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2006年8月

2006年8月31日 (木)

ディーリアス 「夏の歌」 バルビローリ

Barbirolli_english 去る夏を惜しんで聴く音楽といえば、ディーリアスに限る。
日差しは夏だが、空気は秋を先取りしている。秋は秋で、本格的な高い空を望めるまでにはまだかなり間がある。それまで、台風は長雨もある。

よけいに、夏の眩しさをいとおしみたくなる。
そんな気持ちに寄り添ってくれるのが、ディ-リアスの「夏の歌」。
「夏の歌」はディーリアス(1862~1934)の晩年、若き頃の放蕩がたたったのか、失明し、四肢も麻痺してしまった状態で、1929年に大好きな海辺で弟子のエリック・フェンビーに口述して書かせた。

「海をはるかに見渡せる、ヒースの生えている崖の上に座っていると想像しよう。高弦の持続する和音は澄んだ空だ。・・・・・・」こんな口述で作曲が進められたらしい。

11分程度の作品だが、交響詩と言うほどのものでもなく、「音による風景や若き日々への回想」といった感じだ。冒頭まさに、高弦の和音が響くなか、低弦で昔を懐かしむフレーズが出る。矢継ぎ早やに、フルートが遥か遠くを見渡すような、またほのかに浮かんだ雲のようなフレーズを出す。この木管のフレーズが全曲を通じで印象的に鳴り響く。
ついで、懐かしいディーリアスらしい郷愁に満ちた主旋律が登場し、曲は徐々に盛上りを見せ、かなりのフォルテに達する。
海に沈まんとする、壮大な夕日。沈む直前の煌々とした眩しさ。これがこのフォルテか。
そして、曲は徐々に静けさを取り戻し、例のフレーズを優しくも弱々しく奏でながら、周辺を夕日の赤から、夜の訪れによる薄暮に染まりながら消えるように終わってゆく・・・・・。

Imgp3728_a 画像は、数年前に旅行した秋田の「夏の海の夕暮れ」。
海に沈む夕日は、まさにディーリアス。そしてこの「夏の歌」の世界だ。
こんな壮大で、人生の夕暮れをも思わせるような光景をディーリアスは思いながら作曲したのだろう。彼の作品の根底にあるのはこんな絵かもしれない。

バルビローリロンドン交響楽団と録音したこの1枚は「English Tone Poems」と題され、詩情に満ちた作品ばかりが収められた素敵なCD。

      1.アイアランド 「ロンドン」序曲
      2.バックス   交響詩「ティンタジェル」
      3.ディーリアス 「村のロミオとジュリエット」~「楽園への道」

      4.  〃     「イルメリン」前奏曲
      5.  〃     「夏の歌」

いずれも、指揮者の唸り声が時おり聞かれる。サー・ジョンの慈しみに溢れた愛すべき名演である。

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2006年8月30日 (水)

青森・秋田・岩手 メタボリック出張

Hatsushoku 先日、数日をかけて北東北3県の出張に行っていた。
各県のお客巡りを車で走行するわけだが、ともかくでかいエリアである。
岩手県だけでも、四国より少し小さいくらい。走行距離は4日で、800Kmに及んだ。
例によって、時間の許す限り、というか腹の許す限り飲んで、食べた。
まずは、朝一の新幹線にて「八戸」入り。これなら午前中に、市内で面談ができる。
お昼は、八戸市民の食生活を支える、「八食センター」へ。ここは必ず訪れることにしている。市場とショッピングセンターが一体化したような施設で、飲食店も充実している。
「勢登鮨」でラーメン・寿司セットで、満腹コース。煮干出汁の八戸ラーメンに、鮮度抜群の寿司は応えられない組合せ。

Imgp1419 三沢市内のスーパーで、魚介の串焼きの移動屋台を発見。
焼鳥じゃないところが、青森している。たまらん。



Imgp3609a 夜は、南下して「盛岡」泊。盛岡の夜は以外に賑やかだ。
華やかな客引きも多い、ふらりと小料理屋「酔牛」へ入ってみる。
馬刺しや、豆腐、三陸の魚などをあてに、岩手の地酒「よえもん」などをたくさん飲んだ。腹が許せば、「冷麺」でもと思ったが初日ゆえ慎重に見送った。画像は以前食べた「ぴょんぴょん舎」の冷麺。イオンなどに出店したり、テレビでも紹介されたりで、最近有名になってしまった。

Imgp2245 翌日は、岩手から秋田内陸部の「大舘」へ。ハチ公の生まれた里。
比内地鶏の産地。地鶏の店「秋田比内や」大舘本店に勇んで乗り込んだが、客は満杯。かろうじて一人分確保してもらった。写真を撮るどころでない。
比内地鶏は、コシと鶏の旨味が凝縮されていて、何を食べても最高。甘めの地酒との相性も良い。残念だったのは、混雑する客の面々は、皆関東方面からの出張族で、自分がどこにいるのかわからなかったこと。つまらないのだ。
地元と触れ合うのも、出張の楽しみだし、情報のやり取りも仕事に寄与するのだ。
 でも、2軒目に訪れた、「GREEN WOOD」なるバーは、既に紹介済みだが、音楽といいウィスキーといい、私の好みに符合する素敵な店だった。
比内鶏の卵を織り込んだ「パイラスク」を購入した。これが、卵の優しい甘味が効いておいしかった。
Sichimi 大舘で「そば処七味」にふらりと入った。ところが、メニューの大半は中華である。皆、中華そばなどを食べている。そこで、「特製七味ラーメン」なるものを注文。これが、魚貝出汁のあっさりラーメンで、具がゴージャス。
なかなかに優しい味で、堪能した。

Sashimi 翌日は、津軽「弘前」を経て、「青森」へ。
青森に行くと、必ず行く寿司屋「あけぼの」。親子で永年真面目に握り続ける、地元民に愛される肩の凝らない寿司屋だ。
市内に入ったのが遅かったので、ネタがかなり絞られてしまったのが残念だが、それでも鮮度の高い素晴らしい魚を供してくれた。
Uni 最高だったのが、津軽湾・野辺地の近郊でとれた「ウニ」。
もう、も~う、たまらなく美味い。どうしようもない。
津軽の名酒「田酒」があれば言うことなしだが、「じょっぱり」で我慢。
ウニをひとくち、口に含んでは、とろける甘味を噛みしめる。それを、日本酒で流し込んですっきりさせ、またウニを頬張る・・・・・。
Sushi  「あるネタで握りましょう」ということで、この寿司。
こんな美味いものばかり食べてたら、体を壊してしまうが、それでもいい。
もう、どうにでもして、ということになる。


Aomori_sta2 腹ごなしに、青森駅まで歩いて、この先は北海道なんだと、しばし旅情を楽しんだ。

体のメタボリック化が心配だが、酒と美味しいものは、音楽と同様に止められない。周囲は私を「ミスター・M(メタボリック)」と呼ぶ。ふっふっふ。

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2006年8月29日 (火)

R・シュトラウス アルプス交響曲 プレヴィン

Previn_alpine 夏も終わりに近付き(実際は残暑が1ヶ月は残ってるけど)、海系統は何曲か訪れものの、大慌てで山登りをすることとした。
「アルプス交響曲」、この曲がこんな人気曲になるなんて、かつて想像もつかなかった。私がレコードを聴き始めた頃は、ステレオ録音では「ケンペ/ロイヤル・フィル」が唯一で、モノラルの「ベーム/ドレスデン」があと出ていたくらい。気鋭のメータも「英雄の生涯」と「ツァラ」までで、まだこの曲は手掛けてなかった。私が初めて聴いたのが、当時NHKのAM第一放送、日曜の朝に放送していた「音楽の泉」(確かこんな名前だった)で取り上げられたものだった。
曲を山登りの進行に合わせて止めながら、村田武雄先生の詳細な解説が入るもので、シュトラウスの写実的な作曲技法に驚き、時には「ふむふむ」などと感心しながら聴き入ったものだった。その放送は当然モノラルだから、ベームのレコードで何の支障もなかった。

今からすると隔世の感であるが、今より音楽を夢中になって聴いていたかもしれない。
ありあまる、CDや映像メディアを見るにつけ、音楽の本質を忘れちゃいかんと自戒する次第である。だが、「アルプス交響曲」ほど、高音質の音楽メディアの恩恵を被った曲もなかろう。演奏技術の向上もさることながら、CD1枚にこんな演奏効果のあがる曲がすっぽり収まってしまう。音の混濁やカスレなど気にしなくても良い。
レコードでは、頂上に至るクライマックスで盤面を変えなくてはならなくて閉口したが、そんな不満もなくなった。つくづくかつては、「何やってたんだろ」的な世界だ。

