2019年10月18日 (金)

シュレーカー 「王女の誕生日」組曲 ファレッタ指揮

Mishima-walk-1

三島市にある、三島スカイウォークのイベントスペース。

この道の駅的な観光スポットのウリは、400mの長いつり橋で、そこから見える景色は絶景とのこと。

とのこと、というのは、一度も渡ったことがないからです。
高いところ苦手だし、行くといつも風が強いし、なんたって、渡るのに一人税別1,000円もかかるし、犬や赤ちゃんも専用のカート500円が必要とのことで、あんまり何度も渡る人はいません・・・

しかし、これらの吊り花は、とてもきれいです。

Schreker-birthday-of-the-infanta-1

  シュレーカー 「王女の誕生日」組曲

 ジョアン・ファレッタ指揮 ベルリン放送交響楽団

       (2017.06.17~23 @ベルリン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)に関しましては、これまでオペラを中心に幾度も書いてきましたので、その人となりも含めまして、下段や右バーの「シュレーカー」タグをご照覧ください。

マーラーの後の世代、R・シュトラウスの一回り下、ツェムリンスキーやシェーンベルクと同世代で、指揮者としても活躍し、「グレの歌」の初演者でもあります。
作曲家としては、オペラの作家と言ってよく、台本からすべて自身で制作するというマルチな劇作家でありました。
当時は、シュトラウスや、後年のコルンゴルトなどと人気を分かち合う売れっ子オペラ作者だったのですが、ここでもやはりユダヤの出自ということが災いし、晩年は脳梗塞を罹患し失意のうちに亡くなってます。
 同じ、退廃音楽のレッテルを下されたコルンゴルトが、いまヴァイオリン協奏曲と「死の都」を中心に、多く聴かれるようになったの対し、シュレーカーは音源こそ、そこそこに出てきてはいるものの、まだまだ日の当たらない作曲家であることは間違いありません。
コルンゴルトのような明快かつ甘味なメロディラインを持つ音楽でなく、当時の東西のさまざまな作曲家の作風や技法を緻密に研究し、影響を受けつつ取り入れたその音楽は、斬新さもあるし、旧弊な様子もあるし、はたまた表現主義の先端でもあるし、ドビュッシーやディーリアスといった印象や感覚から来る音楽の作風すらも感じさせます。
そうした、ある意味、とりとめのなさが不明快さにつながり、とっつき悪さも感じさせるんだと思います。

わたくしは、そんなシュレーカーの音楽の、多様さと、そしてオペラにおける素材選びの奇矯さが好きなのであります。
そして、そのオペラたちも、ある程度パターンがあって、親しんでしまうと、とても分かりやすさにあふれていることに気が付きます。

  --------------------

オペラではない、シュレーカーの劇音楽を。

「王女の誕生日」は、1908年に上演された同名の劇の付随音楽であります。

このパントマイム劇は、クリムトが主催していたウィーンクンストシャウでの上演で、そのときのダンスのプリマは、モダンバレエの祖である、グレーテ・ヴィーゼンタールで、彼女は妹とともに舞台に立ち、その音楽は彼女によってシュレーカーに依頼された。
シュレーカーは、室内オーケストラ用に35分ぐらいの12編からなる音楽を付けたが、のちに、それを拡大して長作のフル編成のオーケストラ作品に仕立て直そうとしたものの、それは実現せず、同じ3管編成の大オーケストラ向けに曲を少なくして、10曲からなる組曲を作り直したのが、いま聴かれるこの作品であります。

原作は、かのオスカー・ワイルドで、「幸福な王子」と「石榴の家」という9編からなる童話集のなかの同名の「王女の誕生日」の物語から採られたもので、シュレーカーは、この童話からインスパイアされて、ツェムリンスキーのためにオペラの台本を準備したが、結局は自らが気に入ってしまい、ツェムリンスキーに了承を得て、自作の台本にオペラを作曲することとなる。
それが、「烙印された人々」となるわけであります。
 一方のツェムリンスキーも、この物語の筋立てには、大いに共感したものだから、オペラにしたいという想いを捨てきれず、「こびと(Der Zwerg)」という作品になって結実した。

シュレーカーの「烙印された人々」は、せむしの醜男が主人公で、それにからむのが、心臓に病を持つ女、性力絶倫男、腐敗政治家・退廃市民などなど、ちょっと特異な方々の物語で、現在では、とても考えにくい設定なのであります。
 そして、「王女の誕生日」も同じく、醜いこびとが題材。

「物語はスペイン。せむしのこびとが遊んでいると、宮廷の廷臣たちに捕らえられてしまい、王女の誕生日プレゼントとして、宮廷に綺麗な服を着せられて差し出されてしまう。得意になって踊るこびとに、人々は笑って喝采を送り、いつしかこびとは、もっと彼女のことが知りたい、そして、王女に愛されていると思い込むようになる。あるとき、宮廷で鏡の部屋に迷い込んだこびとは、姿見に映った自分の姿をみて、そしてそれが自分であることを悟って叫び声をあげて悶絶して死んでしまう。王女は、『今度、おもちゃを持ってくるときは、心のないものにして!』と言い放ち・・・幕」

残酷な物語であります。

ワイルドは、スペインのベラスケスの絵画「女官たち(ラス・メニーナス)」に感化され、この物語を書いたとされます。
その絵が、今回のCDのジャケットになっているわけです。
たしかに、右端にそういう人物がいますし、王女とおぼしき少女は笑みも表情もないところが怖いです。
ワイルドといえば、「サロメ」でありますね。
ファム・ファタールという男をダメにしてしまう謎にあふれた魔性の女、ルルも、マリーもそうですが、シュレーカーのオペラにも不可思議なヒロインたちは続出します。

こんな残酷な物語なのに、この組曲の音楽は平易で、奇矯さはひとつもありません。
「烙印」の主題もそこここに出てきます。
ここから物語の筋を読み解くことができないほどです。
冒頭の第1曲が、いちばんよくって、この旋律はクセになります。

