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2006年3月

2006年3月31日 (金)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド

今朝、東京駅の八重洲地下街の喫茶店で、打ち合わせをしていたら、日ハムの「新庄」と見たような選手二人が、入ってきて私の後に座った。ほほう、と思い耳をそばだてていたら、ずっと野球の話で、誰は打ちにくいとか、どこ球場はよいとか、極めて真面目なお話。
遠征の途上だろうが、派手ないでたちで極めて目立つ。しかも香水プンプン・・・・。

Imgp2564ma マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。実は昨晩の視聴だが、ココログの絶不調に合い、せっかく書いた記事が飛んでしまった。新庄はともかくこっちも、プンプンなのだ。
 マーラーはかつて聴きすぎた感あって、正直食傷ぎみ。しかし、大好きなアバドのマーラーは、彼が常に情熱を傾けていることもあって、こちらも身近に聴いて来た。そのアバドのマーラーの軌跡をマイ・フォトに集めてみた。

そのアバドの記念すべきシリーズ第一弾が、この「復活」。1965年にザルツブルクでウィーン・フィルを指揮して伝説的な本格デビューを飾ったアバドであるが、ことあるごとにこの作品を取り上げ、このシカゴ響、ウィーン・フィル、ルツェルンの3種類の正規録音を行っているほか、日本でもベルリン・フィルと演奏している。
76年の録音で、当時はマーラーといえば、ワルターかクレンペラーかバーンスタインといったユダヤ系指揮者の録音ばかりで、他はショルティやメータの録音優秀組か、唯一ハイティンクが地味に全集を完成させていた。そんな頃に出たアバドのレコードは、同時期のメータの「復活」と共に、「新時代のマーラー」と呼ばれたものだ。

ショルティが指揮をすると、デッカ録音のマルチ的な重厚さと共に剛直なイメージを持ってしまうシカゴ響であるが、当時主席客演指揮者だったアバドが指揮をすると、細身でシャープで明るい色調をイメージさせる。ジュリーニもそんな感じだ。レーベル・録音場所の違いもあるが、それだけフレキシビリティー溢れる超優秀オーケストラだということだろうか。

演奏は冒頭から、鋭くとぎすまされた音塊が耳を捉える。反面、弦のやさしい主題はことさら美しくやさしく歌われていてその強弱の対比のバランスがオーケストラの優秀さもあって素晴らしい。2楽章・3楽章は地味な場面だが、今回久しぶりに聴いて、おやこんなフレーズがあったのか?などと再発見する場面もあった。早めのレントラー風の2楽章は、さわやかに春の風が吹き抜ける感あるし、スケルツォの3楽章は、角笛交響曲としての引用が楽しく、トリオのトランペットの牧歌のようなソロも見事なものだ。アバドの楽しそうに指揮する姿が目に浮かぶようだ。
 神妙な4楽章は、M・ホーンがそれこそ以外に神妙で抑えた表情付けが好ましい。
終楽章も、スペクタル的にならず、自然な盛り上げに終始する。当時活躍したソプラノのネブレットの清潔な歌いぶりもよい。無伴奏で始まる復活の詩の合唱は、アバドの特徴である「徹底的に抑えたピアニッシモの中に歌う」場面の最たるところで、徐々に盛り上げていって、最後に輝かしい終結をむかえる。生で聴いたらさぞや凄いことだろう。
かつて、スカラ座来日で「シモン」を観劇した時に、そのような見事なカーブを描くかのような劇場的な盛り上げ方に涙した思い出がある。

当時も、今のアバドのマーラーもあくまで自然体で、構成感を大事にした、精緻な演奏である。
昨年のルツェルン・ライブでは、さらに一歩進んで無駄な物を切り捨てた澄み切った心境を開示してくれた。
人によっては、個性なし・何もしていない、ということになってしまおうが、35年確信をもって聴き続けてきた指揮者である。そんなアバド好きだから、こちらも夢中になってしまうし、齢を重ねてくると、「これでちょうどいいのだ」とつくづく思う訳である。

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2006年3月29日 (水)

トルステン・ケルル テノールアリア集

Hotel 第2東京タワーの計画が発表された。墨田区押上のあたりに世界一・610mのタワー計画で、言うまでもなく地上波TVのデジタル対応のためだが、またもや東京でのビッグ・プロジェクトだ。墨田・台東のあたりは都内でもやや開発の遅れているエリアだが、東京ばかりが何故?今回は東武鉄道が500億円を投じる。併せて同社は周辺に高層のツインタワーを建て、ショッピングモールも誘致し、浅草までのプロムナード的な遊歩道を計画しているらしい。鉄道も含めた大計画はおそらく2000億規模の事業であろう。何とも言いがたい大計画に商機を見出し喜ぶ向きも多いだろう。まだまだ続く、この一極集中は東京の良さを壊し、地方も崩壊させて行くように思えてならない。

Torsten_kerl 気分一新、ドイツの新鋭ヘルデン・テノールの「トルステン・ケルル」を聴く。数年前からその活躍は知られていて、バイロイトでも端役で出演していた。その彼が、昨年の新国の「マイスタージンガー」のヴァルターに出演するというので期待していたが、夫人の急病で来日が流れガッカリした。
このCDは、そのマイスタージンガーをはじめとする、ワーグナーの諸役を中心とするドイツオペラからのアリア集である。

その声は、ジャケットから想像されるような、明るく軽いイメージではなく、低域から中域にかけて充実した力強い声の持主で、やや暗め。しかし、この音域は美しく響かせていて、それをベースに高音をエイッとばかり張り上げる。やや一本調子に聴こえないでもないが、なかなかに新鮮なのだ。フロレスタン・ローングリン・ヴァルターは良い。声からしてジークムントがよさそうなので、今後に期待したい。しかし、このCDでもっとも素晴らしいのが「コルンゴルトの死の街」の1曲だ。この作品のスペシャリストとしてひっぱりだこなのだから、当たり前かもしれないが、音楽のもつ滴るような世紀末の響きが、見事に歌い出せれている。
 このCDの弱点は、アンゲーロフとスロヴァキア放送響の締まりのない伴奏だ。このレーベルは、若い歌手をいち早く起用し貴重なアリア集を廉価に発売してくれるのだが、伴奏がいつもこのコンビ!どうにかならないか?日本で飯森氏や若杉氏とやったほうが、はるかに良いのに。

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2006年3月28日 (火)

モーツァルト クラリネット協奏曲 ベーム

Bohm_mo_clacon_3 モーツァルトの晩年の作品、クラリネット協奏曲を聴く。イ長調でありながら、どこか寂しげで孤独な雰囲気を感じさせる。23番の同調のピアノ協奏曲も似た要素があって、秋の物思いの季節がふさわしい。
が、しかし今回は陽春の初めに選んでみた。

演奏は、ウィーン・フィルの主席だった、アルフレート・プリンツのソロにベーム/ウィーン・フィルの理想的な組合せ。
冒頭から遅めのテンポで、ウィーン・フィルの柔らかな弦の音色に魅せられる。クラリネットも全くオーケストラと同質の響きでふっくらと優しく包み込まれるような気分になる。
2楽章の美しさといったらない。弦楽器のつつましやかな伴奏に乗って連綿と歌うクラリネットを何と表現しようか。甘くなりすぎないのは、ベーム翁の厳しい手綱のせいか。
終楽章もあわてず、ゆったりと進められるが時おり現れる短調のフレーズの寂しげな表情が良い。楽しそうに話をしてたモーツァルトが、ふいに寂しげな表情を見せるかのような場面を想像させてくれる。

