2024年9月28日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番、5番、6番 マケラ指揮

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浅草の浅草寺の山門。

都会を離れて、浅草もしばらく行ってないので、過去の写真ホルダーを眺めて選択しました。

東京オリンピックの年に撮影したもので、まだコロナ禍にあり、外国人観光客はほとんどおらず、制限解除されたばかりのときで、日本人ばかりのいまやレアな浅草の町でございましたねぇ・・・・

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六区どおりもご覧のとおり、平和な雰囲気でしたね。

田谷力三さんの写真も、もはやその人の名も知ることのない若者や外人さんたちばかりになりました。
いまやwikipediaの力を借りないと、こうした偉人のなんたるかがわからない世の中にもなってしまった。

中途半端な初老の自分が、つい数年前の静かだった日本を思いつつ、台頭著しい若手指揮者の演奏を聴きつつ思う秋の日。

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 ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 op.43
     
           交響曲第5番 op.47

           交響曲第6番 op.54

  クラウス・マケラ指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

      (2022.9、2023.5、2022.1  @オスロ)

飛ぶ鳥を落とす勢いのマケラ君はまだ28歳。
多くの有力指揮者を輩出しているヨルマ・パルマ門下でフィンランド出身。
オスロ・フィルの首席指揮者(2020~)、パリ管の音楽監督(2021~)にあり、さらには、2027年からは、コンセルトヘボウの首席とシカゴ響の音楽監督に就任することが決っている。
有望指揮者をいち早く抑える、いまや大物不在の指揮者界をあらわすような、そんな世界のオーケストラ界。

この目覚ましい躍進ぶりを、どこか醒めた目で眺めていた自分。
高身長のイケメンさんだけど、その前の黒縁メガネをかけていた、どこかガリ勉君のような風貌の頃に、ドイツの放送オケやオスロを指揮したシベリウスをネット視聴した程度で、お国ものをしっかり振れる若者だ、程度の認識でした。
それがあれよあれよと、いまの目を見張るご出世ぶり。
日本にも都響、オスロ、パリ管で早くも来日しているというが、まだ様子を見ようと警戒してたワタクシ。

しかし、数か月前、オランダの放送で、彼がチェロを担当した室内楽コンサートを聴き、これがコルンゴルトの五重奏曲だったものだから、自分にピタリと来るその感性に注目をしたものだった。
そう、指揮者に加え、マケラの本職のひとつはチェリストなんです。
自己を主張せずに、豊かな歌を聴かせてくれ、コルンゴルトの甘味な音楽をさわやかに表現してましたよ。

そして出てきたショスタコーヴィチの新盤。
先に出ているシベリウス全集も気になりますが、まずはこちらを聴いてみました。
いまの指揮者のトレンドは、マーラーもしかりですが、ショスタコーヴィチをレパートリーとしてしっかり演奏できることでしょう。
しかも、4・5・6番という3年以内に書かれた特色の異なる3曲、でも純粋交響曲でもあり、名誉失墜と回復の時期、さらにはその裏に隠された二重三重のホンネ、そんな交響曲を一挙に録音したマケラ。

① 交響曲第4番

ショスタコーヴィチの交響曲のなかで、一番好きな作品になった4番。
この情報満載の奇矯なる音楽を、極めてスマートに、その面白さをストレートに聴かせている。
われわれがこの曲に求める、いくつかの聴かせどころも外すことなく、こちらの思いの通りにスカッとやってくれる。
そして流れるように、すんなりと聴けてしまう66分間。
いや待てよ、これでいいのか?と思ったことも事実で、曲の持つダイナミズムは完璧だけれども、反面にあるニヒルな虚無感や不条理感は弱めで、音に熱さや、作者の描きたかった暗さと熱狂感も低めだと思った。
昨秋に聴いた井上道義の壮絶なライブに、当然ながら遠く及ばす、手持ちの数あるこの曲の音源のそれぞれのなかでは、やや薄味にすぎる演奏か。
録音時、まだ26歳のマケラが、この先、きっと何度も手掛けるであろうこの4番、どのように成長の証を刻んで聴かせてくれるであろうか、そうした楽しみに期待したい。

② 交響曲第5番

この作品をレパートリーとして、何度も指揮しているであろうことが、よくわかる自信に満ちた演奏。
聴きすぎて、かえって飽きてしまった5番だけれども、ここには4番の演奏で聴かれなかった切迫感や切り詰められた緊張感が指揮にもオケにも感じられる。
3楽章の切実さにはさらなる厳しさも求めたいが、5番の演奏の最大公約数的なものは押さえているし、すべての音が過不足なく聴こえる優秀録音もあり、細部までよく聴こえる表現力もよいと思う。
もっと賑々しくやってもいいとは思ったが、表面的な効果に終わることなく冷静な音楽の運びが好ましく、ここは逆に手慣れた作品を若さでぶっちぎるような演奏にしていないところがよいかと。
この作品にある意味求められる客観さを、逆に適格に表現しつくしたようにも思った次第。
その客観さとは、自分のなかに言えることでもあり、この作品に飽いた自分は、いつも醒めて白々しく聴いてしまうものですから・・・

③ 交響曲第6番

高校時代にムラヴィンスキーのレコードで衝撃を受けた6番。
そのときのカップリングはオネゲルの3番だった。
「序・破・急」の「序」の部分がメインになっている、その深淵なクールさを持ったアダージョ楽章から、とりとめのないスケルツォ、人を興奮状態に持って行ってしまうプレストな3楽章。
思えば、4番以上にナゾ多き6番かもしれず、かつてのムラヴィンスキーは、その謎を鋼のような厳しさとスピード感でもって煙に巻いてしまった(と思う)。
マケラとオスロのオケに、そのような芸当は期待できるものでないが、1楽章の思わぬ抒情性は美しかったし、スケルツォにおける軽妙さもなかなかのもの。
むちゃくちゃな終楽章も大真面目、しかし案外と面白みなくあっけなく終わってしまった。
この作品に完結感など求めにくいものだが、終わってみて、あれ、それで?って感じではありました。
マケラ君が数年後に任されるコンセルトヘボウを指揮したハイティンクが、この6番を堂々たるシンフォニック作品に仕上げていたのが懐かしい。

総じて辛めの評価となりましたが、それもマケラ氏への期待を込めてのもの。
この若さで、この見事なオーケストラドライブは大したものです。
オペラへの経験も深めて欲しいし、そうして更なる統率力や緻密さも得ることでしょう。
ちなみに、先月のプロムスでパリ管とやった「幻想交響曲」は実に瑞々しく、晴れやかな演奏でしたよ。

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浅草行ったらお土産はこれ。

舟和の芋羊羹とあんこ玉。

明治35年創業の老舗、こうした日本の美味しい伝統あるモノは永遠に残していって欲しいものです。

腐りきった政治に腹を立てつつ、もどかしい思いで聴いたショスタコーヴィチ。

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2024年9月22日 (日)

ワーグナー 序曲・前奏曲集 ネルソンス指揮

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秋の日の空は高く、澄んだ空気が気持ちいい。

しかし、いつまでも気温は高く実感できない秋はこのまま終わってしまうのか?

そんなこと思いながら、またまたワーグナー。

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  ワーグナー 序曲・前奏曲集

 アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

    (2016~20  @ゲヴァントハウス)

ブルックナーの交響曲全曲録音の一環に、その余白にカップリングされていたワーグナー。

全集を購入したついでに、自分でひとつのファイルにまとめて作曲年代順に聴いてみました。

  「リエンツィ」序曲 (2020)
  「さまよえるオランダ人」序曲 (2020)
  「タンホイザー」序曲 (2016)
  「ローエングリン」第1幕 前奏曲  (2017)
  「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死 (2021)
  「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲  (2019)
  「ジークフリート牧歌」  (2018)
  「神々の黄昏」 葬送行進曲  (2018)
  「パルジファル」 前奏曲 (2018)

2016年から5年間に渡る録音期間。
ネルソンスがゲヴァントハウスのカペルマイスターに就任したのが2018年なので、こうして聴いてみると、最初の頃の演奏の方が大胆でユニーク、最近のものになるほど、音楽の恰幅が豊かになり緻密にもなっているのがわかりました。

また母国ラトビアのリガの歌劇場の指揮者も務めていたこともあるように、オペラでの経験も豊富で、バイロイトではお騒がせノイエンフェルスの「ローエングリン」で2010年に登場し、その後は「パルジファル」も予定されたかがキャンセル。
コヴェントガーデンでも、ワーグナーをいくつか指揮しているので、45歳という年齢を考えれば、ワーグナー指揮者として今後も期待できる大きな存在といってもいい。
ゆくゆくは、バイロイトでのリングも期待したいところだが、復帰するティーレマンとの兼合いも・・・・

バーミンガム時代(2008~15)のネルソンスのスマートな姿は、そのままシャープな音楽造りに表れていたが、ここ数年の大きくなった、しかも髭面の恰幅いいネルソンスの音楽は、豊かになり、かつ掴みも大きくなり、よりドラマテックになったと思う。

ここに聴くワーグナーも、タンホイザーはまるで一幅の交響詩のようで、堂々たる構えを持ちつつ切れ味も抜群。
しかし、バイエルンでペトレンコが指揮した同曲は、快速でありながら中身がギッシリと詰ったオペラティックな演奏だった。
このように、これらのネルソンスのワーグナーは、ブルックナーの余白を意識したようなオーケストラピース的なあり方としての演奏に思った。
一番新しいトリスタンの演奏は、極めて美しく、ゲヴァントハウスの優秀さ、対抗配置の弦の素晴らしさを実感できるし、ここには情念的なもの、こってりした高カロリーのワーグナーはなく、洗練された高度なオーケストラ演奏の鏡のようなものを感じる。
リエンツィでも勇壮さは遠く、ノーブルさもあり、パルジファルもすんなり美しい。

批判するともなく、褒めることもない内容になってしまったが、これがいまの世界トップクラスのオーケストラ演奏なのだ。
より高性能のもうひとつの手兵、ボストン響とやってもこのように美しいワーグナーが出来上がるだろう。

言いたかったのは、ゲヴァントハウスのオーケストラ、かつてのコンヴィチュニーの指揮で聴き親しんだあの音はどこへ行ってしまったんだろう、ということ。
そりゃもちろん、半世紀以上も経ったいま、生き物でもあるオーケストラが同じ響きや音色を出すこと自体がありえないことだろう。
しかし、コンヴィチュニーで聴くベートーヴェンやシューマン、ブラームスは自分にドイツのオーケストラそのもののイメージを与えてくれていた。
豊かな低音域に、渋めの中音域に彩られたその音色は、ちょうどいま聴きなおしてもみたが変わらずに素晴らしい。
 このゲヴァントハウスの音が変ったのは、マズアあたりからだろうか。
80年代以降は、ヴィンヤード型の現代的な新しいホールも出来て、録音で聴く音色の変化も明らかになったと思う。
ブロムシュテット、シャイーと指揮者が代わっていくなか、ゲヴァントハウスも変わっていった。
トマス教会でのバッハも、歌劇場のピットのなかでも、シャイーの指揮で聴くそれぞれは、あのゲヴァントハウスとは違ってしまった。
コンセルトヘボウがシャイーで変化したのと同じ印象だ。

Leipzig

地図をみるとわかるように、同じザクセン州にある近くのドレスデンは、イタリア人指揮者をこれまでも迎えつつも変わることなくドレスデンだった。
重心の低い演奏をすることもあるネルソンスが、今後、ゲヴァントハウスとボストンで、どんな演奏を残し、オーケストラをどのように導いていくか、ともに名門オケだけに責任重大だとおもうのだ。
ドレスデンはチェコとポーランドにも近く、南ドイツのミュンヘンはもっと下の方で、同じくオーストリアもドイツからしたら南の国。
こうして飽くことなく地図を眺めるのが好きです。

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こちらがライプツィヒの文化の中心地で、ゲヴァントハウスとオペラハウスは至近で、近くにはメンデルスゾーンの家もある。
そしてトマス教会も見えていて、この3か所でゲヴァントハウスのオーケストラは忙しく活動しているわけです。

