2022年8月 7日 (日)

バイロイト ブーイング史

Bayreuth

絶賛開催中のバイロイト音楽祭。

3年ぶりにフルスペックでの通常開催。

しかし、目玉のひとつ、新演出の「ニーベルングの指環」が賛否両論の大炎上。

4夜を聴き終え、各幕では歌手を讃えるブラボーが飛び、4作すべての終幕では総合的な評価として激しいブーイングが浴びせられました。

73年頃から聴きだしたバイロイト音楽祭の放送、今年ほどの激しいブーはちょっとなかった。

ということで、70年代以降の放送のみから記憶する、バイロイトのブーイング史をたどってみるという企画です。

激しさは別、年代順のブー記録。

①「タンホイザー」1972年 G・フリードリヒ演出 ラインスドルフ指揮

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 東ドイツ圏から登場のフェルゼンシュタイン系の演出家フリードリヒは、当時は先鋭で、巡礼者にナチスを思わせる軍服を着せ、これが盛大に炎上した。
音楽面でも数十年ぶりに復帰したラインスドルフが不調で、こちらも不評で、シュタインに初年度から変わった。
1951年のハルトマン以来の外部演出家、エヴァーディングが穏当なオランダ人で、その次に来たのがフリードリヒ。
あとのローエングリンは絶賛され、パルジファルは、ワーグナーの血をひかない演出家による初のものだったが、さほどに批判もされず。
でも指揮のレヴァインは嫌々指揮してたとかのエピソードあり。

②「ニーベルングの指環」1976年 P・シェロー演出 ブーレーズ指揮

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これこそ、バイロイトの最大のブーイングを浴びたプロダクション。
産業革命時代にしたその舞台、時代設定を動かしたことも、もしかしたらバイロイト初だし、当時先端を行ってたドイツの演出でも斬新。
しかし、70年代から、新バイロイト様式への反発がドイツ各地で生まれ、カッセルなどでは目を見張る演出が行われつつあった。
そんななか、シェローが、こともあろうにバイロイトで、しかもバイロイト100年という記念の年にやってしまった。
抽象的かつ簡潔を旨としたバイロイト様式と、すべて真反対の具象化、時代置き換え、大げさかつリアルな演技がシェロー演出。
肩車した巨大なリアル巨人や、残虐なまでの殺害シーン、アルベリヒは指ごと切られ血しぶきが舞う。
当時の穏健な演出になれた聴衆には、戸惑うことばかりだし、よりによってそこは聖地バイロイトだった。
シェローを強く推して、ウォルフガンク・ワーグナーを説得したブーレースの指揮も準備不足で、スコアを追うのに精いっぱい。
有名な話ですが、団員がふざけてブルッフのヴァイオリン協奏曲を弾いても、指揮者はわからなかったとか。
そんなことで、4夜すべて録音しながら年末を過ごした、当時の大学生だったワタクシは、初めて聴くブーイングの激しさに驚いた。
なんでも、黄昏の終演では、客同士が小競り合いを起こし、警察も出動したとか。
バイロイトの当主、ウォルフガンクにも非難があつまり、シェローに「指環から手を引かせる」会みたいなのが組織され、抗議活動がなされた。
しかし、シェローは、演出を少しずつ改善し、ブーレーズも瞬く間にリングを手の内にして、楽員を関心させてしまった。
年を追うごとに、ブーは鳴りを潜め、ブラボーが勝るようになり、最終年度は完璧に出来上がったプロダクションとなった。

このシェロー&ブーレーズのリングは、バイロイトが戦後の新バイロイト様式と決別し、本来のワーグナーが目指した実験劇場としての存在に、再び、新バイロイトの精神と同じように立ち返った画期的な上演となりました。
こうしたターニングポイントには、当然ながらブーイングはつきものだろう。

③「さまよえるオランダ人」 1978年 H・クプファー演出 D・R・デイヴィス指揮

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東側から社会派演出家クプファーの登場と、黒人歌手エステスの登場で話題になった。
初版の救済のないバージョンで、ゼンタの精神分裂的な妄想として描いた斬新な演出で、荒々しい初版の音楽とともに、初年度は観客の拒否反応にあった。
しかし、クプファーはこれで西側でも高名になり、数々の名舞台を作り上げるようになる。

④「ニーベルングの指環」 1883年 P・ホール演出 ショルティ指揮

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シェロー演出の反動のように、ト書きに忠実に、ロマンティックなリングを目指した、フレンチ組に対するブリテッシュ組のホール演出。
一糸まとわずプールで泳ぐラインの乙女たちを巨大な鏡に映しこんだりと、大がかりな仕掛けが話題を呼んだが、ドラマへの求心力不足は否めなかったとの評が多い。
ピットを覆う天井を取り払い、直接的なサウンドを狙ったショルティの試みだが、劇場の優れた音響を活かしきれず、格闘するショルティがオケを煽るようにして、今聴いてもやたらと速くてせわしない。
ベーレンスのブリュンヒルデが大輪の花を咲かせた。

⑤「ニーベルングの指環」 1988年 H・クプファー演出 バレンボイム指揮

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レーザー光線を巧みに使い、SFタッチ、近未来的な社会派ドラマを作り上げたクプファーの凄腕。
初年度は聴衆の戸惑いと、バレンボイムの指揮の空転ぶりがブーを浴びた。
それ以降はシェローと並ぶ、ワーグナー兄弟以降の最高のリングのひとつと評されている。

⑥「パルジファル」 2004年 シュルゲンジーフ演出 ブーレーズ指揮

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あらゆる宗教の神々を登場させ、アフリカの土着宗教までもが表現されたらしい。
ウサギが腐り、う〇がわく様子を映像で見せたりと、ともかくパルジファルからキリスト教的な神聖なものをすべて洗いざらい捨て去ることが主眼だった様子。
この演出、映像はおろか、舞台写真も少なめ。
とんでもないブーと口笛ピーピーの応酬。
 ブーレーズはそんな舞台はどこ吹く風、30年以上前のヴィーラント演出時の演奏とまったく変わらないところが恐ろしい。
このプロダクションは4年で引っ込められた。


⑦「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 2007年 カタリーナ・ワーグナー演出 ヴァイグレ指揮

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ワーグナーのひ孫の初バイロイト演出で、なにかやってやろうという意欲が空回り。
美術学校を舞台に、妙な性描写、デフォルメされた顔人形など、客観的にもその意図が混迷。
ザックスとワルターとに保守と革新を代弁させ、バイロイトとワーグナー家の行く末なども暗示か。
お馴染みのヴァイグレさんも、だんだんよくなったし、フォークトという歌手がここから新たなワーグナー歌手として活躍するようになった。

⑧「ローエングリン」 2010年 ノエンフェルス演出 ネルソンス指揮

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お騒がせオジサン、ノイエンフェルスの遅すぎたバイロイト登場。
ネズミ王国、しっぽとハゲ鬘にお笑いを誘いつつ、飼いならされる群衆=ネズミ軍団、おどおどした独裁者の王様、エルザとオルトルートの均一性などを巧みに描き、そこに迷い込み脱出を試みたローエングリンや、キモイ跡継ぎなど、情報過多に初年度は理解不能で笑いとブーが。
指揮と歌手は、絶賛。

⑨「タンホイザー」 2011年 バウンガルテン演出 ヘンゲルブロック指揮

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これは観た瞬間にアカンと思った。
第一、キモイ。
ヴェーヌスの妊娠、爬虫類の登場、化学薬品の工場、バイオハザードなタンホイザーなんてクソだった。
1回見ただけでもう勘弁。
ヘンゲルブックもすぐに降りてしまった。
4年で打ち切りの刑。

⑩「ニーベルングの指環」 2013年 カストルフ演出 ペトレンコ指揮

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ペトレンコの指揮にのっけから注目が集まり、その指揮と強靭かつビビッドな音楽は絶賛。
しかし、ラインの黄金から、アメリカのR66沿いのSSやラブホが舞台の猥雑さ、通じて石油をリングに見立てたような設定で、社会主義の限界資本主義の矛盾など、ワーグナーの音楽の本質からはずれたイデオロギーをぶち込もうとして失敗した感じ。
4作が脈連なく感じたのも、逆に面白く、4作が別々でもよかったモザイク的なリング。
ペトレンコの指揮がもったいなかった。

⑪「タンホイザー」 2019年 T・クラッツァー演出 ゲルギエフ指揮

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クラッツァーの前歴を知ってたので危ぶんだが、これがまた実に面白かった。
タンホイザーにLGBTや階級格差、自由への渇望などを巧みに盛り込んだ演出で、それこそ、今風で、かつ映像を巧みに用いたDVD・動画を意識した演出だった。
めっちゃ面白かったけど、でもこれ、タンホイザーじゃないんじゃね?とも思った次第。
忙しすぎのゲルギエフの練習不足もたたり、ゲルギーも批判され、なかば追い出されるようにして首になってしまった。

⑫「ニーベルングの指環」 2022年 シュヴァルツ演出 マイスター指揮

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コロナで苦節2年の順延、しかも、予定のインキネンもコロナでこけてしまい、練習も2週間もないままに、マイスターが担当。
待ちに待った「リング」の聴衆の反応は、シェロー以来の、いやそれ以上のブーイングを浴びた。
「黄昏」のみが映像化され、ドイツ国内限定で視聴が可能。
工夫して観ることも出来なくはないが、どうもそんな気もしないし、4部作全部を観ないと、その演出意図もわからないだろう。
画像と海外評のみから読み解くのも、今回の33歳の若いシュヴァルツ演出はそうとうに入り組んでるし、伏線やギャグもやたらと多そうだ。
演出家いわく、ネットフリックス風としたように、画像はまるでアメリカのファミリードラマ風で、衣装も原色だったりキラキラ系だったりで、神々や巨人の姿は造像できないし、ハーゲンなんて黄色いポロシャツ1枚のカジュアルぶりだ。
また本来は登場してこない人物も、平気で出てくるし、写真からは推し量ることができない。

「パルジファル」が、いまやその神聖性をはく奪されてしまったように、シュヴァルツは、「リング」から、あらゆるリング的な要素をすべて消し去ることをしたのではないか、と思う。
ライン川、黄金、槍、剣、炎、森・・・・なにもないらしい、ワーグナーが微に入り細に入り散りばめたライトモティーフは、なにを意味するのか、この舞台ではまったく意味をなさずに鳴り響いたのだろう(か?)
ウォータンが手にしたたのは槍じゃなくてピストル。
ジークフリートは防弾チョッキ着てるし、ブリュンヒルデを守る愛馬グラーネは、ピストルもった男だった。
ワルキューレたちは、美容整形に夢中で、鼻・あごなどを整形中で包帯まきながら、みんなスマホに夢中ww
アルベリヒはラインの黄金では、少年を誘拐し、きっとこれが4部作を通じる「子供」がキーポントなんだろうと想像。
黄昏のラストシーンも、そこに落としどころがあるらしい。

