2019年11月19日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮

Muza

東京交響楽団の定期演奏会を、本拠地のミューザ川崎で聴く。

ベルクとマーラー、わたしにとっても、指揮者ジョナサン・ノットにとっても欠かすことのできないレパートリー。

聴くという受容側の自分が、レパートリーなどと、偉そうなことを言いますが、ずっとその界隈の音楽を聴き続けてきた。
いまや、それらが世界の音楽シーンで受け入れられ、人気の音楽たちとなった。

9月頃から、このブログも、最近では珍しいコンサート通いも含めて、つとめて意識して、この分野・この時代の音楽を取り上げてきたことにお気づきでしょうか・・・・

R・シュトラウス、コルンゴルト、シェーンベルク、ツェムリンスキー、ウェーベルン、ベルク、マーラー、クリムト(シューベルト)、これらが、自分のブログによく並んだものだと、われながら思います。
こうした曲目を演奏会でも選択できる東京という音楽都市もすごいものだと思います。

Nott-tso-201911

  ベルク   管弦楽のための3つの小品

  マーラー  交響曲第7番 ホ短調

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

       (2019.11.17 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

①ベルクの唯一といっていいオーケストラ作品。
マーラーの交響曲に感化され、同じような規模の大作品を書こうと目論んだが、師のシェーンベルクから、それはベルクの本分ではないと諭され、大規模さを受け継ぎながらも「性格的小品」を作曲することとなった。
それがこの作品で、実演で聴くのは、これが初めてでありました。
音源では、これまで、アバドとロンドン響のレコードをずっと聴いてきて、CDでもアバドとウィーンフィル、ブーレーズ、デイヴィスなどをずっと聴いてきたけれど、やはりライブで、大オーケストラを眼前にして聴くと、各奏者がどんなことをしているか、指揮者はどんなふうに振り分けているのか、などなど、きょろきょろしながらも、この複雑な作品を少しでも紐解く術となったような気がします。
「前奏曲」「輪舞Reigen」「行進曲」の3つの小品のなかに、それぞれA-B-Aという対称構造があって、それがなんとなくわかったような、これもまた、気がします。
でも「行進曲」は、つかみどころがなく、音の咆哮がどこに向かうのかわからなくなって、焦燥感を抱いたりもした。
この対称構造は、ベルクのいつも追い求めたもので、「ヴォツェック」などは、完全にそれに一致する緻密な作品だ。
その「ヴォツェック」の響きも、「ルル」もヴァイオリン協奏曲も、この作品のどこかしこに、潜んでいるような気もしながら聴いた。
 ノットのよく整理された指揮ぶりは、熱いながらも、とても緻密で、東響も、このベルクの音楽によく食らいつき、青白くも、宿命的なベルクサウンドをよく響かせていたと思う。
ミューザ川崎は、こんな作品の響きがとてもよく似合うと思う。

②前半からヘヴィーな20分。
後半も、超大編成の80分。
この合計100分を、われわれ聴衆は、まんじりともせず、集中力を途切らすことなく聴きとおしたのだ。
それだけ、音楽に没頭させる、夢中にさせてしまう、そんな感度と鮮度の極めて高い、とりわけ後半のマーラーだったのだ。
 わたくしのお隣にいらっしゃった、かなり年配のご夫妻は、きっと7番なんて初めてかもしれない、でも、ずっと真剣に聴いていたし、終わったあとも、スゴイ、いいよ、すごいよ、をご夫婦で連発されてました。
きっとホールにいらした方の、ほとんどの印象かもしれません。

ともかく、このマーラーの万華鏡のような、めくるめく変転する「7番」という交響曲を、まさに百花繚乱のごとく演奏したのが、この日の「ノット&東響」なのだ。
明るくよく響き渡るテナーホルンを吹かれた方、その艶のある音色は、この日の演奏の成功を半分約束されたようにも感じてしまいました。
そして、曲はだんだん加速するのだが、そこでノットは、テンポを落として、徐々に加速するスタイルをとったのにはちょっと驚き。
それ以外は、インテンポで、要所・各処をビシバシと決めていく、キレ味のいいマーラーとなりました。
ノットの気合に満ちた指揮ぶりを、斜め正面から見る席だったので、その「圧」の強さに、演奏してない自分までもが引き込まれて、長い1楽章からもう気圧されたようになってしまい、その楽章の終了時には、思い切り息と肩をついて、ふぅ~っとなりました。

最初の夜曲、第2楽章では、ホルンの見事さ、そして東響の各奏者の冴え、それと弦楽のユニゾンの楽しさなどを満喫。
ノットさんも、楽しそうに振ってましたね。
鐘はどこに? 録音かと思ったけど、最上階だったらしい・・・

「影」のように、す、すッーと滑りこむような第3楽章。
CDなどで聴いてると、その中間部も含めて、とらえどころがなく、もやもやしてますが、ここもやはりライブの楽しさ。
各楽器が、あんなことやってる、こんなことやってる、と観察しながら聴くのもいい。
5つの楽章の真ん中の折り返し。
前後に夜曲にはさまれ、これも思えば、シンメトリーな構造。
ベルクの作品を並べた、その対比の意図も、ここにあるのかもしれません、なんて思いながら聴いていた。

大好きな4楽章の夜曲、奇怪な夜の森の楽章のあと、最後の歓喜の前の、ひとときの「なごみの夜の音楽」。
わたくしは、若い頃、日曜の夜のアンニュイな気分を沈めるために、寝る前に、ウィスキーをくゆらしながら、この楽章だけをよく聴いたものです。
そのときの演奏は、バーンスタイン旧盤か、アバド・シカゴ盤でありました。
 そんな懐かしき若き思い出に浸りながら聴いた、ノット&東響のこの楽章には、ノスタルジーとともに、ちょっと不安の淵なども垣間見せるような、深みのある演奏となりました。
自分的には、この楽章が一番いい出来栄えかとも思いましたね。

そして、なんでこんなに歓喜の爆発になっちゃうんだろ的な、パロディも交えた、とどまることをしらない終楽章の明るさ。
6番のあとに、そして8番の前に、こんなむちゃくちゃな7番を書いたマーラーという作曲家の不思議さと、泣いたカラスがもう笑った的な、なんでもありのマーラーの心象に、切り込むような、バラエティあふれる演奏なんじゃないかと、この終楽章を聴きながら思った。
でも、そんなことはどうでもいい、というくらいに、最後のコーダでは、これでもかというくらいの盛り上がりに、もうドキドキが止まらない!
ノットの、掛け声ともとれる声も聴こえ、曲は大エンディングとなりました。

そのときの、われわれ聴衆の、大爆発たるや、こんなの久しぶりでした。
わたくしも、ブラボー一発かませましたぜ!
ノットさんのお顔も上気して、にこやかに会心の出来ばえとみて取れましたし、東響の皆さんの疲れと満足感の入り混じったお顔もそれぞれ印象的でした。
最後は、ひとり、ノットさんがコールに応えて出てきて、ここでもブラボーの嵐でした。

いやぁ~、ひとこと、「楽しかった~」

Azeria

川崎駅チカのツリー。

めくるめくマーラーサウンドを堪能したあとのツリー。

ドイツの黒い森、暗い夜、自然のあらゆる営みとささやき、人間の醜さと愛、なにもかもが詰まったようなマーラーの7番を、そのあるがままに、展開して見せてくれたのが、この日の「ノットの夜の歌」だったかもしれない。
そこに、何を聴くか、何を求めるかは、わたしたち聴き手次第。

前夜もサントリーホールで演奏しているが、そのときとも、また違う演奏だったと言っている方もおりました。
そして、東響の会員である知人の話では、2公演あると、そのいずれも違う、というノットのいつもやり方のようです。
楽員も命がけだし、ノットも常に、考え、探求し続けている。
日本のオーケストラシーンのなかでも、もっとも先端をゆく名コンビになりつつあるようだ。

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2019年11月12日 (火)

バックス 伝説 コレッティ(ヴィオラ)

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2019年11月9日の晩、翌日に、ご即位の奉祝パレードを控えた東京タワーも、記念のライトアップ。

自分と同期生の東京タワーも、ご覧のように美しく輝き、東にスカイツリーができても、まだまだ東京の顔として現役。
この日も、世界各国の方々も多くいらっしゃいました。

天皇陛下とは1歳違い、皇太子さまの時代より、ずっと親しく感じていたお方です。
昭和天皇は遠くの存在、平成天皇は父のような存在、そしてご即位された令和の時代の新天皇は、より親しみを持てる身近な存在。

