R・シュトラウス 楽劇「サロメ」 ショルティ
不連続 R・シュトラウスのオペラ・シリーズ、作曲順を追って、第3作の「サロメ」。ワーグナーに心酔するシュトラウスは、この作品から楽劇を標榜する。よりドラマの台本を重視し、そこに不可分の音楽を書いて行こうという意志の現れか。ライトモティーフの多様も同様。
作曲者40歳の頃の作、管弦楽作品では「家庭交響曲」が前作。
この頃までにあらかたの交響的作品を書き尽くしていて以降は、オペラに注力して行く。
原作はイギリスの耽美的作家「オスカー・ワイルド」で、台本作家はいるが、原作がかなり忠実に扱われているという。(原作は読んだことありません)
そもそもは、新約聖書の物語に素材を得ている。聖書を引用するのも恐れ多いことだが、原作の原作だから、引用します。
<そのころ,領主ヘロデはイエスに関する評判を聞いて, 自分の召使いたちに言った,「これはバプテスマを施す人ヨハネだ。彼は死んだ者たちの中から生き返ったのだ。それで,こうした力が彼の内に働いているのだ」。 というのは,ヘロデは,自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのために,ヨハネを逮捕して縛り,ろうやに入れていたからであった。 それは,ヨハネがヘロデに,「あなたが彼女を有しているのは,許されることではない」と言ったからである。 ヘロデは彼を死に至らせたいと思っていたが,群衆を恐れた。人々は彼を預言者とみなしていたからである。 ところが,ヘロデの誕生日がやって来た時,ヘロディアの娘が彼らの間で踊ってヘロデを喜ばせた。 そこで,彼は彼女の求めるものは何でも与えると,誓って約束した。 彼女はその母に促されて言った,「洗礼を施す人ヨハネの首を大皿に載せて,わたしにお与えください」。
王は悲しんだが,自分の誓い,また自分と共に食卓に着いていた者たちのゆえに,それが与えられるように命じ, 人を遣わして,ろうやでヨハネの首をはねさせた。 彼の首は大皿に載せて運ばれて,乙女に与えられた。そして彼女はそれを自分の母のところに持って行った。> (マタイ伝より)
こんな聖書の記述に、オスカー・ワイルドは妖しいまでのドラマを仕立てあげた。性的な倒錯と宗教的精神と信仰の描き分けであろうか。
シュトラウスは、このあたりを見事に作曲した。どんな光景でも書けてしまう描写の天才。
だから恐ろしいまでに、生々しく、エキセントリックで、エロティックな一方、ヨカナーン(ヨハネ)の描写だけは神々しい。
このCDジャケットは、サロメだけでも100以上描いた「モロー」の作品。
アールヌーボー調の「ピアズレー」もシュトラウスの音楽にピタリと来る。何といっても、ワイルドの原作に挿絵として挿入されているし。
ショルティの1961年のウィーン・フィルとの録音は、「リング」チクルスの間に、「カルーショー」によってなされた。
そこから想像されるように、すべてをあからさまにするような録音の生々しさに加え、鬼軍曹ショルティの繰り出す、向かうところ敵なし的な戦車攻撃のような音の塊に、ただもうひれ伏すばかり。ははーっ。お見それいたしやした。
「7つのヴェールの踊り」に文字通りなだれ込む場面の興奮、ヒステリックなヘロデの一声のあと、激しい和音で終幕を迎えるが、それこそ、最後の一撃を浴びたかの激音である。
録音当時は、これはこれで、もの凄い演奏だったろう。
今となっては、ちょっとキツイ。というより演奏様式はもっとスマートになめらかに、口当たり良くなってしまった。ショルティが没後、あまり聴かれなくなってしまったのもそのあたりかもしれない。
歌手陣にも同じようなことが言えるかもしれないが、強い個性に基づく説得力は、声のジャンルでは抗し難い魅力を感じる。
ニルソンの強靭・怜悧なサロメは、おっかないくらい。性格テノールのシュトルツェは、いやらしいくらいのオヤジぶり。ヴェヒター、クラウセ、ヴィージー等の歌手がキラ星のごとく登場しているのも、当時のデッカならでは。
最近の歌手たちは、スタイルも良く、演技力もあるから、ちゃんと踊りも自ら行うし、声がドラマティックでなくとも、歌唱力でこなしてしまう。
ケント・ナガノのもと、オープニングしたバイエルン国立歌劇場のプローベは、「サロメ」だったらしい。「デノケ」のサロメが映像で少し見れる。なんと、ポロリでした。
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