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2006年7月

2006年7月30日 (日)

ファリャ 「スペインの庭の夜」 ラローチャ

Fallia ファリャの音楽はスペインそのものを感じさせてくれる点で、極めて民族楽派的な存在であろう。スペインの南、アンダリシア地方の生まれで、パリに学んだ時は、デュカ、ドビュッシー、フォーレ、ラヴェルらとも親交があったという。パリでオーケストラの作曲技法に磨きをかけたが、大戦でパリに止まらず、故郷に帰らざるを得なくなったことは、後のわれわれにとって幸いだったかもしれない。
いかにも、スペイン的な作品の数々がその後も生まれることとなったから。

でも、スペイン的とは何だろうか。地理的には、フランスのとなり。ポルトガルのノホホンとした雰囲気とも違う。歴史的には、ローマ人の支配、対岸のイスラム教徒の侵略、ジプシーの台頭等のエキゾチックな諸要素が絡みあって、独特の文化が出来あがったのだろう。
独特な音階を持つ旋法などもそうした要素が背景にあるのかもしれない。
素人の発想はここまで。

交響的印象「スペインの庭の夜」は、3楽章からなるピアノ協奏曲のような作品だ。
有名なるクラナダの「アルハンブラ宮殿」の印象を捉えたもの。

    Ⅰ 「ヘネラリフェ(庭園)にて」
    Ⅱ 「はるかな踊り」
    Ⅲ 「コルドバの山の庭にて」

こんな詩的なタイトルでも、異国情緒に引きつけられてしまうが、音楽もまさにそうしたムードに溢れた期待通りのもの。
夜の庭に滴り落ちる露のきらめき、濃い花の香り、遠くから聞こえてくる祭のざわめき、静かに、涼やかに流れ落ちる噴水・・・・。
Ⅲのきらめくようなピアノに身を委ねていると、心はもうスペイン、アンダルシア地方。
昼間は灼熱の暑さなのに、夜は涼しく、冴えた空気が気持ち良い。こんな感じだ。

ちなみに、私、スペインには行ったことありません。ツアーならともかく、治安が今ひとつでかなりおっかないらしい。だから音楽で我慢する。ここにスペインの酒「カヴァ」と「イベリコ豚」や「パエリア」なーんてものがあれば申し分ない。

演奏は、「ラローチャのピアノに、コミッショーナ指揮のスイス・ロマンド管」で、この曲の理想的な演奏だ。余白(?)に「アンセルメの三角帽子」が入っていて、これまた超名演。
冒頭のカスタネットに、男性の掛け声、ベルガンサの物憂い歌が始まると、部屋はまたスペインになってしまう。
音楽による贅沢な楽しみは、こんなところにもある。

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2006年7月28日 (金)

ブリテン シンフォニア・ダ・レクィエム マリナー

Marriner_britten 暑い8月が近付くと、レクィエム系統の曲を聴きたくなる。
それも悲痛で、激しく、かつ慰めに満ちたものが良い。
ヴェルディとブリテンの「戦争レクィエム」がそれである。後者は、またの機会として、今晩は「シンフォニア・ダ・レクィエム」を聴く。

ブリテンがホモセクシュアルだったことは有名だが、その彼氏であるテノールのピーター・ピアーズとアメリカ滞在中の1940年、日本政府がブリテンに「皇統2600年」奉祝の作品の依頼をして来た。そして作曲されたのがこの作品である。
日本政府は仮にも帝の祝典にレクィエム(鎮魂曲)とは何事だ!演奏せず無視してしまった。ブリテンは嫌味でなく、亡くなった自分の両親を追悼する気持ちから作曲したらしいが、真相はどうだったのだろうか。

ブリテンの作品は、社会的な問題や人間関係を深くえぐりとったような切実な音楽が多い。
「青少年云々」はほんの一面で、声楽作品やオペラにこそ深遠な作品を見出せる。
かくいう私もろくに聴いてないのだが、マッシブな叫びと優しい慰めに満ちた旋律を聴いていると心を揺り動かされる思いがする。

曲は3章からなり、「ラクリモーサ」「ディエス・イレ」「レクィエム・エテルナム」が連続して演奏される。重々しい行進曲風のラクリモーサは居たたまれないくらい切実。
厳しいくらいに鋭いリズムを刻むディエス・イレ、安息を求めるようなレクィエム・エテルナム。20分そこそこの作品だが、ズシリと重たく警鐘に満ちた作品だ。

さわやか「マリナー」ではあるが、ここではかつて主席をつとめた「シュトットガルト放送響」の機能的で鋭い音を生かし、かなり生々しい演奏振りだ。
オネゲルの交響曲「典礼風」も収め、祈りに満ちた曲と演奏の1枚である。

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2006年7月27日 (木)

ワーグナー 「ワルキューレ」 カラヤン

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「ニーベルングの指環」第一夜の「ヴァルキューレ」にたどり着いた。
リングの中でも、これだけ抜き出しての上演もあり、作品的にも充実している。前にも触れたがこの作品が「トリスタン」や「マイスタージンガー」の前に書かれていることが驚きだ。

「ヴァルキューレ」は人間主体の物語だ。ここでは、神々はいるが、まがまがしいニーベルング族や巨人族は出てこない。ヴォータンが人間界に産んだ「ウェルズング族」の悲劇が中心となっている。ここでの悲劇を引き起こす主体は、またもやヴォータンである。まったく困った神様なのだ。
自分が産み落とした、英雄ジークムントを図らずも死に追いやることになるのだし、自分の意志を継いだブリュンヒルデにお仕置きをせざるを得なくなって、愛しい娘と永遠に別れなくてはならなくなる。
 一方、この作品は近親相姦というモラル的に問題ある内容も伴っている。
兄と妹が出来てしまい、子供まではらんでしまう。その子供が長じて、叔母ブリュンヒルデと結ばれる。ムチャクチャである。常識(婚姻)の鏡である正妻フリッカが怒りまくるのもあたりまえだ。ヴォータンはそれを「今日おこったことを、あるがままに受止めよ」と平然と言い切る始末だ。

 

そんな非常識はおいておいて、音楽の素晴らしさに耳を傾けよう。
ここには、「情熱的な愛」、「逃走する悲劇的な愛」、「倦怠期の夫婦愛」、「父と息子の愛」、「生まれ来る子への母性愛」、そして「父と娘の愛」、こんないろいろな愛の形が描かれている。ここに付けられた音楽は、ワーグナーの作品の中でも最もわかりやすいものではなかろうか。

 

若い頃は「ヴァルキューレの騎行」に沸き立ったものだが、今は表面的すぎるし、うるさく感じる。この作品は、登場人物同士の語り合いが多いため、意外や室内楽的な雰囲気も多数ある。そんな場面の管楽器の独白めいたソロや、抒情的な弦楽器のささやきなどが、私の聴きものとなっている。
第2幕の「ヴォータンとフリッカ」「ヴォータンとブリュンヒルデ」、「ジークムントとジークリンデ」、「ジークムントとブリュンヒルデ」、第3幕の「ヴォータンとブリュンヒルデ」これらの対話の場面に耳をそばだたせて聴く。

 

そんな場面を精緻に見事なまでに聴かせてくれるのが「カラヤンとベルリン・フィル」だ。
ベルリン・フィルのソロは実際に雄弁で凄い。吹いている人の顔が浮かぶくらいだ。
こうした精密さばかりに気を取られていると、盛り上がる場面でも唖然とするような圧倒的なパワーが全開される。名旋律に満ちた作品だけに、カラヤンの巧さが目立つ。
こうした完成された美しさもたまには良い。これに毒を感じたら、ベームやショルティ、クナを聴けば良いと自分では思っている。

