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2006年10月

2006年10月31日 (火)

ネトレプコ 「ロシアン・アルバム」

Netrebko_russian 今やスーパースターになってしまった「アンナ・ネトレプコ」。以前アバドの強力サポートによる「イタリア物」を取上げ、その美しいベルカントぶりを絶賛したが、正直まだまだ上には上はある。
お美しいお姿が、オヤジ心に大いに働きかけていたことは事実。

そんな彼女の最新アルバムは、お国ものの1枚。
いまだに、ロシア物の録音がないのが不思議なくらいだったが、いかにロシア物が地味かわかる。彼女だと贅沢を許しちゃうDGは、今回は「ゲルギエフとキーロフ」を起用した。

彼女を育てたキーロフの面々に囲まれ、思い切りのびのびとロシアしている1枚だ。
ロシア系はあまり聴かず、ふだんドイツやイタリアものばかり聴いているので、ロシアの歌はこうも違うものかと、1曲目から痛感する。発声そのものが異なるのか。
彼女の声も、紗幕が1枚かかったような、まるでヴェールにつつまれたかのような、ほの暗さ。高域を張り上げるヶ所もあまりなく、中音域の世界が大半に思う。

Netrbko これを黙って聴かされたら「ネトレプコ」と言い当てることは難しいのではなかろうか。耳に馴染ませるために、4回も連続聴いたが、聴くほどに彼女の知的な歌いぶりがこれらの幾分とっつきの悪いアリア集をいかに聴きやすくしていることかよくわかった。
そして、彼女の声って、こんなに陰りがあったっけ?と思うことしばし。
それ以上のことを、ロシアオペラ不案内の私に言う資格なし。

収められた曲は、チャイコフスキー、ラフマニノフ、R=コルサコフ、グリンカ、プロコフィエフのオペラや歌曲など。
この中で、いたく感激したのは、R=コルサコフの「皇帝の花嫁」からのアリア。さすがはメロディの天才と思わせる美しさと耽美的な夜の雰囲気に満ちた曲で、ネトレプコは思い切り情感を伴なって歌ってくれる。ほんとにいい曲なのである。
以前、グルヴェローヴァで聴いたことがあったが、何の曲かわからなかった。
こうしたオペラは劇場や映像で見たらしっかり楽しめるんだろうな。
締めは言わずと知れた「エウゲニ・オネーギン」の手紙の場面で、耳に馴染んだチャイコフスキーのロマンと激情溢れる音楽を、ネトレプコの素晴らしがここで全開となって楽しめた。

Netrebko1079_11 ゲルギエフのオーケストラは悪かろうはずがない。まったく危なげなく、歌手の呼吸にピタリと合わせ、かつオペラの一場面を感じさせる臨場感も充分。ただ、ときおり聞こえる指揮者の鼻息のような雑音は、ちょっと・・・・。

それもこれも、ネトレプコの初ロシアもの録音にゲルさん張り切ってしまったんだろうか。
「アインザッツ」さんの未確認情報(ウワサ)によると、彼女は「ゲル○○・・」と「プー○○」の愛人ではないかということ。噂はウワサとしても、こいつは面白い。
どちらも髪の毛がアレだし、超々元気絶倫そうだし・・・・。
(ちなみに、プーサンではありませぬ。一番えらい人です)ホンマかいな?

ミスター・ビーンといい、絶倫のお二人といい、美女には美男は似合わないのかしらん。

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2006年10月30日 (月)

別館ブログ始めました

食いしん坊と呑んべい系の記事を、別館として独立しました。
まずは既存の記事をコピーしました。飲食ブログは、今後別館に記載することとしました。
左、カレンダー下のリンクです。

当本館は、音楽専用のクラヲタ・ブログとなります。
私にとって、音楽・酒・食は切っても切れない組合わせ。記事がクロスオーヴァーしますので、ご容赦のほど。

別館もどうか、ご愛顧のほどをお願いいたします。

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ブラームス セレナード第1番 アバド

Abbado_brhams_serenade 今日はいい天気。日差しは暖かいけど、空気はちょっと涼しい。
思い切り深呼吸すると、ほんとに気持ちがいい。

こんな秋晴れに日は、月曜にもかかわらず、ブラームスがいい。
ブラームス25歳(1858年)の若書きの作品11のセレナードを聴く。

ほんの少しあとに作曲された、管楽のための2番と対をなすこの1番は、フルオーケストラのために作られた。
全6楽章、若いとは言え、全編どこをとってもブラームスそのものの音がする。
明るい活気に満ちた1楽章から泣かせる。今日のような天気のいい日に、草原に大の字に寝て聞いて見たいような曲だ。ほんとにいい曲なのだ。
3楽章のアダージョの静やかな様子は、後年の交響曲の緩徐楽章そのもの。
内省的だが、もう少し青臭く、回顧的でなく、今青春を愁う様子が感じられる。
哀愁にみちたメヌエットやスケルツォ、快活な終楽章。
 後年の重苦しい北ドイツ的な雰囲気は皆無なのだ。

アバドが81年に音楽監督になる前のベルリン・フィルを指揮した演奏は、アバドの気質にピッタリあった曲だけに悪かろうはずがない。
どこまでも明るく、屈託がない。リズムは弾み、音楽は次から次へと進み、旋律は晴れやかに歌われ、決して低回しない。
 まだカラヤンが頑張っていた時期だが、そろそろコンビに隙間風の吹きだした頃。
アバドの明るい色調の音楽作りに、ベルリン・フィルが嬉々として楽しそうの取り組んでいるのがよくわかる。このコンビの超名作、第1回目の2番の交響曲を思い起こすような素敵な演奏がこれである。

デビュー間もないアバドとベルリンのセレナード2番も、滴るような美演。
今年、アバドは「マーラー・チェンバー」とこの1番を演奏するはず。
若さにどんどん逆戻りするかのような、マエストロ。聴いてみたいもの。

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2006年10月29日 (日)

レハール 「微笑みの国」 シュトルツ

Lehar_das_land_des_lachelns



「メリー・ウィドー」だけが、有名なレハール。それ以外はなかなか聴く機会がないが、私があらゆるオペラアリアの中でもすこぶる付きに好きな「君はわが心のすべて」~「Dein ist mein ganzes Herz」が歌われる作品、「微笑みの国」だけは良く聴いている。

ハンガリー生まれだが、ウィーンのオペレッタ界を席捲してしまったレハール。甘味でかつエキゾチックな音楽はとろけてしまいそう。ワルツ「金と銀」などはもうその典型だろう。嫌いな人には、まったくダメ。お薦めもしません。

「微笑みの国」は、中国を舞台にした、ウィーンの伯爵令嬢と中国の王子の悲しい恋の物語である。
「喜びも悲しみも諦めも、微笑みの中にかくしてしまう」東洋人の国をさしての原題である。
例によって、西欧からは神秘の国々としか写らなかった東洋のありさまが、中東あたりともごちゃまぜにされて、そうとう荒唐無稽なドラマに仕上がっている。

ウィーンで中国の王子スー・チョンに見初められた伯爵令嬢リーザであるが、本国の皇帝が亡くなり、急遽本国へ帰る王子に付いて行くことに決心。
皇帝に即位したスー・チョンは、心からリーザを愛するが、白人を思わしくない親族や取り巻きに悩む。あげくに、4人の正室(??)を迎えるスー・チョンの側室に過ぎないとの噂も耳に入り不安に。本国から、かつてリーザを愛した幼馴染がやってきて、リーザにも里心がついてしまい、幼馴染はさらに皇帝の妹と愛し会うようになるが、彼女を逃がすことに手を貸す。
事が発覚して、リーザらは囚われとなるが、皇帝はすべてを許し悲しむ妹と共に、微笑みと共に二人を見送る。

なんだか、無理のあるストーリーだが、今はただ「なすすべなく微笑む」のは日本人の特許であり、中国や韓国はもっと強烈な自己主張の術を手にいれている。

東洋風なペンタトニック音階を巧く取り入れ、レハールらしい甘味で陶酔的な世界を充分に味わえるすてきなオペラ。

ローベルト・シュトルツのツボを得た指揮、それ以上に「ルドルフ・ショック」の気品と哀愁溢れるスー・チョンが素晴らしい。抜粋盤ながら、ほぼ作品の概要を知ることができる。

欧米人から見たら、日中韓はみな同じ顔に見えるであろう。
私の知り合いが、見分ける術を教えてくれた。
目と眉毛がつり上がっているか、横に真っ直ぐか、下に垂れているか、この3点でわかると。ほんまかいな??

