ワーグナー最後の舞台作品は、「舞台神聖祭典劇」と自ら名付けた「パルシファル」。
「ニーベルングの指環」は「舞台祝典劇」と呼んで、楽劇の上演を宗教的な行為に高めようという極めて尊大な考えがあった。
最終作では、劇の内容そのものが宗教的な題材にあるため、正に「神聖祭典」と呼ぶに相応しいと考えたのであろう。
何と言う自信とエゴのかたまりであろうか。性格も悪すぎのワーグナーなのである。
そのエゴは、自身の作品のみを上演する劇場の確保へと走らせた。
純粋で夢見るワーグナー信者「ルートヴィヒ2世」を篭絡し、多大な援助を取り付けバイロイトに劇場を作った。かの純情王がいなければ、リング以降の作品がなかったかもしれない。かくして、われわれはかの王に感謝しなくてはならない。
「パルシファル」構想は「ローエングリン」作曲時に芽生えていたが、ルートヴィヒ2世の熱い要望によって最後にとりあげられたとも言われる。
宗教的題材のスケッチとしては、キリストそのものの「ナザレのイエス」、仏陀を描いた仏教劇「勝利者たち」が残されていて、こうした宗教的な思想が総合されて「パルシファル」が完成した。仏陀の作品も残して欲しかったものだが・・・・・。
この「パルシファル」のモティーフは「同情による救済」である。
これまで、「女性の自己犠牲による救済」をさんざん描いてきたワーグナーは、最後に到っていわゆる「(自己犠牲という)行動派」から、「(感情という内面的)思索派」に転じたのかもしれない。「パルシファル」は確かに、槍を奪還し、その槍でアンフォルタスを救済するという行動派ではあるが、基本は愚の人間が同情という感情を得て行った行為であるから、思索の人と言えるかもしれない。同時に寡黙の人でもある。
「同情により知を得る愚か者」、こんな風に「パルシファル」を比喩して歌われる。
愚の若者は2幕で「クンドリー」の接吻を得てまさに「(アンフォルタスへの)同情」を強く知ることになるが、ここはまさに「ジークフリート」とも重なる。「ローエングリン」は「パルシファル」の息子であることを高らかに歌うが、「ローエングリン」は最初からサラブレッドで女心もわからないボンボンなのだ。かつてやんちゃ坊主だった父からは「若い頃の武勇伝」なんぞを聞かされていたに違いない。なんてことを考えるのも楽しい。
さらに「クンドリー」は救済を求める「マグダラのマリア」で、「エリーザベトとヴェーヌス」の二面性を持った悲しい女とも言われる。かつてカラヤンは、1幕と2幕でクンドリー役を異なった歌手で上演した。また余談ながら、「タンホイザー」の女性二役も同一歌手で演じられることもある。女性とはげに恐ろしきものよのう・・・・。
次いで、「アンフォルタス」は傷を負い、死を求める「愛の人」、「トリスタン」と言える。
ワーグナーは、「アンフォルタス、クンドリー、パルシファル」を控えめな表現ながら「アダム、イブ、キリスト」に例えた。なるほどかもしれない。
地味な老人「グルネマンツ」は語り部的な存在であるが、愚の「パルシファル」を聖堂に導き、賢者の「パルシファル」をも聖堂に導くという先導役として極めて重要な存在。
ダークサイドの「クリングゾル」は愛または信仰を断念した、という意味で「アルベリヒ」的な存在なのであろう。かなりあっけなく倒されてしまうのが気の毒だが。
こんな特殊な作品だから、ワーグナーはバイロイト以外での上演を封印した。まさにバイロイトの丘に参列し、儀式に参加しなくては「パルシファル」は体験できなかったのである。
その封印ものちに解け、復活祭あたりにさかんに各地で上演されるようになった。
1951年戦後バイロイトのスタート、いわゆる「新バイロイト」の象徴は、ヴィーラント・ワーグナーの「パルシファル」演出であろう。非具象的・暗示的な舞台は暗く何もない。
聴衆は能のような静かな動きの舞台に集中し、音楽だけがそこにあった。私のひとつの理想のような舞台ではないかと、想像するのみであるが。
案外、現代の有り余る情報過多の演出に馴れてしまうと退屈に思えるかもしれないが、一度復刻の試みがなされないものであろうか。
