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2007年2月

2007年2月26日 (月)

シューベルト 「冬の旅」 ハンス・ホッター

1sashimi 先週の土曜日に行った銀座の居酒屋「三州屋」。「リベラさん」と「romaniさん」とで、昼から飲んでしまった訳ですが、すでにリベラさんが、刺身のB面をご紹介されていらっしゃるので、光栄にもA面サイドに陣取った私は、イキのいい刺し盛りを正面からご紹介。
<両方のページを並べて見てみると刺身が立体的に・・・、見えません(卍)。> by リベラさん
この店のご紹介は、別館くいしんぼう版にてご案内。
 最近、私は居酒屋が好きでなりません。名の知れぬ居酒屋にふらりと入って、カウンターで焼鳥やポテトサラダを肴に一杯やる。新聞でもあれば手持ち無沙汰にならない。
適度に放っておかれるのが好き。

「居酒屋ライフ」なり、いや「居酒屋の旅」である。

そこで「冬の旅」の登場となる。むりむりの登場であるが、どちらもひとり旅で凍てつく冬がお似合い。
今年は冬がどっかへ行ってしまったから、この歌曲集の出番がなかった。
気が付くともうじき3月。少し寒が戻ったこともあり、大至急の登場でもあります。

Hotter_2 今晩の「冬の旅」は、ハンス・ホッターがエリック・ウェルバと組んだ1961年のDG録音。
ホッターといえば、不世出のウォータンであり、私にとってもその二つはイコールになっているけれど、「冬の旅」の味わいも格別。
高貴で温もりある歌声は、孤独と慰めを見事に両立させているように思う。EMIのモノ録音も素晴らしいが、この録音もホッターの全盛期だけに全曲にわたってムラなく深みある声が響いている。

後年のCBS録音の文化会館ライブは、ぼそぼそとした独白のようで、人生を極めた達人の歌のようだったが、こちらの盤では声がまだ充分に美しい。

この歌曲集は、冒頭の「おやすみ」から絶望的な旅立ちが歌われる。
同じ「ミューラー」の詩につけた「水車屋」も悲劇的な結末に向かって行くが、冒頭の旅立ちは希望と元気に満ちている。

「冬の旅」は、

 「よそ者としてやってきては よそ者のまま去っていく・・・・・」こんな出だしなのだから。

こんな辛い中にも、「菩提樹」の曲にくると、心からほっと一息つける。
こんな素適な曲を書いてしまったシューベルトって何者だろう。

最後は、ライアー回しの孤独な老人という、不気味な伴侶を得て、どこへ旅するのか・・・・。

私の「居酒屋の旅」はこうあって欲しくないなぁ。

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2007年2月25日 (日)

ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」 コンドラシン指揮

Sakura 先週末に神奈川の実家に仕事ついでに帰省したおり、家の近くで見つけた「河津桜」。町がまだ植えたばかりなので、少し花を付けた程度。
本来は満開になってもいい種類の桜だけど、家の真ん前に桜が咲くってのは実に「イイネッ」!
 向かいの小さな山は、やたら有名になってしまった吾妻山」。
その頂きの公園では、年明けから「菜の花」が満開になっていて、週末には東京からも人が押し寄せる。本格登山の装備の方もいて、ビックリ。
麓の小学校は私の母校。昔は神社以外何もなかった山を子供の頃は駆巡ったもの。
隔世の感あり。

Khachaturian_kondrashin ハチャトゥリアンは「剣の舞」以外は聴かれぬ不人気作曲家かもしれない。バレエを中心とした劇音楽が多く、聴いているとその独特なリズムとエキゾシズムに不思議な魅力を感じる。

「仮面舞踏会」もそんな一品。劇付随音楽よりの組曲版で、「腐敗しきったロシア貴族社会を舞台に、ある家庭の愛の破綻を描いたもの」らしい。

音楽はそんなことは抜きにして、ハチャムチャ楽しい。
「ワルツ」「夜想曲」「アズルカ」「ロマンス」「ギャロップ」の5曲からなっていて、明るく、甘味でメローディアス。一度聴いたら忘れられないいい旋律が溢れ出してくる。
ショスタコの映画音楽などにも通じるブルジョアジー批判の暗示めいたものも感じる。

コンドラシンが若き頃、アメリカに渡って録音した名演。1958年とは思えない鮮度の高さを演奏も録音も保っている。
RCAビクター響なるオケについては、私は不案内だが、コロンビア響のようなすご腕のプレーヤー集団なのだろうか。実にうまいものだ。

カップリングは「カバレフスキーの道化師」「チャイコフスキーのイタリア奇想曲」「R=コルサコフのスペイン奇想曲」のロシア系王道プログラム。
カバレフスキーはそのまんま運動会の音楽だった。

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2007年2月24日 (土)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 カラヤン指揮

今週は長期に外出し、更新出来ず、ちょっと気分的に焦りました。
新潟から名古屋への出張は、東京から新幹線で雪なしの新潟。新潟空港から小型ジェットで、名古屋は小牧空港。繁栄の名駅から、新幹線で東京と、移動距離は少ないものの、本州の中ほどを一周する行動でした。

Setyubai

 新潟では、「IANISさんと再会し、地元の方しかわからない、酒場へご案内いただき、すっかり本場の酒を飲み尽くしてしまいました。
IANISさん、本当にお世話になりました。

東京では、「リベラ」さんが大阪から出張でお越しです。「romani」さんと3人で、土曜の昼下がりから、銀座の大衆酒場!!「三州屋」でしっかり飲み、心の底から楽しいひとときを過ごしました。リベラさんは、前日の横浜・神奈フィルパーティーからの続投。お疲れさまでした。数日後に、三州屋の記事UP予定です。

そんな毎日のなかで聴いた、カラヤンの情念渦巻く「トリスタン」。

Jacket

  カラヤン「トリスタンとイゾルデ」スタジオ録音は、1971年にべルリンのイエス・キリスト教会で翌年のザルツブルク・イースター音楽祭に先立って行なわれた。
毎年、春の音楽祭後に発売を合わせるため、前年から同じキャストを使ってみっちり練習して、録音することが恒例となっていた。
こうして生まれた名録音は、「リング」「フィデリオ」「トリスタン」「オテロ」「ローエングリン」「オランダ人」「パルシファル」などで、ライブではないが、実演と商業録音を見事に結びつけたビジネスマンとしての商才に溢れていたカラヤンである。

私は、どちらかというと、アンチが付く方で、カラヤンはオペラとR・シュトラウス以外は全く聴くことがない。カラヤンのワーグナーをよく取上げてはいるが、全面的に賛同している訳ではなく、「ワーグナー」の一面を素晴らしく描きだしているから好んで聴いているわけなの。

Tristan_1_1

そんなカラヤンの個性にもっとも近い作品が「トリスタン」。
前回取上げた壮年の「トリスタン」は、キリリと引き締まったかっこいい「トリスタン」だったが、20年後の「トリスタン」は、カラヤン特有の「うねり」に満ちた重厚かつ精緻な「トリスタン」となった。
 私の初トリスタンは、この演奏のNHKFMの「オペラ・アワー」での放送のエアチェックによるもので、歌詞不明で中学生には、はなはだオトナの音楽に聞こえたものだ。その後「ベーム」の熱いトリスタンを知ることになり、カラヤンのちょっと過剰さが辛くなったものだが、最近改めてカラヤン盤を聴くとそのウマさに再び虜になってしまう。

Tristan_2_1

オーケストラは低音がズシリと響き力強い。でも透けてみえるほど見通しがよい。バーンスタインのようなのたうち回るようなネットリ感とは違うカラヤンの美的な情念。
ベルリン・フィルの鉄壁のアンサンブルがしっかりと支えていて、どこをとってもカラヤンしてる。欲を言うと、録音がDGだったらよかったのに。
EMI録音は、横への広がりが豊かすぎて、芯が薄く不自然なのだ。