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2006年10月28日 (土)

プッチーニ 「ラ・ロンディーヌ」(つばめ) アンナ・モッフォ

La_rondine 今日はプッチーニ行きます。
プッチーニといっても、ただ「ボエーム」や「トスカ」じゃ芸がないから、「ラ・ロンディーヌ」つばめ、というオペラを取上げてみた。

1917年、プッチーニ59歳の円熟期の作品で、この後は「三部作」と「トゥーランドット」が残されている。こんな充実期にありながら、このオペラは全然上演されず、CDもごく僅かしかない。
何ゆえに、人気がないのか? 有名なのはピアノのオブリガートを伴った、主人公「マグダ」の歌うアリア「ドレッタの美しい夢」ぐらいで、名アリアがないこと。
人が死んだり、殺されたりする生々しさがなく、ドラマ性に乏しいことなどが想像される。

でも始めはさりげなく聴いたつもりでも、優しくなじみやすいメロディーが次々と現れるし、オーケストレーションも相変わらず巧みだ。長さも2時間足らずだし、ほんとうは愛すべき魅力的なオペラだったのだ。

大まかな内容は、「ラ・トラヴィアータ」を思い起こせばいい。

舞台はパリ。銀行家「ランバルト」の愛人である主人公「マグダ」は美人だが、ちょっと嫌われ者。よくあるように、サロンに芸術家を呼んで楽しんだりしている。
 詩人「プルニエ」は、彼女が「つばめ」のようにロマンスと冒険を求めて飛び立つが、やがて巣に帰っていくように元の生活に戻るだろうと歌う。この「プルニエ」は狂言回し的にも重要な役柄かもしれない。

あるとき、銀行家の友人の息子「ルッジェーロ」が都会パリに憧れ出てくる。この青年に引かれた「マグダ」は、お針子に変装して、夜のパリで「ルッジェーロ」と会い、二人は恋に落ちる。

二人はリゾートの別荘で数ヵ月愛の巣を営むことになる。「ルッジェーロ」は故郷の母に結婚の許しを請うていて、晴れてOKが出て、喜んで「マグダ」に告げる。
折から、詩人「プルミエ」と以前の彼女の小間使いが遊びにきていて、銀行家のオヤジが「いつでもパリに戻っておいで」と言っていることを告げる。

結婚の申出を受けた「マグダ」は、自分の穢れた身の上を語り、偽って結婚するこはできないと涙ながらに別れを告げる。

こんな起伏の少ない内容に付けられた音楽は、放っておくにはあまりに勿体無い。
有名なアリアはもちろん素晴らしいし、2幕のパリの夜の賑やかな社交の場では、ウィーン風のワルツも聞かれる。その幕の最後に、恋人となった二人が楽しそうに立ち去りながら、小間使いのリゼッタが歌いルッジェーロが小粋に口笛を吹いてそれに応えながら遠ざかっていく場面のセンスのよさといったらない。
 そして、終幕の別れの場面。初めて知った真実の愛にもかかわらず、自ら身を引いてゆく女性の優しさと悲しさを表わしきった音楽にはホロリとさせられる。

 マグダ :アンナ・モッフォ       ルッジェーロ:ダニエーレ・バリオーニ
 リゼッテ:グラヅィエッラ・シュッティ  プルニエ:ピエロ・デ・パルマ
 ランバルド:マリオ・セレーニ

  フランチェスコ・モリナーリ・プラデルリ指揮RCAイタリアオペラ管弦楽団
                        (1966年 ローマ)
 

Mofo_1_2 今年、世を去ってしまった「アンナ・モッフォ」の1966年の録音は、この愛らしいオペラの魅力を味わえるCDだ。
心持ちほの暗い声は、陰りをもったこの役にぴったりだ。
モッフォの美しいお姿を雑誌などで、若い頃から拝見してきた身にとっては、マグダ=モッフォと完全にダブってしまい、終幕の部分などその切ない別れにきゅん、となってしまう。
 アンナ・モッフォは、その美貌ゆえ映画にも出演したり、そこでは大胆なヌード!!にもなったりと、大活躍したが、その後スランプに陥り、もの凄い努力を伴なって復調した。70年代のカルメンなど、イメージを一新する活躍を見せた。
私はあまり多くを聴いてはいないが、「ルチア」や「ミミ」などを改めて聴いてみようと思う。

Mofo2 相手役のテノール(バルトーニという人)がなんともオヤジ臭い。そして頼りない。でも要役のピエロ・デ・パルマが実に味のある歌を聴かせて救いをもたらしてくれる。
モリナーリ・プラデルリと生粋のイタリアオケは申し分なし。

そう、舞台にかかりにくいのは、主役に相応しいソプラノがなかなかいないからなのかもしらん。

それから、「トラヴィアータ」とともに、潔く引き際を美しくかざる主人公のオペラとして、「ばらの騎士」、そして素敵なレハールの「微笑みの国」がある。

 

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2006年10月27日 (金)

ラフマニノフ 交響曲第3番 ウェラー

Rachmaninov_weller ラフマニノフの交響曲シリーズ、しばしの間をおいて3番を聴く。
2番が大成功して、すぐに次の交響曲を手掛けるかと思いきや、ピアニストとしての名声も高まり、演奏旅行に明け暮れ多忙となってしまった。
そして、ロシア革命まで起こり、パリに亡命せざるを得ず、ついでアメリカに永住することなった。
そんなこんなで、3番の交響曲に筆を染めたのは、2番から実に30年。

こんなブランクがなければ、あといくつ交響曲が残ったろうか?
私は、パターンは同じでも、ラフマニノフの交響曲はいくつあってもいいと思うんだが。

結局この3番の交響曲は、1936年に、ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管で初演された。ストコフスキーと同様、作曲者と交流のあったオーマンディも初演を望んでいたらしい。ちょっと楽しい音楽史のひとコマ。
 フィラデルフィアといえば、現音楽監督の「エッシェンバッハ」が退任するという。
リベラ33さん」に教えていただいた。残念なことだ。

3楽章形式の、35分たらずのこの交響曲は、相変わらずラフマニノフ特有のロマンテックな歌の歌謡性に満ちていて、聞きやすい作品だ。
ラフマニノフは、自分の心に常にあるロシア音楽を、単純率直に作曲したと言っている。

3楽章すべてに甘く憧れに満ちた旋律が溢れているし、2楽章後半のスケルツォ風の部分や終楽章における生気に満ちた活気も、いかにもこの作曲家らしい。
 これから冬にかけて、ますます冴え渡る音楽に思う。

元ウィーン・フィルのコンサートマスター、まさにウィーンでしかなかった四重奏団。
これらの顔から、指揮者「ワルター・ウェラー」は浮かんでこない。
70年代半ば、指揮者になってから、このラフマニノフやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどを次々に録音していた。実に不思議なキャラクターだと思っていた。
 今こうして、ラフマニノフの演奏を聴いていると、すっきりさわやか、粘りなく実に流れのいい演奏だ。オーケストラがロンドン・フィルという弦の渋い優秀オケだということもあって、実にまとまりよく、ビューティフルな音楽に仕上がった。
 音楽批評ではコテンパンにやられていたが、プレヴィンにも通じるところもあって私はこんな弦主体の美しいロシア系音楽の演奏が好きだ。
 昨年、読響を振った「エド・デ・ワールト」の演奏会でこの曲を始めて生で聴いたが、ワールトも美しさの際だった演奏だった。しかし、全体を統一するような暗示的なモティーフの扱いや、まとまりの良さは、ワールトのほうがかなり上だった。

ラフマニノフはいい。酒なくしては聴けないのが難点だが。

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2006年10月25日 (水)

モーツァルト 歌劇「イドメネオ」 新国立劇場

Idomeneo

モーツァルトの歌劇イドメネオを観劇した。
音楽だけは、ベームのCDで何度か聴いているが、始めて観るオペラである。このかなり渋く長いオペラセリアを、メモリアルイヤーとはいえ新国はよく取り上げたもんだ。
だからシーズン当初から気になってはいたし、ルツェルンもあるし、どうしようかと思っているうちに間近になってしまった。
 決心したのは、某新聞で読んだ今回のイダマンテ役、藤村実穂子のインタビューと写真だった。ワーグナー以外への意欲と 、ボーイッシュに髪を短く刈りこみ、いわゆるズボン役に賭ける意気込みが感じられ、これは観なくてはとなった次第。
そして藤村さんと同様に注目は、タイトルロールのトレレーヴェンとエレクトラ役のマギーであった。そう、3人ともワーグナー歌いなのだ。そして始終共演している気心知れた仲間らしい。

そんなことで、モーツァルトの音楽を聴いてやる、というよりは、歌手に注目という、ちょっと不順な動機で劇場の席についた。音楽が始まると、序曲は小手調べとしても、のっけからから素晴らしいレシタティーボとアリアの連続ですっかりモーツァルトの音楽そのものに引き込まれ、夢中になってしまった。いまさらながらに、モーツァルトって何てこんなに旋律が次から次へと泉のように湧き出てきるのだろう。
まさに無尽蔵という言葉が相応しい。
素晴らしい音楽の連続に、舞台・演出にことさらの閃きがなくとも充分に楽しめる。

