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2006年6月

2006年6月30日 (金)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ショルティ

Solti_hollander このところ忙しく、夜も連続で飲み会。このくそ暑さもあって、ヘトヘト。
音楽が聴きたくてしょうがなかった。その渇きを今夜久方ぶりに癒せる。
しかし、曲の選択に迷った。
そしてとり出したのが、「さまよえるオランダ人」全曲。ええい、聴いちまえ、と気合もろとも、よりによってショルティ盤である。
バイロイトのシーズンも近いし、この際、ワーグナー・シリーズでも半年ぶりにやろう!かな・・・、とちょっと弱気に思った次第。

「オランダ人」以前の初期3作、「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」は正直言って厳しい作品だ。それぞれサヴァリッシュのライブをCDR化しているが、オランダ人以降の名作に比べると習作の域を出ない。プライやコロ、サヴァリッシュといった名手あっての初期作品に止まろうか。
それらの作品から、「オランダ人」へのステップ・アップは、「ローエングリン」から「ラインの黄金」への変貌ぶりよりはおとなしいが、それでもライトモティーフ技法の徹底と、何よりも「自己犠牲による救済」や伝説に物語を求めた「悲劇性」「演劇性」といった、ワーグナーの生涯追い求めた基本理念がここから本格的に具現している。

難しいことはさておき、近年は、三幕を連続上演し、序曲や最終部を「救済なしヴァージョン」にする原典の一部採用による上演で、まさに救いようのない暗い結末を用意する演出が主流となっている。
こうなると、ゼンタの妄想や気のふれた一人よがり、またはオランダ人の夢物語やアウトロー人物か・・・・、といった演出コンセプトしか見えなくなってしまう。
昨年の二期会「オランダ人」はそうしたところばかりが、未消化なままに、おまけに歌手の不調も乗じて観せられたために後味が悪かった。やはり気持ちよく劇場を後にするには、二人救済されて、昇天して欲しいものだ。

音楽で聴く場合は、どのバージョンでも気にならない。
ショルティがこの全曲を録音した76年前後は、通し上演は定着していたが、救済モティーフのある上演が普通だった。ウィーンフィルとワーグナー全曲録音を目指していたショルティが、この作品だけ手兵のシカゴ響を起用した。理由は以外と簡単と思われる。
当時蜜月だったシカゴで、ショルティはヘヴィーなプログラムをガンガンこなしていた。
「千人の交響曲」や「ブル8」「第九」、オペラの演奏会形式で「ラインの黄金」やこの「オランダ人」、「オテロ」など。超人的タフな指揮者とオーケストラの組合せが産んだ超人プログラム。聴いてたシカゴの聴衆も、連日「ステーキにバーボンと大量ポテト」の晩餐会だったろう。

演奏は、ある意味そんなイメージもある。オーケストラとついでにシカゴ響合唱団の強靭な威力はすごいものがある。一点一角をないがしろにしない克明さ、完璧さ。
「ははあ、おみそれしやした」という具合。
そんな軍団を、地獄の閻魔大王のようなショルティが、これでもかといわんばかりに、攻めたてる。
だが、これはある意味快感にも似た爽快感がある。そこまでやるならしょうがない。
ウィーンとやったら、閻魔さまの厳しい監視の目をかいくぐって、ちょっと遊びや色気があるんだが、ここにはそんなものは一切ない。ないかわりに、音響の快感を味わえる。
そしてショルティのすごいところは、歌手の呼吸を読んだ「オペラティック」な雰囲気の表出にある。これなら、歌手陣は歌いやすいだろう、と思わせる。

こうしたショルティ・シカゴ・オペラに、まったく適合して、広い音域を駆使し、時に夢見るように、時にヒステリックに歌っているのが、ゼンタ役の「ジャニス・マーティン」
オランダ人のイギリス歌手「ノーマン・ベイリー」は同時期にザックスも録音したが、なかなかに立派な声の持主だ。暗めな声質のなかに、ノーブルな気品が感じられ、今で言う「ブリン・ターフェル」の先輩のようなイメージだ。

この二人以外は、自分達の持ち味を生かして、ガチガチの世界にこだわらずに気持ちよさそうに歌っている。ダーラントの美声の「タルヴェラ」、エリックの立派すぎる「ルネ・コロ」だ。でも「クレン」の舵手はイマイチ。
録音はデッカのアナログ全盛期だけあってすさまじく良い。
よくも悪くも、アメリカという国と時代を感じさせる「ショルティのオランダ人」である。

自慢じゃないけど、私のライブラリーにある「オランダ人」
ショルティ、ベーム、ライナー、バレンボイム。この4点しかないのが意外。
クレンペラー、コンヴィチュニー、レヴァイン、シノーポリ、カイルベルト、サヴァリッシュなどをいずれは、と思っているが・・・・。それ以外のFM音源・ビデオ音源は20に及ぶ。
オランダ人はコンパクトだから、と思っていても後期のスゴイ作品ほどに情熱が傾かないのが実情。

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2006年6月26日 (月)

チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、スクリャービン「法悦の詩」 アバド

Abbado_skriabin













1933年6月26日。今日は、私の一番好きな指揮者、「クラウディオ・アバド」の誕生日である。毎年、アバドももうそんな年か・・・、と思っているうちに、34年も過ぎてしまい、自分もそっくりアバドを聴きつづけるうちに年を経てしまった。
 しかし、アバドに勇気づけられるのは、音楽のみを希求してやまない熱意と、その情熱から大病をも克服してしまった精神力である。

私がアバドの音楽に確信をもったのは、今回のレコードである。
1971年の録音で、ボストン交響楽団を指揮した2枚目のもの。

Abbado_bso_a


















 


ヌードのジャケットは、刺激的だった。それ以上に、チャイコフスキーもスクリャービンも初めて聴く作品だけに、そのロマンテックな響きに参ってしまった。何度も何度も聴いた。
聴くうちに、アバドが、旋律を明るく、明確に、隅々まで光を当てるように、情熱的に歌いまくっていることがわかってきた。
これは大変な曲であり、演奏なのだと、思うようになった。

そして、オーケストラの素晴らしさ、巧さ。当時はベルリンやウィーンばかりで、アメリカのオーケストラなんてろくに聴いたこともなかった。
RCA専属から離れて、初めてヨーロッパのメジャーに録音したボストン響である。
オーケストラにも、ものすごい気迫が感じられる。アバドが情熱の塊と化して、グイグイ引っ張るものだから、ボストンも上品にしていられない。
金管はうねるように咆哮し、弦はエッジを効かせて決めまくる。打楽器、とりわけティンパニは冴え渡っている。

