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2005年11月

2005年11月30日 (水)

ジェイムズ・キング逝く

テノールのジェイムズ・キングが亡くなったそうだ。80歳だからもう悠々自適の日々だったのでしょうが、往年の大歌手達が次々と去って逝くのはとても寂しいもので、感慨深いものがあります。 同じアメリカ出身の同世代ヘルデン・テノール「ジェス・トーマス」(この人も亡くなった)、「ジーン・コックス」と共に6~70年代のバイロイトのテノール・ロールを支えた人であります。キングはワーグナー以外にも、イタリアものや、フランスものも歌いましたので、残された録音を聴いてみたいものです。

 しかし、キングと言えばジークムントです。「リング」でベスト・オーダーを考えるとジークムントは絶対的にキングです。「冬の嵐は去って」の陶酔的な場面や2幕のブリュンヒルデとの情熱的なやり取りなどは他の人では物足りないのです。パルシファルやバッカス、皇帝などキングの印象が余りにも強いのです。ベームやバーンスタインはよく起用したがカラヤンとの共演がないところが、この人のバリトンに近いやや暗めの声質を物語ってます。

日本では、イタリア・オペラ系のテナーばかりもてはやされ、ドイツ系はルネ・コロを例外に、なかなか人気が出ません。私はドイツオペラが好きなもんだから、つい贔屓してしましますが、今一度「キング」の功績を確認して、CDをいろいろと復刻してもらいたいもんです。

ご冥福をお祈りします。

 さて、昨晩は家内が体調を崩し、帰宅するとレトルトカレーが待ってました。トホホ・・・・・・ご飯にかけるだけじゃつまらないから、「カレードリア」を作りました。              Imgp0904

コンビニの焼鳥と発泡酒。ワンコインでおつりのくるチープな晩飯である。

グラタン皿にご飯を盛り(サフランライスだと良)、レトルトカレーを冷たいままかける。 卵をといて、まんべんなくかけまわし、ピザ用チーズをまぶす。これをオーブン・トースターで焼いて5分でアツアツドリアの出来上がり。

うまいうまい、ビールにあいまっせぇ。

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2005年11月27日 (日)

シベリウスの季節到来

寒くなるとシベリウスである。梅雨寒の頃とならび、これから冬にかけて一番シベリウスに似合う季節である。(でも年中聴いているかもしらん) デイヴィスは3度全集を入れているが、最終のLSOライブは未聴。2度目はまだじっくり聴いてない。てな訳で、ボストン響との1度目が一番いいと解釈している。

davis_sibelius36 レコードではムンクの絵をあしらい、北欧の不可思議なまでに厳しい自然をイメージさせてくれました。当時は、学生で全曲揃えられなかったのが、今は口惜しい限り。

今は2CDのシリーズで出ており、そのうち3・6・7・Vn協・管弦楽曲集が収められた2枚組を聴いた。

davis_sibelius57 デイヴィスとボストン響のコンビはもう聴けないが、シベリウスとの相性は抜群で、ヨーロッパ調の上品なサウンドにデイヴィスの持つ、腰の低い方に響く重厚さが旨くマッチしてすばらしいシベリウスを聴かせる。

6番は地味な曲だが、深夜ひっそりと味わうにはこの時期たいへん良い。

弦の澄んだ響きと木管のやわらかで素朴な音色。かつてエアチェックした、デイヴィスとバイエルン放送響の同曲がさらに6番の本質をついた演奏と思っているが、このボストンもいい。ボストンは行ったことないが、秋の似合う穏やかな街と聴いた。

あと今回始めて聴いたのが、アッカルドを独奏にLSOを指揮したヴァイオリン協奏曲。79年頃の録音で、アッカルドの朗々とした独奏が以外や良くて、くすんだ響きのオケと明晰なソロが極めて新鮮であった。

この時期のフィリップス録音というのも、今は想像できないほど充実していたと思う。ロンドン・アムステルダム・ボストンの雰囲気豊かな3都市を中心に、すべてが優秀録音であった。 昔を振り返るのも「さまよえる旅」のひとつなのだ、と目を細めてみる。