筋はちょいと荒唐無稽で、ギリシアのクレタの王「イドメネオ」が、宿敵トロイとの戦争に勝ち帰還中、嵐に会い生死を危うくする。そのとき、海の神「ポセンドン(ネプチューン)」に、助けを請う。このときの条件が、最初に会った者を生贄として差し出すというものだった。
 運命はいたずらで、何と数十年ぶりにまみえる息子「イダマンテ」と真っ先に出会ってしまう。王で父のイドメネオの苦悩と、そんなことを知らないイダマンテの父に冷たくされる苦悩の葛藤が描かれる。
 ここにイダマンテを愛する「イーリア」とそれに横恋慕する「エレットラ」の恋の三角関係もからみ、かなり心理的な劇ともなっている。
 最後は、息子を屠る決心をした父が剣を取るところに、イーリアが割って入ると、神の声が厳かに響く。「もういい、わかったよ。愛の神の勝利よ。父は引退し、息子はイーリアを妃に迎え、王を継ぎなさい」とのご託宣が下る。
 これには、エレットラはむちゃくちゃ激怒。ふざけるな、侮辱するな、もういい。死んだ弟オレストのところに行ってやる・・・と、ともかく怒りまくる。(はは~ん、このエレットラって、あのエレクトラだったん)
この気の毒なエレットラは、最初から最後までともかく怒りどおし。最終的に切れてしまい、場外退場となってしまう。
 怖い人がいなくなって、舞台はやれやれ、ほのぼのと引退の辞を述べるイドメネオと愛を称える合唱で幕となる。

この息子を生贄として、殺さざるをえなくなる物語は旧約聖書の「アブラハムと苦労して授かったイサク」の物語に酷似している。(公演プログラムでも指摘)
 神が人間を試すかのように、自身への絶対忠誠を諮らしめる場面である。
剣やナイフを振り上げたとき、「ちょっと待った」と時代劇のヒーローよろしく登場するので、「何だかなぁ」ではあるが、モーツァルトの音楽にそうした??要素はまったくなく、終始霊感に満ちた美しさであった。

舞台は、可も不可もなし。神殿の赤と黄、海の青の3色が印象的。円柱を左右に配し、クレタ風の模様がそれらしく、シンプルながらまずまずに思った。
選出は、チュ-リヒで活躍した「アサガロフ」で、そういえば今年「カヴァ・パリ」を観ていた。演技は、やや時代めいた動きが気になったが、これはセリフがやや冗長なため、致し方ないのかもしれない。
合唱が活躍する作品でもあるゆえ、時にオペラというより、オラトリオを舞台に乗せているかのような気もした。これもひとつの狙いかもしれない。

歌手で素晴らしかったのは、藤村実穂子。あんな小柄な女性なのに、声と舞台姿に大いなる存在感がある。その声は優しく暖かで、彼女の歌うブランゲーネやワルトラウテのようなぬくもりを感じさせてくれた。テノールで演じられることもあるが、彼女を聴いてしまうと、元々カストラートに書かれた作品だけに、この役は女性の方が適任ではないかと。
 そして、いつも怒ってばかりのマギーは、その舞台栄えする美しさ以上に、声にハリとドラマテックな輝きがあって、最後にぶちきれるところの難解なアリアは素晴らしいものがあった。CDに聴くエヴァやエルザとは別人のようだった。(エルザは相当に素晴らしい!)
 初めて接したイーリアの中村恵理は、掘り出しもの。このオペラで一番美しいアリアを3曲も与えられている役を、その役柄通り、可愛くやさしく女性的に歌い演じた。
 トレレーヴェンは、少し精彩なかった。重ったるく感じた。しかし歌いどころが少なく、むしろ、オケ付きレシタティーボの場面が多く、そこでかなり劇的な要素を必要とすることから、もっさり系のこの人の起用が生きていたように感じた。

指揮のエッティンガーは、バレンボイムの秘蔵っ子。珍しさやまばゆさはないが、ほとんどが始めてと思われる経験の聴衆に、わかりやすく、かつ精妙な演奏で、好感度高かった。

てなわけで、結構楽しめた「イドメネオ」であった。

NHK・BSで「ハーディング/スカラ座のイドメネオ」が金曜深夜に放送される。
先般の「マーラー・チェンバー」で驚嘆しただけに、こちらも楽しみ。

新国の今後は、オーソドックスすぎる演目が並ぶが、「フィデリオ」(バイロイトの新ジークフリート、グールド登場)、「オランダ人」(次世代ウォータン、ウーシタロ登場、牛太郎じゃありません)、「ばらの騎士」(P・シュナイダー指揮)、「蝶々夫人」(次期監督・若杉弘指揮)、「西部の娘」(K・ヴァネス)等々、このあたりは絶対観たい。

それにしても、時間と金が・・・・・。

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2006年10月24日 (火)

シベリウス 交響曲第4番 ヤルヴィ

Sibelius_4 今日は寒かった。涼しくならない秋だと思っていたら、急に風雨を伴なった寒さがやってきた。日本シリーズで燃える札幌も、友人の報告では雪の予報が出てたらしい。
 ついでながら、日本シリーズは「日ハム」を応援している。北海道が好きということもあるが、名古屋のチームは、貧乏球団を見捨てた外人やキャッチーがやたらに活躍しているから、憎たらしいのである。
プロだから、自分を高く買ってくれるところに自分を売るのは当たり前ながら、金のない球団との格差は開くばかり。そして、彼らは自分を応援していたファンに対しどう思っていたのか、という不満も募る。

 さて、今日はアバドを離れて、アバドが絶対にやらなかったシベリウスを。
肌寒くなると、シベリウスが聴きたくなる。それも、とっつきの悪い4番を。

シベリウスの交響曲は、1・2番においてはロマンの香りゆたかに、そこに民族的要素を盛り込んだ作風だったが、シンプルで自然の息吹き溢れる3番から、徐々に内省的な渋さを醸し出すようになっていった。
その極地がこの4番のイ短調の交響曲で、造りはより簡潔になり、断片的なモティーフが連なりあい、息の長い旋律らしいものは見当たらない。
とにかく渋く、晦渋である。

第1楽章は、重々しい低音のうなりから始まり、悲哀に満ちた旋律が何かを模索するようにそれぞれ楽器を変えて橋渡しされて行く。この寂しく、物悲しいやり取りは聴いててもやるせない。答えを見出せぬまま、消えるように終わってしまう。

一転第2楽章はスケルツォで軽快な雰囲気ながら、どこか不安定な感じがつきまとい、曲想は変転していくが、突如として止まってしまう。あっけない。

白眉は第3楽章。静かな憧れと情熱に満ちた緩徐楽章。フィンランドの厳しい自然に閉ざされながらも、一条の日の光を希求するような音楽は、たまらなく素晴らしい。

終楽章は長大なリズムの繰り返しの上に、特徴的な旋律が現れては消えていく。
とりとめなく感じるが、全曲を総括するようなまとまりを見せながらも、後ろ髪ひかれつつ、やや寂しく曲を閉じる。

こうして書いてしまうと、何やらヘンテコな曲に思われるかもしれないが、緻密に書かれた音楽に無駄なものはひとつもなく、それらの音たちが青白い情熱の炎を感じさせる。
こうした魅力にとりつかれてしまうと、この曲が大傑作に思えてくる。

 大量録音の主「ヤルヴィ」からすると、初期の頃の録音で1984年のもの。
最近DGから2度目の全集が出たが未聴。
ヤルヴィとエーテボリ響の素晴らしさを印象付けた全集録音で、当時はこうしたローカルオーケストラの録音なんて珍しいものだった。その分極めて新鮮だったし、BISの録音もまた音楽的で極上に感じられた。
今聴くと、ずい分と鄙びた音に感じられる。アンサンブルはちょっと手ぬるいが暖かな温もりを感じ取れる。
こうした手作り的サウンドは、天下のベルリン・フィルが逆立ちしても出せない響きだし、もしかしたら今のエーテボリ響でも出ない音かもしれない。

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2006年10月22日 (日)

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」 アバド指揮

Simon_1 アバドの録音の中でも、非の打ち所のないトップクラスの超名盤CD。

いや、あらゆるオペラ録音で、自分のなかでは5指に入ると思っているうちのひとつが、この「シモン・ボッカネグラ」。
アバドの指揮姿が鮮やかに残影として残っているうちに、これを取上げてしまおう。

スカラ座監督時代、執拗に同じキャストを伴って上演し続けた「シモン」は年を経るごとに完成度が高まっていった。
そしてそのピーク時に伝説的な来日公演が行われた。(1981年)

