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2006年8月 6日 (日)

ワーグナー 「神々の黄昏」 カラヤン

Karajan_gotter_dammerung 「リング」の中でも最も巨大な作品、「神々の黄昏」に到達した。
以前から書いている通り、12年のブランクの後、「ジークフリート」第3幕を作曲したわけだが、続くこの「たそがれ」は円熟した作曲技法が駆使され、緻密な考察に基づいて、「ライトモティーフ」はさながらモザイクのように、いろいろと姿を変えつつ全曲にはめ込まれている。音符ひとつひとつに意味が込められているから、まったく油断も隙もない。

さらに、曲の長大さ。「マイスタージンガー」以降、本作をはさんで「パルシファル」まで、上演に4時間以上を要する3作となっている。しかも、各幕にかかる時間が同じであることが面白い。1幕か3幕に2時間の長い幕を置き、真中の2幕は65分くらい。残る一幕を75分くらい・・・・。というように。ここまで書かなきゃいられなかったワーグナーの筆の雄弁さに今更ながら驚く。

「ジークフリート」をハッピーエンドに終えたが、ここ「たそがれ」は、また死と破滅の応酬である。ワーグナーの愛した、快活なおバカさん、「ジークフリートの死」と共に、生涯好み、求めた「女性による救済」そして、「神々の時代の終焉」を描いている。
こんな作品の後は、行動と思索の人ワーグナーには、宗教的な神秘劇しか残されていなかったのではなかろうか。「パルシファル」(または仏陀も検討した)が登場するのもうなずける。
 それにしても、ジークフリート君は英雄にありながら、無類のお人よしだ。せっかく「ブリュンヒルデ」から数々の秘儀を授かりながら(でもいったい何をお教わったんだろ)、あっさりと初めてあった連中と兄弟に契りを結んでしまう。あげくに、忘れ薬なんぞ、飲まされてしまう。「トリスタンの媚薬」は、意図的でもあり死を賭した夢中さがあるが、ここには何もない。
単に騙されただけ。
そしてお人よしは、かわいそうな「ギービヒ家」の兄妹。グンターは何も決められなくて、ハーゲンとブリュンヒルデの間でおろおろしているだけ、挙句に殺されてしまう。
グートルーネはもっと報われない。最後の正妻の厳かな登場で、へねへなと兄の遺体に倒れ付すのみだ。気の毒としか言いようがないが、確か「トーキョー・リング」のウォーナー演出では、ブリュンヒルデが「あなたも同じ指環の被害者なのよ」と言わんばかりに、グートルーネを抱きしめるシーンがあって、新たな視点に感心したものだ。

この作品の要点は、序幕の3人のノルンたちがすべてを語っている。世界支配の証であるウォータンの槍の秘密と、それがジークフリートによって折られてしまったこと。神殿には蒔きが積まれ、ここに火が放たれ、焼き尽くされ「神々の終わり」がやってくることを。
この巨大な4部作の影の人物(半神)、ローゲの知恵はウォータンの槍の碑文を盗んでいたことが明かされ、ウォータンがローゲに砕かれた槍を突き刺し、神殿が炎上することを。

だがしかし、この作品には神々は登場しない。行われるのは、人間界のドラマだ。
指環の奪還は、自らが生んだ英雄に槍を折られたり、愛娘の人間の女性としての大きな愛情にはばまれて、まったく実現できないことが最初からわかっているから。
そして、「行動と思索の神」ウォータンのお株は、「ブリュンヒルデ」がそっくり受け継ぎ、一次は指環の呪いに囚われながらも、最後はすべてを受け入れ愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込む。ここに至って、ワーグナーお得意に「自己犠牲」「救済」の完結となる。

が、はたしてそうだろうか。自己犠牲ですべては終わったのか?神々は滅び、自由な人間の世界の幕開けとなるのだろうか?
またそこが始まりではなかろうか?4部作の最初に戻って、永遠に繰り返される、欲望と愛憎のドラマが始まるのではないかろうか? そんな風にいつも思う。

