2023年9月16日 (土)

「ベームのリング」発売50周年

バイロイト音楽祭は終了し、暑さも残りつつも、季節は秋へと歩みを進めてます。

今年のバイロイトは、新味と味気のない「パルジファル」の新演出で幕を開け、昨年激しいブーイングに包まれたチャチでテレビ画面で見るに限る「リング」、チェルニアコフにしては焦点ががいまいちの「オランダ人」、安心感あふれる普通の「トリスタン」、オモシロさを通り越してみんなが味わいを楽しむようになった「タンホイザー」などが上演された。

でも、音楽面での充実は、暑さやコ〇ナの影響による配役の変更があったにせよ、極めて充実していたと思います。
指揮者で一番光ったのは、タンホイザーを指揮したナタリー・シュトッツマンでドラマに即した緩急自在、表現力あふれる生きのいい演奏でした。
次いで、カサドの明晰で張りのあるパルジファルというところか。
コ〇ナ順延と自身の感染で、2年もお預けとなり初年度にして最後となってしまったインキネンのリングは、正直イマイチと思った。
気の毒すぎて、本来3年目にして最良の結果を出すところだったのに。
来年はジョルダンに交代となってしまう。

悲しいニュースとしては、体調不良で音楽祭開始前に出演キャンセルをしたステファン・グールドが、音楽祭終了と同時に胆管癌であることを発表し、余命も刻まれていることを公表したこと。
世界中のワーグナー好きがショックを受けました。
タフなグールドさん、ご本復を願ってやみません。

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1973年の7月30日、世界同時に「ベームのリング」が発売されました。

今年は、それから50年。

思えば、このリングのレコードを入手したことから、ワーグナーにさらにのめり込み、好きな作曲家はまっさきに「ワーグナー」というようになった自分の原点ともいうべき出来事だったのです。

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72年頃から、NHKのバイロイト放送を聴きだし、その年に初めてのワーグナーのレコードとして、「ベームのトリスタン」を購入。
その秋には、レコ芸のホルスト・シュタインのインタビューで、66・67年の「ベームのリング」が発売されるという情報を得る。
翌73年夏、ヤマハからパンフレットと予約のハガキを送ってもらい、親と親戚を説得して購入の同意を獲得。
待ちにまった「ベームのリング」が父親が銀座のヤマハから運んできてくれたのが8月1日。

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分厚い真っ赤な布張りのカートンケースは、ずしりと重く、両手で抱えないと持てないくらいの重厚さ。

中蓋には手書きで愛蔵家のシリアルナンバーがふられてました。

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この番号、いまならパスワードにして生涯使いたいくらいです。

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ボックスの中には、4つの楽劇がカートンボックスに納められ入ってました。

4つのカートンには、それぞれ対訳と詳細なる解説が盛りだくさんの分厚いリブレットが挿入。

舞台写真や歌手たちの写真、ベーム、ヴィーラントの写真もたくさん。

これを日々読み返し、新バイロイト様式による舞台がどんな風だったか、想像を逞しくしていたものでした。

ときにわたくし、中学3年生の夏でした。

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解説書の表紙にもヴィーラント・ワーグナーの舞台の写真が。
なにもありませんね、いまの饒舌すぎる舞台からするとシンプル極まりない。
音楽と簡潔な演技に集中するしかない演出。

そうして育んできた私のワーグナー好きとしての音楽道、ワーグナーはおのずとベームが指標となり、耳から馴染んだ音響としてのバイロイト祝祭劇場の響き、そして見てもないのに写真から入った簡潔な舞台と演出、それぞれが自分のワーグナーの基準みたいなものになっていったと思います。

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ヴィーラント・ワーグナーとベーム博士。

戦後のバイロイトの復興においては、このふたりと、クナッパーツブッシュ、カイルベルトをおいては語れない。
いまのように映像作品も残せるような時代だったらどんなによかっただろうと思う。
映像でワーグナーの舞台が残されるようになったのは、バイロイトではシェロー以降だが、そもそもいまでは普通の感覚となった、あの当時では革命的であったシェロー演出も、ヴィーラントとウォルフガンク兄弟の興した新バイロイトがあってのもの。

そもそもヴィーラント・ワーグナー(1917~1966)が早逝していなければ、その後、外部演出家に頼るようになったバイロイトがどうなっていただろうか。
祖父の血を引く天才肌だっただけに50前にしての死は、ほんとうに残念でなりません。

「ベームのリング」は66年と67年のライブ録音ですが、このヴィーラント演出は1965年がプリミエで、全部をベームが指揮。
66年は1回目をベームが指揮し、残りの2回をスウィトナーが担当。
67年には、ベームはワルキューレと黄昏の1,2回目のみを指揮してあとは全部スウィトナー。
こんななかで、2年にわたるライブが録られたことになります。
68年には、マゼールに引き継がれ69年にはヴィーラント演出は終了してます。

ヴィーラントの死は、1966年10月ですが、その年の音楽祭が始まる頃には、ヴィーラントはすでに入院していて、だいぶよくないとの噂で、バイロイトの街も沈んでいたといいます。(愛読書:テュアリング著「新バイロイト」)
そんな雰囲気のなかで始まった66年のリング、「ラインの黄金」と「ジークフリート」はともに初日の録音。
みなぎる緊張感と張りのある演奏は、こんな空気感のなかで行われました。
同時に、「ベームのトリスタン」も同じ年です。

ついで67年は、ヴィーラント亡きあと、ウォルフガンク・ワーグナーに託されたバイロイトの緊張感がまたこれらの録音に詰まっていると思います。
演出補助は、レーマンとホッターが行っていて、ベームはワルキューレと黄昏のみに専念。
2年間に渡る録音で、ベストチョイスの歌手が統一して歌っているのも、このリングの強みでしょう。
ダブルキャストで、ウォータンを66年にはホッターが歌っているのが気になるところですが、通しで統一されたのは、ショルティやカラヤンよりも一気に演奏されたベーム盤の強みです。

指揮者の招聘にもこだわりをみせたヴィーラントは、その簡潔で象徴的な舞台に合うような、「地中海的な精神の明晰をもって明るく照らし出すことのできる指揮者」、曇りのない音楽を求めたものといわれる。
サヴァリッシュやクリュイタンスがその典型で、モーツァルトの眼鏡でワーグナーを演奏するとしたベームもそうだろう。
その意味でのスウィトナーがベームとリングを分担しあったのもよくわかることです。
さらに、ブーレーズに目を付け、ついに66年に登場したものの、ヴィーラントはすでに病床にあったのは悲しいことです。

モーツァルトとシュトラウスの専門家のように思われていた当時のベームは、20年ぶりに指揮をしたという65年のバイロイトのリングで、これまでのワーグナー演奏にあったロマン主義的な神秘感や情念といったものをそぎ落とし、古典的な簡潔さとピュアな音、そこにある人間ドラマとしての音楽劇にのみ集中したんだと思う。
そんななかでの、ライブならではの高揚感がみなぎっているのもベームならです。
ヴィーラント・ワーグナーの演出ともこの点で共感しあうものだったろうし、象徴的な舞台のなかで音楽そのものの持つ力を、きっと観劇した方はいやというほどに受けとめたに違いない。
いま、ほんとにそれを観てみたい。

過剰で、いろんなものを盛り込み、自己満足的な演出の多い昨今。
みながら、あれこれ詮索しつつ、その意味をさぐりつつ、いつのまにか音楽が二の次になってしまう。
映像で観ることを意識した演出ばかりの昨今。
ワーグナーの演出、しいてはオペラの演出に未来はあるのか?
突き詰めたベームのワーグナーを聴きながら、またもやそんなことを考えた。

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タイムマシンがあれば、あの時代のバイロイトにワープしてみたいもの。

不満をつのらせつつも、行くこともきっとない来年のバイロイトに期待し、ワーグナーの新譜や放送に目を光らせ、膨大な音源を日々眺めつつニヤける自分がいるのでした。

それにしても、スウィトナーのリングもちゃんと録音して欲しかった。

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2023年9月11日 (月)

