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2006年1月

2006年1月28日 (土)

ゲルギエフを聴く

ゲルギエフとマリンスキー劇場管を聴く。毎年のように来日しているゲルギエフも、昨年はお休みであった。そのかわり今年は早々に訪れ、約1ヶ月に渡って日本中を巡っている。いうまでもなく、ワーグナーのリングを2サイクル上演したことが今回のメインだが、プログラムを見てビックリ。リングの抜粋やワルキューレ1幕、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、マーラーのそれぞれ5番とラフマニノフぼ2番、くるみ割り人形全曲、といったようなプログラムを連日こなしているのである。恐るべきタフな指揮者とオーケストラなのである。

gergiev_marhnsky

マリンスキーのリングは今回パスした。経済的な負担が余りに大きいのと、ロシア人の名前がズラリと並んだキャストに恐れをなしたこと、そして原色に満ち、ヘンテコなオブジェや化粧の歌手達の写真に全くそそられなかった為なのである。

私はゲルギエフは余り聴くほうではない。ショスタコヴィチだけは聴くが、世評高いチャイコフスキーや春祭、シェエラザードなどは聴いたことがない。これといった訳がある訳ではないが、何となく濃そうで、疲れそうだな、というイメージを抱いてしまうからなんだろう。

しかし唯一の実演の体験、読響を振ってのベルリオーズのレクイエムを聴いた時、期待した大音響による大伽藍は見事に裏切られ、祈りに満ちた真摯な演奏が展開され驚いたことがある。であるから濃いばかりじゃないはずなのだが、いまひとつこの人のことがわからない私なのである。そんな気持ちを抱きなから、今日はゲルギエフをほぼ正面から見据える席で待ち受けた。ホールは「ミューザ川崎」。(お初であります)

ムソルグスキー  歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲

チャイコフスキー バレエ「くるみ割り人形」抜粋

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

以上の濃いロシア・プログラムである。1曲目は、ゆったりとした河の流れの中にも、ムソルグスキーらしい警鐘にみちた響きも絡む音楽。このあたりは小手調べ的な中にも、いかにも「ロシア」を感じさせてくれる演奏。ゲルギエフは指揮台を置かず、普通の指揮棒を持ち、例のごとく、ちくちく・ひらひらと小刻みに手先・指先を動かしながらの指揮振り。慣れてないオケだとわかり難い指揮であろう。

「くるみ割り」は序曲で始まったが、組曲にある有名曲は殆ど取り上げずに、休みを置かず一気に早いテンポで終曲までの抜粋を演奏し切った。このあたりのオーケストラの名技性はたいしたもの。バレエというよりは、純音楽としてとらえた演奏か。私としては、以前聴いたシモノフ/モスクワ・フィルの「白鳥の湖」(こちらも有名曲を外し、情景すらやらなかった)が、極めて劇場的でスリリングな演奏だっただけに、「くるみ割り」もそうした演奏を求めたかった。

ショスタコーヴィチも速めのテンポで、全曲をアタッカで演奏した。少し急ぎすぎではなかろうか?奏者もつけるのが大変だ。昨秋のヤンソンス/バイエルンの緊張感に満ちた名演に較べると、特異な雰囲気だ。ヤンソンスは一音一音、気持ちを込めて音を磨き上げて、自主性あるオーケストラとのやる気に満ちた共同作業を成し遂げていた。一方のゲルギエフは、まずは指揮者の強烈な指導力があって、その強い意志の元に一気呵成に一筆書きをしたかのような勢いの演奏であった。射抜くようなゲルギエフのおっかない目ひとつで、オーケストラは巧みに音色や強弱を変える。正面から見ててよくわかった。ショスタコーヴィチの場合、音楽が散文的だから、こうした演奏は非常に有効でおもしろいとは思う。

曲が終わり、拍手に応える仕草や舞台への出入りも忙しい。アンコールもなし。少しばかりあわただしいゲルギエフなのだ。あんまり仕事しすぎではないか?