全体としては、短い曲の集積ながら、童話的なお伽噺感に満ちていて、宮廷内の微笑みすら感じさせます。
ある意味、物語の筋と、このシュレーカーの音楽のギャップが恐ろしいところでもありますが・・・・
きっと舞台で、前衛的なダンスなどを付けでもしたら、さらにそら恐ろしく、哀しいものになるんでしょう。。。。

   ----------------------

アメリカのベテラン女性指揮者ファレッタさんは、バッファローフィルを中心に、アメリカ各地と英国・ドイツで活躍してますが、コアなレパートリーを持っていて、シュレーカー作品にも、そのわかりやすい解釈で適性があると思います。
この組曲の前に、のちに「烙印された人々」の前奏曲へとなる「あるドラマへの前奏曲」が収録されているのも、その関連性において秀逸です。
最後には、初期のまさにロマン交響曲的な「ロマンティックな組曲」も収められてます。
 オーケストラは、旧東系のベルリン放送交響楽団。

つぎに取り上げるツェムリンスキーの「こびと」のオーケストラは、西側の旧ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ響)なところが面白いです。

   ----------------------

シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1924


 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

Mishima-walk-3

| | コメント (0)

2019年10月 7日 (月)

シェーンベルク 「グレの歌」 ノット指揮 東京交響楽団

Musa-3

久しぶりの音楽会に、久しぶりのミューザ川崎。

もとより大好きな愛する作品、「グレの歌」に期待に胸躍らせ、ホールへ向かう。

今年、東京は、「グレ」戦争が起こり、大野&都響、カンブルラン&読響、そしてノット&東響と3つの「グレの歌」がしのぎを削ったわけだった。
いずれもチケットが入手できず、2回公演のあった東響にこうして滑りこむことができました。

Gurre-1

ホール入り口には、「グレの歌」の物語をモティーフとしたインスタレーション。
ミューザのジュニアスタッフさんたちの力作だそうです。

左手から順に、物語が進行します。
第1部~ヴァルデマール王とトーヴェ、第一部の最後~山鳩の歌、第2部~ヴァルデマール王の神への非難と第3部の狩、右端は、夜明けの浄化か愛の成就か・・・

このように、長大な難曲を、物語を通して追い、理解するのも一手ではあります。

が、しかし、シェーンベルクの音楽をオペラのように物語だけから入ると、よけいにこの作品の本質を逃してしまうかもしれない。
デンマークのヤコプセンの「サボテンの花ひらく」という未完の長編から、同名の「グレの歌」という詩の独訳に、そのまま作曲されたもの。
もともとが詩であるので、物語的な展開は無理や矛盾もあるので、ストーリーは二の次にして、シェーンベルクの壮麗な音楽を無心に聴くことが一番大切かと。

Gurre-2

  シェーンベルク  「グレの歌」

 ヴァルデマール:トルステン・ケルル   トーヴェ:ドロテア・レシュマン
 山鳩 :オッカ・フォン・デア・ダムラウ 農夫:アルベルト・ドーメン
 道化クラウス:ノルベルト・エルンスト  語り:サー・トーマス・アレン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
               東響コーラス
         コンサートマスター:水谷 晃
         合唱指揮     :冨平 恭平

      (2019.10.06 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

山鳩は、当初、藤村美穂子さんだったが、ダムラウに交代。
それでも、この豪華なメンバーは、世界一流。
だって、バイロイトのウォータンを歌ってきたドーメンが農夫、オペラから引退したとはいえ、数々の名舞台・名録音を残した、サー・トーマスが、後半のちょこっと役に、という贅沢さ。

ノットの自在な指揮、それに応え、完璧に着いてゆく東京交響楽団の高性能ぶり。
CDで聴くと、その大音響による音割れや、ご近所迷惑という心配事を抱えることにいなるが、ライブではそんな思いは皆無で、思い切り没頭できる喜び。

そして、さらに理解できた、シェーンベルクのこの巨大な作品の骨格と仕組み。

全体は、ワーグナーに強いリスペクトを抱くシェーンベルクが、トリスタンやほかの劇作も思わせるような巨大な枠組みを構築。
1901年と1911年に完成された作品。
そして、第1部は、ヴァルデマールとトーヴェの逢瀬。
トーヴェのいる城へとかけ寄せるヴァルデマールの切迫の想いは、さながらトリスタンの2幕だが、あのようなネットリとした濃厚さは、意外となくて、シェーンベルクの音楽は、緊迫感とロマンのみに感じる。
トリスタン的であるとともに、9つの男女が交互に詩的に歌う歌曲集ともとれ、「大地の歌」とツェムリンスキーの「抒情交響曲」の先達。
 第2部は、闘いを鼓舞するような「ヴァルキューレ」的な章。
 その勢いは第3部にも続き、王のご一行の狩り軍団は、人々を恐れおののかせる。
この荒々しい狩りは、古来、北欧やドイツ北部では、夜の恐怖の象徴でもあり、ヴァルデマールが狩りのために、兵士たちに号令をかけ、それに男声合唱が応じるさまは、まさに、「神々の黄昏」のハーゲンとギービヒ家の男たちの絵そのものだ。
登場する農民は、アルベリヒ、道化はミーメを思い起こさせる。

こんな3つの部分を、流れの良さとともに、舞台の幅の制約もあったかもしれないが、その場に応じて、曲中でも歌手たちを都度出入りをさせた。
このことで、3つの場面が鮮やかに色分けされたと思うし、途中休憩を1部の終わりで取ったのもその点に大いに寄与した結果となったと思う。
映像で観たカンブルランと読響では、休憩は、2部の終わりに、歌手たちは前後で出ずっぱり。
こうした対比も面白いものです。

それから、今回大いに感じ入ったのは、大音響ばかりでない、室内楽的な響き。
弦の分奏も数々あって、その点でもワーグナーを踏襲するものとも思ったが、歌手に弦の各パートがソロを奏でて巧みに絡んだり、えもいわれぬアンサンブルを楚々と聴かせたりする場面が、いずれも素晴らしくて、ノットの眼のゆき届いた指揮のもと、奏者の皆さんが、気持ちを込めて、ほんとに素敵に演奏しているのを目の当たりにすることができました。