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1967年、カラヤンがオペラを上演するために始めた「ザルツブルクのイースター音楽祭」。まさに帝王のなせるワザ。おまけに普段オーケストラ・ピットに入ったことのないベルリン・フィルをピットに入れてしまった。その第1回目の上演が、この「ヴァルキューレ」。
音楽祭に合わせ新譜として発売できるように、前年に録音を済ませてあるから、上演における音楽面は完璧で、そこに居合わせた人は感嘆のため息を漏らしたろう。
以降、「ラインゴールド」「ジークフリート」「たそがれ」の順に「リング」は上演され、「フィデリオ」「トリスタン」・・・・と名録音と合わせて上演されていった。
いずれも、カラヤン自ら演出も行うというマルチぶりだが、このあたりは資料もないしどんな演出かは不明。写真で見ると舞台は暗く、風潮であったヴィーラント風のものではなかったろうか。

美声ばかりをあつめたやや軽量級の歌手陣だが、これまた素晴らしい。
トマス・スチュワートの美しい声に満ち、かつ立派なヴォータン。
普段はジークリンデのクレスパンのクリスタルな輝きに満ちたブリュンヒルデ。
これまた歌うはずのない、ヤノヴィッツのジークリンデは清冽な美に満ちている。3幕での救済の動機で感謝を歌う場面では涙が出た。
立派すぎるタルヴェラのフンディンクと、キリリとしたヴィージーのフリッカ。
 ヴィッカースのジークムントはこの中ではちょっと異質かもしれない。立派だけれども、今聴くとスタイルが古く感じる。

目をつぶって、ヴォータンが告別の歌を終え、近付くものへの警告を「ジークフリートの動機」とともに歌って、振り返りつつそこを去る場面を思い描く。
実家で暮らした頃、部屋の窓から小さな山越しに富士山が少し見えた。夕日がそこに沈む時、壮麗な夕焼けが望め、あたりが赤く染まり、徐々に暗くなっていった。
そんな光景を見ながら、デーリアスや「ヴォータンの告別」を聴いたものだ。

バイロイトでは、新演出のリングがそろそろ始まっていることだろう。
どんな告別のシーンが描かれていることだろう。ティーレマンの指揮はいかに。

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2006年7月26日 (水)

ラヴェル 「マ・メール・ロア」 デュトワ

Dutoit_ravel 久しぶりの晴れの日に皆なんとなく気持ちがよかったはずだ。
でも、早く晴れるないかと気をもんでいて、いざ晴れると暑くてかなわない。
曇り空のほうが、涼しくていいなんて思ってしまう。
今朝の通勤電車は、珍しくも途中で座れた。50分も乗っているから、座れると周囲から羨望の眼差しを受ける。
しかしだ、今日は横に座っていた男がゆらゆらと眠っている。いやな予感が的中し、私の方に寄りかかってくる。こちらも、肩をずらしたりして警告すると、男は反対側の女性の方に寄りかかる。そちらでも、嫌がられ、またこっちへ来る、といった具合に、右に左にゆらゆらといったり来たり。しまいに、私の方へ居着いてしまい、男の頭は私の肩に乗ってしまった。この野郎とばかりに腰を浮かすと、すぐに離れるがすぐにやってくる。
もう勘弁とばかり、座席の前に腰を移動。するとだ、男は私の背中と座席の背もたれの間に入ってしまった。これには周りの乗客も笑ったであろう。私はそこで下車。あと知らない。

女性なら積極的に耐えるが(?)、困ったものだ。電車で寝る場合は、心持ちうつむいて、腕は組まずにひざの上に置きましょう。そのほうが左右に揺れません。
頭はうつむかないと、窓に頭をつけて口あんぐりや、ヨダレたらり、になります。

前置きが長くなったが、夢見心地のおとぎ話の世界へ。
「マ・メール・ロワ」はバレエ全曲版に限る。組曲版やオリジナルピアノ版だと少し物足りないし、夢見る時間も少ない。
「美女と野獣の対話」のワルツに乗ったクラリネットの旋律が好きだ。野獣の妖しげな旋律との対比は天才のなせる技であろう。
最後の「妖精の国」はまさに「夢のようなおとぎの国」への別れを切々と歌っているようで、陶酔してしまう。クールなラヴェル。夏の夜にこれも似合う。

デュトワとモントリオール響は、磨きぬかれた工芸品のような演奏だ。
デッカの名録音もプラスに働いていようが、ここまでオケをトレーニングしたデュトワはビルダーとしてスゴ腕だ。N響の時はどうか知らぬが、モントリオールとの破綻もその厳しさにあったらしい。そんな辣腕ぶりで、ニューヨークかボストンあたりでもう一花咲かさてほしいものだ。

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2006年7月23日 (日)

ディーリアス 「夏の庭園で」 ハンドレー

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連日梅雨の末期か盛りかの不快な天候。
そんな関東を金曜日から数日脱出する機会が訪れた。旭川・札幌への出張である。こんなチャンスはないとばかりに、日曜まで滞在した。
しかし、仕事は、金・土であったが毎晩飲んでて二日酔い、どこも行けず。
日曜は仕事を思い出して、昼の便で帰還することとなった。
夏休みスタートとあって、子供連れが多く肩身が狭いが、道内はまだ学校があるし、普通の生活だ。それでも大通り公園は、ビール祭りが始まったし、豊平川の花火大会も週末行われていて、街は楽しい雰囲気に満ちていた。

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そして何よりも、「涼しい!!!」。夜は寒いくらいだ。
仕事が早く終わり、取引先と別れてから市内の公園に花を見にいった。
東区の「百合が原公園」は壮大な敷地に、その名の通り「ユリ」や「ラベンダー」が咲き乱れていた。

ひとり散策しながら、頭の中では「ディーリアス夏の庭園で」が鳴っていた。

この曲はまさに初夏のイギリスの庭園の様子を幻想的に描いたもので、かなり写実的な場面もあって、目をつぶって聴くと、なるほど、荒削りながら自然のままをうまく活かしたイングリッシュ・ガーデンが思い浮かんでくる。

ディーリアス自身もコメントしている通り、バラやユリをはじめとする何千という花が咲き乱れ、明るい色の羽根の蝶が花の間を飛んでいる。蜜蜂の気だるい羽音も聴こえる。睡蓮の花咲く静かな河ではボートに乗る二人の歌声が聞こえる・・・・
これがディーリアス特有のデリケートな音楽になっている。

ヴァーノン・ハンドレーがバルビローリの愛したハレ管を指揮して素敵な演奏を聞かせてくれている。
惜しむらくはデジタル初期のEMI録音は硬く潤いに不足する。

Imgp0243 前述の公園の水辺のベンチに、絵になる爺さんを発見。
ハーモニカを楚々と吹くさまは、周りの自然と溶け込んでいる。
曲は演歌でもなく、昭和の歌謡曲を独自にアレンジしたもののようだった。
いいなぁ、ハモニカ爺さん。

冬が厳しい分、北海道の人々は短い夏を思い思いに謳歌している。

 

 

 

 

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2006年7月20日 (木)

シューベルト 交響曲第2番 バレンボイム

Barenboim_schubert 梅雨寒のこの数日。日本は広く、こうしている間にも避難生活をされている人々がいることに同情を禁じえない。

青年シューベルトの交響曲は欧米でも大変人気があるようで、ネットラジオを聞いていると、5番あたりを非常に良くかけている。
以前、ダイエーかなにかのスーパーの館内有線音楽で、3番の終楽章をシンセサイザーっぽくならしていて、どっかで聴いたな?と激しく悩んだことがある。
購買欲をそそる音楽なのだろうか、人を明るい気持ちにさせるのだろうか?