やはり、この人のことがますますわからない。うーーーむ。

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2006年1月22日 (日)

R・シュトラウス 「ダナエの愛」

Danae_rstrauss_wakasugi3_2 雪の土曜から一転、晴れ渡った日曜日に、R・シュトラウスの歌劇「ダナエの愛」の上演を聴く。新宿文化センターでの演奏会形式で日本初演である。指揮はR・シュトラウスの紹介に使命をかける若杉弘、オーケストラは新日本フィル。このオケは2週間前に難曲、ショスタコーヴィチの4番を聴いたばかりで、今回は複雑なオーケストレーションで息の長い旋律に満ちた歌劇を2時間半にわたり危なげなく見事に演奏しきり、まずは大賛辞を贈りたい。月が変わると今度は、オネゲルの架刑台のジャンヌダルクを演奏するというから驚きだ。無難に安住する某放送オケとは大違い。まあ東京にはオーケストラがたくさんあって、競争が厳しく毎日どこかで演奏会を開いているから、個性あるオケや王道を行くオケがあって、それをチョイス出来る贅沢を聴衆は享受しているわけだ。もちろん懐にはあまりに優しくないけど。   

さて、このオペラは15曲あるシュトラウスのオペラのうち最後から二つめの晩年の作品で、神話に題材を求め、「ユピテルという神様が、ロバ引きのミダスを王にしてしまい、そのミダスを利用して美女ダナエを我がものにしようとする」荒唐無稽の物語である。言わばシュトラウスお得意の世界で、「ナクソスのアリアドネ」や「影のない女」に通じるものがある。これまで余り上演機会もなく、録音もあまりない。何故こんなに恵まれていないのかわからないが、ホフマンスタールという最高の作家を失って、台本がイマイチなのが原因らしい。しかし、シュトラウスのオペラには余り聴かれない作品がまだたくさん残っていてこれらを開拓して行くのは楽しいものだ。そしてシュトラウス・オベラの上演に若杉氏の存在は世界的に見ても偉大だ。一昨年は「エジプトのヘレナ」、「インテルメッツオ」「カプリッチョ」を手掛けた。今年も期待できるが、新国の監督を受けたから、これまでどおりヴェルディの初期作品や、シュトラウスの作品の上演をやってもらえるか不安である。

Danae この作品は以前、サヴァリッシュがバイエルン国立歌劇場でシュトラウスを全曲上演した際のFM音源を所有していて、今回の演奏を前に繰り返し聴き耳に馴染ませた。その甲斐あって、1幕の冒頭から親しみを持って聴き、それ以上に音楽を味わうことが出来た。加えて、字幕付きだったので、「そんなこと歌ってたのか、ふむふむ・・・・。」といった具合に、このオペラの全体像をつかむことができた。割と長めの間奏曲がいくつか散りばめられていて、こうした演奏会形式だと、そうした部分が本当に聴き映えがする。これらの間奏曲がシュトラウスらしい美しい旋律に満ちた圭曲で、晩年の澄み切った一連の作風に通じるものがあって、いたく感動した。

歌手は譜面を見ながらの1回きりの上演だから、皆精度が高く、文句のつけようがない。なかでも、佐々木典子のダナエがすばらしい。確かシノーポリに認められてバイロイトにも出た人ではなかったか。ともかくきれいに伸びる高域が美しく、暖かい声の持主だ。表現力も充分あって、2幕の「影のない女」を思わせるような、ミダスの愛を選場面などは、感動的な場面であった。ドイツ語の言葉が明瞭なのも特筆ものだ。難役ユピテルの久保和範はよく頑張ったが、オーケストラのフォルテと拮抗する場面が多い役柄なので、ちょっと苦しかった。でもなかなかの逸材であろう。ミダスの大野徹也は私にとって懐かしい。20年前に、朝比奈や若杉のリングで、ジークムントやジークフリートを歌って獅子奮迅の活躍をした。その人もすっかりベテランで、力強さはやや失せたものの、存在感ある声を聴かせてくれた。明瞭な佐々木との二重唱は、やや不利か。その他の諸役もみな良かった。

