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2006年12月

2006年12月31日 (日)

R・シュトラウス オペラと歌曲 ナタリー・デッセイ

Rstrauss_dessay 大晦日にR・シュトラウスの歌を聴く。
以前はシュトラウスといえば、オーケストラ曲ばかりだったが、このところオペラや歌曲に強く惹かれて、始終聴いている。
特にオペラは、筋立ても優れているし、洒落て軽やかな羽毛のような音楽や、豪華絢爛たる響き、叫び・むせる音塊、これらに酔いしれる。
こんなバラエティー豊かなシュトラウス・サウンドが楽しめる、そこに歌が乗っかるものだから、私にはもう応えられない。

今日のCDは、大好きな「ナタリー・デッセイ」を中心に、「フェリシティ・ロット」「アンジェリカ・キルヒシュレーガー」「ゾフィー・コッホ」「トマス・アレン」らの名歌手たちも登場して、華を添えている。

「ナクソスのアリアドネ」「アラベラ」「ばらの騎士」「ブレンターノの詩による歌曲」
このオペラ3作は、私のフェイバリットだし、「ナタリー」もアリアドネ以外録音してないので、貴重なものだ。

Dessay この中で、最高に素晴らしいのはツェルビネッタ!! グルヴェローヴァも素晴らしいが、ナタリーも特筆大に素適すぎる。テクニック的に完璧であるのは、彼女だから当たり前のこと。でも機械的・無機質的なものとは全く次元が違う。
感情の襞に染み入るような、かつ人間の声の魅力に満ち溢れた歌声なのだ。清らかな清水を思わせるクリーンで清潔な声。
そして何より、女性的なのがいい。聴いてるオジさんは、キュンとなってしまうのだ。

ばらの騎士では、お決まりの陶酔的なムードに酔いしれることになる。
ウィーンのほの甘く、新鮮な白ワインなどを傾けながら聴くとよい。

EMIお得意のパッパーノは、神妙に指揮しているが、それ以上のものを感じなかった。
この人のワーグナーもそう。何故ハイティンクを起用しない。

不満はこれのみ。取り巻きの歌手達も文句なしで、ジルヴェスターに聴くR・シュトラウスは私を幸せな気分に浸らせてくれた。

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ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」 バイロイト2006

Tr5_w06_gross_1 年末バイロイト放送は、最愛の「トリスタンとイゾルデ」。
昨年、我らが「大植英次」の指揮で新演出上演されたが、バイロイト当局は、大植を長い目で見ず、結果を重視し早々の後退劇となってしまった。

後を継いだのが、「ペーター・シュナイダー」。ウィーン生まれのベテランは、こうした急場を凌ぐ以上に、見事な代役を果たしてしまう。
まさに「ホルスト・シュタイン」の後継者である。シュナイダーのバイロイトでの指揮は、オランダ人・ローエングリン・トリスタン・リング、と大活躍なのだ。
早めのテンポもシュタインと共通。でも音楽は、劇場の呼吸、歌手の呼吸を充分読み込んで、音だけで聴いていても劇場空間を感じさせてくれる。
間のとりかた、音楽の追い込みかた、どれをとっても素晴らしい。

Tr6_w06_gross_1 主役のふたり「スミスとシュティメ」。私にとっての「ヴィントガッセンとニルソン」を過去に感じさせる、見事な歌唱。スリムで硬質な声は、今に聞く「トリスタンとイゾルデ」の声かもしれない。
大好きなR・コロもいいが、D・スミスは突如現れた最高のトリスタンだ。

2年目のこのトリスタン、2007年には一旦姿を消して、「タンホイザー」の再演となるらしい。その指揮には、今を時めく「ファビオ・ルイージ」が登場する。
その後、ルイージはドレスデンとタンホイザーを引っさげて来日する。
Tr9_w06_gross_1 こいつは楽しみだ。新演出は、ワーグナーの曾孫!が演出する「マイスタージンガー」だが、指揮はバレンボイムの弟子筋の「ヴァイグレ」・・・これがつまらなそう。

明日は、「パルシファル」。私にとって、ようやく休みが始まる日曜。

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2006年12月30日 (土)

ベートーヴェン 交響曲第9番 尾高忠明

Otaka_9 本日30日は、私の仕事納め。でもこんなわけのわからない節目は好きではない。明日は明日、昨日は昨日で、希望と後悔と反省は常に行なうべきだ。それを12月に集中して、しかも街中よってたかって年末モードになってしまう。これが面白くない。
すぐにいつもの明日が来るんだから、構えなくっても・・・・・・。

さぁ~て、そんな構えない普通の第9を見出した。

       S:佐々木典子    Ms:重松みか
       T:星 洋二      Br:佐野正一

      尾高忠明 指揮   札幌交響楽団
                  札幌放送合唱団・札幌アカデミー
                     (2002.12.26 札幌Kitara)

関東の辺境で札幌の第9を聴いてるヤツなんていないだろな?
こんな特殊バージョンが嬉しい。この秋、恒例の札響の東京公演で聴い、「マーラー第5」は素晴らしかった。「アダージョ」に関しては、昨晩のアバドのDVDより上かもしれない、とまで思った演奏だった。
その会場で、通常価格2300円の、自主制作CDが@1000円!!で売っていた。
即ゲット。

東京でのシテュエーションと地元での演奏環境は大きく異なるだろうが、この第9は終始、張りとツヤに満ちていて、浮ついたところもなく自然体である。
これを聴いて、札幌の響きなんて言うつもりは、さらさらないが、自分が馴れ親しんだ(飲んだくれた)街のオケが奏でる響き、ということになると、「おお、そうかい、そうかい。次はそう、それだね・・・・」な~んて、身びいきの聴き方になっちまう。

言っておきますが、この第9は普通に「いい演奏」なのである。
取り分けて、マジックな部分もあるわけでもなく、あたりまえのベートーヴェンがここにあります。
それが、このCDの特徴なのである。ここ数年、日本の地方オーケストラ(こんな表現事態ナンセンスだけど)が、技術的に大幅に躍進し、経済的背景があるオーケストラはさらに力をつけて躍進中である。
冬の札幌は、雪を前提とした暮らしの中での音楽鑑賞になってしまう。
12月終わりの頃の音楽ホール、「キタラ」は雪に覆われた素晴らしい環境に満たされる。
こんな中で演奏され、ライブ録音されたのが、この第9。

冬の寒さのなかに聴く、尾高・札響の第9は、クールで青白い炎に満ちた名演であった。

   

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2006年12月29日 (金)

マーラー 交響曲第5番 アバド/ルツェルン

これぞ冬。寒い一日は、身が引き締まる。クリスマスが終わると夜の街は、暗く寂しくなってしまう。日本ってどうしてこうなんだろう?25日を境に、昨日までのクリスマスのことなんか、まるでなかったことのように、きれいさっぱり忘れ去ってしまう。
キリスト教国でない国の、単なるお祭騒ぎの一環なのだ。何だかなぁ。。。?

H6_w06_gross リングのあとのバイロイト放送は「さまよえるオランダ人」。
短いから、終わったあとに長いものも聴ける。それが嬉しい。
アルローの夢想に満ちた独創的な演出は、4年目で、どこか昨年の二期会の舞台にも似てる気がする。
昨年は、オランダ人のラシライネンがふらふらで、さっぱりだったが、今年は再びトムリンソンが復帰して、音楽に安定感が戻った。独特の存在感ある声は立派ではある。
タガーのゼンタがいいが、エーベルツのエリックが力みすぎ。
M・アルブレヒトは可もなし、不可もなし。普通すぎるかも。

Abbado_mahler5 短いといっても2時間30分の幕間なしの通し上演のオランダ人のあとに、マーラーなんぞ聴くと、それなりにヘビーでこたえるが、今晩はDVDで視聴。

今年の、いや私の音楽体験のなかでも、トップに位置したともいえる「アバドとルツェルン」の来日公演。マーラーブルックナーも人間が成し得る極めて高度な音楽表現だった。あの時以来、マーラーの6番は聴けなくなってしまった。

この思い出に少しでも近付きたくて、2004年のルツェルンで演奏された第5交響曲を取り出した。いるいる、あの時のメンバー達が。ついでに会場には降り番のポリーニまでいる。
 さらにVPOやBPO、ABSQ、ハーゲンSQ、グッドマン・・・錚々たる顔ぶれがずらりと居並び、アバドの指揮棒に見入って体を揺らしながら、夢中になって演奏している。

このもの凄い集中力を何といったらいいだろう。ソロ奏者でも一流の面々が、互いの音を聴きながら、アバドの指揮だけを信じて音楽に没頭する姿。
アバドの指揮もしなやかで自在なもの。時おり、笑顔で楽しそうに振っている。
こんな姿は東京でも見られた。マーラーの5番や6番を笑顔で指揮するのは、この人くらい。マーラーの音楽と一体化して、好きでしょうがないといった感じ。
過去2度の録音より、テンポも速くなり、無駄なものが一切ない透徹し切った演奏は、見て・聴いていて、時間の経過というものを忘れさせてしまう。
気が付いたら最終楽章のコーダの興奮の中に自分を見出す。
聴衆の興奮と楽員の晴れやかな顔も充分に楽しめる。

この選曲はかなり意識したもの。一昨日から、チャイコフスキー、シューベルトと5番の交響曲が3つ並んだ。「5・5・5」、「ゴー・ゴー・ゴー」、語呂がよろしく、来年に向けての勢いもある。「5・5・5」はシリーズ化しよう。

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シューベルト 交響曲第5番 アバド指揮

Beer_2 今夜のターミナル駅は、「お疲れさまでしたぁ、よいお年を・・」な~んて会話が、あちらこちらで聞かれた。
そんな仕事納めの方々に送る「お疲れさまビール」、先だって行った激ウマ・ハンバーガーショップのビール画像です。

