ゲルギエフを聴く
ゲルギエフとマリンスキー劇場管を聴く。毎年のように来日しているゲルギエフも、昨年はお休みであった。そのかわり今年は早々に訪れ、約1ヶ月に渡って日本中を巡っている。いうまでもなく、ワーグナーのリングを2サイクル上演したことが今回のメインだが、プログラムを見てビックリ。リングの抜粋やワルキューレ1幕、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、マーラーのそれぞれ5番とラフマニノフぼ2番、くるみ割り人形全曲、といったようなプログラムを連日こなしているのである。恐るべきタフな指揮者とオーケストラなのである。
マリンスキーのリングは今回パスした。経済的な負担が余りに大きいのと、ロシア人の名前がズラリと並んだキャストに恐れをなしたこと、そして原色に満ち、ヘンテコなオブジェや化粧の歌手達の写真に全くそそられなかった為なのである。
私はゲルギエフは余り聴くほうではない。ショスタコヴィチだけは聴くが、世評高いチャイコフスキーや春祭、シェエラザードなどは聴いたことがない。これといった訳がある訳ではないが、何となく濃そうで、疲れそうだな、というイメージを抱いてしまうからなんだろう。
しかし唯一の実演の体験、読響を振ってのベルリオーズのレクイエムを聴いた時、期待した大音響による大伽藍は見事に裏切られ、祈りに満ちた真摯な演奏が展開され驚いたことがある。であるから濃いばかりじゃないはずなのだが、いまひとつこの人のことがわからない私なのである。そんな気持ちを抱きなから、今日はゲルギエフをほぼ正面から見据える席で待ち受けた。ホールは「ミューザ川崎」。(お初であります)
ムソルグスキー 歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲
チャイコフスキー バレエ「くるみ割り人形」抜粋
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
以上の濃いロシア・プログラムである。1曲目は、ゆったりとした河の流れの中にも、ムソルグスキーらしい警鐘にみちた響きも絡む音楽。このあたりは小手調べ的な中にも、いかにも「ロシア」を感じさせてくれる演奏。ゲルギエフは指揮台を置かず、普通の指揮棒を持ち、例のごとく、ちくちく・ひらひらと小刻みに手先・指先を動かしながらの指揮振り。慣れてないオケだとわかり難い指揮であろう。
「くるみ割り」は序曲で始まったが、組曲にある有名曲は殆ど取り上げずに、休みを置かず一気に早いテンポで終曲までの抜粋を演奏し切った。このあたりのオーケストラの名技性はたいしたもの。バレエというよりは、純音楽としてとらえた演奏か。私としては、以前聴いたシモノフ/モスクワ・フィルの「白鳥の湖」(こちらも有名曲を外し、情景すらやらなかった)が、極めて劇場的でスリリングな演奏だっただけに、「くるみ割り」もそうした演奏を求めたかった。
ショスタコーヴィチも速めのテンポで、全曲をアタッカで演奏した。少し急ぎすぎではなかろうか?奏者もつけるのが大変だ。昨秋のヤンソンス/バイエルンの緊張感に満ちた名演に較べると、特異な雰囲気だ。ヤンソンスは一音一音、気持ちを込めて音を磨き上げて、自主性あるオーケストラとのやる気に満ちた共同作業を成し遂げていた。一方のゲルギエフは、まずは指揮者の強烈な指導力があって、その強い意志の元に一気呵成に一筆書きをしたかのような勢いの演奏であった。射抜くようなゲルギエフのおっかない目ひとつで、オーケストラは巧みに音色や強弱を変える。正面から見ててよくわかった。ショスタコーヴィチの場合、音楽が散文的だから、こうした演奏は非常に有効でおもしろいとは思う。
曲が終わり、拍手に応える仕草や舞台への出入りも忙しい。アンコールもなし。少しばかりあわただしいゲルギエフなのだ。あんまり仕事しすぎではないか?
やはり、この人のことがますますわからない。うーーーむ。
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