そして若杉の指揮は、いつもの通り明快で、シュトラウスの「重厚」でかつ「軽やか」で「繊細」といった矛盾する特徴を見事に捕らえ描き分けていた。甘味な愛の場面など、ベタつかず美しく響き、音楽に安心して身をゆだねることが出来た。冒頭で書いたとおり、新日フィルの意欲的な姿勢も特筆して大である。1月にして、すばらしい演奏会を体験できた。

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2006年1月21日 (土)

アバドのルツェルン音楽祭

Imgp1865 今日の関東地方は、南側で大雪。私の住む千葉も久方ぶりの雪に見まわれ、一日自宅で軟禁状態。それをいいことに、一日まとめて音楽三昧。

先週FMで放送された、「アバドールツェルン祝祭オケ」の3夜のライブをすべて聴いてみた。演目は次に通り。

「ブルックナー 交響曲第7番」「ノーノ プロメテウス」「シューベルト オーケストラ伴奏の歌曲(Br:クヴァストフ)」「トリスタンとイゾルデ 前奏曲と愛の死」「ベルク アルテンブルク歌曲集ほか(S:ルネ・フレミング)」「マーラー 交響曲第7番」

まずは、ブルックナーから。最初に編集してその演奏時間を見て驚き!(59分50秒)で何と1時間を切っている。通常66~8分くらいで、1楽章と2楽章で45分を強いるイメージを持っている。聴きとおしてみて、早からず、遅からず、時間の先入観を忘れさせる。もう一度調べると、たしかに59分なのだ。全く停滞感がなく、じっくりと旋律を奏でてしまい、曲に没入してしまうところが見当たらないのだ。スコアを突き詰めていったら実演でこうなった、といった感じの即興性にも満ちていて、すこぶる新鮮味に満ちている。ブルックナーから連想する「教会」「オルガン」「朴訥さ」「宗教性」云々といったものは感じられない。その代わり今生まれたばかりの新鮮な音楽がスコアに書かれてあるとおり、そこに生き生きと鳴っている感じなのだ。2楽章の第2主題の美しさ。3楽章のトリオの部分の優しい牧歌性。終楽章の動と静の簡潔な描き方。こうしたところが、とても素晴らしい。92年録音のウィーン・フィルとのCDは(64分)、FMのエアチェック音源のウィーン・フィル84年ライブは(62分)ということで、ライブ感のあるアバドであるが、ざっと比較してみると、これらの演奏は「アバドの指揮」であると同時に「ウィーン・フィルのブルックナー」という要素もあって両立している。今回のルツェルンの演奏は「マイ・オーケストラとのアバドのブルックナー」なのである。

021017-8 そして、それにも増してすごかったのが、同じマーラーの同じ第7交響曲で冒頭から最後の輝かしいフィナーレまで、アバドのマーラーに寄せる愛情が隅々まで行き渡っていて、ブルックナーよりさらに音楽に対する「没入感」が強く感じられる。テンポの比較ばかりで何だが、今回の演奏は(約73分)、2001年のベルリン・フィルのライブが(約77分)、シカゴ響との録音G(約79分)という具合に演奏時間が短くなっている。演奏時間の長短で演奏の良し悪しは語れないが、アバドの場合年月の経過と共に無駄を省いた透徹感が増しており、ブルックナーの場合と同様に音楽だけがそこにある、という境地を感じさせる。終楽章にいたっては、音楽はもの凄い推進力を伴って、極めてたかいい高みに達している。

過去の録音も、それぞれの局面でアバドを感じさせ、大事な演奏であるが、ベルリン後のアバドはさらに異なるステージを目指して登りつめて行くようだ。同時に若々しい歌をともなったアバド特有の個性も磨かれている。

他の演奏も皆すばらしい。クヴァストフの心理的な歌いぶりは良かったが、フレミングはちょっとねっとりとし過ぎで、アバドとの相性は如何に?