Tristan_5_1

  配役は画像の通り。

デルネッシュのイゾルデが私は大好き。見てくださいな、この美人。
ビジュアルと同等に、女性的で今では死語の「クリスタル」なイゾルデは聴いていてゾクゾクしてしまう。のちに発声の障害もあってメゾに転向する彼女の、中音域はたまらなく素晴らしい。
ハンブルクオペラの来日公演で、彼女のメゾを実演で聴けたのも貴重な思い出。

対するヴィッカースは、ちょいと弱い。独特のダミ声は、悲劇性はともかく高貴さが薄い。
ジークムントはよかったけど、トリスタンはつらい。2幕の長大な二重唱ではデルネッシュとのつり合いに不満だ。
 でも3幕は、カラヤンのサポートもあり、破れかぶれ的になかなかに聴かせる。

Tristan_4_2

ルートヴィヒ、ベリー、リッダーブッシュ、シュライアー、ヴァイクル(こんな美声のメロートってあり?)・・・、錚々たる顔ぶれも懐かしい。よく聴くと、カラヤンの唸り声も時おり聴かれる。

70年代はすごかった。カラヤン、ベームにバーンスタイン、後にクライバー。
みんなトリスタンに激演を残した。

そして、ベルリンフィルもトリスタンにかけては、NO1のオケだろう。
カラヤン、バレンボイム、アバド。おそらくラトルも取上げるであろう。

でも、わたしのトリスタンの最高の演奏は、そう、アバドのトーキョー「トリスタン
それもカラヤンのトリスタンがあってこそ生まれたトリスタンかもしれない。

            Ⅰ        Ⅱ       Ⅲ
  カラヤン52年録音    80分     75分     74分
  カラヤン71年録音    85分     80分     74分

  バーンスタイン      92分     90分     93分     
  ベーム           75分     72分     71分 

参考タイムです。カラヤンは年とともに遅くなった。
ベームの速さと、バーンスタインの遅さ。クライバーはカラヤンの52年盤に近いタイム。  

秋には円熟のバレンボイム・トリスタンが体験できる。

                                                    

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2007年2月18日 (日)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 カラヤン指揮

「トリスタンとイゾルデ」で検索していたら、「イゾルデ」というダイニング・バーがあることを発見。東京神田の店で、こ、これは・・・、と大いに期待してチェックしたら、ロック系のライブハウスも兼ねる、そちら系のお店であった。これだと、ちょっとキツイな。

清里には、森のレストラン「イゾルデ」があってこちらはいい雰囲気。でも遠いわ。

ちなみに、「トリスタン」は光学関係の会社や「ビンボール」(笑える)まであり。このビンボールは、それ風で唸らせるけど、こんなの誰がやるかっての。

そこで今日は、こんな、みんな大好き「トリスタンとイゾルデ」を登場させてしまおう。
一度聴き出したらやめられない、媚薬中の媚薬。前奏曲が始まったら、その後は「愛の死」ではガマンがならぬ。無伴奏による、若い水夫の悲しげな歌がこなけりゃダメ。
惚れたものの弱み、地獄の底まで、死ぬまで付き合うぞ。
ワーグナーだらけのこのブログでも「トリスタン」は5度目の登場、ご苦労さん。

Karajan_tristan52 1952年、戦後新バイロイト2年目の貴重なライブで、オルフェオ・レーベルのバイロイトお宝復刻の第1弾にもなったCD。
カラヤンがバイロイトに登場したのは、51年と52年の2年間だけ、リング、マイスタージンガー、トリスタンを手掛けたのみで、以降は全く出演しなかった。ヴィーラント・ワーグナーとの対立や、独特な音響に手を焼いたともいわれる。後年、ヴィーラントの死後、再登場の声もあがったらしいが、完璧主義のカラヤンは臨時編成の祝祭オケに我慢がならず、ベルリン・フィルを引き連れていくなら・・・などと、のたまったとか何とか。
結局、ザルツブルクで自分の音楽祭を開催することになり、ベルリン・フィルをピットに入れてしまった。まさに、「帝王」様の成せるワザ。

Karajan_herbert 70年代に、そのザルツブルクで自分の思い描くビューティフルな「トリスタン」を実現したが、52年若干44歳の壮年カラヤンの「トリスタン」は覇気とオペラティックな盛上りに満ちた演奏である。
地方オペラ劇場から、叩き上げてきたカラヤンにとって、手の内にはいった音楽であろう、ひとつのドラマの中にいくつもの山場を作って、そこに向かって突き上げていくような気合を感じる。後年のものもそうだが、低音域のうなりをあげるような迫力も素晴らしい。

  トリスタン:ラモン・ヴィナイ      イゾルデ:マルタ・メードル
  マルケ  :ルートヴィヒ・ウェーバー クルヴェナール:ハンス・ホッター  
  ブランゲーネ:アイラ・マラニウク   メロート :ヘルマン・ウーデ

歌手の黄金時代の幕開けでもあった、新バイロイト。
Vinay_tristan 私の好きな「陰りあるヘルデン」、ヴィナイには泣ける。フランス系だが、南米に生まれ、メキシコで勉強しそこに没したが、バリトンでスタート、テノールに転じ、名オテロとして鳴らしバイロイトに登場した。50年代終わり頃、高域に支障をきたし、再びバリトンに復帰。
こんな珍しい声の遍歴を重ねた。エスカミーリョ→オテロ・トリスタン→イャーゴ・テルラムント・・・。バリトンの下支えがあるから、声は力強いが決して重ったるくならないは、ラテン系の出身と南米での勉学経験ゆえか。このような声を持った歌手は今はいない。
しいて言えば「ホセ・クーラ」であろうか。

Model_isolde_1  メードルのイゾルデも予想以上に素適だった。優しさと暖かみのある声は、同世代のヴァルナイやニルソンとはまた違った独特のイゾルデを歌いだしている。ニルソンの凛としたイゾルデもいいが、メードルの等身大の女性的なイゾルデも気にいっている。
後年の録音の「デルネッシュ」にカラヤンが求めたものがわかるような気がする。

ホッターのクルヴェナールがユニークだ。ユニークと言えるには、ウォータンのイメージを我々が強く持ちすぎているからであって、こんな気品と友愛に満ちたクルヴェナールは知らない。でも1幕でのいたずら気のあるクルヴェナールは、ホッターだと真面目すぎて、深刻なヴィナイとの掛け合いは、ウォータンとジークムント親子のようだ。

今から55年も前のライブながら、演奏・録音ともに新鮮で、深夜ヘッドホンでしんみり聴いていると眼前に、ヴィーラント演出の素晴らしいバイロイトの舞台が蘇えってくるようだ。
カラヤンが、自分のトリスタンをどう進化させていったか、再度取上げてみたい。

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2007年2月17日 (土)

プッチーニ 「西部の娘」 メータ指揮

「オペラ・マンスリー」参加企画。というか、年中オペラですねん。

Puccin_lafanciulla_del_west

 











全部で10作(3部作をひとつとして)あるプッチーニ(1858~1924)のオペラのうち、7作目。
「喋々夫人」のあと、1910年頃の作品だから、充実しきっていた時期の作曲。
 解説本によれば、初演はメトで、トスカニーニの指揮、カルーソーの歌で行なわれたという。
なんとも凄い話ではないか。

しかし、このオペラは今では、さほど上演されず、人気もあまり高くない。
日本では、NHKのイタリア・オペラ団の上演とマゼール・スカラ座の上演があったはず。
私もかつて、1,2度聴いた程度で、どうもつかみどころのないオペラとのレッテルを早々と貼ってしまっていた。
まず、「聴かせどころのアリアが少ない。アリアが少ないかわりに短い歌がツギハギのようにじゃんじゃん登場するし、セリフも極めて多い。これでは、歌手が大変だ。」
そして、「開拓時代の西部劇ドラマが陳腐であること。複雑で一度さらっただけでは訳がわからん・・・・。」
 とまあ、こんなイメージを持ったワケ。