陛下は、オックスフォード大学ご修学のご経歴と、そして自らヴィオラを弾かれます。

本日は、英国のヴィオラ作品を聴いて、あらためまして御奉祝の祝意を捧げたいと存じます。

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  アーノルド・バックス Legend ~伝説

    ヴィオラ:ポール・コレッティ

    ピアノ :レスリー・ハワード

        (1993.09.23 @ピーターズハム、ロンドン)

こちらのCDは、英国作曲家のヴィオラ室内楽作品を集めたもので、ブリテン、V・ウィリアムス、グレインジャー、ブリッジ、レベッカ・クラーク、そしてバックスの曲が収められてます。

これらの中では、女流のクラークさん(1886~1979)の3楽章形式のソナタという大作もあって、これがなかなかに抒情的かつモダーンな一品なのですが、それはまたいずれの機会に。

本日は、日ごろ、その作風や音色が耳になじんだ作曲家、バックスの10分あまりの幻想的な作品に絞りました。

バックスは大好きな英国作曲家で、もういくつも記事にしてますが、その素敵な、ワンパターンともいえる3楽章形式の7つの交響曲を中心に、オペラ以外に残した多彩なジャンルの作品たちを、愛してやみません。
 ロンドンっ子でありながら、ケルト文化に感化され、その音楽をたどり、収集し、自らの音楽に反映させました。
この「Legend」も、そうした雰囲気が満載の作品で、交響曲でいえば、3番とあのケルト臭満載の4番とのあいだに書かれました。
1928年、バックス45歳の作品です。

ためらいがちなヴィオラの音色に、感覚的なピアノが寄り添い、ミステリアスでありつつも、抒情と幻想の入り混じる、わたくしには、えもい合わぬ、バックス・ワールドを堪能できる佳品です。
それにしても、ヴァイオリンのように、突き抜けたサウンドもなく、チェロのように、人を包み込むような深い音空間を築きあげるでもない。
縁の下の力持ちのような、普段は、言葉少ないヴィオラの音色。
それこそ、多弁でなく、静かな物言いは、どんなに言葉や音を尽くすよりも、人の耳や心に緩やかに入ってきて、安心感をもたらします。

ヴィオラを嗜む天皇陛下の、その人となり、その御声、そのもののような気がいたします。
こんな風ないい方は不遜かもしれませんが、それこそ、国民や日本のことを、いつも祈っておられる皇室の存在が、わたくしたちに与えてくださる、安堵と安寧の安心感なのかもしれません。

ちなみに、ほかの収録曲、クラークのソナタ以外も、V・ウィリアムズ節が堪能できる「ロマンス」、グレインジャーの「サセックスの母のクリスマス・キャロル」など、べらぼうに美しく、そしてハートウォームな曲が聴けて、秋の夜にもぴったりです。

スコットランド出身、メニューイン門下のコレッティの艶のあるヴィオラは気持ちいい音色をふんだんに奏でてます。
彼も、期せずして、天皇陛下と同じ年でした。

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きれいなものは、きれい。
尊いものは、尊い。

それでいいじゃないですか。

2000年も続いた、日本国の皇統と、われわれ日本人の想いは、これからも弥栄にあれと心より思います。

パレードを体感しようと出かけましたが、思いもしなかった手荷物検査の長蛇の列は、一向に進まず長時間並んで終了でした。

上空のヘリコプターと、はるか遠くに見える、観覧できた方々の振る日の丸を眺めつつ、その雰囲気を堪能いたしました。

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2019年11月 9日 (土)

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 セガン指揮

Suntry20191104

11月4日、晴天の振り替え休日、午後のサントリーホールのカラヤン広場には、日の丸と星条旗が並んでおりました。

あいにく、というか風もない好天で、旗はなびかず、静かなままでしたが、コンサートはパワフルなアメリカ魂に熱気の渦に包まれました!

Philadelphia

  チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

  マチャヴァリアニ ジョージアの民謡より Doliri

     Vn:リサ・バティアシュヴィリ

  マーラー     交響曲第5番 嬰ハ短調

    ヤニック・ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団

           (2019.11.04 @サントリーホール)

憧れのフィラデルフィア管弦楽団。
70年代、80年代初め、オーマンディとの来日を横目で見ながら、ついぞその実演に接することが出来なかった「フィラデルフィア・サウンド」。
その後のムーティは、当時、あんまし好きじゃなかったし、サヴァリッシュのシュトラウスも聴きそびれ、結局、エッシェンバッハとの2005年の来日でフィラデルフィア管を初めて聴くこととなりました。
その時の演目が、マーラーの第9です。
ほかのプログラムでも、マーラーの第5を演奏していたはずで、憧れのゴージャス・フィラデルフィアは、自分では、マーラー・オーケストラへと転じていたのでした。
 その後の破綻を経て、セガンのもとに復調したフィラデルフィアのマーラー、ほんとうに楽しみでした。
ちなみに、今回のオーケストラ配置は、ストコフスキーの通常配置で、まさにアメリカのオーケストラ、フィラデルフィアの伝統配置。
右から左へと低音楽器から並びます。
そして、私の記録から、2005年のエッシェンバッハとの来日では、対抗配置となっておりました。
このあたりもとても興味深いですね。

あとの楽しみは、初バティアシヴィリ。
予定されていたプロコフィエフの2番から、奏者の希望でチャイコフスキーに変更されましたが、これがまた度肝を抜かれる凄演でした!
最初のひと弾きで、明らかに違う、音色の輝きと音の強さ。
フィラデルフィアを向こうに回して、オケがどんなにフォルテを出しても、その上をゆく、いや、そのオケと溶け込みつつも、しっかりと自分のヴァイオリンの音をホールに響かせる。
それに煽られるようにして、セガンとフィラデルフィアも輝かしいチャイコフスキーを聴かせる。
1楽章の全奏なんて、こんなに聴き古し、聴きなれた旋律に心躍るなんて、自分には考えようもなかったことです。
(ムターとプレヴィンの、チャイコとコルンゴルト、いまだにそのチャイコだけ聴いたことがありません(笑))
そしてフルートソロのべらぼうな美しさといったらなかった。
 しかし、フィラデルフィアの弦は分厚く、そしてうまいもんだ!
繰り返しますが、それにも負けないバティアシヴィリのヴァイオリンって!
ビターな辛口の演奏だった2楽章も素敵だったし、ますますオケとの掛け合いが面白くて、興奮させられた3楽章。
完璧な技巧に、冷静・的確ななかにも、だんだんと熱を帯びてゆくバティアシヴィリ。
ショートカットの御髪を左右に乱しつつの一気呵成のフィナーレは、聴き手を夢中にさせてしまうまったく見事なものでした。
 曲が終わると同時に、サントリーホールは、ブラボーとともに、おーーっ的などよめきに包まれました。
セガンも彼女に、王女様に接するかのように、ひざまずいて最上級の賛辞を送り、会場も笑いとさらなる興奮を呼び起こし、指揮者が団員のなかに腰を据えるなか、エキゾティックなグルジアの民謡を演奏してくれました。
 バティアシヴィリ、大好きになりました♡

マーラーの第5番。
前半もそうですが、後半もオーケストラは多くの団員がステージに乗って、腕鳴らしをしています。
それむ、むちゃくちゃ真剣で、マジで練習してる。
先日のBBC Scottishのオーケストラもそうでした。
とくにアメリカのオーケストラは、各奏者の腕前が高く、ソロがオケのなかで目立つこともしばしばで、まさに個人主義の観念が行き届いていると思いますが、その代わり、プロ意識は極めて高く、いざというときの団結力が強靭なまでの合奏力となってあらわれるんだろうとも思います。
日本のオケや、ドイツのオケなどは、指揮者によって演奏のムラが出たりすることが多いと感じますが、アメリカのオケは、どんな指揮者にも全霊でもって答え、高水準の演奏を達成しますし、まして、有能な指揮者にかかると、とんでもない能力を発揮します。
そのようにして、アメリカのオーケストラは、一定の指揮者と長く続く関係を築くのであろうと思います。

さて、指揮なしで開始した輝かしいトランペットに、雄弁な女性のホルンが大ブラボーを浴びたマーラー。
セガンは、その頂点を3楽章に持ってきて、大きく3部にわかれるこの作品の姿を明快にしたと思います。
1楽章と2楽章は、アタッカで繋ぎ、一気呵成に悲劇的な要素を強調しつつ描きました。
2楽章の大破局のような悲観的なムードの表出では、うなりを上げるフィラ管の弦に圧倒されたし、セガンの隆々たる指揮も極めて大きな動きでもって、オケを煽るようにしてました。
マッチョな体のセガン氏、筋肉もりもりすぎて、燕尾服では背中が破れちゃんじゃないかしら。
良く伸びる素材の衣装をいつも着てるし、あのモリモリの指揮ぶりに、オケのフォルテも無尽蔵なのだ。

一転、平和とのどかさが訪れるスケルツォ楽章。
先のホルンも朗々として素晴らしかったが、ここでは、フィラ管の弦と木管の各ソロたちの妙技に耳を奪われました。
この長大な楽章が、いささかもだれることなく、いわば万華鏡を覗くかのような楽しみとともに聴けたのも、セガンの自在さとオケの自主性とがあってのもの。

ハープを弦セクションの真ん中に置き、フィラ管の弦セクションの美音を堪能したアダージェット。
自分的には、先日のダウスゴーのスリムな抒情の方が好きだったけれど、終盤の第2ヴァイオリンから再現されるメインテーマが、ほかの弦の伴奏を伴いつつ、じわじわと全弦楽による感動的なピークに達するところが、目にも耳にも、素晴らしいご馳走でした。
 終楽章は、ともかく明るい。
アダージェットの副主題が容をかえて、なんども登場する際には、セガンとオケはノリノリで、こちらも気分がはなはだよろしい。
そして最終クライマックスでは、またもや隆々セガンが両腕を大きく広げて大ピークを創出。
で、驚きのアッチェランドで大曲は、瞬く間に終了!