本日の2番は変ホ長調。明るい色調につらぬかれ、シンコペーションのリズムも楽しい。
ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの響きを聴き取ることも可能だ。
2楽章などは、変奏曲形式で書かれていて、ハイドンそのものとも言える。
短調のメヌエット楽章でも弾むリズムは印象的で、トリオでは2楽章が回想されるなど、良く考えられている。終楽章も1楽章と曲想も構成も似せていて、曲の統一感も充分に表わせれている。

バレンボイムがパリ管の指揮者をつとめていた頃、シカゴと並んで、ベルリン・フィルも盛んに指揮していて、カラヤンの後継の有力候補の一人だった。
CBSに入れたシューベルト全集は、あまり注目を集めなかったが、私は「未完成」狙いから、この1枚だけを持っている。かなりロマンテックに傾いた未完成で、意外と好き。

そして1番と並んで、不思議と好きな2番は、少し重くはあるが、丁寧に扱った丹念な演奏で、思わず座りなおしてしまうほどの交響曲演奏になっている。
少し過去を振り向いた演奏ではあるが、シューベルトの優しさ、初々しさは充分に味わえる演奏である。
シューベルト18歳の交響曲第2番は桂曲である。

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2006年7月19日 (水)

ワーグナー 「ラインの黄金」 カラヤン

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バイロイトのシーズンを前に、連続ワーグナーもついに「リング」に立ち向かわざるを得なくなった。最高峰を前に足がすくむが、実は一番楽しみにもしていた。4部作を制覇した後の満足感は耐えがたい喜びであるから。
かなり集めてしまったので、1度しか聴いていないものもかなりある。
そんな中から、「カラヤンとベルリン・フィル」を選択した。

「ニーベルングの指環」は舞台祭典劇とした。その4部作の1作目は前夜祭または、序夜と呼び第1夜は次作の「ヴァルキューレ」である。ややこしい。
しかも、作品の成立過程がまたややこしい。
中期ロマンティック・オペラ「ローエングリン」と並行して、ゲルマン伝説に基づく「ジークフリートの死」の作品台本を書き上げた。同時期の構想として、「ドイツ王フリードリヒ」と「ナザレのイエス」を書き進めていたというから驚きだ。後者はのちに「パルシファル」へと変貌していったはずだ。

「ローエングリン」の初演のあてもないまま、自己の活動に日が当たらないことに業を煮やし、政治活動に力を入れ、当局に睨まれスイスに亡命。
「ローエングリン」はリストにより初演され成功するが、構想中の「ジークフリートの死」はその前段「ジークフリート」によりその生い立ちを明かす必要が生じ、さらにウェルズング族の興亡を描くため、「ワルキューレ」が必要となった。さらの、その序である「ラインの黄金」伝説が必要となり、結果として遡った格好で4部作の原案の完成となった。

作曲は「ローエングリン」のあと、原作とは逆に「ラインの黄金」「ワルキューレ」と進められた。同時進行で、政治運動に反対した普通の妻「ミンナ」の理解を得られぬ反動と、豊富な経済援助を施してくれた「ヴェーゼンドンク夫人」への愛情の傾斜、さらに「ショーペンハウエル」の哲学の影響などもあって、「トリスタン」の構想が同時に芽生え、「ジークフリート」の第2幕までで、作曲を中断し、「トリスタン」の世界に没頭することとなった。
さらに「マイスタージンガー」も同時進行した、という「ウルトラ・ハード」振りである。
 まさに天才のなせる技であろう。

「ラインの黄金」は巨大作のなかでは、一番コンパクト。それでも2時間30分という長さで、連続して上演される。演奏する側も、聴く側もトイレには万全を期さねばならぬ。
すべての始まりであるとおり、ここではプリミティブな雰囲気が満ちている。
自然の動機というライトモチーフが導き出される前の低音の5度から始まる。
ここを原始的にもやもやっと始めるのがクナッパーツブッシュだとすると、カラヤンはクリアーに透けて見えるような和音で始める。
この楽劇は、笑えるくらいリアルなライトモティーフに満ちている。序夜だから、みんなスッピンの動機なのだ。自作以降は、いろいろと姿形を変えて登場する動機たちである。

登場人物も、「天上の神々」「地上の巨人族」「地下のニーベルング族」そして「ラインの乙女たち」と主要な対立構造の種族たちがすべて出てくる。
みんな一癖も二癖もある、「あこぎなヤツ」ばかり。リングにいい人はいない。
もっとも悪党してるのが「神々の長、ウォータン」だろう。
金もないのに、巨人達に城を普請させ、代金のカタに美女「フライア」を取られてしまうありさま。しかも彼女を取り返すべく、ニーベルング族のアルベリヒが盗んだ「ラインの黄金」や彼が愛を断念して得た財宝を騙し取る。泥棒から泥棒したわけだ。
この泥棒銭で、城代金を支払った悪い神様がウォータンだ。
ワーグナーは自分に似せて描いたのだろうか?

まあ、そんなことを抜きにカラヤン盤を楽しむわけだが、一聴して、バイロイトのオケと雲泥の差を感じるベルリン・フィルの凄さ。
あらゆる段階の強弱が用意されている。録音芸術ではあるが、歌手をソリストにしたかのような協奏曲的な音楽が展開されている。
カラヤンの意図は明確だ。こんなベルリン・フィルの圧倒的な力を意図的にセーブしたり爆発させたりしながら、歌手もコントロール下に置き完璧な表現を目指している。
ショルティ盤が50年代を引きずった大歌手主体の演奏だったが、カラヤン盤は歌手は大きな個性はないかわりに、美声をあつめ、指揮者主体の演奏となっている。

そんな中で一人だけ、F・ディースカウの頭脳的・知能犯的なウォータンがそうした枠から一歩踏み出しているところが面白い。
ほかの歌手陣は皆完璧に美しく、巧いものだ。

最後のヴァルハラ城への入場の壮麗さは素晴らしい。感動した。

 

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2006年7月17日 (月)

J・シュトラウス 作品集 カール・シューリヒト

Schuricht_strauss 夏にシュトラウスというのもどうかと思いつつ、懐かしい演奏を取り出した。コンサート・ホール原盤の「カール・シューリヒト指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団」の演奏だ。
中学生の頃、会員制のレコード・クラブ「コンサート・ホール」に加盟していた。親のすねかじりであったにも係わらず、1枚1,350円(モノラルを選択すると1,150円)という価格は魅力で、さらに廉価盤の750円というのもあったし、25cmや17cmのレコードもありバラエティに富んでいた。
ジャケットもセンスある魅力的なものが多く、今も根強いファンがいるのもうなづける。
ただ録音がいまイチで、もこもこした音が多かった。

手持ちのレコードは傷もあり聴くに耐えないので、以前出たシューリヒトのアンソロジーから。 
「シャンペン・ポルカ」「常動曲」「ジプシー男爵」序曲、「ウィーン気質」「南国のばら」「酒・女・歌」の6曲が収められている。
 オリジナルのレコードでは、これに加えて、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」と「ウィーンの森の物語」が収録されていた。何らかの理由から復刻できなかったらしいが残念なことだ。
「ウィーンの森」がチターをまじえた、本当にふるい付きたく演奏だったからだ。