録音がまた素晴らしい。RCA時代は生々しい録音ばかりで潤いが欲しかったが、DG録音は第1作のフランスものも同様に、ホール・トーンを生かしながらも、各楽器が手にとるような臨場感を持ってとらえられている。
今聴いても、かなりのものだ。

ボストン響はこの後、小沢の手に委ねられることになるが、アバドとの相性は非常に良かった。シカゴでも素晴らしいマーラーを聴かせてくれたが、ボストンとマーラーを演奏していたらどうなっていたろうか。同時期、フィラデルフィアやクリーヴランド、ニューヨークにも客演していた。ミラノに腰を据えなければ、アメリカのメジャー・オケの指揮者にもなっていたかもしれない。実際、ウィーン国立歌劇場のポストを受ける前に、ニューヨークから、メータの後任を打診されていて、本人もその気になっていたらしい。
歴史はきまぐれ。結果としては、ミラノ・ロンドン・シカゴ・ウィーン・ベルリンというお馴染みのポストが正解であったし、残された録音も至玉の作品ばかりののだから。

Abbado_a_2













それにしても、今聴き返してみて、アバドの指揮の歌謡性に驚く。チャイコフスキーはもちろんとして、スクリャービンの作品でこんなに歌が溢れているとは。
それがダラダラと流れないのは、全体を見通す鋭い視線による見事な構成感に裏付けられているからである。全体の色調は明るく、若々しい。最後のクライマックスでは、オルガンも鳴り、壮絶な頂点を迎える。長く伸ばされる最終和音もクリアーで美しさを失わない。
聴いていて、ショパンの詩情に満ちたスクリャービンが、詩情を残しながらも神秘主義的な陶酔に満ちた音楽に変貌していった様子がわかる。
ここに、ワーグナーやドビュッシーの響きを聴き取ることも難しくない。

進化するアバドは、この5月に、ベルリン・フィル定期に登場し、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」とシューマンの劇音楽「マンフレッド」全曲を演奏した。
新レパートリーである。どこまでもチャレンジするアバド。今年の来日が楽しみだ。
ありがとう、クラウディオ!

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2006年6月25日 (日)

レスピーギ 「ローマの祭」 ヤンソンス

Jansons_respighi 大阪ディープナイトの深遠を覗いてしまったため、音楽リハビリが必要だった。が、今日は吹奏楽部に所属する娘の定期演奏会があり、ビデオとカメラを持っていそいそと出かけていった。
若い学生諸君の吹奏楽は、静かな部分では破綻を来たしてしまうが、元気な曲は勢いで楽しく見事に聴かせてしまう。真摯で、懸命な演奏ぶりは我が子ながら胸を打つ。親ばかである。

そんなわけで、元気をもらった私はさらに威勢をつけようと、レスピーギの「ローマ三部作」を取り出した。音楽のバリエーションと壮大な盛上りから、どうしても「ローマの松」に人気はかたよりがちだ。
 私はこの数年、ナイチンゲールの鳴く夜のローマにも引かれつつ、勇壮なローマ軍の行進よりは、朝靄の噴水やハチャムチャなカーニヴァルの方が気にいっている。

という訳で、「ローマの祭」をヤンソンスのオスロ・フィル時代の演奏で聴く。
①いきなり金管の大咆哮で始まる「チルリェンセス」はローマ時代の暴君の元にあった異次元ワールドの表出
②キリスト教社会が確立し、巡礼で人々はローマを目指し、ローマの街並を見出した巡礼者たちが喜びに沸く「五十年祭」
③ルネサンス期、人々は自由を謳歌し、リュートをかき鳴らし、歌に芸術に酔いしれる「十月祭」
④手回しオルガン、酒に酔った人々、けたたましい騒音とともに人々は熱狂する。キリストの降誕を祝う「主顕祭」はさながらレスピーギが現実として耳にした1928年頃の祭の様子

こんな按配で、実によく出来た作品なのである。
オーケストラの名技性も要求される作品ながら、オスロ・フィルはヤンソンスが鍛え上げなかなかのヴィルトーソぶりで安心して聴ける。ヤンソンスは表題ばかりにとらわれず、音楽的な必然性をもって洗練された演奏を聴かせてくれる。

最後のこれでもかという盛上りは実に楽しい。実演で一度聴いてみたいもの。

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アバドのベートーヴェン

アバドのベートーヴェンをマイフォトにUPしました。クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」をあしらったウィーン盤は、ゴールドの縁取りが世紀末的で発売当時が懐かしい。

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2006年6月20日 (火)

ホルスト 「惑星」 ハンドレー

Handley_holst 「天空の劫罰」という小説を読んでいる。本日現在、途中なので結末も不明ながら、ある国家が小惑星の軌道を変え米国衝突を狙った。それを察知した西側専門家があと数日の猶予の中で、惑星の特定や衝突の回避に必死になる・・・。こんな壮大な宇宙パニック小説。

だから、ホルストの「惑星」を聴いてしまう。
クラシックを聴き始めると、必ずこの曲は通る道であろう。
カラヤンとウィーン・フィルの録音しかないころはさほどではなかった。
この曲の本格メジャー入りは、73年発売の「メータ/ロス・フィル」からであろうか。
私もそのクチで、安ステレオが素晴らしい録音で見事に鳴ったものだ。
以来、プレヴィンやボールト再録音、ショルティを例外として、アメリカ産で、かつオーケストラ・ピースとして華やかな演奏・録音が主流となった。

歳を経た今、この曲を聴こうと思ったら、賑々しいものは敬遠したくなる。やはりイギリスのオーケストラで聴きたい。以前取り上げた「プレヴィン」や「ボールト」がしっくりくる。
そして今晩の「ハンドレー」盤もまたそうした1枚のひとつ。
4~5年前、1000円で見つけて狂気して購入した。今はホームセンターあたりのワゴンで300円で売っている「ロイヤル・フィル、コレクション」である。とんでもない世の中だ。

英国音楽の旗手であるハンドレーはレパートリーも非常に広いが、やはり本国ものは一味違う。ブラスをうるさくない程度に豪華に響かせる一方、弦を渋く、奥深く響かせる。
こうして全体は落ち着いたトーンにおさまっている。
有名な「木星」のあのフレーズも極めて自然に、さりげなく奏される。
「金星」と「土星」における優しさと諦念に満ちた音楽も見事に表現している。
カッコよさを求めるべき演奏でない。カップリングが「セント・ポール」組曲であることでもわかる。味わいある演奏。

「100円玉3個シリーズ」は意外と凄いものがある。
シモノフのものはすべてお薦めでいずれここで紹介したい。録音もいずれも極上。
すぐに消えてしまう発泡酒2缶と同じ値段とは・・・・・。

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2006年6月19日 (月)

ドビュッシー 「小組曲」 マルティノン指揮

Martinon_debussy3 不快指数高き週始めの晩、さわやかにドビュッシーを聴く。

 