今後のこのコンビに期待するとして、これらのワーグナーのなかで、いちばん気に入ったのが「ジークフリート牧歌」でありました。
愛らしく幸せな音楽が、キリリと引き締まった演奏で、まぎれもないリング作成中のワーグナーの音楽であることがよくわかる本格演奏。
オーケストラとの親密な雰囲気も感じさせるのも桂演、よきコンビの証。

肝心のブルックナーの方は、まだ全部聴ききれてませんが、いつかまとめたいと思います。
それにしても、アニバーサリーとはいえ、コンサートもCDもブルックナーばかりで大杉。

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冬の煌めきとは違う、秋の宵の明星🌟

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2024年9月 8日 (日)

バイロイト2024 勝手に総括

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夏のワーグナーの祭典、バイロイト音楽祭は8月27日に終わり、ちょうどそのころは日本は居座る台風の影響で各地に被害が出ておりました。

ワーグナーの夏も終わり、台風の去ったあとは、朝に晩が過ごしやすくなり虫の音も優しく響きます。

ヨーロッパの音楽祭では、あとはプロムスが数日残すのみで、秋の本格シーズンを迎えることとなります。

行く夏を偲んで、恒例のバイロイト音楽祭を勝手に総括してしまうという試みをやります。

今年は祝祭劇場の写真を絵画風に編集し、タイトルもつけてしまった。

2024年の演目は、すでに取り上げた新演出の「トリスタンとイゾルデ」、「タンホイザー」(2019年)、「パルジファル」(2023年)  「ニーベルングの指環」(2022年)、「さまよえるオランダ人」(2021年)の5つ。
このうち3作品が女性指揮者によるもので、音楽面では画期的となったのが今年だ。
パルジファルはなぜか放送されなかったので、それ以外の作品を全部聴きました。
併せて、ずっと観たくもなかった「リング」の2022年プリミエ映像を全部視聴。

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  「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:アンドレアス・シャガー
    イゾルデ :カミラ・ニールント
    マルケ王 :ギュンター・クロイスベック
    クルヴェナール:オルフール・シグルダルソン
    ブランゲーネ :クリスタ・マイヤー
    メロート :ビルガー・ラデ

  セミョン・ビシュコフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:トルレイファー・オルン・アルナルソン
      
               (2024.7.25)

カーテンコールに応えるニールントとシャガー。
ドラマテックな声でないニールントにはイゾルデは重いかもしれないが、その細やかな歌唱と柔和な声がとても新鮮だったし、愛の死は感動的だった。
チューリヒなどで、ブリュンヒルデにもチャレンジしているが、じっくりとニールントならではの役柄を極めて欲しいものです。
そして、グールド亡きあと、フォークトとともにバイロイトを支えるヘルデンはシャガー。
厳しさも備えつつ、そのタフな声は3幕では劇唱だった!
ごちゃごちゃした装置や道具満載の舞台に圧された感のあるビシュコフの指揮は、来年さらによくなるものと期待。
解釈を施さなくては、という呪縛が、変な演出と原作の本筋を外してしまうという昨今の演出。
アルナルセンも同じくで、最初から好き合っていた二人、妙薬は飲まずに抱擁し、ふたりは別々に本来の毒薬を飲んで死んでいく。

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  「タンホイザー」

    タンホイザー:クラウス・フローリアン・フォークト
    エリーザベト:エリザベス・タイゲ
    ヘルマン:ギュンター・グロイスベック
    ウォルフラム:マルクス・アイフェ
    ヴェーヌス:アイリーン・ロバーツ

   ナタリー・シュトッツマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

     演出:トビアス・クラッツァー

5年目のクラッツァーのタンホイザーは、完全成功を勝ち取り、聴衆の評価も安定したものとなり多くが好意的なブラボーを飛ばしていた。
驚きの解釈に初年度はブーが飛びかったが、年とともにこの楽しめるタンホイザーが受入れられていった。
その点、後述するリングとは大違い。
グールドを継いだ2年目のフォークトのタイトルロールがよい。
明るい声の自由を夢みるロマンティストたるタンホイザーそのものだった。
タイゲの強い声のエリーザベトもステキで、彼女は将来のブリュンヒルデ候補だろう。
チームワークが出来上がってるこのプロダクション。
シュトッツマンの指揮も絶賛されていて、緩急自在の雄弁なオーケストラは聴きごたえがあったが、ややあざとさも見受けられたところも自分には感じた。
この指揮者は、オールソップのあと、アトランタ交響楽団の指揮者となっており、今後、オペラにオーケストラに活躍しそうだ。
小澤さんの弟子筋にもあたる彼女、次のパリ管の指揮者になるだろうと勝手に予想中。

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  「ニーベルングの指環」

    ウォータン:トマシュ・コニェチュニー
    ブリュンヒルデ:クリスティーネ・フォスター
    ジークフリート:クラウス・フローリアン・フォークト
    アルベリヒ:オルフール・シグルダルソン
    ハーゲン:ミカ・カレス
    ジークムント:マイケル・スパイアーズ
    ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィシウテ
    ミーメ:ヤ-チュン・ファン
    グンター:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
    グートルーネ:ガブリエッラ・シェラー
    フリッカ:クリスタ・マイアー
    ローゲ:ジョン・ダザック
    ファフナー:トビアス・ケーラー
       ほか

  シモーネ・ヤング指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

      演出:ヴァレンティン・シュヴァルツ

     (2024.7.28,29,31,8.2 )

コロナ禍に悩まされた本来は2020年にプリミエとなるはずだったリングも、はや3年目。
こちらもコロナ罹患などもあり、毎年指揮者が変ったが、今年はオペラの手練れ、シモーネ・ヤングが登場し、ついにピット内のオーケストラは安定を迎えることとなった。
ともかく安心、安定の肝を完全に掌握した指揮ぶりで、どこをとっても自然で、いつも言うことだが、ここはこう鳴って、こう響かせて、こういう感じで高鳴らして欲しいというところが、すべてずばりと決まっていて、聴いていてほんとに気分がよかった。
あのとんでもない演出、ことにクソみたいな「黄昏」のエンディングの舞台なのに、そこで鳴り響いたたワーグナーの音楽は、極めて素晴らしく、ほんとに感動した。
シャガーに代わって今年からジークフリートを歌ったフォークトが注目された。
チューリヒで歌ってはいたが、ついにフォークトのジークフリートがバイロイトに登場。
とんでもない演出で、無茶な演技をしいられながら、ジークフリートの成長をうまく歌で表現したし、ここでも明るい声がプラスに。
さらに声に厳しさを求められる黄昏では、思わぬほどに強い声で、え?フォークトなの?と思ったりもした。
こんな風に、聴き慣れたジークフリートの歌に一喜一憂したのも久しぶりで、結果を申せばフォークトならではのジークフリートだったのがすばらしかった。
 同様に素晴らしく、安定した歌唱を聴かせてくれたフォスターのブリュンヒルデは完璧で、その声に輝かしさも加わってきた。
10年前のペトレンコ指揮のリングからずっと聴いてきたけれど、今年が一番かも。
絶頂期に、日本の舞台でフォスターの声は聴いてみたいもの。
 コニェチュニーのウォータン、フリッカほかの諸役で活躍のマイヤー、クルヴェナールよりずっといいシグリダルソンのアルベリヒ、カレスのハーゲン、こちらもいずれも万全。
ベルリン・ドイツ・オペラで歌っている台湾出身のチュン・ファンのミーメも驚きの巧さと狡猾ぶり。
そして、今年絶賛されたのが、神々しいジークムントを歌ったスパイアーズ。
久しぶりに悲劇色あふれ、そして哀感も伴ったテノールを聴いた感じで、来年のマイスタージンガーでも登場予定。
ミクネヴィシュウテのジークリンデもやや声の揺れが気になったが、なかなかによかった。

という感じで、音楽面ではまずもって素晴らしいリングで、聴いてる分にはまったく満足。

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        バイロイトピットのヤングさん

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気が向かないまでも、ようやく2022年の上演の模様を全幕全曲視聴。
自分においての結論からいうと、面白いアイデア満載の4部作ではあるが、それらがてんでバラバラに感じ、「よけいなことをするんじゃない!」という怒りを覚えた。
1976年のシェロー演出が、喧嘩沙汰の大騒ぎを引き起こし、神々の黄昏でジークフリートを刺したハーゲンに対し、「ハーゲンなにをしたのだ」と責める言葉をもじって、「シェローよ、なにをしたのだ」と揶揄されたものだ。
しかし、このシェロー演出は年を重ねるごとに評価を改め、高く評価されるようになり、バイロイトの聴衆にもしっかり受け止められるようになったのだ。
2022年のプリミエ、ことに最後の黄昏のカーテンコールでは、出てきた演出陣に対して容赦ない激しいブーイングがなされた。
翌年の2023年も同じく非難のブーは大きく、そして今年2024年もまったくブーは収まることなく激しかった。

多くの聴衆、そして映像で見たワタクシにも受け入れがたいのは、神話がベースのリングの物語から、その神話性や必須のモノが一切登場せず、ことごとくそれらを否定してみせたことだ。
なんたって、ストーリーと音楽の核心、争奪戦となる「指環」がこれっぽちも出て来ない。
ワーグナーが微に入り細に入り造り上げたライトモティーフが鳴っているのに、それを意味するモノや行為がまったくない。
4つの楽劇の連続性があるのは認めるが、下らん解釈を施すので、それらが矛盾だらけで一貫性がない。
わざと逆張りをしているかのような腹の立つ解釈を無理無理にしてる。
ワーグナーの素晴らしい音楽が、アホらしい舞台で台無しになっているのだ!
指揮者と歌手には最大限の賛辞を捧げたいが、映像で見ると、歌手たちはほんとにプロだと思う。

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ネタバレを承知のうえで、アホな内容を羅列しておこうではないか。
画像は2022年のもの

「ラインの黄金」

Rhein

・ラインの黄金の始まりは、胎児ふたりの映像、これでもってきっと黄昏の最後も、胎児来るかなと思ったらちゃんと来た。
・幼稚園の先生のようなラインの乙女たちはプールサイドで子供たちの世話
・アルベリヒは子供をさらってしまう
・ウォータン一家は、みんな原色のカラーの服で、アメリカのエスタブリッシュな家族のように見える
・ニーベルハイムは幼稚園のクラスのようなキラキラルームでで、女の子たちはお絵描き中
 黄色いポロシャツの男の子が浮いていて悪さばかりする
・ミーメは優しいヲタク、男の子はピストルを持っていて狂暴
・子供を連れ去るウォータンはピストルも手に入れる
・巨人たちが報酬を求めてくるが、指環じゃなく男の子を持ち去る
・巨人兄弟の争いは、メリケンサック(ナックルダスター)でひとたまりもなくぶっ殺し
・フライアは目の前のピストルを茫然と見つめる自殺をほのめかす
・ローゲはスワロフスキー指揮のリングのレコードをかけ、虹の架け橋の準備、踊るウォータン

War21

「ワルキューレ」

・ジークリンデはすでに身重に・・誰の子やねん
・冬の厳しさも去り・・と歌うジークムント、四角い明りの蓋を取るとそこにはピストルが
・グラーネは馬でなく、馬のたてがみのようなロンゲのおじさんで、やたらとスマホで写メ撮り
・フライアの遺影がある
・ウォータンのジークムントを守るなの命令にブリュンヒルデはやたらと切れるし、叫んだりと異常
・逃避行の兄妹、臨月寸前、苦しむ妹にウォータンが近づき、下着を脱がせてなにやらしようとしてる
・戦いのシーン、ジークムントは父の姿を認め、喜びの顔するが、ウォータンは無慈悲にもピストルで射殺
・gehとフんディングに命令するウォータン、普通に行ってしまうフンディングで死なない
・整形外科の待合室のワルキューレたちは、超ワガママで、スマホで自撮り、ファッション誌を楽しみ、
 ブランド品に身を包み、豊胸手術成功を自慢
・逃げてきたジークリンデはもう出産していて、ブリュンヒルデが赤ちゃん抱いていて、そのあとはグラーネ男が抱く
・さすがのわがままワルキューレたちも、ジークリンデの感謝の場には感動して泣いてる
・ウォータンから放出の命令を受けるブリュンヒルデに、ほくそえみ嬉しそうなワルキューレたち
・ブリュンヒルデは眠らされず、どこかにいなくなり、ウォータンはひとりで告別を歌う
・フリッカがワインを持って出てきて乾杯を促すが、ウォータンをグラスからワインを捨て拒否る
・ワインを運んできたカートに乗る1本のろうそくの炎をクローズアップしながら幕

