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2007年3月

2007年3月31日 (土)

スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」 スヴェトラーノフ指揮


Ibukisan_1














滋賀県と岐阜県の境にある、「伊吹山」。
当地ではまるで人の名前のように「イブキサン」と呼ぶ。
今年は雪がほとんどなかったが、新幹線で岐阜と米原の間、毎冬徐行運転をして遅れるのは、この山が吹き降ろす「伊吹降ろし」による雪によるもの。
彦根・米原と東近江が雪国なことも、この山がそびえているから。

麓で行なわれる歴史を見つめてきた山。
こうして見ると実に美しい。
冬は厳しいが、夏は高山植物が咲きほこる
癒しの山。いいもんだ。

Svetlanov_la_mer_scriabine








ロシアの個性的な名匠「エウゲニ・スヴェトラーノフ」が亡くなって、もう7年も経つ。晩年N響に毎年来て、テレビでもお馴染みになったけれど、実演では一度も接することなく、帰らぬ人となってしまった。
73歳は早すぎる死だった。かなり昔から活躍していたので、もっと歳かと思っていた。
あのお腹の出た体、いかにも酒を飲みそうな顔、血圧も高そう・・・。

そんな見た目イメージは、爆演系の指揮者としてイメージ通りのド迫力を生み出す。
同時にその強すぎる個性は、どんな作品をも、自分に引き寄せて、スヴェトラ流にしてしまう。マーラーしかり、今日のCDのカップリング曲、ドビュッシーをも。
「フランス国立管弦楽団」を指揮しながら、やたらにドビュッシー臭くない、重ったるい演奏をしてしまった。恐るべき海、海フェチの私でも、この海には引いてしまう。ひぃ~・・。

でも、スクリャービンともなると話は別。
ねっとりと、じわじわと、むっつりと、この淫靡な曲が演奏されている。
スヴェトラおじさんの唸り声も随所に聞かれる。
フランス国立管、この機能的ながらフランスの香りを持ったオーケストラから原色のドギツイ音色をふんだんに引き出してしまった。でもロシアのオケと違って、金管はヴィブラートは少なめだし、管も上品なアンサンブルを聞かせてくれる。

 ところが、驚きは最後に控えていた!
最終の盛上りの前、大爆音のあとオーケストラが完全休止するが、この休止たるや、10秒以上におよぶ。まるで音楽が終わってしまったかのような10秒間。
そしてそのあと、いやがうえにも、弦楽器が官能的な調べを紡ぎ出し、それが徐々にクレッシェンドして行き、全楽器にそれが拡張されて、途方もないクライマックスに突入する。
このクライマックスの最終音が、なんと20秒近くもフォルテのまま引き伸ばされるのである!! これには誰しも度肝を抜かされるであろう。
もう止めて、と途中で思うくらいの凄まじさ。

こんな演奏ばかり、拳を振り上げて指揮していたら、燃焼しすぎだよな。
アバドとボストン響の輝かしくも歌いまくる演奏が大好きだが、このスヴェトラ盤も時にはよろしい刺激となった。

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2007年3月29日 (木)

アンネリーゼ・ローテンベルガー オペラアリア集

Kokubunji_2 特別に大画像で。見るからに美しく、春のような賑わい。国分寺の果物屋さん「多根果実店」。
果物屋さんが作るケーキだから、果実がゴロゴロ入っています。
私は、酒も甘いものも両党だから、ケーキにも目がないの。
果物が主人公のケーキだから、自然の甘さ。
これなら、ウィスキーのアテになってしまう。(呆れたもんだ)
   国分寺市本町3-2-19(北口)
  


Rothenberger_1 今日のディーヴァはドイツのリリック・ソプラノ「アンネリーゼ・ローテンベルガー」。今となっては、ちょっと懐かしめの歌手になってしまった。
60~70年代に母国を中心に活躍し、83年に引退後、スイスで自適の生活をしているとある。ちょうど80歳のかわいいおばあちゃんになっているはず。

レパートリーは広かったが、なんといっても、モーツァルトとR・シュトラウス、オペレッタ系の作品あたりを一番得意にしていた。
なかでも「アラベラ」のズデンカと「ばらの騎士」のゾフィーが素晴らしかったらしい。
「ばらの騎士」の3役(マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィー)を歌えたのも彼女が唯一かもしれない。カラヤンの映画盤の「ばらの騎士」に出ているので、これは是非見てみたいものだ。

彼女の声は、清潔・清楚・可憐といった言葉そのものがあてはまる。言葉の明瞭さも、最近の歌手達からしたら段違いに素晴らしい。
ちょっと一緒にお酒を飲みたくなるようなオトナの女の魅力も充分。

このCDは、イタリアオペラとR・シュトラウスが収められている。
イタリアものも、ドイツ語で歌われていておもしろいが、ここでもドイツ語の美しさが味わえる。そして、「ばらの騎士」の最終場面では、オクタヴィアンを「デラ・カーザ」が歌っている!オケはドレスデンだし、いうことありません。

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2007年3月28日 (水)

ストラヴィンスキー 「火の鳥」 ヤンソンス指揮

Senjyougahara 戦場ヶ原の合戦場を石田三成の陣地、笹尾山から眺めた図。
左手奥に、徳川の東方が陣取る。
この地に東西あわせて16万もの兵が集結した天下分け目の「関が原の戦い」。
先だって、名古屋から彦根への車出張のおり、ちょいと寄り道した名勝。
西軍石田方の陣地は、高台にちゃんと保存され、駐車場も完備して訪問が容易かったけれど、徳川の陣地は国道1号線沿いで、最寄に車を止める隙もなく、隣地は「出光の宇佐美鉱油」のトラックステーション。なんじゃこりゃの立地でとほほ。
Senjyougahara2_1 ともかく、このあたりは交通の要衝で、日本の物流において要のエリア。
だからこそ、大型トラックもガンガン走るし、ガソリンスタンドも必要。
天下を左右する「大いくさ」がここで行なわれたことも、わかるというもの。

今日は、趣きを変えて歴史講座だけれども、軍備では東西が拮抗していたのに、東軍の圧勝に終わったのは、小早川家らの寝返りと島津の傍観と言われる。
Senjyou_seigun Sennjyo_tougun 実際、初めてこの場所に立ったが、東軍を見下ろす位置の笹尾山にいて負けるはずがない、と思った次第。

歴史とは、面白いものですな。
「兵(つわ)どもが夢のあと・・・・・・」

Jansons_firebird 古戦場の話で今日はオシマイ。

じゃなくて、「火の鳥」。1919年の組曲版を「飛ぶ鳥」落す勢いの「ヤンソンスとバイエルン放送響」のコンビで。
一昨年の来日公演で聞いた曲目。その時は「トリスタン」「火の鳥」「ショスタコ5番」という、超すげえプログラムだった。
トリスタンからもう私は酔いしれて、火の鳥はボゥッーとしていた。
同時期の地元演奏会ライブを聴いてみて、あの時の演奏に合点がいった。
スタイリッシュで、細部まで目を凝らし、強弱の幅の豊かな誰しもを納得させてしまう普遍的ないい演奏。
カスチェイの踊りからフィナーレにかけてが見事。バイエルンのオケの優秀さと明るさも印象的な1枚。
カップリングのシチェリドンの協奏曲は私には何のことはない曲だったが。

毎年手兵を変えて来日するヤンソンス、今年はこのコンビでの来日の年。
ミューザでの「マーラー5番」をまずは手配済み。あとは何をやるのかしら。

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2007年3月26日 (月)

チャイコフスキー 交響曲第4番 アバド指揮ウィーンフィル

Byoudouin_sakura2 いきなり春がやってきちゃった。どこ行ってたの?という感じもあるけど、来たらうれしい春。
先日、大阪出張のおり、宇治にも仕事があり、いつもの癖で空いた時間で周辺を散策。
「宇治」といえば、「宇治川」に「平等院」。
平等院の枝垂れ桜は、ちらほらと花開いていた。う~ん、ええなぁあ。

Uji_river Byoudouinなみなみと豊富な水量の宇治川沿いを散策し、夕刻迫る平等院へ。
平等院なんて、中学の修学旅行以来。
記憶の中の平等院、いや名勝のどこもかしこも、もっと大きく広々としていたはずなのに、こうして訪れてみると以外に小ぶりなサイズ。
この感覚は不思議。自分が幼少時代過ごした場所、まして幼稚園などを訪問すると、まさに箱庭のよう。
こんな感覚は誰もが経験していると思う。
だからよけいに、今、このときが大事なのよね!