これを強く意識させた演出が、86年に来日したベルリン・ドイツ・オペラの「ゲッツ・フリードリヒ」演出だ。舞台奥に「タイム・トンネル」を据え、登場人物たちはここから出入りする。
「たそがれ」の最後は、「ラインの黄金」の冒頭のシーンに戻ってしまった。「始まりは終わり」であるという強いメッセージに、当時驚いたものだ。いずれ過去の日記から、この上演のレヴューを載せたいと思う。
 ついでに、「たそがれ」大団円で感動した舞台は、二期会のもので、救済の動機が響くなか、舞台には何もなくなり真っ白な光がそこに当たるだけ、というもの。
この何もない完結感は無常観も出て日本人的だと思ったし、素晴らしい音楽に集中できて本当に感動したものだ。
 反対に「トーキョー・リング」はアイデア満載で面白かったが、「ライン」でフローがビデオ撮影をしているのを見たときから、最後のシーンが予測できた。スクリーンに見入る人間達が最後の場面。こうした、いろんなものが詰め込まれた演出は観る分には楽しいが、音楽に集中できない。音楽が雄弁なのに、これ以上何が必要か?
まあ、いろいろな解釈を受け入れる、それだけワーグナーの作品が魅力なわけだ。

Karajan_gotter 画像は録音風景と、カラヤンのサイン風景。カラヤンのリングも最後の録音(69、70年)になり、ベルリン・フィルの凄さも安定した強みとなっている以上に、コンサート・オケにはないオペラの極上の雰囲気を醸し出すようにもなった。私はカラヤンを積極的には聴かないが、ワーグナーだけは別。しかし今回カラヤンを大いに見直したのも事実。
精緻に細かいところに目をくばっているばかりでなく、幕切れやドラマテックなところでは思い切りアッチェランドをかけたり、大音響を響かせたりとメリハリも充分。
ずっと感心しながら聴けた。「ジークフリートの葬送行進曲」から「自己犠牲」までの素晴らしさはどうだろう。音による壮麗な大伽藍のようだ。
 ついでにネットで今年の「ティーレマン・リング」を少し確認したが、なかなか聴かせている。年末の放送が楽しみだ。

Karajan_gotter2 歌手陣も豪華だが、ジークフリートの「ブリリオート」が頑張ってはいるものの、喉に詰まったような声は、ちょっといただけない。かつて高崎保男氏は、「死んでホッとするジークフリート」と称した。
「デルネッシュ」の感情のこもったブリュンヒルデ、声が美しすぎるのが難点だが、立派すぎる「ハーゲン」、高貴な雰囲気が漂う「ステュワート」と「ヤノヴィッツ」の兄妹。もったいないくらいの「ルートヴィヒ」のヴァルトラウテ。すでにブリュンヒルデ級のあの「リゲンツァ」がノルンの一人を歌う贅沢ぶりである。

さてさて、ここに「リング」試聴を終了したわけだが、ワーグナー好きの方々がおっしゃるがごとく、「終わりは始まり」ならぬ、「リング」症候群になってしまいそうだ。
早くも、あの指揮は、あの歌手は、あの演出は、それぞれどうだったか?などと思いを巡らすようになっている。いやはや、困ったものだ。
 一方で、「パルシファル」が待っている。クンドリーの怪しい一声、「パ~ルシファル」の歌声が私を捕らえる力も強い。

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コメント

こんにちは♪  まずはこの猛暑の中、「指環4部作完走」、お疲れ様でした。  汗だくになりながら呆然とされている yokochan さんの姿が見えるようです(笑)

>自己犠牲ですべては終わったのか?神々は滅び、自由な人間の世界の幕開けとなるのだろうか?
またそこが始まりではなかろうか?4部作の最初に戻って、永遠に繰り返される、欲望と愛憎のドラマが始まるのではないかろうか? そんな風にいつも思う。

本当にそうですよね。  先日も yurikamome さんとこの楽劇のタイトルがなぜ「ラインの黄金」ではなく「ニーベルングの指環」なのかについて語り合ったのですが、このタイトルにものすご~く深い意味があると思います。  この長大なオペラの最後の一言がハーゲンの「指環に触れるな!」なわけですが、この言葉が意味する2つの側面がこれまた象徴的なような気がします。  何が何でも指環を手に入れたいというニーベルング族の悲願と、それとは相反するすべてを滅ぼす「呪いの象徴」の指環を消し去りたいという本人も恐らくは自覚していない願望(本音?)が複雑に入り混じった言葉のように KiKi には聞こえます。