「こちとら、まだ明日もあさってもあらぁな」というより、数日後すぐに会うのに何でこんな仰々しい挨拶するのさ?と毎年思いつつ、「お世話になりましたぁ」なんて言ってる自分。帰宅すると、今宵はカレー。う~む・・・、カレーには、サッポロ・ドラフトワンだ!!
占いづいているのか、「カレー占い」なるものを発見。私は陽気な「トド・カレー」だってさ?ようわからん・・・・。

G1_w06_gross NHKのバイロイト放送のリングは、いよいよ大団円「神々の黄昏」。
舞台写真を見ると、シェローの歴史的な76年演出の装置に似ている。
ドロストの演出は、やや主張が弱く賛否両論のようだ。
音楽に関しては、指揮者のすごさと、今後のチームワークも加味されてくれば、ベームやブーレーズ以来のリングになるのでは、と期待させる。
黄昏では、ワトソンのブリュンヒルデがハリのある声で実に良いと思った。本来リリカルなフォンタナのグートルーネは絶不調。どうしたのだろう。
最後の自己犠牲のワトソンの歌唱とティーレマンの指揮の素晴らしさは稀に見るもので、ホントにホントにいい。涙が出てきた。

ワーグナー好きに朗報、29日深夜、NHKBSで「ビルギット・ニルソン」のドキュメンタリーが放送されますよ。

連日のワーグナー呪縛。その後のブログ更新。年末のこの時期、胃も耳も疲弊してきている。あともうひと踏ん張り。こんな今の私に、ピッタリなのがシューベルト。
何ていったって、作曲家占いじゃ、わたしゃぁ「シューベルト」だもの(自慢してる)。

Abbado_schubert ロココ的なムードと優しさに満ち溢れた5番の交響曲は、シューベルトの交響曲の中では、一番愛らしく、楽しい気分が横溢している。
こんな素敵な交響曲をシューベルトは19歳で作曲している。ベートーヴェンが第9を作曲している頃。私は19歳のとき、一体何を・・・・。

アバドとヨーロッパ室内菅は、軽やかにに口笛でも口ずさむように演奏している。リズムは弾み、響きは柔らかく、どこまでも爽快なシューベルト。
当時の気鋭の若い奏者達で組織されたオーケストラも初々しく、新鮮。このオーケストラから、今はきっとウィーンやベルリン、各地のオーケストラに羽ばたいていって活躍しているであろう。
今は冬だけど、こんな春を感じさせる曲に演奏に、ほっと一息つきたくなる。
我ながら、いい選択だった。(自慢してる)。

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2006年12月27日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第5番 ケンペ指揮

Dsc01242 今日は、昨日の大雨とうってかわって朝から晴天。空気が澄んで気持ちいい、はずが、風が強く気温も20度近くまであがり、春一番の陽気!!
何じゃこれ? 季節感がないにもほどがあるし、連日猫の目のように天候がかわる。
仕事の途中で、寄り道した「竹芝桟橋」から見た「お台場」。変だけどいい天気。

S4_w06_gross_1

バイロイトのテーレマン・リングも「ジークフリート」。いよいよ、ヒーロー登場。今年は昨年まで、同じティーレマンの元で「タンホイザー」を歌っていた「ステファン・グールド」がチャレンジ。これが実によろしい。
少し破滅型のヘルデンだけど、このところなかったタイプで、何度も言うが軸足が少し過去に向いたティーレマンの音楽にピタリとあっている。
先日の新国の「フィデリオ」を観たのもこの人が出演するから。
同じ新国のリングで健闘した「リンダ・ワトソン」のブリュンヒルデも驚くほど立派だし、チョイ役の藤村さんもファンとしては嬉しい歌唱。

Kempe_tschaiko5 ジークフリート後、チャイコの5番を聴くという離れ業。
更新もズルして時間を遡ります。バイロイト放送のおかげで忙しいのだ。
もうほとんど、国民行事のオリンピック状態。
放送が終わったら寝りゃいいいいものを、そうは行かぬ、つらいが楽しい。

ケンペがバイエルン放送響を指揮したライブは、亡くなる前年1975年。
NHKでも放送されたはず。放送局音源だけに、ヘラクレスザールの素晴らしい響きをとらえた録音は、最近のものと遜色ない。ともかく音楽的。

ケンペの作り出すチャイコフスキーは、4楽章がきっちりバランスよく、姿形がとてもきれいだ。ドイツ人にドイツのオケだ、なんだかんだいう前に、虚心に耳を傾けたい。
チャイコフスキーってほんとに、しっかりした音楽を書いたんだなぁ、と実感できる。
同時期のカラヤンとベルリン・フィルのチャイコフスキーが、音の練磨と劇性に磨きを掛けていったのに比べ、ケンペは書かれた音符ひとつひとつをしっかり鳴らしながら、チャイコフスキーの音楽が自ら語りだすのに任せてしまっているような趣きがある。

2楽章なんてお涙ものでなく、普通に緩徐楽章しているし、終楽章も仰々しさがなく潔い。

バイエルンの明るく、積極的な音もいい。
当時、「放送響はクーベリック」、「フィルハーモニーはケンペ」、「シュターツオーパーはサヴァリッシュ」、「放送菅はアイヒホルン」といった具合にミュンヘンは名指揮者の坩堝だった。今とくらべて、スゴイ時代だなぁ。

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2006年12月26日 (火)

「ヘルマン・プライ」ドイツ・オペラ・アリア集 シュタイン指揮

W5_w06_gross 今日の関東地方は時ならぬ大雨。年末の挨拶まわりや、私のように最後のあがきで、飛び回る人間にとって、極めて無常の雨だった。
少し歩いただけで、ずぶ濡れ!ズボンが筒状態の1日で大いにトホホ。

バイロイト放送は、「ワルキューレ」。
帰宅すると、2幕の後半。もうくぎ付け状態で、食事も装置の前に持ち込んで、焼酎片手に聴き入った。
ティ-レマンの指揮に花マル。シュトルクルマンに二重マル。ワトソンにマル。ヴォトリヒにマル・三角印。といった、私のかってな印象。
画像から見るに、「ウォータンの告別」は、なかなかのものと判断。映像化して欲しいぞ。

Prey_stein_1 今日のCDは、今は亡きドイツの名バリトン「ヘルマン・プライ」のアリア集。
最近、EMIより復刻された、1960年、プライ31歳の若き記録。
しかも、バックを「ホルスト・シュタイン」がつとめるという、オペラ好きには応えられない1枚。これが@1300円也。

「魔笛」、クロイツァー「グラナダの夜警」、マルシュナー「ハンス・ハイリング」、ロルツィング「皇帝と大工」、「密猟者」、「タンホイザー」、ネッスラー「ゼッキンゲンのトランペット吹き」、フンパーディンク「王様の子供達」、コルンゴルト「死の都」

こんな、一風渋いドイツオペラが年代順に歌われている。
プライの純粋で若々しい声は、どこをとっても明快で新鮮。聴きようによっては、全編パパゲーノかもしれないが、こんなに気持ちいい声を次々に聴かされると、気持ちが晴ればれとしてくる。ともかく素晴らしい歌声。
人間がその歌声によって、聴く人の気持ちを開放してしまう。そんな高度な技を、プライはいとも易々とやってのけてしまっている。

どうしてこんな素敵なバリトンがあんなに早く姿を消してしまったのだろうか。
1998年、まだ69歳。「ルチア・ポップ」と並んで、その早すぎる死が惜しまれる歌手だ。

この中では、コルンゴルドの「死の都」からのフリッツのアリアが、滴りおちるような音楽の魅力と共に、素晴らしい。

プライは晩年、「ベックメッサー」に挑んだ、アバドと「ヴォツェック」を歌う計画もあった。
今思うと、表現意欲が次の領域を目指していたのだろう。
ゆくゆくは、オランダ人やウォータンにも挑んだかもしれない。

そんなプライを思って、一度シューベルトでも聴こう。

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2006年12月25日 (月)

ガーシュイン 「ラプソディー・イン・ブルー」 バーンスタイン&プレヴィン

Umeda_unnder 大阪梅田の地下街にあるイルミネーション。去年より進化した。
ウィーンのムジークフェライン風で、ちょっと音楽的。なかなかイイ。
ここ数年のイルミネーションは、ブルーやグリーンが目立つ。
商業的に、購買意欲をそそる色はオレンジなどの暖色だが、こうしたブルー系は逆の効果を与える代わりに、安らぎや癒しを与える。
これもまた、時代の流れでしょうかね。

R2_w06_gross クリスマスの月曜、FMでは恒例のバイロイト音楽祭で「テーレマン・リング」の「ラインの黄金」が始まったし、TVでは「のだめカンタービレ」が最終回を迎えるダブルジレンマ。
でも大丈夫。ふふふ。手持ちのDVDマシンを夜中に総点検し、テレビはVHS録画、FMはハードディスクに同時録音できることが発見し、事なきを得た。
かくして、「ラインの黄金」と「のだめ」を聴いて、見るという両刀作戦が成功した。
それだけでも得した気分なのに、「ティーレマンのリング」は、いにしえの巨匠たちが、墓場からずんずんと蘇えってきたような、巨大なスタンスのワーグナーで、シビレた。

Gershwin_bernsteinワーグナーのかたわら見た 「のだめカンタービレ」最終は、満足の結末。
サントリーホールの照明の色が現実として実感できたクラシック・ファンも多いことだろう。コン・ミスだけが赤いドレスという有り得ない設定や、楽員登場中に照明を落とすのも有り得ない。がそんなことは度外視して、素晴らしいベートーヴェンによる終結を迎えた。

「のだめ」の郷里、福岡県大川市は、仕事で何度か訪れたことがある。
福岡でも、佐賀県寄り、ドラマでも千秋が佐賀県を激走するタクシーに驚いていた。
町中、川や水路が巡り、海の恵みも豊かな街。何故か「うどん」が美味かった。
家具の街でも有名で、「大川家具」とはこの大川市のはず。