神奈川フィルハーモニー 平塚公演

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昨年オープンした、ひらしん平塚文化芸術ホール。

手前は平塚小学校跡の脇に大樹を誇る樟樹(クスノキ)。

明治28年に芽吹いたものとされます。
平塚は、関東大震災と大空襲と重なる被災がありましたが、立派な雄姿に感心してホールを背景に1枚撮りました。

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  ホルスト 「セントポール」組曲

  ラヴェル  ボレロ

  朝岡 真木子 「なぎさ」

  中田 喜直  「歌をください」

  中田 喜直  「夏の思い出」

  平井 康三郎 「うぬぼれ鏡」

     S:岩崎 由紀子

  ムソルグスキー(ラヴェル編) 「展覧会の絵」

  オッフェンバック 「天国と地獄」ギャロップ

    太田 弦 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

          コンサートマスター:依田 真宣

        (2023.9.9 @ひらしん平塚文化芸術ホール)

ボレロと展覧会という名曲に加えて、惑星だけじゃないホルストの瀟洒な弦楽組曲、そして地元平塚のレジェンド歌手、岩崎さんをむかえてオーケストラ編曲伴奏で歌曲。
クラシック初心者から、ある程度の聴き手までを満足させるプログラムでした。

ヴォーン・ウィリアムズとともに英国の民謡を収集し、愛したホルストの面目躍如たる4編からなる弦楽のための組曲。
神奈フィルの弦楽セクションの美しさが光る演奏で、最後にグリースリーヴスの音色が浮かび上がってくるところは、実にステキでした。

もしかしたら、小澤&新日以来、何十年ぶりに聴くボレロの生演奏。
指揮棒なしで指揮をする若い太田くん。
昔聴いた40歳の小澤さんの指揮は、左手だけでずっと指揮をして、弦が奏で始めたら指揮棒を持った右手で振り始めました。
ともかく全身が音楽をまさにあらわしたような指揮ぶりでした。
もちろん太田くんには、そんな芸風はまだまだはるかに及びませんが、よく頑張りました。
欲をいえば、慎重にすぎたか、展覧会もそうだけど、少しハメをはずしてもいいのかなとも思いましたね。
でも、わたくしは、おなじみの神奈川フィルの皆さんのソロ、ベテランも若い方も、みんなうまくて、それぞれのソロを堪能しました。
とくに今月ご卒業の石井さんのファゴット、味わい深く、しっかりと耳に焼き付けました。

平塚出身の岩崎さん、プロフィール拝見しましたら、私が育ったエリアでもっとも憧れの高校のご出身で、そこから一念発起、郷土を愛するソプラノ歌手になられたとのこと。
二期会の会員でもあり、平塚周辺での活動もかなり活発だった由で、もしかしたら私もどこかで聴いていたかもしれません。
そんな風に、どこか懐かしい、優しい歌声の岩崎さん。
平塚の海を歌った地元産の美しい「なぎさ」、思わず切実な内容に歌唱だった「歌をください」、オペレッタ風、レハールを思わせるような軽やかな「うぬぼれ鏡」。
タイプの異なる3曲を、しっかりと歌い分け、聴き手の耳に優しく届けてくださった。
失礼ながら年齢を感じさせない素敵な歌声でした。
間にストリングスだけで、「夏の思い出」、夏の終わりに後ろ髪ひかれるような雰囲気に。

実は、生演奏で初めて聴く「展覧会の絵」。
いわゆる「タコミミ」名曲なので、リラックスして聴けました。
親しみすぎたメロディばかりなので、思わす、太田くんを差し置いて指が動いてしまうのを必死に押さえましたね(笑)
ここでも堅実・無難な演奏に徹した太田くん。
これまで、ことに「歌」が入るとあまり気にならなかったホールの鳴りすぎる響き。
このホール、前回は2階席で平塚フィルを聴いたときはブレンド感がよく、気にならなかったが、1階席中ほどで聴いた今回は、プロオケが全開したときの威力によることもさることながら、すべての音が前方と上方から降り注いでくる感じで、音が響きに埋没してしまう。
そのかわり、ソロのシーンは実によく聴こえるし、虫メガネで拡大したようにリアルに聴こえる。
一方で、トウッティになるとガーーっと鳴ってしまう。
指揮台は一番苦戦したかもしれませんね。
でも、大オーケストラの迫力を楽しむには充分満足で、多くの聴き手が興奮したこと間違いなし。
平尾さんのシンバルもバッチリ決まった!
展覧会終結と同時に、後ろにいらしたご婦人が、ふぁーーすっごい!と言ってらっしゃった。

思わず、笑顔こぼれるアンコールも、この演奏会のトリとして正解。

あれこれなしに、楽しいのひとことに尽きる演奏会でした。

終演後、ホールをあとにした楽員さんの何人かにご挨拶。
自分にとって懐かしい皆さんに、平塚の地でお会いできたのも嬉しい1日でした。

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これまた久方ぶりにお会いできた、神奈フィル応援メンバーとも再開し、平塚の地の魚で一献。

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鉄火巻は大好物で、最高のおつまみにもなります。

楽しかったーー。

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2023年9月 1日 (金)

ディーリアス 「夏の歌」 オーウェル・ヒューズ指揮

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行く夏を惜しんで、わたくしのもっとも好きなディーリアス作品にひとつ「夏の歌」を。

こちらは、秦野の弘法山へ登る途中からみた市街と、遠くに富士山。

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    ディーリアス 「夏の歌」

 オーウェン・アーウェル・ヒューズ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

       (1988.4.18 @ミッチャム、ロンドン)
 

若き頃の放蕩がたたったのか、晩年に失明し、四肢も麻痺してしまったディーリアス。
1929年に大好きな海辺で弟子のエリック・フェンビーに口述して書かせた音楽。

「海をはるかに見渡せる、ヒースの生えている崖の上に座っていると想像しよう。高弦の持続する和音は澄んだ空だ。・・・・・・」(三浦淳史氏) 

交響詩と呼ぶほどの描写的なものでもなく。音による心象風景や若き日々への回想といったイメージ。
(以下過去の記事を編集)
冒頭まさに、高弦の和音が響くなか、低弦で昔を懐かしむフレーズが出る。
フルートが遥か遠くを見渡すような、またほのかに浮かんだ雲のようなフレーズを出す。
この木管のフレーズが全曲を通じで印象的に鳴り響く。
ついでディーリアスらしい郷愁に満ちた主旋律が登場し、曲は徐々に盛上りを見せ、かなりのフォルテに達する。
海に沈まんとする、壮大な夕日。
沈む直前の煌々とした眩しさ。
曲は徐々に静けさを取り戻し、例のフレーズを優しくも弱々しく奏でながら、周辺を夕日の赤から、夜の訪れによる薄暮の藍色に染まりながら消えるように終わってゆく・・・・・。

この幻想的な音楽は、海の近くに住んだ自分、そしてまた歳を経て、海の街に帰ってきた自分にとって、一音一音すべてが共感できるもの。

夏の終わり、海を渡る風も涼しくなり、ひとり佇む海辺に、こんなに相応しい音楽はないと思う。

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こんな夕暮れを子供時代から見てきた。

わたしにとってのノスタルジーの風景。

こんな夕暮と夕日に向かって飛ぶ鳥の絵なんかを描いていた少年だった。

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バルビローリ、グローヴズ、ハンドリーの演奏をずっと聴いてきた。

オーウェル・ヒューズ盤は録音もよく、美しく繊細な演奏で最近お気に入り。

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2023年8月26日 (土)

ブリテン 戦争レクイエム ジョルダン指揮

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相次いだ悲しみの訃報で、記事のUPがあとになりました。

毎年の8月の終戦の日周辺には「戦争レクイエム」を聴きます。

民間人への無差別攻撃・・・あきらかに犯罪です。
戦後78年経過、日本の政治家で「あれは犯罪だぜ!」とはっきり言える人はいません。

アメリカの政権が民主党に変って3年。
世界は、そこからおかしくなってしまった気がします。
良くも悪くも、自由主義国の盟主だったアメリカの混沌と無力化は、世界もおかしくしてしまう。
国内に向けて、アメリカファーストをつらぬいた前政権と違い、昔のように覇権的な動きを強めた現政権。
均衡が崩れ、多極化してしまった世界に、私は不安しか感じませんね。

