2018年9月17日 (月)

元祖 8番はこれ!

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キバナコスモスの群生。

忙しい気象に、自然の猛威に、同じ自然の仲間の花々も、調子を乱しがち。

サイクルがみんな早くなってしまった。

 音楽界も、好まれる音楽、コンサートや劇場で取り上げられる作品、好んで録音され、CDも売れる作品、そのあたりの変遷が、ここ数年際立って変貌してきていると思われる。

ヴィヴァルデイから、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトまでは、古楽的な演奏様式が多くなり、通常のオーケストラスタイルでは取り上げられにくくなり、古楽に通じた指揮者がピリオド奏法を活用して、その任にあたったりするか、古楽オーケストラでしか聴けないような、そんな風潮。

常設のオーケストラコンサートの、メインは、いまや人気曲の常連、マーラーやブルックナー、R・シュトラウスを主体とする、20世紀以降の大規模かつ、自己主張の多い作品ばかり。
古典系の作品は、それらの前座を務めるばかり。

いまや、8番といえば、ドヴォルザーク、ブルックナーかマーラーが人気。

わたくしの時代では、8番は、ベートーヴェンとシューベルト。
ドヴォルザークでさえ、ちょっとあとからたしなみました。

そんな当時の8番には、これ!っていう定番がありました。
今日は、なつかしい、その定番を。

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ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調 op93

    ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮
              ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

             (1968年9月 ウィーン ゾフィエンザール)


 60年代、ウィーンフィル初のベートーヴェン全集の指揮者は、ハンス・シュミット=イッセルシュテット。
ドイツ本流の渋い指揮者を起用したデッカに感謝しなくてはなりません。
そして、日本では、8番の名演奏として広く知られるようになったのも面白いことです。
 キビキビとしたリズミカルな演奏に、慣れてしまったいまの耳には、とても新鮮に聴こえる構えの大きい演奏で、若い方には、逆におっとりとしたイメージもあるかもしれません。
でも、7番と9番とにはさまれた8番の存在意義を、音楽そのものの力で、ごり押しすることもなく、すんなりと聴かせてくれる。
そして、よくよく聴くと、いまもって高音質の録音のよさも手伝って、各楽器がそれぞれ見通し良くよく聞こえる。
バランスの良い、端正なこの8番の演奏の魅力は、あとウィーンフィルの音色にもあります。
60年代のウィーンフィルは、現在のスマートすぎるグローバル化したウィーンフィルよりも、適度に鄙びていて、木管楽器ののどかな響きなど、懐かしい思いにさせてくれる。
イッセルシュテットのベートーヴェンは、どの番号も均一に素晴らしいです。
1970年のベートーヴェン生誕200年の年に、読響に来演し、第9とミサソレを指揮してますが、第9を日本武道館で演奏するという驚きの企画でもありました。

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さて、ベートーヴェンの次はシューベルト。

  シューベルト  交響曲第8番 ロ短調 「未完成」

     ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

              (1958年3月 ニューヨーク)

  
いまや、シューベルトの8番は、9番の「ザ・グレート」になり、「未完成」は、7番なんて風になったりしちゃったりで、ワタクシには、もうさっぱりわかりません。
ですから、ともかく、わたくしには、シューベルトの8番は断然「未完成」なのであります。
 「未完成」のわたくしの刷り込み演奏は、初めて買ったレコードがミュンシュ盤。
いまでも、一番好きな演奏のひとつですが、ずっと後になって聴いたのが、これも名盤といわれるワルター盤。
コロンビア響でなく、ニューヨークフィルであったことで、幽玄で、ほの暗いロマンティックな響きにおおわれていて、遠い昔の日々を懐かしむような想いにさせてくれる。
それでいながら、死の淵をかいまみるようなデモーニッシュな表現もあって、ワルターという指揮者は柔和なばかりでなく、そうマーラーの時代の人でもあって、いろんな新作を手掛けてきたオペラ指揮者であるといこともわかります。
 歌心と、厳しさと、その両方が2つの楽章の25分間にしっかりと詰まってまして、最後にはとても優しい気持ちになれるので、就寝まえの夜更けた時間にお酒でもくゆらせながら聴くのがよいと思います。

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このワルター盤、今持つCDは、同じシューベルトの5番とのカップリングですが、レコード時代は、「運命・未完成」の典型的な組み合わせの1枚でした。

どちらの8番も懐かしい~な。
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2018年9月 8日 (土)

チレーア 「アドリアーナ・ルクヴルール」 ピド指揮

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9月第一週は、大型台風の襲来による四国・関西地区での被害に加え、北海道では、胆振地方での大きな地震。
さらには、いずれも停電をともなう、インフラ損傷の2次被害。

心よりお見舞い申し上げます。

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     チレーア 歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」

     アドリアーナ・ルクヴルール:アンナ・ネトレプコ
     ザクセン公マウリツィオ:ピョートル・ベチャーラ
     ブイヨン公妃 :エレナ・ツィトコーワ
     ミショネ    :ローベルト・フロンターリ
     ジャズイユ僧院長:ラウル・ジメネス
     キノー     :ライアン・スピード・グリーン
     家令      :パーヴェル・コルガティン
     ジュヴノ    :ブリオニー・ドゥイエル
     アンジュヴィル:ミリアン・アルバノ
     
   エヴェリーノ・ピド 指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                   ウィーン国立歌劇場合唱団
               
              演出:デイヴィット・マクヴィカー

            (2017.11.12 ウィーン国立歌劇場)


以前に、BBCで放送されたものを録音しました。
ウィーン国立歌劇場における「アドリアーナ・ルクヴルール」の公演の音源。
コヴェントガーデンを初め、リセウ、パリ、サン・フランシスコの各オペラカンパニーとの共同制作。
こんな輪に、新国も入れればいいなぁ、とも思うが、東洋の島国だと、装置の融通などがコスト的に厳しいんだろうな・・。

さて、あらゆるオペラのなかで、かなり好きな作品にはいる、「アドリアーナ・ルクヴルール」。
何度も書いてますが、1976年のNHKの招聘していたイタリア・オペラ団の演目のなかのひとつが、このオペラでした。
カバリエ、コソット、カレーラスという名歌手3人が、それこそ火花を散らすような歌と演技でもって日本のオペラファンを虜にしてしまった。
広いNHKホールで、その興奮にひたっていたひとりが、この私でもあります。

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 ヴェルディ(1813~1901) 

  ・ボイート      (1842~1918)
  ・カタラーニ    (1854~1893)
  ・レオンカヴァルロ(1857~1919)
  ・プッチーニ    (1858~1924)
  ・フランケッティ  (1860~1942)
  ・マスカーニ    (1863~1945)
  ・チレーア     (1866~1950)
  ・ジョルダーノ   (1867~1948)
  ・モンテメッツィ  (1875~1952)
  ・アルファーノ   (1875~1954)
  ・レスピーギ    (1879~1936)

ヴェルデイ以降の、イタリア・オペラの作曲家。
プッチーニの存在感が図抜けているものの、その他の作曲家の個々の作品には、聴くべきものがそれぞれにあります。
一様に、ヴェリスモ・オペラとひとくくりに出来ない、激情的なドラマと音楽ばかりではありません。
そんな中での愛すべき作品が、「アドリアーナ・ルクヴルール」。
そして、作曲家としての、チレーアは、これらヴェリスモ派のなかでは、もっとも抒情的で、穏健な作風を持っています。

チレーアの残されたオペラは、5作品。
「ジーナ」「ラ・チルダ」「アルルの女」「アドリアーナ・ルクヴルール」「グローリア」。
チルダ以外は音源入手済みですが、「ジーナ」は若書き風で、ちょっとイマイチ、「グロリア」は、なかなかですが、リブレットがイタリア語のみで、内容把握がまだまだ。
あとは、器楽曲、声楽曲が少々。

イタリアの長靴の先っぽのほうにある、カラブリア州のパルミ生まれ。
そう、南イタリアの体中に歌にあふれたような人なのだ。
ナポリの音楽院を優秀な成績で出て、作曲家としてイタリア全土に名をはせたのが、アルルの女とアドリアーナ。
一時、フィレンツェで教鞭を執るも、最後の教職をナポリで終え、その生涯は、今度はイタリアの北西、ジェノヴァの西側にある美しい街、ヴァラッツェで亡くなっている。

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1902年の作曲で、その頃には、プッチーニは、「トスカ」で大成功をおさめ、次の「蝶々さん」を準備中。ちなみに、「カヴァレリア」は12年前、「パリアッチ」は10年前。
マーラーは、5番の交響曲を作曲、R・シュトラウスは、初期オペラ「火の欠乏」を仕上げたあとで、大半のオーケストラ曲は作曲済み。

こんな時代背景を頭に置いて聞くのも大切。
どの作曲家も華麗なオーケストレーションと、大胆な和声に、その筆の業を繰り出していた。
そこへいくと、チレーアの音楽はおとなしく感じるが、主人公たちにライトモティーフを与え、それらが、歓び、哀しみ、怒りの感情とともに、巧みに変化していくさまは、登場人物たちの心情の綾を、デリケートに描いていてすばらしい。
 さらに、グランドオペラ的な側面も、劇中劇としてのバレエ音楽の挿入などで、華やかな一面も。
しかし、そのバレエ音楽は、バロック調の新古典的な音楽で、これまたチレーアの音楽の冴えた一面だ。

 あと、なんといっても、4人の主人公たちに、短いながらもふんだんに与えられたアリアのメロディアスかつセンチメンタルなこと。

ことに、わたくしは、陰りをおびた、マウリツィオのアリアがみんな好き。
ひとりの女性への愛と、祖国への愛、ふたりの女性のはざまで、悩む軍人でもある男。
ピカピカしたテノールより、少々疲れた焦燥感がある声で歌われることが相応しい。
まさに、カレーラスのイメージ。

アドリアーナは、まさに大女優然としたプリマドンナの役柄。
堂々たるグランドマナーが必要、でも、繊細な歌いまわしも最後には求められる難役。
目をつぶって聴くカバリエの歌声が最高だし、テバルディもすばらしいが立派すぎか。
ラストシーンは、儚く、哀しい・・・



ブイヨン公妃は、このオペラでは、ちょっと憎まれ役だし、意地悪で、最後の最後のはひどいことしやがる。
そんな女だけど、愛するマウリツィオ様には健気で、いじらしい。
そんな可愛い側面と、何が何でも、自分のものと、荒れ狂う嫉妬の鬼と化す二面が必要。
これまた、コソットが思い出だ。
実際に見聞きした、カバリエとコソットの恋のさや当ては、鳥肌ものだった!