あらゆる指揮者達が、こぞって取上げる名曲となり、我々も選択に困るまでになった。
プレヴィンは、この曲が好きらしく、今日の「フィラデルフィア管」の録音の後、「ウィーン・フィル」とも決定的な名録音を残した。最近では「オスロ・フィル」とも取上げている。
ウィーンでの録音は、シリーズ録音の一環という以上に、ウィーンの柔らかな響きが全面にでた演奏になっていたが、このフィラデルフィア盤は生々しい録音も手伝ってか、隅々まで輝かしい明かりに照らされたような演奏になっているように思う。
オーケストラの超優秀さは言うまでもないが、細かな音の動きや各声部がすべて良く聴こえる。そこまで聴こえていやらしく感じないのは、プレヴィンの指揮のしなやかさ・柔らかさであろう。難点は、シュトラウスが描いたガルミッシュ・パルテンキルヒェンの山の爽快さ、清涼感があまり感じられない点か。
プレヴィンは普通に純音楽的に名オーケストラとのコラボを楽しんでいたのかもしれない。
天邪鬼の私は、こんな演奏が好きだ。

シュトラウスの作曲時期でいうと、「ばらの騎士」、「アリアドネ」を終えたあたり、交響作品の名作はあらかた書き尽くし、以降お伽の世界や軽やかで洒落たオペラ群を作り出していくことになる。

Mtiwate   山ついでに、先だって北東北3県を出張したおり、ハンドルを握りながら撮影した山々を紹介。

上は、岩手県のその名も「岩手山」、盛岡市の北にそびえる2038mの山だが、火山である。平成10年には活動も再び始まった。
岩手富士」とも呼ばれるが、厳しい山でもあるようだ。  

下の画像は、青森県の「岩木山」、こちらは「津軽富士」。
Mtiwaki_1 高さは1625m、一面のりんご畑と稲畑の津軽平野の中にそびえる姿は優しく美しいが、こちらも立派な休火山である。

日本の山々は、人々の信仰の対象にもなっていて、昔から山は生活に密着して恵みをもたらしてくれるとともに、冒すべからざる存在でもあったのだ。
シュトラウスを聴きつつ、日本の山を想う時、登頂の到達感よりは、山が与えてくれる恵みや慰めを感じる。海もいいけど、山もね・・・・。

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2006年8月27日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」抜粋 スウィトナー

Suitner_lohengrin 盆を過ぎると、朝晩が過ごしやすくなる。北東北ではコスモスが咲き始めていた。しかし、セミが現れる順番でいうと「ツクツクボウシ」がそろそろなんだが、今年はまだ登場していない。コイツを聞かないと夏休みが終わらない。(自分でなく、子供達の)

さて、ワーグナーである。本日は軽く「ローエングリン」を。しかも抜粋CD。
         これならほんの1時間。 
               1.前奏曲   2.エルザの夢  3.ローエングリンの登場
               4.ハインリヒ国王の試合の宣告   
               5.テルラムントとオルトルートの闇の世界の二重唱
               6.3幕前奏曲  7.ローエングリンとエルザの二重唱
               8.ローエングリンのはるかな国より

こんな感じで全曲が見通せる選曲となっている。もともと、ハイライト盤として録音されているようで、違和感はない。しかし、残念なことに、全曲録音がなされていない。
Suitner_a オトマール・スウィトナー、(ドイツ言う読みでは、ズイトナー?)日本にとっても馴染み深い指揮者のワーグナーの正規全曲盤がないからである。モーツァルトのスペシャリストであると同時に、ワーグナーと直伝としたR・シュトラウスを得意にした。
そう、カール・ベームとレパートリーが似ているし、同じオーストリア出身。
バイロイトにも同時期に出ていた。あの「リング」をベームと交互に振り分けていたほか、「オランダ人」、「タンホイザー」を指揮した。

スウィトナーのワーグナーは、ドイツ系ながら、響きが明るく決して重くならない。
そうした傾向は、「ローエングリン」にはピタリとくる。劇場の人らしく、歌手の呼吸を読んだ指揮ぶりも見事。オケも歌手もやりやすいであろう。
それ以上に素晴らしく思ったのは、音のひとつひとつが輝くように美しいことだ。
オケはベルリン国立歌劇場だが、今でこそバレンボイムが造りあげたように言われているが、当時のこの楽団はドレスデンと並んで素晴らしかった。

そんなスウィトナーも1922年生まれだから、84歳。引退してしまって久しく、テレビでもお馴染みだった指揮も懐かしく感じる。「マイスタージンガー」の来日公演を観たのが最後になってしまった。NHKは、倉庫に眠る音源を商業化を待って後生大事にしまいこんでいるが、放送を通じどしどし復活させるべきである。けしからんことだ。
東西ドイツの頃、彼が東でどのような立場にあったかはわからないが、西側でも自由に活動していたから、あまり縛られない地位にいたのだろうか。ドイツ統一時前に西側にポストを得ていたら、もう少し活動を伸ばしていたかもしれない。

歌手陣はデコボコあるが、ハインリヒのテオ・アダム、オルトルートのドヴォルジャコーヴァが秀逸。リッツマンのローエングリンは少し元気が良すぎる。(彼の経歴は不明)
1972年、ベルリンでの録音。

  
          

       

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2006年8月26日 (土)

バックス 交響曲第1番 B・トムソン

Thomson_bax1

アーノルド・バックスは、1833年ロンドンに生まれ、1953年生涯愛したアイルランドの地に亡くなった。
19世紀末に、アイルランドの詩人「イェーイツ」が発表した「ケルトの薄明」に端を発し、当時、辺境民族として影の薄かった「ケルト族」の文化の見直しがなされ、ブームとなった。
今でこそ、ケルト文化といえば、アイルランドやスコットランドの一部、フランスのブリュターニュ地方などを思い浮かべることができ、「妖精」「超自然的魔術」「装飾美術」「建築」・・・。ともかく謎めいていて荒々しくも不思議な魅力を想像することが可能だ。
 バックスはこのケルト文化に魅せられ、それに感化された音楽を生涯書き続けた。

バックスの作品は、オペラを除く多岐のジャンルに及んでいるが、とりわけ室内楽とオーケストラ作品に聴きものが多い。ファンタジィー溢れる交響詩を聴くと、もう妖精たちが飛び交う様や、北方の大自然などが目に浮かぶ。
7曲ある交響曲も個性的な曲ばかりだ。というより、皆同じに聴こえるほどバックスしている。7曲いづれも3楽章形式で、アイルランドの塩辛いシャープな海を感じさせるような辛口のシンフォニーだ。
はっきりいってとっつきにくい。分厚いオーケストラによる咆哮もあり、しんみりとほのぼのとさせるフレーズあり、悲しい哀歌あり、明るく弾む旋律もありで、要はとりとめなくいろんな要素がモザイク的に組み合わせれている。3つの楽章それぞれは、有機的に関連付けられているが、それぞれがまた交響詩のようでもある。
これらを何度も何度も繰返し聴くと、不思議と耳に馴染んで、バックス・ワールドにすっかりはまってしまうことになる。
 今回の1番は、7曲のうちでもかなり難解かもしれないが、聴くほどに味がでる名曲かもしれない。ことに1楽章の冒頭の猛々しい旋律の後に訪れる美しくも懐かしい旋律は素晴らしい。

指揮するブライデン・トムソンは60歳台で亡くなってしまった英国音楽の旗手であった。
この人の情熱的で悠揚迫らぬ音楽作りはシャンドス・レーベルに数々残されている。
バックス全集は中でも最大の遺産だ。
英国音楽ファンにとって、トムソン、ハンドリー、ヒコックス、この3人の存在は大きい。

北東北3県をまわる強行出張を実施した。飲食状況は追々記録するとして、秋田県の大館市に宿泊したおり、訪れたバーを紹介。
Greenwood_2

モルト・ウィスキーを中心とするバーで、立派な装置を据え、音楽も充実。
クラシックはなく、ジャズと店主の好きなプログレッシブ・ロックが鳴る。
若き頃聴いた、イエスやレッド・ツェッペリンを聴かせてもらった。
アイリッシュ・ウィスキーを飲りながら、これらを聴いいていると実に心地がよかった。とっておきのシングル・モルトも飲ませてもらった。

Greenwood_3
 
強烈なヨード臭に、海の香りがするウィスキーを飲んでいると、バックスの音楽が耳に響いてきた。
ついでに映像で見たクィーンの再結成来日公演。こりゃ面白かった。早世したフレディー・マーキュリーに変わるボーカルは声も体も太めのマッチョ(ゲイ風)っぽいが、これはこれでなかなかにクィーンしていて愉しい聴きものだった。こんなのも時には聴いてしまう私。

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2006年8月22日 (火)

「カルロ・ベルゴンツィ」 オペラ・アリア集

Bergonzi イタリアオペラ系のテノールを聴く楽しみは、ドイツのそれとは大分に違う。惜しげも無く高音に力をさき、聴く側、観る側に快感にも似た喜びをもたらさなくてはならない。
だが、そればかりでなく、強烈な個性を付与した名テノール達が歴史に名を残したわけで、正規録音が残る以降では、破れかぶれにドラマティックだった「デル・モナコ」、イタリア男の粋の象徴「ディ・ステファーノ」、ヒーローのようだった「コレッリ」。こんな男たちのなかで、最も歌手生命も長く、歌のきれいな形にこだわったのが「カルロ・ベルゴンツィ」ではないかと思う。