トリスタンの「愛の死」を聴いていたら、音楽のもつあまりの美しさにハッとして思わず涙ぐんでしまった。

今秋来日する「アバドとルツェルン」、どんなブルックナーとマーラーを聴かせてくれるんだろうか? チケットは高過ぎるが、何としても全部聴いてみたい。

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2006年1月20日 (金)

バルビローリのブラームス

大寒なだけに本当に寒い。明日は関東も雪の予報。こんな晩には、暖かなブラームスの演奏を探し出して聴きたい。

barbirolli_brahms ウィーン・フィルを指揮したバルビローリのブラームスを聴こう。それも交響曲ではなくて、「大学祝典序曲」「悲劇的序曲」「ハイドン変奏曲」この交響曲の付録のような、カップリング曲を3曲まとめて。

バルビローリは、楽員から愛され、客演するオーケストラから常にラブコールを得て、すてきな顔合わせの良い録音をいくつか残した。有名なところでは、「ベルリン・フィルとのマーラー第九」や「ローマ歌劇場との喋々夫人」などで、「ウィーン・フィルとのブラームス」もそうした理想の巡り会いのひとつだろう。カラヤンのドレスデン国立歌劇場との「マイスタージンガー」が、当初このバルビローリ指揮で予定されながら、彼の死で実現しなかったのは、同時期に予定されていた大阪万博での来日が流れたことと合わせて痛恨の出来事だと思う。(カラヤン盤はすばらしいけど)

さて、これらのブラームス、全編にウィーン・フィルの往年の鄙びた響きが溢れている。ことに管楽器の音色は、独特でウィンナ・オーボエで始まる「ハイドン変奏曲」はホルンや木管が活躍するだけに、思わず「ニンマリ」の心安らぐ演奏なのだ。よく言われる「バルビ節(バルビローリ節)」もなかなかに全開で、二つの序曲の副主題などは、慈しむように歌わせていて、これが他のオーケストラだったら破綻してしまうような表情を見せたりしている。

バルビローリにはイタリアの血も豊かに流れていて、ノーブルでユーモアを解すイギリス紳士の気風と混ざり合って、えもいわれぬ歌心に溢れたやや濃い音楽がかもし出される。曲によっては、全く受け付けられないこともあるが、このブラームスやマーラー、シベリウス、ディーリアス、エルガー、R・シュトラウス、ドヴォルザークなどがツボにはまりやすい。

冬の晩に、あったかい鍋を囲んで一杯やったかのような気持ちにさせてくれた演奏であった。

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2006年1月19日 (木)

モーツァルトのレクイエム

モーツァルトのレクイエムを突然に聴く。世間では生誕250年ということでモーツァルトが盛んに取り上げられているが、そういうこともお構いなしにレクイエムが聴きたくなったわけ。それもこの曲を初めてじっくり聴いた演奏で。

mozart_reqiem_ch 中学生だった頃、レコード通販の「コンサートホール」クラブの会員であった。1枚ステレオだと1350円で、毎月会報と共に「今月のレコード」と称して何もしないと送られてくるシステムであった。少ない小遣いをやりくりしなければならない私にとって、毎月購入できるものではない。いらない場合ははがきで不要の連絡をすればよかった。また、カタログから好きなレコードをチョイスして注文も出来た。どんなきっかけからこのレクイエムのレコードを注文したかは定かでない。この曲が大いに気に入り、クリスマス・シーズンにも係わらず不謹慎にも何度も聴いていたことを思い出す。

CD時代になって、10年ほど前、一瞬復活した「コンサートホール」にまた申込み、CD化されたこの演奏を再び入手するところとなった。このCDクラブも数年で消滅してしまった。この「コンサートホール」を日本で主催していたのは「日本メールオーダー」という今で言うところの、「通販会社」みたいなものである。現在も存在していて、何と「金融ローン」などを扱っている。実に複雑な心境でアリマス。

さて、この「モツレク」、録音はコンサートホール盤に特有の「もこもこ」とした冴えない音だが、演奏はなかなかに聴かせる。このレーベルにしては、ソリストがすばらしい。ソプラノ:ヘザー・ハーパー、アルト:ルート・ヘッセ、テノール:トマス・ペイジ、バス:キース・エンゲン、といった具合で、メジャー・レーベルなみの顔ぶれ。当然ソロが出てくる場所は、すばらしく、ことにソプラノのハーパーの若々しくも清潔な歌声と、エンゲンの威厳ある深い歌などは他盤より優れているのではないか。

