラ」。
ここに、タピオの物語が描かれるわけではなく、シベリウスが愛した、フィンランドの国土を代表とする風物、森をイメージしているわけです。

われわれが、フィンランドに対していだくのは、「森と湖の国」。

まさに、それを感じさせてくれる、神秘的で、かつクールな、ブルー系の音楽なのだ。
ちょっと晦渋な雰囲気も持ち合わせているけれど、何度も、噛みしめるように聴くと、す~っと、北欧の景色が脳裏に浮かんでくるようになる。

何度も繰り返される「森の主題」に、木管で繰り返される「タピオの主題」。
この、ともに寂しい感じの主題が絡み合いながら進行し、最後には、浄化されたような平和な和音にて曲を閉じる。

このあとに、大きな作品を残さなかったのも、このエンディングを聴くとわかるような気がする・・・・。

今日聴いたのは、前世紀末に生まれ、1968年に没したフィンランドの指揮者ハンニカイネンのもの。
少年時代に、日本コロンビアから続々と発売されたダイアモンド1000シリーズのなかの1枚で、そのいかにも北欧の孤独を感じさせる秀逸なジャケットが気になり、店頭で何度も手に取ったけれど、ついぞ買うことのなかった1枚。
 長じて、コンサートホールソサエティからCD化されたものを入手したのは、CD時代になって間もなくだった。

録音は決して、パッとしないけれど、カップリングのヴァイオリン協奏曲とともに、さりがねいなかにも、シベリウスの音楽の語法をしっかりと語りつくしているようなスルメのような演奏で、とても味わい深い。
ロンドン響を使いながらも、すこし褪せた録音が、また鄙びた雰囲気を醸し出していて、ローカル感もあるところもいい。

フィンランド政府の観光局のサイトを見ていたら、シベリウスの旅がしたくなりましたよ。

こちら→http://www.visitfinland.com/ja/kiji/sibelius-no-finland/

 

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2017年1月29日 (日)

ディーリアス 北国のスケッチ グローヴス指揮

Shizukuishi

既出写真ですが、岩手県の雫石あたりの風景。

いかにも、北国の雰囲気がたっぷり。

春近い頃でしたが、いまの冬真っ盛りのこの地は、こんな場所に足を踏み入れることさえできないでしょうね。

季節に応じて、いろんな音楽がありますし、ことに四季のめりはりが鮮やかな日本には、美しい言葉の芸術もたくさん。

同じ島国の英国も、夏はやや短いながらも、その四季はくっきりしてる。

そんな機微を英国の作曲家たちは、詩的なタッチでもってたくさんの作品を残してきました。

そんななかのひとり、大好きなディーリアスを。

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 ディーリアス  「北国のスケッチ」

   サー・チャールズ・グローヴス指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

                         (1974.12.22@ロンドン)


この素敵な曲を、弊ブログにて取り上げるのは2回目。
前回は、ハンドレー指揮のアルスター管によるシャンドス録音。
「フロリダ」組曲とのカップリングで、北国と南国の鮮やかな対比による、ナイスな1枚でした。

そして、今回は、レコード時代から親しんできた、グローヴスの演奏で。

社会人となって、ひとり暮らしを始めたころに、シリーズ化された、音の詩人ディーリアス1800。
そのすべてを、石丸電気で購入して、ディーリアス漬けの日々。

寂しい侘び住まいが、なおさらに切なく、それから故郷の山や海が懐かしく、人々が愛おしくなる想いで満たされた。

そんな望郷とノスタルジーが、わたくしのディーリアス愛。

4つの部分からなる、北国の四季を模した組曲。

  Ⅰ 「秋」・・・秋風が木立に鳴る

  Ⅱ 「冬景色」

  Ⅲ 「舞曲」

  Ⅳ 春の訪れ「森と牧場と静かな荒野」

どうでしょうか、このいかにもイギリスの北の方の景色を思わせる素敵なタイトル。
日本なら、さながら、北海道か、信州あたり。

三浦淳史さんの解説によるE・フェンビーの言葉によれば、若き日は放蕩の限りを尽くしたディーリアスも、歳を経ると、寡黙となり、「人間は空しい、自然だけがめぐってくる!」という思考を持って過ごしていたという。

まさに、この言葉を思わせる、めぐりゆく四季、自然を、そのまま感覚的にあらわしたような音楽なのです。
ここでは、おおむね、静かなタッチの音楽が続き、唯一、舞曲では、フォルテが響く。
春がやってくる前の喜びの爆発。
しかし、それまでの、秋と冬の心に沈みこむような静けさと、幻想的な沈鬱ぶりは、いかにもディーリアスらしいし、夜のしじまに映える、あまりにも美しい音楽だ。

で、それを打ち消す明るい舞曲。
そして最後は、めぐり来た春。
ソフト・フォーカスで、若干の曖昧さも保ちながら、ふんわりとした音楽となっている。
これもまた、ファンタジーである。

ビーチャムの育てたディーリアス・オケ、ロイヤルフィルを指揮したグローヴスの演奏は、わたしにとっては、懐かしくも、完全なるものです。
デジタル時代の、ハンドリーと、少し鄙びたアルスター管もいいが、こちらは、アナログのぬくもりを感じさせてくれる。