Simon_2 76年のこのレコード録音も完璧なまでに素晴らしい出来栄えで、一音一音に気持ちとドラマがこもっていて、その雄弁さに驚いてしまう。

前作「マクベス」がレコード・アカデミー大賞を獲得してしまったので、こちらは受賞できなかったが、歌手も含めた完璧さでは、「シモン」の方が上だと思う。
アバドは、この地味な作品の人間ドラマの隅々までに、光をあて、深遠な心理ドラマを作りあげている。アバドがいなければ、そして故カプッチルリがいなければ、「シモン」は埋もれたままのオペラであったろう。
これほどまでに、アバドが心血を注ぐ作品はなかったろう。あと、オペラで名前を挙げれば「ボリス・ゴドゥノフ」「ヴォツェック」「トリスタン」、であろうか。

Scala 81年のスカラ座初の日本公演は、音楽監督のアバドが「シモン」、「セビリアの理髪師」、「ヴェルディのレクィエム」。
同行したカルロス・クライバーが「オテロ」と「ラ・ボエーム」、合唱指揮のガンドルフィが「ロッシーニのミサ」を。
今思えば超々豪華版であった。
歌手も、フレーニ、シントウ、ヴァレンティーニ・テラーニ、ドミンゴ、アライサ、カプッチルリ、ヌッチ、ギャウロフ・・・と綺羅星のごときありさま。
今パンフレットを見てもため息がもれるばかり。

Scala_ticket 当時まさに新入社員であった私が、毎晩繰り広げられる先輩達への付き合いと薄給で、こんな夢の公演に行ける訳がなかった。
会社の付き合いが、すべてに優先される時代であった。
これまた恐ろしき時代。
でも、必死の思いでS席を手に入れたのが「シモン・ボッカネグラ」。

Simon_3 初めて会うアバドに、もうドキドキだった。颯爽と登場すると、会場は完全な暗闇に。これにはビックリ。当時文化会館で二期会のオペラなども観ていたが、非常灯やいくつかの明かりぐらいは点いていた。
ドラマと音楽への集中力を高めようという意図か。
文化会館の壁にオーケストラ・ピットの明かりを受けて浮かび上がるアバドの指揮するシルエット。そして最初の一音からして、そのけた違いの素晴らしさに驚き、心揺さぶられた。NHKのイタリア・オペラ公演ですでに「シモン」は実演経験済みだったが、N響とスカラ座オケのこのあまりの違い。深みのある音からアドリア海の風光が浮かびあがってきたのだ! あとは、もう感心と感動のしっぱなし。

Simon_trtio ストレーレルの名舞台は隙がなく、政治と偶然性にもて遊ばれる人間ドラマを、舞台で見事に表出していたように思う。
 プロローグの終結部の熱狂には大いに興奮したが、忘れ得ぬ場面は、お互いが父娘とわかったときのシーン。ここでアバドは、思い切りオーケストラを響かせ、観る側を感動の渦に引き込んだ。ヴェルディとは思えないような、濃密でロマンテックな場面だ。
 それから、3幕の悪役パオロが民衆のなみいるなかで、自分を呪わなくてはならなくなった場面。合唱も伴い、そのクライマックスで、音楽が一瞬止まる。
アバドが指揮棒を振り下ろし、止めると、舞台は衝撃を受けたパオロだけにスポットが当たり、真っ暗になった。この劇的な場面に鳥肌が立ったのを覚えている。
 終幕でシモンが苦しみのうちに死ぬ場面は、さながらレクィエムのように沈痛で静謐な音楽が展開された。

これらを情熱こめてまとめ上げた、アバドの劇場指揮者としての実力をまざまざと思い知らされた上演だった。
Simon_abbado
そして忘れ得ぬのが、全盛時代のフレーニ・ギャウロフ夫妻とカプッチルリの水ももらさぬ呼吸のあった舞台姿。このうちの男声二人が、もうこの世にいないなんて信じられない。それほどまでに生き生きとした姿が焼き付いている。
歌手生命のはかなさと時間の経過は留めようがない。

心からうれしいのが、アバドは時代とともに、音楽をする仲間は違っても、常に進化しつつ音楽を心から楽しんでいること。

「シモン」ばかりは、アバド以外の演奏は想定できない。ショルティ盤は聴く気もしない。
ムーティすら手を付けなかった。

 

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2006年10月21日 (土)

ルツェルンの思い出

Kapell 一生の思い出に残ろうか、とも思われる感動のコンサートの余韻がまだ残っている。それを補完するように、昔ルツェルンを訪れたときの写真を引っ張りだしてみた。1989年のこと。

実は、新婚旅行だったのですわ。少人数のツアーで、非常にフレキシブルな内容で、スケジュールに追われないゆったりしたものだった。
ルツェルンには一泊したのみだが、小さな街なので大方見学できた。
On_kapell 有名な「カペル橋」は、私のような素人でも、こんなに素敵な写真が撮れるくらいの名アングル。この数年後火災で消失してしまったが、すぐに復興している。この橋の内部は、中世の街並の絵や宗教画、イエスやマリアの像などが配置されていた。

ルツェルン湖を取り囲むような、街はそれはそれは美しい街だった。

Luzern_sighat Luzern_sighat2
Lion

市街地も整然と整備されていて、スイスの他の都市と同じくゴミひとつ落ちていない清潔さ。ケーキ屋、パン屋、チョコレート屋、ブティックなどなど、女性ならため息がでてしまうくらい、かわいい店が石畳の路地に並んでいる。

Luzern_nighat 夜に一人で散歩をしてみた。
こんな光景が街のそこここにある。「マイスタージンガー」2幕のように、「にわとこ」の花の香りがして、窓から「エヴァ」でも顔を出すような雰囲気。
 当時は、今の祝祭劇場はまだなかった。かわりに「クンスト・ハウス」という音響のいいホールがあって、よくFM放送でライブが聴けたものだ。

湖のほとりに、小さな「オペラ・ハウス」があった。
近付いてみると、歌声が聞こえる。なんと、大好きなチレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」であった。しばらく時の経つのを忘れて甘く切ない音楽に聞き惚れ、春の宵のなか、立ち尽くしてしまった。

1日でこの美しい街が大好きになってしまった。
そして、この街に集まる音楽家達とアバドがこれまた素晴らしいコラボレーションを生み出すことになろうとは、当時は夢にも思わなかった。

まだ見ぬバイロイトと美しいルツェルン、私の2大聖地となった。

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2006年10月20日 (金)

アバド ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会②

Lucerne_1 10月19日「ルツェルン・フェスティバル」の最終日。  

  ブラームス   ピアノ協奏曲第2番       ピアノ:ポリーニ
  ブルックナー  交響曲第4番「ロマンテック」

こんな、重厚だが素敵なプログラム。
50分に65分という、最近ではなかなかにお目にかかれない組み合わせ。そういえば、先般のコンサートも、マーラー1曲でも充分なのに、モーツァルトのこれまた素敵なアリアを前半に演奏してくれた。
今回は個性は違うが、最もドイツ的な2曲。ドキドキしながら、その始まりを待った。

ホルンの素晴らしいソロに続き、ポリーニのピアノが入ってくる。一瞬オヤっと思ったが、後は実に緻密でなめらかな演奏が流れるように展開される。
実は、先般のマーラーの響きがずっと頭の中にあって、リハビリ的に今日の曲目を聴いては来たが、耳が頭がブラームスに切り替わらない。自分でももどかしい思いが数分続く。
 あれよあれよで、3楽章。これにはまいった。
今日のチェロ主席のブルネロのソノリティの豊かさにである。泣けそうくらい感銘を受けた。ポリーニのピアノの硬質で宝石のような美しさも堪らない。
ここに至って、ようやくマーラーの呪縛が解かれた。
終楽章のピアノと驚異的に素晴らしい木管群との楽しいやり取りに、体が揺れ動いてしまうのを押さえようがなかった。
 同郷の朋友とめざましいばかりのオーケストラの醸し出すブラームスは、明るく、重心も少し上の方にある。こんな素敵なブラームスが大好きだ。

休憩後は、緊張をはらみながら、ブルックナーの開始を待った。
メンバーも勢ぞろいし、コンサートマスターのブラッヒャーもすでに着席し、音出しをしようと立ち上がった。その時、一人遅れてきた第一ヴァイオリン奏者が小走りに登場。
聴衆は、コンマス登場と勘違いして、拍手が巻き起こった。これには、聴衆もオーケストラの面々も大笑い。ははっ。これで緊張が解け、リラックスしてアバドの登場を待てた。
結構ナイスな雰囲気が醸し出された。

