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2006年5月

2006年5月31日 (水)

ジョナサン・ノット バンベルク交響楽団 演奏会

Bamberger ジョナサン・ノット指揮のバンベルク響を聴いた。 
   武満徹     「セレモニアル」  笙:宮田まゆみ
   シューベルト  「未完成」   
   ベートーヴェン 交響曲第7番      

こんな名曲になるとかえって食指が遠退いてしまう。もとより単独では行かなかったろう。招聘元のワールド・オーケストラシリーズのセット販売にまんまと乗ってしまった。6つのコンサートのセットで、私は争奪戦が予想された、ルツェルンとコンセルトヘボウを確実にするがために、それこそ、清水の舞台云々の気持ちで申し込んだら当たってしまった。そんな訳で全く期待しないでサントリーホールへ向かった。

武満の作品はかつてプレヴィンとN響で聴いたことあるが、印象は忘却の彼方だ。
今回、笙の繊細な音色にものすごく集中して聴いたが、この楽器と西洋のオーケストラを組合せてしまうところが、武満のすごいところ。弦や木管が笙の音色を模してデリケートな響きで応える。何だかんだで、冒頭か引き込まれてしまった。
 そんな余韻を残し、印象深い克明なトレモロで未完成が始まった。遅めのテンポで繰り返しも行い約30分、ロマン的というより、かなり緊張を強いる厳しさを感じた。時折響くフォルテではかなり低音が響く。
ベーレンライター新校訂版を使用しているらしく、強弱が従来と違って聞こえる個所があった。1楽章の終わりは最後の和音がディミヌィエンドしてスウッと消えた。新鮮だ。

後半のベートーヴェンが鳴り渡り、ここで納得。前半の静と後半の動。
この一音で、重苦しさから開放された。それ以上に快調なテンポに乗せて、全楽員が体で音楽を表現しつつ乗りまくっている。ドイツのオーケストラはいずれも機能性に富むが、このバンベルク響もなかなかのもの。そればかりか、時おり、管楽器など鄙びた響きを聞かせる。かつてのバンベルクの伝統は今に生きていて、ノットの清新な音楽により、また新たな国際性も身に付けつつあるようだ。
全曲はここでもベーレンライター版を用い、2楽章と3楽章の間以外は、アタッカで一気に演奏された。両翼配置の効果も抜群で、指揮者も聴くこちらも、右に左に忙しい。
そんなこんなで、熱狂のうちに全曲が終わり、7割の入りながらも盛大な拍手がおこった。

アンコールは、ルーマニア舞曲っぽい曲で、エネスコか何かかと思ったら、リゲティのルーマニア協奏曲第4番だそうな。これは面白かった。弦の各主席がソロで活躍する名技性にとんだ盛り上がる曲だった。

Bamberger_2006 ジョナサン・ノット、英国指揮者だが、なかなかの実力者と見た。
ニコニコと終始、笑顔でスマートな感じでだが、体から自信が満ち溢れていて、ドイツ各地の劇場から叩き上げてきた裏付けも充分なのであろう。
曖昧なところが一切なく、すべてに克明・明快である。かつてバーミンガム時代のラトルにも通じるかもしれない。チャレンジ精神も溢れている。
こうした人が、伝統のバンベルクの指揮者になるのだから、世界は垣根がなくなったといえるかもしれない。
カイルベルトやヨッフム、シュタインと続いた戦後のドイツ伝統はどうなっていくのか。
興味はつきないが、ブロムシュテットがしっかり桂冠指揮者のタイトルにあるし、何よりも、ノットがあり余る才能で、新たな伝統を築くのかもしれない。

気になったのが、こういう名曲になると、居眠りの人はいないかわりに、音楽に合わせて、首を振ったり、体を動かしちゃう聴衆がいること。それも今日はお隣さんで、かなり気になった。じっとしてよ。
それから、いつも必ずあらゆるコンサートで最前列にいるオジサン数人。ずっと前から気になっていたが、評論家の先生なんだろうか?毎日何してるんだろ。
オーケストラの面々も、彼らを何となくチラチラ見てて気にしているみたいだった。

まあ、ともかく予想外に楽しい一夜であった。

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2006年5月29日 (月)

スクリャービン ピアノ協奏曲 オピッツ&キタエンコ

Skriabin 月曜はどうにも冴えない。雨や晴れが目まぐるしく、気温の上下もあって、皆疲れている。今朝の電車も、運良く途中座れたら、即寝。爆睡である。
普段は1時間立っていて、座っている人が羨ましいが、自分が座れたりするともうそんなことはお構いなしに眠る。行き帰りの電車睡眠は誠に快楽。

今晩は、スクリャービンのピアノ協奏曲を聴く。ゲルハルト・オピッツのピアノに、キタエンコ指揮フランクフルト放送響の93年の録音。ジャケットには表記ないが、キタエンコの交響曲全集の1枚から。フランクフルトは全集をインバルとも録音していて、偶然ながら珍しい。

さて、この曲は何といったらいいのか? 一言でいうと、ショパンなのである。
そう、まるでショパン。さらに言うと、「ショパンを弾くラフマニノフ」といった風情。
1896年の作であるから、かなり後ろを振り返ったような作風なのだ。
後年のまがまがしい、神秘的・感覚的な作風には到底結びつかない。そしてあの一連の後期のピアノソナタ群ともかけ離れている。何が変貌の要因か、私はそこまでスクリャービンを知らないのでわからない。
ここに聴かれる、全編に溢れる詩情と情熱。作曲者24歳、青春真っ盛り。
ともかく、ショパンの第3協奏曲のようだが、素直に美しい音楽と思う。
オーケストレーションはかなりのもので、北国風の鄙びた管の雰囲気などなかなかだし、1楽章の魅力的な旋律を弦が透き通るように歌うところなどは、一度聴くと忘れられない。
 ピアノもさほどの技巧を要求されない雰囲気だが、ショパンのようにキラキラ弾いてはうまくいかない。程よく陰りや朴訥さも必要なのかもしれない。
終楽章の最後のピアノの和音が、オーケストラが鳴り終えても、しばらく残響のように伸ばされるのが印象的だ。

演奏は、二人ともカチッとしすぎており、もう少し柔軟さが欲しい気もするが、これはこれで曲が曲だから、まあいいのだろう。キタエンコの他の交響曲の演奏は、それは見事なもので、いずれじっくりと取り上げてみたい。
 この曲には、ピアニスト専任の頃のアシュケナージがマゼール/ロンドン・フィルと録音したものがあり、その昔FM録音して何度も聴いた。聴く私も青春してたわけ・・・。

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2006年5月28日 (日)