「小組曲」はドビュッシー初期の作品で、ピアノ連弾用に作曲された。
これを、作曲者監修の元、友人で信奉者のアンリ・ビュッセルが小規模なオーケストラ用に編曲した。
後年の印象派の旗手としての作風はあまり感じられない。曖昧模糊とした雰囲気は全くなく、陽光が降り注ぐ幸せで明快でメローディアスな雰囲気に貫かれている。

 

4つの、それこそ小さな小品からなるが、「小舟にて」「行列」「メヌエット」「踊り」の各曲。
解説によれば、1・2曲はヴェルレーヌの詩集からイメージされ、3・4曲はその詩集のたどるところの、フランス・ブルボン朝の宮廷の様子からイメージしたものという。
 こうして聴いてみると、そういえばそうかな、程度の雰囲気。
むしろ、後年進化していったドビュッシーの若書きの中に、印象派の兆しや、風景描写の中にフランスの陽光を聴き取ることのほうが楽しいかもしれない。

 

実際「小舟にて」のフルートの旋律「舟歌」は、ため息がでるほど素敵だ。
これを初めて聴いた高校生の頃、フルートなぞかじっていたものだから、楽譜を求めて練習したものだ。ついでに「牧神の午後・・・」も練習したが、こちらは一筋縄ではいかなかった。そんな思い出もあるこの第1曲目が、この作品の一番の聴き所、と思っている。

 

演奏は、ドビュッシー全集の定番、マルティノンとフランス国立放送管
やや線がきつく感じるのは、EMIの録音のせいか。管楽器のノーブルな響きや、弦のキラキラした感じは、まさに「おフランス」の音。こんな音は今のフランスのオケには望むべくもない。だって、エッシェンバッハはともかく、クルト・マズイ(ア)だもの・・・・。

 

パイヤールやアンセルメの録音もあり、前者は録音してさんざん聴いた。
ピアノ版も「プチ組曲」という名が相応しい、洒落た音楽になっている。

 

 

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2006年6月18日 (日)

ディーリアス ピアノ協奏曲 レーン&ハンドレー

Delius_piano_concert















今日は朝からマンション行事の除草作業で、旧公団の開発物件につきかなりの緑や法地があって、毎回ものすごい作業になる。
よって、朝からヘトヘトなのである。
そして恵みの雨は作業終了を待って降り出した。チクショーー(by 小梅)

心地よい休日の疲れには、ディーリアス。というより、始終聴いている。

ピアノ協奏曲はあまり知られていない曲だ。デーリアス中期の作品で、23分。
程よい長さで、メロディアスな聴きやすい音楽である。
3つの楽章からなるが、連続した印象を与える。というのも、印象的な美しい親しみやすい旋律がすべての楽章にあらわれ、統一感を与えているからである。
協奏曲というよりは、ピアノと管弦楽のためのファンタジー、とも呼ぶべきかもしれない。
先にふれたメロディーがともかく素敵で、このメロディーは、1楽章では素で普通になにげなくピアノで弾かれる。
2楽章ラルゴでは、ディーリアス特有の夢見るような儚さをともなって
極めてデリケートに歌われる。そして3楽章では、まるでグリーグのコンチェルトのように、
高らかに歌いあげて曲を閉じる。

ディーリアスは「青白いもやのようなヴェールにつつまれて」いるような曲、と言ったという。

ピアノのピアーズ・レーンについては、不詳ながらクリアーで繊細な弾きぶりは、こうした曲にうってつけと聴いた。
そしてここでも、ヴァーノン・ハンドレー指揮とロイヤル・リヴァプールフィルが献身的に自国音楽を奏でている。
同曲は他に、インド出身のR・カーロスとギブソンのデッカ盤がある。
こちらも良い演奏だが、録音がデッカ特有の生々しさがあって、ちょっとイメージが違う。

カップリングのV・ウィリアムスの協奏曲はモダーンな曲で意外。
フィンジの「田園詩」は、10分程度の作品だがまったくもって素敵な曲だ。
抒情派詩人のフィンジの魅力満載で、身につまされるような優しく美しい曲。
でも悲しみと裏表なところが、どこかで死を見つめていたフィンジらしい。
名作クラリネット協奏曲にも通じる・・・。

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モーツァルト 交響曲第40番 J・テイト

Tate 若いと思っていた、イギリスのジェフリー・テイトも1943年生まれで63歳。生粋のロンドン子だが、ケンブリッジ大学で医学も修めた秀才肌で、音楽キャリアはロンドンを皮切りに、ドイツの歌劇場で叩き上げた職人である。76年のシェロー=ブーレーズのバイロイト100年リングで副指揮者を務めたくらいの劇場のキャリアの人である。同じ医学系でも、分析的なシノーポリとはかなり異なる個性だ。音を素直にシェイプアップして、すっきりと聞かせる才能の持主なのだ。体にハンデを持ちながらの努力の人で頭の下がる思いだ。

そんな彼のレパートリーの中枢は、モーツァルトでもある。
80年代指揮者をつとめたイギリス室内管とは、全曲を残したのだろうか。
今晩の最後の2曲の交響曲は、最初期の録音。
古楽奏法には目もくれず、従来のメソードで極めてオーソドックスに演奏している。
イギリス系モーツァルトのスッキリ・さわやかの系統ではあるが、もう少し踏み込みが鋭い。
内声部まで透けるように、すべての楽器に透明な響きを与えていて、時には克明すぎる場面もある。終楽章などは、その典型でかなり遅めのテンポは印象的である。

それにしてもイギリス室内管弦楽団は優秀で精度と順応性の高いオーケストラだ。
バレンボイムの頃は、かなり濃い音を出していたが、このテイトのもとでは、精緻でガラス細工のような繊細な音が響いている。2楽章の木管と弦の掛け合いなどは、文字通りささやくような微細なやりとりとなっていて聴きものである。

テイトは現在ヨーロッパ各地で、オペラを中心に活躍している様子だが、特定のポストを持たないせいか地味な活動に終始している。激務かもしれないが、この人がコヴェントガーデンの指揮者になればいいと思っている。ドレスデンでもいい録音を残している。
自国の音楽の演奏にも熱心だ。コリン・デイヴィスの後継はこの人だぁ。

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2006年6月17日 (土)

ディーリアス・ギャラリー

ディーリアスのレコードをマイフォトに掲載しました。
ワーグナーの毒気覚めやらず。苦難の作業でした。

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2006年6月16日 (金)

