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2006年4月

2006年4月30日 (日)

シューベルト「美しき水車小屋の娘」 ヴンダーリヒ

Wunderlich_schubertよく晴れた日曜の昼下がり。明日からの美しき5月を前に「美しき水車小屋の娘」を取出した。シューマンも気になったが、まずはシューベルト。「さすらいの歌」なのだから。同時代のミューラーの詩によせたこの歌曲集は、青臭くもあるが、一度は通る憧れに満ちた日々の回顧に満ちている。シューベルトの歌曲集は好きだが、この水車小屋が以外や一番中身が重くてつらい。

 全20曲からなるが、元気良くさすらいの旅に出る若者だが、親方の娘に恋をし、恋敵、狩人の出現から陰りある雰囲気になってくる。最後は恋破れ、身を投げてしまうが、水車を回す小川だけがいつも彼を見つめ、優しくつつんでくれる・・・。何も死ぬことはないだろうが、こんな多感な気持ちを今の別次元の若人には理解できまい。
 シューベルトが付けた音楽は、抒情に満ちかつ牧歌的な雰囲気をかもしだす魅力に満ちたもので、つくづく歌を紡ぎ出す天才なのだ、と思わせる。

歌は、不世出のテノール「フリッツ・ヴンダーリヒ」の残したDG盤で。
ヴンダーリヒは1966年に階段から落ちて35歳の若さで亡くなってしまった。その若さで、カラヤンやベーム、リヒター等と共演し、そこそこの録音を残した。いかに実力があり、ひっぱりだこであったか。慎重にリリックな役どころのみを大事に手掛け、その端正で清潔な歌いぶりは、今でも充分に新鮮である。
このシューベルトは、亡くなる年の録音で、ニュートラルで淡々とした誇張のない歌は、この悲劇的な主人公の若者に同化せず、さながら小川のようなやさしさをもって見守るような歌唱を聞かせる。そして、ドイツ語の模範的な美しさも実感できる。この人が、もう少し活躍していたら・・・・、という思いは捨てきれない。
 ジャケットの良さも特筆。

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2006年4月29日 (土)

ハウェルズ 管弦楽作品集

Howells_1_1_1 イングランド中央部グロースターシャー付近で生まれた「ハーバート・ハウェルズ」(1892~1983)を知る人は英国音楽ファン以外にはあまりいないかもしれない。活躍した年代としては、保守的な作風であるが、それもそのはず、先達の「エルガー」や「V・ウィリアムズ」を尊敬し続けかなりの影響を受けている。

管弦楽作品・室内楽・宗教曲・オルガン曲といったところに名作を築きあげけたが、最愛の息子を幼くして亡くし、このことが彼の音楽に大きな影響を落とし、陰りに満ちた深みを与えることとなった。

Howells2_1 今日の2枚は、管弦楽作品集の2枚で、「ヒコックスとロンドン響」によるもの。ハウェルズ入門としては最適で、私もここから入り、彼の音楽にはまっていった。話はそれるが、息子の死を悼んで書いた「楽園賛歌」などは目頭の熱くなるような名作だし、かのロジェストヴェンスキーが録音している「悲しみの聖母」やヴァイオリン・ソナタなど、挙げだしたらきりがない。

この2枚に収められた作品を並べてみる。
       1 「王の使者」
       2 「楽園の舞曲」
       3 「チェロとオーケストラのための幻想曲」
       4 「チェロとオーケストラのための挽歌」
       5 「田園狂詩曲」
       6 「行列」
       7 「B’s組曲」
       8 「ヴァイオリンとオーケストラのための組曲」
       9 「緑の道にて・・」

題名だけでも、詩的な雰囲気が想像されようが、5の田園狂詩曲は、V・ウィリアムズを思わせるような雰囲気で、故郷の丘を思い描いたような作品。対をなすチェロのふたつの作品は、協奏曲のような性格ながら、ここにも子供の死が影を落としている。
 私が特に好きなのは、8の3曲からなる組曲の2曲目の「レント」である。ヴァイオリンの楚々とした郷愁を誘う旋律には涙がでてしまう。心に染み込むような美しさである。

こうした英国作曲家に知り合えるのは、「シャンドス」レーベルの最大の功績だ。そして、トムソン、ハンドリー、ヒコックスといった指揮者達があってこそ。

これらのCDジャケットは、南アフリカからイングランドに渡った猫を愛する「Derold Page」なる人の作品。
Churchcatlopt
センスよい絵は、ハウェルズの音楽にぴったり。

    

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グリーグ ピアノ協奏曲 ノックレベルグ

Grieg_pcon_nokleeberg
好天の金曜日、調子にのって歩いた距離は全行程で7キロ。
表参道から渋谷へは、地下鉄。
表参道駅のパリ風地下鉄フードコートも見たが疲れてしまい通過。
そして渋谷から恵比寿まで歩いた。

心地よい疲労感を得て、深夜にグリーグピアノ・コンチェルトを聴く。
 30分の曲は、常にシューマンのそれとカップリングされてきた。
したがって、どっちもどっち的でお互いの本質が混ぜこぜになっていたように思う。
だから、私はこの曲においては、単独LP(CD)を求める。
今回取り上げた本場コンビ、ノックレベルグドレイエル(ドレイヤー?)の二人による演奏は、まったく理想的。ジャケツトからしていいでしょ。

全般に遅めのテンポで、グリーグの美しく抒情的な旋律をじっくりと歌いあげている。
民族的な要素もごく自然に表出されていて、こんなにゆったりとじっくり演っているのに、どこにも違和感がなく自然なのだ。
NHKの名曲アワーのフィヨルドの画像にピッタリと言ったらよいか。

余白は、「抒情組曲」の管弦楽版。こちらも雰囲気ゆたかで、すてきな演奏。
ことに夜想曲の美しさは北欧の白夜のシーンそのもの(行ったことないですが)。
ともかくイイ曲です。

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2006年4月27日 (木)

