2024年7月16日 (火)

ラヴェル ラ・ヴァルス アバド、小澤、メータ

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平塚の七夕まつり、今年は7月5日から7日までの開催で、極めて多くの人出となりました。

オオタニさんも登場。

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なんだかんでで、市内の園児たちの作品を集めた公園スペースが例年通りステキだった。

スポンサーのない、オーソドックスな純な飾りがいいんです。

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こちらはゴージャスな飾りで、まさにゴールドしてます。

ドルの価値失墜のあとは、やっぱり「金」でしょうかねぇ。

去年のこの時期にラヴェル、今年もラヴェルで、よりゴージャスに。

いまやご存命はひとりとなってしまいましたが、私がクラシック聴き始めのころの指揮者界は、若手3羽烏という言い方で注目されていた3人がいました。
メータが先頭を走り、小澤征爾が欧米を股にかけ、アバドがオペラを押さえ着実に地歩を固める・・・そんな状況の70年代初めでした。

3人の「ラ・ヴァルス」を聴いてしまおうという七夕企画。

2023年の七夕&高雅で感傷的なワルツ

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 ズビン・メータ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

        (1970年 @UCLA ロイスホール LA)

メータが重量系のカラフルレパートリーでヒットを連発していた頃。
ここでも、デッカのあの当時のゴージャスサウンドが楽しめ、ワタクシのような世代には懐かしくも、郷愁にも似た感情を引き起こします。
現在では、ホールでそのトーンを活かしたライブ感あふれる自然な録音が常となりましたが、この時期のデッカ、ことにアメリカでの録音は、まさにレコードサウンドです。
メータの明快な音楽造りも分離のよい録音にはぴったりで、重いけれど明るい、切れはいいけれど、緻密な計算された優美さはある。
ということで、この時期ならではのメータの巧いラヴェル。
なんだかんでで、ロスフィル時代のメータがいちばん好きだな。

Ravel-ozawa

   小澤 征爾 指揮 ボストン交響楽団

     (1973.3 @ボストン・シンフォニーホール)

日本人の希望の星だった70年代からの小澤征爾。
こちらもボストンの指揮者になって早々、ベルリオーズ・シリーズでDGで大活躍。
次にきたのは、ラヴェルの作品で、この1枚を契機にラヴェルの生誕100年でオーケストラ曲全集を録音。
1枚目のボレロ、スペイン狂詩曲、ラ・ヴァルスは高校時代に発売された。
ともかく、小澤さんならではの、スマートでありつつしなやか、適度なスピード感と熱気。
カッコいいのひと言に尽きる演奏だといまでも思ってる。
しかし、発売時のレコ芸評は、某U氏から、うるさい、外面的などの酷評を受ける。
そんなことないよ、と若いワタクシは思ったものだし、新日フィルでのラヴェル100年で、高雅で感傷的なワルツと連続をて演奏されたコンサートを聴いたとき、まったく何言ってんだい、これこそ舞踏・ワルツの最高の姿じゃんかよ!と思ったものでした。
同じころの、ロンドン響とのザルツブルクライブもエアチェック音源で持ってますが、こちらは熱狂というプラス要素があり、最高です。

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        クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

        (1981.@ロンドン)

なんだかんだ、全曲録音をしてしまったアバドのラヴェル。
その第1弾は、展覧会の絵とのカップリングの「ラ・ヴァルス」
メータのニューヨークフィルとの「ラ・ヴァルス」の再録音も同じく「展覧会の絵」とのカップリング。
ラヴェルの方向できらびやかに演奏してみせたメータの展覧会、それとは逆に、ムソルグスキー臭のするほの暗い展覧会をみせたのがアバド。
アバドのラ・ヴァルスは、緻密さと地中海の明晰さ、一方でほの暗い混沌さもたくみに表現している。
1983年のアバドLSOの来日公演で、この曲を聴いている。
しかし、当時の日記を読み返すと、自分の関心と感動の多くは後半に演奏されたマーラーの5番に割かれていて、ラヴェルに関しては、こて調べとか、10数分楽しく聴いた、オケがめちゃウマいとか、そんな風にしか書かれておらず、なにやってんだ当時のオマエ、といまになって思った次第。
スピードと細かなところまで歌うアバドの指揮に、ロンドン響はピタリとついていて、最後はレコーディングなのにかなりの熱量と、エッチェランドで、エキサイティングなエンディングをかもし出す演奏であります。

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2年前の七夕の頃に暗殺された安倍さん、そしてあってはならないことに、アメリカでトランプ前大統領が銃撃を受けた。

世界は狂ってしまった。
しかし、その多くの要因はアメリカにあると思う。
自由と民主主義をはきかえ、失ったアメリカにはもう夢はないのか。
そうではないアメリカの復活が今年の後半に見れるだろうか。
日本もそれと同じ命運をたどっている、救いはあるのか・・・・

Tanabata

平和を!
平安と平和ファーストであって欲しい。

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2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


 ーーーーーー

このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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2024年6月30日 (日)

シュレーカー 「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 日本初演

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               (東京都清瀬市のけやきホール)

日本ではいまだに本格的な舞台上演のないシュレーカーのオペラ。
唯一、演奏会形式では「はるかな響き」のみがあるのみ。
こうしたなかで、シュレーカーの作品のなかでも、極めてマイナーで、かつ独創的・実験的な「クリストフォロス」を果敢に取り上げ、上演に導いていただいだ田辺とおるさんをはじめとする関係者の皆様に、感謝と敬意を最大限に表したいと思います。

ヨーロッパでは、「はるかな響き」「烙印をおされた人々」「宝探し」の3作がメジャーな劇場で上演されるようになり、さらには地方の有力劇場でも、シュレーカーのオペラは取り上げられつつある。

そんななかで、今回の本邦初演は、作者存命中はあたわず、1978年にフライブルグで初演され、1991年にウィーン交響楽団でコンサート形式で演奏(メッツマッハー指揮)、その後はCDとして残された2001年でのキール上演以降の世界で3度目の上演、4度目の演奏なんです。
シュレーカーのオペラを全部聴いて、ブログに残そうとしている自分にとって、こんなまたとない日本初演の機会でした。
全10作あるシュレーカーのオペラ、ブログ記事は、作品としては7本目となります。
残りは3作ですが、最終の「メムノン」は未完作ですので、あとふたつは、すでに視聴済みで記事にできるように今後聴き込んでいきたいと思います。

あらためて、フランツ・シュレーカー(1878~1934)について、過去記事から引用しておきます。

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・
ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。
強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。どこか遠くで鳴ってる音楽。

クリストフォロス」は、シェーンベルクに捧げられた1929年完成の作品で、シュレーカーのほかのオペラ作品は次のとおり。
下線は過去記事へと飛びます。

 ①「Flammen」 炎  1901年
 ②「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年
 ③「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年 
 ④「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年
 ⑤「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920
 ⑥「Irrelohe」   狂える焔   1924~29年
 ⑦「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1929

 ⑧「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年
   ⑨「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年 
 ⑩「Memnon」メムノン~未完   1933年

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この作品、唯一の音源、そして世界で2度目の上演のライブ。 
2001年から2003年まで行われたキールオペラでのシュレーカー・シリーズの一環で2002年のライブです。
音源としては耳になじませてはいたが、英語の解説を読んでもちんぷんかんぷんで、そのせいもあり弊ブログのシュレーカーのオペラシリーズもこの作品で足踏み状態だった。

この度の日本初演に接し、さらにyoutubeでのプレイベントや詳細なるプログラム、さらにはそこに全文掲載された田辺とおるさんの訳による台本、これらにより、おぼろげだった「クリストフォロス・・・」というオペラの姿が見えるようになった。
ほんとうにありがたいことです。

まずは、このオペラにはその伝説は直接に登場しないけれど、必ず頭に置いておかなくてはならないこと、「聖クリストフォロス」のこと。
公演パンフレットにあったものがとても分かりやすいので、ここに貼り付けます。
クリックすると別画面で開きます。(使用に支障ございましたらご指摘ください)

St-christphorus

オペラの登場人物

 アンゼルム(テノール):作曲家でヨハン先生の弟子
 リーザ(ソプラノ)  :ヨハンの娘、アンゼルムに思いを寄せていた
 クリストフ(バリトン):作曲家でヨハン先生の弟子、リーザと結婚
 ヨハン先生(バス)  :信望厚い作曲の先生で弟子多し
 ロジータ(メゾソプラノ:2幕で登場するシャンソン歌手
 シュタルクマン(シュプレヒ):評論家(シュレーカーの批判者のモデル)
 霊媒フロランス(ソプラノ):2幕でリーザを召喚するイタコ
 ハインリヒ(バリトン):ヨハン先生の弟子
 フレデリク(バリトン):ヨハン先生の弟子
 アマンドィス(バリトン):ヨハン先生の弟子
 エルンスト(テノール) :ヨハン先生の弟子
 子供(ソプラノ)    :クリストフとリーザの子
 ハルトゥング博士(バスバリトン):クリストフを観察する心理学的先生
 カルダーニ神父(バス・バリトン):霊媒師に付き添う神父
 待女エッタ(アルト)  :リーザの家政婦さん

シュレーカーのオペラの常で、登場人物は多く、そして多彩で多面的な存在で、それぞれに存在価値を示すのでまったく気が抜けないし、それぞれの歌手が、このオペラではシュプレヒシュティンメ的な存在を求められるので高難度。
歌と語りが混在し、語るようでいつの間にか長い旋律や絶え間ない変転を繰り返す歌へと常に移行するので、歌手はまったく大変だと思う。

オペラの構成

プロローグとエピローグを挟んで、2場からなる第1幕と第2幕とで構成
プロローグでヨハン先生から作曲の課題の提示があり、弟子たちが取り組む。
第1幕の本編以降は、作曲をするアンゼルムに、凡庸ゆえに作曲を卒業して愛に生きるクリストフ、悩み多きリーザの3人を中心とした劇の展開となり、劇中劇の様相を呈する。
さらに、この劇中劇は2幕の後半では、さらなる劇のなかの劇的な展開となり、劇中劇の劇となり、エピローグにつながり、調和和声のなかに音楽と劇も閉じる。
こうした構成が、音源ふだけではマジでややこしく、わからなかった。

オーケストラ

通常の編成に加え、ミュージカルソーという手鋸を弦で弾く珍しい楽器、ピアノ、チェレスタ、ギター、バンジョー、サックス、ハーモニウムなど当時の新機軸ともいえる楽器が総動員されている。
そして、作者の指示で、曲の冒頭や各幕の頭には、鐘が鳴らされる。
宗派によっては、聖クリストフォロスが守護聖人のような存在とされることへのリスペクトでありましょうか。
 今回の上演では、弦楽は最小限に抑えられたアンサンブルとし、金管・木管・打楽器などは2台のエレクトーンで代用。
これが普段聴いていたCDとほぼ類ない再現度合いで、むしろ緊張の度合いや、音楽への集中力を高める効果もあったことは大絶賛していい。