Photo_3 アバドがチャイコフスキーの後期交響曲を録音したのは70年代前半。
DGの大交響曲全集には間に合わなかったけれど、75年に録音したこの4番で後期が完結。同じ「ウィーンフィルとの悲愴」は73年の録音。
76年に国内発売されたこのレコードが、私のチャイコ4番の初レコード。
以来、悲愴と同じく、擦り切れるくらい聴いた1枚。

後年、シカゴ響との再録音は、オーケストラの優秀さもあって、強靭な歌と鋭いエッジに満ちた名演に思うが、こちらはなんといってもウィーンフィル。
アバドの柔らかな指揮振りに、随所にウィーンらしいまろやかさや、ホルンや木管の独特の響きが聞かれ、オペラの一場面のような豊かな歌に全編満ちている。

ウィーンフィルでも、カラヤンはうま過ぎて鼻に付くし、ゲルギエフはやりすぎて、オケが軋んでしまいかわいそう。
私としては、やはりアバドやプレヴィンがいい。
第2楽章の木管の響きとアバドの敏感な指揮ぶり、終楽章の明るく、冷静ななかにもおおらかな歌声の満ちた爆発的なエンディング。

過去の演奏を懐かしむというよりは、今を確かめながら過去の演奏を確認する。
そしてそこに大いなる喜びを見出す。音楽はそうして、いつも新しい何かを自分に与えてくれるものと思う。(な~んてね)

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2007年3月25日 (日)

朝比奈隆と新日本フィルの「リング」

Asahina


 

 






先日、リベラさんにお連れいただいたバー「SAKURA」に、「朝比奈隆のリング」全曲のCDが鎮座していた。マスターはオヤジ朝比奈のファンで、CDもたくさん揃っていた。
当然リクエスト。夜も更けていたので、「ウォータンの告別」の部分だけ。
懐かしい~。「池田直樹」の声がやたら若い。愛想のないオーケストラも思い出深い・・・・・。

Rheingold



 









そして、昨晩は「新日フィル」の「ローエングリン」公演。
新日フィルのワーグナー全曲は、あのリング以来じゃなかったかしらん。

そんなことがあったものだから、今日は実演ですべて聴いた「朝比奈リング」の思い出を、ちょいと自慢タラタラ書いてしまおう。

1984年から1987年まで、4年に渡って1作づつ、東京文化会館で演奏会形式で上演されたリングは、新日本フィルの定期公演でもあった。

Walkure







 

 

 

当時、二期会もリングを手掛けていたが、完全な演奏会形式での公演なんて前代未聞のことだったからお客さんは結構入っていたと思う。
でも今のように歌詞が表示されてなかったはずで、対訳本が配られたから、聴衆もみんな必死だったように記憶している。
 私は歌詞は大体把握していたから(自慢)、舞台上にあふれる大オーケストラを見ながら、「ははん、ここはあんな風に弾いてたのか」とか「おや、あの楽器がここでこんなライトモティーフを奏でてるんだ」な~んて、感心しながら、余裕をもって(自慢)楽しく聞くことができた。

Siegfreid

 

 

 







おやっさん朝比奈」の指揮は、交通整理に止まった感が否めない。
この超長大な作品は、おやっさんといえども1,2度通しただけでは充分把握できなかったであろう。
椅子に腰を降ろし、終始、譜面台に顔を突っ込みながら指揮していた。
でも、ここぞとばかし立ち上がり、オケに睨みをきかせる場面もしばしば。
有名な場面などでは、そうした効果が充分あがり、熱っぽい演奏が展開された。実際「神々の黄昏」の「葬送行進曲」から最後の「自己犠牲」までは息詰まるような名演で、聴いていてこちらも手に汗を握ってしまった。
今でも覚えている(自慢)

Gotterdammerung_1

 

 

 

 

 






キャストは、それぞれクリックしてご覧あれ。
「大野徹也」、当時ワーグナーを歌えるヘルデンテノールは大野氏が唯一で、4部作すべてに登場し、ローゲ、ジークムント、ジークフリートを歌うという八面六臂の活躍ぶりだった。
その声は日本人ばなれしていて、なかなかに肉太で、ワーグナー・テノールを聴く楽しみを充分に味あわせてくれたものだった。
二期会のリングでもジークフリートを歌っていた。

ウォータンの「池田直樹」を除いては、通しで歌い抜いた歌手はいないが、演技がない歌だけなので、ワーグナーとしてはともかく歌の出来栄えはみなよかった。

いま思うと、すごい快挙だった。2000年に入って、「飯守泰次朗と東京シティ・フィル」がセミステージ上演をおこなったが、80年代は、朝比奈隆しかなしえなかった偉業かもしれない。

自慢をもういっちょう。「わたしのリング体験」。
二期会(若杉・大野~なし)、朝比奈、ベルリン・ドイツ・オペラ(ヘスス・コボス~リゲンツァにコロ!)、トーキョー・リング(メルクル)
この4つ。バレンボイムは金欠、ゲルギエフは行く気せず。

酒を飲みながら、朝比奈リングを聴くならこちら。
 BAR SAKURA  大阪府門真市本町9-29

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2007年3月24日 (土)

ワーグナー 「ローエングリン」 アルミンク指揮 新日本フィル

Lohengrin_new_japan

アルミンク 新日本フィルの「ローエングリン」、セミステージ上演を聴いた。開演前、アナウンスが入り始め、またマナーのご注意かと思いきや、オルトルートとローエングリンの調子が悪いけど皆さんのために歌いますって
来たぁ~、またかよ
以前というか昔、NHKホールでバレンボイムがパルシファルをコンサート形式でやったとき、パルシファルのエルミングが不調で降りてしまい、代役が今日のアナセン。その時は大物たちに囲まれ譜面をみながら四苦八苦だった記憶あり。
その後、立派になってローエングリンとして、日本に帰ってきたが、因果は巡るか?
そういゃあ、エルミングもアナセンもデンマーク人なんだ。

果たして、いや、立派になったのはお腹だった。腹だけが出る中年太りか?、それとも腰でも悪いのか? もしかしたら腰痛持ちかもしらん、コルセットでもはめてるかもしらん。
第1幕の登場の場面は、白鳥役のダンサーに伴われて客席から登場したが、舞台にあがると、アレレ?のお姿。ディーナーのエルザが背が高いから蚤の夫婦みたい。
な~んてことばかりじゃかわいそうだから、声を褒めましょう。

不調なりに、よく歌っていた。最初はヒヤヒヤしたけど3幕は頑張った。力強い声でもなく、美声でもないが、素直な声に好感。

ディーナーはよかった。ビジュアル的にも良いし、歌いなれた役柄か余裕も感じられた。ジークリンデなんかよさそうな人。

でも今日一番よかったのは、伝令司の石野繁生
このオペラの第一声を決める、以外と大事な役をびっくりするぐらい立派な声で決めてくれた。ホールに響き渡る朗々たる声は、海外組以上だった。
ハノーヴァーの歌劇場で活躍する人らしいが、最近ドイツで活動する日本人歌手の素晴ら
しさには嬉しい限り。

ハインリヒは若いコニェチュニというポーランド系の人。この人も立派な声の持ち主で、盛んな拍手を浴びていたか、声域はバリトンに近く、高貴な王様というよりは、テルラムントかアルベリヒのようなワル役がお似合いに思った。ちょっと苦手なタイプ。

テルラムントのレイフェルクスは文句なし。ハインリヒとの声の対比が先ほどの印象でちょっとイマイチ。オルトルートのペーターザマーというメゾ、きっといい歌手なんだろう。
存在感のある人だったが、声が出ず気の毒だった。

てな具合に、歌手は凸凹あった。それを強く意識してかアルミンクの指揮はかなりオーケストラを押さえていた。ピットじゃなく剥き出しだから余計にそうかもしれないが、不調歌手の場面では、かなりオーケストラを制していて、全体を見通す鋭い能力に感心しながら聴いていた。もっと鳴らしていいと思う場面もあったが、もともとはそういうタイプじゃないのかも知れない。初めて聴くこのイケメン指揮者。普段はどうなんだろ。
最後、グラールの物語をアナセンが頑張ったあとの、アルミンクはテンポをかなり引っ張って、じっくりしたエンディングを築きあげた。あんな最終音は初めて聴いた。よかった。
休憩中、女性ファンが、「ローエングリンの役をアルミンクが変わればいいのに」って言ってた。
なるほど、イケメンは得だな。(チクショー)

