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2007年5月

2007年5月30日 (水)

チャイコフスキー 交響曲第3番「ポーランド」 アバド指揮

Biei 初春の北海道
4月でもこんなに寒々しい。

美瑛から富良野のあたり。
夏とはまさに別世界。訪れる人とてなく、閉ざされたまま。

北国は、街はオールシーズンだけれども、それ以外は一年の1/3が隔絶されてしまう。

日本は広いわ。

Abbado_tchaikovsky3 チャイコフスキーの交響曲第3番は、6曲の交響曲のなかでも一番地味だ。
私がこの曲を聴いたのは6曲の中でも一番最後で、間違えてB面から聴いても、さっぱりわからなかった。交響曲というより、バレエ音楽かいな?と思った。

余談ながら、今度タワーレコードが復刻する寄せ集め的、交響曲全集の3番は「アツモンとウィーン響」だ。
これは、DGが70年代に目論んだ「大交響曲全集」のチャイコフスキー編の一部で、当初「ムラヴィンスキー様」に全部録音してもらおうとしたが、当然無理で、1番=T・トーマス、2番=アバド、3番=アツモン、後期3曲=ムラヴィンスキー、という、それこそ元祖寄せ集め全集になってしまった。この中の唯一新録音が、アツモン盤で、記憶によれば単独発売はされていないはず。だから、このアツモンの3番買いで、タワーのチャイコ全集はお薦めですよ!

やれやれ、昔ばなしは止まらないのだ・・・・。

3番は、有名なピアノ協奏曲と白鳥の湖の狭間に書かれた交響曲で、5楽章の変則。
シューマンの影響と、ふたつ並んだスケルツォ的楽章は、メンデルゾーンの影響もあるという。そうした、外見はともかく、音楽はまさに、豪華でかっこよく、ほどよく民族的、まさに日頃聴いてる親しみあふれるチャイコフスキーの音楽そのもの。
しみじみ聴けば、ほんといい曲。あまり深刻でないのもいい。
「ポーランド」の名称は、終楽章がポロネーズのリズムで出来ているためという。
まだお聴きでない方は、是非一聴をおすすめします。

アバド/シカゴ響の全集の最後の1枚。1番とともに、アバドがこんな曲を振るなんてもうありえない貴重な1枚。
これが、あのシカゴ? と思わせる軽やかで、しなやかな音。
みんな半分くらいしか力を出していないのではないの?と思わせるくらいに、肩の力が抜けていて、聴いてて実に気持ちがいい。
でもシカゴの威力はそこここに聴いてとれる。最後のしつこいくらいのクライマックスは、さすがと思わせる。
一方で、3楽章アンダンテの寂しい抒情も、アバドらしい歌が満ちた桂演。

この曲のあとに痛快な「1812年」が、カップリングされていて、ついにシカゴ・パワーが炸裂する!

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2007年5月29日 (火)

ブルックナー 交響曲第7番 アバド指揮

Kyoto_kiyomizu_sunset 少しまえの出張で訪れた京都
清水坂を登りながらの夕日。

大急ぎで仕事を終え、せめて行きたい観光スポット。
しかし残念ながら、5時で門が閉まってしまった後。

宵闇迫るなか、ひとり産寧坂を下り八坂方面へ。
もう一歩きすれば、祇園が待ってる・・・・。

Abbado_bruckner7 アバドの交響曲、今日はブルックナーの第7番
剛より柔のアバドの資質からして、ブルックナーのなかでも一番アバド向きの曲。
おまけに、ウィーンフィルという、ブルックナーには理想的な伴侶を得てこれぞ「7番」という演奏を残してくれた。
ウィーンフィルのまろやかな響きは、南ドイツ的なあたたかいブルックナーの特質にピッタリで、ことにホルンを中心とする管とやわらかな弦とのハーモニーは、ほかには替えがたい。

ブルックナーが7番を仕上げたのは、1883年。ワーグナーの亡くなった年。
その死が近いのを予見し、その悲しみを長大な第2楽章に込めた。
そして作品は、ワーグナーのパトロン、悲劇のルートヴィッヒ2世に捧げられた。
これだけキャストが揃うと、ワーグナー好きとしては捨ておけない作品だが、その音楽はワーグナーの雄弁さとは次元を異にして、自然と宗教を賛美する慎ましさに満ちていて、人間臭さがまったくない。これはブルックナーの音楽すべてに言えることだけれども。

4つの楽章は、長さの点でアンバランスだけれども、アバドはそんなことはまったく感じさせない。そしてアバドの指揮で聴く終楽章が、本当に素晴らしい。
終楽章は、いろいろな主題が小刻みに交錯しつつ、音楽は常にゆったりとした呼吸をもっていなくてはならない。アバドはこうした部分は、最も得意とするところ。
伸びやかに歌いつつ、リズムの良さは抜群で、音楽がどこまで拡がっていくのかわからないくらい。

ウィーンフィルを信頼して、その響きに乗ってしまったアバド。そしてアバドの歌心がウィーんの面々を解放してしまう。そんな幸せな結びつきのブルックナー。
一部のブルックナー・ファンからは、ダメのレッテルが貼られそうだが、私は大好き。

ウィーンを離れてしまい、ベルリンも卒業したアバドは、ルツェルンでまたこの「7番」をとりあげた。そこでは、ウィーンフィルとの共同作業はもうなく、アバドの感じた、純粋な「音楽」だけが鳴り響くようになった。
このウィーン盤が64分、ルツェルンでは60分を切る演奏時間となったが、中身が濃いから短く感じない。
ルツェルン盤は、「アバドの音楽への奉仕」に心から共感する楽員による最上級の音楽。

そして、今日の旧盤は、いまだに進化を続ける「アバド」のウィーン時代の美しい録音。

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2007年5月28日 (月)

シューベルト さすらい人幻想曲 ポリーニ

Kominato 千葉県の小湊鉄道
JR内房線の五井駅(市原市)から、千葉内陸部の上総中野駅(大多喜町)までを走るローカル鉄道。

とか紹介しながら、私は乗ったことがありませぬ。千葉に住んでいながら、あまりにでかい県だから未踏の地がたくさんある。
さらに県内ならば、車で移動してしまうので、この手の路線には縁がない。
たまたま、五井周辺で仕事があり、駅橋上からパチリ。
ローカル線を絵にかいたような、なかなかにいい雰囲気に、しばし旅情に誘われるものがあった。
「さすらい人」としての本性がモコモコと沸きあがる。

Schubert_wanderer_pollini しょうがないから、音楽でさすらおうじゃないか。
シューベルト25歳の作は、別にさすらい人を想定して書かれた曲ではないが、第2部が自作の歌曲「さすらい人」の主題による変奏になっているため、「さすらい人幻想曲」と呼ばれている。

そして、音楽はこの2部がやたらと美しい。流れるような抒情に満ち溢れていて、そのめくるめく詩情は止まるところがない。
今晩、久方ぶりに聴いて陶然としてしまった。

他の楽章は明るく、しっかりした足取りで元気が一杯。シューベルトにしては珍しく、技巧的にも高度で強烈な打鍵による迫力溢れるピアノの響きも楽しめる。

若きポリーニは、こんな特徴をあますことなく弾き出して見せてくれる。
ありあまるテクニックに余裕を見せながら、シューベルトのみずみずしい抒情がそこから沸き立つように香ってくる。どこもかしこも、明晰な光があてられて輝いている。
ドイツ的なふくよかなロマンを味わうには、もっと違うピアニストがいいだろう。

ジャケットは、シューベルトと同時代に活躍したドイツロマン派の画家「ダーヴィド・フリードリ」の「雲海の上の旅人」。広大な景色を前に佇む紳士。実によろしい。
国内初LPは、緑の中にはにかむ若きポリーニの写真だった。
もう30年以上前か、心は過去に逍遥・・・・・。

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2007年5月27日 (日)

ワーグナー 「神々の黄昏」 ブーレーズ指揮

Gotter_1



























ブーレーズの週末リングも「神々の黄昏」にたどり着いた。
ともかく長い。
マシタージンガー、黄昏、パルシファルと続いた3作ともに、4時間を越える大作で、3幕がそれぞれ、2時間・1時間・1時間20分と、配列こそ違え、みな同じ長さ。

ワーグナーがもう少し長生きしてたら、次はどんな超大作を書いたろうか?
え?もう勘弁してくれって?そりゃそうだ・・・・。

Gotterdemarung_boulez











シェロー
は、黄昏の舞台となるギービヒ家のある街を、20世紀初頭の港街にしてしまった。
群集は、港湾労働者やスーツを着込んだサラリーマンたち。武器はライフル銃に何故か槍。
いつも思うが、ワーグナーがモティーフまで与えている重要なアイテムは剣や槍、頭巾だったりするので
時代設定を変える場合に、そのアイテムが無視されてしまうか、滑稽な場違いなものとして登場してしまうか、難しい問題である。
 あのウォーナーのリングでは、槍のようなものは出てきたが、ウォータンはそれをいつまでも、ほったらかしにしたりして、見ている私をやきもきさせくれたもんだ。

Gotter_4











シェロー演出は、昨今のものほど過激でないから、そのあたりの違和感はあまり感じくて済む。

黄昏だけは、録音が1979年のものでアナログ録音である。CDで楽しむ限り、前3作の80年デジタル録音となんら変わりない鮮明な録音が楽しめる。
 そして相変わらず、ブーレーズの指揮は冴え渡り、この長大な作品を弛緩なく見通しよく振りぬいている。
ブーレーズの棒を持たない指揮は、拍の取り方が明確なために、リズムがしっかりしている。彼の音楽がいつも明晰で、かつ若々しさを失わないのはこのリズムの徹底からであろうか。最近のマーラー演奏もそうしたことが言える。ベルリンシュターツカペレを振って、「千人交響曲」を録音したらしいから、いまから楽しみでならない。

