ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ショルティ
このところ忙しく、夜も連続で飲み会。このくそ暑さもあって、ヘトヘト。
音楽が聴きたくてしょうがなかった。その渇きを今夜久方ぶりに癒せる。
しかし、曲の選択に迷った。
そしてとり出したのが、「さまよえるオランダ人」全曲。ええい、聴いちまえ、と気合もろとも、よりによってショルティ盤である。
バイロイトのシーズンも近いし、この際、ワーグナー・シリーズでも半年ぶりにやろう!かな・・・、とちょっと弱気に思った次第。
「オランダ人」以前の初期3作、「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」は正直言って厳しい作品だ。それぞれサヴァリッシュのライブをCDR化しているが、オランダ人以降の名作に比べると習作の域を出ない。プライやコロ、サヴァリッシュといった名手あっての初期作品に止まろうか。
それらの作品から、「オランダ人」へのステップ・アップは、「ローエングリン」から「ラインの黄金」への変貌ぶりよりはおとなしいが、それでもライトモティーフ技法の徹底と、何よりも「自己犠牲による救済」や伝説に物語を求めた「悲劇性」「演劇性」といった、ワーグナーの生涯追い求めた基本理念がここから本格的に具現している。
難しいことはさておき、近年は、三幕を連続上演し、序曲や最終部を「救済なしヴァージョン」にする原典の一部採用による上演で、まさに救いようのない暗い結末を用意する演出が主流となっている。
こうなると、ゼンタの妄想や気のふれた一人よがり、またはオランダ人の夢物語やアウトロー人物か・・・・、といった演出コンセプトしか見えなくなってしまう。
昨年の二期会「オランダ人」はそうしたところばかりが、未消化なままに、おまけに歌手の不調も乗じて観せられたために後味が悪かった。やはり気持ちよく劇場を後にするには、二人救済されて、昇天して欲しいものだ。
音楽で聴く場合は、どのバージョンでも気にならない。
ショルティがこの全曲を録音した76年前後は、通し上演は定着していたが、救済モティーフのある上演が普通だった。ウィーンフィルとワーグナー全曲録音を目指していたショルティが、この作品だけ手兵のシカゴ響を起用した。理由は以外と簡単と思われる。
当時蜜月だったシカゴで、ショルティはヘヴィーなプログラムをガンガンこなしていた。
「千人の交響曲」や「ブル8」「第九」、オペラの演奏会形式で「ラインの黄金」やこの「オランダ人」、「オテロ」など。超人的タフな指揮者とオーケストラの組合せが産んだ超人プログラム。聴いてたシカゴの聴衆も、連日「ステーキにバーボンと大量ポテト」の晩餐会だったろう。
演奏は、ある意味そんなイメージもある。オーケストラとついでにシカゴ響合唱団の強靭な威力はすごいものがある。一点一角をないがしろにしない克明さ、完璧さ。
「ははあ、おみそれしやした」という具合。
そんな軍団を、地獄の閻魔大王のようなショルティが、これでもかといわんばかりに、攻めたてる。
だが、これはある意味快感にも似た爽快感がある。そこまでやるならしょうがない。
ウィーンとやったら、閻魔さまの厳しい監視の目をかいくぐって、ちょっと遊びや色気があるんだが、ここにはそんなものは一切ない。ないかわりに、音響の快感を味わえる。
そしてショルティのすごいところは、歌手の呼吸を読んだ「オペラティック」な雰囲気の表出にある。これなら、歌手陣は歌いやすいだろう、と思わせる。
こうしたショルティ・シカゴ・オペラに、まったく適合して、広い音域を駆使し、時に夢見るように、時にヒステリックに歌っているのが、ゼンタ役の「ジャニス・マーティン」
オランダ人のイギリス歌手「ノーマン・ベイリー」は同時期にザックスも録音したが、なかなかに立派な声の持主だ。暗めな声質のなかに、ノーブルな気品が感じられ、今で言う「ブリン・ターフェル」の先輩のようなイメージだ。
この二人以外は、自分達の持ち味を生かして、ガチガチの世界にこだわらずに気持ちよさそうに歌っている。ダーラントの美声の「タルヴェラ」、エリックの立派すぎる「ルネ・コロ」だ。でも「クレン」の舵手はイマイチ。
録音はデッカのアナログ全盛期だけあってすさまじく良い。
よくも悪くも、アメリカという国と時代を感じさせる「ショルティのオランダ人」である。
自慢じゃないけど、私のライブラリーにある「オランダ人」
ショルティ、ベーム、ライナー、バレンボイム。この4点しかないのが意外。
クレンペラー、コンヴィチュニー、レヴァイン、シノーポリ、カイルベルト、サヴァリッシュなどをいずれは、と思っているが・・・・。それ以外のFM音源・ビデオ音源は20に及ぶ。
オランダ人はコンパクトだから、と思っていても後期のスゴイ作品ほどに情熱が傾かないのが実情。
| 固定リンク
| コメント (10)
| トラックバック (2)
最近のコメント