ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 マリナー指揮
ブリテン(1913~1976)のオペラの系譜に異色な地位を占める「教会寓話劇3部作」がある。
その第1作が、日本の能の世界をキリスト教会の場面に置換えた第1作「カーリュ・ーリヴァー」(1964年)
旧約聖書のネブガドネザル王朝時代のユダヤの物語を題材にした「燃える炉」(1966年)が第2作。
新約聖書「ルカ伝」の有名な放蕩息子の物語を題材にした「放蕩息子」(1968年)が第3作となる。
いずれも自演のCDが、昨年のメモリアルイヤーに出たばかり。
「カーリュー・リヴァー」は、ブリテンが来日したおり観劇した「能」の謡曲「隅田川」に強くインスパイアされて書いた作品。
能の分野は、まったく不明だが、ちょいと調べたところ、「狂」の世界は二種類あり、いわゆる何かに取り付かれてしまう「狂」、親や子と死に別れたりしたショックで狂乱してしまう「狂」とがある。
原作の「隅田川」は、後者の分野である。
「世阿弥」の息子「観世十郎元雅」の作。
ブリテンは、舞台をキリスト教中世の教会劇に物語を置換えた。
隅田川
「少将が父で高貴な生まれである息子・梅若丸を人買いにさらわれ、狂気に陥った母親が子を探して隅田川のほとりにやってくる。ちょうど、この地で亡くなった少年の一周忌が営まれるところであった。母が僧侶たちに混じって念仏を唱えると、死んだ我が子の姿がしらじらと現れる。それを追い求めるうちに夜が明け、それは子の埋葬された塚の上の草の姿であった・・・・・」
カーリュー・リヴァー
「さらわれた高貴な出自の息子を求めて、気のふれた女がカーリュー・リヴァーのほとりに姿をあらわす。場所はケンブリッジの北西フェランド地方。
川の対岸に船を出そうとする、渡守と旅人が女を哀れに思い、舟に乗りたがる女を乗船させる。船中、渡守は、1年前、不幸な12歳くらいの少年を乗せ、その少年は気の毒に息を絶った物語をかたる。
女はただ泣き、それこそ探し求める息子と狂気さながらに訴える。
対岸に上陸した渡守は、同情し女を子供の眠る墓に案内する。
はじめは拒んだものの、母親が祈りを捧げるのが一番いい、との皆の声に押され、女は熱心に祈りを捧げる・・・・・。すると白々と上がった月の光のなかに子供の姿が浮かび、祈りをともにする。母のまわりには聖霊の光が飛び交う・・・・。
女の狂気は晴れて、母として昇華され、みなの祈りとともに舞台から登場人物は去って行く。」
対訳がなく、一部私の脚色はあるが、仏教的な世界を、キリスト教世界の祈りによる魂の昇華に置き換えたブリテン。
70分あまりの作品だが、起伏は少なく、淡々と静的に物語は進行する。
母親役は案の定「テノール」であって、特定のそう、P・ピアーズを想定して書かれているのであろう。「能」も男の世界である。その世界をすっかり取り入れようとした、ブリテンの心情をどうこう言うつもりはない。
ここに書かれた切実で、切り詰められた人間の感情の吐露が、妙な性的な興味などを越えた真実の音楽として聴かれるからである。
クライマックスで、母、渡守、旅人、僧、僧侶たちが祈りを捧げる。徐々に僧侶たちはラテン語の祈りを歌うようになる。それに呼応するように亡き子供の聖霊が最初はラテン語で呼応してなぞるように歌いはじめる。「私の子供!」と狂喜する母。
そしてついに、「神とともに、母よ、アーメン」と歌う子供の霊。
ここにおける素晴らしい音楽に私は心打たれ涙した・・・・・。
狂女 :フィリップ・ラングリッジ 渡守 :トマス・アレン
旅人 :サイモン・キーリンサイド 僧院長:ギドン・サックス
少年の霊:チャールス・リチャ-ドソン
サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団のメンバー
オケではなく、フルート、ホルン、ヴィオラ、コントラバス、ハープ、オルガン、打楽器。
といった簡潔な編成。響きは日本の能を意識した、外国人が感じたエキゾシズムに溢れたものだが、ものすごく説得力ある音楽に感嘆してしまう。
どこか違う世界に行き着いてしまった「彼岸の響き」。
「隅田川」では、河を舞う鳥は「都鳥」=おそらく「ユリカモメ」。
「カーリュー・リヴァー」では、「カーリュー」=「シギ」となる。シギ立つ河とでもいう雰囲気か。
余談ながら、「カーリュー」という歌曲集を残したのが、ブリテンの先輩「ウォーロック」で、こちらの音楽もおそろしくあちらの世界を感じさせる。あちらとは彼岸のこと。 本作品の、ブリテンの自作盤は未聴。
マリナー監修のもとにおこなわれたこのCD。これでいいのだろう。
ラングリッジ入魂の歌には鳥肌もの。アレンにキーリンサイドらの歌も同情にみちた素適なものと感じた。
一度、謡曲とともに、舞台に接してみたい音楽だ。
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