Lohengrin_new_japan2 演出は限られた空間の中では上出来のものかと。
ただし、合唱が当初、私服とタキシード(たぶん貴族と平民?)だったり、最後は会場で販売してたスカイブルーのローエングリン長袖Tシャツを全員が来こんでいたのは奇妙。
最後に新日フィル。あぶないところもあったけど、たいしたもの。実によかった。
お客さんも、私のまわりでは最初オヤスミの方が結構いたけれど、途中から音楽とドラマに引き込まれた様子で、みな真剣に聴き入っていた。
カーテンコールも熱烈なもので、錦糸町が熱くなった。


          今朝まで、Sakura_2 久しぶりの大阪。
大阪に行けば、先進国首脳猥談に参加するのがしきたり。
期末で多忙ななか、お時間を頂戴したのが、LさんとT女史の両理事。
おまけにL理事お膝元のお店でたっぷりと音楽と酒、そしてマスターの手料理三昧。アインザッツ亡きあと、なんだか嬉しいお店。
ワーグナーもたくさん。大阪にまた憩いの店が出来そうです。
理事のお二人ありがとうございました。

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2007年3月22日 (木)

バーバー ヴァイオリン協奏曲 シャハム&プレヴィン

Tanpopo 出張先で見つけた「たんぽぽ」。
「たんぽぽ」って日本語はかわいいけど、英語で「dandelion」(ダンディライオン)と呼ぶ。ユーミンの歌にもあったなぁ。こんな名前の飲み屋や喫茶店があったなぁ。でもライオンのタテガミなんだぁ。

一時隠れながら、春はやってくる。厳しい冬のいやなことは忘れようじゃないの。
でも、いいことや、大事な人のことは、いつも思っていよう。
そんなノスタルジーをいつも胸に秘めておこう。

Shaham_barber_korngold バーバー(1919~1981)は、アメリカ保守ロマンティストの作曲家。
私のような聴き手にとって、バーバーは、ワーグナー、マーラー、ツェムリンスキー、新ウィーン学派(前期)、プッチーニ、コルンゴルトと路線を自分勝手に築いて、それにつながる人としてとらえている。
旋律は豊富で、親しみやすく、音楽は豊かな感情に満ち溢れていて、幸福なアメリカを彷彿とさせるバーバー。

ヴァイオリン協奏曲は1940年の作品。日本は戦時への道をひた走り、国民は徐々に統制のもとに置かれつつあった時分に、バーバーはこんなにロマンテックな音楽を作っていた。
文化の豊かさの違いか、日本は暗い押し付け文化しか残されなかった。
解説書によれば、私的初演はヴァイオリンは学生、指揮はライナー。
本格初演は1941年、ヴァイオリンはスポールディング(なんとスポーツ用品のあの人)とオーマンディという豪華版。いやはや。

全3楽章は20数分ながら、終楽章が3分強の短いいびつな構成で、この楽章が極めて高度なテクニックを要し、あっけなく終わってしまう。
一番、バーバーらしいのは、1・2楽章。
冒頭から抒情的な旋律で始まる1楽章。その主題とリズミカルな第2主題が交互に歌われる。全編にアメリカン・ドリームを思わせるような明るいノスタルジーに満ちている。
そして第2楽章!これを聴けば、コルンゴルトやベルク、はてはディーリアスあたりも思いおこすことができる哀愁の極地。泣くようなオーボエの旋律に始まり、各楽器が歌い継ぎ、ヴァイオリンがそれを受け継いで、オーケストラとともに連綿と歌いつないでゆく・・・・。

ギル・シャハム」と「プレヴィン」、同質の音楽家が奏でる「バーバー」。そして「コルンゴルド」。いやになっちゃうくらい素適な演奏。2楽章で、ヴィブラートを思い切りかけた切ない旋律に、プレヴィンのLSOが絶妙の合いの手を入れる。
最強のカップリングの1枚。

私の近現代5大ヴァイオリン協奏曲は、「エルガー」「ディーリアス」「ベルク」「コルンゴルド」「バーバー」。と言ってしまおう。

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2007年3月20日 (火)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 パールマン&プレヴィン

Beef_sushi_nama ふっふっふ。食べてしまった、牛トロの生寿司
口の中でとろけゆくお肉。え、どこへいったの?おいしいものはあまりに儚い。消え去った肉を名残惜しむように、程よい燗の酒を口に含む。
そうすると幸せの極地に、目も潤む・・・・・。

週の始めから、激しい出張を組んだものだ。朝一に「名古屋」へ。レンタカーを走らせ、近郊の「愛西市」へ。そこで一仕事して、「関が原」を抜けて「彦根」へ。
打ち合わせを終え、「近江八幡」「東近江」「水口」をまわり、甲賀から伊賀。そして高速を走り三重県は「松阪」へ到着。

そう、この素適な牛肉は何と「松阪牛」だったのであります。
こんな贅沢いいのだろうか?と思いつつ食べるしかないもの。
松阪は伊勢湾の魚貝も豊富な街だから、寿司もおいしい。
その模様は、近々別館にてご案内。

Korngold_perlman コルンゴルト(1897~1957)のヴァイオリン協奏曲を再び。
前回は、同じプレヴィンの指揮で、離婚してしまったムターのヴァイオリンで聴いた。ムター盤はプレヴィンとの蜜月がうらやましい健康的ロマンティシズムの溢れた演奏に思った。

今日は、健康的なことではさらにその上を行く「パールマン」で聴く。
またしてもプレヴィン。今度はピッバーグ響を振っているが、「シャハム」盤もあるから、3回も録音しているプレヴィン。

パールマンのあっけあらかんとしたテクニックで、スラスラと弾かれるコルンゴルドもいい。
テクニックはいいとして、ともかく、なみなみとあふれ出る美音である。
その美音の洪水に辟易としてしまう場合もあるが、コルンゴルドではまったく問題なし。
コルンゴルトの音楽は「健康的エロかっこよさ」と私は勝手に称しているけれど、まさにそれにぴったしの演奏。
プレヴィンの唸り声も聞かれるビューティフルな伴奏も素適。

何て美しい音楽なのだろう。メモリアル・イヤーなので、今日発売のレコ芸に特集が組まれていた。私は、昨晩、松阪で「牛トロ寿司」を食べ、燗酒を口に含んだときにこの曲を思い出した。今日もずっとこの曲の第1楽章の冒頭の旋律が頭の中で鳴っていた。
帰宅後すぐに聴き、今は3回目。
とろけるように甘味ながら、ほろ苦さや洒脱さも。
冒頭の旋律もいいが、第2楽章の美しくもノスタルジックな音楽には泣かされた。
酒がなくては聴けぬ音楽。曲に酔ってしまって何だかまとまりなくなってしまった。

朗報ひとつ。プレヴィンがまたN響にやってくる。うれしいじゃないの。
その時は、英国ものにラフマニノフ、コルンゴルドをやって欲しいわ。

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2007年3月18日 (日)

R・シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」 サヴァリッシュ指揮

Ariadne_sawallisch 作曲年代を追ってのR・シュトラウスのオペラシリーズ。
6作目において、前作までの「楽劇」の呼び名を改め、「歌劇」に復元した。
「ばらの騎士」の翌年1911年に着手、この時はホフマンスタールの台本によりながら、モリエールの「にわか貴族(町人貴族)」劇中劇として書かれたが、あまり評判よろしくなく、1916年に改作したもの。
改作は、「影のない女」の合間になされている。

序幕と「ナクソス島のアリアドネ」からなるが、ややこしいことに、劇中劇(アリアドネ)の始まる舞台前の関係者たちによるバタバタ劇の序幕付き、ということになる。

序幕 時は18世紀ウィーン。金持ち貴族の大広間。本日の歌劇の下準備に忙しい。
ここでは、メゾによる作曲家がかなり主役。歌劇のあとに高名な舞踏家「ツェルビネビッタ」に踊ってもらうことになり、作曲家は落胆。舞踏の先生がプリマドンナよりは、ツェルビネッタの方が期待されているんだと、作曲家や音楽教師の反論を呼ぶ。そんなこんなで、作曲家はツェルビネッタの機転で元気を出し、オペラの変更を決心する。