あと何気に、同調できるのがミショネ。
黙って、哀しみの背中を歌いださなくてならない、いいひとバリトンの役柄。
これまた、NHKのドラーツィが味のある歌に演技だった。
普段は剛毅なバリトン役を歌う、ミルンズもすごくいい。

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今回聴いた、ウィーンのライブ。
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4人の歌手がよくそろっていて、しかもビジュアル的に、もきっとよかったに違いない。
全体に、ふくよかになり、声も重く、最近では、ある意味、鈍重にも聴こえるネトレプコ。
彼女の場合は、映像がないと映えないのが残念なところだが、舞台で朗読を聴かせつつ、それがだんだんと、熱を帯びてきて、超激熱な叫びの歌に転じてゆくところの迫真ののめり込み具合が実にすさまじく、さすがネトレプコと感心した。
前半は繊細さをもう少し望みたいところだが、終幕の「スミレ」のアリアから、死へ向かうところも、まさにお得意の薄幸の女を地で演じ、歌っていて、とても感動的だ。

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相方の、ベチャーラ。これが、私にはとてもよかった。
この歌手のここ数年の進境の著しさといったらない、知らなかった自分を悔いるくらいだ。
この夏のバイロイトの「ローエングリン」で関心したのも記憶に新しい。
もともと、リリックな声に、力強さが加わり、喉を突き抜けるような力のある高音が出るようになった。
そして、品のある声質もいい。
わたしの理想とする、カレーラスに迫るようなイメージの、ベチャーラのマウリツィオ。

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あと、実は今回の歌手の中で、一番驚いたのが、ツィトコーワのブイヨン公妃。
なんとクリアーな、メゾソプラノの音域の歌手だろう。
声の威力も申し分なし。
強い声も、これまでのメゾソプラノが演じてきた、ブイヨン公妃の名歌唱とひけをとらないし、そんな強い歌唱とともに、女性的な優しさや、揺れ動く感情も歌いだしている。
 あー、素敵だ、と思いつつ、途中で気が付いた。
彼女の名前が、しばらくぶりで聴く、あのツィトコーワたん、だったこと。
 小柄なロシア出身のメゾ。
その小柄で金髪の可愛い風貌にもこだわらす、その声は、声量と声の上下の幅が極めて豊かな、ビジュアルも好感度以上の歌手だ。
新国で、オクタヴィアン、フリッカ、ブランゲーネを聴いて、その所作のカワユサに、虜になっていたんだ。
その彼女が、憎々し気な適役を、まさに的確に演じ歌っている。
音域の広いこの役柄を完璧に歌ってますし、どうしようもない心の葛藤も、その一本気な歌から聴き取ることもできます。
ほんと、すてきな、ツィトコーワ。

その彼女のインタビュー。

歌手として、音楽家としての風格や、いい雰囲気が出るようになりました。

ロシア、マリンスキー系の歌手たちの躍進が続いているように思います。

日本にも帰ってきて欲しいですね。

この演奏、ウィーンフィルのメンバーも大半の、国立歌劇場の美音をつかさどる、イタリアオペラの歌心満載の実務的なピドの指揮も、オケの柔らかな音色の魅力も伴って最高にステキです。

正規音源も数々聴いてますが、あと印象にのこるのが、80年代のJ・パタネの指揮する、バイエルンのシュターツオーパーのFM録音音源。
M・プライスのクリアーなアドリアーナ、N・シコフの壊れそうなぐらいの情熱の塊のマウリツィオ。

「アドリアーナ・ルクヴルール」が大好きです。

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2018年9月 2日 (日)

バイロイト2018 勝手に総括

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夏は気温もあがり、周辺は大気も不安定になるので、富士山はなかなか拝めません。

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右に目を転じると、丹沢・大山は、近いこともあって、くっきり。

8月が終わりましたが、まだまだ暑い。

でも朝晩の涼しい風が心地よい時分ともなりました。

ヨーロッパの夏の音楽祭も、プロムス、ベルリン芸術祭はまだ継続中ですが、バイロイト、ザルツブルクは終了。

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バイロイト音楽祭2018、全作を視聴しましたので、自分勝手に、妄想も込めて総括します。

①「ローエングリン」

今年の新演出演目、すでにプリミエ直後に全曲視聴し、画像のみで想像し、演奏に関してはいくつかコメントもいたしました。
 → ワーグナー 「ローエングリン」 バイロイト&コヴェントガーデン

NHKでもすでに放送されたそうですが、ネット上で、バイエルン放送局が、上演後すぐに公開しましたので、わたくしも即座に観劇することもできましたので、少しばかり感想を書かせていただきます。

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変電所があったり、全体的にブルーであったり、ブリューゲル風の中世の意匠や、羽根
だったりで、現実と夢想の歴史をなぞっているかと、公開されていた画像で想像していたが、実際はかなり違うもので、最近になって出てきた画像が上のオレンジのお部屋のもの。

このお部屋は、夫婦のベッドルーム。
嫌がるエルザを変圧器の碍子のようなところへ巻きつけて、事を迫るローエングリン。
その前は、聖書を仲良く読む夫婦風だったが、イライラを隠せない旦那。
妻は聖書を手放さず、それをとりあげて、ベッドサイドの引き出しにしまってしまう。
それで、ローエングリンはメラメラして電線で緊縛に至るんだ。(演技も本気( ´艸`))
エルザ、めちゃくちゃ嫌がってる・・・

高圧の強力な電力をもたらした有能な電気技師。
テルラムントとの対戦では、まさに子供も喜ぶ空中戦をしたあげく、羽をもぎ取ってしまう。
オルトルートにも、エルザにも、よく見ると蝶やトンボのような柄が衣装に描かれている。
市民は、みんな電気技師の味方で、豊かな生活にうはうは。

驚き、というか、まさかの陳腐な幕切れは・・・
ローエングリンの最後のモノローグ、語るうちに、周辺は暗くなり、市民の持つ明かりもチカチカしてきて電気切れ。
エルザへの形見の品は、非常用電源っぽい。
勝ち誇るオルトルートは、やたらと元気がいい。
失意のうちに、しょんぼり去るローエングリンと引き換えに、出てきたのは、エルザの弟ならぬ、全身緑の葉っぱで出来た森林クンとも呼びたくなるようなゆるキャラ、手には、緑のモニュメントがチカチカ光っている。
 エルザとふたり、姉弟で、誇らしげに勝利とばかり、舞台前面に歩んでくる。

市民も、王も、みんなぶっ倒れてしまい、オルトルートはひとり生き残り、彼女自身は、ここはどこ?状態できょろきょろ。
期せずして、エコじゃない電気屋さんを追い出してしまったから、功労者なんだ。

なんじゃこりゃ。

ローエングリンで、なにも、こんなこと表現するこはねーだろ。
舞台・衣装デザインを担当したラウヒ夫妻が、長年準備してきたもので、アメリカの演出家シャロンは、ここ1年あたりの指名だから、後追いでの共同演出となったはず。

いまさら、自然エネルギーをモティーフにしてくることは、古臭いと思うし、なによりも、ワーグナーのト書きと、歌詞の内容がまったく無視されていて、矛盾だらけ。
自然エネルギーの可否は、この場で語る資格はありませんが、原発をやめたドイツは、風力・太陽光に力を注ぐ一方で、フランスからの電力融通もある実態。
悩めるドイツの社会問題を、芸術に反映させるのは、その表現のひとつの手法だが、あまりに安易にすぎないか。。。
 こうした仕掛けじみた、子供だましのような演出は、1度見て驚けば充分だな。
演出系の3人一緒のカーテンコールには、ブーも飛んでたし。

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ベチャーラのローエングリンと、マイヤーのオルトルートの二人が実に素晴らしい。
ほかの歌手も上々。
ティーレマンの指揮もさすがと思わせるところ多々あるが、テンポ設定が不自然なところが、映像で舞台を確認しながら聴くと感じるところあり。

演出と指揮では、ネズミ・ローエングリンの方が、音楽の読み込みがいい。
あともう一点、ドイツの今の問題は、流入した移民問題。
2000年のユルゲン・フリムのミレニアム・リングの演出でも、すでにトルコからの移民が、リング演出のなかに織り込まれていて、いまや、そこに難民が加わったドイツの病める姿を強く感じるわけだ。
最初は、3K的な仕事を担うつもりの移民が・・・・、もうやめときましょう。

②「パルジファル」

3年目のラウフェンベルク演出。時代設定を替えたカラーリング豊かな舞台に、ちょこちょこと政治色を絡めてくるこの人。

最初から、賞味期限が切れる寸前だった。
だって、中近東に、内戦やテロあたりをシンクロさせたから。
普遍性なし、この手の政治・社会問題はことに流動的だから。
状況は常に変わる。
やめときゃよかったのに。

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ネルソンスに降りられてしまい、堅実なヘンシェルが2年振り、今年からビシュコフが何気にバイロイトデビュー。
カラヤンが後継候補に名前を出してから、もう数うん十年が経つが、ビシュコフは、その見た目の濃さとは裏腹に、以外と堅実かつ、外れのない、職人的な存在になっていった。
このパルジファルも、オーケストラがしっかり鳴っていて、全体の枠組みも誰が聴いても安心できるものだったから、歌手たちも歌いやすかったのでは。
しいて、いえば、何も新たな発見や驚きはなかった、無難すぎることか。

アンドレアス・シャガーの2年目のタイトルロールが、とてもいい。
アンフォールターースの2幕の叫びもばっちり。
今年、グルマンツにまわったグロイスベックも、美声を生かして若々しい雰囲気でよし。
パンクローヴァのクンドリーも凄みを増してるし、マイアーの病的アンフォルタスも素敵。