ワーグナー 「ワルキューレ」 メトロポリタンオペラ公演 エッシェンバッハ指揮

Met

無謀にもメトロポリタンのヴァルキーレを観劇した。
相次ぐコンサートで懐は火の車なのに、ワーグナーとなるとどうしても止められない。
完全なばかである。

当初はレヴァインだし、チケットやたら高いから諦めていたが、レヴァインがコケて怪我をした。代理は誰かと思ったら何と、エッシェンバッハ

この発表と同時に止められないバカが頭をもたげ買ってしまった。
劇的な意外性を表出するスキンヘッド・クリストフが好きなのである。
最近まで、パリでリングを指揮していたから、手の内に入った作品であろう。


そしてよくよく見たらキャストがすごかった。ドミンゴにポラスキ、モリス、ヴォイト、パペと世界的にもめったに拝めない顔触れだったのだ。
心配は全盛期をちょっと過ぎたのではという人も混ざっていること。
この不安は半ば当たり、半ば外れた。

 ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」

 ジークムント:プラシド・ドミンゴ    ジークリンデ:デヴォラ・ヴォイト
 フンディング:ルネ・パペ        ウォータン:ジェイムズ・モリス
 ブリュンヒルデ:デボラ・ポラスキ   フリッカ:イヴォンヌ・ナエフ

  クリストフ・エッシェンバッハ指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団

             演出:オットー・シェンク


                    (2006.6.15 @NHKホール)

私がヴァルキューレを聴く時に、うるうるしてしまう個所を追いながら今日の上演を振り返ってみたい。 


① 
第1幕は、ジークムントの「父が約束してくれた武器」のモノローグから幕切れまでのロマンチックな二重唱。
ドミンゴはさすがに場数を踏んだ落ち着きと高音の輝かしさを聴かせる。
しかし中央域から低域がキツい。ウエルゼーの叫びも精彩上がらず、剣を抜くクライマックスもいまひとつ。

エッシェンバッハとの息も会ってないような。
レヴァインだったらそれを感じさせずに修復してしまうだろう。ヴォイトのジークリンデは少し肥えてて動きが、どっこらしょ的だが、声はクリアーでよい。

② 第2幕ではヴォータンの長大なモノローグ。
ここは渋い個所だがヴォータン歌いの最大の聴かせどころ。モリスは予想以上に健在だった。美しい低音が底光りしていた。

Img1

続くポイントは、死の告知の場面。
ポラスキは神々しい中にも、同情を込めた温かな歌いぶりで見事。
ドミンゴもここは集中して熱い歌唱を聴かせる。動きも65歳とは思えない。

 
2幕の最後も見所。剣折れたジークムントがヴォータンの腕の中に倒れ込むのが好きな演出だが、今晩はいかに・・・・・。
ヴォータンは離れた所にいて、ジークムントは一人寂しく倒れた。

あれっと思ったら、最後に倒れているジークムントを抱き起こし、虫の息のジークムントは父の腕の中で事切れる。
 ジーン・・・・。こりゃいい。
モリスのフンディングに対する「行け!」はソットヴォーチェで刺すように歌われ見事。

③ さて第3幕の大団円に向かって期待が高まったが、この幕の最初のポイントはブリュンヒルデがジークリンデにお腹の子供を告げる場面。

ここでは将来が暗示されるかのように、ジークフリートの動機や救済の動機がなる感動ものの場面。
二人ともに信愛のともなった素敵な歌唱で素晴らしかった。
エッシェンバッハは両腕を広げ、オーケストラに思い切り感動を歌い上げさせていた。

 
最後のポイントは父娘の二重娼から告別の最後まで。
怒りに震えるヴォータンに娘が愛を見捨てられず裏切るに至った心情を訴える。
ポラスキの素晴らしい歌は心を打つ。
遂にヴォータンも娘の願いを入れて炎に包んで守ることを受け入れる。

この最後の場面はワーグナーの書いたもっとも素晴らしい音楽であろう。

怒りから、娘を愛する父の心情へと変化する場面をモリスは味わい深く表現している。
別れを前に、感極まった父娘が抱擁する場面も泣ける。

しかし、告別の場面で、モリスの声が聞こえなくなった。
アレアレ?私の席が悪いのか?どうしちゃったのか。
最後の「槍を恐れるものは、足を踏み入れるな」の決め所は何とか無事歌ったが。
不明である。

さらに、どんな炎が上がるのかと思ったら、煙だらけになってしまい、ヴォータンの姿が見えない。失敗なのか?これも不明。

名残おしつつ、振り返りながら去るヴォータンの姿を見たかったのに、煙で見当たらない。こんなのアリ?
エッシェンバッハが最高の聞かせどころを熱くしてくれたのに、煙に気をとられて何とも後味がすっきりしない。

 歌手を総括すると、一番よかったのは「ポラスキ」。
オーケストラを突き抜けて響く声は圧倒的ながら、暖かみにも欠けず人間性に満ちた素晴らしい歌唱だ。この人の舞台はこれで3度目だが、聴くたび良くなってきている。


続いて、「ナエフ」のフリッカ、怖い妻だけでなく夫の気を引きとめようとする女性的な歌で、声も良く通って立派。
パペ」のフンディングも舞台を引き締めてくれる名バスだ。いつ聴いても美声である。他の主役級は前述のとおり。

ドミンゴの日本最後の舞台を聴けたのは、ひとつの喜びではある。

エッシェンバッハの指揮は、思ったより真っ当だった。
シュタインやシュナイダーのような早めのテンポで凝縮されたドラマを描きだすのとは違い、時おり間を作ったり、思い切り歌ったりと、多彩な表現が新鮮に感じた。
それが、今のところドラマに有機的に作用しているとはいえないかもしれないが、劇場空間での経験をさらに積むと独自のワーグナー指揮者となるかもしれない。

演出はオットー・シェンクのメトならではの伝統的なもの。このところ読替えを伴った語る演出に馴れていただけに、逆に新鮮だ。
贅沢なもので、物足りなくも思ったが、観劇中いろいろ悩まずに音楽に素直に集中できるのは良い。

5時開演で終了したのは10時をまわっていた。最後はアレ?だったが、心地よい疲れを噛みしめながら、雨の渋谷の坂を下って帰途についた。
ヴァルキューレの舞台体験は演奏会形式も含めて、いずれも国内で今晩で7度目。
いずれ、まとめたいとは思うがいつ聴いても、いつ観ても最高の感動を味わえる。
バカはやめられない。

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2006年6月14日 (水)

ラヴェル「優雅で感傷的なワルツ」「ラ・ヴァルス」 アンセルメ

Ansermet_ravel ラヴェルのワルツを2曲。活字にして眺めても美しい「優雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」は対をなした作品と思う。
8つのシューベルトを意識したのワルツからなる「優雅で・・・」、ウィンナ・ワルツのオマージュである「ラ・ヴァルス」。
1975年の生誕100年は、ラヴェルが盛んに演奏・録音された。小沢がボストンと全集を録音し、日本でもサンフランシスコ響や新日フィルと演奏会で取り上げていた。当時新日の会員になっていて、武満の「カトレーン」初演とラヴェルのプログラムを聴いた。そこで取り上げられたのが、この2曲で、拍手を入れず(小沢が制止した)に連続して演奏され、このワルツ2曲の関連付けが見事なまでに浮き彫りにされた。