オペラ ナクソス島にひとり残されたアリアドネは嘆き悲しみに暮れる。
それを慰める道化、そしてツェルビネッタ。楽しい歌に踊り。ここでツェルビネッタが「人生と愛」について長大なアリアを歌う。
それでも、気の晴れないアリアドネ。そこにバッカスが晴れやかに登場。当初、死の神と思ったアリアドネだが、バッカスの接吻!でメロメロに。バッカスは「愛の神」なのだ。
そんなこんなで、劇的に盛上りを見せ、やがて静かに幕となる。

あらすじは、ちょいと何だが、ここに付けられた音楽はまぎれもなく超一流の作曲家の手によるものだ。前作で、強烈に鳴り響く刺激的な音響と決裂し、優美・華麗なサウンドに大きく傾いたシュトラウス。さらにアリアドネでは、オーケストラを32人編成にまで刈り込んで、古典的で軽妙・洒脱、かつ精緻な音楽造りを目指した。
歌詞は洪水のように溢れ難解だが、音楽は耳に優しく心地良い。
聞かせどころ、ツェルビネッタのアリアや、ワーグナーの二重唱のような終幕などは、誰が聴いても楽しめる部分に思う。

  アリアドネ:アンナ・トモワ・シントウ  バッカス:ジェイムズ・キング
  ツェルビネッタ:エディタ・グルベローヴァ 作曲家:トゥルーデリーゼ・シュミット
  音楽教師:ワルター・ベリー       

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                           (1982年ザルツブルク音楽祭)

Sawa 1979年にディーター・ドルンの演出、「カール・ベーム」の指揮で始まったプロダクション。
FMのエアチェック音源を持っているが、晩年の枯淡の境地のベームが熱く燃えた演奏だった。そのベームが亡きあと、指揮を引継いだのが「サヴァリッシュ」。
シューベルトのコンサートでもベームの指揮を継ぎ、もの凄い名演を残している。
このアリアドネは、サヴァリッシュらしく理路整然とキッチリした中に、シュトラウスのそして、ウィーンフィルの微笑みが垣間見られ、なかなかに味のある演奏。
録音がまた実に鮮明でよろしい。
歌手は主役級以外は、実力派がしっかりと固めていて万全。
もちろんグルベローヴァは素晴らしすぎる。さらに素晴らしい「ナタリー・デッセイ」を知ってしまったが、この当時はもう最高級の歌唱であろう。
シントウとキングのコンビももちろんよろしいが、キングは「バッカス」の楽天よりは「皇帝」のシリアスさのほうがいいかも。
そして亡きシュミットの作曲家がほんとにいい。知的ながら情熱溢れる相反する心情を見事に歌っている。

この作品には名演多し。実はわたし、「ケンペのドレスデンと超豪華歌手陣」が最高と考えます。
そして、「ベームとジェス・トーマス」「ショルティとルネ・コロ(なんでマーガレットじゃなくて、レオンタインなのだ!)」「シノーポリとデッセイ!!」「カラヤンとシュヴァルツコップ」。
どれもこれもイイ。

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大友直人指揮 東京交響楽団演奏会

Tso_muza_1 東京交響楽団の演奏会、なんとしたことか、神奈川フィルの「ブリテン戦争レクイエム」とバッティング。先週も「オランダ人」と神奈フィルの「ラフマニノフ2番」が重なってしまった。
今回は東響のチケットを早々に取っていたし、ディーリアスが聞けるうえに、「大好きラフ2」とあって、「戦争レクイエム」は断腸の思いで諦めた。 

           ディーリアス 歌劇「村のロメオとジュリエット」間奏曲
                       ~楽園への道~
           ブルッフ   ヴァイオリン協奏曲第1番
                       Vn:レジス・パスキエ
           ラフマニノフ 交響曲第2番

Otomo3l_1 大友直人はなんだかんだで初めて演奏会。いつも気になっていたのに、なかなか機会が合わず逃していた。何といっても英国音楽好きにとって、尾高先生と並んで頼りになる存在。エルガーのオラトリオや数々の英国音楽を手掛けていて、ようやく氏の英国音楽が聞けるわけ。よく経歴を見たら、私と同い年。頭部の方は著しく違うけど何だか親しみが増しうれしい。

ディーリアスのなかでも、はかなさと情熱が見事に溶け合った大好きな「楽園への道」。
すごく丁寧に慈しむように演奏され、じーんとしっぱなし。
ところがです、最後の最弱音で音楽が静かに終わり静寂を味わうまでもなく、一部の客のフライング拍手。これに呆れて思いきり舌打ちしたら、お隣さんがびっくりしてた。
だって、大友氏まだ指揮の途中だぞ。オケも指揮者も、え?って様子だった。

久々に、「そりゃないだろ、その拍手。」
後味の悪さに、ブルッフに集中できない。パスキエの艶やかな音色は認めるものの、悔しい思いを引きずりすぎた。パスキエと大友氏、抱き合って讃えあっていたけれど。

Rachmaninoff_1 気を取り直してのラフマニノフはよかった。大友氏得意の曲だし、オケも乗りに乗って体中で音楽を感じて、音にしているのが実感したできた。ことさらよかったのが有名な第3楽章で、クラリネット主席のソロが連綿と歌い、各楽器に歌い継がれ大きなうねりを呼んでメランコリーの極地を描き出してゆくさまは本当に感動してしまった。
指揮棒を持たない大友氏の動きも、この楽章では体から音楽が滲み出てくるように感じられ、こちらもまた見ものだった。

このノリを絶やさないまま、終楽章になだれ込むように突入し、あとはもうこのコンビの作り出す怒涛のクライマックスにまっしぐら。

最後のラフマニノフ・エンディングで、会場はブラボーにつつまれ、私も一声参加した。

やれやれ、最後がよかったから気分よろしい。

ディーリアスのような繊細な曲を演奏会で取り上げる難しさを痛感した次第。

ディーリアスは家でヒッキーぽく聴く音楽なのかしらん?

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2007年3月15日 (木)

アルウィン 交響曲第5番 ヒコックス指揮

Denen 音楽喫茶めぐり??という訳ではないが、たまたま遭遇したのがこちら。

 

国分寺駅から3分。クラシック音楽喫茶「でんえん」。
見た目、もう崩れそうな佇まいで、きゃしゃなドアに手をかけるのも躊躇してしまう雰囲気だけれども、ひとたび足を踏み入れれば、そこはこの手の音楽好きだけが感じ取る安らぎの世界。上品なご夫人(おばあさま)がひとり、注文を取り、一杯一杯コーヒーを入れてくれる。CDの操作も彼女。
芸術関連の本や、雑誌などもふんだん置かれ、素晴らしい世界。
グリュミョーとクレンツで、メンデルスゾーンのホ短調とニ短調の協奏曲を聴き、耳が洗われるような気分でありました。
        
      国分寺市本町2-8-7 駅北口から約3分

Alwin_sym5 さてと、「第5番シリーズ」、3月の3本目は、英国作曲家のウィリアム・アルウィン(1905~1985)の交響曲。
このあたりになると、あまりに未知の世界で、皆さん引いてしまいます。
でも英国コンポーザーとなると、私はすべてを聴かずにいられない。
このアルウィンはついこの間まで存命したわりには、保守的な作風。
でも、ウォルトンやティペットと同系列に考えるならば、かなりモダーンな雰囲気の音楽が多い。さらにでもでも、その音楽は抒情派のハウエルズ等に例えられるような美しさと優しさに満ちている。
 超越的なまでに美しい「ハープ協奏曲のリラ・アンジェリカ(天使の羽)」はすでに弊ブログでもとりあげた。思うだけでもうっとりしてしまう曲。ナクソス盤もあるはず。

 

ロンドン響でエルガーやRVWのもとでフルートを吹いていたこともあるアルウィン。
ロンドンでの活躍を経て、後半生はサフォーク州のカントリーサイドで作曲に絵画(このジャケット)に、思い切り好きに暮らした。
最後の交響曲の第5番「ハイドリオタフィア」は、1973年のそんな時分に書かれた。
17世紀英国の心理学者・哲学者・植物学者等々のトマス・ブラウンの作品に感化されて作曲されたが、英文の解説を読んでもイマイチその辺のところがわからない?