音源だけでは、歌手が素晴らしかったパルジファル。


③「トリスタンとイゾルデ」

4年目のカタリーナの演出。
舞台は、夢も希望もない、哀れなイゾルデの不倫の顛末、ということで、救われないトリスタンが気の毒、と思いつつ、毎年聴く、素晴らしいグールドのタイトルロール。

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 グールドさん、今年は、ジークムントも歌っていて、忙しい。
最終公演は、そのワルキューレとのからみもあって、パルジファルのシャガーが、トリスタンになったそうな。
ほんと、可愛そうだよ、グールドさん。
歌が立派すぎて、使いまわし。
来年は、こちらのトリスタンに加えて、新演出のタンホイザーも・・・・。

3年目のペトラ・ラングのイゾルデ、だんだんよくなってきた。
高音が、絶叫交じりになってしまうところも、だいぶ解消してきた。
ビジュアル的にオルトルートやブランゲーネのイメージが、いまだにあるも、耳で聴くイゾルデとしては、ほぼよし、次年度に期待。

ぺテルソンとクリスタ・マイアーのブランゲーネ、クルヴェナールは、もう完全なチームワーク的な存在で文句ない。
ルネ・パペの美声のマルケ、いいけど、悪い奴に印象操作されたこの演出では、可愛そう。

ティーレマンは、毎度、安心して聴けるトリスタンだけど、そろそろ違う指揮者でも聴きたい。

④「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

2年目の、バリー・コスキー演出。
映像がないので確認できないが、ちょこちょこ見直しがされた由。
第2幕の冒頭のピクニック場面が芝生でなくなったらしい。
あと巨大な顔のバルーンもよりリアルになった感じ。
このコスキー・マイスタージンガー、かなり芸が細かく、装置も演技も、美に入り細にいるので、シェローのリングのように、だんだんと改善され、成長していくのでは、と期待。

だがしかし、ユダヤ系のコスキーの主張は、楽しい舞台の表にも裏にも、反ユダヤだったワーグナーを皮肉ったり、ユダヤ系の指揮者レヴィをもてあそんだりと多面的。
そこに戦後処理の法廷をリンクさせたりとで、かなり政治色がありすぎで、ややこしいが、要は、ワーグナーの音楽や、その存在にまつわるものを、そこに関わった人物たちをも、マイスタージンガー=名歌手として、一緒くたに、舞台の上に展開してみた、というところだろう。
観客がそれを、どう受け止めるか、それぞれの出自・年代に応じてさまざまでしょう・・。
こんなフリーダムなイメージ発信が、コスキーのマイスタージンガーかも。

 フィリップ・ジョルダンの指揮が、昨年と各段の進化。
演出との完全合意かもしれないが、昨年不自然に思われた、変な「間」やテンポ感がまったくなくなり、全体が緩やかか、のびやか、かつ、俊敏なかたちに収斂した感じ。
舞台の演出サイドも歩み寄り、指揮者も歌手も完全合意した結果での大きな成果と思われます。

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フォーレのザックスの雄弁さと、まろやかな歌いまわし、さらに素晴らしい。
対する、ベックメッサーのクレンツィルの芸達者ぶりも、音源からでもただよってきます。
フォークトの完全に、耳に馴染みのできた騎士ワルターも安心安全。
ダーヴィット、マグダレーネ、ポーグナー、マイスターたち、みんなチーム化して万全。
そこに、久々にエヴァとして登場の、エミリー・マギーさん。
すっかりおなじみ、マギーさん、これもまた耳になじんだ安心感だし、その歌いまわしにレヴェルアップも。(シュヴァンネウィリムスは、気の毒だった・・)

てなわけで、マイスタージンガーの音楽面での安定感が光りました。

⑤「さまよえるオランダ人」

2012年から5年続き、1年空けて、また上演された使い勝手のいい「オランダ人」。
もう見慣れたけれど、グローガーの演出は、わたくしには陳腐なものにか感じない。
ビジネスマン、段ボール、女工さん、扇風機工場・・・、みんな好きじゃない。
「オランダ人」には、宿命と希望、そして愛による救済、といった不変のモティーフを明確に求めたい。

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2年目からずっとゼンタを歌っているメルベトがいい。彼女の必死の歌だけを聴いてると、あの舞台を思い起こさずに済むし。
日本でもウォータンや、いろんな役を歌っているグリムスレイが、今年バイロイトデビューしてオランダ人を歌ったわけだが、アメリカ発のバス・バリトンの系譜、T・ステュワート、R・ヘイル、J・モリスの流れを継いだような、なめらかな美声と馬力を感じ、嬉しくなりました。
他の歌手も長く歌い継いで、万全だし、ライン・ドイツオペラで着実に実績を積んでいる、アクセル・コバーのきびきびとした、実務的な指揮が、実に的確でいい。
シュタインや、シュナイダーの担ってきた堅実なバイロイトの音楽の分野を下支えするような、そんな存在になって欲しい。

⑥「ワルキューレ」

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不評だったカストルフのリングが終了したが、今年は、戦後バイロイト史上初、一作のみを取り出しての上演で、その目玉は、ドミンゴの指揮というもの。
この演目は、3回だけの上演。
バイロイトのライブ放送は、基本、初日のものが聴けるわけだが、その後の2回の上演がどうだったかは不明なれど、ドミンゴの指揮者としての登場、失敗の巻としかいいようがなかった。
 録音していち早く聴いたが、最初は、じっくりとしたテンポに、どこか聴きなれない内声部などの強調等、ユニークな演奏じゃないか、と思いつつ聴いた。
が、しかし、レヴァインばりの大らかテンポなれど、音楽の流れがどうもつながらない。
細かに張り巡らされたライトモティーフが、すんなりスルーされて、意味合いを持たずに通り過ぎてゆくし、逆にメロディにこだわりすぎて、全体を見失うような雰囲気も感じられた。
これでは歌手も、歌い手&演じ手としてもやりにくいだろうな。
カーテンコールでは、ひとりだけブーを浴びていた。
 その後の上演で、よくなったか否かは不明ですが、、

ちょっと辛口にすぎるけれど、オペラ歌手として、最大級の功績を上げ、あらゆるオペラのロールを極めた大芸術家だけれども、いきなりバイロイトでワルキューレを指揮するということはチャレンジの度合いが過ぎたものと思わざるを得ない。
それより、このような企画をした劇場運営局もどうかと、同じく思わざるを得ない。

トリスタンと掛け持ちのグールドのジークムント。立派過ぎて、耳は聴きなれたジークフリートやトリスタンに聴こえてしまう。
カンペのジークリンデが素敵で、フォスターのブリュンヒルデも文句なし。
ウォータンの声は暗すぎ。
あと、二期会の金子美香さんが、グリムゲルデでバイロイトデビューという朗報あり。

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さてされ、現地で観劇もせずに、毎度、こうして言いたい放題、あいすいません、あくまで、個人の意見です。

ネットの恩恵に、最近、ますます感謝してます。
リアルタイムで、その演奏や映像を確認できる。
しかも、年々、技術も向上し、画質・音質ともにかなり高品質だ。
バイエルン放送局は、今年からサラウンド放送を始めた。
これらのコンテンツは、もちろん自分が楽しむものだけに限定されているわけですが、ほんと海外の放送局、とくに、ドイツと英国の局には感謝感謝。
 我が国はというと・・・、いいですもう。

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来年のバイロイト2019の、新演出は「タンホイザー」。
指揮は、ゲルギエフですよ・・・
演出は、38歳のトビアス・クラッツァー(Kratzer)という人。
面白そうだけど、いやな予感に、みた感じ。

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ここでもまたグールド。
タンホイザー復帰という安全策に、売り出し中の若いノルウェーのソプラノ、ダヴィットセンのエリザベト。さらに、マリンスキーからグヴァノバのヴェーヌス。

あと、「ローエングリン」のエルザに、ネトレプコとストヤノーヴァの声がノミネートされていて、他の演目は、「マイスタージンガー」に「トリスタン」「パルジファル」。
ベルリン・コーミッシュオーパーですから、こんなの当たり前ですが、ラモーのオペラを演出したトビアス・クラッツァーの舞台の様子。

早くも、来年のバイロイトに向けて、気持ちが動いてます(笑)

元気でいなくちゃ。

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2018年8月25日 (土)

バーンスタイン 100年

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清々しい夏の空と、緑。

ほんと、美しい。

この郷里の景色は、ここへ行くと、ずっといつまでもいることができる。

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レナード・バーンスタイン、生誕100年。

1918年8月25日、マサチューセッツ州生まれ。

1970年、大阪万博の年、海外のオーケストラやオペラが、こぞって来日。

そんななかで、ベートーヴェンの生誕200年も重なり、カラヤンはベルリンフィルでベートーヴェン・チクルス。
他のオーケストラも、ベートーヴェンが、そのプログラムに必ず載りました。

バーンスタインとニューヨークフィルの来日公演には、4番と5番の交響曲。
そのほかに、メインを「幻想交響曲」とするプログラムと、マーラーの第9のみとするプログラムが組まれました。

まだ小学生だったワタクシ。
すでに、伯父や従兄に感化され、クラシックマニアの端くれでした。

カラヤンが真っ先に好きになり、目をつぶって指揮真似をしたりの日々の中に、バーンスタインは、飛んだり跳ねたりの印象をまるで操作されるがようにして受けていて、ヨーロッパ本流からしたら違う、というイメージを受けてました。
 同時に、初めて聴いたバーンスタインのレコード。

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ベートーヴェンの第9であります。

従兄の家にあり、聴きました。

豪華なジャケットで、その重量と、そもそもの第9という音楽に関心しまくり。

でも、従兄の寸評は、歌が訛ってて気持ち悪い、バーンスタイン盤が欲しかったわけじゃなく、親戚のオバサンがもってきたもんだからしょうがないんだよ・・・的なコメントで、ワタクシは、即座に日本グラモフォンのカラヤン盤をお年玉で買った次第。

というわけで、わたくしの初バーンスタイン聴きは、ニューヨークフィルとのベートーヴェンの第9。
その後は、ニューヨークフィルとの旧ベートーヴェンは聴いてません。
いまいちど、子供の耳に届いた演奏を、おっさんの耳で聴いてみたいと思っておる。