はたして、このシュヴァルツ演出が、半世紀前のシェロー演出のように名舞台として今後受け入れられるだろうか。
もしくは、実験で終わるのだろうか。
どちらになるにしても、ブーイングを覚悟に、こうした演出を聖地に持ってきたワーグナー家の末裔、その姿勢は正しく勇気があると言えるだろう。

指揮のマイスターにもブーイングは容赦なかった。
ときに揺らしたり、伸びたりといった場面はあったが、もしかしたら舞台の進行に合わせてのことだったかもしれない。
わたしは、面白く新鮮に聴いたがどうだろう。
お馴染みのブリュンヒルデを歌ったテオリンさまにもブーが。
強烈なくらいに巨大な声は相変わらずだが、今回は言語不明瞭と非難された。
指揮者の交代があったように、歌手も急な交代がいくつか。
ワルキューレでウォータンのコニュチュニーが椅子からこけて、ギャグかと思われたが、怪我をして3幕はカヴァーだったグンター役が登板。
めっちゃ張り切ったけど、ラストの告別シーンで失速。
神々のジークフリート、超人グールドが体調を壊し、これもカヴァー役のヒリーに交代し、彼は見事に歌った。
ベルリン・ドイツ・オペラのヘアハイムのリングでのジークフリートだった彼。
ウォータンで活躍したドーメンがハーゲンで復帰し、その暗めの声が実によかったし、シャガーのジークフリートが実に素晴らしい出来栄え。
歌手は、総じてよかったが、あの演出で細かな演技をしながらと思うと、昨今のオペラ歌手はたいへんだな、と思う次第だ。



ここに書いたものは網羅できませんでしたが、激しいブーを動画にまとめてみました。

ちょっと疲れる10分間ですが、今年はことにすごい。

ブーも疲れるだろうに・・・・

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2022年7月30日 (土)

ワーグナー トリスタンとイゾルデ ポシュナー指揮バイロイト2022

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ある日のビルとビルの間から見た青空、そして街路樹の緑がうまく取り囲むようにしてうまく撮れた。

半世紀前なら、こんなお洒落で自然豊かな通りではなかった丸の内の中通り。

7月25日にプリミエを迎えたバイロイト音楽祭。

「トリスタンとイゾルデ」の舞台画像をみて、自分が写した写真を思い起こした次第。

画像はすべてバイエルン放送より拝借してます。

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  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:ステファン・グールド
    イゾルデ :キャサリーネ・フォスター
    マルケ王 :ゲオルグ・ツェッペンフェルト
    クルヴェナール:マルカス・アイフェ
    ブランゲーネ :エカテリーナ・グバノヴァ
    メロート :オラフール・シグルダルソン
    牧童   :ヨルゲ・ロドリゲス・ノルトン
    舵手   :ライムント・ノルテ
    若い水夫 :シャボンガ・マキンゴ

  マルクス・ポシュナー指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:ロラント・シュヴァーブ
      装置:ピエロ・ヴィンチグエッラ
      衣装:ガブリエーレ・ルップレヒト

          (2022.7.25 @バイロイト)

バイエルン放送協会により、ネット同時放送がされ、すぐさまにストリーミング配信もされたので、即日に効くことができました。

音質の良さは、申すまでもなく、ドイツの放送局のネット配信はどこも質が高く、ひとつも乱れることなく聴くことができる。

まいどのことですが、こうして毎夏、バイロイトの音をすぐさまに聴くことのできる幸せは、昔だったら考えられないこと。

コロナ禍により、2年前、新演出上演される予定だった「リング」が中止となり、昨年もコロナで準備も整わず順延。
もともと予定されていた「トリスタンとイゾルデ」と、延期になった「リング」通し上演が今年2022年の目玉となりました。
このふたつの大きな作品を新演出しようとカタリーナ総裁をはじめ決意できたのは、パンデミックの温床となってしまう合唱団の登場が少なめだっただからとか。

それでも一波乱あり、リングのインキネンはコロナで出演不可となり、トリスタンの指揮予定のマイスターがリングに。
急きょ、穴の開いたトリスタンを指揮したのがポシュナーでしたので、今年は新演出への注目と、2回のリハーサルで挑んだポシュナーの指揮に注目が集まりました。

ミュンヘン生まれのポシュナーはドイツとオーストリアを中心に、多くのオーケストラとオペラハウスで活躍してきた指揮者で、アーヘンの歌劇場、スイス・イタリア語放送オケ、リンツ・ブルックナー管などのポストを歴任。
地味だけど、手堅い実力者で、パルジファルと使徒の饗宴を組み合わせたCDや、全集進行中のブルックナーの一部を聴いたことがある。

前奏曲が始まると、最初は燃焼不足ながら、すぐにいい感じになってきて、自分的にはいい速度を保ちつつ、余剰なタメは少なめ、適度なうねりも効果的で、幕が開いて水夫、そしてイゾルデが歌いだすと、オーケストラの音たちは舞台上のドラマ・歌手の歌と均一化して一体化して全3幕、最後までだれるところが一切なく、息も切らさず集中して聴くことができた。
テンポも走りすぎることなく、適切だし、ここはというときの爆発力も備えていて万全。
オーケストラだけでも、今回のトリスタンは、わたしは成功だと思う。
このよきトリスタンが、今年は2回しか上演されないのももったいないと思う。

40度近くになったドイツの猛暑のなか、歌手たちは体調管理も大変だったであろう。
主役級で、一番安心して聴けて安定してたのがツェッペンフェルトのマルケ。
この美しくも深く、滋味深い声は、年々よくなると思う。
いまや最高のマルケであり、グルネマンツだ。

アイフェの友愛あふれるクルヴェナールも、このバリトンにあった役柄だけに素晴らしく聴けた。
今年は、トリスタンとタンホイザーでグールドとのコンビだ。
クルヴェナールの死は、なかなかに泣かせました・・・

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カストルフのリングでブリュンヒルデをすべて歌ったイギリスのフォスターも、かつてのグィネス・ジョーンズに次ぐブリテッシュワーグナーソプラノとして、わたしの好きな歌手で、イゾルデに回った今年も、疲れを見せぬ安定した歌唱でした。
彼女のTwitterをフォローしたら、気軽に返してくれて、どこでいま何を歌っているかがわかり、身近な存在となりました。
今年のイゾルデの舞台写真をみたら、なんだか前首相メルケルさんに似てるな・・と思ったり。

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対するグールドの八面六臂の活躍ぶり。
トリスタンを2回、タンホイザーを4回、黄昏のジークフリートを3回!
今年60歳になったグールド、その疲れを知らぬ力強さと親しみやすさを持った声は今年も健在で、このタフマンにバイロイトは本当に救われていると思う。
しかし、贅沢な欲をいえば、聴き慣れすぎて、トリスタンの声には、若々しさをともなった、孤独と気品をさらに求めたい気も。

グバノヴァのブランゲーネも悪くなくて、フォスターとの声の対比と、イゾルデの反面的な存在意義も、よく出ていた。

ほかの端役諸氏は、年々知らない名前が連ねるようになった。
そしてなかなかの多国籍ぶり。

歌もオケも、充実のトリスタン、ちょっと褒めすぎかな。

しかし、驚くべきことに、「愛の死」がまだ鳴り終わってないのに、聴衆からは拍手が巻き起こってしまった・・・・・・

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ブーイングのない新演出って、もう何年振りだろうか。
1幕からブラボーが飛び交い、終幕は前段に述べた通りのありさま。

それだけ、よけいなことをしなかった、シュヴァーブ演出は、写真だけ見るとなかなかに美しく幻想的な「トリスタン」で、聴衆は思わず、こんなの待ってましたとばかりに熱狂したのでしょうか。

写真だけで批評はできませんが、いくつかの断片や、ニュース映像、ドイツ各紙の反応などを見ると、いずれも好評で、「星・波・色」の3要素を巧みに使い悲劇でなく、また分断でもなく、愛のある未来を描いたようだ。

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最初の3幕の画像にあるリングのようなものは、最初から据えられていて、2幕では、恋人たちはここに水が満たされて飲まれてしまう。
恋人たちを上からのぞき込む若い男女、イゾルデの愛の死の後には、年老いた男女の恋人がこれを見守る・・・といった風なことを読みました。
なんか、美しいと思う。
コロナで世界中の人々の心は荒んでしまった。
リングは、嫌な予感もしなくもないが、いまオペラの演出は、妙にこねくり回し、解釈を施すより、心に響くもの、そんな愛のあるもの、ワーグナーの音楽に満ち溢れるものにして欲しいものだ。

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これは、メロートの刃を見立てたネオン管が降りてきて・・・という2幕のシーン。

暑いけど、とんでもなく暑いけど、ワーグナーは最高だ💓

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今年のバイロイトでは、スタッフか関係者で、性被害だが差別だかが行われたとかなんとかでもめたらしい。

世界はほんと、そんなことばかりだし、告発や被害仕立てもSNSであっというまに拡散し炎上する。
もう、そうしたようなことも飽きたし、やめて欲しい。
静かに過ごしたいし、目にもしたくない。

バイロイト音楽祭の終盤は、ネルソンスによりオーケストラコンサートが2回あり、ここでは、オランダ人、タンホイザー、トリスタンの断片が演奏されるが、歌手はフォークトとフォスター。
フォークトのトリスタン(2幕)が聴ける。

来年のバイロイトは、パルジファルの新演出が、カサドの指揮、カレヤのタイトルロールで。
タンホイザーの指揮に、ふたりめの女性指揮者ナタリー・シュトゥッツマン。
シュトゥッマンは、歌手から指揮者となり、こんどはアトランタ響の首席にもなることが発表され、各オペラハウスでもその活躍が著しい。
はやくも、来年も楽しみなバイロイト。

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2022年7月20日 (水)

ワーグナーの夏、音楽祭の夏、はじまる

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平塚市の大磯町との境目にある「湘南平」。

5月でしたが、ほぼ半世紀ぶりに行きました。

戦時中には、B29をねらう高射砲が据えられたが、平塚大空襲のときに爆破されてしまった。

いまでは、恋人たちが、ここに鍵を結ぶ平和なデートスポットになっていて覚醒の感があります。

子供時代、わたしの住む隣町にも防空壕が多くあり、怖いけどもぐったりしたものですが、これは予測された米軍の相模湾上陸に備えてのものだと大人になってわかり、身震いがしました。