  -------------

この日のピークは、1部の終わりにある、トーヴェの死を予見し描く間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」。
それと輝かしい最終の合唱のふたつ。
この間奏曲、とりわけ大好きなものだから、聴いていて、わたくしは、コンサートではめったにないことですが、恍惚とした心境に陥り、完全なる陶酔の世界へと誘われたのでした。
ノットの指揮は、即興的ともとれるくらいに、のめり込んで指揮をしていたように感じ、それに応じた東響の音のうねりを、わたくしは、まともに受け止め、先の陶酔境へとなったのでありました。
 続く、山鳩の歌は、ダムラウの明晰かつ、すさまじい集中力をしめした力感のある切実な歌に、これまた痺れ、涙したのでした。

そして、最後の昇りくる朝日の合唱。
そのまえ、間奏曲のピッコロ軍団の近未来の響きに、前半作曲から10年を経て、無調も極めたシェーンベルクの音楽の冴えを感じ、この無情かつ虚無的な展開は、やがて来る朝日による、ずべての開放と救いの前のカオスであり、このあたりのノットの慎重な描き方は素晴らしかった。
そのあとの、サー・トーマスの酸いも甘いも嚙み分けたかのような、味わいのある語りに溜飲を下げ、さらに、そのあとにやってくる合唱を交えた途方もない高揚感は、もうホール全体を輝かしく満たし、きっと誰しもが、ずっと長くこの曲を聴いてきて、やっと最後の閃光を見出した、との思いに至ったものと思います。
指揮者、オーケストラ、合唱、そしてわれわれ聴衆が、ここに至って完全に一体化しました。
わたくしも、わなわなと滲む涙で舞台がかすむ。

前半の夜の光彩から、最後の朝の光彩へ!
愛と死、そして、夜と朝。
シェーンベルクの音楽は、前向きかつ明るい音楽であることを認識させてくれたのも、このノット&東響の演奏のおかげであります。

  ------------------------------

先に触れた、ダムラウと、アレン。
そして何よりも驚き、素晴らしかったのが、レシュマンのトーヴェ。
モーツァルト歌手としての認識しかなかったが、最近では役柄も広げているようで、これなら素敵なジークリンデも歌えそうだと思った。
凛々としたそのソプラノは、大編成のオーケストラをものともせず、その響きに乗るようにしてホール全体に響き渡らしていて圧巻だった。
「金の杯を干し・・・」と、間奏曲の魅惑の旋律に乗り歌うところでは、震えが来てきまいました。
 対する相方、ケルルは、第1部では、声がオーケストラにかき消されてしまい、存分にそのバリトン的な魅力ある声を響かせることができなかった。
わたくしの、初の「グレの歌」体験でも、同じようにテノールはまったくオーケストラに埋没してましたので、これはもう、曲がすごすぎだから、というしかないのでしょうか。
ライブ録音がなされていたので、今後出る音源に期待しましょう。
ケルルの名誉のためにも、まだ痩せていた頃に、「カルメン」と「死の都」を聴いてますが、ちゃんと声は届いてました。

もったいないようなドーメンの農夫。
アバドのトリスタンで、クルヴェナールを聴いて以来で、まだまだ健在。
あと、まさにミーメが似合そうなエルンストさんの性格テノールぶりも見事。

合唱も力感と精度、ともによかったです。

残念なのは、2階左側の拍手が数人早すぎたこと。
ノットさんも、あーーって感じで見てました。

でもですよ、そんなことは些細なことにすぎないように思えた、この日の「グレの歌」は、完璧かつ感動的な演奏でした。
楽員が引いても、歌手と指揮者は何度も大きな拍手でコールに応えてました。
こんなときでも、英国紳士のトーマス・アレン卿はユーモアたっぷりで、観客に小学生ぐらいの女の子を見つけて、ナイスってやってたし、スマホでノットさんを撮ったり、聴衆を撮ったりしてました。

   ----------------------

シェーンベルクの言葉。
「ロマンティックを持たぬ作曲家には、基本的に、人間としての本質が欠けているのである」

「浄夜」を書いたあと、この様式でずっと作曲をすればいいのに、と世間はシェーンベルクに対して思った。
その後のシェーンベルクの様式の変化に、「浄夜」しか知らない人は、驚愕した。
しかし、シェーンベルクの本質は変わらなかった。
ただ、シェーンベルクは、音楽の発展のために、自分の理念を開発する義務があると思って作曲をしていた。
無調や、十二音の音楽に足を踏み入れても、シェーンベルクの想いは「ロマンティックであること」だったのだと。

10年を経て完成した「グレの歌」こそ、シェーンベルクのロマンティックの源泉であると、確信した演奏会です。

Musa-2

| | コメント (4)

2019年10月 4日 (金)

R・シュトラウス ツァラトゥストラはかく語り ロンバール指揮

Takeshiba-1

ある日の竹芝桟橋の夕暮れ。

大島あたりを往復する高速船が基地へ帰還するところ。

遠くはお台場に、羽田に降り立つ飛行機も見える。

Zara-lombard

     R・シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語り」

   アラン・ロンバール指揮 ストラスブール・フィルハーモニー

                (1973 @ストラスブール)

自分にとって、また懐かしい1枚を。
新しい演奏もいいけれど、こうして我が青春時代を飾った演奏を、歳を経て聴いてみるのも、音楽を聴く喜びのひとつ。
とかいいながら、いつもそんな聴き方をしているわけですが。

アラン・ロンバールは、今年79歳になるフランスの指揮者。
かなり若い頃から指揮者デビューして、20代にはEMIよりオペラ録音デビュー。
そして、私たちにとって、いちばん親しみがあるのは、ストラスブール・フィルの指揮者となり、エラートとの共同で、多くの録音が日本でも発売されるようになったこと。

70~80年代にかけてのストラスブール、そのあとはボルドー、そしてスイス・イタリア語管へ。
だんだん、尻すぼみになってしまったそのキャリア。
いまはどうしているのでしょう。
結局、ストラスブール時代が、ロンバールがいちばん輝いていた。
画像検索をすると、かなりふくよかになってしまったが、ビジュアル的にも、スマートでかっこよかったストラスブール時代だ。