その第9という意味では、1970年の来日公演を聴いた吉田秀和先生が、マーラーの第9が、あまり親しまれていなかった当時、曲の内容や、ブルックナーの第9との関連性などをふまえながら、バーンスタイン&ニューヨークフィルのことを論評していた。

ここから、マーラーという作曲家、マーラーの9番という曲への関心と、思い入れが始まったと言っていい。

で、高校生になって初めて手にしたバーンスタインのレコードが、マーラーの1番なんです。

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マーラー入門編の、交響曲第1番は、当時、バーンスタインをおいて、ほかになかった。

ワルターじゃなくて、自分はバーンスタイン。

ほかに、メジャーのレコードでは、クーベリック、ハイティンク、ショルティ、バルビローリ、ホーレンシュタインぐらいしかなかった。

初めて手にした、バーンスタインのレコードに、マーラーのレコード。
日々、興奮し、何度も訪れる爆発に、青春のエクスタシーを感じたもんだ。
そこには、指揮台でジャンプして、汗だくになるバーンスタインの姿も、脳裏に浮かびつつ。

この高校生の頃から、もともとアバドを信奉していた自分が、カラヤンから脱し、バーンスタインを全面的に応援し、好むようになった次第だ。
乾いた録音も、なんだか生々しくって、この曲のスタンダートともいえる演奏だ。

1974年のニューヨークフィルの来日公演では、試験があって、でも勉強なんか無視して、日程上行けた、ブーレーズ指揮の演奏会で、同時に来日していたバーンスタインの姿を、客席で至近に拝顔することができました。

そのあと、1979年のニューヨークフィルとの来演は、聴くことができなかったが、大学の友人が聴いて、ともかく大絶賛していたのがマーラー1番。

さてさて、そのあと長じて、1985年のイスラエルフィルとのマーラーの第9を聴いたことが、わたくしのバーンスタイン体験の、最初で、最強の思い出です。

映像のトリスタンも、あらためて観なくちゃ。

生誕100年。

バーンスタインは、指揮者としての功績もさることながら、作曲家としての偉大さも、あらためて評価され、大いに演奏会のプログラムに載るようになりました。

バーンスタインが50代で、中学生の自分は、知ることとなり、いまや生誕100年。
わたくしも、歳を経ました。
みんな、だんだん、いなくなっちゃう・・・・
バーンスタインは、青春と若き日、それから壮年時代の、よき伴侶でもありました。

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2018年8月19日 (日)

ディーリアス レクイエム M・デイヴィス指揮

Cosmos

夏も終盤。

お盆には、いつものように故郷へ帰り、いつもの吾妻山に朝早く登ってきました。

異常な暑さにみまわれたせいか、今年は、早くもコスモスの見頃は終わってました。

季節のサイクルが壊れている。

焦燥にもにた思いを本来、癒しを求めるはずの自然に接して覚えてしまう。

人間にできることはなんだろう・・・

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     ディーリアス   レクイエム

        S:ヘザー・ハーパー
        Br:ジョン・シャーリー=クヮーク

   メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                     ロイヤル・コラール・ソサエティ

                 (1968.2 キングスウェイホール)


「大戦で散ったすべての若い芸術家の霊に捧げて」
ディーリアス(1862~1934)にもレクイエムはあります。
しかし、無神論者であったディーリアスの残したものだから、キリスト者からは、「異端のレクイエム」と呼ばれたりして、かのビーチャムでさえも、この作品を演奏しようとは思わなかったといいます。

「人生のミサ」では、ニーチェをテクストとしたように、このレクイエムは、旧約聖書の伝道の書や、シェイクスピア、そしてニーチェの書からも採られた、とてもユニークな作品となっている。
アンチ・クリスチャンだったディーリアス。
ディーリアスは、いわゆる宗教上の神という概念を超え、自然を愛しぬいたがゆえの汎神論的な想いをもっていたものと思う。

ディーリアスの音楽には、自然の美しさ、自然と人間、動物たちとの共生、人生における別れの哀しみや存在の虚しさ、過ぎた日々や去ったものへの望郷、などをそのたゆたうような流れの中に常に感じる。
こうして、半世紀あまりもディーリアスの音楽を聴いてきたが、一時たりと、その音楽の本質を掴んだこともないようにも思う。
それがディーリアスの音楽なのかもしれない。
いつの間にか、寄り添うようにして存在してくれている。

    ----------------------

5つの章からなるレクイエム。
さらに大きく分けると、第1部と第2部のふたつ。
第1部前半は、バリトンが虚しさを説き、合唱は静かな荘重たる葬送的な場面で応えるが、後半は、エキゾティックな激しいやりとりとなる。
女声は、ハレルヤ、男声は、アッラーを唱える。
来世は否定され、いまある現世を享受せよ。

うってかわって、第2部は、哀しみをともなった抒情的な田園ラプソディー。
この作品の白眉的な場面で、静謐な美しさと輝きあふれた音楽。
バリトンが、最愛の人をたたえ、ソプラノもそれに応え彼の名誉を称える。
やがて、雪の残る山や木、冬の眠りから目覚める自然を歌い継いでゆき、やがて来る春の芽吹きを眩しく表出。
ふたたび、自然は巡り、やってくる春を寿いで、曲は静かに終わる。

死者を悼むレクイエムからしたら、まさに異質。
でも、巡り来る自然に、人生の機微を見たディーリアスの優しい目線、そして、第一次大戦で亡くなった若き芸術家たちへ捧げたディーリアスの想いを、ここに感じることで、慰めと癒しの音楽となるのです。

 Everything on earth will return again, ever return again

  Springtime. Summer, Autumn and Winter, and them comes

  Springtime, Springtime!


   ----------------------

以前にヒコックスの追悼で取り上げた、ヒコックス盤は、「人生のミサ」とのカップリングで、なおかつ録音も素晴らしいが、本日のメレディス・デイヴィス盤は、今でこそ、録音が古めかしく感じるものの、懐かしさ誘う、その全体の響きは、ハーパーとクヮークのジェントルな歌唱とともに、レコードで長らく親しんだものだけに、耳への刷り込みとなっている。
カップリングのこれまた泣けるほどに哀しい「田園詩曲」もともに美しい演奏。

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ノスタルジー誘う、我が育ちの街の景色。

相模湾に箱根の山。

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夏は富士山も隠れてしまいます。

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2018年8月12日 (日)

ブリテン 戦争レクイエム コリン・デイヴィス指揮

Yasukuni

みたままつりの晩、靖国では、こんな美しい夕焼けが見ることができました。

今年の夏は、気温が高いのと、湿度が高いのとで、こんなオレンジから濃いピンクにかけての夕焼けが見られることが多いです。

そして、ことしもめぐってまいりました、日本の8月。

毎年、この時期聴きます、ヴェルディのレクイエムか、ブリテンの戦争レクイエム。

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    ブリテン  戦争レクイエム

       S:スーザン・アンソニー
       T:イアン・ポストリッジ
       Br:サイモン・キーリンサイド

     サー・コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団
                        ロンドン交響合唱団
             フィンチリー・チルドレンズ・ミュージック・グループ

              (2004.8.1 @ロイヤル・アルバート・ホール)


プロムス2004でのライブ録音。
サー・コリンは、ブリテンの作品を多く指揮し、自演をすべてに残した作曲者以外の初録音の偉業があるのもデイヴィス。
残された録音、「ピーター・グライムズ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」のオペラ三作は、傑作オペラに新たな視線を向けさせた名盤です。

それなのに、「戦争レクイエム」に正規な録音を残すことがなかった。
しかし、2004年のプロムスにての演奏がNHKで放送され、それを録音したものが、いまやわたしにとって貴重な音源となった。

デイヴィスが亡くなったのは、2013年4月。
その亡くなる9年前の演奏。
LSOの自前レーベルでも商品化はされなかったが、2011年に、J・ノセダ指揮したバービカンでのライブは、シャンドスから発売された。
しかも、ポストリッジとキーリンサイドの二人の歌手は共通。
もしかしたら、いろんな経緯があってのことでしょうが、それゆえに貴重なプロムスライブなんです。

演奏は、デイヴィスらしい、音楽への渾身の打ち込みぶりのなかに、緊張感あふれる厳しさと、剛毅なダイナミズムを強く感じるものとなっている。
歌を主体として全体像を大きく構成しつつ、そのなかに、個々の曲の細部を歌を主体に掘り下げてゆく、まさに、オペラや声楽作品を得意とした指揮者、デイヴィスならではと思います。
最後の「リベラ・メ」、平和のなかに憩わせたまえ、アーメンと調和理に、静かに閉じたあと、静寂につつまれ、拍手が起きるまでの長い沈黙が支配し、ホール全体が大きな感動につつまれたことを実感する。

 14年まえの放送録音、思いきりのフォルティッシモが混濁してしまうのはやむをえない。
ここ数年の、プロムスやバイロイトのネット放送が音質の面でも、相当に進化しているものと感じる。

ソプラノはアメリカ、男声ふたりはイギリス。
ともに、連合国側の歌手たちで、敵国同士を混合してなどという初演時の考えは、異物化してしまったし、実際にそのような企画を貫き通すのも都度都度では難しくなっている。
それよりも、この作品が生まれて57年。
終戦から73年。
年月の経過とともに、反戦と平和希求のこの作品の根本概念はそのままに、演奏行為が一般の作品と同じように普遍化したことを、昨今痛感します。
日本やイタリアのオーケストラが普通に演奏し、録音する名曲のひとつなのです。

ポストリッジの誠実かつ、切実なテノールに、ともに性格的な歌い込みぶりだが、より劇的なキーリンサイド。
このふたりの個性的な歌唱にくらべると、S・アンソニーの歌は、ちょっと踏み込みが不足するが、懸命さと必死さはとても好ましい。

オケも合唱も、LSO、うまいもんです。

というわけで、サー・コリン・デイヴィスの「戦争レクイエム」を感動とともに味わった、2018年の盛夏です。

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以下、「戦争レクイエム」の作品の概略を、過去記事から引用。