ブラボーの渦で、サントリーホールを聴き手は、アメリカのビッグ5オーケストラの実力をまざまざと見せつけられ、感嘆したのでした。
これでいいのかな?との思いもよぎったし、先日のダウスゴー&BBCSSOの方が美しかったとの思いも捨てきれないが、でもこれはこれでよろしい。
「セガンとフィラデルフィアのマーラー」を聴いたのだから。

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熱気冷めやらぬホールを出ると、外はもう夜空で、そこには相変わらず星条旗が無風で静かに掲げられておりました。

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2019年11月 1日 (金)

BBC Proms Japan BBCスコテッシュ交響楽団演奏会 ダウスゴー指揮

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ロンドンのロイヤルアルバートホール(RAH)を中心に、イギリス各地で行われる、BBC放送局がバックについた夏の大音楽プロジェクト。

その催しが、この秋、日本にやってきました。

英国音楽好き、Proms好きには逃せない引っ越し公演です。

ネットの普及で、ここ10年ぐらい、毎年7月の終わりから、9月半ばまで、連日のRAHのコンサートをリアルタイムとオンデマンドで聴くことが出来る喜びを満喫しておりました。
年々、音質も向上し、楽章ごとに起きてしまう拍手にも、最近は苦笑とともに、新鮮な聴き手のストレートな感想として素直に受け止めるようになりました。

毎年、大きなテーマを定めて曲目が決められるものだから、ある作曲家の交響曲が全曲とか、主要オペラのほとんどとかが、まとめて聴けるという利点もあり、そして、私のような英国音楽好きには、毎年、例外なく取り上げられる英国作曲家の作品の数々の魅力にあります。
有名どころから、私ですら知らない作品、さらにはBBCの委嘱作といった新作も、惜しげもなく演奏され、放送されます。

その引っ越し公演ですが、印象としては、まずは無難なところに着地を目指したという感じです。
本場でのレジデントオーケストラは、BBC交響楽団ですが、今回は、スコットランドのグラスゴーからBBC局傘下の、BBCスコテッシュ交響楽団が、現在の首席指揮者、トマス・ダウスゴーに率いられて来日。
ラグビー・ワールドカップに萌えるさなかの、ナイスなタイミングでもあります。

ちなみに、連邦制のイギリスには、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの自治国があって、オーケストラでいうと、それぞれにBBC局のからんだ団体があります。
イングランドには本拠本元のロンドンのBBC響とマンチェスターのBBCフィル。
ウェールズには、尾高さんでおなじみとなった、カーディフのBBCウェールズ響。
スコットランドには、グラスゴーのこのたびのBBCスコテッシュ響。
北アイルランドには、BBCの直接のオーケストラはない(はず)で、アルスター管。

こうしたBBC系と自治国オーケストラのほかにも、イギリスには、ロンドンのBBCを含む5大オケに、BBCコンサート響、ボーンマス響、ハレ管、バーミンガム市響、ロイヤル・リヴァプールフィル、ロイヤル・スコテッシュ響、そのほかもオペラの座付きオケもありますので、イギリスのオーケストラはほんとにたくさん!

前置きが長すぎますが、そんななから、今回のProms Japanの座付きで来日した、BBCスコテッシュ響を聴き逃すわけにはいかなかったのです。

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  メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」

  チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調

      P:ユリアンナ・アブデーエワ

  マーラー     交響曲第5番 嬰ハ短調

  エルガー     行進曲「威風堂々」第1番

   トーマス・ダウスゴー指揮 BBCスコテッシュ交響楽団

          (2019.10.30 @文化村オーチャードホール)

来演第1弾のプログラムは、ご覧のとおりの豪華盛沢山。
ご当地もの、旬の奏者による超有名曲、指揮者も得意とする人気曲、そしてお約束の定番。
午後7時にスタートし、終演は9時30分。

本ブログは2部に分けて書きます。

①まず、良かったこと、褒めたいこと。

・デンマークの指揮者、ダウスゴーはこれまで毎年promsや一部のCDで聴いてきたけれど、余剰な感情に走らない、ストレートな解釈が、かえって音楽の本質に迫ることで、マーラーやシベリウス、ブラームス、ツェムリンスキーなど、とても気に入ってました。
昨年のpromsでもこのコンビで演奏した5番が、この日の演奏会でも、わたしには、とても新鮮かつ気持ちのいい演奏となりました。
人によってはそっけなく聞けるかもしれない快速基調のマーラーだが、指揮姿を見ていると、かなり細かく、丹念に振り分けているし、奏者への目配りやキューも的確。
バーンスタインやマゼール、パーヴォなどと対局にあると思われるスッキリ系だけど、マーラーのスコアや、音楽自体が透けて見えるようなクリアーかつ客観的な演奏なのだ。
おまけに、速いか所ではたたみ込むようにしてメリハリをつけながらも、3楽章は、ホルン氏の艶やかな見事なソロが光り輝き、ワルツの楽しさと、ピアノ部分の静けさの描き方がとても素晴らしく、オーケストラの精度の高さも、ここで発揮されたように思う。
さらに、その良き流れでアダージェットは、連綿たる抒情ではなく、透明感の勝る抒情で聴かせる今宵イチの名演であったと思う。
5番のコンサートは、これまで何度聴いたかわからないが、アダージェットで目頭が熱くなり思わず落涙したのは初めてではないかと記憶します。
ほかの楽章も、いずれも自分には鮮度高い、素敵な聴きものであったことをここに記しておきます。
対抗配置もことさらに効果的だった。
そして、ホルン首席氏、大きなブラボーをひときわ浴びてました!

・マーラーのあとに、アンコールなんて、あんまりありえないことだけど。
ダウスゴー氏が進み出て、本場では、これ!、みなさんご一緒に、ってようなことをお話しして、「威風堂々」。
思わず、手拍子も起き、そして、あのメロディーでは、観客席を向いて指揮。
一部、歌っている方もいらっしゃったけど、大半はハミング、わたしは、GodとGloryとHopeぐらいしか記憶にないから、むにゃむにゃ言いながら歌いましたよ。
オーケストラも、ホールの聴き手も、ここではノリノリで、深刻なマーラーのあと、こんなに開放的になるなんていいのかな?なんて思いは言いっこなしでした。
コンマス(ミストレス)の態度は??でしたが、スコットランドの方がどれほどいらっしゃるかわからないが、メンバーの開放的な明るさも、とても印象的でした。

・アブデーエワ、髪をまとめあげて、黒のパンツスーツに赤いパンプス。
遠目にも美人、そしてその演奏も美人な演奏。
技巧の鮮やかさをひけらかすような、みてくれだけの演奏でなく、指揮者の早めのテンポにのりながらも、チャイコフスキーの抒情を弾きだす美しいピアノでした。
ここでも2楽章が、オーケストラとのやりとりも含めて、とても素敵なものでした。
彼女のアンコールを期待したけれど、あっさりコンミスが、真っ先に席を立ち、後味いまひとつ。

・冒頭の、メンデルスゾーンは、オケも聴き手も、まだ腕も耳も温まってないから、手さぐり的な状態。
それよりも、間接照明のステージライトアップがのっけから気になった・・・。

②良くなかったこと、指摘しておきたいこと。

・ステージライトアップは、本場のアルバートホールでも、よくやっていることだけど、曲によってはナシもあるはず。
メンデルスゾーンは海を思わせるマリンブルー、チャイコフスキーは赤、マーラーは薄いブルー、エルガーは忘れた。
こんな感じで、ステージの両サイドと、正面に掲げられたPromsのロゴマークがライトアップされたわけだが、わたしは好きじゃない。
ことに、マーラーはやめてほしかった。
音楽祭だけど、普通のコンサートステージでよかったんじゃないかな。
それよりも、オーチャードホールという選択肢が・・・・、大阪がうらやましい

・曲目からして、長い演奏会になることから、最後の時間が運用側やオーケストラのサイドからも厳しく決められていたのであろう。
オーケストラは休憩時間内に席についていたし、先にも書いたが、コンサートミストレスが、拍手を打ち切るようにして、挨拶もそこそこにステージを去ってしまうから、強制終了となるイメージ。
エルガーの終演後、余韻にひたりたかった団員は、われわれに深々と挨拶したり、お互いに成功を祝ってハグしたりしてたのに・・・・
たくさん聴けたのはうれしいことだけど、もっと余裕のあるプログラムの設定や、会場サイドの特別例外処置なども検討すべきでは?