Gershwin_previn そんな訳で、シテュエーションのリアルさ、面白さもこのドラマの秀逸なところ。
大川市の川の堤で、千秋がのだめを抱きしめる場面。携帯という小粋な小道具をうまく使いながら、すごく盛り上がった。
この場面に、「ガーシュインのラプソディー・イン・ブルー」のサビの部分が鳴り渡った。いい。

この曲のこの部分は、もう、うん10年前、「ニッサン、ブルーバードSSS」のCMでも使われ、おかげで白いブルーバードSSSに乗ることになった。

ジャケットの素敵さも加味すると、「バーンスタインとロス・フィル」のDG盤と「プレヴィンとピッツバーグ」のPH盤が好きだ。
共に、ニューヨークとロンドンの旧盤も極めてよろしいが、オリジナル・ジャケットの美しさから、新盤を今晩は取り出してみた。ブロードウェイとハリウッド、ミュージカルと映画、ジャズの世界でも華を持った両指揮者兼作曲家兼ピアニスト。

ジャジーで即興的なバーンスタイン、キッチリとシンフォニックなプレヴィン、どちらも楽しく、例の美しい中間部もロマンテック。
音楽を楽しむ心、仲間、大事な人、夢・・・、私のようなオジサンにも、いろいろと垣間見させてくれた。飽和状態の音楽ビジネスへの指摘もあり、なかなかに良く考えられ、そして良く出来たドラマでした。めでたし・メデタシ。

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2006年12月24日 (日)

ワーグナー 「ヴェーゼンドンク」&「神々の黄昏」 エヴァンス&尾高

Sinkoku_tree_1 新国立劇場のツリー。
これもかなりデカかった。
ツリー好きの私には、これが今年のアカデミー・ツリー大賞かもしらん。
(なんじゃそれ)

Wagner_gotter_otaka 明日から、年末恒例のバイロイト放送が始まる。
のっけから、ティーレマンのリング。ところが、レコーダーが壊れ、修理中。
間に合いそうにない。無念。毎年記録しているのに。

今日は、バレンボイムのバイロイト・リングで前半活躍し、ライブCDも残した英国の「アン・エヴァンス」のソプラノと、われ等が「尾高忠明とBBCウェールズ響」との「ワーグナー」を聴く。

エヴァンスは、バレンボイムのCDではやや大味な歌いぶりで、後を継いだ「デボラ・ポラスキ」が急成長をしたこともあって、どこか地味な歌手だ。
でも、1994年「プロムス」のこのライブでは、完全な全力投球で迫真のブリュンヒルデが聞ける。「ヴェーゼンドンク歌曲集」においては、こまやかな歌唱が染み込むように聴く私に訴えかけてくる。こんな素晴らしい歌手だったんだ。

それ以上に、尾高氏の指揮が大変に素晴らしい。
この人のワーグナーは、かなり前に二期会の「タンホイザー」で聴いたきりだが、ソツのない演奏ながら細やかな心配りのある演奏に感心した。
その後、年末バイロイトのキャスターでワーグナーに対する熱情と造詣を確認し、FM放送で、リングの抜粋などを聴いたりして、密かに「コレはいいぞ!」と思っていた。
そして、このBBC・MusicのオマケCDを聴いて、私の波長にピタリと来るものを確信した。音楽の息遣いが、歌手の呼吸と見事に合っているし、ここでこういう風に鳴らして欲しいというところで、そのとおりに聴かせてくれるし、何よりも音楽が無理をせずに鳴っていて、自然で気持ちイイ。
最後の「救済の動機」なんてもう、最高の鳴らし方で、幾度聴いたかわからないこの場面に心から感動してしまった。
エルガーやラフマニノフがお得意なのも頷ける。

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2006年12月23日 (土)

フンパーディンク 「ヘンゼルとグレーテル」 デイヴィス指揮

Nagoya

名古屋は今、元気で明るい。名古屋駅にタワーが出来、トヨタ・ビルが高層ビルとして生まれ変わって、人の流れが変わってしまったようだ。
かつては、商業の中心は「栄」で、夜の街は「錦3」だった。
今は駅周辺が、それと並び立つようになってしまった。名古屋近郊の人は駅周辺で満足できるようになった。

Nagoya2
名古屋のように全体が活気溢れる環境での開発であれば、打撃を受けるエリアは少ないかもしれないが、そうでない都市や郊外の開発は、荒廃するエリアを生んでしまう。難しいものだ。
名古屋駅前は、こんなきれいなイルミネーションが展開されていた。

Humperdinck_hanzel

今晩は、エンゲルベルト・フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」でも心安らかに聴くこととしましょう。
この作曲家と同姓同名の高名な、もみ上げの濃いポップス歌手がいて、以前から何だろな、と思っていた。・・・が今は関係ない。
 わが方のフンパーディンクは、まさにワーグナーの影響を多大に受けた後輩にあたる。パルシファルに影響を受け「グラール団」なるものを結成していたらしい。パルシファル初演にも尽力し、ワーグナーも愛い奴とひいきにしてという。

原作はいうまでもない、昨今その残酷ぶりが話題?のグリム兄弟。
「生活苦にあえぐ四人家族、いじわるというより、生活に疲れた母親は、子供二人を二度も森に追いやり、食費を浮かせようとする。森で迷った兄妹は、お菓子の家を見つけ食べまくるが、そこは魔女の家。魔女は二人を捕らえヘンゼルを太らせて食べようとするが、兄妹の賢い反撃に合い竈に閉じ込められ焼かれてしまう。自由になった二人は、家の中の宝石やご馳走をもって白い鳩の導きで自分達の家に帰り着く。しかし、そこでは母親は、すでに亡く、優しい父親と一緒に幸せに暮らしましたとさ・・・・。」
 これが原作の概要で、結構あっけないくらい薄情な内容。母親がかわいそう。

フンパーディンクの妹が、この原作をもとに考えた台本は、もっとお伽話風になっていて、お父さん・お母さんたちも、安心してお子様に見せ、聞かせることができます。

「生活苦というよりは、ちょっと貧しい。母親は少しイライラしてしまうだけ。子供達にはイチゴを取りに森に行かせるだけ。魔女は竈に入れられちゃうけど、爆発とともにほかの子供達も開放され、二人を迎えにきた優しい両親と喜び合う」

音楽は、ワーグナー風なライトモティーフも多用されるが、いたって平和で平易。
やさしく、親しみやすい旋律に満たされ、さながらドイツのメルヘンも森をイメージさせる。
愛らしくも素敵なオペラなのであります。

  ヘンゼル:アン・マーレイ          グレーテル:エディタ・グルベローヴァ
 父ペーター:フランツ・グルントハーパー  母ゲトルート:グィネス・ジョーンズ
 魔女:クリスタ・ルートヴィヒ         眠りの精:バーバラ・ボニー
 暁の精:クリスティーネ・エルツェ

   サー・コリン・デイヴィス指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

この素晴らしいキャストは完璧。何もいうことなし。特にグルヴェローヴァとジョーンズとルートヴィヒ、ボニーは堪らなく素敵だ。
そしてドレスデンのドイツの森を感じさせる味のある響き。デイヴィスはそれを無理なく引き出している。1992年のフィリップスによる素晴らしい録音。

この輸入CDには、ジャケット写真のジグソー・パズルが入っていて、厚さ5cmはある大型ボックスに入っている。ちょっと迷惑。だいいちピース細かすぎて手におえない。

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2006年12月22日 (金)

バッハ カンタータ第147番「心と口と行いと生きざまをもって」 ガーディナー

Einsatz2_1 昨晩は、大阪のミナミとキタを堪能した。
毎度お馴染み、島之内の日本料理店「太庵」で気のおけない方々と、正統和食を極めておいしくいただいた。(別館にて近日公開)
 ついで、北新地に移動し、オネイサン達との会話を楽しんだ。
が、ここで沈没はできない。
最終日1日前の、「アインザッツ」へ行かねばならぬ。日の変わる直前に飛び込んで、マスターと楽しく会話し、一杯やれた。
「アインザッツ」さんのおかげで、大阪の夜がどんなに楽しかったことか。そして何より、マスターや、東西名ブロガーさん、楽しき音楽愛好家さん達と知り合うことができたこと。
ほんとうにありがとうございました。名残惜しみながら、店を出てビルを見上げた。
とても寂しい気持ちと感謝の念が湧き上がりました。マスター頑張ってよ。

Ramada_1 大阪の宿泊地にあったクリスマスツリー。
どこに行ってもツリーやイルミネーションだらけ。
クリスマスが終わるとあっという間に姿を消してしまう。
どこへいっちゃうんだろ。捨てるんならくれ!