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 シュレーカー クリストフォロス、
           あるいは「あるオペラの幻影」


   アンゼルム:芹澤 佳通   リーザ:宮部 小牧
   クリストフ:高橋 宏典   ロジータ:塙 梨華
   ヨハン先生:岡部 一朗   シュタルクマン:田辺 とおる
   霊媒フロランス:大澤 桃佳 ハインリヒ:金子 快聖
   フレデリク:上田 駆    アマンドゥス:長島 有葵及
   エルンスト:西條 秀都   子供 :長嶋 穂乃香
   ハルトゥング
博士/司会者:ダニエル・ケルン
   ガルダーニ神父:ヨズア・バルチュ
   待女エッタ:中尾 梓
   ピアニスト:小林 遼、波木井 翔
   ホテルの客:小野寺 礼奈、小林 愛侑、西脇 紫恵

  佐久間 龍也 指揮 クライネス・コンツェルトハウス
          エレクトーン:山木 亜美、柿崎 俊也

   演 出:舘 亜里沙

   公園監督:田辺とおる

          (2024.6.23 @けやきホール、清瀬)

プロローグ

アンゼルムは、思いを寄せる教師の娘リサのことを考えているが、作曲コースの同僚のハインリヒ、アマンドゥス、エルンストは彼を「女々しい」「愚か」「恥さらし」などとからかっている。
聖クリストフの伝説について弦楽四重奏曲を作曲するという課題をヨハン先生が生徒たちに与えていた。
ヨハン先生は、この伝説を生徒たちに順繰りに語らせ、生徒たちも素晴らしい素材だと熱狂する。
 アンゼルムはその仕事に不満を抱き、四重奏曲ではなく、ドラマテックなものを求める。
「甘くて魅惑的な悪魔のような女性」が欠けていると語る。
伝説における悪魔の役割は、リーザによって演じられるべきだと確信し、陶酔する。
リーザがやってきて、不埒なことを言うのではなくてよと、彼女は彼の顔を殴ります。
ひざまずいていたアンゼルムはそこへやってきたクリストフに引きずり上げられ、恥を知れと侮辱。
クリストフはヨハンの作曲クラスに参加して「私が最高だと思う芸術に奉仕」したいと歌う。

第1幕 1年後

アンゼルムはオペラの制作に取り組んでいる。
モノローグでは、インテッルメッツォという名でひとつの幕を加えると歌う。
 彼やヨハン先生の両方に敵対する批評家シュタルクマンが訪ねてくる。
婚約したという若いクリストフに会いたがっているが、アンゼルムはクリストフをこきおろす。
 アンセルムは仕事を続け、エピローグの仕立てに悩み、伝説の存在が頭をめぐるといらつく。

クリストフとリーザやって来て、クリストフはシュタルクマンが彼の交響曲の演奏を推薦したいといったと報告する。
アンゼルスとリーザの間ではいさかいがいまだに残る。
クリストフはアンセルムスを擁護し、よく話しをしなさいと出ていく。
彼女がアンゼルムを怖かったのは彼女が戦おうとしている自分自身のなかにあるなにかの存在の一部に似ているからである。
アンゼルムは感情を爆発させ、あのときからあなたに縛られ鎖につながれていると激しく歌い出ていく。
リーザはショックを受け飛び出していく。

ヨハン先生は 、教師として、また人間としてもの自分の失敗についてクリストフに反省とともに語る。
クリストフは、愛が最も強い力であると強調し、けっして芸術ではないと歌う。
愛であるリーザに今後は使えたいと熱く語り、そこに居合わせたリーザも最愛の人と感激する。
 他の生徒たちは彼女の婚約を祝福するようにいろいろなプレゼントを捧げ、。レデリクは完成した弦楽四重奏曲を捧げる。
シュタルクマンの登場にヨハン先生は困惑するが、クリストフはこれを許し記事の作成も許諾。
そこで、クリストフは、芸術との別れを宣言する。
アンセルムスはリサに自分のオペラの第 1 幕を贈り物として贈る。「弱きものは、永遠で人生と世界を浄化する」と語る。

リーザの部屋。リーザは出産後、自分が美しくなくなったと感じて悩む。
クリストフはアンゼルムに嫉妬していて、そのオペラではリーザが「液体ガラスのように流れ輝き、繊細で銀色、邪悪で狂気の音楽」に合わせて踊ることになっていると歌う。
クリストフはベールのコスチュームを見て怒りに燃える。
クリストフは母としての聖なるものをリーザに感じるが、子供を運ぶことは、リーザにとっては重荷であると考えている。
クリストフは同情はするが、子供のこと、わたしのことも考えてと彼女に警告し去る。

アンゼルムが登場し、自分のオペラの大きな場面が始まろうとしていることを認識。
リーザは、炎、波、罪という地球の精霊の3つをアンゼルが朗読したテキストに合わせて踊る。
踊りながら罪とはなんて柔らかいのだろう、しかし罪は人を滅ぼすと歌いつつ、その罪は勝利すると陶酔。
「あなたは私を思い通りに創造した、私のなかで踊る悪魔を呼び出した」
やがてふたりは抱き合う。

アンセルムスが自分の仕事のコントロールを失っていることに気づくが、、クリストフはその場面を見てしまった。
笑っているのは悪魔だ、死ねと激しく笑い始めたリーザを撃ち殺す。
リーザは「ただの遊びだったのに…」と言い残して息を引き取る。
アンゼルムは捕まるまえに、クリストフを君がすきだからと逃避行を手伝う。

第2幕

ホテル・モンマルトル
アンゼルムとクリストフがジャズバンドで演奏するダンスホール。
ダンスホールともう一方にはアヘンの煙が立ち込める奥の部屋。
ハインリヒは心理学者の博士と一緒に座っている。
ハルトゥングは奥の部屋にいて、彼が唯一認め、逮捕から守りたいと思っているクリストフを救出する計画を立てています。
しかし、ハルトゥングは主にクリストフを心理学的に興味深い症例として見ており、ハインリヒは物乞いへと陥ったヨハン先生とその孫を助けに行く。

シュタルクマンはいまでは海の向こうの音楽に未来を見ている。
ロジータがアンゼルムのシャンソンをピアノ、サックス、ドラムの伴奏で歌ってている間、クリストフはアヘンをやり酩酊のなかにはいりこむ。
司会者に導かれ、霊媒師が死者を呼ぶことができる、みなさんのなかで誰か?と誘うとすかさずクリストフが手をあげる。
アンゼルムはことのなりゆきに、怒り、私の最終章は陳腐で感傷的なものになりさがると嘆く。

禍々しい雰囲気のなか、霊媒師フロランスとクリストフの対話が続き、クリストフが自分が殺し、最後の言葉は、ただの遊びだったとのことを告白。
霊媒師は興奮して、彼ら来る、はここにいると金縛りに会う・・・・

場は変わり、早朝の光のなか、老いたヨハン先生と子供がそれぞれギターとタンバリンを持って出てくる。
子どもは歌う、親愛なるみなさん、どうかお恵みを、僕には父も母もいません、喜んで歌います・・・ラ、ラ、ラ、春風に凍えている、お恵みを、と涙を誘います。
クリストフは目が覚めたようにふたりのもとへ駆け寄る・・・・

        間奏曲

エピローグ

目に見えない声が、老子の『道徳経』の文章を読み歌う。
ここは長く、極めて難解、ここを読み解くのは、今後の課題だし、シュレーカーの音楽の鍵にもなる部分と知った。。。

プロローグと同じ音楽たちの部屋。
アンゼルムはヨハンとリーザに見守られながら、楽譜が足元に乱れ、完成できないオペラに休みなく取り組む。
我が子の世話をするクリストフに話しかける。クリストフと子供はヨハンとリサには見えない。
クリストフは芸術も愛も乗り越え、罪悪さえも制服した、かつて同名の祖先が皇帝と悪魔に仕えたように、地上のあらゆる権力に身を捧げた。
しかし、舞台の中でしか生きることができなかったと淡々と語る。
これにアンゼルムは傷ましい真実、彼は創造主となり、私たちは幻にすぎないと嘆く。
このアンゼルムに対し、リーザは同情し、わたしのせいだと父に救いを求める。

アンゼルムにしか聞こえないクリストフの独白は続く。
子どもに向かい、その目に映る唯一の神格を認め、仕えたいと表明しいかに謝罪するか、最後の慈悲に値するかを問う。
アンゼルムは、そんなの黙れ、ヨハン先生も聞いているとささやく・・・
子どもは、わたしを背負って水のなかを運んでください、僕はますます重くなる、私たちは沈み溺れる・・・そして光のなかで燃えつきる。
お父さん、この苦しみを終わらせてと歌う。
私を家まで連れていって、家へ、家へ、来た場所へ・・・・
クリストフは、子どもを連れて舞台奥へ静かに歩み去る。

ヨハン先生は、アンゼルムに、お前は心の声を聞いている、お前の創った人物はお前のなかに生き、自身となる。
音楽であってそれ以上のものではない、四重奏曲なのだ、息子よ。と語る。

「アンダンテ・コン・リゴーレ」、黒板に向かい作曲の筆をとる。

「彼は子供を背負い、子供が彼を導く、孤独な道を」

音楽は四重奏による平穏な調と和声となり、最後はオーケストラも相和し、平和な雰囲気のうちに閉じる。

                

長いあらすじを起こしてしまいました。
田辺さんによる翻訳台本、CDのリブレット、ネット上の書き込みなども参照にしました。
こうしたオペラは、数年すると、その内容もおぼろげになるので、あとで見返す自分のためにもです。

本編の劇中劇のなかでも、アンゼルムは劇から飛び出し、劇中劇のなかの劇にまで進んでしまう。
マトルーシュカのような多層的なオペラだけれど、これを2時間の枠に収めたことで、展開が性急となり、理解が及ばないという恨みもあり。

しかし、こんな馴染みのない作品を、今回、見事に間断なく歌い演じた歌手のみなさんは大いにリスペクトすべきであります。
ダブルキャストで、わたしは2回目の上演でしたが、その素晴らしい舞台に接し、また前日はクロスするように交換した役柄もあり、双方を確認してみたかった。

没頭的かつ熱狂的なアンゼルムを歌った芹澤さんは、その姿もスタイルもまさにシュレーカーのオペラに相応しい声と演技でした。
リーザの宮部さん、CDでのベルンハルトは、やや不安定な歌唱がまさに揺れるリーザに相応しかったのですが、彼女の正確な生真面目な歌唱が、逆にリーザの複雑な心理とその存在を歌いこんでいたのではと思った。
いくつもダンスのシーンもあり、これは難役だと思いました。
それとクリストフ役の高橋さん、暖かいバリトンは、途中、嫉妬に走り、さらには狂気の世界に入る投役には優しすぎるかとも思いましたが、でも最後に到達した境地を淡々と歌った場面で、これもまたいい役柄でもあり、素敵な声と演技と認識しました。