1961年、戦火で焼失したコヴェントリーの聖ミカエル大聖堂の再築落成に合わせて作曲された「戦争レクイエム」。
翌62年の同地での初演は、戦いあった敵国同士の出身歌手をソロに迎えて計画されたものの、ご存知のように、英国:ピアーズ、独:F=ディースカウ、ソ連:ヴィジネフスカヤの3人が予定されながら、当局が政治的な作品とみなしたことで、ヴィジネフスカヤは参加不能となり、英国組H・ハーパーによって行われた。
翌63年のロンドン再演では、ヴィジネフスカヤの参加を得て、かの歴史的な録音も生まれたわけであります。
戦争は終わったものの、国の信条の違いによる冷戦は、まだしばらく続行した、そんな歴史を私たちは知っております。
この曲が生まれてから50年。
世界各処、いや、いまの日本のまわりでも、思いの違いや立場の違いから諍いは堪えません。

年に1度、この時期に、この曲の持つ、戦没者への追悼という意味合いととともに、ブリテンが熱く希求し続けた反戦平和の思いをあらためて強く受け止め、考えてみるのもいいことです。

しかし、この曲は、ほんとうによく出来ている。
その編成は、3人の独唱、合唱、少年合唱、ピアノ・オルガン、多彩な打楽器各種を含む3管編成大オーケストラに、楽器持替えによる12人の室内オーケストラ。
レクイエム・ミサ典礼の場面は、ソプラノとフルオーケストラ、合唱・少年合唱。
オーエン詩による創作か所は、テノール・バリトンのソロと室内オーケストラ。

この組み合わせを基調として、①レクイエム、②ディエス・イレ、③オッフェルトリウム、④サンクトゥス、⑤アニュス・デイ、⑥リベラ・メ、という通例のレクイエムとしての枠組み。
この枠組みの中に、巧みに組み込まれたオーエンの詩による緊張感に満ちたソロ。
それぞれに、この英語によるソロと、ラテン語典礼文による合唱やソプラノソロの場面が、考え抜かれたように、網の目のように絡み合い、張り巡らされている。


「重々しく不安な感情を誘う1曲目「レクイエム」。
 戦争のきな臭い惨禍を表現するテノール。
 曲の締めは、第2曲、そして音楽の最後にあらわれる祈りのフレーズ。

②第2曲は長大な「ディエス・イレ」。
 戦いのラッパが鳴り響き、激しい咆哮に包まれるが、後半の「ラクリモーサ」は、悲壮感あふれる素晴らしいヶ所で、曲の最後は、ここでも祈り。

③第3曲目「オッフェルトリウム」。
 男声ソロ二人と、合唱、二重フ―ガのような典礼文とアブラハムの旧約の物語をかけ合わせた見事な技法。

④第4曲「サンクトゥス」。
 ピアノや打楽器の連打は天上の響きを連想させ、神秘的なソプラノ独唱は東欧風、そして呪文のような○△※ムニャムニャ的な出だしを経て輝かしいサンクトゥスが始まる。

⑤第5曲は「アニュス・デイ」。
 テノール独唱と合唱典礼文とが交互に歌う、虚しさ募る場面。

⑥第6曲目「リベラ・メ」。
 打楽器と低弦による不気味な出だしと、その次ぎ訪れる戦場の緊迫感。
やがて、敵同士まみえるふたりの男声ソロによる邂逅と許し合い、「ともに、眠ろう・・・・」。
ここに至って、戦争の痛ましさは平和の願いにとって替わられ、「彼らを平和の中に憩わせたまえ、アーメン」と調和の中にこの大作は結ばれる。」

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最後に至って、通常レクイエムとオーエン詩の、それぞれの創作ヶ所が、一体化・融合して、浄化されゆく場面では、聴く者誰しもを感動させずにはいない。

敵同士の許し合いと、安息への導き、天国はあらゆる人に開けて、清らかなソプラノと少年合唱が誘う。
このずっと続くかとも思われる繰り返しによる永遠の安息。
最後は、宗教的な結び、「Requiescant in pace.Amen」~彼らに平和のなかに憩わせ給え、アーメンで終結。

この楽園への誘いによる平安に満ちた場面は、ドラマティックでミステリアスなこの壮絶かつ壮大な作品の、本当に感動的なか所で、いつ聴いても、大いなる感銘を受けることとなります。
オペラでも器楽作品、声楽作品でも、ブリテンの音楽のその終結場面は、感動のマジックが施されていて、驚きと涙を聴き手に約束してくれます。

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 過去記事

「ブリテン&ロンドン交響楽団」

 「アルミンク&新日本フィル ライブ」

 「ジュリーニ&ニュー・フィルハーモニア」

 「ヒコックス&ロンドン響」

 「ガーディナー&北ドイツ放送響」

 「ヤンソンス&バイエルン放送響」

 「ネルソンス&バーミンガム市響」

「K・ナガノ&エーテボリ交響楽団」

「ハイティンク&アムステルダム・コンセルトヘボウ」

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2018年8月 4日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ネルソンス指揮

Nebuta

日本の夏、日本の祭り!

先日のみたままつりにて展示してあった「ねぶた」の山車。

いつかは全部見てみたいな、東北の三大まつり。

しかし、東北や北海道も含めた列島全体の今年の夏の猛暑といったらどうだろう。

8月の初めだというのに、もう暑さに疲れてしまった。

30度を切ると、やたらと過ごしやすく感じるのもどうしたもんだろう。

さて、この酷暑に、ハイカロリーな音楽を聴く。

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   ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 op.43

     アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団

                (2018.4 @ボストン)


今年の春に録音されたばっかりの、ネルソンス&ボストンのショスタコーヴィチ・チクルスの最新盤は第4番。
昨年録音の第11番との、濃ぃ~カップリング。

4番が大好きなわたくし。
ショスタコーヴィチの交響曲の好きな番号ランキングでも1位 → お願いランキング
好きで、もう20年ぐらい聴きこんできたけれど・・・だがしかし、いつも思う、さて、いま聴いた音楽はいったいなんだったんだろう、と。

以前にも、この曲を闇鍋みたいな交響曲と書いたけれど、指揮者には、そのなにもかもが詰まった音楽を、構成感豊かに全体を俯瞰しつつ、個々のユニークな場面の表出を、それぞれパッチワークのようにつなぎ合わせるという至難の能力を要求される。
当然に、オーケストラにも、個々の力量も含め、高密度のアンサンブルの妙も必要となる。

これまで聴いてきたなかでの、ベストは、ハイティンク(CSO)、サロネン、ラトルの3つ。
そして、ついに、現時点では自分的にトップが出現したと思ったのが、ネルソンス盤だ。

全編に渡って貫かれる緊張感と、高エネルギー、そして豊かな歌と、抜群の表現力。
ハイスピードで始まる冒頭だけれど、終楽章の不条理感漂う、意味ありげなつぶやきのような終結まで、一気に聴きとおすことができるし、最初の一音から、最後のチェレスタまで、一本、ピーンと張り詰めた線を感じ取ることができるのも、オペラ指揮者としてのネルソンスの実力でもあると思う。
2014年に、コンセルトヘボウを指揮した演奏を映像でも確認できるが、その時よりもテンポがより速くなり、より劇性を増している。
より高性能なボストン響を得て、より集中力も高めて、一気呵成に描いた。
でも繰り返しますが、一瞬たりとも気の抜けたようなヵ所はなく、緻密でありながら、それでいて爆発力に富んでいるんだ。
3楽章においての大フィナーレが、こんなに輝かしくも、虚しく響き渡る演奏をこれまでに聴いたことがなかった。
しかし、ボストン響は、ほんとに巧い。

   ----------------------
さて、過去記事からのコピペで4番のことを再褐。

>このまるで、闇鍋のような交響曲(そもそもどこが交響曲なんだろうか?)に、ショスタコーヴィチは何かを隠したのであろうか?
1936年、時はスターリン治下のもとにあった。
「ムツェンスクのマクベス夫人」がその悲劇性が受け、内外に大いに評判をとっていたが、スターリンが劇場で観たのちに、プラウダ紙はこのオペラを痛切に批判し、大キャンペーンを張った。
スターリンの大粛清の前哨戦ともいえる、芸術批判の始まりだった。
同時に期待の高まる交響曲への批判もなされるようになった。
第4交響曲の2楽章までを仕上げていたショスタコーヴィチは、反論せず、沈黙を守り、この交響曲の完成へとこぎつける。
 
完成後、訪ソ中だったクレンペラーに、この全曲をピアノで聴かせたというエピソードもあって、ショスタコーヴィチはこの曲にある程度の自信を持っていたはず。
そして、初演は、メトでワーグナー指揮者として活躍したドイツ亡命のスティードリー指揮のレニングラードフィルで行われるべく準備中だったが、劇場支配人から初演を自ら引っ込めるように示唆され、さもないと行政処分になると言われた。
こうして、初演は幻に終わり、実に25年後の61年、コンドラシンとモスクワフィルによって演奏されたのが本格初演だった。
「いろんな意味で、私のあとの交響曲よりも良い」とコメントしたと言われる。

「言葉は私とともに墓にあり、音楽のみが私の中でしっかりとある。ほかは歩み寄ることさえ怖がっている・・・・」<

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いまや、人気曲となった4番。
内外の演奏会でもよく取り上げられるようになりました。
ネルソンスは、9月にロンドンのPlomsでボストンとやります。
好敵手のセガンは、ロッテルダムとのボックスで発売されましたが、まだ未聴。
あと、ネットで聴いたボレイコとニューヨークフィルのライブも、なかなか暴れてましてよかった。
それと、来春のウルバンスキと東響のチケット買っちゃった。
加えて、最近、これもネット視聴したコヴェントガーデンのパッパーノ指揮の「マクベス夫人」、ウェストブロックの緊迫の歌唱がとても素晴らしかった(新国と同じR・ジョーンズの演出でDVD化期待」。
5番ばかりだったショスタコーヴィチだけど、2・3番をのぞいて、みんな均一に親しまれるようになってきた。
ネルソンスの次のショスタコは、6・7番。

ショスタコやマーラー、ワーグナーばっかり聴いてるけど、そんなときに、ハイドンやモーツァルトを聴くと、ほんとに新鮮なもんだよ、自分。

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2018年7月28日 (土)

ワーグナー 「ローエングリン」 バイロイト2018&コヴェントガーデン

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もう日は経ちますが、今年も、靖国神社のみたままつりに行ってきました。