・会場運営側といえば、極度の写真撮影の禁止。
ロビーにある、ホール内を映すモニターすら、撮影禁止の札。
終演後、団員も引き上げたステージを映そうとした方に気が付いた係員が、飛んでいって、止めてくださいと制止している光景もみた。
ロビーにあった大きな看板はOK。
promsのロゴやデザインの使用に関する運用上の約定があるのかしらんが、ここまで厳密にやる必要はあるのか?
それともオーチャードホールっていつもそうなのか?
ほかのコンサートでも、毎度思うけど、演奏者を映すことはダメだけど、ホールや奏者のいないステージの様子などは、聴いた方の思い出や、それをSNS等で紹介したり、また宣伝効果にもつながるので、過度でなければ多少のことはいいのではないかと思いますが。
なにごとにも厳密すぎる日本人ではあります・・・
自分はパンフで隠して映しちゃったけどさ・・・

・プログラムを買うのに行列しなくてはならない苦痛と、その内容のイマイチっぷり、グッズも高いしイマイチ。
ちなみに、威風堂々は最終日にプログラムに載っているが、イギリスで歌われる歌詞は、そのプログラムに記載あり。
しかし、アンコールでこれをやるのなら、歌詞をあらかじめ配るか、字幕を出すなどすればいい。
 そして、そのプログラム誌、メイン演奏者は、今回の音楽祭を通じ、オーケストラと指揮者であるはずなのに、その彼らの紹介が数行で、わずかちょっとしか出ない日本人演奏家たちと同じような扱いと配列になっている。
さらに、オーケストラのメンバーの一覧すらなく、CDや音源の宣伝もなし。
大きなページを占めているのは、特別協賛の会社の宣伝、しかもGOALSときた、すきじゃない。

・主催者の実行委員会のメンバーを明かしておこうじゃないか。
ぴあ、テレビ朝日、博報堂DIY、読売新聞、BS朝日がメンバーで、協賛がKDDI、特別協賛が大和証券・・・・
クラシック系の音楽事務所の名前はなし。

妙な商業主義を表に出すのでなく、アーティストと聴き手第一のプロモーションを心がけて欲しいものだ。
日本の聴き手は、もっとレヴェルが高いよ。

文句ばっかりになったけれど、ともあれ、「Proms」の名を冠したコンサートの企画自体はありがたく、これが今後も発展形で継続してくれるといいと思うのでありました。

Shibuya

ハロウィン前夜、渋谷の街に降りて行ったら駅前はこんな感じ。
正面のセンター街へ繰り出す人、そこからこちらへ向かってくる人。
音楽祭を楽しんだけど、こんな祭りはいやだな・・・でも楽しそうじゃないか、若者は。
学生時代を過ごした街、渋谷はいずこへ・・・

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2019年10月27日 (日)

マーラー祝祭オーケストラ 定期演奏会

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日曜午後、こんな素敵なプログラムの演奏会があるのを発見し、思い立ってミューザ川崎へ。

新ウィーン楽派の3人の作品のみ。

わたくしの大好物ともいえる作品3作です。

マーラー祝祭オーケストラは、2001年に指揮者の井上喜惟氏の提案のもと結成されたアマチュアオーケストラで、国際マーラー協会からも承認を得ている団体。
毎年の演奏会で、すでにマーラーの全交響曲を演奏しつくし、今回は、マーラーに関わり、その後のウィーン楽壇の礎をを築いた3人の作曲家、新ウィーン楽派の3人に作品を取り上げたものです。

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 ウェーベルン  パッサカリア (1908)

 ベルク            ヴァイオリン協奏曲 (1935)


     Vn:久保田 巧

 シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」(1902~3)

  井上 喜惟 指揮 マーラー祝祭オーケストラ

        (2019.10.27 @ミューザ川崎 コンサートホール)

正直言って寂しい観客の入りで、開演15分前に行って全席自由の当日券でしたが、ふだん、ミューザではなかなか体験できない良席を、両隣を気にすることなく独占し、音楽にのみりこみ、堪能することができました。

マーラーの名は冠してはいても、やはりこうした演目では、なかなか集客は難しいもの。
しかも、川崎の地でもあり、この日は、川崎名物のハロウィンパレードが同時刻に開催。

しかし、そんなの関係ないわたくしは、うきうき気分のミューザ川崎でありました。

ウェーベルンの作品1は、ウェーベルン唯一の大オーケストラによる後期ロマン派臭ただよう10分あまりの作品です。
長さ的に、コンサートの冒頭にもってこられる確率が高くて、これまでのコンサート履歴でも、ほとんどがスタートの演目でした。
しかし、いずれも、オーケストラも聴き手も、あったまる前の状態で、流れるように過ぎてしまうという難点がありまして、今回もまったく同じ状況に感じました。
なにものこりません。
1974年のシェーンベルク生誕100年の年にかかわり、翌年にかけてFMで放送されたアバドとウィーンフィルの演奏が、わたくしの、絶対的な完全・完璧なるデフォルメ演奏であります。
これが耳にある限り、どんな演奏も相当な演奏でないとアカンのですが、今回、この曲のキモもひとつ、曲の終結部の方で、ホルンがオーケストラの中で残り、残影のような響きを聴かせるところ、ここはとてもよかったです。

ベルクのヴァイオリン協奏曲。
この曲が、本日のいちばんの聴きもので、豊かな技巧に裏打ちされ、繊細でリリカルなヴァイオリンを聴かせてくれた久保田さんが素晴らしかった。
本来はデリケートでもあり、バッハのカンタータの旋律も伴う求心的な作品。
主役のヴァイオリンの求道的なソロに、大規模なオーケストラは、ときに咆哮し、打楽器も炸裂するが、このあたりの制御があまり効いておらず、久保田さんのヴァイオリンを覆い隠してしまった場面も多々あり。
ここは、指揮者の問題でもありつつ、全体を聴きながら演奏して欲しいオーケストラにも求めたいところかも。
交響曲のように演奏しては、オペラ作曲家のベルクの作品の魅力は減じてしまうのだから。。。
 でも、曲の最後の方、浄化されたサウンドをミューザの空間を久保田さんのヴァイオリンが満たし、夢見心地のわたくし、死の先の平安を見せていただいたような気がしますよ・・・・
 久保田さんのドレス、ウィーンの同時代を思わせる、パープルとホワイトの素敵なものでした!!

シェーンベルクのペレアスとメリザンド
20日前に、ここミューザで聴いた「グレの歌」とほぼ同時期の、後期ロマン派の作風にあふれるロマンティック極まりない音楽。
ここでも、トリスタンの半音階的手法が用いられ、音楽は当然に男女の物語りだから、濃厚濃密サウンドが展開。
 4管編成の大オーケストラが舞台上にならび、圧倒的なサウンドが繰り広げられ、この作品では、ときおり現れる、各奏者のソロ演奏がキモともなるが、いずれも見事なもので、前半プロとの奏者の編成の違いも判明もしたわけだが、木管、それとトロンボーンセクションとホルン群がここでは素晴らしかった。
単一楽章で、その中に、登場人物たちのモティーフを混ぜあわせながら、それぞれの場面を描き分けるには、指揮者の手腕が試されるところだが、本日はなにも言うまい。
 緊張感を途切れさせず、このはてしない難曲を演奏しきったオーケストラを讃えたいです!

