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2006年2月

2006年2月27日 (月)

キース・ジャレット「ケルン・コンサート」

kjarrett_koln 趣向を変えてキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」を聴く。ジャズであって、クラシックでもない、微妙な領域のピアノ・ソロによるインプロビゼーション=即興曲なのだ。
1975年ケルンのオペラ・ハウスでの60分に渡る演奏会ライブ。
こうした演奏を前に、何をどう語ったらいいかわからない。ひとつはジャズというものに対し、言葉にできないものを感じることと、キースが思い、指先から紡ぎ出す音楽に対し、凡人がどうのこうの言う余地が全くない、ということから。

全体は3部からなり、CMなどで使われたパートⅠがやはり素晴らしい。メロディアスであると同時にかなりの即興性に満ちており、キースの歌声や足踏みも生々しいばかりか、音楽の一部となっている。それにしても彼の弾くピアノの可能性といったらない。
我々クラシック・ファンからしたら録音もふくめて、ペダルの多用から生じる響きの豊かさが水っぽいと感じてしまうかもしれない。でも虚心に聴けば、ひとりの人間の「心の叫び」と言ったようなものが聴き取れるはずだ。
私は数年ぶりに聴いて、グールドの弾くバッハ、それもゴールドベルクを思い出してしまった。

同世代の「チック・コリア」がもっと先鋭なのに較べ、キースはやや古典(クラシック)に顔を向けた人だ。バッハやモーツァルトも盛んに演奏していた。

ああ、こうした音楽は「酒」がすすむ。

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シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」 バルビローリ指揮

baribrolli_schoenbergバルビローリは1970年、大阪万博の年にニュー・フィルハーモニア管と初来日する予定であったが、来日を待たずに急逝してしまった。
代役で来日し、NHKで放送されたが、記憶がない。マーラーをやるはずだったらしいが、本当に残念なことだった。
 そのニュー・フィルハーモニアとの68年頃(?)の録音で、シェーンベルクの初期作品、交響詩「ペレアスとメリザンド」を聴く。
この作品は、「浄夜」や「グレの歌」と同じく、後期ロマン派風の爛熟したロマンティックな作品で、ライトモティーフが使用され、かなりドラマティックであると共に、濃い美しさを持っている。決して親しみやすくはないが、表現の幅が豊かでないとうるさいだけで終わってしまう。
メーテルランクの作品にどのように対応しているか、音楽を聴いているだけでは良くわからない。でもこの雄弁な音楽に身をゆだねているだけでよいと思う。

その点、バルビローリは美しい部分は思い切り歌いに歌って、破綻ぎりぎりまで情熱をこめていてユニークな演奏を行っている。これぞ「バルビ節」というのだろうか、うなり声も随所に聞かれこっちも熱くなってしまうことしばしである。名盤シベリウスの全集と似たような雰囲気といえる。オーケストラも弦がうまく、なかなか豪華な響きをかもし出している。
 カップリングのR・シュトラウス「メタモルフォーゼン」も同様な演奏で、最後の方で響く「エロイカ」の葬送行進曲がこんなにも美しく鳴る演奏を知らない。

それにしても濃密なる曲である。CDラックには「ベーム」「シノーポリ」「ブーレーズ」「エッシェンバッハ」などが並んでいて、結構好きなのである。FMでエアチェックした「アバド」も素敵な演奏だった。敢えて「カラヤン」を聴かない訳ではないが、様子がわかってしまうから、あまりにもピタリすぎるから、なのである。

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2006年2月19日 (日)

ヴェルディ「オペラ合唱曲」 アバド指揮

Abbado_verdi アバドのスカラ座時代の第1弾、「スカラ座のアバド ヴェルディ合唱曲集」を聴く。74年頃の録音。レコーディングから遠ざかっていたスカラ座の久々のレコードでもあり、ロッシーニの専門家扱いされていたアバドのヴェルディ・デビュー盤なのだ。当時イタリアは経済的にも厳しく、欧州でも力が弱く政治的にももめごとばかりの国であった。イタリアオペラの録音は、ロンドンで行うのが安くあがり、常識であった。そこに登場したこの1枚は、本場スカラ座の実力のほどをまざまざと見せ付け、アバドのヴェルディの神々しいすばらしさを示してくれた。市や国が助成を削減するばかりで、音楽の危機を顧みようとしない中で、アバドは辞表を叩きつけたり、数々の運動を行っていた時期だ。アバドを愛する楽員や名歌手達が、賛同し署名運動などを行い、アバドはスカラ座を去らずに以降「シモン」「マクベス」「仮面舞踏会」「アイーダ」「ドンカルロ」「レクイエム」などの超絶名演を残した。