こんな苦手オペラが、4月の「新国」で上演される。
指揮も歌手も面白そうだから、安い席を手配した。
練習もかねて、メータ盤を購入し、じっくりと聴きこんだ。

  -----------------

時は1850年頃のカリフォルニアの鉱山のとある町。
酒場の人気ものヒロイン「ミニー」は孤児だが勝気で鉄火肌の女。
彼女を愛する保安官「ジャック・ランス」はお定まりの敵役。
「ランス」の求婚をはね付ける「ミニー」は、「いずれいい男が現れるだろう。」
 そこへ、「ディック・ジョンソン」が現れ、「ミニー」は以前会ったこともあって惚れ込んでしまう。
同時に盗賊団が近くにやって来ているとの報に、街の衆は賊狩りに出かける。

「ミニー」と「ジョンソン」は引かれ合い、美しい二重唱を歌うが、「ジョンソン」こそ、盗賊の首領とわかり、皆の衆が押しかけ、一旦はかくまうが、「ジョンソン」は家を出ていく。
しかし、すぐに見つかり、銃で撃たれてしまう。逃げ帰る「ジョンソン」を守る「ミニー」は、「ランス」にカードで勝ったら結婚し、引き渡すと勝負を挑む。
「ミニー」は巧みに、イカサマゲームで勝利し、「ジョンソン」の自由を掴む。

しかし、人々に捕らえられてしまう「ジョンソン」は、処刑に処せられことになる。
覚悟を決めた「ジョンソン」は、「ミニーには自由の身になった・・と伝えてくれ」とこのオペラの唯一有名なアリアを激唱する。
恋敵を憎む「ランス」は処刑を急ぐが、「ミニー」が血相変えて飛び込んできて、切々と助命を乞う。街の人気ものに嘆願され、人々は「ランス」の反対もよそに「ジョンソン」を許し、二人は「さよなら、カリフォルニア」と歌い、街を去っていく・・・・・・・。

 

以上が慨略筋だが、何だかなぁ??という内容。
悪党のくせにいいのかよ。(一応、盗みはしたが、人は殺めてない、なんて言ってるけど)
保安官のランス君、いいんですか、ほんとに??
あきらかに、弱い台本・・・、に思うが、実演はどうなることやら。

音楽は、特にオーケストラ部分がよく出来ていると思う。思い切り不協和音を響かせたりするかと思うと、甘味な旋律が切々と鳴ったり、アメリカ風のリズムやフレーズがチョロチョロ顔を出したりして面白い。同時代のマーラーにも通じる、「何でもアリ」の音楽は、私にはとても魅力的だった。
歌の部分は確かに弱いが、演技が伴なえばこれも面白いのかも。
時おりウィスキーだとか、サンフランシスコだとかいうセリフが聞かれるのも何とも。

  プッチーニ 歌劇「西部の娘」

 ミニー :キャロル・ネブレット ジョンソン:プラシド・ドミンゴ
 ランス :シェリル・ミルンズ  ニック  :フランシス・エガートン
 アシュビー:ロバート・ロイド  ソノーラ :ジョナサン・サマーズ

    ズビン・メータ 指揮  コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
                コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団

Mehta_piccini











1977年にロンドンの上演と並行して録音されたこの盤。
メータが珍しくDGに登場し、この時代の音楽のスペシャリストとして、複雑で錯綜するオーケストレーションを見事に振り分けている。オーケストラの味のある音色もうれしい。
ドミンゴとミルンズの黄金コンビも、面目躍如たる素晴らしい声による名演技が味わえる。 
この二人はプッチーニが一番いいのでは、と思っているワタクシ。
ネブレットは、この頃活躍したアメリカ産の歌手だが、「アバド・シカゴのマーラー復活」でデビューした元気なソプラノは、このオペラを得意にしていた。実際、リリックな部分から、思い切りドスを効かせて啖呵を切る場面まで、なかなかに芸達者な歌いぶりで好感を持った。 
 この録音、「銃の音」や「カードを切る音」、「テーブルを叩く音」なんてのがリアルに収録されていてちょっとドキッとするが、面白い。

数回聴いたが、まだよくわからない。いい音楽なんだけれどもね。
4月の舞台がどうなるか。 

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2007年2月15日 (木)

「ジェイムズ・キング」 アリア集

Boots_bear これ何だと思います?
女性ならすぐおわかり。男性社会には縁のない「ブーツ・ホルダー」。
あまりのカワユサに写真撮ってしまいました。ブーツのフォームを維持すると共に消臭効果もあるすぐれものの「くまさん」。
いいなぁ。女性は。オヤジの革靴には「くま」ではなく、虫が似合う。
イカンことだ。オヤジももっとかわゆく、お洒落にならなくてはなりませぬ。

niklaus vogel」さんの「オペラ・マンスリー」企画に突如参加!

Jking われらが「ジークムント」、「ジェイムズ・キング」はいつ聴いてもカッコイイし、ヒロイックだ。舞台姿も実にサマになっているし、悲劇的なヒーローを歌うに相応しい声と容姿だ。

でも、衣装を脱いだキングは、アメリカの大規模農場の農夫のようなオッサンを思わせる。いや、カウボーイとも言えるかも。

一昨年、80歳で亡くなってしまった「ジェイムズ・キング」。
私のような世代にとって、永遠の「ジークムント」である。あまり器用な歌手ではなかったが、ワーグナーとR・シュトラウスにおいて、この人をおいては語れぬ超素晴らしい役柄がある。先の「ジークムント」に、「パルシファル」、「バッカス(アリアドネ)」、「皇帝(影のない女)」、「アポロ(ダフネ)」あたり。
一方、イタリア物も得意にしていて、直情的な役柄は、小回りのなさが妙に真実味を醸し出して、ド迫力の歌唱を聞かせる。「ピンカートン」「カラフ」「オテロ」「サムソン」・・・・。

 ベートーヴェン 「フィデリオ」から       ワルベルク指揮
 ワーグナー   「ローエングリン」から    アイヒホルン指揮
               「パルシファル」から        〃
           「マイスタージンガー」から  ワルベルク指揮
 R・シュトラウス 「影のない女」から      アイヒホルン指揮
 ヴェルデイ    「オテロ」から         ワルベルク、アイヒホルン指揮
           デスデモナ:ベーレンス   イャーゴ:グロソップ
       
キングお得意の数々が、渋い指揮者とミュンヘン放送管弦楽団のいずれもライブでの演奏で収録されていて、あまりの素晴らしさに一気に聴いてしまった。
「オテロ」での共演者を見ていただきたい。カラヤンのもとでイヤーゴを歌ったグロソップはやや時代がかった表現が残るが、キングの破れかぶれ的なオテロは、ドミンゴのような優等生オテロとも違った、悲劇を一身に背負って、「もうしょうがねぇ~!」というような切迫感と悲劇性をその声で見事に表現しつくしている。たまらん!!