欲を言うとやや老成しすぎかもしれない。もう少し若やいだ雰囲気なら、プリンツの次の主席シュミードルとバースタインの演奏も良かった。(ライスター/カラヤン、マイアー/アバドの新旧ベルリン・フィルの比較もまた一興)
アナログ最盛期の録音も瑞々しく、落ち着いた気分で聴ける1枚。レコードは、同じウィーン・フィル主席のソロで、ファゴット協奏曲がカップリングされていたが、CDではそれに加えてオーボエ協奏曲が入っていて、ウィーン満載の1枚となっている。

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2006年3月27日 (月)

シベリウス 交響曲第5番 サロネン

salonen_sibelius シベリウスの交響曲は、コンパクトな長さのために7曲がCD3枚に収まり、全曲を揃えやすい。2番しか振らない指揮者以外は、全曲やってしまう指揮者が多いと思う。ましてフィンランドや北欧出身者となれば、お得意のレパートリーとして、全曲取り上げるのが当たり前的になっている。
 しかし、フィンランド出身のイケメン指揮者エサ=ペッカ・サロネンはシベリウスの交響曲に対して慎重で、「レミカイネン組曲」や協奏曲以外は、この5番しか録音していない。ロスアンジェルス・フィルという明るい色調のオケのシェフだから、機が熟すのを待っているのか?唯一ある、5番のCDを久しぶりに聴いて期待が膨らむばかりだ。

オーケストラはフィルハーモニア管で86年の録音。もう20年も経つのかと、驚いた。
ともかく若いイメージがあった、サロネンも48歳(同年代!)。作曲家でもあるだけに、耳が良く切れ味鋭い。音楽は生き生きと弾力性に富み、明晰だ。こんな印象は、ネットラジオで最新のロス・フィルライブを聴いても、まったく変わらない。ある意味で変わらない「ブーレーズ」を意識させる。「トリスタン」を劇場でやってしまうところも似ている。

このシベリウスは、オーケストラのニュートラルで機能的な響きにも助けられ、実に透明感に満ちた演奏だ。音響はやや薄いが、都会的なスマートさに満ちていて、お国ものなんていう言葉とは縁遠い。熱くならず、クールにシベリウスの書いた音符を忠実に再現している、そんな演奏なのだ。こうした細身のシベリウスは、バーンスタインやバルビローリの情熱からは遠くに位置するもので、男性的な一筆書きのデイヴィスや、お国もの没頭方の先達ベルグルンド・カム・セーゲルシュタムとも違う。同年代のサラステは近いものあるが、お国もの系の存在だろう。シベリウスはこれだから楽しい。

牧歌的だが、変則的な作風で聴かせ所がなく、盛り上げどころも少ない。エンディングも難しい曲だ。変に盛上げようとしたり、一部を強調したりせず、こうした特長をそのままサラッと演奏してしまったのが、このサロネン盤だ。そのクールな指揮ぶりが心地よく、さりげない抒情をとおしてシベリウスの本質が紡ぎ出されるようだ。

ロスアンジェルスのシベリウス全集に期待しよう。

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2006年3月26日 (日)

ラフマニノフ 交響曲第2番 ビシュコフ

bychkov_rachmannoff ラフマニノフの交響曲第2番を聴く。この1時間あまりの長大かつ甘味な交響曲が大好きで、ことあるごとに私のCDプレーヤーにかかる作品だ。
かなりの演奏を聴いてきたが、今もって一番はやはり「プレヴィン/ロンドン響」のEMI録音。次点はFM音源の「ヤン・クレンツ/ケルン放送SO」「スラトキン/N響」である。曲が大好きだから、何を聴いてもいけちゃうのだが、プレヴィンだけは別格だ。
本日は、そのプレヴィンにどこまで迫るか、前から探していたパリ管のラフマニノフ。指揮はバレンボイムの後を継いだ不人気「ビシュコフ」だ。
この人は、一時カラヤンが突如後継者と指名したわりには、音楽性は地味で、以外と独襖系をじっくりと聞かせるタイプだった。そんなビシュコフがパリ管のシェフになって、レコーディングはフランス物主体でイマイチの評価だったが、こうしたロシア物をやった場合は適性バッチリ。1楽章から、速めのテンポでメリハリの効いた乗りの良い演奏を聴かせる。
以外や、スマートで細部は良くまとめられてはいるが、思い入れタップリを期待すると、肩透かし的な演奏だ。聞かせ所の3楽章はさすがに、じっくりと各楽器を思い切り歌わせて、こちらが期待する雰囲気を造りだしている。ここにきてパリ管の管の良さが全開となっている。この曲の総集編のような終楽章は、早いところは早く、遅いところは良く歌って遅く、という聴かせ方で、最後にアッチェランドをかけまくり盛り上がることこのうえない。全般にスマート過ぎて、これでいいのかなぁ?と思わなくもないが、これもまた、ラフマニノフの楽しい魅力を引き出した演奏だ。何より「パリ管」であるところが随所に聴かれるところが良い。

ビシュコフは見た目が(特にタラコ・・・が)濃くて損をしているのかもしれない。最近はウィーンやドレスデン、ケルンでR・シュトラウスとワーグナーのオペラで頑張っている。
一皮むけたんだろう。確認してみたい人である。アインザッツ・マスター情報では、美人姉妹デュオのラベックのどちらかが奥さんだそうな。あのタラコ・・・で、うらやましいことである。

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2006年3月25日 (土)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」 ケルテス

Kertesz_dvorak9_2 陽気に誘われ「新世界」を晴ればれと聴く。名曲中の名曲は年中OKだ。
「運命」「未完成」「新世界」はかつてクラシック入門3大シンフォニーだった。私の世代での、「巨人」「大鵬」「卵焼き」に匹敵するクラシック界の名曲。もちろん今は、後者のトリオは見る影もない。

私も、ご多分にもれず、「新世界」でデビューしたひとり。ケルテス/ウィーン・フィルのロンドン・レーベルのレコードが、親にねだって初めて手にしたレコード。
ちなみに、「カラヤンの田園」と2枚買ってもらった。
カラヤンはともかく、よくケルテスなんぞ知らない指揮者のレコードを選んだものだ。田舎のレコード屋だから、選択肢がなかったのかもしれないし、ジャケットの鮮烈さから選んだのかもしれない。当時(小学生)の私に演奏の良し悪しなど無縁で、音楽そのものだけを純粋に楽しんでいた時代なのだ。今思えば、何とうらやましい。初々しい感性が懐かしい。

こんなことを、思い起こさせてくれる演奏がこのケルテスの新世界なのだ。
Kertesz_dvorak9a 今CD化されたもので聴いても、実に新鮮なのだ。ものすごいやる気をともなった若きケルテスにウィーン・フィルがまともに応えている。小さなディスクによくこんな、はちきれんばかりの音楽がなみなみと入っているものだ、と感心してしまう。生々しいティンパニ、懐かしい響きのオーボエやフルート、ツヤツヤしたチェロやビオラ。歌いまくるヴァイオリン・・・・。一音一音に音楽する気持ちがみなぎっていて聴いていて、気持ちよくなってしまう。
私の思い入れがある1枚だけに、聴く側がのめり込んでしまっていけないが、2楽章のラルゴなどはもう涙ものの演奏。すべての楽器が郷愁に濡れている。私の心もすべての思い出を掻き立てられるようで、平常でなくなる・・・・。