Abbado_verdi2 一聴、合唱団の素晴らしさに唖然とする。特に力強い男性合唱はこうしてまとめて聴くと薄味の日本のそれとは比較にならない。
言葉への感情移入が強く、自分達の歌を歌っている意識がそうさせるのだろう。オーケストラも全く同じで、その生き生きとした響きは血が通っていてまるで血管が浮き出て見えるようだ。
アバドはこうしたメンバーとまるで一体化し、強弱を見事につけ、ほんの数分の合唱ナンバーを迫真に満ちたオペラの一場面を思い起こさせる演奏にしている。
この人の特徴である、「極度に抑えた弱音の中で歌う」場面が随所に見られる。ことに「ナブッコ」の「行けわが思いよ、金色の翼にのって!」はソットヴォーチェで歌い始め、盛り上がり、感情の高みに達してゆくさまが見事。

スカラ座を去ったアバドは、ウィーンに行き、スカラ座にはムーティがやって来る。
ムーティもすばらしく勢いや歌心では勝るが、アバドほどの緻密さはなかった。二人の不仲はジャーナリズムのなせるところもあるが、音楽性の違いから来たものでもあろう。
この二人のヴェルディを「マクベス」あたりで聴いてみようか。

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2006年2月14日 (火)

ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」

Richter ベートーヴェンミサ・ソレムニスは「荘厳ミサ」というくらいで、80分を越す大曲だ。聴き手もそれなりの覚悟と準備を要する。はずだと思っている。
日曜日に、思い立って2回も聴いてみた。
しかし、音楽はベートーヴェンのいかめしい厳しさ、とっつき憎さ、正に荘厳と呼ぶべきものは、以外と少ないのではないかと思った。
 むしろ、晩年の澄み切った心境を感じさせる、無駄のない明快さと簡潔感に満ちている。後半のベネディクトスなど、完全にロマン派の音楽で、その美しさには耽美的なものさえ感じてしまう。ともかく美しい。その美しさばかりを磨き上げると、一時のカラヤンのようになってしまう。そうした、ベートーヴェンの二律背反する要素をうまく現していたのが、ベームとウィーン・フィルで、ベームの堅い枠組みから微妙にはみ出して、美しい音楽を奏でていたウィーン・フィルの音が、その要素を完璧に捕らえていた。

今回は、非正規盤ではあるが、リヒターミュンヘン・フィを指揮したライブを聴いた。
写真は、本演奏とは関係ないが、DGのリヒターのサンプル盤で、これが素晴らしい選曲で何回聴いたかわからない。これを代用した。
S:ヘザー・ハーパー、Ms:ユリア・ハマリ、T:ゴルドン・グリア(?)、B:ニコラウス・ヒレブラント、Cho:ミュンヘン・バッハ合唱団 録音:1977年9月

バッハばかりか、リヒターはベートーヴェンまでの宗教曲を中心によく演奏していた。我々にとっては、早くに旅立ってしまっただけに、「マタイ受難曲」の超絶演奏があってこそのリヒターだが、晩年は、こうした大曲やメンデルスゾーンやブルックナーまで演奏していた。
 この「ミサ・ソレ」は晩年の記録だが、合唱の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。あまり大きな編成でないであろう、言葉の明晰さは、永年の手兵の一連のバッハ演奏を思わせる。合唱も人の声の集合体だから、個性や特徴あるわけで、まさにこれはミュンヘン・バッハ合唱団の声なのだ。しかし、全般にどことなくロマンティックな演奏である。一番美しい「ベネディクトゥス」から「アニュスデイ」にかけては特にそう感じる。たっぷり楽器を鳴らし、豊かな響きを作りながら、独唱も合唱もことのほか陰影が濃い。
 同時期に来日して、オルガンとチェンバロのみでのリサイタルを行っているが、当時「ゴールドベルク変奏曲」を聴いた友人は「結構濃い」と評していた。