演奏効果や、奏者の出番は考えずに、この素晴らしい演目の順番を、自分的には、前半後半、逆にするのも一手かも、とも。

 1、シェーンベルク ペレアス
 2、ウェーベルン  パッサカリア
 4、ベルク     ヴァイオリン協奏曲

作曲年代順にもなるし、オーケストラと聴衆の集中度と熱の入り方という意味での順番で。。

 次の、このコンビの演奏会は、来年5月に、マーラーが戻ってきて3番です。
蘭子さんのメゾで♡

コンサートの時間帯とかぶるようにして、川崎駅の反対側では、有名となった「川崎ハロウィン・パレード」が行われましたようで、駅へ向かう途上、可愛い仮装の子供たちと、吸血鬼やおっかない妖精さんや、悪魔さんたちにも出会いましたとさ・・・・

わたくしは、やっぱり、世紀末音楽の方が好き・・・・・

(10/30に渋谷でコンサートの予定あり、一日前だから大丈夫でしょうかねぇ)

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2019年10月24日 (木)

シューベルト 「楽興の時」 グルダ

Klimt-schubert

グスタフ・クリムトの作、「ピアノを弾くシューベルト」。

1899年の作品。

クリムトといえば、世紀末ウィーンにあって、マーラーと1歳違いだし、アルマとも関係があったし、ウィーン分離派を結成し、エゴン・シーレやココシュカなどとも関連した美術家であった。

マーラーや、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、ツェムリンスキーなどのレコードジャケットには、クリムトたちの絵が使われることも多いのは、同時代を生き、同じウィーンの世紀末の空気を吸った音楽家たちだから。

この「シューベルト」の肖像を中心とする油絵は、多くの音楽ファンのCD棚のなかにある、「カルロス・クライバーの未完成」のジャケットであるということで、ご存じかもしれません。
私は、レコード時代に買って、スピーカーの上に飾ったりして、ナイーブなシューベルトの横顔を見ながらその音楽を楽しんだものです。

Kleiber_20191023214501

ところが、この絵の原本は、作曲家たちに貼ったと同じような、退廃芸術家というレッテルをクリムトも浴びてしまったものだから、ナチスによって多くの作品が没収・収蔵されてしまい、終戦間際の連合軍の攻撃の際に、ナチス自らが放った火災によって消失してしまったとのことである。

 わたくしの、唯一のウィーン旅行は1989年、東側体制の崩壊間近の年でして、ともかくこの絵が欲しくて、市内の楽譜・音楽関連書籍の「ドブリンガー」に出向き、絵葉書でしたが入手しました。

さて、クリムトが描いたシューベルトは、なんの曲を弾いているんだろう

今日は、それをテーマに、シューベルトのピアノ作品を選んでみました。

Schubert-gulda-ch

  シューベルト 「楽興の時」D780 op94

    フリードリヒ・グルダ

      (1963.09 @ジュネーヴ)

この絵を見ながら考えました。
ソナタだと重すぎるし、形式がしっかりしているので、シューベルトとはいえ、無理がある。
奥の難しそうなお顔の紳士だけなら、ソナタやさすらい人幻想曲でもいいけど、女性たちの三様の服装やお顔からすると、より多様性に富んだ曲の方がいい。
目を閉じて聴き入る方、楽譜かなにかに見入る方、そして、正面を向いて、シューベルトを見つめるというよりも、描き手のクリムトを見つめるかのような方。
即興曲だと、幻想味が強すぎるし、曲によっては深みが強すぎる、ということで、より自由で明るい「楽興の時」が一番のお似合いということで、この作品にしました。

正面を見据える女性は、実在のモデルがいて、クリムトの愛人だったそうな。
2006年作の映画「クリムト」を見たことがありますが、そこで描かれていたのは、奔放にすぎるクリムトの女性遍歴で、そこにはふんだんに、ヌードも現れて、ついつい目が奪われがち(笑)になったが、登場人物が女性も、ほかの同時代人もそっくりで、エゴン・シーレなんてうりふたつ。しかし、奔放さと発想の奇抜さばかりが目立つような映画の作り方で、クリムトの内面や、ウィーンの先鋭さなどはあまり感じさせてくれなかったように記憶してます。

いずれにせよ、女性を描くことでは天才的だったクリムトが、当時のモードを纏った、ここで登場させた3人を眺めながら聴く「楽興の時」。
それはとても楽しく、かつ、シューベルトなのに、ウィーンの世紀末に想いを馳せてしまう、そんな思いにさせてくれました。

市井の人々と音楽。
音楽は、権力者や金持ち・貴族たちのものばかりでない、という存在であることを示した存在がシューベルト以降の作曲家たち。
市民たちが築きあげた爛熟した文化・芸術のウィーン世紀末の、意外な結束点は、元をたどるとシューベルトにあったかもしれません。
 ちなみに、ジョナサン・ノットのシューベルトの交響曲のCDのジャケットは、このクリムト。
ノットのマーラーのジャケットは、ココシュカでありました。

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薄命のシューベルトの、比較的晩年の作品で、数年かけて作曲した6つの小品を「楽興の時」としてまとめたもの。
「Moments Musicaux」というフランス語タイトルになっていて、友人でもあった、出版商のライデスドルフの発案とも言われている。

6曲ともに、とてもさりげなく、構えることなく聴ける音楽だけど、いずれもが曲想がまったく異なり、詩的でありつつ、自由奔放な曲想にあふれていて、演奏の仕方によっては深淵なる世界を見せることもできるし、平易なメロディでもあることから、弾き方によっては、家庭的な日常の音楽とも聴いてとれる。
 NHKAMの「音楽の泉」のテーマ曲として、長年親しまれてきたのが、3曲目のアレグロ・モデラート。
6曲の中間に、こんな風にリズミカルで優しい音楽を置きつつ、ほかは、瞑想感すら与える、ただごとでない雰囲気も醸し出すことができる、そんなシューベルトの「死の淵」をもが、ここにはあるのではないかと思ってしまう。

でも、繰り返しますが、そんな想いが脳裏を過りつつも、シューベルティアーデで仲間と楽しむ作曲者の姿もここにはあり、クリムトが描いた幻影のようなシューベルトの姿も、ここにはあるのかもしれません。

そう、楽興のおもむくまま、聴くがいいのです。

コンサートホール・レコードの会員だったころの1枚。
CD化されたものには、即興曲が抜けていて残念ですが、響き少な目のリアルなピアノサウンズが、グルダの唸り声とともに、耳元で直接響きます。
そう、ウィーン生まれのグルダの、まろやかかつ、自由なシューベルト。
目の前で弾いているような感じの演奏であり、録音です。

Sesetion2

1989年のウィーン旅行のときに、ゼセッション=分離派会館に行きました。

ユーゲント・シュティール様式に満たされた建物。

クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」を見たことが忘れられません。

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2019年10月20日 (日)

ツェムリンスキー 「こびと」 アルブレヒト&コンロン指揮

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こちらも、三島スカイウォークの吊り花。

怪しい色合いの薔薇は、造花です。

美しいけれど、美しい偽物。

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 ツェムリンスキー 歌劇「王女の誕生日」

スペインの王女、クララ:インガ・ニールセン
待女、ギーター:ベアトリーチェ・ハルダス
こびと:ケネス・リーゲル
待従、ドン・エストバン:ディーター・ヴェラー
3人の女中:チェリル・ステューダー、オリーブ・フレドリックス
      マリアンネ・ヒルスティ

 ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団
              リアス室内合唱団

      (1984 @ベルリン)

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 ツェムリンスキー 歌劇「こびと」

スペインの王女、クララ:マリー・ドゥンレーヴィー
待女、ギータ:スーザン・アンソニー
こびと:ロドリック・ディクソン
待従、ドン・エストバン:ジェイムス・ジョンソン
3人の女中:メロディ・ムーア、ローレーン・マクニー
      エリザベス・ビショップ

 ジェイムズ・コンロン指揮 ロサンゼルス・オペラ・オーケストラ
              ロサンゼルス・オペラ合唱団

      (2008.03 @ロサンゼルス・オペラ)

音盤と映像のふたつ。

アルブレヒトとコンロン、ともに、ツェムリンスキーの紹介と録音に力を入れた指揮者ふたり。

前回のブログで、シュレーカーの「王女の誕生日」を取り上げ、その作品の経緯や原作について書きました。
すぐれた台本作家でもあったシュレーカーが、オスカー・ワイルドの同名の童話に感化され、新しいオペラの台本をツェムリンスキーに提供しましたが、気が変わって、自らがオペラ化したくなり、その了承をツェムリンスキーに求めた。
シュレーカーのこのオペラ作品は、1918年に「烙印された人々」となる。
 シュレーカーは、代案として違う作品の台本化を提案したものの、ツェムリンスキーは受け入れることが出来ず、どうしても、「王女の誕生日」をオペラ化したくて、シュレーカーの「烙印」から遅れること4年、1922年にゲオルグ・クラーレンの台本により、同名のオペラとして完成され、クレンペラーの指揮で初演された。
 
ツェムリンスキーが、どうしてこの原案にこだわったのか。
これも有名な話ですが、ツェムリンスキーは、想いを寄せていた、アルマ・マーラーに王女を、そして背も低くてあまりいい男とは言えない自分を「こびと」にみたたて考えていたということ。
 そう、アルマこそ、当時のウィーンのファムファタルだったのです。
ただ、彼女は自身がすぐれた芸術家でもあり、そして男性から豊かな芸術性を引き出す才能もあった点でかけがえのない存在。

