2016年7月10日 (日)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 ハーディング&新日フィル

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もう1週間も前ですが、ほんとに久方ぶりのサントリーホール。

夏、カラヤン広場は、ビアガーデン風になってましたよ。

ありがたいことに、いつもお世話になってます音楽仲間の方から、チケットをお譲りいただきました。

演目は、「千人の交響曲」

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  マーラー 交響曲第8番 変ホ長調 「千人の交響曲」

     S:エミリー・マギー、ユリアーネ・バンゼ、市原 愛

     A:加納 悦子、中島 郁子

     T:サイモン・オニール

     Br:ミヒャエル・ナジ   Bs:シェンヤン

  ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
                    栗友会合唱団
                    東京少年少女合唱団
                    合唱指揮:栗山文昭、長谷川久恵

                      (2016.7.4@サントリーホール)


Music Partner of NJPの称号を持つ、ダニエル・ハーディングのポスト最後の演奏会。
本サントリーホールの前に、本拠地トリフォニーで2回の演奏を重ね、練られ、磨き上げられた3度目の終演。
実に素晴らしい演奏でした。

満席のサントリーホールを、揺るがすような大音量ではなく、そして、この曲がおちいりがちな壮大さだけのこけおどし演奏でもなかった。
満場の聴衆の、それこそ、吐く息や、鳴りそうなお腹さえも聴こえてしまいそうで、それを意識して控えたくなるような、そんな絶妙なピアニシモ。
その静寂の美しさと、静寂での歌心。

そう、わたくしは、ハーディングの背中と指揮姿を見ながら、クラウディオ・アバドのことを思っていた。

オルガン一声、第一部は、わたくしは苦手なのですが、そんな気分を察してくれたのか、さっさと音楽は進行し、バンダ吹き荒れるその終結部も、かなりあっさりと早めのテンポで終了した。
まぁ、ひとつには、久しぶりのコンサートでもあり、心がちょっと虚ろだったこともありますが・・・・。

そして、第2部。
緻密かつ憂いに満ちた冒頭部、そして、オケの右側に登場した二人の神父が情熱的に歌う。
ナジの美声、ただでさえ、この歌が大好きなものだから、わたくしの眼は決壊してしまった。第1次決壊である。
次ぐ冥想する教父は美声ではあるものの、声が届きにくい声質だったかも。

しかし、ここから始まる、千人交響曲のオペラ的な展開は、何度聴いても、没頭できるし、ファウストの物語の源流にある女性賛美、女性的なるものへの憧れ、それを音にしたマーラーの凄さに震える。
 マリアを讃えるテノール、オニールが素晴らしかった。
プロムスやバイロイトの放送で、ワーグナー歌手として認識していたオニールだけど、ちょっと荒っぽい印象を持っていたが、ここでは全然違った。
もっとリリカルで、これもまた美しい声だった。
一方でパワフルな声量も。
 

次ぐ第3部の静かなオーケストラの展開。
ここで、決壊第2波。
何度も聴いてきたエミリー・マギーの豊穣なる声にうっとり。

もうひとりのソプラノ、バンセも連日の猛暑からでしょうか、声にやや疲れを感じたけれど、彼女ならではのリリカルで優しい歌声は魅力的。
 涼しげなオーケストラのパレットも常に素晴らしくって、ハーディングはよく歌わせ、そしてよく抑えていた。

2階席左手から歌った市原さんの聖母の歌声に、はや昇天の気分。
そこに追い打ちをかけるように、マリア崇拝のテノール。
このあたりにくると、もう、ワーグナーのオペラのラストシーンのように、ヘルデンテノールが音楽を締めるような感じで、胸が高鳴ってきて、ここで第3次決壊にいたった。

ハープ、チェレスタが天上の趣きを醸し出し、ピッコロが気持ちをいやがうえでも高めるなか、静寂のなか神秘の合唱。
第4次決壊では、思わず、嗚咽しそうになってしまった・・・・。
高まりゆく感動が、自分でも抑えがたく、あらゆる辛いことや、哀しいことも、すべて飲みこんでしまうように思えてきた・・・・・。

感動の大団円。
お約束のフライングブラボー。
ものすごい拍手の嵐。

そんなことは、もうどうでもよかった。
涙にあふれ、わたくしは、しばらく拍手もできなかった。

 いっさいの無常なるものは、ただ影像たるにすぎず。
 かつて及ばざりしところのもの、ここにはすでに遂げられたり。
 永遠に女性的なるもの われらを引きてゆかしむ

                       
こんな美しい千人交響曲を聴かせてくれたハーディング。
もう10年も前だろうか、マーラー・チェンバーと初来日して、モーツァルトの後期交響曲の鬼気迫る演奏で驚かせてくれた。
 今回の節目のコンサート。
彼は、秋に、パリ管でシューマンの「ファウストからの情景」を取り上げる。

大きな拍手の応えて、マイクをとったハーディングは、これまでのこと、そして3.11のマーラーのことなどを語り、最後は、ちょっと許してねと、ポッケからスマホを取り出し、オケや聴衆をバックに自撮り。
 さらに舞台がひけても、鳴りやまない拍手に応えて、シャツ姿で登場して、われわれとの別れを惜しんでました。

こんな素晴らしいコンサート、Sさん、ほんとうにありがとうございました。

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2016年6月26日 (日)

シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク アバド指揮

Ajisai_shiba

関東は、梅雨まっさかり。

そして、ほぼ3ヶ月ぶりの投稿となりました。

幾多の皆さまから、暖かく、そしてご配慮にあふれたコメントを頂戴しながら、まったくご

返信も、反応もしなかったこと、ここに、あらためまして、お詫び申し上げます。

 ともかく、辛く、厳しい日々は、ブログ休止時と変わりなく続いてます。

しかも、予想もしなかったところから、いろんな矢が飛んできたりもします。

やぶれかぶれの感情は、そこから生まれ、音楽なんて、聴くゆとりも、受け入れる感情もありません。

そんな3ヶ月。

 しかし、でも、めぐってきた、「クラウディオ・アバドの誕生日」

存命ならば、今年は、この26日が、83回目。

そんな日に、アバドが生涯愛した、新ウィーン楽派の3人の作曲家を、いずれもウィーンフィルの演奏で聴きます。

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  シェーンベルク  「グレの歌」から 間奏曲、山鳩の歌

長大なグレの歌、全部を聴けないから、この作品のエッセンスとも呼ぶべき、中ほどにある場面を。
1900年に作曲を始め、第3部だけが、オーケストレーションが大幅に遅れ、最終完成は、1911年。
1913年に、シュレーカーの指揮によって初演。

後期ロマン派真っ盛りの作品ながら、最終完成形のときのシェーンベルクは、無調の領域に踏み込んでいたところがおもしろい。
1912年には、ピエロリュネールを生み出している。

むせかえるような甘味で濃厚な間奏曲、無常感あふれる死と悲しみの心情の山鳩の歌。
アバドのしなやかな感性と、ウィーンフィルの味わいが融合して、何度聴いても心の底からのめり込んでしまう。
久々に、音楽に夢中になりました。

アバドのこのライブ録音は、1992年。
88年には、マーラーユーゲントとECユースオケとで、何度も演奏していた。
そして、最後のルツェルンとなった、2013年に、この間奏曲と山鳩を取り上げた。
この最後の演奏が、掛け値なしの超絶名演で、まさに陶酔境に誘ってくれるかのような、わたくしにとってとても大切な演奏となってます。

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ルツェルンでの最後のアバド。

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  ウェーベルン  パッサカリア

ウェーベルンの作品番号1のこの曲は、1908年の作。

シェーンベルクの弟子になったのが、1904年頃で、グレの歌の流れを組むかのような、これまた濃厚な後期ロマン派的な音楽であり、グレの歌にも増して、トリスタン的でもある。

パッサカリアという古風ないでたちの形式に、ウェーベルンが込めた緻密さとシンプルさが、やがて、大きなうねりを伴って、巨大な大河のようなクライマックスとカタストロフ。

この濃密な10分間を、アバドは、豊かな歌心でもって静寂と強音の鮮やかな対比を見せてくれる。
むせぶようなホルンの効果は、これはまさにウィーンフィルでないと聴けない。

1974年、シェーンベルク生誕100年の年、ウィーンでは、新ウィーン楽派の音楽が数々演奏されたが、そのとき、アバドは、ウィーンフィルとこのパッサカリアや、5つの小品を取り上げ、NHKFMでも放送され、わたくしはエアチェックして、何度も何度も聴いたものだ。
 その音源は、いまも手元にあって、あらためて聴いてみても、若々しい感性が燃えたぎり、ウィーンフィルも、今とはまったく違う、ローカルな音色でもって、それに応じているところが素晴らしい。

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  ベルク  交響的組曲 「ルル」

新ウィーン楽派の3人のなかで、一番若く、そして一番早く死を迎えてしまったベルク。

ウェーベルンと同じく、1904年に、シェーンベルクの弟子となり、以降、ずっとウィーンで暮らすことになるベルクだが、ユダヤの出自であった師がアメリカにのがれたのに対し、ベルクはユダヤではない代わりに、その音楽が退廃音楽であるとして、ナチス政権成立後は、その活動にかなりの制約を受けることとなった。

そんななかで、生まれたのが「ルル」。
破天荒な青年時代を送り、ぜんそくに悩まされ、病弱であったベルクは、文学好きということもあって、オペラの素材には、生々しい死がからむ、いわばヴェリスモ的な内容を選択した。
それが「ヴォツェック」であり、「ルル」である。
さらに、晩年の不倫も、「ルル」の背景にはあるともされる。

人生の落後者のような軍人と、魔性の女、ファム・ファタール。
それらが、悲しみとともに描かれているところが、ベルクの優しさであり、彼独自の問題提起の素晴らしさ。

ことに、「ルル」の音楽の運命的なまでに美しく、無情なところは、聴けば聴くほどに、悲しみを覚える。
自分の苦境に照らし合わせることで、さらにその思いは増し、ますます辛く感じた。
そんな自分のルルの聴き方が、また甘味に思えたりするのだ。

「ルル」は、1928~35年にかけての作品。
間があいているのは、アルマの娘マリーの死に接し、かのヴァイオリン協奏曲を書いたためで、ベルクは3幕の途中で亡くなり、未完のエンディングを持つ「ルル」となった。

アバドは、ベルクも若い頃からさかんに指揮していて、70年のロンドン響との作品集に続き、ウィーン時代の94年に、ウィーンフィルといくつもの録音を残している。
ニュートラルなロンドン盤もいいが、やはり、より濃密で、ムジークフェラインの丸みのある響きも捉えたウィーン盤の方が素晴らしい。