出だしは、無骨な印象を与える「優雅で・・」だが、続くワルツはモデラートで、文字通り優雅に優しく繰り広げられる。盛上りにも欠けていないが、最後は宴を終えた憂愁さを感じさせながら曲を終える。
 続いて、もやもやとした雰囲気から、ワルツが組成されていき、遂に光彩陸離たる眩い円舞曲が高鳴る。華やかに高鳴り、ポルタメントも効かせながら盛上り、クライマックスを築き忽然と終結する・・・。

1883年生まれ(ワーグナー没年!!)のアンセルメは、ラヴェルとも親交あり、直伝の演奏。スイス・ロマンドとの黄金コンビは、今聴いてもクールで洒脱。ちょっとひなびた、管楽器の響きに味がある。フランスのオケとも違う独特のサウンドだ。
現在の水準からするとラフな部分もあるが、おいしいラヴェル・サウンドが堪能できる。
アンセルメ=スイス・ロマンド=ロンドン・レコード、こんな図式が思い浮かぶ。

古い中年おやじの思い出ばなしである。

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岩城宏之氏 追悼

Iwaki 緊急エントリー。13日未明、岩城宏之氏が亡くなった。
就寝を前に、いくつかの記事で知った。
32年生まれだから、まだ73歳。早すぎる死であった。
最近コンサートをキャンセルし、療養中との話は聞いていたが、まさかに、という思いである。何度か演奏会も接したが、常に日本人を意識させてくれる、魂あふれる音楽造りだった。
これから円熟期にあろうというのに、運命とは儚いものだ。

私の岩城氏との出会いは、常にN響であった。クラシックに興味を持ったころ、岩城氏がN響の常任であり、暮れの第九は必ず岩城指揮で、紅白の裏番組で放送されていた。
エネルギッシュな指揮ぶりは印象深いものであった。
そして、レコードを買い始めて(買ってもらって)、3枚目が岩城・N響の第九である。
ベートーヴェン生誕200年の1970年のことである。レコード店で、私はカラヤンの第九を手にしたが、母が「カラヤンなんて知らない、岩城さんならテレビでいつもやってるでしょ」と言い張り、結局純正日本人第九レコードを買ってもらった。
2枚組で、最後の面にユーモアたっぷりのリハーサル風景が収録されていた。

今は、傷だれけで聴くこともできまい。N響との全集も然り、この曲だけオリジナルで復刻して欲しいものだ。

日本人による演歌のようなクラシック音楽を広めた「岩城宏之」氏。
謹んでご冥福をお祈りしたい。

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2006年6月13日 (火)

ブリス カラー・シンフォニー(色彩交響曲) グローヴス

Bliss_colour 「アーサー・ブリス」は1891年、ロンドン生まれ。1975年に没しているが、晩年には王室付きの作曲家という名誉にも浴し、国家行事などの作品まで書いていて、多彩な人だった。指揮者としての才もあり、レコーディングも多いし、64年にモントゥーと共に、ロンドン響の日本公演に同行し、自作を指揮した。(アインザッツ・マスター伝)

その作風は、エルガーの高貴さに、モダーンな要素を取り混ぜた感じ。
クールでスポーティーだけど、どこか哀愁があって、高潔な雰囲気がある。以外や聴きやすい音楽である。ウォルトンより一回り上だが、カッコよさでは類似している。

この「カラー・シンフォニー」は、4つの楽章からなり、「Purple」「Red」「Blue」「Green」という色をイメージして作曲したらしい。らしい、というのは、こうして聴いてみて、あの色、この色と聴き手は全く思いつかないからである。
「紫」はアメジスト・王室の威厳・壮麗・死、「赤」はルビー・ぶどう酒・喧騒・高炉・勇気・マジック、「青」はサファイア・深海・空・忠誠・メランコリー、「緑」はエメラルド、希望、若さ、喜び、春、勝利・・・・、こんなイメージが各章にすり込まれている。
 そういえば、そんな感じかな、程度の認識をもって、無心に聴くのがよろしかろう。

2楽章のスケルツォ楽章のカッコよさといったらない。やたらにオーケストラが鳴る。
一転して、3楽章の遠くを見つめるようなクールさ。イギリス音楽の伝統の抒情がここにある。何か主人公がひとり意を決する場面のような映画音楽さながらである。
映画音楽にもかなりの作品を残したブリスでもある。終楽章も聴きごたえある迫力と活気にみちた完結感に満ちている。

名匠サー・チャールズ・グローヴス指揮のロイヤル・フィルの演奏は万全。
グローリアスな響きが、ブリスのモダンさにぴったり。
ハンドリーのシャンドス盤やR・ジョーンズのナクソス盤は未聴。是非他盤も聴いてみたい。

ブリスの他の名作として、チェロ協奏曲や反戦の作品「朝の英雄たち」、美しい田園曲「羊の群れは野に安らう」など多々ある。英国シリーズとして、また取り上げたい。

新緑が雨にぬれ、日本独特の風情が溢れつつある。こんな風情とは、かなりかけ離れた欧米人の色に対する感覚であることよ。

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2006年6月12日 (月)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ジルベルシュタイン&アバド

Zilberstein_rachmaninov このジャケットのセンスがまず良い。モノトーンながら、憂愁に満ちたラフマニノフのイメージにピッタリだから。
 世間は、サッカーに釘付けで、今豪州戦の最中。へそ曲がりな私は、気にせずにラフマニノフの3番のコンチェルトだ。

このCDは、2番と3番がカップリングされ締めて76分。低回せず、歌いすぎもせずに早めのテンポで進められている。
65年、モスクワ生まれのジルベルシュタインは、93年録音当時20代。最近、めっきり名前を聞かなくなったが、当時はDGがかなり積極的に売り出したものだ。
アバドとベルリン・フィルをバックにするという贅沢も、いかに嘱望されていたかがわかる。
実際、その水際立ったテクニックと、旋律をおおらかに歌うゆとりは若さを感じさせない、立派なものだ。あえて言えば、弾き急ぎとも思われる部分が多々あること。立ち止って、もう少し振り返る仕草も必要ではないかと。
 そんな若いソリストにアバドの指揮も、微妙に揺れるところがある。もともと、大時代的な表現をしない人なだけに、二人ともに、アッサリ通りすぎてしまう名所がいくつか散見される。アバドにしてみれば、純音楽的に解釈しているはずであろう。
ベルリン・フィルは、もっと鳴りたい、歌いたい、と不満顔である。
 ジルベルシュタインは技巧が勝り、アバドは譜面を音楽的に表現し、ベルリン・フィルはゴンゴンやりたい。そんな三様の顔ぶれに感じる。