Lombard

フランスのオーケストラということで、瀟洒でおしゃれな響きを期待するけれど、どっこい違います。
ご承知の通り、ライン川を挟んでドイツとの国境を有する都市として、交通の要衝の地。
ドイツ語では、シュトラスブルクということになります。
かつてより、独領となったり、仏領となったりと、歴史上も重要な街なのでありました。

大指揮者ミュンシュもこの地に生まれ、当時はドイツだったので、ドイツ人。
しかし、のちにフランスに帰化してフランス人となります。
ドイツ音楽にも精通したミュンシュこそ、ストラスブールの街の性格そのものだと思ったりもします。
ボストン響に君臨したミュンシュですから、ストラスブールとボストンは、姉妹都市にもなってます。

ロンバールとストラスブールフィルのR・シュトラウス。
浮ついたところのない、正攻法の堂々とした演奏です。
もちろん、現在のより高度なオーケストラや録音による切れ味のいい、精度の高い演奏からすると、緩い部分は多々あります。
しかし、押さえるところはきっちり表現し尽くしているし、一点の曇りのない、明晰な演奏であるというのも、わたくしにはシュトラウスの明朗なる音楽を聴く、必須の要件を満たしていると思われます。
 ブラスとティンパニをはじめとした打楽器のバリっ冴えわたる響きも魅力的。
ただ弦は、やや落ちるといった感じかな。

当時はもうアルコーア版による「カルメン」録音が主流となりつつあった70年代初め、ロンバールは、ストラスブールでクレスパンそタイトルロールにしたその演奏では、従来のギロー版を採用していたように記憶します。
フランスの地方都市であった当時のストラスブールにあって、レーベルも含めて、ちょっと保守的であったのかもしれません。
ヴェルディのレクイエムや、オッフェンバックのラ・ペリコール、グノーのファウストなど、70年代ならではのストラスブールでの録音。
いまこそ、聴いてみたいと思います。

そんな想いを抱かせるような、久方ぶりのロンバール&ストラスブールのツァラトゥストラなのでした。

過去記事

「ロンバールの幻想交響曲」


Takeshiba-2

竹芝桟橋からレインボーブリッジを望む。

| | コメント (5)

2019年9月28日 (土)

バッハ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ アーヨ

Shiba-1

変わりやすい秋の空。

ちぎれたウロコ雲も秋っぽい。

これから深まる秋に、バッハの無伴奏。

Bach-ayo

 バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ

     Vn:フェリックス・アーヨ

       (1974.12.29~1975.01.02 @ローマ)

バッハの無伴奏といえば、ヴァイオリンかチェロ。
ヴァイオリンが、ソナタとパルティータで、チェロは組曲。
その楽器の特性を見事に読み込んで、これらの形式を選択して作曲したバッハ、今さらながらその慧眼に驚きと感謝を禁じえません。
あ、あとフルートにも孤高の無伴奏ソナタがありますね。
いっとき、フルートを嗜んだものですから、そのソナタ、最初のほうだけ結構吹きましたものです。

わたくしの無伴奏の初レコードは、フェリックス・アーヨのものです。
初出のときは、高くて手がでなかったし、なによりも、今では2CDで易々と手に入るシェリングやミルシュテインのレコードは3枚組で、6000円以上もしたし。
そして、バッハのシリーズとして2枚組、2,900円で出たアーヨ盤に飛びついたのは、もう40年くらい前。

たくさんの音源を集めましたが、このアーヨ盤が今でも好き。
ソナタのほうは、入手困難で、悶々としておりますが、よりアーヨ向きのパルティータがCD化されて、ほんとにうれしかった。

イ・ムジチのアーヨ、イ・ムジチの「四季」、アーヨの「四季」という塩梅に、アーヨといえば、イ・ムジチと四季から切り離せないイメージがついてまわりますが、そのアーヨも、イ・ムジチを出てから、クァルテットを結成したり、ソロ活動をしたりと活躍の幅を広げたものの、それらの記録があまり残されていないのが残念です。

そんななかで、貴重なものが、このバッハ。
初めて、レコード針を落とした時に、スピーカーから流れだすヴァイオリンの明るく、艶やかな音色に即時、心惹かれ、魅了されてしまいました。
いま、CDでこうして聴いても、その想いに変わりはありません。
CDだと、ノイズも気にしなくてよいし、より情報量が増した感じで、ダイナミックレンジも広く、高域から低域まで、ここまでまんべんなく朗々とヴァイオリンを鳴らすことのできるアーヨに感嘆してます。

それには、フィリップス録音の優秀さも、一役買っているようにも思います。
ローマでの録音とありますが、こちらは教会を会場としてのものなのです。
豊かな響きは、教会の高い天井にこだまするようにして、教会そのものが、ヴァイオリンと一体化して楽器の一部のようにして感じられるのです。
響きばかりで、ふにゃふにゃしては決しておりませんで、アーヨの芯のある力のこもったヴァイオリンの音色もしっかりと捉えているんです。
 某評論家がかつて言ってましたが、よき演奏は、録音もジャケットもよろしい、と。
ジャケットは再発時のものですが、まさに、その三拍子が整った音盤かと!