1924年、生粋のイタリア生まれ。このところ名歌手が次々と世を去るが、まだ存命中のはずだ。先にふれた通り、2000年以降も歌手として舞台に立っていて、その美しいフォームは全く往時と同じで、その厳しい努力は頭の下がる思いである。
見た目は、普通のおっさんのようだが、ベルカント唱法をキッチリ守ったスタイリッシュな歌唱は、聴いていて背筋を伸ばしてしまうような真摯なものだ。
 よって、ヴェリスモ系よりは、ヴェルディの真面目な諸役において絶対的な存在感を示す。それも初期のズンタッタ、ズンタッタ的なオペラよりは、苦悩する役柄が多く劇的な中期以降の作品がすならしい。このCDに収められている「アイーダ」「仮面舞踏会」「ルイザ・ミラー」「運命の力」などはまったく聞き惚れてしまう。
 プッチーニ以降も悪くはないが、激情的な表現が少し紳士的にすぎるかもしれない。
でも私はこれも好きだ。デル・モナコだと振り回されて疲れてしまうが、ベルゴンツィならどこか醒めた部分があってホッとする。
こちらの分野からは、「アンドレア・シェニエ」「トスカ」「マノン・レスコー」、それに私の大好きな「アドリアーナ・ルクヴルール」などから収められている。カヴァラドッシはカラスとベルゴンツィのレコードが私のすり込み盤などで、たいへん気持ちよく聴けた。
それに、「アドリアーナ」のマウリッツィオの短いアリア2曲は祖国と愛情に苦悩するお定まりのイタリア物ながら、チレアが付けた音楽があまりにも素敵だ。

何だかんだで、ベルゴンツィの素晴らしい歌に魅了されてしまう1枚。
57年、ベルゴインツィ33歳の若々しい記録。ガヴァッツェーニとローマ・サンタ・チェチーリア管の雰囲気豊かな伴奏も現在では聴けない、良き時代のものだ。

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2006年8月21日 (月)

ヴォーン=ウィリアムズ 「南極交響曲」 プレヴィン

Previn_williams_antartica3

クールダウン系の音楽をまたひとつ。
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(RVW)の多彩な9曲の交響曲から、7番目にあたる「極交響曲」、作曲者は「SINFONIA ANTARTICA」というイタリア語の表示を与えた。1951年、80歳という年齢での作品で、驚くべき創作意欲である。
もともとは、その数年前に書いた映画「南極のスコット」に付けた映画音楽であったものを、交響曲に編みなおした。
その映画は、1912年に南極点を目指したイギリス、スコット隊の遭難の悲劇を描いたものらしい。一度音楽付きで観てみたいものだ。
 ちなみに、スコット隊に先んじること1ヶ月前には、ノルウェーのアムンゼン隊が南極点に到達している。アムンゼン隊は極点のみをひたすら目指し、スコット隊は途中、学術的な研究や観察を経ながらの進行ゆえに差と悲劇が生じたと言われる。

肝心の交響曲は、大編成のオーケストラによる「南極」の描写音楽という要素に加えて、大自然に挑む人間の努力やその空しさ、最後には悲劇を迎えることになり死を悼むかのような悲歌に終わる。こんな一大ページェントなのだ。
 シュトラウスのアルプス交響曲のような楽天的な派手さはなく、常にミステリアスで、悲劇性に満ちた交響曲になっている。
描写の部分では、氷原を表わすような寒々しいソプラノ独唱や女声合唱、滑稽なペンギンや鯨などが表現される。怪我をした隊員が足手まといになることを恐れ自らブリザードの中に消えてゆく・・・、こんな悲しい場面もオーボエの哀歌を伴って歌われている。
 最終楽章では、大ブリザードに襲われ壊滅をむかえてしまう。嵐のあとは、またソプラノや合唱が寒々しく響き、全く寂しい雰囲気に包まれる。ウィンドマシンの音が空しく鳴るなか曲は消えるように終わる。

こ~んな情景を思い浮かべながら聴いていると、体感温度は2度くらい下がる。
プレヴィンがRCAに残した全集で聴く。画像はレコード購入時のもので、このジャケットもオリジナルではないが秀逸であった。
プレヴィンの優しくもわかりやすい南極案内は楽しい聴きもの。ヘザー・ハーパーの無機質なソプラノもよい。加えて、この演奏には、作曲者が与えた各章の引用句が語りによって挿入されていて雰囲気が豊になっている。ナレーターなしでの真摯な名演としてハイティンク盤もお薦め。

希望が無限なように思われる苦難を耐え忍ぶこと。・・・・ひるまず、悔いることなく、全能と思われる力に挑むこと。このような行為が、善となり、偉大で愉しく、美しく自由にさせる
これこそが人生であり、歓喜、絶対的主権および勝利なのである」(シェリー詩)1楽章の引用句。

「私は今回の旅を後悔していない。我々は危険を冒した。また、危険を冒したことを自覚している。事態は我々の意図に反することになってしまった。それゆえ、我々は泣き言を言ういわれはないのだ。」  遭難後、発見されたスコット隊長の日記。
終楽章に引用された一節。

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2006年8月20日 (日)

ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス 「歌の翼に」

A ある方のブログ(naopingさん)を拝見していて、むしょうに餃子を食べたくなってしまい、話題になっていた田町の「大連」の餃子を載せてみる。
カリカリ耳付きで、中身はジュ~シー。ビールとともにどうぞ。
ここは、ラーメンも普通に激ウマ。

Imgp0907 食べ物ついでに、神奈川は平塚駅前の「都まんじゅう」。
この店はもう何十年もある、子供のころからガラス張りの店内の饅頭製作工程を見るのが好きだった。白餡も変わらない。ほどよい甘さと安さ(@30円)で、出来たてのホカホカを頬張れば幸せ。紅茶にもよろしい。

Imgp0914 こちらは、大磯町「新杵」の「西行まんじゅう」。近くに西行法師ゆかりの地「鴫立庵」があることから生まれた銘菓。「・・・鴫立沢の秋の夕暮れ」と呼んだアレである。漉餡は、甘くなく上品な味で、酒飲みの私にも大丈夫。
こちらは、熱いお茶とどうぞ。

Los_angeles 作年亡くなってしまった、スペインの名花「ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス」。大歌手と呼ばれる柄ではなく、人柄はチャーミングで優雅、かつかわいい女性だったらしい。イタリア物もフランス物もドイツ物も非常にうまくこなし、バイロイトにも出ている。エルザやエリーザベトなどは最高だったらしい。
そして何よりも、自国スペインの作品においては水もひたたるような粋な歌を聴かせてくれた。ちょうど、ピアノのラローチャがそうであるように。

スペイン系の歌手は知的な歌を聴かせる人が多い。
クラウス、ベルガンサ、ローレンガー、ドミンゴ、カレーラス・・・。
ロスアンヘレスは知性と情熱のバランス、人柄のやさしさに裏付けられた見事な歌唱を歌うひとりだ。
このCDは、バックを「フリューベック・デ・ブルゴス」がつとめた、「世界の歌」とかつて称されたアルバムである。
前半を「歌の翼に」「君を愛す」「母が教えたまえし歌」などの名作曲家の歌曲をそれぞれの国の言葉で歌い、後半は各地の民謡を同様に各国語で雰囲気豊かに歌っている。

しみじみと、ロスアンヘレスの芸風を味わいながら、歌曲による漫遊を楽しめる1枚。
お茶と饅頭が似合う?

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2006年8月19日 (土)

アルヴェーン 交響曲第4番「海辺の岩礁から」

Alfven

滋賀と京都に仕事で行って来た。晩は大津で宿泊し、ふらりと入った居酒屋で不思議に旨い魚を食べた。海の魚である。
酒は、西近江の今津の酒で、キリリとした夏向きの純米酒であった。
近江は米どころでもあって、酒もいい。
店には、滋賀の誇る鮒寿司はなかったが、以前、鮒寿司とボルドーの赤ワインを試したことがある。濃厚なチーズのようなネットリ感と濃口ワインがエロティックなまでに妖艶であった。祇園でお客さんにご馳走になったものである。
そんな経験もあってか、古都京都は、私の舌には妖しい街である。

そして京都の夏はたまらないほど蒸し暑い。

そんな「夏の京都」から帰ってきて、題材は全く異なるが、「シンフォニア・エロティカ」とも呼ばれる、アルヴェーンの交響曲がどうしても聴きたくなってCDを購入して来た。ナクソス盤のウィレン指揮のアイスランド響のなかなか立派な演奏である。

Alfven_sym4
 





しかし、私にはレコードで購入した、ウェステルヴェリイとストックホルム・フィルのものが忘れがたい。ジャケットがまったくに素晴らしいのである。そして、亡きウィンベルイとセーデルシュテレムの本場歌手陣も強力だった。