Abbdo_zilerstein こんな風に思って聴くとおもしろい。ラフマニノフのロマンテックな要素だけでない部分が浮き彫りになって聴こえるが・・・・。
私の音楽レパートリーにラフマニノフ、それも3曲の交響曲の占める位置は大きいが、プレヴィンのような優しく、儚い演奏が好きである。
アバドは、本当は嫌々振ってたんじゃないかと思ったりもする。若い頃、CBSに録音したベルマンとの同曲のほうが、ロシア的・ムソルグスキー的でやりたいことをやっていたように思う。

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2006年6月11日 (日)

バーバラ・ボニー ベスト集

Bonney アメリカ生まれのリリック・ソプラノ「バーバラ・ボニー」。
この愛すべきソプラノは、長く活躍しているようだけど、56年生まれだからまだ若い。同系統の「ルチア・ポップ」が早くに亡くなってしまっただけに、この人の存在は実に嬉しい。

このコケットリーな写真の通り、性格も声質も優しく、あたたかく人を虜にしてしまう。インタビュー記事などを読んでも、誠実でかつ茶目っ気があって、人柄と音楽が見事に一致をみている音楽家だと思う。

リートを中心に、モーツァルトやシュトラウスのオペラを得意にするところなども、ポップと同じ。このCDも、シューベルト、メンデルスゾーンの歌曲に始まり、バッハやフォーレの宗教曲、モーツァルトのオペラを経て、「こうもり」のアデーレの歌で締めくくられているが、多彩な選曲に、この人の器用さと歌に対する愛情が感じられるようになっている。

今回聴いて、ドイツ語の発音の美しさに驚いた。こうした明快な歌唱は、メンデルスゾーンにピッタリ。そして、わずか4分だが、フォーレのレクイエムからの「ピエ・イェズ」は、このボニーの歌で何度泣いたかわからない。
ミシェル・ルグランの指揮によるもので、全曲は耽美的に傾きすぎた演奏だが、この曲だけを取り出して聴く限り、ボニーの癒しに満ちた優しい歌だけが味わえる。

寝る前のひと時、このCDを聴き、最後にフォーレを聴けば日曜の晩は心安く終えることができる。ありがとう、バーバラ。

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2006年6月10日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」 オーマンディ

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ショスタコーヴィチにはかつて問題作と言われた作品が多い。今でこそ何でもない。
交響曲は4、9、13、15番等々、歌劇「ムツェンンスクのマクベス夫人」他、当時のソヴィエト体制を思えば、そりゃ問題だわな、的な作品を書き続けた。
体制から非難を浴びると、即迎合したような作品を書き、またしばらくすると反抗的な作風に戻る。
この繰返しであったように見える。 がしかし、そうでもないところが、ショスタコーヴィチの一筋縄ではいかないところ。
一見、迎合しながらも表は裏、裏は表といった意図をもって作曲していた、と例の「証言」の出現で明らかになった。
というより、余計にわからなくなった。

まあ、あまり難しく考えずにそのユーモアや引用に満ちた大音響やクールな音楽を楽しめばよいと思っている。

とはいえ、この「バビ・ヤール」は多少の歴史背景を認識して聴くべきかもしれない。
キエフ郊外の地「バビ・ヤール」はドイツ軍侵攻で、ユダヤ人・ウクライナ人・ロシア人が大量に虐殺された地という。
そして、ソヴィエトも戦後ユダヤ人を弾圧した。
この変わらぬユダヤ人圧制という暗部を詩にした「エフトゥシェンコ」の作品に曲をつけたのが、この作品である。
1962年、フルシチョフによる「雪解け」の間隙に作曲・初演されたが、詩は改定を余儀なくされ、その後数回演奏されただけで封印されてしまった。
初演は、キリル・コンドラシン。

このいわくつき作品を西側初演したのが「オーマンディ」である。70年、大阪万博の年にフィラデルフィアで、初演し録音された。
私のような中年には、ついこの前なのだ。

オーマンディはシベリウスと同じように、ショスタコーヴィチとも親交があって、多くの西側初演とレコーディングを行った。
フィラデルフィアとのコンビに想像されるような、華やかさは微塵もない。作品がいやでも暗く重々しいからかもしれないが、かなり切実な表現で、高性能のオーケストラがいやでも、暗さを隠し事なく隅々まで照らしだしている。
変な言い方だが、すべてがリアルに表わせられている感じ。
ただ、独唱の「トム・クラウセ」は立派だが、ちょっと歌いすぎでオペラティックに過ぎる。

全体は5部からなる。「バビ・ヤール」「ユーモア」「商店で」「恐怖」「立身出世」
いずれも皮肉の効いた辛辣な詩に、切れば血の滲むような切実で、時に飄々とした音楽が付けられている。
全曲にわたって、鐘が弔いのように何度も鳴る。そして最後は自虐的に、妙に明るいチェレスタを伴って静かに終わる。
不可思議な思いに囚われる。

「ハイティンク」のCDがすばらしく思う。
初演者「コンドラシン」とバイエルン放送響とのライブはFMで放送され、自家製CDRで大事に聴いてきた。実はこれが一番かもしれない。
最近CDとしても復活したので、お薦め。プレヴィンとヤンソンスも愛聴している。
 ムラヴィンスキーは絶対にやらない曲だった。

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大植英次 ハノーファー北ドイツ放送フィル

Hannover 6月9日、サントリーホール。先日のバンベルクに続く海外オーケストラシリーズ、田園・第五という超有名曲プログラムで、こちらも単独では選択しなかったであろうコンサートである。何といっても、もうひとつのプログラムがオール・ワーグナーだったがこちらは抽選も外れたし断念。しかし、初・大植英次である。ハノーハァーのオケも初めてだし、田園も第五も生で聴くのはたぶん初めてだと思う。自分でも信じられないことだが、生ではワーグナーやブルックナー、マーラーばっかり聴いていたからなのだ。

オーケストラの配置はバンベルクと同じく両翼配置だが、こちらは第1バイオリンの隣がチェロになっていた他、コントラバスは舞台奥に一列に並んだ。サイドの席だったので、効果のほどはよくわからないが、バランスの良さを狙ったのだろう。オケもコンパクトなサイズでざっと数えたら70人ぐらい。指揮者に対するイメージからエネルギッシュなベートーヴェンを予想していたが、以外にもオーソドックスで、版もごく普通(たぶん)。田園はゆったりと正に落ち着いた気分で全曲演奏され、しみじみとこの名曲を味わうことができた。
大植の指揮は動きが少なく、時に指揮棒も降ろしオーケストラを聞き入るような様子をしたりしている。よく見ていると顔の表情も豊かだし、指先や手のひらもかなり使って指示を出している。するとオーケストラもサッと反応していて、相互に息の合った様子が伺える。楽員同士もアイコンタクトしたり、微笑みあったりで楽しそうな様子。こうした大植のパフォーマンスの豊かさが楽員からも好かれる由縁なのであろう。管楽器のソロが見事なものであったことも特筆。