Bach147_gardiner_1 大量にあるバッハのカンタータの中から、クリスマス前に相応しい1曲。
長たらしい邦題だが、原題を見るとシンプルだが、約せばこんな感じになるんだろう。日本語のニュアンスの豊富さには感謝しなくては。

もともとは、降誕節第4日曜(12月20日頃)のために書かれた曲を、転用の父でもあったバッハは、ライプチヒ時代、かの地では降誕節にカンタータ演奏が禁じられていたこともあって、7月の「マリア訪問の祝日」用のカンタータとして再利用したらしい。
「マリア訪問」とは、天使ガブリエルから、イエスの受胎を告知されたマリアが、洗礼者ヨハネ(かのサロメにより首を取られてしまったひと)の母エリザベトを訪問し、祝福された日をいうらしい。

こうした祝日用だから、曲は明るく希望に溢れた光に満ち満ちている。
そして、2部構成のそれぞれ最後に置かれた有名なコラールの部分になると、聴いていてジワリとこみ上げる感動に満たされることになる。
かのリパッティが弾いて超有名になったピアノ曲「主よ、人の望みよ、喜びよ」であります。

リヒターの禁欲的で厳しい表現になれてしまった世代からすると、ここに聴くガーディナーの造り出すバッハは、開放的で軽やかだ。音は内にこもらず、外へ、天へと広がっていくようだ。こうしたいわば優しいバッハならば、深刻にならずに毎日付き合える。
歌手達もどちらかといえば、軽くマイルドな歌声の人が選ばれている。
なかでも、ロルフ・ジョンソンのテノールとヴァーコーのバスは素晴らしい。

それにしても、バッハのカンタータをすべて制覇することは、ハイドンの交響曲を制覇する以上に至難の業だろうな。

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2006年12月20日 (水)

シューベルト 交響曲第8番「未完成」 ミュンシュ指揮

Whaite_irumi_tower もう何年も年末を迎え、そして送っている。この頃になると、レコード・アカデミー賞が気になるが、昔はレコード芸術を見て初めて知ったが、今はネットで早めにわかってしまう。
ワクワク感がそがれるが、それ以上に内容が年々お寂しくなっていく。
私のレコード時代は、カラヤン・ベーム・バーンスタイン・メータ・アバド・ポリーニ・リヒテルらが常連で、今度は誰? 自分の買ったアレが大賞だ!などと結構楽しんでいた。
今年は何と、30年前の音源が大賞。いかにも現在のクラシック業界を反映する出来事。
ワーグナー好きにとって、慶賀の至りだが、器楽・室内楽以外に新録音が少なくなり、大演奏家が続々と没してしまう中、演奏家も音楽関係業者も未来へ優れた演奏を記録し、送り出すことを考えるべき・・・と思う。

Munch_schubert

私と類似作曲家の占いで「シューベルト」が選ばれたことを記念して(しつこい!)、「未完成交響楽」を。
誰しも、一度は運命・未完成・新世界をとおっていると思うが、私は運命はずっとあと。新世界・田園・未完成だった。指揮者はぞれぞれ、ケルテス・カラヤン・ミュンシュ、という按配。
「ミュンシュの未完成」が私のすり込みの1枚。普通じゃないかしら?

17センチのEP盤というのが結構流通していて、これだと400円くらいで買いやすかった。
未完成なら、片面に1楽章づつ。しかも見開きジャケット仕様で豪華な気分も味わえた。

Munch_schubert8 ミュンシュといえば、長い指揮棒を振り回し、豪快な竹を割ったような演奏をイメージさせるかもしれないが、私はこの未完成が初ミュンシュだったから、ちょっと違う。
少し重々しいが音が明確で、推進力があるため、過去を振り返るというよりは、先を見つめたような、ある意味でロマンティックな演奏なのだ。
CDでは、「グレイト」と一緒に収められていて、そちらは早いテンポでグングン行く演奏だが、こちらの未完成はゆったりと落ち着いている。
ボストン響の雰囲気ある音色も華を添えていて、最近聞かれなくなってしまったこの優秀なオーケストラの黄金期が偲ばれる。

個人個人、こうした懐かしい演奏は、お持ちだと思う。
何年経ていても、それを聴いた時の思いは変わらない。自分にとっての名演たる由縁か。

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2006年12月19日 (火)

エルガー 「エニグマ変奏曲」(オルガン版)&「オルガン・ソナタ」

Sapporo_irumi いつもお世話になっている「naopig」さんのブログで、「作曲家占い」が紹介されていて、私もやってみた。
私に類似度が高い作曲家は「シューベルト」だそうな。
早死にが極めて気にかかるが、悪い気分じゃない。
何よりも、性悪「ワーグナー」じゃなくってよかった。
でも本当は、「ジェントル・エドワード・エルガー」がよかったんだけどなぁ。

Gachaping 先だっての札幌で、タワー・レコードを巡回した。
各地のCDショップを訪れると、以外なワゴン・セールがあり喜々としてしまうことがある。お気に入りが見つかると、それを持って酒場へ向かう。
一人袋から出して、酒を飲みながらCDを眺める。端から見ると変なわたし。こちらのタワーでは、ガチャピン君も訪問中で握手会?をやっていた。

Elgar_organ_1 そして発見したのが、今回の「エルガー」。
初めて聴く「オルガン・ソナタ」に「エニグマ」のオルガンバージョン。
ハイペリオンの2002年録音で、@490円也。元値を見ると@2370円が付けられていた。よっぽど売れなかったのかしらん。
他にも、RVWやウォルトン、未知の英国作曲家に、ソプラノのマッティラのアリア集など、どれも@490円。「え~、いいの~?」と思いつつにんまり。

「エニグマ」オルガン版は、ここで弾いている「キース・ジョン」氏の編曲によるもので、聴きなれた原曲からすると、ニュアンスがすごく豊かで、強弱の幅も大きい。
どちらかというと、静かな部分ほど耳をそばだてて聴かせてくれるように思う。
「ニムロッド」など、立派なオルガン曲になりきってしまっていて感動ものだ。

4つの楽章からなる「オルガン・ソナタ」は作曲者が38歳頃に書いた曲で、これこそエルガーのもうひとつの交響曲のように感じる。30分あまりの曲ながら、日頃慣れ親しんだエルガーらしいジェントルな旋律が随所に散りばめられていて、初めて聴く気がしなかった。
思わず背筋を伸ばしてしまう場面や、ホロリとさせたり、ニンマリとさせたりする場面も満載の桂曲。

ロンドンのテンプル教会のオルガンを使っての録音。

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2006年12月18日 (月)

R・シュトラウス 交響詩「死と浄化」 アバド指揮

Suzuran 札幌大通り公園の「ホワイト・イルミネーション」。よく見たら毎年同じ。
この「すずらん」も数年前からお馴染み。でも、きれいでなにより。
この公園内は、アイスバーンと化していて、恐ろしくツルツル。あらゆる国の言葉がすべる悲鳴と共に聞かれるのも、国際観光都市「サッポロ」ならでは。私もカメラ片手によちよち歩き。「なまら怖いさぁ」

Abbado_rstrauss 今日の「のだめ」は、「シューマンの第2ソナタ」と「ペトルーシュカ」。
渋いぜ。おまけに、ペトルーシュカは「今日の料理」ときたもんだ。愛好家なら誰しも「はは~ん」とくるミス・マッチング。
ついでに「キューピー3分クッキング」も絡ませたら最高だったのに。
それにしても、おカマちゃんが多すぎる。困ったものだ。
音楽界にはとかく多い(?)が、クラシック界をヘンな色眼鏡で見られちゃ困るわ・・・・・?

そんなことは、さておき。R・シュトラウスでも聴こう。
シュトラウスは何を聴いても、その豊穣なサウンド、甘すぎる音色、激しくも良く鳴るオーケストレーションに夢中になってしまうが、私の場合オペラに比べると、管弦楽作品で聴く指揮者は限られていて、「プレヴィン、ハイティンク、メータ、アバド、ケンペ」となっていて、「カラヤンやショルティ、マゼール」はあまり積極的でない。サラリ系か、スピード系が好き。

アバドが手兵のロンドン響と1982年に録音したこの1枚には「ドン・ファン」「ティルオイレンシュピーゲル」「死と浄化」の3曲がきれいに収められている。
当時、ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、マーラー、ヴェルディに没頭していたアバドが、まさかR・シュトラウスのこうした有名曲を録音するなんて夢にも思わなかった。
しかも、オーケストラがウィーン・フィルでもシカゴ響でもなく、ロンドン響だった。

3曲とも音楽的で作為がなく、シュトラウスの音楽の楽しさ・無類の表現力とは一線を画した順音楽的な演奏に思う。前半の2曲は、後のベルリン盤がかなり勝るが、「死と変容」はアバドに合った抒情的な作品なので、淡々としながらも繊細でしなやかな演奏は期せずして曲の核心に迫っている。

作者25歳の若書き。(その頃、私は何をしていたろう・・・)
「死に瀕した貧しい重病人が、うなされながらも、子供の頃の思い出にふける。しかし、死は容赦なく彼を連れ去る。しかし、その魂はあこがれの天上に召される・・・・」
こ~んな、ヘヴィーな詩が後付けでつけられた。

死との戦いについては他にいくらでも激演があるが、天上に昇華するような音楽の描き方の美しさにおいては、アバドは完璧に美しい。静やかに歌っている。
オケもニュートラルできめ細かく、ぬくもりもある。

「グスタフ・クリムト」の絵をあしらったジャケットもセンスがよく、スピーカーの上にでも飾って聴いていると雰囲気がすこぶるよろしい。

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2006年12月17日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 マタチッチ指揮

Dsc00955 札幌のホテルよりワーグナを聞きながら投稿。マイレージの一部が今月末に切れてしまうので、週末を利用して飛んできた。ちょびっと仕事、ほとんどがプライベート。
この冬の札幌は雪が殆どない。雪の降り積もる光景を期待していたのに、ガッカリだよ。

Dsc00940 でも恒例のホワイト・イルミネーションは美しく、その元ではクリスマス・マーケットもあってドイツのような風景(行ったことないけど)
道産子の友達らと楽しく飲み、食べ過ぎてしまった。

Dsc00993

二日酔い状態で、雪のちらつく大通りを抜け、クラシック喫茶「ウィーン」を訪問。
かなりマニアックな場所にあって、歴史も古いと聞くが、店内は清潔で居心地がよろしい。
何よりも、鎮座するマッキントッシュの音響が素晴らしく、時おりかかるレコードの温もりある音にぴったり。ブラームスやモーツァルトを堪能した。

Matacic_lohengrin_1 オルフェオのバイロイト・シリーズ、今度は「マタチッチのローエングリン」という涎ものを復刻してくれた。マタチッチ唯一のバイロイト登場の年、1959年の記録はあまりにも貴重。
録音もモノラルながら、響きが豊かで、木質の劇場の雰囲気を堪能できる。