1960年に亡くなったスウェーデンの作曲家「アルヴェーン」は、画才もあり、音楽はスウェーデン狂詩曲(夏至祭の夜明かし)が有名だが、4曲ある交響曲は北欧の自然の描写に満ちたロマンテックな作品群である。なかでも、この4番は「海辺の岩礁から」と題され、連続する男女の愛を描いた4つのエピソードは、幻想曲のようで印象深い。
 作風は、後期ロマン派風で、ツェムリンスキーを思わせる。自国の自然を愛し、小島にサマー・ハウスを持って、そこで作曲に勤しんだらしい。さらに岩礁の多い海辺に小舟を出し、そこで思索に耽り、この作品も構想された。
 「海と男女の愛」となると、いやでも私は「トリスタンとイゾルデ」を思ってしまう。
テノールとソプラノは歌詞を持たず、ヴォカリーズで歌う。こんな愛の歌は、官能的で、切ない夜の物語である。お互いに呼びかけあって3楽章で結ばれるが、最後は破局が訪れる。こんな他愛も無い話であるが、素晴らしいオーケストレーションの才もあって、美しいシーンが次々に展開される。

「この交響曲は二人の人間の愛の物語と関係があり、象徴的なその背景は外海へ転々と広がる岩礁で、海と島は闇と嵐の中で、互いに戦いあっている。また月明かりの中や陽光の元でも。その自然の姿は人間の心への啓示である。」アルヴェーン自身の言葉。

夏の晩に、例によって冷房もない部屋で、こんな自然美と官能の相容れない要素に満ちた音楽を聴きながら、酒を傾ける。ぶどう酒がないので、芋焼酎のロックで我慢。
心地よい酔いと共に、ハープやチェレスタの涼やかな音色に陶然とする自分である。

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2006年8月17日 (木)

ワーグナー 「ジークフリート牧歌」 ブーレーズ

Imgp0819a 今日から日常に戻った人々も多い。盆と正月、それにGWは日本中異常な移動モードになってしまう。私もそのひとり。
住まいのある千葉から、故郷の神奈川方面に移動するだけだが、渋滞のメッカがあり毎度難渋してしまう。おまけに、今年は激しい雷雨付きだった。
しかし、雨上がりの海に出ると薄っすらと虹がかかった。
少し荒れ気味の海と曇天にかかる虹。束の間の情景に感動した・・・・。
Imgp0886

夏に毎度訪れる川原。名水の里、秦野の某所。川の流れの冷たさに一挙にクールダウン。こちらでバーベキューを実施。何を焼いてもうまい。
ノンアルコール飲料が寂しかったが、緑と川の流れが実にすがすがしくおいしかった。帰路は天然の鹿の親子とも遭遇。神奈川は自然の宝庫なり。

Boulez_wagner ワーグナー全曲シリーズ、ブーレーズがニューヨーク・フィル時代に残した録音を聴く。画像はオリジナル・ジャケットだが、洒落ている。
こちらには、超遅い「マイスタジンガー」、あっさり「タンホイザー」、俊敏「ファウスト」、さらさら「トリスタン」がそれぞれ収められている。
オケにはワーグナーやマーラーの伝統があるが、それを打ち砕くようなブーレーズの指揮ぶり。ここに鳴り響くワーグナーは、基本的に明るい。ブーレーズの音楽を「明るい」と称する人はあまりいないと思うが、私は彼のワーグナーを幾多聴いてきて、まず思うことは、その「明るさ」である。楽天的ではなく、すべてに光をかざした、「あられもない明るさ」なのである。こんなに明るくやられてしまうと、「トリスタン」は昼の眩しさにに早々に参ってしまうし、「タンホイザー」はヴェヌスブルクでなく、キャバクラにでもいるような錯覚に陥るであろう。
 「パルシファル」と「リング」にだけ劇場での適性を示したのもうなずけるかもしれない。

「ジークフリート牧歌」は別な機会に録音されたものだが、一緒にCD化されている。
オリジナルの各楽器一基が、まず珍しい。おかげでこれまで述べたブーレーズの個性と相まって、透けて見えるようなクリアな音楽が出来上がった。この初演時の編成なら「階段の音楽」もわかるような気がする。リング完成後、高齢にして得た長男「ジークフリート」。
バイロイトの手中にし、絶頂期にあった「ワーグナー」の家族愛の詰まった音楽を、ブーレーズは、さりげなく鼻歌まじりに演奏した。
 
ドイツの古城ホテルあたりで、絹のパジャマを着たまま、陽光降り注ぐなかで、こんな音楽を聴けたら、もう死んでもいい!!

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2006年8月16日 (水)

ヴェルディ 「レクィエム」 アバド指揮

Abbado_requiem 毎年、真夏は各種レクィエムを聴いている。とりわけ、ヴェルディのそれは熱い祈りが夏にこそふさわしくも感じられ、聴くこちらも熱い気持ちになる。
中学生のころだったか、テレビでこの曲をバーンスタインとロンドン響のライブで観たのが、盛夏の頃だった。
テレビで見るバーンスタインは、飛んだり跳ねたり、両手で指揮棒を握り締め、時には祈りに満ち、かつ激情に満ちた指揮ぶりだった。こんな映像と音楽が一体化して、夏の印象ともなっている。

レクィエムは数々あれど、優しさと怒り、そして何よりもオペラティックなまでに歌に満ちたレクィエムは、このヴェルディの作品を置いて他にない。
 ヴェルディ晩年の最充実期に書かれたこの作品の構想は、当初ロッシーニの追悼のために当時イタリアを代表する作曲家達が、各章を分担して作曲しひとつのレクィエムがなされる企画に遡る。この企画はイタリアらしく経済的な事情や不手際で流れてしまったが、数年後、ヴェルディは自分の担当の「リベラ・メ」を活用し、自国の詩人「マンゾーニ」の死を悼んで大作「レクィエム」を完成させた。

作品中何度か現れる「怒りの日=ディエス・イレ」の強烈な場面ばかりが、オーディオ的にも耳を引くが、本当はそうした激烈さはこの作品の一面にすぎない。
全体の半分近くを占める「怒りの日」も、いくつかの部分に分かれていて4人の独唱者たちが、次々と耳を奪うような心打つ歌を紡いでいく。テノールのアリアのような「インジェミスコ」、後半は怒りの日の再現になだれ込むバスのやわらかい歌唱の「コンフターティス」、ベルカントオペラのようなソプラノとメゾの二重唱「レコルダーレ」、圧巻は4重唱と合唱の「ラクリモーサ」、切実な悲しみと慰めに満ちた名曲だ。ここらが、全曲のクライマックスでもあろう。
 後半も超素晴らしい展開がなされる。光彩たる「サンクトゥス」、木管と弦のたゆたうようなトレモロに乗った、美しい「ルクス・エテルナ」、ソプラノを伴った劇的・切実な「リベラ・メ」

アバドは、若い時から、機会あるごとに、「ヴェルディのレクィエム」をとり上げて勝負してきた。録音も10年置きに、その時の手兵をもって残していて、70~80年代のスカラ座、80~90年代のウィーン、90~00年代のベルリン、といった具合である。
歌手陣もその時代のベストの布陣を集め、それぞれに素晴らしい記録となっている。
Abbado_verdi  さらに忘れられないのが、1981年のスカラ座との来日公演での演奏である。私は「シモン」しか観れなかったが、「レクィエム」はフレーニとトモワ・シントウと独唱を違えた2回の演奏がFM放送され、その音源は私のお宝にもなっている。

常にアバドの演奏に言えることは、このレクィエムの剛のイメージでなく、聴く者の心のひだに染み入るような優しさを感じさせることだ。
もちろん、怒りの日もダイナミックな響きを聴かせてくれるが、それに対比する弱音は、全演奏者が細心の集中力をもって響かせて極めて精緻である。そして素晴らしいのが、そこにも豊な歌心が溢れている点である。
さらに、スカラ座のオーケストラの輝かしさはどうであろう。加えて、合唱の力強さと完璧なまでの劇場的な表現力にもびっくりしてしまう。バイロイトのオケと合唱にも同じものを感じてしまう。オペラがもつ、音楽のひとつの表現手段から導かれた結実だと思う次第ある。
 独唱では、リッチャレッリの真摯な歌とギャウロフの豊で美しい歌が印象に残る。

劇性と祈りに満ちた「レクィエム」を聴いていると、世の絵空事が空しく感じられる。
声高に言い争ったり、拳を上げたりしている連中の耳に届けたい。

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2006年8月12日 (土)

エルガー 「エレジー」、「ソスピリ(ため息)」 ヒコックス

Elgerparry 世間は、盆の休みに突入。昨日の東京駅は楽しい雰囲気にごったがえしていた。普段と人々の動線が全然違うので困ってしまうが、この光景も年中行事であろう。ただこのところやたら多くなった「カート」を引く人々。
猫も杓子も「カート」をゴロゴロころがしている。ご本人達は楽なんだろうけど、混雑の中では参る。子供までが、ゴロゴロだ。まあ、いいけど。