この上演の立役者、田辺さんの憎たらしい評論家も存在感ばっちり。
最後の舞台挨拶でおっしゃってましたが、「ヴォツェック」からの冒頭場面、大尉がヴォツェックにむかって言う「Langsam Wozzeck、Langsam・・」このフレーズを、評論家の言葉のなかに入れたらしい。
そう、わたしも「あ!」と思いました。
ヴォツェックやベルクもこのオペラをひも解くキーだと思うので、まったく見事としか言いようがありませんね。

若い学生たちも、みなさんそれぞれに立派で力強い声で、その声はしっかりと客席に届きました。
霊媒さんも、子供の無垢な雰囲気も、いすれも声も姿も可愛い存在でしたね。
ふたりのドイツ人出演者、正直、ドイツ語のほんものぶりは、際立ってました。
とはいえ、語りの多いこの難解な作品を、原語上演で完璧に仕上げたこのプロダクションは、日本人として誇るべき精度の高さと音楽性の豊かさ、共感力の高さにあふれたものでした。

ウィーンで学び、オペラの経験も厚い佐久間さんの、適格な指揮もよかったです。
エレクトーンと弦楽アンサンブルで、ここまで雰囲気よくピットのなかのオーケストラが再現できてしまうことにも驚き、素晴らしく感じましたね。

比較的小ぶりなホールで制約のあるなか、全体をコンパクトにまとめつつも、緊張感ある舞台に仕上げた演出の舘さん、実によい出来栄えだったと思います。
ともかく簡潔でわかりやすい、これがいちばん。
紗幕のうまい使い方で、劇中劇と前後のプロローグ、エピローグの対比がしっかりできた。
100年前の社会様式が、いまでは陳腐ともなりかねないが、それが今の世の中にぴったりフィットするような動作や所作。
光と影を巧みに表現。
アヘン窟ではスモークでその怪しげさ満載の舞台となり、そこにいた、それぞれの思いをもった人物たちの怪しい思いがよくわかる仕組みに。
このように、ともかくわかりやすい舞台を仕上げてました、日本初演の舞台として、この簡明さは大正解だと思いました。

このあと、シュレーカーのこの音楽の印象や、自分が思った聴きどころなどは、追加で補筆したいと思います。

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2024年6月26日 (水)

アバド&ロンドン交響楽団

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この周辺に20年ぐらい仕事をしつつ、なかば住んでました。

離れてみても、たまに行く都内は、日々変化していて、ずっと変わらない景色というものがない。

あふれかえる内外の人々も同じく、常に変わり、流動してます。

しかし、大都会の東京は、アメリカのNYとかLAのようにでなく、日本人主体のカッコいい都市であり続けて欲しいと思います。

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いま世界の大都市が、その国のオリジナルの姿でなく、多様性の言葉のもとに、広範な思想や他民族のもとに、似て非なる多様性のもとにさらされ、本来の姿を失いつつあります。
ロンドンもその典型で、いまやネイティブのロンドン市民は少数派となり、7割くらいが他民族と化し、ネイティブは国内の他の地に移り住んでいるともいいます。

敬愛するクラウディオ・アバドの生誕に、アバドの愛したロンドンの地のいまを思うにあたり、アバドのいたロンドン響をあらためてふりかえってみようと思いました。

アバド91回目の誕生日に、まだとりあげてないオペラの記事にしようかとも思いましたが、数日前に観劇のシュレーカーのオペラ記事もまだ未完だし、なにかと忙しく、そうだ相思相愛だったロンドン響で行こう!と思ったのでした。

アバドとロンドン響の録音は、いま手持ちのものを数えたら47種ありました。
全曲ものなどは枚数でカウントしました。
ロンドン響とのアンソロジーCDボックスは46枚組で、しかもニューフィルハーモニアやECオケなども含んでいて、逆にRCAへの3枚がないので、差し引き47種が正解かと。
1966年から1988年までの22年間での録音記録です。

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ロンドン交響楽団は、1979年にプレヴィンのあとの首席指揮者としてアバドを楽員の総意で首席指揮者に任命。
さらに楽団初の音楽監督として、1983年の日本に来日公演中に就任。
当時の楽員代表のオーボエのキャムデンは、モントゥー時代のフランス、ケルテス時代のスラヴ系、プレヴィンにおけるロシアと英国系。
これらの伝統をふまえつつ、ベームに総裁を依頼してドイツものを、同時期のアバドにはそのうえでのオールラウンドなレパートリーを見こし、望んだという当時の楽員の総意を述べておりました。

ロンドン交響楽団のポストは、1979から1988年の9年間でした。
任期の延長は楽団もロンドンっ子も熱望しましたが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督や若いヨーロッパ室内管の指揮で多忙だったアバドは、惜しまれつつロンドンを去ることになりました。

実演では、いつもお世話になっているアバド資料館によりますと、アバドは1966年10月の共演以来、1988年11月の最後の演奏会までとあります。
最初の演奏曲目は、「ヒンデミットのウェーバー交響的変容、ベートーヴェン協奏曲4番、展覧会の絵」
最後の演奏曲目は、「プロコフィエフのチェロ協奏交響曲(ロストロポーヴィチ)、ダフニス全曲」
最初と最後、いかにもアバドらしいプログラムです。
プロコフィエフが好きだったアバドは、チェロ協奏交響曲を録音しなかったのが残念ですが、ダフニスはこのとき録音されて、ラヴェル全集を完成させました。

こんな数あるアバド&ロンドン響の音盤を順位付けなどできません。
いずれも自分には懐かしく、そして輝かしい演奏ばかりなのですから。
ですが、あえて大好きな演奏を列挙します。
楽団がアバドに期待したもの、アバドはほかでは、こんなに自由にふるまえなかったもの、こんなレパートリーを選んでみました。

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①「ロッシーニ チェネレントラ」
セビリアもよいが、アバド初のオペラ録音で、かつ何度も上演して手の内に入った清新極まりない演奏。
ロッシーニ演奏の新たなルネサンスの一翼を担ったアバドならでは、またオーケストラのニュートラルな素質が最大限活かされている。
2種ある序曲集も、ほんとうはヨーロッパ室内管よりも好きだったりします。
あと強いて申さば、ベルリンでもロッシーニ序曲集をやって欲しかったものです。

②「ストラヴィンスキー」
三大バレエとプルチネッラ、小気味よく、軽々とした、スマートかつスポーティな演奏に思う。
ハルサイは、同曲で一番好きな演奏だし、高校時代から擦り切れるほどに聴いた。
ウィーンで録音しないでくれてよかった。

③「モーツァルト」
最後のふたつの交響曲は、極めつくした構成感とキリリとした完璧な造形とで、立派すぎる演奏。
のちに古楽的なアプローチをみせた晩年のスタイル、また流麗でオケの自在さを活かしたようなベルリンフィルでのモーツァルト、これらと明らかに違うモーツァルトは、さかのぼって聴いてみても特有のアバドならではの古典とロマンを感じさせる名演です。
ゼルキンとの7CDにおよぶピアノ協奏曲シリーズも、豊かすぎる音楽がそこにあり、枯淡のゼルキンがロンドンのブリテッシュモーツァルトスタイルにしっかり乗っていることを実感できる。

④「メンデルスゾーン」
清潔さと歌心にあふれた気持ちのいいメンデルスゾーンは、アバドとLSOの独壇場。
60年代のデッカへの録音の方が、わたしは、ともかく歌いまくる演奏で大好きなのですが、もっと大人な落ち着きと、LSOの美質を活かした、これぞイギリス的な演奏もいいです。
デッカとDGの録音のイメージの違いを聴きとるのも楽しい。

⑤「プロコフィエフ」
古典、第3交響曲、ロメジュリ、道化師、アレクサンダーネフスキー。
どれもこれも素晴らしく、同曲の最高の演奏といえる。
とくにネフスキーは、爆発力と原色のむき出しの音色が、アバドとLSOでさらに研ぎ澄まされ、それを明るい音色で解放してしまう、ユニークな名演。
いまや人気曲の第3交響曲のすごさにも、若いアバドは敏感に反応していた。

⑥「ビゼー」
アルルとカルメン、アバドが、そこにともにある「ジプシー」という概念を感じ共感して渋い演奏を打ち立てた。
華やかさはともになく、ドラマ性と共感力でもって仕上げたビゼーの世界はいまでもユニーク。
ジプシーにまつわる音楽をアバドはずっと演奏し続けたと思います。

⑦「ムソルグスキー」
アバドが愛したムソルグスキー。
アバドのムソルグスキーは渋く、内省的。
その音楽の背後にある社会性に着目して、さらには新ウィーン楽派にも通じる革新性と求心性をも感じて演奏していたものと思う。
RCAレーベルに録音した、「はげ山」のオリジナルや、ほかのオペラの断片など、クソ渋さを情熱でもって熱く演奏した。
1回目の「展覧会」など激シブです。

⑧「ブラームス 交響曲第4番」
ロンドンでは、4つのオケを振り分けた交響曲全集で4番の演奏に選択。
録音がイマイチながら、ゴシック調の渋さと、音色の明るさ、さらには熱のこもった没頭感なども引き出した意外なまでの名演に思う。

⑨「ヴェルディ」
スカラ座で指揮しつつ、ロンドンでの活動。
オペラ録音を残さなかったけれど、シンフォニックでありつつ、歌にあふれた鮮やかなロンドンでの序曲集は、のちのベルリンでの輝かしさとはまた違った名演。
東側のブルガリアの巨星、ギャウロウのヴェルディの素晴らしさを若いアバドが引き出したアリア集も、ロンドンのオケがオペラのオケであるかのような驚きを与えてくれる。

⑩「ドビュッシーとラヴェル」
このふたりのフランスの作曲家も、アバドとLSOでは、ほの暗い、薄明りのなかの感覚にあふれた、でもフランス的なホワットしたイメージでなく、明確で透明感あふれる音楽となる。
ラヴェルでは、そうした一面と、熱い歌心が爆発していてオケを熱狂させるボレロも生まれた

⑪「コンチェルト」
合わせものでは、常に奏者たちからの信頼の厚かったアバド、なかでもLSOとのコンビでの名演奏は数知れず。
アルゲリッチとの伝説級のショパンとリスト、ベルマンとのラフマニノフ、クレーメルとの四季、ブレンデルとシューマン、先にあげたゼルキンのモーツァルト、そして超名演・名録音のポゴレリチとのチャイコフスキー。

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結局、そのすべてを聴きこんで馴染んでる「アバド&LSO」、ぜ~んぶ大好き。