猛暑のなか、今年から屋台も復活し、老若男女・日本人も外人さんも、ほんとにたくさんの人出で、おおいに賑わいました。

そして、同じ時期、本格的な夏の到来とともに、海外では夏の音楽祭の始まりとなります。

ここ数年、ネットで同時配信され、遠い異国の地にあってもすぐさま視聴することができる。

Proms、ザルツブルク、そしてバイロイトが、わたくしの夏の楽しみです。

今年のバイロイトのプリミエは、「ローエングリン」。

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     ワーグナー  歌劇「ローエングリン」

 ローエングリン:ピョートル・ベチャーラ エルザ:アニヤ・ハルテロス
 テルラムント : トマス・コニュチニー オルトルート:ヴァルトラウト・マイヤー
 ハインリヒ :ゲオルク・ゼッペンフェルト 伝令:エギルス・シリンス
 
  クリスティアン・ティーレマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                       バイロイト祝祭合唱団
           合唱指揮:エーベルハルト・フリードリヒ
           演出:ユーヴァル・シャロン
           舞台・衣装:ネオ・ラウヒ&ローザ・ロイ

                   (2018.07.25 バイロイト)   


当初、発表されていたロベルト・アラーニャが降りてしまい、代わりに起用されたベチャーラ。
ドレスデンでティーレマンとも共演していて、実績もあり、このところ売れっ子テノール。
あと、18年ぶりにバイロイトに帰ってきたマイヤーも注目。
そして、このローエングリンを指揮することで、バイロイトで上演される主要作すべてを手掛けたことになるティーレマン。
もしかしたら、戦後バイロイトで全作コンプリート指揮者は初かも。

こんな風に、なんだかんだいって、バイロイトは毎年、話題にことかかない。

そして耳で聴いた演奏は、なかなか素晴らしいものだった。

まず、ベチャ-ラのタイトルロール。

10年ほど前に、チューリヒ・オペラの来日公演で、ばらの騎士でのテノール歌手を聴いているが、その時の印象ではきれいな声、ぐらいのもので、今回のローエングリンを聴いて、スピンとする、その力強い声とともに、あふれる気品に、かつてのジェス・トーマスを思い起こしてしまった。これからも楽しみな歌手。
 あと、久々のマイヤーさん。
相変わらずの魅力的な中音域に、やや硬質なキリリとした声。
凄みはあるが、憎々しさを覚えないのは、イゾルデの声で聴きなれたせいか。
でも四半世紀前のアバド盤でのマイヤーに比べると、味わいは増しものの、さすがに声の威力は減じた感じだ。
 ハルテロスのエルザは、まずまず。1幕は、ちょっと不調ぎみで、苦しかった。
あとになるほどよかった。
ドイツも猛暑らしくて、歌手たちは体調管理が大変だ。
ハルテロスも、もう13年も前だけど、新国でエヴァを聴いていたが、当時の日記を見てみたら大きな体で、よく声が出ている、なんて書いてて何とも言えない。
来年のエルザは、ネトレプコとの報もあるけど、どうなんだろう。
 テルラムントのコニュチニーと、ゼッペンフェルトのハインリヒは万全の歌いぶり!

ティーレマンの指揮は、快速。
いつも重厚長大なワーグナーを、ゆったりめのテンポで堂々と推し進めるのに。
1幕の前奏曲からしてそう感じるし、3幕の前奏も早い。
演奏タイムは、全幕で3時間22分。
あとで取り上げるネルソンスは、3時間30分、ペーター・シュナイダーが3時間38分。
なにもテンポの速い、遅いが演奏の良し悪しを決めるものではないが、オペラの場合演出や舞台の流れに即した解釈ともなることもありうるから、このあたりは、いずれ観ることができるであろう舞台映像で判断したい。
 ということで、ティーレマンにしては、全体に軽く感じたわけだが、それでも要所要所で、タメを設けたりするところが見事に決まったりするところは、彼らしいところではあります。

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 で、演出。
「青=ブルー」の世界。
青の舞台の画像のいくつかを見て思ったのは、ヴィーラント・ワーグナーのローエングリン。バイロイトを始め、ウィーン、ベルリンでも、東京でもおなじみのあの青。
生誕101年のヴィーラントへのリスペクトか?

 過去記事 →ヴィーラントの青

この舞台のコンセプトは、装置・衣装のラウヒ夫妻が長らく準備してきたものとのことで、演出のロサンゼルス・オペラのシャロンの起用の決定は、その準備以降のこととのことなので、この舞台と演出は3者の完全共作ということのようだ。

画像を見て、毎度想像をめぐらすわけだが、変電所が舞台で、ローエングリンは送り込まれた電気技師。貴族・豪族たちは、ディズニーのお伽の国の人物のようで、羽根が生えてる。それに対し、民衆たちは、バロック調のリアルな衣装で、それぞれが三者三様。
舞台背景もよく見ると絵画的。

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 せっかく電気をもたらしたのに、追われてしまう寂しいローエングリン。
それを見送るエルザの背には、サバイバル電源のようなバックパックが。
う~む、想像はこのあたりまでにして、映像を待ちたいと思います。
 聴衆のブーがほとんどなかったので、穏健な落としどころがあったのでしょうね。

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ワーグナー  歌劇「ローエングリン」

 ローエングリン:クラウス・フローリアン・フォークト
 エルザ:ジェニファー・デイヴィス  テルラムント: トマス・ヨハンネス・マイヤー 
 オルトルート:クリスティン・ゴアーク ハインリヒ :ゲオルク・ゼッペンフェルト 
 伝令:コスタス・スモリギナ
 
  アンドリス・ネルソンス指揮 コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
                     コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団
           演出:デイヴィッド・オールデン

                   (2018.07.01 ロンドン)   


6月から、ロンドンでは、オールデン演出によるプロダクションが上演。
指揮は、バイロイトで実験ネズミのローエングリンを指揮したネルソンス。
そして、いまや世界一ローエングリンを歌っているであろうフォークトを迎え、エルザには、当初、ネルソンスの奥さんのオポライスが予定されていたが、こちらも降板し、アイルランド出身のジェニファー・デイヴィスという若い歌手が起用され、その彼女が一躍スターとなった(らしい)。
そんな上演の様子、音源だけは、BBCのサイトで期間限定ネット配信されてました。

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まず、ここでは、ネルソンスの安定感のある指揮ぶりを称えたい。
ティーレマンよりいいかも。オケの雰囲気は、バイロイトの方が劇場の鳴りも含めて上に感じますが、全体のとらえ方のバランスのよさと個々の場面の緻密な描き分けが、とても見事。歌手も、オーケストラもこんな指揮ならとてもやりやすいのではないでしょうか。
2幕のダークサイドチームたちの暗黒の緊迫感ある場面は見事。
そして、3幕の禁断の問いの場面での切迫感と無常感。
で、最後の大団円は、思いっ切り引っ張って、とてつもない効果を引き出してました。

歌手では、フォークトが完璧。いうことない。
若いジェニファーさん、どちらかというとリリックな声で、エルザやエヴァがお似合いの感じですが、ここぞという場面では、けっこう頑張ってます。
ゴアークというアメリカ人メゾによるオルトルートは、おっかないです。
ヴィブラートを巧みに用いて、亭主の尻をたたき、とエルザをたらしこみますが、ちょっと何度も聴くとくどい印象を受けるかもです。
お馴染みのマイヤーのテルラムントも聴きなれた声だけに、私には安心感がありますが、フォークトのような完璧感はちょっとないです。
バイロイトと同じく、ここでもゼッペンフェルト。

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さて、写真で妄想。
オールデンの実際の舞台は観たことがないけれど、社会性のあるテーマをぶっこんでくる演出家。
ここでは、20世紀に時代設定をもってきて、爆撃後の焼け跡復興が舞台っぽい。
2幕の婚礼シーンには、白鳥の彫像がナチスを思わせるし、3幕(死体が右に転がっているので)のローエングリンの告別の場面では、それらしき旗が。
国王は、顔色悪く、ダーティなイメージだし、ダークサイド組と聖なる組とでは、黒と白で対比。労働者たち、市民は表情が暗く硬い。

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戦後の暗い社会に現れた救世主に、ナチスの申し子を重ね合わせようと皆が願望したが、エルザの一言で、その白い戦士は帰って行く。
 こんなことを想像しましたぞ。
勝手な妄想ですので、お許しください。

短期間に、ふたつの優秀なローエングリンの上演の様子を聴くことができました。
ネットとはかくもありがたいものです。

さぁ、この夏も各地の音楽祭聴き、いそがしーーー。

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2018年7月22日 (日)

ウェーバー 「魔弾の射手」 二期会公演

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オペラ公演に、スタンド花はよく見る光景ですが、特定の出演者に、ここに写った何倍も。

元宝塚のスター女優、大和悠河さんが出演することで、客層も一部普段と違う感じに。

わたくしの注目は、やはり、コンヴィチュニーの演出。

これで、「タンホイザー」「エフゲニー・オネーギン」「サロメ」に次いで4作目のコンヴィチュニーのオペラ。

ハンブルク州立歌劇場との共同制作だが、1999年プリミエの演出のもの。
DVDにもなっているが、そちらは未視聴。
ザミエルは、男性俳優が演じていて、今回の日本版では、コンヴィチュニーは、女性でやるとしたため、ズボン役もこなす、大和さんのザミエル役がやはり大きな見ものとなったわけだ。
大和さんは、オペラも大変にお好きで詳しいともききます。

「魔笛」や「フィデリオ」のように、セリフも伴う、ジングシュピールだから、原語上演とはうらはらに、セリフ部分は日本語で行われ、逆に英語の字幕が流された。

そして、このセリフ部分で、なんといっても圧巻かつ群を抜いていたのは、やはりザミエルの大和さん。
声の抑揚、声量、客席への届かせ方などなど、まったく見事。
それに対し歌手たちのセリフはまだまだのところもあった。生真面目すぎるというか、あざとく感じてしまったのだ。
思えば、かつてのオペラ録音では、セリフ部分を本業の声優が演じることが多く、歌声との違いにギャップを感じることもあった時代があった。
 ところがいまや、オペラを楽しむ手法に、映像も加わり、歌手たちには緻密な演技力や表情、そして語りも必要になった。
 ほんと、オペラ歌手のみなさんは、たいへんだと思います。