曲は16分ほどだが、ちゃんと4つの楽章に分類できる。全曲を一つのモットーがつらぬいて使われていて、シベリウスの7番のような、簡潔ながら、作曲者が行き着いた彼岸の世界のような満ち足りた世界の音楽になっていて、しかも英国音楽好きを泣かせる「カッコよさ」と「抒情」の両立が成り立っている。最後の祈りに満ちた部分に達すると大きな感銘を受けること請け合い。
ヒコックスの素晴らしい全集から。

 

アルウィンは5曲の交響曲、あらゆる楽器のための協奏曲、室内楽曲、オペラふたつ、歌曲、映画音楽多数とかなりの多作家。オペラを是非聴いてみたいもの。

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2007年3月14日 (水)

オネゲル 交響曲第5番「3つのレ」 プラッソン指揮

Dog_2 寒いですなぁ。ちゃんと冬が帳尻を合わせにきているのか?
ファミレスの駐車場で見つけたワン公。
主人の帰りを待ちわびる二匹であった。
ちなみに、某「バー○○ン」、ご主人は焼飯に、餃子に回鍋肉なんぞを食べちゃってるんだろな。 ワン公「あ~ぁヒマだ!」

Honegger_sym5_1 今日の「5番」は、オネゲル(1892~1955)。
ドイツ語圏のスイス人を両親に、フランスはルアーブルに生まれた作曲家。調べるとスイス人作曲家ということになっているが、生涯のほとんどをフランスで過ごしたから、フランス人ともいえるのかも。
だから、フランス近代音楽の6人組に入っている。
ドビュッシーの印象主義の発展系に反発する若手音楽家の集団が、6人組、とものの本には書いてある。その6人組が誰と誰かは、ここでは書きませんが、普通わかりません・・・・。ミヨーとプーランク、オネゲルくらいまでは・・・・。

オネゲルの生地、「ルアーブル」は何故か数少ない海外渡航で一度訪れたことがある。
パリから車で3時間くらいだったか。対岸が英国。フェリーの行き交う港町で、大きなオペラハウスもあった。港に近いパブで昼食を食べた。サーモンのステーキで、セットにワインが付いていて、赤か白を選べと女将に言われたが、本場フランス語はさっぱりわからない。
テーブル・クロスが赤だったので、そのクロスを指さし「rouge」、かたや私が白いシャツを着てたもんで、私のシャツの襟を引っ張って「blanc」とすごまれてしまった。
料理もワインもめちゃくちゃおいしかったから、帰りに「とてもおいしかった」と辞書で調べたフランス語で言ったら、顔中笑顔にして嬉しそうにしていた。まわりにいた、港湾関係のオジサンたちも酔って笑って楽しそうに手を振ってくれた。

こ~んな思い出の「ルアーブル」。
でもオネゲルの第5は極めて難解。わからん。「3つのレ」とは、3つある楽章のすべての終わりがティンパニとピチカートの「レ」の音で終わることから付けられたタイトルらしい。
作曲家たるもの、偉大なBの5番を意識するであろうが、オネゲルも相当だったようだ。
でも正直厳しい音楽すぎる。馴染みやすい旋律がないし、全編悲観的なムードに満ちていて、救いが見出せない。
でも何度も聴くとその厳しさが特徴となり、錯綜する見事なオーケストレーションが面白みを帯びてくる。それがオネゲルの個性と思えば何のことはない。
でも最終楽章も例のとおり、「レ」の音で終わるがそのあまりの完結感のなさに不甲斐なく感じるのはわたしだけ?

名コンビ「プラッソンとトゥールーズ」の南欧コンビも、オネゲルの晦渋さに南欧の陽光は照らせない。EMIのバランスの悪い録音が残念で、一時DGにミヨーを録音したが、その時のような自然な明るさ欲しかった。
永年の名コンビも解消されてしまったはずだが、その後どうなったのかな?

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2007年3月12日 (月)

ドヴォルザーク 交響曲第5番 ヤンソンス指揮

Simizu_minato2   またまた、静岡にてのワンショット。
こちらは、ご存知「清水湊」の埠頭から見渡す「富士」の絵。
清水市は、政令指定都市「静岡市」の清水区となってしまったけど、物流の拠点としても活気溢れる町である。
でも、昼下がりの港は静かで、地元民が釣り糸を垂れるゆったりとした時間が流れる波止場でもあった。

まだやっている、今月の「5・5・5」シリーズ。
だんだんとネタが不足するかと思いきや、徐々に人をも寄せぬ渋いところへ進んでいく。まだ有名どころは、残してあるし、交響曲以外もあるけど・・・。

Dvorak_sym5 ドヴォルザークは7番以降の3曲ばかりが有名で、強いて言えば、5・6番が後期3曲に次ぎ、1~4番などはなかなか演奏会にも乗らない。
この5番は、1875年の作曲で、ドヴォルザークは34歳。
しかし、出版されたのが1888年のことで、出版社が押しもおされぬ大家になっていたドヴォルザークに気を利かせて、作品番号を出版年の頃の作品76としまったため、いまだに7番(作品70)のあとの番号がついている。
さらに混乱することに、交響曲第3番とも呼ばれていた。ちなみに4番が今の8番(イギリス)、5番が今の9番(新世界)。さらに言うと1番が今の6番、2番が今の7番。
ここまで来ると訳がわからん。1~4番はどこへ行ってしまったんだ。
私の持つ音友社の昭和44年版名曲解説辞典では、堂々と新世界が5番となっている。
古いねぇ、あたしも。

前置きが長くなったが、この5番は一言でいうと、「牧歌的」。田園風というより、田舎風。
これまでは遠慮がちで、中途半端だったドヴォルザークの「ボヘミア」要素も思い切り全面に出されていて、みんながイメージする、メロディアスで親しみやすいドヴォルザークの顔が見える交響曲だ。「春」に聞けば、ボヘミアの野の息吹きが感じられる。
そう、とても気持ちが和む、ほんわか交響曲なのだ。

ヤンソンスはドヴォルザークを得意にしていて、それでも後期だけかと思っていたら、この5番をオスロ時代の89年に録音していた。数年前に廉価盤となり、1度聴いたきりだったが、今回聴いてみて、全編に溢れるその人懐こい表情と歌が若きヤンソンスにぴったりに思い、非常に気持ちがよかった。
あと1枚、スウィトナーによるものも朴訥とした田舎ドヴォルザークでお薦め。

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2007年3月11日 (日)

「ビヴァリー・シルズ」 オペラ・アリア集

Fuji_miho 日本の山、フジヤマ!先週は静岡を浜松から三島まで、車で出張した。
気楽な一人出張のため、時間はキツかったが、ちょいと寄り道したのが、「三保の松」のあたり。
海のむこうに富士が眺められる絶景。ああ、美しい。日本人でよかった。
出張に備えて、記事も書き貯めして、公開予約をいれておいた。
でもあんまり、ライブ感がないからよくないな・・・。

Bsills ビヴァリー・シルズ、最近CDもあまり見かけなくなってしまったのは、所属レーベルのせいか? ウエストミンスター・レーベルがEMIから出ていた頃、70年代中頃が彼女の最盛期で、ベルカントものを中心にかなりのオペラ録音が発売されていて、よくNHKFMのオペラ・アワーでも聴いた。
そのレーベルがDGGから出るようになり、外盤ではご覧の通り黄色いマーク入りで出ている。
が、しかし、国内盤はさっぱり見向きもされない。本場ものの歌手ではないからか?
日本での人気はいまひとつ、アメリカでは絶大な人気を誇ったのに。

1929年ブルックリン生まれの生粋のニュヨーカー。3歳にしてラジオで歌うという神童ぶりで、以降正式な勉強も重ねて、順風満帆の発展を遂げた。
世界各地で歌いながらも、ニューヨークを愛し続けた彼女は、ニューヨーク・シティ・オペラを一流のハウスとし、1979年に引退後は同団の監督などもつとめた。
まだ元気に過ごしているはずだ。

Bsills2 今日は、彼女のフランス物・ベルカント物全曲盤からのチョイスと、ドイツ物などをおさめたアリア集を楽しもう。

彼女のレパートリーの中心は、ベルリーニ、ドニゼッティ、ロッシーニらのベルカント物とフランス物であろう。そしてJ・シュトラウス、レハール等の独オペレッタも得意にしていた。
彼女の歌声は、すっきりした聞きやすいもので、完璧なコロラトゥーラも嫌味がなく、心から感心できる。過分な表情付けもなく、親しみの持てるナイスなもの。
しかし、レヴァインがそうであったように、深みに乏しいと言われるのも一理ある。

そして、画像にて、そのラインナップをご覧下され!
何と彼女得意のレパートリーに加えて、コルンゴルトの「死の街」R・シュトラウスの「ダフネが収められているではないか!