今月のレコ芸でも絶賛さえていたこの演奏。多くの人の思いは同じと思う次第。
テルアビブの海岸で水泳中に波にのまれて亡くなって、早や30年。
 もし今存命だったら、という思いはいまだに残る人だ。確か、クリーヴランドの指揮者になっていたはずだし、ウィーンでもオペラがやれる人だったから・・・・と、思いは尽きない。

名曲・名演・名録音、ついでに自分的にはオリジナル・ジャケットではないものの、名ジャケットと言っておこう。

 

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2006年3月22日 (水)

ラヴェル ボレロ、ラ・ヴァルスほか バレンボイム

bareboim_ravel バレンボイムがパリ管弦楽団の音楽監督だった頃のCDで、ラヴェルの作品集を久々に取り出した。81年の録音で、CD初期の頃、1枚4000円から4500円もした今から見ると信じられない時代に購入したもの。ほんとに良くこんな金はたいて買っていたんだなぁ。独身時代、給料は酒とCDに消えていたのだ。

「ボレロ」「亡き王女・・」「ラ・ヴァルス」「ダフニス」の4曲がきれいに収まった1枚は55分。
日本人の典型である私からすると、「パリ管」という言葉だけで、おフランスを感じさせる甘酸っぱい何かを思い起こさせてくれる。「フランス国立管(国立放送管)」はもっと機能的なイメージを与えるが、このオーケストラのイメージは、ザ・パリなのだ。
 が、しかし歴代の指揮者陣は、ドイツ系ばかり!ミュンシュ亡き後、カラヤン、ショルティ、バレンボイム、ビシュコフ(?)、エッシェンバッハ、という具合。
こうした指揮者たちの、フランス物が面白いのである。
本日のバレンボイムのラヴェルは、いずれも遅めのテンポでじっくりと聴かせる。「ボレロ」など17分かけて、最後までじんわりインテンポで進め、エンディングも焦らず堂々と終了する。私の大好きな「ラ・ヴァルス」もゆったりと、ねっとりと進行して、もう少し軽妙さが欲しいと思わせる。逆に「亡き王女のためのパヴァーヌ」はこうしたねっとり感がプラスに思われ音楽の美しさを実感させてくれる。
 さらに「ダフニスとクロエ」も同様に、夜明けの場面の弦楽器のシルクのような美しさに、木管陣が絡み付く様は、惚れ惚れとしてしまう。無言劇のフルートも往年の主席デボストもかくやと思わせる素晴らしさ。全員の踊りでのクライマックスの築きかたも、まずは見事に決まって、「終わりよければ・・・」的な後味でCDは終了する。

本当いうと、せっかくの「パリ管」なのに、という気持ちはぬぐえない。でもバレンボイム壮年期の記録以上に、「パリ管」でしか出せない、弦の輝きと木管の華やかさ、金管のゴージャスさ、こういった響きがDGの優秀録音でちゃんと味わえる。
 エッシェンバッハ(結構好き)の風変わりな曲のラヴェルも、先ごろ手に入れた。そちらのNew パリ管の視聴も楽しみなところ。

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2006年3月21日 (火)

ブルックナー 交響曲第6番 シュタイン

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ブルックナーの交響曲のうち、2番と6番はやや人気が薄く、CDも少ない。
私には、これらの2曲は、ヨーロッパのアルプス地方の田舎町の教会や野原の風情を他曲以上に感じられ、好んでやまない。今回聴いた6番は、大曲5番と後期3曲の間に挟まれた明るく美しい作品である。

これまで、ヴァントやサヴァリッシュ、カイルベルトで聴いていた。しかし、ホルスト・シュタインがウィーン・フィルと2番と共に録音した演奏は74年頃に出たが、以来寄せ集め全集以外は廃盤で、数十年渇望していた。これが聴きたくてならなかったのだ。
 昨年、豪ユニバーサルからCD化されたが、あっという間に売切れ、全く手に入らない状況で、あきらめていたところ、1ヶ月前、出張先のHMVで発見したときは、思わず店頭で「おおーっ」と口走ってしまった。

 72年の録音だから、シュタインはバイロイトでリングを指揮し始めた頃。ワーグナー指揮者としてのキャリアを確立すると共に、ウィーンでは国立歌劇場であらゆるオペラを手掛け、ウィーン・フィルともグルダとのベートーヴェンですっかり息のあっていた頃だ。
しかし、ブルックナー生誕150年の記念の年に、ウィーン・フィルによる全集を目論んだデッカ・レーベルであるが、未録音の不人気の2・6番を任されたシュタインは貧乏くじを引かされたように感じられた。

今回のCDジャケットがあまりセンスよくないので、その頃のシュタイン写真をFMfanの切抜きから。センスが向上しているかというと、シュタインのお姿だけに何とも・・・・・。

演奏は、待った甲斐あり。全体に速めの心地良いテンポに乗り、明るく開放的な雰囲気で、ウィーン・フィルのホルンやオーボエの特徴ある響きがこれでもか、というくらいに味わえる。殊更に素晴らしいのは2楽章のアダージョ。ひなびたウィンナ・オーボエの悲しい旋律に始まるが、第二主題に至っては絵のように美しい音楽が展開される。第1番や第2番の緩徐楽章とともに、自然を賛美するブルックナーの最も美しい場面だと思う。
これらの緩徐楽章の素晴らしさに目覚めた頃、私は初めてヨーロッパを経験し、ドイツやスイスの自然の風景を実際に見て、ブルックナーのこうした音楽が身近に響くのを感じた。

1楽章や3楽章は幻想に満ちた圭曲だが、終楽章はあっけないくらいに終わってしまう。ここで後期様式のような多層的な音楽が書かれていたらすごいことになっていたであろう。
しかし、そうでないところがこの曲の魅力。

シュタインの演奏は、こんな隠れた6番の魅力をウィーン・フィルと共に見事に味あわせてくれる。ゾフィエンザールでのデッカ録音も素晴らしい。
残る第2番もなんとかして欲しいぞ。

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2006年3月19日 (日)

「ヴォーン・ウィリアムスのさわやかな世界」 マリナー

marriner_williams 今日のN響アワーは、ネヴィル・マリナーの特集だった。最近、忘れ去られてしまった感のあるマリナーの絶頂期の客演を取り上げた番組の見識にまずは敬意を表し、今晩は彼の「さわやか」代表作ヴォーン・ウィリアムスの作品集を取り出して聴いてみた。
 79年のN響客演時は、番組で取り上げた「タリスの主題・・」、ブリテン、ベト8や四季やメンデルスゾーンの4番、などお得意の作品ばかりを演奏し、好評を博した。当時フルオーケストラを指揮し始めたばかりだったこともあって、何のかんのという評価もあった。その少し前には、東京フィルに客演し、惑星を演奏したりしている。ともかく、本格好きの日本人には、あまり「うけ」がよくない指揮者の一人かもしれない。

私は数年前に、都響に来たマリナーを聴いたことがある。ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」、N・シュトッツマンの独唱でヘンデルのアリア、そしてすばらしかったのが、エルガーの「エニグマ変奏曲」。巨匠と呼ぶべき風貌のマリナーは、滋味溢れる指揮ぶりで、エルガーの高貴な調べを都響から引き出していた。