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   ウェーバー  歌劇「魔弾の射手」

    オットカール侯爵:大沼 徹    クーノー:米谷 毅彦
    アガーテ     :嘉目 真木子 エンヒェン:冨平 安希子
    カスパール    :清水 宏樹   マックス  :片寄 純也
    隠者        :金子 宏    キリアン  :石崎 秀和
    花嫁の介添   :田貝 沙織、鳥井 香衣、渡邊 仁美、長谷川 光栄

    ザミエル:大和 悠河      ヴィオラ・ソロ:ナオミ・ザイラー

      アレホ・ペレス指揮 読売日本交響楽団
                   二期会合唱団
                   合唱指揮:増田 宏昭

      演出:ペーター・コンヴィチュニー

                     (2018.7.21 @東京文化会館)


コンヴィチュニーの演出は、当初は読み替えが過ぎて語りすぎ、との印象を持っていましたが、実際に舞台に接するうちに、その印象の受け方が変わってきて、とても楽しめるようになった自分を発見することとなりました。
 知的な遊び心から発して、大胆すぎる解釈などへ、表現の幅に制約がなく自由すぎるところが面白い。
時代設定もいじるが、そのイジリ方には、現在のわれわれの生きる世の中の事象にリンクしていて、その考え方にのっとればおかしくない。
作者が、登場人物たちに与えた行動や感情にもメスを入れ、それを現代の視点で読み替える。
作品の根幹的な意図を決して外したり、崩壊させようとはせず、音楽とちゃんと符合。
また、舞台と客席を一体化してしまうのも、スリリングなところ。
もちろん、作品によっては、わたしは拒絶反応を起こすものもあるかもしれませんが、今回の「魔弾の射手」は、コンヴィチュニーの演出の意図がとてもわかりやすく、意欲的な舞台がほんとうの面白かった。

      -----------------

フランス革命のあと30年。
偉そうで独善的な侯爵と雇われ人、森林官との上下関係、農民、市民のなりと存在、さらには、ドレスを着て死んだように横たわっていた人々は上流の方々か。
そんな人々の存在とあり方も、この演出では垣間見させてくれた。
 また上下するエレベーターは、その階に存する人物や社会を。
通常の村の出来事は4階、最後の場面は6階、もちろん、狼谷は地下、アガーテは神聖的な扱いで最上階の7階。(全部ウォッチしてたわけじゃないけど、エレベーターは劇中動きました)
 さらに、狼谷は、恐怖の怪しい森に囲まれた場所ではなく、もうそこは自然破壊され、壊れたものが散在する雑然とした空間。
そうした空間世界を作り出した人間の心の闇の象徴がザミエルで、彼(彼女)はいろんな姿に七変化する。
さらに、人当たり良く、にこにこした隠者は、われわれ観客の中にいて、舞台に上がっていってはお金を振り撒き、ザミエルすら買収しようとする。
この社会崩壊の繰り返しの無限ループを魔弾に込めた演出と思った次第。

     ---------------ーーー

歌手たちでは、ふたりの女声が一番素晴らしかった。
ヒロイン・アガーテの嘉目さんの清潔な歌と、確かな歌唱と美しいそのお姿。
チャーミングなエンヒェンだけど、コンヴィチュニーの演出では独自の存在となる、そんなエンヒェンをしっかりした歌声で届けてくれました。彼女も美人さんです。
 男声陣は、ちょっとお疲れかしら。
なんたって猛暑の中の14時公演。
期待した片寄さんのマックスが意気が上がらず、ほかの低音陣もちょっと冴えなかったかも。
そんな中で、カスパール役の清水さんは、なかなかの全力投球の悪漢ぶり。

大和さんのザミエルは、前述のとおり、スタイル抜群で切れ味満点の演技にお声。
あと、ヴィオラのザイラーさん、わざとダミ音で弾いたりと、なかなかの役者ぶり。
 それと、合唱団の力強さは特筆してよいでしょう。
先週の東響コーラスも絶賛したけれど、日本の合唱団のレベルは、オーケストラとともに、各段に新化していると思う。

ペレスさんは、全体に快速でもたれず、歌手たちにも優しい、オペラ指揮者らしいところを見せてくれました。演出の意図もしっかり汲んでのオーケストラピットでの存在。
迫力よりは、しなやかに歌わせる、それから抒情的な場面を美しく響かせる指揮に思いました。
読響の音色がこんなにキレイに美しく響くなんて驚きでもありました。
チェロのソロもとても素敵でした。

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舞台の様子を。
自分の備忘録ですので。
どんなに強烈な印象を受けても、数年たつと忘れてしまう。
そんなときに、自分の書いたものを読み返してみて、思い出したりもする。

舞台の様子は、産経さんの下記サイトにて画像とともに確認できます・

 ⇒ https://www.sankei.com/entertainments/news/180713/ent1807130010-n1.html

舞台左手には、赤いエレベーターが据えられていて、スポットを浴びている。
7階あって、地下とあるべきところには、「狼」との表示が。
舞台が暗くなって、いつの間にピットの指揮台に立ったのか、序曲が荘重に始まる。
そして、エレベーターの階数表示は6階。
曲の進行とともに、暗い雰囲気となり悪魔の力を思わせる部分になると、エレベーターは急降下を始め「狼」に。
そして最後、長~いパウゼ(ほんとに長かった)のときに、一気に4階(確か)まで駆け上がり、華々しく序曲を終結。

第1幕

マックスの放つ弾が外れるところは、降ろされた斜幕に穴が開く(なんの形か、オウムか?)。キリアンと農民たちに混じって、いや、それを先導するようにしていたのは、長い棒を持ったザミエルと動物の面をかぶった楽師たち。
かれらにそそのかされたかのような農民たちは、ほんとにいやらしく「へっへっへ」と歌う。
ことに女性の農民たちは、ちょっと猥雑な雰囲気。

クーノーとカスパールが加わる場面は、そんなにかわったところはなし。
マックスの有名な苦悩のアリアでは、周辺が真っ暗になり、緑色のスポットがマックス周辺にあたる。
その足元に、舞台したからザミエルが顔を出し、歌の内容に即して、葉っぱでなぞったり、マックスの銃を取り上げて舐めたりと、おちょくる。

そのあと、カスパールと飲む場面でも、給仕としてちょこっと登場のザミエル。
カスパールの邪悪な歌(この歌は、フィデリオのドン・ピツァロ、オテロのイャーゴを思わせる)に続き、銃で巨大な漫画みたいな大鷲の影を打つと、ほんとに漫画みたいな大鷲のぬいぐるみがドカンと落ちてくる。

第2幕

斜幕を下ろして、巧みに場面転換。裏方さんたちも大活躍するさまが見える。
エレベーターは6階。
大きなテーブルで編み物をするアガーテ、エンヒェンは、左手の階段から降りてくる。
階上の先祖の絵が落ちた設定となっている。
テーブルに乗ったエンヒェンの快活で可愛いアリエッタが終わると、会場の最前列にいた完璧なスーツ姿の紳士が立ち上がり、ブラボーとともに、花束を舞台の彼女に投げつける。
エンヒェンは、それを花瓶に生ける。
この二重唱の場面での、ふたりの女性の描き分けの対比は、衣装も含めてじつに見事。
やんちゃなエンヒェンは、イケメンの載った雑誌を眺めてきゃぴきゃぴしてるし、アガーテは花嫁衣裳を広げて繕い中。

アガーテの美しいアリアの場面は、それこそ、この日、一番雑念がなく美しかった。
舞台の4本の蝋燭、降りた斜幕に輝く星たち、そこから窓から顔を出すようにして、マックスを待ち受けるアガーテ。

マックスがやってくると、行くぞ、行かせない、気をつけていってらっしゃいの、ややこしい三重唱になるが、倒れた衣装ケースからザミエルも登場し、マックスを誘導。

 さて、エレベーターが「狼」まで下り、舞台転換。
舞台中央にはテレビ。そのうえにはデカいフクロウがいて目が光ってる。
ザミエルを呼び、探すカスパールはテレビのブラウン管の中。
疲労困憊の様子。
現れたザミエルは、今度は白いスーツ姿で、大きなファイルを持ってテレビの横の椅子に腰かけ、画面内のザミエルの交渉に受け答えするが、そのときにきりりとした身のこなし、足の組み替えのキレのよさなどお見事。
 テレビを強制終了して去るザミエルと入れ違いにカスパール、そしてまたお面をかぶり動物化した悪魔の手下たち。
そして恐る恐る登場のマックスだが、この場面になかなか入れない。
しかも、自分の母の霊(子役)や、入水自決しようとするアガーテの姿が見えて戸惑う。
このとき、悪の手下たちは、顔を覆って、聖なるものには弱いところを見せたりする。
 いよいよマックスも加わり、弾丸の製造に入るが、テレビの上の鍋に、いろんなものを仕込み、1弾ずつ数えるカスパールに、横のフクロウは反応し、そして不気味な濁り声で反復して数が読み上げられていく。
 最後の方になると、舞台奥から雑多な人物たちがうようよ出てきて、ゾンビのようにダンスする。
そして、最後の7弾目が出来上がり、読み上げられると、カスパールもマックスも、そしてゾンビたちも一斉にぶっ倒れ、会場内から、それかた会場へと向けて強力な照明が照らされ、わたしの周辺も白昼のような明るさ。
そこへ、舞台奥からザミエルが、今度はバスタオルルックで、アタッシュケース片手に登場し、倒れている人の間をすり抜け、舞台脇のエレベーターへ消えて行った。
舞台天井近くには、デジタルクロックが時を刻み始めた。

 休憩・・・・25分間の休憩中も、ロビーやトイレ、いたるところで、時間を刻む音が



第3幕

4階。マックスとカスパールの会話は、幕を下ろしたまま、スピーカーを通じて。
幕が上がると、大きな壁の前に、客席に背中を向けたまま、ドイツの、民族衣装的な可愛いいでたち。そのまま祈りと安寧を求めるカヴァティーナを歌う。
正面を向き歌ううちに、紳士が投げた花束が、ポロリポロリと一輪ずつアガーテの手から抜け落ちてしまいにすべてを落としてしまう。
先の紳士も、指差しで注意するものの・・・・

