トップページ | そろそろお湯割り »

2005年11月 7日 (月)

始まりは、さまよえるオランダ人

クラシック音楽と酒と食をこよなく愛する、わたしは「さまよえる歌人」。

歌人といっても、詩や俳句を書いたり、歌を好んで歌う訳ではありません。

まあ、「音楽を好む人」といったような意味です。

聴き手としては、古い方に属すると思います。そんな、過去の演奏会の記録なども、色あせた日記帳から書き移してみたいと思います。

まずは、最新のオペラの観劇録などをご紹介します。 

11_02-06_1

二期会のオランダ人を観た。予想通り、救済のないバージョンであった。ドイツで活躍する美術・演出家の渡辺和子の日本デビュー演出という。その経歴からして、読み替えを伴った奇抜なものを予想したが、半ば当たり、半ばハズレであった。以外とおとなしく始まった序曲から、うっすらと舞台が伺え、左側には人らしきものがある。気が散ることに奥の廊下のようなところを人が絶えず歩いている。これは訳わからん。ダーラントはダークスーツを着た金に目のない成金男で、赤いスカーフなどを巻き娘を平気で商売のダシにしちゃうような奴だ。

オランダ人はアタッシュケースに札束を詰込んだマヒィア風のアウトローで黒いコートに黒手袋、サングラスという出で立ち。このコートの下はミスターマリックのようなスタンドカラーのグレーのスーツ。このコートを脱ぐ時はゼンタの愛を確認した時、このコートは最初人に見えたオランダ人の彫像に掛けてしまった。そしてゼンタに裏切られたと思った時、また着て去って行こうとする。黒が呪いの証で、グレーはもじどおり半信半疑の証か?ちなみに多田羅のこのオランダ人は背丈も含め、スタレビの根本要とクリソツである。

舞台は船の甲板を模したのか、右側から左に大きく傾斜し、下は船室。

左側には例の彫像とそれを囲むようにソファーと仕切り。この仕切りはヴィーラントのトリスタンに似ている。そしてなぜか豚の貯金箱が。このスペースがゼンタの部屋であり、夢見るゼンタの少女性を表しているんだろうか。ダーラントとオランダ人は金の取引とともに契約書をお互いにかわしあう。ご丁寧にペンでしっかりサインし、複写の一枚目をひきはがすなど芸が細かい。それから糸紡ぎの場はこりゃ女工じゃなくて白いうわっぱりに白い帽子を深くかぶった精神を病んだ患者だよ。それを見張り指揮するのは眼鏡のオールドミスのマリーである。ついでにエリックは医師でありカルテもってる。だからオランダ人の彫像を崇め制作中のゼンタも病んでいることになるんだろう。

そういう意味ではエリックが一番まともなのかも。ゼンタとの対面でもオランダ人は離れて壁に寄り掛かりハスに構えちゃってる。この二人は終始抱き合うことなく、離れた存在だ。でも一度はゼンタが手を引っ張りオランダ人を別室に連れていき、最後に至ってオランダ人がゼンタの肩を抱いたていど。 船乗りたちはネクタイをしめたサラリーマンで、間抜けな三角帽子をかぶっちまう。モール電球が引かれた甲板には娼婦がくねくね踊り、クラッカーやテープが飛び交う。酒は紙コップで乾杯だ。なんだかね。こうならざるを得ないわな。

エリックに抱き付かれたゼンタ、抱き付いちゃってもいる、を見たオランダ人はコートをうまいこと着込んで普通に立ち去る。それを追うようにダーラント、マリー、エリックがついていっちゃう。いやでも一人残ったゼンタはヒストリーを起こしたようにオランダ人の彫像を倒して、舞台奥の窓から外を眺める。はい、ここで救済もなくオシマイ。

この演出はゼンタの夢想の中の出来事ということだろう。これはこれで、救済なしバージョンを取る以上こうならざるを得ないこともあり、あまり小細工をせず、ストレートて゛よかったと思う。オバサンたちにはわからんだろうな。素人受けのする方向に向かわなかったことがいいんじゃない。    歌手ではエヴァ・ヨハンソンが卓越している。自分の得意な役であろうが、声量、張り、ピアニッシモとすべてにGood。次いで驚きとともに発見だったのは、青柳のエリックだ。立派なヘルデンテナーだよ申し分ない。大役の時のスタミナがどうかだな。全力投球は極めて好ましかった。

肝心の多田羅のオランダ人は苦しかったな。中域から低域はよいが、高域がふらついて決まらない。初日だからか、衰えなのか?長谷川のダーラントも冒頭怪しかったが、持ち直し安心した。舵取りはよい。マリーは声量がいまひとつ。 読響が素晴らしくうまい。マイスタージンガーの東フィルもよかったから、これらはよい指揮者の力の証だな。デ・ワールト、もったいないな、香港フィルだよ。

こういう人こそ日本のオケに必要。指揮ぶりは的確で冷静な中にもよく歌わせ、やかましく鳴ることも、おとなし過ぎることもない。中庸の美しさというのだろうか、それでいて歌手にとって歌いやすい指揮でオペラティックな感興が満ちている。メータのような切れ味とメリハリもないかわりにまとまりの良さは抜群であった。

数ヶ月前のR・シュトラウスとラフマニノフに次いで、これは本当にいい指揮者だな、と実感させてくれた。

オランダ人と演出にはブーが飛んだが、まずは良い一夜であったことよ。

|

トップページ | そろそろお湯割り »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 始まりは、さまよえるオランダ人:

トップページ | そろそろお湯割り »