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音盤と映像盤、ふたつで、タイトルが違います。
84年頃に録音されたアルブレヒト盤は、この作品の世界初録音で、1981年にドレーゼンの演出でハンブルクで蘇演されたバージョンによるもの。
当時のCD1枚に収まるようにとの考えもあったか否か、カット短縮版となっていて、待女のギータの役回りが減らされ、劇の最後も王女の言葉で終了するようになってます。
 この作品の初演の地、ケルンで完全版で上演したのが、1996年のコンロンの指揮によるものでして、EMIにレコーディングもなされました。
さらに、2000年代に入ってロサンゼルスで再びコンロンが上演したものが、映像のDVDなのです。

作曲時期の1922年は、「フィレンツェの悲劇」と「抒情交響曲」の間ぐらい。
その音楽は、甘味でかつ爛熟した響きを背景に、飽和的な音の洪水になる寸前の危うさをはらんでいて、とても危険だけど、触ったら壊れてしまいそうな繊細さと抒情味にもあふれていて極めて魅力的です。

CDとDVDとの音楽の相違点をつぶさに検証することは、素人の私にはできませんでしたが、アルブレヒトの指揮は、こうした作品の紹介と普及に心血を注いだ指揮者ならではの情熱とともに、ツェムリンスキーのクールな音楽を客観的に聴かせていて、素晴らしいと思いました。
東西分裂中のベルリンの機能的な放送オーケストラも巧いものです。
 K・リーゲルの没頭的な歌唱もいい。
80年代、マーラーや後期ロマン派系の音楽になくてはならない、このテノール、バーンスタインや小澤征爾との録音も多い。
そして、ニールセンの白痴美的お姫様も怖いくらいに美しい。。。
あと、ブレイク前のスチューダーが女中役で出ているのも年代を感じさせます。

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ツェムリンスキーが「こびと」で、オスカー・ワイルドの原作童話と変えたところは、王女が原作では12歳だが、オペラでは18歳。
「こびと」は、森で見つかられ、森の親父は厄介払いして清々としたとあるが、ここでは、トルコからの貢ぎ物として王女の誕生日にプレゼントされ、彼は歌うたいということになっている。
それから、待女のギータが、とてもいい人で、こびとに同情的。
王女に想いを寄せるこびとの、いつか裏切られるだろうということを案じて、いまからでも遅くないから帰りなさいとまで言ってあげる。
アルブレヒトの短縮版では、最後は、王女の、「次は心のないおもちゃにしてね」「さ、ダンスに戻りましょう」という残酷な言葉で終わりになるが、オリジナル版は、王女があっけらかんと去ったあと、同情を寄せる待女ギータに、こびとは、薔薇を・・・と瀕死の声でつぶやき、ギータがその白い薔薇を手向けてあげるところで、急転のフォルテによる幕切れとなります。

それにしても、ツェムリンスキーの音楽は妖しいまでに美しい。
色で言えば、銀色に感じる。
王女から、白い薔薇を投げられて、その想いをどんどんエスカレートさせていく「こびと」のモノローグ。
そして、王女との少しばかりの二重唱。
鏡を見てしまった慟哭の想いと、いや違うんだ、まだ王女は自分のことを・・・と想いつつショックで苦しみながら死んでいく「こびと」。
これらのシーンの音楽は、絶品ともいえるキレイさと切なさに満ちている。

みずからを、アルマにあしらわれる惨めな男に読み替えて作曲をしたツェムリンスキーの想いが、なんだかいじらしく感じられる。
そう、映像で見ると、ほんとに気の毒で、涙を誘ってしまうのでありました・・・・

Zwerg

いずれも、あまり名前の知らない歌手たちですが、みんな役になり切ってまして、80分のドラマに思い切り入り込むことができました。
ドイツのオーケストラからすると、音色が明るすぎる感はありますが、そこはさすがにコンロン。
ツェムリンスキーやシュレーカーも含めて、こうした時代の音楽がほんとに好きなんだな、と指揮姿を見ていてもわかります。
写実的な演出ですが、ベラスケスの絵画そのものでもあって見ごたえがありました。

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この夏に、フランスの放送局がネット配信した、リール歌劇場での「こびと」の上演を録音して楽しみましたが、今回それがyutubeにも優秀な映像でもってUPされていたましたので、こちらも観劇しました。
シンプルな演出で、こびとは、ナイキのスポーツウェアにチープなジーンズ、王女や廷臣たちは、ちょっと未来風な白いドレス。
まさに小柄な、マティアス・ヴィダルのタイトルロールが、実に素晴らしい。
リリカルで同情心も誘うその歌は、今回の音盤や映像よりも、ずっと上かと。。
あと可愛いジェニファー・クーシェの王女も、ビジュアル的にもよし、歌もよしでした。

 さらに、発見したのは、この夏、バイロイトの「タンホイザー」でブレイクしたトビアス・クラッツアーが5月にベルリン・ドイツ・オペラで演出したもののトレイラーがありました。
ほぼツェムリンスキーの風貌の主人公、そして、タンホイザーでもオスカルで登場した役者の方も出演してます。
いずれ、商品化されるものと思われますが、10年の隔たりはあるにしても、保守的なアメリカといまのドイツの演出の違いは大きすぎるほど。
オペラの世界には、現在ではNG用語や存在自体がまずいものがたくさんあるし、私も気にせず書いてしまってますが、なかなか難しい問題ではあります・・・・



ツェムリンスキーのオペラ、全8作中、まだこれで3作目の記事。

あと6作、しかし、そのうち2作は未入手。

「ザレマ」      1895年
「昔あるとき」    1899年
「夢見るゲールゲ」  1906年
「馬子にも衣裳」   1910年
「フィレンツェの悲劇」1916年
「こびと」      1922年
「白墨の輪」     1932年
「カンダウレス王」  1936年

Mishima-walk-4

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2019年10月18日 (金)

シュレーカー 「王女の誕生日」組曲 ファレッタ指揮

Mishima-walk-1

三島市にある、三島スカイウォークのイベントスペース。

この道の駅的な観光スポットのウリは、400mの長いつり橋で、そこから見える景色は絶景とのこと。

とのこと、というのは、一度も渡ったことがないからです。
高いところ苦手だし、行くといつも風が強いし、なんたって、渡るのに一人税別1,000円もかかるし、犬や赤ちゃんも専用のカート500円が必要とのことで、あんまり何度も渡る人はいません・・・

しかし、これらの吊り花は、とてもきれいです。

Schreker-birthday-of-the-infanta-1

  シュレーカー 「王女の誕生日」組曲

 ジョアン・ファレッタ指揮 ベルリン放送交響楽団

       (2017.06.17~23 @ベルリン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)に関しましては、これまでオペラを中心に幾度も書いてきましたので、その人となりも含めまして、下段や右バーの「シュレーカー」タグをご照覧ください。

マーラーの後の世代、R・シュトラウスの一回り下、ツェムリンスキーやシェーンベルクと同世代で、指揮者としても活躍し、「グレの歌」の初演者でもあります。
作曲家としては、オペラの作家と言ってよく、台本からすべて自身で制作するというマルチな劇作家でありました。
当時は、シュトラウスや、後年のコルンゴルトなどと人気を分かち合う売れっ子オペラ作者だったのですが、ここでもやはりユダヤの出自ということが災いし、晩年は脳梗塞を罹患し失意のうちに亡くなってます。
 同じ、退廃音楽のレッテルを下されたコルンゴルトが、いまヴァイオリン協奏曲と「死の都」を中心に、多く聴かれるようになったの対し、シュレーカーは音源こそ、そこそこに出てきてはいるものの、まだまだ日の当たらない作曲家であることは間違いありません。
コルンゴルトのような明快かつ甘味なメロディラインを持つ音楽でなく、当時の東西のさまざまな作曲家の作風や技法を緻密に研究し、影響を受けつつ取り入れたその音楽は、斬新さもあるし、旧弊な様子もあるし、はたまた表現主義の先端でもあるし、ドビュッシーやディーリアスといった印象や感覚から来る音楽の作風すらも感じさせます。
そうした、ある意味、とりとめのなさが不明快さにつながり、とっつき悪さも感じさせるんだと思います。

わたくしは、そんなシュレーカーの音楽の、多様さと、そしてオペラにおける素材選びの奇矯さが好きなのであります。
そして、そのオペラたちも、ある程度パターンがあって、親しんでしまうと、とても分かりやすさにあふれていることに気が付きます。