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2005年11月26日 (土)

ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団②

ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団の最終日。1曲目のトリスタンは以前CDでのサラサラ・スイスイ演奏に苦言を呈したが、先頃ネットで当コンビのトリスタンを聴きワーグナーにおいての進化ぶりを確認済であります。であるからして、今回期待はトリスタンなのです。

 

 果たしてその演奏は実に素晴らしくFantastic!寄せては引くうねりが見事に表出され、オケも私も夢中になってしまうトリスタンなのでした。精緻でありながら、あたたかい音色はバイエルンの持ち味でしょう。愛の死が静かに終わり、ヤンソンスの動きが止まっても、ホールは静寂に包まれ、ヤンソンスがゆっくりと腕を下ろし、ひと呼吸あって、「ブラボー」の一声。これが見事に決まった。今日の観客は終始いい反応と最高のマナーだったと思います。

 

 次の「火の鳥」、「ショスタコーヴィチの5番」も息を飲ませる素晴らしさで、すべての音に気持ちが乗っていて、聴いているこちらもヤンソンスの動きに引き込まれてしまう。アンコールは「ペールギュントのソルヴェーグの歌」で再び静寂の余韻を味わい、「アルルの女のファランドール」で爆発的な盛り上がりを楽しむことができました。

 

Jansons_schosutako 良い意味で聴衆を引き付け、楽しませてくれる稀有な才能の人でであります。そして、オーケストラの素晴らしき。高性能でありながら、温もりをもった有機的なサウンド。先頃のシュターツオーパーのオケも同じようなあたたかい響きを感じ取ることができました。南ドイツ特有の個性なのかもしれません。

 

コンセルトヘボウとで聴き較べをしてみたいものです。そういえばこの二つのオーケストラと関係深い指揮者って皆、渋いけど音楽の使徒みたいな真面目な人が多いです。ヨッフム、ライトナー、クーベリック、ハイテンク、デイヴィスです。でもバーンスタインはかなり違う個性だし、マゼールは異質だけど、マリスとはピッツバークつながりなんだ。

 

公演が終了し、次は上海だそうです。楽屋口に並んでマリス君のサインをば頂戴しました。 小柄な体格で、そこらのオジサンといった感じですが、眼差しが温厚で好感溢れるヒトでありました。来年がまた楽しみになりました。

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2005年11月24日 (木)

ヴァルヴィーゾのばらの騎士

昨晩のヤンソンスの演奏会の興奮が醒めやらぬまま、本日はお仕事。休日の電車は空いていて気持ちがいい。仕事を早めに切り上げ、帰宅。芋焼酎の霧島をロックでひっかけ、勢いをつけて、ヤンソンス/コンセルトヘボウ0.の幻想交響曲91年録音のCDを確認してみた。

私は結構「幻想」フリークでして、棚には14種類のCDがありました。かって毎晩に渡って、連続聴きをやって、狂気の淵にさまよう前に、いつも家内から「うるさい」としかられてました。 この91年盤は、基本的には同じテンポや鳴らし方ですが、やはり音楽のツカミが違いまして、2楽章のワルツや3楽章の情景などは、昨晩の彫りの深い表現に敵いません。オーケストラも録音のせいか、コンセルトヘボウの響きが感じられませんでした。再録を望みたいところです。

Rosenkavllier さて、趣向を変えて10年ぶりに聴いたCD、スイスの名匠シルヴィオ・ヴァルヴィーゾの指揮するウィーン・フィルの「ばらの騎士」抜粋であります。

これには、泣きました。冒頭のウィンナ・ホルンの響き、全編で活躍するオーボエに、甘い弦。ウィーンの響き満載の抜粋盤なのだ。

クレスパンのマルシャリンの素敵なことといったらありません。硬質なクリスタルの声でありながら、時おりきかせるソット・ヴォーチェのふるいつきたくなる魅力。若々しいセーデルシュトレムのオクタヴィアンと懐かしいギューデンのゾフィーの甘やかな二重唱など。