マリオ・デル・モナコ

Del_monaco 「マリオ・デル・モナコ」、私よりちょっと前の世代にとって燦然と輝く「ザ・テナー」、「オテロ歌い」。そうした評価を聞きながら、音楽に親しんできた私にとっても同様で、「オテロ」はデル・モナコ以外は考えられない。ドミンゴの分別じみたオテロはおもしろくない。NHKのイタリア・オペラのモノクロ画像に見るデル・モナコとヤーゴのティト・ゴッピの二人の破滅的な凄さはどうだろう。今はこんな時代じみた演技や歌は流行らないかもしれないが、すさまじいまでの迫真の歌唱は誰が真似できようか。

今回のCDはそんなデル・モナコの珍しい歌唱が収められている。
定番アンドレア・シェニエのあとは、なんとロドルフォの「冷たい手を・・」が聴ける。情熱に満ちた歌はここでも引き込まれてしまう。オテロも入っている。「オテロの死」の場面がカラヤンとウィーン・フィルの超名盤から。この5分の断片だけでも、デル・モナコのオーラに満ちた歌の真髄が味わえる。ついでにカラヤンとウィーンの素晴らしさといったらない。
 さらにこのCDの珍品は、「ジークムント」と「ローエングリン」である。実際にワーグナーを舞台で歌ったかどうか不明だが、あまりの違和感に唖然とするが、どこまでもデル・モナコなのである。歌い崩す寸前の投げやりとも思える歌唱にいつしか引き込まれてしまう。これも、彼ならありなのだ。ついでにローマのサンタ・チェチィーリアのオケ(カルロ・フランチ指揮)の明るくも美しい演奏はかなりいい。

Del_monaco_golden さらに、デル・モナコの懐かしい1枚。「ゴールデン・アルバム」と称したナポリ歌曲集である。こうした曲でも、まったくの全力投球。ちぎっては投げ・・・、的に歌いまくっている。聴く側も思い切り没入できる。伴奏のマントヴァーニ・オーケストラも素敵だ。
 時代の流れとは言え、こうした「大歌手」と呼べる人がまったくいなくなってしまった。皆、頭が良く、音楽性も豊かでソツがない。歌手生命を長く保つための努力も惜しまない・・・・。デル・モナコはそんな現代の歌手とは大違い。もともと楽譜が読めなかったくらいだから、その努力たるや並大抵ではなかろう。すべての力をその時の歌に賭ける一期一会の歌いぶり。フィレンツェ生まれの根っからの偉大なテノール歌手は、不幸な交通事故にも遭い、不死鳥のように復活もした。82年に67歳で亡くなった時にすべてのレコードが復刻され、私もかなり購入したものだ。

Del_monaco_2 三大テノールもいいが、彼らが束になっても敵わないデる・モナコなのである。ついでに「ディ・ステファノ」「フォランコ・コレルリ」「カルロ・ベルゴンツィ」これら名テノール達にも三大テノールは敵いません。

以上、「テノール・シリーズ第3弾」終わり。

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ディーリアス ヴァイオリン・ソナタ ホームス

Delius_violin_sonata_holmes 愛する英国音楽のなかでも、最愛のディーリアスは管弦楽小品のみ有名だが、室内楽の分野でも声楽曲と並んで、名作を残している。
ディ-リアスに対する思いは、昨年12月に恥ずかしながら述べている。
 ヴァイオリン・ソナタは正規3曲、プラス無番号の1曲の計4作品ある。
いずれも20分前後の、コンパクト作品で、愛好家としては、深夜寝る前とかに心安めの曲として重宝している。

ディーリアスに思うイメージが、そっくり満載のソナタ集で、時に郷愁に浸り、熱情に帯びたりしながら、明確な旋律もないままの20数分が過ぎて行く。
この、たゆたうような儚い(はかない)雰囲気がダメな人は、ディ-リアスしいては、イギリス音楽は無理かもしれない。

ラルフ・ホームス(HOLMES)、ホームスと読んでいいのか不明。この英国ヴァイオリニストの清楚かつ時に、情熱的な音色は素晴らしい。ディーリアスの愛弟子「エリック・フェンビー」のピアノが使徒としての伴奏以上の演奏ぶり。

この作品集を聴いていて、ビートルズを思ってしまった。言葉にするのが難しいが、音の持つ雰囲気からの話。J・レノンではなく、G・ハリソンなところがまたちょいといいでしょ。
そんな寂しげで、ノスタルジックな作品を過度の思い入れなく、淡々と弾いているホームスなのであった。
 女流熱情派?「タスミン・リトル」の同作品集も最近入手した。いずれまた、じっくりと聴きこみたいCDだ。繰返し、スルメのような味わいにみちたソナタ集である。

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2006年4月25日 (火)

ヤナーチェク「シンフォニエッタ」 マッケラス 

Mackerras_lanacek ヤナーチェクはチェコの民族音楽の中でもかなり地味かもしれない。掴み所がない作風もさることながら、オペラが多いことにもよるかもしれない。
名作がオペラと室内楽・歌曲に偏り、シンフォニーや協奏曲などない。
数少ない管弦楽作品が、この「シンフォニエッタ」と「タラス・ブーリバ」でこれしか聴かない人も多いのではなかろうか。かく言う私も、そのひとりでオペラはまだ本格的に聴いてない。(弦楽四重奏はすこぶるいい)

シンフォニエッタはブラスが活躍する聞きやすい曲だ。5楽章中、冒頭の金管だけのファンファーレは一度耳にすると忘れられない。最終で、またこのファンファーレが全オーケストラで奏でられる時、なかなかの高揚感が味わえる。これを聴いた若き高校生の頃は、こうした明るく派手な部分ばかりが気にいっていたが、すっかりオヤジになり、落ち着いた昨今は、中間の3つの楽章に聴く民族的な味わいや悲哀感、そして舞曲ふうのリズムといった部分に共鳴を呼ぶようになった。このあたりをどう演奏しているかが、ヤナーチェク演奏の分かれ目だろう。

今回は、デジタル初期の、マッケラスとウィーン・フィルの演奏。オーストラリア生まれながら、チャコ人以上にチェコ人らしいマッケラス。悪いはずがない。しかもウィーン・フィルの隈取り豊な響きも万全である。より民族色濃い「タラス・ブーリバ」もいい。