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再掲となりますが、アバドとロンドン交響楽団の1983年のワールドツアーの一環での日本訪問

東京公演すべてを最上の席で聴いた。
独身のサラリーマン生活も慣れたもので、そのわずかな給料は音楽と酒につぎ込む日々でした。
まさに、酒と音楽の東京での独身生活の日々。

 ①ストラヴィンスキー 「火の鳥」

   マーラー       交響曲第1番「巨人」 

          (1983.5.17 昭和女子大、人見記念講堂)

 ②ラヴェル       「ラ・ヴァルス」

  マーラー       交響曲第5番 
    
          (1983.5.19 @東京文化会館)

 ③バルトーク      「中国の不思議な役人」

   ベルリオーズ      「幻想交響曲」

   ブラームス      ハンガリー舞曲第1番 (アンコール)
             (1983.5.20 @東京文化会館)

いずれもS席という、いまや生活に疲れ果てた老境の域にある自分には眩しすぎる席での鑑賞。
最初から最後まで、アバドの指揮姿に釘付け。
スカラ座来日のシモンでのピットの中のアバドも近くで観劇しましたが、コンサートでの指揮姿はまた格別。

大好きなアバドの指揮ぶりが、まさに目と鼻の先、2mくらい? で展開されたのだ。
思ったより大きい身ぶり。スカラ座のときより派手じゃないかな。
しかし、的確な動き、そしてクライマックスを築く巧さ、やはりLSOだと安心して力が入るのかな・・・・」
当時の日記から。
ここは、あらためて日記を読み返し、追加で書き足す予定です。

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パンフレットには、LSOのパトロン、エリザベス女王のお言葉もありました。
女王陛下のオーケストラとも言われた当時のロンドン交響楽団です。
まちがいなく、ロンドン交響楽団はアバドの時代がひとつの黄金期でした。

アバドはやりたいことが心置きなくできるオーケストラだったし、オーケストラもアバドに全幅の信頼を最初から最後まで寄せ、アバドの思う音を素直に音にしたフレキシブルな存在でした。
ラトルがミュンヘンに転出したことは残念でしたが、そのあとのロンドンのお膝元にいた、パッパーノの就任は、LSOにとって最高のパートナーの選出だったと思う。
パッパーノは、アバドに近いものを感じる、ワタクシですから。

Abbado-queen

クィーン・エリザベスとアバド。
奥はアバド大好きのオーボエ、キャムデン、手前はコンマスのマイケル・デイヴィス。
アバド時代に開設した、バービカンホールでのひとコマかと思われます。
みんな物故してしまった・・・・

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ロンドン時代、アバドは、ほんとに好きなこと、やりたかったことを次々に行いました。

マーラーを中心とする、ウィーン世紀末の音楽文化祭を行いました。

こうした試みは1985年当時、まったく革新的なことだったし、こうした試みを、次のウィーンとベルリンでもさらに充実させて成し遂げたアバドのすごさを、もっと知って欲しい。

同時にベートーヴェンのチクルスなどもロンドンでは行っていて、その音源はLSOの音源サイトで聴くことができます。

ウィーンとベルリンで残されたベートーヴェンやブラームスの一部、ロンドンでも正規に残して欲しかったです。

アバドはほんとうに、クレヴァーな指揮者だったし、ミラノ・ウィーン・ベルリンでは制約がありすぎて出来なかったことが、ロンドンでは次々にできた。

ミラノ・ロンドン・ウィーン・シカゴ・ベルリン・ルツェルン・ボローニャ(フェラーラ)。。。。
アバドの生涯を俯瞰するなか、それぞれの時代を、それぞれに大好きですが、私はロンドン時代が、自分の若き日々と重ねることもできて、忘れがたく捨てがたいものであると日々思ってます。

これからもアバド兄の音楽を新鮮な思いで聴き続けたいと思います。

6月26日 アバドの誕生日に

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2024年6月23日 (日)

コメント承認制への移行

いつも拙い音楽ブログをご覧いただきありがとうございます。

以前は毎日の更新を常としたときもございました。

仕事のこと、私生活のこと、いろんなことからそれも能わなくなり、いまのライフスタイルから週1更新でなんとかまわすことができるようになりました。

いつも書いてることですが、こちらは自分の音楽日誌のような記録の積み重ねです。
プロバイダーさんに対価を払い、スペースをお借りして、自分の日記を公開しています。
いちばんの読者は自分です。
あのとき、あの場の自分はどんな音楽を聴いていたかを、いちばん読み返して喜んでいるのが自分です。

ですから、そんな自分の思いに共感いただいたり、意見をいただいたりするのも、こうした公開ブログの面白さであり楽しみです。

こうした場所では、暗黙のルールや節度があり、そのうえで、わたくしも時間を作りだして記事を書く楽しみもうまれます。

こんなスタイルを、ここにいらっしゃる皆様はご理解いただき、記事をご覧いただいてるかと思い、あらためまして感謝したします。

そうしたいままでの皆様の思いを大切にいたしたく、この際、コメントフリーに制限をもうけさせていただくようにいたしました。

すべてのコメントをありがたく拝読し、返信もさせていただくことを常といたします。

ご理解いただきまして、コメントの精査と送信の際の節度をみなさまにはよろしくご理解のほどを賜りますようお願い申し上げます。

Kanazawa

2024年6月23日 追記

本日は、前から楽しみにしていたオペラの日本初演を、私事と荒天の重なるなか、体験できました。

このブログでは重要なチクルスの一環なので、それを観劇できた喜びはとてつもなく大きく、当然に重要な観劇体験の記事を起こす気が満々です。
さらに、6月26日は、本blogのなかでも最大の「アバド生誕」の日です。
こうした少ないターゲットに絞り込むのが、いまのブログ更新のスタイルです。

私生活をさらすわけではありませんが、幸いなことに、この年齢を経て重用される仕事が多忙であり、高齢の親の介護、共働きの娘の孫の世話・・・、そんな日々を送っているなかでのブログの管理です。

19年続けたブログで、多くの知己も得て、さらには実際にお会いし、盃も交わし、わかりあっている仲間もいまだに数多く感謝の限りです。
そんななかで、仕事の失敗も要因し、ブログを停止した時期もありました。
そのとき周辺のコメントには、まったく対応できませんでした。
私の苦境を理解されている仲間も、あのときは多かったと思います。
ありがたく見守っていただきました・・・

またコメントに関して申せば、ブログ停止で返せない時期、ブログを放置した時期があり、そこでのものは対応してません。
加えて、過去記事への熱心なコメントも、ときにお返ししてません。
その点はなぜかといえば、記事更新が少なくなり、記事を起こすときのモティベーションは、その次に記事に集中します。
若い頃とことなり、集中力や創作力は、自分でも驚くほどに落ちてます。
気力がなくなるなかでの日々、過去を掘り起こすコメントはあいがたいことですが、ときに、そのときの瞬間の気持ちでいうと苦痛に感じるときもあります。
さらには年月が経過し、気持ちが離れている作品や演奏も正直ありますので・・・・
そうした意味で、すべてのコメントにはご返信できてません、誤ったことを書きました。

わたくしの私的な書き物をお読みいただき、反応いただくことこと、これこそが感謝です。

暗黙の了解を求めるのは、以上のとおり、長年の蓄積をご理解いただくこと、さらには仲間として知己を得ている方々が多くいるという、わたしの勝手な思いからです。
それでも、どんなルールでコメントを受けるのか、コメント返信の仕方などにご意見をされるのであれば、いまの私の状況でそのような規定はできず、そのことで、さらなる労力を増すばかりです。

ネットでの書き込みには、繰り返しですが、自重と自らのリテラシー向上を求められると思います。
わからない、できない、見えない、というのでなく、それをクリアする努力をお願いいたしたい、ブログ主も同じく苦戦して目を凝らしてかいてます。
解決は、たいへんかと思いますが、いくらでも可能な、それこそいまの世の中だと思います。

多用なコメントを拝読するありがたさはありますが、整理しないままの多様なコメントは、いまのワタクシには整理できず、苦痛だったのです。
申し訳なくも、ここに再度書きました。

すばらしいオペラ体験の記事もいまは書く意欲をいまは失いました、明日、早朝からの仕事にそなえ終わります。

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2024年6月16日 (日)

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番 ケフェレック

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日本はいま、紫陽花の真っ盛り。

梅雨が大幅に遅れているけれど、草花はちゃんと咲き、実を結びます。

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故郷の神奈川県で、四季の移り変わりを各処で堪能してます。

こちらは開成町の紫陽花。

丹沢山系から箱根に至る山脈から出流る清流が町内を流れ、その恩恵で広がる豊かな田園地帯。

つくづく美しいと思い、ありがたく感じ、だれにも侵されたくないと思います。

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  モーツァルト ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595

     アンヌ・ケフェレック

   リオ・クオクマン指揮 パリ室内管弦楽団

       (2023.2.21,24 @パリ、フィルハーモニー)

われわれ日本人がみんな大好き、そしてご本人も、日本が大好きで毎年の5月に来日してくださる。
経歴も長く、とうぜんに、わたくしもそのデビュー当時から好きになり、エラートでの録音をずっと聴いてきました。

ゴールデンウイークに開催されるラ・フォル・ジュルネ、連休は都内に出ることが難しいので、これまで一度も聴くことができなかったし、それ以外のリサイタルもチケットを買いながら所用ができていけなくなったりと、なぜだか実演で一度もお目にかかることのないのがケフェレックさんです。

昨年の新しい録音で、カップリングはK466のニ短調。
どちらもケフェレックらしい、清潔で、清廉、すがすがしい感性をいまだに感じさせる素敵な演奏。
音楽の流れ、さらにはモーツァルトのこの時期の作品に則したアゴーギグが極めて自然で、思わずハッとして聴き入ってしまった。
そうナチュラルな透明感が、巨匠風にすぎることなく、あくめでも自然の発露のように聴こえるのが、いまのケフェレックの達した領域なのだろう。
K.595の2楽章などは、その自然な美しさの典型で、過度の思い入れもなく、一聴、淡々としながらも音符のひとつひとつがクリアに磨きぬかれていて、静かな水面を見守るようなそんな印象であります。
k.466の緩徐楽章も同じく。
モーツァルトの音楽と会話するかのような3楽章も、楽しくもあり、寂しくもありで、ピアノの独白がすばらしすぎる。

このケフェレックのスタイルと、今風にピリオドを少々意識したオケが、ほんとうは合わないような気もした。
もっと歌わせて、朗々としたオケでもよかったのかと。
マカオ出身の若いクオクマンは、日本にもちょくちょく来演してうるようで、現在は香港フィルの指揮者とのこと。

