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2006年11月

2006年11月30日 (木)

「ドーン・アップショウ」 ソプラノ・ポートレート 

Upshaw めっきり寒くなってきたけど、まだコートを羽織るのも我慢できるくらい。
仙台・福島・栃木と周ってきたが、拍子抜けするほど暖かい。

今日は、温もりのあるソプラノの歌声が聴きたくて、愛聴盤の「ドーン・アップショウ」のベスト盤を取り出してみた。
アップショウと言えば、一時期、流行った「グレツキの悲しみのシンフォニー」を思い起す人も多いかもしれない。今はグレツキはどうしちゃったんだろう?
このアルバムの最後にも、その第2楽章が収められていて、あらためて聴いてみると反復繰り返しの単純な美しい旋律の中に、深い悲しみと慰めが込められいて心を打つ。
今を時めく「ジンマン」が指揮しているのも驚き。
ここで聴かれる「アップショウ」の透明な歌声は、シンシンと降り積もる純白で静謐な雪景色を思わせて、ちょっと参ってしまう。

アップショウは生粋のアメリカ娘。1984年のデビューだからもうベテランだけど、いつまでも私の印象は若々しく、しなやかな雌鹿のようなイメージが強い。
レヴァインに認められ引き上げられ、メトの売れっ子から、モーツァルトのスーブレット系を得意にする歌手として、本場でも大活躍した。今は、フランス物も素晴らしく、現代音楽まで幅広くこなす、ユニークな立場を確立している。

一番最初に彼女の声を聴いたのは、NHKで放映されたメトの「ナクソスのアリアドネ」での「エコー」役。指揮が巨漢レヴァイン、でかいノーマン、盛りを過ぎてしまったキングなどの強烈な個性のなかで、アップショウは羽毛のように軽やかで優しいタッチの歌声を聞かせていて、すぐに好きになった。
バーバラ・ボニーやシルヴィア・マクネアらと同系列の、すっきり・さわやか・クリア路線なのだ。それでいて、抜群の歌唱力とテクニックがある。

ベスト盤なだけに幅広く彼女のレパートリーが楽しめる。
モーツァルト、シューベルト、ウォルフらの本格歌曲、カントルーブ、ストラヴィンスキーなどの民族的な歌、前述のグレツキ。そして一番素晴らしいのが、アメリカもの。
コープランド、ミュージカルもの、中でもバースタインの「キャンディード」は、まったく手の付けようがないくらい素敵。悲しんだり、喜んだり、感情の起伏が彼女のきめ細かで生き生きとした歌で手に取るようにわかる。もの凄いテクニックに、身も心も奪われてしまいそう。
この曲は、そう「ナタリー・デッセー様」も得意としているが、英語の言葉の明晰さでは、アップショウの方が勝っているから凄みがある。

さあ今晩もイイ夢が見れそうだ。

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2006年11月27日 (月)

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲 ベーム

Imgp2309 まずは悲しいお知らせ。大阪、北新地のクラシック音楽バー「アインザッツ」さんが、12月22日をもって閉店されます。いちはやく、常連さんの「リベラさんの守口フィラデルフィア管弦楽団研究会」で取上げられてます。
こちらは、ムジークフェラインを思わせる荘厳な店内。保存版として公開しちゃいます。こちらで、無尽蔵ともいえるライブラリーから、好きな曲をかけていただき、マスターとの会話を楽しみながら好きな酒が飲める。
こ~んな理想郷が「アインザッツ」でした。閉店はつくづく寂しいですが、音楽への尽きない情熱をさらに高める意欲には、敬服の至りであります。新ビジネス頑張って下さい。
応援します。大阪でも、また一緒に飲んで下さいね。(私に資金があれば、音楽バーをやってみたいくらい。でもワーグナーと英国ものばかりじゃぁね?)

Mozart_fl_hp_bohm 本日は、「アインザッツさん」の裏リクエストもあり、ドイツ・オーストリア系で。そうなれば、モーツァルト。ハ長調の明るい調和で、明るく一歩を踏み出したくなるコンチェルトを。
 「のだめ」では、予想もしなかった「オーボエ協奏曲」が登場した。
渋いモーツァルトが、ピンクのモーツァルトに変貌するさまが楽しかった。

こちらの、「フルートとハープのための協奏曲」は、ただでさえ優美で明るいフルートに、ハープが加わるものだから、ギャラントで粋な雰囲気がいやでも漂う。
今回のCDは、1976年ベーム晩年の録音で、1991年のモーツァルト没後200年のDGエディションの中の1枚。こんなセンスいいジャケットのシリーズだった。

     フルート:ウォルフガンク・シュルツ  ハープ:ニカノール・サバレタ
        カール・ベーム指揮  ウィーン・フィルハーモニー

ベームのゆったりとたおやかな、音楽造りは、優美さというよりは、おっとりとした渋い大人の味わいを感じさせる。でもそこから、ちょこっとはみ出すようなウィーンフィルのまろやかな音色。そしてムジークフェラインに響き渡る芳醇なシュルツのフルートと、雅なサバレタのハープ。こんな絶妙のバランスが実に気持ちいい。
こんな素敵な曲を、モーツァルトはきっと鼻歌まじりにサラサラと書いたのだろう。
3楽章を聴いていると世知辛い現世を忘れさせてくれる。

Mozart_hlhp_bohm こちらが、オリジナルジャケット。
ベームの一連の管のための協奏曲の統一コンセプトによるもの。
イイ。すごくいい。ジャケットも音楽の一部と痛感する。

今回のCDは、オリジナルと違って、ベルリン・フィル主席の「ツェラー」と「クレー、イギリス室内管」によるフルート協奏曲が2曲カップリングされている。こちらも、清潔でクリアーな演奏で、大好きだ。

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2006年11月26日 (日)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 C・リカド&アバド

Rachmaninoff_p2_licad_abbado 久しぶりに音楽に戻ってきた。日曜の夜10時。
出張や実家への所用などでまともに音楽が聴けず、記事更新も間が空き音楽渇望状態に陥ってしまった。次週もこんな感じだからどうしよう・・・。

そんな訳で、リング・シリーズも完結する時間がないし、シュトラウス・オペラ・シリーズもダメ。 だめ? ん? NO?  のだめ? じゃん・・・。
あの手の最新流行に極めて奥手のわたし。まず娘が友達から漫画を借りてきた。
何気に手にする父。「なにこれ、おもしれーじゃん」。 テレビも私以外が笑って見ていた。
半信半疑で見てみた。「ひゃひゃひゃっ・・・」、家族の誰よりも笑う父。

かくして、わたしも毎週月曜9時を楽しみにするおじさんとなった。

音楽渇望を短時間で埋めるには、コレだ!! とばかりに取りいだしたるは、「ラフ2」こと「ピアノ協奏曲第2番」だ。ラフマニノフ好きの私にとって、「ラフ2」は「交響曲」であるが、コンチェルトも2番だったのね。「ソナタ2番」もいいし、過度に失敗を恐れるラフマニノフにとって、失敗と思い込んだ1番の諸作より、2番の方が自信に満ちた傑作となったのも頷ける気がする。

ともかく歌と美しい旋律に満ちた音楽。映画「逢引」に使われ皆を陶酔させたこの音楽の魔力は、今となっては「のだめカンタービレ」の楽しい世界にとってかわられた。
あのドラマでは、連綿たる抒情ややるせない恋情というより、音楽の楽しさやそこに打ち込む情熱がこの音楽によって表わされているように思う。(後続のドラマがどうなるか、知らないけれど・・・・・)

1楽章の鐘を打つようなピアノの打鍵のあと訪れる荘重かつ豊かな歌、2楽章の甘い連綿たる歌、3楽章の技巧の限りを尽くしたピアノの飛翔と大きく息づくロマンテックな歌。
何度聴いてもいい曲。エンディングの「ジャンジャカジャン」は、毎度お馴染みでも。

ピアノの「セシル・リカド」は、フィリピン生まれ。音楽家の家系に生まれピアニストになるべく育てられ、アメリカに留学後、「ゼルキン」「ホルショフスキ」「リプキン」に学んだ本格派。
1983年に「アバドとシカゴ響」との共演後、このCDは録音された。
若々しく、まさに若鮎のようにしなやかで、生き生きとしたピアノ演奏だ。考えたり、とどまることがなく、音楽は前のみを向いて進む。伸び盛りの若さの特権だろう。
完璧な技巧のもとに、歌いまくるところも万全。気持ちのいいピアノ。
 サポートする「アバド」も、歌うことにかけてはひけをとらない。マーラーやチャイコフスキーのシリーズで相思相愛だったシカゴ響がガンガン鳴らずに、柔軟で精緻な響きを聞かせるのもいい。後年、ベルリンでの「ジルベルシュタイン」との共演より、私は好きだ。