Boulez_ring












ミーメが好きなように、私は人のよいギービヒ家の兄・妹「グンターとグートルーネ」が好きである。
優柔不断で、異母兄弟のハーゲンにまんまと騙される二人が、ここでも哀れ。
歴代の歌手達を見ると、録音では名手が起用されるツボの役柄なのだ。
グンターは、F=ディースカウ、ステュワート、ヴァイクル、ハンプソン。
グートルーネは、ヤノヴィッツ、ワトソン、ドヴォルジャコーバ、ステューダー。
いずれも、ウォータンやオランダ人、ジークリンデやエルザを歌うような人々。
こちらブーレーズ盤は、「フランツ・マツーラ」と「ジャニーヌ・アルトマイア」のコンビ。
特にマツーラは、私は最高のグンターと思う。少し陰りを帯びた声は、名家に生まれた凡人の悲しみをよく歌いだしている。パンチの効かないくたびれたヒューブナーのハーゲンより、立派に聞こえるのも皮肉なもんだ。
このマツーラ、クリングゾルとシゴルヒのスペシャリストだ。まさに性格バスバリトン。
ウォータンも時おり歌っていたらしいので、音源があれば聴いてみたいもんだ。
 アルトマイアーも良い。ジークリンデ役がグートルーネを歌う。母に恋するこれまた、お人よしジークフリート。

Gotter_2_1












長大作品も3幕に入ると、ドキドキしてくる。
ラインの光景と原初の響きも鳴り懐かしい。そしてジークフリートの記憶の回復とともに、鳥の歌が再現され、ジークフリートは槍に倒れる。葬送行進曲は目をつぶって聴きたい音楽だ。舞台の不要な動きはいらない。
ヴィーラントは舞台を暗闇の無の状態にしてしまったという。そして、ブリュンヒルデの最高の聞かせ所が最後の大団円とともにやってくる。

シェローは、群集を登場させ、燃えるワルハラを傍観させた。そして最後に群集はこちらを向き、聴衆に問題を投げかけるかのようなエンディング。
グィネス・ジョーンズ」のブリュンヒルデは私にとって、相変わらず、いぶし銀中低音域が魅力だが、第2幕の激昂する場面では「歌いとばし」がかなり気になった。

音楽だけ聴いていると、ともかくリングを聴き終えた達成感もこみ上げてきて、最後に救済の動機清らかにが鳴り響き、静かに終わると感激の渦に飲み込まれてしまう。
こんなことをこれまで何度繰り返したかわからない。そしていつかまた「ラインの黄金」の自然の動機にまた舞い戻る自分がいる。

 ワーグナー  楽劇「神々の黄昏」

  ブリュンヒルデ:グィネス・ジョーンズ   ジークフリート:マンフレート・ユンク
  ハーゲン   :フリッツ・ヒューブナー  グンター   :フランツ・マツーラ
  グートルーネ :ジャニーヌ・アルトマイア 
  ワルトラウテ :グヴェンドルン・キレブリュー

  
          Ⅰ:110分   Ⅱ:61分   Ⅲ:72分

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2007年5月26日 (土)

ティト・ゴッピ  オペラ・アリア集

Sansyuya 銀座「三州屋」にまた行ってしまいましたわ。

以前、ブログ仲間の方々と白昼から訪れた名店。

先週のこと、今度は宵闇迫るなかの訪問。やはり混んでいて、かろうじて席を確保。
見てちょーだい、この刺身の美味そうなこと。
上から〆サバ、かつお生、カンパチ、鮪赤身・・・。
この時期、かつおのネットリと濃厚な味には、芋焼酎が極めて合いますぜ。画像でバーチャル飲みが出来そう。

Gobbi 今晩は、鮮度抜群のイタリアのバリトンを聴きましょう!

ティト・ゴッピ」、もう過去の名歌手となってしまった。私のような中年世代にも、レコードでしか聞き得ない歌手だった。
1959年のNHKイタリア歌劇団による来日公演は、伝説的な「オテロ」を生み出した。
「マリオ・デル・モナコ」と「ティト・ゴッピ」が火の出るような熱い歌唱と演技でもって、日本のオペラ史に残る上演を残したのだ。
 もちろん、この映像を見たのはずっと後のこと。
時代を感じさせる音と画質、そしてその伝説的な演技も今の視線で見ちゃうと、時代がかっていてちょいと大げさ。でも役に没頭するあまりの異常なまでの目線や微細な動きに目が釘付け・・・・。
そして、何よりも圧倒的な声!ただでさえ凄まじい二人の声に、役になりきった演技。
この二人のおかげで、「オテロ」は、他の人ではダメになってしまった。
デッカに残した、デル・モナコの録音がプロッティでなくて、ゴッピであったならば・・・・・・。

「ゴッピ」=「イャーゴ」と同時にスカルピア、レナート、マクベス、ジェラール・・・、そうイタリア・オペラの仇敵バリトン・ロールは、どれもこれも素晴らしい。
バスティアニーニの気品とクールさとは裏腹に、ゴッピは徹底的に役に染まり、憎たらしいまでの凄みを歌い出す。欲張りな私には、どちらも魅力だ。

このCDは、48年~63年までの録音が集められていて、エレーデ、サンティーニ、ファブリティ-スほかの渋い名匠たちが雰囲気よく伴奏している。
「アルルの女」「ザザ?」「ドン・カルロ」「オテロ」「運命の力」「フィガロ」「仮面舞踏会」「愛の妙薬」「ナブッコ」「マクベス」「アンドレア・シェニエ」「聖母の宝石」「西部の娘」「ウィリアム・テル」「シモン・ボッカネグラ」「アドリアーナ・ルクヴルール」「フェドーラ」「ファルスタッフ」
フゥ~う・・・、こんなに盛りだくさんのオペラから、ゴッピの歌が集められていて飽くことがない。作品の名前と作曲者が結びつきますか?

どれもゴッピの以外なほどの自在な歌が堪能できるが、特に気にいったのは「アドリナーナ・・」のミショネの歌唱。舞台袖から、密かに愛する大女優アドリアーナを心配そうに見守る舞台監督ミショネ。そのいじましい役柄は、こうした強烈なバリトンがそっと歌うことによって味が出る。男の後姿を見守るようだ。 顔で笑って、心で泣いて・・・・

もちろん、イャーゴもやたらに素晴らしいですよ。
男ゴッピ! 84年(たしか?)に亡くなって久しい。

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2007年5月25日 (金)

ブラームス 交響曲第3番 アバド指揮

Torigata 秋田県大館市にある「鳥潟会」。

この地(かつては花岡町、現大館市)に生まれた「鳥潟隆三」の生家。
鳥潟家は、佐竹藩の時代にまで遡る名家で、隆三氏は京都帝大教授までなった秀才で日本の外科医学に多大な貢献をしたという。

さらに同家からは、無線電話の発明者や、欧州で名の知られた世界的軽業師などが生まれた。
その一族の家が、市により保全され、拝観できる。京都から職人を呼んで作らせた庭は、北東北とは思えない風情があった。

Abbado_brahms3

アバドの交響曲、シューマンがないので、次はラームス。アバドはずっとブラームスを演奏し続けてきた。交響曲と協奏曲はそれぞれ2回以上、声楽曲も何度も録音している。

アバドのブラームスには、新旧を問わず、ドイツ的な響きではなく、アルプスの南側的な明るい響きがある。ブラームスが思いあこがれていた音の一面を見事に照らし出しているアバド。
 ことに2番と3番の交響曲、2番の協奏曲、合唱曲などは、まったくツボにはまっている。
ベルリンフィルから、こんなに歌謡性豊かな響きを引き出していることが驚き。
3番の交響曲で、私が一番好きなのは、第2楽章。早めのテンポでとどまることなく歌われる、やさしい木管の歌。やがて弦がそれをなぞりながらも、明るいロマンの森へいざなうような美しい展開へ導いてゆく。このいかにも、ヨーロッパ的なサウンドにずっと浸っていたいと思う。

ブラームスの英雄交響曲なんて、とんでもない。2番と並ぶ自然派交響曲でありましょう。
2番から6年後、1883年、作者50歳の作品。この年こそ、ワーグナーの亡くなった年。
もうリングもパルシファルも世に出ていたことを思うと、頑固爺さんのブラームスが微笑ましい。
26歳の女声歌手に恋していた50歳のブラームス
独身だったとはいえ、いいねぇ。我々オジサンたちも、見習わなくっちゃ??

1973年に、アバドはウィーンフィルとともに初来日した。
NHKで、ブラームスとベートーヴェンの3番の演奏会を見た。アンコールは「青きドナウ」。70年頃からDGへの録音が本格化し、アバドが好きだったが、この来日で完全にアバドのファンとなった。長髪を振り乱し、真摯に名門オケを振る指揮姿もよかった。
極めつけは、アンコールで、こともあろうに彼等の国家ともいえる曲で、木管が出を間違えてしまった。アバドと楽員たちは、さも可笑しそうに、もうニコニコとしながら演奏を続けた。
音楽の楽しさを見せ付けられるような思いだった。

そのアバドの1回目のブラームス全集は、4つのオケを振り分けたもので、むしろそちらのほうが好きなくらい。いずれ、特集しましょうかね。

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2007年5月24日 (木)

ベルリオーズ 幻想交響曲 アバド指揮

Ginza_6

銀座の街角から。

銀座の新参者、エルメスのある意味無機質な組みガラスのビルと、銀座の街並みの老舗不二家とキャノンの対比が面白い。

Abbado_berlioz_1ベルリオーズの幻想交響曲」が世に登場したのは1830年のこと。
ベートーヴェンの第9が1824年に初演され、シューベルトのグレイトが1928年。
シューマンはまだ交響曲を書いていないし、リストやワーグナーはまだ10代。ブラームスに至ってはまだ生まれていない!