ケフェレックぐらいの存在になると、出てくる音源がすべて希少なものに思います。
1枚1枚、丹念に演奏し録音された至芸品でありますね。

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75年に初めて日本にやってきて、その清楚なお姿で大旋風を巻き起こした。
高校生だったわたくしも、ハートを射貫かれ、その後レコードを何枚も買った。
バッハ、スカルラッティ、リスト、ラヴェルなどがお気に入り。
もう一度、CDで集め直そうと思う。

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1948年生れ、美しく、そのまま歳を経たケフェレックさん、いつまでもステキなピアノを弾いて欲しいです。

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2024年6月 1日 (土)

プッチーニ 没後100年 ①

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とっくに盛りは過ぎましたが、藤の花。

藤の種類にもいろいろあって、南足柄の農家さんが自宅の藤の咲くお庭を解放しておられましたので見てきました。

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色とりどりのルピナスも咲いてました。

春から夏は、草花がほんとに美しく活気にあふれます。

華やかだけれども、常に陰りのあるオペラを作ったプッチーニ(1858~1924)の今年は没後100年となります。

プッチーニ大好き、ワタシより100歳先輩、そのほとんどの作品を観て聴いてきました。

海外では、さまざまな上演が行われ、ネットを通じて最新のプッチーニ演奏を聴くことができてます。

今回は、2024年以降聴いたプッチーニの上演をまとめてみます。
正規の音盤ではありませんで、上演即座に聴けるネット配信からです。

100年の命日は11月29日ですので、それまでまたいろんな上演を視聴する可能性がありますので、①とさせていただきます。
作品の作曲年代順に並べました。

①「トスカ」 バイエルン国立歌劇場

  アンドレア・バッティスティオーニ 指揮

  コルネル・ムンドルツォ 演出

      トスカ:エレオノーラ・ブラート
  カヴァラドッシ:チャールズ・カストロノヴォ
  スカルピア:ルトヴィック・デジエ

       (2024.5.20 @バイエルン・シュターツオパー)

上演されたばかりの演奏を聴きました。
お馴染みのバッティスティオーニは、バイエルンでは2度目のトスカのようですが、今回の新演出の指揮では、演出のあおりを受けたのか、ブーイング浴びてました。
聴いていて、煽るよな大げさな節まわしがあり、もしやすると演出に則したのかな?などと推測。
ハンガリーの演出家ムンドルツォの舞台が批判を浴びてる。
トスカの時代背景は、イタリア北部のマレンゴで、ナポレオンがオーストリア軍を破って勝利したその日の出来事だ。
カヴァラドッシは勝利を叫び、スカルピアの怒りに火をくべてしまう。
 ところがムンドルツォの演出は、時を1975年に設定し、高名なパウロ・バゾリーニの亡くなった年として、カヴァラドッシを絵描きでなく、映画監督として書き換えた。
むごたらしい銃殺や、イタリアのテロ組織「赤い旅団」なども登場させているようだ。
ドイツのオペラ演出は、どこの劇場もぶっ飛んでるけれど、この強引な設定には観客も戸惑ったり、怒りを感じたようだ。
いずれ全編を見てみたいものだ。
ブラートの優しい声は、トスカの役にはちょっと酷だったかもしれないが、聴いていて美しいシーンはいくつもあった。
カストロノヴォも強い声の持ち主ではないが、明るい声は嫌いじゃない。
しかし、いちばん素晴らしいのが、デジエの知的かつ冷徹なスカルピアだった。

②「蝶々夫人」 メトロポリタンオペラ



   シャン・ジャン 指揮

  アンソニー・ミンゲラ 演出

  蝶々夫人:アスミク・グリゴリアン
  ピンカートン:ジョナサン・テテルマン
  シャープレス:ルーカス・ミーチャム
  スズキ:エリザベス・テスホン

      (2024.4.11 @メット)

メットとウィーンの蝶々さんは、ここ数年このミンゲラの演出。
コロナ禍にメト上演をストリーミングで観ている。
「日本」的なイメージを盛り込んだつもりだろうが、われわれ日本人には違和感ばかり。
スズキはちゃんと着物を着てるが、蝶々さんは、東南アジア風の衣装で違和感あり。
また子供は黒子が捜査するマペットでかわいくない。
しかし、音源なので余計なものを観なくてすむので安心。
グリゴリアンの抒情と繊細さ、くわえて余裕ある声をときに開放するときの素晴らしさ、まさにいま最高のバタフライと思う。
プッチーニテノールとして、ひっぱりだこのテテルマンののびやかな声も魅力的。
中華系アメリカ人のシャン・ジャンの指揮は悪くはないが、同じ女性指揮者なら、日本人女性指揮者で蝶々さんのエキスパートが生まれないものか。
あと演出家も日本人に任せて欲しいものだ。

③「ラ・ロンディーヌ」 メトロポリタンオペラ



    スペランツァ・スカプッチ 指揮

   ニコラ・ジョエル 演出

   マグダ:エンジェル・ブルー
   ルッジェーロ:ジョナサン・テテルマン
   リゼッテ:エミリー・ポゴレルチ

        (2024.3.26 @メット)

2008年の大晦日のプリミエの演出は、わたしもスクリーンで観てかつて記事にしてます。
ゲオルギュー、アラーニャ、オロペサの出演は、舞台も歌も100点満点だった。
以来3度目の上演チクルスのようだが、現在のアメリカを代表するプリマ、エンジェル・ブルーのタイトルロール。
ともかく、その立派な声に驚き。
しかし喉が強靭すぎるのか、この声は、マグダの役柄にしては強すぎると思った。
ゲオルギューや、かつてのアンナ・モッフォの声が相応しく、そこには儚さがあったから。
ここでもテテルマンのクセのない明るい色調の声がバツグンによい。
イタリアの女性指揮者スカプッチは、ピアニストとしてジュリアードで学び、そこで歌に合わせる勉強を積み上げ、やがて指揮者として活躍するようになり、スカラ座で女性で初めてピットに入った指揮者となったそうだ。
メットの明るい音色のオケを巧みにリードして、プッチーニのこの愛らしい、ステキな旋律にあふれたオペラを見事に作り上げていると思う。

④「ラ・ロンディーヌ」 ミラノ・スカラ座



  リッカルド・シャイー 指揮

   イリーナ・ブロック 演出

   マグダ:マリエンジェラ・シシリア
   ルッジェーロ:マッテオ・リッピ
   リゼッテ:ロザリア・シド

        (2024.4.20 @ミラノ・スカラ座)

こちらもプリミエ上演されたばかりのスカラ座プロダクション。
大御所のシャイーの指揮が注目されるが、いかんせん、まいどのことに、スカラ座を始めとするイタリアの放送局の録音は音がいつも悪い。
潤いと分離の不足で殺伐とした音なんです。
他国の放送局を見習ってほしいと、偉そうに思う自分。
せっかくのシャイーの巨匠風の恰幅豊かな指揮も、そのせいでやや印象が薄い。
youtubeの音質は悪くはない。
マグダのシシリアさんは、初聴きのリリックソプラノだけれども、イタリア語の語感の美しさを感じるステキな歌声でした。
身を引く美しさ、儚さも十分に歌いこんでいて、新人とはいえない歌手だけれど、これから聴いてみたいひとりだ。
リッピ氏も初聴きだけれど、新国でロドルフォを歌ったことがあるみたいだ。
youtubeで見ると、オッサンのみてくれだけれど、歌声は明るく、無邪気な若者の一途さがよく出てる。
ピーター・ブルックの娘、イリーナの演出は、写真やトレーラーで観る限り色彩的に華やかで、かつリアルな男女物語的なものに感じた。
音楽に少し手を入れたようで、聴き慣れないくり返しや、違う声域で歌わせたりと、その意図がわからないところがある。
ラストシーンと思わせる画面での「EXIT」から出ていく主人公が気になる。
ロンディーヌ=つばめ、また戻っていくということで、このタイトルになっているのだが、だとすると、この描き方はなんだか夢がないような気が・・・・
ともかく、いい音で全体を観劇したい。

⑤「三部作」 オランダ・オペラ



  ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮

   バリー・コスキー 演出

 「外套」

      ミケーレ:ダニエル・ルイ・デ・ヴィンセント
  ルイージ:ジョシュア・ゲレーロ
  ジョルジェッタ:レー・ホーキンス

 「修道女アンジェリカ」

  アンジェリカ:エレナ・スキティナ
  公爵夫人:レイハン・ブライス=デイヴィス
  修道院長:ヘレナ・ラスカー
  ジェノヴィエッファ:インナ・デメンコワ

 「ジャンニ・スキッキ」

  ジャンニ・スキッキ:ダニエル・ルイス・デ・ヴィンセント
  ラウレッタ:インナ・デメンコワ
  リヌッチオ:ジョシュア・ゲレーロ 

    (2024.5.11 @オランダ劇場、アムステルダム)

ここ数年、「三部作」の上演は欧米でかなり頻度があがってます。
常習的でない演目と、ユニークで革新的な演出とで目が離せないオランダ・オペラ。
マレク・アルブレヒトから引き継いだ、ロレンツォ・ヴィオッテイ下にあっても、その流れは変わらず、ヒットを飛ばしてます。
オランダ放送のネット配信でいち早く聴きましたし、きっとDVDにもなるでしょう。
 まずは、ヴィオッテイの俊敏でありながら、歌にあふれた豊かな音楽造りがすばらしい。
マーラーの音楽にも近いと思わせる「外套」におけるオーケストレーションの見事さがわかる巧みな指揮と耳の良さ。
冷静さを保ち静謐な音楽を作りながらも、泣かせどころを外さない「アンジェリカ」。
開放的な気分に浸らせてくれる「ジャンニ」、フィレンツェと青空を感じる演奏。
劇の特質を端的に、巧みに、緻密に指揮して描き分けることのできるヴィオッテイの才能です。
 歌手も、いずれも的確ですが、スキティナの声は強すぎだし、公爵夫人はおっかなすぎ。
デメンコワは可愛い、ゲレーロは声が抜けていて実に爽快。
 コスキーの演出は、数分のトレーラーじゃまったくわけのわからない、仕掛け満載のオモシロ演出なんだろう。
悲惨な「外套」のエンディングはどうなんだろう。
「アンジェリカ」は泣かせてくれるんだろうか、はたまた肩すかしをくらわしてくれるのか?
子どもの写真を使うのは反則だよ(涙)
「ジャンニ」はコスキーのことだからきっと、予想外のオチがあるんだろうな・・・・
このプロダクションもDVD期待!