もっと、情的なものを抜いて、構成感を高め、緊迫した演奏も、この無伴奏には多くありますが、アーヨの艶っぽい、歌心のあるバッハも、日ごろの緊張や疲れを、優しく包み込んでくれるような感じがして、わたくしには大切なバッハの姿の一面を聴かせてくれるものと思います。
長大な「シャコンヌ」では、いかつめらしさは一切なく、滔々とあふれ出る音楽を素直に受け止めることができる。
 そして、明るく軽快さも感じる3番が一番アーヨらしい演奏かも。
言葉はなんですが、普段聴きできる、アーヨの無伴奏なのでありました。

Shiba-3

高い空にバッハ。

Vivaldi-ayo

ついでに、懐かしの「アーヨ、イ・ムジチの四季」も聴いてみました。
(画像はネットからからのお借りもの)

なんというレトロ感、いやしかし、いまや、これは新鮮だ!
ムーディに流れるようでいて、各章に、心が込められていて、明るい歌のイタリア感も満載。
1959年の録音ということも、いまさらながらに驚き。
世界のベストセラーは、いま聴いても健在。
なにかとポンコツ気味の自分も頑張らなくちゃ。

| | コメント (0)

2019年9月26日 (木)

コルンゴルト 「二つの世界の狭間で~審判の日」  マウチェリー指揮

20190925-c

1914年開業の東京駅。
その丸の内口の南北ドームの天井にあるレリーフ。

1945年の東京大空襲でによる火災で、かなりの被害を受け、戦後修復。
そして完全修復をともなう建て替えが、2012年になされ、このような美しいレリーフが復活。

8匹の羽ばたく鷲も印象的。
東京駅へ降り立つと、必ず見上げます。

Korngold

 コルンゴルト 「二つの世界の狭間で」~審判の日

   Between Two Worlds:Judgement Day

     P:アレクサンダー・フレイ

 ジョン・マウチェリー指揮 ベルリン放送交響楽団

         (1995.04 @ベルリン)

コルンゴルトの甘味でかつ、切れ味も感じる素敵な音楽を。

ヨーロッパの地から、アメリカへ渡ることとなった要因である、ナチス政権も末期となり、第二次大戦の終結を翌年に控える1944年の作品。

1938年、ナチスがオーストリアとドイツを併合するか否かの国民投票を無視するかのように、傀儡政権を立て、ウィーンに進出。
ユダヤ人たちは、次々とウィーンを脱出し、コルンゴルトも家族や親族をそのようにまず脱出させ、そして自らもアメリカに渡ることとなる。
コルンゴルトの音楽は、ほかのユダヤの出自の作曲家や、先端を走った作曲家などとともに、退廃音楽のレッテルをはられ演奏禁止処分をうけてします。

何度も、書き思うことだが、あの戦争がなければ、音楽界はまた別な側面が残されていたであろうと。
ただし、戦争を肯定するつもりはさらさらないが、あの大戦で、世界はひとつの秩序を一時的には生み出したことも事実。
いま、その一時的な秩序も東側体制の崩壊で見せかけのものであったことが露見し、残った勢力の横暴で、あらたな混迷が生まれていることは、言わずもがなのことであります。

ヨーロッパとアメリカ、ふたつの間、そして、クラシカル作曲家と映画音楽の作曲家、ふたつの側面。
さらには、舞台と新興著しい映画産業とのふたつの側面。
これらに「挟まれた」のがコルンゴルトでもあります。
CDジャケットのコルンゴルト一家の旅装写真も、まさにそんな側面をよくあわらしていると思います。

「二つの世界の狭間で」は、1944年上映の同名の映画のために書かれた音楽です。
音楽自体は、1時間以上の大編となりますが、そこから、指揮者のマウチェリーが、14曲からなるシーンを選び出して編んだ演奏会用組曲が、この作品であります。
 マウチェリーが生まれたのも、1945年ということで、ハリウッドで活躍中だったコルンゴルトの音楽や、その周辺の時代の音楽に強いシンパシーを抱いていることも理解できます。
同じコルンゴルトのオペラ「ヘリアーネ奇蹟」の名盤をはじめ、デッカの「退廃音楽シリーズ」の中心的指揮者だった。
あと、ハリウッド・ボウル管弦楽団との演奏もいくつか録音があります。

さて、この映画における「二つの世界」とは?
それは、戦時の世界とそうでない世界、そして、天国と地獄。

1940~41年、ロンドンはドイツ軍による大空襲を受けた。それは「THe Blitz」と呼ばれる。
戦火を逃れるため、アメリカ行きの船に乗船しようとした、オーストラリア人のピアニストと、その彼を支える献身的な妻のふたり。
ところが、彼らは乗船拒否にあってしまい、このまま死と隣り合わせのロンドンにはもういたくないと、自決をしてしまう。
 そして、気が付くと、船に乗っていて、まわりには、爆撃で殺された人々。
そう、死後の世界へ。
そこへ、天の「審判者」がやってきて、亡くなった女優と、ジャーナリストの彼氏が審判へ、取引を持ち掛けたりして失敗したりもする。
そして、キリスト者にとって御法度の自殺をしてしまったピアニスト氏には、永遠に航海から逃れられないという罰を受ける。
しかし、夫とずっと一緒に居たいという妻の熱い懇願に、審判者も折れ、ふたりは、元のロンドンのアパートに戻ることとなり、めでたしメデタシ。

実際の映画に、このコルンゴルトの素敵な音楽がついたら、さぞかし、と思われますが、こんな要約だけを見ると荒唐無稽に過ぎて思うかもしれません。
14の各曲に、この要約のようなタイトルが、それぞれにつけられていて、それを頼りに聴くと、コルンゴルトのナイスな筆致もよくわかります。
ライトモティーフ的に、登場人物や愛情をあらわすテーマが使われ、それらの旋律を追うことでも、ドラマ理解の一助にもなります。
 オペラ作曲家であり、銀幕の作曲家でもあったコルンゴルトの面目躍如たる所以です。
また、「死の都」や「ヘリアーネ」「カトリーン」といったオペラの雰囲気もあり、わたくしにはそれらを思い起こすことでも、楽しい聴きものであります。

もう15年以上前に買ったCDですが、久しぶりに真剣に聴きました。
ジャケットの右側にある帯タイトルに、「Entartete Music」=退廃音楽、とあります。
このシリーズ、廃盤となり、いまではまったく入手困難のものも多数。
その半分も聴いておりません、復刻を望みたいところです。

20190925-d

| | コメント (0)

2019年9月22日 (日)

ショパン 24の前奏曲 グヴェタッゼ

Kibana-3

いつものお山にある、キバナコスモスの群生。

これはこれで、とても美しい。

オレンジと緑というと、わたくしには、かつての湘南電車を思い起させます。
子供時代は、床がまだ油の引いた板張りで、扇風機もついていたし、おとなのオジサンたちは煙草吸いまくりだったし。
あと、車両の連結部が怖かった。