日本はいまこそ、自立の道を歩んで国内を強くするチャンスなのに・・・・
悲しい、虚しい現実しか見せてくれませんなぁ。

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  ブリテン 戦争レクイエム

    S:ジェニファー・ホロウェイ
    T:イアン・ボストリッジ
    Br:ブライアン・マリガン

 フィリップ・ジョルダン指揮 サンフランシスコ交響楽団
               サンフランシスコ交響合唱団
               ラガッツィ少年合唱団

       (2023.05.18 @デイヴィス・シンフォニーホール、SF)

今年の5月のサンフランシスコ響のライブを同団のストリーミング放送で聴きました。

ジョルダンがサンフランシスコ響に客演するのも珍しいし、オペラの人として膨大なレパートリーを持つジョルダンのブリテンということでも新鮮極まりない演目。
バリトンはイギリスからの来演で、ペテルソンが予定されていたが渡米不能となり、地元歌手のマリガンが急遽代役に。
ブリテンの初演時の意図は、かつての敵国同士の国の歌手を共演させることにもあり、ヴィジネフスカヤ(ソ連)、ピアーズ(英)、FD(独)の3人による初演を目論んだが、ヴィジネフスカヤはソ連当局の許可が下りずにヘザー・ハーパーが代役を務めた。
レコーディングでは、当初の3人で実現していることはご存知のとおり。

ブリテンの自演レコ―ディーングから20年後にラトルがデジタル録音をするまで、作者以外のレコードはなかったが、現在はまさに隔世の感あります。
同じようにブリテンのオペラも、各劇場で上演されるようになり、普通に聴かれ、観劇される作品となりましたね。
バーンスタインの音楽も同様に多くの演奏家による様々な演奏を経て、それらがスタンダートな音楽へとなっていくことを今も確認中であります。

「戦争レクイエム」の放送があれば、毎回録音し、自身のアーカイブを充足してきましたが、正規レコーディングもふくめ、実に多くの指揮者が取り上げるようになったものです。
手持ち音源を羅列すると、ブリテン、ラトル、ハイテインク(2種)、ギブソン、ジュリーニ、サヴァリッシュ、ガーディナー、K・ナガノ、C・デイヴィス、ヒコックス、ネルソンス、ヤンソンス、小澤、デュトワ、パッパーノ(2種)、M・ウィグルスワース、ハーディング、グラディニーテ・ティーラ、ヨアナ・マルウィッツ、そしてジョルダン。

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さてジョルダンのライブですが、パリからウィーンに移って音楽監督としてプリミエ級の上演すべてを指揮してます。
いずれもORFがライブ放送してくれるので聴いてきましたが、現時点では、そのすべてが最良といえるものでなく、生気あふれるパリやウィーン響時代のジョルダンらしくない面も聴かれます。
やっつけ仕事のように、テキパキと進めてしまう傾向もときにみられました。
やはり、ウィーンの国立劇場はなかなかに鬼門なのか、連日ピットに入るメンバーも一定せず、指揮者も統率しにくいのではと思いますね。
アバドがウィーンを離れることになったのは、そうした面も多分にあった。

そのジョルダン氏、他流試合とも呼ぶべきサンフランシスコの地で目も覚めるような切れ味のよさと、慈しみにあふれた優しい目線の演奏を聴かせてくれます。
ブロムシュテット、MTTによって鍛え上げられ、いまはまたサロネンにより、近世の音楽への適時性を発揮するサンフランシスコ響。
実にうまいし、金管も鳴りすぎず、全体の響きのなかに見事にそれぞれの楽器がブレンドされ、ディエスイレでは実に見通しがよく、清々しい響きだ。
シスコ響の持つヨーロッパ風の響きと乾いたシャープな音色が実に素晴らしい。
デイヴィスシンフォニーホールの音色もよく、ライブ放送の臨場感もよく出ている。

歌手ではなんといってもボストリッジの安定感が、この作品のスペシャリストである証として光ってます。
この人の声のどこか逝ってしまったかのような美声と冷たさは、かつてのピアーズの域に達したと思いますね。
あと、いま各劇場で活躍中のホロウェイの情のこもった誠実な歌唱も素敵だ。
急遽の代役マリガン氏も初めて聴くバリトンだが、英語圏の歌手だけに、明晰でかつ力強い声で、ボストリッジとの声の対比もよろしい。

という具合に褒めまくってしまったが、全般に音が楽天的に感じたことも事実。
しかし、この偉大な作品も、こうしていろんな演奏で、いろんな光が当てられるのを聴く喜びは、毎年こうして尽きることがありまえん。

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秦野の出雲大社相模分祠。

丹沢山脈の清らかな伏流水が市内のいたるところにあふれてます。

こちらでも、冷たい名水をいただくことができ、暑い日に喉を潤すことができます。

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2023年8月18日 (金)

レナータ・スコットを偲んで

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 メトロポリタンオペラのニュースの冒頭。

またもや悲しみの訃報が。

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名ソプラノ、レナータ・スコットさんが、8月16日、生まれ故郷の北イタリア、ジェノヴァ近郊の街、サヴォーナで逝去。
享年89歳。

訃報相次ぎました。
飯守さんに継いでの悲しみ、さらに数日前は、スウェーデン出身のドラマティックソプラノ、ベリッド・リンドホルムも亡くなってしまった。

3年前に亡くなったフレーニの1歳上だったスコット。
フレーニの訃報を聞いた時に、心配になってスコットの動静を調べたりしたものです。
そして、そのとき安心したのもつかの間、この時を迎えてしまった。

地中海に面したサヴォーナは漁村でもあり、父は警察官、母は裁縫士で、歌うことが好きだった彼女は窓辺で外に向かって歌を披露し、道行く人からご褒美にキャンディをもらったりしていたという。
後年、まさにお針子の娘だった出自は、ミミを歌い演じるときのヒントとなったと語ってます。

18歳でスカラ座でヴィオレッタでデビュー、その後はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を重ね、数々の録音も残したのはご存知のとおりです。
レッジェーロからコロラトゥーラで、その最初の全盛期をむかえ、70年代初頭には不調期となりますが、声の変革を多大な努力のもと行って、
ドラマティコ、リリコ・スピントの領域へその声も移行し、70年代後半以降、ドラマティックな役柄もたくさん演じ、録音も復活して輝かしい第2黄金期を築いたのでした。

私がスコットを初めて聴いたのは、1973年のNHKイタリアオペラ団の来演の放送。
ワーグナー一辺倒から始まった私のオペラ好きへの道は、この年の来演で、FMから演目の紹介を兼ねて何度もレコードが放送され、それを聴き、本番も生放送で食い入るように聴き、テレビも興奮しながら観まくり、イタリアオペラへの開眼も済ませたのでした。

ヴィオレッタとマルガレーテの2役を歌ったスコットは、テレビで観るほどに、役柄に没頭したその姿が感動的で、ともに健気な女性をうたい演じてました。
スコットのこのときの歌と演技を見ていて、中学生ながらにオペラで歌手が、歌をいかに演技に乗せて、それをドラマとして築きあげ視聴する側の気持ちを高めていくのか、ほんとうにすごいことだと思ったのでした。

その後、スコットはソロで何度か来日していますが、残念ながら、わたしはスコットの声を生で聴いたことがありません。

手持ちのスコットの音源からアリアを抜き出して聴いて、今宵は偲ぶこととしました。

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 ベッリーニ 「カプレーティとモンテッキ」

1967年スカラ座でのアバド、パヴァロッティ、アラガルらとの共演。
ちゃんとした録音で出ないものかとも思うが、視聴には差支えのない録音状態で、瑞々しくも美しく、軽やかなスコットの声が楽しめる。
アバドとは、ヴェルディのレクイエムぐらいしか共演はなかったかもしれない。

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 ヴェルディ 「リゴレット」 

1964年のユニークなキャストによる録音。
高音の凛とした美しさと、まだ純朴さもただよう素直な歌は実に新鮮。
テクニックも確かで聞惚れてしまう。
これなら娘を思う親父の気持ちもわかろうというもの。

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 ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」

後年のムーティ盤でなく、62年録音のこちらの方が好き。
ジルダよりもさらに若々しい声は、耳も心も洗われるような思いがする。
スカラ座のオケもすんばらしい。

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73年のNHKホールでのあの姿、若いカレーラス、味わい深いブルスカンティーニとともに、いまでも脳裏に浮かぶ。