マタチッチというと、豪快な巨魁というイメージがあるが、このローエングリンはなかなかに精緻でありながら、明るく開放的な印象を与える。心持ち速めのテンポは聴いていてとても自然で、昨今のスマートなワーグナー演奏にひけをとらない。
明晰な音を好んだヴィーラント・ワーグナーがマタチッチを選んだのもわかる。

 ローエングリン:シャーンドル・コンヤ  エルザ:エリーザベト・グリュンマー
 テルラムント:エルンスト・ブラン     オルトルート:リタ・ゴール
 ハインリヒ :フランツ・クラス        伝令士   :エーベルハルト・ヴェヒター

この素晴らしい顔ぶれ。この作品の理想。なかでも私の好きな「コンヤ」のタイトルロールの気品あふれる歌は涙が出るほど素晴らしい。
札幌の地で、最後の場面を何度も何度も聴いてしまった。

Lh2 ヴィーラントのこのプロダクションは、万博1970年の「ベルリン・ドイツ・オペラ」来日公演で上演された。マゼールとヨッフムが指揮し、前者によるものがNHKで放送された。
小学生だった私の記憶にかすかに残るのは、夢幻を誘う前奏曲だけだ。

Lh1

さあ、迎えもやってきたので、夜の札幌に繰り出そう。

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2006年12月15日 (金)

エルガー 「スターライト・エクスプレス」 マッケラス指揮

Haneda 子供の頃からツリーが好きで、もみの木が狭い庭に植えてあって、クリスマスが近付くと父親が鉢に移し替えてくれ、飾り付けをするのが楽しみでならなかった。いつしか木も枯れ、ツリーも飾らなくなってしまったが、今度は自分の子供達にツリーを出してあげる歳になった。
 今年は忙しくて(?)納戸の奥にしまいこんだツリーが出せない。せがむ子供達を無視し続ける悪いお父さんになってしまった。
だって毎晩酔ってて出せないんだよう、お父さんは・・・・・。

画像は羽田空港のブルーのツリー。きれい。これ1本いくらぐらいするのだろうか?

Elger_staright_1 1915年第1次大戦の最中、ブラックウッド(よく知りませんが、怪奇小説家のようです)の小説「お伽の国の囚われ人」が舞台化された際に、エルガーはその舞台音楽を担当し、作曲した。その3幕の舞台劇が「スターライト・エクスプレス」である。
 怪奇ものの作者が書いた、妖精もので、イギリスでは、クリスマス向けの子供劇となっているらしい。

「片田舎に住む一家を襲った貧困の脅威、子供達はスター団なるものを結成し、不思議の洞窟を探検し、スターダストを集める。妖精たちの力を借りて見事難曲を子供達が切り開いてしまい、メデタシとなる」

全曲が音源としてあるのか不明ながら、数枚あるものはいずれも今回のもののように、歌曲を数曲集めたものとなっているようだ。
音楽は、とても明るく、親しみやすい。そしてどこをとっても、エルガーそのもの。
オーケストラによるいろんな擬音、さらにウィンドマシンやベルなどの小道具も駆使し、音楽だけ聴く分には、大人が楽しめる子供劇となっている。
ソプラノの歌う「O Stars,shine brighatly」は、なかなかに美しく耳をそばだててしまった。

ソプラノは、アリソン・ハグレイ。バリトンに、デビュー間もないかのブリン・ターフェル。
どちらも細やかに、ジェントルに歌っていて好ましく、マッケラスの指揮もいい。

フィナーレは、なかなかにしんみりさせたかと思うと、オーケストラでしめやかに誰もが知ってる賛美歌「牧人ひつじを」(イングランド伝承)が鳴り出して、素晴らしいエンディングを迎えることになる。なかなか心温まる桂曲であります。

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2006年12月14日 (木)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 ペライア

Umeda_mbs 昨日は、名古屋に出張、そして大阪もこじつけ出張を作成し、晩に大阪入りし千秋楽を控えた「EINSATZ」に向かった。

ホテルから、北新地まで向かう途中、茶屋町あたりのイルミネーション。
今年は、どこの街に行ってもこんな美しい光景がたくさん溢れている。
省エネによる電力削減なんて昔の話なのかな、原油高なのに・・・。

Einsatz 「前向き閉店」を1週間後に控えたアインザッツで、常連の方々と再びお会いすることが出来ました。初めてお会いするのに、以前からの知り合い感覚になってしまうところが、音楽が取り持つ楽しい出会いと言えましょう。
こんな出会いと、語らいの場を提供してくれた「アインザッツ」さん、マスター、ありがとうございました。画像は店内の一隅。いいでしょ。
皆様、楽しいひと時をありがとうございました。

Bach_goldberg_perahia このところ、ヘヴィーな曲が続いたので、おやすみ前の1曲は「ゴールドベルク変奏曲」を聴く。
1741年、バッハが不眠のロシア大使のために書いた、アリアを前後に挟んだ30の変奏曲。
この曲といえば、「グレン・グールド」の2度にわたる録音があまりにも有名。ことに晩年の2度目のものは、聴くわれわれを呪縛してしまう個性的な演奏で、これを聴いてしまうと普通のピアノ版による演奏がユルく感じてしまうから困る。

グールドと同じCBS(ソニー)にペライアが録音したこの演奏は、いくつも聴いたわけではないけど、グールドとはまったく異なるステージにあって、これはこれで素晴らしいと思わせる1枚。すべてが自然で美しい。繰り返しを忠実に行っているため73分もかかっているが、全然長く感じない。3曲ごとにカノンが入りかなり緻密な構成で作曲がされているが、ペライアのピアノには、そんな難しいことは少しも感じさせない。
 どちらかといえば低音は押さえ気味で、明くるく軽い印象を与えるが、ひとつひとつの音の粒立ちの良さは実に新鮮で飽きがこない。

以前、アバドとヨーロッパ室内管と一緒に来日し、ベートーヴェンのチクルスを演奏した時、私は2番の協奏曲を聴いた。第2楽章でペライアが作り出した繊細で壊れそうな響きに息を飲んだ憶えがある。
あれからすいぶん時がたったが、そのイメージはだいたい当てはまるし、それ以上に余裕のようなものが感じられ、青年が熟年になったような印象をもった。
 
 最後にアリアが再び弾かれる時、全曲を締めくくる満足感とともに、「さあこれで、おやすみ」的な気分になるものだが、今日のペライアの素敵な演奏に目が冴えてしまった。
発泡酒1本にとどめ、プチ休肝日と決め込み、コーヒーなんて飲んじまったものだから、余計に眠れない。どうしてくれる、バッハさん・・・・・。

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2006年12月12日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」 ヤンソンス指揮

Jansons_rco_shostako7 コンセルトヘボウ歴代音楽監督シリーズ、いよいよ現職6代目の「マリス・ヤンソンス」の登場。2004年の就任からまだ2年。
なのにもう2回もこのコンビは来日している。ヤンソンスの日本贔屓もさることながら、日本の音楽マーケットの豊かさを痛感。

歴代の長期政権を見るにつけ、ヤンソンス治世はまだ始まったばかり。
オケの音色が薄まったとか、ヤンソンスの個性が見られないとかいう議論はまだ尚早。
ハイティンクの時も、シャイーの時も最初は手探りで、お互いの熟成期間が必要だったのだから。ただ、今のヤンソンスはもう一つの手兵「バイエルン放送響」の方が、その機能性と有機性が相性の点でしっくりきているかもしれない。
超優秀な二つのオーケストラを同時に兼任することって、昨今あまり例がないから、今後ヤンソンスがどう繰りまわしていくか、本当に楽しみではある。

ヤンソンスは、旧ソ連のレニングラードで活躍したから「ロシア」っぽいイメージが若干あるが、バルト三国のラトヴィア出身。地図で見るとバルト海を挟んで対岸はスウェーデン。
バルト海を西へ向かい、デンマークを一跨ぎすると、そこは北海。ドイツ・オランダも近い。
何故こんなことを書いたかというと、ヤンソンスは自分がヨーロッパ人であることを強く意識していることを、以前読んだことがあるから。
ハイティンクはオランダ人、シャイーはイタリア人、ヤンソンスはヨーロッパ人、こうして対比してみると、それぞれの指揮者達がコンセルトヘボウと築きあげていった音の公約数が何となくわかるような気がしなくもない。

今回のショスタコーヴィチの第7交響曲は、今年2006年1月のライブ録音の自主制作盤。響きの豊かな素晴らしい録音にまず驚き。
演奏時間74分、1988年のレニングラード・フィルとの旧盤が68分で、テンポが大幅に伸びている以上に、恰幅のよさや、細部の磨き上げのレベルアップが一聴してわかる。
その代わり音楽の勢いや推進力は、旧盤が勝っている。

戦争交響曲とか言われているが、私には有名な第5交響曲の二番煎じのように思える。
時の権力側にいた音楽家から、「人間の主題」(何のこっちゃ?)と呼ばれたハ長の勇壮な主題が全曲のモットーになっているが、ボレロを思わせる執拗な繰り返しによる行進曲は、嫌になるくらいに耳に残り、人間の主題とやらを駆逐してしまう。
これが「戦争の主題」。
 奇妙なスケルツォや神妙なコラールを経て、終楽章では熱狂を突き抜けて「人間の歌」による勝利が高らかに鳴り渡る。・・・・・・。果たして作曲者の意図は?
例のヴォルコフ証言以来、素直にショスタコーヴィチの曲を聞けなくなってしまった感があるが、この曲は反戦と人間の勝利を歌っているだろうことは間違いない(かも?だろう?)