あと、この色の配色は、川崎が本拠地だった「大洋ホエールズ」ですな。
高校時代にアンチGとなり、川崎時代からのファンであります。
現在のベイスターズの洗練さとは、かけ離れた野暮ったいチームでしたが、何が起きるかわからない爆発力がありましたな。
しかし、昨日はチクショーめ、です。

オレンジひとつで、いろいろな想いをかき立てられる。
それはノスタルジーでもあります。

んで、ショピンと書いてChopin=ショパン。

Chopin-gvetadze

   ショパン 24の前奏曲 op.28

      ニーノ・グヴェタッゼ

      Nino  Gvetadze

 (2017.06.12 @フリッツ・フィリップス・ムジークヘボウ、アムステルダム)

ショパンは好きだけれど、ふだん、オペラとかオーケストラ作品ばかり聴いているので、その決して多くない全作品をCD棚に網羅しているにも関わらず、最近はなかなか聴くことがなかった。
5年ぶりのショパン記事であります。

さる音楽仲間のご厚意で聴いた1枚が、とても鮮烈だったので、ここに当ブログ3度目の「前奏曲集」を取り上げることとしました。

長調と短調の繰り返し、バッハの「平均律」をリスペクトしつつ書いた前奏曲集。
ばらばらに書かれたとの説もあるものの、ハ長に始まり、その関係短調をおきつつ、5度循環で24の調性を並べた緻密な構成。
それらが、とりとめなく聴こえるけれど、真ん中の折り返しで、長調・短調、お互いに♯と♭が6つの調性となっていて、きれいな対称構造となっているところが素敵です。
そして、ショパンならではの、詩情と幻想にあふれているのが素敵なのであります。

ジョージア(かつての名はグルジア)出身のニーノ・グヴェタッゼは故郷のトビリシに学び、オランダへ出てそちらで研鑽を積み、リスト・コンクールで大いに評価され、アムステルダムを中心に活躍する注目のピアニスト。
 エキゾチックな黒髪の美人で、その技巧の冴えもさることながら、見事なまでの緊張感を持って、一音一音を大切に、磨き込むようにして奏でるそのピアノは、抒情の滴りとともに、ショパンのほの暗い側面や情念をすら描きだしてやみません。
高名なる「雨だれ」も、そこだけが浮き立たずに、全体の24曲の長短の流れのなかに、しっとりと収まるべくしておさまってます。
そう、24曲の前奏曲、それぞれがそれだけでも個々に成り立っているように聴こえる、そんな聴き方もできる一方、全体を通して聴くことで、有名な旋律も、浮かびあがることなく、その瑞々しさもあいまって、一服の詩集を読んでみたような気分になりました。
 カップリングのスケルツォ2番もいいです。

彼女の音盤はまだ少ないですが、すでにある得意のリストやラフマニノフの続編、そしてシューマン、ショパンのほかの作品などを録音して欲しいです。

ショパンがマジョルカ島で、この作品を完成したのは、1938年。
ベートーヴェンの没後から、まだ11年。
ワーグナーは、「リエンツィ」を書いてる頃。
日本では、幕末の天保年間、維新まで30年。
高度に発達していた江戸の文化ですが、当時の日本人がショパンを聴いたら、その詩情の深さに、きっと共感したでしょう。

しかし、親日国ポーランドのオーケストラが今年も含めて、たびたび来日するけれど、その演目が毎度、判で押したようにショパンの協奏曲とか、新世界やブラームスばかり。
パデレフスキのピアノ協奏曲なんて佳作だし、シマノフスキ、カルヴォーヴィチ、そしてブレイク中のヴァインベルクもポーランドだよ。
そろそろ招聘側の見識も問わねばならぬ、ね。

Kibana-1

 初秋の日の、雨模様にショパン♬

| | コメント (4)

2019年9月19日 (木)

ディーリアス 弦楽四重奏曲 去りゆくつばめ ブロドスキーSQ

Lave

こんな、初夏から夏にかけての1枚が、懐かしく思われる今日この頃。

季節の変わり目は、四季に応じてあるけれども、冬から春のわくわく感、春から夏の沸き立つ解放感。
そして、夏から秋へは、寂しさと楽しかった日々への寂寞の想いがあります。
さらに、秋から冬は、備えと身支度を伴って身が引き締まります。

9月17日から21日頃を、暦でいう七十二侯のうち「玄鳥去」にあたります。
そう、元気に飛び交っていた「つばめ」たちが、南の暖かい地に飛び去る季節を言うのです。

Delius-elgar-brodsky

  ディーリアス 弦楽四重奏曲

    ブロドスキー・カルテット

               (1982)

ディーリアス唯一の弦楽四重奏曲。
第一次大戦によるドイツ軍の侵攻により、永遠の地と定めた、フランス、グレからオルレアンに一時避難、しかし、一時ドイツ軍が引いてグレに戻ったものの、ビーチャムの勧めもあって、イギリスへと渡った。
ちょうどその頃、書かれた四重奏曲で、1916~17年の作品にあたります。

もうひとつ。1893年に書かれた四重奏曲があって、そちらは破棄されてしまったので、現存するのはこちらだけ。
当初は、3楽章構成であったが、すぐにスケルツォ楽章を加えて4楽章形式としました。

4つの楽章からなる、正統的な四重奏曲で、そのの緩徐楽章である、第3楽章がフェンビーによって編曲された、弦楽合奏による小品「去りゆくつばめ」の原曲。

Slow and wistfully」~ゆっくりと、物憂げに~と但し書きされた、美しくも儚い楽章。

弦楽合奏で聴くより、四重奏で聴くと、より耳をそばだてることになり、去りゆくつばめ、去りゆく秋を想い、気分はまさに物憂くなります。
そんな想いを、軽く和らげ払拭させてくれるような快活な4楽章が続くことに。
こちらは、速く、勢いよく、と題されてます。
さかのぼるようにして、1楽章のメロディーが再現されたり、総括的な終楽章となりますが、やはり、心に残るのは、先の3楽章。
3楽章を最後にしてもよかったのでは、なんて思ったりもします。