ブラームス 交響曲第2番 ヤンソンス

今日はNHK・FMで、「タンホイザー」全曲の放送があった。休日は何かと忙しく、つまみ聴きであったが、演奏はかなりのものであったと思う。なにより嬉しいのが、スイス・ロマンド管弦楽団がピットに入るジュネーヴの大劇場のライブであること。数十年前は、この劇場のライブをかなり放送してくれて、ちょうどホルスト・シュタインがスイス・ロマンド管の音楽監督をしていて、ワーグナーの諸作やチャイコフスキー、バルトークなどの作品が録音できたものだ。今日の指揮者はウィーン生まれのウルフ・シルマーでキビキビと自発性溢れるいい指揮であったし、タイトル・ロールのグールドはバイロイトでも活躍のヘルデン・テノールで、多少硬いが破滅型の凄さを併せ持っている。今年のバイロイトで、「ティーレマン・リング」のジークフリートを歌うのも楽しみだ。シュティンメのエリーザベトも文句なし。 しかし、文句はNHKにある。3時間の放送時間に、全曲が収まるわけがないと思っていたら、勝手にカットを施していやがった。解説者が「あらかじめご了承を・・」と言っていたが、収まらないなら、あらすじや解説をカットするとか、10分でも延長するとかあるだろう。
こんなところに、今にのNHKの安易さがあると思う。けしからん。

晩の教育テレビでの思い出の名演奏も同じこと。シノーポリをやってくれるのはいいが、あんな中途半端では、話にならない。クラシック番組に対する姿勢が、年々尻すぼみになって行くNHK様だ。貴重なライブを熟成させて発酵するまで待とうというのか。放送が文化の偉大な担い手であることをもっとしっかりと自覚して欲しい。プンプンである。

Jansons_beethoven_brahms_2 さて、あとは軽く(?)ブラームスの2番を、ヤンソンスとコンセルトヘボウのライブで。
カップリングはベートーヴェンの同じ2番。どちらも生気あふれる、ヤンソンスらしい生き生きといた演奏。聴いていて気持ちも体も乗ってくる。
 
こうして聴くものを乗せてしまうのが、ヤンソンスの魅力。併せて、オーケストラにもまずそれが伝わり、奏者がみんなノリノリで、こんな生まれたばかりのイキのいい音楽が生まれ出す仕組みだ。このブラームスの曲に溢れる、自然の中で大きく深呼吸をしたようなすがすがしさが良くあらわされている。オーケストラの美しさもコンセルトヘボウだけに格別。

こうして最近はイキがいいだけでなく、しっとりした情感やきめ細やかさも巧く表現できるようになり、本当に聴かせ上手だけでない、味わいある指揮者となった。ムラヴィンスキーの元で鍛えられ、永年のオスロでの経験とアメリカ体験を経て、アムステルダムとミュンヘンの二大ポストを得てさらにに進化した感がある。もちろんかつてのヤンソンスも面白いし、かつて何度も来日したおりの演奏会は本当にすばらしかったという。(アインザッツさん)

私もこの数年で贔屓になり、一昨年のコンセルトヘボウと昨年のバイエルンの演奏会に出向き、そのステージマナーも含めて、音楽性の素晴らしさに参ってしまった。
どんどん進化するヤンソンス。本格オペラ進出も予定されるし、何よりも今年の来日では、どんな演奏を聴かせてくれるだろうか。


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2006年5月27日 (土)

プッチーニ オーケストラ作品集 シャイー

Chailly_puccini またまた雨の一日。こんな涼しい日でもJRは盛んに冷房を入れてくれて、本日の電車は極めて寒かった。本当に、天気もJRも融通がきかない。

今日は、ネットでミネソタ管弦楽団の定期のライブを聴けた。何と演奏会形式のプッチーニ「トスカ」全曲だった。指揮は音楽監督のオスモ・ヴァンスカ、トスカはデボラ・ヴォイト、カヴァラドッシはカール・タナーといった面々で、これがまたシンフォニックですこぶる面白かった。こんな精度の高いコンサートが始終行われているかと思うと羨ましい。解説者が、スカルピアのことを「bad guy」と言っていたのが愉快だ。

そこで今晩は、大好きなアルバムを取り出した。シャイーが82年に当時の手兵ベルリン放送響(現ベルリン・ドイツ響)を指揮したプッチーニ・アルバムである。
曲目は「交響的前奏曲」、「交響的奇想曲」、歌劇「ラ・ヴィリ」前奏曲、歌劇「エドガー」前奏曲、メヌエット3曲、歌劇「マノン・レスコー」間奏曲、「菊」以上である。

いずれもプッチーニらしい美しく、儚い旋律に満ちた桂曲で、オペラの一場面をも思わせる起伏にも富んでいる。こうして聴いてみると、プッチーニってオーケストレーションの名手だな、と思わせる。ヴェリスモの時代に生きたこともあって、俗な部分が嫌悪されるが、私は好きだ。時にいじらしく、時に情熱的に思い切り美しい旋律を惜しげもなく紡ぎだしている。

若いシャイーは、そんなプッチーニに溺れずに、カッチリとした音楽を聴かせている。
ここぞと歌いまくったり、大音響を思い切り鳴らしたりすることもない、自然な運びである。
同郷の先輩、ジュリーニやアバドがプッチーニを見向きもせず、ムーティもヴェルディ派とあって、貴重な指揮者である。将来はスカラ座に・・・・。
オーケストラがドイツのものとは思えないくらい、軽やかで精妙に響くのもシャイーゆえであろう。

あらゆるオペラの管弦楽作品の中で、ワーグナーと並んで好きな曲が「マノン・レスコー」の間奏曲である。5分足らずの曲に、感傷と情熱、諦念が詰まっている。シャィーのこの演奏は、これまで何度聴いたかわからない。
酒を飲んで酔って感傷に浸りたい時に、決まって聴く曲のうちのひとつなのだ。

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2006年5月26日 (金)

ワーグナー 作品集 リオバ・ブラウン&シュナイダー

Lioba_braun_1 今日は、ディーヴァ・シリーズ(何じゃそれ)のワーグナー。
昨年、タワレコで発見し、選曲の良さとペーター・シュナイダーの指揮ということで、即買いしたもの。主役の「リオバ・ブラウン」については、アバドの東京トリスタンでブランゲーネを演じていたな、程度の認識だった。

「ヴェーゼンドンクの五つの詩」
「パルシファル」(クンドリー)
「ヴァルキューレ」(ジークリンデ)
「神々の黄昏」(ヴァルトラウテ)
「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死

          
      ペーター・シュナイダー指揮 北ドイツ放送交響楽団

こんないい曲と演奏者なのである。
「ヴェーゼンドンク」はワーグナーの芸術を尊敬した、ヴェーゼンドンク夫人マチルデの詩に、マチルデに恋愛感情をもったワーグナーが作曲した連作歌曲で、「トリスタン」と同時期の作品だけに、旋律も先取りされて「トリスタン」的雰囲気に満ちている。
不倫はならなかったようだが、作品は「トリスタン」を親として生まれた(どっちが先?)
完全に夜の音楽で、ひっそりと静かに楽しむ曲だ。