62~3年頃の録音と思われますが、良い音です。このウィーンの響きをさりげなくも、支えたヴァルヴィーゾはまだ存命のはずですが、もう活動してないのでしょうか?バイロイトでの活躍もCDやFMで聴いたし、N響にも来演しドヴォ8やダフニスを指揮してました。       ドイツ物とイタリア物の2系統指揮者として、明晰でさわやかな演奏をする人です。

こんなCDを10年ほったらかしていたなんて、バカなワタシです。

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2005年11月23日 (水)

ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団①

Imgp0889a お気に入り指揮者のひとり、ヤンソンスとバイエルン放送交響楽団を聴く。サントリーホールのエントランスはグリーンと白のクリスマス・イルミネーションでとても美しく、コンサートへの期待が高まります。ブロンフマンを独奏にチャイコフスキーのピアノ協奏曲と幻想交響曲のプログラム。人気曲とあって、完売の満席状態でサントリーホールは開始前から熱い雰囲気が漂っている。

おもむろに、のそのそと登場のブロンフマン。さりげなく弾き始めながら、実にすごい技巧で、見た目はモッサリ、鍵盤に向かうと怒涛のような指使いでバリバリと弾きまくるのであります。

しかし素晴らしかったのは2楽章で、叙情的な表現と、速く楽しいパッセージとの対比がオケの絶妙なツケとともに実に素敵だった。最後はもの凄いアッチェランドで大盛り上がり大会でありました。ほんとにいい曲だわ。 

アンコールはシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」から間奏曲をサラっと弾いたと思ったら、ショパンの「革命エチュード」を事もなげに弾いてくれました。すんごい人だぜ。

さてメインのヤンソンスの幻想。舞台は指揮者の左右にハープを配置し、ハープ協奏曲の様相。2楽章では実に効果的だったが、二人の奏者はここまでで引っ込んでしまった。ハープって2楽章だけしか使われてないのね。ベルリオーズのことだから全編に使っているかと思った、これ発見でした。肝心の演奏は引き込まれんばかりの名演で、指揮者とオケが一体となって狂気の表現というよりも、純音楽的な幻想を作り上げていました。もちろん聴かせ上手のヤンソンスのこと、ラストは強弱を巧みに付けてドキドキさせるようなクライマックスを築き、私は興奮の坩堝の中にはまりました。ブラボーが連呼されたことはいうまでもありません。

アンコールはベルリオーズの毒気を抜くように、ヤンソンスお得意のボッケリーニ「セレナード」がしつとりと演奏され、締めには予想通り「ラコッツィー行進曲」を持ってきて大団円となりました。

Jansons ヤンソンスの指揮ぶりは、音楽が体から溢れてきてしょうがないというような感じで、人を引き込む魅力のあるものです。オーケストラもヤンソンスの動きに夢中になって演奏している様子で、ルーティンにならない新鮮さが感じられました。こうした雰囲気は、昨年のコンセルトヘボウとの来日公演でも味わえたもので、オーケストラをうまく乗せて、自分もその上に乗っかって音楽を楽しんじゃってるっていう感じです。

 ちなみに、来年はまたコンセルトヘボウとやってきて「新世界」「春祭」「マーラー」などを聴かせてくれるそうです。毎年この二つの手兵が交互聴けるなんて素晴らしいじゃありませんか。来週もう一度、聴きにいきます。トリスタンとショスタコ5番ほかであります。ワクワクするぜ。

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2005年11月20日 (日)