 ヴェルディ 「オテロ」

78年の録音。
彫りの深い歌唱は、運命にもてあそばれる不条理さ、最後には清らかさも歌いだして見事。
ドミンゴとミルンズという絶好の相方たちを得て、オペラティックな感興も増すばかり。
でも最近、ドミンゴの声に食傷気味。

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 プッチーニ 「マノン・レスコー」

80年のメットライブ、映像もあり。
多様な生活を送りつつも、一途な愛を貫こうとするひとりの女性をスコットは見事に歌い演じてます。
この役に関しては、スコットとフレーニが双璧。
映像でみると、さらに迫真の演技が楽しめる。
レヴァインの指揮も素晴らしい。

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 プッチーニ 「ラ・ボエーム」

若き日のDG盤は未聴、ここでは79年のレヴァイン盤で。
ロドルフォのクラウスとともに、ベテランでありながら、折り目正しい模範解答のような素晴らしすぎる恋人たち。
スコットの母を思いつつ歌うミミは、フレーニとともに、わたしには最高のミミです。
ラストは泣けてしまい、まともに聴けない・・・・

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 プッチーニ 「トスカ」

80年録音、スコットの唯一のトスカ。
技巧を尽くしながらも自然な歌い口と強い説得力を持つ歌唱。
止められなくなるので、「歌に生き、恋に生き」だけを聴いて涙す。。。

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 プッチーニ 「蝶々夫人」

66年のバルビローリ盤。
後年のマゼールとの再録は実は未聴で、蝶々さんにこのバルビローリ&スコット盤が残されて、ほんとに感謝しなくてはならない。
初々しい若妻としての可愛さ、船を待つ情熱、そして覚悟の死へと、スコットの蝶々さんは涙なしには聴けない。
うなり声も入ってしまうバルビローリの指揮も最高じゃないか。

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 ヴェルデイ アリア集

83年の録音。
マクベス夫人も歌うようになり、全盛期を過ぎてしまったスコットの声だけれども、エリザベッタのアリアなど悔恨の情が著しく聴きごたえあり、こうして若き日の声からずっと聴いてきて、ひとりの偉大な歌手の足跡とたくまぬ努力の道筋を感銘と感謝とともに確認できました。

ほんとうに寂しい。

いつも歌手の訃報に接すると書くことですが、楽器と違い、人間の声は耳に脳裏に完全に刻み付けられます。
だから歌手たちの声は、ずっと自分のなかに残り続けるのです。
それがいま存命でないとなると、自分のなかの何かが、ひとつひとつ抜け落ちていくような気がするのです。

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レナータ・スコットさんの魂が安らかならんこと、心よりお祈りいたします。

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飯守 泰次郎さんを偲んで

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               ヒラサ・オフィスの発表より

8月15日、飯守 泰次郎さんが逝去されました。
訃報を翌日知り、ほんとうに驚き、わたくしのワーグナー視聴歴にも、なにかひと時代が終わったという感慨につつまれました。

いうまでもなく、飯守さんは日本の産んだ世界最高クラスのワーグナー指揮者。
60年代半ばから、バイロイトでの練習ピアニストなどの下積み経験を経て、ドイツの各劇場でさらに研鑽を積むという、カペルマイスター的な叩き上げのオペラ指揮者で、71年からはバイロイトの音楽助手を務めるようになり、まさにバイロイトに仕えたマエストロであります。
全盛期のベーム、シュタイン、ヨッフム、ヴァルビーゾ、ブーレーズなどの元でオーケストラを整え、ワーグナーの神髄を吸収していった。

そんな飯守さんの日本への凱旋は、1972年の二期会の「ワルキューレ」。
二期会のリングチクルスの一環だったが、ワーグナーに目覚めた中学生のワタクシは、音楽雑誌を眺めてはどんな音楽なんだろ?とため息をつくばかりでした。
ホルスト・シュタインのN響客演の翌年、1974年にはN響に登場され、わたしがN響アワーで食い入るようにして観たのが「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死。
過去記事で何度か書いてますが、律儀に6拍子をきっちり振り分ける明快かつ冷静な指揮ぶりが印象に残ってます。

飯守さんのライブでの経験は、わたくしはワーグナーばかり。
でも少ないのです・・・

「トリスタンとイゾルデ」 コンサート形式 名古屋フィル        1995年1月
「ツェムリンスキー 抒情交響曲」 名古屋フィル       1995年7月
「ベルント・ヴァイクル ワーグナー」名古屋フィル      1995年10月
「ワルキューレ」オーケストラルオペラ 東京シティフィル   2001年
「ローエングリン」オーケストラルオペラ 東京シティフィル  2004年
「パルジファル」オーケストラルオペラ 東京シティフィル   2005年11月
「ナクソスのアリアドネ」関西二期会 関西フィル       2008年1月
「ワルキューレ」二期会 東京フィル             2008年2月A
「ワルキューレ」二期会 東京フィル             2008年2月B
「トリスタンとイゾルデ」オーケストラルオペラ シティフィル   2008年9月
「小山由美 リサイタル、ツェムリンスキー、ワーグナー      2010年4月
「トリスタン、ブルックナー7番」神奈川フィル        2014年4月

いずれも思い出深い演奏ばかり。
なかでもシティフィルとの一連のオーケストラルオペラは、飯守さんの指揮ぶりが間近でみれた上演なので、氏の熱い、ワーグナーのすみずみまで知り尽くした棒さばきから目が離せませんでした。

同時期に若杉さんと飯守さんという、ふたりの偉大なオペラ指揮者を聴くことができたことは、この先もしかしたらそんなに長くない、わが音楽人生のなかでも一番輝いていた頃かもしれません。

若杉さんが新国の芸術監督だった頃、指揮をしないときでも、ほとんどの演目で若杉さんの姿をお見掛けすることがありました。
そして何度も若杉さんと飯守さんがホワイエで談笑されている姿も・・・
飲み物を買おうと並んだら、なんとそんなお二人の真後ろだったことがあった。
おふたりが何をお飲みになったか、もう覚えていませんが、どちらかがジンジャーエールだったかと思う。
静かな若杉さん、熱く語る飯守さん、ふたりの言葉はよく聴こえませんでしたがこれもまた良き思い出。

新国立劇場の芸術監督時代、わたくしは仕事の不芳もたたり、新国での飯守さんのワーグナー上演にひとつも行けず、オペラからも遠ざかりました。
返す返すも残念なことでした。
人生には波や流れがあり、わたしの音楽ライフもおおいに左右され、この先も見えつつあるところ。

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新国立劇場の追悼ツィート。
泣けちゃいます。

飯守さんの音源はそこそこあるが、残念なのはオペラがひとつもないこと。
2度にわたる「リング」の音源化など出来ないものだろうか。

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慈しみあるれる「ジークフリート牧歌」を聴いて、飯守さんを偲びます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

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2023年8月 6日 (日)

フェスタサマーミューザ ヴァイグレ&読響 「リング」

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ベートーヴェンさんも、ヴァケーションを謳歌中。

にやり、としつつも、ほんとはあんまり嬉しくないのかも(笑)

真夏の音楽祭、フェスタサマーミューザのコンサートへ。

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  ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調

  ワーグナー   楽劇「ニーベルングの指環」
           ~オーケストラル・アドヴェンチャー~
            ヘンク・デ・フリーヘル編

   セバスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団

           コンサートマスター:日下紗矢子

         (2023.8.1 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

いうまでもなく、聴衆のねらいは、「リング」。
フランクフルト歌劇場をながく率い、リングの録音もあるし、バイロイトでの経験もあるヴァイグレのワーグナーですから。

しかし、65分ぐらいのサイズは演奏会の後半向きで、前半になにをやるかが、プログラム作成上のおもしろさでしょう。
これまで2度のコンサート鑑賞歴がありますが、ペーター・シュナイダーと東京フィルでは、今回の同じベートーヴェンで4番。
デ・ワールトとN響のときは、シュトラウスの「4つの最後の歌」で、このとき歌ったスーザン・ブロックは、ブリュンヒルデとしても自己犠牲のシーンに登場するという本格ぶりでした。
あと、いけなかったけど、神奈川フィルではスコットランド系の指揮者で、前半はエルガーの「南国から」を演奏している。