中学生の頃、NHKのドキュメンタリーで、悩む作曲者の横顔を写しながら、この曲が鳴らされていて、例の旋律が以来、耳タコになってしまった。その後のアリナミンのCMは苦笑したが、何やら、朝頑張って家を勇猛と出ていくのにいい音楽にも感じた。

ヤンソンスとコンセルトヘボウは、ハイテンクと同じように作曲者の楽譜を信じ、順音楽的に真摯に取り組んでいて、出てくる音楽は極めて立派。何も言うことはありません。
強いて言えば、作曲者が何を言わんとしたか、何を秘めたか、そうした闇の部分のいわば陰影の表現が少し欲しかったかな。

今後、このコンビがどういうコラボレーションを生み出していくか、1年おきに手兵を変えて日本でもそれを確認できるのが贅沢な話。ますます、懐に厳しいが来ないで、とは言えない。

 

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2006年12月11日 (月)

ツェムリンスキー 「抒情交響曲」 シャイー指揮

Chailly_zemlinsky コンセルトヘボウ第5第音楽監督は、「リッカルド・シャイー」で、1988~2004年の16年間をつとめた。
楽団創立は1888年で、もう120年の歴史があるのに、5第目というのも少ない感じだが、それぞれが長きにつとめるのも、このオーケストラの特徴。自分達のシェフにとことん付き合って、お互いの個性の融和を見出して行く、ある意味伝統のようなものを感じる。

シャイーの就任は、当時以外だったし、初めて自国以外の音楽監督が選ばれたことで、このオーケストラの個性が変わっていくだろうと予見させたものだった。
その就任により、まずレーベルがフィリップスからデッカに変わった。レパートリーこそ当初慎重に売れ筋をなぞったが、徐々に近現代ものを取上げるようになり、個性豊かなシャイー・ワールドを築きあげてしまった感がある。

オーケストラの音は、重心が低かったこれまでと異なり、少し上の方に置かれるようになったし、音そのものは一点の曇りもなく明晰で曖昧さがない。
でもブレンドされた音の響きは相変わらず美しく、コンセルトヘボウならではと思わせる。

そんなコンビの最良の演奏が、一連の「ツェムリンスキー」演奏にある。

この曲を聴くたびに、「グレの歌」や十二音前のシェーンベルク、初期ウェーベルンらと同じ、めくるめく世紀末ウィーンの爛熟の音色に酔ってしまう。
「大地の歌」を強く意識して、ベンガルの詩人「ラビンドラナート・タゴール」の官能的かつ神秘主義的な詩につけた連作歌曲が交響曲と呼べるか否かは、マーラー以上にわからないが、冒頭の印象的な主題がモティーフのようになって全曲を支配していて、7曲の歌曲が非常に統一感があるように感じる。

シャイーとコンセルトヘボウは。こんな一種酩酊したような、世界をキッチリ・カッチリととらえ、少しビターな「抒情交響曲」の演奏が出来上がった。
バリトンは、ベルイマンの魔笛で有名となった万年青年「ハーゲゴード」、ソプラノは太っちょだけどppからffまで、驚異的な歌を聞かせる「マーク」。この二人はむちゃくちゃイイ。

「マゼールBPO、F・ディースカウ夫妻」のLPで開眼したツェムリンスキー・ワールドだけど、今思うと、頭でっかちかもしれない。シノーポリと並んで、シャイーの辛口の演奏は素敵すぎる。オーケストラが美しすぎる。

この曲の唯一の実演経験は、名古屋に単身いた頃、当時名古屋フィル音楽監督「飯守泰次朗」が取上げたもの。バリトンは日本の誇るウォータン「木村俊光」だった。
これが凄い爆演しとったがねぇ~。

いつもお世話になっている、「naopingさんの音源雑記帖」、「Niklaus Vogelさんの音楽鑑賞雑記帖」、このふたつの雑記帖でも「抒情交響曲」が熱く、少しエロく語られてますので、どうぞ。

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2006年12月10日 (日)

ブルックナー 交響曲第9番 ハイティンク指揮

Haitink_buruckner9 「コンセルトヘボウ・シリーズ」はいよいよ第4代音楽監督「ベルナルト・ハイティンク」の登場。ベイヌムの急逝を受けて、1959年、32歳の若さでコンセルトヘボウの主席指揮者に就任した。(在任は1959~1988年)
若さゆえ、ヨッフムを補佐につけての就任で、ベイヌムの死後の急な布石だったかもしれないが、オランダ国が自国の生え抜き指揮者にこだわり、いかに嘱望していたかがわかる。

当初から、フィリップスもお国のトップオケだけに、その録音に積極的で、ブルックナーとマーラー全集は70年代初めに完成させた。日本では、評論家筋の憶えが芳しくなく、散々だったが70年代半ばの来日や、新録音がようやく評価されその頃から名指揮者の仲間入りをした。
実に、評価の机上にのるまで20年あまり。
コンセルトヘボウとともに、熟成した「じっくり男ハイティンク」。同時に兼任した「ロンドン・フィル」を建て直し、渋く落ち着きのある「コンセルトヘボウ」のようなサウンドに変貌させた。
このLPOは、ハイティンク後ショルティやテンシュテットの時代になり、かつてのいぶし銀サウンドは変貌し、今はあまり耳にする機会も減ってしまった。(マズアではどうもまずい)

なんだかんだ、オーケストラ・ビルダーでもあるハイティンクである。
今回の「ブルックナーの第9交響曲」は1980年の録音で、CD化されてすぐに薄給から購入したが、何と4000円もした。このCDをケースごと持ってみると、今のものよりズシリと重い。演奏スタイルもそうだけど、技術の進歩と共にみんな軽く・スリムになってゆく。

このブルックナーも重量感溢れ、音の密度も濃く本当に充実感が隅々にみなぎっている。
1楽章、ホルンの朗々たる響きを残しながら、コーダに向かっていくところに大いに感激。
2楽章の着実・整然たるスケルツォは立派すぎ。
3楽章、無常の中に救いの響きが心を打つ音楽は、マーラーの世界にひたすら近付いているようでこれまた感動。

ハイティンクの時代がコンセルトヘボウの黄金期ではないかと思う。
ハイティンクも前任と同様、弦出身の指揮者で、弦の幾重にも重なりあう響きの美しさは特有で、低域から高域までのピラミッド構造は安定感抜群。
フィリップス録音もひとつのピークに達していた。
オーケストラ・ホール・指揮者の個性が三位一体となって造りあげられた音楽芸術。

ハイティンクは、今や最後の本格派として「ひっぱりだこ」だが、古巣との録音も是非継続して欲しいもの。

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2006年12月 9日 (土)

ベートーヴェン 歌劇「フィデリオ」 新国立劇場

Fidelio


  新国立劇場にて「フィデリオ」を観た。午後2時開演で4時30分には幕となるのでコンパクトでよろしい。
このオペラは音だけで聴いても、どうもオペラらしいところが感じられずいつも違和感を覚えてしまう。交響的オラトリオのようだ。あちこちベートーヴェンらしい旋律がちりばめられているから、よけいに交響曲やミサ曲を聴いてるような心持ちとなる。聴き込みが足りないのだろうか。
舞台では台詞がたくさんあるし、合唱も活躍するから大分様子が違うだろうということで臨んだ。
プリミエは2005年のプロジェクト。

ところが、これかなかなか難しいもので、群集の変な衣装と動きが気になって仕方がない。看守達はゲシュタポみたいだし、囚人達はパン屋さんみたいに見え、独房から眩しい光りとともに出てくるところは、映画「未知との遭遇」の一場面を思わせた。
さらに彼らは一斉に太極拳をやりだしてしまった。これには失笑。
さらに夫婦愛を讃えるラスト、群集はタキシードとウエディングドレス姿で登場。この人達はいったいなんだろう?囚人だったのでは?

Fidelio4

レオノーレは聴衆の面前で服を脱いで赤い服に着替えちゃったから、フロレスタン一人がぼろぼろ。日本のお父さんのように惨め。         
こんな風になるなら、余り動きを入れず、静かな舞台に仕立てたほうがよかったのではないかな、と私は思ったが。

これだから私には、どうにも難しいオペラである。
音楽そのものはとても美しく、人間味に満ちた作品なんだけれども。

  レオノーレ:エヴァ・ヨハンソン  フロレスタン :ステファン・グールド
  ドン・フェルナンド:大島幾雄   ドン・ピツァロ:ハルトムート・ウェルカー
  ロッコ   :長谷川 顯      マルツェリーネ:中村理恵
  ヤキーノ  :樋口達哉

 

      コルネリウス・マイスター指揮 東京交響楽団
         演出:マルコ・アルトゥーロ・マレッリ

Fidelio3

今回大注目の歌手は、グールド
バイロイトでタンホイザーを数年歌い、素晴らしかった。
今年はついにティーレマンの指揮のもと、ジークフリートに挑戦し見事な成果を収めた。
ネットでその成果を聴いたが、馬力も知性も充分備わった本格ジークフリートと感じた。
 今夜のフロレスタンも劇場の隅々まで響き渡る豊かな歌声を聞かせた。
とても囚われて兵糧責めにあっている男の声には聞こえないのが難点。
ヨハンソンと長谷川は、昨年の「オランダ人」コンビで、その時の不調からすると別人のように立派な歌声。中村は、素晴らしかったイドメネオのイーリアに続いて、これまた好演。
ウェルカーはアバドのローエングリンからすると、やや力が衰えた感あるが、ツボにはまっているし、樋口のヤキーノもこういう役は旨い。
 てな訳で、歌手陣はすべてOK。

指揮の「マイスター」は名前からして立派だが、やや薄味。
音楽をスッキリと見通しよくすることは大変よかったが、ドラマ性の欠如を終始感じた。
もっと緊張感に満ちた響きをつくり出さないと、フィナーレの賛歌が生きてこない。

こんな具合だが、歌に関しては完璧。舞台は?、指揮はもうひと頑張り。といった按配に終わった。やはり、「フィデリオ」の苦手意識は消えない。CDラックにひとつもないこの作品は、まだ補充できそうにない。当面エアチェック音源を聴き込んでガマンしよう。