ロンド→オスティナート→ルルの歌→変奏曲→アダージョ

オペラの場面をシンフォニックにつないだ組曲に、アバドは、オペラの雰囲気も感じさせる迫真性と抒情をしのばせた。
「ヴォツェック」は何度も指揮したのに、「ルル」は、ついに劇場では振ることがなかった。
ウィーン国立歌劇場時代、上演予定であったが、辞めてしまったため、その計画を実現しなかったから、この組曲盤は、アバド好きにとっては貴重なのであります。

さてさて、暑いです。

まだ梅雨だけど、そぼ降る雨はなくて、晴れか土砂降りみたいな日本。
熊本の地震もあったし、大きな地震への不安は尽きない

ばかな都知事や辞めたけど、疑惑は消えないし、消化不良のまま参院選と、まもなく都知事選が始まる。
矛盾だらけの政治に社会。
 そして、海外へ眼を転ずれば、どこか某国が、偉そうに軍船で領海侵入を繰り返し、虎視眈々と長期計画で持って、ねらってきているし、さらに英国のEU離脱が、世界規模でもって、政治経済に影響を与える流れが進行中。

今後もトピックは、まだまだ続出するでしょうが、ブログ休止してた間に、こんないろんなことが起きてしまう2016年。
「ルル」の原作ではありませんが、「パンドラの箱」が次々に開いてしまうのか・・・・

しばらく、また消えますが、もう事件事故災害は勘弁してください、神様。。。

それでは、また、いつか。

Shiba_8
    

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2016年3月31日 (木)

お知らせ、そして、しばしさよなら

Tokyotower_g

3月31日の、朝に東京タワー。

晴れやかな気分に、桜の花もまみえて、大いに満たされました。

 そして、さよなら。

「さまよえるクラヲタ人」は、しばらく休業いたします。

・・・・・・・・・

言葉に詰まります。

 ほんと、たいへんな日々が続いてます。

音楽を愛する気持ちと、何よりも、それを求める欲求は高いです。

しかし、その、ささやかな想いすら、ままならなくなってしまった。

え~い、もういい!

ですから、ズバッと、みんな切り捨てます。

断腸の思いで。

Tokyotower_h

今年も、遅ればせばがら、桜は、しっかり、ちゃんと咲きました。

 これまでの記事は、このまま。

更新は、しばらくしません、そういうことにしました。

コメントへの返信は、ままならないかもしれません。

ながらく、ありがとうございました。

さようなら。

 そして、あるとき突然、思いのままに、新規記事を起こすかもしれませぬ。

しばし、おわかれです・・・・・・

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2016年3月30日 (水)

大好きなオペラ総集編

Tokyo_tower

桜は足踏みしたけれど、また暖かさが戻って、一気に咲きそう。

まだ寒い時に、芝公園にて撮った1枚。

すてきでしょ。

大好きなオペラ。

3月も終わりなので、一気にまとめにはいります。

Tristan

  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

ワーグナーの魔力をたっぷりと含んだ、そう魅惑の媚薬のような音楽。
この作品に、古来多くの作曲家や芸術家たちが魅かれてきたし、いまもそれは同じ。
我が日本でも、トリスタンは多くの人に愛され、近時は、歌手の進化と、オーケストラの技量のアップもあって、全曲が舞台や、コンサート形式にと、多く取り上げられるようになった。

わたくしも、これまで、9度の舞台(演奏会形式も含む)体験があります。

そして、何度も書いたかもしれませんが、初めて買ったオペラのレコードがこのトリスタンなのであります。
レコード店の奥に鎮座していた、ずしりと重いベームの5枚組を手に取って、レジに向かった中学生を、驚きの眼差しでもって迎えた店員さんの顔はいまでも覚えてますよ。

ですから、指揮も歌手も、バイロイトの響きを捉えた、そう右から第1ヴァイオリンが響いてくる素晴らしい録音も、このベーム盤がいまでも、わたくしのナンバーワンなんです。

次に聴いた、カラヤンのうねりと美感が巧みに両立したトリスタンにも魅惑された。
あとは、スッキリしすぎか、カルロスならバイロイトかスカラ座のライブの方が熱いと思わせたクライバー盤。ここでは、コロの素晴らしいトリスタンが残されたことが大きい。
 それと、いまでは、ちょっと胃にもたれるバーンスタイン盤だけど、集中力がすごいのと、ホフマンがいい。
フルトヴェングラーは、世評通りの名盤とは思うが、いまではちょっと辛いところ。

あと、病後来日し、空前絶後の壮絶な演奏を聴かせてくれたアバド。
あの舞台は、生涯忘れることなない。
1幕は前奏曲のみ、ほかの2幕はバラバラながら聴くことができる。
透明感あふれ、明晰な響きに心が解放されるような「アバドのトリスタン」。
いつかは、完全盤が登場して欲しい。

Ring_full_2

  ワーグナー 「ニーベルングの指環」

わたくしの大好きなオペラ、ナンバーワンかもしれない・・・

興にまかせて、こんな画像を作っちゃいました。

オペラ界の大河ドラマとも呼ぶべきこの4部作は、その壮大さもさることながら、時代に応じて、いろんな視点でみることで、さまざまな演出解釈を施すことができるから、常に新しく、革新的でもある。
 そして、長大な音楽は、極めて緻密に書かれているため、演奏解釈の方も、まだまださまざまな可能性を秘めていて、かつては欧米でしか上演・録音されなかったリングが、アジアや南半球からも登場するようになり、世界の潮流ともなった。

