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2006年11月 3日 (金)

R・シュトラウス 歌劇「火の欠乏」 フリッケ

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R・シュトラウスのオペラの2作目は、1901年、37歳の作品。
前作「グントラム」から9年のの隔たりがあり、その間「ツァラトゥストラ」「英雄の生涯」といった、有名曲はあらかた書かれてしまった。
 この先13作品のオペラや歌曲に力が注がれていく。

思いのほか聞きやすく、美しい旋律に満ちていた前作だが、「火の欠乏」はタイトルが怖そうだが、一服のメルヘンと言ってもよいかもしれない。
「火の消えた街」、「火の危機」とかも約される。
90分の1幕もの。

あらすじはざっとこんな(だろう)。

「舞台はミュンヘン。「火祭の日」である。子供達が楽しそうに歌いながら、町を練り歩く。
市長の娘「ディムート」は結婚しない女で、遊び仲間の女3人と子供達にお菓子をくばったりしている。
街の変わり者「クンラート」は、ボサボサの髪、むさ苦しいなりで自宅で本に没頭していて、今日が祭りの日ということを知らない。
「燃え盛る火を二人して飛び越えると愛が成就する」と子供たちから、祭の伝説を聞かされ、すっかり夢中になってしまう。
調子に乗って「ディムート」に愛を告白して、キスまでしてしまう。これには、町中大受けで、「ディムート」は囃されてしまい、恥ずかしさのあまり、家に飛び込んでしまう。

ディムートは口惜しくて、お返しをしようと思っていると、バルコニーの下にクンラートが現れる。彼をすっかりその気にさせて、熱烈な2重唱が歌われる。
クンラートは、感極まって上にあがりたがり、籠にのる。バルコニーに向けて持ち上がって行くが、途中で止められてしまう。ディムートは、街中の人を呼び集め、籠の中の宙吊りのクンラートは物笑いの種となってしまった。

騙されたと知った彼は、頭にきて街の火や明かりを消してしまう呪文を唱える。
ミュンヘンは、真っ暗闇になってしまった。クンラートに助けを請う人々。
 ここでクンラートは、大演説をぶつ。
火祭の意味を理解していないから、こうして暗闇が訪れる。
かつてミュンヘンは偉大なマイスター(ワーグナー)を冷遇した、そしてシュトラウスも。
このあたりで、ヴァルハラの動機まで出てくるし、シュトラウスの作品の旋律もチラチラする。こんな意味のことを比喩をまじえながら、ちくちくと歌う。
 明かり(火)も愛も、唯一女性からもたらされるのだ、と歌い最後は二人仲良く抱き合う。」

何故ミュンヘンのことをけなさなくてはならなかったのか?オペラと脈連はあるのか?
ちょうどミュンヘンと決裂した頃だし、愛する生まれ故郷ゆえ憎らしかったのかもしれない。
ウィーンといいミュンヘンといい、嫉妬と欲望の渦巻く古都は魔都だ。

音楽は、明るく結構楽しい。少年合唱が活躍するのも珍しいし、ワルツも各所に散りばめられている。楽しさばかりか、クンラートのモティーフなどは、シュトラウス風のシリアスで重々しいもので、こちらもシュトラウス好きには堪らない。
 
バリトン役のクンラートが、やはり決め手。長丁場を歌いきるスタミナも必要。
このCDは、ベルント・ヴァイクルがあたかも自分の作品のように生き生きと歌っている。
この朗々とした歌声を聴くだけで、このCDの価値はある。
相手役のユリア・ヴァラディは地味ながらに、正確で几帳面な歌いぶり。
F・ディースカウの夫人だが、この人は実演のほうが熱く女らしさもでて素敵だ。
テルツ少年合唱団を起用した贅沢も楽しい。
 フリッケ指揮のミュンヘン放送管はこれでいいのだろう。
シノーポリがもう少し生きていたら、こうした初期作もどう聞かせてくれたろうか。

こうした不案内な作品こそ、国内盤が欲しい。需要は限られようが、同じような曲ばかりもてはやされる風潮は今も昔も変わらない。

 R・シュトラウス 歌劇「火の欠乏」 op.50

   ディームート:ユリア・ヴァラディ
   クンラート :ベルント・ヴァイクル
   シュヴァイカー・フォン・グンデルフィンケン
   (城の廷士):ハンス=ディーダー・バダー
   オルトロフ・ゼントリンガー
   (城主)  :ヘルムート・ベルガー・トゥーナ
   エルスベート:ルトヒルト・エンゲルト
   ウィゲリス :カーヤ・ボリス
   マルグレート:エリザベート・マリア・ヴァチュカ
   ヨェルク・ペーシェル:マンフレート・シェンク
   ヘーメルライン:ライムント・グルンバッハ
   コーフェル :ヴァルデマール・ヴィルト
   クンツ・ギルゲンストック:クレス・エンゲン
   オルトリープ・トゥルベック:フリードリヒ・レンツ
   ウルズラ  :マルガ・シムル ほか