さて、今日は「エルガー」と「パリー」の弦楽オーケストラ作品を聴く。
  パリー 「イギリス組曲」、「Radnor夫人の組曲」
  エルガー  「エレジー」、「ソスピリ(ため息)」、「セレナーデ」
真夏に、こんな爽やか選曲の1枚。
リチャード・ヒコックス指揮のシティ・オブ・ロンドン・シンフォニエッタの演奏。

友人の死に際して書かれたとされる「エレジー」。「エニグマ変奏曲」の中の「ニムロッド」の人である。音楽もよく似ていて楚々とした静かな美しい曲である。
「ソスピリ」は弦楽とハープ、オルガンのためのアダージョである。こんなはかないタイトルのように、メランコリーに満ちていて、若き遠き日々を顎に手をあてて懐かしむような情感を思い起こさせる。それぞれ5分ほどの桂曲である。
3楽章からなる「セレナーデ」は、いずれの楽章も郷愁に満ちた、胸がキュっと締め付けられるような愛すべき作品。あと、「序奏とアレグロ」があれば完璧。
 エルガーの、スゥイート・メロディー・メーカーとしての一面を堪能できる。
余談ながら、スケッチが残された「威風堂々」の行進曲第6番が、ペインにより完成され、今年のプロムスで初演された。BBCのネット放送で聴いたが、あの快活な雰囲気そのままの楽しい聴きものであった。こちらもエルガーの一面であろう。

京都に「カフェ・エルガー」なる、エルガーの大ファンが起した店があった。
その店の地図をいつもカバンに詰めて関西方面に出張のおり、足を運んでみようと思っていたが、訪れる機会を失したまま閉店したらしい。想像するだけで微笑んでしまいそうなカフェだった。残念。

エルガーより9歳先輩の「パリー」は、保険会社のサラリーマン出身の変り種作曲家。
長じて、王立音楽院の教授ともなり(すごい)、数々の作曲家達を教えた。
ホルストやV・ウィリアムスなどの名前もその中にある。
作風はエルガーにドイツ風のがっしり感を据えたもので、5曲ある交響曲は「スタンフォード」のそれと並んで、ブラームスやブルッフをも思わせる隠れた名作だろう。

今日の弦楽作品2作は、黙って聴くと上記のドイツ風な要素が薄い、純潔英国ミュージックである。経歴をまったく感じさせない完璧なプロの技で、イギリスの古城で優雅に暮らす紳士・淑女の嗜みを描いたような作品たちだ。

林望(リンボウ)氏ならぬ、「イギリスはおいしい」1枚であった。

  

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2006年8月10日 (木)

ワーグナー 「パルシファル」 ショルティ

Solti_parsifal ワーグナー最後の舞台作品は、「舞台神聖祭典劇」と自ら名付けた「パルシファル」。
「ニーベルングの指環」は「舞台祝典劇」と呼んで、楽劇の上演を宗教的な行為に高めようという極めて尊大な考えがあった。
最終作では、劇の内容そのものが宗教的な題材にあるため、正に「神聖祭典」と呼ぶに相応しいと考えたのであろう。
何と言う自信とエゴのかたまりであろうか。性格も悪すぎのワーグナーなのである。
そのエゴは、自身の作品のみを上演する劇場の確保へと走らせた。
純粋で夢見るワーグナー信者「ルートヴィヒ2世」を篭絡し、多大な援助を取り付けバイロイトに劇場を作った。かの純情王がいなければ、リング以降の作品がなかったかもしれない。かくして、われわれはかの王に感謝しなくてはならない。
「パルシファル」構想は「ローエングリン」作曲時に芽生えていたが、ルートヴィヒ2世の熱い要望によって最後にとりあげられたとも言われる。

宗教的題材のスケッチとしては、キリストそのものの「ナザレのイエス」、仏陀を描いた仏教劇「勝利者たち」が残されていて、こうした宗教的な思想が総合されて「パルシファル」が完成した。仏陀の作品も残して欲しかったものだが・・・・・。
この「パルシファル」のモティーフは「同情による救済」である。
これまで、「女性の自己犠牲による救済」をさんざん描いてきたワーグナーは、最後に到っていわゆる「(自己犠牲という)行動派」から、「(感情という内面的)思索派」に転じたのかもしれない。「パルシファル」は確かに、槍を奪還し、その槍でアンフォルタスを救済するという行動派ではあるが、基本は愚の人間が同情という感情を得て行った行為であるから、思索の人と言えるかもしれない。同時に寡黙の人でもある。

「同情により知を得る愚か者」、こんな風に「パルシファル」を比喩して歌われる。
愚の若者は2幕で「クンドリー」の接吻を得てまさに「(アンフォルタスへの)同情」を強く知ることになるが、ここはまさに「ジークフリート」とも重なる。「ローエングリン」は「パルシファル」の息子であることを高らかに歌うが、「ローエングリン」は最初からサラブレッドで女心もわからないボンボンなのだ。かつてやんちゃ坊主だった父からは「若い頃の武勇伝」なんぞを聞かされていたに違いない。なんてことを考えるのも楽しい。

さらに「クンドリー」は救済を求める「マグダラのマリア」で、「エリーザベトとヴェーヌス」の二面性を持った悲しい女とも言われる。かつてカラヤンは、1幕と2幕でクンドリー役を異なった歌手で上演した。また余談ながら、「タンホイザー」の女性二役も同一歌手で演じられることもある。女性とはげに恐ろしきものよのう・・・・。
 次いで、「アンフォルタス」は傷を負い、死を求める「愛の人」、「トリスタン」と言える。
ワーグナーは、「アンフォルタス、クンドリー、パルシファル」を控えめな表現ながら「アダム、イブ、キリスト」に例えた。なるほどかもしれない。
地味な老人「グルネマンツ」は語り部的な存在であるが、愚の「パルシファル」を聖堂に導き、賢者の「パルシファル」をも聖堂に導くという先導役として極めて重要な存在。
ダークサイドの「クリングゾル」は愛または信仰を断念した、という意味で「アルベリヒ」的な存在なのであろう。かなりあっけなく倒されてしまうのが気の毒だが。

こんな特殊な作品だから、ワーグナーはバイロイト以外での上演を封印した。まさにバイロイトの丘に参列し、儀式に参加しなくては「パルシファル」は体験できなかったのである。
その封印ものちに解け、復活祭あたりにさかんに各地で上演されるようになった。
1951年戦後バイロイトのスタート、いわゆる「新バイロイト」の象徴は、ヴィーラント・ワーグナーの「パルシファル」演出であろう。非具象的・暗示的な舞台は暗く何もない。
聴衆は能のような静かな動きの舞台に集中し、音楽だけがそこにあった。私のひとつの理想のような舞台ではないかと、想像するのみであるが。
案外、現代の有り余る情報過多の演出に馴れてしまうと退屈に思えるかもしれないが、一度復刻の試みがなされないものであろうか。
 この演出は、1951年から66年のヴィーラントの突然の死を経ても、73年まで上演された異例のロングランであった。そしてこの演出に付随するかのような指揮者が「クナッパーツブッシュ」である。クナも亡くなるまで、一度の例外を除き64年まで指揮を続けた。
茫洋たる神秘的・巨大な演奏がこの作品と演出にいかにぴったりだったか。
クナの死後は「クリュイタンス」と「ブーレーズ」のラテン系指揮者が受け継いだことも興味深い。ヴィーラントは一方で、地中海的明晰さをも求めていたと言われる。
 彼が弟のように長生きしていたら、ワーグナー演出シーンはもっとかわったものになっていたかもしれない。音楽面でも、「クライバーのリング」や「アバドのバイロイト登場」なども実現していたかもしれない。嗚呼・・・・。

Solti_paris2 今回の「パルシファル」はショルテイが71年に録音したもので。
これは確かこの作品初のスタジオ録音ではなかったかと記憶している。
リングでカラヤン=ベルリン・フィルの凄さをイヤといほど聴いてしまったので、ここは、「ウィーン・フィル」に登場してもらわなくては、の一念と、大好きな「ルネ・コロ」も登場させたかったからである。
 画像は録音風景から。コンサートマスターは、毛ありの若きキュッヘルが座っている。ここでは、さすがのショルティもかなり神妙に振舞っている。
時おり、唐突な音の切り方やギクシャク感もあるが、全般に落ち着いた演奏ぶりとなっていて安心して聴いていられる。そしてやはり、ウィーンフィルの魅力は大きい。
冒頭の前奏曲からして、深々とかつまろやかな響きに耳を奪われる。どんなにショルティが怖い顔で指揮をしていても、出てくる音はウィーンのそれである。