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「ジークフリート」

・ヲタク風のミーメは、いろんな人形を作成、ジークリンデもいる
・鍛冶場はなく電子レンジに、水槽
・ジークフリートは熊追いはなく、ボトル片手にヘロヘロで登場
・ミーメの体を拭いてあげたり、なにかと介護をしてるジークフリート
・高齢化のミーメ、訪問したさすらい人もよろけたりする。
・ミーメがジークフリートに女性のヌード写真を見せると、メチャ欲しがる
・壁の向こうで炎、剣はなんやら細くて頼りないフェンシングの剣みたいなもの
・寝たきり、点滴中のファフナーに看護師が付き添いお世話。
・傍らには黄色いポロシャツとジーンズの青年、これはラインの黄金の子供か!
・アルベリヒがちっちゃい花束を持って面会に、そのあとはお供をつれたさすらい人がゴージャス花束を持って登場
 ちっちゃい方の花束、看護の女性に捨てられてしまう
・二人は、その後も残ってソファでウィスキーを飲んでる
・ミーメに連れられたジークフリート、森はひとつもなく、ソファでくつろぐ。
・若い看護師がファフナーにセクハラを受け、ジークフリートが優しく接する
・起きだしたファフナーをベッドから叩き落してしまうジークフリート
・敵意と憎しみの顔の黄色いポロシャツ男に、戦利品のメリケンザックを渡すジークフリート
・若い看護師は森の小鳥だった。
・看護師、ジークフリート、ミーメ、黄色いポロと4人のソファー
・ミーメがだんだんとおかしくなってきて、酒をちゃんぽんで配合、
 ジークフリートは剣でぶっ刺し、このシーンをまんじりとせず観察するポロシャツ男
・2幕と同じ部屋、ホームレスのようになったエルだは、ボロボロの若い娘を連れているが誰?
・さすらい人がジークフリートを阻止するのは槍でなくピストルで、あの華奢な剣で叩き落されてしまう
・寝てないブリュンヒルデは、立ったままで、包帯とマントにサングラス、傍らにはグラーネ男
・黄色いポロシャツも着いてきてるが、彼はジークフリートがブリュンヒルデに近づき起こそうとしている姿に怒りを禁じえず、姿を消す
・二重唱では、ブリュンヒルデの拒絶に合い、ジークフリートはヌード写真を取り出して思いを焦がす(会場は笑い)
・ふたりを迎えにきた車のヘッドライトが窓外に、家を走り去る 即座にブーイング

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「神々の黄昏」

・お化けのようなノルン3姉妹、浮き輪のような輪っか、びびる少年
・幸せな雰囲気のリビングルーム、子供時代のジークムントとジークリンデの絵と、いまのジークフリートとブリュンヒルデ写真
・優しい母親のようなブリュンヒルデ、旅立ちたいジークフリート
・白髪となった老いたグラーネ男は、2つのスーツケース、リュックを持ってジークフリートに従って行く。
・ギービヒ家は新築間もない様子でお手伝いさんが、かいがいしく働く。
・ハーゲンは黄色いポロシャツとジーンズで、ここで正体がわかった。
・ロン毛、グラサンのちゃらいギュンターにけばけばしいグートルーネは、いかにも金持ち風

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・あらわれたジークフリートは忘れ薬が即効きで、グートルーネを抱きしめ、ひっぱだかれる。
・急にグラーネ男に冷淡となり、ねっとしした液体をかけて虐める
・ジークフリートが去ったあと、ハーゲンの独白のときに、血だらけになり拷問を受けたグラーネ男が運ばれてくる
・ワルトラウテも歳をとり、ブリュンヒルデがいれたコーヒーに砂糖をカップ1杯いれてしまう
・変身したグンターはそのまま登場し、やたらと暴力的で無謀でブリュンヒルデを襲う
・ボクシングをするハーゲン、スパークリングの相手をするアルベリヒ
・呼びかけに応じ出てくる人々は、みな神々のお面
・ビビるブリュンヒルデとともに連れてこられた子供
・裏切りを怒りまくるブリュンヒルデ、おどおどしまくりのグンターに、傍観者のような人々
・復讐を誓う場では、3人は神々の仮面、舞台には仮面が散乱し、それはエイリアンのようにも見えた
・ライン川のほとりは、朽ちた船の船底で、上部は鉄柵で仕切られている。
・落ちぶれたラインの乙女たちの服やバックは綻びだらけ
・ジークフリートは少年に釣りを教えている。
・ハーゲンは下に降りてくるが、酔ったグンターと男たちは上部にいて出来事をのぞき込んでる
・グンターは白いレジ袋を持っている
・思い出しの酒を次々と飲むジークフリート、子供は横で寝てる
・ハーゲンは、メリケンサックをポケットから出して眺めながらも、
 ナイフでジークフリートを刺す
・上から何するんだと人ごとのように言うグンターたち。
・グンターはレジ袋を下に投げ落として逃げてしまう。
・葬送行進曲が響くなか、ハーゲンは傍らでなぜか寂しそう、子供はジークフリートが動かなくなって泣いている
・ブリュンヒルデはラインの乙女たちを伴って上部に登場。
・グンターもグートルーネも後ずさりしていなくなる
・モノローグの合間に、ブリュンヒルデはジークフリートの眠る船底に降りてくる
・グンターの捨てたポリ袋から、驚くことに、グラーネ男の生首を取り出して、それを抱きしめ、愛おしそうに歌う
・首を抱きつつ、ジークフリートの傍らに横たわり、上空を指さして夢見心地になりつつ、救済の動機が鳴る
・むき出しの無数の蛍光管が降りてきて、壁には胎児の映像・・・

        幕 激しいブー

なんじゃこりゃ・・・・

徹底的に私たちの「指環」の概念を壊す。
そこに持ち込んだのは、神々、人間界、地上と地下に住まう登場人物をすべて人間化。
しかもその人間たちの価値観、家族観の崩壊をテレビドラマ(いわゆるNetflix風なアメリカンな陳腐なドラマ)に落とし込んでみせた。
ドラマは常にリビングルームや寝室など室内で展開し、森や川、山といった大自然はひとつも出て来ない。
愛馬グラーネさえも擬人化されオッサンになってた。
肝心の指環はまったくないし、隠れ兜、剣、槍、黄金、炎・・・いずれもなし。
 では、争奪戦が繰り広げらる「指環」はどこへいった、代わりはなんだったのか・・・
それが「子供」だった(たぶん)。
だとすると、アルベリヒが連れ去った攻撃的な男の子が指環に?、女の子たちは黄金?
この男の子は、成長し病床のファフナーの傍らにいたし、次はジークフリートに着いていくが、頼りのジークフリートがブリュンヒルデと結ばれるのを見るや姿を消す。
かわりに黄昏ではハーゲンであったことが判明。
ハーゲンはジークフリートに敵意を示しつつも、殺したあとに寂しそうに悔恨の様子を示すし、残された子供をいたわったりもしてた。
で、ブリュンヒルデとジークフリートに子供がいたという無理筋の設定が噴飯で、この可愛い、男の子とも、女の子ともつかない子供は、ブリュンヒルデの自己犠牲のモノローグが始まると倒れて死んでしまう。
何なの??
この理解できない歌わない登場人物たち、そしてト書きには出て来ない人物たちが、平然と出てきて、その場で重要な役回りをしてしまう、これを冒涜と言わずしてなんだろうか!

若いシュヴァルツは、子供のときからショルテイのリングのレコードに親しんできたというが、妄想もほどほどにして欲しい。
登場人物たちが、スマホを使いこなし、さかんに写メを撮りまくり、ワルキューレたちは整形で見栄えにこだわる。
ネットの世界に溺れる若者、35歳のシュヴァルツ君なのでした。

※以上は、あくまで、わたくしの私見にすぎません


Hr-2024

  「さまよえるオランダ人」

    ダーラント:ゲオルク・ツッペンフェルト
    ゼンタ:エリザベス・タイゲ
    エリック:トミスラフ・ムジェク
    マリー:ナディーヌ・ワイズマン
    舵手:アッティリオ・グレイザー
    オランダ人:ミヒャエル・フォレ

   オクサーナ・リニフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団

      演出:ドミトリー・チェルニアコフ

       (2024.8.1)

4年目のこちらも聴衆から受け入れられ、同時に安定したオーケストラと歌唱がますます充実してきた感じだ。
思わぬ悲劇的な結末の伏線がいくつもあり、それを見出したり、あとで気が付いたりするのが刺激的な楽しみでもあるチェルニアコフ演出。
リニフ女史の的確かつ、舞台の呼吸も心得た指揮ぶりは、聴いていてどこにも破綻なく安心なもの。
できればオランダ人だけでなく、シュトッツマンとオランダ人、タンホイザーを交互に指揮してもらいたく、聴いてみたいものだ。
ルントグレンが降りたあとのフォレの滑らかな美声のオランダ人、これまたグリゴリアンのあとを受けたタイゲのゼンタ、これまた安心安全の奥深いツェペンフェルトのダーラント、実によい布陣だった。

2年目のパルジファルが聴けなかったが残念だが、今年もバイロイトのワーグナーは音楽としては自分には大成功だったと思います。

     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

バイロイトのワーグナー家の当主カタリーナ・ワーグナーは、2030年までその地位にとどまることが決定。
その後のこと、ワーグナー家の血筋を引く人物はほかに?などと今後も興味はつきないです。

音楽祭開始前に、以前も書いた通り、文化大臣が、音楽祭をもっと若々しく、多用的にしなくてはならない、たとえば「ヘンゼルとグレーテル」などの上演にも門戸を開くべきと発言し、大々物議をかもした。
ドイツ政府は正直狂ってると思ってるので、ワタクシなどの東洋から本場を崇める主義の保守的な人間には許しがたいものと受け止めた。
一般の方からも大反対を受け、件の大臣はトーンダウンしたようだが、カタリーナ・ワーグナーは実績として、子供のためのワーグナーオペラをやっているので、若返りとかいう指摘はお門違いだし、子供たちのなかからさらなるワグネリアンは間違いなく生まれるのがドイツだと思ってます。

Gould

音楽祭の最初や合間に野外コンサートも行われてますが、今年は昨年亡くなったステファン・グールドの追悼も行われたようだ。
これらのコンサートが放映や放送されないのは残念。

合唱指揮のエバーハルト・フリードリヒが今年で退任となり、後任はエイトラー・デ・リントという若いオーストリア人指揮者となる。
コスト削減で人員が大幅削減となってしまう合唱団に新風を吹き込めるか。
思えば、バイロイトの合唱指揮者も歴代長く、それぞれに名匠でありました。
  1951~1971  ウィルヘルム・ピッツ
  1972~1999 ノルベルト・バラッチュ
  2000~2023   エバーハルト・フリードリヒ

来年の演目は新演出の「マイスタージンガー」が、英国人のマティアス・デイヴィッズで、ミュージカル系の演出からオペラ演出へと幅を広げた人らしく、どんな歌合戦になりますか?
無難な指揮者の選択、パルジファル以来のガッティの指揮ですが、私は好きなヨアナ・マルヴィッツさんに登場して欲しかった。
再演の「リング」「パルジファル」「トリスタン」に加え、ティーレマンが久々に登場して「ローエングリン」再演を指揮する。

その先のことも発表されていて、2026年には「リエンツィ」が初めて上演。
2028年にはリングが刷新され、指揮は早くもカサドとアナウンスされている。
そして2027年からは、新制作が2作目途となり、これまではだいたい4~5年ぐらいのサイクルだったものが、人気の出たロングラン演出以外は、ほかの劇場でも上演できるようにするという。
それがコストを意識した共同制作なのか、あくまでバイロイトからの貸与となるのか、興味は尽きないが、もしかしたら日本の新国立劇場でもバイロイトと同じものを観劇することができるようになるかもしれない。
これは画期的ではありますが、一面でバイロイトに行かなくてはならない独自性と希少性も失われることになるわけだ。

ますますほかの劇場と同じようになりつつあるバイロイト。
若き頃に、バイロイトに行くことを夢見て焦がれた自分は、いまや歳も重ね、思いは遠くになりにけり、だ。
  

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2024年8月19日 (月)