Lioba_braun_b_1 何気に聴きだしたが、リオバ・ブラウンがいいのである!
レパートリーは、同じメゾの先輩「ヴァルトラウト・マイアー」とかぶるが、マイアーが硬質で強靭な声を持つのに較べ、ブラウンはもっとぬくもりを感じさせ女性的である。(我が藤村美穂子も同質か)
絶叫することなく、広い声域を細やかに駆使して歌われる「クンドリー」や「ヴァルトラウテ」は特に素晴らしい。そのゆたかな歌声に酔いしれていると1時間は、あっと言う間である。

待望のシュナイダーも万全。先般「ベン・ヘプナー」とのリングで絶賛した通り、ここでも劇場を知りぬいた雰囲気豊かな音楽が聴ける。いつものように速いテンポであるが、速いと感じさせないのは、聴かせるべきところは聴かせ、押さえるところはしっかり押さえているからである。ドイツ圏で最高のワーグナーを聞かせる一人であろう。
ケンペ、サヴァリッシュ、スウィトナー、シュタインといった叩き上げ指揮者の系統と言える。
今年、バイロイトで大植英次の後を受けて「トリスタン」を振るが、ここに聴く先触れの「前奏曲と愛の死」は濃密な雰囲気を出しながらもスッキリした名演である。

ヴェーゼンドンクに始まりトリスタンに終わる素敵な1枚であった。

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2006年5月25日 (木)

シューマン「詩人の恋」 ルネ・コロ

Kollo_schumann 昨日、天候をうらやんだら、今日は見事な五月晴れ。ここまで晴れると気持ちが良い。やれやれ、というところ。

シューマンの「歌の年」に書かれたハイネの詩による「詩人の恋」を聴く。
抒情派詩人の作に付けたシューマンの音楽は全く素晴らしく、シューベルトの水車小屋と同じく、恥ずかしいくらい青春している。
シューマンの方がかなり屈折していて、恋の悩みも複雑に感じる。

大学の第二外国語は「ドイツ語」を選んだが、文法の先生が音楽好きで、テキストとしてこの「詩人の恋」第1曲目「美しい5月に」を選んで、カセットで何度も聴かせながら詩を味あわせてくれたものだ。 
「Im wunderschonen Monat Mai」、この1曲目だけなら諳んじていて歌える。

           美しい五月になって すべての蕾がひらくときに、
           私の胸にも 恋がもえ出た

           美しい五月になって すべての鳥がうたうときに、
           私は胸にもえる思いを あのひとにうちあけた

           私の涙から とりどりの花が咲き出て、
           私の吐息は うぐいすの歌となる

           かわいい人よ 私を愛してくれるなら、
           その花をみんなおまえにあげよう
           そしておまえの窓辺で うくいすの歌を聞かせてあげよう。

こんな、こっぱずかしい歌々を、ルネ・コロは誠実に明るく歌ってくれる。
アオフ・ベーア青年を聴くか迷ったが、大好きなコロのCDをセットした。
一瞬、アレ、まるでマイスタージンガーのヴァルターの歌のように聴こえるが、馴れてくると輝かしさを一生懸命抑えながら、一語一語じっくりと歌っていることがよくわかる。
時おりヴァルターやジークフリートが顔をだすが、こんな「詩人の恋」もありだ。
 この作品のロマン性を高めている重要なピアノ伴奏は、名手「アーヴィン・ゲイジ」がつとめていて、ピアノ独白部分などため息がでるような演奏振りである。

願わくは、「美しい5月」が今日だけでないことを・・・。

 

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2006年5月24日 (水)

ディーリアス 「高い丘の歌」 フェンビー指揮

Delius_high_hills_1 関東は夕方からとんでもない雷雨。日本のメリハリある四季はどこへ行ってしまったのか?美しい5月は消えてしまった。失われつつある日本の四季を思い起こし、自然を賛美したディーリアスの作品を聴いてみる。

私が英国音楽に強く引かれるようになったのは、中学生の頃のディーリアスのレコードとの出会いからである。このことは、以前「望郷のディーリアス」という記事を起こした。(2005.12)

ディーリアスは、その作風から繊細な人、との印象を受けるが、実際はかなり破天荒な生き様だった。若い頃、ライプチヒやパリに留学した頃は毎日が「酒とバラの日々」だったらしい。
後年、目を患い失明してしまう。おまけに体も麻痺して車椅子の生活だった。
若い頃のツケが何倍にもなって訪れた訳だ。

残された作品には、そんなムチャクチャな人生なんて微塵も感じさせないデリカシーとファンタジーが満ちている。晩年の作曲活動を献身的に助けたのが、今回指揮をしている、「エリック・フェンビー」である。

この「高い丘の歌」の「高い丘」というのは「高地・高原地方」といった意味だそうだ。グリーグとも親交あったディーリアスはノルウェーの大自然を愛し、その印象をこの作品にしたらしい。
「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ」(ディーリアス:三浦敦史先生訳)

フルオーケストラと無歌詞による母音合唱からなる30分間、音楽はたゆたうように流れ、時に咆哮し、魅力的な旋律も綿々と歌われる。あれこれ考えずに、この流れに身を任せて、北欧の高地から海を眺めるような場面を思い描くだけでよい。

いつしか思いは遠い昔に飛んで行く。帰らない過去と故郷の海と山。
ディーリアスはいつもこうした思いを引き出し、優しくつつんでくれる。

直伝フェンビーとロイヤル・フィルの83年の録音は、まったくもって素晴らしい。
本当は、チャールズ・グローヴスとロイヤル・リヴァプールの演奏がさらに上をゆく美しさなのだが、CDは見かけない。あと1枚、ロジェストヴェンスキーがBBCを振ったライブがあり、これまた素敵な演奏だ。

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2006年5月22日 (月)

サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」 メータ

Mehta_santsaens 梅雨の走りに馴れてしまったせいか、なまじ晴れたりすると気持ちはいいが蒸し暑くて疲れてしまう。まったく贅沢なもので、音楽を聴く環境は夏以外がよろしい。
本格的な梅雨と夏を迎える前に、濃い音楽を聴いてしまおう、ということで今晩はサン=サーンスのキテレツな交響曲を取り出した。
しかも演奏は、若い頃のグラマラス・ゴージャス指揮者メータとロス・フィルの黄金コンビで。

表題のまんま、オルガン付きという以上にそのオルガンが激しく付いている。ピアノも大活躍する。2楽章構成だが、実質的にそれぞれ2部からなるため、4楽章あるとみて良い。そして終盤の盛上りはスゴイことこのうえない。だんだん年を取ってくると、こうした部分は聴いていてツライ、というか恥ずかしい。時間も考慮しヘッドホンによる試聴だが、当時のデッカの鮮明でマルチ的な録音による音の塊が両耳から、これでもか、というばかりに突入して来て、一人恥ずかしくなってしまう自分がいたりする。
 