⑥「トゥーランドット」 ウィーン国立歌劇場



   マルコ・アルミリアート指揮

   クラウス・グート演出

        トゥーランドット:アスミク・グリゴリアン
   カラフ:ヨナス・カウフマン
     リュウ:クリスティナ・ムヒタリアン
   ティムール:ダン・パウル・ディミトレスク
   皇帝:イェルク・シュナイダー

                  (2023.12.13 @ウィーン)

グリゴリアンの歌と演技力があってのもの、と評されたウィーンの新演出。
白が基調で、シンプルななかに、深い心理描写を行うグートの演出。
シナでの物語の時空をあっさりと越え、異次元の世界で、トラウマに悩むトゥーランドット姫を描いてみせたようだ。
こうした狙いのある舞台は、音楽だけではまったく想像も及ばないし、そした意図での歌唱であることを意識して聴かねばなるまい。
トゥーランドットというと、禍々しい、西洋人の思う中華演出で辟易とさせられる演出ばかり。
そうでないこちらも、やはりDVDで味わいたい。
 トゥーランドットを歌うにはグリゴリアンの声はさほどにドラマチックではない。
この演出に則した、細やかなで考え抜かれた歌唱に感じた。
強さや強引さはまったくなく、揺れ動く心情を持つ女性と感じる。
彼女の歌うサロメに同じくである。
 一方のカウフマンは、わたしにはきつかった。
前にも書いたが、このバリトンテノールともいえる歌手の声に、曇天のような救いのない重・暗さを私は感じるのだ。
ワーグナーはいいが、イタリアものはどうも・・・・
 ムヒタリアンのリューの可愛さはみっけもん。
アルミリアートの振れば振るほど熱くなるオケ。
ウィーンとの相性も長い共演歴で鉄壁のものになってると思った。
へたなコンサート指揮者をもってくるより、いちばん、もっとも安全で、熱くやってくれる指揮者だと思うぞ。

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驚くほどに日の経つのが早い。

色とりどりの、春と初夏の花々はあっと言う間に盛りを終えて、もうつぎは紫陽花の季節だ。

いなやことばかりの毎日だけど、自然の移り変わりはしっかり感じて暮らしたいもの。

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2024年5月26日 (日)

ブリテン 「春の交響曲」 ラトル指揮

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季節は春が過ぎ、初夏の趣きですが、こちらは5月のはじめの富士とネモフィラ。

いつも行く秦野の街から。

雪もまだ充分残ってますが、いまはもうだいぶ溶けてます。
このときも、静岡側はかなり融雪が進んでいたようです。

梅雨と初夏を迎えようとするいま、大慌てで「春の交響曲」を聴きました。

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  ブリテン 「春の交響曲」op.44

    S:エリザベス・ワッツ

    Ms:アリス・クーテ

    T:アラン・クレイトン

 サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団
               ロンドン交響合唱団
              ティフィン少年少女合唱団

    合唱指揮:サイモン・ハルシー
         ジェイムス・デイ

      (2018.9.16,18 @バービカンホール、ロンドン)

「ピーター・グライムズ」のアメリカでの上演を機に、クーセヴィツキーと親交を深めていたブリテン。
1946年、そのクーセヴィッキーの委嘱により、規模の大きな合唱とオーケストラ作品を、ということになり、構想を練ることとなった。
しかし、なかなか筆が進まず、ブリテンは精神的・肉体的に疲れていると吐露していたらしい。
構想も整い、1948年に作曲は軌道にのり、1949年春に完成。
ブリテン36歳。
同年7月に、アムステルダムで初演された。
ベイヌムの指揮、コンセルトヘボウのオーケストラに、ヴィンセント、フェリアー、ピアーズの3歌手によるものだった。
ボストンでなかったこと、コンセルトヘボウでは録音も現在に至るまでなされておらず、もっぱらロンドンのオケばかりの録音になっているところが面白い。

この作品が好きで、これまで、ガーディナーとプレヴィンの演奏を取り上げてます。
演奏会でもなかなか取り上げられませんが、もう25年も前の5月に、ヒコックスの指揮で実演に接しております。
久しぶりにあらわれたラトル卿の音盤を手に、この5月は歓喜に浸っております。
以下、以前の記事に少し手を加えて再掲します。

ソプラノ・アルト・テノールの独唱と少年合唱・合唱をともなった大規模な全4部12曲からなる合唱付き交響曲。
同時代の作曲家と違い、交響曲作家ではなかったブリテンならではの作品。

「冬から春への移りかわりと、それが意味する大地と命の目覚め」について書いたとしていて、サフォーク州の春の劇的な訪れにインスピレーションを得ている。
季節の移ろいと、その力強さ、その1年の流れを人生にもなぞらえて、聴く私たちに伝えてくれる素敵な音楽。
イギリスの春は、日本のようにゆるやかに、まったりとやってくるのでなく、劇的に訪れる。
春は、「地球と生命の目覚め」でもあるという。

16~18世紀の英国詩人12人の作品と、ウィリアム・ブレイクや友人でもあったウィスタン・ヒュー・オーデンの同時代の詩を巧みに組み合わせたテクスト。
ちなみに、ブリテンはオーデンの詩に多くの歌曲を作曲しており、CDもいくつか持ってますのでいずれ取り上げたいと思います。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①太陽への憧れを歌う冒頭から、小鳥やカッコウの声が聴かれる場面、少年合唱は軽やかに口笛を吹き、楽しい第1部。

②終戦を迎えたのも春。反戦の感情も込めしみじみとした第2部。

③スケルツォであり牧歌的・リズミカルな第3部。

④そして歓喜が爆発する、第4部フィナーレ。ここでは、ロンドンの街と英国への晴れやかな賛歌が歌われる。さらに中世イギリスのカノン「夏はきたりぬ」が少年合唱が高らかに歌い始める。
 感動にあふれるシーンで、心が解放され春から夏を寿ぐ気持ちにあふれる。

  「夏がきた、かっこうは鳴き、花は開き、木々は緑・・・・・・」

この合唱もフェイドアウトして行き、テノール独唱が「このあたりにしておこう」と口上を述べ、いきなり舞台から引くかのように唐突なトゥッテイで曲は終わる。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ラトルの歯切れのいい演奏は、この作品の持つ明快さにぴたりときます。
前半のミステリアスな雰囲気から、最後の爆発まで、その段階的な盛り上がりも緻密に練り上げられていて、オーケストラの優秀さも手伝って実に精度の高い演奏だと思います。
唯一の不満は、プレヴィンが聞かせたような微笑み、というかにこやかさかな。

現在のイギリスを代表する3人の歌手も素晴らしく、クーテの深みのあるメゾがとくに素敵だった。

このCDのよさはもうひとつ、カップリングの豪華さにもあります。
「春の交響曲」をメインに、それを「シンフォニア・ダ・レクイエム」と「青少年のためのオーケストラガイド」の名作2品で挟んでいます。
どれもその作品の決定的な名演となってます。
ラトルを初めて聴いた1985年、フィルハーモニア管との来日で青少年を聴いてます。
レクイエムは、バーミンガムとの来日で聴けなかったのですが、NHKで放送されたラトルのこの楽譜のオリジナル探しの熱心さ、思い入れのある作品なんだなと、その緊張感の高さからよくわかります。

ラトルは、戦争レクイエムは指揮しますが、オペラを指揮しません。
そして、ベルリンよりロンドン響とのコンビは最高だったと思います。
バイエルン放送響とも相性の良さを感じますが、ロンドンとの別れはもったいなかったな、と。

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(再掲)よい時代だったなぁ~無理して全部行けばよかったなぁ~

1999年5月、東京ではまったく同時期にこんな演奏会が行われた。

 ①ヒコックスと新日本フィル  エルガー「序奏とアレグロ」
                 デーリアス「ブリッグの定期市」
                 ブリテン「春の交響曲」

 ②ヒコックスと新日本フィル  ラヴェル「マ・メール・ロワ」
                 カントルーヴ「オーヴェルニュの歌」
                 V・ウィリアムズ 交響曲第5番

 ③プレヴィンとN響       ベートーヴェン 交響曲第4番
                 ブリテン「春の交響曲」

 ④プレヴィンとN響       プレヴィン「ハニー&ルー」
                                                                「ヴォカリーズ」

                  V・ウィリアムズ 交響曲第5番

私は悩んだ末に、①と④を選択しコンサートに出かけた。

まさに、その時、東京の5月は「春から夏」への一番美しい季節の真っ盛りであった。

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2024年5月14日 (火)

東京交響楽団 定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮

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青く、めちゃくちゃ天気のよかった土曜日。

ミューザ川崎での東京交響楽団の演奏会に行ってきました。

ラゾーナ側から回り込んだので、ちょっと違うアングルのミューザ川崎です。

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  武満 徹   「鳥は星形の庭に降りる」(1977)

  ベルク   演奏会用アリア「ワイン」(1929)

             S:高橋 絵理

  マーラー   交響曲「大地の歌」 (1908)

    Ms:ドロティア・ラング

    T :ベンヤミン・ブルンス

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

    (2024.5.11  @ミューザ川崎シンフォニーホール)

2014年の音楽監督就任以来、当初より取り上げてきたこのコンビのマーラーの最終章。
大地の歌をもって、すべて取り上げたことになるそうです。
あと2年の任期がありますが、ずっと続いて欲しいというファンの思いもありつつ、こうしてひとつの節目とも呼ぶべき憂愁あふれるプログラムを体験すると、残りの任期をいとおしむことも、またありかな。
そんな思いに包まれた感動的なコンサートだった。

プログラムの選定のうまさは、知的な遊び心以上に、われわれ愛好家の心くすぐる演目ばかりであることからうかがえることばかりでした。
都内の保守的な聴き手の多いオケや、入りを気にしなくてはならない地方オケでは、絶対に出来ない演目ばかり並ぶノットのこれまでの演奏会。

今回は、時代をさかのぼる順番で、マーラーに端を発する音楽の流れを体感させてくれました。
もっとさかのぼると、トリスタンとパルジファルがあって、マーラーときて、新ウィーン楽派・ベルクときて、ドビュッシーにして武満です。
マーラーは終着ではなくて、通過点であり、その先の音楽の豊穣があることを確信させるような演奏、「Ewig・・・ewig」繰り返される「永遠に」の言葉が今宵ほど美しく、この先が明るく感じられる演奏はなかった・・・・

①「鳥は星形の庭に降りる」

 調べたら手持ち音源は、小澤、岩城、尾高と武満音楽を得意とする日本人指揮者の音盤をいずれも持っていた。
さらに記憶をたどると、岩城宏之指揮するN響のライブも聴いていた。
いずれも遠い彼方にある音楽だったが、今宵はドビュッシーとベルクの延長線上にもある武満音楽を我ながらすごい集中力で持って聴くことができた。
武満作品は、演奏会の冒頭に置かれることが多いので、どうしても後々の印象が薄くなったり、演奏に入りきれないまま終わってしまうケースが多いと思う。
今回は事前に、この日のプログラムを演奏順にCDで予習してきたので、後半に明らかにベルクを思わせるシーンを捉えていたので、まんじりとせず、耳をそばだてながら聴いた。
静謐さのなかに、鳥の舞い降りるイメージや音がホールの空間に溶けていってしまう様子など、ノットの共感に満ちた指揮ぶりを見ながら、音楽を感じ取ることができました。