ブリテン 戦争レクイエム

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今年もめぐってきた終戦の日。

79年目。

人間は、この年月、なにも反省もせずに口では平和を唱えながら、対立と憎しみの構図は増すばかり。

世界の各地は、都市化が進み、どんな都市にも高層ビルやマンションが建ち、豊かさを途上国でも甘受できるようになったが、どこの国でも都市と地方の格差は大きい。
youtubeで世界各国をめぐってバーチャルで楽しんでいるので、そんな認識が確信となっている。

そんな豊かさを世界が受け入れるようになった反面は、その豊かさが世界均一で作られたものであり、その国の独自の文化やアイデンティティと引き換えに実は得たものばかりなのではないかと思うようになった。
そう、グローバリズムの悪しき一面。
そうすることで、世界規模の企業家たち・投資家たちは、あらゆる国や体制から利益を得ることができるだろう。

そうしたグローバリストたちに世界が支配されているとわかった。

敗戦国日本は自力で復興しつつも、そうした流れのなかにあって、アメリカに従うことでの繁栄ではなかったのだろうか。。。。
出る杭は徹底的にアメリカにつぶされてきた。

価値観や、正と悪の転換。
これまでの思いや考えが一転しつつあると思うし、そうではない人も大多数だとも思うが、これだけ進んだ情報の渦に気が付かない方がかえって幸せなんだろう。

いまから63年前のブリテンの「戦争レクイエム」のときは、反戦・戦争反対は正しき流れで、世界大戦への反省がもっとも大きかった時節。
みずからが反戦の立場で従軍しなかったブリテンの良心となにかと清らかな思いの反映が、このレクイエム。
ヨーロッパのイギリスからのレクイエムであり、その国からしたら第二次世界大戦の当事者は、イギリスとアメリカとドイツだった。
あえて反論覚悟で申せば、それは戦勝国側としてのイギリス・アメリカの立場であり、ドイツを悪としてそれでも手をのばし友愛を示した戦争の一面に過ぎないと思うのだ。

敗戦国の自虐史観にあふれたドイツと日本。
そうした局面で、誰かがレクイエムを書いても欲しかった。
ブリテンがもっと長生きしてくれたならば、歴史の見直しも感じて、違うレクイエムを書いてくれたかもしれない。

存続をかけて日本が国をあげて戦争にむかっていったことは事実であろうが、無辜の民間人を大量に殺された日本という国は、戦争の最大の被害国だと思う。
これからでもいい、堂々と日本人のためのレクイエムがあってもいいと思うのです。

Britten-requiem

  ブリテン 戦争レクイエム

   S:ガリーナ・ヴィジネフスカヤ

   T:ピーター・ピアーズ

   Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

  ベンジャミン・ブリテン指揮 ロンドン交響楽団
                ロンドン交響合唱団

   (1963.1.3~10 @キングスウェイホール、ロンドン)

いまや歴史的な作者の自演の録音は、これもまたカルショーの手になるものだった。

数年ぶりに聴いたこの曲の原点ともいえる演奏。

昨今の多彩な演奏を毎年聴いてきたが、やはりここに聴かれる演奏の真実味とシリアスさは違う。
あまりにリアルすぎるし、録音の生々しさもいまだに迫真にあふれるものだ。

この自演の録音以降、ブリテンの戦争レクイエムは、指揮者で演奏者でもあった作者の専売特許から離れ、さまざまな指揮者、様々なオーケストラ、そしてさまざまな国々で演奏されるようになり、作品として完全に独立したと思います。

リアルステックなこのブリテンの自演盤のあと、それらの新しい演奏や録音を楽しむ喜びも生まれ、演奏を聴く方に視点が移り、この音楽も本来持つ訴求力は薄まったとも思う。

3人の歌手の確信をついたすさまじい歌唱も、その後の歌手たちのうまさとはまた違った思いをいだきました。

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これ以上、戦渦が広がりませんように。

今年の後半は、世界の指導者が多く変わることもあり、その前がほんとに心配です。

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2024年8月 7日 (水)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ビシュコフ指揮 バイロイト2024

Wagner-bayreuth-24

画像はドイツのニュース記事から拝借してます。

バイロイトの夏、今年も7月25日に開幕。

新演出は「トリスタンとイゾルデ」

一昨年、昨年と「トリスタンとイゾルデ」は上演されたが、それはロラント・シュワヴによる新演出で、今回のものは、アイスランド出身のトルレイフル・オルン・アルナルソンという演出家による、これまた新演出。

2020年がコロナ禍により音楽祭中止で、そこで予定されていたリング新演出(シュヴァルツ演出・インキネン指揮予定)が2年延期となり、翌2022年の上演となった。
コロナでリング中心の新演出上演のサイクルが乱れ、荒れるだろうと予測された破天荒のリングの不満のハケ口のようになったのが、2年前の穏健なトリスタンだったと思う。
2年で交替となったからには、今回の新演出への期待はいやでも大きかったが・・・・

2026年には、これまでバイロイトで上演されたことのない初期3作のひとつ「リエンツィ」が上演されるが、ことしの音楽祭前には、文化・メディア担当大臣のクラウディア・ロートが、バイロイトをより多様で若々しいものにしなくてはならない、「ヘンデルとグレーテル」のような作品も上演されるべし、と発言して炎上。
たしかに、フンパーディンクはワーグナーの後継でもあったが、より多くの層の観客に愛されるべしとの思いからなのだろう。
遠く、東洋の果てから、バイロイトに憧れを抱いてきた私たちからすれば、そんなのやめてくれ!ってことです。
ちなみに件の大臣さんは、緑の党の系統といいますので、押してしるべし・・・

※以下、画像はバイエルン放送局のものを拝借してます。

Ich borgte das Bild von der Stelle vom BR, die Station ausstrahlt.

Ich lasse dich sofort einen Staat von Bayreuth vermitteln und danke dir jedes Jahr sehr.

Tristan-kino

  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:アンドレアス・シャガー
    イゾルデ :カミラ・ニールント
    マルケ王 :ギュンター・クロイスベック
    クルヴェナール:オルフール・シグルダルソン
    ブランゲーネ :クリスタ・マイヤー
    メロート :ビルガー・ラデ
    牧童   :ダニエル・ジェンツ
    舵手   :ロウソン・アンダーソン
    若い水夫 :マシュー・ニューリン

  セミョン・ビシュコフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:トルレイファー・オルン・アルナルソン
      装置:ヴィータウタス・ナルブタス
      衣装:シビル・ウォーラム

          (2024.7.25 @バイロイト)

バイエルン放送の生放送を録音し、すぐさまに視聴。
今年もあの素晴らしいバイロイトの木質のサウンドが聴ける喜び。
美しい弦が、左右に分かれて展開し、やがそれがうねりを呼び、熱気へと向かい、ピークに達したあとに静まってゆく、この前奏曲を堪能し、若い水夫のテノールソロが始まる。
トリスタンを聴くとき、まず最初にワクワクするところだ。

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イライラと動揺を隠せないイゾルデの第1声は、バイロイトでのイゾルデデビューとなる、ニールントだ。
年々、ドラマテックな役柄にレパートリーを広げてきたニールント。
今年はチューリヒで先行したイゾルデに、ブリュンヒルデ、そしてバイロイトでイゾルデで、私は大丈夫かなと危ぶんだが、彼女は決して無理はせず、ニールントならではの細やかな歌唱で決して絶叫することのない、優美ともいえるイゾルデを歌ったと思う。
確かに声量という点では不満が残るが、いつものシュトラウスを歌うニールントらしい、やや硬質の声は魅力的だと思いました。
思えば2007年にニールントのマルシャリンを観劇して17年、年月とともに大歌手となったものです。

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相方のトリスタンは、もうこの役柄では定評あり、ジークフリートと並んでトリスタンは、シャガーがいないと成り立たないくらいのものになりました。
演技も声も、やや楽天的になる傾向のあったシャガーは、ここではそんな雰囲気は影をひそめて、極めて厳しいストイックな歌唱に感じられ、映像でもそんな姿を認めることができたのは大きな収穫。
3幕の長大なモノローグでは、それこそ声が枯れんばかりの劇唱で、ある意味聴いてて手に汗握るくらいでした。
終演後、いちばん大きな拍手とブラボーを受けていたのもわかります。

2幕でなぜかブーイングを浴びてしまったグロイスベック。
素晴らしいツェッペンフェルトに聴き慣れてしまったのか、少しクセのあるグロイスベックがお気に召さなかったのか。
はたまた、ウォータンを降りてしまったことへの反発か、バイロイトの聴衆は厳しいが、わたしは好意的に聴いた。

ブランゲーネのクリスタ・マイヤーがとても素晴らしく、主役ふたりに次ぐ喝采をあびていた。
昨年までメロートだったシグルダルソンのクルヴェナールは、声の質が軽すぎるように感じ、サンタクロースみたいなもっさりした風貌もトリスタンの機敏な朋友には見えにくかった。

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総じて歌手は見事で、その歌手たちがきっと歌いやすかったであろう、そして情報少なめの舞台を補完するような雄弁かつ説得あるオーケストラを率いたのがビシュコフ。
概してテンポは遅めだったが、その遅さはまったく感じず、豊かなダイナミズムは、繊細なピアノから強いフォルテまで、行く段階ものレベルを備えていて、ときには歌手に寄り添い、歌手たちを燃え立たせ、もしかしたら退屈な舞台を鼓舞するよな指揮ぶりだった。
ロシア人だったビシュコフは、カラヤンに注目され楽壇にデビューしたが、華やかなキャリアを歩まず、案外と地味な存在であり続けた。
そのビシュコフがチェコフィルで成功し、オペラもウィーンやドレスデン、パリで着実な歩みをみせていて、巨匠の第一候補かと思います。
 私は2008年のパリ・オペラ座の来日公演で、ビシュコフ指揮でおなじトリスタンを観劇しました。
パリのオーケストラの音色もあり、肌ざわりのいい粘らない、それでいてニュアンスが極めて豊かな音を引き出していることも素晴らしかった。
それと木管や特にホルンに日頃聞きなれないフレーズが強調されたりと、とてもユニークかつ新鮮。
ビシュコフのトリスタンの音源としては、2006年ウィーン国立歌劇場(マイヤー、ウィンヴェルイ)、2013年プロムス(ウルマーナ、スミス)の2種を聴いているが、タイムは今回のものとほぼ同じであったことも興味深い。
以上、総じて歌手たちと指揮に関してはほぼ万全だし、新鮮なイゾルデが聴けたことも大きい。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アイスランド出身のアルナルソンは、もともとは俳優として劇場とのかかわりをスタートし、演出家としてはウィスバーデンの劇場で活躍をしているようだが、私は初めて耳にする名前。
北欧的なものを意識して演出をしてきたようで、劇としての「ペールギュント」で大成功を納めたりしていて、「パルジファル」も手掛けているようだ。

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今回のトリスタン演出、工夫して映像で見た私の印象は、よけいなことはしてないかわりに、可も不可もない無難なものでありつつ、装置や衣装へのこだわりをみせたものの、それらがトータルとして雑多でごちゃごちゃした印象を与え、美的には好ましくないものに終始した。
演出をしたという解釈としては、目新しいところはあったが、それはトリスタンのあるべき本質をあえて外してしまったものに思われた。

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トリスタンとイゾルデが、禁断の関係を結んでしまうきっかけが、ブランゲーネが忖度した媚薬。
しかし、この演出では、イゾルデが手にした薬の瓶は、媚薬でなく毒薬。
1幕でトリスタンはイゾルデから瓶を奪い取るが、それを飲むことなく、二人は初めて見つめ合い、なんだ、もとから好きだったんだようという楽天的な抱擁を交わす。

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2幕で、メロートに率いられたマルケ王が乱入するが、トリスタンはイゾルデに着いてくるかい?と故郷のことを歌いつつ、毒瓶を飲んでしまう。
メロートの剣に飛び込むのでなく、自らが独薬を飲む。
さらに、その瓶を奪い飲もうとしたイゾルデからは、メロートが瓶を取り上げて放り投げる。
メロートは嫌なヤツでもなく、トリスタンを愛するおホモだちのように見えたがいかに・・・
3幕では、死に際に飛び込んできたイゾルデは、生きてください、どうして?何で?と歌うモノローグのところで、毒瓶を飲み干してしまう。
トリスタンの死ぬ、その横で、イゾルデは死に際の歌のように、「愛の死」を歌ってこと切れる・・・