第五も奇をてらわず、普通に立派な演奏。管の主席は皆入れ替わったが、こちらも均一な腕前で、ドイツのオーケストラの優秀さを思い知った。
アンコールは、「レオノーレ序曲第3番」で、シンフォニックで流れの良い演奏だった。

盛大な拍手につつまれ、楽員からも拍手を受けて嬉しそうな大植。ファンから受け取った花束から数本づつ女性団員に配る気遣いを見せたり、客席に投げ入れたりと、こちらの明るいパフォーマンスも親しみを持てるものだった。

Oue_1 大植氏、俳優の別所哲也と似ている。私だけ?

大阪フィルが聴けるのファンがちょっとうらやましい。



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2006年6月 7日 (水)

オルフ 「カルミナ・ブラーナ」 プレヴィン

Previn_orff オルフという不思議な作曲家、「カルミナ・ブラーナ」という音楽のカテゴリー。いずれも特異な存在である。オルフの劇音楽以外の作品はあるのだろうか?管弦楽作品や器楽作品なんて、見たこともない。
そして「カルミナ・ブラーナ」は声楽作品なのだが、舞台作品なのだろうか? わからん。おまけに、「カトゥーリ・カルミナ」「トリオンフィ」(だったかな?)と三部作を形成するらしいが、その2作はまったく聴いたことがない。
ヨッフムやライトナーが録音しているが、顔も似た地味な二人が、オルフを得意にしたことも、また不思議。

何だかよくわからないオルフではあるが、この曲を無心に聴けば、聴き手を原始的なまでに明るく、楽しく、憂愁なる気分にさせてくれる。
オルフの音楽を言葉で羅列すると、「単純」「繰返し(オスティナート)」「原始的」「リズミック」「古代やギリシァの賛美」「中世」「暗黒」「淫靡」・・・こんな感じだろうか。
いずれも脈連のない世界だが、これらを感じさせる多彩な音楽が次々に展開される。

テクストは中世、南ドイツあたりの学生や修道僧の歌に求められていて、ラテン語。
いずれも生命感・生活感溢れる歌詞になっていて、人間の営みを歌っている。
冒頭と最後におかれた有名な部分「おお、運命よ」の歌詞はなかなかに深い。

   「おお運命よ 月のように姿は変わる 常に満ち 常に欠ける。
   不快なこの世も つらいのは一時 次には気まぐれに
   遊戯のこころに味方する  貧乏も 権力も しょせん氷のように解かし去る。」

プレヴィンとウィーン・フィルとの93年のライブ。ボニーのソプラノ、ロパルドのテノール、
マイケルズ・ムーアのバリトン、ウィーン学友協会とシェーンベルク合唱団。
完璧な顔ぶれによる、生き生きとした演奏だ。リズムがやや重く感じるが、そこはウィーン・フィルの軽やかな音色がプラスに働いている。
Previn_orff_lso ともかく無類に楽しい演奏で、ウィーンの良さも味わえる。そして私の好きな「バーバラ・ボニー」が最高に素敵な歌を聴かせてくれる。

プレヴィンにはもうひとつ、ロンドン響との旧盤があって、ここにジャケットを載せてみる。こちらの若きプレヴィン方が、ノリがよく、オーケストラのニュートラルな音色も良い。

なすがままに、自然に生きた中世が暗黒とはいえ羨ましい。
今のこの日本の世の中のほうが、よっぽど窮屈で「暗黒」である。

 

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2006年6月 6日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 ケンペ

Kempe_beetohoven 1972年、ミュンヘン・オリンピック開催中、イスラエル選手村をパレスチナ・ゲリラ「ブラック・セプテンバー」が襲い立てこもった。当時、西ドイツ政府は犯人の要求を飲むと見せかけ、空港で奇襲。これが失敗し、犯人はおろか、人質のイスラエル人11人は犯人に射殺されてしまう、という一大悲劇をよんだ。中東問題は、解決の糸口がなく、本当に深い。
当時、中学生だった私は、日本男子バレーの快進撃に酔っていただけに、血に染まった空港の映像を見て、恐怖で凍りついたものだった。

この悲劇と犠牲者を悼んで、スタディアムでセレモニーが開かれた。
「英雄」の第2楽章「葬送行進曲」が演奏され、全世界に中継された。
その時の指揮と管弦楽が、ここに聴く「ルドルフ・ケンペとミュンヘン・フィルハーモニー」なのである。
初めて見るケンペは、その年の2月の札幌オリンピックのミュンヘン・フィル来日に、病気で来れなくなったため、病弱で幻のように言われていたけれど、シャキとした颯爽たる指揮ぶりで、今でもよく覚えている。

このベートーヴェンは、ちょうどその頃に一気に完成された全集で、突然全集として発売され驚いたものだ。今では廉価盤で信じられないほど安く手に入る。隔世の感あり。

最初の二つの和音は、サラッと鳴らされるが、以降はとんでもなく覇気に満ちた演奏である。最近では聴かれなくなった、重厚な低弦群をベースに揺るぎない構造をもって迫ってくる。まぎれもないドイツのドイツ人によるベートーヴェン。
特筆は第2楽章、ここでの低弦の質感は素晴らしく、感情を押さえ、音楽のみを信じ心を込めて演奏している。そくそくと胸に迫ってくる演奏である。

ミュンヘン・フィルはティーレマンのもとで、かつての重厚さを取り戻すだろうか。
そうあって欲しいと思わせるここに聴くベートーヴェンであった。

あと数日後に、ワールドカップを控え、純粋なスポーツの祭典に政治や宗教が持ち込まれることのないことを祈る。

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2006年6月 5日 (月)

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 グルダ&アバド

Gulda_abbado 梅雨がジワジワと近付く日本列島。的中率の極めて上がった天気予報も、前線の微妙な動きにはずれがち。今日は曇りがうれしい晴れになった。「I dont like Monday」だけど、ちょっと気分がよかった。

こんな晩に、気持ちいいモーツァルトを1枚。21番のハ長調の協奏曲は明るくも、美しい。天衣無為のグルダのピアノ、若いアバドとウィーン・フィルの名盤は、この曲の真髄を聴かせてくれる。カップリングの20番のニ短調も、ワルターの弾き語りと並ぶ名演と思う。