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目を東京方面に転じると、江の島と三浦半島が見えます。

手前は烏帽子岩に、平塚港。

天候不順なれど、夏来たり、そして国内外に音楽祭の季節。

悲しみと不安のなかにありますが、音楽界は平常運転で、夏がめぐってきました。

ヨーロッパ各地は現在、記録的な猛暑にみまわれ、イギリスでは40度を記録・・・

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夏の音楽祭といえば、わたしにはバイロイト

初めて買ったワーグナーのレコードが、突如として現れた「ベームのリング」。
そのときの予約特典が、2枚組のハイライト盤で左の画像。
そのあと、フィリップス社が既存の名盤、サヴァリッシュのオランダ人、タンホイザー、クナッパーツブッシュのパルジファルをセットにして発売。
そのときのサンプラー廉価盤が右の画像。
このとき、はじめて世評高い孤高の名盤とされた「クナのパルジファル」に接し、さわりだけだったけど、神々しい感銘を受けたものです。

こうして、ともかく私のワーグナーはバイロイトあってのもので、年末に放送されるNHKの放送を必死に録音し、あの劇場のサウンドを脳裏に刻み付けてきました。
年末でなくとも、リアルタイムでバイロイトの現地の音や映像がすぐさまに確認できるようになった現在。
コロナで変則的な上映が続いたここ2年、今年はフルスペックで予定通りの上演になるかと思いきや・・・・

2022年の上演作品は、新作が「トリスタンとイゾルデ」と「リング」、再演が「オランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」ということで、新演出が2本と前期ロマンテックオペラ3作が揃って上演されるという珍しい年となりました。

2020年に予定されたプリミエから2年経過してとうとう上演される、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出による「リング」。
指揮者のインキネンがコロナにかかり、オーケストラとのリハーサルがろくに出来ずに降板。
つくづくインキネンはついてない。
代わりに、トリスタンを指揮する予定のコルネリウス・マイスターがリングの任に当たることに。
マイスターは、シュトットガルト歌劇場の音楽監督として、リングを手掛けており、同劇場のサイトで、ピアノを弾きながら楽曲解説を行うマイスター氏を確認しましたが、わかりやすい解説と明快なピアノ演奏に驚きましたね。
読響の首席客演時代はパッとしなかったみたいですが、劇場叩き上げ的な指揮者として、シュタイン、シュナイダー、コバーなどと同じく、バイロイトを支える職人指揮者のようになって欲しいものです。

リングに移ったマイスターの代わりにトリスタンの指揮者に選出されたのは、マルクス・ポシュナー。
ポシュナーはミュンヘン出身で、現在リンツ・ブルックナー管の指揮者で、全曲録音も進行中。
ブルックナーの専門家みたいにしか思われてないけど、手持ちCDで、アーヘンの劇場との録音で、パルジファルと使徒の愛餐がありました。
はたして、いかなるトリスタンを聴かせてくれましょうか。

指揮者では、オランダ人はリニフ、タンホイザーはコバー、ローエングリンはティーレマンと盤石。

歌手は、変動多くて、ウォータンとオランダ人を歌う予定のルントグレンが降りて、前者はシリンスとコニチュニーに、オランダ人はおなじみのマイヤーに。
 ステファン・グールドがかつてのヴィントガッセン級の八面六臂の大活躍で、トリスタン、ジークフリート(黄昏)、タンホイザーを歌うタフマンに。
あと、フォークトは、ジークムントとローエングリン。
シャガーがジークフリートに。
 イゾルデを長く担当したテオリンがブリュンヒルデ、前のリングのブリュンヒルデを歌ったフォスターがイゾルデ、と言う具合にステキなクロスも楽しみ。

演出はどうなんでしょうね。
こんな風に、始まる前から妄想たくましくして記事が書けるのもバイロイトの楽しみです♬

Proms2022

バイロイトと並んで、わたくしの夏を飾る音楽祭がイギリスの「Proms」

約2か月間にわたって、ロンドンの巨大なロイヤル・アルバート・ホールで催されるフレンドリーな音楽祭。

イギリス全土のBBC局をつなぐので、ロンドン以外の各地の面白いコンサートを、極東の日本でも居ながらにしてネット空間で楽しむことができる。

でも主流はアルバートホールでの演奏会で、今年、わたくしがチェックしたものは、「オラモ&BBCのヴェルレク」がファーストコンサート。
大活躍のウィルソンの英国音楽の数々、セシル・スマイスのオペラ「漂流者たち」をティチアーティのグラインドボーンメンバーで。
ヤマカズ&バーミンガムで、スマイスとラフマニフ2番。
エルダー卿とハレで、プッチーニ外套、ロイヤルフィルによる日本人作曲家の一日、ダウスゴーのニールセンシリーズ、ラトル&LSOの復活、ガードナーのゲロ夢、ペトレンコ&BPOのマーラー7番、シフによるベートーヴェン後期ソナタ、セガン&フィラ管のエロイカ、バーバー、プライス、スタセフスカヤのラストナイト。

10月末には、スタセフスカヤ&BBCで、proms2022Japanが開催されます。
プログラムは自分的にはイマイチだけど、ニッキーがやってくるので、行きたいな。

promsは、BBCのネット放送で、すべてストリーミング再生可能です。

オラモ&BBCのヴェルディのレクイエムを早くも聴きました。
タイミングがタイミングなだけに、深刻な面持ちで聴きましたが、極めて純音楽的でカチっとした演奏。
ただ歌唱陣は自分には今ひとつ。
ソプラノ歌手がドラマテックさはよいとしても、言語不明瞭な感じで不安定で、ムーディだった。

こんなこと言ってはサイトの存続すら危うくなりますが、Promsの今年の画像ひとつとっても、ここにうかがわれるのは、「多様性」。
BBCはアメリカの各局と並んで、こうしたジェンダー的なことに、そうとうにこだわりぶりを見せてます。
極東の小さな町で、世界につながったネット放送を聴く自分が偉そうなことは言えませんが、半世紀以上音楽を聴いてきた自分の耳を信じたいと思った。
なにが優先されるのか、なにが大切なのか・・・・
私は、とんでもないことに言及しているかもしれません。

Salzburg

相変わらず豪華ザルツブルグ音楽祭

フルシャ指揮のカーチャ・カバノヴァ(コスキー演出)、アルティノグリュー指揮のアイーダ、クルレンツィスの青髭公、ヴィラソン演出(?)のセビリアの理髪師、メスト&グレゴリアンのプッチーニ三部作、マルヴィッツの魔笛、ルスティオーニ指揮のルチアなどなど。
どれも映像付きで観たい聴きたい。

オーケストラ演奏会も豪奢ですので、オーストリア放送のネット配信がどれだけあるか楽しみではあります。

Exp


現在開催中でもうじき終わっちゃうのがエクスアン・プロヴァンス音楽祭

サロネンの舞台付きマーラー復活、サロメ、イドメネオ(日本人スタッフ)、ロッシーニのモーゼとファラオ、ポッペアとオルフェオのモンテヴェルディ2作、ノルマ、ベルリオーズ版オルフェオとエウリディーチェ

夏の後半はルツェルン音楽祭
アバドから引き継いだシャイーは、今年はラフマニノフ2番とマーラー1番。
フルシャがこのところ、ルツェルンでドヴォルザークをシリーズ化して、今年は新世界。

Bregenz

湖上の祭典、ブレゲンツ音楽祭では、ウィーン交響楽団が主役。
蝶々夫人、ジョルダーノの珍しいオペラ「シベリア」、ハイドンのアルミーダ。
湖上の蝶々さん、なんかステキそうですが、ここの演出はいつもぶっ飛んでるからな。
演出はホモキだから、まあ大丈夫か、見たいな。

アメリカへ渡ると、ダングルウッド
ボストン響とネルソンスの指揮が主体ですが、毎年、オペラをコンサート形式で取り上げます。
今年は、ドン・ジョヴァンニ。
ネルソンスがふんだんに聴けるのがこの音楽祭前半で、ハルサイ、ガーシュイン、ラフマニノフ3番など、いずれもネット配信されます。
録音も抜群にいいのが、ボストン響やタングルウッドのライブの楽しみです。

日本ではサマーミューザ
聴きに行きたいけど、突然行くパターンにしないと、ほんとに行けない昨今のパターン。

Bayreutherfestspiele2022

悲しい事件はあったけど、暑さに負けるな、コロナなんて〇〇っくらえ、仕事も頑張れ。夏は音楽祭だ、ワーグナーだ!

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2022年7月 8日 (金)

ヴェルディ レクイエム アバド指揮

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6月の終わりの頃のある日の夕焼け。

壮絶にすぎて、ドラマテックにすぎて、なにか起きやしないかと不安な思いを抱いた。

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  ヴェルディ  レクイエム

 S:カティア・リッチャレッリ Ms:シャーリー・ヴァーレット

 T:プラシド・ドミンゴ    Bs:ニコライ・ギャウロウ

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団

                ミラノ・スカラ座合唱団

         合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ

           (1979.6、80.1,2  @ミラノ)

悲しみと怒りの日に、ヴェルディのレクイエムを、最愛の演奏で聴く。

怒りの日にばかり焦点が向きますが、ヴェルディのレクイエムは、死者を悼む、まさにレクイエム。
残されたひとたちへの哀歌であり、悲しみへよりそう優しい音楽。

今日の日こそ、ラクリモーサが心締め付けられるほどに響く。

アバドの誠実な指揮、豊かな歌心が、こんなときこそ泣けるほどに美しく一途でした。

日本にとってきわめて大きな喪失が本日あった。

まだ受け入れられない。

その喪失感は、世界のメディアや指導者たちの言葉を聞けばわかる。

大きな存在を失った日本は、そして大きな岐路に立たされることになった。

そのことを、しばらくしたら、国民とメディアは気が付くと思う。

「反」の人は、結構です、ずっと騙されていてください。
マスコミや「反」のひとが植え付けた悪のイメージが元凶だと思う!