Solti_parsi 歌手陣は、すでに最盛期を過ぎた往年の名歌手、正に最盛期にある人、これから上り詰める人、これらを混ぜ合わせた粋な選択がなされている。往年組は、名ハーゲンであった、「ゴットロープ・フリック」の酸いも甘いも体験しつくした味わい深いグルネマンツ、これまた名ウォータン、「ハンス・ホッター」の疲れきった中にかつての王の気品を感じさせるティトゥレル。
最盛期組は、劇的で役になりきってしまった「F・ディースカウ」のアンフォルタス。この人の言葉の明晰さは、ドイツ語の教本のように聴こえる。そして、「クリスタ・ルートヴィヒ」のクンドリーは、二つの性格を見事に歌い分けている以上に、2幕の劇的な歌唱には感動した。
第3幕では、うめき声と「奉仕を、奉仕を」の声しか発しないのがもったいない。
 そして、上昇組は「ルネ・コロ」だ。売り出しの頃だけに、若々しい。もともとオペレッタ畑でも鳴らした人だけに、甘く楽天的な声を持っているが、それを厳しくコントロールしながら力強い声に磨きをかけていった。しかし、ここでは若さをみなぎらせて、美声をたっぷり聴かせてくれて気持ちがいい。
花の乙女たちの中に「ルチア・ポップ」や「キリ・テ・カナワ」の名前が見られるのも豪華版である。

こんないいことづくしの「パルシファル」演奏であるが、欲をいうと、録音も含めて何か白日のもとにさらけ出されてしまったかのような印象を持ってしまった。
陰りの部分や神秘的な雰囲気などがもう少しあっても良いのではと・・・・・。

聖金曜日の音楽に至るともう感動がジワジワと広がり、野山が春の花で覆われるような光景が目に浮かぶ。クンドリーがパルシファルの足を髪で洗うさまは、聖書のワンシーンであり、彼女がついに洗礼を受け涙を知るところでは、こちらも涙にくれてしまう。
ワーグナーが書いた最も美しい音楽だと思う。

かくして、「オランダ人」以降の全曲試聴は暑さの中に終わった。ワーグナーの呪縛を受け、もう数十年が経つが、死ぬまで解けぬのであろう。喜びのうちにその呪縛を受けていたい。人はバカだと思うであろうが、バカは死ぬまで直らない。
「リング」は環のように廻ってこれまた困るが、「パルシファル」の次はまた「オランダ人」に帰るのだ。全曲試聴は、何度もやっているが、これからもやるぞ!!
とりあえず、自分にお疲れ様。そして、自己満足の長文をお読みいただいている皆様、ありがとうございました。次のサイクルもありますよ。

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2006年8月 7日 (月)

ビゼー 「アルルの女」 アバド

Imgp0669b 先週、金曜日のことだが、東京ドームのチケットを頂戴し、息子と野球観戦をした。我が親子は、「横浜ファン」なのであるが、毎年いただくチケットは、1塁側のオレンジ色に染まった席。最初はおとなしくしているが、ビールが進むと、本性を出してしまう。周りの冷たい視線とごくまれに入る青い色の同朋。同朋とは、仲間視線ビームを交わし合うが、他は目を合わさないのが基本。金曜は、4月以来の、夢にまで見た最下位脱出。嬉しいが、束の間と思うの
Imgp0686a が肝要。最後はクルーンがカッチリ3者三振で締めたが・・・・。
残る2試合を、予想通り負けて、三日天下ならぬ、一日5位。
トホホである。数年前の優勝を甲子園で体験した身としては、今年の不甲斐なさにはホトホト参っている。
 おまけに、高校野球でも「横浜高校」は奢りすぎで、初戦敗退。
今年は、もう野球はこれにて、おしまい。

Abbado_bizet それはともかく蒸し暑い。西には台風が近付いていて不穏な雰囲気。
そんなイヤな気分を吹き飛ばすように、ジャケット写真のような陽光溢れる「アバドのアルルの女」を取り出した。

文豪ドーテの原作品は「アルルの一農村を舞台に、闘牛場で知り合った女に惚れた青年が、家族に猛反対され、かわりに清純な娘と婚約する。しかし、彼はくだんの女が忘れられずに、嫉妬のあまり自殺する」という陰惨な小説。
 そう、「カルメン」も似ているし、まるでヴェリスモ・オペラの世界だ。
ビゼーが原作に付けた劇音楽は27曲に登るらしいが、そこからチョイスされた組曲を聴く限り、そんな生々しいドラマは感じられない。

晴れ渡った青い空、遠く鳴る鐘、楽しい民衆の踊り、田園風景・・・、こんな絵のような、南フランスの情景を思いながら楽しく聴ける、ナイスな組曲なのだ。
ヴェリスモ系を一切やらないアバドが、「カルメン」とこの曲だけは指揮をした。
真摯に感情を抑え、音楽の持つ美しさとリズムの楽しさを素直に感じさせてくれる演奏だ。
クリュイタンスの輝きや、カラヤンの語り口の巧さはないが、流れるようなしなやかさは他の演奏からは聴けない。それでも、「ファランドール」では猛然としたアッチェランドを聴かせてくれるお楽しみもある。
ロンドン響時代の生き生きとしたアバドの記録である。

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2006年8月 6日 (日)

ワーグナー 「神々の黄昏」 カラヤン

Karajan-gotter

「リング」の中でも最も巨大な作品、「神々の黄昏」に到達した。
以前から書いている通り、12年のブランクの後、「ジークフリート」第3幕を作曲したわけだが、続くこの「たそがれ」は円熟した作曲技法が駆使され、緻密な考察に基づいて、「ライトモティーフ」はさながらモザイクのように、いろいろと姿を変えつつ全曲にはめ込まれている。音符ひとつひとつに意味が込められているから、まったく油断も隙もない。

さらに、曲の長大さ。「マイスタージンガー」以降、本作をはさんで「パルシファル」まで、上演に4時間以上を要する3作となっている。しかも、各幕にかかる時間が同じであることが面白い。1幕か3幕に2時間の長い幕を置き、真中の2幕は65分くらい。残る一幕を75分くらい・・・・。というように。ここまで書かなきゃいられなかったワーグナーの筆の雄弁さに今更ながら驚く。

「ジークフリート」をハッピーエンドに終えたが、ここ「たそがれ」は、また死と破滅の応酬である。ワーグナーの愛した、快活なおバカさん、「ジークフリートの死」と共に、生涯好み、求めた「女性による救済」そして、「神々の時代の終焉」を描いている。
こんな作品の後は、行動と思索の人ワーグナーには、宗教的な神秘劇しか残されていなかったのではなかろうか。「パルシファル」(または仏陀も検討した)が登場するのもうなずける。
 それにしても、ジークフリート君は英雄にありながら、無類のお人よしだ。せっかく「ブリュンヒルデ」から数々の秘儀を授かりながら(でもいったい何をお教わったんだろ)、あっさりと初めてあった連中と兄弟に契りを結んでしまう。あげくに、忘れ薬なんぞ、飲まされてしまう。「トリスタンの媚薬」は、意図的でもあり死を賭した夢中さがあるが、ここには何もない。
単に騙されただけ。
 そしてお人よしは、かわいそうな「ギービヒ家」の兄妹。グンターは何も決められなくて、ハーゲンとブリュンヒルデの間でおろおろしているだけ、挙句に殺されてしまう。
グートルーネはもっと報われない。最後の正妻の厳かな登場で、へねへなと兄の遺体に倒れ付すのみだ。気の毒としか言いようがないが、確か「トーキョー・リング」のウォーナー演出では、ブリュンヒルデが「あなたも同じ指環の被害者なのよ」と言わんばかりに、グートルーネを抱きしめるシーンがあって、新たな視点に感心したものだ。

この作品の要点は、序幕の3人のノルンたちがすべてを語っている。世界支配の証であるウォータンの槍の秘密と、それがジークフリートによって折られてしまったこと。神殿には蒔きが積まれ、ここに火が放たれ、焼き尽くされ「神々の終わり」がやってくることを。
この巨大な4部作の影の人物(半神)、ローゲの知恵はウォータンの槍の碑文を盗んでいたことが明かされ、ウォータンがローゲに砕かれた槍を突き刺し、神殿が炎上することを。

だがしかし、この作品には神々は登場しない。行われるのは、人間界のドラマだ。
指環の奪還は、自らが生んだ英雄に槍を折られたり、愛娘の人間の女性としての大きな愛情にはばまれて、まったく実現できないことが最初からわかっているから。
そして、「行動と思索の神」ウォータンのお株は、「ブリュンヒルデ」がそっくり受け継ぎ、一次は指環の呪いに囚われながらも、最後はすべてを受け入れ愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込む。ここに至って、ワーグナーお得意に「自己犠牲」「救済」の完結となる。

 が、はたしてそうだろうか。自己犠牲ですべては終わったのか?神々は滅び、自由な人間の世界の幕開けとなるのだろうか?
またそこが始まりではなかろうか?4部作の最初に戻って、永遠に繰り返される、欲望と愛憎のドラマが始まるのではないかろうか? 
そんな風にいつも思う。