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このように媚薬はなく、死を覚悟した毒薬が、主役の二人を死に導くというストーリー解釈だった。

これには怒る聴衆がいてもおかしくない。

ブラボー飛び交うカーテンコールの最後に出てきた演出チームには、今年も容赦なくブーイングが浴びせられた。
シュヴァルツの2年前のリングほどではないが。
しかし、ブーに恐れをなしたアルナルソンは、チームのほかの4人を残し、カーテンの裏に駆け込み、歌手たちを招きだそうとした。
歌手たちは、そんな準備も出来てないので、しばしの間、演出の張本人の欠けた、装置や衣装、照明の担当たちがカーテンの前で立ち尽くすこととなった。
ブーで自信消失となったアルナルソンのこの奇態はまずかったな・・・
堂々としたより若かったシュヴァルツ君の方が立派だったと思うよ。

そもそも、そんなにビクビクすることはない、独自の解釈だったと思う。

この楽劇で死んでしまうのは、この演出では「トリスタンとイゾルデ」だけだった。
メロートもクルヴェナールも、兵士たちも、みんな戦わず、死ぬこともなく、ふたりの恋人の死を、ブランゲーネやマルケとともに見つめ立ち会うのだった。
歌っている内容との矛盾にあふれてはいるが、ふたりの死のみをクローズアップした演出だろう。
こうすることで、登場人物たちは、静的で動きが少なく、背景で見つめ立ち会う存在のようにもなり、マルケも悩みつつも立ち尽くし、また座りつくす存在となっていて、全体の印象を単調にしてしまう結果ともなったと思う。

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その単調さに比して、舞台装置の雄弁さと雑多さには苦言を呈したい。
1幕で結ばれた二人が船に空いた穴から下をのぞき込んで終了したが、2幕のふたりの逢瀬は、きっとその船の船底。
そこには古今東西の美術品やらイゾルデの幼少時代の写真やら、あきれるほどによくできたリアル品々がびっしり並んでいる。
マルケはトレジャーハンターなのか、世界からお宝を収集するオタクなのか、イゾルデもそんな収集品のひとつだったのだろうか。
3幕は、トリスタンの故郷のコーンウォールとは思えず、2幕のままにその場が朽ちただけに見えた。
あまりに小道具が多すぎて、気分がそがれることこのうえない。
死に体のトリスタンの元に駆けつけるイゾルデは、ものが多すぎる、こうしたごちゃごちゃした道具を乗り越えて、そろりそろりとやってくるので、切迫感ゼロだ。

こんな風に変なとこもあげればキリがないが、この演出家の意図は、今後よく見て考えてみたいし、海外評なんかも読んでみたいと思う。

演奏は全然OKで素晴らしく、演出は消化不良でイマイチ、でも余計なことしてないので頑張りました!
ということに今年はさせていただきました。

毎年毎年、勝手に偉そうなこと書いててすいません。
これもまたバイロイト、ワーグナーの楽しみなのですから。

今年は、あと「オランダ人」「タンホイザー」「リング」「パルジファル」が上演されている。
残念ながら「パルジファル」の放送がないが、ほかの作品は順次聴いております。
また書くかもしてません。

来年は、ガッティが新演出「マイスタージンガー」、ティーレマンが再演の「ローエングリン」が追加されるので、タンホイザーとオランダ人はお休みか。
そして早くも次の28年の「リング」の指揮に、カサドの名前があがっている。

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手水舎にあった涼しげな、「ほおずき」。

夏本番🌻

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2024年7月28日 (日)

フェスタサマーミューザ2024 ノット&東響 オープニングコンサート

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今年もフェスタサマーミューザの開幕を迎えました。

昨年に続き、オープニングコンサートに行ってまいりました。

連日、猛烈な暑さの続くなか聴いた「真夏のチャイコフスキー」はクールダウンにもなり、また熱気と興奮で熱くもなりました。

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 チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 op.17 「小ロシア」

          交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」

    ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

        ゲストコンサートマスター:景山 昌太朗

       (2024.7.27 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

昨年は、3番と4番で、今年が2番・6番、ということは来年は1番と5番でチャイコフスキー全曲完結となりますか!
2026年3月がノット監督の任期なので、マンフレッドはどうなるか?
いずれにせよ、毎年の楽しみではあります。

わかり切った名曲だと、パンフも見ずに聴き挑んで早々、耳に沁みついたアバドのふたつの音盤とあきらかに違う曲だと気が付いた2番の1楽章。
そう、1楽章をほぼ書き直した聴き慣れた8年後の改訂版でなく、初稿版を採用したノット監督ならではの慧眼。
冒頭の素晴らしいホルンの導入は同じなれど、その後が全然違う。
くり返しのくどさが増し、曲調も荒々しい雰囲気に。
2番のこのたびの演奏は、全般に荒々しさとスピード感と抜群のリズム感、雄大なまでのダイナミズムに満ち溢れた、まだまだロシアの民俗楽派の流れの元にもあったチャイコフスキーの姿を聴かせてくれたものだと思う。
 チャイコフスキーは、ウクライナの南方にあるカムンカというモルドバ寄りのドニエストル川流域の地で夏の休暇を過ごし、そこでウクライナ民謡などを取り入れつつ作曲した。
南方へのあこがれと、それを体感し堪能した解放感がこの曲にはあります。
初稿版採用のこだわりは、そんな背景もあるのだと思いました。
パンフには、タイトルが「ウクライナ」とされ、かっこ書きで(小ロシア)と表記されてましたが、ウクライナ民謡が扱われていることからついた呼称なので正しいといえます。
チャイコフスキーの頃は、ウクライナでなく、ロシアからみたら「小ロシア」だったかと思います。
これ以上書くとややこしくなるし、多方面から矢が飛んできそうなので辞めます・・・

ともかく、爽快きわまりない、ノット&東響の2番でした。
蛇足ながら、曲中、補聴器ピーピーが2度聴かれました。
そのピーピーがメロディのように聴こえ、実際の演奏に同調しているかのように聴こえました。
ライブ録音もされていたなか、修正はなされるでしょうが・・・・

名曲の鏡ともいえる「悲愴」に一石を投じるかのような、これもまた爽快な演奏。
なんたって、悲愴臭なし、いい意味で流れるような流線形的な演奏。
とくに1楽章での旋律の歌わせ方は、第1主題はさりげない表現で、切ないはずの第2主題もあっけない辛口表現。
まさかのバスクラ不使用のファゴット落ちの後の展開部のクライマックスも切実さよりは、より楽譜の的確・忠実な再現に務めた感じで、音楽の持つ力を信じての演奏に徹していたように感じた。
 5拍子の2楽章でも辛口表現で、甘さなしで心地よい。
嫌でも興奮してしまう3楽章では、オケの威力全開で、ノットもここぞおばかりに煽りますし、オケも楽々と着いていく様子が、指揮者の真正面の位置で、楽員さんの演奏姿を見ていてよくわかりましたね。
拍手なしで堪えて終楽章。
ここでも徹頭徹尾、楽譜の忠実な再現ながら、気合とみなぎる指揮者の緊張感は並々ならず、オケもそれをヒシと受け止め、高まりゆく音楽の波をいやでも表出。
音楽の本来持つ力だけで、思い入れや、悲劇臭の注入・没頭感もなく、ここまで見事に演奏できるのだと体感。
低弦だけとなり、コントラバスのピチカート、チェロの低音だけで消え入るように曲は終わった。
静寂につつまれるホール。
全員で無の余韻をしばし楽しむ。
ノットが手を降ろして、しばし後に拍手がじわじわと広がり、やがてブラボーに包まれました。
これぞ、コンサートの楽しみ、喜びを堪能しました。

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全方位、みんなの拍手ににこやかに答えるノットさんでした。

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終演後、音楽聴き仲間とご挨拶し、軽く喉を潤しました。
音楽で観劇・興奮したあとの一杯は最高です。
夏はこんなツマミでいいんだよ。

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バッハさん、毎年、日焼けしすぎじゃね。

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2024年7月21日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」

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数度目かのワーグナー全作シリーズ。
初期3作、オランダ人についで、ようやく「タンホイザー」
全作シリーズは、もういい歳になってしまった自分、きっと最後です。
2回にわけて、音源、舞台経験、映像とジャンルをわけて総括。

その前に、以前の記事から少し編集をして、作品の概要を。

オランダ人、タンホイザー、ローエングリンのロマンテックオペラ3作は、後期に花開くドラマムジークへの序奏でもあり、初期3作で試みた当時のオペラスタイル(ベルカント、国民オペラ+ブッファ、グランドオペラ)をさらに発展させ、ライトモティーフのさらなる活用や番号オペラの廃止で、ドラマと音楽がより緊密に結びつき、緊張感とロマン性が流れるように、しかもおのずとあふれる作品群となっている。

タンホイザー」は、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦のロマン的オペラ」という長いタイトルが当初のもの。
パリからドレスデンに移ったワーグナーは、「リエンツィ」と「オランダ人」の成功でその地で宮廷指揮者の職を得て、順風満帆のなか、「タンホイザー」を仕上げた。
1945年のことで、初演は大成功。
その後、聴衆の理解をさらに深めるように改訂をして、これが「ドレスデン版」となる。
管弦楽作品として聴かれる序曲が15分間演奏され、その後ヴェヌスブルクの音楽が少し入る版である。
1861年にパリでの上演を依頼された際に、序曲の途中からヴェヌスブルクの音楽になだれ込み怪しいバレエを挿入したり、歌合戦の一部を割愛したのが「パリ版」である。
さらに、ドレスデンとパリの両版の折衷版が「ウィーン版」とも呼ばれ、これがまた「パリ版」などと称されているからややこしやぁ。
指揮者や演出家によって、いろんなミックスバージョンがあるから、さらにややこしい。
でも昨今はドレスデン版を基調に、バレエ軍団の活躍の場を広げるためにも、折衷版が主流になった感あり。

舞台でもCDでも、最後の場面は涙なくしては聴けない。
エリザベートの自己犠牲から、法王からは杖にした枯れ枝から芽が生えないように、お前の罪は消えることはない!と宣言されながらも、奇跡の発芽。
ここに流れる奇跡のような音楽は、あらゆる音楽のなかでも極めて感動的なものと思う。

ワーグナーの劇音楽作者としての天才性は、このあたりにも如実に表れている。
こうした人間にとっても普遍的な感動は、演出家にとって、極めてやりがいのあるもので、逆に昨今のなにかを付け加えなくては存在意義を失った演出家には、これまた絶好の素材となるのでした。

中世13世紀頃、神聖ローマ帝国にあったドイツ中部のテューリンゲンが舞台。
ミンネジンガー=吟遊詩人たちは、高尚な恋愛や騎士道を歌にして、城内や貴族館などで歌い演じていて、それは職業ではなく、従者や城仕えのサラリーマン、騎士、貴族などだった。
2幕のヴァルトブルク城での歌合戦では、美辞麗句、高尚なる古風な純愛、建て前ばかりにの歌を披露する騎士たち。
それを聴いて生ぬるい、俺はもっと愛を極め、酒池肉林の世界に行っていたことをカミングアウトしてしまうタンホイザー。
  ローマ神話の愛と美をつかさどる女神であるヴェーヌスは、原始キリスト教においては、キリスト教を迫害する側のローマの神々であったし、それはカトリックにおけるマリア信仰と対をなす官能の女神として邪なる存在であった。
 その世界におぼれてしまっていたタンホイザー。
キリスト教社会から足を踏み外してしまったアウトロー。
身バレしてしまったタンホイザーは即座に、異端のとんでもないヤツとされ凶弾。
しかし、そこへ身を挺して、必死に彼の命乞いをするのがエリーザベト。
この場面は、重なる年齢とともにその味わいが増ように思え、若い頃は大げさに感じたこのシーンが、人の痛みや苦しみを共感しようという高潔なヒロインの真摯な歌に心から感銘を受けるようになったと思う。
しかし、こうした献身的な女性の麗しい姿も、いまや女性差別の批判の的ともなります。
「自己犠牲」という言葉がいまやフラット社会やポリコレの対象となりかねない時代。