「幻想交響曲」がもつ革新性にあらためて驚き。
リストやワーグナーが好んで取上げた「ライトモティーフ」は、この作品が原点とも言えるかもしれない。
夢想する作曲家ベルリオーズは、破天荒な生き方をしたが、その人生を写すようなこの交響曲。
恋に敗れた若い芸術家が、阿片自殺を図るが、致死量にいたらず、幻想に取り付かれ、恋する女性を裏切りと妄信して殺害してしまう・・・・」というすさまじい内容。
もう呆れて、ものが言えませぬ。
昨今の世の中では、あながちありえない話でもないところが恐ろしいぞ。

まあ、こんな内容を気にせずに、ベルリオーズが残した美しくも、賑々しい音楽に身を任せましょう。よく聴けば、ほんとうによく書けている音楽なんだから。

かつてこの曲にやたらとはまった時があった。棚には16枚の幻想が並んでいる。
どれも楽しんだ1枚だが、「アバドとシカゴ響」のDG盤は、目覚しい録音の素晴らしさも相まって、初出のときから愛着をもっている。
83年の録音で、シカゴ響は、ショルティがギンギンに頑張っている頃だったけれど、豪気なショルティの作り出す鋼のような音に比べ、アバドが振ると、強靭な音を背景にしなやかな歌に満ちた響きを出すようになった。
この幻想も、ブラス陣のとてつもない音塊に、さすがはシカゴと思わせるが、この演奏の真髄は第3楽章の「野辺の情景」ののびやかで、映画のひとコマのような美しいシーンの描写である。
若い頃は、断頭台や魔女のロンドの大音響に酔ったものだが、歳を経てくると前半の方が耳に馴染むようになってきた。

終楽章の鐘の音は、たしか「広島の祈念公園」の鐘を使ったはず。
今宵、「酒気帯び幻想交響曲」をしていると、なんだかんだ言って後半のはちゃむちゃな大音響に興奮を隠せない自分を見つけることになる・・・・。

アバドはロンドン響と日本にやってきたことがあって、バルトークのマンダリンと、この幻想を演奏した。他のマーラーを中心とする全3プログラムをすべて聴いたが、いずれも火の着くような熱く輝かしい演奏だった。
 超円熟のいま、例のドゥメダルのベネズエラのユースオケを指揮して、幻想をライブ録音しているので、近いうちに聴けるであろう。
いつまでも、若いマエストロである。

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2007年5月23日 (水)

メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」 アバド指揮

Ninomiya_sikenjyou

前回ご紹介の「しろつめ草」 の群生。

これだけ一斉に集まると、にぎやかな初夏がいちどきにやってきてしまったようだ。

花々は春から夏にかけて思い思いに咲き乱れるけれど、冬にも少しはその彩りを分けて欲しいものだな。

Abbado_mendelssohn

実は、アバドが録音した交響曲の数々を、年代を追って取り上げている。
今日は、メンデルスゾーン。
アバドはデビュー当時から、メンデルスゾーンを好んで取上げ、複数のレーベルにその録音を残した。
ロンドン響とのデビュー間もない67年の3・4番の録音、同じロンドン響との全集、そしてベルリンでの95年のジルヴェスター。
今回の4番は、ベルリンフィルとのジルヴェスター・ライブのもの。

思えば、我々日本国で、大晦日はベルリンのジルヴェスター、数時間後の元旦の晩は、ウィーンのニューイヤーがテレビで楽しめるようになって何年経つだろうか?
 カラヤン時代からと記憶するが、カラヤンのジルヴェスターは、有名曲のオンパレードで、通常のコンサートの延長のように思われた。
 アバド時代は、シーズン定期に大きなテーマを定め、その関連芸術をベルリン市をあげて取り組むようになった。こうしたコンセプト計画のうまさはアバドのマルチぶりを示していて、アバドの偉大な業績のひとつでもある。心無い人は、アバドの音楽を無能呼ばわりするけれど、ウィーン時代から続くアバドの音楽を藝術の総合と捕らえる思考をよく見極めて欲しいものだ。
ジルヴェスターも同様に、毎年テーマを定めて選曲がなされた。

こうしたコンセプト造りは、ラトルにも引き継がれている。
音楽の嗜好が似ているため、今のところ録音も同じような曲が続いている。
ラトルはデビュー当時、尊敬する指揮者として、「アバドとハイティンク」を挙げていた。
寡黙だが、音楽に語らせる・・・というような意味ことを言ってたはずだ。

寄り道しすぎたけれど、95年のジルヴェスターのテーマは「メンデルスゾーン」。
「真夏の夜の夢」と「イタリア」が演奏された。
この真夏の夜が実にロマンティックでよろしいが、今晩は、「イタリア交響曲」を。

一口で言うと、こうした名曲を隅々まで知り尽くしたコンビによる自在な演奏。
軽やかで、音色はどこまでも明るく、嫌みをまったく感じさせないスリムな響きに満ちている。初期LSO盤の、はち切れるような歌にみちた演奏もいいし、大人のコンビが素直に楽しむかのようなベルリン盤も実によろしい。

5月とは思えない暑い陽気も、アバドのメンデルスゾーンは爽やかな一陣の風でもって、リセットしてくれたようだ。

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2007年5月21日 (月)

ハウェルズ 「楽園賛歌」 ヒコックス指揮

Ninnomiya_sikenjyou2しろつめ草」、いわゆるクローバー。この時期、道ばたや野辺にさりげなく咲いていたり、公園などでは群れなして咲いていて、妙にきれいだ。

その儚さがいい。
子供達が、首飾りにしたり、リースを編んだりしている休日の風景。

Howells_hymnus_paradisi 英国作曲家「ハーバート・ハウェルズ(1892~1983)」は抒情派で、エルガーやRVWの流れをくむやや保守的存在。
この人が大好きで、ショップでは必ずチェックする作曲家。
かなり早熟型の人で田園情緒に溢れた名作を書いたが、40代半ばにして、最愛の息子マイケルが9歳にして早世してしまう。
天使のよう顔を持ち、音楽とスポーツが大好きだったというマイケル。
家族でハウェルズの愛する故郷グロースターシャーで夏の休日を楽しんだ。
しかし、息子がポリオに冒されていたことが発覚しロンドンに帰らざるをえなくなった。しかしマイケルは空しく亡くなってしまう。

愛する息子の死により、ハウェルズの音楽は宗教的な深みを増し、息子を偲ぶかのような音楽を書き続けるようになる。
子を持つ、同じ世代の人間として、心が張り裂けそうになるくらいに同情できる!

そんな気持ちを持ちながら、ハウェルズが息子の死後1938年に書いた「楽園賛歌~Hymnus Paradisi」を聴くと思わず涙が出てくる。
これは、45分あまりの、独唱と合唱による6章からなる、神への感謝と死を悼むレクイエムなのだ。
切実なオーケストラによる序奏からして胸に響くものがある。
英語による歌唱は、ときおりラテン語による聖歌もまじえながら、希望・慰め・怒り・法悦といった要素を絡めながら、やさしくも劇的に進められる。
終章では、ハレルヤと独唱が極めて印象的に美しく繰り返し、静かな感動的な集結を迎える。なんて素晴らしい音楽なのだろう。
癒しの音楽なんて薬にしたくもない、人間の心情に溢れた、切実なる真実の音楽がここにあると思う。

     S:ジョアン・ロジャース    T:アンソニー・ロルフ・ジョンソン
     Br:アラン・オウピ  
       リチャード・ヒコックス指揮 BBC交響楽団/合唱団

ヒコックスの指揮に、素晴らしい独唱陣・合唱、何もいうことありません。
このヒコックス盤のほか、ハント盤を聴いている。
ハンドレーやウィルコックスも聴いてみたい。

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2007年5月20日 (日)

ワーグナー 「ジークフリート」 ブーレーズ指揮

Siegfreid_boulez2 ブーレーズによる週末リング、「ークフリート」の登場である。
ジークフリートは、ほとんど男のドラマで、大きな動きもなく地味。
他の3作が、単独でまたは、一部を取り出して演奏されるのに、このジークフリートは「森のささやき」を除いては皆無。

でも、私のようなテノール好きにとっては、実にうれしい演目。
ヘルデンとキャラクターの両テノール役の歌がたっぷりと楽しめるから。

76年プリミエのシェローのバイロイト100年リング。
初年度は散々だったと、何度か書いたけれど、歌手は次年度からガラリと変わってしまった。
76年のジークフリートは、「ジークフリート」が「ルネ・コロ」、「黄昏」が「ジェス・トーマス」というベテランによる豪華版だった。
たしか、コロのジークフリート初挑戦だった。儚い記憶だが、FMで聴く限りはちゃんとした歌だったけれど、1年で降りてしまった。おまけにコロは音楽祭の会期中怪我をして舞台に立てなくなってしまった。
動きの激しい極めて演劇的な役に代役とてなく、コロは舞台そでで歌唱に徹し、シェローが演技のみを担当したエピソードがある。笑えるような、シンジラレナイようなお話。

