マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド
今朝、東京駅の八重洲地下街の喫茶店で、打ち合わせをしていたら、日ハムの「新庄」と見たような選手二人が、入ってきて私の後に座った。ほほう、と思い耳をそばだてていたら、ずっと野球の話で、誰は打ちにくいとか、どこ球場はよいとか、極めて真面目なお話。
遠征の途上だろうが、派手ないでたちで極めて目立つ。しかも香水プンプン・・・・。
マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。実は昨晩の視聴だが、ココログの絶不調に合い、せっかく書いた記事が飛んでしまった。新庄はともかくこっちも、プンプンなのだ。
マーラーはかつて聴きすぎた感あって、正直食傷ぎみ。しかし、大好きなアバドのマーラーは、彼が常に情熱を傾けていることもあって、こちらも身近に聴いて来た。そのアバドのマーラーの軌跡をマイ・フォトに集めてみた。
そのアバドの記念すべきシリーズ第一弾が、この「復活」。1965年にザルツブルクでウィーン・フィルを指揮して伝説的な本格デビューを飾ったアバドであるが、ことあるごとにこの作品を取り上げ、このシカゴ響、ウィーン・フィル、ルツェルンの3種類の正規録音を行っているほか、日本でもベルリン・フィルと演奏している。
76年の録音で、当時はマーラーといえば、ワルターかクレンペラーかバーンスタインといったユダヤ系指揮者の録音ばかりで、他はショルティやメータの録音優秀組か、唯一ハイティンクが地味に全集を完成させていた。そんな頃に出たアバドのレコードは、同時期のメータの「復活」と共に、「新時代のマーラー」と呼ばれたものだ。
ショルティが指揮をすると、デッカ録音のマルチ的な重厚さと共に剛直なイメージを持ってしまうシカゴ響であるが、当時主席客演指揮者だったアバドが指揮をすると、細身でシャープで明るい色調をイメージさせる。ジュリーニもそんな感じだ。レーベル・録音場所の違いもあるが、それだけフレキシビリティー溢れる超優秀オーケストラだということだろうか。
演奏は冒頭から、鋭くとぎすまされた音塊が耳を捉える。反面、弦のやさしい主題はことさら美しくやさしく歌われていてその強弱の対比のバランスがオーケストラの優秀さもあって素晴らしい。2楽章・3楽章は地味な場面だが、今回久しぶりに聴いて、おやこんなフレーズがあったのか?などと再発見する場面もあった。早めのレントラー風の2楽章は、さわやかに春の風が吹き抜ける感あるし、スケルツォの3楽章は、角笛交響曲としての引用が楽しく、トリオのトランペットの牧歌のようなソロも見事なものだ。アバドの楽しそうに指揮する姿が目に浮かぶようだ。
神妙な4楽章は、M・ホーンがそれこそ以外に神妙で抑えた表情付けが好ましい。
終楽章も、スペクタル的にならず、自然な盛り上げに終始する。当時活躍したソプラノのネブレットの清潔な歌いぶりもよい。無伴奏で始まる復活の詩の合唱は、アバドの特徴である「徹底的に抑えたピアニッシモの中に歌う」場面の最たるところで、徐々に盛り上げていって、最後に輝かしい終結をむかえる。生で聴いたらさぞや凄いことだろう。
かつて、スカラ座来日で「シモン」を観劇した時に、そのような見事なカーブを描くかのような劇場的な盛り上げ方に涙した思い出がある。
当時も、今のアバドのマーラーもあくまで自然体で、構成感を大事にした、精緻な演奏である。
昨年のルツェルン・ライブでは、さらに一歩進んで無駄な物を切り捨てた澄み切った心境を開示してくれた。
人によっては、個性なし・何もしていない、ということになってしまおうが、35年確信をもって聴き続けてきた指揮者である。そんなアバド好きだから、こちらも夢中になってしまうし、齢を重ねてくると、「これでちょうどいいのだ」とつくづく思う訳である。
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