国立歌劇場のオケとはいえ、実態はウィーン・フィルのメンバーに近いであろう。
管楽器など独特の響きがするし、全体のまろやか感はまさにウィーンだ。

手元に35年前の会報誌があり、この録音時の記事を見つけた。
オーケストラを前にシューリヒトが語った言葉と居合わせた人の思い出。

「皆さん、私はJ・シュトラウスがとても好きです。しかし、私はウィーン生まれではありません。このウィンナ・ワルツの演奏で、私が少しでもその精神から外れることがありましたら、どうか私を正しい道にひきもどしてくださるようお願いします」・・シューリヒト

「ゆったりとした微笑に包まれて、この言葉は魔法のようにスタジオの中に、和やかな空気を作りあげた。結局、ウィーンのワルツやポルカが、彼の考えに、どのような訂正を差し挟まれることなく最後まで演奏されたことを、付け加えなくてはならない。
「神だ!神だ!」とその場に居合わせた日本の指揮者岩城宏之氏が、私の傍らでつぶやいた。」

長い引用となったが、こんなエピソードでこの演奏の内容が推察されよう。
一言も二言もあるウィーンの面々を、メロメロにしてしまい、早めのテンポですっきり・さわやかなシュトラウスを作りあげてしまった。
一連のブルックナー演奏にも通じる、シューリヒトの枯淡の技である。

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2006年7月16日 (日)

ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ヴァルヴィーゾ

Variviso_meistersinnger_1 トリスタンの無調に近付いた世界から、一転、ハ長の明るい調性の世界へ。「マイスタージンガー」は「トリスタン」と表裏をなすような姉妹作でもある。悲劇性と喜劇性、伝説と実話、媚薬と規則、ケルトと中世ドイツ、海と丘・・・、いろんな対比がなされるだろう。
リングやトリスタンで磨きのかかった、ライトモティーフ技法を駆使し作曲技法もいよいよ高度なものとなった。知らぬ人のいない前奏曲からしてそれは明らかだ。
この前奏曲に、4時間に渡る全曲のエッセンスが凝縮されている。
ここに出てくる旋律を完璧にマスターしてしまえば、4時間の全曲も怖くない。

問題は、歌われている歌詞が時に難解なことだ。ことに第1幕でのマイスター制度やマイスター歌曲の作り方・韻の踏み方等のくどくどとした説明は、ドイツ語の世界なので、我々日本人の感覚とかけ離れている。ザックスの哲学的なセリフや、第3幕でヴァルターに作詞を伝授するやりとりなども難解かもしれない。

しかし、そんなことは気にせずに、ワーグナーの書いた長調の世界に思い切り浸ればいいのだ。
ヴァルターとエヴァの若い二人の恋を応援し、それを影から見守り応援するザックスの複雑な心境を思いホロリとする。ベックメッサーの滑稽な歌唱にほくそえむ。
こんな聴き方が一番。
一方ドラマとして非常によく出来ているので、劇場で初めて見ると日本人は、人情ものや喜劇と勘違いしてしまう「おじさま、おばさま」がいる。
昨年の神国立劇場の上演ではそうした方々がかなり見受けられ少し閉口した。
ベックメッサーの滑稽な動きにところ構わず拍手してしまうのである。まあ、これもこの作品の持つ特製のひとつとしてよしか。

だがこの作品の見逃しえない一面は、「ドイツ国粋」を扱っていること。
これを「ヒトラー」が見逃すはずもなく、戦中の上演での歌合戦の場面では舞台に「鉤十字」の旗が無数にはためくこととなった。
現在の演出の時代にあっても、いろいろな解釈を呼びこんでいて、昨年、神国がオーソドックスに上演したのに、全く同時に来演したバイエルン国立歌劇場のものは「ネオ・ナチ」や「孤立するザックス」などを描いて、観る側に複雑な思いを抱かせた。
かつてのバイロイトでも、天才「ヴィーラント」はいろいろな工夫をこらしたが、この作品に関しては、折衷的な弟「ヴォルフガンク」の方が成功している。
事実、戦後バイロイトでこの作品だけがワーグナー兄弟だけの手で演出されている。数年後は誰の演出になるか楽しみではある。

そんな訳で、私としてはこの作品に演出は、ニュルンベルクの街があって、従来的な緑や丘、ドイツの人情に溢れたものが好きである。

そこで10種あるライブラリーから、ウォルフガンク・ワーグナーの成功作のライブである「シルヴィオ・ヴァルヴィーゾのバイロイト・ライブ74年」を取り出した。
「ヴァルヴィーゾ」は今はまったく名前も聞かれなくなってしまった、スイス生まれの名匠である。まだ存命中のはずだが、どうしているのだろう。
レコーディングにもあまり恵まれないが、イタリア・オペラのエキスパートとしてデッカに名演がいくつかある。そんな彼が、バイロイト?と訝んだものだが、モーツァルトやR・シュトラウスも得意にするオールマイティだったのだ。
バイロイトでは「オランダ人」「ローエングリン」を指揮している。
日本でも、ウィーン国立歌劇場に同行し「フィガロ」を指揮しているし、N響に客演して「イタリア」や「ドヴォ8」、「ダフニス」などを指揮している。
こんな経歴から覗えるのは、職人指揮者のイメージだが、この「マイスタージンガー」に聴く演奏は、そんな地味な枠を越えた「ユニークなワーグナー演奏」だ。
明るく、見通しよく、大オーケストラによる複雑なワーグナーの作曲技法が透き通って見える。重くならないが、ペラペラでなく、良く歌い、響きも豊かなので気持ちが上向きになる。そんなポジティブな演奏なのだ。

       ザックス    :カール・リッダーブッシュ
      ポーグナー  :ハンス・ソーティン
      ベックメッサー:クラウス・ヒルテ
      コートナー   :ゲルト・ニーンシュテット
      ヴァルター   :ジーン・コックス
      エヴァ     :ハンネローレ・ボーデ
      ダーヴィッド  :フリーダー・シュトリッカー
      マグダレーネ :アンナ・レイノルズ
      夜        :ヴェルント・ヴァイクル
 

  シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団


以上
のような素晴らしい顔ぶれ! 
 
史上最高の「ザックス」と私が思ってやまない、亡き「リッダーブッシュ」の人間味と包容力に満ちた、極めて美しいバスの歌唱。
若々しいが、これまたブリリアントなバス「ソーティン」。
そして、70年代のバイロイトのヘルデン・ロールを支えた「ジーン・コックス」の唯一とも言うべき歌唱の記録。「トーマス」や「キング」とともに「アメリカ生まれのワーグナー歌手」として活躍したが、録音には縁遠かった。「シュタイン」のバイロイト・リングの「ジークフリート」は彼の最大の成功作である。
若々しい声に恵まれ、張り切った歌唱の中でも、エーイとばかりに張り上げる高音は気持ちが良い。その彼の弱点はスタミナにあったらしいが、このCDではライブながら、あまり気にならない。
「ボーデ」の「エヴァ」ちゃんも当たり役。同時期に「ショルテイ」のスタジオ録音でも起用された。清潔で初々しい歌唱と高音域の美しさが際立っている。
この人も、録音に恵まれなかった。ハイティンクの第九でのソプラノも良かった。
 のちに名ザックスとなる「ヴァイクル」が「夜警」のちょい役である。

Meist7new フィリップスの劇場を知りぬいた録音も素晴らしい。ワーグナーが何故か指示した、第1ヴァイオリン右側配置もちゃんと分離してきこえる。これ以外とおもしろい。
画像は68年(たぶん)の新演出時のもの。歌手は何と「クメント」、指揮は「カール・ベーム」だった。非正規盤はあるが、オルフェオの正規発売をムチャクチャ期待している。できれば、ステレオで「ワルター・ベリー」がザックスを歌ったものを熱望している。

最終のザックスの演説は、先にあげたドイツ国精神の高揚賛歌であるが、そんなことは抜きに、長い時間聴いてきて、まさに前奏曲の終わりの部分とともに、「親方達を蔑んではならぬ・・・・」と歌い始めると、自分にお疲れさまの気分とともに、爽快な高揚感が味わえる。これって危険なのかしらん?

