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2007年6月

2007年6月30日 (土)

ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 マリナー指揮

Britten_curlew_river ブリテン(1913~1976)のオペラの系譜に異色な地位を占める「教会寓話劇3部作」がある。

その第1作が、日本の能の世界をキリスト教会の場面に置換えた第1作「カーリュ・ーリヴァ」(1964年)
旧約聖書のネブガドネザル王朝時代のユダヤの物語を題材にした「燃える炉」(1966年)が第2作。
新約聖書「ルカ伝」の有名な放蕩息子の物語を題材にした「放蕩息子」(1968年)が第3作となる。

いずれも自演のCDが、昨年のメモリアルイヤーに出たばかり。

「カーリュー・リヴァー」は、ブリテンが来日したおり観劇した「」の謡曲「隅田川」に強くインスパイアされて書いた作品。

能の分野は、まったく不明だが、ちょいと調べたところ、「狂」の世界は二種類あり、いわゆる何かに取り付かれてしまう「狂」、親や子と死に別れたりしたショックで狂乱してしまう「狂」とがある。
原作の「隅田川」は、後者の分野である。
「世阿弥」の息子「観世十郎元雅」の作。
ブリテンは、舞台をキリスト教中世の教会劇に物語を置換えた。

隅田川
「少将が父で高貴な生まれである息子・梅若丸を人買いにさらわれ、狂気に陥った母親が子を探して隅田川のほとりにやってくる。ちょうど、この地で亡くなった少年の一周忌が営まれるところであった。母が僧侶たちに混じって念仏を唱えると、死んだ我が子の姿がしらじらと現れる。それを追い求めるうちに夜が明け、それは子の埋葬された塚の上の草の姿であった・・・・・」

カーリュー・リヴァー
「さらわれた高貴な出自の息子を求めて、気のふれた女がカーリュー・リヴァーのほとりに姿をあらわす。場所はケンブリッジの北西フェランド地方。
川の対岸に船を出そうとする、渡守と旅人が女を哀れに思い、舟に乗りたがる女を乗船させる。船中、渡守は、1年前、不幸な12歳くらいの少年を乗せ、その少年は気の毒に息を絶った物語をかたる。
女はただ泣き、それこそ探し求める息子と狂気さながらに訴える。
対岸に上陸した渡守は、同情し女を子供の眠る墓に案内する。
はじめは拒んだものの、母親が祈りを捧げるのが一番いい、との皆の声に押され、女は熱心に祈りを捧げる・・・・・。すると白々と上がった月の光のなかに子供の姿が浮かび、祈りをともにする。母のまわりには聖霊の光が飛び交う・・・・。
女の狂気は晴れて、母として昇華され、みなの祈りとともに舞台から登場人物は去って行く。」

対訳がなく、一部私の脚色はあるが、仏教的な世界を、キリスト教世界の祈りによる魂の昇華に置き換えたブリテン。
70分あまりの作品だが、起伏は少なく、淡々と静的に物語は進行する。
母親役は案の定「テノール」であって、特定のそう、P・ピアーズを想定して書かれているのであろう。「能」も男の世界である。その世界をすっかり取り入れようとした、ブリテンの心情をどうこう言うつもりはない。
 ここに書かれた切実で、切り詰められた人間の感情の吐露が、妙な性的な興味などを越えた真実の音楽として聴かれるからである。

クライマックスで、母、渡守、旅人、僧、僧侶たちが祈りを捧げる。徐々に僧侶たちはラテン語の祈りを歌うようになる。それに呼応するように亡き子供の聖霊が最初はラテン語で呼応してなぞるように歌いはじめる。「私の子供!」と狂喜する母。
そしてついに、「神とともに、母よ、アーメン」と歌う子供の霊。
ここにおける素晴らしい音楽に私は心打たれ涙した・・・・・。

  狂女 :フィリップ・ラングリッジ      渡守 :トマス・アレン
  旅人 :サイモン・キーリンサイド     僧院長:ギドン・サックス
  少年の霊:チャールス・リチャ-ドソン
     サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団のメンバー

オケではなく、フルート、ホルン、ヴィオラ、コントラバス、ハープ、オルガン、打楽器。
といった簡潔な編成。響きは日本の能を意識した、外国人が感じたエキゾシズムに溢れたものだが、ものすごく説得力ある音楽に感嘆してしまう。
どこか違う世界に行き着いてしまった「彼岸の響き」。
「隅田川」では、河を舞う鳥は「都鳥」=おそらく「ユリカモメ」。
「カーリュー・リヴァー」では、「カーリュー」=「シギ」となる。シギ立つ河とでもいう雰囲気か。
余談ながら、「カーリュー」という歌曲集を残したのが、ブリテンの先輩「ウォーロック」で、こちらの音楽もおそろしくあちらの世界を感じさせる。あちらとは彼岸のこと。

Marinner2 本作品の、ブリテンの自作盤は未聴。
マリナー監修のもとにおこなわれたこのCD。これでいいのだろう。
ラングリッジ入魂の歌には鳥肌もの。アレンにキーリンサイドらの歌も同情にみちた素適なものと感じた。
一度、謡曲とともに、舞台に接してみたい音楽だ。