テレビでは、「アーノンクールのモーツァルト」をやっている。こちらはビデオ撮りし、今夜はラフマニノフに熱中しよう。

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2006年11月23日 (木)

ディーリアス 劇付随音楽「ハッサン」 ビーチャム

音楽とは関係ないことながら、「日ハムの小笠原」が巨人に移籍するそうな。
何だかな。またかよって感じ。あの金満球団は、いったい何人の他チーム主砲を金品強奪し、ダメにしてしまえば気が済むんだろ。行く方も行くほうだ。16億に目が眩んだのか、これまで熱烈にサポートしてくれた北海道のファンをどう思っているんだろ。サムライって何。
移籍を踏みとどまった広島の黒田を見習って欲しいものだよ。
ああ、つまらん。

Beeham_delius くそ面白くない出来事のあとは、きれいさっぱりと「ディーリアス」でも聴きましょう。某HMVのワゴンに500円で捨て置かれていたCDを即座に救出した。ニンマリである。
1951~56年のモノラル録音ながら、聴きやすい録音で、ティーリアスの世界に気持ちよく浸ることができる。

「エヴェンチュール(むかしむかし)」 1916年55歳頃の作品。大好きだった、ノルウェーの民話に基づいてかかれた幻想曲。途中、オケのメンバーによる叫びが指定されていて、最初かなりドキリとする。野趣とロマンに満ちた曲。

「アラベスク」 同時期の作。こちらは、デンマークの「ヤコプセン」の詩に作曲された、バリトン独唱付きの曲。詩の内容が牧神にまつわるもので、なかなかに官能的でもあり、ドビュッシーを意識させるものもある桂曲。

「ハッサン」 1920年60歳近くの作。「フレッカー」の同名の戯曲に劇付随音楽を付けて是非とも上演したかった、演劇プロデューサーが、ラヴェルなどにも声掛けしたが、断られ続け、折から上演中だった「村のロメオとジュリエット」を聴いて、ディーリアスしかいないと確信し、作曲依頼したもの。
 トルコかどこかの宮廷で、その機知を生かして活躍する「ハッサン」の物語。最後は宮廷生活に嫌気をさして、「サマルカンド」に旅立つ。
筋は、全然面白そうでないが、音楽は楽しくかつ美しい。独立して演奏される「序奏とセレナーデ」は短くもはかないディーリアス・サウンドだが、あとを引く親しみやすさがある。

「コアンガ」 エキゾテックなオペラの一部が演奏されている。1897年、壮年期の作。
全体は聴いたこともないし、筋も不明ながら、「ラ・カリンダ」という踊りの音楽だけは、小品集の常連。でもここには収録されていない。

ディーリアスの擁護者であった、ビーチャムとロイヤル・フィルは、共感をもってこれらの渋い作品達をいとおしむように演奏していて、感銘を受ける。
これらは、就寝前に聴く安定剤として最適かもしれない。ナイトキャップは、尽きなくなるので、ミネラルウォーターの清涼感がいい。

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2006年11月21日 (火)

ロッシーニ 序曲集 アバド指揮

Abbado_rossini 今日は懐かしいまず1枚を。
アバドが1975年にロンドン交響楽団と録音した「ロッシーニの歌劇序曲集」、ロンドン響と蜜月時代の幸せを感じさせる演奏。

  「セビリアの理髪師」 「チェネレントラ」 「どろぼうかささぎ」
  「アルジェのイタリア女」 「ブルスキーノ氏」 「コリントの包囲」

理髪師とチェネレントラ(シンデレラ)は、71年の全曲録音からとられていて、ちょっとズルイかな。でも演奏はそんなことを抜きにして、素晴らしすぎてウキウキしてしまう。

 アバドがアルベルト・ゼッタの改訂版で、当時よりオリジナルに近いと思われたロッシーニ演奏を打ち出す前までは、大オーケストラで過剰な響きに満ちた重ったるいロッシーニ演奏が当たり前だった。それはそれで、ブッファの伝統的解釈としてドタバタと楽しいものであったろう。
 でも、アバドの「チェネレントラ」と「セビリア」が登場した時、その清新な響きに、皆驚かされたであろう。 そしてこの序曲集は、全曲盤より広く聴かれたはずで、余分な脂肪をそぎ落とし、すっきり爽やか、軽快かつ心地よい響きに気持ちよい思いをした方も多いに違いない。今聴いても、どこまでもよどみない歌は美しく、一緒に口笛を吹きたくなるような歌心に満ちている。いわゆるロッシーニ・クレッシェンドは、弱音で歌うアバドの面目躍如たるもので、完璧に決まっている。アバドを優等生とか面白味がないという方には、チェネレントラ」序曲でも聴いていただきたい。いつ幕が開いてもおかしくない劇場の感興に満ちている。
Abbdo_rosiiini  ジャケットもセンス溢れる素敵なものだった。最近国内廉価盤で、オリジナルが復活した。これが1000円で買えちゃう、嬉しいけれど、複雑な気分。こちらは、私の持つ再発レコード。2000円でも廉価盤だった・・・・。

  

Abbado_rossini_rca 1978年にどうしたことか、RCAにロンドン響と録音したロッシーニ。
 「セミラーミデ」 「絹のはしご」 「イタリアのトルコ人」
 「セビリアの理髪師」 「タンクレディ」 「ウィリアム・テル」
規模の大きな序曲もあり、録音もキングスウェイ・ホールでRCAということから、こちらはやや響きが壮麗。でも小気味良さは変わらない。

Abbado_rossini_eco 1989年若い手兵「ヨーロッパ室内管」と再び録音。
 「セビリアの理髪師」 「セミラーミデ」 「アルジェのイタリア女」
 「ウィリアム・テル」 「チェネレントラ」 「絹のはしご」 「どろぼうかささぎ」
実に3度目の録音もある、このCDは前2作をミックスしたような選曲。
テンポも速まり、小回りのより効いた自在な演奏。鮮度はやや後退したが、若い演奏者たちとのコラボを楽しんでいる様子が目に浮かぶ。

最近のロッシーニ演奏が、どういう状況にあるか、私には不明だが、これらのアバドの演奏はひとつのスタンダートであり、トスカニーニやカラヤン、ムーティらとも全く異なった個性的な演奏だと思う。

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2006年11月20日 (月)

ワーグナー 「ジークフリート」 ケンペ指揮

Siegfried_kempe バラバラ・リング、一番の難関は「ジークフリート」。
第2夜のこの作品を単独で録音した物好きなんて、いやしない。
さんざん迷ったあげく、どうしても4部作録音したなかの一つとしてしか、取上げられないため、「ルドルフ・ケンペ」の「バイロイト1960年のライブ」から選んでみることにした。非正規盤ながら、ゴールドディスク仕様で、なかなか見映えのする豪華な仕上がりで、4部作が立派な箱に収まったCD。
もちろん、モノラルだが聴きやすい音で、バイロイトの劇場の雰囲気をよく伝えてくれる。

     ジークフリート:ハンス・ホップ   ミーメ    :ハーロルト・クラウス
     さすらい人  :ヘルマン・ウーデ アルベリヒ:オタカール・クラウス
     エルダ     :マルガ・ヘフゲン ブリュンヒルデ:ビルギット・ニルソン

こんなキャストで、ニルソンを除くとかなり渋いところを集めている。
1951年に始まった戦後の「新バイロイト」は、ヴィーラントとウォルフガンクという大ワーグナーの孫(したがって、ジークフリートとウィニフレットの子供)の二人の演出のみで上演される、文字通り「ワーグナー家の音楽祭」であり、他の劇場の追随を許さない本家本元だった。今では、バイロイトは「One of them」であるけれども・・・・。
 51年から「リング」は兄ヴィーラントが演出し、「パルシファル」とともに抽象的で音楽に語らせる「バイロイト様式」を確立し、同リングは58年まで続いた。
CD化された、クナッパーツブッシュや我々を狂喜させたカイルベルトもこの演出。
 1年置いて、「リング」は弟ウォルフガンクが担当し64年まで続いた。(65年からは、再び兄の演出で、かのベーム盤として残されている)

Giegfred2 どんな演出かは、推測の域を出ないが、70年代のシュタイン指揮による第2次演出のものと大差はないようで、4部作すべてを、舞台上に丸い「おわん」のようないわば、リング(環)を据えて、それをいろいろ変形させて背景を作っていたらしい。昨今のやたら情報発信量過多の演出からすると、貧弱に感じるかもしれないが、シンプルゆえに音楽に没頭できて、何だかとても良さげに感じてしまう。