これを強く意識させた演出が、86年に来日したベルリン・ドイツ・オペラの「ゲッツ・フリードリヒ」演出だ。
舞台奥に「タイム・トンネル」を据え、登場人物たちはここから出入りする。
「たそがれ」の最後は、「ラインの黄金」の冒頭のシーンに戻ってしまった。
「始まりは終わり」であるという強いメッセージに、当時驚いたものだ。
いずれ過去の日記から、この上演のレヴューを載せたいと思う。
 ついでに、「たそがれ」大団円で感動した舞台は、二期会のもので、救済の動機が響くなか、舞台には何もなくなり真っ白な光がそこに当たるだけ、というもの。
この何もない完結感は無常観も出て日本人的だと思ったし、素晴らしい音楽に集中できて本当に感動したものだ。

 反対に「トーキョー・リング」はアイデア満載で面白かったが、「ライン」でフローがビデオ撮影をしているのを見たときから、最後のシーンが予測できた。
スクリーンに見入る人間達が最後の場面。
こうした、いろんなものが詰め込まれた演出は観る分には楽しいが、音楽に集中できない。音楽が雄弁なのに、これ以上何が必要か?
まあ、いろいろな解釈を受け入れる、それだけワーグナーの作品が魅力なわけだ。

Karajan_gotter


 


 






画像は録音風景と、カラヤンのサイン風景。カラヤンのリングも最後の録音(69、70年)になり、ベルリン・フィルの凄さも安定した強みとなっている以上に、コンサート・オケにはないオペラの極上の雰囲気を醸し出すようにもなった。私はカラヤンを積極的には聴かないが、ワーグナーだけは別。しかし今回カラヤンを大いに見直したのも事実。
精緻に細かいところに目をくばっているばかりでなく、幕切れやドラマテックなところでは思い切りアッチェランドをかけたり、大音響を響かせたりとメリハリも充分。
ずっと感心しながら聴けた。「ジークフリートの葬送行進曲」から「自己犠牲」までの素晴らしさはどうだろう。
音による壮麗な大伽藍のようだ。
 ついでにネットで今年の「ティーレマン・リング」を少し確認したが、なかなか聴かせている。年末の放送が楽しみだ。

Karajan_gotter2







 


歌手陣も豪華だが、ジークフリートの「ブリリオート」が頑張ってはいるものの、喉に詰まったような声は、ちょっといただけない。
かつて高崎保男氏は、「死んでホッとするジークフリート」と称した。
「デルネッシュ」の感情のこもったブリュンヒルデ、声が美しすぎるのが難点だが、立派すぎる「ハーゲン」、高貴な雰囲気が漂う「ステュワート」と「ヤノヴィッツ」の兄妹。もったいないくらいの「ルートヴィヒ」のヴァルトラウテ。
すでにブリュンヒルデ級のあの「リゲンツァ」がノルンの一人を歌う贅沢ぶりである。

さてさて、ここに「リング」試聴を終了したわけだが、ワーグナー好きの方々がおっしゃるがごとく、「終わりは始まり」ならぬ、「リング」症候群になってしまいそうだ。
早くも、あの指揮は、あの歌手は、あの演出は、それぞれどうだったか?などと思いを巡らすようになっている。いやはや、困ったものだ。
 一方で、「パルシファル」が待っている。クンドリーの怪しい一声、「パ~ルシファル」の歌声が私を捕らえる力も強い。

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2006年8月 5日 (土)

エリザベート・シュワルツコップを偲んで

Schwarzkopf 「エリザベート・シュワルツコップ」が8月3日、オーストリアの自宅で亡くなった。1915年生まれ、享年90歳。
70年代にすでに現役引退していたので、あまり便りは聞かれなかったものの、後進の指導に熱心で、日本にも学生の指導にやってきていた。

シュワルツコップというと、切ってもきれないのが、EMIのプロデューサー「ウォルター・レッグ」と「カラヤン」だろう。
レッグは夫ともなったが、ワンマン・エゴタイプの厳しい人物で、シュワルツコップの歌に惚れ込みEMIに数々の録音を残したことの功績は大きい。
レッグが創設した「フィルハーモニア管」に呼ばれていた「カラヤン」も、シュワルツコップの歌唱を高く評価し、3者のプロジェクトも多く残された。
「ばらの騎士」はその代表であろう。

シュワルツコップはリリック・ソプラノの範疇に入るだろうか、優しくも羽毛のような歌声。
単に耳に優しいだけではない。言葉の意味を一語一語慎重に吟味しつくし、歌の背後にある深い意味までを掘り下げる。
その知的な歌いぶりは、作品によってはまると絶大な感動を呼び覚ます。
最も得意としたモーツァルトは、作品によってはちょっと行き過ぎかな、と思われる役柄もあるが、「フィガロ」の伯爵夫人などはたそがれ染まる中に、女らしさを楚々と歌いこんで他の追随を許さない。

Schwarutzkopf2 しかし、何と言っても、R・シュトラウス! それも「ばらの騎士」のマルシャリン。ザ・マルシャリン=シュワルツコップ、こんな図式が私には出来上がっている。
録音が平板なこと、オケがウィーンだったら、というわずかな不満はあるにしても、若いカラヤンとともに、爛熟の世紀末ウィーンの色香を、諦念とわずかな望みの中に漂う希望を鮮やかに表出している・・・・。
こんなマルシャリンを歌いこんだシュワルツコップは最高である。

今回のCDは、そんな彼女のオペラにおける「いいとこどり」の1枚だ。
「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トウッテ」「フィデリオ」「魔弾の射手」「ローエングリン」「売られた花嫁」「ばらの騎士」「ナクソスのアリアドネ」「アラベラ」「オペラ舞踏会」「こうもり」、こんな素晴らしい作品から名唱が収められている。
オーケストラがすべてフィルハーモニアなのも面白い。
 もし、レッグと出会わず、デッカのカルーショーだったら、ウィーンでの録音やワーグナーもあったかもしれない。

「メリー・ウィドー」がないのは残念だが、個人的には、「ばらの騎士」、「アラベラ」のシュトラウスがまったくもって素晴らしかった。
シュワルツコップはオペラばかりでなく、歌曲においても絶大な歌い手であった。
フィッシャー・ディースカウと双璧のたぐいまれなリート歌手。
ムーアのピアノで歌った4枚のソング・ブックが手元にある。じっくりと聴いていこう。

年月の経過と共に、過去から我々に音楽を刻んでくれた名手たちが、一人、また一人と世を去っていく。今年は、ニルソン、ロスアンヘレスと好きな女性歌手が亡くなった。
歌手達は、活躍の期間が限られていて、忘れた頃に巨星が消えてしまう。
その歌手達で私達にすり込まれた、役柄だけを残して・・・・。

ご冥福をお祈りします。

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2006年8月 4日 (金)

コープランド 「アパラチアの春」 バーンスタイン

Baernstein_american まったく嗜好を変えて、アメリカ音楽である。
1900年ニューヨーク、ブルックリン生まれ、1990年に惜しまれつつ去った「アーロン・コープランド」はまさにアメリカの生んだアメリカの作曲家である。生涯独身を通したらしいが、バーンスタインとはよき朋友であったというから、何やら想像してしまう。
 そんなことはともかく、コープランドのバレエ音楽はお国ものばかり。
この「アパラチアの春」、「ビリー・ザ・キッド」「ロデオ」「エル・サロン・メヒコ」など。
題名だけで楽しくなるし、映画のワン・シーンを思い起こしてしまう。

バレエ全曲から、組曲版としたもので26分あまり。
アパラチア山脈地方に住む、若い開拓者の男女の結婚式の様子を描いたほのぼのとした音楽で、登場人物はその二人と、村の老女、信仰運動家の4人だけ。
8曲のシーンが連続演奏される。物語の内容は、たわいもない。
結婚式とそこに集まった人の紹介、披露宴におけるダンス。シェーカー教徒の踊り。
シェーカーはまさにシェイクの意味で、「振る」。イギリスに18世紀勃興したキリスト教の一派という。最後は、新居に新郎新婦だけが残され祈りを捧げる。

ここに付けられた音楽が、実に素敵だ。
静かにゆるやかに始まり、希望と自然を賛美する気持ちに満ちた音楽に終始する。
シェーカー教徒の賛美歌を用いた部分は、一度聴いたら忘れられない。
静かに祈りに満ちた終曲を聴いていると、西部劇の雪の頂の山脈をバックにした、別れのシーン、そう「シェーン」を思い起こしてしまった。
いい曲だ。

バーンスタインがロサンゼルス・フィルを指揮したDG盤は82年録音。同時期にガーシュインも録音したが、ロスフィルのカラッとした明るさがバーンスタインのキビキビした指揮にとてもマッチしていて文句ない。
ほかに、W・シューマン「アメリカ祝典序曲」、バーバー「弦楽のためのアダージョ」、自作「キャンディード」序曲というこれまた抜群のカップリング。