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こちらは、初出時のオリジナル・ジャケット。

ターナーの絵画をあしらったシリーズもいいけど、この写真もいい。

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2017年1月20日 (金)

ブラームス ドイツ・レクイエム アバド指揮

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新春の吾妻山は、富士と海と、菜の花と水仙。

中腹あたりに、水仙の群生があり、香しい香りが漂っているのでした。

そして、1月20日。

もう3年、いや、まだ3年。

なんだか、遠い記憶のようになってしまったあの日。

クラウディオ・アバドの命日です。

あのときが、夢の彼方のように感じ、いや、感じたい自分があって、アバドは、兄のようにして、いつまでも、自分の近くにいてくれるような気もしているから、あの日が、なかったようになってるのかもしれない・・・・、自分のなかで。

癒しと、追憶のレクイエムを聴きます。

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  ブラームス ドイツ・レクイエム op.45

    ソプラノ:チェリル・ステューダー

    バリトン:アンドレアス・シュミット

 クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                 スウェーデン放送合唱団
                 エリック・エリクソン室内合唱団

              (1992.10 @ベルリン、フィルハーモニー)

ブラームスを愛し、若い頃から、その作品をずっと取り上げていたアバド。

交響曲は2番や4番を、スカラ座時代から、ほかの番号もロンドンや各所で。
協奏曲の各種は、数え切れないほどの名手たちと共演。

そして、声楽作品も、ウィーンやベルリン、ロンドンで。

ドイツ・レクイエムやアルト・ラプソディまでが、通常の指揮者は、取り上げ・録音するけれど、アバドは、合唱作品のほとんどを取上げた。

いま残された録音や、放送音源の数々で聴く「アバドのブラームス」。

ことに、アバドのブラームスの声楽作品は、その端正な佇まいと、紳士的ともいえる慎ましさは、ロマン派にあって、古典派の立ち位置でもあったブラームスの演奏として理想的。

正規音源としては、ベルリンフィルハーモニーでのこちらの92年の録音と、97年のウィーンでの映像があって、どちらも、そうしたブラームスの真髄に迫った名演に思います。

今日はCD。

どうだろう、この精度の高さは。

合唱とオーケストラが、弱音からフォルテの強音まで、どこまでもきれいに、混濁することなく混ざり合い、どの声部の音も、すっきり・くっきり聴こえる。
そして、その音色。
どこをとっても、お馴染みのベルリンフィルの音なんだ。
この音は、変わったと言われたカラヤン時代の音と同じだし、現在のラトルの紡ぎだす洗練さと重厚さの音ともおんなじ。
 全体のトーンは、緻密極まりない合唱団も含めて、明るめだけれど、この明晰な明るさは、カラヤン時代もあったことで、ラテン的な輝きを感じさせる点でも、カラヤンの音とも少し通じるように今宵や感じました。
もちろん、カラヤンのようなゴージャス感はないですよ。

ともかく、明るく、美しく、音がなみなみとあふれるような、アバドの「ドイツ・レクイエム」。

北ドイツでなく、南の方。
アルプスのふもとにあるような、そんなブラームスが好き。

絶頂期だったステューダーと、この当時、声楽作品ではひっぱりだこだったA・シュミットの律義な歌は万全。
欲を言えば、ヘルマン・プライとの共演でも聴いてみたかった。
アバドとプライは、朋友のように、よく共演していたから。
 でも、このとき、まだ存命だったプライだったら、アバドの根ざす、明るさと透明感あるブラームスにはならなかったかも・・・。
プライの人間臭い優しさは、巧さにつながり、色が出てしまったかも・・・・。

アバドは、そのプライと、ロンドン響時代に、このドイツ・レクイエムで共演していて、1983年のこと。
それから、アバドの初「ドイツ・レクイエム」は、同じロンドン響で、77年のこと。
そのときは、ルチア・ポップがソプラノ!

平和と安らぎのなかに終えるドイツ・レクイエムを聴きながら、外は今にも、ちぎれた雲から雪が舞い降りてきそうな寒さ。

日本中寒いです。

いや、世界中、異常に寒く、ことにヨーロッパの寒波はすごいらしい。
凍死者が多数でたり、交通事故が多発したりと大変らしいし、ふだん雪とは無縁な地中海地方やイタリア南部、スペイン南部も大雪・・・・

アバドの眠る、スイス、エンガディン地方もきっと深い雪に見舞われていることでしょう。
しんしんと、そして、あたたかく、クラウディオ兄を包んで欲しい。

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そして、サンモリッツを有するエンガディン地方、2026年の冬季オリンピック誘致を目論んでる様子。
昨今の、五輪を思うにつけ、静かにしておいていただきたいが・・・・・・・

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クラウディオ・アバド 3回忌に

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2017年1月14日 (土)

コルンゴルト 「死の都」 ピエロの歌 ニコラ・ベネデッティ

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銀座通り、イルミネーション、ヒカリミチ。

先日の連休まででおわり、いまは、普通の通りに戻っていることかと思います。

が、しかし、そこのあふれる人々の顔触れは、繁忙期も閑散気もかわらない、かの国を中心とした声高な面々。

日本中、どこにもかしこにも・・・・あ、もう言いません。

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ブランド店ばかりだけど、ともかく、きれいで憧れに満ちた銀座。