新国は、10周年を記念して、「愛称」を募集中です。見事選ばれれば10演目ペア招待らしい。う~む。1月末が締め切り。タダ・オペラなんて、こんなチャンスは捨て置けないが、私にはそんな才覚ないし・・・・・。

10年を経た新国。オペラが普段いつでも楽しめる、こんなことはかつて想像できなかった。これは最大の功績。
ホールのキャパシティーや、オペレーションの問題は課題ながらも、我々オペラ好きの音楽生活にしっかりと根付いた。
再演ものの客足を稼ぐ方法や、外来オペラ団の利用や交流などをうまくこなしてゆくことが、次期若杉監督の責務だろうか。期待してます。

これにて、本年の音楽会はオシマイ。

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2006年12月 8日 (金)

ブラームス 交響曲第1番 ベイヌム指揮

今週、わが「横浜大洋ベイスターズ」は生え抜きの「田村」をトレードに出すという愚挙をしてのけた。相手が数年前の1位指名で逃した「寺原」であろうと、地元出身の大砲という華のある選手を出してしまうとは!!せっかく名匠大矢監督を呼び戻したのに、これでは。
「門倉」は勝数と負数が拮抗していたし、虚人にはお似合いだが、盛りを過ぎた「仁志」 を若手の有望株と交換するなど、不可解フロントはどうにかして欲しい。
 ファンは辞められぬが、またガッカリの来期が見える。トホホ。

Brhams_sym1_beinum_1 気を取り直して、素晴らしいブラームスを聴こう。

「コンセルトヘボウ・シリーズ」、第3代音楽監督は、それこそオランダ人の生え抜き指揮者「エドゥアルド・ファン・ベイヌム(1901~1959)」で、「メンゲルベルク」存命中の1945から亡くなる1959年まで在任。
メンゲルベルクがナチス協力のカドで汚名を着せられ活動を休止してすぐに就任したベイヌムは、若い頃からこのオーケストラを聴き、いつかこのオケの指揮者になることを夢みてたという。何だか、成せばなる的なストーリーで嬉しい気分になるエピソードだ。

 個性的な前任者の後を継ぎ「コンセルトヘボウ」をさらに磨きあげた「ベイヌム」は、「ロスアンゼルス・フィル」や「ロンドン・フィル」などの音楽監督も兼任し、名指揮者の道を上り詰める矢先、心臓発作で急逝してしまう。
何てことだろう。歴史に「もし」が許されるならば、この「ベイヌム」や「ケルテス」が「カンテルリ」らがもう少し活躍していたら、大巨匠の時代はさらに実りあるものだったに違いない。

「ベイヌム」は前任の前世紀的なロマンテシズムとは、正反対の今に通じる現代性を持ち合わせていて、半世紀前の記録ながら全然古びた感じがしない。
極端すぎる前任の反動もあろうが、ドイツ的な堅牢さと、フランス・ベルギー的な流麗さとが混合したフランドルの汎ヨーロッパ的な個性がここに登場したような気がする。
 テンポは速く、この第1交響曲が繰り返しなしで、約42分。オーケストラが低域から高域まで瑞々しく鳴り切っているため、せっかちな印象を与えず、かえって堂々としたたたずまいを印象付ける。
インテンポで迎える終楽章のコーダは、地味ながらもそのあまりに音楽的な自然さに感激してしまった。

弦楽器出身の人らしく、艶やかでコクのある弦は牽き付けられるし、木管・ホルンの響きも滑らかで美しい。メンゲルベルクのもとで、思い切りロマンの香りを滴らせていたオケが、今度は新古典主義的なベイヌムのもとで、時おりその枠からはみ出る濃厚な響きを聴かせる。コンセルトヘボウの音色はこうして熟成していったのだろうか。
フィリップスの録音も録音年代を感じさせない素晴らしさ。

こうした土壌を後輩「ハイティンク」は受け継ぎ、オケとホールと共に成長していった。
おまけに、「ロンドン・フィル」まで引継ぎ、同オケのいぶし銀の黄金時代を築いた。

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2006年12月 7日 (木)

J・S・バッハ 「マタイ受難曲」 メンゲルベルク指揮

ブログ更新が、物理的に出来ない。だから、安心して大酒が飲める、というとんでもない言い訳を自ら作りだして、二日間は潰してしまった。ああ、神様、なんという弱い自分でしょうか・・・・。

ところがですよ。ココログによれば、メンテナンスの目的であった、データ分散化・バージョンアップが図れず、むしろ状態が悪化したため、メンテ前の状態に戻した。とのこと。

これっていったい???? おばかさんにもほどがある。上場して喜んでる場合かよ。
また、長期メンテをやるんだそうな。はぁ~。

先般のコンセルトヘボウ管の、生の響きが脳裏に残っているうちに、歴代の主席指揮者達の演奏をたどりながら、録音におけるこのオーケストラの響きを改めて確認してみたかった。

Bach_matthw_mengelberg そんな若干のブランクを置いて、取り出したのは、廉価盤になって手が伸びやすくなった、「メンゲルベルク(1871~1951)のマタイ受難曲」。
12月の降誕節を控えて、受難物語を聴くなんて不届きかもしれないが、音楽の持つ重みと凄みは、宗教という枠をこえて、私を捉えて離さない。そういえば、「のだめ・・」でも鳴っていたなぁ。

1895~1945年のコンセルトヘボウ在任中、ほぼ毎年復活祭の時期に「マタイ」を指揮したメンゲルベルク、このCDは1939年4月のSP録音に復刻だが、会場の様子をかなり生々しく捉えている。
1939年というと、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、事実上第2次世界大戦が開始された年。日本は、独・伊との3国同盟の準備を進め、41年の真珠湾に向けて戦争へ向けひた走っていた。

冒頭から重々しく、まるで聴く側もイエスの重い十字架を背負わされて、ゴルゴダの坂を歩むかのような思いにさせる。  2時間30分、全編にわたりこうした深刻な重々しさは変わらない。
何よりも違和感を生じるのが、そのロマンテックな解釈。
時に思い切ったポルタメントや、リタルダントを効かせるかと思うと、急速なスピードで驚くべき劇的な響きを聴かせる。通奏低音ですら濃く感じる。レシタティーボも情感たっぷり。
カール・エルプのエヴァンゲリストもドラマティックで激情的。

こんなのあり? 昨今の時代考証を経た奏法からは及びもつかない響きに満たされていて、最初は戸惑ってしまうかもしれない。現代楽器によるリヒター盤を最上のものと思っている私からしても、この今からすれば「太古の響き」には驚きだ。

でもこの響きは、人間の本質をえぐり出したような、切実なもので、魂を揺さぶる音楽解釈が永遠に不変であることを強く認識させる。何度も聴ける演奏ではないが、ああした特殊な時代背景の中、人々が平和を望み、神に祈りながらバッハの音楽に集中する様子がよくわかる。

メンゲルベルクの演奏は、多くを聴いてないが、概してロマンテックな時代がかった解釈ながら、マーラーなどは、没頭系の凄い演奏、との印象をもっている。
この人が、コンセルトヘボウを徹底的に鍛え、時として濃厚な音色を植え付けたとみていい。生きたマーラーとの接点もあるし、ニューヨークpoの指揮者もつとめたから、筋金入りのマーラー指揮者でもあった。
コンセルトヘボウのマーラーとバッハの伝統は、この指揮者にある。
私は「ヨッフムのマタイ」をレコードで親しんだ。そこには古雅で優しい響きがあったが、それより古いメンゲルベルクは、先に触れたとおり緊張感をロマンティックな大河のような流れのなかに歌いこめた。

 
聴衆のリアルな雑音も、音楽の一部となっている。有名な話だが、すすり泣く聴衆の声が何となく聞き取れる。私も涙ぐんでしまう、「ペテロの否認」の場面「憐れみたまえ」のアリアである。


人類にとってこれは、辛い「マタイ受難曲」かもしれない。

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2006年12月 5日 (火)

ココログ・メンテ

Tokyo_tower 先般レンタ・カーで東京を出発したおりの三田あたりでの「東京タワー」。
夜バージョンはまたの機会に。

12月5日(火)~7日(木)15:00まで、53時間ココログ・メンテに突入するとのことで、記事更新・コメントUPも出来ません。
あちゃ~。有料コースなのに、なんで??