そんな前半のベートーヴェン8番は、さわやかで、肩の力がぬけた桂演で、7番と対をなすリズムの交響曲であることも実感できました。
コンサート前、ヴァイグレさんが、プレトークに登場し、この8番のおもしろさを歌いながら語ってくれました。
ヴァイグレさん、いい声ですね、テノールの声域で口ずさむメロディも見事につきます。
日本語もほぼ理解されてるようで、心強い!
ワーグナーの解説では、ワーグナーというと身構える方も多いかもですが、ともかく聴いて、面白いと思ったら帰ったらネットで物語の内容を調べて、長大な音楽にチャレンジを!と語ってました。

低弦から始まる「ラインの黄金」の前奏からリアル・オケリングが眼前で楽しめました。
フリーヘルの編曲は、ヴァイグレさんも語ってましたが、いつのまにか他の場面に自然につながっていく巧みなもので、休止なく、ラストのブリュンヒルデンの自己犠牲に65分でたどり着く、まさにアドヴェンチャー体験です。
ヴァイグレの指揮は、流麗で早めのテンポ設定を崩さず、流れを重視したもので、聴き手は安心して身を任せて聴き入ることができます。
その分、ワーグナーのうねりや、コクの深さのようなものは感じられず、すっきりスマートな今風のワーグナーだと思いまろんした。
もちろんフリーヘルの編曲が、名場面とジークフリートの自然描写的な場面が重きをおいているので、そうしたワーグナーの要素を求めるのは無理かもしれませんが。
そんななかでも、葬送行進曲は、わたしにはサラサラと流れ過ぎて、クライマックスでいつも求める痺れるような感銘はなかったし、最後の大団円でも、あざといタメのようなものも求めたかった。
それでも、全体感と通しで聴きおおせたときの感動はかなり大きく、最後の和音が清らかに鳴り終わったあとも、ヴァイグレさんは指揮する両手を上に掲げつつ、しばし静止し、オーケストラも微動だにしない時間が続いた。
まんじりとしないホール内。
ゆっくりと腕を下ろして、しばし後に巻き起こるブラボーと盛大な拍手。
実によきエンディングでした。
昨今、無謀な早計な拍手やブラボーを非とするSNSなどの書き込みを拝見してますが、今宵はそんなのまったく信じがたい、実に心地よく感動的な大団円でした。
救済の動機を奏でるヴァイオリンの音色が、ハープに伴われてミューザの天井に舞い上がって行くのを耳と目でも実感してしまった。
涙がでるほど美しかった。

鳴りやまぬ拍手に、楽員が引いたあと、ヴァイグレさんは見事だったホルン首席を伴って登場し喝采を浴びてました。

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来年からはワーグナーさんも混ぜてあげて・・・・

短すぎる65分と思う人々に、4楽章形式での「リング」交響曲を提案したい(笑)

Ⅰ「ラインの黄金」 序とかっこいい入城シーンをラストとする第1楽章
Ⅱ「ワルキューレ」 緩除楽章として兄妹の二重唱とウォータンの告別、勇ましい騎行はこの際なし
Ⅲ「ジークフリート」スケルツォ楽章、剣を鍛えるシーンに恐竜退治に森のシーン
Ⅳ「神々の黄昏」  夜明け→ラインの旅→ギービヒ家→裏切りとジークフリートの死→自己犠牲でフィナーレ

1時間45分、マーラーの3番、ブライアンのゴシックなどのサイズでいかがでしょうか。

あとフリーヘル編、存命だったら指揮して欲しかった指揮者はカラヤンですな。

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帰宅してから乾杯。

ヴァイグレさん、アイスラーやるんだ。
歌手が豪華ですよ、さすがオペラの人のコネクション。
ガブラー、マーンケ、ヘンシェル、シュトゥルクルマン。
行こうと思うが平日なのが・・・・

フランクフルトオペラを引退したヴァイグレさんの後任は、注目の若手、グッガイス。
ヴァイグレさんは、どこかほかの劇場に行かないのかな、気になるところです。

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2023年7月30日 (日)

ワーグナー 「パルジファル」 カサド指揮 バイロイト2023

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ドイツのニュース画像から拝借。

ワーグナーの夏、バイロイト音楽祭が7月25日から開幕。

世界中が猛暑にみまわれるなか、バイロイトのオープニングは雨となり、気温も22度ぐらいと、あの冷房なしの劇場はきっと過ごしやすかったことでしょう。
政治家や著名人が集うレッドカーペットは、バイロイト市民の楽しみとも言いますが、政治から引いたメルケル元首相は、今年も旦那さんとともに注目を浴びていて、EUのライエン委員長とともに写っている一方、現職のショルツ首相は見当たらないので地味さは否めない。

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EUにおけるドイツの地位の低下、しいてはEUそのものの在り方が、よりアメリカになびかざるを得ない状態がウ・露戦で浮彫になったと思う。
それをバイロイトに結び付けるとも強引かとも思うが、Netflixのようなオリジナルドラマ化を目指した「リング」に加え、マサチューセッツ工科大学の音楽と演劇の教授であり、演出家のジェイ・シャイブは、まさにアメリカ人であり、今回の「パルジファル」の舞台もアメリカ抜きでは考えられない内容になっているとおもった。

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  ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルジファル」

    アンフォルタス:デレク・ウェルトン  
    ティトゥレル:トビアス・ケーラー

    グルネマンツ:ゲエルク・ツェッペンフェルト     
    パルジファル:アンドレアス・シャガー

    クリングゾル:ヨルダン・シャナハン 
    クンドリー:エリナ・ガランチャ

    聖杯守護の騎士:シャボンガ・マクンボ、イェンス=エリック・アスボ
    小姓:ベスティ・ホルネ、マーガレット・プルンマー
       ヨルゲ・ロドリゲス=ノルトン、ギャリー・ディヴィスリム
    花の乙女:エヴェリン・ノヴァーク、カミーユ・シュノア
         マーガレット・プルンマー、ユリア・グリュター
         ベスティ・ホルネ、マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト
    アルト独唱:マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト

   パブロ・ヘラス-カサド指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                 バイロイト祝祭合唱団
        合唱指揮:エーベルハルト・フリードリヒ
        
        演出:ジェイ・シャイブ

          (2023.7.25  @バイロイト)

バイエルン放送によるストリーミング音楽再生を早々に視聴。
フライブルクのバロックオケとシューベルトやメンデルスゾーンまでのロマン派領域まで時代考証を経た演奏を重ねてきたカサド。
さらにはモンテヴェルディのスペシャリストでもあり、ウィーンでそのオペラ三部作を上演中。
かと思えば、ブラームスやチャイコフスキー、ヴェルディ、現代音楽も普通に指揮してるという、ともかく想定外のレパートリーを次々と繰り出す指揮者、そんなイメージだったカサド氏。
さぞかし、快速でブーレーズばりの高解像度のパルジファルを作り上げるのかと思った。
しかし、予想はなかばあたりつつも、大幅に外れた、それも予想外に良い方に。

バイロイトでの演奏タイム

 トスカニーニ              4時間48分
 クナッパーツブッシュ (1962) 4時間19分
 ブーレース        (1970) 3時間48分
 シュタイン        (1969) 4時間01分
 ヨッフム         (1971) 3時間58分
 シュタイン        (1981) 3時間49分
 レヴァイン        (1985) 4時間38分
 ティーレマン       (2001) 4時間20分
 ブーレーズ          (2005) 3時間35分
 A・フィッシャー     (2007) 4時間05分
 ガッティ         (2008) 4時間24分
 F・ジョルダン      (2009) 4時間14分
 ヘンシェル        (2016) 4時間02分
   ビシュコフ       (2029)      4時間09分  
 カサド         (2023)      4時間06分

毎度のとおり、演奏時間がその演奏の良しあしではないですが、その演奏のひとつの目安でもあります。
カサドは歴代指揮者の中で、早くもなく、遅くもなく、全体のテンポ感では中庸と言えます。
こうしてみるとブーレーズの大胆ぶりがわかるし、レヴァインの長大ぶりもわかります。
あとシュタインが、ベームばりの凝縮された演奏に徹していたこともわかる。