昭和のわたくしには、いつまでも、銀座への渇望と憧れはやみません。。。。

銀座には物理的に行けるけれど、その先の本質には行けない、そんなもどかしさが、きっと一生あるんだろうな。

銀座には関係ないけど、こんな眩ゆさと、影の姿を両面あわせもつ、はかない音楽を。

そう、もう何度もここに登場してるコルンゴルトの最愛のオペラのなかの一節。

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  コルンゴルト  「死の都」 第2幕から

       ピエロの歌

 わが憧れ、わが惑いが、この夢に蘇る。

 踊りで得て、そして失ったわが幸せ
 ラインの川沿いで踊る
 月光のなかで、青い瞳が、この身に
 切なる眼差しをそそぎ
 辛い思いを訴える
 ここにいて どこにもいかないで
 故郷を見守って、静かに花開く幸せを
 わが憧れ、わが惑いが この夢に蘇る
 遥かなる魔力が この魂に 火をともす
 踊りの魔力に誘われ
 役者へと たどりつく
 優しすぎる あの女に従い
 涙ながらの口づけを知る

 酔いと苦しみ 惑いと幸せ
 これが曲芸師の定めか
 わが憧れ わが惑いが
 この夢に蘇る
 蘇る 蘇る・・・・

      (訳:広瀬大介)

オペラでは、妻を失い、街で見かけた妻そっくりの踊り子に声をかけるが、あとは、彼女の劇団グループも妄想と夢想のなかで登場し、恋敵たるピエロが、踊り子に対して歌うのをうつつに聴く・・・・

そんなピエロは、上演の際には、主人公の友人役の裏役として扱うことが多い。
それは、例えば、「タンホイザー」における、エリーザベトとヴェーヌスに二面性と、それをひとりで受け持つクンドリーみたいな感じだ。

この甘味なる音楽における、コルンゴルトの若き筆致は、ほんとうに耳がとろけるほどに素晴らしい。

バリトンの歌を、ヴァイオリンで素敵に演奏したニコラ・ベネデッティの、ある意味、健康的で、ヴィヴィットな弾きぶりにうっとり。
もう何度も記事にしてますね。
ほんと好きなんだから。

それと、本来のバリトンの歌では、ヘルマン・プライの友愛と、ビターなほろ苦さにあふれた歌が好き。

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ついでに、このオペラ、第2幕への前奏曲も壮大でゴシック感も出てて素敵です。

わたくしは、全部聴けないときには、ちょくちょく、この前奏曲と、ピエロの歌と、マリエッタの歌を抜き出して聴いてます。

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2017年1月10日 (火)

R・シュトラウス 「影のない女」 ショルティ&コヴェントガーデン

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小田原の石垣山にあるYoroizuka Farmに、お正月、行ってきました。

パティシェの鎧塚俊彦さんのお店。

そう、亡き、川島なお美さんの旦那さんです。

相模湾を見下ろす絶景にあるこちらのお店では、カフェがあって、その絶品スゥイーツを楽しめるし、店舗ではたくさんのプチガトーや、地場野菜や果実が売られてます。

ともかく、その景色が素晴らしい。

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西から見た相模湾は、江の島や、遠く、三浦半島・房総半島も見渡せる。

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川島なお美さんの直筆の碑。

大学の先輩だったし、近くでお目見えしたこともあったし、そして、小田原は、高校時代過ごした街だし・・・、で、なんだか哀しくなってしまった。

でも、この場所を愛した妻への旦那さんの、優しい思いも感じとれ、この場所が、わたくしの愛する吾妻山のように、すてきな場所となって、自分のなかに記憶されることとなりました。

そんな、暖かな夫婦愛を最後には謳歌することとなる、R・シュトラウスのオペラ「影のない女」を連休から聴いておりました。

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 R・シュトラウス 「影のない女」

  皇帝 :ジェイムズ・キング       皇后 :ヘザー・ハーパー
     バラク:ヴァルター・ベリー       バラクの妻:ヘルガ・デルネッシュ  
  乳母 :ルート・ヘッセ          霊界の使者:フォービス・ロビンソン
  宮殿の門衛:ジュディス・ハワース   若い男 :ロバート・ティアー
  鷹の声:エイドゥイン・ハーリィー   
  バラクの兄弟:ウィリアム・エルヴィン、ポール・クルック
            ライモンド・ヘリンクス


   サー・ゲオルク・ショルティ指揮
           ロイヤル・コヴェントガーデン管弦楽団/合唱団
                    (76.4.5 @コヴェントガーデン)

ネット見つけたこの音源。

どーです、シュトラウス好き、影なし好きをも唸らせる、素晴らしいキャスト。

鉄板の、J・キングの凛々しい皇帝にはしびれるような感動と、官能を覚えます。

そして、高貴な英国歌手のハーパーの、全霊をかけたかのような皇后の熱さは、まったくもって以外ともいえる素敵さ。

お馴染み、ヴァルター・ベリーのバラクは、ここでも、いい人、全開で、FDの知的なバラクもいいけど、やっぱり純朴かつ熱烈なバラクもいい。

あと、あとですよ!!、今回、この音源を見つけて狂喜乱舞したのは、ヘルガ・デルネッシュ様のバラクの妻。

ショルテイさま、よくぞ、彼女を起用してくれた。

カラヤンとのブリュンヒルデ、トリスタン、レオノーレを歌い終えたデルネッシュ、その声域をメゾに移行しつつあった、その時期の上演。

皇后は、ワーグナーに例えると、ジークリンデ級。
バラクの妻は、ブリュンヒルデ級で、メゾの音域も要求される難役。

デルネッシュはメゾに移行後、ハンブルク・オペラの来日公演で、ドホナーニの指揮による「影のない女」の上演で、乳母役を演じ、わたくしも、憧れの彼女の歌の、最初で最後の実体験となりました。