せっかく、コンセルトヘボウ特集でもやらかそうかと思っていたのに・・・・
でも、まあこの時期毎晩飲んだくれていて、パソコンいじれないからまぁいいか。

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2006年12月 3日 (日)

ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会②

Jansons_coa2006 昨晩に続いて、ヤンソンスとコンセルトヘボウの演奏会を聴く。

   モーツアルト   ピアノ協奏曲第25番
               ピアノ:内田光子
   マーラー      交響曲第1番「巨人」
                 @サントリーホール

ヤンソンスがお気に入りとなって以来、毎年聴いている。
2004年コンセルトヘボウ、2005年バイエルン、2006年コンセルトヘボウ。こんな感じで毎年、手兵を使い分けて来日しているヤンソンス。
来年の晩秋にはバイエルンと再びやってくるらしい。
父親「アルヴィド・ヤンソンス」が東響の指揮者をつとめたこともあって、「マリス」も日本贔屓。オスロ・フィルやピッツバーグ響とも何度か来日していて、それらを無視していた自分が疎ましい。

Ajansons2_1
Mjansons_1 親子画像。
歳とともに、息子は親父に似ていくのは世の常。
こちら親子も、マリス君は急速に親父化しているように感じる。        


 さて、今宵のコンサート。モーツァルトのピアノ協奏曲にシンフォニックな25番をやるとはまた渋い。内田光子はオーケストラの長い前奏から曲に没頭していて、いざ出番となると、びっくりするくらいきれいで清列な音色で弾き始めた。
昨夜に続き対向配置の小規模なオケは相変わらず美しくウットリしてしまう。
内田のピアノがリードして築き上げてゆくモーツァルトは、天衣無縫で無垢な世界と、時折見せる悲しみの深淵を覗く世界とを見事なまでに聴かせてくれた。

これだけでも満足なのに、アンコールのシューベルトの即興曲(D90の3)が押さえに押さえて弾き始められたとき、思わず涙を止まられなかった。こんなに深くて心に響くピアノはちょっと聴いたことがない。オケの面々も神妙に聴いていた。日本人としてうれしい。
こんなに音楽にのめり込んで、凄い演奏ばかりしていたら、体を壊しはしないか心配になるくらい。

後半のマーラーはコンセルトヘボウの実力と魅力がたっぷり味わえる名演となった。
美しい弦に落ち着いた木管、華やかさを押さえたような金管。これらが混然となって奏でるマーラーはサントリーホールをヨーロッパの響きで満たしてしまった。2楽章の中間部、3楽章の各楽器に引き継がれてゆくアイロニィに満ちた調べ、終楽章の美しくも情熱的な弦の歌、こんな場面にものすごく惹かれた。

ヤンソンスは両腕を上に跳ね上げるように、体も跳ねるように指揮をする。リズム感がいいので、どこをとっても生き生きとしているし、歌謡性もすごく豊か。盛り上げかたも、聴く者を夢中にさせるほど巧みだ。マーラーのエンディングは最高の素晴らしい幕切れとなりドキドキしてしまった。聴衆からブラボーとともにヒョ~とかいう歓声があがったのもうなずける。

こんな全霊を込めたマーラーの後ではアンコールも演奏できないし、こちらも聞けない。
このコンビでマーラーを全部録音してくれないものか。

Jansons_sighin2 ヤンソンスの個性からして、オペラはイケルと思う。本人もその気らしいが、売れっ子だけに時間がない。プッチーニなんぞ最高だろう。
ふたつの手兵だけに専念して、オペラを振る機会をもっとつくるといいのに。
昨年に続き、今晩も楽屋口に並び、マリス君のサインを頂戴した。ガードマンが立つ横で、小さなデスクにちんまり座り、疲れも見せず、サラサラとサインをこなしていた。
ふと、思った。「サントリーホールのガードマンっていいな。」、それよりホールの案内係りで、出入口に座っている人の方がうらやましい。

マエストロ・ヤンソンス、来年も待ってるよ。

   

  

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2006年12月 2日 (土)

ヤンソンス指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会

Jansons_coa2006myuza マリス・ヤンソンス指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会を聴いた。ホールはミューザ川崎。
 仕事を少し早めに切り上げ川崎に到着。商業施設ラゾーナ川崎を見てみたかったから。
駅直結でミューザと隣り合う好ロケーション。ものすごい人出だが、空間を大事に取り入れていて圧迫感がない。同じ三井不動産の作品ながら、「ららぽーと」などともコンセプトが異なり、テナントも珍しい。まぁいいか。

前置きだらけですいません。
でも、素晴らしいコンサートの一言に尽きる一夜。ヤンソンスらしく徐々に雰囲気が盛り上がっていって、アンコールでは興奮の坩堝と化してしまう。
毎年聴いていてわかっていても、すっかり術中にはまってしまう自分を見出だす。


短い序曲に込められた悲劇的要素と爆発的勝利の鮮やかな対比。 小さい交響曲ながら舞踏的な8番、ヤンソンスは弾むように鮮やかな演奏を聴かせる。両曲とも両翼配置を敷き各セクションのやり取りも楽しい聴き物。エンディングの一音が パン!と鳴って終結し思わすオッとつぶやいてしまった。ピリオド奏法じゃなくともこんなに小気味いい演奏ができるんだ。
オーケストラの素晴らしさは、エグモントの最初の一音から歴然としている。
マイルドで、シルキー。個性ある弦・管が見事に調和して生まれる有機的な音色。
思えば、マリスのもうひとつの手兵「バイエルン放送響」ももう少し明るいが、似たような有機的なサウンドだ。

「新世界」、この聞き古した名曲が、きれいさっぱりと垢を拭い去って登場したような印象を全曲に渡って感じた。オケの配置は、両翼を廃し通常のもの。
LA側面席だったから、オケの様子がまるわかり。プルト分割や、管の第二奏者の活躍などが目に見えて、ドヴォルザークの意外な面をも見た思い。
こんな名曲が、こんな新鮮に聴こえるなんて驚き。指揮もオケも一生懸命、夢中になって取り組んでいる。それを見て、聴いているだけで熱くなってしまう。
 楽員と聴衆を一緒くたにして、盛上げてしまうのが、ヤンソンスの指揮の魅力。
「ラルゴ」が悲しみに満ち、深遠な音楽に感じたのも当コンビならでは。
CDでも同様の印象を持った。
後半のプロから、大好きなフルート主席「エミリー・バイノン」が登場し、木管群が華やいだ。

Photo_1 アンコールは、ブラームス「ハンガリー舞曲第6番」とドヴォルザーク「スラヴ舞曲72-7」
似たような熱狂の盛上りを見せる曲だけに、ヤンソンスは巧みにアッチェランドを掛けたりして聴く側を夢中にさせてしまった。こんな賑やかな曲でも、作品の濃厚な民族性を香らせるあたりはコンセルトヘボウの素晴らしいところ。
最後の音は、歓声まじりの拍手・ブラボーで見事に決まった。
楽員の去ったあと、ヤンソンスは一人拍手に笑顔で応えていた。

名曲・名演の一晩を過ごせた。明日はサントリーで日本最終公演。

そんな空間からミューザに移動。ここはエントランスまでは気持ちいいが、ロビーがせせこましく、人の導線も込み入っている。通路も段差あって歩きにくい。ゆとりがない。
でも肝心の音響がいいからよしとしよう。これも、まぁいいか。

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2006年12月 1日 (金)

ワーグナー 「神々の黄昏」 クナッパーツブッシュ

Gottergammerung_knappwetsbusch ようやくたどり着いた「バラバラ・リング」最終夜「神々の黄昏」は、もうこれしかない選択。大方の予想通りでしょうか。
 
戦後バイロイトの記念すべき出発。後に、「新バイロイト」と呼ばれるようになった、大リヒャルト・ワーグナーの孫「ヴィーラント・ワーグナー」が過剰な舞台装置や演技を廃し、簡潔で象徴的な無駄のない演出を創出した1951年。(リング通しの初演が1876年だから、75年しか経っていないことになる。)
この年のリングは、クナッパーツブッシュとカラヤンが分担した。
CDジャケットは、右から「大ワーグナーの肖像」「ヴィーラント」「カラヤン」「ウォルフガンク」「クナッパーツブッシュ」。弟ウォルフガンクだけが存命で、バイロイトの総帥として君臨してきた。今後も一族が引継ぐことになろうが、いかにワーグナーの毒気を孕んだ血統を保って行くか、目が離せない。

A1 この奇跡とも言える音源の登場は、数年前たいへん話題になった。
かのカルーショウやウィルキンソンといったデッカの録音陣が乗り込んでライブ録音を貫行した。カルーショウはバイロイトの特殊な音響を捉え切れなかったと考えていたらしい。
でもこうして復活した、CDは当然モノラルながら木質の柔らかな素晴らしい音を聞かせる。だが、何よりもこの音源の復活を阻んだのが、EMIのレッグ関係者の同意が取れなかったことらしい。このあたりは、さらに詳しい資料が多々出ている。

 ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ  ジークフリート:ベルント・アルデンホフ
 ハーゲン   :ルートヴィヒ・ウェーバー  グンター   :ヘルマン・ウーデ
 グートルーネ :マルタ・メードル       アルベリヒ  :ハインリヒ・フランツィ
 ウォークリンデ:エリーザベト・シュヴァルツコップ

Varnayaldenhoff 巨大な重厚なドラマをさぞかし築いているのだろうとの予測とは裏腹に、クナッパーツブッシュの指揮のドラマを見据えた即興的な柔軟さはどうだろう。重ったるい響きは一切なく、音のひとつひとつに活力があって、生命力に満ちているものだから、録音の古さなど微塵も感じさせない。
 一部の歌手に、今からすると古臭い大げさな歌いまわしを感じるが、ヴァルナイのブリュンヒルデを筆頭に、思わず背筋を伸ばしてしまうような、素晴らしすぎる歌唱が生々しく聴かれる。
ほんとうに、55年も前の録音なのだろうか?と何度も配役表やデータを確認する始末。
今年亡くなった「ヴァルナイ」には泣かされる。ブリュンヒルデやイゾルデは、ニルソンのすり込みが強すぎるが、最近のヴァルナイの復刻音源を聴くにつけ、ニルソンを唯一忘れさせる、いやそれ以上のブリュンヒルデに感銘の受け通しだ。

もう一人のブリュンヒルデ「メードル」がグートルーネというのも凄い配役。
アルデンホフは力みが古臭いが、以外とイケてる。でもルートヴィヒは以外に古ぼけた印象を受けている。

半世紀以上前の聖地バイロイトの音源が、こうして極東の自宅に蘇える。
何か非常に不思議なものを感じる。
ヴィーラントの演出では、「ジークフリートに葬送行進曲」は何もない暗闇の舞台に音楽だけが、響き渡ったという。考えただけで素晴らしいと思う。
クナの醸し出す叙事詩的なワーグナーやベームの求心的ワーグナーこそ、そうした演出に相応しいものと思ってしまう。
映像は当然残されようがなく、音楽だけがこうして現存するわけだが、現代では映像+音源で永久的に保存が可能になってしまった。
半世紀後、それらは残るだろうか?

12月を迎えると、8月と並んでワーグナー好きには胸が騒ぐ季節となる。

 

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