1楽章から楽しい雰囲気ながら、歌うところは存分に歌うグルダ。アバドの指揮するウィーン・フィルの清冽な響きも混じりけのない純正ウィーンの響き。
そして、絶美の2楽章。このレコードで初めて聴いた21番。高校生だった。まさに儚いまでに美しい。出だしのウィーンの弦がふるい付きたくなるように、楚々と有名な旋律を奏でる。このままどこまでも天国的に進むかと思うと、グルダのピアノがしっかりとした意思をもって付けてくる。ここでオーケストラも触発されたかのように、迫真の音を聴かせる。
3楽章は、オペラだ。弾んで、どこまでも笑顔に溢れている。ピアノ・指揮・オーケストラの三者が完全に息を合わせ一体となっている。後年グルダは、アバド君云々と発言していたが、そんなことは関係なしにもう1枚あるCDとともに、かけがえのないモーツァルトだ。
 ムジークフェラインの柔らかな音響をとらえた録音も今もって最高。(74年録音)
カデンツァはいずれもグルダ作によるもの。ベートーヴェン風なのがおもしろい。

それにしても、こうした長調の曲でも短調の陰りが時おり顔をのぞかせ、ハッとさせる。
モーツァルトの頭の中は、神のみぞ知る世界かもしれない。

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2006年6月 4日 (日)

アルベルト・ドーメン ワーグナー集

Dohmen_wagner ドイツのバス・バリトン「アルベルト・ドーメン」のワーグナー・コンサートのライブ録音を聴く。一昨年格安で購入以来、度々楽しんでいるCDで、廉価盤だと思うと車のステレオで聴いたりもしてしまう。車を飛ばしながら、大音響で聴くワーグナーは最高である。そして、テノールやバリトンの曲だと、歌ってしまう私。(信号で止まると音を絞っておとなしくしています)

ドーメンはキャリアの長いベテランであるが、一流の仲間入りをしたのは最近で、アバドがザルツブルクで「ヴォツェック」のタイトル・ロールに抜擢してからである。
伝説的名演「アバドの東京トリスタン」のクルヴェナールを歌った。アバドの指揮はさんざん絶賛し続けたが、歌手ではポラスキのイゾルデ、ポルガーのマルケと並んで、信愛と誠実さに満ちたドーメンのクルヴェナールが印象に残っている。

このCDは、ワーグナーの主要なバス・バリトンの諸役の名曲を収めていて、極めて聴き応えがある。

    「パルシファル」                アンフォルタスとグルネマンツ
    「さまよえるオランダ人」           オランダ人
    「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ザックスとポーグナー
    「ヴァルキューレ」              ヴォータン

      シュテファン・アントン・レック  マッシモ・パレルモ劇場管弦楽団
                         マーラー・ユーゲント・オケ(ヴァルキューレ)

やや暗めの声を生かして、バス・バリトンとバスの役を歌い分けているが、グルネマンツはちょっと無理があるような気がする。他の役はいずれも身の丈にあった役柄ばかりで安心して聴ける。小回りがきき、頭脳的・心理的に表現するようなタイプでなく、しっかりと一語一語を丹念に歌いあげて、ジワジワと感動させるようなタイプなので、何度も聴くうちにいぶし銀のような歌に引き込まれていくことになる。
中でもザックスとヴォータンは、訥々とした表現に気品も感じられて素晴らしい。

あと特筆すべきは、アントン・レックの指揮である。昨年の国立劇場の「マイスタージンガー」で実に表現力に満ち新鮮な演奏を聞かせ、同時期のメータよりよかったあの指揮ぶりがここでも楽しめる。加えてパレルモのオーケストラが曖昧さのない明るい響きで、これまた新鮮な演奏なのだ。イタリアのオケによるワーグナーをもっと聴いてみたいものだ。
マーラー・ユーゲントは曲が曲だけに、コクがないが、鮮度は高い。

ヴォータンの告別を大音響で聴き・歌いながら高速を飛ばす快感はちょっといいものですぜ。

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2006年6月 3日 (土)

ウィリアム・アルウィン 「リラ・アンジェリカ」ほか ヒコックス指揮

Alwyn_lyra_angelica

 

 

 

 

 

 

 


英国の近世作曲家、アルウィン(1905~1985)の一風変わった協奏曲作品集を聴く。
年代的には、フィンジ、ウォルトン、ティペットらと同世代。ブリテンより一回り上、といった時代の人だ。
作風は、ウォルトンのようなダイナミックな部分と、フィンジやV・ウィリアムズ系統の英国田園抒情派的な部分を持ち合わせていて、なかなかに味わいある作曲家である。
シャンドス・レーベルが交響曲5曲や、室内楽曲といった作品をシリーズで出していて、そのすべてを嬉々として揃えてしまった。
画才にも秀でた人で、シャンドスはそのすべてに彼の風景画を用いていて、これまたCDを1枚1枚収集する喜びを味わせてくれた。

「Autum Legent」   (秋の伝説曲)  コール・アングレと弦楽合奏
「Pasral Fantasia    (田園幻想曲)  ヴィオラと弦楽合奏
「Tragic Interlude」(悲劇的間奏曲) ホルン、テンパニと弦楽合奏
「Lyra Angelica」   (天使の歌)   ハープと弦楽合奏

      ヒコックス指揮 シティ・オブ・ロンドン・シンフォニア

曲名だけでも、詩的ないい雰囲気が漂う。
いずれも桂曲だが、30分にわたる「リラ・アンジェリカ」の美しさは喩えようがない。
高貴でかつ儚いハープの調べは、さながら天使の羽ばたきにも思われる。

Kwan3





三浦淳史先生亡きあと、英国音楽の啓蒙の旗手、山尾敦史氏も大推薦の曲で、長野オリンピックの女子フィギアで銀メダルとなった「ミシェル・クワン」がこの曲で演技したという。
全然覚えてないが、優美にリンクを周る軽やかな舞が目に浮かぶようだ。
こうしたセンスある音楽を選ぶこと事態が日本人とは違う。ラフマニニフや蝶々さんばかりでは・・・・。

他の作品も親しみやすく、美しく思わず手を休めて聞き惚れてしまう瞬間に満ちている。

Rmasters_3






この方が、ハープのソロを受け持つラシェル・マスターズ。気品溢れる美しい方であります。
ロンドン・フィルのソロ・ハーピストだそうな。
 そして、こうした英国音楽に欠かせない存在のR・ヒコックスの的確な指揮ぶりが、この美しい作品を忘れられないものにしている。
この人がいなかったら、今ごろこうして英国音楽を極東の地で楽しむことができなかったであろう。

英国音楽は私をリラックスさせ、心を和ましてくれる。今夜はいい夢が見れそうな予感。

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