そんなデルネッシュのバラクの妻。

2幕における、妻としての節度と、皇后の乳母が影を狙ってしかける若い男の妄想や、真面目すぎる夫や、不具合のある夫の兄弟たちの面倒をみる不合理さへの葛藤を歌いこむ、切実たるシーンには、ほんと、心から感動します。
G・ジョーンズや、ルートヴィヒ、ニルソンとならぶ名唱だ!

主役級以外は、コヴェントガーデンの常連・常設歌手だけれども、当然にバランスがよろしい。

 かつて、音楽監督をつとめたコヴェントガーデン、ロイヤル・オペラに76年に客演したショルティ。
後年のウィーンやザルツブルクでの指揮よりも、とんがってる。
切れ味もいいし、オペラとして、劇的な流れも間断なくすばらしく、テンポも快適。
全曲が3時間と数分。
おとぎ話としてのファンタジー感は不足するものの、登場人物たちの、切実な歌や背景は見事に捉えているように感じる。
 惜しむらくは、音源がモノラルなところ。
聴きやすい明瞭な音だけれど、オーケストラ・ピットが劇的にすぎて聴こえてしまう、そんなONすぎる録音。

こんな、おそらく放送音源も、世の中にはたくさんあるんだ。

最近のつまらん録音より、こうした音源の掘り起こしや、各種権利の調性に邁進してほしいものだよ、まったく。

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麗しきかな夫婦愛・・・・・・・

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2017年1月 8日 (日)

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 アバド指揮

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唯一の曇り空の朝だった、1月2日。

雲の合間から富士が少しだけ。

菜の花は七分咲き。

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見おろす相模湾は、穏やかで静か。

右手奥、箱根の山は、駅伝の往路の到着を待ちうけ中。

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何度も書きますが、この街に育ったわたくしは、この場所がたまらなく好き。

帰るたびに登ります。

麓の小学校は、わたくしが通った頃は、正しき木造校舎で、二宮金次郎さんも、薪を背負い本を読んで、これまた正しく佇んでおりました。

今日は、折り目正しいアバドのモーツァルトを聴きます。

モーツァルトの20番K466のピアノ協奏曲、アバドには4種の正規録音があります。

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   モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466

        フリードリヒ・グルダ

   クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                     (1974.9 @ウィーン ムジークフェライン)

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             ルドルフ・ゼルキン

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

                    (1981.11@ロンドンキングスウェイホール)

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           マリア・ジョアオ・ピリス

   クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

                    (2011.9 @ボローニャ)


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          マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

                    (2013.3 @ルツェルン)


こうして4種、連続して聴くと、それぞれがまったく違って聴こえるのは、もちろん、素晴らしいピアニストたちによるもの。

軽やかで、愉悦感あふれ、美音を聴かせるグルダ。

かっちりと、一音一音を揺るがせもせず、誠心誠意尽くすようなピアノを聴かせるゼルキン。

無作為の美しさ、緊張感をも通り過ぎて晴朗な心境に誘われるピリスのピアノ。

最初に聴いたときは、さらりとして聴こえたけれど、いまこうしてまとめ聴きをしてみて感じる、アルゲリッチの即興性と自在さ。たくみに聴き手の心を掴んでしまう豊かな感性を感じる。

こうしたピアニストたちに、アバドの指揮は、ぴたりと寄り添うようにしていて、4つの演奏ともにまったく違うところが見事。
もちろん、オーケストラの違い、そしてなによりも年代の違いも大きい。

70年代、80年代、そして2010年代。
前者ふたつは、フルオーケストラによる響きの豊かな従来型の音色で、安心感も漂うが、後者2つは、室内オーケストラによる切り詰めた響きで、かつ古楽の奏法も取り入れ、キビキビ感も。

口さがないグルダが、小僧呼ばわりして、そんなグルダが彼のピアノとは別に、嫌いになったけれど、70年代、ウィーンフィルとアバドの組合わせは、幸せなコンビだった。
まろやかで、丸っこい響きは、ムジークフェラインのホールの響きに溶けあい、グルダのピアノと一体になって聴こえる。
なんの文句があったんだろ、グルダさん。
20番の短調のふたつの楽章に挟まれた真ん中のロマンツェ。
そのたおやかな美しさは、この演奏を聴くと、愛おしくなるほどの歌いぶりで引き立つ。

ロンドン響とのゼルキンの背景を飾るアバドの指揮は、思いのほかシンフォニックで、これまた響きも豊かで、しなやかさも抜群。
こちらの少し前に録音された、交響曲40番と41番にも通じる構えの大きさもある。
そしてゼルキンのゆったりとしたピアノを支えるような敏感さも。
ここでも、2楽章は美しい。
キングスウェイホールの響きも、ロンドン響のニュートラルさと芯の強さを捉えた録音でもって楽しめる。