そんななかで、テンポ感だけからみたカサドの演奏は、1幕と3幕の聖杯騎士たちの合唱の部分が、ものすごく速く強弱も豊かでビビットであること。
実際の舞台を見れば即わかる、こんな場面では荘厳・勇壮な音楽では釣り合わないと。
しかしながら、即興性あふれる豊かな情感を伴ったカサドのパルジファルは、夏の暑さに早くも食傷気味の私にとって、新鮮かつ極めて鮮烈だった。
抑え気味になにも起こらない清潔な前奏曲、長大なグルネマンツの昔語りも、まるで昨日のことのように具象的、パルジファル登場の躍動感、聖堂へいざなわれる場面のスピード感と、先にあげた騎士たちの合唱の躍動感。
2幕では、妙に健康的な花の乙女たちのシーン、最高の聴きものだったパルジファルの覚醒と悩めるクンドリーのシーンの緊迫感。
3幕は、まったく普通に聖金曜日の音楽の高まりがすばらしく、同じく普通に感動してしまう。
ラストシーンは清涼感あるも、あっさりと通り過ぎてしまいすぎで、あんな舞台ではなぁと思ったりもしたが、このあたりの霊感不足は今後もっと良くなると思いますね。

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 映像では、バイロイトの特製Tシャツや、ポロシャツをカジュアルに着こなして指揮をするカサドの姿が各幕映されてます。
暑そうなピットに、指揮棒を持たないカサドの指揮ぶりがよく分かる仕組み。
カーテンコールでは、スリムスーツ姿で登場して喝采を浴びてます。

歌手もいずれも素晴らしい。
このプロダクションの目玉のひとつがクンドリーに挑戦したガランチャ。
こちらは美人だから映像で見るとまたひとしおなんですが、冷徹・冷静・悲劇的なクンドリーを歌い演じた。
まっすぐな声は、彼女の強い表現意欲を感じさせ、ふたりのメゾが必要とされるほど二面性のあるこの役の難しさを、まさにひとりで体現していて、知的なセンスに裏打ちされた考え抜かれた歌唱は、かつてのスマートな歌いぶりとは違う、強靭さと強い感情表現に驚いた。

安定のツェツペンフェルトの安心して聴けるグルネマンツはまったく素晴らしい。
ただあまりの目力の強さは、演技以上に、いろんな意味あいを持たせてしまうので、あんまり、目の玉ぎろぎろしない方がいいのではといつも思う。

カレヤの罹患でピンチヒッターとなったのはシャガーで、歌い慣れたパルジファルだけあって、力強さと説得力は抜群で、アンフォルターースの叫びも堂にいったものだ。
楽天的な歌いぶりが、パルジファルやジークフリートのような役柄にはぴったり。
悩めるアンフォルタスのウェルトンが思わぬ拾い物で、これまでクリングゾルを歌ってきてのアンフォルタスは没頭感あるバス・バリトンとして、この先、ウォータンで登場する可能性を思わせた。
ほかの諸役も万全だが、端役や合唱に多国籍・多様な面々が目立つのも昨今のバイロイト、そして欧州の劇場のいまであろう。

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Photo Borrowed from the Bavarian Radio

映像による舞台も鑑賞。
ことしのパルジファルのジェイ・シャイブの演出は、当初よりARメガネ着用による新たな観劇スタイルということが喧伝された。
拡張現実という、ゲームの世界からビジネス、医療などへとその分野を文字通り拡張していった仮想空間体験をオペラでも味わってもらおうというもの。
しかしながら、バイロイトの劇場のキャパ2000人に対し、準備されたARグラスの数は330。
最後部座席とBOXシートに座った方々だけが、そのARグラスを装着することができた。

舞台は舞台で、それだけを観てる人には普通の上演であり、一方で音楽を耳から、ARグラスで仮想空間の映像を観るという、いわばふたつの観劇方法を制作するということで、その労たるや・・・とまず思ってしまう。
いずれDVDで発売されるときは、その両方が楽しめるようになると思うが、実際に客席にいた人は、ARグラスを外してしまう方も多かったといい、視覚疲れとか、音楽に集中できないとか、別な問題が生じた模様。

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その仮想空間では、どんなものが見えたかというと、ドイツの新聞情報では、パルジファルのシンボルの数々、昆虫、花、木、槍、血を流す白鳥、平和の鳩などのようで、その他、この演出家の主眼であった環境問題に関することなどが映しだされた模様。
そりゃ疲れますわな、虫がリアルに自分の方に飛んできたら悲鳴上げる人もいるだろうよ。

一方の舞台も、考え、解釈するのもめんどくさいことばかりの昨今の演出を裏切らないもの。

グルネマンツは、前奏曲からクンドリーそっくりの第2クンドリーとイチャイチャしてて困ってしまう。
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黄色いエプロンを付けた工場の監督官みたいな存在で、聖杯守護の騎士や小姓たちも、工場労働者風。
奥では黄色いガスのようなものも発生していて、舞台には泉が据えられ、メタルっぽい全体感がある。
クンドリーがアンフォルタスに持って来た秘薬は、ビニール袋に入った黄色い粉。
パルジファルが射貫く白鳥は、超リアルで、血みどろ。

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聖堂のシーンでは、天井から放射状のLEDライトで出来た丸い輪っかが降りてきて、眩しい光の加減などから、まるで「未知との遭遇」を思わせた。
アンフォルタスは白いカジュアルなロングシャツで、患部に丸い穴が開き血が出てる。
騎士たち、というか労働者たちが聖具的なグッズを数々運んできて前に並べるが、これらは偶像の品々で宗教へのアンチテーゼだろうか。
聖杯の開帳を急くティトゥレルは、まるでミイラのように醜い。
聖杯と思しきものは「2001年宇宙の旅」に出てくるようなメタリックな群青色の岩石で、これにアンフォルタスは傷口を開いて血を浴びせる。
その滴る血を器に入れ、それをティトゥレルは口にすると、驚くべきことに、ミイラみたいなティトゥレルはつやつやの顔に若返り、シャンとしてしまい、騎士たちもそれぞれにその血を口にする。
これらの異様な儀式を見ていたパルジファルは、さかんにアンフォルタスの傷と同じ場所を痛がっている。

さっきの聖杯みなしの岩石と同じ形に穴の開いたピンクに彩られた場所から、これまたピンクのスーツに、花柄の肉襦袢を付けたクリングゾルが、精力みなぎる雄牛の被り物で腰を槍にこすり付け、股間もまさぐりつつ歌う姿はエロ魔人そのもの(笑)

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花の乙女たちもみんなピンクで、一部は金髪、パツキンのねーちゃん。
もれなく花の肉襦袢を着ていて、みんな脱いじゃう。

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パルジファルになぎ倒された男の死体もあるが、新しい若者の登場で、その死体の首はぶん投げられ、死体も人形そのものの動きで彼女たちに投げ捨てられてしまい、声に出して笑った。
クンドリーは情熱的というよりは悩み多い雰囲気で、陳腐なベットソファでパルジファルと濃厚な接吻を見せる。
助けに応じ出てきて槍を構える師匠クリングゾルに対し、楯となってパルジファルを守る仕草をするクンドリーが新しい。

朽ちた世界が舞台に展開。
ここでボロボロになった戦車のような機械が全貌を現し、どうやら掘削マシーンのようだ。
眠るクンドリーの傍らに潰れたペットボトル、そしてすっかり汚れてしまった服を着たグルネマンツもペットボトルを手にして水を飲む。
半分白かったクンドリーの髪は、ほとんど白髪に変貌し、表情も変化。

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鎧が傷だらけとなったパルジファル、槍は泉のほとりに立て、定番の聖金曜日に準備は整い、ほぼ通例の洗礼シーンに安心する。
クンドリー2号も同じくパルジファルの足を洗う仕草をする。
花畑はまったく展開しないが、クンドリー2号が花束を持っている。