②「ワイン」

 名品「初期の7つの歌」のオーケストラ編曲をした翌年、「ワイン」は「ルル」を書き始める前に書かれたコンサート・アリア。
3つの部分でなっていたり、シンメトリーが形成されていたり、イニシャルと音階への意味づけ、ダ・カーポ形式といういわば古い酒袋に十二音技法を詰め込んだような、そんなベルクらしいところが満載な音楽なんです。
アバドのCDと、ベームのライブなどを何度も聴いて、その芳醇な音楽とルルを思わせるシーンがいくつもあることなどで、大いに楽しみだった。
まず、ソプラノの高橋さんのぶれの一切ない強いストレートな声に驚いた。
リリックソプラノを想定したアリアだけれど、私の席に届いた声はもっと強靭にも感じた一方、タンゴの部分でのしゃれっ気ある身のこなし、軽やかな歌いこなしなど、表現の幅も広く、感心しながらも楽しみつつ拝聴。
ノットの指揮するオーケストラも、ベルクのロマン性と先進性をともに表出していて、ベルク好きの私を陶然とさせていただきました。

③「大地の歌」

 コンサートチラシにある言葉「人生此処にあり」
この言葉が意味するごとく、「生は暗く、死もまた暗し」・・・ではなくって、人生いろいろ、清も濁もみんなあり、みんな受け入れようじゃないか・・・そんな風に感じた、スマートかつスタイリッシュな「大地の歌」だったように思います。
ご一緒した音楽仲間がタイムを計測してまして、60分を切るトータルタイムだったと証言してます。
早い部類に属するかと思いますが、聴いてて絶対にそんな風に感じさせない個々のシーンの充実ぶりと、気持ちのこもった濃密さ。
概して明るめの基調だったわけですが、歌手の選択にもそれはいえて、ふたりの声の声質は明るめでした。

 テノールのブルンスは、出てきたときからどこかで見たお顔とずっと思い聴いてた。
帰って調べたら、バイロイトのティーレマン指揮のオランダ人(グルーガーの変な演出)のときに舵手を歌っていた人だった。
さらにみたら、バッハコレギウムでエヴァンゲリストも歌ってました。
だから声はリリカルで柔らかくもあり、強いテノールでもないが、張りのある声と言語の明瞭さが決してその声を軽く印象付けることがなかった。
聴いた瞬間に、タミーノを歌う歌手だなとおもったら、やはり重要なレパートリーのひとつだった。
3つの楽章、みんな明瞭かつ清々しい歌唱だったが、「春に酔った者たち」がマーラーの音楽と詩の内容とが巧みにクロスするさまも交えて、とても印象的だった。
ヒロイックでないところがいちばん!

 メゾのドロティア・ラングは、名前からするとドイツ系と思われたがハンガリー系とのこと。
Dorottya Láng = わからないけれど、ハンガリー風に呼ぶならば、ドロッテッヤ・ラーンクみないた感じじゃないかしら、しらんけど。
身振り手振りも豊かに、音楽と詩への共感とのめり込み具合が見て取れる。
オペラでの経験も豊富で、オクタヴィアンと青髭のユーディットなども持ち役で、ドラマチックな歌唱も得意とするところから、この大地の歌も表現の幅がとても広く、ビブラートのないこちらもストレートで透明感ある声と思った。
「告別」での感情移入はなみなみのものでなく、わずかに涙を湛えているかのように見えました。
それでも表現が過度にならないところは、ノットの指揮にも準じたところで、客観性もともないながら、音楽の持つある意味、天国的な彼岸の世界を明るく捉えていたのではないかと思う。
東響の素晴らしすぎる木管群に誘われ、ラングの歌は、どんどん清涼感と透明感を感じるようになり、聴くワタクシも知らずしらず、歩調をともにして、マーラーの音楽と呼吸が合うようになり、いつしか涙さえ流れてました・・・・
こんなに自然に音楽が自分に入り込んできて、気持ちが一体化してしまうなんて。
彼女のナチュラルな歌唱、ノットと東響のお互いを知り尽くした自然な音楽造りのなさせる技でありましょうか。
「永遠に・・・・」のあと、音楽が消えても静寂はずっとずっと続きました。

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    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アフターコンサートは久方ぶりに、気の置けないみなさまと一献

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コンサートの感動でほてった身体に、冷たいビールが染み入りました。

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つくね、ハイボールもどこまでも美味しかった。

この土曜日は首都圏のオーケストラでは、同時間にいくつもの魅力的な演奏会が行われました。

それぞれに、素晴らしかったとのコメントも諸所拝見しました。

こうして音楽を平和に楽しめること、そんな日本であること、いつまでも続きますことを切に願います。

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2024年5月 3日 (金)

プロコフィエフ 「3つのオレンジの恋」 

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桜が終盤の秦野の出雲大社相模分祠。

秦野は近いし、商業施設も豊富なので、週に1~2回は行きます。

歴史ある施設も多く、行くたびにいろんな発見があります。

毎年の節分には、大相撲の力士も訪れ、豆まきをしますが、今年は近くの地元の熱海富士が来ました。

こんな日本の風物を、短期間ですが日本滞在したプロコフィエフはどの程度味わったでしょうか。

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プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ。

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

  プロコフィエフ 歌劇「3つのオレンジへの恋」op.33

1916年の「賭博者」につぐ、残されたプロコフィエフ3番目のオペラ。
「古典交響曲」を経てピアニストとしても絶頂にあったプロコフィエフ、3番目のピアノ協奏曲を手掛けた。
最初は喜んで迎えた革命も、もしかすると音楽家としてこの先、ロシアではうまくやっていけないのではないかと不安になり、アメリカに発つ。
1918年5月に出発、夏までのアメリカ航路がないため、3か月間日本に滞在し、東京や横浜でピアノコンサートを行ったのはご存知のとおり。
プロコフィエフの作曲活動のなかでは、「放浪記」などと呼ばれもしますが、この間に得たいろんな体験は、さまざまな作品のなかに刻まれてます。

このオペラの原作は、1720年ヴェネツィア生まれの劇作家カルロ・ゴッツィの同名の作品。
ゴッツィは仮面劇のコメディア・デッラルテの作者で、寓話的な作品が多い。
かの「トゥーランドット」もこの人の作だし、ワーグナーの処女作「妖精」もゴッツィの「蛇女」という作品がベース。
しらべたら、ヘンツェもゴッツィ作をオペラ化してたりする。

皮肉やユーモア、風刺に満ちたゴンツィの作風をロシアの見せかけ的な自然主義に満ちた演劇界に対する反論として、演劇雑誌を出版していた劇作家のメイエルホリド。
プロコフィエフは、このメイエルホリドとも親交があったので、「3つのオレンジへの恋」を特集したその雑誌をアメリカへの渡航にも持参していた。
ロシア語訳されたものを、プロコフィエフ自身がフランス語で台本をしたためていた。
渡米後、シカゴでの演奏会が成功し、同時にシカゴ・オペラから新作を委嘱され、ちょうどよろしく、この作品であてがうこととなった。
1921年に完成、依頼主のシカゴオペラの代表の死などがあり、初演がやや遅れたものの同年暮れに初演された。

プロコフィエフのオペラによくあるように、登場人物が多くて主役級はいるものの、全貌の把握が難解で、音源だけでは理解が完全には及ばないと思う。
「魔法をかけられた王子が魔術師の宮殿に導かれ、3つのオレンジを盗み、そのうちのひとつから出てきた女性と恋に落ちて花嫁として迎える」
こんなたやもないお伽話。
「行進曲」ばかりが有名だけど、確かにこの行進曲が鳴り響くと快感を覚えるほどにはまりますが、そればかりでない、この時期のプロコフィエフ節が随所に炸裂。
全4幕、1時間50分ほどのちょうどよい短さ。
深刻さゼロで気軽に聴ける音楽ではありますが、古典への傾きとともに、野心的なモダニズム、高揚感もたらすリズム、クールなニヒリズムなど、まさにプロコフィエフならではです。

おとぎの世界だから変な連中ばかり出てくる。

  架空の王国の支配者♣の王  バス
  その王子           テノール
  王女 王の姪         メゾソプラノ
  首相レアンドレ        バリトン
  トルファルディーノ 道化   テノール
  パンタロン 王の顧問     バリトン
  チェリオ 魔術師の王の守護者 バス
  ファタモルガーナ 魔女    ソプラノ
  リネッタ オレンジ1号   コントラルト
  ニコレット オレンジ2号  メゾソプラノ
  リネット  オレンジ3号   ソプラノ
  スメラルディーナ 黒人奴隷  メゾソプラノ
  ファルファレロ 悪魔    ジェームズ・ウルフ
  クレオンテ 巨大な調理人  バス
  司会者           バス
  悲劇、喜劇、抒情劇、茶番劇のそれぞれ擁護者
  悪魔、廷臣、大酒飲み、大食い、怪物、兵士・・・・たくさん

こんな訳のわからん連中がうじゃうじゃ出てきて、まくしたてたり、わらったり、嘲笑したり、泣き叫んだりを大げさにしますよ。
舞台映像も数種観たけれど、かぶりもの、コスプレ、考え抜かれ凝りにこった装置など、見た目も楽しい、なにもそこまで的な愉快なものばかり。
しかし、劇も音楽も面白いけど、内容の深みは少なく浅薄に感じるんだよな~
前のオペラ「賭博者」はドストエフスキーの描いた人間のサガや、ロシア人の留まることをしらない没頭ぶりと、冷淡さを音楽でも見事に表現しつくしていた。
このあとに来る「炎の天使」の狂気すれすれの緊張感ともまた違う。

のちにプロコフィエフが語ったこと、「私が試みた唯一のことは、面白いオペラを書くことでした」。
まさに、この言葉につきます。
素直にこのドタバタ劇の奇想天外なストーリーを楽しみ、そこに軽やかまでに乗ったプロコフィエフの洒脱な音楽を楽しむに尽きるのであります。

物語りや人物たちに、いろんな比喩や風刺の意味合いを読み解くこともアリだとは思うけれど、私はそこまでのことをして、この愉快なオペラをひねくり回したくはない。
むしろ、ドネツクで生まれたウクライナのプロコフィエフという側面で、かつては
ロシア帝国の人だった彼が、ロシア革命を嫌い出て行った、そのプロコフィエフがこんな軽い仮面劇をベースにしたオペラを書いた。
アメリカに行けた解放感もあったであろう。
また思えば、ウクライナはロシア帝国の一部であり、音楽はチャイコフスキーもプロコフィエフも両国が同根であることを忘れてはいけないと思う。