この曲の私の最高の演奏は、このマッケラスとアバド(LSO盤)、クーベリックである。

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シューベルト ピアノ・ソナタ第18番「幻想」 ルプー

Lupu_schubert_1618 このところ忙しく、音楽も先日の札響のブラーム、ス以来じっくりと聴けない。といいつつ、日曜はパソコンで仕事をこなしつつヘッドホンで「ドイツ・レクイエム」を3種類も、ながら聴きしている自分!アバド・ジュリーニ・プレヴィンの3枚。ほんとにいい曲だわ。手持ち在庫には、あとハイティンクとバレンボイムがあって、何のことはない、好きな指揮者5人集めてる。

体力的にも、精神的にも疲れぎみ。こんな月曜には、シューベルトのソナタがいい(かも)。
後期作品への掛け橋的な、18番「幻想」を、ラドゥ・ルプーのピアノで聴く。
仙人、ではなく「千人にひとりのリリシスト」なんて言われてたルプーであるが、その髭面からはとても想像できないコピーだ。まだチャウシェスク政権が圧政を強いていたルーマニアデビューから見ているが、その髭は変わらない。まだ、髭なのだろうか?
 CDから鳴る音はまさに、シューベルトそのもので、若くして後に晩年と言われたシューベルト。本当は死ぬなんて思ってないだろうから、そうした若さの漲る叙情性がルプーの音楽性とピッタリ来る。陰りの少ない、明るいく若々しいシューベルトだと思う。

楽興の時を思わせる歌に満ちた1楽章、暖かくも素朴な歌の繰返しの2楽章、メヌエット形式ながらどこかほの暗い3楽章、完結感が希薄だが、どこか後髪の引かれるような終わりかたをする終楽章。
 こんなシューベルトのシューベルトらしい演奏がこのルプー盤である。

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2006年4月22日 (土)

ブラームス「ドイツ・レクイエム」 札幌交響楽団

Sapporo

北の大地でブラームスを聴く。
出張と札響のコンサートが運よく当たり、念願のコンサートホール「キタラ」体験も果たし至福の時を過ごすことが出来た。
「ドイツ・レクイエム」を生で聴くのは初めてであるが、渋い曲ながら誠に味わい深い作品で、7つの楽章がシンメトリーを成して効果的に配置されているのが良くわかった。終始、合唱が活躍し歌いぱなしで主役は合唱といってよいのだが、オーケストラの響き、ことに木管の合いの手などはまさにブラームスそのもので、聞き慣れている交響曲を思わせるような雰囲気もある。
    ソプラノ:澤畑恵美 バリトン:青戸 知
       尾高忠明指揮 札幌交響楽団
       長内 勲指揮 札幌合唱連盟
      (4月21日 札幌コンサートホールKitara)


演奏は誠意のみなぎった立派なもので、譜面を置きながら暗譜で指揮した尾高氏の棒を全員が信頼している様子が見てとれた。合唱はアマチュアを母体とする団体とは思えないまとまりのよさで、なによりも歌う楽しさのようなものが感じられてよかった。独唱ではソプラノの
澤野が素晴らしく美しい声を聴かせた。出番の少ないのがもったいないくらい。そして中間色の音色が多いこの曲に札響はマイルドな響きを聴かせていて、美しいホールトーンもとても印象的だった。

札響は、合唱団員を随時募集していて年数回の合唱付き定期に出演できるという。
こんな機会がそばにあれば、私ですら加盟してみたい。そんな気持ちにさせるくらい聴衆が自分達のオーケストラとして暖かく見守り愛しているのが、一晩でわかった。マナーもよくホールは東京の知ったかぶり連中の聴衆と違いほのぼのとした雰囲気に包まれていた。同じように、日本ハム・ファイターズが福岡や仙台のように札幌の市民球団として定着しつつあるのが、今回良くわかった。一流を楽しむのも醍醐味だが、音楽もスポーツも身近なものを参加する感覚で楽しむのも本当に楽しいことなんだ。これ実感。

Kitaraキタラは横浜と並んでホールの立地として、最高ではなかろうか。地下鉄「中島公園」をでるとすぐに水辺のある美しい公園。そこを歩くこと6~7分でホールがある。演奏終了後、来た道を散策するようにそぞろ歩くとほてった顔にまだ寒い風が心地よい。音楽の余韻を楽しめるのがなによりなのだ。その点、渋谷のNHKホールなどは最悪と言ってよい。ところが、このキタラも中島公園駅を通過して直進すると、「すすきの」という魔界が待ち受けている。私もそちらの誘惑には弱いもんで....。

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2006年4月16日 (日)

ストラヴィンスキー「春の祭典」 バーンスタイン

Bernstein_printemps


ストラヴィンスキーの春の祭典、俗にいう「春祭・ハルサイ」は人の気持ちを引き付けてやまない作品だ。原始的でリズミック、不響和音とメロイディアスな旋律。そして音響装置のテスティングとしても、録音技術の進歩で、昔では考えられないくらい名録音が生まれ楽しまれるようになった。
そして、演奏技術の格段の進歩もあって、アマオケや高校生オケでも難なく演奏してしまう世の中になった。
そんな、ハルサイ史において、画期的な演奏をあげるならば、「モントゥーの初演」「マルケヴィッチのレコード」「新旧ブーレーズ(フランスとクリーヴランド)」「メータとロス」「アバド」「M・ティルソン・トーマス」「ショルティの最強軍団ぶり」そして「新旧バーンスタイン(ニューヨークとロンドン)」など。

このバーンスタイン2度目の「ハルサイ」は72年当時は珍しいロンドン響との録音。
SQ方式による4チャンネル録音で、このレコードが出た当時4チャンネルアンプなんて買えなかったものだから、擬似4チャンネルといって、スピーカー4基の配線を少しいじくりまわすと前後のスピーカーからいろんな楽器が飛び出して聴こえたものだ。