そんな、マリナーの若き代表作は、今回のCDといってよいだろうか。
ヴィヴァルディからティペットまで、幅広いレパートリーを持つなかで、一番の適正は、こうした英国音楽だと思う。ドイツ物では、あまりのアッサリぶりに拍子抜けしていまうが、英国物はそうした懸念はプラスにしか作用しない。
N響でもやった、「タリスの主題による幻想曲」はイギリス教会音樂の大家の主題によるもので、静かに始まるがやがて弦楽の熱い思いを込めたような合奏が極めて感動的に歌い尽くす作品だ。マリナーとアカデミーのコンビのもっとも得意とする「弦楽合奏の極」。
古民謡を扱った「富める人とラザロ」は懐かしく、高名な「グリーンスリーブス」も正にさわやかさの代名詞ともいうべき演奏である。こんなに何気ない演奏ってかえってないだろう。
 アイオナ・ブラウンのヴァイオリン・ソロの「揚げひばり」は、この曲のエヴァー・グリーン的な要素を巧まずして描きだした演奏。これより美しい演奏、巧い演奏はあると思うが、こんなに水墨画のようにさらりと、ひばり舞う田園情緒を描きだした演奏はないと思う。

ジョン・コンスタブルの絵をあしらったジャケットが郷愁を誘い、ロンドン・キングス・ウェイホールでのデッカ録音がこれまたすばらしい。(72年の録音)

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2006年3月18日 (土)

ベートーヴェン 交響曲第5番 クライバー

Kleiber_beethoven このところプレヴィンばかりを聴いていたので、また花粉症の症状が出始め不快な自分に「渇」を入れようと、「クライバーの第五」を取り出した。
33分を1枚にゆったり収めた初期盤で。(極めてもったいない)
あまりにも有名な演奏だけに、愛好家は一家に1枚的なCD。

そんな定番だけに、何も語る必要なし。ないが少しだけ語る。
「魔弾の射手」に続く2作目で74年の録音。カルロスにとってはオーケストラはどこでもよかったかもしれないが、ウィーン・フィルにとってはカルロスしかなかったのでは、と思わせる演奏。
決然とした響きは、練習魔のカルロスだけによっぽど吟味したのだろうが、そうと感じさせないあまりにも自然と発した「心の叫び」のよう。
カルロスが、もうこうするしかない、という感じで迫ってくるものだから、聴いているこちらも、そんな気持ちに追い込まれ、何か悩みでもあったら「えい、くそ」とふんぎってしまわせるような決断をさせてくれるような、力に満ちた強い演奏なのだ。

 ウィーン・フィルの連中は、こんなにドライブされながらも若いクライバーに食らいついていて面白い。後の7番では、このコンビの良さが裏目に出てしまった部分もあるような気がしてならない。「過ぎたるは及ばざるが・・・・」っていうような感じなのだ。
後のバイエルンとの演奏ではまったく気にならない「くどさ」のようなものが。
この5番には、そうしたかすかな不満なんぞ皆無。
私にとって、明日へのビタミン剤のような活力源のような演奏。

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2006年3月17日 (金)

「Honey&Rue」とジェローム・カーン作品集 プレヴィン

Previn_haneyrue 連続プレヴィ、クラシカル・プレイヤー以外のプレヴィンも聴こう。

作曲家としてのプレヴィン。
かつてブロードウェイで鳴らした頃のプレヴィンは私は知らないが、クラシック界に身を置いてからの作品を聞く限り、親しみやすくメロディアスな作風で、ジャズやミュージカルの要素も取り入れた柔軟な作品が多いようだ。

今回聴いた「Honey and Rueはソプラノ歌手と室内オケのための歌曲集で、ノーベル文学賞をとった「トニ・モリソン」の詩に作曲したもの。

黒人や子供といった、米社会の微妙な問題を取り上げる作者だけに、この作品もかなり深い内容を歌ったもの。(私の稚拙な英語力では、間違えるといけないのでこれ以上は触れない)
バーバーを思わせる、ロマンティックな旋律に満ちる一方、歌手のアカペラによる第4曲「あの方を知っていますか?」などは、心に響く歌である。一転最後は、ゴスペル風な雰囲気で後ろ髪を引かれるように終わる。「母さんを故郷へ連れてって」

Previn_nhk プレヴィンは、99年にN響に来演したおりこの作品をとり上げている。
今回ビデオを在庫の山から探し出し、視聴してみたら、ご覧のように立っての弾き振りであった。
この演奏会は、後半のV・ウイリアムズの5番ねらいで、私は聴いているはずだが、この作品の記憶がなかった。恐ろしいものだ。昨日・今日と4回も聴いてみて、すっかり気に入ってしまった。次なる「作曲家プレヴィン」の作品はオペラ「欲望という名の電車」のエアチェックビデオでも観てみようかなどと思っている・・・・・。(物好きだろうか?)

Previn_jerome_kern 最後に、プレヴィンお得意のジェローム・カーンの作品を、彼のピアノに乗って「シルヴィア・マクネア」の歌で聴く。1930年代ブロードウェイ全盛時のスタンダードであるが実に新鮮。その頃日本は?と考えるだけで・・・・・・。

モーツァルトが素敵なこのソプラノは、このところあまり名前が聞かれないが、こうしたミュージカル=ジャズの領域まで見事にこなす、フレキシビリティの高い歌手だ。ボニーやヘンドリックス、バトル、アップショーなどと共にアメリカ系のリリック・ソプラノで、皆共通項を持っている。あまり言葉を尽くせないが、夜ひとり聴いていると、幸せな気分になる。プレヴィンのピアノもみずみずしく、なんでこんなにうまいんだろうと感心してしまう。名手フィンクのベースが入ってくると、さらにスゥイングし始めこちらも体が動き出してしまう。
誰かウィスキーをここに持て
生憎切らせていて、焼酎しかない。
チクショー。

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2006年3月14日 (火)

R・シュトラウス「ばらの騎士」組曲ほか プレヴィン

Previn_rstrauss_opera 本日のプレヴィンは、極めつけ、ウィーン・フィルとのR・シュトラウスから、DGに入れた「オペラ管弦楽曲集」。「ばらの騎士」「インテルメッツォ」「カプリッチョ」「サロメ」のそれぞれの間奏曲やワルツなどを演奏している。
私はシュトラウスのオペラは好きで、15曲もある作品を徐々に確認しつつある。日本は、シュトラウス演奏の先端といってもよく、質の高い上演が日本初演の形でこのところ行われている。一重に若杉宏という稀有の「オペラ指揮者」のなせるところである。最近体調を壊しているO先生とは、まったく異なる才能である。

それはともかく、このCDはシュトラウスのオペラの雰囲気を味わう1枚として、いやそれ以上の充実・満足感を与えてくれる。何よりウィーン・フィルの爛熟した豊満な響きといったらない。プレヴィンの指揮ぶりはオペラの一部を描くというよりは、情景を描いた交響詩を演奏するようでいて、音楽にのめり込むことなく、オーケストラの持つ最美の響きに乗っかってしまってシュトラウスの美しい音楽を紡ぎだしている。
「ばらの騎士」においての「クライバー」の天性と思わせるようなオペラティックな高揚感は、ここにはないが、安心して何度も身をゆだねることのできる日常のウィーン、といったような音楽がここにある。「インテルメッツォ」のダイナミックさも見事(このオペラは本当はそんなにぎやかな曲ではないが)。そして、最大にすばらしいのは「カプリッチョ」の前奏曲と「月光の音楽」。弦楽六重奏の形でスタートする前奏曲からして、作品のもつシンプルなロマンティシズムを表出している。そして、シュトラウス最後のオペラ作品としての晩年の澄みきった境地を、「月光の音楽」でプレヴィンとウィーン・フィルは短いなかに表現し尽くしている。それにしても、この曲におけるウィンナ・ホルンは本当に素晴らしい。「月の輝きの雫」が寒空からしたたるような美しさであり、音楽である。
 そのあと最後に収められた「サロメ」のヴェールに踊りはいいけど、前曲の雰囲気を壊してしまう。収録順をもう少し考えてほしかった。