アバドのストラヴィンスキー

私の30年以上に渡るお気に入りで、常に私のクラシック音楽体験と共にあった指揮者「クラウディオ・アバド」。ついにこの指揮者について書きます。でも、あんまり身近に感じ、いつも聴いてきた感じがするので、かえって書くことないんだよね。今回は、初アバドということで、高校生時代に擦り切れるほど愛聴した「春の祭典」を始めとする、ストラヴィンスキーの3大バレエ音楽を秋晴れの1日に久方ぶりに聴いたので、LPジャケットと共にご紹介します。

abbado_fire_bird abbado_petroshka abbdo_le_sacre_printmps 「火の鳥」(72年)、「ペトルーシュカ」(80年)、「春の祭典」(75年)、いづれも当時相思相愛の手兵、ロンドン交響楽団との演奏です。ジャケットはシンメトリックな図柄で統一されてましてこうして並べて見ると楽しいものです。「プルチネルラ」も同様のジャケットでした。当時DGは、バレンボイムのベルリオーズ・シリーズもこの作者によるジャケット仕様でしたよ。こういうシリーズものの録音が絶えて久しく、1枚1枚完成に向けて収集する喜びが失われてしまいました。(アバドの鳥の羽のマーラー・シリーズも)

これらの演奏に共通して言えるのは、精緻な音楽造りと冷静さ。しなやかさと軽やかさ。全編にみなぎる歌。こんな感じでしょうか。印象的な部分は、「火の鳥」の「王女たちのロンド」の弱音の美しさと歌、「ペトルーシュカ」のクライマックスにおけるワクワクする高揚感、「春の祭典」の抜群の音感で立ち上がり良く変転してゆくスピード感。

ことさらの名演は、やはり「春祭」でしょう。テンポは速いが、メータのように高速道路をベンツで飛ばす感じではなく、フェラーリで軽快に走る感じです。弱音部分も例によってふんだんな歌で満ちており、以外やデフォルメされた打楽器や金管がよきアクセントとなっております。 当時シカゴ響と入れることもできたでしょうが、シカゴでは、鋭さは出てもこのような軽やかさはでなかったでしょう。

アバドの他のストラヴィンスキー、「カルタ遊び」「プルチネルラ」もアバド向きの作品なだけにスキップして飛翔するような感じの名演であります。

これらのストラヴィンスキーをクールに澄んだ秋空を眺めながら聴いていたら、何十年も若くなった気がしてきました。

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2005年11月17日 (木)

四国食い倒れ その1

もう1ヶ月ほど前となりますが、四国に出張しました。徳島はルートに入れませんでしたが、3泊4日での車を利用した出張です。四国は岩手県より少し小さい程度・・・なんて高をくくってましたが、なかなかに強行軍でした。思えば岩手県が巨大すぎるのである。

まずは、羽田から高松に。あいにくの雨の中、四国でも有数の規模のショッピングセンター「ゆめタウン高松」に。平日の雨なのにかなりの人。「ショッピングセンターというものはひとつの街であり、生活の機能の中で必須のアイテムなのだな。」と今更ながら実感。 

私の仕事のひとつはスーパーやショッピングセンターに関係したものなのです。あとはヒミツ・・・・。 そしていよいよ待望の昼メシ。 もちろん「うどん」ダー。    その前に丸亀の「フジ・グラン」(旧ダイエーハイパーじゃない方)にちょろ寄りして、あとは「うどん」の看板を探す。ありましたよ。いかにも本場風の、地元風の店、というより庭先という感じの家庭内職風のうどん屋さん。 庭と畑が一体となり、かってフレームだったものが店と化している。全員家族で、いかにも物慣れない訪問客に手取り足取りご指導いただいた。 「生醤油うどん」にスダチをかけまず一杯。こりゃあ、うめぇーー。もう一杯いけると、「かけうどん」を友人とシェアすることにしておかわり。 これまた、うめぇーー。「てんぷら」も食べて、超満腹でお会計は500円。「かけうどん」だけだと150円也。1日3食「うどん」だと1ヶ月14,000円也。すばらしきうどん文化の真髄なり。 もちろんそんな人はいませんよね。おいしくて写真撮るのわすれた。

その後、今治を経て夜に松山へ。松山の街はどことなく風情があってちょっと雅で、夜も楽しい。愛媛の酒は言うまでもなく「梅錦」、ちょっと甘めながらも、キリッとして旨口の酒。これに鯛や対岸の関サバをつまみに、まったくの至福の晩餐であった。 ここではお客さんと一緒でこれまた写真撮れず、無念。