 いやはや・・・・、と思いながらも、だんだんと耳の快楽を呼び覚ますようになり、もう一回聴くはめに陥る。なんだ、完全にサン=サーンスとメータとデッカ録音部隊の術中にはまってるじゃん。
メータの指揮は、この当時は実に切れ味鋭い。指揮ぶりを見てもわかるとおり、メータは切るように指揮をする。しかし硬直的にならないところが、抜群のリズム感のよさと耳の良さなのだろう。今回、久方ぶりに聴いて作品も含めて見直したのが、オルガンの入っていない冒頭楽章のシンコペーションのリズムの刻みと2楽章にあたる緩徐楽章の旋律の美しさ。この洒落た抒情が、サン=サーンスの良いところか。
 
やはり、メータはこういう曲がうまい。でも度々聴ける演奏ではないな。
一気呵成のミュンシュや、フランスを感じさせるマルティノン、じっくり型のアンセルメといった往年の巨匠に比べると、ちょっと色がなさ過ぎるかもしれない。

試みに、少しスピーカーから音を出してみた。意外や最後の場面で音が混濁する。
録音年代(70年)ゆえか、廉価盤ゆえか、貧弱な装置ゆえなのか?
「ツァラトゥストラ」「春祭」「惑星」等、メータの指揮で面白いように鳴るレコードを親しんできた身としては、ちょっと寂しい思いがする。

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2006年5月21日 (日)

ルチア・ポップ ミュンヘン・ライブ

Popp ブラティスラヴァ近郊生まれの「ルチア・ポップ」。彼女が1993年に54歳の若さで癌に冒され亡くなってもう13年も経つ。
ポップの人懐こく、あたたかな人柄を反映してか、その歌声も優しく心の襞に染み入るような雰囲気がある。
若い頃は、スーブレット役やコロラトゥーラ役を専門にしていたが、徐々に声が重くなり、晩年は堂々たるプリマドンナとして活躍した。深みを増すべき円熟期に天に召されてしまうとは、神様も本当に薄情なことだ。
今日のCDは、ポップがウィーンと並んで活躍したミュンヘンのバイエルン・シュターツオーパーでのライブから編集された名場面集である。指揮者がすごい。

R・シュトラウス 「ばらの騎士」    ゾフィー  クライバー
モーツァルト   「ドン・ジョヴァンニ」 ツェルリーナ  ザヴァリッシュ
   〃      「フィガロの結婚」  スザンナ        〃
ベートーヴェン 「フィデリオ」      マルツェリーネ  ベーム
ニコライ     「ウィンザーの陽気な女房たち」 フルート夫人  ザヴァリッシュ
R・シュトラウス 「アラベラ」             アラベラ     ザヴァリッシュ
プッチーニ    「ジャンニ・スキッキ」        ラウレッタ      〃   

こんな素晴らしい作品を、次々とポップのふるいつきたくなるような歌唱で味わえる。
しかも、クライバーの「ばらの騎士」が聴けちゃうのだ。72年の記録でモノラルながら、キビキビしたセンス溢れる指揮ぶりが鮮明に聴き取れる。ポップのかわいいゾフィーも相変わらず素敵でオクタヴィアン(極めつけのファスヴェンダー)との二重唱は、陶酔的なまでに美しい。
後年、日本でも演じた「アラベラ」。NHKで放送されカセットとビデオに記録があるが、大切なライブラリーだ。初めて味わった「アラベラ」全曲で、ポップの細やかな演技と暖かな歌いぶりにくぎ付けになってしまった。このCDに聴くポップもそのとき以上の歌だ。
この甘くもほろ苦い作品に、ピッタリで「ウィーン菓子」のような声と言ってしまおうか。
デラ・カーザ以来の名アラベラになったであろうに・・・・・。

最後のプッチーニの「私のお父さん」には、泣いた。涙が出た。

   

  

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2006年5月18日 (木)

ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 アバド

Abbado_pastorale_2 連休明けから関東は梅雨のような天候で、極めて鬱陶しい。こういう週の中日には、名曲中の名曲が聴きたくなる。
と、いうことで、「田園交響楽」を。古今の名曲は数あれど、いやというほど聴いても、「ほんとーに、いい曲だぁ」と思わせる曲の筆頭にくるのではなかろうか? ついでに交響曲に限って言うと「新世界」「ブラームス1番」「未完成」「悲愴」なんていうところか。
そんな、名曲を名曲らしく聴かせる演奏は、名盤の誉れ高い「ワルター」や「ベーム」だが、わたし的には、「アバド/ウィーン・フィル」も同列の名盤なのだ。

86年の録音で、当時、国立歌劇場音楽監督としても65年以来の相思相愛状態だったコンビだけに、どこまでがアバドで、どこまでがウィーン・フィルなのかわからないくらい一体化している。おまけに、ムジーク・フェラインの柔らかな音響をまともにとらえた素晴らしい録音も、このコンビの特質に寄与して余りあるものがある。

ゆったりと終始進む1楽章は繰返しも丹念におこない、ほのぼのとしたムードを充分にかもしだしている。心もち速めの2楽章ではあるが、ウィーンの森に響く鳥達のさえずりを見事に聴かせてくれる。3・4楽章のスケルツォ的な楽章も極めて明晰で楽しい。この明晰で強靭な歌いぶりが当時のアバドの持ち味で、デビュー当時とはけた違いに表現力が増していて、オーケストラも心から賛同してアバドに付いていっている様子がわかる。
終楽章の心を開いた、思い切り深呼吸をしたような伸びやかな雰囲気はまた格別だ。

われわれがこの曲に期待する最大公約数的な雰囲気を、指揮者とオーケストラの蜜月の雰囲気でもって、普通に演ってみせた、という名曲・名演奏。

数年後のベーレンラーター版、ベルリン・フィル演奏は、またかなり違った「田園交響楽」になっている。

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2006年5月16日 (火)

ブルックナー 交響曲第2番 ジュリーニ

Giulini_bru2_2 ジュリーニが亡くなってもう1年が経つ。
現役引退して、文字通り、仙人のような生活であったろう。
トスカニーニやデ・サバータ後、アバドに始まるイタリア指揮者界の興隆の狭間を埋めた名匠ジュリーニ。弧高のイメージが付きまとうが、それも70年代後半からだ。それ以前は、特定のポストを受けなかったせいもあり、地味な印象しかない。でも最近復刻している、フィルハーモニア時代の演奏を聴くと、明るくしなやかな演奏ぶりに驚く。ドビュッシーやチャイコフスキーなんて美しい歌に満ちていて素敵な演奏に思う。

そんなジュリーニが得たオーケストラのポストのひとつが「ウィーン交響楽団」である。数少ない録音から、「ブルックナーの第2交響曲」を今晩は取り出してみた。
74年の録音で、このあたりからDGとEMIでシカゴとの本格録音が再開され、真の巨匠として輝きだした。ブルックナーの2番は、6番と並んで日陰者のような存在だが、私は大好きなのだ。以前シュタインの6番を取り上げたが、ここでも2楽章のアルプスの自然を思わせるような美しさが際立っている。
 ジュリーニはウィーン響の明るい音色を充分に活かして、牧歌的な雰囲気を造りながらも、時おり聞こえる唸り声でもわかるように気合と祈りにみちた演奏を聴かせてくれる。
小休止を多用した曲だが、それが立ち止り、黙考し、また歩み出す、といった風情を感じさせてくれる。ジュリーニの指揮棒を握りしめ、目をつぶった姿が思い起こされる。