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2006年7月15日 (土)

ルネ・フレミング The Beautiful Voice

Flemingアメリカ生まれの「ルネ・フレミング」のアリア集を聴く。
数年前に一度聴いただけ。久方振りに取り出して聴く気になったのは、このところ急激にスターダムにのし上がったことと、よく見たらいい曲ばかり選曲されていること。しかも伴奏は、「J・テイトとイギリス室内管弦楽団」という爽やかコンビだったことも大きい。

     1.シャルパンティエ「ルイース」       2.グノー     「ファウスト」
     3.マスネ     「マノン」          4.ドヴォルザーク「母に捧げし歌」
     5.フロトー    「マルタ」          6.プッチーニ    「ラ・ロンディーヌ」
     7.コルンコルト「死の都」          8.オルフ          「カルミナ・ブラーナ」
     9.R・シュトラウス「朝に」          10.ラフマニノフ   「ヴォカリース」
    11.J・シュトラウス「こうもり」        12.レハール        「メリー・ウィドウ」
    13.カーノ     「エピローゴ」      14.カントルーヴ    「バイレロ」

どうです?素晴らしい選曲。フランス物、イタリア物、ドイツ物、スラヴ物とバラエティ豊かに集められている。古典がなく、後期ロマン派以降の作品が意図して集合したかのようだ。
要はこのあたりが、フレミングの得意とする路線。
 クリーミー・ボイスとか言われるが、この人の声は爽やかなクリームでなく、バターたっぷりの濃厚クリームを思わせる。
歌は本当に巧い。各国語も巧い。歌いまわしも巧い。巧いことづくめである。
しいて言うと、マゼールの指揮のようだ。
こうしたアリア集だから良いが、オペラの全曲となると濃すぎて、ちょっと厳しいかもしれない。

この録音は97年だから、約10年を経過し、彼女の最近の歌をつぶさに確認している訳ではないが、従来のネットリ感や隈取りの濃さは残しながらも、、もっと内面を歌い込もうとする積極的な歌唱に変貌しつつあるようだ。

このCDはそんな彼女の最も得意とするレパートリーに、彼女の本質的な気質が反映された1枚である。
とりわけ気にいったのが、プッチーニの「ラ・ロンディーヌ(つばめ)」ピアノ付きの名作アリア
とコルンゴルトの世紀末ムードたっぷりの「死の都」である。
 テイトの指揮もオペラの本質をしっかり掴んだ名伴奏である。室内オケの見通しの良さも格別である。
こういう歌を聴いてしまうと、日本人は何て淡白であっさりしているんだろうと思ってしまう。

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2006年7月14日 (金)

ドビュッシー 交響詩「海」 プレヴィン

Previn_debussy 今日は暑かった。全国的に熱帯化してしまった。千葉に帰宅すると、超激しい雷雨の上がったあと。東京は夕焼けだったのに、神奈川・千葉が大雨。道路の排水溝に枝や葉がたっぷり集まっていて降雨量の激しさを物語っていた。
 おまけに、首都圏の電車は信号機故障や人身事故が相次ぎ、乱れまくった。どうも落ち着かない、尋常ではない雰囲気がこのところ続いているように思う。

 

本格的な夏を迎えるにあたり、「海」を聴こう。何の意味もなく、海は年中聴いているが・・
「海」や「山」に出向きたくなる「夏」である。周辺でも「夏休み取ります」という声が聞かれ始めた。
「海」はドビュッシーで、「山」はR・シュトラウスといったところか。
海か山かと言われたら、それに限った音楽では、間違いなくドビュッシーを選択する。
24分前後で聞きやすく、海を軸とした静から動までの時間空間を楽しませてくれる。

 

そういうわけで、私は「海男」である。やたらCDを集めてしまった。若い頃、「海」や「ディーリアス」のカセットをウォークマンで聴きながら、人のいない平日の真夏の海で、キリリと冷えたビールを飲みながら波と戯れたものだ。寂しい話だが、海を眺めるのは年中、一人に限る。

 

本日の「海」は、「プレヴィンとロンドン響」の83年の録音によるもの。
プレヴィンだから、優しい眼差しにあふれていることは言うまでもない。
だが一方で、少し重心の低く克明にすぎるところが気にならなくもない。
このあたりが、プレヴィンの特徴である。こうした両極面が不思議なバランスで共存する。

 

第3楽章「風と海との対話」の、弦の高音に乗ったオーボエの旋律の美しさ、その後チェレスタやハープの清涼な響きも交え、各楽器が雄弁に有機的に結びついてクライマックスを築きあげてゆく。この輝かしい盛上りを聴きながら、目をつぶると人それぞれの海が見えてくるであろう。本当にいい曲だ。

 

 

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2006年7月13日 (木)

アイアランド ピアノ協奏曲 ホースレイ

Barbirolli_ireland2日間をかけたココログメンテナンスが終了し、ようやく普通のサクサク感に戻った。この1週間はひどかった。ログインに時間はかかるは、記事は消えるはで、ストレスが溜まるばかり。
しかも、ココログの対応の悪さ。フリーの無料版は影響を受けず、有料会員だけが今回の不具合の被害者。特設ブログには非難の声が山のように寄せられた。この非難も無視、クレームには外注スタッフによるマニュアル対応のみ。復旧した今(本当に復旧したのかしら?)、ココログがユーザーにどのような対応をするのか、サービスを対価で得ていただけに注目が集まるところ。

不快指数満開の今日、一日の終わりにまたイギリス音楽を。
1879年マンチェスター生まれの「ジョン・アイアランド」を聴く。初めてアイアランドを聴いたのが、「Forgotten Rite」という抒情的なオーケストラ作品で、英国作曲家特有のメロディアスタイプという印象で、「これは良いぞ」という思いでCDも集めた。

がしかし、いくつも聴いてみて、いまひとつ焦点が定まらないのである。
抒情派として作風は充分わかっている。モダンな洗練された要素もあり、風刺の利いた皮相的な要素もあり、はたまたフランス音楽のような印象派的な要素もある。といった具合。
これがアイアランドの特徴かもしれない。名士の家の出で、いわゆる「いいとこの坊ちゃん」として順調な人生を送った人ゆえに、ゆとりがあり作風もひとつに拘らなかったのだろう。

今日のCDのメインのピアノ協奏曲は伝統的な3楽章形式だが、ピアノが主役とも言えず、オーケストラも対等に自己主張する幻想的な作品である。ピアノ付きのオーケストラ作品に「レジェンド」という超美しい作品があるが、それと対をなす幻想作品ではないかと思う。
先程のアイアランドの特徴が、すべて盛り込まれているうえ、旋律が親しみやすい。

このCDには、バルビローリ指揮によるオーケストラ作品も収められている。
特に「ロンドン」序曲は、楽しく活気に満ちた大都会を描いている桂曲。
エルガーの「コケイン」にも似た作品。ちなみに原曲は、自身の吹奏楽作品「コメディー」序曲で、これもここに収められている。

いずれまた取り上げたい管弦楽作品や、ジョージ・ウィンストンを思わせるピアノ作品などもある、幸せ感じる作曲家「アイアランド」である。

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2006年7月 9日 (日)

ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」 バーンスタイン

Bernstein_tristan_1連続ワーグナー試聴は「トリスタンとイゾルデ」。ワーグナーはロマンティック・オペラから一転「楽劇(ドラマ・ムジーク)」という概念にたどりついた。
しかし作曲の順番からいくと、「ローエングリン」の後ではなく、「ローエングリン」の次は「ニーベルングの指環」の大構想が熟し、「ラインの黄金」「ワルキューレ」と続き、「ジークフリート」の第2幕まで終了した後この「トリスタン」(1859)と「マイスタージンガー」が作曲され、「ジークフリート」の第3幕はその後となるわけである。

「トリスタン」が割り込んできた経緯はいろいろあるが、一番は人妻「マティルデ・ヴェーゼンドンク」への一方ならぬ思いがある。世に言われる悪妻「ミンナ」に不倫しようとしていたことがバレて、当時居を構えていたチューリヒから、ヴェネチアに単身逃げた。
そこで、書きしたためたのがこの「トリスタンとイゾルデ」である。正妻から逃げ、不倫相手とも旨く結ばれず、熱い思いを焦がしつつこの傑作がイタリアの地で書かれた訳だ。
ヴェネチアを愛したワーグナーはかの地で後に終焉を迎えることにもなるが、この作品の重要な背景である、コーンウォールの海も荒涼としたイメージでなく、意外やアドリア海の澄んだ陽光で捉えると、新たな視点が生まれるはずである。それを感じさせるのが「アバド」であろうか。

「トリスタン」の半音階、無限旋律が切り開いた音楽の可能性や影響力については言うまでもなく、ここから「マーラー」や「ドビュッシー」「新ウィーン楽派」が始まったといっても良い。
そんな超作品だから、歴代の大指揮者達が名演を繰り広げ、録音も残してきた。
加えて、主役二人にかなりの負担を強いるように書かれていて、あらゆるオペラ作品の中でも最も重く、タフな体力を要求されるタートル・ロールになっている。それに準じるのがジークフリートとブリュンヒルデぐらいで、草食人種の日本人にとっても一番の難役となっている。

数あるライブラリーから、取り出したのは「バーンスタインとバイエルン放送響の81年ライブ」。このCDが83年頃に出たときは、予約してまで購入した。5枚のCDをそれぞれケースに収めたものをボックス化してあって、厚みにして6センチはあり、なんと言っても@15,000円もした。給料がCDと酒に消えていた幸せ(?)な時期、今ならとうてい買えない。最近の復刻では半分以下になっていて「何ともはや」の心境。

バーンスタイン盤の特徴は、何といってもそのテンポの遅さにある。
最速と思われる「ベーム」と比較してみると次の通り。
             1幕         2幕        3幕
バーンスタイン    92分        90分       93分     
ベーム         75分        72分       71分   

テンポが演奏の良し悪しの指標になる訳ではなかろうが、この違いはあまりにも特徴的である。両者共にライブで燃える人だが、オペラを知り尽くし凝縮された表現を突き詰めた末のベームに対し、音楽に自己を同化させ、没頭してしまわずにはおかないバーンスタイン。こんな二人の違いがテンポに表れているのだろうか。
この特徴的な遅さに再び聴くのを数年来ためらっていたが、毎晩1幕づつ聴き直してみて遅いことが気にならなかった。バーンスタイン晩年の特徴である「遅いところは遅く、速いところは速く」がここでもメリハリとして効いていて、実に劇的で面白いのである。
3幕のトリスタンの長大なモノローグなどでは、時として行き過ぎと思わせるようなネットリ表現もあるが、全曲が夢想的な「トリスタン」のような作品の場合、こんなバーンスタインの解釈も良いのかもしれない。
 この少し後、ウィーンで「ジークフリート」を中心とする「リング」の抜粋を演奏したが、惨たんたる失敗だったらしい。(J・キングがジークフリートに挑戦した!)
さもありなん。この音源があれば、是非聴いてみたいものだ。

こんなバーンスタインの独自の解釈に寄り添うように見事に反応をしているのが、バイエルン放送響だ。歌劇場のオーケストラと並んでミュンヘンのオーケストラの機能的で明るい色調は実に素晴らしい。

Bernstein_tristan2 豪華歌手陣も、指揮者を理解し、よく付いていっている。
ことに絶頂期にあった主役ふたりの肉太・重厚さとは縁のない、強靭でピンと張りつめた声による歌いぶりが素晴らしい。
1幕ごとに時期をずらして演奏されただけに、スタミナは充分で、最後まで破綻なく安心。
「ベーレンス」は女性的で、乙女と呼ぶに相応しい「イゾルデ」になっているし、颯爽とした「P・ホフマン」はバリトンに近い音色も駆使して、上下音域にハリのある歌唱をとなっている。「ホフマン」はロック歌手も兼ねていて、この後そうした無理もたたって、急速に輝かしい声を失っていった。残念なことである。

「ソーティン」のマルケ王が美しく底光りする声で素晴らしい。「ミントン」「ヴァイクル」の従者コンビも文句なし。現在トリスタン歌手として活躍している「T・モーザー」が若い水夫を歌っているのも、こうした過去の演奏を聴く楽しみである。

ワーグナー以上に、バーンスタインの魔力に引っ張られてしまった「トリスタン」試聴である。あー疲れた!!
 

     

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2006年7月 8日 (土)

シューマン 交響曲第4番 ハイティンク

Haitink_schuman シューマンの交響曲は4曲ともコンパクトでかつ不思議な魅力を持った作品ばかりだ。ロマンティックであるが、どこか常に後ろ髪を引かつつも、今ひとつ晴れ渡らないような居心地の悪さを感じる。

とりわけ1番の後に書かれた4番は、当初「交響的幻想曲」と呼ばれた通り、4つある楽章は連続して演奏され、各楽章の動機にも統一感があって、30分程度の交響詩のような雰囲気になっている。
最後は猛然とした盛り上がりが期待できるが、演奏会の最後にもってきても、ちょっと物足りないと思うのは私だけかしらん。

こんな作品だから、思い切りロマンティックに演るか、一気呵成に聴かせるの演奏も面白くフルトヴェングラーやバーンスタイン、カラヤン、シノーポリ、エッシェンバッハなどがこうした典型か。

一方ドイツ音楽として構成感ゆたかに、きちっと演奏したタイプが、クレンペラー、コンヴィチュニー、セル、サヴァリッシュ、クーベリックなどであろうか。

80年代前半に、一気にお得意の全集を完成させたハイティンクはどうか。
意外や両者の中間に位置する演奏に思う。早めのテンポで混濁なくすっきりと演奏は進み、最後のコーダではかなりのアッチェランドを効かせたりしている。
この頃からオペラもかなり振り、実直・真面目だけでなく、劇的な表現力も身に付けつつあったハイティンクである。
そこに馥郁たるドイツロマンの響きや、渋い木質の感触を与えているのが、コンセルトヘボウの素晴らしさであろう。

このコンビの後期の最良の姿がこのシューマン全集に刻まれている。
そして初回ジャケットの詩的な美しさは格別である。残念なのは、序曲が二つ抜け落ちてしまったことか。

Imgp9996 家に帰ると、アサヒ本生が18本も待っていた。ロボット缶が当たるキャーンペーンに応募したら、ロボット希望の息子の願いは空しく、ダブル・チャンス賞に当選したのである。この季節、実に嬉しいのである。
伊武雅刀と佐々木蔵之助のCM、「キャンペーンだよ、佐々木クン」のあれである。

ともかくウレシイのである。
こうしたウレシイ半面、ココログの絶不調はどうにもならない。夜間はログインに5分、記事作成画面まで10分、投稿保存などしようと思うと2~3時間は当たり前。しかも、記事が消えたり、人の記事が出てきたりと、ムチャクチャ。字体もおかしい。
利用者は皆切れている。次週大メンテがあるらしいがどうなることやら。