この私の大好きなオペラ、しかもダフネは最後の場面がしっかり入っていてうれしい。
どちらも丁寧に歌われていていい。コルンゴルトやレハールはやや思い入れが強すぎて、昨今の歌とはちょっと違うが、これはこれでシルズの歌声がクリアーなだけに、充分に楽しめる。
ダフネが素晴らしい、この18分あまりの変容の場面に、ひとしきり泣くことが出来た。
シルズの愛らしい歌声に、シュトラウスの素晴らしい音楽が映える。
おまけに、アルド・チェッカート指揮のロンドン・フィルがこれまたいい。ジュリーニとアバドの間の世代のチェッカートは知る人ぞ知る名指揮者なのだ。N響にも来ていたし、シルズとのトラヴィアータの録音も残されている。

シルズの歌声、もちろんお得意の曲もそれぞれ喜々として楽しめた。
私はこうした、アメリカンな歌手は好きだな。

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2007年3月10日 (土)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 新国立劇場

Hollader 新国立劇場、さまよえるオランダ人を観劇。
オランダ人はこのブログのタイトルの由来になった作品だし、記事一号もこの作品。

新国のニュープロダクションのオランダ人、見所は、ウォルフガンクの助手を長年勤めたシュテークマンの演出が昨今の面白演出の風潮に乗るか否か。それから、次期ウィーンのウォータン、ウーシタロ(牛太郎じゃありまへん)とバイロイトで活躍中のヴォトリヒやカンペがどう歌うか。
IANISさん、にこの舞台はいいとご報告をいただいていただけに期待もひとしおだった。

はたして、こうした期待をはるかに上回る素晴らしい舞台に、最後の音が鳴り終わっても拍手が出来ないほどの感動が込み上げた。

  ダーラント:松位 浩          ゼンタ:アニヤ・カンペ
  エリック  :エンドリック・ヴォトリヒ  マリー:竹本節子
  舵手   :高橋 淳          オランダ人:ユハ・ウーシタロ

     ミヒャエル・ボーダー指揮 東京交響楽団               
       演出:マティアス・フォン・シュテークマン


何がよかったか。
まず演出の素晴らしさ。気をてらわない、ト書きに忠実なもので、見ていて余計な想像をしなくてよい。群集の動かしかたや、パフォーマンスの豊かさが実によろしい。奇抜なところがないから、歌手も無理なく演じ、歌える。
序曲では、救済の動機による終了はせず、あれ?っと思ったが、劇が進むうちに、この演出はワーグナーが本来考えた救済をしっかりと打ち出そうとしているように思えてきた。
ゼンタは夢見心地または、病んだ女性ではなく、しっかりと自分の考えを持って不幸なオランダ人を一途に救おうとしている。オランダ人は、苦悩に沈む一人の男として群集の中に溶け込もうとも見られ、アウトローではない。
終末の場面では、ゼンタは船もろとも沈み、陸に残されたオランダ人は当初群集の中にいたものの、気が付くと群集も船も何もなくなった無の舞台に一人倒れ、救済の動機が鳴るなか、こと切れる。
ゼンタが残される救いのないヴァージョンよりも、そして同じ救済ヴァージョンでも、二人手をとりあって昇天する昔風のヴァージョンよりも、私には作品の本質を捉えたような演出に思われた。私って保守的なのか?
でも何度も書いてきたが、ワーグナーの音楽を乱さない演出ならいいんだ。
今回のものは、ウォルフガンク御大の意図も遠巻きに入っているかもしれない。
あとひとつ、オランダ人が腕に巻いていた赤い紐のようなもの、奉仕する愛の証しとしての赤い大きなスカーフ。ゼンタから受け取ったオランダ人は、思い敗れ、投げ捨てるが、いつのまにか乳母のマリーがしっかりと抱いていた。マリーも若い頃、同じ思いをしたのだろうか。

Holl_shinkoku2

指揮のボーダー、実にいい。昨今のオランダ人は1幕通しで快速演奏が多いが、ボーダーは、序曲から救済の動機を非常にゆったりと鳴らし、演出家と完全な合意があったのであろう、この作品の本質を見事に描いていた。水夫の合唱などでは、かなりアッチェランドをかけたりして迫力充分な場面もあった。この人、オペラの世界で今後も相当に活躍していく人だろう。

Hollnder1 肝心の歌手は、全員二重マル。
期待のウーシタロは、見た目がマッチョで、ブリン・ターフェルを思わせるが、声はターフェルのあくの強さとは無縁で、光沢ある渋いバスバリトンの声を聞かせてくれた。強弱をうまく使い分け、テクニック的にも万全で安心して観て聴いていられる歌手だ。いずれ、名ウォータンとして活躍するのではなかろうか。

カンペのゼンタも良かった。絶叫せず、女性的な温もりを感じさせるゼンタは好ましい。ジークリンデも聞いてみたい人だ。
お馴染みのヴォトリヒは、FMで聞くバイロイト放送のパルシファルやジークムントより聞きやすい。喉を締め付けるような独特の声は、生で聞くとあまり気にならない。
エリックの存在感が増したようにも感じる歌声。
Hollander2_1 松位のダーラントもびっくりの良さ。日本人にしてこんな深々とした美しいバス、しかもドイツ語の美しさを感じさせる歌手ってところが見事。男声・藤村版といったら誉めすぎか。

何だかやたら絶賛してるけれど、本当によかったオランダ人。
ワーグナーは数々観てきたけれど、かなり気に入ったプロダクションだ。
今日が最後の公演とあって、全員が乗っていたし、カーテンコールでは健闘した東響の面々もピット内で立ちあがり、舞台の歌手と指揮者に拍手のエール。舞台上でも合唱団も混じって、オケに拍手。こんな素晴らしい光景が展開され、聴衆も熱い拍手をいつまでも送った。

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2007年3月 9日 (金)

モーツァルト ピアノ・ソナタ第8番K310  ピリス

Sastuma_imoten_1 芋の天ぷら。
単純だけど、揚げるだけで、もうムチャクチャ甘くなって、ほくほくで美味い。 こちらは、種子島産の安納芋。口に頬張るとねっとりと甘い。
こいつで、芋焼酎のロックがガンガンいけちゃう。

Pires2 芋とは関係ないが、そのやさしい、ほっこり感が うれしいモーツァルトが聴きたくなった。
ポルトガル生まれの、マリア・ジョアオ・ピリスのピアノで。

モーツァルトの短調はいずれも儚く美しいが、とりわけこのイ短調のソナタは緊張感の中に微笑みが見え隠れしていて大好きな曲のひとつ。
22歳の作品には思えない。
若くしてこの深淵。すごいねぇ、モーツァルトは。短調の両端楽章に挟まれた第2楽章はほっと一息つける長調の部分だが、でもどこか寂しげ。その独白めいた歌は心に染みる。

ピリスのモーツァルトのデンオンへのPCM録音は、明るく元気な印象があったが、その15年後、1989年にDGでの二度目の録音は、明るさは保ちつつも、異常なまでに深みを増していて、ちょっと痛々しい感じまでする。
そう何度も聴ける演奏や曲ではないが、深夜に目を閉じて聴くと殊更に印象的。

このところ、ピリスの名前が聞かれないがどうしたのだろうか?