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2007年6月29日 (金)

マーラー 交響曲第4番 メータ指揮

Asabicurry シュワシュワ・シリーズ第2弾、ということではないけれど、珍しい飲物を。
わさびラムネ」と「カレーラムネ

いずれも静岡の作品。小田原のパーキングで購入したもの。
わさび」は、まあ普通で、ピリッとわさびが効いた普通の炭酸水、という感じでけっこうさわやか。

ところが「カレー」の方は、まさにカレーそのもの。そう、「スープカレー」に炭酸を入れた感じなのだよ。こりゃ歌劇じゃなくて、過激。
ライスにはとんでもなくあわない。
これを飲むと喉が渇くという、何のための清涼飲料かわからない、清涼飲料なのだよ。

見かけたらお試しあれ。

Wasabi_soft_2  ちなみに、こちらは「わさびソフトクリーム

以前、伊豆にいったおりに食べた。
わさび入りのグリーンのソフトとミルクソフトのミックス。
これが意外と効く~。
舌がピリピリきたぞう。
でも後引くうまさだったな。

Mehta_mahler4

さて今日の本題は、「マーラーの交響曲第4番」。
カレーを意識したのか、インドはボンベイ生まれの「ズビン・メータ」の指揮で。
メータはばりばりのヒンズー教徒だったかと思う。
だから香辛料の効いたインド料理ばかり食べている(はず)。
 そんなメータが、ユダヤの「イスラエル・フィル」の地位をかれこれ40年近くつとめているのも面白い。宗教の問題は避けては通れないかもしれないが、メータはウィーンでみっちりウィーン流儀を学んだ異才だから、美音のイスラエル・フィルとの相性が良いのだろうし、禁門のワーグナーは得意なのに演らなかったりで、巧みに譲歩しながらその地位を保っている感じだ。

メータのマーラーは、細かなことには拘らずに、速めのテンポで伸びやかに開放的に鳴るところが良い。後期の一筋縄ではいかない、それこそフロイト的な錯綜した音楽はあまり取上げないメータ。5番以前を何度も録音しているが、若い時のものほどいいような気がする。ウィーンとの復活、ロス・フィルとの3・5番、イスラエルとの1・4番あたりは、覇気とスピード感、絶妙な歌心がマッチした秀演かもしれない。

この4番は、イスラエルフィルの弦のシルキーな魅力が味わえる、ポルタメントは控えめに、あくまで楽譜に忠実に演奏しながら、随所に明るい微笑みを感じさせる。
冒頭の鈴の音と木管の出だしがこんなに明確に響くのも珍しい。
2楽章のスケルツォのリアルさ、3楽章の長大な緩徐楽章の優美な歌。
そして、少し陰りのある「ヘンドリックス」の歌を伴なった終楽章はまさに天国的な美しさ。
4番のシンフォニーの最大公約数が、イスラエルフィルの美音とデッカの名録音で味わえるというものだ。

カレーとは似つかない、インド人もビックリ、剛ではない、メータの柔軟な味わい。

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エルガー 交響的習作「ファルスタッフ」 ギブソン指揮

Dsc05082 こちらは、ペプシが出した新製品。
子供の時から、シュワシュワ系が好きなのであ~る。
ペプシは、かつて「ペプシレッド」「ペプシブル」などを出して、スーパー戦隊シリーズ状態の活躍だったが、今年の夏はこれ。
その名も「アイス・キューカンバー」!
おおっ、キュウリじゃねえか!
爽やかな淡いグリーンは、いかにも涼しげ。
若干青臭い香りはまさにキュウリ。
飲むとそうでもなく、爽快な味。
でも飲んだあとの口の中は、キュウリ状態で、なんとも言えまへん?

Mkd0171 「キュウリ・ペプシ」もジョークみたいな飲物だけど、イギリスはユーモアの本場。
かつての「モンティパイソン」なんぞ、シャープでブラックなユーモアが抱腹ものだった。斜陽の自国を皮肉る紳士・淑女たち。

イギリスの議会をテレビで見ていると、野次が面白い。
「イェーイ」とか「ヒュ~」とか、バラエティ番組のような掛け声がかかる。
ついでに言うと、政治家たちも身の引き方がスマートでかっこいい。
ブレア元首相が10年に渡るその座を退任した。
政治は崇高な理想を追い求める場所だ」と残して政界も引退した。
ヒース氏、キャラハン氏、サッチャー女史、メージャー氏、ユニオンジャックを守った歴代たち。ブラウン新首相はいかに。