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2006年7月 5日 (水)

モーツァルト 弦楽五重奏曲第3番 スメタナSQ&スーク

Smetana_sq 昼間の蒸し暑さにも体が慣れ出した。日本の夏の到来も近い。しかし、不規則な昨今の天候はおいそれと普通の夏を準備してくれない。
それでも夜は、窓を開けて風を通すと実に気持ちの良い風が通り抜ける。
こんな晩に、モーツァルトの室内楽はいとも爽やかでよろしい。

6曲ある弦楽五重奏曲は初期の1番を除き、中期から後期にかけての円熟期にまとめて書かれている。この形式の場合、シューベルトに代表されるように、通常の四重奏団にチェロをもう一挺追加した作品が多い。
モーツァルトは、ヴィオラを二挺として重くならずに、全体の均衡や、協奏的なバランスを考えたらしい。

いずれの作品もモーツァルトにしか書けない名作だが、長調と短調の姉妹作のような今日の「ハ長調の3番」と「ト短調の4番」の2曲がとりわけ好きである。
この調性を見て思い起こすのが、最後の二つの交響曲であろう。
ハ長調の五重奏曲に「ジュピター」のような圧倒的な壮麗感はないが、伸びやかで穢れのない晴朗な明るさに満ちているように思う。
 その典型が、下から上昇するような旋律で始まる1楽章。2楽章のアンダンテの抒情的な旋律はいつまでも浸っていたくなる。ここでのヴァイオリンとヴィオラの掛け合いが素晴らしい。3楽章はメヌエット。トリオの優美さは、単なる優雅さとは違い、深いものがある。こんなのは言葉にできない。そして終楽章はロンド形式で冒頭の単純だが印象的な旋律が繰り返されつつ全楽器が見事なまでに結びついて完結する。

こんな名曲を4人がいつもひとつの楽器のようなスメタナ四重奏団に、同郷のスークのヴィオラの全集から聴く。スークのヴィオラは当たり前のように同質化している。
こんな緊密なアンサンブルはめったに聴けるものではない。私のような楽器の素人には、ヴァイオリンを主業とする人が、こんなにヴィオラを弾けちゃうということ事態が驚きだ。

76年PCM録音のデンオンの代表盤で、名曲・名演・名録音は誉めすぎか。
こんな名曲がありながら、ミサイルは何故必要なのだろう。
あの顔がブツブツの国家主導者のオジサンの耳にモーツァルトでも700曲くらい突っ込んでやりたいものだ。
加えて、ココログの激重にも辟易とする思いだ。

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2006年7月 4日 (火)

バターワース 「シュロップシャーの若者」ほか マリナー

Marriner_butterworth ジョージ・バターワースは1885年ロンドンに生まれ、1916年、31歳の若さで第一次大戦のさなか、フランスで戦死してしまった、薄幸の作曲家である。世代的には、V・ウィリアムスより一世代あと、バックスと同じ頃の世代だ。
早世しただけに、作品は数えるほどしかない、管弦楽曲が3曲と歌曲集がいくつかだけである。これらを聴くにつけ、つくづく残念な思いがする。

名前からして、いかにも英国の自然を思わせる詩的な雰囲気を感じさせるが、果たしてその音楽もまさに期待を裏切らない美しさと若々しさに満ちている。
かのカルロス・クライバーが何故か、「イギリス田園曲」を愛し、シカゴなどでよく取り上げていた。永遠の青年の気持ちを持つカルロスが共感したのもわからなくはない。

  「シュロップシャーの若者」(A Shropshire Land)
  「二つのイギリス田園曲」 (Two Englishidylls)
  「青柳の堤」        (The Banks of Green Willow)

いずれも10分前後の愛らしい小品。「シュロップシャー」は同名の歌曲集の姉妹作となっていて、若者特有の繊細な情感と儚い夢に満ちた名作だ。これを聴いていると、思いは誰しも遠くの野山にはせることとなる。
「田園曲」はのどかで親密な雰囲気の2作品からなる。カルロスが愛したのは1曲目らしいが、かわいらしい木管が活躍する楽しい民謡を思わせる桂曲。
まさに、民謡を引用した「青柳の堤」は、懐かしさに溢れる英国の風景そのもの。
風にそよぐ柳と流れるともない緩やかな小川の絵を想像いただきたい。

これらの素敵な作品を、「マリナーとアカデミー」はさらっと、いとも爽やかに演奏している。
バルビローリの思い入れを込めた演奏もいいが、バタ-ワースにはこうした「すっきり・さわやか」系がいいのかもしれない。同様の演奏にテイト盤もある。

歌曲の素晴らしさも捨てがたい。「シュロップシャーの若者」はハウスマンという英国詩人の作によるものだが、V・ウィリアムスやモーランなどもこの詩に作曲して、いずれじっくり味わってみたいと思っている。

この影絵のようなCDジャケットはセンスが良い。理想の生活が描かれていて羨ましい。
数年前、唯一のイギリス訪問時、タータンチェックの携帯用スキットルを購入した。
「ここにスコッチでも入れて、散歩がしたい」という思いだったが、いまだに実現していない。
そんなことに手を染めると「アル中」の道へ踏み込んでしまうという恐怖が勝っているからである。まだ元気だった親父には、組み立て式の携帯用ステッキを土産にした。このステッキの柄の部分がまた、少量の飲物入れになっていたのだ。
素晴らしき、英国人の知恵なり。

   

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2006年7月 2日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 ラインスドルフ

Leinsdorf_lohengrin ロマンテック・オペラの3作目は、物語もロマンテックの真髄である「ローエングリン」である。ワイマールで、リストが指揮をして初演し、観るもの聴くものを陶然とさせてしまった夢物語。後にワーグナーの強力パトロンになるバイエルン国王「ルートヴィヒ2世」をも虜にした。このおかげでリング等の後期の名作が生まれたと言っても良くこの純情な国王の功績は大きい。 

一方、「ヒトラー」が初めて聴いたワーグナーも「ローエングリン」。
ヒトラーもワーグナーに没頭し、ドイツの勝利を宣言するローエングリンに自分を重ね合わせてしまった。バイロイトを私物化し、政治の道具としてしまった。ワーグナーのイメージの闇の部分はこうした部分だ。チャップリンが「独裁者」でボールで出来た地球をもてあそぶ場面で、「ローエングリン」の清らかな前奏曲を鳴らしたのもこうしたことから。チャップリンの平和にたいする考えかたと、風刺のユーモアはすごいものがある。

ついでに言うと、リストは自分の愛娘「コジマ」が夫ビューローを捨てて、ワーグナーの元に走ってしまうなんて、初演した時には思いもよらなかったであろう。離婚前の不倫の子が、ジークフリート・ワーグナーである。孫達がヴィーラントとウォルフガンクの兄弟。彼らの子や孫もまた天才肌の癖ある人々で、ワーグナーの濃い血脈は今に受け継がれている。

「ローエングリン」は聖杯守護の王「パルシファル」の息子であると、劇中、高らかに宣言するが、これら二つの作品もワーグナーはいろいろと関連付けている。
パルシファルが白鳥を射抜くと、ローエングリンの白鳥のモティーフが鳴らされる。
聖と邪、光と闇、こんな対極が表わされている。「ローエングリン」における「ローエングリンとエルザ」と「テルラムントとオルトルート」、「パルシファル」における「聖杯グループ」と「クリングゾル」である。ただし、クンドリーは両面を備える二面性を持つことが意味深い。