次は「パルシファル」ですね??  う~ん、楽しみです♪  

投稿: KiKi | 2006年8月 7日 (月) 10時08分

kikiさん、こんばんは。ともかく暑かった。というより、今も暑いです。ションボリ。
 いつもkikiさんとyurikamomeさんのやりとりは大変、興味深く拝見しております。yurikamomeさんのところにも、足跡を残さねば、といつも思いながらボヤボヤとしてます。
 そして、そうなんです。リングの最後の一声が、ヒロイン、ブリュンヒルデの愛の挨拶ではなくて、一応ダーク・サイドのハーゲンの一言なところが、昔から気になっていたんです。
 ラインの汚染された川の流れでは、もはや「指環の呪い」は消し去ることが出来ない・・・、こんなコンセプトがパトリス・シェローの演出にはありました。
人間がすでに招いていた消し去ることができない悲劇であると。
 終わりのない、優秀なドラマであります。

パルシファルのCDの選定に本日は悩んで終わりでした。

投稿: yokochan | 2006年8月 7日 (月) 23時43分

暑さ厳しき折、聴きすぎにご注意ください。(^^♪

投稿: びーぐる | 2006年8月 8日 (火) 08時08分

ほぼ同時期に「黄昏」を鑑賞していたのですね。
お互いご苦労様でしたと労をねぎらいつつ、改めて思ったのは、この楽劇が意外にグランド・オペラの様式を守っていること。私のは最近出たヘンヒェン指揮、アウディ演出の1999年オランダ音楽劇場のDVDでしたが、第2幕のギービヒ家に参集する家臣のものたちの合唱登場があれほどに嫌っていたマイアベーアのオペラ(それはヴェルディの「ドン・カルロ」や「アイーダ」、「オテロ」に続く)オペラとしての醍醐味を発見してしまいました。
同時に、「ワルキューレ」や「ジークフリート」と比較して、若い頃は「リング」の中で一番聴いていた「黄昏」の音楽が、「騒々しい」と感じたのも事実です。必要最小限でしかオーケストラが鳴らない「トリスタン」や「黄昏」より編成が薄い「パルシファル」。一番オペラに近い「マイスタージンガー」のほうに今の自分の興味が移っていることを知った「黄昏」鑑賞でした。

投稿: IANIS | 2006年8月 8日 (火) 22時56分

びーぐるさん。ありがとうございま~す。
もうへろへろです。暑いことに加え、酒席もあったりで、げんなりです。
ですが、私にヴァイタリティーを与えてくれるのはワーグナーと英国音楽だったりするわけです。(笑)

投稿: yokochan | 2006年8月 9日 (水) 00時25分

IANIS さん、こんばんは。
なるほど。合唱という群集が入ることにより、黄昏ではこれまで保たれていた、ドラマとしての緊密感が少し失われ、「騒々しさ」が感じられることになったかもしれません。漫然とそこにあるものとして、受止めて聴いていたものですから、大変興味深いご指摘を受けると、溜飲が下がります。
パルシファルの合唱とは訳が違いますからね。ここでの合唱は、傍観者としての残酷な人間という気もします。
ワーグナーは常に聴くとして、ヴェルディ・シュトラウス・モーツァルトのオペラを連続しようと企んでいるんです。それで、ワーグナーのいろんな一面を見ようとも思ってます。

投稿: yokochan | 2006年8月 9日 (水) 00時38分

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受信: 2006年8月 7日 (月) 09時51分

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・・・・・・・。   すみません、今日もワーグナーです ^^;  しかも又「指環」です。  ただ15時間も聴き続ける余裕も気力もないので、今日はハイライト盤ですけど・・・・ ^^;  はい、はっきり言って KiKi は今や廃人一歩手前です。  寝食忘れて・・・・とまで..... [続きを読む]

受信: 2006年8月 9日 (水) 12時38分

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