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2007年3月 8日 (木)

「ロメオとジュリエット」3作 小沢征爾指揮

Romeo_ozawa あの頃は良かった・・・・・。
悔悛とともに、若き日々を思い起こすのもいいものだ。
音楽家も年を重ねて熟成して行くが、年を重ねて逆に面白みが薄れて行く音楽家もいるかもしれない。

 

ああ、こんなこと書いていいのだろうか!だからやめとく。これ以上は怒られそうだから。

今日は、小沢征爾のサンフランシスコ時代の名録音「ロミオとジュリエット」3作品。

すなわち、「チャイコフスキーの幻想序曲」、「プロコフィエフのバレエ音楽から5曲」、「ベルリオーズの劇的交響曲から愛の情景」、これらを1枚に収めたナイスなCD。
「この企画ずっとあたためていたんですよ。」当時のこのレコードの小沢のキャッチコピーだったように記憶している。
「ロメオ」は「ペレアスとメリザンド」と並んで、多くの作曲家が取上げた原作だ。
小沢もあと、グノーやディーリアスなども取上げたら完璧だったのに・・・・。まあ地味過ぎか。

Ozawa 70年代の小沢は、実に輝いていた。どんどんステップアップしていく様が、われわれ日本人にとって、頼もしくも誇らしく感じた。小沢本人は、それこそ日の丸を背負っていて意気込んでいた訳で、その努力たるや並みのものではなかったろう。

 

そんな時代の最良の姿が、この「ロメオ3曲」にあふれ出ているように思う。
一気呵成に聞かせるチャイコフスキーは、ティンパニの強打が凄まじく、両家の争いなどはかなりドラマテック。でも味付けがアッサリしていてもたれないのは小沢ならでは。
プロコフィエフでは、弾むような独特のリズム感が素晴らしく、オケも乗せられて熱演。
一番いいと思ったのが、ベルリオーズの清冽な演奏。どこまでも流れるように、なめらかに拡がる歌。でも情熱は失ってはいない。

そう、小沢のベルリオーズは素晴らしい。今こそベルリオーズを再び取上げて欲しいぞ。
1972年、カリフォルニアでのDG録音。

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2007年3月 7日 (水)

ブラームス 交響曲第4番 クライバー指揮

Kleiber_brahms4 「カルロス・クライバー」(1930~2004)、日本の音楽ファンなら誰でも好き。残された録音は数少ないが、ファンのCD棚には必ずあるはず。

何度も日本にきてくれたが、私は何故か一度も実演に接することがなかった。アバドと親しい関係にあることから、スカラでもウィーンでも同行してきた。なのに行かなかった。
それは、みんなが騒ぐと引いてしまう、私の天邪鬼のせいだったかもしれない。

81年に出た、ブラームスの4番は、正味40分がレコード1枚にゆったり収められた贅沢な1枚で、ジャケットは気難しそうなカルロスの写真がシルバー色で加工されていた。
初めて聴いたととき、ピンとこなかった。ベートーヴェンばりの、はちきれんばかりの表現意欲に満ちた演奏を期待したからだ。

何度か聴くうちに、その立ち止ることのないブラームスが、実に新鮮に聞こえてきた。
古風で過去を振り返るような思いに満ちたスタンスの演奏はたくさんある。
でもカルロスのものは、あふれ出る楽想を次々に前に前にと押さえながら走っていく。
こんな前向きなブラームスってほかになかろう。
ことに、3楽章と4楽章が顕著だ。ともかく早いが、忙しく感じないのは、微妙なニュアンスや豊かな歌がそこここに溢れているから。

後年の他のオーケストラとの演奏は未聴。唯一、ベルリンフィルとのものを、「アインザッ」で聞かせていただいた。それは、ティンパニ協奏曲のような熱気溢れるもの凄い演奏であった。

カルロスには跡継ぎ(息子)はいないのであろうか?

Kleber2 雑誌「音楽現代」にも紹介されていたが、「仙台」に音楽喫茶「クライバー」がある。
数ヵ月前、仙台出張のおり、地元情報誌での記事を見て、これは絶対に行かねば、と思っているお店である。クライバー好きの主人が始めた、音楽が流れる喫茶で、雑誌で見る限り、実にいい雰囲気。

Kleiber 出張先や出先で、時間が出来たときに音楽が聴ける。
これも至福の喜び。
私は各地で、開拓している。しかも、「クライバー」だもの。

  仙台市国分町3-4-5 クライスビルB1 11:00~22:00

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2007年3月 6日 (火)

「ペーター・ホフマン」 ワーグナーを歌う

Hofmann ワーグナーを聴く楽しみは、長大な楽劇を骨の髄まで染みとおるように聴くのも良いが、ソロ歌手達の名唱で、名場面のサワリを聴くのも充分に楽しい。
序曲・前奏曲だけだと、続きが欲しくなるが、歌付きだと満足感が味わえる。

今晩は、容姿もその歌声も極めてかっこいい「ペーター・ホフマン」の残したワーグナー曲集を久しぶりに取り出してみた。
1983年の録音で、日本盤がCBSソニーから出てすぐに買い求めた。
当時はCD1枚が3800円もした。今思うと、よく買えたものだ。というか、CDなんて、月に1~2枚しか買えなかった。その分、大事に何度も何度も聴いたわけ。

それはそうと、1944年生まれのホフマンを始めて聴いたのが、1976年のバイロイト放送。そう、あのシェロー=ブーレーズのバイロイト100年のセンセーショナルなリング。
激しいブーばかりが、やたら印象にのこったが、ジークムントを歌ったホフマンの素晴らしい声に驚いた。
J・キングを無二のジークムントと思い込んでいた自分にとって、そのクリアーな声には魅了された。
その後、主としてバイロイトでの放送を通じ、「ジークムント」「パルシファル」「ローエングリン」「トリスタン」「ヴァルター」などをエアチェックして楽しんだ。
「コロ」「イェルサレム」と並んで、「3大ヘルデン・テノール」を謳歌したものだ。
カラヤン、ショルティ、バーンスタイン、レヴァインなどの大物からもひっぱりだこになり、CDも豊富に残されている。
若い頃から、歌っていたロックの分野でも活躍したマルチぶりであったが、私などワーグナーは声の負担が大きいから、無理して欲しくないな、と思っていたのだが・・・・・。

そんなホフマンも、90年代に入ると、歌唱が安定せず、不調の連続になってしまい、第一線から姿を消してしまうことになった。
悲しむべきか、パーキンソン病に犯されていたのである。
この病さえなければ、ジークフリートにタンホイザーといったロールへのチャレンジが待ち受けていたのに・・・・・。

 「マイスタージンガー」「ワルキューレ」「ジークフリート」「リエンツィ」「タンホイザー」
 「ローエングリン」それぞれの聞かせどころが、収録されている。
伴奏は、若きイヴァン・フィッシャー指揮のシュトットガルト放送響。
兄アダムがバイロイトで活躍し、自身はブタペストの重鎮となった。

ホフマンの声は、先にふれたように、クリアーでかつ力強いハリを伴なったもので、コロのような甘さのかわりに、陰りを感じさせるものだ。
その点では、ジークムントにピッタリで、キングと並んで、最高のジークムントだと思う。
小柄ながら、貴族のような容姿と、男ながら憎らしいまでのセクシーさは、ボッテリした往年のワーグナー歌手には全くない要素だった。
映像で観るジークムントとローエングリンには、まったく惚れ惚れとしてしまう。
白いシャツを着たジークムントに、大きな月を背景に眩いばかりに登場するローエングリン。

不世出の名ヘルデンテノールを聴きながら、今宵はグラスの酒がやけに進む。

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2007年3月 5日 (月)

ディーリアス ヴァイオリン協奏曲 ホームズ&ハンドレー

Delius_vncon 日曜から今日にかけて暖かかったですな。
もう春なんでしょか?おまけに嵐のような低気圧が列島を駆巡るし。
ちゃんと私もほろ酔いで、逆さ傘のずぶ濡れに合い、ぼろ雑巾のようになってしまった。

でも気温がゆるいから、なんとなく気分がよろしい。

よろしいついでに、ゆるめの「ディーリアスのヴァイオリン協奏曲」を聴きましょう。

ディーリアスは今でこそ、ビーチャムやバルビローリのCDに代表される、愛らしいオーケストラの小品がひっそりながら、日本の音楽ファンの心をつかんでいるが、私が中学生の頃、その名前さえ言うのがはばかられるくらい、知られざる作曲家だった。

私のディーリアスとの出会いは、すでに何度も書いたが、もう30年以上も前だから、まさにノスタルジーの域に達していて、当時はワーグナーに明け暮れ、デーィリアスに憩い、プッチーニに惑わされる変な中学生だった。

評論家の三浦先生や出谷先生の著述を漁るように読んだのもその頃。
そうした思い出が、懐かしさとして思い起こされ、繰り返されるのが、またディーリアスのディーリスたる由縁。ノスタルジーの連鎖であろうか。

そんなディーリアスのヴァイオリン協奏曲は、1916年、作者54歳の作品。
戦火を逃れ、ドイツからロンドンに渡ったディーリアスは、メイ&ビアトリスのヴァイオリンとチェロの姉妹二重奏を聴き感銘を受け、姉妹を前提に、このコンチェルトや二重協奏曲、デュプレで有名なチェロ協奏曲が書かれた。