兄の打ち立てた強烈な個性による舞台があるだけに、弟は比較されさぞやりにくかったろう。ものすごい歌手陣を据えた、兄演出に対し、弟ウォルフガンクは新しい歌手や指揮者を見出し、配置した。(せざるをえなかった?)こうした起用法は、今に残る伝統で、ウォルフガンクの功績なのかもしれない。
 指揮するルドルフ・ケンペは、当時オペラ指揮者としては一流だが、病気がちなこともあって華々しさとは無縁の存在だったらしい。今でこそ晩年の素晴らしい録音で、ファンも多いが当時は極めて地味な職人指揮者だった(のだろう)。
 このリング、なかでも地味ジークフリートではあまりの渋さに、「もっとそこ、こうして」と辟易とするヶ所もあるが、この「いぶし銀」で聴く男声社会のジークフリートは、こんな演奏こそ相応しいような気がしてくる。ドラマ性が少ないだけにこの静的なワーグナーもいい。
でも、幕を追うごとにかなり熱くなってくる。3幕の迫力はなかなかのもので、劇場の人「ケンペ」ならではと思わせる。「黄昏」なんて、そうとうに素晴らしい指揮ぶりだ。

歌手は不満と感銘が五分五分。
暗いオランダ人で鳴らしたウーデのさすらい人は、変に音程が定まらずかえって、妙にヘラヘラと明るくて(?)がっかり。ミーメもへたくそ。
アルベリヒは、かなり性格歌手っぽくていい。
そして、肝心のホップのタイトルロール。フルトヴェングラー時代からの大ベテランだけに、肉太の「ずんぐりむっくり」を想定してしますが、以外やジェームズ・キングばりのバリトンの声域の豊かな気品ある声を聞かせる。でも鍛冶の場面では、ちょっともっさりしてしまうが。
 3幕後半から、元気一杯目覚めるニルソンは、バイロイトデビューしたてで、ともかく声のハリといい明瞭さといい、他のベテランや苦戦の歌手に比し数等すばらしい。

このリングは、「ケンペ」のあと、ウィーン生まれの「ベリスラフ・クロボチャール」に引継がれた。なんて地味なんだろう。クロボチャールは後年N響にも客演した人。
その後の兄演出では、「ベーム」「スウィトナー」「マゼール」で、2次弟が「シュタイン」だから、弟は音楽面でも兄の後塵を拝するような地味な選択をしていたわけである。
 こんな過去のバイロイトの歴史に思いを馳せながら、当時の音源を聴くのも、ワーグナー好きの楽しみ。

演奏やバイロイトのことばかりになってしまったが、「ジークフリート」は殺しの場面はあるし、再び指環争奪戦が繰り広げられる権謀術策の場面もあるが、「リング」の中ではハッピーエンドが用意され、愛を信じて疑わない無邪気な二人の明るい二重唱で終わる。
ここでのジークフリートは、自然児で世間の波に揉まれていないオバカさんだが、平気で自分を育ててくれたミーメや、恐竜ファフナーを殺してしまう、無知な残忍さも持ち合わせている。恐ろしい子供なのだ。
こんな無知で無邪気なオバカさんが、知らずに権力を持ってしまったらどうなるか?
世の演出家は、きっとそんな切り口でも深読み演出を試みるどろうな。(もうあるか?)
無知なる独裁者「ジークフリート」なんて感じで・・・・・。

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2006年11月18日 (土)

R・シュトラウス 楽劇「サロメ」 ショルティ

Salome不連続 R・シュトラウスのオペラ・シリーズ、作曲順を追って、第3作の「サロメ」。ワーグナーに心酔するシュトラウスは、この作品から楽劇を標榜する。よりドラマの台本を重視し、そこに不可分の音楽を書いて行こうという意志の現れか。ライトモティーフの多様も同様。

作曲者40歳の頃の作、管弦楽作品では「家庭交響曲」が前作。
この頃までにあらかたの交響的作品を書き尽くしていて以降は、オペラに注力して行く。

原作はイギリスの耽美的作家「オスカー・ワイルド」で、台本作家はいるが、原作がかなり忠実に扱われているという。(原作は読んだことありません)
そもそもは、新約聖書の物語に素材を得ている。聖書を引用するのも恐れ多いことだが、原作の原作だから、引用します。

<そのころ,領主ヘロデはイエスに関する評判を聞いて, 自分の召使いたちに言った,「これはバプテスマを施す人ヨハネだ。彼は死んだ者たちの中から生き返ったのだ。それで,こうした力が彼の内に働いているのだ」。 というのは,ヘロデは,自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのために,ヨハネを逮捕して縛り,ろうやに入れていたからであった。 それは,ヨハネがヘロデに,「あなたが彼女を有しているのは,許されることではない」と言ったからである。 ヘロデは彼を死に至らせたいと思っていたが,群衆を恐れた。人々は彼を預言者とみなしていたからである。 ところが,ヘロデの誕生日がやって来た時,ヘロディアの娘が彼らの間で踊ってヘロデを喜ばせた。 そこで,彼は彼女の求めるものは何でも与えると,誓って約束した。 彼女はその母に促されて言った,「洗礼を施す人ヨハネの首を大皿に載せて,わたしにお与えください」。
 王は悲しんだが,自分の誓い,また自分と共に食卓に着いていた者たちのゆえに,それが与えられるように命じ, 人を遣わして,ろうやでヨハネの首をはねさせた。 彼の首は大皿に載せて運ばれて,乙女に与えられた。そして彼女はそれを自分の母のところに持って行った。> (マタイ伝より)

こんな聖書の記述に、オスカー・ワイルドは妖しいまでのドラマを仕立てあげた。性的な倒錯と宗教的精神と信仰の描き分けであろうか。
シュトラウスは、このあたりを見事に作曲した。どんな光景でも書けてしまう描写の天才。
だから恐ろしいまでに、生々しく、エキセントリックで、エロティックな一方、ヨカナーン(ヨハネ)の描写だけは神々しい。

102392theclimaxillustrationfromsalomebyo このCDジャケットは、サロメだけでも100以上描いた「モロー」の作品。
アールヌーボー調の「ピアズレー」もシュトラウスの音楽にピタリと来る。何といっても、ワイルドの原作に挿絵として挿入されているし。

ショルティの1961年のウィーン・フィルとの録音は、「リング」チクルスの間に、「カルーショー」によってなされた。
そこから想像されるように、すべてをあからさまにするような録音の生々しさに加え、鬼軍曹ショルティの繰り出す、向かうところ敵なし的な戦車攻撃のような音の塊に、ただもうひれ伏すばかり。ははーっ。お見それいたしやした。

「7つのヴェールの踊り」に文字通りなだれ込む場面の興奮、ヒステリックなヘロデの一声のあと、激しい和音で終幕を迎えるが、それこそ、最後の一撃を浴びたかの激音である。
 録音当時は、これはこれで、もの凄い演奏だったろう。
今となっては、ちょっとキツイ。というより演奏様式はもっとスマートになめらかに、口当たり良くなってしまった。ショルティが没後、あまり聴かれなくなってしまったのもそのあたりかもしれない。

歌手陣にも同じようなことが言えるかもしれないが、強い個性に基づく説得力は、声のジャンルでは抗し難い魅力を感じる。
ニルソンの強靭・怜悧なサロメは、おっかないくらい。性格テノールのシュトルツェは、いやらしいくらいのオヤジぶり。ヴェヒター、クラウセ、ヴィージー等の歌手がキラ星のごとく登場しているのも、当時のデッカならでは。

最近の歌手たちは、スタイルも良く、演技力もあるから、ちゃんと踊りも自ら行うし、声がドラマティックでなくとも、歌唱力でこなしてしまう。
ケント・ナガノのもと、オープニングしたバイエルン国立歌劇場のプローベは、「サロメ」だったらしい。「デノケ」のサロメが映像で少し見れる。なんと、ポロリでした。

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2006年11月17日 (金)

J・ロッホラン指揮 日本フィルハーモニー 演奏会

Nihon_phill_1 今日は日本フィルの定期公演を聴いた。コンサート続きなので、自制をしなくては、と思いつつも、英国指揮者に英国プログラムの魅力には打ち勝てず、聴きにいってしまった。