若手を集めた、文字通り、アバドの元に集まった手兵とも呼ぶべき、オーケストラ・モーツァルトの二つの演奏。
ややデットな録音ゆえに、オーケストラの目の摘んだ音色が、ひとりひとりの奏者の集まりのようにマスとなって聴こえる。
そんなリアリティあふれるモーツァルトだけど、ピリスとともに、澄み切った境地を目指しているような演奏に感じるのがボローニャでの録音。
ロマンツェは、速めのテンポで、さらりと、まるで、上善如水のように、味わいはすっきりと、さらさら。
ピリスとともに、この演奏に漂う透明感には、モーツァルトの微笑みを感じます。

さて、最後のアルゲリッチ盤。
よりピリオド的な奏法が強まり、ルツェルンのホールの響きは豊かながら、オーケストラの音は切り詰められて感じる。
しかし、どうだろう、この若々しさは。
ピリス盤よりも、溌剌として、表情も豊かで、自在なアルゲリッチのピアノに、すぐさま反応してしまう、鮮やかなまでのオーケストラなのだ。
2楽章も、アルゲリッチの多彩なピアノに負けておらず、そして、羽毛のように軽やかでしなやかなオーケストラは、ほんとに素晴らしいもので、弱音の繊細さも堪能できる。

こうして4つのK466を聴いたが、ソロイストに合わせ、そして万全のパレットを仕上げるアバドの指揮の巧みさは、協奏曲の指揮者として、ひっぱりだこだったアバドの魅力をあらためて感じさせるものでした。

しかし、あたまの中が、モーツァルトのニ短調だらけになってしまった。

最後に、去年のよく見えてた富士山2016。

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2017年1月 6日 (金)

バッハ トッカータとフーガ ニ短調 リヒター

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2017年1月2日の朝焼け。

実家のあるいつもの山の上。

吾妻山です。

朝5時に起きてしまい、思いきって登りました。

日の出は、6時51分。

日の出前は、周辺がこのように朝焼けに染まります。

真鶴に遠くに伊豆半島。

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濃いオレンジの夕焼けとはまた違った、濃ピンク系? 朝焼け。

そして、もう少し東に目を向けると、相模湾から太陽が昇る様子が本来なら見えるのでした・・・・

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神奈川から見ると、遠く房総半島方面。

こりゃまるで、UFOのように見える日の出。

年末年始、晴天に恵まれたなか、この日の朝だけ、狙ったように雲に覆われました・・・。

ちーーん。

Richter

    バッハ  トッカータとフーガ ニ短調 BWV565

                     カール・リヒター

            (1964.1 @コペンハーゲン イエスボー教会)


ともかく有名な、こちらの名曲。

冒頭だけで、クラシックをふだん聴かない方にもピピッとくるものを持ってる曲。

トリルから始まる最初の2小節。
これが、衝撃的な場面のバックグランドを飾る音楽、いや、それこそ効果音として、数々の映像などに使われた。

でも、ほとんど多くの方々は、その2小節より先の即興的ともいえるフーガ展開部分を聴くことなく、やりすごしているだろう。

子供時代のわたくしも、そんなひとり。

 でも、そんな認識に、ファンタジー的とも呼べる喝を入れてくれたのは、NHKの「朗読の時間」というFMラジオ番組だった。
中学生だった、夏休みの間だったろうか。
朝の10時台くらいに、和洋の文学作品を、NHKアナウンサーが朗読する20分の番組で、1冊の本を、数日かけて取り上げていた。
そして、朗読に織り交ぜて、クラシック音楽を中心に流していたわけ。

そのときの音楽場面が、トッカータとフーガ。

そして、文学小説は、「不思議の国のアリス」。

不可思議な妄想のわく物語に、冒頭場面を外したフーガ場面が巧みにマッチングして、岩波文庫も購入し、耳と文字とで、ルイス・キャロルのアメイジングな文学がリアルに迫ってきて聴こえたものです。

あれから数十年も経ていますが、この作品のイメージから、アリスの世界をぬぐい去ることはできません。

 リヒターの旧盤は、かつて記事にしましたが、放送で使用されていたのは、おそらく、リヒターの2度目のアルヒーフ盤。

虚飾を廃し、音を切り詰めた、緊張感すら感じさせる演奏に思います。

近時、バッハの作品ではないのでは説もありますが、そんなことは関係なく、妄想引き起こす、幻想的な8分間に、いまもって魅せられます。。。。

2017、よき年になりますよう!

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2017年1月 1日 (日)

ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」から

2017

「お世話になりました」の、大晦日から1日経つと、「おめでとう」の応酬となる、これほどに時間の経過が鮮やかな二日間ってない。

仕事もでもそう、毎日、顔を突き合わせてるのに、数日合わないだけで、「よいお年を」、「おめでとうございます」、のやりとりが日本中で交わされる。

世界の国々では、どうなってるんでしょうね。

節目、折り目を大切にする日本、四季もくっきりしていて、それぞれに催しが地域ごとにある。
宗教にも寛大で、八百万神に囲まれてる。

そんな日本の風習に、自分も思いきり浸ってま~す。

だらだらと導入部。

そして、おめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。

ペースは鈍りますが、ブログは、2017年、ゆるゆると再開です。

新年初回は、今年のアニヴァーサリー作曲家、生誕150年のジョルダーノのオペラから。

大物アニヴァーサリーはいない今年、わたくしには、ジョルダーノかな。

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  ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」から アリア