安倍さん、日本を守っていただきありがとうございました。

その魂が永遠でありますこと、心よりお祈り申し上げます。
そして、天から、日本を守ってください。

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2022年7月 6日 (水)

ロッシーニ 序曲 アバド指揮

Hirastuka

七夕の準備の進む平塚市。

繁華街の公園では、園児たち、小学生たちの七夕のぼりが鮮やかに展示されてます。

今週末には、3年ぶりの本格七夕まつりが開催。
コロナで待ち望んでいた仙台ともリンクした平塚の伝統あるお祭り。

子供時代は毎年狂喜乱舞したお祭りで、両親へのわがままも、ことさらに通る贅沢な瞬間でした。

暑すぎのアバド生誕週間でしたが、その後、台風までも参戦し、天候は急転直下の日々。

すっきり、晴れやか気分にさせてくれるアバドのロッシーニ序曲集を聴く。

ヨーロッパ室内管との演奏は今回あえてスルーして、ロンドン響とのものを、曲もセリアでなく、ブッファを選んで聴きました。

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 ロッシーニ 「アルジェのイタリア女」序曲

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

         (1975.2 @ロンドン)

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 ロッシーニ 「イタリアのトルコ人」 序曲

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

         (1978.05 @キングスウェイホール、ロンドン)

アバドが70年代に、年をあまりおかずに録音したロッシーニの序曲集。

わたくし的には、最初のDG盤がジャケットもステキで、思い入れが強いのですが、全6曲中、セビリアとチェネレントラが全曲盤からの使いまわしというところがやや残念なところで、あえて再録して欲しかったな、と。

しかし、75年の2月は、あの「春の祭典」が録音された同時期にあたるものです。
ロッシーニを軽やかに指揮するがごとく、ハルサイをもいとも簡単に俊敏に演奏してしまったアバドとロンドン響。
名門ロンドン響の腕っこき奏者たちがアバドに夢中になってしまった。
そんな颯爽としたアバドの指揮ぶりが、ここに聴かれて、いま40年以上も経っても爽快このうえなし。

78年に、RCAレーベルに入れたロッシーニとヴェルディの序曲集も、大学生になった自分は学校の生協で購入して、来る日も来る日も聴きました。
セミラーミデとウィリアムテルという巨大セリアの序曲をここに選んだように、スケール感を増した演奏ぶりで、キングスウェイホールの厚い響きもセリア系序曲やヴェルデイの音楽には相応しいものでした。
でも、ブッファ系の軽やかさは相変わらずで、セビリアの理髪師にいたっては、そのまま流用した「イギリスの女王エリザベッタ」の序曲を選曲するというこだわりぶりで、しかも相変わらずのすっきり感とノリの良さ。
ロッシーニの音楽に、生真面目に取り組み、ユーモアよりは歌い口の美しさと軽やかさ、透けるようなシルキーな響きをもたらしたアバドの真骨頂がここに聴かれます。

ロンドン響とのこの2枚に比べると、ヨーロッパ室内管との録音は、より自在になり、テンポも快速で、若い手兵とロッシーニの音楽をひたすら楽しんでいる風情があります。
より晩年に、マーラー・チェンバーとかモーツァルト管とやってくれたらいったい・・・・そんな思いもよぎるアバドの鮮度高いロッシーニでした。

1813年、21歳のときの「アルジェのイタリア女」では、イタリア女に惚れこんだアルジェの太守を滑稽に描いた、当時大人気のトルコ風なエキゾチックなお笑いオペラ。
そして、こんどは、その逆パターンを1年後に作曲。
ここでは、トルコの王子がイタリアに乗り込んで引き起こす色恋沙汰。

アバドは、「アルジェ」はレパートリーにしていたが、トルコ人は指揮しなかった。
ほかには「セビリア」「チェネレントラ」「ランスへの旅」と全4作のみ。
ヴェルディとともに、もう少し、ロッシーニのオペラも残して欲しかったと思いますね。

七夕の日に、爽快なアバドのロッシーニを。

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2022年6月26日 (日)

アバド&アルゲリッチ

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梅雨空の曇天のもと、先日のライトアップに次いで、小田原城の花菖蒲と紫陽花を見てきました。

青空が欲しいところではありましたが、写真を撮るにはいい光の塩梅かもしれません。

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本丸へ渡る橋と花菖蒲のコントラストが美しい。

まるでモネが描いたかのような印象派のイメージのような写真が撮れました。

今年もめぐってきました、クラウディオ・アバドの誕生日。

1933年6月26日、89回目の誕生日です。

今年は、ソリストとして、ポリーニと並んで一番共演の多かった、マルタ・アルゲリッチとの録音をすべて聴いてみました。

グルダに教えを乞いたいという願いのもと、アルゼンチンからオーストリアへ勉強に出たアルゲリッチは、1955年の、グルダのザルツブルク・ピアノ夏季講習でアバドと出会うことになりました。
その後、アルゲリッチは57年にブゾーニコンクールとジュネーブのコンクールで優勝、60年には早くもDGデビュー、さらに65年にはショパンコンクールに優勝し、24歳にして若手ピアニストの花形となりました。
 一方のアバドは、58年にダングルウッドでクーセヴィツキ賞を受賞、63年にミトロプーロス国際指揮コンクールで優勝し、ひのき舞台に踊りでるようになります。
アバドもアルゲリッチも、年齢の差は少しあるものの、ほぼ同時期にスターとして歩みを始めてます。

いつもお世話になっておりますアバド資料館によりますと、アバドとアルゲリッチのオーケストラでの共演は1966年のロンドン響におけるプロコフィエフ3番のようですが、
以来、アバドが亡くなる前年の2013年までふたりの共演はずっと継続することになります。

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 プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調

 ラヴェル    ピアノ協奏曲 ト長調

     マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

      (1967.5.29~6.1 @イエス・キリスト教会)

こちらはコンサートでの流れでの録音でなく、レコードのための録音で、当時は、そのようなことがあたりまえだった。
実はこちらは、CD時代になってから聴いたもので、プロコフィエフに関しては、この演奏がいちばんと思っている。
ベルリンフィルであることが、あまり意識されないですが、イエス・キリスト教会での録音で、その響きがカラヤンが盛んに録音を行っていた時期のものにかぶって、そういう聴き方も楽しいものです。
ずばりこの時期にかぶるカラヤンの録音はシベリウスの6番や、レ・プレリュード、モルダウ、あと数か月後には、かの名盤・オペラ間奏曲集、ラインの黄金なんかがあります。
 脱線しましたが、クールでリリシズムあふれたこの2曲は、ふたりの個性にぴったりですから、思い出としてはショパン&リストにかなわないのですが、曲の好みと、演奏者たちの曲への相性からいえば、プロコフィエフ&ラヴェルの方が上と考えます。
ともに、緩徐楽章が抒情味としゃれっ気とがセンス抜群だと思いますね。

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   ショパン ピアノ協奏曲第1番 ホ短調

   リスト  ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調

    マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

      (1968.2.2~12 @ウォルサムストウ、ロンドン)

このレコードを手にしたのは、まだ中学生だった。
初めて買ったアバドのレコードで、1971年ではなかったかと思う。
最初はおもにショパンばかり聴きまくり、のちに、いやリストの方が面白いと気づき、両曲ともにすり減るように聴いた。
 アルゲリットとアバド、ラテン系の血をもった若い二人がぶつかり合うさまは、歌心にあふれ、熱血的な熱さにもありで、そのころ、夢中になって夢見心地で聴く若き自分が、いまでは恥ずかしく思い出させるくらいだ。
本blogの初期の頃にも書いた「我が青春のショパン」みたいな感じですよ。
それが、いまやもう二度と生まれないこの名コンビによる若い演奏は、情熱的で、晩年のあやなす透明感とはまったく異なるもので、この録音が34歳のアバドと、26歳のアルゲリッチで残されたことに感謝したいです。
ロンドン響が、これがDGに初登場だったこともいまや貴重な1枚です。
ちなみに、ショパンの2番はロンドン響で69年に演奏しているようですが、そのとき録音がなされなかったのはちょっと残念。

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  ラヴェル  ピアノ協奏曲 ト長調

    マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

      (1984.2 @セント・ジョーンズ・スミス・スクエア、ロンドン)

アルゲリッチとアバド、2度目の録音は、アバドとロンドン響とのラヴェル全集の一環で。
左手の方は、アルゲリッチの勧めで、当時右手を負傷していたベロフが起用されました。
ふたりは、このラヴェルで共演することが一番多かったようで、2000年代に入ってからもマーラー・チェンバーなどでも演奏を繰り返してます。
こちらの演奏、ラヴェルのこの曲のなかで一番好きです。
ジャズ的な洒脱かつ即興的な要素がくまなく整然と再現されるし、なんたって羽毛のような軽やかさがいい。
2楽章の夢見心地で、淡い色彩にあふれた演奏は、このステキな曲のなかでも最も素晴らしいものだと思います。
実は、自分の結婚式で、好きな曲ばかりをチョイスして式中に流したのですが、この2楽章を、この演奏で使用したのでした。
いまでは儚い思い出で化してしまいました・・・・
 ちなみに、亡父の式最後での言上では、マーラーの3番の終楽章。
これもまたアバドとウィーンフィルの演奏でした・・・そのとき泣いてました

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  スクリャービン 交響曲第5番「プロメテウス」

     マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン・ジングアカデミー

      (1992.5 @フィルハーモニー、ベルリン)

ロンドンとウィーンと同じように、アバドはシーズンごとにテーマを定めて、さらにはコンサートに絞っても、ひとつのテーマでプログラムを練るようにしてました。
音楽ばかりでなく、街をあげて、各種芸術に、そうしたテーマで取り組むという活動。
アバドのもっとも評価されていい一面でもあります。
ベルリンでの、このコンサートのテーマは「プロメテウス」=神話のさまざまな変奏。
ベートーヴェン「プロメテウスの創造物」、リスト交響詩「プロメテウス」、スクリャービン「プロメテウス」(火の詩)、ノーノ「プロメテウス」という演目。

プロメテウス」はギリシア神話上の神。
音から神の姿に似せて人間を作り、魂と命を与えた。そのうえに、火と技術を与えたことで、「ゼウス」の怒りに触れた。人間がゼウスら神の好敵手となったからである。
プロメテウスはコーカサスの岩場に縛られ、その肝臓をワシについばまれることとなる。
その肝臓は枯れることなく、プロメテウスは苦しんだ・・・・・。
それを後に救ったのが「ヘラクレス」である・・・・。(ジャケット解説より)過去記事から。

スクリャービンが考えた音楽と色彩、「音と色」との融合について。
当時開発された、音と、その音に対応したイメージの光がでるという「色光鍵盤」を用いて作曲したのが「プロメテウス」。
アバドは、ピアノにそんな小細工はせずに、フィルハーモニーホールの照明をさまざまに駆使することで、スクリャービンの精妙なる世界に近づけようとした。
神秘感というよりは、後期ロマン派の延長線上にあるスクリャービンの音を、アルゲリッチとともに引き出した演奏。
若き日々の、ショパンが嘘みたいに感じるけれど、でもスクリャービンも若い作品はショパンみたいだった。

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  R・シュトラウス  ブルレスケ

    マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

      (1992.12.31  @フィルハーモニー、ベルリン) 