だからイメージは3曲とも、似通っているが、このヴァイオリン協奏曲がいちばん形式的には自由でラプソディーのような雰囲気に満ちているように思う。
全曲が25分あまり、単一楽章で、明確な構成を持たず、最初から最後まで、緩やかに、のほほんと時が流れるように、たゆたうようにして過ぎてゆく。
評者によっては、曲を細分化して、その構成力を評価するらしいが、私にはそんな区分は無意味に感じる。

こうしたゆるさ、はっきりしない境界線の曖昧さこそが、ディーリアスの魅力なのだから。
いつも酒を飲みながら思う自分の優柔不断さ。
こんな自分に、つかず離れず、適度に付きまとってくれるのが、ディーリアスの音楽。
嫌いな人は嫌いなんだろな。

1984年、47歳で亡くなってしまった、英国名ヴァイオリン奏者「ラルフ・ホームズ」のソロに、名匠ハンドレーの指揮が素晴らしく詩的な演奏を聞かせる。
もうこのCDを購入して20年が経つ、これまで何度聴いたかわからない。
何度聴いても、明確な旋律線を見出せず、私の耳と心は、ディーリアスの世界にただようばかりだ。

ほかに、メニューインとM・ディヴィスの演奏もあり、こちらは少し演奏者の意識が見え隠れしてしまう。

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2007年3月 4日 (日)

ベルク 「ヴォツエック」 ドホナーニ指揮

Wozzeck 冬の終わり、徐々に春めき、夜の闇に梅や沈丁花の甘い香りが漂う晩、
空には月がぼんやりと浮かぶ。

2月の終わり頃の晩の雰囲気だ。
でも今年は、何だかわからないまま冬は去ってしまっていて、この雰囲気を味わえなかった気がする。
何故、こんなことを書いたかというと、こうした頃合に「ベルクのヴォツェック」を聴きたくなるからだ。こんなのは、わたし一人かもしれない。

1914年に作曲された時は、師匠シェーンベルクが十二音技法を編み出す前だったから、このオペラは無調と長・短調の間を行き来する調性で書かれているため、そんなに聴きにくい音楽ではない。
それどころか、ライトモチーフも用いられ、ドラマもわかりやすいから舞台で観るとたいへんな感銘を受けることになる。(はず)
解説書などに書かれているが、このオペラ、構成的にも非常によく出きていて、全3幕の各幕はそれぞれ5場からなり、さらに1幕は組曲、2幕は交響曲、3幕はインヴェンションという性格付けがなされているという。
また特定の言葉が重要な要素として結びつけられている。「血、ナイフ、月、夕日、赤・・・」
まあ、難しいことは抜きにこの救いのないドラマに付けた素晴らしい音楽に耳を傾けるのが良い。

ドラマはある意味、「道化師(パリアッチ)」と似ている。
洗礼を受けられない子を産んだ情婦を、連隊の色男の鼓手長に寝取られた理髪師あがりの平兵卒ヴォツェック。精神を徐々に病んでいきながらも、追い詰められていき、情婦マリーを殺害し、自身も錯乱のまま溺れ死ぬ。

ワーグナーやシュトラウスと違う現実主義のオペラだけに、身につまされる内容。
貧乏に苦しみ、そこから生まれた格差社会の悲劇でもある。
ヴォツェックは、大尉の髭を剃り、身勝手な研究に勤しむ医師の実験動物としても金を稼ぎ、マリーに渡している。
このお金を渡す時の音楽は妙に美しい。

殺される前のマリーが自責の念にかられ、聖書を朗読するがその背景に流れる音楽の美しさ、ことにウィーンのホルンで聴くとたまらない。
そして鳥肌が立つのが、殺害の場面の2回に渡る強烈なフォルテ。
さらに、私が絶大的に好きな部分は、池に溺れたヴォツェックの場面のあとの間奏曲。
まるで宿命的なまでのどうしようもなく美しい音楽。
その後の幕切れ、残された子供が、木馬で遊ぶ場面の不思議な幕切れ。
ここの最後の和音には救いを見出していいのだろうか・・・・・?

  ヴォツェツク:エーベルハルト・ヴェヒター   マリー:アニヤ・シリヤ
  アンドレアス:ホルスト・ラウベンタール    大尉 :ハインツ・ツェドニク

  クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Dohnanyi_1 アバド(映像)とブーレーズも聴いているが、録音が素晴らしくウィーンの音が楽しめるのはこの盤。ドホナーニ夫人シリアのマリアが素晴らしい。
この二面性あるアブナイ女性を見事に歌っている。ヴェヒターの特徴的なヴォツェックもいい。

ヘルマン・プライ」がアバドと組んで、挑戦するはずだったのに、その死で永遠に実現しなくなった。残念だ。指揮においては、ヴォツェックはアバドが一番だと思っているし。

Nikikai_wozzek 私の唯一の舞台は20年以上前の二期会の舞台。
日本語の訳詞が変にリアリティーあったし、皆迫真の演技だった。
そして何よりも、「若杉弘」の明確な指揮がすごかった。
完璧に自分の音楽になっていた。
赤い月が怪しく浮かぶ、葦の茂る池に向かっていくヴォツェックの後姿と、その後、誰もいなくなった場面で流れる音楽・・・・。忘れられない。
新国で若杉さんで、もう一度上演して欲しいな。

アバドやバレンボイムの公演に何故行かなかったか?今も不明。
ワーグナーにしか、金も気持ちも向かなかった。

バレンボイムの公演はこちら、ケーゲル盤はこちら、いずれもベルクに恋するnaopingさんのブログ記事です。

  

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2007年3月 3日 (土)

ボウトン 交響曲第3番 ハンドレー指揮

Holms 八王子で、「シャーロック・ホームズ」というイギリス風パブを発見して、好きなアイラ系のウィスキーを飲んできた。
本格的な食事もできるし、ランチタイムもあり、さらにティー・タイムにはサンドイッチやスコーン・ケーキなどが食べれるという、完全にイギリスしている店であった。こういうの大好き。

Holms2 壁にはこんなプレートあるし、ホームズの胸像やバスカーヴィルの犬の絵なんてのもそこここに置かれていて雰囲気いい。
音楽はポール・マッカトニーのライブ・ビデオが流されちゃってて、もう・・。
私の職・住エリアから、八王子は遠いけれど、また行きたい。

金沢にも「シャーロック・ホームズ」というショット・バーがあって昨年飲んできた。
いづれ、別館にてご案内。

Boughton_symphony3_1 今日の英国音楽は、ラトランド・ボウトン(1878~1960)の交響曲第3番。ロンドンの南東部にある、アイルズベリーという街に生まれたボウトンは、この時代の英国作曲家が皆、惹かれたように「ケルト文化」に心酔し、第2交響曲は「ケルト風」なんてタイトル付きだったりする。

それ以上に、私の気持ちにググッと来るものは、この人、「ワグネリアン」だったのである。
楽劇をいくつも残し、アーサー王ゆかりの地、「グラストンベリー」に自分の音楽祭をはじめた。「The Immortal Hour(不滅の時間)」という楽劇は当時かなり上演されたらしい。
CD2枚のサイズで、ハイペリオンから出ているので、是非押さえておきたい楽劇だ。

作風は、ワグネリアンだからといって、たじろぐ必要のない聞きやすいもので、エルガーやV=ウィリアムズらの延長上にあるといっていい。同じケルト好きのバックスよりは聞きやすいかもしれない。
オペラの人だけにメロディも押さえやすいし、カッコいいサウンドも髄所に聴かれる。
3曲ある交響曲のうち、1番は「クロムウエル」をイメージして書かれ、2番は自作のバレエ音楽からの転用、ということで3番だけが交響曲として書かれた純粋なものらしい。

1楽章はやや保守的な響きも感じるが、2楽章の抒情的な美しさ、3楽章の舞曲のようなリズムのかっこよさ、終楽章の燦然たる響き。エンディングの輝かしさはなかなかのもので、こんな雰囲気のオペラなら、ワーグナー好きも唸らせることができるかもしれない。

いつものように、こうした曲では「ヴァーノン・ハンドリー」は最高。「ロイヤル・フィル」もいい。
ボウトンの「グラストンベリー音楽祭」がいつまで続いたかは不明だが、今は巨大なロックの音楽祭が行なわれている模様。う~む。

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