アバドが静かに棒を動かすと、さりげなく弦のトレモロが開始された。ホルンが一瞬ヒヤっとしたが、ここはもう百戦錬磨のメンバーたち。以降は全く危なげなく、スムーズに音楽がスイスイと流れ行く。
お酒で言うと純米大吟醸クラスになるとピュアな「水」に近くなる感覚を覚えるが、例えていうとそんなブルックナーのようだ。アバドは、マーラーの時ほど、情熱的に振りかぶらない。
音の響きを大切にしながら、ゆったりとした指揮ぶりだった。
 圧巻は第2楽章と終楽章。2楽章の森を散策し、時に立ち止まり、思いにふけるような美しいシーンが展開された。ビオラ・セクションのツヤの良さといったらない。
そして、マイヤーやズーンといった管の美しさは、ここで最大限に楽しめた。
終楽章は、まとまりを作るのが難しい曲だが、さすがはアバド。どこまでも流れよく、よどみなく音楽が橋渡しされていくようだ。そして常に鮮度の高い響きが伴っている。
最後のコーダが始まると、心のなかで、このコンビと今夜別れなくてはならない、という切なさがこみ上げてきて、涙が出てきた。

最後の和音が充分に鳴り切って、少しの間をおいて拍手が起こった。
今日の我々聴衆も、音楽の一部となって一体感を共感していた。素晴らしい聴衆。
アバドもオーケストラもそれは、充分に感じてくれたものと思う。
舞台近くで聴いていた方の話だと、先日のマーラーでも抱き合って泣いていた奏者がいたというし、今夜もそうしたシーンがいくつかあったという。

200132 聴衆も楽員も、そしてアバドも、純粋に音楽を感じ、音楽のためにそこにあった。
これぞ、音楽を楽しむ真の素晴らしさであろう。
今回のいくつかのコンサートは、生涯忘れえぬ思い出となろう。
そして、これからも純粋に音楽を聴いて生きたいという、なにやら前向きな気持ちで一杯になった。

終演後、楽員たちを見送った。ザビーネ・マイヤーも間近に拝見し、微笑んでいただいた。ふふふ。そしてそして、マエストロを見送ることもでき大感激。
 ご一緒できた「romani」さんと、アバド大好きの皆さんとコンサートの打ち上げとアバドの健勝を祈って美酒を楽しむことができました。大感激!!
 

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2006年10月14日 (土)

アバド ルツェルン祝祭管弦楽団 演奏会

Lucherun 10月13日(金)サントリーホール。ルツェルン・フェスティバル・イン・東京2006のオーケストラ・コンサートは、モーツァルトのコンサート・アリアで穏やかに幕を開けた。

K416・K418・K383の3曲をアバドお気に入りの「ラヘル・ハルニッシュ」のソプラノで。細身の姿にお似合いのきめ細かな美しい声。
やや苦しいところもあったが、小編成のオーケストラの暖かなバックに支えられとても気持ち良い歌を聴かせてくれた。
デビュー当時の「シェーファー」を思わせる歌手で、これから彼女のように性格的な歌も身につけ大成して行くかもしれない。

休憩後のメイン「マーラー 交響曲第6番」。
前日のリハーサルに立ち会うという幸運を経ての本番だけに、聴くこちらも聴き所を予め設定して準備万端。ある意味リラックスもしてアバドを待ち受けた。

開始早々、リハーサルとは全く違うオーラがアバドの後姿から照射される。
オーケストラは全員夢中になって体を揺らしながら音楽を思い切り受止めている。
いろいろ意識していたこちらも、もうすべてを忘れ目の前に繰り広げられる音楽に完全に没頭し、意識も何も消し飛んでしまいホールの一部に自分が組み込まれてしまったかの気分になった。
ただもう音楽がそこにあり、自分がそれに向かいあっているだけ。
80分間にわたりずっとその感触。言葉に出来ない。浮かばない。
感動といった次元とも違う何かかもしれない。わからない。

ベルリン盤と同じく、従来の2と3楽章を入れ替えた演奏。
これに慣れると、かつての演奏も入替えて聴いてしまう。昔からそうだった気がする。
そんな考えも頭をほんの少しよぎるだけ。
かつては、マーラーの音楽をまず意識した。悲劇的であるとか、フロイトであるとか、アルマであるとか・・・・。マーラーに慣れ親しんだわれわれには、もうした知識は折込済みであるにしても、今回の演奏は「マーラー」云々という概念をひとつも感じさせない。
音楽とそれに奉仕する演奏家だけがそこにあった。

終楽章の終わりのあたりで、涙腺を刺激された。もっと続いて欲しい。
だが、曲は無常にも空しい終末を迎える。突然のトゥッティのあとの終結。

アバドが静かに腕を下ろす。われわれ聴衆は拍手も忘れ茫然と縛られたように座り尽くす。オーケストラの面々は動きを止めたまま。静寂が30秒は続いた。
ブラボーの一声が、呪縛を解いた。そのあと嵐のような拍手が続いた。
オケのメンバーの喜ばしい顔、そしてアバドの本当にうれしそうな笑顔。
メンバーが去ったあとも一人歓声に応えるアバド。
私が35年間見つめ続けてきた、偉大で謙虚な小柄な音楽家がそこにあった。

感想らしいことが書けない。言葉がないのだ。
ただひとつ、オーケストラのもの凄さ。ベルリン・フィルの次元とは異にする別ステージ。
くどいようだが、アバドとともに音楽するだけが目的の音楽集団。
私は、マイヤー(ワルトラウトじゃなくてザビーネ!)とアバドばっかり見ていたが、びっしり並んだスタープレイヤー。その狭間に随所に配置された先日のマーラー室内管の若いメンバー達。これからの音楽シーンを象徴するような図式かもしれない。

Abbado_3 1972年、ウィーン・フィルとマーラーの6番を練習中の若きアバド。
長髪の若々しい姿。
当時の評では、「人間の弱さと優しさを描きつくした」とされた。
この人のいい微笑みは今も変わらない。

Abbado_2_1 翌1973年、ウィーン・フィルと初来日した文化会館での演奏会。
ブラームスとベートーヴェンの3番のプロ、アンコールは青きドナウ。
テレビ放送に釘付けになった。
 あれから30年以上が経ち、病から完全に復調し、別次元を目指して飛翔するアバド。ベルリンの時より、にこやかで温厚な様子。
夢多き中学生だった私も今や中高年の一員で、夢も破れ空しく日々を過ごす。
かたや音楽界の頂点に上り詰めながら慎み深く謙虚なアバド。
これまで、彼の音楽に何度励まされたかわからない。
その総決算のような今回の演奏会だった

感動の火照りが覚めやらぬまま、アバド・ファンの方々と楽しい談笑と美酒を酌み交わすことが出来、望外の喜びでありました。楽しく語りあううちにまたも感動がこみ上げました。
素晴らしい機会をおつくりいただいたYさん、ほんとうにありがとうございました。感謝です。

本日土曜は、仕事ながら一日惚けたように過ごした。他の音楽が今日は聴けない1日。

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2006年10月12日 (木)

アバド ルツェルン祝祭管 リハーサル

Imgp3330 「ルツェルン祝祭管弦楽団」、アバドを慕って世界のトッププレーヤーが参集したオーケストラ。6年ぶりのアバドとともに遂に来日した。
オーケストラ・コンサートに合わせ、室内楽、「ポリーニ」リサイタルなど、が10月11日から19日まで東京で開かれる。

薄い財布に鞭打つように、2回のオーケストラ・プログラム・チケットを手にいれた。
おまけに、だめもとで出した「公開リハーサル」に見事当選。
数年前のわが「ベイスターズ」優勝の時と同じように、家庭と仕事を顧みない数日間が、幕を切って落とされたのだ。

3327 本日の様子(これいけないが、客席に明かりが灯ったので撮っちゃった)の一こま、アバドがいます。

定刻前に、「ハッピーバースデイ」がなってたが、詳細は不明。
いきなり、マーラーの6番が冒頭から始まった。
一楽章ずつ、すべてを演奏し、合間に少し確認を入れながらさらう程度。アバドのちょっとした指示でオケはすぐに反応している。演奏中もコンマスのブラッハーにいろいろ語りかけていて、実にスムーズに流れていく。全曲を2時間でさらい終えた。

休憩後、売り出し中のソプラノ「ハルニッシュ」を迎えてモーツァルトもコンサート・アリア。
ここでは、楽器の配置や音の大きさなどを、ホールに控える副指揮者に確認しながら、和やかに柔らかに音楽が進められ、終了。

明日の本番を控え、多くは書きません。
「ものすごいことになりそう」、ということだけ報告。

楽しかった光景、1楽章で「トランペット」がやや空転。繰り返し同じヶ所が巡ってくると、今度はものの見事に決まった。アバドは。左手で投げキッスを送った。
トランペット・トップのそれは嬉しそうで幸せそうな顔といったらなかった。

オーケストラのメンバーは、ほぼフルメンバー。見た顔ばかり。ザビーネ・マイヤーが一際目立った。終了後も、アバドはステージに残りメンバー達と会話を交わしている。
アバドとオケ、オケとアバドが一体となった稀有のメンバー。