  ハインツ・フリッケ指揮 ミュンヘン放送管弦楽団
              バイエルン放送合唱団
              テルツ少年合唱団

                 (1985 @ ミュンヘン)

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コメント

 今晩は。去年の夏にシュトラウスのオペラを全部聴きました。「フォイエルスノート」はこのCDでききました。
中古屋さんで運よく千数百円で手に入れることができました。新品とほとんど変わらない保存状態のいい奴を。後のバレエ「あわ立ちクリーム」を思わせるメルヒェンチックで素敵な音楽ですよね。グントラムもそうですがこれほど素敵なオペラがどうしてこれほど冷遇されているのか不思議でなりません。二十年来の親友でクラヲタでガンダムオタクでもある畏友と言っていい人物が降りますが、彼はイタリア・オペラとR・シュトラウスとコルンゴールトを苦手としています。存分にイタリアオペラやシュトラウスやコルンゴールトの話が出来る方と言ったら今の私にはブログ主様しかおりません。「平和の日」や「エジプトのヘレナ」や「エレクトラ」にもいずれコメントさせていただきますので、そのときはよろしくお願いいたします。「平和の日」はサヴァリッシュのライブCD、「エジプトのヘレナ」はドラティのCD、「エレクトラ」の全曲はアバドのDVDでしか鑑賞したことがありません。オペラ鑑賞歴が短いせいもありますが、恥ずかしい~。

投稿: 越後のオックス | 2009年11月23日 (月) 01時32分

そういえばエレクトラはベーム&ウィーンフィルのLDを図書館で一回だけ鑑賞したことがあるのでした。F・Dのオレストが最高にカッコよかったです。あれは確かベームの最後の録音でしたよね。

投稿: 越後のオックス | 2009年11月23日 (月) 01時45分

越後のオックスさん、おはようございます。
鑑賞歴に、お恥ずかしいとかいうことはありませんよ。
私の方が歳を食っている分、長く聴いてきたにすぎません。
むしろこれから、たくさんお聴きになれる貴殿が羨ましい限りですよ。

フォイエルスノートにこの名盤があることは救いでした。
ヴァイクルの美声は際立ってますし!
日本は、R・シュトラウス演奏にかけては世界的なものになりつつあると思います。
いつかマイナー劇団が手掛けそうな気がします。

ベームのエレクトラは、80年の録音のはずですかた最後かもしれません。
私はまだ持ってませんが、あの、おっかないジャケットは、なんともいえません(笑)

投稿: yokochan | 2009年11月23日 (月) 10時25分

前略
アップしておいでのフリッケ盤、西ドイツAcantaのCDで、既聴です。音楽自体、私見でありますが、晩年の『講和の日』、『ダフネ』等より優れて居て愉しいように思えました。このフリッケさん、1977年頃当時の東ドイツのベルリン国立歌劇場が引っ越し公演を行い、モーツァルト/『コジ‥』、『ドン・ジョヴァンニ』をご披露してくれたおりに、スイトナーと分担して指揮しておいででした。スイトナーの振った『ドン‥』のみFM放送で拝聴した覚えが、ございます。

投稿: 覆面吾郎 | 2021年8月14日 (土) 10時23分

この夏は、新盤と映像で、火の欠乏への理解を上増しできましたが、よくできた音楽であることを確信しました。
 フリッケ氏は、スウィトナーが体調万全でなくなったあと、ベルリンシュターツオーパーを支えたひとりです。
ご指摘のドン・ジョヴァンニ、テオ・アダムのタイトルロールが素晴らしいのと、オケの柔らかさが印象的でした。
いまでも大切に聴いてます。
 フリッケさんは、何度も来てまして、私はトリスタンを観劇しましたが、実務的な的確な指揮を覚えてます。

投稿: yokochan | 2021年8月17日 (火) 08時46分

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R・シュトラウス:歌劇「火の欠乏」グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ティムート)、ジョ [続きを読む]

受信: 2007年1月29日 (月) 21時59分

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