Siegfreid_boulez 次年度から登場したのが、当時無名の「マンフレート・ユン」だった。
初めて聴いた時の印象は、ずいぶんと明るく丸っこい声だなぁ、という印象。
以来4年間、ジークフリートを歌いぬいた彼は、抜群の声量と体力を持っていて(多分?)その名のとおり、若々しさでは、黄昏よりは野生児のジークフリート向きのいい意味でのオバカさんテノールだった。力強さといい意味での個性が欲しいところか。
このユンク、次の「ピーター・ホール」演出でもジークフリート役だった。
1年で降りてしまった「ショルティ」が指名したのは、たしか「ライナー・ゴールドベルク」だったが、極度に本番に弱いゴールドベルクもコケて、またもやユンクとなった次第(のはず)。

Mime_1 ユンクも頑張ったが、そのジークフリートより、シェローの演出と相まって見事な成果を上げたのが「ハインツ・ツェドニク」。ローゲもいいが、やはりこの人はミーメだな。
映像で見ても、あんなに細かい演技をしながら、なんで歌えるんだろう、と感心してしまう。
CDで聴くだけでも、抜群の歌唱力が味わえる。歌のないところでも、鼻歌みたいのが聞こえるし、ひぃ~ひぃ~言って笑うところもいやらしい。歌と合わせて、まさに声による演技がここに極まれり。
歴代、キャラクターテノールによるミーメの中でもツェドニクは最高。笑いながら凶暴ジークフリートに刺されて死んでしまうのが哀れを誘う・・・・。
Mimewotan かつては「シュトルツェ」に親しんだもんだが、今聴くと過剰にうますぎる歌が、ちょっと古臭いかもしれない。ベームの「ヴォールファールト」もいいがちょいと真面目すぎ。
「ハーゲ」もよかったし、忘れられないミーメはあと一人、「グラハム・クラーク」。

ちょっと「ミーメ特集」になってしまった。イヒヒヒ・・・・。

Siegfried_boulez_1  ついで、恐竜ファフナーのお話。
恐竜または大蛇を舞台でどのように登場させるか、舞台ではひとつの見所。まぁ、どんな演出でも、吹き出してしまうのだけれど。

シェロー演出は、ごらんのような滑車付きの恐竜が、ガタゴトと黒子に押されて出てきて、笑いを誘う。
ウォーナーのトーキョーリングの竜は、すごくよく出来た仕掛けだったし、二期会のものは、ヤマタノオロチのようなトグロ巻きに大蛇だった(記憶は曖昧)。

ヴィーラント演出では、恐竜の怪しい目だけが光っていたようで、Siegfreid_eye
これは、これで象徴的な演出の典型かと。
これに向かってジークフリートは、どうやって戦ったのかしら?

ブーレーズの指揮するオーケストラは、ここでも明晰な響きが新鮮。
1幕の鍛冶の場面では、剣を精錬するジークフリートは自分でトンカンせずに高炉で自動精錬するが、金床を叩く音がここでは遠い工場から聞こえる。にも係わらず手ぶらのユンクの歌はやや精彩が上がらないが、その分オーケストラの音が明瞭に聞こえ、歌よりオケに耳を奪われてしまった。
録音のよさも手伝って、第1ヴァイオリンはバイロイトの特殊配置通り、ちゃんと右側からすっきりと聞こえる。まったく音が混濁していないのだ。

Siegfreid_boulez3   ジークフリート:マンフレート・ユンク
   ミーメ     :ハインツ・ツェドニク
   さすらい人  :ドナルド・マッキンタイア
   アルベリヒ  :ヘルマン・ベヒト
   ファフナー   :フリッツ・ヒューブナー
   エルダ     :オルトルン・ウェンケル
   ブリュンヒルデ:グィネス・ジョーンズ
   森の小鳥   :ノルマ・シャープ

              Ⅰ:75分    Ⅱ:74分   Ⅲ:75分

最近はジークフリートは、1、2幕の方が聴きやすい。3幕と「黄昏」は、作曲技法が極めて円熟しつくしていて、その錯綜する音楽を受け止め続けるのが辛い時もある。
でも聴いちゃうんだろけど・・・・。

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2007年5月18日 (金)

シューベルト 交響曲第1番 アバド指揮

Mokoubara_2木香薔薇(もっこうばら)」

2~3cmくらいの小さな黄色い花が咲き乱れる棘のないバラ。
垣根に垂れ下がる様子が美しい、
5月の庭。

Abbado_schubert_2 シューベルトの交響曲第1番 ニ長調は、16歳の若書き交響曲だ。といっても、35歳の生涯だから若いも何もないけれど。
1番の前には習作的な序曲がいくつか書かれ、神学校を卒業するにあたって満を持して書いた本格交響曲。
重厚さを出そうとした部分などがあって、力みが見られかえって微笑ましく思う。
でも何と言ってもそこはシューベルト、やさしくたおやかなメロディが汲めども尽きぬようにあふれ出てくる。

重い序奏を持つが、いきいきと楽しい1楽章に続く、アンダンテの2楽章が美しい。
いかにもシューベルトを思わせる、伸びやかな抒情がいい。そして、時おり気分転換のように短調に転調し、ふっと悲しみがよぎるところなどたまらなくいい。
楽しいレントラー風のトリオを持つ3楽章。繰返しの弾むようなリズムにのった明るい終楽章。

アバドが87年にヨーロッパ室内管と、一挙に録音したシューベルト全集は全編、歌う喜びに満ちたアバドならではの演奏である。
4番以降は、自筆稿をもとにした初の録音だったが、グレイトなどは聴きなれないフレーズが出てきて驚いたもんだ。

アバドは、この1番を昔から得意にしていて、若き日のウィーンフィルとのFMライブなどは、すがすがしい美演だった。
このCDでは、若い室内オケの抜けるように明るく、透き通った音色を充分に活かした演奏で理想的なシューベルトを残してくれた。

この全集が発売された頃、アバドはこの手兵と来日して、シューベルトの交響曲全曲チクルスをやった。ペライアを伴なって、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲との組合わせで。
私は協奏曲の2番と「グレイト」のコンサートを聴いたが、あまりに精妙かつ新鮮な演奏に、ずっと耳を澄ましっぱなしだった。ペライアのピアノの美しさにも驚きだったし。

シューベルトの交響曲、5月の晴れた1日に相応しい音楽であり、演奏である。
あ~気持ちがいい~。

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2007年5月17日 (木)

ベートーヴェン 交響曲第4番 アバド指揮

Ninnomiya_fuji_1 藤の花、これはやはり棚にたわわに咲き誇る姿が美しいが、山の斜面などに、人の手を経ないで 咲いているのも、その淡い紫が素適である。
甘い香りは陶然と人を酔わせるかも。

Abbdo_beethoven_4

「ふたつの北欧神話の巨人にはさまれた、ギリシアの乙女」
シューマン
がベートーヴェンの4番の交響曲を評した言葉。
個性的な大交響曲の狭間に咲いた愛すべき作品が好きである。
同時期の同番のピアノ協奏曲もいい。

エロイカであれだけ強烈な冒頭を作りだしているのに、以外や神妙な序奏による開始をともなう第1楽章。
そのあとの勢いある第1主題は明るく気分が開放的になるし、木管による第2主題も素適だ。
でも何と言っても、ロマンあふれる第2楽章のアダージョが好きだな。
ヴァイオリンで奏でられる美しい歌に満ちた第1主題。クラリネットのはにかむような第2主題。これらの背景には低音楽器の伴奏が常にやさしく伴なっている。
おっとりとしたのどかな雰囲気のトリオを持つスケルツォの第3楽章。
性急な開始が抜群の躍動感とともに発展し続ける、これも明るい終楽章。

アバドが80年代後半から90年代初めにかけて完成させた、ウィーンフィルとの全集。
クリムトベートーヴェン・フリーズをジャケットに使ったシリーズは、1枚づつ発売され、全集完結に向けてCDを収集する無常の喜びを味わせてくれたもの。
アバドの音楽性にあった曲だけに、どこまでも伸びやかな歌に満ち、スッキリと実に気持ちがいい演奏になっている。
本音をいうと後のベーレンライター版よりは、ウィーンとの演奏の方が好き。
ウィーンフィルの美質をあますことなく引き出した、これはこれで個性的といえる全集の中でも偶数番号がいいのはワルターみたいだ。

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2007年5月16日 (水)

モーツァルト 交響曲第36番「リンツ」 アバド指揮

Ninomiya_margalet 初夏の花々は眩しいくらいに素適だ。アゼリアのように香りも色も濃いと少し疲れてしまうけれど、このくらいが楚々としてちょうどいい。

Abbado_36_1  モーツァルトのハ長調交響曲のもうひとつの名作「リン」。あっという間に仕上げたことがうそのように、堂々としっかりとした交響曲。

曲は重々しく始まるが、すぐに元気のよい主部が始まり、いくぶんギャラントに楽しく、堂々と音楽は進む。
オペラアリアのような第2楽章、ヴァイオリンとオーボエ、ファゴットで歌われるトリオが妙に好きな第3楽章。
そして終楽章は、旋律がとめどなく次々に流れまくり、その流動感は明るく楽しい。まるで、オペラのフィナーレのよう。

病に倒れる前、活気あふれる、ベルリン時代のアバドの最良のモーツァルト。
にこやかに楽しそうに指揮をするアバドの姿が目に浮かぶよう。
ここではまさにオペラそのものの演奏であるかのように音楽が飛翔している。

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2007年5月15日 (火)

ハイドン 交響曲第100番「軍隊」 アバド指揮

Menyu 以前見たテレビ・ドラマをご紹介。タモリの「世にも不思議な・・・」だったかな?よく覚えていない。

倦怠ぎみの夫婦が営む、街の流行らない定食屋での出来事。
一人の男が店にやって来た。
男は壁のメニュー看板の一番右端の「カツ丼」を注文。
待つこと数分、「カツ丼」がやって来て、男はおもむろに食べだす。
厨房では、料理人の主人は一仕事終え、新聞なんぞを読んで一服。
女将さんも、テレビを見ている。
「カツ丼」を食べ終えたその男、メニュー看板を見やり、カツ丼の隣の「親子丼」を注文。
女将さんは、一瞬「え?」という表情だが、厨房に「親子丼」の注文を通す。
「親子丼」を無表情に淡々と食す「その男」。