でも松山に詳しい友人が、馬肉のいい店があるというので、二人で向かいました。私は馬肉大好き人間で「刺身は赤身」、料理は「馬カツ」と決めてます。この「仲巳屋」という店は熊本原産の厳選肉を使用していて、九州以上においしい馬肉を食べさせてくれるそうです。 生憎とヒレが売切れで、カツは霜降り肉で贅沢をさせてもらいました。刺身はコウネ(タテガミの部分)と赤身。いずれも全くの美味で、本来カツはヒレ肉をあっさりいただくのですが、霜降りとなると、とろけ出すアブラが口中にじんわりと広がって、このアブラを焼酎で流し込むと、二重の味わいとなるのでありました。Imgp0377 Imgp0378

このお店、東京銀座にも出たそうです。何でも蕎麦居酒屋の「高田屋」の社長がこの店にほれ込んで、これからは「馬」がヘルシーで美容にもよいから、絶対はやる、として説き伏せたそうです。 

松山の夜はこれでオシマイ。馬を食ったからといって、ヒヒーンと走っちゃったわけじゃありませんよ。         続きはまた次に・・・・。

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2005年11月15日 (火)

まだ聴くぞパルシファル

東京シティ・フィルのパルシファルの残影や響きが残る中、しつこくパルシファルを聴く。棚には12種類のCD、エアチェックしたカセットやCDR化したものが13種。ワーグナーの他の作品もこんなだから、残りの人生でどれだけ聴けるものやら? ふと考えることがある。

まあ、気を取り直して未聴であった「クナッパーツブッシュのバイロイト58年盤」を2日かけて聴いた。parifal_kuna_    不正規盤ではあるもののかなり生々しい音でとーぜんモノラル。

51年の戦後バイロイトから毎年のようにパルシファルを指揮したクナッパーツブッシュ(以下長いので「クナ」という)であるが、その年によってムラがあったようです。 この58年は聴いた限りでは有名な62年の正規盤ほどの精妙な出来ではありませんが、随所に即興的な響きやテンポの揺れがあって飽きさせません。そして低音のグイーンとくる迫力は、残念ながら、先般のシティ・フィルには全く聴かれなかったものです。(比較する方が無茶か)

歌手は古くさい人と今でも通用する新鮮な人とまちまちです。前者は、主題役のハンス・バイラーで力強いが重ったるい。後者は、アンフォルタスのヴェヒターとクンドリーのクレスパンで、クリアーで若々しい歌を聴かせてくれます。グルネマンツはアメリカのJ・ハインズ、ティトゥレルは往年のグラインドルです。 ともかくこの頃のバイロイトはすごい層の厚さを感じさせます。一度でいいからヴィーラント・クナのパルシファルを観たかった・・・・・・。

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2005年11月14日 (月)

ヤンソンスのワ-グナー

マリス・ヤンソンスは、昔ムラヴィンスキーの後、レニングラード・フィルを率いて来日していた頃の馬車馬のような威勢のいいだけの指揮者のイメージがずっとあって、あまり積極的には聴かない指揮者の一人でした。ところが、この1~2年のうち、大阪キタにあるクラシック・バー「アインザッツ」に通ううち、マスターのヤンソンス贔屓に感化されて、CDを片っ端から集め、昨年のコンセルトヘボウとの来日も聴き、生ヤンソンスも体験しました。            こうして、かつての印象はすっかりぬぐい去られ、今はヤンソンスの魅力にすっかり引き込まれてしまった自分であります。                                   その魅力は、音楽の「若々しさ」と「躍動感」、「新鮮さ」そして「音楽への熱い情熱」これらを聴き手に対して、溢れる泉のように嫌味なく感じさせてくれるところだと思います。wagner_jan