     エルガー ヴァイオリン協奏曲
                      Vn:川久保賜紀

             ホルスト 組曲 「惑星」

どうだ!といわんばかりの、英国音楽の王道プログラム。
ホルストはともかく、エルガーは反射神経が刺激され、聴く前から、よだれが出そうな状態。

スコットランド生まれの指揮者のロッホランは、以前より日フィルに客演し、それこそエルガーの交響曲などを指揮していたらしいが、何故今まで聴いてなかったのか、残念。ともかく初めての指揮者。
バルビローリ亡きあとの「ハルレ管」の主席をつとめ、バンベルク響の指揮者にもなった。
レコードデビューは、ブラームスの交響曲のシリーズだったと記憶するが、70年台当時の私はイギリス産のブラームスなんて、見向きもしなかった。でもなんといっても、エルガーの素晴らしい交響曲の録音を残していて、その人のエルガーが聴けるのだ。

最愛のエルガーの管弦楽作品はどれもたまらなく好き。交響曲にエニグマに序曲、そしてヴァイオリン協奏曲!! 初めて生で聴くだけに期待もひとしお、惑星より、こっちの方が楽しみだった。3楽章からなる50分あまりの長大作品だが、おおらかで、ノーブルかつ熱い情熱にも満ちていて、そう、どこをとってもエルガーそのものなのであります。第2楽章の抒情の雫は震えるほどだし、冒頭の主題が終楽章の終わりに現れるエルガーお得意の回顧シーンは、ここでも感動的。

Tamaki_kawakubo 川久保賜紀さんのヴァイオリンには、猛烈に感動した。小柄で華奢な彼女がこんな大曲をどう弾きこなすのだろう?最初は何となく手探りの雰囲気もあったが、徐々に熱を帯びてきて、体全体を揺らしながら、音楽に没頭してゆく。
オケだけの場面でも、音楽を体で感じて気持ちよさそうに乗っている。
2楽章での切々たる歌には、こちらも胸が切なくなってしまった。
圧巻は、終楽章。速いパッセージの連続する難曲を軽々と弾きまくる。
それは、無機的な技術一辺倒なものではなく、歌と情に満ちたエルガーの音楽の素晴らしさと彼女の情熱的で、豊かな表現力が見事に結びついた幸せの瞬間だった。最後の方は、感激が波状攻撃のように押し寄せてきて、ドキドキのしっぱなし。
オーケストラもエルガーを極めた指揮者に導かれ、渋いながらも充実したサウンドを聴かせてくれた。最高のエルガーが聴けて、前半で満足の極みに。

後半は、大半の聴衆とは逆に、自分にはオマケみたいに思っていたが、どうしてどうして、すげぇナイスな演奏。(ひねくれた私、素直に惑星も好きと言えばいいのに)
派手なところはなく、カッチリとまとまった惑星。土星がすこぶるよかった。

苦言をひとつ。舞台側面のLA席だったので、真横からオーケストラを眺める状況。
お隣の方、エルガーでは、死んだようにしていたのに、惑星になったら、身を乗り出し、活躍する打楽器群を覗き込んだり、木星のあの場面では、連れに合図をだしたり、ともかくきょろきょろと落ち着きがない。こちらの視野にその動きが入るものだから、気になってしょうがない。裏拳でもかましてやりたくなった。
コンサートは楽しいけれど、逃げようのないこんなハプニングを思うとツライものがありますな。

Kawakubo_l 本日、お気に入りに追加! 川久保賜紀ちゃん。

   

Dsc00402 サントリーホールのカラヤン広場のツリー。
今年もこんな季節になった。

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2006年11月14日 (火)

尾高忠明指揮 札幌交響楽団 演奏会

Sapporo_so_1_2  札幌交響楽団の東京公演を聴く。@サントリーホール。憧れのP席、3000円。
札響は、今年4月本拠地の「キタラ」で聴いた。「札幌に来たら、「キタラ」さぁ。」と知り合いに言われていた。終演後、まだ寒かった晩に中島公園をゆったり歩いて帰った。
音楽を聴く雰囲気に溢れた素晴らしいホール。その座付きオケも細身ながら、とても気にいった。その彼らが、東京でマーラーを演奏する。聴かない手はない。

尾高氏は、私の好きなジャンルを得意にしていて、私にとって信頼置ける指揮者。
BBCウェールズ響で鍛え上げた英国音楽の数々、特に「エルガーの交響曲第1番」のスペシャリストだ。グラズノフ、ラフマニノフらの後期ロマン系・ロシア作曲家らの交響曲も。
そして以外なのが、ワーグナーへの傾倒ぶり。以前、二期会「タンホイザー」を観た。
素晴らしかった。BBCとの「神々の黄昏」のCDも驚きの名演。     

   ノルトグレン/左手のための協奏曲 Op.129
       ~小泉八雲の「怪談」による
          ピアノ:舘野 泉
   マーラー/交響曲第5番 嬰 ハ短調

ノルトグレンの協奏曲は、脳溢血で倒れ、左手のピアニストとして復活した舘野泉氏に書かれた曲で、小泉八雲の怪談にインスピレーションを得て書かれたらしい。女を離縁した男が、怒りと悲しみによって死んだ女の怨念を陰陽師の助言で、女の屍にまたがり、その女の怨念を解くという、全くもって恐ろしい物語(プログラムより)
曲は最初いかにも怪しい雰囲気で始まり、ピアノも打楽器のように扱われ、結構激しい。「どこでまたがるんだろ?」 と注目していたら、音楽は徐々に澄んだ響きへと変わってゆき、ピアノがいたく美しく、浄化されていくような旋律を奏でながらも、静寂のうちに音が止んだ。結局、表題音楽ではないらしい。最後は魂の救済なのだろう。
聴いていてやるせなかったが、最後は救われた気分で、舘野さんの痛々しさをこれっぽちも感じさせない透徹した演奏に大いに感銘を受けた。
アンコールの曲(シュールホフのアリア)もシンプルだが美しく、5本の指だけでこんな豊かな音楽が奏でられるのとか!と驚き、そして目頭が熱くなってしまった。
満場の聴衆も同じ思いったろう。
尊厳に満ちた素晴らしいピアニスト、舘野泉さん。

マーラーは、札幌で演奏してきたので、このコンビの手の内に入った安定感あるもの。
冒頭のトランペットの艶のある出だしでこの演奏は決まった、と思った。
このトランペットとホルンの両主席は、なかなか素晴らしい。
舞台奥のP席だったから、各楽器がどんなことをしているか、手に取るようにわかる。
主旋律をどの楽器がどんな音で支えているか、時には主旋律より美しく感じる瞬間も多々あった。尾高氏が。マーラーの錯綜するスコアを整理するように細かな指示をオケに与えているが故の響きだ。だから、透明感あふれる、スッキリしたマーラーとなった。

第4楽章アダージェットの後半、第2ヴァイオリンでメロディが再現され、第1ヴァイオリンがなぞるように応える。このあたり、ものすごく音を押さえ、極めて美しい瞬間が訪れた。
私は感動に涙を押さえられなかった。
終楽章の歓喜のエンディングも着実で見事なもの。
実に、心に響くいい演奏だった。
エキストラも複数参加しているが、指揮者も混じえた、このオーケストラの家族的、親密な雰囲気はしのぎを削る東京のオーケストラには見られない、ぬくもりのある音に反映されているような気がする。

Sapporo_so2 ホールで配られた来年の公演ラインナップ。
なかなか魅力的なプログラムが組まれている。
これを睨みながら、出張を組めたらホント幸せだ。
札幌にいらっしゃる際は是非、札響を聴いてみるっしょ。

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2006年11月12日 (日)

ワーグナー 「ワルキューレ」 メータ指揮

Walkure_mehta リング第1夜の「ワルキューレ」を思うとき、気持ちの高揚を押さえられない。指環の権力争いから少し離れ、愛憎のドラマに満ちていて、兄妹・男女・夫婦、そして親子の愛の関係がそれぞれに描かれている。
キワモノの関係もあり、こんな関係は、子供には説明できない。
しかし、親子の別れを最後の頂点とするウォータンとブリュンヒルデについては、娘を持つ身としてはほとんど同化しかねないくらいに入れ込んでしまう。世のおとうさんは、娘にはからきし弱いの。

「ワルキューレ」はリングの中でも、ドラマ的に完結感があるから、単独の上演もよく行われる。外来でも、ミュンヘン、メト(2回も)、ベルリンとかなりやっている。
録音も単独ワルキューレがいくつかあるが、今回はその中から、「メータとバイエルン国立歌劇場の2002年ライブ」を取り出した。
このCDはFARAOという正規レーベルから出ていて、録音が素晴らしくいい。もちろんライブで盛大な拍手も入っている。そしてジャケットやリブレットも豪華。
ミュンヘンのライブをじゃんじゃん出して欲しいもんだ。