それにしても「いいなぁ」とつくづくと思わせる「プレヴィンのR・シュトラウス」なのであった。
 

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2006年3月13日 (月)

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番・第17番 プレヴィン

previn_pfcon24 年代を追ってのプレヴィン・シリーズ、最終段階は英米を往復する中にも、ずっと良好な相思相愛の関係を築いていた「ウィーン・フィル」の登場だ。
プレヴィンの持つ柔軟で暖かな音楽性とウィーン・フィルは抜群の相性の良さだ。このコンビの演奏は多々あるが、モーツァルトはR・シュトラウスと並んで燦然と輝く名演奏であろう。

ピアノの弾き語りによるこのCDは、ハ短調とト長調の個性の異なる2曲を収めている。
プレヴィンはこの2曲を得意にしていて、かつて「ボールトとロンドン響」をバックにピアニストとしてEMIに録音している。

この素晴らしいCDを前にどんな言葉で表現していいかわからない。モーツァルトの音楽そのものが、短調と長調の2面性が、プレヴィンの体からにじみ出るように表現されている。
ハ短調の24番は、シンフォニックで時としてやるせなくなる音楽だが、プレヴィンのピアノは重くならずに、透明な抒情をもってオーケストラと共に演奏している。2楽章の静謐さなどは涙の溢れるような音楽となっている。

ト長調の17番は、私の大好きな曲だ。かつてバーンスタインがロンドン響のザルツブルク・ライブで弾き語りし、この曲にはまった。あれほどの奔放さはないが、プレヴィンの優美で楽しい雰囲気はバーンスタインにはないものだ。ここでも短調と長調の交錯する2楽章の緩徐楽章が素晴らしい。3楽章はパパゲーノを思わせる「鳥たちのさえずり」の音楽だ。ウィーン・フィルの管の魅力が満載で、プレヴィンのピアノはウィーンの響きのあいだを縫うように飛び回る。本当に幸せな気分に浸らせてくれる音楽であり演奏だ。私にとってピリスとアバドと並んで大好きな演奏だ。

今日は月曜日とあって、1日気分が乗らなかった。おまけに帰宅時間に人身事故の影響で電車のダイヤが乱れ、大変な混雑だった。ついで言うと、ここ1~2年人身事故だらけ。社会は綻びを見せているのに、これでも景気は回復というのか!そんなモヤモヤを今日ばかりは吹き飛ばしてくれた「爽やかモーツァルト」でありました。

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2006年3月12日 (日)

プロコフィエフ 交響曲第5番 プレヴィン

previn_prokofiev プレヴィンは86年からロイヤル・フィルと並行して、ジュリーニの後任としてロスアンジェルス・フィルの音楽監督も引き受けた。これは実に新鮮な顔合わせに思われ、ロンドン・ロス・ウィーンの3都を駆巡る多忙な活動時期は彼のキャリアのピークだった。
 結局ロス・フィルとは、3年足らずで終わったが、フィリップスとテラークに印象に残るCDをいくつか残した。フランス音楽集かスラヴ作品集か、またはドヴォルザークかと悩んだが、プレヴィンお得意のプロコフィエフの交響曲を取り出した。

 


この5番はロンドン響とのものに続き再録音であるが、1・5・6・7番だけで全曲は決して演奏しなかった。プレヴィンの個性からして、モダニズム的な作品よりは、より民族的・叙事的な作品に共感しているのだろう。そんなプレヴィンの5番は、ロス・フィルの個性もあって、明るくよどみない演奏となった。
不毛のロシアの大地を思わせる1楽章から、オーケストラはゆったりと良く歌い、2楽章や終楽章のスケルツォ的な音楽もオーケストラの名技性とともに楽しい聴き物である。ことさら終結部はプロコフィエフの作品があっけない中にも熱狂性を秘めていることから、ここを完璧に描ききれれば、どんな演奏も後味がよい。
プレヴィンの演奏は、そうした聴き所は文句ないとして、それ以上に3楽章のアダ-ジョがバレエの愛の場面を思わせるような美しさですばらしい。こんな白夜みたいな音楽にこの演奏、春めいた晩に聴くのがピッタリかもしれない。

このCDの、見逃せない大きな問題は、録音が冴えないこと。潤いに欠け響きが浅い。デッカがいくつも優秀録音を残した「UCLAのロイス・ホール」なのに、フィリップス社は勝手が違ったのか?レコード会社の地盤とカラーによる相性を考えさせる1枚でもあった。

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2006年3月11日 (土)

ベートーヴェン 交響曲第7番・第8番 プレヴィン

Previn_beethoven78 今日のプレヴィンは、ベートーヴェン交響曲第7番第8番
米ピッバーグ響の音楽監督を辞めた後は、イギリスに復帰。
何とロイヤル・フィルの音楽監督となった。これは当時びっくりだった。
ロンドンの5大オーケストラは、互いにライヴァル関係にあり、ロンドン響とあれだけ蜜月だったプレヴィンが他のロンドンのオケの指揮者になったものだから。 
そんな心配はともかく、ロンドンのオケとの相性は抜群。得意のV・ウィリアムズやエルガー、惑星も再録音するなど、極めて充実した活動を展開した。同時期、次回聴くロスアンジェルス・フィルも引き受けていたし、ウィーンでも相思相愛の活躍ぶりで、プレヴィンが一番輝いていた時期かもしれない。

そのプレヴィンが古巣RCAにベートーヴェン全曲を録音している。たしか、第3だけが間があいてしまい、ロンドン響との録音になったが、ロイヤル・フィル時代のすばらしい果実である。(はず?)しかし、国内でも外盤でも入手は困難で、唯一、今晩の7・8番だけが私のライブラリーにある。

彼の個性からすると、偶数番号がいいはず。8番はゆったりとしたテンポで、このとらえ難い曲を明るく楽しく演奏している。しかし軽薄感はなく、この中途半端に思われる短い交響曲が極めて存在意義をもって感じられる。それはプレヴィンが譜面を思い切り信じて既成概念なく指揮しているからだろうし、ロイヤル・フィルというベートーヴェンに対してニュートラルなオーケストラがとてもいい方向に左右していると思う。

 メインの7番も、思いがけない立派な演奏だ。出だしの和音からして、充分に各楽器を弾き切らした響きで早くも硬派でない雰囲気。序奏部ではゆったりと主題を準備するが、主部が始まると緩やかな進行ながら、リズムははじけている。このあたりがプレヴィンの真髄。
2楽章は美しい。この楽章に美しいという言葉は似合わないかもしれないが、弦と管の橋渡しのやりとりが絶妙でそう思わせる。
そして3楽章は一転早いテンポで極めて爽快。終楽章はテンポはインテンポでじっくりだが、その迫力たるやこれまでの春の陽気が何だったのかと思わせるような音楽で、ティンパニの強打、音を割るようなホルン・・思い切りやっている。
 終わってみると「のほほん」とは聴いていられない以外な力演になっている。
ブラインドで聴いたら、プレヴィンとわからない演奏だ。他の番号も是非聴いてみたい。
意外性がある時期なだけに、案外渋くまとまっているかもしれない。

アックスと組んだピアノ協奏曲は全曲CD化されている様子だが、交響曲全集を是非復刻していただきたいもの。(それにしても、このCDジャケットは廉価盤ということを抜きにしても趣味悪すぎて堪らない)