まだまだ進化し続けるであろう、そんなリングの演奏史。

でも、わたくしは、古めです。
バイロイトの放送は、シュタインの指揮から入った。

Bohm_ring1

そして、初めて買ってもらったリングは、73年に忽然と出現したベームのバイロイトライブ。
明けても覚めても、日々、このレコードばかり聴いたし、分厚い解説書と対訳に首っ引きだった。
ライブで燃えるベームの熱い指揮と、当時最高の歌手たち。
ニルソンとヴィントガッセンを筆頭に、その歌声たちは、わたくしの脳裏にしっかりと刻み付けられている。
なんといっても、ベームのリングが一番。

そして、ベーム盤と同時に、4部作がセットで発売されたカラヤン盤も大いに気になった。
でも、こちらと、定盤ショルティは、ちょっと遅れて、CD時代になって即買い求めた。
歌手にでこぼこがあるカラヤンより、総合点ではショルティの方が優れているが、それにしても、カラヤンとベルリンフィルの作り上げた精緻で美しい、でも雄弁な演奏は魅力的。

あと、忘れがたいのが、ブーレーズ盤。
シェローの演出があって成り立ったクリアーで、すみずみに光があたり、曖昧さのないラテン的な演奏だった。歌手も、いまや懐かしいな。
 歌手といえば、ルネ・コロのジークフリートが素晴らしい、そしてドレスデンの木質の渋い響きが味わえたヤノフスキ。

舞台で初めて味わったのが日本初演だったベルリン・ドイツ・オペラ公演。
G・フリードリヒのトンネルリングは、実に面白かったし、なんといっても、コロとリゲンツァが聴けたことが、これまた忘れえぬ思い出だ。

舞台ではあと、若杉さんのチクルスと、新国の2度のK・ウォーナー演出。
あと、朝比奈さんのコンサート全部。
みんな、懐かしいな。。。

以下、各国別にまとめてドン。

ドイツ

 モーツァルト   「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」

 
 ワーグナー   「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」 「ローエングリン」
           「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
            「ニーベルングの指環」「パルシファル」

 ダルベール   「低地」

 R・シュトラウス 「ばらの騎士」「ナクソスのアリアドネ」「影のない女」「アラベラ」
            「ダフネ」「ダナエの愛」「カプリッチョ」

 ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 (昔々あるとき、夢見るゾルゲ2作は練習中)

 ベルク      「ヴォツェック」「ルル」

 シュレーカー   「はるかな響き」 「烙印された人々」「宝探し」

 コルンゴルト  「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「カトリーン」

 ブラウンフェルス 「鳥たち」

 レハール    「メリー・ウィドウ」「微笑みの国」

イタリア

 ロッシーニ   「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」

 ヴェルディ   「マクベス」「リゴレット」「シモン・ボッカネグラ」「仮面舞踏会」
           「ドン・カルロ」「オテロ」「ファルスタッフ」

 カタラーニ   「ワリー」

 マスカーニ   「イリス」

 レオンカヴァッロ  「パリアッチ」「ラ・ボエーム」

 プッチーニ   「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「三部作」
           「ラ・ロンディーヌ」「トゥーランドット」

 チレーア    「アドリアーナ・ルクヴルール」

 ジョルダーノ  「アンドレア・シェニエ」「フェドーラ」

 モンテメッツィ 「三王の愛」

 ザンドナーイ  「フランチェスカ・ダ・リミニ」

 アルファーノ  「シラノ・ド・ベルジュラック」「復活」

 レスピーギ   「セミラーナ」「ベルファゴール」「炎」

フランス

 オッフェンバック 「ホフマン物語」

 ビゼー      「カルメン」

 グノー      「ファウスト」

 マスネ      「ウェルテル」

 ドビュッシー   「ペレアスとメリザンド」

イギリス
 

 パーセル   「ダイドーとエネアス」

 スマイス    「難破船掠奪者」

 ディーリアス  「コアンガ」「村のロメオとジュリエット」「フェニモアとゲルダ」

 R・V・ウィリアムズ  「毒の口づけ」「恋するサージョン」「天路歴程」

 バントック   「オマール・ハイヤーム」

 ブリテン    「ピーター・グライムズ」「アルバート・ヘリング」「ビリー・バッド」
          「グロリアーナ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」「カーリュー・リバー」
          「ヴェニスに死す」

ロシア・東欧

 ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」「スペードの女王」「イオランタ」

 ラフマニノフ    「アレコ」

 ショスタコーヴィチ 「ムチェンスクのマクベス夫人」「鼻」

 ドヴォルザーク   「ルサルカ」

 ヤナーチェク    「カーチャ・カヴァノヴァ」「イエヌーファ」「死者の家より」
             「利口な女狐の物語」「マクロプロス家のこと」

 バルトーク     「青髭公の城」

以上、ハッキリ言って、偏ってます。

イタリア・ベルカント系はありませんし、バロックも、フランス・ロシアも手薄。

新しい、未知のオペラ、しいては、未知の作曲家にチャレンジし、じっくりと開拓してきた部分もある、わたくしのオペラ道。
そんななかで、お気に入りの作品を見つけたときの喜びといったらありません。

それをブログに残すことによって、より自分の理解も深まるという相乗効果もありました。

そして、CD棚には、まだまだ完全に把握できていない未知オペラがたくさん。

これまで、さんざん聴いてきた、ことに、長大なワーグナー作品たちを、今後もどれだけ聴き続けることができるかと思うと同時に、まだ未開の分野もあるということへの、不安と焦り。
もう若くないから、残された時間も悠久ではない。
さらに、忙しくも不安な日々の連続で、ゆったりのんびりとオペラを楽しむ余裕もなくなっている。
それがまた、焦燥感を呼ぶわけだ。