   アンドレア・シェニエ:マリオ・デル・モナコ

   マッダレーナ:レナータ・テバルディ

   ジェラール:エットーレ・バスティアニーニ

 ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ指揮 ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団

                            (1959.6 @ローマ)


ジョルダーノ(1867~1948)の代表作「アンドレア・シェニエ」。

プッチーニのひとまわりあとの世代だが、イタリアのヴェリスモ作曲家として、マスカーニやレオンカヴァッロ、チレーア、アルファーノと並ぶ存在。

プッチーニとの共作で多くの名作を産んだ、イルリーカの台本に基づく。

フランス革命時のパリを舞台に、理想と信念とに燃える詩人アンドレア・シェニエと、貴族の令嬢マッダレーナとの熱い愛、そして、そこに横恋慕しつつも悩む、令嬢家の召使いから、革命に身を投じ、革命政権の高官となるジェラールとの、まるでトスカのような3人の絡み合いのオペラ。
アリアがふんだんに盛りこめられ、ソプラノ・テノール・バリトンという3役が主要人物をなしている。
しかし、全曲に出ずっぱりで、歌いどころ、演じどころも多いのが、タイトルロールのアンドレア・シェニエのテノール。
愛にも、国を思う愛国心にも、そして詩作にも一途に一本義なシェニエ役は、ドラマティックなテノールが必要。
歴代の名テノールが録音してます。

今朝は、3人のアリアを抜き出して聴いてみました。

 アンドレア・シェニエ  「ある日、青空をながめて」

 ジェラール        「国を裏切るもの」              

 マッダレーナ       「わたしの死んだ母」

 アンドレア・シェニエ  「五月の美しい日のように」


シェニエのふたつの情熱的なアリアは、まったくもって素晴らしくて、テノールの声を持っていたなら、絶対に歌いたい。
自然を賛美しながら貴族の前で歌う「ある日、青空をながめて」は、やがて、暴政と市井の民の貧しい生活を見ようとしない貴族への批判に転じる。

同様に情熱的なジェラールのクレドともいうべき熱い心情吐露は、祖国を愛すがいまや、暴力に訴える身の上となってしまった自嘲と、マッダレーナへの愛を歌う。
このアリアも大すきで、これは車のなかで歌ったりてしまう。

かたや革命によって家は没落、母も亡くなり、極貧に耐えるマッダレーナの切々としたアリア。愛するシェニエが捕らえられ、彼を救ってくれるのなら、わが身を捧げましょうと、ジェラールに向けて歌う。
泣けるようなメロディに、心動かされ、涙も滲む。
そう、ジェラールも感動し、彼女を諦め、同じ愛国者であるシェニエを助けようと奔走する・・・・・。

終幕、処刑を前にしたシェニエの辞世ともいうべき澄み切った心境と、愛を、これまた高まる情熱とともに歌う。

最後に、断頭台に消えるシェニエとマッダレーナの熱い二重唱も相当なハイテンションであります。

こんな3人、デル・モナコ、テバルディ、バスティアニーニは、理想的な歌でありました。

シェニエは、あとはコレルリとカレーラス、マッダレーナはスコット、ジェラールはカプッチルリが好き。

10数種のオペラがあるジョルダーノ、長命なわりに謎も多いが、激情が生む興奮度の高いその音楽は、しっかり聴くと意外と楽しく旋律も豊かで、聴きごたえあります。
「フェドーラ」と「シベリア」しか聴いてませんが、今年は機会があればチャレンジしたいところです。

ポピュリズムが世界に蔓延しつつあるが、シェニエの歌にある純粋な高潔の志は忘れてはいけないと思う、そんな2017年の始まりでありました。
 

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2016年12月31日 (土)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ショルティ指揮

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今年の冬の六本木ヒルズ、欅坂。

毎年同じようで、少しずつ違う。

LEDも年々進化し、電気使用量も減少しつつ、輝かしさも増している。

2016年は、あっという間だったけれど、自分にも、内外含めて世間にも、親しい人にも、ともかくいろんなことがあった年だった。
 いろんなものを失い、また失いつつあり、そして得るところ、学ぶところもまたたくさん。

人生は苦しいけれど、またこれも楽し。

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ファルスタッフは、「世の中、すべて冗談だ!」と歌って、そのヴェルディのオペラの最後を締めるけれど、同じオペラ大家、ワーグナーの「マイスタージンガー」の最後では、ザックスは、「神聖ローマ帝国は滅びても、ドイツの芸術は決して滅びない!」と歌い、民衆もそれに唱和し、ドイツの芸術とその名匠をたたえる。

同じシリアス系の作曲家が書いた喜劇でも、ヴェルディにシェイクスピア原作があるにしても、こうも違う。

ファルスタッフのように笑い飛ばしてしまう、先々、かくありたいと思うけれど、いまは歳とともに、ザックスの心境の域に達しつつある自分も感じるし。

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   ワーグナー  楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