そんな方式はともかく、このハルサイは貫禄タップリの濃厚サウンドながら、リズムは弾みまくり、エキサイティングな演奏となっている。同じロンドンのオケでも、先般のBBCとはまったく異なり、全面的にバーンスタインの音楽となっている。
こののたうちまわるような雰囲気のハルサイを担ったロンドン響が、数年後、アバドとスピーディで軽快なハルサイを演奏しているわけだから面白い。

50年代末期のニューヨークPo盤は、熱血破れかぶれ。80年代デジタル・ハルサイのイスラエルPo盤は、老熟・ユダヤ教的・儀式的なねっとりハルサイ。その中間のロンドン盤はジャケットのサイケデリックな雰囲気にも似て、ポップで軽快な雰囲気と英国式の重厚さとが同居したような演奏となっている。(勝手な印象であります)

ゲルギエフやラトルのハルサイを聴いたこともない私。でも、自分の若きころ親しんだ演奏を聴いてこそ、気持ちが若やぐ。

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2006年4月15日 (土)

バッハ「マタイ受難曲」 スワロフスキー

Swarowsky_matthew 「パルシファル」のあとは「マタイ受難曲」。人間が生み出した宗教という糧。そのひとつであるキリスト教は、今我々が好んで聴く西洋音楽の根幹を担っている。それ以上は話が大きくなり、議論も多次元に及ぶのでやめるが、キリスト教があって、その残された音楽の偉大さに感謝せざるを得ない。
バッハのマタイ受難曲はその中でも最も高みにある作品であろう。
マタイ伝のうちから、キリストの受難を描いたこの作品は、原典のもつ内省的な特徴を完璧に描きだしており、聖書の原典部分を読むテノールの福音書家のレシタティーヴォが要である以上に最大の聴き所に思われる。この役にどんなテノールが来るかで、全体の印象が変わってくる。私としては、劇的な歌いぶりよりは、第三者的に冷静・沈着な歌がいい。福音書家以外の通常ソロも、劇性を抑えた歌いぶりが好ましい。
アルトのペテロのイエスの否認を悔やむアリアは、人間が作りえた心の底を深く覗く、揺さぶられる音楽だと思う。

今回のCDは、懐かしい「コンサート・ホール」原盤の抜粋CDである。
アバドやメータのウィーンの師「ハンス・スワロフスキー」指揮のウィーン国立歌劇場管とウィーン少年合唱団。
           福音書家:クルト・エクィルツ
           ソプラノ :ヘザー・ハーパー
           アルト  :ゲルトルート・ヤーン
           バス(イエス):ヤコブ・シュテンプリ

こんな面々は、この作品にうってつけである。楽譜を信じ、淡々と指揮をするスワロフスキー、清潔で感情移入を抑えた歌手陣。鄙びてありふれたウィーンの香りをともなったオーケストラと合唱。おそらく60年代当時、ウィーンで日常何気なく演奏されていたバッハの姿であろう。

私のマタイの核心演奏は、ご多分にもれず「リヒター」であるが、あれだけの演奏はめったに取出す勇気がない。そんなときには、この何気ない「スワロフスキー」や「リリング」がいいのかもしれない。

  

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2006年4月14日 (金)

ワーグナー 「パルシファル」第3幕 エッシェンバッハ

Echenbach この写真は貴重な髪の毛ありヴァージョンの指揮者エッシェンバッハ。
70年代に都響に来演したときのもの。
 今日は、多くの日本人には何のこともない金曜日だが、キリスト教社会においては、イエスが十字架に架けられた「聖金曜日」にあたり、欧米では復活祭週間(イースター)の長いお休みがある。

ワーグナーの最後の大作は、舞台神聖祭典劇と自ら名付けたように、聖金曜日に起きる奇跡の物語でもある。この「パルシファル」の物語を採用する前までは、仏陀の物語も検討していたらしい。もしそちらが作曲されていたら・・・。考えるだけで楽しい。
かなり性格のよろしくなかったワーグナーが、宗教的人間とはなかなか思えない。おそらく救済という思想における宗教のひとつとして「キリスト教」を取り上げたにすぎないのかもしれない。そういう意味では、今バイロイトで行われている不快な「シュルゲンジーフの演出」がアフリカの土着信仰に置換えてしまっていることも意味あることかもしれない。

エッシェンバッハは、かつて1年だけバイロイトに登場し、「パルシファル」を指揮した。1年で降りてしまった経緯は不明だが、その年はNHKでも「パルシファル」だけ何故か放送されず、頭にきた私はNHKに抗議したものだ。
 エッシェンバッハがワーグナーをレパートリーにして行くだろうことは予測していただけに、残念なことだった。その渇を癒してくれるのが、海賊盤ながらこの演奏会形式の3幕ライブなのである。
       アンフォルタス:アルベルト・ドーメン
       グルネマンツ  :ルネ・パーペ
       パルシファル  :ステュワート・スケルトン
       北ドイツ放送交響楽団/合唱団ほか  2004年4月録音

約80分をかけたゆったりとした演奏であるが、弛緩せず、マーラーでも演奏するかのように、一音一音入念に描いている。最近純粋ドイツ人でもスッキリ系ワーグナーを演奏する人が多いなか、これだけ特徴的なワーグナーを聴かせるのも珍しい。同じ系統のティーレマンはもっと重心が低くく、軸足は少し過去にあるが、このエッシェンバッハはもう少し軽く、劇場にしがらみのない自由な雰囲気がある。
こうしたワーグナーはあまりお目にかかれないだけに、大変おもしろく聴けた。
聖金曜日の音楽は、目のつんだ美しい陶酔的な演奏になっている。
 歌手は、すばらしい。まずは、ドーメンのアンフォルタスがいい。苦悩の滲むような切実なアンフォルタスとなった。パーペのグルネマンツは美声で惚れ惚れとしてしまう。欲をいえば、声が若すぎる。もう少し人生に疲れてほしいところか。
売り出し中のオーストラリア出身ヘルデンのスケルトンのパルシファルは、素材良くいい声の持主と見たが、やや音程が揺れて微妙。