ほんとに、ばかやろうといいたい。
こんな風潮のもとにおもねって演出にそんな要素を入れてしまった連中、歴史の揺り戻しで、そんな思想は消されるときがくる。
だから言いますよ、ひねくりまわさずに、ト書きを中心とした演出に解釈をくわえればいいじゃんよ。

と、また怒りだしてしまうのですが、ここからは手持ちの音源を振り返ります。

ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー (1970)
  
Tammhauser-solti

トリスタンとリングに続いてショルテイが録音したワーグナー。
デッカの鮮やかなゾフィエンザールでの録音芸術はここでも鮮やか。
レイ・ミンシャル、ゴードン・パリー、ジェイムズ・ロック、コリン・ムアフットなど、この当時のカルショウ後のお馴染みのデッカチーム。
シカゴでの指揮活動も本格化し、同時期にはマーラーの5番や6番も録音。
オペラ中心から、コンサート活動へとシフトしていった時期でもあります。
ゴリゴリの剛直な指揮から、柔和さも加わり、多彩な表現力を示すようになったショルティさん。
ウィーンフィルを締め上げずに、柔らかなホルンや管の持ち味も生きていて、このジャケットにあるようなヴァルトブルク城の幽玄な雰囲気すら感じさせます。
若いコロの貴重な時期の録音は、甘味すぎる声で、後年に舞台で観劇したときの頭髪も後退し、人生に疲れた味のある歌い口とは別人のようなのです。
さらに2014年に、ルネ・コロのさよならコンサートでも、ローマ語りは聴いたが、そこでの苦渋に満ちた歌いぶりに、この不世出のテノールの行きついた境地に感嘆したものです。
清廉なデルネッシュもいいし、ルートヴィヒの贅沢すぎるヴェーヌスもよい。
若いゾーテインの美声のヘルマンもいいが、ブラウンのウォルフラムはちょいと弱い。
ピッツとバラッチュの指導する合唱も強力。

②ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイロイト (1962)

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61年から始まったヴィーラント・ワーグナーの演出2年目のライブ。(過去記事をコピペして編集)
ドレスデンとパリの折衷版ともいえるウィーン版。
バレエの振り付けにモーリス・ベジャール、ヴェーヌスに「黒いヴェーヌス」として評判をとった
グレース・バンブリーが歌ってセンセーションとなったが、いまではあたりまえのことで、隔世の感あり。
でもサヴァリッシュの指揮は、いまでも鮮度が高く活気に満ちている。
音楽がどこまでも息づいていて、それがドラマにしっかり奉仕していて気の抜けたところが一瞬たりともない。
この素晴らしい緊張あふれる指揮ぶりは、同時期に担当したオランダ人とローエングリンにも共通して言えることで、時にその意欲が空転してしまいオケが走りすぎてしまうところもある。
サヴァリッシュのこの清新な指揮ぶりは、後年若さによる踏み外しがなくなり、さらに磨かれつくし知的でスタイリッシュな音楽造りになっていく。
この頃のヴィントガッセンは歌手としてピークで、その後のベームとのトリスタンやジークフリートは絶頂期からややピークを過ぎたあたり。
ここで聴くタンホイザーの声は威勢もよく、ドラマティックな威力も抜群で、意気揚揚とヴェーヌスに三行半を叩きつけ、歌合戦でも夢中だし、ローマ物語もヤケのやんぱちになってしまうところが凄まじい迫真の歌唱となっている。
ライブゆえの傷もややあるが、最後までスタミナ十分なところも当時の大歌手の実力をまざまざと見せつけてくれるもの。
若きシリアの夢中の歌唱、友愛のヴェヒター、安定のグラインドルに加え、バンブリーのコクのある以外にも深みのある声が素敵なものだ。

③ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイロイト(1954)

戦後51年に再開したバイロイト音楽祭、タンホイザーは54年がプリミエでヴィーラント演出、そのライブ。
録音はかなりいい方です。
この年やカイルベルトとともに、ヨッフムも指揮を担当。
カイルベルトの逞しく気力あふれる指揮は、リングやオランダ人の音盤と同じで、古めかしさは一切なし。
音の決まり方が気持ちよくって、こちらの耳にタンホイザーの音楽のあるべきものがバシバシ飛び込んでくる。
1幕でのタンホイザーと旧友たちとの邂逅の熱さ、その後の盛上りは、猛然とアッチェランドをかけかなりのスピード感でもって興奮させる。
2幕は華やかさなどは微塵もなく、後半の感動的な場面では、ともに泣くかのような思い入れを込めた演奏。
一転3幕の、澄んだ空気に悲劇を予見させる前半は、じっくりと歌い上げていて、ニュアンス豊かなF・ディースカウの名唱とともに味わいが深い。
そして、「ローマ物語」からは、ヴィナイの重戦車のような大迫力タンホイザーもあいまって、大いなる感動をもたらし、最後の巡礼の合唱では感涙にむせぶこととあいなったが、やや尻切れトンボのように豪快すぎる終わり方。
前述したヴィナイの悲劇の固まりのようなタンホイザーがよろしい。

④アンドレ・クリュイタンス指揮 バイロイト(1955)

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54年がプリミエのヴィーラント演出の翌年のライブはクリュイタンスが担当。
このヴィーラントのプロダクションは、2年間で取下げとなり、次のタンホイザーは61年のサヴァリッシュ指揮のものまで間が開くことになる。
バイエルン放送局の正規音源なだけあり、カイルベルト54年盤より音は数段よろしい。
クリュイタンスのタンホイザーは個性的である。
かなりゆったりと美しく旋律を歌いながら始まる。
しかし、バッカナールの場面では、かなり強烈な響きとなるし熱い。
全般にテンポを微妙に揺らしながら、強弱も付けながら、単調に陥らない素晴らしい表現力でもって攻めまくる。
2幕の後半のタンホイザーの罪を請うエリーザベトの歌に始まる重唱などは、古い演奏にあるようにごちゃごちゃ混濁せず、見通しがよく、盛り上がりも清潔な。

3幕、エリーザベトを送る静かななシーンでは、そのしなやかさが印象的で、最終の場面では、テンポを絶妙に落とし、ジワジワと感動を盛り上げてくれる。
実にいいタンホイザーなのだ。
 全盛期のヴィントガッセンは、同年リングでもフル活躍しているから、そら恐ろしいタフネスぶりである。
そして、その気迫に満ちた野太い声は実に説得力に満ち引き込まれる。

FDのウォルフラムが素晴らしく声に華があり、一語一語に心がこもり、同情を歌で表現できている。
 クリュイタンスは次のヴィーラントのタンホイザーでも65年に指揮をしているが、そのときの音源は発売されていない。
クリュイタンスのバイロイトでの指揮は、このタンホイザーと、ローエングリン、マイスタージンガー、パルジファルで、いずれも聴くことができる。

⑤オットー・ゲルデス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ (1969)

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過去記事より~このレコードが出た時、新世界でぞっこんだったので「おっ、ケルテスじゃん」と思ったら「ケ」じゃなくて「ゲ」だった。

「ゲ」の方のゲルデスは、DGのプロデューサーとして、おもにカラヤンの録音に多く携わっていた人で、「リング」など多くのレコードにその名前がクレジットされている。
もともとは指揮者でもあったので、同時期に、ベルリンフィルを指揮して「新世界」やバンベルク響とヴォルフ、ベルリン・ドイツ・オペラとオテロ抜粋などを録音している。
余計なことはしていないし、音楽の良さも正直に伝わってくるからよしとしよう。
ただし面白みは少なめ、聴いていて、そこでこう、あーもっとこうして、という思いが捨てきれないのも事実。
最初から疲れたヴィントガッセンのタンホイザー。
ギンギンに威力漲る二役のニルソンに押されいて、「頼むから許して下され」的な、哀れさそう1幕。

このお疲れモードのヴィントガッセンのタンホイザー、3幕のローマ語りでは、多大な効果を発揮する。
さんざん辛酸を舐め、人生に疲れ切った男の苦しげな独白はあまりに堂に入りすぎていて同情すら誘う。

すっかり大人となったFDのいい人だけど、ウマすぎるウォルフラム、気品あふれるアダムのヘルマンをはじめ、端役にもウベンタール、ヒルテ、ソーティン、レンツなどの実力派をそろえた豪華なもので、歌の魅力ではタンホイザー諸盤に引けを取らない。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場 (1982)

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当時は完全東側だったベルリンのシュターツカペレを長らく率いたお馴染みのスウィトナーは、N響への客演に合わせ、オペラの引っ越し公演にオケとの来演に、もう何度日本にきてくれたでしょうか。
85年には、日本でもタンホイザーを上演してくれて、NHKの放送も入って、そのときのエアチェック音源も大切にしてます。
こちらは本拠地でのライブ放送の音源で、音質も問題なくきれいなステレオ録音です。
自在さと、以外なまでの燃焼度の高さをみせるスウィトナーは、やはり劇場の人なのだと思わせます。
いつも言いますが1幕の最後が短縮版なので、期待が萎えてしまう恨みはありますが、全編にわたり、オペラを知り尽くした指揮者が全体を統率していて、すべてに一体感を感じる。
スウィトナーは快速テンポで、あの飄々とした指揮ぶりで、よどもなく音楽を進めますが、ぎっしりと音が凝縮していて密度は濃く、ここぞというときの迫力はなみなみでなはない。
 この音盤のありがたみは、あとなんたって、スパス・ヴェンコフで、その声の太さと力強さ、ノーブルな輝きとほの暗さ。
タンホイザーとトリスタンのためにあるような声です。
歌手のまとまりの良さも劇場でのライブである強み。
この時の映像がyotubeにもありますので、そちらも確認済みです。

⑦ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団 (1985)

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ハイテインク初のワーグナーは「タンホイザー」
ずっと連れ添ったコンセルトヘボウでなく、音楽監督の任にあったコヴェントガーデンでなく、ミュンヘンのオーケストラだった。
以前より常連だったが、この頃を境に、バイエルン放送響とはさらなる蜜月となり、定期的にコンサートに招かれ、レコーディングでも起用されるようになったオーケストラ。
魔笛とリング、ダフネと、あまりに素晴らしいレコーディングもなされた名コンビ。
そのイメージがある方ならば、聴かずともわかる理想のミュンヘンのワーグナーサウンドが、ここにある。
この中世のドイツの物語をベースにいた手堅いオペラ、ハイティンクとバイエルン放送は理想的なオーケストラサウンドでもって完璧に再現してる。
オーケストラとして完全無比の演奏であるけれど、そこに歌がありドラマがあるとなるとちょっと浅い。
ハイティンクの人の好さとか温厚さが、この頃ではまだ音楽に厳しさや、オペラに必須のドラマ性を再現しきれていない。
数年後のリングの充実とはまた違った「ハイティンクのワーグナー」は、ともかく美しく完璧です。
 大好きなルチア・ポップの清々しいエリーザベトに、ドイツの深い森を感じさせるマイヤーのヴェーヌスも素晴らしい。
しかし、ケーニヒのタンホイザーがオッサンにすぎる、これが一番の難点なハイティンク盤なのでした。

⑧ ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場 (2001年)

Tannhauser-barenboim

80年代以降、ワーグナーの手練れとなったバレンボイムは、その頃からトリスタンとパルジファル、リングといった後半の作品ばかりを指揮していて、前半のロマンティークオペラはあまり指揮してなかったはずだ。
ベルリン国立歌劇場を引き継いだ1992年から2023年までの長期にわたる活動のなかで、ワーグナーの全作品を取り上げたマエストロ。
私たちになじみのあったスウィトナーのタンホイザーから18年。
東から西へ、タンホイザーも自由の名のもとに、その音楽も刷新された感が、スウィトナーとバレンボイム、ふたつの演奏を聴いて感じることができる。
政治的な時代背景の変化と国の在り方の変化、東と西、その違いを音源で聴き分けるのは至難の技ですが、陰りの失せた、曇り空のないワアーグナーの音はここに感じます。
しかしですよ、一方でスウィトナーが巧ますして聴かせていたドイツの森や篤い宗教心のようなものはなく、完璧な音楽表現のなかに失われてしまった部分かと思う。
 ザイフェルトの覚醒的なタンホイザーがすばらしく、あのころに売り出し中だったイーグレンは脂肪分過多で歌がぼやけ気味。
でも他の歌手はめっぽうすばらしく、マイヤーさんに、ハンプソンの贅沢ウォルフラムなど。
録音がすばらしく、歌手とともに、めっぽう素晴らしい。