「親子丼」を食べ終えると、さらにその隣のメニュー「生姜焼き定食」を注文。
女将さんは、こんどは「え、え??」・・・、「生姜焼き定食」を黙々と食べ終えると、その男、今度はさらにその隣のメニュー「焼き魚定食」を注文・・・・・・。
ここまでくると、厨房の旦那も一人の男が食べていることに驚き、顔を出して覗きこんでいる。ルーティンな仕事ぶりだった旦那も、こうとなっては「その男」との勝負とばかり、真剣な眼差しで、調理に打ち込む。
女将も、「あんた頑張るんだよう!」とばかりに声援を送る。
それでも、メニューの一覧を片っ端から食い尽くす「その男」

その様子を近所の人々が聞き付け、続々と人が店に集まってくる。
婆ちゃんが、子供たちが、近所の主婦たちが、おまわりさんが、営業マンが、自転車で、駆け足で、次々と集まり、店の周りは人だらけに。
注文を再びするたびに、周囲からは「おぉー」という声があがる。

突然、「その男」の箸が止まってしまう・・・・・。旦那・女将・近所の人々は、ゴクリと固唾を飲む。
何のことはない、コップ一杯の水を飲んでまた箸が動きだした。
「はぁ~~っ」人々は安堵のため息をつく。

さて何十種類のメニューを食べつくしたろうか、メニュ看板のついに一番左端に到達。
それを作り終えた旦那は、感無量になり、女将と涙を流し合って感動している。
そして「その男」は、淡々と食べ終えた。ついに、茶碗と箸をテーブルに置いた。
人々も皆、感動に包まれている。

「その男」、表情ひとつ変えずにメニュー看板を見ている。
そして一言「カツ丼」・・・・・。
旦那と女将、周囲の人々の驚愕の表情でドラマはおしまい。

Abbado_haydn100 ハイドンいきましょう。
100番は軍隊交響曲。1793年頃の作曲。もう200年以上前の作品。ちっとも古臭くなく、楽しくも新鮮。
第2楽章で打楽器が派手に鳴る響き、マーラーの5番の冒頭も聴かれる。はっはっは!愉快だのう。
あまり考えず、悩まずに楽しめるぞ、ナイス・ハイドン!

でも聴けば聴くほどよく出来ている音楽。
ハイドンをうまく聴かせようとすることって、非常に難しい。
高校時代、いっとき同校のオーケストラに所属していて、ハイドンの96番をやることになった。もう大変。ソロも多く、メンバーの技量が一定でないと空中分解してしまう。早いパッセージではもうぐちゃぐちゃに。モーツァルトの方が雰囲気で音楽を作れてしまう。

アバドとヨーロッパ室内管の、若々しくも小股の切れ上がったようなイキのいい演奏は、ハイドンにピッタリ。今、マーラー・チェンバーの面々と演ったらさぞかし面白いだろうな。

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2007年5月13日 (日)

ワーグナー 「ワルキューレ」 ブーレーズ指揮

Walkure_boulez5 一昨日のブラームスがあまりに心に深く刻まれたものだから、昨日は仕事もあったけれど、帰宅後も音楽抜きの生活。

今朝は、少し嫌々ながら、週末リングを聴かなくては・・・、と思いつつ、ディスクをセット。
そしたら、何のことはない、一気に聴いてしまった。
「やめられない、止まらない・・・・」のえびせん状態。

ワルキューレ」は、愛の劇である。恋人、兄妹(!)、夫婦、叔母甥、父娘。
ちょいとありえない世界ではあるが、そこは劇でのこと。
でも、父娘の別れには本当に泣かされる。 「この槍を恐れるものは、誰も炎を超えて近づくな!」 とジークフリートの動機を持ってウォータンが歌い、娘を気遣い、振り返りつつ立ち去るとき・・・・・、ワーグナーのなかでも最高の場面だと思う。
 「ブーレーズ」盤のウォータンの「マッキンタイア」は、時には囁くように、時には他を圧するかのように強靭に、声を巧みに使い分け、ニュアンス豊かな役作りをしている。
最後の告別の場面は、そうした部分がよく現れていると思う。
加えて、ブーレーズの指揮が明るい音色で、混濁したところが一切ない。よく聴くと、普段は聞こえないようなフレーズまで微妙に聞こえる。劇場と録音の良さもあるであろう。
こんなに美しい「魔の炎の音楽」はないのではないかな。

Walkure_boulez 1976年に始まった、「パトリス・シェロー&ピエール・ブーレーズ」のフレンチ・リングは、当初バイロイト始まって以来の騒動になり、音楽面でもブーレーズのもとでは演奏できないとしてオーケストラ・メンバーがかなり抜けたし、歌手もリッダーブッシュを始めとしてキャンセルする人が出た。
次年度以降、演出はかなり変えられ、指揮もさすがのブーレーズ、年々良くなっていった。

よく聞かれる話だが、指揮をするのが精一杯で、譜面に顔を突っ込んだまま。練習で楽員がいたずらにブルッフの協奏曲の一節を弾いても気が付かない・・・、なんてことが初年度はあったそうだ。
しかし、この録音がなされた最終年度の80年には、歌手も含めて、歴史に残る素晴らしいワーグナーが映像とともに残されることとなった。

  ウォータン:ドナルド・マッキンタイア   ブリュンヒルデ:グィネス・ジョーンズ
  ジークムント:ペーター・ホフマン     ジークリンデ:ジャニーヌ・アルトマイア
  フリッカ    :ハンナ・シュヴァルツ    フンディンク :マッティ・サルミネン
            Ⅰ(62分) Ⅱ(87分)  Ⅲ(65分)   

Walkure_boulez1 シェローの演出は今では当たり前だけれど、当時はともかくユニークだった。
フンディンクの家は成金的な邸宅だが、ちゃんと木が一本生えている。ご主人様は、お供をずらずらと連れてご帰還。その多くの人物がジークムントを終始胡散臭そうに見ている。

Walkure_boulez1a 1幕の2重唱の場面は美しかった。邸宅の壁(窓)が開き月の光が差し込んだ。映画の1シーンである。
そして何といっても、「ペーター・ホフマン」のジークムント!
今回は音だけの試聴だが、そのピーンと張りつめた声に豊かな低域に裏付けされた中音域。一点の陰りもない強靭な歌声に今回もシビレますた。
キングは神の血筋を感じさせる悲劇的なジークムントだが、ホフマンは人間的な、お兄系ジークムントだ。(訳わかんないか・・・)
 ちなみに、後年の「ポール・エルミング」も私は好きなジークムントだけれど、最近出てないと思ったら、バリトンに転向したのかしらん、クルヴェナールとかメロートを歌ってるみたい。

「アルトマイア」のジークリンデもそのひたむきさと、あたたかさに好印象。ヤノフスキ盤では、ブリュンヒルデに昇格しているが、ちょっと背伸びしすぎで、ジークリンデあたりがちょうどいい。

Walkure_boulez1b_1 第2幕では、訳のわかんない球体がぶら下がっていて、今でもわからん。運命にもてあそばれる振子か?
悪趣味は、フンディンクがジークムントを刺す時、いやっていうほど、これでもかとばかりに何度も・・・。
CDで聞くジークムントはここでも魅力的。テノールを聴く楽しみはここに尽きる。
それから、マッキンタイアは独白の長丁場で、先にあげた細やか歌いぶりで聞かせるし、「Geh! Geh!」の場面では、ソットヴォーチェで憎々しげにつぶやく。
有名な話だが、ホッターはこの部分だけで、いくつもの歌い方をし、録音も繰返したという。
最近では、トムリンソンがユニークなGeh!を歌っていた。

3幕では、本物の馬が登場しているが、山の頂きにある古城の廃墟といった舞台は殺伐とした効果があった。76年の時は、写真で見たが、マッターホルンそのものが登場して失笑を買っていた。赤い本物の炎がちろちろと燃えて、スモークと赤い光に覆われて幕となる。
音楽だけ聴いている分には、興醒めな部分は気にならず、前渇の素晴らしい場面に感動することになる。

さて、世評が厳しい「ジョーンズ」のブリュンヒルデだが、私は好きだ。
確かに叫ぶように発声される高音域は、年々辛くなっていったが、この頃の彼女には、低域から中域にかけての音域の輝くように魅力的な声があった。ジークムントへの死の告知やウォータンへの必死の訴えの場面などは、聴き応え充分。
サルミネンの定評あるフンディンク、シュヴァルツのフリッカなど、申し分ありませぬ。
8人の戦乙女たちのなかに、シュナウトやシムル、K・レッペルなどの名前が見出せるのもバイロイトならでは。

さてめでたくCD3枚にうまく収められた「ワルキューレ」も聴き通した。
何と言ってもこの作品はよく書けている。「ローエングリン」のあと、「ラインの黄金」「ワルキューレ」と続いたのだから、その間の音楽面でに飛躍と、「トリスタン」と「マイスタージンガー」がこれから書かれるという驚き。
次回は渋い「ジークフリート」、主役を喰う「ミーメ」が聴けますぞ・・・・・。

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2007年5月12日 (土)