しみじみムードの曲と元気はつらつ曲が交互に演奏され、聴いたあとの気分がすこぶるよろしい。

DGに録音を集中した頃のバーンスタインは、各国のオーケストラと個性的な録音を残した。ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、ニューヨークフィル、ボストン響、シカゴ響、ロスフィル、ロンドン響、フランス国立管、バイエルン放送響、ローマ・チェチーリア響など。
もう少し、タバコと酒を控えて自制してくれていたら、もっと素晴らしいオケとの出会いもあったかもしれない。

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2006年8月 3日 (木)

ショパン 「舟歌」  ルービンシュタイン

Rubinstein_chopin 関東には梅雨明け後、ようやく夏が戻ってきた。ここ数日、本当に気持ちがよかった。冷房なしでぐっすり眠れる8月なんて数十年前の冷夏以来。
こうした隙に、残る「神々のたそがれ」と「パルシファル」を聴いてしまえばいいものを、なかなか忙しくて難しい。

ワーグナーの合間に、小粋なショパンなどを聴いてみよう。
思えばショパンも今年大騒ぎのモーツァルトと同じく早世した天才だった。
39歳はあまりに早い。もっと生きてくれたら、どんなにか素晴らしい作品が生まれていただろうか。もしかして、交響曲やオペラも書いたかもしれない。
モーツァルトは、短いながらも完全に生き抜いた印象を与えるが、ショパンは青春しながら去ってしまったかの感がある。運命の神様はむごいことをするものだ。
1810~1849年。ワーグナーが1813~1883年を生きたから同世代。70を生きたワーグナーは、存分に改革をし、後世に巨大な足跡を残した。

が、しかしショパンも短い生涯に、彼しか書けない詩情に満ちた作品を残した。
伝統的な形式を残しながらも、作品にロマンティックな心情の吐露をたっぷりと注いだ。
作品は100曲に満たないが、そのいずれもが今でも私達の心の琴線に触れてやまない。

そんな中で、晩年の名作「舟歌」が私は好きだ。
「舟歌」と日本語にするより、「バルカローレ」と呼んだほうが相応しい。
本来ヴェネツィアのゴンドラ漕ぎの歌で、8分の6拍子で書かれるらしいが、ショパンは8分の12拍子で作曲した。この方が、より旋律を長く保ち、流れるような美しさが保てるからだろうと言われている。
実際、ゆったりとしたリズムに乗って、揺らぐような美しい旋律が流れるがごとくかもしだされていくさまは、まったく素晴らしい。いつまでも浸っていたい10分間である。

ルービンシュタイン御大のピアノは、明るくも美しい。
昨今の緻密な演奏に比べると、表情がまろやかすぎるかもしれないが、この作品にはぴったりかもしれない。このCDには「即興曲集」「子守唄」「ボレロ」等が収められていて、いずれも珠玉の演奏に思う。

「ワーグナーの、はざまに聴く、ショパンかな」

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2006年8月 1日 (火)

ワーグナー 「ジークフリート」 カラヤン

Karajan_siegfried








 吉田秀和氏が書いた文章で、『「ニーベルングの指環」は巨大な交響曲である。「ライン」は序の楽章で、「ワルキューレ」は叙情的な緩徐楽章。「ジークフリート」はスケルツォ楽章、そして「たそがれ」は、それまでの楽章の総括である終楽章。ブルックナーの8番のようだと・・』

確かに言いえているが、交響曲を1曲聴くのと訳が違う忍耐と、体力を要する。
バイロイトで真夏に3チクルス行われることを思うと、やはり欧米人のそら恐ろしさをも感じる。
さらに個別に見ると、「リング」第二夜の「ジークフリート」は地味である。

①舞台が森の中や山頂で、変化に乏しい、②登場人物が男ばかり、小鳥さんは例外に、ヒロインが目を覚ます3幕後半までは男物語、③二人同士の対話形式が多い、④過去の出来事をくどくどと思い起こさせるように説明する執拗さ。
こんな要素がこの作品を取っ付き悪くしている。
でも、4部作の中で唯一のハッピーエンドだし、自然の情景や純朴な憧れに満ちた明るく美しい作品でもある。

ワーグナーは「ジークフリートの死」から台本を書き始め、死を描く前の生い立ちの青春を書かなくてはならぬ、ということで、「ジークフリート」が書かれ、さらに遡ってラインの伝説までの4部作を書き上げた訳だが、「主人公ジークフリート」そのものを愛した。
後にコージマとの愛息に「ジークフリート」と名付けたほどだし、この作品の自然の伊吹を感じさせる旋律を扱って、「ジークフリート牧歌」を作曲した。
 2幕までを作曲したところで、「ヴェーゼンドンク」との許されぬ愛や「ショーペンハウエル」への傾倒から同時に芽生えていた「トリスタン」へと作曲の主軸を移すことになった。
ワーグナーはリストに向けて「僕はジークフリートを森のなかの菩提樹の下にのこして、心から涙を流しながら別れを告げた・・・」と書き記している。
 
そんなに好きだったジークフリート。悲劇の兄妹の息子、恐れを知らぬオバカさん、怪力だけど寂しがりやで動物や草木を愛する優しい子。
こんな子供が、乱暴ものとはいえ恐竜に化けていたファフナーを仕留め、いかに醜く、殺意をもっていたとしても育ての親のミーメをやすやすと殺害してしまう。
ナイスガイ・ジークフリートはこんな残酷な一面を持っている。
 
こんなジークフリートが、ブリュンヒルデを目覚ませることで、恐れを覚え、愛と死を知る。
最終幕において、ワーグナーの望む英雄ジークフリートが完成するわけだ。
2幕から3幕までの、作曲のブランクは実に12年。作者が望むジークフリート像の音楽における完成には、トリスタンやマイスタージンガーによる補完が必要でなかったのだろうか。こんなことを考えながら、3幕の充実した前奏曲やさすらい人とジークフリートの出会い、そして素晴らしいブリュンヒルデの目覚めと二重唱を聴いていると前2幕とのオーケストレーションの進化に驚く。

しかしながら、小鳥から山上に眠る女性を紹介されてまっしぐらに来たくせに、ブリュンヒルデを守る武具を解いて、「こ、これは男ではない!」というくだりは不自然であろう。
最初からそのつもりだったのに、何を言ってるんだろう。
それから、人情として、さすらい人とジークフリートの出会いは寂しい。「お爺さんですよ」の一言くらい欲しかった。世捨て人でかつ、神々と関係ないところでの活躍を望む身としては、名乗れないお立場であろうが。

そんなこんなで、本当は結構楽しめる「ジークフリート」なのである。

Maister_thomas_1












ジークフリート、ミーメ、さすらい人の男声3人に人が揃わないと、この作品は厳しい。その点、カラヤン盤は完璧といっていい。
CDが意外と少ない、「ジェス・トーマス」のジークフリートは最高だ。
アメリカの片田舎に生まれたトーマスは、それこそ独学から初めてもの凄い努力が結実し、ドイツに渡って、「ローエングリン」で伝説的なデビューを飾った。80年代前半には引退してしまったはずだが、それまでバイロイトやウィーン、メトで、ワーグナーの諸役を歌って大活躍した。一昨年?だったか、ひっそり亡くなっている。「ジェイムス・キング」や「ジーン・コックス」とともに、60~70年代のヘルデン・ロールを支えたアメリカ組みの一人なのだ。
端正で気品を失わない美しい声は実に魅力だ。画像はヴァルターであるが、舞台栄えもする名テナーだった。自己のレパートリー拡張に非常に慎重だったらしく、そのせいか録音が少ないが、EMIにワーグナーのソロLPが残されているはずである。
何と、「ホルスト・シュタインとベルリン・フィル」との共演。CD化を強烈に望む1枚。

「ゲルハルト・シュトルツェのミーメ」は憎めないミーメとして完璧だが、やや誇張された表情付けが時代めいて感じるのは、最近のスタイリッシュな歌唱に馴れてしまったせいか。
「トマス・ステュワートのさすらい人」も相変わらす美しい声でよい。

元気に目覚めるブリュンヒルデは、私の好きな「ヘルガ・デルネシュ」。細やかで女性的な歌唱は、カラヤン好みながら、ヴァルナイやニルソンに変わるドラマテック・ソプラノの出現を告げている。彼女は次作「たそがれ」や「イゾルデ」でさらなる大輪を咲かせることになる。

カラヤンとベルリン・フィルは相変わらず巧い。もうイヤになってしまうほどだ。
ちょっとしたフレーズにも味があり、色がある。それがすべてドラマに機能しているところが劇場の人「カラヤン」なのであろう。
ホルンはおそらく、名手「ザイフェルト」、唖然とする演奏だ。

残る「たそがれ」へ、わが試聴部屋のエアコンなし過酷環境が厳しく立ちはだかる。
逆境にもめげずワーグナーの毒を摂取しつづけるのであった。

尚、ジェス・トーマスやペーター・ホフマン、ルネ・コロらのヘルデン・テナーのいろいろない一面を詳細に調べ、語っておられる素晴らしいサイトがeuridiceさんのHPです。
http://www.geocities.jp/euridiceneedsahero/

 

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