大晦日のジルヴェスターコンサートでも、毎年、ひとりの作曲家やテーマに絞り込んだプログラムを組みました。
93年の幕開けに相応しい、R・シュトラウスのきらびやかな世界を展開してくれたコンサート。
NHKの生放送を食い入るようにして観ました。
なんたって、アバドが「ばらの騎士」を振ったのですからね。
ドン・ファン、ブルレスケ、ティル、ばらの騎士のラストシーン。
アルゲリッチ、フレミング、シュターデ、バトルといった華やか極まりない出演者。

表面的に走りそうなブルレスケを、さすがはアルゲリッチで、鮮やかなテクニックとともに、明晰で見通しのいい明朗シュトラウスサウンドを造り上げていて見事。
アバドもこうした即興的な曲では、当意即妙に、軽やかな指揮ぶり。
ティンパニのゼーガースの鮮やかな叩きっぷりも目に浮かぶよう!
この時代のベルリンフィルのメンバーはすごかったなぁ

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  チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調

     マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

      (1994.12.8~10 @フィルハーモニー、ベルリン)

ライブで燃えるふたり。
ともに、DGへ、デュトワとポゴレリチと録音をしていますが、そちらの方が幻想味とスケール感ではまさっていて、よりチャイコフスキーらしさがあります。
しかし、ここでの二人は火の玉のように熱い!
聴衆を前にして、気心知れたふたりの演奏家が、お互いに高まりあい、オケも夢中に一緒くたになってしまい一糸乱れぬすさまじさを披歴。
まさにライブ感あふれる演奏で、そうそうに何度も聴ける演奏ではありません。
今回、久しぶりに聴いてびっくりしました(笑)

このときの演奏会のプログラムを「クラウディオ・アバド資料館」にて調べてみました。
前半がモンテヴェルディのコンソート、シュトックハウゼンのグルッペン、そしてチャイコフスキーの一夜。
指揮もオケも、そして聴衆も待ち望んでいた「音楽」あふれる音楽だったのが後半戦でした。
アルゲリッチはその雰囲気をまんま受けて燃え尽きるようにして弾きまくってしまったのか!
2楽章の抒情の世界では、ベルリンフィル奏者たちとの珠玉の共演が聴かれるし、抑制の聴いたアバドの指揮もここではステキ。
しかし、終楽章は火の玉化してしまった!

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  ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調

          ピアノ協奏曲第3番 ハ短調

      マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 マーラー・チェンバー・オーケストラ

      (2000.2 、2004.2  @テアトロ・コムナーレ、フェラーラ)

アバドが体調を崩したこともあり、あのチャイコフスキーのような共演はなくなってしまい、古典派の音楽を取り上げることが多くなりました。
アルゲリッチは、ベートーヴェンでは1~3番までしか弾かないのか?
シノーポリと1,2番を録音し、アバドとは2,3番をライブ録音。
ふたりは、1番を2005年にルツェルンとの欧州ツアーで演奏してますが、そちらは録音されなかったのが残念。

過去記事に書いた内容を再掲
アバドの目指す、若いオーケストラとのベートーヴェンの新風に、むしろアルゲリッチが感化されたかのように、はじけ飛ばんばかりの活力と、生まれたばかりのような高い鮮度のピアノを聴かせてます。
過度のノンヴィブラートの息苦しさに陥らず、ベートーヴェンの若い息吹を、伸びやかに、そしてしなやかに聴かせるアバド。
2番は病に倒れる術前、3番は術後安定した時期。
 そんな、時系列を少しも感じさせることのない活きのいいオーケストラ。
アルゲリッチの3番は、これが唯一だが、このふたりの気質からしたら、2番の方が弾みがよろしく、ベートーヴェンの青春の音楽の本質を突いているように感じますがいかがでしょうか。
ことに、2楽章の抒情と透明感は素晴らしいのですよ。」

2番の協奏曲は、アバドがヨーロッパ室内管とシューベルト交響曲チクルスをやったときに、ペライアのソロで聴きました。
ここでの2楽章も、ふたりとも神がかり的な美しさでした。
アバドの誕生日に、アルゲリッチで何度もこの楽章を聴いてます。

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  モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466

         ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503

       マルタ・アルゲリッチ

  クラウディオ・アバド指揮 モーツァルト管弦楽団

      (2013.3.18,16 @コングレスザール、ルツェルン)

オーケストラ・モーツァルトを指揮した2013年のルツェルン・イースター音楽祭でのライブ録音が、いまのところ、アバドと朋友アルゲリッチとの最後の録音。

過去記事を編集~初のモーツァルトに、アルゲリッチ自身は、このライブの音源化に消極的だったといいます。
これまでのふたりの共演は、ベートーヴェンを除けば、ロマン派、ロシア、フランス、という具合で、どちらかといえば、華やかで、ソロもオーケストラも情熱と煌めきが似合うような曲目ばかりでした。

アバドの指揮には、よりピリオド的な奏法が強まり、ルツェルンのホールの響きは豊かながら、オーケストラの音は切り詰められて感じる。
しかし、どうだろう、この若々しさは。
ピリス盤よりも、溌剌として、表情も豊かで、自在なアルゲリッチのピアノに、すぐさま反応してしまう、鮮やかなまでのオーケストラ。
アルゲリッチの多彩なピアノに負けておらず、そして、羽毛のように軽やかでしなやかなオーケストラは、ほんとに素晴らしいもので、弱音の繊細さも堪能できる。
グルダ、ゼルキン、ピリスとモーツァルトで共演を重ねてきたアバド。
ことに20番、若き日を思い起こすような、遠い目で見たような枯淡の緩徐楽章をふたりして語りあうようにして聴かせてくれました。
歳を経ると、緩徐楽章がことさらに耳に、身に染み入るように感じます。

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モーツァルトのCDの裏ジャケットには、若いふたりが。

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こちらもいまは、カラーでリマスタリングされてますが、手持ちのショパンのレコードの見開きジャケットのなかの1枚で懐かしさもひとしお。

1967年から2013年まで、朋友ふたりの46年におよぶ共演を聴きました。

いつの時代も、若々しく、軽やかで、機敏な演奏のふたり。

梅雨がどこかへ行ってしまい、暑いばかりの2022年6月26日、よきアバドの生誕祭を過ごせました。

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2022年6月17日 (金)

ブルックナー 交響曲第2番、第3番 ダウスゴー指揮

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小田原城の内堀の花菖蒲、あじさい。

6月初め、まだ5分咲きぐらいでしたが、ライトアップされて、とても幻想的なのでした。

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竹灯篭も城下町っぽくて雰囲気抜群。

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 ブルックナー 交響曲第2番 ハ短調

  トーマス・ダウスゴー指揮 スウェーデン室内管弦楽団

       (2009.1 @エーレブルー・コンサートホール)

久々のブルックナー記事ですが、普段は始終聴いてます。
手持ちのCDもさることながら、ネット配信の最近の演奏も併行してよく聴いてます。
海外のライブが主体となりますが、欧米ともに、コンサートでのプログラムは、コロナ禍のモーツァルト、ベートーヴェンやシューベルトに比べると、コロナが落ち着きを見せると、マーラーとブルックナー、R・シュトラウスがとても多い。
でもシューベルトは、最後のハ長調の大交響曲の演奏頻度がものすごく高いと思う。

そしてブルックナー。
最近ではネルソンスとティーレマンがコンサートでも全曲録音を目指しながら演奏しつづけている。
いずれも、重心低めで集中度も高い厳しい演奏を展開しているが、そんななか聴いた真反対のイメージの演奏がダウスゴー指揮によるブルックナー。

デンマーク出身のダウスゴーは、お気に入りの指揮者で、ここ最近当ブログでもよく登場しますが、演奏会でも聴いたし、promsを始めとするネット放送もほとんど聴いて、CDもかなり揃えました。

ダウスゴーのポストは、シアトル響とBBCスコティッシュ響のふたつでしたが、残念ながらシアトルは任期終了前に辞任したらしい。
コロナにより、渡米が出来ず共演が1年半以上もなかったことなどが要因の様子。
スウェーデン室内管のポストを2019年まで長く務めていたので、相性もよかったそちらとの、意外性あふれるレコーディングがダウスゴーの代表盤となっていて、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスの全集を完成させ、メンデルスゾーンも進行中、ドヴォルザークやチャイコフスキーもワーグナーもあるという室内オケなのにオールマイティ感あふれるレパートリーを披歴中なのだ。

そんななかでワタクシのなかで燦然と輝く桂演となったのがこちらのブルックナーの2番。
前期の作品でありつつも、ブルックナー様式をしっかりと体現しだした、そして自然の息吹きあふれる抒情に満ちた交響曲。
ダウスゴーのきびきびとした明快な指揮で2番の交響曲が、響きが透けてみえるくらいに細やかに聴こえ、あっさりとした歌い口でも十分に内省的な様相を醸し出している。
良質なテクスチャーを備えた機敏な演奏なんです。
楽器が全部見えるような1楽章は、これこそがブルックナーがひとりで自然のなかを逍遥するかのような自在さを感じる。
ブルックナーの緩徐楽章のなかで大好きなこの2番の2楽章の美しさは格別。
スケルツォがまさにスケルツォ然としたきびきびした3楽章。
楽想の転換が目まぐるしく、楽しくなる終楽章はスピード感あり、勇壮なブルックナーの演奏からはもっとも遠くにある。

こんな風に既存のブルックナーの2番のイメージを覆してしまう大胆な演奏です。
ちなみに、既存の、というのは私の思いでして、2番、6番がもともと好きだったが、実際にヨーロッパに行って教会やアルプスの山々の緑を見たことで、緩徐楽章がとくにそのイメージになってます。

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 ブルックナー 交響曲第3番 ニ短調

  トーマス・ダウスゴー指揮 ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2019.6.17 @グリーグホール、ベルゲン)

2018年に6番を録音したダウスゴーは、スウェーデン室内管でなく、ベルゲンフィルを起用。
翌2019年には3番をこのコンビで録音しました。

2番との連続性ということで3番を取り上げました。
というのも、2番に次いですぐに書かれた3番は、このふたつの交響曲を携えてワーグナーのもとに行き、尊敬の証として捧げたわけですが、緊張のあまり酔ってしまったブルックナーは、どちらがワーグナーのお気に召したか忘れてしまったというエピソードが好きだからです。

そのときの初稿版1873年版でダウスゴーは、録音しました。
その音楽性から、後年充実期の改訂版でなく、ワーグナーの引用もありありでスッキリしている初稿版がダウスゴーにお似合いだからです。