まず、ジャケット。これ私が使わせていただいている本ブログのイメージそのもの。
舞台に突き刺さるノートゥンクは、オペラの臨場感を楽しく伝えてくれる。
バイロイトの祝祭劇場の内部をそのまま舞台装置にしてしまった「ヴェルニケ」の演出で始まったリングだが、演出家の急死でこのワルキューレはヴェルニケの意向を汲んだ「レーマン」の演出となったらしい。現在は、「オールデン」の少し過激な演出にとってかわっていて、写真で見る限り「トーキョー・リング」を思わせるようなアイデア満載のリングのようだ。

  ジークムント:ペーター・ザイフェルト   ジークリンデ :ワルトラウト・マイヤー
  ウォータン :ジョン・トムリンソン     ブリュンヒルデ:ガブリエレ・シュナウト
  フリッカ      :藤村実穂子             フンディング :クルト・リドゥル

どうです、素晴らしい理想的なキャスト。
Walkure_bayerishe2002_1 どの歌手も火のうちどころがない。ザイフェルトは幾分リリカルだが、ピンと張ったハリのある声は若いジークムントを感じさせる。ただ、私はこの役には陰りを帯びた声が相応しいと思う。そう、やはりジェームス・キングなのだ。エルミングもそう。
 マイヤーのジークリンデに、そうしたウェルズング族の陰りの部分を見る思いがする。
この人の中音域の色っぽさは妖しく美しい。 

定評あるトムリンソンのウォータンは安定感抜群。個人的には、その声はあまり好きではないが、永年の経験で考え、練り上げられた表現が随所に聞かれ、「ほほう」という場面も多々あった。
最近日本でもお馴染みのシュナウトもいい。
そしてなんといっても、藤村のフリッカ。鬼嫁(ひぇ~!!)風のフリッカでなく、夫の愛の喪失に堪える気丈さを感じさせる。ドイツ語の明瞭さも他の歌手以上かも。

メータの指揮は、メリハリが効き、ダイナミックで、わかりやすい。こんな一般的な印象は、ここでもほぼあてはまる。しかし、私はこの録音に、歌手の呼吸を読み、舞台と一体化し、ドラマを音で語るオペラ指揮者としてのメータを強く感じる。
一時代前の重厚長大なワーグナーでもなく、ショルテイの熾烈さやカラヤンの雄弁なロマンティシズムとも違う。音は明るく豊穣、粘らずスッキリ感があり、音はクリアである。
いろんなワーグナー演奏があるけれど、極端な例として、従来の巨匠型の路線はバレンボイム(最近聴いてないので推測含み)で、一方のアバドに代表されるような新しいワーグナー、それは音のひとつひとつに光をあてて輝かせてみせる演奏。メータはどちらかといえば、後者に近いような気がする。
 ミュンヘンの歌劇場のオーケストラの優秀さは、良く知られていて、昨年のR・シュトラウスは素晴らしかったが、このワーグナーも南ドイツの明るい音色で、メータの指揮に彩りを添えている。 

Mehta_1 今年、メータはミュンヘンのポストを退任したが、その時のお別れコンサートの画像が歌劇場のサイトに載っていた。
いつものお得意の感謝のポーズと傍らのバレンボイムとのキテレツなダブル・二人ばおり風の指揮!
ミュンヘンの後任は、デジタル指揮者「ケント・ナガノ」。

Mehtabarenboim_1 伝統と暖かな音色の素晴らしいオーケストラとどう導いてゆくか?
舞台では斬新さの目立つ昨今だけに、音楽面も変わってしまうのだろうか?不安と期待、おそらく数年のうちにまた引越し公演が実現し確認できるかもしれない。そしてメータにはもっと活躍してもらいたいぞ。

さて、「バラバラ・リング」、次の「ジークフリート」は問題だ。一ひねりしなくちゃ。

    

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2006年11月11日 (土)

マゼール指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック 演奏会

Nypo ロリン・マゼール指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの来日公演を聴いた。
このところかなり、コンサートやオペラに行っていて、自分でも呆れてしまうが、こんなに行くことはかつてない。せいぜい年に2~3回、好きなワーグナーだけだった。
 こんなになっちゃったのも、アバドとヤンソンス狙いで思い切って買った、ワールド・オーケストラ・シリーズに付録のように、単独では行かないだろうコンサートがセットになっていたこと。そしてチケットがネットで座席を選びながら、ひょいひょい買えちゃう便利な世の中になってしまったこと!でもクリックひとつで、恐ろしい請求書が送られてくる。

そんな付録のように思っていた今日のコンサート、演目も忘れてしまって、会場で確認したくらい。真剣味が足りない。
   
     ヴェルデイ     歌劇「シチリアの晩鐘」序曲
     チャイコフスキー  「ロココの主題による変奏曲」
           チェロ:ヨハネス・モーザー
     ショスタコーヴィチ 交響曲第5番  
           @オペラ・シテイ

ニューヨーク・フィルを聞くのは実に30年ぶり。当時はブーレーズの指揮だった。

ヴェルディの最初の和音で昨日のノリントン・サウンドとの歴然とした違いにびっくり。輝かしく、豊満な音色。そして大きな音。

「ロココ」の独奏者のモーザーはまだ20代、でも奏でる音楽は落ち着いたもので、細かなニュアンスが美しく、技量も確かと見た。でも、このところお疲れ気味の私、チャイコフスキーのまったりとした音楽に、やや当方も集中力を欠いてしまった。

休憩後、気を取り直して、ショスタコに挑む。これは良かった。マゼールということで警戒していたが、思わせぶりや大見得を切るようなところはなく、音楽に集中できた。
でも、いろんなフレーズがモザイクのようにはめ込まれているショスタコの曲は、テンポを一度、落としたりして動かすと、次のフレーズとの整合性が付かなくなってしまう場面がある。
テンポを若干いじるところがあって、そんな部分が、少し感じられた。
 でもオーケストラの個々の奏者のものすごい上手さと弦楽器群の燦然たる輝かしさは、聴いていて実に気持ちのよいもの。

アンコールは、ドヴォルザークのスラヴ舞曲72-1とアルルの女「ファランドール」の2曲。
どちらも、速いテンポで駆け抜けるように演奏された。ともかくオケがうまい。
マゼールもオケに任せて、体を動かすだけだったり、エンターテーメント性もたっぷり。
ニューヨーク・フィルらしい、そしてマゼールらしい、楽しい音楽会だった。

Meet_maazel_acc8 マゼールも76歳。指揮台では変わらぬ姿だが、指揮台までの往復の動きに隠せぬ老いを感じた。背は曲がり、無理に小走りになったりという大仰な動作が逆に寄る年波を感じさせた。
その音楽も、以前はもっと人に好き嫌いをはっきり催させるものだったが、普通にいい演奏を聞かせるだけになった感がある。
 ニューヨークという保守的な背景もあるだろう。マズアのいた10年は長い。
公演パンフによると、2008~9年にはこのポストを退任し、若い人の教育や共同作業、作曲に力を注ぐという。丸くなっていくマゼールも、何だかなぁ、の感じ。
 もっともっといろんな地位を極め、いつまでもマゼールらしくあって欲しいもの。

オーケストラに女性が目立った。それも黒髪のアジア系。メンバー表をみたら、日本人は数人でほとんどが、中国系。ヴァイオリンの3割はいたかな。
世界的な兆候であろうか。
 それと、副指揮者に名がみられた「Xian Zhang」(読み方わからない)という、中国生まれの女流指揮者、マゼールは絶賛している。
ポスト・マゼールも気になるが、アメリカより始まったこうした流れも大いに気になる。
日本が、単に音楽を消費するだけの国にならなければいいが・・・・。

ウィーン・フィルとウィーン響、ニューヨーク・フィルが同時期に東京にいる。少し前はルツェルン、後はコンセルトヘボウ。去年はベルリン・フィルもいたから、東京の異常さがわかろうというもの。

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2006年11月10日 (金)

ノリントン指揮 NHK交響楽団演奏会

昨晩は、大阪よりEINSATZ」のマスターがコンサートに東京にいらっしゃったので、店の常連さんの「romani」さんと3人で渋谷でお酒を共にしました。
マスターの生き字引のような音楽体験と、romaniさんの含蓄あふれる鑑賞歴などを拝聴しながらまったく楽しいひと時を過ごしました。
お世話になりました。次は大阪ですね。