のびやかな1楽章は、どこか憂いを含みながらも、英国田園詩情を漂わせてくれます。
民謡調の中間部が素敵な追加された2楽章のスケルツォ。
そして、Late Swallows「さりゆくつばめ」が来るわけです。

正統的な四重奏曲と書きましたが、ベートーヴェンの中期などのかっちりとしたものと比べると、はるかに感覚的な音楽で、その流れに身を任せることが出来ない聴き手には、退屈な音楽としかうつらないででしょう。
ですが、これがディーリアスの魅力です。

グレからイギリスに去る時、夫人イェルカによれば、ディーリアスは「つばめと別れるのがとてもつらい」と言っていたそうです。
季節の時候として、遅くまで残って飛び交うつばめも、次々に去っていく。
それを見ながら思うディーリアスの脳裏には、戦時避難したおりに接した負傷兵や避難者たちの姿もあって、戦没者への想いもありました。

昨日の雨が上がり、朝から青空が雲の中から顔を出してます。
空もだんだん高くなってきました。

Delius_del_mar

 「去りゆくつばめ」弦楽合奏版で好きなのは、慈しむようなバルビローリと、楚々としたノーマン・デル・マーのもの。

| | コメント (0)

2019年9月16日 (月)

フランク 交響曲 カラヤン指揮

Radian_20190915091201

ふつうのコスモスと、キバナコスモスがいっしょくたに咲いてたので、適当に撮ってみました。

こうした混合ミックスも美しいもんです。

Franck-karajan-1

  フランク 交響曲 ニ短調

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 パリ管弦楽団

      (1969.11 @サルワグラム、パリ)

自分にとって懐かしの1枚。

小学生高学年のときだったと思う。
テレビで、N響の演奏会でフランクの交響曲を聴いた。
指揮は、岩城宏之か、森正だった。
1楽章の循環しまくる主題がカッコいい、3楽章までしかない交響曲の、その3楽章の明るい主題もカッコいい。
そんな風にして、フランクの交響曲に目覚めた。

ほどなく中学生になって発売された、カラヤンのレコード。
親にせがんで買ってもらった。
当時は、カラヤンが大好きで、ワーグナーも好きだった。
友達からは、「カラグナー」と呼ばれた。
アンチ・カラヤンに転じたのは、高校時代になって、アンチ巨人になったと同じような反発心からだったかしら・・・

このレコード、擦り切れるほどに聴いた。
ダブルジャケットだったけれど、紙質は薄っぺらいものだった。
でも、いい匂いだった。
その匂いとともに、カラヤン初のパリ管のフランクの響きが、ずっと脳裏に残って、いまに至る。

CD化された初期のもので、久しぶりに聴く。
匂いは、ここにはないが、同じ響きがよみがえってきた。

ん?
でも、なんだか重すぎやしないか?
パリ管の瀟洒な響きを期待すると裏切られる演奏であることは、ずっとイメージとして持っていた。
でも、右側から聴こえてくる低弦が重い。
EMIの録音のせいも多分にあると思うが、やはりカラヤンの指揮によるところも大きいのだろう。

過去記事をご覧いただければお分かりになると思いますが、ワタクシ、フランクの交響曲フェチなんざんす。
手放してしまったものも多いが、通算25枚ぐらいは揃えたと思う。
おもしろいもので、この作品には、ベルギーやフランスのオーケストラによる地元系やローカル系のCDも多い。
ちなみに、ロンバール(ボルドー)、プラッソン(トゥールーズ)、バルトロメイ(リエージュ)、ノイホルト(フランダース)、ベンツィ(アーネム)、デゥトワ(モントリオール)、なんかがそうです。
そうした演奏を主体に好むようになってきたから、余計にカラヤンの演奏が、「重い」と感じるようになったのかもしれない。

カラヤンは、このカラヤン向きと思われるフランクの交響曲を1度しか録音せず、ベルリンで演奏したかどうかも不明です。
独特の陰りと、響きの豊かさ、輝かしさも持ち合わせるこの交響曲は、カラヤンの得意とするところであるはずなのですが。
 パリ管の初代芸術監督、ミュンシュの急逝で、1969年から2年間、その任にあたったカラヤン。
その第一弾が、ドビュッシーやラヴェルでなく、フランクであったことが興味深いです。
そう、指揮者とオーケストラ、両方の持ち味が活かせる選曲であったに違いありません。
重低音の弦から、きらびやかな木管などの広域まで、ピラミッド型の安定感ある、それこそ重厚な音楽づくりのカラヤンのもと、オーケストラは、指揮者の厳しい手綱から、ちょこっとはじけるようにして、各奏者たちが随所に名人芸を聴かせる。
そこが、あまり多く録音を残すことがなかった、このコンビの面白いところかもしれません。
 オケがベルリンだったら、曲がベルリオーズだったら、という想いは置いておきましょう。

かなり深刻だけど、大きく構えたカラヤンのカッコよさが引き立つ第1楽章、そして年を経て聴く、2楽章のこの演奏の素晴らしさは、パリ管ならではだし、終楽章の最後の輝かしさは、やはり素晴らしいものがあります。

パリ管は、プレートルとボドに補佐されながら、カラヤンの次はショルティ、バレンボイム、ビシュコフ、ドホナーニ、エッシェンバッハ、ヤルヴィときて、ハーディングです。
フランス系の自国の指揮者が一度もその首席にはなっていない。
そして、いいコンビのハーディングも、パイロットになる彼の夢のための指揮者卒業で終了。
首席客演はヘンゲルブロック。
 どこへ行くパリ管。

フランク交響曲 過去記事

「バレンボイム指揮 パリ管」

「バルビローリ指揮 チェコフィル」

「コンドラシン指揮 バイエルン放送響」

「ノイホルト指揮 フランダースフィル、ベンツィ指揮 アーネムフィル」

| | コメント (7)

2019年9月15日 (日)

ツイッター始めました

お知らせ

クラヲタツイッター始めました。

右のサイドバーにリンク貼ってます。

適当につぶやく程度ですが、お暇な方はお付き合いください。

Neko

足が好きな親戚のねこ🐱

| | コメント (0)