Giulini_vso_2   1975年、ジュリーニはウィーン響を率いて来日した。ワルベルクも同行し、ウィンナー・ワルツをやった。
高校生だった私は、大好きなアバドの先輩、ジュリーニはどんなだろうと思い、チケットを握り締め「文化会館」に向かった。
長身のジュリーニは遠めにも紳士然とした、ダンディーな雰囲気で、後ろ姿からも音楽がにじみ出てくるような指揮姿だった。

ブラームスの1番は今でも生々しく覚えている場面がある。終楽章のコーダに入る前の決然とした思い切った一音。
Giulini_vso2_3 ここに賭けていたかのような音を聴かせた。これにはドキリとさせられた。その後の録音ではこうした音は聴かれない。
そんな緊張にみなぎった、ブラームスの後に「美しき青きドナウ」がアンコールとして演奏された。ジュリーニの青きドナウなんて珍品だ。
こんな曲でもジュリーニの指揮ぶりは変わらなかった。
演奏終了後、ジュリーニは観客の拍手に応えて、手を揚げ指先でバイバイをしてくれた。その滋味深い笑顔をいまだに覚えている。

青きドナウやマーラー第9といった、ウィーン響とのFMライブがカセットにあるはずなので、探して聴いてみたい。ジュリーニは私にとって、カッコいい指揮者である。


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2006年5月14日 (日)

ブラームス 交響曲第1番 ハイティンク

私の居住する団地は、150世帯の旧公団マンションで、バブルの産物でもある。昨年来、管理組合と自治会の理事を兼ねていて、これが忙しい。誰もが一度は経験する制度だが、両方を兼ねると堪らない。これが今月で任期終了。住民総会に向けて最後の追い込みで開放される訳である。
1年を経て、今の日本になくなった「近所付き合い」や「おせっかいなオジサン・オバサン」がとても大事だということを痛感した。ことに、団地敷地内で、ひったくりが起きる物騒な世の中、防災や防犯の点からは大事なことなのだ。
怖そうな若者を見てもひるまずに、「うるさいオヤジ」にならなくては・・・・・。

Haitink_brahms1 ハイティンクのブラームス、最終はドレスデン国立歌劇場との「第1番」ライブである。2002年の録音で、この年シノーポリの後を受けて暫定ということでの主席指揮者就任であったが、残念ながら2005年には早くも退任してしまった。この間のエピソードは触れないまでも、真面目一徹男の面目躍如たるところだ。ファンとしては、理想的な幸せな結びつきがあっという間に終わってしまい残念至極だ。そんな名コンビになるかもしれなかった残念記念CDがこれ。

一聴してわかる、曲の良さ。なんてすばらしい音楽なのだろう。あたりを打ち払うような堂々たる気風に満ちていて、最初から最後まで堂々たる演奏だ。

低音の充実ぶりは相変わらずだが、今回はオーケストラの音色がやわらかで奥深い分重ったるく感じない。2楽章の管と弦の綾なす響きは心持ち速めのテンポにのせてとても音楽的だ。終楽章のコーダもじっくりと腰を据えように微動だにせず高らかに終わる。唯一の不満は、立派すぎることか。

2年前に来日したこのコンビ。両者として最後の来日になってしまったが、私はブルックナーの8番を手に入れ、数日前から眠れないくらい楽しみにしていた。

以下に、その時の感想を備忘録から転用。

「演奏はもうまったくのすばらしさで、表現の言葉を知りません。オーケストラのまろやかな響きに身を任せているとドイツの森に抱かれているかのような気持ちでした。
ことにホルンを始めとする金管はどんなに強奏しても、美しく鳴り響きます。静寂のサントリーホールに響き渡るドイツの深遠な音をご想像ください。涙が出ました。
ハイティンクはオーケストラのメンバーが去った後も、聴衆のさかんな拍手にひとり何度か登場し、最後はスコアを閉じ、閉じたスコアを高く掲げました。
人柄がにじみ出た、実にいい光景でした。 感動です。」(2004年5月)

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2006年5月12日 (金)

モーラン ヴァイオリン協奏曲、「ロンリー・ウォーターズ」

Imgp4546_1 連休中に地元のローカル放送で、懐かしい時代劇を発見した。今日はその放送日であったため、ビデオに撮り視聴した。「素浪人 天下太平」である。60年代後半から70年代前半に放送された「素浪人」シリーズのひとつで、「月影兵庫」「花山大吉」「天下太平」の三部作でなのである。
私のような世代には、たまらなく懐かしいのではなかろうか。
Imgp4548_1 主役は、「近衛十四朗」。かの「松方弘樹」と「目黒祐樹」兄弟の父である。
今にして見れば、目黒祐樹がそっくりになってきた。
このユーモアあふれる勧善懲悪シリーズの中での傑作は、「花山大吉」と思う。「おから」と「酒」が大好物で、「猫」が大嫌い。「おから」が目の前に出てくるともうダメ。どんな大事な場面でも夢中になってしまうバカバカしさ。
でも、いざという時には、長尺の刀を無尽に使いまわす達人となる。
連れの渡世人が品川隆二扮する「焼津の半次」も蜘蛛が大嫌いのおっちょこちょい。
いつも、「旦那」に「にいさん」は「この、バカタレが!」と怒られてばかり。この掛け合いと人情味あふれるやりとりが、本当にたのしかった。小学から中学にかけて全部見てた。
ちょっと検索すると、関連サイトがたくさんある。皆好きなんだ。

今回の「天下太平」も同じような構成で、相棒は仮面ライダーや柔道一直線の「佐々木剛」と「加茂さくら」。ところが、今日が最終回だったのだ。何と・・・。
このシリーズの女旅人版が「旅がらす くれないお仙」。ボンカレーの「松山容子」に「かみなりお銀」役が「大信田礼子」(時代劇に有り得ぬ太ももむき出しの短い着物は、子供心に刺激的!だった)のコンビを生みだした。

何だか、懐かし時代劇で止まらなくなってきたので、この辺で今日の曲。

Moeran


アイルランド系の作曲家アーネスト・ジョン・モーラン(1894~1950)の作品を聴く。56歳で亡くなったこともあり、作品はあまり多くないが、時代の波に逆らうかのようなロマンテックな作風を貫いた人だ。

このシャンドスのCDは、そんな作風のモーランの素敵な協奏曲を2曲収めたアンソロジーである。ヴァイオリン協奏曲は終始ヴァイオリンが美しく歌いまくり、オーケストラがやさしく背景を描いて行く。時に情熱に満ち、憧れにも満ち、哀愁あふれた作品である。アイルランド風の民謡もここには聴かれる。
モルドゴヴィチのヴァイオリンとハンドレーの演奏は、理想的なものであろう。オーケストラがこうした作品に相応しいアルスター管弦楽団であることも嬉しい。

チェロ協奏曲は、もう少しモダンな雰囲気だが、ここでもアダージョ楽章は極めて美しい。
そして、小品「Lonely Waters」(ひと気のない水辺にて、とか約すのか?)は、ノーフォーク地方の野山を描いた一幅の絵のような作品。
これは、V・ウィリアムズの世界にも通じる世界だ。

かくして、いにしえの時代劇を見て、モーランの哀愁にみちた音楽を聴いて、ノスタルジーに浸る、の一晩であった。

 

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2006年5月10日 (水)

モーツァルト セレナード「グラン・パルティ-タ」ベーム指揮と「オムライス」?