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チャイコフスキー 交響曲第4番 プレヴィン

Previn_tchaiko4 本日のプレヴィン。 ロンドン響を辞めた後は、アメリカに帰り70年代後半からピッツバーグ響の音楽監督となった。ヨーロッパでの足場はロンドンからウィーンに移している。今日はピッツバークとの少ない録音のなかから、チャイコフスキーの4番の交響曲を聴く。EMIからフィリップスにも録音するようになり音楽のイメージが変わりつつあった時期でもある。
EMI録音がすべて悪いわけではないが、フィリップスに移っての録音は、さわやかさ・すっきり感はそのままに、音に深みと重厚さが加わった。
プレヴィンの指揮もロンドンを離れ、表現の幅を増し、個性を増したように感じる。ドイツ的な音色を持つピッバーク響の影響もあろうが、焦らず・急がず、じっくりと演奏している。
人によっては、もったりとし過ぎでないか、との向きもあるかもしれない。しかし、ここに鳴る音楽はプレヴィンが感じたチャイコフスキーの抒情とメロディー・メーカーとしての旋律美の表出の見事な結晶なのだ。

カラヤンの巧さやバーンスタインの情熱、ムラヴィンスキーの透徹感、そうしたものとは全く無縁のプレヴィンのチャイコフスキー。陰影がなさ過ぎてチョットものたりない思いでいると、終楽章のコーダにいたって最高潮の盛り上がりを見せて、「やったぁ」で終わる仕組みになっている。なかなかに驚きの名演であるのだ。

80年頃の録音で、おそらくいい音で有名なハインツ・ホール。あのケチャップのハインツがピッツバーグの有力企業であり、スポンサーなのだ。このオケはかつてはライナーが鍛え、プレヴィンの前任がドイツの重鎮スタインバークで、プレヴィン後はマゼールにヤンソンスという具合に、実に恵まれた指揮者陣なのである。しかし今は監督不在で、調べたところでは、A・デイヴィスとP・トゥルトゥリエ、そしてヤノフスキの3人体制を敷いている模様。ヤノフスキとは面白い。スタインバークの息子は出る幕ないんだろう。

プレヴィンとの録音では、シベリウスやマーラーの交響曲があるはずであり、CD化が切に望まれる。

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2006年3月 8日 (水)

ラプソディー・イン・ブルー&惑星 プレヴィン

previn プレヴィン・ウィーク、時代をたどりつつ、今日はEMI時代のロンドン響との黄金コンビの最も代表的演奏をふたつ。これらが、カップリングされたCDが外盤にあり何の関係もない作品ながら、「ザ・プレヴィン」といってもよい名演だ。

画像は75年頃の来日時のもの。こんな赤シマ・シャツが似合うプレヴィン。こうした弾きぶりで聴かせるガーシュインこそ他の追随を許さぬ世界だ。バーンスタインの方が、ジャジーな感じなのが面白いが、プレヴィンはここでも真面目な中にキリリとした清潔感をもって「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏している。バーンスタインは彼の演奏を味わう感があり、このプレヴィンはガーシュインの作品を楽しむの感はある。オーケストラがまた巧いものだ。後年のピッバークSOよりフレキシブルで、各奏者が味わいに満ちている。

previn_holst 「惑星」は70年代、メータがカラヤン以来のスペキュトラーとして録音芸術作品としてとらえ、ブームに火を付けた。以降バーンスタイン、ハイティンク、プレヴィン、ボールト、オーマンディ、小沢、ショルティ、マリナー等々が続いた。(デジタル時代を除く)
演奏の傾向として、ロンドンの楽団とアメリカの楽団とでニュアンスが違うように思う。ホルストはこの曲ばかりが有名で、そのほかの滋味溢れるイングリッシュ・カントリー風の作風に満ちた桂曲はまったく聴かれない。
そうした作曲家の一面を感じさせるのが英国楽団のもので、プレヴィンとロンドン響のものはそうした典型で、火星のダイナミックな響きより、金星や土星のしみじみした部分に味わい深い演奏を聴かせてくれる。昨今有名になってしまった「ジュピター」は以外にも早いテンポで思い入れなくさらっと聴かせる。これでいいのだ。人によっては、メリハリが少なく、柔なイメージを持つかもしれないが、英国音楽のカテゴリーとしてのこの作品の一面は、ノーブルかつ神秘的な天体の優しさを描いた部分だと思われ、このプレヴィン盤はそうした一面を見事にとらえ切っている。ベルリン・フィルやシカゴの高性能オケをもってしても得られない演奏ではないかと思う。
 さらに言うと、ロンドン・フィルのくすんだ響きのほうがピッタリくる、ハイティンクやボールトの演奏だ。
そして、コンセルトヘボウのマリナー盤も渋くて銀色に光る夜空を思わせる。

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ヴォーン=ウィリアムズ 「海の交響曲」 プレヴィン

Previn_v プレヴィンの演奏を現夫人の伴奏、室内楽のピアノと聴いてきた。こうなれば、しばらくプレヴィン特集とでもいこう。
 古い順に、まずはRCAに残したヴォーン・ウィリアムズの交響曲全曲から、第1番「海の交響曲」を取り出す。画像はある年代以上にとって強烈な印象を与えたレコ芸の広告を実家から探し出してきたもの。
 これを見ていた時はまだ中学生くらいだった。「V・ウィリアムズって誰だろう、海ってどんな曲だろう?」という興味ばかりで、有名曲ばかりをむさぼるように聴いていた自分には縁のないレコードだった。
その後、長じてこのレコードが「南極交響曲」や「アルプス交響曲(ケンペRPO)」と共にすばらしいジャケットで夏の3部作みたいにして廉価盤ででた時に入手して、初めて聴いた。

アメリカの自然詩人ステュワート・ホイットマンの詩をテキストにした、合唱付き交響曲は、全編「歌」で歌詞を理解しつつ聴くことはなかなか至難の業だ。
「すべての海、すべての船によせる歌」「ただ一人夜の浜辺に立って」「スケルツォ 波」「冒険者たち」の4つの楽章からなる。だいたいこの題のイメージ通りの曲想。

音楽だけに耳をすませば、多彩な作風を誇るこの作曲家らしく、エキゾチックな和音や強烈なフォルテ、美しく抒情的な部分などが次々に現れて飽くことがない。

冒頭楽章などは、海にこぎ出す威勢のいい様子が高揚感を覚えさせるし、2楽章は一転、夜の浜辺で星を見ながら宇宙や未来に思いをはせる内省的な音楽である。
3楽章はまさにスケルツォ。船のあとから、しぶきをあげる波の様子を歌っている。

終楽章は全曲の半分もある長大なもの。静かに印象深く始まり、熱い中間部を経て静かに
夕日のなか遠く外洋に船影が消えてゆくかのように感動的に終わる。
”インドへの旅”という非常に象徴的な原作で、なかなかに深い内容である。
 長いが一部を引用してみる。

「アジアの園からくだり、アダムとイヴが、その多くの子孫達が現れる。さまよい、慕い、絶えず模索し、疑問を抱き、挫折し、混沌として、興奮し、いつも不幸な心を持ち、”どうして満たされない心は、おお偽りの人生はどこに?”」

「行け、おお魂よ、ただちに錨をあげよ!・・・・向こう見ずな、おお魂よ、私はお前と、お前は私と一緒に探検する。・・・われわれは水夫もまだ行こうとしなかったところにむかい、船も、われわれ自身も、すべてを賭ける。・・・おおわが勇敢な魂よ!おお遠く船を進めよ!」