帰り際、ホール出口で、「ネスカフェ・コーヒー」と「キット・カット」をいただいた。
こんな素晴らしい演奏をタダで聴けて、お土産まで頂戴してしまうとは、「ネスカフェ」さま、ほんとうにありがとうございましたぁ。

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2006年10月 9日 (月)

R・シュトラウス 歌劇「グントラム」 クーン指揮

Guntrm R・シュトラウスはオペラ作品を15作(もうひとつは未完?)残した。
劇音楽の得意なシュトラウスとしては、順当な数とはいえる。
しかし、そのほとんどは馴染みがなく、舞台に接することは稀れであろう。
日本は世界的に見ても、シュトラウスのオペラ上演が近時多い。
一重に「若杉弘」氏の情熱と「日本R・シュトラウス協会」の熱心な活動の賜物であろう。

今日の「グントラム」は最初のオペラにあたり、1892年、作曲者28歳。交響詩でいえば、「ドン・ファン」と「死と変容」のあとぐらいで、「ティル」の前。
次作「火の欠乏」とともに、有名な「サロメ」の前にあるだけに、その名前の雰囲気から、激しい音響が乱れ飛ぶ熱狂的なものを連想しがちだ。
しかし、2作とも、シュトラウスらしい甘く美しい旋律と、見事なオーケストレーションに満ちていて、不協和音などひとつもない。

そして、ここに聴く音楽の響きはワーグナーの影響が大である。でもそこは「R・シュトラウス」で、耳に馴染みやすい一連の交響詩の延長に歌が乗っかった感じといえる。

作曲当初、3時間を越える大作であったが、あまりの不評に大幅な短縮を試みて、今回のCDでは100分くらいの手頃なサイズに収まっている。
カットうえに、劇の展開が不自然で唐突らしいが、このCDのリブレットはドイツ語ゆえ、まったくわからない。素晴らしい音楽だけを楽しむことになる。
今回5~6回機会あるごとに聴いて、すっかり耳に馴染んだ。時おり旋律が浮かんでくるくらいに聞き込むとすっかり、その作品が好きになる。

簡単にあらすじを。時は中世・吟遊詩人の世界。~そう「タンホイザー」と同じですよ。
主人公も、ひたむきに己の道を行き、人を殺め、最後には修行の道にでるから、ますます「タンホイザー」っぽい。

Guntrm2 最高の善としてのキリスト教的友愛の世界を目指して修行する「グントラム」。
悪い男に操られ圧政を行う国を改革しようと、グントラムはやって来た。
そこで、入水自殺した女性「フライヒルト」を助け、そこで相思相愛となってしまう。
この女性こそ、悪い男の妻で、国を治める大公の娘だった。
娘を助けたことで、公国に慇懃に迎えられる。そこで「グントラム」は圧政を止めるように大演説をぶつ。(こりゃまさにタンホイザーの歌合戦そのもの、ハープの伴奏まであるよ)
 先の男と争いになり、グントラムは思わず殺してしまう。
一応自分の婿だから、大公は厳しく対処。幽閉の身となり、そこに「フライヒルト」が駆けつけて、激しく求愛し、愛の二重唱となる。
 しかし、グントラムは愛を拒絶し、教団からの帰還の誘いも断り、孤独に贖罪の道を歩んでゆく。

こんな内容だが、ここでは主役を歌うテノール歌手の負担がものすごく重たい。
最初から出ずっぱりで、最後に素晴らしくも熱いモノローグを歌わなくてはならない。
私のような「テノール好き」には堪らない瞬間が数々ある。

Marchiana 唯一のステレオ録音は激安廉価盤だが、もったいないくらい良い演奏だ。
クーン指揮のイタリア、マルキジャーナ・フィルの明るい響きは、初期作品に相応しいし、大音響もクリアー。
主役のカナダ出身「アラン・ウッドロー」は獅子奮迅の歌唱。ジークフリートやトリスタン級の声の持主だが、重たくならないのがいい。
ほかの歌手はデコボコあり過ぎか。
野外ライブ録音らしく、鳥のすがすがしい鳴き声が時おり聞こえる。これが、苦行の主人公のドラマと何か良く合う。

R・シュトラウスが好きな方にはお薦めのオペラ。

Maitakeimgp3012 土曜は、仕事で神事があって「長岡」まで車で出張した。車ゆえ、おいしい新潟の味覚を買い込んだ。高速から見える「雪国まいたけ」の工場。
沿線にいくつかある工場。本社は「八海山」の六日町にあり、近代的なビル。
きのこ王国新潟。いくつも購入し、「きのこ汁」を自ら製作した。

Konokoimgp3045 「栃尾」の肉厚「あぶらあげ」を入れて、出来上がり。
うま過ぎ。

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2006年10月 8日 (日)

ラフマニノフ 交響曲第2番 ヤンソンス

Jansons_rafmaninov2 気持ちよい秋晴れ。風が強く、鬱陶しいものを皆吹き飛ばしてくれたようだ。

気分よろしく、ラフマニノフの交響曲シリーズ。第2番は「ヤンソンスとフィルハーモニア管」のシャンドス盤。ヤンソンスはEMIに、サンクト・ペテルブルクを振って全集を完成させているが、そちらはまとまりはいいが、少しおとなしい。
86年にロンドンで録音されたこちらの演奏は、EMIの10年前、43歳の頃の演奏。

この曲が好きなものだから、そこそこCDを集めた。定番プレヴィンやラトルはお気に入りだが、以前より「アインザッツ」マスターが押していたヤンソンスのこの盤はなかなか手に入れる機会がなかった。遂に見つけだしたその演奏は果たして・・・。

いやはや実に素晴らしい。まったく素晴らしいの一語。誉め言葉ばかりだが素晴らしい。
指揮者もオーケストラも、一緒くたになってラフマニノフ・ワールドにどっぷりつかりながら、思い切り音楽に夢中になっている。

繰返しを行い、カットも一切ないコンプリート版による演奏。
第1楽章は、感傷的な旋律とリズミックな部分が入り混じるが、そうした対比を見事に描き分けている。聴いていてワクワクし、音楽に引き込まれていく自分がわかる。
 第2楽章は、スケルツォと中間部のバランスが難しいが、ここでは情熱が一本筋を通していて、メリハリのある音楽が自然と仕上がった。
 第3楽章。「エリック・カルメン」の歌が先に有名になってしまったが、ここではプレヴィンの優しさ溢れる音楽とは別の次元の名演が繰り広げられている。
甘い旋律を切々と歌う表面的な演奏でなく、音楽は感傷に濡れそぼっている。
クラリネットのソロによる主題の歌い方はどうだろう。ここには、ロシアの憂愁が詰まっていて、涙にぬれている。弦楽器も管楽器も思い切り歌う。歌いまくる。
 第4楽章は、ものすごい推進力で押し進められる。どこまでも飛翔していくような高揚感にドキドキしてしまう。このままいったら最後はどうなってしまうんだろう、と思いながらも聴き進むと、終結は堂々としかも極めて音楽的に結びを迎える。
終わりと同時にブラボーが聞こえてきそうな壮大な結末だった。

こんな誉め尽くしの、ナイスな演奏。
勢いや感情だけではこんな演奏は生まれない。ヤンソンスの音楽へのひたむきささと、楽員をその気にさせるエモーションがあってこその名演奏なのだ。
最近多忙すぎて、ややムラもあるやのマリス君だが、今度の12月のコンセルトヘボウとの公演がどうなるか楽しみでならない。

206 こちらが今流通しているジャケット。
今回入手いたものは、オリジナル?かもしれない?
この赤いヤンソンスは、ちと怖いがなかなかによい。

 

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2006年10月 7日 (土)

ハーディング/マーラー・チェンバー・オーケストラ 演奏会

Mahler_chanber 10月6日(金)新宿オペラシティにて「ダニエル・ハーディング指揮のマーラー・チェンバー・オーケストラ」の演奏会を聴いた。
演目は泣く子も黙る(たぶん)、モーツァルトの最後の交響曲3作。

この日は、朝から風雨が強烈で、外出が多い日だっただけに全身ずぶ濡れ。そんな状態でホールに駆け込んだ。
翌日(土曜)は、新潟の長岡で朝から仕事(めでたい神事だけど)が控えていて、車で向かうつもりだっただけに、天気と交通事情にはヒヤヒヤだった。

さて、 そんな悪天候にかかわらず、満席のホールに小編成のオケのメンバーは規律よく定刻にサット登場。ハーディングも、すぐさま現れた。

始まった、第39番序奏は、かなり速めのテンポで流れるように始まった。ティンパニの強打もなかなか効いている。どうなるかと思ったら主部は普通にさわやかな展開となって、気持ちが実によい。美しい2楽章も音楽に思い切り身を委ねることができた。3楽章は予想通り、快速で弾むような楽しさ。クラリネットを伴奏するオケの面々はにこやかに楽しそう。終楽章もノリのいい生き生きとした演奏でモーツァルトの楽しさ満点。