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聖杯騎士たちの嘆きのシーンでは、池からLEDのリングが忽然と出現し、またもやスピルバーグかと思う。
ここでは、クンドリー2号が全体を見通して仕切っているようにも見えるがいかに。
アンフォルタスの破れかぶれの様子に混乱の人々、もみくちゃにされるグルネマンツ、冷静に見守るクンドリー1号。
そこへパルジファルは、しずしずと出てきて槍(っぽいもの)をアンフォルタスの傷口に当て、すっかり治癒。
ラストの聖杯を掲げる場面は、例の群青色の岩石を掲げたはいいが、下にたたきつけて粉々にしてしまう。
音源で気になっていたガシャーンという音はこれだった(笑)
泉の中央に進み出たパルジファルは、戸惑うクンドリー1号をこちらへといざない、彼女も真ん中へ。
リングの上方を見つめつつ、楽劇は大団円を迎えるが、傍らではグルネマンツとクンドリー2号が抱き合いご縁を戻した様子。
はぁ~、と思いつつ幕。

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なんだかよくわからん演出だけど、余計なことをしてないし、ヘンテコな読み下しもない。
しかし、海外紙や演出家の言葉などからわかったこと。

騎士団は、レアアースのコバルトを採掘する鉱山労働者だった。
この際、十字軍以降の騎士団の歴史などを調べてみようとも思うが、宗教的な活動から端を発し、軍事的な存在にもなっていく各騎士団。
経済的な存在にも併せてなっていくので、先住民族のいるエリアに入り込んで収奪も行ったかもしれない。
そんな背景がここにあるのかはわからないが、J・シャイブはレアアース獲得競争が引き起こす環境破壊をもテーマにしているようだ。
ということで、彼らが崇めていたのは、聖杯でなく、そのレアアースであるコバルトそのものだった。
それを拝み、血の儀式を行うことで息長らえる。
騎士たちは、白いTシャツを着ていて、そこには平和の象徴、パルジファル最後に聖杯の周りを飛翔する「鳩」の絵が描かれていた。
3幕では、そのシャツを着た人物は一人ぐらいしか見当たらず、迷彩服、またはアフリカ民族衣装的な衣装が3幕では大半となった。
収奪が進み、コバルトを掘りつくしてしまったのか。

パルジファルの本来背景にある男性社会、その絆が導き出す聖杯守護の騎士たちという概念。
これを完全無視し、それがここでは崩壊している。
さらに、パルジファルは聖杯と見立てたレアアースを粉々にしてしまう。
これは、環境破壊に対するアンチテーゼであり、いまの世界にとって答えのない問いなのである。
パルジファルでこれをやるか?

パルジファルのシャツの胸には「Remenber me」、クンドリーの衣装の背中には「Forget me」と記されている。
このふたりの和解による共同事業がラストシーンでもあると思われた。
クンドリーは救済されて息絶えることなく、生きてパルジファルととも歩むことを予見させる。
ついでに、クンドリー2号にもforget meと書いてあり、グルネマンツと再び結ばれちゃう。なんやねん。
男性社会に徹底的にNoを突きつけるのだな(笑)

過去のアメリカのSF映画の名作を思わせるシーンや、2幕のピンクずくめの世界は、70年代のヒッピー文化のようで、サイケデリック。
花の乙女はバービー人形そのものだった。

こんな感じに断片的な印象しかなく、鈍感な私には、通底する強いメッセージはまったく読み取れなかった。
大いに感心したのは、衣装や装置などが見事にエージングされていて、経年劣化の様子や服の汚れ具合が実に見事。
逆にあまりみたくないのが「血」。
血のシーンが多いし、関係ないけど接吻シーンも妙にリアルで長い(笑)
伝統破壊のキャンセルカルチャーで、ワーグナーの楽劇をめちゃくちゃにしないでほしい。
ともかく世界の「パルジファル」はみんなこんなになっちまった。

カーテンコールは1幕でブーが飛び、3幕終了後は、歌手たちと指揮者に盛大なブラボーの嵐。
演出家・衣装・舞台製作などのチームが出てきたらお約束の激しいブーイングに包まれ安心しましたよ(笑)

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亡父に花を手向けるアンフォルタス。

今年のバイロイトは、ことにリングの売れ行きが悪く、チケットもばら売りをしたとか。

バイロイトの当主、ワーグナー家の運営に対する批判も多く、資金的な問題もあったりして、バイロイト友の会、連邦政府、州政府などとの駆け引きも今後注目。
数年後にはカタリーナ・ワーグナー体制の継続可否が問われるようだ。
ウィーンのインテンダントを長く務めたホーレンダーは、バイロイトばかりでない、ドイツのオペラ界のよくない兆しとして「気に入らないものを食べさせられたら、もう同じものを注文しない」としてオペラからの観客離れを指摘している。

同時に、インフラの高騰で生活の厳しくなっている世界中の人々にあって、オペラの高いチケットは早々に手が出るものでない。
まして、またアレ?を見せられるのかとなると、わざわざ高いお金を使いたくないだろう。
社会問題をわざわざ、オペラを通じて見せられることの意義はあるのか?
私はNOです。
そんなの違うとこでやれよと。
「伝統と革新」、バイロイトの立ち位置とするところと思うが、いまの社会問題は政治性が強すぎて、どこに真の問題を見出すか困難だと思う。
もっとワーグナーの本質をみせて欲しい、それこそが伝統であり、そのうえに今一度、革新性を築き上げて欲しいものだ。

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2023年7月23日 (日)

フェスタサマーミューザ ノット&東響 オープニングコンサート

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アロハ着た、ファンキーなサマー・モーツァルトがお出迎え。

2004年に開館、翌2005年から始まったサマーミューザ、18年目の今回、オープニングコンサートに行ってきました。

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 チャイコフスキー 交響曲第3番 ニ長調 Op.29「ポーランド」

          交響曲第4番 へ短調 Op.36

       ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

          コンマス:グレブ・ニキティン

        (2023.7.22 @ミューザ川崎シンフォニーホール) 

真夏のチャイコフスキーを堪能。

めったに演奏されない3番、全集の一環としてしか録音されない、6つの交響曲の中では一番地味な存在。

あらかじめ、ノット監督のチャイコフスキーの交響曲に対する考えを読んでから望んだコンサートで、氏の思いとする演奏になったと2曲ともに思いますが、両曲で解釈が違った。

ノットが東響の指揮者になって10年。
この間、協奏曲はおろか交響曲も一度もとり上げたことがないそうだ。
海外では4番と5番は指揮しているし、「エウゲニ・オネーギン」も何度も取り上げているという。
オペラの叩き上げの指揮者ノットにとって、チャイコフスキーはフォルテが3つも付いた爆音や、勇ましい金管などではなく、詩情とはかなさに満ちた音楽に神髄があると見出しているようだ。
 また1~3番をよく見通したうえで、さらにはロシアの他の作曲家についても思いを巡らして検証したとも語っている。
ノットの演奏は、同じ演目でも次の日は解釈が違う場合があるというし、ホールによっても変わって来るともいう。
考える人ノットのこうした思いを、東響は完全に理解して、ほんのちょっとの動きや視線などにもすべて反応できているという。

さて3番。
ワタクシは、ハイティンクやアバドのヨーロピアンな演奏が刷りこみで、ロシア系の演奏はほとんど聴いてません。
ゆえに民族臭を一切感じさせない、スタイリッシュなノットの演奏にはすんなりと入りこめ、ワクワク感もひとしおだった。
5つの楽章で、まるでマーラーの7番を思わせる構成は、ノットも語っている。
両端楽章に挟まれた3つの楽章、その両端はワルツやスケルツォで、ど真ん中が詩的な緩徐楽章。
わたしには真ん中の楽章が夜曲のように聞こえたし、その次の4楽章は、奇異でファンタジックな様相を巧みに表出。
一転して終楽章は、一気にギアを上げた感じで。ポロネーズではあるけれど、一気呵成のロンド楽章のような解釈。
私は手に汗するくらいにこの演奏にのめりこみ、ドキドキが止まらなかった。
バレエっぽい様相もあるけれど、こちらはオペラの大団円みたいな壮大さで、高らかに鳴り渡るオーケストラに留飲が下がりました。

後半の4番。
聴き慣れたこちらもユニークな演奏で、冒頭のホルンの抑えた咆哮ぶりは期待していた向きには、冷水を浴びせるような響きだった。

チャイコフスキーがメック夫人に宛てたというそれぞれの楽章の注釈。
①運命の旋律! これが中間部のメランコリックな雰囲気に浸っていても、人間を現実に戻してしまう。
②仕事に疲労困憊。夜中に過去を想う。
③酒を飲んだときのとりとめない観念。
④生きるには素朴な喜びが必要。どんなに苦しくても、その存在を認め、悲しみを克服するために生き続ける・・・・・。