そのヤンソンスがオスロ・フィル時代の91年に録音したワーグナーを聴きました。いわゆる管弦楽曲集ですが、冒頭の「マイスタージンガー」がいきいきとした快活な演奏で、シンフォニックに聴かせてくれて、後続が期待されましたが、あれれ、そこまででした。「トリスタン」や「黄昏」などは特に何も感じさせないスルスル系の演奏で、ただいい音楽がなっているだけになってしまってます。最後の「リエンツィ」で挽回し、立派な演奏となりましたが、やはりこの時点でのオペラに対する経験不足なのか、「オーケストラ・ピースとしてのワーグナーをやりました」の域を出ない感がありました。

ところがです。今の彼はもっと進化しているのです。ネットラジオで、手兵のひとつバイエルン放送響を指揮した最新のライブで、「トリスタン」前奏曲と愛の死を聴きました。       これがすばらしいのです。CDとはまったく違う。タメや思い入れがじんわりと効いてきて、熱い思いに焦がされる曲の真髄に迫る演奏なのでありました。                  これには驚きました。ワーグナーを知悉したオケの優秀さもあるかもしれませんが、このコンビでのワーグナーの全曲が是非聴きたくなる罪な演奏でありました。

今月来日する、ヤンソンスとバイエルン。私も2回聴きに行きますが、トリスタンもあるのです。こりゃともかく楽しみ楽しみ。

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2005年11月12日 (土)

ワーグナー 「パルシファル」 飯守泰二郎指揮

lastscan 東京シティフィルのパルシファルを聴いてきた。初めての日生劇場で不安だったが、前奏曲では空調の音が気になるものの、歌が入ってからは気にならなくなった。しかし音がデッドで響きが少ない。席が前すぎたのか、弦が奏者ひとりひとりの音で聞こえてしまう。響かないから音が溶け合わないのだろう。床のカーペットや椅子を改修すればかなり違うだろうに。今回この劇場を使ったのは文化会館一回ではチケット売切れるが、日生二回なら良いとなったからか? でも席はかなり空いていたが。もしくは、室内楽的な捉え方として上演する意図なのか?合唱に譜面台を許し、あえてオラトリオ風としたため、小劇場でよかったのか?  ウーム。かつての日本のオペラの歴史を築いてきた劇場とはいえ、他の条件の良いホールはいくらでもあるんだが・・・・・。

演出は西沢敬一で変わったことがない代わり普通でト書きに忠実。本式上演じゃないからこれで良いのだろう。読み替えを伴った変わったことやろうとした演出をこのところ観せられてたから、かえって安心だった。音楽に集中できるからね。  衣装は折衷的なものだったが、花の乙女はもう少し派手にして欲しかったのと、クリングゾルが石川五右衛門か道化師のようなナリで変だったことが気になった。

聖金曜日の場面は私の理想とする描きかたで、往年のバイロイトのような静的で美しいものであった。最後はパルシファルが聖杯を掲げつつ終わるかと思ったら、聖杯を一応皆に捧げたあと、仕舞い込んでしまい背中を向けてしまった。舞台奥のスクリーンの聖堂の上に地球が上書きしてが現され、皆でそれを見つめるうちに幕となった。当然クンドリーは事切れず聖堂の一員となった。

歌手は全員よい。特に小山のクンドリーが素晴らしい。昨年のオルトルートに先月のマグダレーネといい、この人の存在感は全く舞台栄えする。よどみなく響く声で ドラマテックでありかつ繊細でもあった。   福島のアンフォルタスも立派なもので、オーケストラを圧してホールに苦悩の叫びが響き渡った。同様に島村のクリングゾルも声量では負けていないばかりか憎いくらい悪のクリングゾルだった。

心配だった難役グルネマンツの木川田は予想を裏切る好印象で、甘みのある美しいバスでルックスもなりきっていた。 そして若い竹田のパルシファルはなかなかスピントの効いた高音を聴かせてくれる逸材で、「アンフォールタース。。。」の一声は見事に決まり、アンフォルタスの苦悩を体現する悩めるパルシファルを好演した。ローエングリンやジークムント向きのヘルデン・テノールである。ローエングリンで活躍したポール・フライに似ている。先だってのエリックの青柳の方が重いテノールと感じた。どちらも無理せずに、じっくり役を広げていって欲しいもの。日本人のワーグナーもすっかり世界レヴェルになったものである。