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オペラではない、シュレーカーの劇音楽を。

「王女の誕生日」は、1908年に上演された同名の劇の付随音楽であります。

このパントマイム劇は、クリムトが主催していたウィーンクンストシャウでの上演で、そのときのダンスのプリマは、モダンバレエの祖である、グレーテ・ヴィーゼンタールで、彼女は妹とともに舞台に立ち、その音楽は彼女によってシュレーカーに依頼された。
シュレーカーは、室内オーケストラ用に35分ぐらいの12編からなる音楽を付けたが、のちに、それを拡大して長作のフル編成のオーケストラ作品に仕立て直そうとしたものの、それは実現せず、同じ3管編成の大オーケストラ向けに曲を少なくして、10曲からなる組曲を作り直したのが、いま聴かれるこの作品であります。

原作は、かのオスカー・ワイルドで、「幸福な王子」と「石榴の家」という9編からなる童話集のなかの同名の「王女の誕生日」の物語から採られたもので、シュレーカーは、この童話からインスパイアされて、ツェムリンスキーのためにオペラの台本を準備したが、結局は自らが気に入ってしまい、ツェムリンスキーに了承を得て、自作の台本にオペラを作曲することとなる。
それが、「烙印された人々」となるわけであります。
 一方のツェムリンスキーも、この物語の筋立てには、大いに共感したものだから、オペラにしたいという想いを捨てきれず、「こびと(Der Zwerg)」という作品になって結実した。

シュレーカーの「烙印された人々」は、せむしの醜男が主人公で、それにからむのが、心臓に病を持つ女、性力絶倫男、腐敗政治家・退廃市民などなど、ちょっと特異な方々の物語で、現在では、とても考えにくい設定なのであります。
 そして、「王女の誕生日」も同じく、醜いこびとが題材。

「物語はスペイン。せむしのこびとが遊んでいると、宮廷の廷臣たちに捕らえられてしまい、王女の誕生日プレゼントとして、宮廷に綺麗な服を着せられて差し出されてしまう。得意になって踊るこびとに、人々は笑って喝采を送り、いつしかこびとは、もっと彼女のことが知りたい、そして、王女に愛されていると思い込むようになる。あるとき、宮廷で鏡の部屋に迷い込んだこびとは、姿見に映った自分の姿をみて、そしてそれが自分であることを悟って叫び声をあげて悶絶して死んでしまう。王女は、『今度、おもちゃを持ってくるときは、心のないものにして!』と言い放ち・・・幕」

残酷な物語であります。

ワイルドは、スペインのベラスケスの絵画「女官たち(ラス・メニーナス)」に感化され、この物語を書いたとされます。
その絵が、今回のCDのジャケットになっているわけです。
たしかに、右端にそういう人物がいますし、王女とおぼしき少女は笑みも表情もないところが怖いです。
ワイルドといえば、「サロメ」でありますね。
ファム・ファタールという男をダメにしてしまう謎にあふれた魔性の女、ルルも、マリーもそうですが、シュレーカーのオペラにも不可思議なヒロインたちは続出します。

こんな残酷な物語なのに、この組曲の音楽は平易で、奇矯さはひとつもありません。
「烙印」の主題もそこここに出てきます。
ここから物語の筋を読み解くことができないほどです。
冒頭の第1曲が、いちばんよくって、この旋律はクセになります。

全体としては、短い曲の集積ながら、童話的なお伽噺感に満ちていて、宮廷内の微笑みすら感じさせます。
ある意味、物語の筋と、このシュレーカーの音楽のギャップが恐ろしいところでもありますが・・・・
きっと舞台で、前衛的なダンスなどを付けでもしたら、さらにそら恐ろしく、哀しいものになるんでしょう。。。。

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アメリカのベテラン女性指揮者ファレッタさんは、バッファローフィルを中心に、アメリカ各地と英国・ドイツで活躍してますが、コアなレパートリーを持っていて、シュレーカー作品にも、そのわかりやすい解釈で適性があると思います。
この組曲の前に、のちに「烙印された人々」の前奏曲へとなる「あるドラマへの前奏曲」が収録されているのも、その関連性において秀逸です。
最後には、初期のまさにロマン交響曲的な「ロマンティックな組曲」も収められてます。
 オーケストラは、旧東系のベルリン放送交響楽団。

つぎに取り上げるツェムリンスキーの「こびと」のオーケストラは、西側の旧ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ響)なところが面白いです。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1924


 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

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2019年10月 7日 (月)

シェーンベルク 「グレの歌」 ノット指揮 東京交響楽団

Musa-3

久しぶりの音楽会に、久しぶりのミューザ川崎。

もとより大好きな愛する作品、「グレの歌」に期待に胸躍らせ、ホールへ向かう。

今年、東京は、「グレ」戦争が起こり、大野&都響、カンブルラン&読響、そしてノット&東響と3つの「グレの歌」がしのぎを削ったわけだった。
いずれもチケットが入手できず、2回公演のあった東響にこうして滑りこむことができました。

Gurre-1

ホール入り口には、「グレの歌」の物語をモティーフとしたインスタレーション。
ミューザのジュニアスタッフさんたちの力作だそうです。

左手から順に、物語が進行します。
第1部~ヴァルデマール王とトーヴェ、第一部の最後~山鳩の歌、第2部~ヴァルデマール王の神への非難と第3部の狩、右端は、夜明けの浄化か愛の成就か・・・

このように、長大な難曲を、物語を通して追い、理解するのも一手ではあります。

が、しかし、シェーンベルクの音楽をオペラのように物語だけから入ると、よけいにこの作品の本質を逃してしまうかもしれない。
デンマークのヤコプセンの「サボテンの花ひらく」という未完の長編から、同名の「グレの歌」という詩の独訳に、そのまま作曲されたもの。
もともとが詩であるので、物語的な展開は無理や矛盾もあるので、ストーリーは二の次にして、シェーンベルクの壮麗な音楽を無心に聴くことが一番大切かと。

Gurre-2

  シェーンベルク  「グレの歌」

 ヴァルデマール:トルステン・ケルル   トーヴェ:ドロテア・レシュマン
 山鳩 :オッカ・フォン・デア・ダムラウ 農夫:アルベルト・ドーメン
 道化クラウス:ノルベルト・エルンスト  語り:サー・トーマス・アレン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
               東響コーラス
         コンサートマスター:水谷 晃
         合唱指揮     :冨平 恭平

      (2019.10.06 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

山鳩は、当初、藤村美穂子さんだったが、ダムラウに交代。
それでも、この豪華なメンバーは、世界一流。
だって、バイロイトのウォータンを歌ってきたドーメンが農夫、オペラから引退したとはいえ、数々の名舞台・名録音を残した、サー・トーマスが、後半のちょこっと役に、という贅沢さ。

ノットの自在な指揮、それに応え、完璧に着いてゆく東京交響楽団の高性能ぶり。
CDで聴くと、その大音響による音割れや、ご近所迷惑という心配事を抱えることにいなるが、ライブではそんな思いは皆無で、思い切り没頭できる喜び。

そして、さらに理解できた、シェーンベルクのこの巨大な作品の骨格と仕組み。

全体は、ワーグナーに強いリスペクトを抱くシェーンベルクが、トリスタンやほかの劇作も思わせるような巨大な枠組みを構築。
1901年と1911年に完成された作品。
そして、第1部は、ヴァルデマールとトーヴェの逢瀬。
トーヴェのいる城へとかけ寄せるヴァルデマールの切迫の想いは、さながらトリスタンの2幕だが、あのようなネットリとした濃厚さは、意外となくて、シェーンベルクの音楽は、緊迫感とロマンのみに感じる。
トリスタン的であるとともに、9つの男女が交互に詩的に歌う歌曲集ともとれ、「大地の歌」とツェムリンスキーの「抒情交響曲」の先達。
 第2部は、闘いを鼓舞するような「ヴァルキューレ」的な章。
 その勢いは第3部にも続き、王のご一行の狩り軍団は、人々を恐れおののかせる。
この荒々しい狩りは、古来、北欧やドイツ北部では、夜の恐怖の象徴でもあり、ヴァルデマールが狩りのために、兵士たちに号令をかけ、それに男声合唱が応じるさまは、まさに、「神々の黄昏」のハーゲンとギービヒ家の男たちの絵そのものだ。
登場する農民は、アルベリヒ、道化はミーメを思い起こさせる。

こんな3つの部分を、流れの良さとともに、舞台の幅の制約もあったかもしれないが、その場に応じて、曲中でも歌手たちを都度出入りをさせた。
このことで、3つの場面が鮮やかに色分けされたと思うし、途中休憩を1部の終わりで取ったのもその点に大いに寄与した結果となったと思う。
映像で観たカンブルランと読響では、休憩は、2部の終わりに、歌手たちは前後で出ずっぱり。
こうした対比も面白いものです。