ややこしいそのあらすじ

プロローグ

悲劇、喜劇、抒情劇、それぞれの役者たちがどんな劇をみたいのか争うが、おかしな人々も加わり、「3つのオレンジへの恋」を主張する。
伝令が登場し、クラブの王の息子の王子がうつ病になったと告げる。

第1幕
 
医者は王子が治る見込みはないと報告、絶望の王は、笑いによる奇跡の力を思い起こす。
顧問パンタロンは、道化師のトルファルディーノに助けを求め宮廷で余興大会を開催することとする。
王の座をねらう首相レアンドロは、これに反対

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王派の魔術師チェリオと首相派の魔女モルガーナがトランプ対決を行うが、チェリオは負けてしまう。
王の姪は、首相に王位をあたえ結婚しようとたくらむ、そのためには王子の病状を悪化させようと薬を盛るか、銃弾でやるかを首相にせまる。
これを聞いてしまった召使のスメラルディーナは、ふたりに捕まってしまうが、かわりにチェリオが後ろについてることと、モルガーナが助けてくれるだろうと進言し仲間になる。

第2幕

道化トルファルディーノがいくら頑張って笑わそうとしても王子は無反応。
王子を無理やり宮廷の広間に引き出す。
そこで始まる「行進曲」、さまざまな連中が入場してくる。

ばかげたダンスや出し物が演じられたにもかかわらず、王子は無反応で見事に失敗。
しかし、そこへ魔女のファタモルガーナが登場し、自分がいる限りは王子には笑いはないよ、と宣言。
トルファルディーノが警戒し、彼女が王子に近づくのを阻止しようと突き飛ばすと、派手にひっくり返ってしまう。
それを見た王子は笑い出してしまい、止まらない。

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怒ったファタモルガーナは、王子に対し「3つのオレンジに恋をせよ!」と呪いをかけてしまう。
王子は、クレオントの城にむけて、トルファルディーノを引き連れて出立する。

第3幕

魔法使いチェリオは、悪魔ファルファレロを呼び出し争うが、すでにトランプで魔女に負けているので敵わない。
そこへ王子とトルファルディーノがあらわれ、チェリオは、これから向かうクレオントの城では3つのオレンジを守っている料理女に気を付けろ、と魔法のリボンを渡す。
さらに、水のあるところでなければ、オレンジの皮をむいてはいけないと警告。

城に到着した二人は、不安で一杯。
そこへ大きな料理人がひしゃくを持って出てきて、行く手を阻止する。
トルファルディーノが魔法のリボンをみせると、料理人はリボンを気に入ってしまい、そのすきに王子は3つのオレンジを持って逃げる。

砂漠へ逃げた王子、オレンジたちはどんどん大きくなるが、疲れ切った王子は寝てしまう。
ぜんぜん起きてくれない王子の横で、喉が渇いたトルファルディーノはオレンジのひとつの皮をむいてしまう。
すると中から王女リネットがあらわれるが、彼女は飲み物を求める。
トルファルディーノは、ふたつめのオレンジの皮をむくが、その間リネットは死んでしまう。

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2つ目のオレンジからは、王女ニコレットがあらわれるが、彼女も飲み物を求めやがて死んでしまう。
困惑したトルファルディーノは逃げてしまう。
やがて眼をさました王子は王女の死を悲しみ、通りかかった兵士たちに、亡くなったふたりの王女の埋葬を依頼し、3つ目のオレンジに手をかける。
すると今度は違う王女、ニネットがあわられる。
彼女は愛を告白し、ふたりは恋に落ちるが、またしても喉の渇きを訴えるものの、そこへプロローグで出てきた「おかしい人々」が水を持ってきて、彼女は救われる。
王子は、ニネットを連れて宮廷に戻ろうとするが、こんな格好ではいけないわと言うので、立派な服を持ってくるよと言い残して去る。
そこへ召使のスメラルディーナとファタモルガーナが出てきて、リネットに魔法のピンを刺してしまう。
すると彼女はネズミに変ってしまう。
行進曲が聴こえ、王子が王様ご一行を連れて戻ってくると、スメラルディーナが自分が王女ですと名乗り出る。
王子はこんなの違うと言い張りますが、王は結婚を命じてしまし、首相と王の姪はほくそ笑む。

第4幕

チェリオとファタモルガーナがまたもや口論をして争うが、ここでまた「おかしい人々」が出てきて、ファタモルガーナを突き飛ばしてやっつけてしまう。

宮廷では王子の結婚式の準備が進んでいるが、王女の席にはネズミがいる。
チェリオが魔法を解いてあげると、そこには王女リネットが戻ってくる。
今回の謀反に気が付いた王は、3人の首謀者の処刑を命じる。
しょっぴかれる3人であるが、そこへファタモルガーナが出現し、3人を連れて姿を消す。

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国王と廷臣たちは、大いに喜び、王子と王女を新婚夫婦として祝福します。

          

荒唐無稽のありえへん物語ですな。
この寓話に、なにを見るか、なにが風刺されているかを考えたり、読み解くことはできるだろうか。
それは難解で、極めて無理難題なこじつけをするしかない。
音楽だけを聴くならば、プロコフィエフのナイスな音楽、ユーモアにあふれた音楽、行進曲など感覚を刺激する音楽を楽しむにつきる。
そして舞台映像としてはいくつかあるが、最新の技術で克服されたユニークで巨大な舞台装置や、登場人物たちの奇想天外な衣装や化粧などを、なにも考えずに観て楽しむにつきます。

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  架空の王国の支配者♣の王  ガブリエル・バキエ
  その王子           ジャン=リュク・ヴィアラ
  王女 王の姪         エレーヌ・ペラギャン
  首相レアンドレ        ヴァンサン・ル・テキシエ
  トルファルディーノ 道化   ジョルジュ・ゴーティエ
  パンタロン 王の顧問     ディディエール・アンリ
  チェリオ 魔術師の王の守護者  グレゴリー・ラインハルト
  ファタモルガーナ 魔女     ミシェル・ラグランジュ
  リネッタ オレンジ1号    ブリギッテ・フルニエ
  ニコレット オレンジ2号   キャスリーン・デュボスク
  ニネット  オレンジ3号   コンシュエーロ・カローリ
  スメラルディーナ 黒人奴隷   ベアトリス・ユリア=モリゾン
  ファルファレロ 悪魔    ジェームズ・ウルフ
  クレオンテ 巨大な調理人  ジュール・バスタン
   ほか多数

    ケント・ナガノ指揮 リヨン国立歌劇場管弦楽団
              リヨン国立歌劇場合唱団

       (1989.3~4月 リヨン)   

唯一持ってる音源。
いつもオペラを親しむすべとして、ともかくこのCDは何度も聴きまくりました。
海外盤なのでフランス語主体のリブレットは、英語訳でも字数がやたらと多くて難解。
だから、何度も聴いてその音楽を親しむのみ。

ナガノはこうした洒脱な作品には、抜群の切れ味を示します。
多くの演者を従え、難解なオーケストラも完璧に統率。
唯一のわずかな不満は、不真面目さがないことで行儀がよすぎること、遊び心が少なめなところ。

バキエやバスタンなど、懐かしい男声歌手。
リリックな王子役、芸達者な道化役や、かわいらしいオレンジ3号など、劇場でいつも歌ってる歌手たちのまとまりの良さも特筆です。
この音源には、スタジオ収録的な映像作品もあり、ネット上で確認もしましたが、やや時代を感じさせるもので舞台も簡潔なものでした。

ゲルギエフとマリンスキー劇場が日本でも上演していて、そのときの舞台がどんなものだったか、また音源は非ロシアのものばかりですので、ロシア人による演奏も気になるところです。

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  架空の王国の支配者♣の王  マルティアル・デフォンティン
  その王子           アラン・ヴェルヌ
  王女 王の姪         ナターシャ・ペトリンスキー
  首相レアンドレ        フランソワ・ル・ルー
  トルファルディーノ 道化   セルゲイ・コモフ
  パンタロン 王の顧問     マルセル・ブーネ
  チェリオ 魔術師の王の守護者  ウィラード・ホワイト
  ファタモルガーナ 魔女     アンナ・シャフジンスカヤ
  リネッタ オレンジ1号    シルヴィア・ゲヴォルキアン
  ニコレット オレンジ2号   アガリ・デ・プレーレ
  ニネット  オレンジ3号   サンドリーヌ・ピオー
  スメラルディーナ 黒人召使   マリアンナ・クリコヴァ   
  ファルファレロ 悪魔    アレクサンドル・ヴァシリコフ
  クレオンテ 巨大な調理人  リチャード・アンガス
   ほか多数

 ステファヌ・ドゥヌーヴ指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
                ネーデルランド・オペラ合唱団

       演出:ローラン・ペリー

       (2005  アムステルダム音楽劇場) 

DVDでの鑑賞。
これは実に面白かったし、いろんなアイデア満載で、しかも笑えました。
ペリーならではのお洒落でセンスあふれる舞台と、登場人物たちの自然な所作で共感を呼ぶ描写の数々。
そして衣装や舞台装置もデフォルメされつつ超リアルで、見ていてほんとに楽しい。
それらがプロコフィエフのリアリスティックな音楽に奥行きを与え、ファンタジー感もプラスしている。

ドゥヌーヴの明快な指揮がよい。
親日家のドィヌーヴ氏は、故小澤さんのオペラにおける弟子的な存在にもなりましたが、プロコフィエフのリズミカルな局面をとてもよくつかんでオランダのオケから鮮やかなサウンドを引き出している。
荒唐無稽なオペラの進行のなかにも、しっかりとした音楽性とオペラティックな雰囲気や呼吸をよく出していると思う。
ペリーの演出では、指揮者も演者のひとりとなり、道化のトルファルディーノがピットに降りて来たりで、愉快な場面を演じてました。

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王子の正妻役となるニネット姫を若きピオーが演じていて、その声の無垢な佇まいと、この役に与えられた可愛さを短い出番ながら完璧に歌い演じてました。
ほかの諸役も特色ある役柄をそれぞれユニークな存在として歌い演じて、誰ひとり穴がなくなり切っているところが面白い。
いつまでもパジャマ姿のヴェルヌの王子役と道化のセルゲイ・コモフのやりとりも愉快。
ウォータンのような杖を持ったウィラードの貫禄と強烈な声によるチェリオ。
ナターシャ・ペトリンスキーの悪役だけど、姪役が美人でなによりだった。

通常のDVDでの視聴だったが、ブルーレイでの視聴になれてしまうと、映像の輪郭の甘さが気になってしょうがない。
こうした作品こそ、ブルーレイ化して欲しいものです。

あと、音源や映像では、ゲルギエフ、ソフィエフ、ハイティンクなどがあり、とくにグラインドボーンでのハイティンクの着ぐるみ満載の舞台をなんとか見てみたい。



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