Nhkso11_1 サー・ロジャー・ノリントン客演のN響定期聴いた。

     ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲
            Vn:庄司沙矢香
     
     ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第5番

  
私の好きなV・ウィリアムズの5番が聞けること、N響がノリントンの妥協を許さないピリオド奏法をどう受け止めるか、が今回の注目。

ベートーヴェンがコツコツと固いティンパニの響きで始まり、ここでもう、いつものN響と違うことが判然とした。人数を刈り込んだスッキリした響きは繊細かつ美しい。
 そして荘司紗矢香がノリントンが用意した背景をすっかりなぞるように女性的なしなやかさをもって登場。そう彼女も過剰なヴィヴラートをかけず、オーケストラと一体となってノリントン・ワールドを体現しているのである。
私は彼女を聴くのは初めて。その素晴らしさに感嘆した。あの小さな少女のようなヴァイオリニストが奏でる多彩な表現力。ここでは、オケが抑えに抑えられているので、彼女のソロがピアノからフォルテまで、ムラなく響き渡るさまが見事に聴き取れる。
しかも思いつきや、その場の情熱から生まれた産物ではなく、精緻で考え抜かれた音が醸し出されているのである。
ノリントンとどのような打ち合せを経ているかはわからないが、彼らの生み出したベートーヴェンは、まるで「風呂上り」のように、既存のアカを洗い落とした新鮮さに満ちていた。
 アンコールにバッハの無伴奏の一部が演奏され、これも前曲の流れを汲んだ緻密な演奏だった。舞台そでで、ノリントンが立って聴いているのがチラチラ見えて面白かった。

Norrington3_2 V・ウィリアムズの5番は、多彩な彼の9曲の交響曲のなかでも、3番と並んで抒情的な曲で、私はその2曲と交響詩「沼沢地方にて」の3作をイギリス田園交響曲と呼んでいる。(勝手な決め付けだけど)

ここでも、ノンヴィブラート奏法が実に新鮮。これまで聴いてきた5番の演奏が弦をたっぷりと歌わせ、豊な抒情を表出していたのに比べ、ノリントンの指揮の元では、弦楽器は透けるように清澄で音のひとつひとつが際立って美しい。
響きの美しさ、というよりは、音そのものの純な美しさといったらよいだろうか。
 この曲の白眉である第3楽章レントの素晴らしさに、涙が出てしまった。
ただ、この楽章の終わりに出るソロ・ヴァイオリンは少し怪しかったけど。
 終楽章は全体をレヴューするかのようなパッサカリア風の楽章だが、最後には魂が昇華されるかのように音の純度を高めていって、(ここでのノリントンは管にもっともっと、という指示をかなり出していた。)静かに消え入るように終わる。
私は感動のあまり小さくブラボーを呟いた・・・・。

地味な作品だっただけに、みな睡魔を押さえるため演奏中でもガサガサと飴をいじくる雑音がそこここで聴かれた。しかし、最後の静寂はよかった。よく辛抱してくれてありがとうをいいたい。
 N響はよく頑張ったと思う。日本にはニュートラルなオケが多いから、案外、ノリントン先生やりやすかったかもしれない。
おもしろ・ひょうきん指揮者の片鱗は、ベートーヴェンの指揮に出ていた。ほとんど客席をみて「ココ、ココ良く聴いて」とばかりに指揮していた。

この5番をN響で聴くのは2回目。数年まえに、「プレヴィン」が演奏した。
このときは5月で、あとモーツァルト・プロとブリテンの「春の交響曲」の3チクルスだったが、驚くべきことに、新日フィルにまったく同じ時期に客演した「ヒコックス」も、この5番の演奏会と、ブリテンの同曲の2つのプログラムをとりあげた。
私は「プレヴィンのV・ウィリアムズ」と「ヒコックスのブリテン」をチョイスしたが、今思うと全部行けばよかったと思う。

Vwilliams5_previn Vwilliams5_thomson

CD棚には4種の全集とバラがいくつかある、RVW。
なかでも、5番はプレヴィン(新)と故ブライデン・トムソンのふたつが好きである。
聴きなおしてみて、ノリントンを聴いた今、音が多すぎる気もしたが、ジャケットと表裏一体のような演奏はやはり英国音楽の真髄のひとつ。

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2006年11月 8日 (水)

ワーグナー 「ラインの黄金」 ドホナーニ

Rheinold_dohnanyi

ワーグナーを聴かないと中毒症状が出る。
ワーグナーの毒を恐れ、それを避ける方は多いけれど、私はもうすっかり毒がまわっているので、しばらく離れると呼ばれなくてもちゃんと回帰する。
忠実な僕なのである。

今回は「ニーベルングの指輪」通しチクルスである。それも4部作バラバラ・リングである。

バラバラ・リングその一の「ラインの黄金」は、ドホナーニクリーヴランド管弦楽団のデッカ録音のCD。1993年にクリーヴランド管の本拠セヴァランスホールでの録音。
80年代から90年代半ばまで、デッカはマゼールに次いで、ドホナーニとクリーヴランドの録音に大いに力を入れ素晴らしい音の録音を次々に残していったものだ。
いくつものプロジェクトの仕上げのように、私を歓喜させたのが「ニーベルングの指環」全曲チクルス。アメリカの誇るスーパー・オケによる「リング」、しかもデッカの名録音ということもあって、コンサート形式の定期演奏と並行して録音されるリングに期待が高まった。

ところがこれが見事な尻切れトンボ!「ラインの黄金」と1年後の「ワルキューレ」までは録音されたが、その後は止まってしまった。それどころか、いくつか進行中のチクルス、ブルックナーとマーラーなどもオシマイ。ドホナーニやクリーヴランド管自体も録音メディアから遠ざかってしまった。
 なんと残念なこと。クリーヴランドはアメリカオケのご多分にもれず、ギャラやユニオンの問題からレコード会社が敬遠しているのであろうか、将来ドイツ音楽界の雄「ウェルザー・メスト」の録音がひとつもない。

ドホナーニも退任後、フィルハーモニアと北ドイツ放送というやや地味な地位にあって、近況は放送録音でしかうかがわれない。ライブ放送でベートーヴェンを聴いたが、これがなかなかに良かった。情感に乏しく味気ないという印象が時にあったが、ドイツのオケを振ったその演奏はキリリと正しいベートーヴェンだった。もったいない。

Rheingold_dohonanyi

ドホナーニの80年代のオーケストラ曲の録音には、時として完璧・潔癖すぎて面白くないという印象があった。ただ、ドヴォルザークには不思議なほど情感や情熱が溢れていたし、バルトークの怜悧な響きは印象に残っている。
しかし、私はドホナーニはオペラの人と思っている。いずれレヴューしたいが、80年代、ハンブルク・オペラを率いて来日したおりの「魔笛」と「影のない女」を観た。その時のシュトラウスの素晴らしさが忘れられない。
錯綜する巨大サウンドをスッキリと整理して、かつドラマを感じさせるような劇的な音楽を文化会館一杯に鳴り響かせた。

前段が長くなったが、そんなドホナーニの「ラインの黄金」は明晰で、どこまでも見通しが良い。ガガァーと威圧的にオケが鳴るところは皆無。しかし、神経質でも、貧血的でもなく、巨大なドラマの開始とも言える叙事的な大らかさもあると思う。
こうしたオペラの呼吸を感じさせるところが、ドホナーニの素晴らしさだろうか。
 予想通り、いやそれ以上にオーケストラの優秀さにビックリだ。
冒頭のプリミティブな前奏曲からして、音の明晰さで際立っている。こんな前奏はカラヤン以上かもしれない。各ライトモティーフもおもしろいくらいに、明確に聞こえる。
この演奏の主役は優秀なオーケストラかもしれない。

 ウォータン:ロバート・ヘイル      アルベリヒ:F・ヨーゼフ・カペルマン
 ローゲ  :キム・ベグリー        ミーメ   :ペーター・シュライアー
 フリッカ  :ハンナ・シュヴァルツ    フライア  :ナンシー・グスタフソン
 ファゾルト:ヘンドリック・ローテリング ファフナー:ウォルター・フィンク


主な配役はこのとおり、オケが主役とかいいながら、なかなかの顔ぶれ。
なかでも、実演で接し、その演技と舞台栄え、なめらかな美声をすっかり気にいってしまった、ヘイルのウォータンが素晴らしい。

素晴すぎる録音は、普通に鳴らすと近所迷惑。効果音もそこそこ入っていてドッキリ。
ニーベルハイムの奴隷(?)たちの叫び声は強烈で、お隣さんからパトカーでも呼ばれてしまいそう。ドンナーのハンマーと雷鳴も極めてリアル。心臓の弱い方はお気をつけ下さい。
そして、ワルハラ城への入場のオーケストラの壮大な響きは快感。