放送音源で万全の視聴ではないが、リヒターの演奏としては貴重で、かつての「マタイのリヒター」という固定観念を無視して聴けば、極めて立派な演奏ではなかろうか。
本来ならば、謹厳なリヒターがベートーヴェンから、同質のものを引き出す、という厳しい演奏を望むところであったが、合唱を中心とした言葉への訴求力の高い演奏と感じた。

リヒターが、もう少し活躍していたら、どんな風になっていただろう。
 

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2006年2月12日 (日)

「聖書の暗号」

bible_code1 数年前に「聖書の暗号」という本を読んで、「恐ろしい」という思いとともに、 「ホンマかいな?」という思いを持った。その記憶がすっかり失せた今、本屋で「聖書の暗号2」を見つけ、速攻読破し、また不安と疑惑の念にかられている。
 著者は、アメリカのジャーナリスト「マイケル・ドロズニン(Michael Drosnin)」という人だ。1刊目が1997年、2刊目が2002年の作で、もう数年が過ぎてい る。テレビなどでも紹介されていたらしい。

bible_code2 約3000年前に書かれた膨大な旧約聖書の最初の5書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」、以上の合計30万4800字からなるヘブライ語の文字を、すべて一列に並べ、コンピューターを使い数字ずつ飛ばして等間隔で読むと、名詞や名前、出来事、地名などが出てくる。その周辺にその言葉にまつわる年号や関連事項が出てくる。
ユダヤ人数学者「エリアフ・リップス」が発見したものである。
そうした偶然は、確率的に何十万分の一でしか起きないと検証されていて、他の書物や大小説でも実験を行っているが、まさに起こり得ないらしい。

どんなことが、隠されているかというと・・・・。

「世界戦争、ヒトラー、ホロコースト」「ケネディ、ダラス、死」「オズワルド、暗殺する」日本がらみでは「広島、1945、原爆」「オウム真理教、地下鉄、ガス」「神戸、日本、地震・火災、1995」等など。2刊目での発見は、「双子、塔、二度、打倒した、飛行機」「ビンラディン、塔のある町」「ラビン(イスラエル首相)、暗殺」・・・・、他にもクリントン、ブッシュ、ゴア、アラファト、シャロン・・・、世界を揺るがす政治家達の名前が植え込まれている、という。将来の出来事まで暗示されている。

驚くべきは、「2000~2006、大地震、日本」「2006年、世界戦争」「終わりの日に、2006」である。起こった事項を検索して、後付けで発見しているわけで、前もって未来を読み込むことは、キーワードがない限り難しい。

作者は、予言は決まったことでなく、我々が努力して変更可能なものとしているが、いやなものである。だいたい、誰がこんなこと暗号化したのか?人間を超えた存在か?かつて全く異なる世界からやったきた存在がいたのか?深まる疑問に疑惑。

この本を単なる虚構として済ましてしまってよいのか?私にはわからない。

 だが、危険な兆候は符合するばかりだ。世界では、アラファトの死(暗殺説あり)、シャロンの重態、ファタハの躍進、ビンラディンのテロ宣言とブッシュの強硬姿勢、中東での風刺画騒動。
国内では、小泉首相の任期終了が近い、道徳心の欠如にともなう殺人・偽装、ライブドア事件に見られる空疎な金への執着、日本の経済がまやかしの上に成り立っている時に大地震でも起きようなものならどうなるか?空恐ろしい。

しかしこれだけは言える、自分の余命も含め、来るべき時のために、未聴のCDやろくに聴いてないCDを慈しむようにして聴くこと。カセット音源やビデオのCD化。在庫の各種酒たちの処理。

ああ、忙しい。こんな大事なことに囲まれて、死んでなんていられるものか、てな気分である。矢でも鉄砲でももってこい、っていう気分である。

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2006年2月11日 (土)