第40番は切実な切迫感が全体に満ちた厳しさが押し出されたものとなった。1楽章が終わって、緊張から解かれ息をつくことができた。
続く二つの楽章を比較的和やかに終えたあとは、再び悲壮な終楽章がめぐってきた。フレーズとフレーズの間の取り方がそうした緊張感を巧みに導きだしていたように思う。こうしたパウゼは、他の曲でも効果的に使われていて、好感をもって聞いた。

最後の41番は、大交響曲に仕立てるかと思ったら、軽やかで俊敏なジュピターとなった。ここではティンパニの活躍が目立った。おっと驚くような強打を見せたり、素手で叩いて見せたりとするものだから、目は結構ティンパニにいってしまう。ティンパニがお休みの2楽章の弱音でやり取りされる旋律が橋渡しされながら進んでいく様は夢のようだったし、楽員同士の微笑みも羨ましい光景。終楽章では、じわじわと盛り上がり、最後にはヤッタァという声がオケから沸き上がらんばかりの終結を迎えた。            

全体に、若いハーディングの意欲的な試みが溢れており、これにオーケストラが全面的に賛同して乗りに乗った演奏が出来上がった。随所におやっという場面も多く、サプライズのモーツァルトは心から楽しめた。         
指揮棒を持たず、両手を大きく降りながら指揮するハーディングは、小振りで華奢。イ
ーンと唸り声も上げながら、音楽に没頭する様は印象的だし、若き日のアバドの姿に似ている。
古楽奏法をすっかり身につけ、オケもろとも普通にふるまっている。少し前ならそこに止まるだけでも斬新だった。このコンビは、そこに今モーツァルトが東京にいて、筆を取り、筆を置いたかのような、生々しい新鮮さを見せてくれた。

すべての繰返しをおこない、曲ごとに15分休憩をいれて、終演は10時近かった。
感動したわれわれ聴衆は、アンコールを望む(序曲とか)気持ちはあったけど、本当によかったから熱烈な拍手を送った。
楽員のなかには、「もう少しやろうよ」の雰囲気もあった。
ハーディングは、聴衆に向かい・・・「モーツァルトのこれらの3曲はパーフェクトにできている。だから、このうえ、アンコールは難しいのです」・・・・とうようなことをスピーチして、コンサートはお開きとなった。

素晴らしい若い集団とそれを率いる紅顔の指揮者。音楽がほとばしり、私達に元気を与えてくれた。モーツァルトの音楽がいいから、だけじゃなく、音楽に取り組む姿勢の美しさや熱意が音になり、ホールに満ちたのだ。

すっかり満足の体で、新宿をあとにしたが、おいおい、私の住む千葉方面は雨の影響で電車のダイヤがぐちゃぐちゃ。最後はタクシーを利用したりして、夜中の1時頃に帰還。
土曜朝は、4時半に出発し、関越道をオペラを歌いながらひた走ったのであった。

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2006年10月 5日 (木)

ドヴォルザーク 交響曲第7番 バルビローリ

Barbirolli_dovrak 秋はブラームスがお似合いというけれど、しみじみドヴォルザークもいい。
一応、宿命の数9曲の交響曲があるけれど、前半の作品はどれも同じように聴こえてしまう。
ドヴォルザークはメロディー・メイカーだと思っているが、さすがに1~4番くらいまでは、旋律が耳に馴染まない。「新世界」と同じ作曲家に思えない。

5番以降になると、ボヘミア臭にドイツ的なカッチリしたまとまりの良さが加味され、聴き応えも充分に出てくる。
7番は、ロンドンのフィルハーモニー協会から委嘱されて作曲された作品だが、なかなか筆が進まず、ブラームスの3番を聴いたりして自信を付けながら完成したという。
当然にロンドンで初演されているが、次の8番の交響曲がボヘミア臭たっぷりなのに出版元の関係から「イギリス交響曲」と呼ばれていたのがおかしい以上に、こちらはロンドンとの関係や、よく言われるブラームスの亜流といったものを感じさせない。

情熱を秘めた意欲的なものを感じる一方、人懐こい郷愁に満ちた旋律も充分散りばめられている。
私が好きな楽章は、第2楽章。この美しくどこか哀愁のある楽章を聴いていると、見たことはないボヘミアの風光を感じる。のどかな秋の日本の野山に置き換えることも楽しい。
「あ~いいなぁ」と心から思ってしまう。

この素敵な楽章を、慈しむように歌って聴かせてくれるのが、「バルビローリとハレ管」の演奏。やや古い録音だが、アナログ的な温もりに満ちていて、ドヴォルザークの暗い情熱と優しい旋律を自然に味わえる。
7~9番の交響曲とセレナーデ、伝説曲の一部が収められた2枚組。

Komaganeimgp2667 先週出張した信州では、松本に宿泊し南の伊那・駒ヶ根まで足を伸ばした。
このあたりになると、岐阜・名古屋の方が近く、東海地区の経済圏も合わせ持っている。
駒ヶ根市は、「蕎麦」と「馬肉」と「ソースカツ丼」が名物。全く脈連の無い取り合わせだが、市内の老舗蕎麦屋「福寿美」でミニソースカツ丼のセットを食べた。こちらは、同じ長野県内でも更科系や戸隠に比べ、黒っぽく野趣にとんだ素朴な蕎麦だが、一口で蕎麦の香ばしさを味わうことができた。旨い。
Bakaukeimgp2959 そして、ソースカツ丼の旨さといったらない。ご飯にキャベツの千切りを敷き、その上に自家製の少し甘めのソースをくぐらせたカツが乗る。信州産の豚は香ばしくも、甘味を伴って猛烈に食欲を刺激する。これは、ほんとにおいしかった。
スナックの「ばかうけ」のソースカツ丼バージョンも地域限定商品で発見。

晩は松本にて、焼鳥で一杯。市内に住む大学時代の友人と15年ぶりくらいの再会で、多くは語らずとも通じあっている。しかし、お互い年をとったものだ。

秋のドヴォルザークは信州にぴったり。そして郷愁とともに戻れない若さも懐かしく思いおこさせてくれた。

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2006年10月 4日 (水)

ゲオルギュー&アラーニャ ヴェルディ2重唱 アバド指揮

Gheorghiualagna_2  さて、前回人気絶頂の「ネトレプコ」を取上げたばかりだが、2物賜いしもうひとかた「アンジェラ・ゲオルギュー」を忘れては片手落ち。
ショルティに起用され、一挙に花開いた彼女は、ネトレプコの少し先輩にあたる。ルーマニアの音楽の環境ではない普通の家庭に生まれ、ものすごい努力を経て歌手になった。ルーマニア特有の黒髪にエキゾチックな容姿は魅力的だ。ネトレプコは、その名前ゆえ苗字にチャンをつけてしまったが、ゲオルギューにちゃんはおかしい。この場合は「アンジェラちゃん」と呼びたいが、彼女は大人の女性のシックな魅力で一杯だ。

しかも、ダンナがイケメン・ナイスガイのテノール「アラーニャ」ときたもんだ。
Gheorghiualagna2 「ネトレプコにMr.ビーン」は少し憎らしいが、「アンジェラにロベルト」はもう音楽的にも同質性が漂っているし、文句なしの実質コンビ。
舞台に録音にますます数が増えている。
こんな実力派同士のコンビ、しかもヒーロー・ヒロインのコンビはかつてないかもしれない。

今回のCDは、1998年に録音された「ヴェルディのオペラ・デュエット集」。
ここでも贅沢に「アバドとベルリン・フィル」がバックをつとめている。
この二人、もとはリリコからスタートしているが、徐々にドラマティコに役柄を拡張して行き、今ではカルメンやトスカ、マンリーコまでも歌うようになった。
無理をしてレパートリーを広げているわけではなく、慎重に自己の個性を活かしながら知的な歌に徹していて、その知能的歌唱は聴く側に快感にも似た爽快感を与える。
ドイツ物以外はすべてこなす驚異的レパートリーを既に手にいれているが、役の掘り下げも時代にマッチした重々しさのない、クールなもの。

Georghyu2 アバドとベルリン・フィルは隅々まで目の行き届いた相変わらず見事なもの。ヴェルディの沸き立つ興奮よりは、悩む登場人物の心理をとらえた、これまた知的なアプローチで、二人の歌にぴったりだ。

欲をいうと、せっかくのベルリン・フィルなのだから、もう少し伴奏ばかりでない部分も選曲して欲しかった。音楽が二重唱ばかりだと、単調におちいり、全体が少し平板に思う。