シュトラウスにも鳥肌が立つほど感銘を受けたし、ワーグナー、ことにパルシファルはすばらしすぎ!
全曲が放送ライブで、観客の盛大な拍手も収められていて、こちらも気持ちいい反応に嬉しさを禁じえない。

それにしても、この「オテロ」はいい。「すごいよ、すごすぎるよ!」

   

           

 

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2007年2月14日 (水)

V=ウィリアムズ、バターワース、エルガー「エニグマ」 プレヴィン指揮

Previn_elger_rvw_butter 今日の1枚は、昨日タワーで発見し、迷うこと0.001秒、いわゆる即買いのCD。EMIの「BRITISH  COMPOSERS」シリーズの新譜。

 V=ウィリアムズ 「タリスの主題による変奏曲」
            「すずめばち」序曲
            「グリースリーヴス幻想曲」
          バターワース   「青柳の堤」
          エルガー     「エニグマ変奏曲」

             アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団

ヨダレが出そうな大好きな曲が、これまた大好きなプレヴィンの指揮で1枚に収められていて、買うしかない。しかも今なら@990円。安すぎ。こんな充実の1枚、明日からもっと高く売ってくれ!(勝手なワタシ・・・・)

これらは別な機会に録音されたものが収録されてるが、この組み合わせは何度見ても素晴らしい。英国音楽入門としてもいける。
プレヴィンはディーリアスだけは振らない人だが、ここにディーリアスとブリテンを加えると完璧なアンソロジーになるんだが。

1971年から79年のプレヴィンとロンドン響の蜜月時代の録音で、42歳から50歳のプレヴィンの最充実期のもの。
なかでも79年の「エニグマ」は後にロイヤル・フィルと再録音をしているが、この1回目のものは日本では発売されなかったのではないかな?
「エニグマ」フリークの私もこの録音は知らなかった。この曲が大好きだから、聴けるだけで、たいていの演奏に満足してしまうが、このプレヴィン盤は全編、やさしい歌に満ちていて各変奏曲がこれほどまでに丁寧に愛情こめて演奏されるのは、バルビローリ以来に思った。当然のように「ニムロッド」の美しさには息を潜めてしまった。
 そういえば、今年はエルガー生誕150年の記念の年であった。(1857~1934)

「タリス」は弦楽器のゴシック調の古風な響きが見事で、哀惜のこもった歌は切ない。
「すずめばち」のぶんぶん鳴る弦楽器によるユーモア溢れる表情は、明るく楽しい。
ノスタルジックな「グリースリーブス」は、かつてこの曲の代表的な演奏だった。
今聴いても、有名旋律にかかわらず、新鮮な美しさに満たされている。
そして、バターワースこの薄幸の作曲家が描いた英国の水辺の情景は、心の襞に染み入る癒しの音楽だ。プレヴィンの演奏が悪かろうはずがない。

英国音楽のよさをたっぷり楽しめる1枚。 「英国音楽は何度でもおいしい。」

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2007年2月13日 (火)

バックス 交響曲第5番 B・トムソン指揮

Greenwood

秋田県大館市にあるバー「Green Wood」は、ウィスキー好き、シャンパン好き、日本酒好き、ブリテッシュ・ロック好きのマスターの素適な店。
秋田にいることを忘れてしまう。
こちらで飲んだ「タリスカー」。アイラ諸島の北スカイ島産のシングルモルト。一口含んだだけで、潮の香りを感じた。目を瞑れば、まだ見ぬスコットランドやアイルランドの荒涼とした海を見渡すことができる。

大好きな「バックス」の幻想的で、厳しくシャープな印象の音楽にピッタリだ。

Bax_5

アーノルド・バックス」(1883~1953)は癖になる作曲家。
いろいろな分野に作品を残したが、作風がどれもこれも似ていて数々聴いてくると、バックス以外の人を思い起こすことができなくなる。

ロンドン生まれながら、アイルランドやスコットランドのケルト文明に大いに触発され、生涯かの地を愛し続け、幻想的な作品ばかりを残した人。

ついでにバックスは女性に相当もてた人で、以前のエントリーで書いたピアノ付きの交響曲のような「ウィンター・レジェンド」を書いた相手が、「ハリエット・コーエン」というピアニスト。バックスは妻子がありながら彼女と公然の仲になっていった。
後年、その作品は見向きもされなくなり、ロンドンでも傷心の日々を送ったらしいが、コーエンは終始バックスを支え、バックスが愛したアイルランドの荒涼とした景色を一緒に眺めていたらしい。本妻とどうなったかは不明ながら、晩年のディーリアスを思わせるような生き様にひどく共感してしまう。

1932年に完成された第5交響曲は1934年にビーチャムの指揮によって初演された。
7曲ある交響曲がそうであるように、3楽章形式で40数分の長さは共通している。
第1楽章は、シベリウスを思わせるような幽玄なもやもやとした出だしから、徐々に盛り上がって行き、ダイナミックかつバーバリステックな雰囲気に到達する様が素晴らしい。
次ぐ第2楽章は、幻想の中にさまようファンタジー溢れる音楽だ。森の中をケルトの妖精たちが飛び交う。
第3楽章は、動きの激しい活発なムードで始まり賑やかに進行するが、やがて1楽章の主題を穏やかに回想し始め、徐々にその回想も壮麗に鳴り響くようになり、眩い夕日のごとく曲を終える。

一度や二度では、音楽がつかめない。それがバックスの交響曲。
何度も何度も聴いて、その独特の人を寄せ付けないな厳しい音楽が、心に響くようになってくる。私にとってとても魅力的な音楽。

余白に3曲からなる「ロシア組曲」が収められている。
1919年に「ディアギレフバレエ団」がロンドンにやってきた時に、委嘱を受けて書いた作品で、同バレエ団はバックス含む4人の若いブリティッシュ・コンポーザーに作曲を依頼している。ほかの3人は「ハウエルス」「バーナーズ」「グーセンス」だ。地味なものだ。
「ゴパック」「ウクライナの夜」「ウォッカ売場にて」の3曲。イギリスが見たロシアは、なかなかに親しみやすく、楽しい音楽でお薦め。

いつものように、ブライデン・トムソンとロンドンフィルの渋いコンビは、豊かな響きを醸し出していて、バックスの魅力が味わえる充実したもの。

Bax もてる男バックスのお姿。
ちょっとリーブしてるが、シャイな雰囲気がいいのかも・・・・・。

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2007年2月12日 (月)

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ヤンソンス指揮

某駅での待ち合わせをするために、その駅名で検索していたら「東京トイレマップ」なる面白いというか、恐ろしいというか、ここまでやるか、というサイトを発見した。
神経質なあなた、食事中のあなた、決して見てはいけません!!でも笑えます。
トイレで私が好きなのはホテルのトイレ。よっぽどの緊急事態でない限りは、ホテルを探して事をなします。そんな中でも「帝国ホテル」の別館地下のトイレの清潔さと、ゴージャスさには舌を巻く。(何も舌を巻く必要はないが)そこに潜んでいると時間の経過を忘れてしまう居住性の良さなのである。でも住んではいけません。

Jansons_shostako5_1 トイレ話とは無縁の作曲家「ショスタコーヴィチ」の第5交響曲を、ヤンソンスとウィーン・フィルでさわやかに聴きましょう。
もうミミタコの第5。昨年のメモリアルイヤーには何度演奏されたろうか。
複雑きわまりないショスタコの内面のほんの一面しか垣間見ることができないかもしれない曲(書いていて何がなんだかわからないが)
ヴォルコフの「証言」の分厚い本は、頭をクラクラさせながら読んだが、そのすべてがまんざらウソでもないらしく、ますます謎に満ちたショスタコなのだ。
息子マキシムは何も知らないのだろうか?是非息子の全集を聴いてみたいもんだ。

ややこしいことは抜きに聴けば、音楽的に聴きやすく充実した5番は、コンサートでも聴き栄えするし、ダイナミックレンジも広いから、オーディオ的な満足感も得られる。
こんなお気楽が一番いい。
 それでも3楽章の悲しみの抒情に溢れた音楽には心うたれる。
1975年、ショスタコーヴィチの訃報に接したバーンスタインが、ザルツブルク音楽祭でロンドン交響楽団との演奏会に急遽この楽章のみを取上げた。それは祈りに満ちた壮絶なる名演であった。