でも、こうして、総決算のようなことをして、少しはスッキリしましたよ。

リングをいろんな演奏でツマミ聴きしながら。。。。
 

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2016年3月27日 (日)

バッハ マタイ受難曲

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桜の季節は、イースター週間と重なりました。

キリスト教徒国にとっては、クリスマスと並ぶ一大祭で、長いお休みがある。

この時期、欧米系の外国人の方々の観光客も多くみかけるのも、そのため。

日本では、クリスマスはあんなに大騒ぎするのに、復活祭はまったく話題になりません。

大好きな音楽、そして、もっとも大切な音楽のひとつ。

偉大な、バッハのマタイ受難曲。

Bach_matthaus

  J・S・バッハ  「マタイ受難曲」 BWV244

人類に残された音楽の至芸品。

それが、バッハのマタイ。

わたくしもご多分にもれず、最大級に愛する音楽として、ワーグナーやディーリアスの音楽とともに双璧の存在です。

イエス・キリストの受難劇。

すなわち、イエスの捕縛から、十字架上の死、そして、埋葬後の復活までを淡々と音楽で描く作品であるが、それがキリスト者のための音楽だけにとどまらず、人類普遍の、そして人間の存在の核心をついたという意味で、まさに人類のために存在する音楽作品なのだ。

 テキストは新約聖書のマタイ伝。

劇的でありつつ、ほかの伝記に比べて一番内省的かもしれない。

そんな聖書にバッハは、途方もなく感動的な音楽をつけた。

イエスの受難の物語を語る福音史家は淡々と、でも、ときに聖句に劇的な歌い口を示します。
その客観的な存在が、イエスへの同情、人間への問題提起を求めるさまが、ほんとうに鋭く、魂が揺さぶられる。

むごい感情をむき出しにする群衆と、聖なる清らかな合唱の二律背反が生むドラマティックな落差。

ソロ歌手たちの切実なアリアたちが、受難劇の進行のなかで、われわれ聴き手・人間たちの心に寄り添いつつも、その悲しみへの共感をよりそそる。

 マタイ受難曲、最大の聴きどころは、ペテロの否認の場面。
イエスを知らないと、イエスの予言通りに3度言ってしまうペテロ。
そのあと、にわとりが鳴き、イエスの預言が成就することで、激しく泣くペトロ。
「憐れみたまえ、わが神よ」
アルト独唱の名アリアは、それを聴くわれわれも、だれしもが思う自戒の念にとらわれ、心揺さぶられる。
わたくしは、必ず、泣いてしまう。

Richter

マタイといえば、リヒター
リヒターといえば、マタイ。

そんな図式が、6~70年代には行きわたっていて、わたくしも、同じく、そんな洗脳に近い想いに凝り固まっていた人間のひとりです。

人を寄せ付けないまでの峻厳、厳格なバッハ。
イエスをめぐる人間ドラマも容赦なく、切れ込みは鋭く、その一方で、その視線は鋭く、そして優しい。
重い足取りで始まる大ドラマも、最後は悲劇にあふれながらも、聴く人を包み込み、次へと羽ばたけそうな、大きな翼を与えてくれるような、後押しの巨大な力にあふれている。
そんな「ドラマ」に満ち溢れている、「リヒターのマタイ」なのであります。

これまた絶対的なエヴァンゲリストとしての存在であった、ヘフリガーの禁欲と情感、ともに満ち溢れる福音史家が完璧すぎる。
テッパーのアルトを始め、歌手たちも、ともかく素晴らしいリヒター旧盤。

つぎに、若き日に、マタイにより親しんだのが、リリングとシュトットガルトとの来日公演の放送。
明るい歌にあふれたリリングの指揮は、クラウスの福音史家とともに、何度もテレビ放送されたなか、マタイが完全に血肉化されるのを感じました。
聖書も全体を読み、ますます、マタイ受難曲への理解が進んだ大学生の時代です。

そのあとのマタイ遍歴は数々あれど、いつも戻るのはリヒター。

でも、柔らかで、ドイツの教会のひとコマを思い起こさせてくれるヨッフム盤。
ここでは、ヘフリガーが相変わらず素晴らしいのと、コンセルトヘボウの伝統あふれる木質の響きがなんとも美しいのです。

CD時代に購入した、リヒターと違う意味での峻厳なレオンハルト盤。
そこでは音楽が息づき、バッハの楽譜優先のピュアな再現がかえって、音楽に力を与えているようだった、

あと、明るく伸びやかなヘルヴェッヘ盤。
新鮮な響きのなかに、市井の人々の緩やかな毎日までも感じさせてくれる。

 
旅行鞄に、余裕があれば、この4つを持って行きたいマタイ。

でも、ひとつと言われたら、そう、あれしかないですね。

 あと、アバドのマタイを是非聴きたいものだが、ベルリンでの音源、なんとかならないものか・・・・・

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2016年3月25日 (金)

ワーグナー 「パルシファル」 大好きなオペラ

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また寒くなって、ほころび始めた桜も足踏みか。

でも春はやってきた。

そして、今日は聖金曜日。

今年の復活祭は27日です。

これに合わせて、好きなオペラ、「パルシファル」

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  ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルシファル」

この深淵な作品との出会いは、中学生の頃。

ワーグナーに目覚め、年末のバイロイト放送に熱狂し、当時は、イースターに合わせて、春に放送されていた「パルシファル」を、初めて聴いて、あまりにも静的な音楽に最初は戸惑いを覚えた。