本日の演奏は、「エーリヒ・ラインスドルフとボストン響(65年)」によるもの。
ミュンシュの後を受けたラインスドルフは、人気の点ではさっぱりだが、SP時代からオペラを中心に膨大な録音を残してしる。ウィーン生まれながら、ウィーンとは縁が薄かった。
何でもこなす器用さが、逆にアダになったのだろうか、事実、モーツァルトの交響曲全集を作ったり、ベルカント・オペラにヴェルディ、プッチーニ、ワーグナー、R・シュトラウスとあらゆる広範なレパートリーを誇ったが出来・不出来の波も大きかったらしい。
 72年にバイロイトに久方ぶりに登場し、G・フリードリヒの物議をかもした「タンホイザー」を指揮したが、1年で降ろされてしまった。

この録音に聴くラインスドルフは、オペラを知り抜いた指揮者にシンフォニー・オーケストラやアメリカ系の歌手達が安心して付いていっていて、なかなかの統率力の豊かさを見せている。ボストン響の明るく、ヨーロッパ的な響きは素晴らしく、一昨日のシカゴの強靭さとは全く異なった趣きがここにある。

タイトルロールの「シャーンドル・コンヤ」はハンガリー生まれのスピントで、拙ブログのテノールシリーズでも「プッチーニ・アリア集」を取り上げた。この全曲盤の中では一番聴き応えがある。凛々しく背筋の伸びたキリリとした魅力ある声で、神々しいローエングリンにうってつけである。バイロイトでもこれは当たり役であった。
 エルザに「ルシーネ・アマーラ」はメトで活躍したアメリカのソプラノで録音も多い。おもにイタリア物が多いが、ここに聴くエルザはリリカルでややクールな表現がなかなかに良い。
オルトルートは意外と要の役どころだが、ここでは「リタ・ゴール」というメゾの大所を配しているが、威力は充分だがやや安定感に欠ける気がする。
「ドーリー」のテルラムント、「ハインズ」のハインリヒ、いずれもまずまず。

なんだかんだで、イマイチ指揮者と思っていたラインスドルフをオーケストラの魅力も相まって見直す「ローエングリン」であった。
ラインスドルフ、ケンペ、スワロフスキー、クーベリック、アバド、バレンボイムの6種のCDに、これまた多量のFM音源。バイロイトでのエド・デ・ワールト、ネルソン、シュナイダーあたりが素晴らしかった。ハンブルク歌劇場の来日公演でのネルソンの指揮も良かった。

この作品は主役を思い切りヒーロー扱いすると、非常に舞台栄えする。もちろん主役に人を得なくてはならないが、ルネ・コロやペーター・ホフマンだったら最高だろう。
バイロイト版G・フリードリヒ演出の映像(ホフマン)を観たことがあるが、1幕の登場の場面は光り輝くなかにシルエットで浮かび出すローエングリンが極めてカッコよかった。
かつての歴史上の人物が心惑わされたのもさにあらん。
日本の某首相もずるこくもバイロイト詣でをしていたが。

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2006年7月 1日 (土)

ワーグナー 「タンホイザー」 クリュイタンス

Cluytens_tannhausar ワーグナー中期のロマンティツク・オペラ第2作は「タンホイザー」。ドレスデンで反動活動を行い危険人物だった。そうした活動と並行して、ドレスデン宮廷劇場の指揮者もつとめ、成功を掴みつつあった時期の作品。
前作にも増して、「女性の自己犠牲」による「救済」がさらに物語として進化している。

中世のミンネゼンガー(騎士で歌うたい)という高潔な立場にあった「タンホイザー」が快楽の楽園「ヴェヌスブルク」に溺れてしまう。ヴェヌスブルク帰りの彼には、気取った宮廷歌手たちは生ぬるく感じる。そんなタンホイザーは社会に溶け込めない「アウトロー」なのである。ある意味前作オランダ人と同じキャラクターかもしれない。
 そのあたりを演出は強調することが多い。
1951年、戦後始まった「新バイロイト様式」での孫ヴィーラント・ワーグナーの演出は、「タンホイザー」の登場は54年からだが、おそらくそうしたコンセプトのもと、主人公の疎外感を強調したのではなかろうか。観てみたかったものである。

54年の新演出はカイルベルトとヨッフムが受け持った。この演出は賛否両論を呼び、55年で終わってしまう。次の登場は61年の改良版までなかった様子。
タンホイザーは合唱が活躍するので、ダイナミックな群集の動きを期待した聴衆からの理解が得られなかったのではなかろうか。ヴィーラントの目指したものは、動きや舞台装置を簡潔にし、照明も暗くして、音楽の持つ説得力に集中させようという能のような渋い世界だったからである。現代の自己主張の強い演劇性の高い演出の時代とはかけ離れたもの。

音楽面においても、ヴィーラントはクナッパーツブッシュの深遠なる巨大な音楽性を重視した一方、早めテンポで凝縮された表現も好み、カイルベルトやベーム、スウィトナーも重要な指揮者達だった。それにも増してラテン系の透明・明晰な響きを導入しようとした。ギリシァの舞台も意識したのだろうか。そこで、クリュイタンス、エレーデ、ブーレーズらの起用である。
55年に今回の「タンホイザー」で登場したクリュイタンスは、以降「ローエングリン」「マイスタージンガー」「パルシファル」をバイロイトで手掛けている。

オルフェオがバイエルン放送の音源を復刻しているバイロイトシリーズ。
遅々とした進行だが、最大限に期待しているのがクリュイタンスの演目のすべてである。
ドレスデン版を基調にした上演。冒頭の序曲からなかなかに個性的である。かなりゆったりと美しく旋律を歌いながら始まる。しかし、バッカナールの場面では、かなり強烈な響き聴かせる。全般にテンポを微妙に揺らしながら、強弱も付けながら、単調に陥らない素晴らしい表現力である。2幕の後半のタンホイザーの罪を請うエリーザベトの歌に始まる重唱などは、混濁せず、見通しよい一方、高潔な盛上りを見せている。
3幕前半の抒情的な場面では、しなやかさが印象的である。最終の場面では、テンポを絶妙に落とし、ジワジワと感動を盛り上げてくれる。こんなイイ感じの演奏が、50年前とは思えない明瞭な音質で聴かれる。もちろんモノーラルである。

全盛期のヴィントガッセンは、同年リングでも活躍しているから、そら恐ろしいタフネスぶりである。そして、その気迫に満ちた野太い声は実に説得力に満ち引き込まれる。
後年の彼のタンホイザーはくたびれ、敗れたオジサンとして妙な説得力あったが、ここでは若く、まだやり直しのきくタンホイザーになっている。
 さらにフィッシャー=ディースカウのウォルフラムが素晴らしい。声に花がある。一語一語に心がこもり、同情を歌で表現できている。
ブロウエンシュティンのエリーザベトは、やや発声に古めかしさあるかもしれないが、これまた役に没頭した迫真の歌唱。領主へルマンは、重鎮グラインドルで立派ながら、私には声のイメージがどうもハーゲンに聞こえてしまう。

タンホイザーのライブラリーは、クリュイタンス、ゲルデス、ショルティ、スウィトナー、ハイティンク、バレンボイムの6種、エアチェックやビデオ多数。最近では、バイロイトのティーレマンが出色の出来栄えだった。

そんなこんなで1955年のバイロイト・ライブが聴けてしまう2006年の今。
ややこしい法律や権利関係はあるものの、世界にはお宝音源がたくさんあるはず。
新録音の枯渇をこうした音源が埋めてくれる。
だがしかし、後世に残すべき正規録音が歪んだ商業主義の元でしか生まれないのが極めて遺憾である。

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