ベートーヴェン 三重協奏曲

beetohoven_triple 1969年、ベルリン・フィルのDG録音の本拠地イエス・キリスト教会に、当時、ソ連という固いヴェールに包まれながら、それぞれの楽器の最高峰の名手であったリヒテル・オイストラフ・ロストロポーヴィチの3人が集まった。
指揮するは、帝王カラヤン。DGはEMIの申出を快く受け、カラヤンとベルリン・フィル、録音会場を提供した。
そんな歴史的な出来事があった。1970年というベートーヴェンの生誕200年の記念の年もにらんでのことだ。当時はクラシック聴き始めで、何でもベートーヴェン・カラヤン・長島・卵焼きであったけれども、さすがにこの訳のわからない曲には手がでなかった。
 しかも、日本では契約の関係で、ソ連のレーベル「新世界」から出たため、かなり地味であった。写真は発売の予約チラシで、この正月に実家の机の中から探し出したもの。

beethoven_triple2 そんなイワクのあった音源も、今は普通にEMIから、しかも廉価盤で購入できる。さらに、同時期に録音された、オイストラフ・ロストロポーヴィチ・セル/クリーヴランドのブラームスの二重協奏曲までが付いてしまう。
つくづく時代を感じるわけだ。
作品番号は56だから、「英雄」の次にあたるが、あれほどの才気やボリューム感は全く見当たらず、3つの楽器をわざわざ使うまでもないと感じる協奏曲だ。バランスがとりにくい組合せなのだ。どれかひとつが目立つ訳でもなく、3つの楽器が同時にバリバリと鳴るわけでもない。オーケストラも然り。要はこんな凄い顔ぶれで真剣に勝負する作品ではないということ。だから、このメンバーは以外や楽しく、リラックスして演奏している。時にオーケストラが立派すぎるくらいで、3人のソロはお互いを聴きあいながらそれぞれが突出しないように演奏している。 写真の楽しそうな様子が物語っている。(レコ芸の切り抜きです)
作品にケチをつけるわけではなく、ベートーヴェンらしい若やいだ雰囲気が溢れているし、2楽章などは大変美しく、短いながら聴き惚れてしまった。

この作品は、こんなすごい名手を集めずに、ハイティンクがボザール・トリオとやったように、普通の室内楽トリオと地味にやったほうがよいのだろう。
レコード会社としては、名手をごっそり集めたくなるのだろう、かつて、「アラウ・シェリング・シュタルケル」なんてのもあった。(指揮は若くて毛のあったインバル)
また「バレンボイム弾き語りで、ズッカーマン・デュプレ」も企画されながらデュプレの死により実現しなかったこともあった。
ともあれ、音楽不況の今から見ると、うらやましい時代だった。そんな演奏である。

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2006年2月10日 (金)

ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」 スラトキン指揮

Slatkin_hanson_barber アメリカの作曲家、ハンソンの交響曲を聴く。
「ロマンティック」のタイトルは作曲家本人が付けたもので、いかにも近代保守派のハンソンらしい親しみやすく、メロディックな作品である。ハンソンは北欧系の家系らしく、一連の北欧作曲家のもつほの暗さやも併せ持っていて、単に映画音楽風のチープな作風に終わっていない。またアメリカ人作曲家風の、遠くを見つめるようなノスタルジーにも満ちていて、飽きさせない。
構成は、フランクを思わせるような3楽章形式で、冒頭のモティーフが全曲に現れ、循環して行く。美しい旋律が全曲に渡って満ちており、すべてがポジティブで明るい。
 1930年、クーセヴィッキーとボストン響の初演という。ストラヴィンスキーやバルトークの活躍中の同時期を考えるとえらく保守的だが、アメリカという国を考えると順当な作風なのであろうか。おもしろいのは、ホルンが勇ましく鳴り響く3楽章。解説によれば、北欧のヴァイキングの角笛なのだ。その勇ましさも、ノスタルジックで甘味な甘味な主題にとってかわり、最後は輝かしくも、懐かしい雰囲気のうちに終わる。