ヤンソンスは、この曲に関してはもっとも安心できる指揮者のひとり。
オスロ・フィルとの録音もあるが、ウィーンフィルと97年にムジークフェラインでライブで再録音した。一昨年のバイエルン放送響との来日でも取上げ、圧倒的な感銘を受けた。
10年経った今また再度録音するかもしれない。

このウィーンでの演奏は、一昨年の解釈とほぼ同じ。テンポをゆったりと取り、タメも充分にとってオーケストラをしっかりコントロールしながら、鳴らし切っている。
でもそこは、ウィーンフィル。ところどころウィーンらしい弦の甘さや音の切り方が聴かれて面白い。
3楽章の美しい歌もいいが、終楽章のテンポの持っていき方が盛上げ上手のヤンソンスらしところで、わかっていながら乗せられて夢中になって聴いてしまった。
「いいぞ、マリス!」

このCDには、バルシャイが編曲し、後に作曲者自身が作品番号を与えた室内交響曲(弦楽四重奏曲第8番)が収録されていて、こちらの曲の方にこそ、ショスタコの魅力を感じてしまった。

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2007年2月11日 (日)

メンデルスゾーン 交響曲第5番「宗教改革」 ハイティンク指揮

Yoroiya1 メンデルスゾーンには関係ないけれど、毎度行く浅草での仕事帰りの昼食は「浅草ラーメン」。「しょうゆらーめん」 発祥の地は浅草といわれているらしい。
その伝統を受け継ぐ店のひとつ「与ろゐ屋(よろいや)」で醤油ラーメンを。
かつおだしのあっさり味に柚子が効いていて、とてもサッパリといただけましたぁ。

Heitink_mendel5_2 さて、メンデルスゾーンである。そして「5・5・5シリーズ」はまだ続いていた。どこまでいけるか<ゴーゴーゴー

裕福なボンボン作曲家メンデルスゾーンも薄命の人(1809~1847)。
音楽の歴史にたら?れば?が許されるなら、「モーツァルト」「シューベルト」と並んで、ものすごい名作がさらに残されていたろうな。

「宗教改革」と呼ばれる5番の交響曲は、メンデルスゾーン20歳の作品。
作品出版別に番号が付けられたため、最後の交響曲のようにも思われるが、1→5→4→2→3、という順番が作曲順。その前にも13曲の弦楽のためのシンフォニアがある。

1830年、かの「マルティン・ルターの宗教改革」300周年の記念行事に向けて作曲されたが、実際はカトリック教会の反対や、ベルリン市の財政難などで行事は中止になってしまい、初演が流れ数年後まで演奏は持ち越さることとなった。

第1楽章にドレスデンの教会で歌われていた「ドレスデン・アーメン」が神妙な雰囲気で用いられているほか、第4楽章ではルター作のコラール「我らが神は堅き砦」が登場する。
こんな具合に記念行事を意識した作品である以上に、ユダヤ系でありながら、銀行家の父の改宗で熱心なプロテスタント信者になったメンデルスゾーンの篤い宗教心から生まれた作品なのであろう。「マタイ受難曲」の復活や「エリア」をはじめとするオラトリオの作者ならではの思いである。

1楽章のドレスデン・アーメンは、そう、先週楽しんだ「そのまんまパルシファル」の旋律。
中間のふたつの楽章も美しい旋律美とリズムにあふれているし、終楽章の最後にコラールが高らかに歌われるところは感動的。
このコラールは賛美歌「神はわがやぐら」(269番)そのもの。

ハイティンクとロンドン・フィルの演奏はこの曲の理想的なものと思う。
2番以外をLPOと録音したが、いずれも伸びやかで、少しくすんだオケの響きがやさしく、メンデルスゾーンにピタリとはまった名演揃い。
コンセルトヘボウと一体化した指揮者だが、LPOとのコンビも充実した演奏ばかり。
このコンビのベートーヴェン全集の復活を強く望みたい。

久々に聴くメンデルゾーンは、実に気持ちがよかった。旋律の宝庫で、その爽やかさに抜けるように天気の良い寒空にむかって思い切り伸びがしたくなった。

「5・5・5」シリーズは「チャイコフスキー・シューベルト・マーラー」、「ベートーヴェン・シベリウス・V=ウィリアムズ」がバックナンバー。今回あと2曲は・・・・・。

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R・シュトラウス 歌劇「ダフネ」 二期会公演・若杉弘指揮

Rstrauss_daphne_nikikai 待望のR・シュトラウスの歌劇「ダフネ日本初演を観劇できた。
ワーグナーと並んで、シュトラウスのオペラ好きを自認するワタクシにとって、何が何でも立ち会わなくてはいけない上演だった。
若杉先生が中心となって、ここ数年、日本お披露目のシュトラウス・オペラがいくつか上演されている。「カプリッチョ」と「インテルメッツォ」を逃したのがあまりに大きいが「エジプトのヘレナ」と「ダナエの愛」が聴けた。
素晴らしい思い出になっていて、今回の「ダフネ」もいやがうえにも期待が高まっていた。

15作あるシュトラウス・オペラの13作目。1937年、ナチス全盛の時、日本では日中戦争勃発の時。こんなすさまじい時期の作品につけられたサブタイトルは「1幕の牧歌的悲劇」である。
 ホフマンスタールとの黄金時代のあと、ツヴァイクらを経て才気的には怪しかった、グレゴールの台本によって製作された、得意のギリシア劇。

簡略は、次のとおり。

「葡萄祭」を前にしたオリンポス山の川岸、「ダフネ」は自然の中で、その自然とともに過ごし、人間社会や男女のドロドロした世界とは無縁の中で暮らしている。
 幼なじみの「ロイキッポス」は、大人社会に目覚め、「ダフネ」に強く言い寄るが、「ダフネ」は冷たくあしらう。
「ダフネ」の下女たちは「ロイキッポス」をけしかけ、女装させ、「祭のどさくさ」を進める。
 一方、神「アポロ」が現れる。うらぶれた羊飼いのなりをしているが、「ダフネ」の父「ペエナイオス」は「ダフネ」に彼の世話を命じる。
人間界に降りてきた「アポロ」は自分の妹にそっくりだと、「ダフネ」にいいよる。
兄妹以上の怪しい接し方に「ダフネ」は違う!と拒絶。
 ディオニソスの祭では、女装した「ロイキッポス」が「ダフネ」に接近するが、これを見て怒った「アポロ」は神を愚弄するなと、大怒り・・・・。
哀れ「ロイキッポス」は「アポロ」の放つ雷に打たれ倒れてしまう。それを救えなかった「ダフネ」は彼の愛に応えることができなかったことを激しく後悔し、「ロイキッポス」をかき抱き涙に暮れる。 この光景を見た「アポロ」は人間界に関与してしまい、人間を殺してしまったことに自責の念にかられる。そして、純粋な生き方を失ってしまった「ダフネ」のために、彼女を永遠の緑たる「木」に変え、その枝から出来た冠(月桂樹)が誉の対象となるようにと、父「ゼウス」に依頼する。
「ダフネ」は月の光を浴びながら、月桂樹の木へと恍惚のうちに変容してゆく・・・・・・。

    ペナイオス:池田直樹     ゲーア:板波利加    
    ダフネ :釜洞祐子       ロイキッポス:樋口達哉
    アポロ :福井 敬       その他 
      若杉 弘 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団   
      演出:大島早紀子     メインダンサー:白河直子

二期会のドイツものの最上の布陣。そして新国でもお馴染みの面々。脇役もベテラン・新人がしっかりと固めている。
大きな歌いどころが前半・後半にある釜洞さんは出だしが押さえぎみだったが、ロイキッポスの死における迫真の歌唱はまったくすばらしく胸を打った。
福井氏のアポロは「エジプトのヘレナ」でも感心したが、よく伸びる声はシュトラウス後期の作品にうってつけ。樋口氏もこのところ始終舞台姿を目にし、日々進化している様子が伺え、楽しみな存在。

そして音楽面の要は申すまでもなく。若杉先生の繊細かつ舞台の呼吸を読んだ指揮振りだろう。「ダフネ」のオーケストラ部分は、軽やかさと晴朗な繊細さ、それに加えて劇的な音響も要求される難しい部分だ。それをものの見事に表わしきっていた。
世界のどこをとっても、こんな素晴らしいシュトラウスを振れる指揮者はいないのではないか?