予想通り、快速ブルックナー。
手持ちの同じ初稿版によるブロムシュテットや、ネゼ・セガンなどより圧倒的に演奏時間が短い。
しかし、聴き比べるとそう感じるだけで、ダウスゴー盤を普通に聴けば違和感など感じず、むしろ慎重な溜めや、大きな歌いまわしをまったくしていないところから、風呂上りの見たことないようなサッパリしたブルックナーの姿がここに聴かれます。
ここ数日、もう10回以上聴いたけれど、こんなにスラスラと快適に聴けるブルックナーが楽しくなってきた。

ノルウェーの実力派オケ、ベルゲンフィルもうまいもので、ブルックナーから遠い世界観を巧まずして表現していて、北欧らしい抜けるような響きがまさにそうなんです。

ワーグナーの響きが随所に浮かび上がって見える1楽章は、改訂版の重厚な響きとは大違いで軽やかですらあって痛快。
法悦的なまでの神への祈りを感じていた2楽章では、そんな様相は少なめで、淡々としたまま、すっきりとテンポよく透明感のみを追求したような演奏だ。
超快速3楽章は6分ぐらいであっという間に終了し、改訂版ゆえに、ここでもまた軽やかで俊敏な動きで、一気に駆け抜けてしまう終楽章もワクワク感すら味わわせてくれる。

こんなのブルックナーじゃない、とばっさり言われるかもしれないが、わたしは大いに楽しみ、フルオケと室内オケ双方で、ブルックナーの音楽を鈍長さから100%解放してしまい、既成概念を洗い流して風呂上り、コーヒー牛乳を飲んだような爽快さを、心から味わい尽くしました。

ダウスゴーの手法はいつもこんな感じで、ちょっとの抵抗と、聴いた後の音楽の走り去ったあとの爽やかな聴後感を味わうのみなんです。
あれこれ考えるのは抜きにして、直観のみ、感覚のみで受け入れるべき演奏かと。

ブルックナーも、爽快さで選ばれる、そんないろんな演奏を受け入れるべき時代にきている。

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2022年6月 5日 (日)

ブリテン 「グロリアーナ」 P・ダニエル指揮

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英国女王エリザベス2世が、即位70周年のプラチナ・ジュビリーをむかえました。

1953年、父ジョージ6世の後を受けて即位して70年。
英国史上、一番長く君臨する君主となりました。

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                                                     (BBCより拝借)

英国は4連休となり、さまざまな祝賀行事が行われていますが、96歳の高齢に加え、体調も最近は崩し勝ちとのことで各イベントへのご登場はほとんどお休みの様子。
親しみあふれる女王なのでちょっと心配ですが、ますます健やかに英国を統べていただきたいものです。

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イギリスには1度だけ行ったことがありまして、これがそのときの絵葉書。

仕事で赴き、視察的半分なお遊び的なツアーでして、レンタカーでロンドン周辺を走り回りました。
高速に乗って少し走ると、緑の丘がポコポコと見えるなだらかな美しい光景が見れましたし、海の方へ長躯走ると、絶壁の厳しい海岸線もみることができました。

市内では運転していて、目の前にビッグベンが登場したときはびっくりしたものです。

そして、ターミナル的なところにやむを得ず車を停めてちょっと離れたら、そこには怖そうなポリスマンが立ってました。
君々!ここは駐車禁止じゃよ!と無表情で睨まれました。
こちらは、たどたどしい英語で、すいませ~ん、わからなかったんです、旅行で来てるもんですから・・・・と素直に謝りました。
そしたら、お巡りさん、態度が一変、そうかそうか、次は気を付けるんだよ、よい旅をな~って無罪放免してくれたんです。

プライド高そうな英国の人々だけど、実はフレンドリーで、日本人には優しかったのでした。

そのときの、旅は前半がパリだったんですが、ハンドルも車線も逆だし、高速なんて地獄のように怖かったし、そもそもフランス人は日本人の話す英語なんてまるきり無視して見下したような雰囲気でした・・・・

(以下、過去記事を修正しつつ引用します)

      ブリテン 歌劇「グロリアーナ」

1953年、現女王エリザベス2世の戴冠式奉祝として作曲されたブリテンのオペラが、オペラ16作中8番目の「グロリアーナ」。

スコアの献辞に「この作品は、寛容なるご許可によってクィーンエリザベス2世陛下に捧げられ、陛下の戴冠式のために作曲された」とあります。

原作は、リットン・ステレイチーの「エリザベスとエセックス」。
台本は、南アフリカ生まれの英国作家ウィリアム・プルーマーで、彼は「カーリューリバー」の脚本家。

1953年6月6日に、コヴェントガーデン・ロイヤルオペラハウスで、政府高官や王列関係者たちだけのもとで初演。
英国作曲界の寵児であったブリテンの期待の新作オペラではあったけれど、初演の反応は不芳で、むしろジャーナリストたちからは、果たして女王に相応しい音楽だろうか?として攻撃を受け、やがて連日非難が高まり、このオペラはなかったもののようにして忘れられていく存在となってしまった。

それは、オペラのあらすじをご覧いただければ一目了然。
物語の主人公はエリザベス1世、期せずして、1533年生まれ1603年没。
その別名が彼女を讃えるべくつけられた「Gloriana」グロリアーナ(栄光ある女人)でもあるわけです。
イングランドに黄金期をもたらせた女王は、スペイン無敵艦隊に対する勝利が栄光のピークで、このオペラはずっと後年の晩年近く、1599年から1600年のことを描いている。
登場人物たちは、そのまんま歴史上実在の人物たち。
成功続きだった女王の治世も陰りが出てきて、生涯独身だったエリザベスにも老いが忍び寄っていた時期。
エセックス公ロベルト・デヴリューを寵愛し、一方で女王から信頼を受けていた政治の中枢、ロバート・セシルとエセックス公は敵対関係にあった。
ドニゼッティのオペラにも、英国女王3人にまつわる3部作があり、エセックス公=「ロベルト・デヴリュー」があります。
アンナ・ボレーナの娘がエリザベス1世で、スコットランド女王メアリー・ステュアート(マリア・ステュアルダ)と敵対し、エセックス公ロベルト・デヴリューをめぐってもさや当てをすることとなるのがドニゼッティの一連のオペラ。

こんな背景を頭に置きながら、このオペラを味わうとまた一味違って聴こえます。

ちなみにブリテンは、このオペラから交響組曲「グロリアーナ」を編み出していて、最近そちらの演奏機会も増しているし、録音もなされるようになってきました。
ブリテン自身の指揮によるシュトゥットガルト放送録音がCD化されてますが、そこではエセックス公の1幕で歌われるリュート歌曲が、ピアーズの歌唱で収録されてまして、それはもう儚さの境地です。

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ブリテン  歌劇「グロリアーナ」

 エリザベス1世:スーザン・ブロック
 エセックス公ロベルト・デヴリュウー:トビー・スペンス
 エセックス公夫人フランセス:パトリシア・バルドン
 マウントジョイ卿チャールズ・ブラント:マーク・ストーン
 エセックス公の姉レディ・リッチ、ペネロペ:ケート・ロイヤル
 枢密院秘書長官ロバート・セシル卿:ジェリー・カーペンター
 近衛隊長ウォルター・ラーレイ卿:クリヴ・ベイリー
 エセックス公の従者:ヘンリー・クッフェ
 女王の待女:ナディーヌ・リビングストン  
 盲目のバラッド歌手:ブリンドリー・シェラット

  ポール・ダニエル指揮

            ロイヤル・オペラ。ハウス管弦楽団
     ロイヤルオペラ合唱団
  
  演出:リチャード・ジョーンズ

      (2013.6 @ロイヤルオペラハウス)


第1幕
 
 馬上試合の場面、エセックス公は従者とともに試合観戦中。
従者からの報告で一喜一憂。しかし結果は、マウントジョイの優勝。
女王から祝福を受ける彼をみて、エセックス公は、本来なら自分がそこに・・・と嫉妬をにじませる。
人びとは、エリザベス朝時代の女王を讃える歌「Green Leaves」を歌う。
そのマウントジョンとエセックス公は、やがて口論となり小競り合い。
そこに登場した女王のもとに、二人は跪き、彼女の仲裁で仲直りする。
人びとは、ここで再度「Green Leaves」を歌い、今度はフルオーケストラで、とくにトランペットの伴奏が素晴らしい。

「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」 

この讃歌は、このオペラに始終登場して、その都度曲調を変えて出てきます。

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 ②ノンサッチ宮殿にて。腹心のセシルとエリザベス。
彼は、女王に先の馬上試合での騒動の一件で、エセックス公への過度の肩入れは慎重に、と促し、女王も、それはわかっている、わたくしは、英国と結婚しています、と述べる。
 彼と入れ替わりにやってきたのは、そのエセックス公。
彼はリュートを手にして歌う。明るく楽しい「Quick music is best」を披露。
もう1曲とせがまれて、「Happy were he could finish」と歌います。
それは、寂しく孤独な感じの曲調で、ふたりはちょっとした二重唱を歌う。
オーケストラは、だんだんと性急な雰囲気になり、エセックス公はここぞとばかり、アイルランド制圧のための派兵のプランを述べ、命令を下して欲しいと懇願。
女王は、すぐさまの結論を出さず、公を退出させる。
ひとり彼女は、神よ、わたくしの信民の平和をお守りください・・・と葛藤に悩む。

第2幕

 ①ノーリッジ 訪問の御礼に市民が女王の栄光をたたえるべく、仮面劇を上演。
マスク役のテノールが主導する、この劇中劇の見事さは、さすがブリテンです。
そんな中で、結論を先延ばしにする女王に、エセックス公はいらだつ。
劇が終ると、人びとは女王のそばにいつも仕えますと、感謝の意を表明し、女王はノーリッジを生涯わすれませんと応える。
 ここでまた、Green leaves。

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 ②ストランド エセックス公の城の庭
マウントジョイとエセックス公の姉ペネロペは恋仲。ふたりはロマンティックな二重唱を歌い、そこにエセックス公夫妻もやってくるが、最初は公は姉たちがわからない位置に。
エセックス公は、プンプン怒っていて、弟君は、何故怒っているのかとペネロペに問う。
自分の願いが認められなくて、イライラしてるのよ、と姉は答える。
やがてそれは4重唱になり、愛を歌う姉、どんだけ待たせるんだとの弟とマウントジョイ、自制を促すエセックス公の妻。
しまいには、女王はお歳だ、時間はどんどん彼女の手から流れ去ってしまう・・・・と3人は急ぐように歌い、ひとり妻は、ともかく慎重にと促す。