日本でこの時期に「パルシファル」が上演されるようになればいいのに。
自慢じゃないが、最後に私の「パルシファル」体験を披露・・・。
①ウィーン国立歌劇場来日上演(ホルライザー、コロ) ②ベルリン国立歌劇場演奏会形式(バレンボイム、マイアー) ③読響上演(アルブレヒト、モル、グルントハーパー、エルミング) ④東京シティ・フィル上演(飯守) ⑤N響3幕(シュタイン)・・・・。

 

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2006年4月13日 (木)

ラヴェル 夜のガスパール エッシェンバッハ

Eschenbach_ravel 6月にやって来る「メトロポリタン・オペラ」。豪華歌手陣付きでチケットはバカ高い。おまけに最近食傷気味の太っちょレヴァインの指揮とあって、ワーグナーを演るのにまったく食指動かずの状態であった。チケットも売れ残り。そんなに日本の聴衆は甘くないっていうの!!
 何て言ってたら、レヴァインが転んで肩に怪我して来日不能に。
代わりの指揮者は、なんと「エッシェンバッハ」と「A・デイヴィス」という発表が本日あった。これを「災い転じて福」と言うのだろうか、ともかくコケテよかった。って言ったらレヴァイン・ファンに怒られるだろうか。
そうとわかったら、NHKホールの極悪環境ながら、朝からチケットを押さえにかかり見事にGET。しかし、高い、高すぎ。ドミンゴ一人のおかげで何なんだ!けしからん。同様の怒りは、ジンマン/チューリヒ・トーンハレのチケットにも言える。全部の公演にヨーヨーマが付いてくるためバカ高い。何でや?という気分で、純粋にトーンハレ・サウンドを味わいたい人にあまりに失礼な価格設定なのだ。バカヤローと言いたい。

それはともかく、指揮者エッシェンバッハが好きなのである。髪ありのピアニストであった頃の神経質で繊細な若者は、スキンヘッドの何かをやってくれる爆演オジサンに変貌してしまった。今の指揮者としての彼から遡って、ピアニスト・エッシェンバッハを振り返るとなるほどと思わせる。ピアノという鍵盤だけに限られた表現手段から、同じ両手でも100人の音楽家を自由に導ける立場になったのだから、有り余る表現意欲が滝のように溢れ出すわけである。
同じ立場のバレンボイムやアュケナージも根本は、同じかもしれないが、この二人は身の丈以上のことを無理してしようとしているように感じる。エッシェンバッハの場合は幼少の体験やドイツ人としての血などが複雑に入り混じって、計り知れない何かを感じる。どこまでが彼の本質なのかわからないのである。こうしたことは、いずれ出てくる数々の演奏でじっくりと聴かせていただくとして、パリ管とのラヴェルである。

メインが「夜のガスパール」の管弦楽版(M・コンスタン編曲)で、原曲の雰囲気をうまく引き出した作品。曲間に原曲がインスピレーションを得た「詩」が朗読されている。この朗読、美しいフランス語で意味はまったく解せないが、香りが漂うような語り口なのだ。繊細なオーケストレーションを慎重にエッシェンバッハは扱っているのがわかる。最後に「ツィモン・バルト」のピアノで原曲の一部「オンディーヌ」が収められている。
 他の収録曲も渋い。「クープランの墓」「古風なメヌエット」「亡き王女・・」「道化師・・」である。いずれもやや腰が重いが、そこはパリ管、キラキラした管楽器に瀟洒な金管、滑らかな弦楽器でエッシェンバッハのくまどりの濃い指揮ぶりに答えていて、微妙な化学反応を起こしているように感じる。このコンビで行われた「リング」はどうだったのだろう?
 フィラデルフィアでのラヴェルも聴いてみたいもの。

 

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2006年4月12日 (水)

ヨーハン・ボータ ワーグナー集

Botha_1 「ヨーハン・ボータ」のワーグナー曲集を聴く。ボータはクラシック系には珍しい、南アフリカの出身で40歳。最近売り出し中の旬のテノールで、イタリア系ではリリコからスピントまで、ドイツ系では軽めのヘルデン系を持役にする貴重な存在だ。
しかし、本格的に聴いたことがなく、昨年セールでこのCDを590円で購入したが、未開封のまま放置していた。ジャケット写真が濃くて何だか怖かったのである。(それにしても何で目だけ青いのか?) 週一のテノール祭り(何じゃそれ)の一環として、意を決してプレーヤーのCDを装着してみた。

冒頭「マイスタージンガー」1幕のヴァルターの試験に歌「Fanget an!(始めよ!)」の第一声から、ジャケットの印象は見事に裏切られた。柔らかくもハリのある声で、高域も見事に鳴り響く。その高域は力強くピーンと張りつめていて実演でもオーケストラに負けていないであろう。品格も良く清潔な感じ。いわば言うことがないのだ。ペーター・ザイフェルトに似た感じと言ったらよいか。
収められた作品は「マイスタージンガー」「オランダ人」「ローエングリン」「ワルキューレ」「パルシファル」で、歌いこみが豊かでドラマ性を感じさせるのが、「オランダ人」のエリックと「ローエングリン」で、他も声は素晴らしいものの、それ以上の言葉の練磨が欲しいような気がする。しかし、新鮮な声で次々とワーグナーの名場面が歌われていくさまは快感でもある。

もうひとつ、このCDの良いところは、無用な編曲で尻切れトンボのように各曲を終わらせていない点にある。場面を大事にし、ちゃんとエンディングも収めているし、「ワルキューレ」は15分に及ぶ第3場後半をそっくり演奏している。よって、相方のソプラノ歌手も登場していて、無名ながらなかなかに健闘している。
 そして、このCDの成功の半分は、オーケストラの見事さにある。このレーベルのオペラ・リサイタルはいつも、「アンゲーロフとスロヴァキア放送響」がバックをつとめ、伴奏以上のことをしない平板さに不満があった。先日の「ケルル」でも不満はそこにあった。(3月29日)
今回は、女流「シモーネ・ヤング指揮ウィーン放送響」でハンブルク歌劇場の監督に就任した一流オペラ指揮者であるヤングの素晴らしい指揮ぶりが聴ける。このみずみずしくもオペラテックな雰囲気に満ちた演奏はどうだろう。ワルキューレにおける気品とロマンティシズムの両立はなかなか聴けるものではない。日本の某国営劇場は、こういう人を招聘すべきであろう。