こんな渋いオペラなのに、文化会館は満席。1時間40分の上演時間中、聴衆はじっと舞台に釘付けだった。
私のお隣りのスノッブ風の「おばあさま方」。「このオペラはダンサーがかなり活躍するのよねぇ」・・・・・・「え? ぇ?」そうなの?音でしか聴いたことがないけど、そうだっけ?

Daphne_nikikai この公演の演出の大島さんは、演出・振り付けと紹介があるとおり、メインダンサーの白河さんと組んでのバレエ・コンテポラリーダンスの演出の旗手であるらしい。
私はこちら方面は極めて弱いが、シュトラウスが指定したわけではないパフォーマンスを取り入れたこの演出の意図は大いに評価されるだろう。世界的にも誇れる舞台であろう。
 ただ私としては、「過ぎたるは及ばざるが・・・・」の感を若干いだいたのも事実。
あのダンスは皆唖然とするほど見事だったし、事実、美しかった。ラストは特に・・・・。
シュトラウスの音楽を愛する身とすると、あの精妙・完璧な音楽にしっとりと浸かりたかったのに、素晴らしいとはいえ、舞台の隅々に展開されるダンスが少し目に余った。
いい音楽が鳴っているのに、背景の舞台措置がガタゴトと音を立てて移動するのも考え物だ。歌手達の動きもきめ細かく、舞台のあらゆるところで動きがあるから気が抜けない。

こんなことを書いたが、深読みや読み替え演出よりは、よっぽど作者の意図は汲んでるし、美しい舞台であったのは事実。
舞台と音楽の融合、なかなかに難しいものだ。

ダフネがどのように変容していったか、あと二日舞台はあるし、テレビも入っていたから、是非お楽しみに・・・・・。
前述のお隣りの「おばあさま」、途中気持ちよさそうにうつむいていたが、音楽が終わると、「何てきれいな音楽でしょう」、とお仲間と話しておられた。
 私は、後半は素晴らしい音楽に涙が止まらなかった。

閉幕後、いつもお世話になっています「IANIS」さんと、本日の舞台を中心に音楽談義を咲かせながら一献傾けました。舞台以上にまた楽しいひと時でした。
IANISさんは、「ハイティンク、ポップ」のダフネ、私は「ベーム、ギューデン」のダフネです。
それぞれこの作品の名演のひとつ。

   

    
    

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2007年2月 7日 (水)

R=コルサコフ 「シェエラザード」 メータ指揮

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「シェエラザード」、この絢爛豪華な曲を無性に聴きたくなる時がある。
だって、聴いていて気持ちいいんだもの。

まさに、そんな感じの音楽絵巻。
この曲が作曲されたのは1888年、ワーグナー没後5年、マーラーは第2交響曲まで作り終えていた。チャイコフスキーは第5交響曲の執筆中。
こんな背景を考えながら聴くとおもしろい。
そしてこの曲は表題音楽めいた、交響曲のようでもあるから、思い切り物語った演奏も楽しいし、そのあたりを薄くしてシンフォニックに演奏したものも良い。

メータとロサンゼルス・フィルは、私が始めて買ったこの曲のレコード。
豪華な演奏と鮮烈な録音を売り物にした当時のメータ+ロスフィルのロンドン・レーベルの戦略に乗った1枚だった。
たしかに録音はあっけらかんとするくらいに明瞭で隅々まで良く聴こえ素晴らしかった。
でも演奏は、以外なほど正攻法で全体の構成をしっかり見据えたものだった。
マゼールやバーンスタインのほうが、語り口が上手で色気に溢れていた。

今CDとして聴いてもその印象は大きく変わらない。
やはり明るく大らかな雰囲気が実によろしい。メータは、ロスフィルをウィーンとフィラデルフィアのような音にしたいと思っていたらしいが、柔らかさと豊かさとを併せ持つ響きが理想であったのだろうか。
 そんな最良の部分が第3楽章「若き王子と王女」だろうか。
美しくもロマンティックな旋律の宝庫みたいな音楽を、ネットリさせずに爽快に歌い尽くしていて、さながら人もうらやむ若い男女のお話のようで、あとくされなく爽やかである。

メータ=ロスフィルのかつての演奏を振り返ってみると、以前はグラマラスな表現ばかりに目がいってしまっていたものの、音楽の構成をしっかり見据えた正統的な演奏ばかりだったことを感じる。

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若き日の精悍なメータ。         
ロスではモテモテ。奥さんもチョー美人。
眼光がやたら鋭いが、どこか憎めないお人よし。

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最近の温厚メータ。
恰幅がよくなり、インドに行くと、そこらに、ごろごろいるようなお顔。
み~んな、年とるわけだ。

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2007年2月 6日 (火)

コルンゴルト 歌曲と室内楽の作品集 フォン・オッター&フォシュベリ

本日もぬくい一日だった。この冬は鍋物が食卓に上らない最小記録の年になるんじゃないか??

Korngold_rendevous_otter でも今年は、コルンゴルト記念の年。1897~1957、ということは、ほぼ10年おきに区切りの年が訪れる目出度い作曲家なんだ。
なのに、世間からはまだまだ評価されていない人。「やがて私の時代がやってくる」といみじくも言ったマーラーのように、交響曲をもっとたくさん書けばよかったのに。

ファンは微妙なもので、あんまり持てはやされるのも困るし、無視されるのも困る。
適度に聴かれて欲しい、そんなコルンゴルトなんだな。

本日は、一度聴いたきり棚に眠っていた2枚組のCDを取り出して、じっくりと聴いている。
作曲時期が近く、お互いの引用も見られる歌曲や室内楽曲を、メゾの「アンネ・ゾフィー・オッター」と「ベンクト・フォシュベリ」率いる室内アンサンブルが演奏した実に洒落たCDだ。

 「4つの別れの歌」「ピアノ五重奏曲」
「道化の歌(シェイクスピア詩による原語)」「2曲の簡単な歌」
「4つのシェイクスピアの歌」「3つの歌」
「2つのヴァイオリン、チェロ、左手のピアノのための組曲」
「マリエッタの歌(死の街から)」

作曲時期として「死の街」の後あたりの22~3歳!から、40歳くらいまでの作品。
通しで聴いていて、歌曲があって、その旋律が引用された室内楽がきて、英語の原作歌曲が出て、ドイツ語の歌曲が続き、ちょっと変わった編成の傑作室内楽。トリは有名なアリアの室内ヴァージョンで、まとまりがよく統一された素晴らしいアルバム。

管弦楽作品や、オペラ作品と同じ土俵にある後期ロマン派風の熟成した濃厚かつ洒脱な音楽。
ことさらに良かったのが、マーラーを強く意識させる「別れの歌」。その旋律を用いた連綿たる抒情に満ちたアダージョ楽章をもつ「ピアノ五重奏」。
それぞれ独立した歌ながら清冽な感情とドイツ語の見事な響きが心地よい「3つの歌」。
そしてシンフォニックでかつ、ウィーンの退廃したムードを醸し出す「組曲」。
この組曲は以前とりあげた、「左手の協奏曲」と同じピアニスト・ヴィットゲンシュタインのために書かれ、かの「ロゼー四重奏団」によって初演されている。