でも、作品の筋を理解し、前奏曲や聖金曜日の音楽を何度も聴くうちに、全体を把握できるようになり、これは本当に美しい作品なのだと思うようになった。

最初に聴いたバイロイト放送は、ヨッフムの指揮によるもの。

でも、この作品には、クナッパーツブッシュという偉大な演奏があるということを、レコ芸やワーグナーの書評で知ることとなり、いつしかそのレコードが欲しいと、クナの演奏を妄信するようになった。
だがしかし、おこずかいは限られ、ベームのリングも買ってもらっちゃったものだから、クナのパルシファルは、大学生になるまで全曲盤を入手することができなかった。
 それまでは、抜粋盤で我慢ということで。

その間は、エアチェックしたショルティ盤。
これは、バイロイトのライブ以外での初スタジオ録音で、デッカの目覚ましいサウンドがFMごしでもよくわかった。
あとは、毎年録音したバイロイトの放送。
シュタイン、レヴァイン、バレンボイム、シノーポリなどなど・・・。

聖と邪。
同情によって、智をえた鈍き愚者によって、救われる魂ふたつ。
ひとりは、キリストを笑ったクンドリーと、邪に染まった男によって罪に溺れたアンフォルタス。

宗教の奥儀と、ヨーロッパ社会発想の根源がここにあり、オペラという枠をリングにもまして、大きく踏み出した。

ワーグナーの音楽も、ドビュッシーやウェーベルンに繋がる精緻さと透明感がある。
もしかしたら室内オーケストラでもいいかもしれないくらい。

Parsifal

戦後のバイロイト、いわゆる新バイロイトを象徴するヴィーラント・ワーグナーの演出には、クナッパーツブッシュの大河の流れのような雄大・深淵な演奏があってこそ、映えるもの。
映像が残ってないのが本当に残念だが、クナの永年の演奏は、いくつもの音源があって、それぞれに楽しめる。
しかし、最良の状態で残された62年のフィリップスライブは、その録音も、歌手たちの歌唱も神々しいほどに素晴らしい。
クナが築くゆるやかな音楽の流れは、場面場面、しいては言葉の一言一言に反応を起こし、オーケストラは驚くほどに雄弁なのである。
 ホッターの含蓄あふれるグルネマンツと、J・トーマスの凛々しいタイトルロールも完璧。

そのクナッパーツブッシュの後は、誰しも驚いたブーレーズ
ゆったりした前任者のテンポを、大幅に早めて、快速パルシファルを達成してしまった。
でも、その速さを感じさせないのは、ブーレーズの音楽の明晰さと、音符のすべてがクッキリとはっきりと聴こえる鮮やかさがあったから。
後年、パルシファルを指揮しにバイロイトに復帰したブーレーズは、クソみたいな演出にもかかわらず、30年以上前とほぼ同じ切り口の演奏を聴かせたのには驚いた。
F・クラス、デイム・ジョーンズ、J・キング、マッキンタイアなど、70年代の若手歌手も見事。

そして、70年代の若手と、その前の大ベテランを配した豪華な歌手をずらりとそろえたデッカならではのショルティ盤。
剛力をちょっと押さえつつ、ウィーンフィルの柔らかな響きを大切にしたショルティの円熟の指揮と、素晴らしい録音。
ルネ・コロのパルシファルとルートヴィヒのクンドリーが大好き。

ワーグナー家の手を離れたパルシファル演出だった、G・フリードリヒのもの。
指揮はジェイムズ・レヴァインが起用され、クナより遅いテンポと、豊穣なまでにオペラティックな演奏が、年を追うごとに充実していった。
あと、P・ホフマンの鋼鉄のような声がここでは感銘を誘う。
もちろん、フィリップスの録音も最高によろしい。
後年、レヴァインは、あんなひどい演出で指揮するのは耐え難かったと語ったというが・・・・

最後に、正規録音を残さなかったアバドのパルシファルの清新さを、自分的には、最良のパルシファルとして記憶しておきたい。

Photo
  
      (ザルツブルクでの舞台 アバド&BPO)

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2016年3月22日 (火)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 大好きなオペラ

Dsc01887

大好きオペラ、次は、R・シュトラウス「ばらの騎士」ですよ。

セビリアの理髪師の続編だったフィガロの流れは、こちらに、より普遍的に受け継がれている。

ともかく大好き。

この、まだ、シュトラウスが楽劇と呼んでいた作品に出合ったのは、バーンスタインが、ニューヨークを離れ、ヨーロッパ、とりわけ、ウィーンとの関係を深く築いていったなかの一環で、生まれた名演だった。