 最後に特筆すべきは、飯守泰次朗と東京シティ・フィルだ。日本におけるワーグナーの第一人者の指揮する手兵の毎度感じるやる気と躍動感は、ほかの在京オケでは味わえないものだ。リング、ローエングリン、その他幾多のワーグナー経験と矢崎彦太郎との精妙なフランス音楽の経験から、生き生きとした音楽性が楽員に行き渡っているように感じる。

飯守のワーグナーの実演は名古屋フィル時代からずっと聴いているが、思えばシュタインのバイロイト時代のアシスタントをしていた頃、N響を指揮したトリスタンをテレビで見た覚えがある。まだ大木正興氏が存命で、N響アワーをやっていた時である。 丁寧に拍子を6つに振り分けていたことが印象的で、その冷静さからは今の円熟した熱いワーグナー指揮者の姿は想像できない。

このコンビの来年のワーグナーはどれが来るか? 私は「タンホイザー」と見た。

日曜の午後の公演もさらに充実することであろう。是非お薦め。

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2005年11月 9日 (水)

そろそろお湯割り

もともと日本酒党でありましたが、世のブームに乗り、また体にやさしいこともあって、この2年くらいは「焼酎」、それも「芋」であります。日頃は、パックの「霧島」や「桜島」、「白波」などを飲ってますが、とっておきも並行して飲んでます。

今は「薩摩茶屋」であります。これは、ロックもいいが、「お湯割り」が実にウマイ。Imgp0769

お湯割りにすることによって、芋の香りが舞い、甘味をともなった柔らかさが増します。できれば、お湯もいい水を利用することです。水で割って、寝かしておいたものを暖めるのが良いですが、そんな悠長なことは言ってられない場合は、先にお湯を次ぎに焼酎をカップに注ぎます。

つまみは「豚の角煮」や「魚の煮付け」といった甘辛系がこれからいいですな。考えただけでもう・・・・・・・・。

さて、二期会の「オランダ人」は各情報によると、後の公演では違うシーンがいくつもあったらしいです。 すこしづづ手を加えたのでしょうが、それを考えると、未消化の舞台を見せられた思いが強いです。そんなら、通常の「救済バージョン」でやればいいのに、と考えちまいます。読み替えをしなくてはいけないという、脅迫観念のようなものでもあるのでしょうか?

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2005年11月 7日 (月)

始まりは、さまよえるオランダ人

クラシック音楽と酒と食をこよなく愛する、わたしは「さまよえる歌人」。

歌人といっても、詩や俳句を書いたり、歌を好んで歌う訳ではありません。

まあ、「音楽を好む人」といったような意味です。

聴き手としては、古い方に属すると思います。そんな、過去の演奏会の記録なども、色あせた日記帳から書き移してみたいと思います。

まずは、最新のオペラの観劇録などをご紹介します。 

11_02-06_1

二期会のオランダ人を観た。予想通り、救済のないバージョンであった。ドイツで活躍する美術・演出家の渡辺和子の日本デビュー演出という。その経歴からして、読み替えを伴った奇抜なものを予想したが、半ば当たり、半ばハズレであった。以外とおとなしく始まった序曲から、うっすらと舞台が伺え、左側には人らしきものがある。気が散ることに奥の廊下のようなところを人が絶えず歩いている。これは訳わからん。ダーラントはダークスーツを着た金に目のない成金男で、赤いスカーフなどを巻き娘を平気で商売のダシにしちゃうような奴だ。