この演出は、1951年から66年のヴィーラントの突然の死を経ても、73年まで上演された異例のロングランであった。そしてこの演出に付随するかのような指揮者が「クナッパーツブッシュ」である。クナも亡くなるまで、一度の例外を除き64年まで指揮を続けた。
茫洋たる神秘的・巨大な演奏がこの作品と演出にいかにぴったりだったか。
クナの死後は「クリュイタンス」と「ブーレーズ」のラテン系指揮者が受け継いだことも興味深い。ヴィーラントは一方で、地中海的明晰さをも求めていたと言われる。
彼が弟のように長生きしていたら、ワーグナー演出シーンはもっとかわったものになっていたかもしれない。音楽面でも、「クライバーのリング」や「アバドのバイロイト登場」なども実現していたかもしれない。嗚呼・・・・。
今回の「パルシファル」はショルテイが71年に録音したもので。
これは確かこの作品初のスタジオ録音ではなかったかと記憶している。
リングでカラヤン=ベルリン・フィルの凄さをイヤといほど聴いてしまったので、ここは、「ウィーン・フィル」に登場してもらわなくては、の一念と、大好きな「ルネ・コロ」も登場させたかったからである。
画像は録音風景から。コンサートマスターは、毛ありの若きキュッヘルが座っている。ここでは、さすがのショルティもかなり神妙に振舞っている。
時おり、唐突な音の切り方やギクシャク感もあるが、全般に落ち着いた演奏ぶりとなっていて安心して聴いていられる。そしてやはり、ウィーンフィルの魅力は大きい。
冒頭の前奏曲からして、深々とかつまろやかな響きに耳を奪われる。どんなにショルティが怖い顔で指揮をしていても、出てくる音はウィーンのそれである。
歌手陣は、すでに最盛期を過ぎた往年の名歌手、正に最盛期にある人、これから上り詰める人、これらを混ぜ合わせた粋な選択がなされている。往年組は、名ハーゲンであった、「ゴットロープ・フリック」の酸いも甘いも体験しつくした味わい深いグルネマンツ、これまた名ウォータン、「ハンス・ホッター」の疲れきった中にかつての王の気品を感じさせるティトゥレル。
最盛期組は、劇的で役になりきってしまった「F・ディースカウ」のアンフォルタス。この人の言葉の明晰さは、ドイツ語の教本のように聴こえる。そして、「クリスタ・ルートヴィヒ」のクンドリーは、二つの性格を見事に歌い分けている以上に、2幕の劇的な歌唱には感動した。
第3幕では、うめき声と「奉仕を、奉仕を」の声しか発しないのがもったいない。
そして、上昇組は「ルネ・コロ」だ。売り出しの頃だけに、若々しい。もともとオペレッタ畑でも鳴らした人だけに、甘く楽天的な声を持っているが、それを厳しくコントロールしながら力強い声に磨きをかけていった。しかし、ここでは若さをみなぎらせて、美声をたっぷり聴かせてくれて気持ちがいい。
花の乙女たちの中に「ルチア・ポップ」や「キリ・テ・カナワ」の名前が見られるのも豪華版である。
こんないいことづくしの「パルシファル」演奏であるが、欲をいうと、録音も含めて何か白日のもとにさらけ出されてしまったかのような印象を持ってしまった。
陰りの部分や神秘的な雰囲気などがもう少しあっても良いのではと・・・・・。
聖金曜日の音楽に至るともう感動がジワジワと広がり、野山が春の花で覆われるような光景が目に浮かぶ。クンドリーがパルシファルの足を髪で洗うさまは、聖書のワンシーンであり、彼女がついに洗礼を受け涙を知るところでは、こちらも涙にくれてしまう。
ワーグナーが書いた最も美しい音楽だと思う。
かくして、「オランダ人」以降の全曲試聴は暑さの中に終わった。ワーグナーの呪縛を受け、もう数十年が経つが、死ぬまで解けぬのであろう。喜びのうちにその呪縛を受けていたい。人はバカだと思うであろうが、バカは死ぬまで直らない。
「リング」は環のように廻ってこれまた困るが、「パルシファル」の次はまた「オランダ人」に帰るのだ。全曲試聴は、何度もやっているが、これからもやるぞ!!
とりあえず、自分にお疲れ様。そして、自己満足の長文をお読みいただいている皆様、ありがとうございました。次のサイクルもありますよ。
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