Omurice
今日は、新幹線で日帰り出張。雨ばかりで閉口。帰路は、ひとりだったので、デパ地下の催事コーナーで「オムライス弁当」を見つけて購入。京都の「おむらはうす」という専門店で、この画像はそのHPからのもの。
ちゃんとパックに入って、私の好きな「竹の子(木の芽付き)」が大量に添えられていて、それだけでもツマミになる。
これを満席の新幹線でおもむろに取り出し、スッキリ系の発泡酒と共に食した。
新幹線でオムライスなんて食べてるヤツはあんまりいないだろうな、と思いつつまわりの視線が気になりながらも一口。むむっ。これが実に美味いのである。やや薄味でバターも控えめ。このホンワカしたオムライスを食べながら、何故か思いついた今日の選曲が、「グラン・パルティータ」なのである。

Mozart_gran_partita_bohm
ベーム指揮のベルリン・フィルの管楽アンサンブルで70年の録音。
オリジナル・レコードは持っていなかったが、これが出た時はFMで何度も放送されていて、レコ芸の日本グラモフォンの広告を堪えず眺めていたものだ。
最近オリジナル・ジャケットで復活したらしいが、私のCDはつまらないジャケットのため、借り物画像でお茶を濁すとする。

オーボエ・クラリネット・バセットホルン・ホルン・ファゴットというモーツァルトが好んだ管楽器によるアンサンブルは、本当に楽しい。全体に中音域から下の音色なので、きらびやかにならず、まろやかでほのぼのムードである。そして、ひとつだけ加わったコントラバスが最低音域を下から支えてアクセントが効いている。7楽章すべてに渡って明るく楽しいが、終楽章の躍動感に満ちたフレーズは一度聴いたら忘れられないものだろう。

ベームの指揮は、カッチリとした枠組みを保ったもので、その中でベルリン・フィルの名手達が絶妙のアンサンブルを聴かせる。お遊びの部分はないが、その分音楽の魅力だけをしっかりと味わえる演奏だ。ウィーンではかなり違ったものになったろう。

聴いたあとに、車中のホンワカ・オムライスの味がジンワリと思い出された。

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2006年5月 9日 (火)

ブラームス 交響曲第2番 ハイティンク

Haitink_brahms2 ハイティンク3度目のブラームス全集は、2003年前後にロンドン交響楽団とのライブで録音された。このオケのLSO自主制作ライブである。
ハイティンクとロンドンのオーケストラといえば、当然ロンドン・フィルということになるが、最近は疎遠なのだろうか。
 ロンドン・フィルもハイティンクの時代の渋くくすんだ音から、テンシュテット、メスト、マズアと音が明るくニュートラルになったのではないかと感じる。
時期主席は、ロシア出身の「ユロフスキー」ということだから、どうなることやら。
そのどうなることやらは、本稿のロンドン響にも言える。コリン・デイヴィスという同郷人が守ったグローリアスな響きは、ゲルギエフを迎えることでどうなってしまうのだろうか?

ところで、このライブはこれまでの慎重なスタジオ録音にくらべ、勢いがある。一筆書きのような、達人の演奏ぶり、とでも言おうか。隅から隅までを知り尽くした指揮者が、比較的付き合いの浅いオーケストラを見事にドライブして、ブラームスらしい重厚かつ柔和な世界を築きあげている。テンポは心持速めで、表情は若々しささえ漂う。繰返しを省いているため、タイムの比較はできないが、実際テンポは速まっていると思う。ライブゆえのノリのなさる技であろうか。このあたりは、後続するベートーヴェンでも確かめてみたい。

このCDの欠点は、録音が生々しすぎるところで、音がイマイチといわれるLSOの本拠地バービカン・ホールのデッドな響きが作用している。もう少し潤いが欲しいところ。
このブラームスに次いで、ベートーヴェン全集も始まった。
こちらは、全く手付かずであるが、ジャケツトがヘンテコなので触手がもうひとつ伸びない。
どうせ、シカゴ響に行くんだったら、もう少し我慢して、シカゴでベートーヴェンをやってほしかったぞ。何だか、このブラームスもそうだが、ロンドン響が得をしたような、そんな感じのCDである。

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2006年5月 8日 (月)

ワーグナー「ニーベルングの指環」 ベン・ヘプナー&シュナイダー

Heppner_ring2 週の始めでも今日はとりわけ体が重い一日。食べ過ぎ・飲み過ぎがこたえる。今日は連休中に聴いたCDを、あらためて聴き直した。
 その1枚がDGの新譜。カナダ出身のヘルデン・テノールのベン・ヘプナーの歌う「ニーベルングの指環」の場面集。ジークムントとジークフリートのおいしいところを集めていて、当然「ラインの黄金」はない。
本当は、ローゲも歌ってくれれば、完璧だったのに・・・。
こうした企画はこれまで、ありそうでなかっただけに実に嬉しい。
画像は裏ジャケット。表はヘプナーの厳つい顔だが、こちらはご覧の通り深い森に佇むヘプナーの写真。これをA面にすりゃよかったのに。

まず第一に、このCDの聴き所の大半を言おう。それは、「ペーター・シュナイダー」指揮する「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」である。リングの主役はオーケストラにあり、このCDでも単なる抜粋以上に、その場の情景を大事にした場面が選ばれている。
「ジークフリート」では「鍛冶の歌」がミーメ(ウルリヒのミーメよし)の相方付きで、しっかり幕切れまで収められているし、ブリュンヒルデを目覚めさせる場面もかなり長く収録されている。さらに圧巻は「ジークフリートの死」の場面での「葬送行進曲」がそっくり演奏されている。これらが、シュナイダーという、今やかつてのH・シュタインもかくやと思わせる、名ワーグナー指揮者とドレスデンの滴り落ちるようなまろやかな美音で聴けるのである。
 シュナイダーの熟練の指揮ぶりは、速めのテンポながら過不足ないオペラティックな表現に満ちていて、まさに「リング」上演のひとコマ、といった趣なのだ。コンサート指揮者や無能な伴奏指揮者には及びもつかない「てだれ」の技。
それに輪をかけたように、生き生きとした音色で応えている、ドレスデン。
最近では、最上級のワーグナーではないかと思う。

オーケストラばっかり誉めちゃったが、B・ヘプナーもいい。現役では、もっとも安定感のあるワーグナー・テノールではないかと思う。体はデカイが、歌はマッチョなところが一切なく、ピンと張りつめたやや硬質な声がいい。強いて言うと、良い意味でのアクがあると良いのかもしれない。きれいに立派に歌うばかりでなく、人を引き込む個性がもう一皮欲しいところか。ジークフリートよりはジークムントの方が、歌いこなれて感じる。