次作「ワルキューレ」は、何としたことか入手できず仕舞で廃盤。まだ聴いたことのない「幻のワルキューレ」になっちまった。ヘイルのウォータン、エルミングのジークムントが聴けるというのに・・・・。
クリーヴランドの定期では、その後間をおいて「ジークフリート」「たそがれ」が上演されたらしい。会社存続の危機はあったにせよ、デッカの弱腰には困ったもの。

バラバラ・リング、次の「ワルキューレ」は一番個別性が高く録音も多い。さてさて。

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2006年11月 5日 (日)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 アバド

Abbado_tyhaiko6_ さて今日は名曲を一発。
「悲愴」ほどの名曲となると、なかなか改まって聴く機会がないし、ちょっと濃いから田園や新世界のような訳にいかない。
でも名曲の名曲たる由縁、愛好家が必ずとおる道にこの作品はある。

今の若い方々はどうかしらないが、私のような年代だとおそらく「悲愴」には泣かされたのではなかろうか。悲哀に満ちた旋律に胸かきむしられるような感情を持ったものだ。私の最初のレコードは、コロンビアのダイアモンド1000シリーズ(知ってますかねぇ)のパイ原盤による「バルビローリ」盤だった。やるせなくなるような悲愴だった。
今思うと、バルビ節だった。
 これに親しんだ私が、大好きな「アバド」の「悲愴」が出て飛びついた。しかもウィーン・フィルだった。

Abbado_tyhaiko6 1973年、ちょうどこのコンビの来日のあと、ムジークフェラインでの録音。
黄色がトレードマークだった、当時の日本グラモフォンは、大いに売り出したものだ。
 高校生だった私は、まず一聴して、その生々しい録音の素晴らしさに目を剥いた。安いステレオが実によく鳴った。それも、まだ見たことも聴いたこともなかったホールのややデットながら柔らかな音をまともに捉えた音だった。ウィーン・フィルといえば、デッカのゾフィエンザールの分離のよい明晰な録音のイメージが強かったが、DGはコンサートの本拠地での録音を敢行し、見事な成果をあげていた。

録音ばかりでない、アバドの明るく、今生まれたばかりのような新鮮な解釈は、当時チャイコフスキーなんてほとんど演奏したことがなかったウィーン・フィルの面々を夢中にさせ、正にウィーン・フィルの魅力満載の滴り落ちるような美音を響かせることになった。

ウィーンの管楽器の独特の音色で聴くチャイコフスキーは本当に魅力的。
アバドの指揮もおそらくこれらの美音を意識しつつ、旋律をいとおしむように歌うところは、若いこの時期ならではのもの。
しかし、センチメンタルな憂愁はこれっぽちもなく、ここにあるのは、純粋に楽譜に書かれたチャイコフスキーの美しい音だけである。
 第1楽章の素晴らしい第2主題が次々と展開される場面は、さながら夢のような美しさ。
それが事切れ、ファゴットの下降する音が止む。指揮者とオーケストラが次のフォルティシモに向けて身構えるところは、緊張の瞬間が捉えられている。そのあとに続く生々しい展開も、威圧的にならない。
 中間部の弱音の部分の歌い方が豊かな第2楽章、騒々しくなく平常心の第3楽章、重苦しい情感がなく、淡々と染み入るような第4楽章。

久々の「アバドの悲愴」は、若き日々に聴いた通りだった。

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2006年11月 4日 (土)

パトリシア・プティボン 「フレンチ・タッチ」

Petibon3パトリシア・プティボン」この素敵な名前のフランスのソプラノをご存知だろうか。名前だけは、ずいぶんと洒落ていたものだから、以前から聞いたことがあった。苦労して入手したこのCDで実際聴いてみて、ビックリ。
完全に心を奪われてしまったよ。オヤジですから余計に。

まず見てちょうだい。このキュートなお姿。
そしてお姿ばかりか、その歌も抜群によろしいの。

Petibon_1 彼女は1996年のデビューだから、まだキャリアは10年と若い。
ウィリアム・クリスティに見出され、当初からバロック系の歌を数々手掛け、その後モーツァルトやフランス・オペラにも進出し、ヨーロッパでは人気歌手の一人となっている。R・シュトラウスの諸役も歌っているから、これまた私のストライク・ゾーンを刺激してくれちゃうわけだ。

こうした経歴やレパートリーを見て真っ先に思い浮かぶのが、そうナタリー・デッセイ」さまである。プティボンはナタリーの妹分のような路線を走っているわけ。
そして、どちらも知的で考え抜かれた洗練された歌を聴かせてくれる点でも同じだ。

Petibon_2 このCDは、グノー、マスネ、ドリーブ、オッフェンバッハ、シャブリエ、アーン、メサジュ等のアリアが15曲たっぷりと収められている。
1曲ごとに、感嘆し、ため息をつき、キュンとなりで、まさに一刻たりと聴き手を捉えて離さない魅力に満ちている。
優しく美しい声は、リリコの典型だが、コロラトゥーラのテクニックも完璧。
機械的にならず、血の通った暖かさがある。曲によっては、神妙にシリアスな歌唱を聴かせてくれるが、コミカルな曲では、一転はね飛び、はじけるようないきいきとした抜群の歌を披露してくれる。
まったくもってすごい。「オフェンバックのオランピアの歌」の超絶的な声による演技は、驚きを通り越して、楽しいという意味で度肝を抜かれる。

ナタリー・デッセイが、大人の女性を感じさせるのに対し、パトリシア・プティボンはお茶目な若い女性を感じさせる。
このCDの最後に、お楽しみのプレゼントがあり、お父さんはすっかりマイってしまったヨ。

彼女のCDはまだあまり多くない。クリスティやアーノンクールとの共演で、いまのところ、バロック・古典が主力。気になるのはその活躍に比べ、録音が途絶えていることか。
デッカの専属らしいが、ビジュアル路線に乗せてガンガン録音して欲しいもの。

来年5月、来日の報もあり、楽しみ楽しみ。

このCDのプティボン・サイトはこちら。 映像も発見、かわゆいです。

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2006年11月 3日 (金)

R・シュトラウス 歌劇「火の欠乏」 フリッケ

Feuersnot R・シュトラウスのオペラの2作目は、1901年、37歳の作品。
前作「グントラム」から9年のの隔たりがあり、その間「ツァラトゥストラ」「英雄の生涯」といった、有名曲はあらかた書かれてしまった。
 この先13作品のオペラや歌曲に力が注がれていく。

思いのほか聞きやすく、美しい旋律に満ちていた前作だが、「火の欠乏」はタイトルが怖そうだが、一服のメルヘンと言ってもよいかもしれない。
「火の消えた街」、「火の危機」とかも約される。
90分の1幕もの。

あらすじはざっとこんな(だろう)。
 舞台はミュンヘン。「火祭の日」である。子供達が楽しそうに歌いながら、町を練り歩く。
市長の娘「ディムート」は結婚しない女で、遊び仲間の女3人と子供達にお菓子をくばったりしている。
街の変わり者「クンラート」は、ボサボサの髪、むさ苦しいなりで自宅で本に没頭していて、今日が祭りの日ということを知らない。
「燃え盛る火を二人して飛び越えると愛が成就する」と子供たちから、祭の伝説を聞かされ、すっかり夢中になってしまう。
調子に乗って「ディムート」に愛を告白して、キスまでしてしまう。これには、町中大受けで、「ディムート」は囃されてしまい、恥ずかしさのあまり、家に飛び込んでしまう。

ディムートは口惜しくて、お返しをしようと思っていると、バルコニーの下にクンラートが現れる。彼をすっかりその気にさせて、熱烈な2重唱が歌われる。
クンラートは、感極まって上にあがりたがり、籠にのる。バルコニーに向けて持ち上がって行くが、途中で止められてしまう。ディムートは、街中の人を呼び集め、籠の中の宙吊りのクンラートは物笑いの種となってしまった。

騙されたと知った彼は、頭にきて街の火や明かりを消してしまう呪文を唱える。
ミュンヘンは、真っ暗闇になってしまった。クンラートに助けを請う人々。
 ここでクンラートは、大演説をぶつ。
火祭の意味を理解していないから、こうして暗闇が訪れる。
かつてミュンヘンは偉大なマイスター(ワーグナー)を冷遇した、そしてシュトラウスも。
このあたりで、ヴァルハラの動機まで出てくるし、シュトラウスの作品の旋律もチラチラする。こんな意味のことを比喩をまじえながら、ちくちくと歌う。
 明かり(火)も愛も、唯一女性からもたらされるのだ、と歌い最後は二人仲良く抱き合う。