バーンスタインのオープンな個性と、伝統を重んじるという、いい意味でのダブルパフォーマンスが、ウィーンそのものを、バーンスタインそのものの虜になってしまった。

カルショーのプロデュースということもあり、実にエポックな「ばらキシ」なんだ。

そのジャケットが素晴らしい。

Rosenkavalier_bernstein

 歌手たちも、この音盤を機に、またここで、いろいろ変転しました。

ルートヴィヒ、かねてのオクタヴィアンが、ここでは、マルシャリンとなりました。

ここでの、オクタヴィアンの、G・ジョーンズは、ステキなデイム・ジョーンズのマルシャリンとなりました。

さらに、可愛い役柄の、そう、スーブレット的なソプラノ役のゾフィー。
ルチア・ポップは、亡くなる前に、貫禄あるマルシャリンとなりました。

オックスも、多面的な歌手たちによって歌われますが、彼らは総じてワーグナー歌いであり、最高のザックス歌いであることが多くて、そんななかの、W・ベリーだったのです。

ともかくも、わたくしの、いろんな想いに合致する「ばらキシ」がバーンスタイン盤。

ウィーンフィルが、バーンスタインの明るく自在な個性によって、生き生きと活性化した稀有の演奏だと思いますよ。

4rosenkavalier

こんな画像を過去、作成しまして、当ブログにもその比較をしました。

まるで、バラ戦争?かと思われるくらいに、東京で、ばらの騎士が上演されました。

新国(シュナイダー)、チューリヒ(メスト)、ドレスデン(ルイージ)、横浜(沼尻)に加え、新日フィルがステージオペラでアルミンクの指揮で上演。

スゴイことでした。

ここでの体験は、いまでも忘れえぬものです。

舞台上演でのばらキシ体験は、これらに加え、ウィーン国立歌劇場の来演で、全部で6件です。
保守的な演出も含め、どんな舞台でも、ばらキシは映える音楽作品であります。

Kleiber

そして、ばらキシは、なんたって、これ!

そう、カルロス・クライバーの独壇場ですよ。

映像に加え、リッダーブッシュの最高のザックスが聴けるバイエルンライブが出たことは、狂おしいほどに素晴らしいことだった。。。

 マルシャリンの時間の経過に不安を持ち、でも、それを克服して、若い人たちの後押しをする、その姿に、ますます共感を覚える・・・・・

ではまた。

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2016年3月20日 (日)

モーツァルト 「フィガロの結婚」 大好きなオペラ

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春は急にやってきて、でも、また戻ったりの一進一退で本格化する。

春は、その機微も色合いも、きれい。

3月も終わりに近づき、大好きな音楽を、つまみ聴きながら慌ただしく夜を過ごし、そして床につく。

もちろん、長大なオペラばっかりなので、聴くことなく、これまでの印象で書いたりもします。

Mozart_figaro

  モーツァルト 「フィガロの結婚」

汲めどもつきない、音楽の魅力という名の宝庫、そんなフィガロ。

聴くたびに、さまざまな発見や驚き、そして既聴の安定路線ながらも、喜びに満たされる。

これからいくつか続くファイバリット作品に共通するものだけど、とりわかフィガロは、赤裸々な人間ドラマが、天衣無縫の域の音楽でもって引き立ってる。

 往年の歌手たちが指揮者の厳しくも、モーツァルトを知り尽くした棒の元で自在に繰り広げるマジカルな演奏。 
自分世代的にも、ベーム盤が最高です。
ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団でむしろよかった。
ベームの60年代のストイックかつ、音楽優先の個性がとても反映されてる。
のちのウィーンとの関係では、麗しいけれど、緩すぎるから。

 そして、ザルツブルク音楽祭のFM放送で何度も聴いて、そして録音もされたカラヤン盤。
シュターデと、ホセ・ファン・ダム、トム・クラウセがとてもよい。

 ブリテッシュなモーツァルト。
グラインドボーンの紳士的なモーツァルトには、上質でふくよかな嗜みを感じ、そして、隠された秘めごとも盗み聴きできそうな感じ。
ともかく真面目。
味わい深いハイティンク盤。

 同じ傾向ながら、もっと軽やかで、羽毛のような肌触りが心地よく、そして、さわやかな聴後感を味わえるマリナー盤。
歌手陣充実。

 そして、最愛のアバド盤。
ウィーンの楽壇が成し遂げることができた最良のモーツァルトだけど、ここにはウィーンのよき伝統はなく、あるのは清新かつヴィヴィットな音楽。
歌心と、ピュアな切り口がとても新鮮なアバドの指揮。
マクネア、スコウフス、ガッロ、バルトッリ、ステューダー・・・歌手たちも、いまも通じる現代的な歌唱。
悪かろうはずがないアバド盤

 ほかにも、たくさん、好きな「フィガロ」が。
オヤジクライバー、ジュリーニ、クレンペラー、バレンボイム(旧)、デイヴィス(旧)などなど。
ともかく古いですね。

フィガロは、ほどよく古いほどいい。
こんなこと言ったら退場ですかね。

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2016年3月18日 (金)

J・シュトラウス 「酒・女・歌」 シューリヒト・ボスコフスキー・グシュルバウアー

Hirayama

もう散ってしまった今時分の河津桜。

ピンクが濃くて、桃の花みたい。

なんか官能的でもあります。

背景が青空じゃなくて、これが暗い夜空だったりして、しかも、暖かい晩だったりしたら。

P9216958

  J・シュトラウス ワルツ「酒・女・歌」 op333

    
       カール・シューリヒト指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団

                            (1963.4 @ウィーン)

       ウィリー・ボスコフスキー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                            (1965.10 @ウィーン)

       テオドール・グシュルバウアー指揮 NHK交響楽団

                            (1988.1  @NHKホール)


3つの演奏を聴いてみました。

処分整理のなか、ふと見つけたビデオ起こしのDVD。
N響アワーのなかでの、懐かしいグシュルバウアーの指揮ぶり。

ウィーン生まれ、ウィーン少年合唱団出身のグシュルバウアーだけど、ウィーンの楽壇とは少し距離があって、ドイツやフランスでのポストしか持てなかった。
よくいわれるけど、オーストリア系、それもウィーンっ子は、指揮者の場合、ウィーンでの活躍がなかなか約束されないということ。

そんなグシュルバウアーも、もうすぐ77歳。
巨匠の域に達した姿を是非聴いてみたい。
柔和な指揮ぶりのなかに、思いのほか強い意欲を込める。
そんなグシュルバウアーが妙に好き。
ロンドンフィルを指揮したウィンナワルツ集の音源もありますな。

Guschurbaeuer


J・シュトラウス(1825~1899)の44歳、壮年期の作品。
恋多きシュトラウスの甘くも、晴れやかなワルツ。

酒・女・歌。。。何が悪い、楽しいじゃないか!