最近ワーグナー全曲はライブが、思い出したように出るだけだが、場面集がいろいろと出てきて、ファンとしては新たなワーグナー歌いを見つける喜びがあり楽しい。
そうした中では、この「ヘプナー・リング」は出色の1枚ではないかと。

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2006年5月 7日 (日)

ナタリー・デッセイ 「フランスオペラ・アリア集」

Natalie_dessay 連休最終日は、冴えない雨模様。明日から再開する日常を思うと少し憂鬱になる。こんな思いは、盆・正月・ゴールデンウィークの年3回だ。
もうこれ以上はいらないけど、自分だけの心の休日がもっとたくさん取れたら幸せだろうな。

そんな、思いを抱きつつ、以前購入済みで未聴の「ナタリー・デッセイ」を聴いた。テレビのオペラ放送でチョイ聴きをした程度で、本格的に聴くのは初めての人。
「超絶的な技巧を持つコロラトゥーラ」といった程度の印象しかもっていなかったが、こうしてじっくりと聴いてみると、素直でくせのない発声による声にすぐに引き込まれた。
昼から、夜まで聴くのは3度目。仏語はさっぱりわからないが、その語感の流麗な美しさも大いに気にいった。高音を転がす聞かせどころは、まったく危なげないが、機械的な冷たさとは無縁で、常にあたたかな温もりを感じさせる。
おそらく、彼女の飾らない人柄が声ににじみ出ているにであろう。人間的な声の芸術。
 先輩グルヴェローヴァを思わせる万全の歌唱と音楽性。聴いていて、上質のシャンパンがグラスに注がれ、美しい細かな気泡が立ちのぼるような様子を思い浮かべてしまった。

マスネ、トーマ、ボアエルデュ、オッフェンバッハ、グノー、ロッシーニ、ドニゼッティらの作品が収められている。さらに魅力の一端は、名匠プラッソンとトゥールーズ管の名伴奏だ。
これこそフランスの粋とも言える演奏で、とてもオペラティックでかつ、洒落ている。
明日は、全力投球でもなくサラリとスタート出来そうな気分になった。

 テレビでは、音を絞って画面だけ流れているのが、ザルツブルクの「トラヴィアータ」だ。
チラチラ見ているが、昨今のまったくアレな演出! 変なお面に、変なモニュメント、普通のスーツを来た人々に、薄着のヴィオレッタ。アルフレードは下はトランクス1枚?
 なんじゃこれ? ネトレプコちゃんは、ともかく美しい。その彼女の胸に顔をうずめてしまう、テノールの人気者ヴィラゾンが憎ったらしい。
どうも古い人間には、こういう演出はイカンのである。
ヴィラゾンは声はともかく、顔が「Mr.ビーン」のようでいけないが、ネトレプコちゃんはいい。近いうちに取り上げるとするか。

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2006年5月 6日 (土)

ブラームス 交響曲第4番 ハイティンク

Haitink_brahms_4 連休もようやく先が見えてきて、高速道路は渋滞の模様。社会の仕組みがそうだからしょうがないが、皆一斉に休んで行動するからこうなるのか。
もう少し、ゆったりとした休みを楽しめないものだろうか。

ハイティンクのブラームスを異なるオーケストラで楽しもうと、本日は2度目の全集から、第4番を聴く。オケは主席客演だった、ボストン交響楽団で、92年の録音。
70年代の最初の全集から、かなりの時を経て、ハイティンクは押されもしない巨匠となっている。弦楽器主体に低音から、見事な音響のピラミッド構造を築き上げるさまは、相変わらずだが、演奏タイムを見るとさほどでもないのに、全般にゆとりのある表情をもってたっぷりと歌っているために実に落ち着いた演奏に感じる。

この演奏には、ブラームスの4番にイメージする、渋さや憧れに満ちた古雅なロマンティシズム、といったものが理想的に描かれていると思う。
ボストン響が持つヨーロッパ的な音色を難なく引き出すことができるのも、ハイティンクゆえだろうか。初期の小沢は良かったが、任期後半は「侘び寂び」が効き過ぎてコクがなさすぎた。ボストン響の良さを久々に味わうことが出来るのも、この全集の良いところ。
2楽章や終楽章のパッサカリアに聴かれる、ボストンの管の名手達にはホレボレとしてしまうし、音を割るようなホルンの響きも最高。願わくば、ベートーヴェンもやって欲しかった。
 もうひとつ、ついでに、録音も最高に素晴らしい。(誉めすぎだろうか)

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2006年5月 5日 (金)

ブラームス 交響曲第3番 ハイティンク

Haitink_brahms3 全集好きのハイティンクは、ブラームスを3回録音している。コンセルトヘボウ、ボストン、ロンドン響とであるが、熟成の度合いが年を経るにしたがって進行してはいるものの、不思議とロンドン響との最新ライブでは、一気呵成の若々しさも感じられ、それぞれのオーケストラの個性も相まって、3種ともに優れた全集となっている。

本日は、一番最初に録音されたコンセルトヘボウとの第3番を聴く。70年5月の録音。ハイティンクは41歳の若さだが、ご覧の通り風貌はあまり変わらず。
ここに聴かれるコンセルトヘボウの音は、ホールの心地よい響きと共に、本当にすばらしい。ヴァイオリン出身のハイティンクらしく、弦楽器の音色に非常に気を配っている様子がよくわかる。ことに弦が活躍する1楽章では思い切り歌わせていて聴いてて気持ちが良い。反面3楽章の旋律などは、もう少し表情があってもいいのではと思わせる。

ハイティンクはここでも生真面目で一生懸命だ。どこまでが、指揮者の個性なのか、オーケストラの持ち味なのかわからない。その後のコンセルトヘボウ=ハイティンクの長い結びつきにより、両者が熟成していったのだろう。そして、ハイティンクは他のオーケストラを指揮しても弦を主体とした重心の低い安定感ある響きを聴かせる。そうした音たちが、この若き頃の演奏からも聴き取れる。

Heitink_1 ブラームスの古典的な形式の中にも、ロマンティックな音楽が、誇張されず、素直に演奏されている。いい音楽である。

画像は、ハイティンク69年頃の、レコードカタログ。ブルックナーとマーラーばっかりなところが凄い。当時、そんなの聴く人いたのだろうか?
 ジャンドロンのチェロによるドヴォルザークやハイドンの交響曲なんて聴いてみたいものだ。
 

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2006年5月 4日 (木)

ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」 アバド

Imgp4386_1

世間の連休に則り、こちらも音楽三昧ということで、普段にも増して大曲を。最愛の曲「トリスタン」を最愛の指揮者「アバド」で聴く。
 この曲で、この演奏家。となると、なかなか文章が出てこない。
それくらい、「トリスタンとアバド」は私の音楽人生において、重要なアイテムとなっている。おいそれと言語に置換えられない。
日本において、「アバドのトリスタン」の舞台が、2000年に彼のガン克服後という病み上がり上演というカタチで上演されたことは、我が国の大きなクラシック・トピックのひとつであろう。癌を患い、手術をしたアバドが果たして日本にやってくるのだろうか? こうした不安の中に、東京文化会館のピットに登場したアバドは、予想以上にやつれ、不安を抱かせる風貌だった。
 はたして、この晩の演奏は、自分の音楽受容史のなかでおそらくNO1.(料金も!)と思わせるものであった。大病を経て人生の深淵を覗いてしまったアバドのこの音楽にかける執念のようなものがオーケストラ・ピットから発散されていて、その指揮ぶりにも目をうばわれたものだ。
 しかし出てくる音は、決して熱くならず、透明感に溢れた繊細なもので、分厚く濃厚なワーグナーとは一線を画す、明快なものであった。聴いていて、ライトモティーフの微妙なからみ合いが透けて見えるようで、作品の出来栄えにも感心させられてしまう。ドビュッシーやウェーベルンの響きをそこに感じることも出来た。

Imgp4387_1 そんな忘れられない思い出が音源として残っていないのが極めて残念。噂によるとベルリンでの全曲録音があるらしいが、オクラ入りしていると。
 やむを得ず、ツギハギでトリスタンの渇望を凌ぐ。


「前奏曲」 ワーグナー作品集から、ベルリン・フィル
「第2幕」 ルツェルンのライブをDVDで。藤村実穂子のブランゲーネとパーペのマルケ王が素晴らしい。        
「第3幕」 ベルリンでのライブ、海賊盤。B・ヘプナーとポラスキの理想的な歌唱、サルミネン、ドーメン、リポヴシェク等の豪華布陣。そして、BPOはすごい。

こうしてワーグナーにのめり込んでしまう自分を思うと不安になる。
残された自分の人生の限りある時間を浪費しているのではなかろうか?
大量にあるワーグナー音源をこの先聴いていけるのか?
ワーグナー以外もたくさん聴きたいし。ああ、もっと時間が欲しい・・・・。
バカだな。

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2006年5月 2日 (火)

R=コルサコフ 「シェエラザード」 ハイティンク 

Haitink_scherazade ハイティンクのシカゴ響主席のニュースに興奮してしまった。昔から朴訥なまじめ人間のハイティンクが好きで、風貌も変わらないままに、ステップ・アップして指揮界の頂点を極めて行く様を見守ってきた。
演奏家から見たら、自我を通さずオーケストラの持ち味と同体化して、一緒に音楽を築き上げるタイプのハイティンクは、受けが良いはずである。
しかも、独・襖系にめっぽう強い。英仏音楽、オペラもOK、ということで、気が付いたらマルチ指揮者だったのだ。

そのハイティンクが72年に、ロンドン・フィルと録音した「シェエラザード」。レコードが出た当時はまったく無視された演奏。70年代、ハイティンクはコンセルトヘボウとは交響曲のレパートリーを、ロンドン・フィルとはオーケストラ曲をそれぞれの手兵で使い分けて録音していた。ロンドンのオケでも一番くすんだ音色で渋かったロンドン・フィルとの相性は抜群で、この「シェエラザード」もいぶし銀のような音色に満ちている。
 ゆったりとビロードのような落ち着いたサウンドは、3楽章の「若い王子と王女」の弦楽セクションにおいて顕著となる。後にニュー・ヨークPOのコンサートマスターにもなった「ロドニー・フレンド」のヴァイオリンがオーケストラと同質のしっとりサウンドで華を添えている。
ここに聴かれる音楽は、この曲の華麗さや迫力とは、やや距離をおいたもので、人によっては面白くもなんともない、ということになる。
私は、音色に気を配りながらも、こんな真面目演奏で揺るぎないところが好きなのである。
こつこつと大成してゆく、じっくり型がついに世界でひっぱりだこの巨星になった。

 ハイティンクの略史
     1929       アムステルダム生まれ
     1961~1987 コンセルトヘボウ主席(音楽監督)
     1967~1979 ロンドン・フィル主席(芸術監督)
     1977~     グライドボーン音楽祭音楽監督
     1987~2002 コヴェントガーデン歌劇場 音楽監督
     2002~2005 ドレスデン・シュターツカペレ主席指揮者
     2007年~    シカゴ交響楽団 主席指揮者

               ボストン交響楽団 主席客演指揮者
    常連指揮者    ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロンドン響 
               フランス国立管、バイエルン放送響、パリ管
Heitink2 

69年(?)のハイティンク来日時の記念パンフレット。
見かけは一緒なところが・・・・・。    
       
       

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ハイティンク シカゴに!

突然の不規則投稿。何故って、ハイティンクがバレンボイムの後任として、シカゴ響の主席指揮者に就任するそうだ。2007年からで、音楽監督は不在。おそらく、ドレスデンの時のような「中継ぎ」かもしれないが、ハイティンク・ファンとしては朗報だ。
働き過ぎが心配だが、ボストンに次いでシカゴとのコンビが楽しめるのは嬉しい。
これを機に、ハイテンク・シリーズでもやらかそうか。

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2006年5月 1日 (月)

シューマン ピアノ協奏曲 ポリーニ&カラヤン

Pollini グリーグの協奏曲を聴いたから、片手落ちということもあり、初夏を思わせた本日は、シューマンの協奏曲を。
今晩は、ポリーニがカラヤンとウィーン・フィルと共演した74年のライブから。これは、私のカセット・エアチェック・ライブラリーからCDRに焼いたもの。私としては、この曲の演奏の最右翼に位置する演奏と思う。

二人のライブな感覚のぶつかり合い、猛烈に弾き込むポリーニにカラヤンが徐々に引き込まれてしまっている。冒頭、ウィーンのオーボエを甘くたっぷりと鳴らして、ロマンティツクに構えているカラヤンだが、ポリーニは明快で鋼鉄のようなタッチでバリバリと弾き進む。
ウィーン・フィルのクラリネットとオーボエは、本当に魅力的だ。こうした魅力にも増して、ポリーニの音色の明るさ、それは硬質でクリアーな明るさなのだ。2楽章のピアノとオーケストラの語り合いも、もやもやせず立ち止ることもない。カラヤンはかなり粘ろうとしているが、ポリーニは、どこ吹く風で、あっさりしたものである。
 一転、終楽章はポリーニが前へ前へと進むものだから、カラヤンもついに熱くなって来て、オケもミスってもどうのこので、思い切り飛ばしている。最後の数分間の感興といったらない。音楽を楽しむ醍醐味はこういうところにあるものだ。

こんな一期一絵的な演奏が、ライブで行われ、放送にしょっちゅう乗っていた。最近のNHKの手抜きぶりには、あきれる。海外のネット・ラジオの充実ぶりとはまったく逆だ。

写真は、75年のポリーニ初来日の時の、夫人(たぶん)とのスナップ。若いねぇ。

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