オランダ人はアタッシュケースに札束を詰込んだマヒィア風のアウトローで黒いコートに黒手袋、サングラスという出で立ち。このコートの下はミスターマリックのようなスタンドカラーのグレーのスーツ。このコートを脱ぐ時はゼンタの愛を確認した時、このコートは最初人に見えたオランダ人の彫像に掛けてしまった。そしてゼンタに裏切られたと思った時、また着て去って行こうとする。黒が呪いの証で、グレーはもじどおり半信半疑の証か?ちなみに多田羅のこのオランダ人は背丈も含め、スタレビの根本要とクリソツである。

舞台は船の甲板を模したのか、右側から左に大きく傾斜し、下は船室。

左側には例の彫像とそれを囲むようにソファーと仕切り。この仕切りはヴィーラントのトリスタンに似ている。そしてなぜか豚の貯金箱が。このスペースがゼンタの部屋であり、夢見るゼンタの少女性を表しているんだろうか。ダーラントとオランダ人は金の取引とともに契約書をお互いにかわしあう。ご丁寧にペンでしっかりサインし、複写の一枚目をひきはがすなど芸が細かい。それから糸紡ぎの場はこりゃ女工じゃなくて白いうわっぱりに白い帽子を深くかぶった精神を病んだ患者だよ。それを見張り指揮するのは眼鏡のオールドミスのマリーである。ついでにエリックは医師でありカルテもってる。だからオランダ人の彫像を崇め制作中のゼンタも病んでいることになるんだろう。

そういう意味ではエリックが一番まともなのかも。ゼンタとの対面でもオランダ人は離れて壁に寄り掛かりハスに構えちゃってる。この二人は終始抱き合うことなく、離れた存在だ。でも一度はゼンタが手を引っ張りオランダ人を別室に連れていき、最後に至ってオランダ人がゼンタの肩を抱いたていど。 船乗りたちはネクタイをしめたサラリーマンで、間抜けな三角帽子をかぶっちまう。モール電球が引かれた甲板には娼婦がくねくね踊り、クラッカーやテープが飛び交う。酒は紙コップで乾杯だ。なんだかね。こうならざるを得ないわな。

エリックに抱き付かれたゼンタ、抱き付いちゃってもいる、を見たオランダ人はコートをうまいこと着込んで普通に立ち去る。それを追うようにダーラント、マリー、エリックがついていっちゃう。いやでも一人残ったゼンタはヒストリーを起こしたようにオランダ人の彫像を倒して、舞台奥の窓から外を眺める。はい、ここで救済もなくオシマイ。

この演出はゼンタの夢想の中の出来事ということだろう。これはこれで、救済なしバージョンを取る以上こうならざるを得ないこともあり、あまり小細工をせず、ストレートて゛よかったと思う。オバサンたちにはわからんだろうな。素人受けのする方向に向かわなかったことがいいんじゃない。    歌手ではエヴァ・ヨハンソンが卓越している。自分の得意な役であろうが、声量、張り、ピアニッシモとすべてにGood。次いで驚きとともに発見だったのは、青柳のエリックだ。立派なヘルデンテナーだよ申し分ない。大役の時のスタミナがどうかだな。全力投球は極めて好ましかった。

肝心の多田羅のオランダ人は苦しかったな。中域から低域はよいが、高域がふらついて決まらない。初日だからか、衰えなのか?長谷川のダーラントも冒頭怪しかったが、持ち直し安心した。舵取りはよい。マリーは声量がいまひとつ。 読響が素晴らしくうまい。マイスタージンガーの東フィルもよかったから、これらはよい指揮者の力の証だな。デ・ワールト、もったいないな、香港フィルだよ。

こういう人こそ日本のオケに必要。指揮ぶりは的確で冷静な中にもよく歌わせ、やかましく鳴ることも、おとなし過ぎることもない。中庸の美しさというのだろうか、それでいて歌手にとって歌いやすい指揮でオペラティックな感興が満ちている。メータのような切れ味とメリハリもないかわりにまとまりの良さは抜群であった。

数ヶ月前のR・シュトラウスとラフマニノフに次いで、これは本当にいい指揮者だな、と実感させてくれた。

オランダ人と演出にはブーが飛んだが、まずは良い一夜であったことよ。

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