シェイクスピアはともかくとして、コルンゴルトが選んだ詞も付随する音楽も月の雫のように怪しいまでに美しく、ロマンテック。

 世は静かな眠りに入った 月明かりのなかで沈んでいる
 天空の港で金色の澄んだ瞳が開く

 すると神のヴァイオリンが静かに歌いだす・・
 愛しい人、私は君を想う。
 君の舟にのったような旅を続け、星のなかで君を探している

 幸せな愛の光が この心のなかを照らす
 私たちの魂の間に対話が生まれ
 夢の中で抱擁を交わす。

     (3つの歌~「世は静かな眠りに入った」 K・コバルト詩)

コルンゴルトの音楽は、熱い炎のような激しい情熱と、青白く輝く抒情のきらめきが交差する。マーラーの延長として捉え、じっくり聴いて欲しい。
ツェムリンスキーや新ウィーン楽派の一派として聴いてもいい。
後年ハリウッドが音楽の簡明さや、カッコよさを植え付け、これがまた独特の魅力となっている。
やたら首が長く見えるオッター(オとムの違いで大違いの女流二人)。彼女のニュートラルな歌声が、こうしたコルンゴルトにピッタリと寄り添っている。

今年ブレイクしなくても、また10年後がある。ナチスの侵攻によって失われた作品もあると聞くし、ともかく体系的なコルンゴルト全集の完成を切に望む次第。

 

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2007年2月 5日 (月)

ブリテン 歌劇「ピーター・グライムズ」 ハイティンク指揮

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今日も東京は朝寒く、昼以降は春のようなぬるさ。不気味な一日だった。

このまま春を迎えてしまうんだろうか・・・・。

今日は、ブリテンの歌劇「ピーター・グライムズ」を。

月曜からこんな暗い作品なんて、と思われるかもしれないが、週末に楽しんだものを取上げる次第。
「パルシファル」と「ピーター・グライムズ」を1日で聴くヤツって普通じゃないかもしらん。

ブリテン  「ピーター・グライムズ」

 ピーター・グライムズ:A・ロルフ・ジョンソン   エレン:フェレシティ・ロット
 バルストロード   :トマス・アレン        アーンティ:パトリシア・ペイン
 スワロー判事    :スタフォード・ディーン    キーン:サイモン・キーリンサイド

      ベルナルト・ハイティンク指揮コヴェントガーデン王立歌劇場

この作品のドラマには本当に救いがない。全編に、北海の厳しい波と嵐が吹き荒れていて、重たい雲が垂れ込めている。

漁師ピーターが村の集会でつるし上げを食っている。
漁の帰りにシケに会い、助手の少年を死なせてしまったのだ。
村人はなじり、ピーターは嵐のせい、と反発。
以降少年は雇わないことを厳しく勧告されるピーター。

 数日後の村、助手がいないと漁に支障がでるとピーターは主張、ピーターに好意的な寡婦エレンが必死にとりなす。
そしてこれも好意的な元船長のバルストロードは村を出ることを進めるが、意固地なピーターは拒むばかり。
それでも孤児院から新しい助手を得てしまったピーターは、エレンが止めるも聞かずに、安息日にも係わらず少年を連れ立って漁に出ようとする。

 この顛末を聞いた村人は憤慨し、ピーターの家に押しかけようとする。
泣いていやがる少年をせき立てつつも、死んだ少年の幻影に悩ませるピーター。
村人たちが向かってくるのを見たピーターは、家の裏の崖口から浜辺へ出てしまおうとするが
少年は足を滑らせ悲鳴とともに・・・・・。(陳腐な2時間ドラマのような出来事)

 数日後、少年の衣服が見つかり、村人は憤慨。
おりから放浪に疲れたピーターが錯乱状態で帰還。
彼を追う村人の遠くからの怒声・・・・。
唯一の理解者、エレンとバルストロードが現れるが、彼女の声ももはや耳に届かないピーター。
バルストロードはピーターに「舟に乗り沖に出て、舟を沈めよ・・・・」と自決を促す。
舟を沖に押す二人。エレンはNO・・・、と涙にくれる。
 翌朝、沈没船の情報を聞く村人たち。
そしてこの日も、日々と変わらぬ漁師の生活がまた始まった・・・・。

いやはや、なんという暗澹たる内容であろうか!
弟子を少年に固執するピーターも、何だかブリテンしてるが、まるで「ヴォツェック」のように自らを疎外者として振舞ってしまい、そしてその通り社会からはじき出され、行くところまで行き着いてしまう。
 おまけに、こんなピーターを追い詰めてしまう、社会たる村人たち。
事件後は、日常に回帰するだけの第三者だが、なんと恐ろしい加害者たちなのだろうか!

このようなオペラを書いてしまったブリテンに恐ろしいものを感じる。

イギリス人は伝統的に「フェアー(fair)」を極度なまで重んじる。
「バカだチョン」だ、という言葉より「フェアーじゃない(Its not fair)」と言われてしまうことの恥辱を極めて重大視するらしい。
そうした、フェアを外れた人間がいとも易々と陥ってしまう深淵がこのドラマなんだろうか。

ブリテンがここに描いた音楽は素晴らしい。ドラマの緊迫感と救いのない切実さが、実に生々しい響きとなって襲いかかってくる。
前奏曲と5つある間奏曲が曲の繋ぎとして効果的で、オーケストラ・ピースとして、そこから
いくつかまとめたものが良く聞かれる。
私はこれも超大好きで、数々聴いてきた。これらを馴染んで、オペラ全曲を聴けば、親しみやすい。天才的なまでのオーケストレーションに加え、英語で考え抜かれた思考力、といったような英国独自の頑迷さを感じる。

作曲者自演盤とデイヴィス盤が有名だが、ハイティンク盤は日本では未発売。
92年、コヴェントガーデン音楽監督時代の作で、録音は効果音を適度に配し、音だけで聴くドラマを見事に演出している。
それ以上に、ハイティンクの作り出す熱気と強靭な響きに、ブリテンがこの音楽に込めた問題意識を聞いてとることが可能。
歌手陣も文句なし。ことにロットの優しく女性的な血のかよった歌は素晴らしい。
R・ジョンソンの多少リリカルな迫真の歌唱もスゴイ。どこかイッテしまった感のあるヴィッカースや、白知美的なピアーズとも異なる。

救いのないドラマだからこそ聴いたあとに圧倒的な感銘を受ける。

 

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2007年2月 4日 (日)

ワーグナー 「パルシファル」 クナッパーツブッシュ指揮

Hausweih 冬の聖地「バイロイト」。
夏は本物音楽祭が行なわれ、日本では年末、NHK主催のライブ音楽祭が恒例となっている。
ファンにとっては今が狭間。
でも新国立劇場のおかげで、ほぼ年に一度はワーグナー上演があるし、外来公演や日本オケによるコンサート形式上演もさかんで、ワーグナーの上演に接する機会が昔ではシンジラレナイほどに増えていてうれしい限り。

Parsifal_kna56 赤いジャケットが毎度怪しい「WALHALL」レーベルから、1956年のクナッパーツブッシュのパルシファルが出た。
録音は時おりテープヒスノイズが入るがかなり鮮明なもので、バイロイト特有の雰囲気が充分に楽しめる。

  アンフォルタス:フィッシャー=ディースカウ  ティトゥレル:ハンス・ホッター
  グルネマンツ  :ヨーゼフ・グラインドル     パルシファル:ラモン・ヴィナイ
  クンドリー   :マルタ・メードル         クリングゾル:トニ・ブランケンハイム
  アルト独唱  :    〃

どうです?このため息のでるような顔ぶれ。56年といえば、あの「カイルベルト・リング」の翌年。他にもヴァルナイがいて、ニルソンもいて、ヴィントガッセンがいて・・・・・。
まぎれもなく戦後の一番の充実期だろうな。
 