演奏は、レナード・スラトキン指揮するセントルイス響。96年の録音だが、やや潤いのない音質ながら(EMI)、こうした曲をやらせると抜群にうまい。うまいというより、自分達の日常の音楽をさりげなく奏でている様子で、わざとらしさが全くない。スラトキンは最近BBCを辞めてどうするのか?ワシントンでは今ひとつだし。本来はニューヨーク・フィルあたりで頑張るべき人なのに、変に裏街道を選んで行くヒトなのだ。音楽を楽しく聴かせる才能にかけては、ヤンソンスに匹敵する名匠だと思うのだが。

このCDには、もうひとつ素晴らしい曲がカップリングされている。「バーバーのヴァイオリン協奏曲」なのだ。こちらも米国保守系の大家。この作品は私は、エルガー、ディーリアス、ウォルトン、コルンコールド(オーストリア)らと並ぶアングロサクソン系の美しきヴァイオリン協奏曲達として好んでいる。2楽章なんぞの泣き節はもう堪らない。
 エルマー・オリヴェイラというアメリカ人のソロは、スラトキンの名伴奏に乗って万全のものだ。
 AMERICA THE BEAUTIFULというシリーズの1枚、ジャケットも美しい。

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2006年2月 9日 (木)

バーンスタインのシベリウス「交響曲第1番」

bernstein_siberius1 シベリウスの1番は、個性のそれぞれ異なる7曲の交響曲のうちでも、幻想的で美しい旋律に満ちている。何故かチャイコフスキーの1番との同質性を感じる。寒い夜にはもってこいの曲で、ホット・ウィスキーなんぞが似合ってしまう。

今晩は、バーンスタインの最後の録音のひとつ、90年にウィーン・フィルを指揮したライブで聴く。1楽章のクラリネットのソロは極めて静やかに始まるが、すぐにヴァイオリンの情熱的な第一主題が始まり、バーンスタインの棒にもエネルギーが宿り、ウィーン・フィルからかなり迫真に満ちた響きを引き出している。打楽器の強打もすごい。
一転ロマンティックな2楽章では、ゆったりとウィーン・フィルの美しい管楽器の響きが楽しめる。遅いところは遅く、早いところは早く。そんな晩年のバーンスタイン節が聴かれる。
3楽章も中間部の牧歌的な美しさと、早い主部との対比が見事に決まっている。
最終楽章に至って、うねるように熱い調べを奏でまくり、大きく両手を広げてきれいな空気を思い切り吸い込んだような気持ちにさせてくれる。最後の場面では、マーラーをも思わせるような響きをかもし出している。

バーンスタインが亡くなってすぐに出たCDで、これを聴いて涙した覚えがある。ウィーン・フィルのシベリウスの以外な良さと共に、ムジークフェラインの素晴らしい音響をとらえた名録音に、残りの3・4・6番が未完に終わったことが残念でならない。

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2006年2月 8日 (水)

サヴァリッシュのモーツァルト「プラハ」

サヴァリッシュがいつのまにか高齢になり、急にもてはやされるようになった一方で、体調も不良らしく、このところN響にもご無沙汰である。
N響のドイツ系の指揮者って、毎年来日してたし、テレビでも馴染みだから、有り難味が薄れてしまって、気がついたら皆、高齢になり、音楽シーンから消えてしまった・・・・、ということが多い。
考えたら本当にもったいないことしている。時おり彼らの過去のエアチェック音源などを聴くと、オーソドックスな中にも、しつかりとオペラの殿堂から叩き上げた腰の座った音楽作りに感心してしまうことが多い。なかなか今の指揮者達からは聴かれない普通さ、とでも言おうか。スウィトナー、シュタイン、そしてサヴァリッシュである。来日中のブロムシュテットも。

そのサヴァリッシュが78年にチェコ・フィルと録音したモーツァルトの交響曲を聴いた。
39番と38番「プラハ」である。前述の堅実さの中に、この人特有のスタイリッシュな爽快さが全編に貫かれている。聴いていると、壮年の姿勢の正しいサヴァリッシュの指揮振りが思い浮かぶようだ。そして、チェコ・フィルの美しさ。特に弦楽器は誠に美しい。
あまり知られていないが、以外な組見合わせの美しい結実だ。
このコンビで、40・41番、ドヴォルザークの宗教曲などがあった。探してみよう。