何故ミュンヘンのことをけなさなくてはならなかったのか?オペラと脈連はあるのか?
ちょうどミュンヘンと決裂した頃だし、愛する生まれ故郷ゆえ憎らしかったのかもしれない。
ウィーンといいミュンヘンといい、嫉妬と欲望の渦巻く古都は魔都だ。

音楽は、明るく結構楽しい。少年合唱が活躍するのも珍しいし、ワルツも各所に散りばめられている。楽しさばかりか、クンラートのモティーフなどは、シュトラウス風のシリアスで重々しいもので、こちらもシュトラウス好きには堪らない。
 
バリトン役のクンラートが、やはり決め手。長丁場を歌いきるスタミナも必要。
このCDは、ベルント・ヴァイクルがあたかも自分の作品のように生き生きと歌っている。
この朗々とした歌声を聴くだけで、このCDの価値はある。
相手役のユリア・ヴァラディは地味ながらに、正確で几帳面な歌いぶり。
F・ディースカウの夫人だが、この人は実演のほうが熱く女らしさもでて素敵だ。
テルツ少年合唱団を起用した贅沢も楽しい。
 フリッケ指揮のミュンヘン放送管はこれでいいのだろう。
シノーポリがもう少し生きていたら、こうした初期作もどう聞かせてくれたろうか。

こうした不案内な作品こそ、国内盤が欲しい。需要は限られようが、同じような曲ばかりもてはやされる風潮は今も昔も変わらない。

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2006年11月 2日 (木)

ファビオ・ルイジ ウィーン交響楽団 演奏会

Wiener_symphoniker

ファビオ・ルイージ指揮ウィーン交響楽団を聴く。
ルイージは最近の活躍ぶりから、要注目の人で、私は昨年のN響、今年の新国に続いて3回目の実演。
飛ぶ鳥落とす勢いの彼は、グラーツに始まり、ウィーン・トーンキュストラ、ライプチヒ放送響、スイス・ロマンド、ウィーン響、そして遂には、ドレスデンとステップを駆け上がってきた。この10年のことだから指揮者不足とはいえ、恐れ入る。コンクールなどで、派手な経歴を誇る人でなく、今となっては、いにしえのお決まりコースのオペラ劇場からコツコツと叩き上げてきた本格指揮者なのだ。
 だから守備範囲も広大で、殆どのオペラ、オーケストラ作品がそのレパートリーとなっている。

一方のウィーン響は1975年、ジュリーニの指揮で聴いて依頼30年ぶり。以来ウィーンのセカンド・オケみたいに扱われがちだった、このオケが好きだった。
しかし、ジュリーニの後がアレレの連続で、ラインスドルフ・シュタイン・アツモンの三頭体制に続き、ロジェストヴェンスキー、プレートル、デ・ブルゴス、フェドセーエフという感じ。
何度も来日しながら触手が伸びなかった。そんな訳で今回は、待望のコンビでの来日となり、即決チケットだった。

本日のプログラム。
    モーツァルト  フィガロの結婚 序曲
       〃     ピアノ協奏曲第22番  
                 ピアノ:上原 彩子
        マーラー    交響曲第1番「巨人」
          @東京芸術会館

フィガロはさらさらっと、小気味よく、次いで真赤なドレスの上原が登場。
彼女はFMライブでチャイコの協奏曲を聴き、その目覚しい技巧と大胆さが印象に残っているが、モーツァルトはどうなるんだろうか?との思いで聴き始めた。
ところが、これがクリアーなピアノで中期のモーツァルトにいいのであった。音のタッチが初々しく、それがホールに響きわたるのは、彼女の強靭なテクニックと打鍵の正確さなんだろう。圧巻は早めのいテンポで生き生きと進められた3楽章。オペラアリアのような溜息まじりの素晴らしい曲を、聴いてて浮き浮きしてしまうくらいの楽しさで演奏してくれた。
 アンコールは「ラフマニノフの前奏曲op32-12」、こちらにこそ彼女の本領が発揮されてたかもしれない。旋律を大きく歌う呼吸はラフマニノフそのもの。
 ルイージも腰掛けてじっくり聴いていた。

休憩後のマーラーは、面白かった。アバドの壮絶演奏とは比較の次元が全く異なるが、通常のマーラー演奏としては表現意欲が漲り、オーケストラの丸くも時おりシャープな響きも充分楽しめた。
 マーラーが普遍的になり、ことに1番などは耳にタコ状態の名曲になってしまった昨今、いかに聴かせるか。ルイージは少し工夫を凝らした独創性を見せた一方、マーラーの譜面を信じきったかのようなオーソドックスな曲作りもした。
特に耳が立ったのが、2楽章のスケルツォの緩急のつけ方の極上の旨さ。
それから、3楽章は、コントラバスがソロでなく、全員で弾いたのがビックリだったが、主部とリズミックな中間部の旋律(かなり速い)の対比。
ラストは一気にドラマティックに仕上げたが、ホルン陣は着席したまま。過度の演出はしないが、おやっと思わせる瞬間が適度にあり、聞き古した曲でも実に新鮮な響きに出会えた。

大きな拍手に応え、アンコールは「J・シュトラウスの南国のバラ」。
これの選曲はナイス。ウィーン・フィルのように喜びを満面に表わしながら演奏するのでなく、シンフォニックに正攻法にウィンナワルツを演奏してくれた。
ルイジがどんな顔で指揮してたかは、判然としないが、後姿からは、かなり真面目・真剣な演奏ぶりだった。でも出てくる音楽は、さすがはウィーン。管楽器の独特の甘い音色や、柔らかなピチカートなどは独特のものがあり、楽しめた。

Luisi ルイージは、ジェノヴァの生まれ。生粋のイタリア人。それも「シモン・ボッカネグラ」と同じジェノヴァの海の男。知的な反面、地中海の陽気さもある。亡きシノーポリの後を継ぐような気がする。
マーラーに心酔しつつ、やがてワーグナー、R・シュトラウスの世界でも第一人者になるであろう。イタリア系指揮者の先達の集大成は、この人のようなマルチ指揮者に終錬されるのではなかろうか。

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2006年11月 1日 (水)

モーラン 弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ

昨晩は、DGのビジュアル戦略にまんまと乗ってしまい、ネトレプコを堪能したが、このところご無沙汰の英国ものに回帰しよう。

Moeran_quartet


アーネスト・モーラン(1894~1950)の室内楽を2曲集めた好CD。
モーランはかつてそのヴァイオリン協奏曲を何故か近衛十四朗とともに取上げた。名前とはうらはらに、時代に逆行した英国抒情派のモーラン、V・ウィリアムズを思わせる保守派だが、作品数は少ないものの全貌はまだ明らかになっていないのでは、と思われる。
本格的に作曲を始めたのが1912年からで、病弱ゆえ1950年に亡くなってしまうので、作曲活動は38年あまり。初期には、同じ抒情派「アイアランド」とともに活動していた。

今回の2曲は1921年頃の、若い時分の作品で、両曲とも3楽章からなる。
まるで対になったかのような、姉妹作に感じる。
どちらの曲も、両端楽章はモダンな曲想を伴ないながらも、ドビュッシーを思わせる雰囲気も見せる。
しかし、なんといってもそれぞれ2楽章の緩徐部分がモーランらしい聴きもので、幻想的かつ夢想的な静けさに満ちている。
夜更けにじっと一人耳を傾ける音楽で、素直に心に染み込んでくる。

演奏は、めずらしくもオーストラリアの楽団で、メルボルン四重奏団と、その第1ヴァイオリン奏者によるもので、まずは過不足なく曲を楽しませてくれる。
いかにもシャンドスらしい、英国の湖水地方のジャケットの写真も素敵な1枚。

久方ぶりに英国音楽に戻ってきて、まるで懐かしい故郷に帰ったかのような思いに満たされた。どこもかしこも、かつて親しんだ美しい景色に満ちていた。

アバドの壮絶な演奏を体感し、音楽を愛する純粋な芸術家のひとつの到達点(まだこの先もあるであろうが)を見た思いがした。
それを全霊込めて受止めることも、音楽の偉大な楽しみ方。
 と共に、ワーグナーの人を酔わせてやまない完璧な総合芸術を楽しみ、今夜の英国音楽のように、音楽による詩的な心の旅に思いをはせることも、私の大きな喜び。
加えて、人間の声という歌の楽しみも捨てがたい。

こんなところが、私の音楽を楽しむ基幹となっていて、最近それが絞り込まれてきた気がする。

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