 ③ホワイトホール城の大広間 エセックス公の主催の舞踏会
パヴァーヌから開始。やがて公夫妻、マウントジョイとペネロペ入城。
夫人は豪華絢爛なドレスを纏っていて、マウントジョイにペネロペは、弟があれを着るように言ったのよとささやく。
ダンスはガイヤールに変わり、4人はそれぞれにパートナーで踊ります。
 そこに女王がうやうやしく登場。彼女は、エセクス公夫人を認めるなり、上から下まで眺めつくす。
彼女は今宵は冷えるから体を温めましょうと、イタリア調の激しい舞曲ラヴォルタをと指示。
音楽は、だんだんとフルオーケストラになり、興奮の様相を高めてゆく。
 ダンスが終ると、女王は、婦人たちは、汗をかきましたからリネン(下着)を変えましょうと提案し、それぞれ退室。その後も、モーリス諸島の現地人のダンス。
しかし、レディたちがもどってくるが、エセックス公夫人があの豪華な衣装でなく地味なまま飛び込んできて、さっきの服がない、誰かが着てると騒ぎ立てる。
そのあと、女王が大仰な音楽を伴って戻ってくる。
そのドレスは、なんとエセックス公夫人のあの豪華な衣装。
しかも、体に合わず、はちきれそう。
唖然とする面々にあって、婦人は顔を手でおおって、隅に逃げ込む。
屈辱を受けながらも、怒りに震える夫と、姉、マウントジョイには、それでも気をつけてね、相手は女王なのよ、とたしなめる健気な夫人。
 お触れの、お出ましの声で、元のドレスに戻った女王が登場。
エセックス公に、近衛隊長ラーレイが、大変な名誉であると前触れ。
そして女王が、「行け、行きなさい、アイルランドへ、そして勝利と平和を持ち帰るのです」とエセックス公に命じ、手を差し出す。
うやうやしく、その手をとり、エセックス公は感激にうちふるえ、「わたしには勝利を、貴女には平和を」と応えます。
明日、あなたは変わります、そして今宵はダンスを!クーラントを!
女王の命で、オーケストラはクーラントを奏で、やがてそれは白熱して行って終了。

第3幕

 ①ノンサッチ宮殿 女王のドレッシングルーム。
メイドたちのうわさ話。3つのグループに分かれて、オケのピチカートに乗ってかまびすしい。エセックス公のアイルランド遠征失敗のことである。
そこに当の、エセックス公が息せき切ってやってきて、女王にいますぐ会わなくてはならないという。
女王は、まだ鬘も付けず、白髪のままで、何故にそう急くのか問いただすものの、エセックス公はいまある噂は嘘の話ばかりと、まったく当を得ない返答。
何か飲んで、お食べなさい、そしてリフレッシュなさい、とエセックス公をたしなめ帰すエリザベス。
待女とメイドたちの抒情的で、すこし悲しい美しい歌がそのあと続く。

 秘書長官セシル卿を伴って女王登場。
セシルは、アイルランドはまだものになっておらず、しかもスペインやフランスの脅威も高まってますと報告。女王は、これ以上彼を信じることの危険を感じる。
女王は命令を下します。「エセックス公を管理下におき、すべて私の命に従うこと、アイルランドから引き上げさせ、よく監視すること。まだ誇りに燃えている彼の意思をつぶし、あの傲慢さを押さえこむのよ、わたくしがルールです!」と。

 ②ロンドンの路上 盲目のバラッド歌手が、ことのなりゆきを歌に比喩して歌っている。
少年たちは、セシルやラレーのようになろう、と武勇を信じ太鼓にのって勇ましく行進中。
エセックス擁護派は、王冠を守るために働いているのだ、女王は年老いたと批判、かれが何をしたのか・・・と。
バラッド歌手は、反逆者だと?彼は春を勘違いしたのさ、と。

 ③ホワイトホール宮殿 エセックス公の公判
セシルとラレーは、彼がまだ生きていることが問題と語っていて、女王が入廷すると、エセックス公に対する処刑命令が宣告される。その最終サインは女王。
「彼の運命はわたくしの手にゆだねられたのね、サインはいまはできない、考えさせて・・」と女王は判断を伸ばすが、セシルは、恐れてはいけません、と迫る。
女王は、「わたくしの責任について、よけいなことをいうのでありません」とぴしゃりと遠ざけてしまう。

ひとりになった女王は、哀しい人よ、と嘆く。
そこへ、ラレーが、エセックス公夫人、姉、マウントジョイを連れてくる。
彼らは、女王にエセックス公の助命を懇願にやってきたのだ。
まず、夫人がほかの二人に支えられて進み出て、「あなたの慈悲におすがりします。わたくしのこのお腹の子とその父をお救いください」と美しくも憐れみそそる歌を歌う。
これには、女王も心動かされ、嘆願を聞き入れる気持ちに傾く。
 その次は、エセックスの姉ペネロペが進み出て語る「偉大なエセックス公は、国を守りました・・」、その力はわたくしが授けましたと女王。姉は、まだ彼の力がこのあなたには必要なのですと説くと、和らいだ女王の心も、一挙に硬くなり、なんて不遜なのだ、と怒りだす。
食い下がるペネロペにさらに怒り、3人を追い出し、執行命令書を持ってこさせ、サインをしてしまう。

この場面での悲鳴は、エセックス公婦人、オーケストラはあまりに悲痛な叫びを発します。
ここから、音楽は急に、暗く寂しいムードにつつまれます。

女王は、大きな判断をして勝利を勝ち取りました、しかし、それは虚しい砂漠のなかのよう、と寂しくつぶやく。

遠くでは、エセックス公が、死の淵にあるいま、みじめなこの生を早く終わらせることが望みです・・・・。とセリフで語る。
以下は、セリフの場面が多く、音楽は諦念に満ちた雰囲気です。

女王は、自分はわたくしの目の前で、最後の審判をこうして行ってきました。王冠に輝く宝石は国民の愛より他になく、わたくしが長く生きる、その唯一の願いは、国の繁栄にほかなりません、と語る。
 外では、群衆の喝采が聴こえる。

  「mortua, morutua, mortua, sed non sepulta!」
 
女王がつぶやくように歌うこちら、ラテン語でしょうか、意味がわかりません。

セシルが再びあらわれ、女王に早くお休みになるように忠告するが、女王は、女王たるわたくしに、命令することはおやめなさい。それができるのは、わたくしの死のときだけと。
そしてセシルは、女王の長命をお祈りしますとかしこまります。

弦楽四重奏と木管による、1幕でエセックス公が歌った寂しげな旋律のなか、女王は「わたくしには、生に執着することも、死を恐れることも、ともに、あまり重要な意味をいまや持ちません」と悲しそうに語る。

ハープに乗って静かに
「Green leaves are we,red rose our golden queen・・・・」が、合唱で歌われ、それはフェイドアウトするように消えてゆきます。

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舞台では、ひとりにきりになった女王が立ちつくし、やがて光りも弱くなり、暗いなかに、その姿も消えていきます・・・・・・。

                    


このような、寂しくも哀しい結末があるオペラで、楽しい劇中劇や舞踏のシーンはあるものの、たしかに祝賀的な内容ではありません。

老いから発せらる女王の嫉妬や、時間のないことへの焦り。
そして、ある意味、醜いまでのその立場の保全。
さらに、重臣たちの完璧さが呼ぶ、あやつり人形的な立場。
しかし、これがグロリアーナ・エリザベス1世の晩年の現実で、ブリテンは、エリザベス1世の人間としての姿を、正直に描きたかったのに違いありません。

ブリテンのオペラの主人公たちが常に持つ、その背負った宿命や悲しさ、そしてそこから逃げられない虚しさ、
あがいても無駄で、そこにはまりこんでしまい、もがく主人公たち。
でもやがてその宿命を受け入れ、ときには死を選ぶ。
その彼らへの、愛情と同情、そしてそれが生まれる社会への警告と風刺にあふれたブリテンの作り出したオペラの世界。

クィーンだったエリザベス1世に対しても例外でなかったのです。

当然に、当時の保守的な英国社会は、ふとどきな作品としてネガティブキャンペーンをはります。
音楽業界も、完全にスルーして、通例だった作者自身の指揮によるデッカへのレコーディングも、この作品ばかりはなされなかったのでした。
ブリテンも、わかっていたかのように、静かにその評価を受け止めます。

しかし英国は、ブリテンを最大級のオペラ作曲家として次も評価し、ブリテンも傑作を次々と編み出す。
チャールズ・マッケラスが録音でこの作品に光をあて、2013年のエリザベス女王在位60年にコヴェントガーデンで、上演もされました。
そのときの上演が今回のDVD 。

わたくしは、コロナ禍のオペラストリーミングでこちらを観劇し、あまりにステキな上演だったものですから、本盤を入手しました。

当時の衣装をそのままに、さらに鮮やかな色彩をほどこした絢爛たる舞台。
しかし、リチャード・ジョーンズは時代を1953年に戻して、劇中劇としました。
若きエリザベス2世、現女王もオペラの最初と最後に登場します。
また、英国王室の歴代の移り変わりを冒頭にしゃれた演出にてもってきまして、王室へのリスペクトとしております。
劇中劇仕立てなので、装置も舞台のなかの舞台みたいで、適度にデフォルメされていて、モニュメント化された小道具も見て、推察して考えをめぐらす楽しみもあります。
リチャード・ジョーンズの舞台は新国や二期会、DVDでもそこそこ見てきましたが、背景や壁紙の使い方が実によろしく、スタッフたちのセンスの良さが常にひかります。
オペラの中に仮面劇があるのですが、劇のなかの劇のなかのこれまた劇が、とてもおもしろくて、群衆のカラーリングや農産物などまったくおもしろかった。
 さらに、ブリテンの筆が冴えまくる舞踏会の場面も、女王が嫉妬したエセックス公夫人の黄色いドレスがとても素敵で、旦那も黄色で、ほかの人物たちは黒、色の対比が鮮やか。
ルネサンス風の舞踏から熱狂へ向かうブリテンの音楽が、こうして舞台を伴うと最高にスリリングだった。
 3幕からは暗い影が忍び寄り、女王も老いさらばえ、果断の判断もおぼつかないし、悩みのなかに、国のためになすことを判断するシーンは光と影を巧みに使った迫真の舞台となっている。

ワーグナーソプラノとして何度か聴いたことのあるスーザン・ブロックの体当たり的な演技と、エキセントリックな歌い口も織り交ぜた迫真の歌唱がまったく素晴らしい。

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あとトビー・スペンスは、まさにあたり役。
リリックな英国テナーのいまや代表格となったトビーは、先ごろフィンジの歌唱を絶賛したばかり。