 ザックス:ノーマン・ベイリー         ポーグナー:クルト・モル
 フォゲルゲザンク:アダルベルト・クラウス ナハティガル:マルティン・エーゲル
 ベックメッサー:ベルント・ヴァイクル     コートナー:ゲルト・ニーンシュテット
 ツォルン:マリティン・ションベルク  アイスリンガー:ヴォルフガンク・アッペル
 モーザー:ミシェル・シェネシャル   オルテル:ヘルムート・ベルガー・トゥーナ
 シュヴァルツ:クルト・リドゥル     フォルツ:ルドルフ・ハルトマン
 ヴァルター:ルネ・コロ         ダーヴィット:アドルフ・ダラポッツァ
 エヴァ:ハンネローレ・ボーデ     マグダレーネ:ユリア・ハマリ
 夜警:ヴェルナール・クルムリックボルト

   サー・ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ウィーン国立歌劇場合唱団
                                            ウィーン国立歌劇場少年少女合唱団
                      ノルベルト・ヴァラッチュ:合唱指揮

                  (1975.10@ウィーン・ゾフィエンザール)

久方ぶりに全曲を聴く「マイスタージンガー」。
ワーグナーの作品のなかでも、黄昏やパルシファルと並んで長いものだから、最近ではよほどでないと聴く機会を持てない作品となってしまった。

このショルティ盤で、Ⅰ:85分、Ⅱ:61分、Ⅲ:123分。
合計4時間29分。
思えば、黄昏やパルジファルよりも長いかも・・・・

さて、ふたつあるショルティ盤の最初の方、なんといってもウィーンフィルの豊穣なる響きが魅力的だ。
シカゴ盤は、実は未聴で、ショルティ&シカゴということで、だいたい想像できるので、いまだに聴くことがなく、いまに至ってしまった。
ショルテイの剛直な指揮は、ウィーンフィルの柔らかな音色でもって、相当に中和され、同時期の録音である、シカゴとの「オランダ人」と比べるとかなりの違いがある。
ショルティは、おそらくワーグナーの主要オペラをすべて録音した最初の指揮者だと思うが、オランダ人を除いてそのすべてがウィーンフィルとなされたこと、そして、録音がデッカであったこと、それらが本当にありがたいことだ。

70年代、まだウィーンフィルがオペラのオーケストラであり、その丸っこい響きが独特の味わいを醸し出していた時期で、いまの国際的な存在となったマルチな響きとは違うような気がする。
柔らかなホルンの音色、ウィーンならではのオーボエ、木質の弦。
ことに、3幕の前奏曲や、五重唱の麗しさに陶酔境の想いで浸りきってしまった。
ショルティの切るような指揮ぶりも、ここではまったく想像できない。
ほんとうに、幸せなマイスタージンガーなのだ。

同じ時期に録音された、ヨッフム盤が、主役級を豪華メンバーで固め、ほかはベルリン・ドイツ・オペラの常設メンバーたちを配したのに比べ、こちらは、デッカならではの豪華版で、当時欧米で活躍していた理想的なキャストとなっている。

カラヤン盤から数年がたち、舞台を何度も経たルネ・コロの美声と余裕の安定感は最高の出来栄えのヴァルターだ。
シャープで紳士的なノーマン・ベイリーは普通すぎるけれど、そのブリテッシュな歌声は悪くない。
しかし、このザックスには、男の悲しい背中は感じさせてくれないかも。

あと、ステキなのは、ボーデのエヴァ。この役のスペシャリストの彼女、同時期のバイロイトでもエヴァやジークリンデで大活躍、美人さんだし。

クルト・モルのポーグナーも耳におなじみ、この深い声のポーグナーを聴いちゃうと、この人以外のポーグナーは考えにくくなるから不思議だ。同様の役が、ザラストロかな。
そして、いいんだけど、最初から最後まで自分には違和感のある、ヴァイクルのベックメッサー。
ザックスとのやりとりを聴いていると、どっちがどっちだかわからなくなる。
後年の名ザックスとしてのヴァイクルを聴いてしまっているからか・・・・。

しかし、配役をひとりひとりながめ、そしてその歌声を聴いてると、素晴らしい配役だし、当時は本当によかったなぁ、と思う。
こんなメンバーと大オーケストラをスタジオにあつめて録音できた時代。
いまではライブしかありえないオペラの贅沢な収録。
 そのデッカのゾフィエンザールでの優秀な録音は、ため息がでるほどに素晴らしい。
鮮やかな分離と、一方で溶けあう音の美しさ。
ウィーンフィルの魅力を、こうして録音でも引き立てているし、合唱が加わったときの豊かな広がりも見事。

これを聴いてる大晦日の午前。
いろいろあった2016年を送るに相応しい、そんな晴れやかな「マイスタージンガー」。
ハ調の、調和あふれる響きが、いまわたくしを包み込み、見上げる澄んだ青空も高揚感を増してくれるようです♪

みなさまよいお年を。

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2016年12月29日 (木)

バッハ クリスマス・オラトリオ シュナイト指揮

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冬のクリスマスのツリーの定番は、恵比寿のガーデンプレイス。

基本のカラーだけ、そして、装飾も基本のカラーに徹したシンプルな美しさ。

華やかだけど、華美じゃない。

毎年、手を加えてはいるでしょうけれど、毎年、ここが、わたくしのナンバーワンイルミ。

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ドイツのクリスマスマーケットでは、考えてもみたくもなかったテロ行為が起こり、キリストの生誕を祝う和やかなキリスト教者最大のイヴェントが、それすらを許さないごく一部の狂信者たちの行為により、ずたずたになった。