神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

Minatomirai昨晩の横浜みなとみらい地区。
夜景の美しさではダントツですな。

そして、「みなとみらいホール」がある。このホールの音ばかりか、立地の素晴らしさも数あるホールのなかでもトップだと思います。
コンサートの前後のホールへのアプローチの楽しさ。
感動に上気した頬を海風が優しく鎮めてくれます。渋谷のNホールの劣悪ルートとは雲泥の差といえよう!(U先生風に)

20070511_1 昨晩は、神奈川フィルハーモニーの定期演奏会に行ってきた。
いつもお世話になってますyurikammomeさんの強いお誘いもあって、1月のドイツレクイエム以来の神奈フィルであります。
しかもブラームス・アーベントとあっては行かないわけにはいきません。おまけに、「ハンス・マルティン・シュナイトさん」の音楽監督就任記念公演でもあり、仕事もそこそこに、横浜へ。

ヴァイオリン協奏曲のソロは、若い米元響子さん(84年生まれ!)。
何の予備知識もなく聴きはじめて、彼女のヴァイオリンに魅了されてしまった。なんという豊穣な音色、レンジの広さ、確かな技巧。
オーケストラを聴きながら、指揮者とアイコンタクトをとりながら、時に音楽に合わせ体を動かし・・・。ステージマナーもとても良く、音も仕草も年齢に似合わずたいしたもの。わたしは気に入ったぞ。
とりわけ素晴らしかったのが、第2楽章。オーケストラの木管(オーボエ・ソロgood)の素敵な旋律にいざなわれて、米元さんのソロは天衣無縫に歌い、飛翔するかのようだった。

メインの第2交響曲の演奏の素晴らしさの前には、それを書き記す言葉を持てない。
楽員の心が指揮者のもとに一丸となって、そうまさに「自分たちの最高の音楽監督」を得た喜びが歓喜のように溢れ出た演奏。
繰り返しはないのに50分近くを要したにも係わらず、遅いとは感じない。
音楽が常に流れていて、停滞することがないし、細かな部分にいろんな発見があったから。一例は1楽章のせつない第2主題の歌わせ方の妙、ビオラ・チェロが実によろしい。
うるうるしちゃった。同様に、ブラームス独特の中音域の渋みが味わえる第2楽章など、こんなに感動したことは久しぶり。
着実に爆発を築いた終楽章。ホールはものすごいブラボーの渦につつまれた。
この日、「ハマがバイエルンになった!」
満足そうな、ドイツの田舎のオッサンのようなシュナイトさんの笑顔。
厳しく鍛え上げた楽員を讃えるあたたかな仕草に大きな拍手は鳴り止まなかった・・・・。

Schneidt2

アフター・コンサートにホールの上で、「音楽監督就任記念交流会」が行われ、yurikamomeさんやお仲間とご一緒させていたただいた。
楽団やホールの理事の方々の楽しいお話に続いて、米元響子さんの挨拶。
こうして拝見すると、普通の若くてかわいい女性。
ヴァイオリンを手にした数時間前の彼女と大違い。
音楽の力は偉大なり。

Schneidt そして、マエストロ、シュナイトさん登場。
ユーモアたっぷりのスピーチや仕草に会場は沸きっぱなし。「神奈川出身の前首相に来て欲しい」とか、「私はハマっ子(日本語で)」な~んて愉快そうに話しちゃう。

こんなナイスなおじさんも、指揮台に登るとむちゃくちゃ厳しくて、こわ~いおじさんに変身してしまうそうな。
音楽を愛し、献身する真の芸術家ゆえ。

こんな素晴らしいコンビを聴かないテはありませんよ、首都圏の皆さん。定期公演は平日夜になってしまったけれど、仕事をサボってでも聴く価値は充分すぎるほどアリマス。聴かないと後悔シマス。
常任の現田氏、金氏、広上氏など、魅力的な顔ぶれが登場しまっせ。
もうひとつ、名物コンサートマスターの石田氏!
茶髪にピアス、赤のチーフにゴールド系のブローチ。大股開きに派手なアクション。
日本のナイジェル・ケネディなのだ。
音楽性は抜群で、彼が神奈フィルを引っ張っている部分も大という。
交流会の会場の外で平服(?)の彼を見かけた。まるでどこかの組のお方のようなお姿をしてました。楽しいたのしい。

今日はyurikamomeさんのお株を奪ってひと言。
「みんな~、神奈川フィルを聴きにハマへ行こうついでにハマスタにも行こう」by yokochan)

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2007年5月10日 (木)

エディタ・グルベローヴァ 「狂乱の場」 ルイージ指揮

Okashinai 外では激しい雨で、先ほどは雷も鳴りました。
窓を打つ風と雨に、窓掃除の手間も省けてニンマリ。車もきっと明日は洗車したての状態かも。

このところ、北秋田方面に仕事が出来たので、出張することが多いです。
週の前半も行ってまいりました。
そこで見つけたナイスなお菓子。
笑内チーズ饅頭」・・・・その名も「おかしない」。
秋田県北秋田郡阿仁町というところにある町の名前。同地に同名の秋田内陸鉄道の駅があります。
今回は大館や鷹巣(現北秋田市)の訪問でしたが、道の駅で見つけたパッケージに、思わず手が伸び購入。

いやはや、ゆかい・愉快。

Okashinai2_1   箱の中には、このニンマリした饅頭がほんとうに入ってましたヨ。
味も白餡が甘すぎず上品で、チーズが独特の風味をかもし出してましたのであります。

Grunerova 今日はディーヴァ「エディタ・グルベローヴァ」の絶唱を集めた1枚、その名も「狂乱の場」を聴こう。
イタリア・フランスのとりわけ、伊ベルカント・オペラには、主役のプリマによる最大の聴かせ場「狂乱の場」が設けられていることが多い。

かつて、ヴェルディ以前のオペラもよく聴いていた時分には何の疑問も持たなかったが、ワーグナー以降のドイツものに傾倒しだしてからは、「何で、狂乱??」とその荒唐無稽ぶりにバカらしくなってしまった時期もあった。

恋人に死なれ、裏切られ、ショックを受けたり、はてまた毒を盛られたりと、主人公たちは劇の後半で狂ってしまう。そこに付けられた大規模なレシタティーボとアリアは合唱も伴なったりして、ここぞとばかりの聴かせどころになる。
歌手に強いる技巧もなみなみではない。
カラスのそれこそ神がかった狂気の歌いぶりは、いまでも新鮮極まりなく、先般購入したボックスセットを聴いて唖然とした。
劇の内容や、歌詞をあまり意識せず、大まかに歌のシチュエーションだけを頭において歌のみに耳を傾ければ、素晴らしい歌手によって歌われた場合、その音楽の素晴らしさに虚心に感銘を受けることができる。
この系統の音楽から遠ざかっている私には、こんな聴きかたがいいのかもしれない。

そんなこんなで、「グルベローヴァ」が歌えばカラスの幻影を気にする必要はない。
スポーティなほどの唖然とする技巧。でもそれが機械のようにメカニカルにならず、鼻につく手前で、完璧なまでの芸術作品として止まっている。
なにひとつ、文句の付けようがない。
唯一の不満は、こんな凄い歌を次々に聴かされちゃうと、聴いてるこっちがヘトヘトになってしまうこと。耳がいかれちゃうのではないかと思ってしまう。

そんな、「グルベローヴァ」の歌にある超贅沢な不満を、解消してしまったのではないかと思えるのが「ナタリー・デッセイ」である。いやこれはもう針の穴ほどの不満だけれど。
あんまり完璧すぎてもねえ・・・・。

Luisi_1  1.R=コルサコフ  「皇帝の花嫁」
  2.トーマ        「ハムレット」
  3.ベッリーニ     「清教徒」
  4.ベッリーニ     「海賊」
  5.ドニゼッティ    「アンナ・ボレーナ」

今と時めく「ファビオ・ルイージ」がミュンヘン放送管を指揮している90年代前半の録音。実に雰囲気豊かな伴奏。
若いねぇ~、ルイージ!

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2007年5月 9日 (水)

フランク 交響曲 バレンボイム指揮

Ikari_choko 今日は、秋田から帰ってきました。
秋田でも北の方だったから、涼しくて、東京に帰ってきたら、この暑さ。
日本は夏と冬の2季時代に突入するかしら?

さて、こちらの画像は、大阪のさるホテルの一室。ちょっと前の出張のもの。
大阪駅構内の「いかりストア」で買った「ナナ・チョコレートムース」。
ベルギー産のチョコを使った、ちょっとビターなスイーツ。私のようなオジサンでも楽しめる大人の味。
呑んべいは、これにドライな白ワインを飲んでしまうのであります。バカだなぁ

Franck_symphony_barenboimセザール・フランク」(1822~1890)は、地味な人、そう、ビターな作曲家である。
写真をみても厳しい真面目な顔つきで、その音楽のように峻厳な印象を与える。
彼がフランス人でなく、ベルギー人であり、宗教心に篤いところなども、ベルリオーズと対極にある存在となったのであろうか。

実際にその音楽は、派手なところや劇的な部分は少なく、常に感情を押えたかのような緩やかさに溢れている。
決してフォルテがない訳ではないが、ここぞと盛り上がって欲しい部分でも、すぅ~っと引いてしまうようなあっけなさがある。こんな、いわば「しんねり・むっつり」のセザールさんの代表作の「ニ短調交響曲」が好きである。
私のフェチ曲はいくつかあるけれど、この曲もかなり集めた。ショップに行くと必ずチェックしていた棚のひとつだった。今日数えたら19種類の演奏があった。

全曲を通じ共通の動機が使われていることから、循環形式と呼ばれる、しっかりした構成をもった音楽は、ドイツ的でもあり、フランス的でもある。
中学生の時に初めて聴いて、第1楽章で形を変えて反復されるカッコイイ動機に惚れ込んだ。年をとってからは、第2楽章のイングリッシュ・ホルンの旋律がしみるようになった。
終楽章の全曲を回顧するかのような雰囲気のあと、歓喜の中に終結するが、演奏会の最後などでは、その効果がなかなか難しいのかもしれない。