ともあれ、南アフリカ産テノールの「ボータ」君とオーストラリア産指揮者「シモーネ」嬢の南半球コンビのワーグナーは生き生きと輝く聴きものであった。

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2006年4月11日 (火)

ブルッフ スコットランド幻想曲 リン 

Lin_bruch 一日おきの雨ばかりで、滅入ってしまう。昨晩は第9で気炎をあげたが、今晩はずっとロマンテックに行こう。ブルッフのヴァイオリン協奏作品の「スコットランド幻想曲」を聴く。この作品は、スコットランド民謡をモチーフにした5楽章のファンタジーで、もうほとんどヴァイオリン協奏曲である。
物憂く、夢見心地で、時に優美で甘味な美しい作品である。終楽章の旋律など、一度聴いたら忘れられないもので、中学生時代、テレビでここの部分だけを「ハイフェッツ」が弾いた演奏を見てここだけ完全に覚えこんでしまったものだ。
ブルッフはヴァイオリン協奏曲の1番とこの曲とせいぜい「コル・ニドライ」くらいが有名だが、ほかの協奏曲や交響曲をまともに聴いたことがない。

今回の演奏は、台湾出身の「チョーリャン・リン」のヴァイオリンに「スラトキン/シカゴ響」という豪華版である。リンは最近あまり名前を聞かなくなってしまったが、ヨー・ヨー・マのヴァイオリン版と言っていいかもしれない。明るく屈託ない音楽は、こうした曲にはピッタリくる。技巧的にはかなり難しいのではと思うが、聴いていて、本当に気持ちよさそうに弾いているのがわかる。思い切りカンタービレを効かせて歌うさまはまったく素晴らしい。キョン・ファ・チョンもこの作品を若い頃に録音していて情熱的に演っていた。思えば、東アジア系の演奏家って、情熱的で明るい。指揮者のチョン・ミュンフンもそう。
 スラトキンのバックは、シカゴだけにすごい。少し威力がありすぎるかもしれないが、弾むようなリズムと明るい音色が、ブルッフの濃密なロマンティシズムを和らげ聴きやすいさわやかなものにしているようだ。

カップリングのメインは、協奏曲の1番。これまた同様の楽しい名演と思う。

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2006年4月10日 (月)

ベートーヴェン 交響曲第9番 デイヴィス

Davis_no9 週明け月曜日は曇天で寒かった。天気は西から下り坂で、大雨の予報も出ていてちょっと極端な天候が恨めしい。この湿った天気はしばらく続くらしく、春らしい陽気はいったいどこへ。
昨日は、凄惨なヴェリズモオペラをみたこともあり、かつ陰湿な天気を吹き飛ばすような人間味に満ちた音楽を・・・、と思い第9を取出した。

こうした名曲は、年末でなくても年中聴いて楽しめる。CD時代になってからはなおさら。
男デイヴィスのベートーヴェンはドレスデンでの全曲録音が有名だが、生憎と聴いたことがない。ロンドンでの活躍時代、BBCやロンドン響で全曲を目指したが、第9は録音されなかった。バイエルン放送響主席時代に、数多くの合唱付き音楽を手掛けたうちの1枚がこの第9である。85年ミュンヘンでの録音。

私はデイヴィスは以外と聴いているようで聴いていない。シベリウスとエルガーとベルリオーズぐらいのものか。この第9の演奏、まずはテンポ設定がおもしろい。
全体は70分という堂々たるものだが、ゆったりと重々しく感じられるのは1楽章と2楽章で、かなり深刻に音楽を受け止めじっくりと腰をすえた演奏を聴かせている。
ところが、3楽章はすっきりした速めのテンポで歌うように進められる。この美しい楽章がこれほどしなやかに暖かく演奏されるのは本当に嬉しい。ミュンヘンのオーケストラの暖色系の音色も大きく作用している。肝心の終楽章も快適なテンポで運ばれる。独唱が入ってくるとさらにテンポの良さは際立ってくる。ソロはソプラノのドナート(素敵な声だ!!)を除くと、皆ワーグナー歌いで、やや立派すぎ。バスバリトンのエステスなどまるでオランダ人のように聴こえる。歌手の人選はもう少し軽めでよかったのかも。

 全体に重心は低いのだが、その上に築かれるピラミッド状の弦や管の音色が良く磨かれているうえ、前述のとおりの南ドイツ風の暖かさがあるものだから、音楽は以外なほどに透明で見通しが良い。終結部も過度に熱くならずにしっかりと音を刻みつつ終わる。
なかなかに音楽的な第9であった。機会あればドレスデン盤も聴いてみたいもの。

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2006年4月 9日 (日)

「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「パリアッチ」 新国立劇場

Cava_pari_1

新国立劇場の「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「パリアッチ」を観劇した。
9日15時開演。若い頃はイタリア物はかなり聴き尽くしたものだが、この十数年はドイツ物ばかりで、イタリアオペラの舞台は本当に久しぶりだ。
 今回食指が動いたのは、指揮者が注目のファビオ・ルイージであることによる。この俊英の日本オペラ・デビューなのだ。以前N響でドビュッシーを聴き、大いに気に入った。音楽を構成豊かにキッチリまとめあげるのがうまく、オーケストラも弾きやすい指揮ぶりだった。スイス・ロマンド、ライプチヒ、ウィーン響に続き、ドレスデン国立歌劇場のポストを得て、正に日の出の勢いの人だ。イタリアオペラはともかく、ワーグナー、シュトラウスもバッチリ振れる。ブルックナーやマーラーも何でもいけるマルチ指揮者がルイージである。