手持ちの音源は以上で、バイロイトでの記録はエアチェック済だから購入してない。
カラヤンの演奏記録、シノーポリのDG録音は見入手であります。
なんでドミンゴだよ・・という不満で聴く気になれないのであります。

さて次は、映像部門、エアチェック音源部門にまいります。

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2024年7月16日 (火)

ラヴェル ラ・ヴァルス アバド、小澤、メータ

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平塚の七夕まつり、今年は7月5日から7日までの開催で、極めて多くの人出となりました。

オオタニさんも登場。

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なんだかんでで、市内の園児たちの作品を集めた公園スペースが例年通りステキだった。

スポンサーのない、オーソドックスな純な飾りがいいんです。

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こちらはゴージャスな飾りで、まさにゴールドしてます。

ドルの価値失墜のあとは、やっぱり「金」でしょうかねぇ。

去年のこの時期にラヴェル、今年もラヴェルで、よりゴージャスに。

いまやご存命はひとりとなってしまいましたが、私がクラシック聴き始めのころの指揮者界は、若手3羽烏という言い方で注目されていた3人がいました。
メータが先頭を走り、小澤征爾が欧米を股にかけ、アバドがオペラを押さえ着実に地歩を固める・・・そんな状況の70年代初めでした。

3人の「ラ・ヴァルス」を聴いてしまおうという七夕企画。

2023年の七夕&高雅で感傷的なワルツ

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 ズビン・メータ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

        (1970年 @UCLA ロイスホール LA)

メータが重量系のカラフルレパートリーでヒットを連発していた頃。
ここでも、デッカのあの当時のゴージャスサウンドが楽しめ、ワタクシのような世代には懐かしくも、郷愁にも似た感情を引き起こします。
現在では、ホールでそのトーンを活かしたライブ感あふれる自然な録音が常となりましたが、この時期のデッカ、ことにアメリカでの録音は、まさにレコードサウンドです。
メータの明快な音楽造りも分離のよい録音にはぴったりで、重いけれど明るい、切れはいいけれど、緻密な計算された優美さはある。
ということで、この時期ならではのメータの巧いラヴェル。
なんだかんでで、ロスフィル時代のメータがいちばん好きだな。

Ravel-ozawa

   小澤 征爾 指揮 ボストン交響楽団

     (1973.3 @ボストン・シンフォニーホール)

日本人の希望の星だった70年代からの小澤征爾。
こちらもボストンの指揮者になって早々、ベルリオーズ・シリーズでDGで大活躍。
次にきたのは、ラヴェルの作品で、この1枚を契機にラヴェルの生誕100年でオーケストラ曲全集を録音。
1枚目のボレロ、スペイン狂詩曲、ラ・ヴァルスは高校時代に発売された。
ともかく、小澤さんならではの、スマートでありつつしなやか、適度なスピード感と熱気。
カッコいいのひと言に尽きる演奏だといまでも思ってる。
しかし、発売時のレコ芸評は、某U氏から、うるさい、外面的などの酷評を受ける。
そんなことないよ、と若いワタクシは思ったものだし、新日フィルでのラヴェル100年で、高雅で感傷的なワルツと連続をて演奏されたコンサートを聴いたとき、まったく何言ってんだい、これこそ舞踏・ワルツの最高の姿じゃんかよ!と思ったものでした。
同じころの、ロンドン響とのザルツブルクライブもエアチェック音源で持ってますが、こちらは熱狂というプラス要素があり、最高です。

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        クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

        (1981.@ロンドン)

なんだかんだ、全曲録音をしてしまったアバドのラヴェル。
その第1弾は、展覧会の絵とのカップリングの「ラ・ヴァルス」
メータのニューヨークフィルとの「ラ・ヴァルス」の再録音も同じく「展覧会の絵」とのカップリング。
ラヴェルの方向できらびやかに演奏してみせたメータの展覧会、それとは逆に、ムソルグスキー臭のするほの暗い展覧会をみせたのがアバド。
アバドのラ・ヴァルスは、緻密さと地中海の明晰さ、一方でほの暗い混沌さもたくみに表現している。
1983年のアバドLSOの来日公演で、この曲を聴いている。
しかし、当時の日記を読み返すと、自分の関心と感動の多くは後半に演奏されたマーラーの5番に割かれていて、ラヴェルに関しては、こて調べとか、10数分楽しく聴いた、オケがめちゃウマいとか、そんな風にしか書かれておらず、なにやってんだ当時のオマエ、といまになって思った次第。
スピードと細かなところまで歌うアバドの指揮に、ロンドン響はピタリとついていて、最後はレコーディングなのにかなりの熱量と、エッチェランドで、エキサイティングなエンディングをかもし出す演奏であります。

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2年前の七夕の頃に暗殺された安倍さん、そしてあってはならないことに、アメリカでトランプ前大統領が銃撃を受けた。

世界は狂ってしまった。
しかし、その多くの要因はアメリカにあると思う。
自由と民主主義をはきかえ、失ったアメリカにはもう夢はないのか。
そうではないアメリカの復活が今年の後半に見れるだろうか。
日本もそれと同じ命運をたどっている、救いはあるのか・・・・

Tanabata

平和を!
平安と平和ファーストであって欲しい。

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2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


 ーーーーーー

このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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2024年6月30日 (日)

シュレーカー 「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 日本初演

Kiyose-1
               (東京都清瀬市のけやきホール)

日本ではいまだに本格的な舞台上演のないシュレーカーのオペラ。
唯一、演奏会形式では「はるかな響き」のみがあるのみ。
こうしたなかで、シュレーカーの作品のなかでも、極めてマイナーで、かつ独創的・実験的な「クリストフォロス」を果敢に取り上げ、上演に導いていただいだ田辺とおるさんをはじめとする関係者の皆様に、感謝と敬意を最大限に表したいと思います。

ヨーロッパでは、「はるかな響き」「烙印をおされた人々」「宝探し」の3作がメジャーな劇場で上演されるようになり、さらには地方の有力劇場でも、シュレーカーのオペラは取り上げられつつある。

そんななかで、今回の本邦初演は、作者存命中はあたわず、1978年にフライブルグで初演され、1991年にウィーン交響楽団でコンサート形式で演奏(メッツマッハー指揮)、その後はCDとして残された2001年でのキール上演以降の世界で3度目の上演、4度目の演奏なんです。
シュレーカーのオペラを全部聴いて、ブログに残そうとしている自分にとって、こんなまたとない日本初演の機会でした。
全10作あるシュレーカーのオペラ、ブログ記事は、作品としては7本目となります。
残りは3作ですが、最終の「メムノン」は未完作ですので、あとふたつは、すでに視聴済みで記事にできるように今後聴き込んでいきたいと思います。

あらためて、フランツ・シュレーカー(1878~1934)について、過去記事から引用しておきます。

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・
ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。
強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。どこか遠くで鳴ってる音楽。

クリストフォロス」は、シェーンベルクに捧げられた1929年完成の作品で、シュレーカーのほかのオペラ作品は次のとおり。
下線は過去記事へと飛びます。

 ①「Flammen」 炎  1901年
 ②「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年
 ③「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年 
 ④「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年
 ⑤「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920
 ⑥「Irrelohe」   狂える焔   1924~29年
 ⑦「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1929

 ⑧「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年
   ⑨「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年 
 ⑩「Memnon」メムノン~未完   1933年

Christophorus

この作品、唯一の音源、そして世界で2度目の上演のライブ。 
2001年から2003年まで行われたキールオペラでのシュレーカー・シリーズの一環で2002年のライブです。
音源としては耳になじませてはいたが、英語の解説を読んでもちんぷんかんぷんで、そのせいもあり弊ブログのシュレーカーのオペラシリーズもこの作品で足踏み状態だった。

この度の日本初演に接し、さらにyoutubeでのプレイベントや詳細なるプログラム、さらにはそこに全文掲載された田辺とおるさんの訳による台本、これらにより、おぼろげだった「クリストフォロス・・・」というオペラの姿が見えるようになった。
ほんとうにありがたいことです。

まずは、このオペラにはその伝説は直接に登場しないけれど、必ず頭に置いておかなくてはならないこと、「聖クリストフォロス」のこと。
公演パンフレットにあったものがとても分かりやすいので、ここに貼り付けます。
クリックすると別画面で開きます。(使用に支障ございましたらご指摘ください)

St-christphorus

オペラの登場人物

 アンゼルム(テノール):作曲家でヨハン先生の弟子
 リーザ(ソプラノ)  :ヨハンの娘、アンゼルムに思いを寄せていた
 クリストフ(バリトン):作曲家でヨハン先生の弟子、リーザと結婚
 ヨハン先生(バス)  :信望厚い作曲の先生で弟子多し
 ロジータ(メゾソプラノ:2幕で登場するシャンソン歌手
 シュタルクマン(シュプレヒ):評論家(シュレーカーの批判者のモデル)
 霊媒フロランス(ソプラノ):2幕でリーザを召喚するイタコ
 ハインリヒ(バリトン):ヨハン先生の弟子
 フレデリク(バリトン):ヨハン先生の弟子
 アマンドィス(バリトン):ヨハン先生の弟子
 エルンスト(テノール) :ヨハン先生の弟子
 子供(ソプラノ)    :クリストフとリーザの子
 ハルトゥング博士(バスバリトン):クリストフを観察する心理学的先生
 カルダーニ神父(バス・バリトン):霊媒師に付き添う神父
 待女エッタ(アルト)  :リーザの家政婦さん

シュレーカーのオペラの常で、登場人物は多く、そして多彩で多面的な存在で、それぞれに存在価値を示すのでまったく気が抜けないし、それぞれの歌手が、このオペラではシュプレヒシュティンメ的な存在を求められるので高難度。
歌と語りが混在し、語るようでいつの間にか長い旋律や絶え間ない変転を繰り返す歌へと常に移行するので、歌手はまったく大変だと思う。

オペラの構成

プロローグとエピローグを挟んで、2場からなる第1幕と第2幕とで構成
プロローグでヨハン先生から作曲の課題の提示があり、弟子たちが取り組む。
第1幕の本編以降は、作曲をするアンゼルムに、凡庸ゆえに作曲を卒業して愛に生きるクリストフ、悩み多きリーザの3人を中心とした劇の展開となり、劇中劇の様相を呈する。
さらに、この劇中劇は2幕の後半では、さらなる劇のなかの劇的な展開となり、劇中劇の劇となり、エピローグにつながり、調和和声のなかに音楽と劇も閉じる。
こうした構成が、音源ふだけではマジでややこしく、わからなかった。

オーケストラ

通常の編成に加え、ミュージカルソーという手鋸を弦で弾く珍しい楽器、ピアノ、チェレスタ、ギター、バンジョー、サックス、ハーモニウムなど当時の新機軸ともいえる楽器が総動員されている。
そして、作者の指示で、曲の冒頭や各幕の頭には、鐘が鳴らされる。
宗派によっては、聖クリストフォロスが守護聖人のような存在とされることへのリスペクトでありましょうか。
 今回の上演では、弦楽は最小限に抑えられたアンサンブルとし、金管・木管・打楽器などは2台のエレクトーンで代用。
これが普段聴いていたCDとほぼ類ない再現度合いで、むしろ緊張の度合いや、音楽への集中力を高める効果もあったことは大絶賛していい。

Christphorus-1

 シュレーカー クリストフォロス、
           あるいは「あるオペラの幻影」


   アンゼルム:芹澤 佳通   リーザ:宮部 小牧
   クリストフ:高橋 宏典   ロジータ:塙 梨華
   ヨハン先生:岡部 一朗   シュタルクマン:田辺 とおる
   霊媒フロランス:大澤 桃佳 ハインリヒ:金子 快聖
   フレデリク:上田 駆    アマンドゥス:長島 有葵及
   エルンスト:西條 秀都   子供 :長嶋 穂乃香
   ハルトゥング
博士/司会者:ダニエル・ケルン
   ガルダーニ神父:ヨズア・バルチュ
   待女エッタ:中尾 梓
   ピアニスト:小林 遼、波木井 翔
   ホテルの客:小野寺 礼奈、小林 愛侑、西脇 紫恵