76年に「パリ管」時代の「バレンボイム」が録音した演奏は、パリのオーケストラを使いながら、その響きは重く、薄雲のヴェールがたち込めているようだ。
テンポも焦らずじっくりしたもので、若いのに老成した指揮ぶりが、逆にフランクにぴったりだと思っている。
でも木管のソロ楽器の色あいは、あきらかにフランスのもの。この作用がまた楽しい。

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2007年5月 6日 (日)

ディーリアス 「楽園への道」 バリー・ワーズワース指揮

Ninomiya_azumayama 連休の最終日は雨。前半の連休は世間並みにお休み。後半は仕事。たまった事務処理がはかどるがいいお天気が恨めしかったです。

前半に神奈川の実家に帰って「吾妻山公園」に登ってきました。

前は相模湾、遠く富士と箱根の山が見渡せる絶景。
歩いて10分もあれば頂上。
ここで飲む酒はまた格別であります。麓の小学校が私の母校で、当時はこんな公園はなかったけれど、授業で始終頂上まで登ったものです。そんな卒業生のオヤジが今は頂上でお酒を飲んでしまうんです。

Ninomiya_azumayama_fuji そして、吾妻山には「吾妻神社」があります。
日本武尊の遠征のおり、海が荒れそれを静めるために身を投げた「弟橘媛(おとたちばなひめ)」の着物の袖が当地の海に流れ着き、その袖を祀ったのが起源です。日本武尊は「わが妻よ~」と嘆いたと言われます。
ついでに、袖が流れ着いた海岸は「袖ヶ浦」と呼ばれており、子供時代よく泳ぎました。

今日はちょいと、ふるさと自慢でした。

Delius_wordwaorth

春から夏にかけては、「ディーリアス」(1862~1934)の小品たちがよく似合う季節だ。
新緑を背景に、色とりどりの花々の咲く野辺や庭園。
目をつぶって、そんな光景を思い浮かべながら聴く至福のひととき。

こうしてワーグナーの狭間に聴いたりすると、ディーリアスにも「トリスタン」の幻影を見ることも可能だ。
自然を賛美する印象派風の響きの一方で、後期ロマン派風の陶酔感がある。
とりわけ「楽園への道」がそう。
歌劇「村のロメオとジュリエット」の間奏曲であるが、受け入れられない愛にあきらめ、流れるともない川に小舟を浮かべ、ふたり死への旅立ちをする。
儚い中にも、情熱のこもった音楽に毎度熱くなってしまう。
ついこの間、大友直人の指揮で初実演も体験したばかり。

ワーグナーもディーリアスも付き合いはもう長いけれど、どNinomiya_azumayama_green っちが早かったかな?わずかにワーグナーの方が早かった。
ワーグナーからシュトラウス、マーラー、新ウィーン楽派へ音楽の方向を深めていった。
ディーリアスから、エルガー、RVW、イギリス作曲家へと入りこんでいった。

バリー・ワーズワース」はいかにもブリテッシュな名前の指揮者で、ポピュラーな曲ばかり演っているようにも思われるが、バレエやオペラも得意にする本格派である。
ヒコックスのように、英国音楽をどしどし取上げて欲しいもの。
ゆったりしたテンポで、じっくりと歌い上げるところはバルビローリを思い起こさせてしまった。

 1.「楽園への道」 2.「ブリッグの定期市」 3.「春初めてのかっこうを聞いて」
 4.「川の上の夏の夜」 5.「夜明け前の歌」 6.「ラ・カリンダ」
 7.「夏の夜」  8.「夏の庭園で」

    バリー・ワーズワース指揮ロンドン交響楽団(91年バービカンホール)

コリンズ・レーベルはなくなってしまったので、このCDは入手困難かも知れませぬ。

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2007年5月 5日 (土)

ワーグナー 「ラインの黄金」 ブーレーズ指揮

Kawawa_jinjhya 相模の国、第二の宮、「川勾神社(かわわ)」。たぶんこれは読めないだろな。

相模の国、一宮は「寒川神社」、そして「川勾」のある町は「二宮町」と呼ばれることになった。
ちなみに第三は「伊勢原」、第四は「平塚」、以下六つの宮があって、年1回、大磯町の国府に六つの宮が集まる祭が5月に行なわれる慣わしとなっている。

第11代の天皇にまで遡り、秀吉や家康にも縁のある宮。なんだかんだで重厚な歴史があって郷里ながら驚き。

Boulez_reingold 心が体がそろそろ聴けと言い出した。
英国系にも後ろ髪引かれつつ、ワーグナーの魔の手は容赦がなく私を捕らえる。

「リング」行きます!

1976年、バイロイト100年を祝うはずの「リング」新演出は、罵声と激しいブーが乱れ飛ぶ波乱のプレミアとなった。
即刻、特集が組まれた雑誌などの写真で、「新バイロイト」系の簡潔な舞台写真に親しんでいた私の目は、舞台に溢れる近世の事象やこまごました小道具に唖然となったものだ。
年末のFM放送で聴いた「ブー」や野次の凄まじさは、今でも覚えている。
録音したものを消してしまったのが悔やまれる。
現在上演中の、クソ「フシュルゲンジーフのパルシファル」なんて目じゃなく激しかった。

指揮者「ブーレーズ」の推薦もあって起用された、フランス人「パトリス・シェロー」の演出である。舞台・衣装、そして指揮も、ともにフランス人で固めた「フランス・リング」。
主要な歌手がブリテッシュであるところがまた面白い。

 ウォータン:ドナルド・マッキンタイア   フリッカ:ハンナ・シュヴァルツ
 アルベリヒ:ヘルマン・ベヒト        ローゲ  :ハインツ・ツェドニク
 ドンナー :マルティン・エーゲル     フロー :ジークフリート・イエルザレム
 ミーメ   :ヘルムート・パンプフ     フライア:カルメン・レッペル
 ファゾルト:マッティ・サルミネン        ファフナー:フリッツ・ヒューブナー
 エルダ  :オルトルン・ウェンケル    ウォークリンデ:ノルマ・シャープ
 ウェルグンデ:イルゼ・グラマツキ     フロースヒルデ:マルガ・シムル

  ピエール・ブーレーズ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団(1980)
               演出:パトリス・シェロー
               演奏時間:2時間21分

シェローが目指したのは、伝統の打破。旧習と逆のことを行なうこと。
時代設定は、神話の時代から産業革命の時代に置換え、神々は没落貴族に、ライン川のほとりは、近代的なダムに。アルベリヒはそのダムの技師、ラインの乙女たちは娼婦になってしまった。一方、巨人達は、二人ばおりのような見た目にも滑稽なほんとの巨人。
Boulez_reingold2 小人は子供達が登場して、それぞれあえてリアル感を出していた。
アルベリヒが身代金で差し出す宝も、ビニール袋に詰められたおもちゃのような安物。
CDで聴いても、ビニールの安っぽい、カサカサした音がする。
 歌手の動きも激しく、演劇的才能すら要求された。
ウォータンがアルベリヒから、指輪を奪うところでは、指が切り落とされ血が吹き出る。
虹がかかり、晴れてワルハラ城へ入場するというのに、没落を前にした神々は、手をつなぎながら、酔ったかのように、いや麻薬にラリったかのように、よたよたと入場して幕となる。

それもこれも、抽象的・静的演出の裏返しであったのだ。
当時、ドイツを中心に読替え的演出は登場していた。
しかし、よりによって聖地バイロイトで、しかも記念の年にやらかしたフランス人たち!
ここから、昨今の演出優位の舞台が始まった。

Boulez_reingold1 ブーレーズの指揮は、最初は散々だった。FMで聴いたときは、騒然とした雰囲気に耳が奪われるばかりだったけれど、ベームがお手本だった私の耳には重心が上のほうにあって新鮮に聞こえたものだ。
5年目のライブ録音は、音楽を完璧に把握したブーレーズの説得力ある響きに驚く。
録音の優秀さもあってか、ともかく鮮明。
ラインゴールドのプリミティブな模糊とした雰囲気など、これっぽっちもない。
明るい響きのもとで、面白いようにライトモテーフが鳴り渡る。

歌手の優秀さは、次回以降書きたい。ここではいわずとしれた「ツェドニク」の天才的なローゲにただただ感心。

「ブーレーズのリング」、ゆっくりと残る3作を聴いて行きたい。

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2007年5月 3日 (木)

シェーンベルク 「グレの歌」 ブーレーズ指揮

Sagami_sunshine_1























いい天気で、気持ちがいい。気掛かりなことや、嫌なことはたくさんあれど、一時忘却して楽しもうではないの。

こちらは、相模湾の日の。眩しさに目がくらむようだった。

Boulez_gurre_1











  満を持して、というか久しぶりに「アルノルト・シェーンベル(1874~1951)」の「グレの歌」を聴いた。
この長大な曲を初めて聴いたのはもう何年前だろう?
74年頃にEMIから「フェレンチーク」盤が出たときに、FMで聴いたのがそう。
その時はさっぱりわからなかったし、「清められた夜」しか知らなかった私には、その延長線にある音楽だな、程度の認識しか持たなかった。

その後に、12音技法による、ピアノ作品(ポリーニ)やオーケストラ曲を聴いてびっくり。同じ作曲家とは思えなかった。
高校生くらいから、ワーグナーやマーラーと同じように、新ウィーン楽派の作曲家たちを好んで聴くようになり、再び「グレの歌」が視野に入り出した。
そのきっかけは、今日の「ブーレーズ」盤と「小沢」のフランス国立管とのFMライブだった。