それから今回上演で注目したのが、シュナウトのサントゥツァとフランツのカニオという、共にトーキョーリングで聴いた、ワーグナー歌手がヴェリズモオペラをどう歌うか?こんな興味から今回上演に行くことにした変わった私である。アリアの度に拍手があったり、音楽が鳴り終わらない内に拍手が始まるなどで、久々ゆえ、感興がそがれたが、これはしょうがない。
 さて、まずは舞台から。演出はアサガロフというチューリヒ歌劇場の監督によるもので、2年前のプリミエだ。2作品共、同じ舞台装置・同じ群集・同じ時代設定(1950年代)として、作品の共通性を意識させるもの。よけいなことをせずに、普通でよろしい。装置もシンメトリーでわかりやすく、演技も妙な動きもなく安心。

「カヴァレリア」は唯一のイタリア人、クピードのトゥリッドウが文句なしにすばらしい。言葉と歌が一体化しているのをことさら感じたのは、他の歌手のせいか? 明るさをともなった良く通る声はなかなかのもの。そして、シュナウトのサントゥッアは、予想とおり体型が立派すぎて、浮気されても・・・という見た目の何だか感がまずあった。声は当然立派だが、私にはブリュンヒルデやフリッカに思えてならなかった。他の日本人歌手は問題なし。

「パリアッチ」を続けて聴くと作品の精度というか、緻密さが、レオンカヴァルロのこの作品のほうが上であると思われる。そんな思いを抱きながら、この2演目めを観たものだから、こちらの方が感銘が深かった。まずは、フランツのカニオがそれほど違和感がなく、高域は硬いものの良く伸びていた。「衣装をつけろ」は何かボソボソ歌っていてやや興冷めだったが、最後の場面では迫真の演技と歌を聴かせ聴衆を引き付けた。他の諸役もまず上出来で、ことにネッダの大村が若々しく見映えも良かった。

最後に、期待のルイージの指揮するオーケストラはまさに期待通り。全般に速めのテンポを取り、オケや歌手をグイグイ引っ張っていく統率力を見せた。立ち止ったり、伸ばしたりいったところがまったくなく、かつての大見得切るような歌や演奏とは無縁の世界を目指している。ふたつの作品の中間にある間奏曲は、磨き上げられた美しさとオペラティックな雰囲気に満ちた名演だった。心理的な劇性をスマートな表現で目指したものだけに、途中途中で入る聴衆の因習的な拍手は、音楽の流れを阻害していたようにしか思われない。

 ともあれ、久方ぶりの「イタリア・オペラ」は適度な長さでもあり、楽しかった。

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2006年4月 7日 (金)

エルガー「エニグマ変奏曲」 バーンスタイン

Bernstein_ergar 私のフェイヴァリット作品のひとつ、エルガーの「エニグマ変奏曲」を聴く。この愛すべき曲は、私にとって常に謎である。一度さらっただけで、各変奏の由来を知らないからである。この各変奏はエルガーの周りの人物を具体的に描写したもので、すでに謎解きもされ、誰それという名前とエルガーとの交わりもCDの解説書には出ている。しかし、現在この作品を聴くにあたって、それが何だといえるのだろうか?あくまで予備知識にとどめ、無心にエルガーの高貴・高潔・ファンタジー溢れる音楽に耳を傾ければよいと思っている。今回CD棚を調べたら15種類の演奏があり、意識したわけではないが、そのほとんどが英国指揮者であった。例外はハイティンクとプレヴィン(両者はもう英国人と同じ)、シノーポリとバーンスタインであった。

ここに聴くバーンスタインのエルガーはかなり異色である。82年の録音であるが、晩年の遅く早くの様式がここでも全開で、エルガー節が堪能できるゆったりした部分、例えば聞かせどころ第9変奏「ニムロッド」は6分もかけて、極めて念入りにじっとりと演奏している。最後のエルガー自身を描いた場面ではオルガンを強調しすぎて、バランスが崩れかけたかと思うと、エンディングは思い切り引っ張って、これでもかというばかりに伸ばしてしまう。
 早い部分は、弾むように軽快に進むため、遅い部分との落差がかなり大きい。
演奏時BBC響とその解釈をめぐって険悪になったらしい。いかにもレニーらしいエピソードだが、これも作品を愛し、自分のところに引き寄せて解釈する音楽作りゆえなのであろう。

 私はこうしたエルガーは100%賛同するものでないが、無個性なユルイ演奏よりはずっと良い。そして、ひと悶着あったにしても、オーケストラの味わいが救いをもたらしている。これが、ニューヨークだったらどうなってしまったろうか。

 カップリングの「威風堂々」をはじめとする行進曲は、幾分明るすぎるが早いテンポで豪快に鳴らしきった演奏で、有名な中間部ではエルガー節ならぬレニー節が見事に決まって、万事メデタシとなる。エルガーを楽しむというより、バーンスタインを楽しむ感ありのCDと思う。最後に、ジャケットのセンスは実にすばらしいものであった。

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2006年4月 6日 (木)

シャーンドル・コーンヤ プッチーニ・アリア集

Konya 今夜は、名付けてテノール・シリーズ第2弾として、それこそ「コンヤ」。おそらく、「シャーンドル・コンーヤ」と呼ぶのだろうか。50年代後半から70年代前半にかけて活躍した、ハンガリー出身のテノールで、テノール歌手の分類からすると、「リリコ・スピント」から「ドラマティコ」、ドイツ・オペラでは「ヘルデン」まで行かない「ドラマティツク・テナー」に属する人だ。あまり記録がないため、生年は不明、今、健在かも不明。
 この人は、むしろワーグナー・テノールとしての名前の方がピッタリくるであろう。手持ちのCDでの、「ローエングリン(ラインスドルフ)」、「マイスタージンガー(クーベリック)」のほか、「パルシファル」などを得意とし、バイロイトで活躍した。
イタリア部門でも、「ドン・カルロ」「ラダメス」「リッカルド(仮面)」などのヴェルディとプッチーニ全般を持役としていたが、記録は少ない。NHKのイタリア・オペラでの来日もあった。

本日のCDは、そんな「コーンヤ」の「プッチーニ・アリア集」である。テノールによるプッチーニ集は極めて珍しい。しかも、バックが「アントニーノ・ヴォットとフィレンツィオのオケ」なのである。