それから、今回大いに感じ入ったのは、大音響ばかりでない、室内楽的な響き。
弦の分奏も数々あって、その点でもワーグナーを踏襲するものとも思ったが、歌手に弦の各パートがソロを奏でて巧みに絡んだり、えもいわれぬアンサンブルを楚々と聴かせたりする場面が、いずれも素晴らしくて、ノットの眼のゆき届いた指揮のもと、奏者の皆さんが、気持ちを込めて、ほんとに素敵に演奏しているのを目の当たりにすることができました。

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この日のピークは、1部の終わりにある、トーヴェの死を予見し描く間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」。
それと輝かしい最終の合唱のふたつ。
この間奏曲、とりわけ大好きなものだから、聴いていて、わたくしは、コンサートではめったにないことですが、恍惚とした心境に陥り、完全なる陶酔の世界へと誘われたのでした。
ノットの指揮は、即興的ともとれるくらいに、のめり込んで指揮をしていたように感じ、それに応じた東響の音のうねりを、わたくしは、まともに受け止め、先の陶酔境へとなったのでありました。
 続く、山鳩の歌は、ダムラウの明晰かつ、すさまじい集中力をしめした力感のある切実な歌に、これまた痺れ、涙したのでした。

そして、最後の昇りくる朝日の合唱。
そのまえ、間奏曲のピッコロ軍団の近未来の響きに、前半作曲から10年を経て、無調も極めたシェーンベルクの音楽の冴えを感じ、この無情かつ虚無的な展開は、やがて来る朝日による、ずべての開放と救いの前のカオスであり、このあたりのノットの慎重な描き方は素晴らしかった。
そのあとの、サー・トーマスの酸いも甘いも嚙み分けたかのような、味わいのある語りに溜飲を下げ、さらに、そのあとにやってくる合唱を交えた途方もない高揚感は、もうホール全体を輝かしく満たし、きっと誰しもが、ずっと長くこの曲を聴いてきて、やっと最後の閃光を見出した、との思いに至ったものと思います。
指揮者、オーケストラ、合唱、そしてわれわれ聴衆が、ここに至って完全に一体化しました。
わたくしも、わなわなと滲む涙で舞台がかすむ。

前半の夜の光彩から、最後の朝の光彩へ!
愛と死、そして、夜と朝。
シェーンベルクの音楽は、前向きかつ明るい音楽であることを認識させてくれたのも、このノット&東響の演奏のおかげであります。

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先に触れた、ダムラウと、アレン。
そして何よりも驚き、素晴らしかったのが、レシュマンのトーヴェ。
モーツァルト歌手としての認識しかなかったが、最近では役柄も広げているようで、これなら素敵なジークリンデも歌えそうだと思った。
凛々としたそのソプラノは、大編成のオーケストラをものともせず、その響きに乗るようにしてホール全体に響き渡らしていて圧巻だった。
「金の杯を干し・・・」と、間奏曲の魅惑の旋律に乗り歌うところでは、震えが来てきまいました。
 対する相方、ケルルは、第1部では、声がオーケストラにかき消されてしまい、存分にそのバリトン的な魅力ある声を響かせることができなかった。
わたくしの、初の「グレの歌」体験でも、同じようにテノールはまったくオーケストラに埋没してましたので、これはもう、曲がすごすぎだから、というしかないのでしょうか。
ライブ録音がなされていたので、今後出る音源に期待しましょう。
ケルルの名誉のためにも、まだ痩せていた頃に、「カルメン」と「死の都」を聴いてますが、ちゃんと声は届いてました。

もったいないようなドーメンの農夫。
アバドのトリスタンで、クルヴェナールを聴いて以来で、まだまだ健在。
あと、まさにミーメが似合そうなエルンストさんの性格テノールぶりも見事。

合唱も力感と精度、ともによかったです。

残念なのは、2階左側の拍手が数人早すぎたこと。
ノットさんも、あーーって感じで見てました。

でもですよ、そんなことは些細なことにすぎないように思えた、この日の「グレの歌」は、完璧かつ感動的な演奏でした。
楽員が引いても、歌手と指揮者は何度も大きな拍手でコールに応えてました。
こんなときでも、英国紳士のトーマス・アレン卿はユーモアたっぷりで、観客に小学生ぐらいの女の子を見つけて、ナイスってやってたし、スマホでノットさんを撮ったり、聴衆を撮ったりしてました。

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シェーンベルクの言葉。
「ロマンティックを持たぬ作曲家には、基本的に、人間としての本質が欠けているのである」

「浄夜」を書いたあと、この様式でずっと作曲をすればいいのに、と世間はシェーンベルクに対して思った。
その後のシェーンベルクの様式の変化に、「浄夜」しか知らない人は、驚愕した。
しかし、シェーンベルクの本質は変わらなかった。
ただ、シェーンベルクは、音楽の発展のために、自分の理念を開発する義務があると思って作曲をしていた。
無調や、十二音の音楽に足を踏み入れても、シェーンベルクの想いは「ロマンティックであること」だったのだと。

10年を経て完成した「グレの歌」こそ、シェーンベルクのロマンティックの源泉であると、確信した演奏会です。

Musa-2

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2019年10月 4日 (金)

R・シュトラウス ツァラトゥストラはかく語り ロンバール指揮

Takeshiba-1

ある日の竹芝桟橋の夕暮れ。

大島あたりを往復する高速船が基地へ帰還するところ。

遠くはお台場に、羽田に降り立つ飛行機も見える。

Zara-lombard

     R・シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語り」

   アラン・ロンバール指揮 ストラスブール・フィルハーモニー

                (1973 @ストラスブール)

自分にとって、また懐かしい1枚を。
新しい演奏もいいけれど、こうして我が青春時代を飾った演奏を、歳を経て聴いてみるのも、音楽を聴く喜びのひとつ。
とかいいながら、いつもそんな聴き方をしているわけですが。

アラン・ロンバールは、今年79歳になるフランスの指揮者。
かなり若い頃から指揮者デビューして、20代にはEMIよりオペラ録音デビュー。
そして、私たちにとって、いちばん親しみがあるのは、ストラスブール・フィルの指揮者となり、エラートとの共同で、多くの録音が日本でも発売されるようになったこと。

70~80年代にかけてのストラスブール、そのあとはボルドー、そしてスイス・イタリア語管へ。
だんだん、尻すぼみになってしまったそのキャリア。
いまはどうしているのでしょう。
結局、ストラスブール時代が、ロンバールがいちばん輝いていた。
画像検索をすると、かなりふくよかになってしまったが、ビジュアル的にも、スマートでかっこよかったストラスブール時代だ。

Lombard

フランスのオーケストラということで、瀟洒でおしゃれな響きを期待するけれど、どっこい違います。
ご承知の通り、ライン川を挟んでドイツとの国境を有する都市として、交通の要衝の地。
ドイツ語では、シュトラスブルクということになります。
かつてより、独領となったり、仏領となったりと、歴史上も重要な街なのでありました。

大指揮者ミュンシュもこの地に生まれ、当時はドイツだったので、ドイツ人。
しかし、のちにフランスに帰化してフランス人となります。
ドイツ音楽にも精通したミュンシュこそ、ストラスブールの街の性格そのものだと思ったりもします。
ボストン響に君臨したミュンシュですから、ストラスブールとボストンは、姉妹都市にもなってます。

ロンバールとストラスブールフィルのR・シュトラウス。
浮ついたところのない、正攻法の堂々とした演奏です。
もちろん、現在のより高度なオーケストラや録音による切れ味のいい、精度の高い演奏からすると、緩い部分は多々あります。
しかし、押さえるところはきっちり表現し尽くしているし、一点の曇りのない、明晰な演奏であるというのも、わたくしにはシュトラウスの明朗なる音楽を聴く、必須の要件を満たしていると思われます。
 ブラスとティンパニをはじめとした打楽器のバリっ冴えわたる響きも魅力的。
ただ弦は、やや落ちるといった感じかな。

当時はもうアルコーア版による「カルメン」録音が主流となりつつあった70年代初め、ロンバールは、ストラスブールでクレスパンそタイトルロールにしたその演奏では、従来のギロー版を採用していたように記憶します。
フランスの地方都市であった当時のストラスブールにあって、レーベルも含めて、ちょっと保守的であったのかもしれません。
ヴェルディのレクイエムや、オッフェンバックのラ・ペリコール、グノーのファウストなど、70年代ならではのストラスブールでの録音。
いまこそ、聴いてみたいと思います。

そんな想いを抱かせるような、久方ぶりのロンバール&ストラスブールのツァラトゥストラなのでした。

過去記事

「ロンバールの幻想交響曲」


Takeshiba-2

竹芝桟橋からレインボーブリッジを望む。

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