ボルドーオペラで活躍中のP・ダニエルの暖かい目線の通った指揮は、こうしたリアルなオペラにはぴったり。

このオペラのラストシーン、やはり寂しい、泣けます。
孤独とはこういうものなのだろうと。
そして、この演出で現女王がふたたび登場するラストシーンは、あまりにも素晴らしいし、まさにグロリアーナへの敬愛の賜物でありました。

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こちらは1953年の初演時とガラコンサートのコヴェントガーデンのバルコニーでの女王陛下。

こちらでその貴重な記録が確認できました。

https://www.youtube.com/watch?v=m-tWBZgbvyM

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                 (BBCより拝借)

エリザベス女王のご健康とご多幸を末永くお祈り申し上げます。

英国と日本の結びつきもますます強固になりますことを願います。

過去記事

「マッケラス指揮 グロリアーナ」

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2022年5月28日 (土)

シューベルト 「美しき水車小屋の娘」 シュライヤー

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春から初夏にかけての野辺は、少し荒れ気味だけれど、こうした野放図な自然さがあるから美しい。

グリーンでブルーな感じが好き。

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  シューベルト 歌曲集「美しき水車小屋の娘」

     テノール:ペーター・シュライヤー

     ハンマークラヴィア:シュテフェン・ツェール

         (1980.2 @ウィーン)

31歳で亡くなったシューベルト(1797~1828)、同様に詩人のヴィルヘルム・ミュラー(1794~1827)も33歳になる数日前に世を去っている。
活動時期もかぶるこの二人、実際に相まみえたことはないようだが、ほぼ一体化したミューラーの連作詩とシューベルトの歌曲集には、主人公の粉ひき職人を目指す「ぼく」と相棒の「小川」に「水車小屋」、そして愛する「娘」といった主人公たちに加え、「田園」「水」「花」「緑」といったモティーフたちが、極めて叙事的に描かれているように思う。

ベートーヴェンの田園は牧歌的であり、自然と語る風情があるが、シューベルトの水車小屋はドラマであり、自然と人間が一体化してしまい、死すらともにしてしまう。
ゲーテのヴェルテルが、当時の若者に与えた影響は大きかったと言われるが、水車小屋の詩と音楽に感じる「死の影」というものは、いまの現代人の感性からしたら、とても推し量ることのできないものでもある。

元気に意気揚々と旅に出た若者が、恋をして、嫉妬をして、自暴自棄になり、やがて絶望して静かに死を選ぶ。
こんなストーリーのなかで、わたくしが好きな7曲目「いらだち」と、悲しいけれど18曲目「しおれた花」。
恋をして舞い上がった心持ちで、何度も「Dein ist mein Herz」わが心はきみのものと歌うところが好き。
こんどは、辞世の句を訥々と歌うかのように、しおれ、色褪せた花たちを歌う、この寂しさも好き。
ともにこの歌曲の二面の心情であり、シューベルトの音楽の神髄を感じさせると思います。

ペーター・シュライヤーは、これら2篇を選んで聴いただけでも、そのお馴染みの声でもってわれわれを惹き付けてやみません。
2年半前に亡くなってしまったシュライヤーには、水車小屋の録音は4種あります。(たぶん)
最初がオルベルツ(71年)、ついでギターのラゴスニック(73年)、ついでハンマークラヴィアのツェール(80年)、最後はアンドラーシュ・シフ(89年)

シューベルト当時の市井の仲間内で、さりげなく手持ちの楽器を伴奏にして歌ったかのようなギター版。
NHKテレビで放送もされたのでよく覚えてますが、シュライヤーはギターの横で座って、語りかけるようにして歌ってました。
次は、シューベルト当時のピアノ、いまでいえば古楽器ともいえるハンマークラヴィアと録音したのが本日のCD。
ピアノのような多彩な音色でなく、朴訥かつ地味な色合いで響きも少なめで、滑らかさはなくギクシャクして聴こえる。
でもどこか懐かしいレトロな感じは、かつて日本のどこでもあったような田んぼやあぜ道、おたまじゃくしがいるような小川をどこか思い起こしてしまった。
実際に子供時代は、そんな田園や野辺で遊んだものだ。
想像の広がりも甚だしいが、水車小屋のピアノをハンマークラヴィアで聴くというのも、そんなオツな感じだったのです。

70年代までのシュライヤーは、清潔で端正な歌いまわしで、劇的な要素というのは過度ではなかったが、70年代後半からオペラでもミーメやローゲを歌うようになって表現の幅が大きくなりました。
でも、ここで聴くシュライヤーの声は70年代の録音で聴き親しんだ優しく、誠実な歌に変わりはない。
ドイツ語を聴くという語感を味わう美しさもここにはある。

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雨上がりの新緑と青空が窓の外に見えます。

こうして聴いた、この時期ならではの「美しさ水車小屋の娘」、目にも耳にも優しいものでした。

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2022年5月21日 (土)

ヘンデル オラトリオ「復活」 ミンコフスキ指揮

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5月の始めは五月晴れにめぐまれ、吾妻山の満開のつつじも実に大空に映えておりました。

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この時期、蜂さんも、つつじの甘い香りに誘われ、活動全開で、ことに熊蜂はフレンドリーなくらいに近寄ってくるし、羽音も元気!

すべてのものが活気づくこれからの季節です。

受難節のあとは復活。

遅ればせながら、マタイのあとを引き継ぐような、キリストの復活をモティーフにしたヘンデルのオラトリオを。

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  ヘンデル オラトリオ「復活」HWV47

    天使:アンニク・マシィス
    マグダラのマリア:ジェニファー・スミス
    クロパのマリア:リンダ・マグィレ
    ヨハネ:ジョン・マーク・エインズリー
    悪魔ルシファー:ローラン・ナウリ

  マルク・ミンコフスキ指揮 ルーブル宮音楽隊

           (1995.4 @サル・ワグラム、パリ)

ヘンデル2番目のオラトリオ。
のちの「メサイア」の最後の場面の復活をさらに描いたこの作品は、イタリア時代の初年、初のオラトリオ「時と悟りの勝利」に次いで、ヘンデル21歳の1706年に作曲を始め、1708年4月にローマのルスポリ宮殿で初演されている。
その初演の指揮は、かのコレルリであります。
台本は2部に分かれており、磔刑の後の2日目と3日目の間の出来事を描いている。

ヘンデルの初期作でもあるこの復活オラトリオは、新鮮さと活力をもった作品で、復活という喜びの爆発にあふれた若々しい音楽だと思います。

ローマで教皇がオペラ禁止令を出したため、オラトリオの形式に隠れながらも、オペラ的なドラマを伴っていて、ある意味神聖なオペラともみなされる。
闇と光の双方の登場人物の戦いで、その描写は独唱者によってなされ、ソロイストを伴ったオペラ・オラトリオ的な存在になっているので、なおさらにオペラ風。
36年後の「メサイア」に比べると、スケール感と出来栄えの緻密さにおいて比較にはならないが、繰り返しますが、その若やぎと輝かしさはとても魅力的で、このあと書かれるオペラ「アグリッピーナ」にも旋律が使われていることから、同オペラを昨年聴きまくったワタクシですから、とても親しみを覚えたりもした次第です。

解説書によると、ヘンデルはローマカトリック教会に改宗させるという試みに抵抗したが、その音楽はスカルラッティやアントニオ・カルダーラなどのイタリア作曲家のスタイルの影響は見られるといいます。
もう1つの影響としての楽器編成で、おそらく約21のヴァイオリン、4つのビオラ、ビオラダガンバ、5つのチェロ、5つのコントラバス、4つのオーボエ(リコーダーとフルートでも2倍)、2つのトランペット、オルボで構成された当時にしては大きな編成、とありました。

2つの部分で構成され、イタリア語で書かれたテクストは五人の登場人物のアリアとレチタティーヴォ、ふたつの部分の最後の合唱からなります。

超自然的な領域では、悪魔くんのルシファーはイエスの死の功績は何なのかと要求しますが、より積極的な天使はそれが人類へのあふれる愛から自ら選んだ犠牲であると主張する。
ルシファーは最終的に敗北を認めなければならず、第2部では地獄の黒い穴の最深部に自ら落ちゆき敗北となります。

これにからませる地上の人間界では、マグダラのマリアとクロパのマリアがイエスの死を悼み、第1部では復活が迫っている聖ヨハネに説得され安心を保ちます。
墓がすでに空となっているのを確認したふたりのマリアの前に、天使があらわれ、人々に告げよと伝えるが、マリアたちはイエスを実際に見なければとその姿を探す。
ヨハネは、聖母マリアから息子イエスが自分のもとにあらわれたことを聴いたとクロパのマリアに伝え、さらにマグダラのマリアは、復活したイエスを実際に見たと語る。
ここで、3人はイエスの復活を確信し、賛美する。

ざっと、このような2時間あまりの復活劇です。

繰り返しますが、復活の喜びは音楽面でも耐えがたく出ており、ルシファーでさえ、いい人に聴こえます。
実際に舞台にかけたとしたら、しかしこの筋立てでは陳腐化はまぬがれないかも・・・

悪魔さんと、天使さまの会話はおもろいですよ(笑)

アルフィーフレーベルにヘンデル作品ばかりか、グルック、ラモー、リュリまでも集中して録音していたミンコフスキの指揮は、冴えまくり切れ味抜群。
そしてこの音楽の若々しさも見事に表出し、当時きっとこんな風に響いたであろう驚きと説得力にあふれていて見事。
いまでこそ、こうした演奏スタイルはあたりまえとなったので、これがオーセンティック。
さらなる先を求める演奏は、研究成果や発見作業が出尽くしてのちに、また現れるかもしれないが、わたくしは、もうこれで十分。
極めて音楽的であり、奇抜さはもういらないと思うバロック期の理想的演奏スタイルです。

お馴染みナウリのルシファーが美声でいい人すぎるが、悪を感じさせない最初のアリアなんて聞き惚れちゃいます。
これもまた耳に親しんだエインズリーのヨハネ、ジェニファー・スミスのマグダラのマリアも素敵なもので、節度あるイギリス系の歌唱は安心できます。
ヘンデルの与えたアリアがリズミカルだし、ノリがいいものだから、ルシファーが聴きごたえがあり、天使さんはほんのりしすぎて聴こえるのがやや残念かな。
でも、ブロックフレーテと中音の通奏低音を伴った天使の歌は、暖かくほんわかとします。

メサイアと連続して聴くもよし、バッハの受難曲のあと、厳しさに疲れたあとのお口直しに聴くもよし、ヘンデルの「復活」、いい曲です。

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梅雨前から雨の多いこのところの関東。

貴重な晴れ間とツツジが美しかった連休。

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つつじの色合いは、あでやかですな。

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