オーケストラの雰囲気豊かな伴奏以上の伴奏を聴くだけで、このCDは価値があると思う。ほんの数分のアリアにプッチーニが与えたオーケストレーションの妙は、同時代のマーラーにも通じる後期ロマン派の世界を思わせる。カラヤンやメータは濃厚に描くが、ここに聴くヴォットの演奏は、完全にオペラの一場面であることを感じさせつつ、プッチーニのそうした個性をつつましくも表出してやまない。

オーケストラばかり誉めてが先行したが、コーンヤのテノールはワーグナーで親しんだ雰囲気よりは、ずっと柔らかく、リリックである。やや硬質で、不安定感もあるが真摯な歌いぶりは、熱中感の少ないクールなプッチーニとして、今でも充分通じるものかと思う。ちなみに62年録音。とりわけ良かったのが、「ピンカートン」「デ・グリュー」の役か。
得意とするワーグナーの諸役が、真面目役が多い。それだけ清潔感に溢れた歌いぶりなのだが、プッチーニの諸役では不真面目な役柄での歌がかえって面白く聴かせる。
ピンカートンを不真面目と称しては語弊があろうが、それだけプッチーニにおいても真面目な歌いぶりなのである。こんな男が何故・・・・という気持ちを抱かせる、そんな真面目人間コーンヤなのだ。

このCDには、楽しいオマケがある。シュタイン指揮の「ナブッコ」とクワドリ指揮の「アイーダ」のそれぞれドイツ語の場面である。それこそワーグナー・チックな一場面。
かつて日本でも、日本語翻訳でのオペラ上演が普通であった。世界的に音楽家の演奏能力は高まっているわけである。



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ベルク ヴァイオリン協奏曲 ブラッヒャー&アバド

Abbado_berg ベルクヴァイオリン協奏曲は、拙ブログでも2度目の登場。(3月2日)ただでさえ好きな曲に、遂にアバド盤が登場したためだ。新ウィーン楽派を大得意にするアバドがいつこの協奏曲を誰と録音するか?ずっと気になっていたが、今回2003年9月のライブで、ベルリン・フィルの元コンサートマスター、リン・ブラッヒャーのソロ、マーラー・チェンバー・オケで録音された。
正直、「あれっ」という思いで、本当はクレーメルかムローヴァのヴァイオリンで聴きたかった。
そして、早速の新盤はどうかといと、コンサート・マスター何て肩書きを気にしてた自分を恥じなくてはならない見事なものだった。ライブ録音の按配もあろうが、生々しい音で、音楽の持つ真剣なリアリティーを冷静に掴んでいる。この人の場合、ルツェルンのコンサートマスターもつとめているので、アバドと音楽の表現に関し完全に意見の一致を見ての演奏であろうから、室内管をあえて起用したアバドの精緻なアプローチと表裏一体と化している。
少女で亡くなったアルマ・マーラーの娘の死を悼んで書かれたこの曲、期せずして早世ベルクの「白鳥の歌」ともなってしまった。そんな因縁めいた作品を「マーラーやベルクの使徒」アバドは切なくも甘く、切実感をもって演奏している。本当の欲を言うと、ウィーン・フィルとムジークフェラインで・・・・・。しかし、最後のバッハのコラールの部分の展開をともなったエンディングは、息を呑むような緊迫感と甘やかな抒情に満ちている。

Abbado_berg2 カップリングのストラヴィンスキーは、かつてのパールマン/小沢と同じだ。
新古典主義の時代の作風は4楽章構成で、楽しくも抒情的な協奏曲。ヴァイオリンの技巧はかなり高度で、随所に目を見張るような難しいパッセージがちばめられている。
ブラッヒャーのソロはここでも万全で、すいすいと軽々と弾きわけていて気持ちがよい。そればかりか、静かな部分での暖かみの表出などは、百戦練磨の経験がモノを言っているかのよう。
アバドの指揮も、ロンドン時代を思わせる軽やかで透明感に満ちたストラヴィンスキーを難なく描いていて、若い軽やかなオーケストラとともに文句なしだ。

 またもや、現れたベルクの協奏曲。この作品の呪縛は私には解けそうにない。

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2006年4月 4日 (火)

ハイドン交響曲第103番「太鼓連打」 アバド

Abbado_haydn102103_4 すっきりとハイドンの交響曲を。3月31日がハイドンの誕生日と、大阪アインザッツのマスターから聞き、遅ればせながらCDを取出した。ハイドンはせいぜい、パリとザロモンのセットくらいで、100曲以上もある全集なんて、とうてい手にしなかった。
 しかし、ときおり思い出したように聴いてみると、その多様さに驚くとともに、底知れぬ明るさに気持ちが和まされる思いがする。

アバドがヨーロッパ室内管と数枚のCDを録音したのは、93~5年のこと。古楽の奏法を多少意識した、折衷的な響きだが、得意とするロッシーニにも通じる、清潔で爽快、見通し良く気持ち良い演奏になっている。カラヤンやバーンスタインらの大オーケストラによるハイドンとは、明らかに一線を画したスタイルである。
 「太鼓連打」は冒頭のティンパニの音色で全体が決まるような曲だが、このアバド盤は、堅いバチで歯切れよく鳴り響かせて気持ちが良い。主部のノリの良さも良い。2楽章の短調の旋律も、オーケストラの若いソロ達が次々に受け渡しをしながら美しく歌われて行く。単純な終楽章も、シンプルなままにハイドンの楽譜そのものを演奏した感じで楽しい。 

さらに良かったのが102番で、ノンタイトルの曲だけに地味だが、以外やロマン派的な雰囲気ももった桂曲であった。この曲をこんなに真面目にじっくりきいたのが初めてなもんで、驚きであった。
でも終楽章は、ハイドン・モード全開の転がるような楽しいパッセージの連続で、アバドと若いオーケストラの小回りの効いた機動性の良さが全開となっている。

ヨーロッパ室内管とのハイドンは数枚(たしか4枚)だけで、後続がなかった。ベルリン・フィルでは出来なかったことを、当時ヨーロッパ室内管と試していたように思う。
これらに聴くアバドとハイドンの相性は抜群で、マーラー室内管とまた後続を録音してもらいたいものである。

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