エンヒェンがやってきて、怖い夢を見たという従姉を慰める、そして可愛いロマンツェを歌う。
ここで、大きな壁の横から出てきたのが、赤い角を付け、大きなスリットの入ったドレスを着た悪魔(ザミエル)が舞台上でヴィオラソロを演奏。
彼女、歌に合わせ、エンヒェンの意志かのように、アガーテの心の隙に入り込もうとする。
歌の中で、十字を切るとか言葉が出てくると、楽器で顔を覆ったりもするし、いろいろといたずらも。

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                                (ハンブルグの舞台から)

村の付き添いたちは、さきの壁の上にのぼり、かわるがわるに花嫁にまつわる歌を歌う。
エンヒェンが、下の階から花嫁の花冠を受け取って戻ってくる。
緑色の箱を置いて、目を離した隙に、階下から手が伸びてきて、箱をすり替えてしまう。
それを見ていた、先ほどの観客の紳士は、ダメダメ、気が付いてと、舞台に促す。
死の花冠に動揺し、泣きそうになってエンヒェンだけど、介添え人たちと、落ち散らばった花を集めて、冠を編みアガーテにかけてあげる不安が一杯の表情と舞台。

幕が降り、舞台転換の合間、今度は赤いネクタイにスリムなダークスーツのザミエルが出てきて一席ぶつ。ヨーホー・トララララと。
1階前列正面にたくさん陣取ったファンの皆さんに投げキッスをすると歓声が。
勇壮なホルンに乗って幕があがると、ザミエルはスーツのまま狼。
口からは、赤いネクタイが舌のようにベロンと出てる。
舞台には、ドレス姿の男女が死んだように横たわっていて、「狩人の合唱」の合間、その日地たちの間を縫うようにザミエルは動き、踊る。

そして、狩りの供宴の終盤、村人総出。
オットカール様に、むちゃくちゃ恐縮して呂律が回らないクーノー。
され、マックスが最後の4発目を狙う先は、上空で小さく光る電球。舞台は暗くなり、動く電球のみ。低くなったところを射撃。
明るくなると、カスパールとアガーテが倒れている。
動揺する一同だが、しばらくするとアガーテが息を吹き返し復活。
虫の息のカスパールは、約束が違うぞ、天を呪うと、そこにザミエル登場。
恐ろしがる人々の前で、カスパールの胸元から緑色の長いスカーフのようなものを引っ張りだし去っていく。
狼谷の突き落としてしまえとの命令一下、人々はエレベーターにカスパールを運び込み下りボタンをオン。
 さてさて、真相を語らざるを得ないマックスが口を開き、オットカールは見た目も露骨に腹立たしくあたり、追放令を出そうとする侯爵にとりなしをする人々も。
 そこで、ご意見を、ということで、客席の紳士が登場。
最初は、遠慮がちに、でもだんだんと当たり前のようにして。
氏の登場に驚く舞台さんや、エンヒェンら登場人物たち。
まるで、ハンス・ザックスのように、最後のいいとこ、かっさらう勢いで、舞台中央に進行。
やがて、侯爵と、そしてクーノーに、懐から名刺入れのようなものを出して、金色の名刺大のものを渡す。それを見ていた他の登場人物たちも、次々にそのカードを欲しがり、あっという間に全員に行きわたる。
 さあ、オペラも大団円。
祈りを中空を見て簡単に捧げた後は、紳士、すなわち「隠者」の合図で、舞台両脇からシャンパングラスの乗った盆を持って、アテンダントのお姉さんたちがぞろぞろ登場して皆にグラスを。
さらに、「隠者」は、エレベーターから、「狼谷」のふたり、カスパールとザミエルを呼び出し、コミカルな動きで登場したふたりにもシャンパングラスをふるまう。
一同、キラキラした雰囲気にて、にこやかに舞台は終了。

                   幕

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夏らしいスタンド、でもって、え?美樹ちゃん!

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夏はユリだなぁ、って、増田恵子って、ケイちゃん!

ワタクシのようなオジサンにもうれしい大和さんのオペラデビューにございました!

オペラって、ほんとに素敵。

楽しかった。

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2018年7月16日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 エルガー「ゲロンティアスの夢」 ジョナサン・ノット指揮

Suntry

暑い、暑い夏の夜、涼し気な水辺。

大いなる感銘に心開かれ、爽快なる気持ちに浸ることができました。

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  エルガー  オラトリオ「ゲロンティアスの夢」 op.38

      T:マクシミリアン・シュミット
     Ms:サーシャ・クック
     Br:クリストファー・モルトマン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
                  東響コーラス
           合唱指揮:冨平恭平
           コンサートマスター:グレブ・ニキティン

                    (2018.7.14 @サントリーホール)

ともかく感動、曲中、わなわなしてきて嗚咽しそうになった。

2005年、同じく東響の大友さん指揮のゲロンティアスを聴き逃してから13年。
実演でついに、それも理想的かつ完璧な演奏に出会うことができました。

CDで普段聴くのとは格段にその印象も異なり、この音楽の全体感というか、全貌を確実に掴むことが出来た思いです。

この半月あまり、ネット視聴と、その録音でもって、バイエルン国立歌劇場のペトレンコの「パルジファル」と、サロネン&フィルハーモニアの「グレの歌」をことあるごとに聴いていた。6月末から7月にかけて、演奏・上演されたそれらの、わたくしの最も好む音楽たち。
 そしてほどなく、こちらの「ゲロンティアス」。

いずれもテノールが主役で、苦悩と、その苦悩のうちから光明をつかむ展開とその音楽づくり。
今回、ゲロンティアスをじっくりと、そしてノットの指揮で聴くことができて、それらの作品(もっともグレは、発想はほぼ同時期ながら、作曲はゲロ夢の少しあと)との親和性を強く感じた次第でもあります。
あと、いつも想起するのが、ミサ・ソレムニス。感極まる合唱のフーガ。

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いつでも機会があったのに、ノットの指揮を聴くのは実に2006年のバンベルク響との来日以来のこと。
武満徹に、濃密な未完成、爆発的なベト7の演奏会で、その時の柔和な横顔に似合わぬ強い指揮ぶりをよく覚えてます。
 ところが、久しぶりのノットの指揮姿は、流麗かつ柔らかなもので、そこから導きだされる音楽は、どんなに大きな音、強い音でも刺激的なものは一切なく、緻密に重なり合う音符たちが、しなやかに織り重なって聴こえるほどに美しいのでした。
ドイツのオペラハウスから叩き上げの英国指揮者。
根っからの歌へのこだわりが生んだ、緻密ながらも歌心ある演奏。
それに応える東響のアンサンブルの見事さ。
完全にノットの指揮と一体化していたように思います。

それから特筆すべきは、東響コーラスの見事さ。
暗譜で全員が均一な歌声で、涼やかで透明感あふれる女声に、リアルで力強い男声が心に残ります。
時に聖句を持って歌うか所があるが、それらは本場英国の合唱さながらに、まるでカテドラルの中にいて聴くような想いになりました!

 あと、ノットの選んだ3人のソロ歌手も、非の打ち所のないすばらしさ。

ドイツ人とは思えない、イギリス・テナーのような歌声のシュミット。
エヴァンゲリストやバッハのカンタータ、モーツァルトのオペラ、フロレスタンなどを持ち役にするリリックなテノールですが、無垢さと悩み多き存在という二律背反的な役まわりにはぴったりの歌声でした。

声量は抑え目に、でも心を込めた天使を素敵に歌ったのがアメリカ人のクックさん。
最後の業なしたあとの告別の場面は、涙ちょちょぎれるほどに感動しました。
バッハのカンタータから、大地の歌、カルメン、ワーグナーまでも歌う広大なレパートリーを持った彼女ですが、そのチャーミングな所作とともに、清潔な歌がとても気にいりました。

出番少な目でもったいないぐらいに思ったのが、極めて立派な声で決然とした歌にびっくりしたモルトマン。この方は英国人。
英国バリトンは、柔らかく明るめの基調の声の方が多いが、モルトマン氏は、明瞭ながらもかなり強い声。ドン・ジョヴァンニやヴェルディのバリトンの諸役を得意にしているそうだから、きっとそれらもバリッといいことでしょう!

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しかし、ほんとに、いい音楽。

わなわなした箇所いくつか。

①いきなり前奏曲で、荘重な中からの盛り上がりで。

②ゲロンティアスが、サンクトゥスと聖なる神を称えつつも許しを祈る場面。
 この何度も繰り返し出てくるモティーフが大好きで、ときおり歌ってしまうのだ。

③第一部最後に、決然と歌いだすバリトンの司祭。背筋が伸びました。

④わなわなはしなかったけれど、悪魔たちの喧騒、そしてHa!
 生で聴くと、スピーカーの歪みや周りを気にせずに、思い切り没頭できるのさ。

⑤悪魔去り、天使たちが後の感動的な褒めたたえの歌を、前触れとして、ささやくように歌うか所。

⑥そして、ついに来る感動の頂点は、ハープのアルペッジョでもってやってくる。
 合唱のユニゾンでPraise to the Holiest in the light
  キターーーーーー、もうここから泣き出す。

⑦いつもびっくりの一撃は、これも生だと安心さ。

⑧最後のトドメは、最後の天使の歌と、静かな平和なるエンディング。
 祈るような気持ちで聴いてました。

ノットの指揮棒は、しばらく止まったまま。

ホールも静まったまま、誰ひとり動かない。

そっと降ろされるノットの腕。

しばらくして、それはそれは大きな拍手で、ブラボーはあるが、野放図さはなし。
間違いなくホールの聴き手のずべてが、感動に満たされていたと思う。

本当に素晴らしかった、心に残るコンサートでした。

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終演後、澄み切った味わいの日本酒を。

遠来の音楽仲間と語り合いました。

 過去記事

「エルガー ゲロンティアスの夢 ギブソン指揮」

「ジョナサン・ノット指揮 バンベルク交響楽団演奏会2006」

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