  佐久間 龍也 指揮 クライネス・コンツェルトハウス
          エレクトーン:山木 亜美、柿崎 俊也

   演 出:舘 亜里沙

   公園監督:田辺とおる

          (2024.6.23 @けやきホール、清瀬)

プロローグ

アンゼルムは、思いを寄せる教師の娘リサのことを考えているが、作曲コースの同僚のハインリヒ、アマンドゥス、エルンストは彼を「女々しい」「愚か」「恥さらし」などとからかっている。
聖クリストフの伝説について弦楽四重奏曲を作曲するという課題をヨハン先生が生徒たちに与えていた。
ヨハン先生は、この伝説を生徒たちに順繰りに語らせ、生徒たちも素晴らしい素材だと熱狂する。
 アンゼルムはその仕事に不満を抱き、四重奏曲ではなく、ドラマテックなものを求める。
「甘くて魅惑的な悪魔のような女性」が欠けていると語る。
伝説における悪魔の役割は、リーザによって演じられるべきだと確信し、陶酔する。
リーザがやってきて、不埒なことを言うのではなくてよと、彼女は彼の顔を殴ります。
ひざまずいていたアンゼルムはそこへやってきたクリストフに引きずり上げられ、恥を知れと侮辱。
クリストフはヨハンの作曲クラスに参加して「私が最高だと思う芸術に奉仕」したいと歌う。

第1幕 1年後

アンゼルムはオペラの制作に取り組んでいる。
モノローグでは、インテッルメッツォという名でひとつの幕を加えると歌う。
 彼やヨハン先生の両方に敵対する批評家シュタルクマンが訪ねてくる。
婚約したという若いクリストフに会いたがっているが、アンゼルムはクリストフをこきおろす。
 アンセルムは仕事を続け、エピローグの仕立てに悩み、伝説の存在が頭をめぐるといらつく。

クリストフとリーザやって来て、クリストフはシュタルクマンが彼の交響曲の演奏を推薦したいといったと報告する。
アンゼルスとリーザの間ではいさかいがいまだに残る。
クリストフはアンセルムスを擁護し、よく話しをしなさいと出ていく。
彼女がアンゼルムを怖かったのは彼女が戦おうとしている自分自身のなかにあるなにかの存在の一部に似ているからである。
アンゼルムは感情を爆発させ、あのときからあなたに縛られ鎖につながれていると激しく歌い出ていく。
リーザはショックを受け飛び出していく。

ヨハン先生は 、教師として、また人間としてもの自分の失敗についてクリストフに反省とともに語る。
クリストフは、愛が最も強い力であると強調し、けっして芸術ではないと歌う。
愛であるリーザに今後は使えたいと熱く語り、そこに居合わせたリーザも最愛の人と感激する。
 他の生徒たちは彼女の婚約を祝福するようにいろいろなプレゼントを捧げ、。レデリクは完成した弦楽四重奏曲を捧げる。
シュタルクマンの登場にヨハン先生は困惑するが、クリストフはこれを許し記事の作成も許諾。
そこで、クリストフは、芸術との別れを宣言する。
アンセルムスはリサに自分のオペラの第 1 幕を贈り物として贈る。「弱きものは、永遠で人生と世界を浄化する」と語る。

リーザの部屋。リーザは出産後、自分が美しくなくなったと感じて悩む。
クリストフはアンゼルムに嫉妬していて、そのオペラではリーザが「液体ガラスのように流れ輝き、繊細で銀色、邪悪で狂気の音楽」に合わせて踊ることになっていると歌う。
クリストフはベールのコスチュームを見て怒りに燃える。
クリストフは母としての聖なるものをリーザに感じるが、子供を運ぶことは、リーザにとっては重荷であると考えている。
クリストフは同情はするが、子供のこと、わたしのことも考えてと彼女に警告し去る。

アンゼルムが登場し、自分のオペラの大きな場面が始まろうとしていることを認識。
リーザは、炎、波、罪という地球の精霊の3つをアンゼルが朗読したテキストに合わせて踊る。
踊りながら罪とはなんて柔らかいのだろう、しかし罪は人を滅ぼすと歌いつつ、その罪は勝利すると陶酔。
「あなたは私を思い通りに創造した、私のなかで踊る悪魔を呼び出した」
やがてふたりは抱き合う。

アンセルムスが自分の仕事のコントロールを失っていることに気づくが、、クリストフはその場面を見てしまった。
笑っているのは悪魔だ、死ねと激しく笑い始めたリーザを撃ち殺す。
リーザは「ただの遊びだったのに…」と言い残して息を引き取る。
アンゼルムは捕まるまえに、クリストフを君がすきだからと逃避行を手伝う。

第2幕

ホテル・モンマルトル
アンゼルムとクリストフがジャズバンドで演奏するダンスホール。
ダンスホールともう一方にはアヘンの煙が立ち込める奥の部屋。
ハインリヒは心理学者の博士と一緒に座っている。
ハルトゥングは奥の部屋にいて、彼が唯一認め、逮捕から守りたいと思っているクリストフを救出する計画を立てています。
しかし、ハルトゥングは主にクリストフを心理学的に興味深い症例として見ており、ハインリヒは物乞いへと陥ったヨハン先生とその孫を助けに行く。

シュタルクマンはいまでは海の向こうの音楽に未来を見ている。
ロジータがアンゼルムのシャンソンをピアノ、サックス、ドラムの伴奏で歌ってている間、クリストフはアヘンをやり酩酊のなかにはいりこむ。
司会者に導かれ、霊媒師が死者を呼ぶことができる、みなさんのなかで誰か?と誘うとすかさずクリストフが手をあげる。
アンゼルムはことのなりゆきに、怒り、私の最終章は陳腐で感傷的なものになりさがると嘆く。

禍々しい雰囲気のなか、霊媒師フロランスとクリストフの対話が続き、クリストフが自分が殺し、最後の言葉は、ただの遊びだったとのことを告白。
霊媒師は興奮して、彼ら来る、はここにいると金縛りに会う・・・・

場は変わり、早朝の光のなか、老いたヨハン先生と子供がそれぞれギターとタンバリンを持って出てくる。
子どもは歌う、親愛なるみなさん、どうかお恵みを、僕には父も母もいません、喜んで歌います・・・ラ、ラ、ラ、春風に凍えている、お恵みを、と涙を誘います。
クリストフは目が覚めたようにふたりのもとへ駆け寄る・・・・

        間奏曲

エピローグ

目に見えない声が、老子の『道徳経』の文章を読み歌う。
ここは長く、極めて難解、ここを読み解くのは、今後の課題だし、シュレーカーの音楽の鍵にもなる部分と知った。。。

プロローグと同じ音楽たちの部屋。
アンゼルムはヨハンとリーザに見守られながら、楽譜が足元に乱れ、完成できないオペラに休みなく取り組む。
我が子の世話をするクリストフに話しかける。クリストフと子供はヨハンとリサには見えない。
クリストフは芸術も愛も乗り越え、罪悪さえも制服した、かつて同名の祖先が皇帝と悪魔に仕えたように、地上のあらゆる権力に身を捧げた。
しかし、舞台の中でしか生きることができなかったと淡々と語る。
これにアンゼルムは傷ましい真実、彼は創造主となり、私たちは幻にすぎないと嘆く。
このアンゼルムに対し、リーザは同情し、わたしのせいだと父に救いを求める。

アンゼルムにしか聞こえないクリストフの独白は続く。
子どもに向かい、その目に映る唯一の神格を認め、仕えたいと表明しいかに謝罪するか、最後の慈悲に値するかを問う。
アンゼルムは、そんなの黙れ、ヨハン先生も聞いているとささやく・・・
子どもは、わたしを背負って水のなかを運んでください、僕はますます重くなる、私たちは沈み溺れる・・・そして光のなかで燃えつきる。
お父さん、この苦しみを終わらせてと歌う。
私を家まで連れていって、家へ、家へ、来た場所へ・・・・
クリストフは、子どもを連れて舞台奥へ静かに歩み去る。

ヨハン先生は、アンゼルムに、お前は心の声を聞いている、お前の創った人物はお前のなかに生き、自身となる。
音楽であってそれ以上のものではない、四重奏曲なのだ、息子よ。と語る。

「アンダンテ・コン・リゴーレ」、黒板に向かい作曲の筆をとる。

「彼は子供を背負い、子供が彼を導く、孤独な道を」

音楽は四重奏による平穏な調と和声となり、最後はオーケストラも相和し、平和な雰囲気のうちに閉じる。

                

長いあらすじを起こしてしまいました。
田辺さんによる翻訳台本、CDのリブレット、ネット上の書き込みなども参照にしました。
こうしたオペラは、数年すると、その内容もおぼろげになるので、あとで見返す自分のためにもです。

本編の劇中劇のなかでも、アンゼルムは劇から飛び出し、劇中劇のなかの劇にまで進んでしまう。
マトルーシュカのような多層的なオペラだけれど、これを2時間の枠に収めたことで、展開が性急となり、理解が及ばないという恨みもあり。

しかし、こんな馴染みのない作品を、今回、見事に間断なく歌い演じた歌手のみなさんは大いにリスペクトすべきであります。
ダブルキャストで、わたしは2回目の上演でしたが、その素晴らしい舞台に接し、また前日はクロスするように交換した役柄もあり、双方を確認してみたかった。

没頭的かつ熱狂的なアンゼルムを歌った芹澤さんは、その姿もスタイルもまさにシュレーカーのオペラに相応しい声と演技でした。
リーザの宮部さん、CDでのベルンハルトは、やや不安定な歌唱がまさに揺れるリーザに相応しかったのですが、彼女の正確な生真面目な歌唱が、逆にリーザの複雑な心理とその存在を歌いこんでいたのではと思った。
いくつもダンスのシーンもあり、これは難役だと思いました。
それとクリストフ役の高橋さん、暖かいバリトンは、途中、嫉妬に走り、さらには狂気の世界に入る投役には優しすぎるかとも思いましたが、でも最後に到達した境地を淡々と歌った場面で、これもまたいい役柄でもあり、素敵な声と演技と認識しました。

この上演の立役者、田辺さんの憎たらしい評論家も存在感ばっちり。
最後の舞台挨拶でおっしゃってましたが、「ヴォツェック」からの冒頭場面、大尉がヴォツェックにむかって言う「Langsam Wozzeck、Langsam・・」このフレーズを、評論家の言葉のなかに入れたらしい。
そう、わたしも「あ!」と思いました。
ヴォツェックやベルクもこのオペラをひも解くキーだと思うので、まったく見事としか言いようがありませんね。

若い学生たちも、みなさんそれぞれに立派で力強い声で、その声はしっかりと客席に届きました。
霊媒さんも、子供の無垢な雰囲気も、いすれも声も姿も可愛い存在でしたね。
ふたりのドイツ人出演者、正直、ドイツ語のほんものぶりは、際立ってました。
とはいえ、語りの多いこの難解な作品を、原語上演で完璧に仕上げたこのプロダクションは、日本人として誇るべき精度の高さと音楽性の豊かさ、共感力の高さにあふれたものでした。

ウィーンで学び、オペラの経験も厚い佐久間さんの、適格な指揮もよかったです。
エレクトーンと弦楽アンサンブルで、ここまで雰囲気よくピットのなかのオーケストラが再現できてしまうことにも驚き、素晴らしく感じましたね。

比較的小ぶりなホールで制約のあるなか、全体をコンパクトにまとめつつも、緊張感ある舞台に仕上げた演出の舘さん、実によい出来栄えだったと思います。
ともかく簡潔でわかりやすい、これがいちばん。
紗幕のうまい使い方で、劇中劇と前後のプロローグ、エピローグの対比がしっかりできた。
100年前の社会様式が、いまでは陳腐ともなりかねないが、それが今の世の中にぴったりフィットするような動作や所作。
光と影を巧みに表現。
アヘン窟ではスモークでその怪しげさ満載の舞台となり、そこにいた、それぞれの思いをもった人物たちの怪しい思いがよくわかる仕組みに。
このように、ともかくわかりやすい舞台を仕上げてました、日本初演の舞台として、この簡明さは大正解だと思いました。

このあと、シュレーカーのこの音楽の印象や、自分が思った聴きどころなどは、追加で補筆したいと思います。

Kiyose-3

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