まあ、これは贅沢な注文。
舞台ばかりでなく映像も、技術の加速度的な進歩で、歌手の超アップが部屋でも楽しめるようになり、オペラのあり方もかわりつつある。
Cosmos_upimgp2545 歌手達も自助努力をして、美しい体とルックスを声とともに獲得・維持しなくてはならない時代になった。だから、イイ女・イイ男の歌手はこれからも続出するであろう。(たぶん)

千葉の佐倉のコスモス。

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2006年10月 3日 (火)

アンナ・ネトレプコ アリア集 アバド指揮

Netrebko_abbado_1 人気・実力とともにトップ・クラスとなった、ロシア出身の「アンナ・ネトレプコ」を聴く。バックを「アバドとマーラー・チェンバー・オケ」がつとめる豪華版。ソロデビューもウィーン・フィルとの共演で昨今ビジュアル派に対するDGの力の入れようがわかろう。
それ以上に、彼女の実力はピカイチだ。モーツァルト、ベルカントオペラ、ヴェルディあたりが得意とするところだが、今後徐々にドラマテックな役にも挑戦して楽しませてくれるであろう。

Netrebko2_1 天は2物を与えたもうた。ともかく美人である。ロシア風な彫りの深さと輪郭の整った美しさ。見た目は声にも言えていて、清冽で過剰な歌いまわしもなく、どこまでも音楽的で、かつドラマの一場面を常に思わせる演劇性も適度の表現されていて、誉めすぎながら完璧なのだ。

「トラヴィアータ」「夢遊病の女」「清教徒」「ランメルムーアのルチア」「オテロ」「ジャンニ・スキッキ」と次々に歌われ、アリアの周辺も他の諸役を伴って演奏されているために、こちらもオペラの各場面に引きこまれることとなる。
Abbdo_netrebko_1 中でも、ベルカントものは素晴らしい。高度な歌唱力を意識させない瑞々しさを感じる。「ルチア」では、グラスハーモニカの涼やかな伴奏を伴う玲鈴たる歌声に感動した。
将来、エルザやジークリンデなど歌ってくれないものだろうか?

嬉しそうなアバドの指揮も最高。オペラを知り尽くした指揮者が、優秀な室内オケをまったくやる気にさせ、オペラティックで精緻でかつ弾むような伴奏をおこなっている。
絶対指揮しないプッチーニが演奏されているのも嬉しい。

美人だからいつもより、画像も多くなっております。

そんなネトレプコちゃんとベタベタと共演の多い「ロラント・ヴィラソン」も人気物になった。
私は多くを聴いていないが、声の無類の美しさを認めるが、もう少し気品が欲しい。
声もベタベタとしんどいのだ。「アルフレート・クラウス」のような高貴なテノールはもういないのだろうか。
Vilason_2 Mrbsunr_2

「ヴィラゾン」と「ローワン・アトキンソン」すなわち「ミスター・ビーン」
同じである。
このイメージもどこかいけない。

ネトレプコちゃんにミスター・ビーンはいけない。
              (ヴィラソン・ファンの方すいません)
             美女に目が眩んだオヤジのやっかみである。

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2006年10月 2日 (月)

ラフマニノフ 交響曲第1番 デュトワ

Dutoit_rachmaninov1 ラフマニノフとは、当然のようにピアノ協奏曲の第2番から始まり、第3番を親しむようになり、ピアノ作品を通じて出会いであった。
管弦楽作品は、後にこれまたよくあるように、第2交響曲をプレヴィンの演奏で聴いてからだが、あまりの悠長な作品になかなか馴染めなかった。
それが一転したのは、FMでエアチェックした「ヤン・クレンツとケルン放送響」の演奏を繰返し聴いてからだ。滋味と憧れに満ちたその演奏で、一気にラフマニノフが近い存在となり、以来他の交響曲や管弦楽作品、声楽作品、そしてピアノ曲などを聴き親しむようになった。

交響曲第1番は、ラフマニノフが意欲満々書いた作品だが、1897年かのグラズノフ指揮による初演が惨たんたる失敗に終わり、ただでさえ神経質で控えめだったラフマニノフは精神的に大きなダメージを受けたとされる。スコアも消失し、本格的に復活したのは戦後のことだという。
 こんないわく付きながら、第1交響曲はラフマニノフらしい歌とロマンテックで耽溺的な場面に満ちている。

第1楽章は、冒頭から弾むような旋律ではじけるように始まるが、そのあとはお決まりのラフマニノフ・ワールド。思い切り切なく第2主題が歌われ、その後再び冒頭のリズムが回帰する。ここで明らかになるのは、「グレゴリア聖歌」の高名な「ディエスイレ」風の主題。
この主題が全曲に影のように付きまとう。
第2楽章は、スケルツォ的楽章。散文的な印象を与えるが、ロシアの大地のような地の底から湧きあがるような旋律が魅力的。
そして詩的な第3楽章、これぞこの曲の真骨頂ともいえるロマンテックなラフマニノフ節が聴かれる。うなりをあげるかのような低弦、それに拮抗するかのような耽溺的な木管のソロ、歌いまくるヴァイオリン。2番の先取りの姿がここにある。
一転、終楽章の印象はやや散漫だ。とらえどころがなく、開放的に感じる一方、ジワジワと色々な旋律をかき集めながら盛上げてゆく。その絶頂で、遂にドラが一発鳴らされ、最後には重々しい雰囲気に満たされ、曲はこの作曲者独特のエンディングを迎える。
すなわち、ジャン・ジャンである。

「ディエスイレ」はよっぽどラフマニノフの心を捉えたのであろう。
「パガニーニ・ラプソディー」、「死の島」、「交響的舞曲」などに現れるモティーフとなった。

「デュトワとフィラデルフィア管」の組合せはラフマニノフのみ録音した。作曲者ゆかりのオーケストラを贅沢に起用したデッカ最後の頃のCDは、青・赤・緑のと色を変えた、統一デザインのジャケットで、全集を1枚1枚集める喜びも与えてくれた。
デュトワがこうした曲で見せる聞かせ上手の手腕は目を見張るものがあるが、フィラ管のとの手探り状態も若干あり、オケの音は華麗というよりは少し重めに感じる。
これはこれで上質のラフマニノフに思うが、当時の手兵モントリオールのほうがクールな演奏が出来たのではないかとのささやかな願望もある。

この1番は、アシュケナージがオケの魅力もあって例外的に良い演奏。
あと、イギリス指揮者「アサートン」がN響を振ったFM録音が個人的には好きだ。

Kuriimgp2703 先週、信州で見つけた栗の木。
本場、小布施あたりの栗はまったく旨い。
栗ごはんのホクホク感と独特のエグ味はいい。

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2006年10月 1日 (日)

エルガー&ウォルトン ヴァイオリン・ソナタ マクアスラン

Ergar_walton_vm_sonata漫画は読まなくはないが、「何とかカンタービレ」とかいう作品は手にしたこともない。天邪鬼ではないが、人が騒ぐと醒めてしまう。
でもそこそこミーハーでありたい自分でもある。

その漫画に、エルガーのヴァイオリン・ソナタが登場してるなんて驚きだ。
行進曲や「朝の挨拶」以外はなかなか聴かれないし、このソナタ自体、やや晦渋な雰囲気もあるから、聴き込まないと取っ付きが悪いから。
正直、私も協奏曲は始終聴いても、このソナタはあまり取り出すことがない。
今回も、ウォルトンのソナタはどんなのだっけ?という思いで聴き始めたディスクなのだ。

久しぶりに聴いてみると、冒頭の情熱的な出だしから引き付けられてしまった。その情熱はエルガー独特の「高貴なる哀愁」にとってかわり、いつものエルガーらしい美しい旋律や、ちょっとした粋なフレーズのオン・パレードになっている。
とりわけ、ピチカートを取混ぜ、ピアノとともに独白のように淡々と進められ徐々に熱くなって行く第2楽章の美しさは素晴らしい。緩やかな終楽章の終わりのほうに、2楽章の旋律が回顧されるとき、感動は大きい。

ウォルトンのソナタは、憂愁に満ちたこれもまた美しい作品。
交響曲や劇音楽、映画音楽で早くに功を成し遂げたウォルトンが、48歳の充実期に書き上げた2楽章のソナタ。
たゆたうような、柔らかな雰囲気で始まる第1楽章から英国音楽テイスト万点。
変奏曲形式の第2楽章は、カッコいいウォルトン節が随所に聞かれる。
交響曲が気にいった方なら、まずお薦めしたい。

正確な読み方が不明だが、女流の「ローレイン・マクアスラン」はスコットランド生まれで、アメリカで「スターン」の元で学んだ人。ナクソスに録音の多い「マッジーニ四重奏団」の第1ヴァイオリン奏者でもある。
慎ましくも繊細な演奏振りが好ましい。ジャケットのイングリッシュ・ガーデンもよろしい。

Cosmosimgp2712 先週出張した、信州の路傍で見つけたコスモスの花。
淡い色の饗宴が何とも美しかった。

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