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2006年2月 7日 (火)

ミュンシュのラヴェル「ダフニスとクロエ」

寒い。熱い音楽を、と思ったが時間も深夜。音を絞っても「熱い」ミュンシュの指揮で「ダフニスとクロエ」全曲を聴いてしまおう。
munch_daphmis 1975年だったと思うが、ラヴェル生誕100年に、小沢征爾がサンフランシスコ響と凱旋して全曲を演奏した放送をNHKで観て聴いた。それが、第二組曲しか聴いたことがない自分の全曲初体験で、小沢の米国オケを統率するカッコイイ指揮ぶりと、音楽のめくるめく素晴らしさに猛烈に引かれた記憶がある。

同時に購入したレコードが、このミュンシュ/ボストン響の1枚である。RCAレーベルから出ていた廉価盤であったが、55年の録音に係わらず音が良く、私の安い装置でも実に良く鳴ってくれた。このCDでもそこそこのレヴェルで復刻されている。
 何よりも、音楽の勢いが素晴らしい。一筆書きの見事な書画を見る思いだ。そればかりでなく、神秘的な部分の多いこの作品の「静」の部分も克明に描かれていて、ボストン響の名手達が鮮やかに織り成す「動」の部分との対比が実に豊かなのである。
「夜明け」の部分にすべり込む雰囲気の見事さ、その格調の高さ。「無言劇」の精緻さと「全員の踊り」の熱狂。こんな演奏を実演で聴けたら、もう興奮の坩堝だろう。

ミュンシュは68年に77歳で亡くなっているが、もう少し生きて「パリ管」とドイツ物やラヴェル・ドビュッシーを残して欲しかった。私は廉価盤だったことやコンサートホール会員だったこともあって、ミュンシュの音楽をいろいろと聴いてきた。その真髄は、ラヴェル・ベルリオーズとドイツ物にあるのではないかと思っている。

そして、ついでに一言。小沢もあの頃はよかった。早く体調を直して、ミュンシュの後を継ぐような「勢い」を取り戻してもらいたいものであります。

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2006年2月 4日 (土)

モーツァルト「ポストホルン・セレナード」 ベーム指揮

モーツァルトのポストホルン・セレナードを聴く。この曲に関しては、ベームとベルリン・フィルが一番だ。昨夜、大阪アインザッツでマスターと共感したばかり。そこで聴かせてもらったヘンシェンとアムステルダム・フィルの演奏も管の国オランダらしく美しい演奏で驚き。

Posthorn_bohm 帰宅後、どうしても聴きたくて、ベーム盤を取り出した。やはりイイ。
手持ちのCDジャケットは陳腐だが、高校生の時に買ったレコードジャケットは本当に美しく、このイメージを音楽にもダブらせ引きずってきた。

何といってもベームのかっちりした指揮が良い。
そして、セレナードといいながら、交響曲のような構成感豊かな曲だけに、枠組みをしっかりつけたベームの指揮のもと、ベルリン・フィルが実に堅実な音を聴かせる。
名手たちが思いのほか色彩豊かに歌いまくる。
ベルリン・フィルの管楽器の響きは、私は大好きで、ウィーンのそれとはまた違った美しさをもっている。特に、当時のツェラー、ゴールウェイ、コッホ、ライスター、ピースクといった主席がお互いを聴き合いながら、実にギャラントな雰囲気を響かせている。3・4楽章はもう、うっとりとしてしまう超名演である。
イエス・キリスト教会の響きの豊かな録音もすばらしい。

ウィーン・フィルだったら・・・と思わせない、モーツァルトの名演。
レヴァインが後年ウィーン・フィルと録音しているが、あまりにリアルであっけらかんとしている。指揮者の格の違いであろうし、デジタル録音の初期の頃の潤いのない録音がマイナスになっている。ベームともう一度残して欲しかった。

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