こんな歌詞にピタリとくる音楽を付けてしまうところがすごい。今回久しぶりで歌詞と首っ引きで聴いたが、本当に感動した!なんだか、明日からやる気が出ちゃったような。

プレヴィンとロンドン響は、真面目にがっぷりと曲に挑んでいる。リズムは弾んでいるが、全然浮ついたところがなく、録音時30台半ばだったのに、いつものプレヴィンがそこにいる。やさいい眼差しと音楽を解かりやすく聴かせる姿勢。合唱、独唱の英国コンビ(ハーパーとS・クワーク)も万全で、当時のRCAのロンドン録音の優秀さも未だに色あせていない。

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2006年3月 7日 (火)

モーツァルト ピアノ四重奏曲第1番・第2番 プレヴィン

Previn_quartets

モーツァルトの2曲あるピアノ四重奏曲を聴く。
たいていのCDがこの2曲を収めており、ト短調と変ホ長調の調性も対照的で1枚のCDに収まりが良い。もちろん、モーツァルトの真髄が味わえる素敵な名曲である。

いずれも3楽章からなり、私はピアノ協奏曲の室内樂版だと思っている。
ト短調のモーツァルトは、大小のシンフォニーと同じ調性であるが、室内楽でピアノが入るせいか、この曲の方がもっと気楽に聴ける。
しかも、深刻なのは1楽章だけで3楽章に至っては明るいロンド形式で、休日の朝などにおいしい朝食を取りながら聴いたらさぞかしいい気分になるだろうと思わせるような曲だ。
さらに楽しくも美しいのが「変ホ長調」の作品。こちらも愉悦に満ち幸せな気分に浸らせてくれる。

演奏はプレヴィンのピアノに、R・キュッヘル率いるムジークフェライン四重奏団。
これらの曲にこれほどピッタリくる演奏ってないのではなかろうか。
これより立派に演奏することは出来ると思うが、これより爽快に気持ちよく演奏することって難しいのではなかろうか。
プレヴィンとウィーンの面々のモーツァルトが素晴らしいのは、型から少しはみ出した遊びの部分が、なんともいえない愉悦感を感じさせるからだろう。
こうした微笑んだモーツァルトを自然に演奏できる人はもういないのではなかろうか。
少なくとも古樂の分野ではまだこの境地に至っていないのでは。

何年か前、この顔ぶれでこの2曲をサントリー・ホールで聴いたことがある。
ちょっとホールが大きすぎる感もあったが、それはもうとろけるような美しいモーツァルトだった。
同時にウィーン・フィルを振ってモーツァルトの交響曲をいくつかやったが、こちらは聴けなかった。今思うと残念でならない。

気の多い私は、隠れプレヴィン・ファンなのである。(ついでに言うと私のフェイヴァリットは現役ではアバドを第一として、ハイティンク、プレヴィン、マリナー、ヤンソンスなのでアリマス)

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2006年3月 5日 (日)

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 プレヴィン

previn_schostako6 アンドレ・プレヴィン、昨日嫉妬したばかりのナイスな指揮者のショスタコーヴィチを聴く。彼がロンドンで大活躍の頃、日本では評価がまったくなされず、軽くて音楽をきれいに磨き上げるだけの人、とのレッテルを貼られていた。かつてのEMI録音はほとんど廃盤。DG時代にウィーン・フィルとの蜜月を築きかつてのイメージを払拭したが、ここ数年オスロ・フィルを選んでからというもの、名前が急に地味になってしまった。

そんなプレヴィンの最適のレパートリーのひとつとしてのショスタコーヴィチである。
長大な1楽章ラルゴの暗くて救いのない音楽のあとは、何事もなかったかのような、無窮道の明るいなかにも陰りある陰影濃い楽章が2つ続く。
 プレヴィンは重心を腰から上においたかのような明るいショスタコーヴィチを聴かせる。
終楽章のあっけなくも、聴き手を興奮に導くプレストは、バーンスタインのようには決まらないけれども聴いたあとにさわやかな印象を残す。
そんなプレヴィンの数十年後のショスタコーヴィチはもっと深くやるせない。

若き頃(73~74年)のプレヴィンによる「ビューティフル・ミュージック」の成功した事例のひとつと言ってよい。
 

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2006年3月 4日 (土)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 ムター&プレヴィン

Mutter_tchaiko_korngold 今晩は「コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲」。このところ聴いてきた路線を継承しているが、1945年頃の作品に係わらず、調性は豊かでロマンテックな曲だ。昨晩のツェムリンスキーの弟子ではあるが、先鋭的なところが全くなく、マイルドで懐かしい作風の人である。

ウィーン生まれのユダヤ人で、ナチスに退廃音楽とのレッテルを貼られ、アメリカ亡命を余儀なくされ、ハリウッドで活躍した。映画音楽も数多く作曲していて、そうした軽いイメージを待つと大間違い。大交響曲もあるし、オペラもいくつかあって、それぞれが立派な作品である。中でも最近良く演奏されるのが、このヴァイオリン協奏曲とオペラ「死の都」である。戦後になっても故郷ウィーンで評価されず、郷里への復帰もかなわず、アメリカで寂しく世を去ったらしい。1957年のことだから、そんな昔でない。

ゆったりと昔を回想するかのようにヴァイオリン・ソロで始まる1楽章。オーケストラでも繰り返され、ソロが上昇するようなパッセージで印象深く付けて行く。この部分を聴くだけでワクワクしてしまう。2楽章のロマンツェと表された緩徐楽章は低弦から高弦まで実に豊かに歌いまくるヴァイオリン・ソロがあまりに美しい。おぼろげな眼差しではるか大西洋のかなたの故国を見つめるような作曲者の気持ちが込められたかのようなノスタルディックな曲だ。
一転、終楽章はプレストでユーモラスだ。ヴァイオリンのソロにからみつくような管楽器、繰返し鳴り響く主要主題だが、最後は楽しい映画のエピローグのように華々しく終わる。

この素敵な曲を「アンネ・ゾフィー・ムターとプレヴィン/ロンドン響」というおしどりコンビで聴く。この曲に関してはプレヴィンを置いて右に出るひとはいない。パールマン、シャハムに続き3度目の録音。いずれもロンドン響である。即座にハリウッドと結びつけてはいけないがクラシック指揮者の大家として認められたプレヴィンも、若い頃ハリウッドで活躍したがゆえに軽くみられがちだった。コルンゴルトとともに、その同質性を感じる。
 こうした確かなバックを得て、ムターは思い切り弓を使いきり旋律を歌わせ、気持ちよく弾いている。少し真面目すぎる感もあるが、2楽章では若干の色気を感じさせるところがこれまでの彼女にないところか。1楽章の冒頭もふるいつきたくなるような感動に満ちている。

それにしても、このジャケットもいたく美人である。ほんと、いい女。14歳頃にカラヤンに見出されデビューしたころは、「イモねえちゃん」っぽかったが、それがどうだ。このところの一連のCDジャケットは、モード風のドレスが似合う「オトナの女」として実に見映えが良い。
おじさまキラーの本領であろう。プレヴィンももうお爺さんなのに元気なものだ。何度目の結婚なのだろう。そんな元気があるのなら、もう一度N響に来て欲しいのだ。

こうした大人の二人が奏でるコルンゴルトはちょっと過去も顧みつつ、あくまで前を見つめた健康的なロマンティシズムに満ちた演奏なのであった。うらやましーーー。

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2006年3月 2日 (木)