肝心のオーケストラは、ウィーンオペラ座管弦楽団と表記されていて、おそらく国立歌劇場のものか、フォルクスオーパーのものか、いずれかと思われる。古雅で柔らかな雰囲気に溢れている。合唱はウィーン室内合唱団。これも聞いたことない団体だが、時に荒っぽいところもあるが、なかなにうまいものだ。そして指揮者は「ピエール・コロンボ」という正体不明・国籍不明っぽい刑事みたいな名前の人。解説によると、かのシェルヘンやK・クラウスに師事したスイスの指揮者で、合唱を得意にした人らしい。ソリストのまとまりの良さにも助けられ、ソリストや合唱を中心に据え、それを引き立たせるような趣のある演奏ぶりだ。後半のジェスマイヤーの手になる部分がかえって素晴らしく聴かせる。深刻さのない、純音楽的なアプローチによるものだからであろうか。

モーツァルトのレクイエムは、今年あと何回聴くのであろうか。真剣に聴いてしまうと「ラクリモーサ」なんて、もう涙なしに聴けないんだが、そこがつらいので、この演奏はなかなかによろしいのであります。

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2006年1月18日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」 マリナー指揮

「チャイコフスキーが好き」と堂々と言えない。ワーグナーを中心に独・英音楽を愛する者にとっての正直な気持ち。いやはや、恥ずかしいけど好きなの。でも思い切って言おう。「チャイコフスキーの6曲の交響曲が大好きなのだ!」

Marriner_tchaikovsky_12 そんな私のフェイバリットが「マリナーのチャイコフスキー」なのだ。オーケストラは当然「アカデミー(室内)管弦楽団」。大いに偏見をもって、ハスに構えて聴いて欲しい。こんなに爽やかで、気持ちよいチャイコフスキーってあるだろうか?一応フルオーケストラの構えでの演奏だが、どこまでも風通し良く、停滞せず、心持速めのテンポは全くもたれない。深みや強い個性はない。その代わり音楽する心に満ち満ちている。楽しくも聴いていて元気になれる。明日もまたやって来る、そんな気持ちにさせるチャイコフスキーなのである。

「冬の日の幻想」は高名なティルソン・トーマスの演奏で開眼したが、それを思わせる「爽やか演奏」がこのマリナー盤。アバドもよいが、オーケストラ(シカゴ)が巧過ぎるのと、やっつけ録音の感あり。ハイティンクは音楽的で雰囲気豊かな名演なるも、やや重たすぎる。ロシア系や昨今のチェコ系は聴いてないが、私のとっては、この英国産すっきり系がこの曲の場合しっくりくる。とりわけ2楽章と3楽章は管楽器が美しく理想的な演奏。

そんなマリナーも今や高齢で、一時はカラヤンも凌ぐほどのレコーディング量を誇ったが、このところさっぱり耳にしない。海外ではそこそこの活動をしているはずなので、どんな円熟ぶりか確かめてみたいものだ。

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2006年1月14日 (土)

ビルギット・ニルソンを悼む

ドラマティック・ソプラノの代名詞でもあった「ビルギット・ニルソン」が亡くなったそうである。本日、車の中で聴いていたFM放送で知った。1月11日に葬儀が行われたとのことしか案内がなかったので、何日に亡くなったのかは不明。1918年生まれであるから87歳ということで、歌手生命をかなり長くまっとうし、残りの人生も充分に生き抜いたといえるであろう。

birgit_nilsson 私にとっては、またお気に入りの巨星が世を去ったことで寂しい限りである。時間の流れは止められないのは当たり前ながら、往年の名歌手達の歌で開眼してきた音楽に付随する声のイメージは、オペラの諸役にすり込まれ、他の歌手ではもの足りない思いを抱かせるに至っている。