メードルのクンドリーに震えがきた。最近ヴァルナイの影に隠れてしまった感があるが、この人の音域の広さには驚嘆する。古臭さを一切感じさせない清新な歌で、歴史に名を刻む歌唱に思う。
そして私が気にいったのが、ヴィナイのパルシファル。後にバリトンに転向することとなるこのヘルデン・テノールは、まさにバリトンの声を持つほの暗い声で、私にとって最高のトリスタンとオテロの一人。こうした声は明るさ輝かしさとは無縁だから、1幕でのボケたパルシファルはかえって愚鈍に聴こえるし、2幕での変貌は痛切さが増して聴こえる。
 F・ディースカウのなりふり構わぬアンフォルタス、ホッターの荘厳なティトゥレル、味のあるグラインドルとブランケンハイム・・・・。み~んなOK。
 脇役に後のスターを見出すのもいにしえ音源の楽しみだが、小姓にG・シュトルツェがひょっこり出ている。

クナッパーツブッシュについては言うまでもなくパルシファルの理想郷的な指揮ぶり。
安心してゆったりと身を委ねていられる。
時間が空間に張り付いたかのような感覚におちいる。巨大でありながら、細やかなニュアンスも豊富で、久方ぶりにパルシファルの真髄を体感した。
聖金曜日の音楽の高揚感には身も心も痺れてしまった。
     
              Ⅰ        Ⅱ        Ⅲ
 クナ(56)      112分     68分      79分
 ブーレーズ(05)   91分     59分      65分

Parsifal_3 合計で45分も違うこの対比。演奏する側は早くあがれて嬉しいらしいけど、金だして聴く方は何だか損したみたいだ。
ヴィーラント・ワーグナーの演出と相まって、長さを遅いと感じさせない永年にわたった儀式的な上演だったのだろう。タイムマシンでもあれば観てみたかった。
こんな幽玄な舞台はもうお目にかかれない。

これでクナのパルシファルは棚に5種類目となった。

   

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2007年2月 3日 (土)

ウォルトン 「ベルシャザルの饗宴」 プレヴィン指揮

Pyon_pyon

先だっての秋田・大館出張の帰りは、花輪線で盛岡経由だった。
昼過ぎに盛岡に降り立ち、昼食は「冷麺」。
大好きな「ぴょんぴょん舎」に向かい、焼肉・冷麺セットにカルビを追加し、昼から一人焼肉。とひゃー!! うまいことこのうえなし。

Previn_walton_belshazzar

神を恐れぬ豪華な饗宴に神の鉄槌が下される。
旧約の時代、ユダヤ民族のバビロニア捕囚の頃、バビロニアの偉大なるネブガドネザル王の子「ベルシャザル王」は豪奢を好み、その配下1000人のために酒宴を設け酒をたらふく飲んでいた。
酒も進み興が乗った王は、先代がエルサレムの神殿から奪ってきた金銀の器を持ってこさせ、自分や妻、大臣らにその器をもって酒を振舞った。すると突然、人の手の指が現れて壁に言葉を描いた。「メネ、メネ、テケル、ウバルシン」。
 恐怖に取り付かれた王は、国中の知識人たちに褒美をちらつかせ、解読を迫ったが、誰も読めない。妻の進言もあって呼ばれたのは、ユダヤ人「ダニエル」。
ダニエルは、「神が、王の治世を計かり終わりにすることにしたこと、器量なしとしたこと、国も分割されること」と読み証し、見事褒美をえるが、その晩、王は死んでしまう。

こ~んな、「目には目を」的な、自己責任的な厳しい物語をもとにつくられた詩に作曲したのが、「ウィリアム・ウォルトン(1902~1983)」である。
1931年、作曲者20代の作品ながら、充実したオーケストレーションとドラマテックな合唱を駆使した絢爛たる大叙事詩である。
旧約にイメージした詩であるから、バビロニアの栄華と豪華な宴が底抜けに明るく描写されるし、神の文字の場面ではかなり怪しいムードが充満する。最後は神を称えるポジティブな意味での豪奢な眩いサウンドに覆われ、ウォルトン特有のカッコよさも充満して曲は華々しく閉じられる。

後年、映画音楽の分野でも大活躍したウォルトンの名作。
プレヴィンはLSO時代もEMIに録音していたが、ロイヤル・フィルと同楽団の自主制作レーベルに85年に再録音した。
狂言回し的なバリトンに私の好きな「ベンジャミン・ラクソン」、これが素晴らしくブリリアントな歌声。そして、こうした曲をわかりやすく、無駄なく聞かせる才能はプレヴィンならではのもの。RPOも実にうまいし、音色が明るくてイイ。

最後のクライマックスなんぞ、相当に興奮できる。演奏会で演ったらさぞかし盛り上がるだろうに。
そして、飲み過ぎ・食べ過ぎにご用心。自重せねば・・・・。

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2007年2月 2日 (金)

ブルックナー 交響曲第1番 アバド指揮

本日も晴天なり。乾燥した空気は、曲がり角を何十回も過ぎた中高年のワタシのお肌によろしくない。駅のトイレで見た自分のカサカサの顔に驚き、構内の「無印良品」で男性用乳液を購入(実に便利なステーション・ライフ)し、すかさずお手入れ。アタシら中高年も肌のケアはしなくてはネ・・・・。ふふふ。
それより都心で、もう花粉が舞っているとのこと。異常気象も慣れれば普通か?

Abbado_bru1 1866年、ブルックナー42歳の作品、交響曲第1番。
え? 42歳で1番?? そう、このあと72歳で没するまでの30年の間に残る8曲の交響曲を苦労しながらも書くわけだ。
それこそ、中高年の仲間に入るまでブルックナーは何をしていたのか?
答は「オルガンを弾いていた」。その合間に作曲法を勉強し、ミサ曲や序曲、無印交響曲、第0交響曲なんぞをモジモジしながら書いていた。

この1番は、そうしたブルックナーがリンツ教会のオルガニストを務めていた時に作曲され、その時の版を「リンツ版」といい、手直し名人の名のとおり、後年66歳になってから手を入れた版が「ウィーン版」といわれる。
どちらも、作曲者自身の手になるものだから、優劣は言えないが、私はリンツ版の方がフレッシュで好きだ。
そもそも、ブルックナーの日陰者的な地味交響曲が好きなのだ。
この1番に、2番、6番の3作品。とりわけ、それぞれの緩徐楽章がいい。
前にも書いたことがあるが、アルプスの山々に咲く花々のように可憐でいじらしく、自然の力強さに満ちている、という感じ。

さてこの好きな1番、いろいろ聴いているが、文字通り一番好きなのが、アバドが1969年・36歳のデッカ録音のもの。最近CD化され即購入したが、ジャケットが陳腐ゆえ、所有するレコードジャケットをご紹介。
早めのテンポで溌剌と進むブルックナーゆえ、人によっては違和感があるかもしれない。
ロッシーニのようだ、と評した人もいる。冒頭が行進曲風だからよけいだ。
私はこんな明るく前向きブルックナーも好きだ。
そんな溌剌とした部分と対比するような、優しい鳥の歌のような木管やみずみずしい弦の調べなどが、ウィーンフィルの魅力とともに100%味わえると思っている。
もちろん、第2楽章のアダージョは清らかで素適な演奏。

Abbado_bru1_1_1 30年以上を経過し、2度目の録音は1996年。
DGへのブルックナー・シリーズの一環は、瑞々しさはそのままに、旋律の歌いまわしの自在さや表情にスケール感が増している。
 デッカ盤 46分15秒    DG盤 48分27秒
演奏時間にもそのあたりが現れている。
ソフィエンザールの生々しくウィーンフィルの音を捉えた録音に対し、柔らかでマイルドなムジークフェラインでのDG録音。
比較して聴くと、どちらも捨てがたく、日陰者1番の魅力が充分に味わえる。

「アバドのブルックナー」ジャケットをフォト・アルバムにしてみた。

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