清められた夜」と「ペレアスとメリザンド」の合間の1900年頃から作曲を開始し、長い中断を経てオーケストレーションが完成したのが1911年という。
作曲家の「シュレーカー」が初演し、大成功だった。
デンマークの作家ヤコプセンの同名の詩に作曲され、膨大なオーケストラと合唱、独唱を伴うオラトリオのような作品。

 そのまんま「ワーグナー」である。
第1部のヴァルデマール王と乙女トーヴェの愛の二重唱は、トリスタンそのものの官能の世界。
テノールとソプラノで交互に歌われる9つの歌は、ツェムリンスキーの抒情交響曲との類似性も見られる。
山鳩が王の妻の嫉妬で、トーヴェが殺されたことを歌う。鳥の登場は、ジークフリートの世界。
第2部は短いが、王の恨み辛みのモノローグ。
そして第3部は、怒りで荒れ狂う王の狩の様子。これはまさにワルキューレ。
そして王に付き従う道化は、性格テノールによって歌われるとミーメそのもの。
最後は、シェーンベルク独特のシュプレヒゲザンク(語り)により、明るさがよみがえり、光り輝く生命の始まりが語られると大合唱による大団円となる、わけ。

Boulez










 ブーレーズ
の解像度の高いレンズを通して見た「グレの歌」は、整然・完璧・クール・・・、といった言葉が浮かぶ。
ここまで白日のもとにさらせれた演奏に、逆に恐ろしいまでの美しさを感じる。
情や熱、色といった要素は薄いが、これまたこの作品の持つ一面を怪しいまでに照らし出しているように思う。
BBCのオケの優秀さも大いにプラス。

歌手も当時のワーグナー歌手のベスト。

   ワルデマール王:ジェス・トーマス     トーヴェ:マリタ・ネイピア
   山鳩       :イヴォンヌ・ミントン   農夫  :ジークムント・ニムスゲルン
   道化       :ケネス・ボウエン    語り  :ギュンター・ライヒ

    ピエール・ブーレーズ指揮 BBC交響楽団
           

トーマスの力と気品に満ちた歌はほれぼれとする。当時、ジークリンデやエヴァで活躍したネイピアもカワユイ歌唱。そしてそして、ミントンの清潔な素晴らしさ。
ライヒのシェーンベルクは、鬼気せまるはまり役で、アバド盤がこの人であったなら・・・・・。

Gurre_1












こちらが、オリジナルLPジャケット。
外盤の無粋なCDとは大違い。
いい雰囲気だった。

この解説書に素晴らしい文章があった、

「沈みゆく陽の光をうけて、きらめく波を聞いた」

なんていい文章でしょう。

それにしても「トリスタン」はなんという音楽であろうか!
シェーンベルクをはじめ、あらゆる作曲家たちを引き付け、啓蒙し、素晴らしい作品を派生させてしまった。
そろそろ、ワーグナーが私を呼んでいる・・・・。

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2007年5月 2日 (水)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」 ロストロポーヴィチ指揮

Rostro 遅ればせながら、「ロストロポーヴィチ」の逝去を偲んで。

初めてロストロさんを聴いたのは、ご多分にもれず、カラヤンとのドヴォルザーク
68年当時、西側での活動は極めて限られたものであったろう。そんな一期一会の顔合わせの妙は、「リヒテル&カラヤン&ウィーン響(!)」のチャイコフスキーにも伺える。
当局の外貨稼ぎでもあったかもしれないが、「オイストラフ・リヒテル・ロストロポーヴィチ」のトリオは「まぼろし」的な3人として売り出された。
その極限が、3人とカラヤン、ベルリンフィルとのベートーヴェンの3重協奏曲の録音であろうか。
70年頃の録音だが、3巨頭はそろって頭髪がアレである。一番あるのが、一番早く去ったオイストラフ。みんなあの頭しか記憶にない。生まれたときからアレだったのだろうか?

そんなロストロポーヴィチは、70年頃からボリショイ劇場を中心に指揮活動に入り、同年、大阪万博で来日して、夫人の「ヴィジネフスカヤ」とともに「エウゲニ・オネーギン」を上演した。NHK放送をうっすらと覚えている。
Rosutoro このとき同行の指揮者が、音楽監督の「ロジェストヴェンスキー」と「シモノフ」だから凄い。
器楽奏者が、指揮者になると、表現の媒体手段が格段に拡がるためか、大柄で濃厚な音楽に傾きがちである。アッシュケナージやエッシェンバッハがそうであるように。
ロストロさんも例外でない。もちろん、かれのチェロの表現力の幅広さは普通じゃない。

今日のCDは、5年前のロストロ75歳を記念してのEMI録音のアニバーサリー。
 1.バッハ 無伴奏チェロ組曲第3番  2.ハイドン チェロ協奏曲第1・2番(アカデミー)
 3.ベートーヴェン 3重協奏曲      4.ドヴォルザーク チェロ協奏曲(ジュリーニ)
 5.ドヴォルザーク 新世界(LPO)   6.ロシア管弦楽作品(パリ管)
 7.ショスタコーヴィチ 交響曲第8番(ワシントンNSO) 

こんなに盛りだくさんのCD4枚組が、4年前セールで2千円台で購入できた。
チェリストであり指揮者であったロストロさんの全貌がほぼ掴める。
欲をいえば、伴奏ピアニストとオペラ指揮者してのロストロも収納してほしかった。

この中のどれでもよかったのだけれど、連日の「あっさりマリナー」漬けへの反動から、最も濃い演奏「新世界」を選択した。
チャイコフスキー全集を作った朋友「ロンドンフィル」との相性もよく、普段ノーブルなLPOから濃密で懐かしいサウンドを思いきり引き出している。
これでもか、という思いのたけを含んだ歌に、ちょっと辟易としてしまうが、今日は追悼の気分も高まり充分OK。「ラルゴ」なんて泣きの世界。
普段聞くすっきりした「新世界」とは「別世界」の演奏に、新鮮さすら覚えてしまった。

この耳で、ドヴォルザークやバッハのチェロを聴いてみた。
その豊かな響きに、人の声を思わせるバリトンの音色に涙が出た。
そうか、そう来たか・・・・。
今更ながらに、ロストロさんの音楽表現の幅に感銘を受けた次第。
ついでに、LPOを指揮したジュリーニの巨視的な指揮にもビックリ。
カラヤンのDG盤以上かもしらん・・・(日本のOさんとボストン盤は??、同氏とのN響やウィーンでのライブも弾き飛ばしすぎで??)
Rosutoroarugerichi

そういえば、アルゲリッチとのショパンやシューマンもよかった。

ご冥福をお祈りします。

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2007年5月 1日 (火)

ウォルフ=フェラーリ オペラ管弦楽曲 マリナー指揮

Azeria_ninomiya1_1 世間は連休の狭間。
電車も空いているかと思ったら、意外に普通。
でも昼間の都心は空いていたような気が・・・。

こちらの画像は、連休前半に神奈川の実家に帰り、歩いて数分の山に登ったときのもの。
つつじ」は今が盛りだけれども、今年はどこも色が冴えないし、花数が間引き状態で豪華さがいまひとつのような感じ。
これも不順な天候のなさるワザなのか?
メリハリある四季は過去のものとなりつつある気がする。
日当たりの加減が私のような素人には難しいし、バカチョン・デジカメではこんなもん。
でも艶やかな紫。「つつじ」は「アゼリア」と呼ぶと何か気品とヨーロピアンな雰囲気がありますな。

Marriner_wolfferrari_1 マリナーの普通じゃない(?)オペラネタもそろそろ底を突いてきた。
たぶん最後は、イタリアの「エルマンノ・ウォルフ=フェラーリ」(1876~1948)を登場させようではないか。

ウォルフ=フェラーリといえば、かつての「学校の音楽の授業」や「NHKの名曲アルバム」などで誰しも一度は聞いたことのある「マドンナの宝石」があまりにも有名。
それ以外はともかく、作曲者のことなども無知。
これこそ「一発屋」。
でも、発掘しがいのある作曲家かもしれないのだ。
かくいう私も今回の1枚を除けば、まだ未知の人。
基本は、ブッファ的なオペラ作曲家だけれども、協奏曲や室内楽の分野にも作品を残している様子で、興味がそそられる。

ドイツ人の画家を父親にイタリア人を母親にして、ヴェネチアに生まれた。
当初は画家の道を志すが、ドイツで「ラインベルガー」に作曲を師事し、ミラノではかの「ボイート」にも学んだ。生没はヴェネチアだが、人生の殆どはミュンヘンで過ごした。
ドイツで認められた、イタリア作曲家、といったところ。
 オペラの題材を16~18世紀に求め、劇の背景は古風だが、音楽はヴェリスモの流れを汲むもの。
しかし、そこからヴェリスモの激情をきれいに取り除き、古典風の味付けをほどこした流麗なサウンド、といったらよいかもしれない。
メロディが豊かで、どこかで聞いたような旋律のオンパレード。

そんなナイスな一面をこのマリナー盤は味わえる。
アカデミーのオケの小気味よさと、柔軟さ。マリナーのあっさりした味付け。
これらが、ウォルフ=フェラーリの楽しい音楽にマッチして、楽しめますよ。

 1.「スザンナの秘密」 2.「四人の田舎者」 3.「愚かな女」 4.「街の広場」
 5.「恋をする医者」  6.「マドンナの宝石」

「スザンナの秘密」はかつて、ガルデッリ指揮のスコット盤があった。
マリナーと同様のLPが、レーグナーの指揮であって、評論家U氏は大絶賛・・・。

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