そんな代表例が、この「ニルソン」である。「イゾルデ」と「ブリュンヒルデ」はこの人の声がまずありきなのである。次いで「サロメ」「トゥーランドット」といったところ。

ニルソンの声の魅力はその強靭さにある。「はがね」のような怜悧で力強い響き。完璧にコントロールされた幅広いダイナミズム。力強さばかりでなく、弱音においても明瞭に響く歌声は時に優しく、時に怪しい。そんなニルソンだから、意外とレパートリーも広く、ワーグナーはもちろん、R・シュトラウス、プッチーニ、ヴェルディ、モーツァルトもうまかった。マゼールとのトスカや、メータとのアイーダなど、私は未聴ゆえ是非聴いてみたい。

DGに残した録音の聴きどころを集めたCDを視聴してニルソンを偲んだ。ベームとのイゾルデが圧倒的にすばらしい。加えて、72年録音のメトロポリタンのガラ・コンサートでのこれまたベーム指揮する「サロメ」が超絶的にすばらしい。役柄上はうら若い少女ながら、54歳とは思えぬ凛々とした声は驚きで、ベームの燃えるような熱さと相まって「萌えー」の世界なのである。泣きすさぶ金管が鳴り終わらぬうちに興奮した聴衆が叫びだしている。

nirrson_izordeまた時代がひとつ終わり、ひとつ進んだ。名ソプラノのご冥福を祈りたい。

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2006年1月 9日 (月)

マリスのニューイヤーコンサート

今年のウィーンのニューイヤー・コンサートは、お気に入りのマリス・ヤンソンスの指揮とあって、録画したものをこの休みに堪能した。私にとってのニューイヤーは、クライバーやアバドの時代が去って全くのご無沙汰状態で、久方ぶりの視聴なのである。

Imgp1645 こうしてじっくりとウィーン・フィルの面々を見ると、メンバーがだいぶ若返り入れ替わっている。ことに管楽器にその傾向は著しい。ウィーン・フィルの個性がだんだんと国際化により薄まっていくのが今更ながら懸念される。かってはチャイコフスキーさえろくに演奏したことがなかったのに、今は指揮者の顔ぶれからしても、ストラヴィンスキーやラヴェルやファリアなどを当たり前にやるようになってしまった。世界的な兆候とはいえ「お国柄」はそれぞれ保っていてほしいものである。

まあ、そんなことは抜きにして観てみれば、このコンサートはまったくすばらしいものであった。気が付いてみるといつものヤンソンスの音楽にオーケストラと共に乗せられ、すっかり楽しい気分にさせられてしまった。楽譜を見ながら(眼鏡をかけてないから、確認程度の譜読みだろう)の生真面目な指揮ぶりであるが、出てくる音楽はめっぽう生き生きとしていて、ワルツがこんなに弾んで聴こえたのはクライバーやアバド、ムーティなど以来か。アンコール好きのヤンソンスだから、こうしたアンコールの集大成のようなコンサートは本当にうまいもの。パロディー物をいろいろ味わえたのも楽しい。

「青きドナウ」が今から約140年前の作品とは今更ながらの驚き。こうした、古今の名曲も体が動いてしまうような演奏で、指揮と能動的なこのオーケストラの個性が相まって素晴らしい聴きものとなった。「いいぞ、マリス君」!!

来年は「メータ」の年らしい。このままヤンソンスでいいや、と思うのは私だけ?あと意外と「ハィティンク」なんかも結構いけると思うんだがねぇ。

Imgp1651 それにしても、テレビで見てると客席の日本人は目立つ。ことに羽織袴のおっさんは特に。誰なんだろうあの濃い人は?