まさにこれ。
圧倒的な1楽章の悲観的な最後も、さほどの狂気はなく、どこか後ろ髪を引かれるもどかしさも伴った。
東響の素晴らしい木管陣が見事だった2楽章は抑制が効いていて、憂鬱度合いは少なめ。
そして、ここでもムードを一転させたのが3楽章。
テンポを速めにとり、一気呵成に、酒酔いの混乱も次の喜びへの前哨戦のようだ。
アタッカで突入した終楽章は、音色の明るさの爆発で、ミューザの高い天井から輝かしい音たちが降り落ちてくるのを体感でき、暑さも吹っ飛ぶ爽快さに脱帽。
決して圧倒感と効果のための盛り上げ感などとは無縁の明るさあふれるエンディングでありました。

おお盛り上がりの会場。
鳴りやまぬ拍手に応え、ノット監督ひとりで登場し喝采を浴びてました。
さらに、この日退団のため最後のステージとなったトランペットの佐藤さんを伴って再度登場、自身も暖かい拍手を長年務めた団員に捧げておりました。
ノットと東京交響楽団の絆の深さを、あらためて感じたチャイコフスキーでした。

ちなみにオーケストラの配置は、対抗配置で、チェロは第1ヴァイオリンの横、その左手奥にコントラバスといった具合で、この配置が、特に3番の場合、実に効果的であったことを最後に書いておきます。

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この日は、遠来の音楽愛好仲間でノットの追っかけをされてますS氏と、アバドの日本一の愛好家のY夫妻と、ほんとに久方ぶりにお会いできました。
短い時間でしたが、みなさんお車関係などで飲めるのはワタクシだけで申しわけなくもビールを一杯。
楽しいアフターコンサートを過ごし、お別れしたワタクシは賑わう川崎の街にひとりフラフラと。

そこで飲んだのが、糖質ゼロのパーフェクトビールの生。
缶では飲んでるけど、生で出てくるのは初めて。

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枝豆食って、唐揚げ食べて、ハイボール飲んで、気分よろしく川崎をあとにしましたよ。

サマーミューザ、次は・・・ふっふっふ🎵

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2023年7月22日 (土)

ワーグナー 「ワルキューレ」第1幕 クレンペラー指揮

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何度も書きますが、夕焼けが大好きです。

ワーグナーとディーリアスに目覚めた中学時代。

こんな夕焼けを眺めながら、ウォータンの告別や黄昏の自己犠牲、ディーリアスの音楽を聴いたものです。

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     ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」 第1幕

        3幕~ウォータンの告別

    ジークムント:ウィリアム・コックラン

    ジークリンデ:ヘルガ・デルネッシュ

    フンディンク:ハンス・ゾーティン

    ウォータン :ノーマン・ベイリー

 オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

     (1969.10、12、1970,10 @オール・セインツ教会)

7月6日は、波乱万丈の大指揮者、オットー・クレンペラー(1885~1973)の没後50年の日でした。

10代の中学生だった自分、覚えてますよ。
88歳、チューリヒの自宅で子供たちに囲まれての大往生だったといいます。
ドイツとイスラエルの二重国籍のクレンペラー、ワーグナーに関しては管弦楽曲集が高名だし、オランダ人の全曲も神々しい演奏。
しかし、後期の作品は劇場でほとんど指揮をしていなかったともいわれ、一方で自身と同時代のオペラ作品を積極的に世に広めることをしたこととの対比が、いかにもクレンペラーっぽいところ。

一聴して驚くそのテンポの遅さ。
聴き慣れたワルキューレの1幕はだいたい60~62分ぐらいなのに、クレンペラーは71分。
しかし、このテンポはこの演奏の一面であって、この特異なワルキューレに耳がすぐに慣れてしまい、まったく自然だし、そこにぎっしり詰まったクレンペラーの作り出す音に圧倒され、そのままあっという間に兄妹の歓喜は駆け抜けるようにして終わってしまう。
そう、こちらの音楽を聴いているという時間軸を感じさせないと同時に、情感の高まりも感じさせないのでした。

弛緩した感じさは一切なく、そこには緊張感とともに、音楽の意味がぎっしり詰まっているし、楽員の緊張と感じ入っての演奏の様子も聴いて取れる。
しいていえば、1年後に録音された3幕の方に、やや緊張感の切れる場面を感じたりもした。
総じて、頑固一徹、ロマンティシズムに背を向けた無慈悲なワルキューレの1幕で、ジークムントのヴェールゼの叫びや、ノートゥンクと妻を得た喜びはなく、ウェルズングの血を叫ぶ最後の雄たけびもあっさりかたずけられ肩すかしを食う。

ワルキューレの1幕はこうあるべきだ、悲劇臭の濃い、そのなかに見いだせる禁断のロマンティシズムといった、こちらの思い込みをすべてくつがえしてくれるクレンペラーの演奏。
でも不思議と響きは軽く透明感があるのは当時のマイルドなフィルハーモニア管の持ち味にもよるところだろうか。
録音会場の響きの豊かさもあるかもしれず、アビーロードスタジオでなかったことも幸い。

テスタメントの1幕のみの復刻と、国内盤の2CDを聴いているが、あきらかにテスタメント盤の方が明晰で音のビリ付きは少ない。
タワレコによる復刻版もあるようだが、いまの自分にはこれで充分。
クレンペラーがもう少し早くリング全曲を見据えて録音してくれたら・・・・そんな思いですが、はたしてどんなリングになったろうか。

デルネッシュのジークリンデがすばらしい。
カラヤンとブリュンヒルデ、ショルティとエリーザベトを録音した時期のもので、デルネッシュのドラマティックソプラノとしての最盛期の記録。
のちのベーレンスに通じるような、女性らしさを伴った凛々しく真っ直ぐな声は気品という風格を与えていると思う。

あとレコーディングにはあまり恵まれなかったゾーティンの豊かで、コクのあるバスも素晴らしいと思う。
私はバイロイトでグルネマンツを長く歌ったゾーティンの深みと若さもあるバスが好きで、ウィーンの来演で観たオックス男爵も実に印象深い。

ジークムントのコックランはどうかな?
スタイリッシュなほかの歌手のなかにあって、やや古めかしい歌唱に感じたし、やや一本調子に陥るところもある。
コックランは、のちの録音であるシュレーカーの「烙印」での狂気あふれる歌唱が印象的な歌手。
ここでは、ジークムントらしくないし、クレンペラーに押さえられて爆唱に至らなかったのではと思ったりもしてる。

告別のみのベイリーのウォータン。
このブリテッシュ・バス・バリトンは美声。
まろやかな声と歌い口が過ぎて、厳しさ不足だけれども、告別のシーンだけだからよし。
ショルティのマイスタージンガーのザックスもとてもよかった。

1幕とウォータンの告別だけで、やはりお預けを食らった欲求不満は募ります。
2幕の死の告知や、ウォータンの長大なモノローグ、3幕の父娘のやりとりなど、クレンペラーはどんなふうに指揮しただろうか。
残された大巨匠のリングの断片から、あれこれ妄想するのも楽しからずや。
しかし、不思議なワルキューレとの思いもいつも捨てられない。

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73年に発売時のレコ芸広告。

この1973年は、アンチェル、ケルテス、カザルス、イッセルシュテット、ホ-レンシュタイン、クレッキ、シゲティと、思い出深い音楽家の訃報が目立ちました。

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もうすぐ始まる夏のバイロイト。

今年も話題は豊富で、カサドの指揮による「パルジファル」では客席でAR視聴をするというもの。
タイトルロールのカレヤがおそらくコ〇〇で、はやくもリタイアし、シャガーが急場を救う。
ほかにも歌手の入れ替えは多数。
ガランチャのクンドリーはどんなふうに?
インキネンのリングの指揮はどうなるか?
タンホイザーを指揮するシュトルッツマン、女性指揮者が二人という史上初のバイロイト、今後もさらに増えそう。

年中聴いてるけど、夏こそワーグナー。


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