そんな風な想いを明るく、あっけらかんとして歌いこんだ曲。

どちらかというと、人生を楽しく過ごすためのツールとして、まず音楽があって、そこには美味しい酒と食がつきもの。
そしてなによりも、愛する女性がそこに共にあって欲しい、という、そんな日々を謳歌したいというワルツ。
いいなぁ、享楽的で。

いまのわたくしに欠けている3要素+MとTとH。

はて何でしょうな。

このステキなワルツを初めて知ったのは、シューリヒトの指揮。
コンサートホールのレコードでした。
前奏をカットして、簡潔に、シンプルに、でも、とてつもなく粋に、小唄のように演奏した達人の極意。

 ウィーン出身の人たちが、意外や、すっきり、あっさり、スタイリッシュな演奏に向かう。
そんな典型が、ウィリー・ボスコフスキー。
ヴァイオリン片手に、ニューイヤーコンサートの顔となったボスコフスキーだけど、その音楽は、しなやかでありつつ、とても現代的だった。
思えば、W・ウェラーも、いま活躍するホーネックも、みんな淡麗系。
濃厚なウィーンの味と裏腹に。

面白い傾向だと思います。

さてはて、3種の「酒・女・歌」を聴きつつ酩酊中。

あと2週間で、いろんな節目を築きたい。

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2016年3月13日 (日)

チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」 秋山和慶指揮

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春は一進一退。

首都圏では、春めいたかと思うと、凍えるような寒さがやってきて、体温調節はなはだ難しく、体調もイマイチ。
おまけに、花粉が鼻をくすぐり、ワタクシは、くしゃみと鼻水、そして眼の痒みに苦しみ中。

以前、冬の北海道、大沼を訪れたときの冬の氷に閉ざされた光景。
夏にも行ったことがありますが、緑と青の、それはまた美しい風景でした。

北国の風物は、ドラマティックなほどに、濃淡が美しい。
それは、厳しくもあり、そして美しい。

そして、まだ寒い日が続くなか、チャイコフスキーを聴きます。

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   チャイコフスキー 交響曲第1番 ト短調 「冬の日の幻想」 op13

       秋山 和慶 指揮 札幌交響楽団

                   (1990.9 @オーチャードホール)


5番は、普通に別格として、わたくしは、1番が大好き。
もう何度も、ブログで取り上げてます。

メランコリックで、あふれる北国のファンタジー。
眼を閉じれば、窓の外は、雪の降りしきる白樺の林と、暖かい暖炉。
そんなイメージを感じる。

以前の記事から、われながらよく書けているので再褐。

<1楽章冒頭のファゴットとフルートによる詩的でクールなスノー・サウンド。

あまりに素敵な2楽章は、オーボエの連綿たるメロディが雪に埋もれ、ずっと先まで真っ白なロシアの大地をロマンティックなまでに思わせる素敵なもので、その後の展開はあまりに美しく、かの地の抜けるように白い肌の女性の微笑みみたい。

 で、スケルツォになると、中間部の歌謡性に富んだ場面が無情に素晴らしい。
いつまでも、どこまでも浸っていたい甘さを備えたワルツ調のメロディにメロメロ。

そして決然と、かつ民族調の終楽章。
「小さな花よ」というロシア民謡からそのメロディが取られた序奏とその主題。
繰り返しのファンファーレが重奏してゆく、ややくどい展開ですが、その興奮はいやでも高まり、最後は、後期の完璧なフィナーレ感とは遠いですが、健康的なまでの壮麗なエンディングを迎えるのです。>

このステキな交響曲を札響で聴く喜び。

なにも北のオケだからご当地ものと言うワケじゃありませんが、やはり、北海道の自然や風物は、ロシアや北欧、北ヨーロッパの空気や雰囲気に似通ってます。
短い春と夏は、圧倒的に美しいし、暗い秋も憂愁に富んでる。
そして、長い冬は白と銀色の世界に閉ざされるけれど、人々は寡黙ながらも、冬を過ごす術と力強さに満ちている。

そんな北国に住まう奏者たちが奏でる音楽は、ロシアや北欧のオーケストラの澄んだ響きと力強さと相通じつつ、日本人らしいきめ細やかな繊細さも有している。
 東京のホールでのライブ録音だけど、そんな音をこの「冬の日の幻想」に感じることができました。
思いこみが強すぎるかしら・・・・。

88年から10年間、岩城宏之さんの後を受けて札響を率いた秋山和慶さん。
的確さと、ツボを抑えた危なげない指揮ぶりは、ムーディに流れがちなこの交響曲を、シンフォニーとしての構成をしっかり備えた音楽として鮮やかに再現してます。
旋律の歌わせ方も過剰にならずに、でも思い通りにやってくれちゃうし、盛りあげのうまさもばっちり。さすがと思います。

春はそこまで・・・

過去記事

 「マリナー&アカデミー」

 「メータ&ロサンゼルスフィル」

 
「ハイティンク&コンセルトヘボウ」

 
「T・トーマス&ボストン」 

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