2019年9月14日 (土)

ヴォーン・ウィリアムズ 音楽へのセレナード

Cosmos-3

今年は、最初は涼しく、その後の暑さが厳しすぎたせいか、吾妻山の早咲きのコスモスは少し精彩に欠くような気がしました。

でもその名の通り、初秋に咲く、この花の色合いや佇まいはとても美しい。

Rvw

こんな教会の中で演奏された曲をネットで聴きました。

そう、英国音楽好きを自称しておきながら、こんなに美しい音楽を知らないできた。

いや、でもメロディーはなぜか知っていた。

しかも、6月から8月にかけて、イギリスでの演奏会でのものを3種類も。

  ヴォーン・ウィリアムズ 音楽へのセレナード

        ~16人の独唱者とオーケストラのための~

 ステファン・クレオバリー指揮 ブリテン・シンフォニエッタ
                キングズ・カレッジ・コーラス
       (2019.06.29 ケンブリッジ、キングズ・カレッジ教会)

 マーク・エルダー指揮 ハレ管弦楽団
            ハレ合唱団
            (2019.05.23 マンチェスター)

 マーティン・ブラビンス指揮 BBCスコティッシュ交響楽団
               BBCシンガーズ
             (2019.08.13 ロイヤル・アルバートホール)

短い間に、3回も演奏されます。
そう、それにはいわれがあります。

指揮者ヘンリー・ウッドの指揮活動50年を記念して、ほぼ同年代だった朋友のヴォーン・ウィリアムズは、この素敵な作品を1938年に作曲した。
ヘンリー・ウッドは、指揮者として、作曲家・編曲者として、そして、音楽プロデュースにおける改革者として、ビーチャム、さらには、ボールトやバルビローリらの先人として英国音楽界にその足跡を残した人です。
プロムス、すなわちプロムナードコンサートの第1回目の指揮者でもあり、その後もクィーンズホールから現在のロイヤルアルバートホール(RAH)に至るまで、ずっと指揮者として活躍し、いまは、プロムスの期間中、そのホールに胸像が掲げられてます。
そのウッドの生誕150年が今年だったわけです。(1869~1944)

今年のプロムスでは、ブラビンスの指揮で演奏され、6月には、キングス・カレッジを長年率いたクレオバリーのフェアウェルコンサートのなかで、そして5月には、ハレ管のマーラー2番の、驚きのアンコールで演奏されました。

このように、ウッドと所縁があることで、今年多く演奏され、放送も多く聴くことができ、この作品がことさらに好きになった次第です。
聴いたことがあるメロディ、CD棚を探しまくり、いくつかある交響曲の全曲のカップリングにもないかと思ったが、残念ながら手持ちのCDにはありません。

   --------------------

作曲時に選ばれた16人の歌手とオーケストラによるこの作品、歌手たちはソロであったり、重唱であったりで、
 のちに、ソロを4人とし、合唱とオーケストラによるものへと編曲。
さらに、ヴァイオリンソロを伴うオーケストラ版にも編曲されました。
わたくしは、きっと、このオーケストラ版をどこかで聴いたのだろうと思われます。

歌詞は、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」からとられてます。
この物語は喜劇でありながら、ユダヤ人とキリスト教者との当時の微妙な関係が描かれたりもしているのですが、ヴォーン・ウィリアムズはそのあたりはスルーして、この戯曲に出てくる音楽にまつわるシーンから美しい言葉を取り上げました。

物語の概略は、ヴェニスの商人、その親友が結婚をしたがっているが資金がない、それを用立てるために、ユダヤ人高利貸しから借金をするが、期日に返すことができずに、証文通りに、心臓を差し出すことになってしまう。その裁判で、裁判官に扮した親友の婚約者の機知によって助けられ、高利貸しは財産没収とキリスト教への改宗を命じられてしまうというオハナシ。

ここで、ヴォーン・ウィリアムズが選んだシーンは、①婚約者が裁判に勝利して、家に帰ったとき、幸せにあふれた気分で月を見上げ、もれてくる音楽を聴いたときの気分、②もともと父に反発していたた高利貸しの娘が、判決で得た父の没収財産の半分を得て、婚約者のキリスト教徒の若者と駆け落ち、夜空を見ながら天体の音楽を語り合う、このふたつです。

曲の最初は、美しい、美しすぎるメインテーマが、ソロ・ヴァイオリンによって奏でられます。
そう、あの「揚げひばり」をお好きな方なら、すぐに、このメロディーは忘れられないものとなります。
優しさと慈悲にあふれた旋律です。
そのあとに、こんどは16人の重唱で。

 「月明かりが、ここにのぼり、そこに眠るなんて、
  なんて甘い想いなのでしょう
  ここに座りながら、音楽が。
  私たちの耳に忍び寄るように
  静かな夜、甘いハーモニー・・・」

ソプラノソロが、of sweet harmony と寄り添うように歌います。

このソロと、その歌詞は、曲の最後にも歌われ、まさに癒しのサウンドを持って印象的に静かに終了する重要なモティーフです。

曲は途中、ヴォーン・ウィリアムズならではの、ミステリアスな進行を伴った神秘サウンドもあらわれますが、最終は、幸福なムードのなかに終わります。
13分ぐらいの曲ですが、何度もいいますが、ほんと美しい。

「天体の音楽は人には聴こえない」とシェイクスピアの原詩にはありますが、ヴォーン・ウィリアムズは、それをわれわれの耳に届けようとしたのかもしれません。

  ---------------------

3つの演奏、ともに素敵です。
クレオバリーの教会での演奏は、雰囲気そのものが素晴らしく、響きもいい。
エルダーは、マーラーで歌ったソプラノがそのまま歌っているのか、ソロが素晴らしく感動的。
プロムスのブラビンスは、巨大な響きのいいホールを美しい響きで満たしてしまい、賑やかな聴衆を静まりかえらせてしまったくらいに、集中力あふれた演奏。

ボールトのCDを今度は聴いてみよう。

Cosmos-2

| | コメント (0)

«バイロイト2019 勝手に総括