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2006年1月 7日 (土)

ショスタコーヴィチの4番

大野和士指揮する新日本フィルを錦糸町トリフォニーホールで聴く。プログラムは次の通り。    

 江村哲二 武満徹の追悼に「地平線のクオリア」                               

 ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番   ピアノ:シモン・トルプチェスキ

    同       交響曲第4番

1曲目は、完全に武満ワールド。二群に分けたオーケストラが美しく静謐な響きを奏でる作品。クオリアとは、自分しか体感できないような質感を意味するそうで、作者の武満への尊敬と感謝が現されていて好ましい。

ショスタコのピアノ協奏曲は、トランペット協奏曲のようにも書かれていて、バランス難しいが、今日の奏者はよくオーケストラを聴きながら超越技巧よりも、合わせる楽しさを自ら発散していて悪くなかった。それにしても変な曲だ。

そしてそれにも増して、変な交響曲が4番である。この奇矯で長大な交響曲は、マーラーを思わせる楽想があちこちに潜んでいて飽きさせない。この曲は結構好きで、ラトル、チョン、ロジェストヴェン、ゲルギエフ、ヤンソンス等のCDやロストロポーヴィチ、ヤノフスキ、ハイティンク、デュトア等の録音音源などでかなり聴き込んできたが、実演は初めてである。

しかし、何度きいてもよくわからない。曲の全体が掴み切れない。個々の旋律やリズムは耳に馴染むのだが、それらが皆とりとめがなく予想できない配列で迫ってくるだけで1時間が過ぎてしまうのだ。しかし、このわからないところが、この曲の持ち味なのかもしれず、そこを考えずに音響体として楽しんじゃえばいいのかもしれない。

実演で味わうとまず、舞台にはちきれんばかりの楽員の数に圧倒される。4管編成どころか、フルートは4にピッコロ2が同時。ホルンも10人。テンパニ2、シンバル2、ハープ2・・・・。そうして、ショスタコーヴィチ特有の大ユニゾン大会や、フーガがぐわんぐわん鳴り渡る。 終楽章のエンディングも静かに、不可解に謎を抱えたまま終わり、後味が微妙だ。大野の指揮は、実に安定感のあるもので、見ていても微動だにしない両足がしっかりと根付いたように見映えがして、楽員も安心してこのとらえどころのない作品の舵取りを任せきっている。難解な現代オペラを巧みに聴かせるこの人ならではの、明快な演奏で、突然変化する曲調にも必然性が感じられるような演奏であった。

ショスタコ・イヤーの幕開きにすごい曲と演奏が聴けた。ますますこの4番の不可思議さに魅せられる思いだ。 しかし、こんなのばっかり聴いていると耳も頭もへとへとになっちまう。

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2006年1月 1日 (日)

フィンジのクラリネット協奏曲

ワーグナーばっかり聴いていたら2006年が明けてしまった。ちょっとモタレ気味の頭を子供と入浴してスッキリさせ、さあまたワーグナー、じゃなくて、ここは爽やかに英国の音楽。

finzi_clarinet_con 新年の夜中に、静やかで美しすぎる名曲、ジェラルド・フィンジのクラリネット協奏曲を聴く。フィンジは1901年にロンドンに生まれ、1956年に白血病で亡くなった薄幸の作曲家で、作品数は少ないが、悲しいまでに美しくもはかない曲ばかりを残した。(没後50年)その中でも、この協奏曲はモーツァルトを思わせるような、長調でありながら「死」までも見つめた、澄み切った曲調で覆われている。伴奏は弦楽だけで、淡々と歌うクラリネットの背景で、ソロにも増して魅力的なフレーズを奏でてゆく。

すばらしいのは、第2楽章のアダージョで、目をつぶって聴いていると、甘く切ない死を待受けるかのような音楽に吸い込まれそうになってくる。いつまでもこのまま浸っていたい。フィンジはいつも死を予感しつつ作曲していたという。こんな音楽を聴いていると孤独に浸ることで、自分が見えてくるような気がしてくる。

じっくりと感じいった後の第3楽章。一転して、弦のピチカート乗ってクラリネット飛翔するような明るさに満ちた旋律を奏でる。でも時おり立ち止り振り返ることもやめない。ひっそりと自分を見つめながら聴く桂曲なのである。

CDは女流、シア・キングのクラリネットがやさしく敏感な演奏で、何度も飽きずに聴かせる魅力に満ちている。今回は2回続けて聴いてしまった。顎に手をあてて思索にふけっていると、娘が来て「何してるの?」、私は「いや、その・・・・・・」

さあ、今年もいい音楽を聴いてがんばるぞぉ。

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