映像などでみた、踏み散らされ、破損したクリスマス・グッズを見ると、ほんとうにやるせない思いになった、そんな今年のクリスマスであります・・・・・

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  バッハ  クリスマス・オラトリオ

   Bs:フーベルタス・バウマン、フランク・ザーベッシュ=プア

   Cont:ミヒャエル・ホフマン

   T :ハイナー・ホップナー

   Bs:ニコラウス・ヒレブラント

 ハンス・マルティン・シュナイト 指揮 コレギウム聖エメラム

                        レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊

               (1977年6,7 @レーゲンスブルク 聖エメラム教会)


バッハの大作、でも実際は6つのカンタータの集積であり、クリスマスに全部一気に聴く必然性もいわけで、以下のような、降誕節にはじまる1月の祝日までを念頭においたもの。

   ①降誕節第1祝日 24日

   ②降誕節第2祝日 25日


   ③降誕節第3祝日 26日

   ④新年          1日

   ⑤新年最初の祝日 (2日) 

   ⑥主顕節        6日
      

>以下、一部以前の自己記事を引用<

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。

1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっているものだから、バッハの感性の豊かさに驚いてしまう。
バッハのカンタータは総じて、パロディとよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、兼、最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証し。

なんといってもこの「オラトリオ」の第1曲を飾る爆発的ともいえる歓喜の合唱。
これすらも、カンタータ214番からの引用だが、調性が違っているし、当然のことながら歌詞もまったく違う。
こんな風に分析するとするならば、この6つのカンタータの集積だけでも、カンタータの全貌を理解しつつ聴かねばならいからたいへんなこと。

 このクリスマス・カンタータにおいても、超有名な、マタイのコラール(それすらも古くからのドイツ古謡の引用であるが)が出てきたりする。

クリスマス音楽のお決まりとしての「田園曲」=「パストラーレ」は、第2夜のカンタータの冒頭におかれたシンフォニアである。
この曲だけでも単独で聴かれる、まさにパストラルな心優しい癒しの音楽である。
単独の演奏では、あまりにも意外な演奏だけれども、フィードラーとボストン・ポップスが好きだったりするくらいで、独立性のある名品であります。

それと、この曲集で印象的な場面は、ソロと合唱、ないしはエコーとしての合唱のやりとりの面白さと遠近感の巧みさ。
その場面においては、私のこの曲のすりこみ演奏であるリヒター盤の、ヤノヴィッツの歌が完璧に耳にあって、他のソプラノではどうしようもなくなっている。

リヒターの刷り込み演奏は、ひとえに第1曲が収められた、アルヒーフのリヒター・サンプラーというレコードゆえでして、そこには、マタイや独語メサイア、ハイドン、トッカータとフーガ、イタリア協奏曲など、マルチ演奏家としてのリヒターが浮き彫りにされた1枚であった。
当然に、布張りのカートンに収められた、「リヒターのクリスマス・オラトリオ」のレコードは、実家のレコード棚に鎮座する一品であります。

加えて、思い出深いのは、東独時代の古色あふれ、雰囲気豊かなフレーミヒとドレスデンフィルの演奏。
70年代の名歌手たちの歌唱にも感銘をうけます。

そして、数年前に入手したのが、ハンス・マルティン・シュナイト盤。
レコード時代に気にはなっていたものの、極めて地味な存在だった。
アルヒーフに、ヨハネやモテト、モンテヴェルディなどをそこそこに録音していたシュナイトだけど、あまりクローズアップされなかったし、わたくしもあまり気にとめてなかった。
そして、急逝したカール・リヒターの後任として、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団の指揮者になったけれど、残念ながら正規録音がなされなかったことも極めて残念なこと。

当時の雑誌を読んだりすると、マタイを振ってるし、なんと、オペラ指揮者としての経歴も豊富なため、リングも指揮してるし、ベルリン国立歌劇場と来演して魔笛も上演してることがわかったりしたことも、シュナイト師に親しく接するようになってから・・・・。

そう、東京フィル主体のシュナイト・バッハの活動のあと、神奈川フィルの指揮者となって、その多くのコンサートに接するようになった。
ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、シュトラウス等々、ドイツ本流、そして南ドイツ風の柔らかさもあわせもった本格的な名演を数々聴きました。
神奈川フィル以外でも、ヨハネとロ短調の圧倒的な演奏にも立ち会うことができました。

 そんなシュナイト師と中世ドイツの風合い色濃く残る街、レーゲンスブルクの高名な聖歌隊とのこちらの音盤。
南ドイツの古雅な雰囲気をたたえた、味わい深い演奏です。

70年代半ばの当時の古楽器も一部使い、オーケストラの響きは丸く優しい。
そして聖歌隊の無垢の合唱と、聖歌隊メンバーのボーイソプラノとコントラルトのソロは、現代の耳からすると、ちょっと厳しい点はあるかもしれないが、清らかで美しい。
 随所にあるコラールにおける、祈りの想いを強く感じさせるシュナイトならではの真摯な歌。実は、それらが一番素晴らしいかも。

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レーゲンスブルクのエメラム教会での録音も、こんな画像をながめながら聴くと、とても心あたたまり、清らかな気持ちになります。
ロマネスク様式に、途中バロックの華美さも加わった、ちょっと華やかな教会。
行ってみたいものです。

ことしもあと少し。

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