ツェムリンスキー 交響詩「人魚姫」

Zemlinsky_seejungfrau

今晩は、ツェムリンスキー交響詩「人魚姫」(Die Seejugfrau)。「海の若い乙女」が直訳。人魚姫のこと、海の精とでも言った方が感じがいい。
ツェムリンスキーの使徒リッカルド・シャイーベルリン放送響を指揮した86年の録音。
 1872年、ウィーン生まれのツェムリンスキーは、マーラーとシェーンベルクらの橋渡し的な立場にいた。ユダヤ人でもあり、アルマ・マーラーの作曲の先生であり、シェーンベルクの義兄でもあった。さらにコルンコルドの先生でもあった。
こう見るといかに重要な橋渡し役であったことがわかるが、肝心の作品はかつては顧みられることが少なかった。
 この歴史に埋もれかけた作曲家を80年代音楽シーンに引っ張りあげたのは、マーラー・ブームもさることながら、G・アルブレヒトの一連のオペラ発掘とマゼール・ベルリンPOの「叙情交響曲」のDG録音、そしてこのシャイーの「人魚姫」であるといってよいのではないか。

作風はマーラーの流れをうけとめる爛熟期の後期ロマン派の作風で、初期のシェーンベルクやウェーベルン、初期スクリャービンなどのイメージである。1903年の作品だから、それらの先駆であるし、マーラーも存命の時代なのでちょっと驚きだ。

3楽章からなる作品に表題性はあまり感じられない。海の精が王子と会い、恋をし、最後は自己犠牲で死んで行くらしいが、こうしたことを気にせずに虚心に聴くのがよいと思う。
ことに2楽章のヴァイオリン・ソロの旋律はおそらく愛の旋律と思われるが、大変親しみやすくかつ美しい。この旋律は一度聴くと忘れられなくなって、何かの拍子に思いだしてしまう。全編にこんな感じのロマンテックな曲だから、演奏もそれに流されるとベタベタになってしまうが、さすがにシャイーはキッチリと全体を構成したなかに、ロマンテック感を表出させている。オケが後のコンセルトヘボウだったら、と思わせないでもないが機能的なドイツのオケの特徴が良くいかされていて火の打ちどころがない。

シェーンベルク、ベルク、ツェムリンスキーと遡って聴いてきたが、こうなったら体系的に次は・・・・・・。

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ベルク ヴァイオリン協奏曲

昨日のことになるが、調べ物で「国会図書館」に行った。国会議事堂のとなりにある日本一の国営図書館である。民主党の本部も横にあり、メール事件の陳謝があるということで周辺は報道陣がごった返していた。メールが贋作ならば、それを作成した人は罪に問われないのだろうか?「バカだなぁ」と思いつつ、帰りは「永田町」から「新橋」まで歩くことにした。国会の会期中ということで、議員会館の周辺は黒塗りの車がうじゃうじゃひしめいている。おばさんのアナウンスで車を玄関に配車したりしている。「先生方」を乗せた高級車がスーっと静かに走っている。バツチをつけた見たような「女議員」も肩を切らせて歩いている。「報道マン」も脚立とカメラを持って走っている。警備の「おまわりさん」もごまんといて、歩いている一般人たる私をさっと品定めしている。
 この半径1キロ?足らずの日本の政治の中枢にひしめく人々は、電車代を節約して歩いている男とは明らかに異次元に住まう人々だ。日々行われるこうした茶番を思いつつ、また「バカだなぁ」と一言。
「新橋」にたどり着き、雑多な街を眺め、同類達を認めて何故かホッとした次第。

szeryng_berg 前置きが長くなったが、今日は大好きな「ベルクのヴァイオリン協奏曲」を聴く。春がやや近づいてくると、この曲や「ヴォツェック」を聴きたくなる。
狂気の中に甘味な物を感じるからだろうか。夜に沈丁花の香りが漂ったりする、そんなイメージをベルクの音楽に持っている。
 「ある天使の思い出に」という副題があり、アルマ・マーラーの娘が少女にして亡くなり、その死を悼んで書いた曲である。当のベルクもこの作曲後、若くして亡くなってしまい、正にベルクのレクイエムともいえる作品。

1楽章は、ワルツを思わせるような優しくも甘味な音楽。2楽章は、厳しい和音が病魔を思わせ、ヴァイオリンの壮絶なカデンツァが緊迫感を呼ぶ。そうした激しい展開を経て、後半にはバッハのコラールが印象的に奏でられ、天国を思わせる雰囲気で終わる。
 ややつらい部分もあるが、最後は浄化されるようで、心に沁みていく名曲と思う。

数種類を愛聴しているが、今日は「シェリングとクーベリック、バイエルン放送響」の68年DG盤を取り出した。シェリングの端正なヴァイオリンはこの曲にぴったりだ。もちろんコラールの襟を正すような弾き方のすばらしさは類を見ない。クーベリックの指揮もシェリングの同調して万全。オペラテックな雰囲気さえ漂う。オーケストラがやや明るい色調なのもミュンヘンならでは。録音にもう少し芯が欲しいところだが、カップリングのシェーンベルクも嬉しくすてきな一枚である。

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2006年3月 1日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第5番 カラヤン指揮

Karajan_tchaiko5_a チャコフスキーの5番の交響曲は彼の交響曲の中では一番人気かもしれない。私が音楽を聴き始めたころ30数年前は、日本では、チャイコフスキーといえば、悲愴かピアノ協奏曲で4、5番の交響曲は実演ではあまり演奏されていなかったように思う。スコアを見ると意外と各奏者の負担が大きいが、オーケストラの力量があがった現在は、全く問題なく演奏できる曲となった。N響アワーで初めて接したこの曲の演奏は、岩城宏之指揮するN響で、文字通り汗みずくの熱演で、終楽章の高揚感にめくるめく感動をしたものだ。(テレビからマイク録音し何回も聴いた)

 

そして、レコードで聴いたこの曲の演奏が「カラヤン/ベルリン・フィル」の日本グラモフォン盤だ。1965年のカラヤン壮年期の演奏、大得意のこの曲をカラヤンは何回録音したろう
か。でも私は、この録音のCDしか所有しない。EMI盤も懐かしいが、イエス・キリスト教会での雰囲気豊かな音の方が好きである。

Karajan_tchaiko5_c 冒頭、クラリネットの主題はライスターだろうか、2楽章のホルンはザイフェルトだろうか、こんな風に往年のベルリン・フィルの管の名手達を想像して聴くのも楽しい。もちろん、弦も豊かな響きで、多少甘すぎるかもしれないが、後年の不自然なテヌートは聴かれない。涙にぬれたような2楽章は、カラヤンの面目躍如たるところ、クライマックスを過ぎ、弦のピチカートをバックに主題が再現されるところが見事。他の演奏では、ピチカートは「ポロン・ポロン」と聴こえるが、このカラヤン盤は「ポロローン、ポロローン」と余韻豊かに聴こえる。
そしてもちろん、終楽章のカッコよさはカラヤンならでは、金管陣の壮麗さに目をみはる。
エンディングは焦らず、じっくりと構えてベルリン・フィルの全能をかたむけて華麗に終結する。そう、これでいいのである。これも美学である。

 

Karajan_tchaiko5_d
Karajan_tchaiko5_e
 

 

 

 

当時のレコードジャケットを調子にのって各ページ載せてみた。
豪華見開きジャケットは、レコードを所有する喜びを味わわせてくれた。変な話だがニオイまで鮮明に覚えている。2楽章を聴きながら、ジャケット裏のロシアのどこかの雪景色を見てイメージを膨らませていた。

 

Karajan_tchaiko5_b 今の味気ないCDでは、こんなファンタジーは味わえない。

 

 

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