Elgar_falstaff_1エルガー」も「シェイクスピアのファルスタッフ」という憎めない悪漢に魅せられ、その音楽を残した。
1913年56歳の作品。
マーラー没し、シェーンベルクが活躍する時代、エルガーはちょっと保守的な作風を貫きとおしていた。
曲は4部からなる、30数分の曲で、冒頭から始まるいかにもファルスタッフらしい、鷹揚な恰幅のいい旋律が全曲にわたって活躍する。
とっつきは良くない曲だし、先週堪能したヴェルディの名作からすると、作品の求心力は落ちる。
でも、どこから聴いても、どこをとってもエルガー。
フィナーレで、エルガーのいつもの常套手段のように、ファルスタッフの主題が大きく歌われるとき、エルガー好きなら、ググッとくるものがあることだろう。
①ファルスタッフとハル王子(のちのヘンリー5世)、②ファルスタッフの悪戯の回想、③夢
④フィナーレ
 演奏は、「サー・アレキサンダー・ギブソン指揮のスコテッシュ・ナショナル管」というスコットランドコンビによる万全たるもの。ギブソンは逞しい音楽をつくる人だったが、ここでは洒脱できっぱりとしたエルガーが仕上がっていると思う。
バルビローリやバレンボイムの演奏も楽しい。
 亡くなる前にN響に客演したギブソン。英国・北欧ものばかりの素適なプログラムを指揮した。これらの私のお宝エアチェックCDRは、いずれご紹介したい。

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2007年6月28日 (木)

ワーグナー  アバド指揮

Abbado2a 昨日6月26日は、「クラウディオ・アバド」の誕生日。1933年の生まれ、今年で74歳。

 

毎年アバドの誕生日には、とりわけ好きなCDを取り出して聴いているが、今年は1日遅れで取上げることとなった。

 

アバドとの付き合いは長く、1972年頃からかれこれ34年近く聴いてきたことになる。
ボストン響との「スクリャービンとチャイコフスキー」のレコードで完璧に好きになり、ウィーン・フィルとの来日公演のテレビ放送でダメを押すようにファンになった。

当時は、「メータ」「小沢」と並んで、「若手3羽がらす」と呼ばれた。今時3羽がらす、なんて言葉は死語かもしれないけれど、かつての昔は、中三トリオとかいうように3人を揃えて呼ぶことが非常に多かった・・・・。
3羽がらすのその後の活躍はここに言うまでもないが、当時は「メータ→小沢→アバド」のような人気・実力の評価だったように思う。
今振り返れば、アバドがポストのうえでも一頭抜きん出てしまったように感じる。
スカラ座、ロンドン響、ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、シカゴ響(主席客演)、ベルリンフィル、というような錚々たるポストを歴任したのだから。
そして今も、腕っこきスーパーオケ「ルツェルン祝祭」を率いるほか、マーラー管、マーラー・チェンバー、モーツァルト室内管、かつてのECユースオケ、ヨーロッパ室内管等々、若手オケを数々設立・指導することも行なってきた。
音楽へ奉仕する真摯なアバドならではの経歴。名ポストもおのずと付いてまわるわけだ。

 

Abbado_wagner ベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでは、毎年テーマを決めていた。
1993年の大晦日は「ワーグナー」特集であった。
ウィーンでの「ローエングリン」はあったが、ベルリンフィルとの本格的なワーグナーに、テレビの前でもうわくわくしっぱなしだった。

 

すべて暗譜で指揮をするアバドは、ワーグナーでもことさら構えることなく、いつもと同じように、見ようによっては楽しそうに見えたものだ。
明るい色調で、隅ずみまで見通しがよく、混濁しない響きは時にキラキラと輝いて聴こえるかのようだ。
カラヤンのねっとりかつ重厚なワーグナーとは雲泥の違いがある。どちらも、ワーグナーの本質をついていると思う。

 

  1.「タンホイザー」序曲
  2.「タンホイザー」~「おごそかな広間よ」  S:ステューダー
  3.「タンホイザー」~「夕星のうた」      Br:ターフェル
  4.「ローエングリン」~第2幕二重唱     
                  S:ステューダー Ms:マイヤー
  5.「マイスタージンガー」前奏曲
  6.「マイスタージンガー」~「迷いだ・・・」   Br:ターフェル
  7.「ワルキューレ」~第1幕3場        
                  S:マイヤー  T:イェルサレム
  8.「ワルキューレ」~「ワルキューレの騎行」

じつにいい選曲でしょう。
どれもこれも本当に鮮度は高く、かつオペラの感興にあふれていて、少ししか聴けないのが口惜しくてならないほど。
なかでも「マイスタージンガー」の前奏曲のハ長の響きは、アバド向きの音楽なだけにまったくもって素晴らしく、そのまま教会での合唱に突入してもおかしくない。
ザックスのモノローグの伴奏も、雰囲気豊かで極めて敏感な名演に思う。
ここでのターフェルのザックスは、立派だがちょっとマッチョすぎる。
 あと素晴らしさでは「ワルキューレ」!
月の明かりが差し込んできて、春が訪れる場面のみずみずしくもロマンテックな音楽作りに感銘の受けっぱなし。むせ返るようなロマンテックではなく、若く、今生まれたばかりのような新鮮な響きなのだ。
マイヤーや素適だが、イェルサレムは前半不安定。

このある意味ユニークなアバドのワーグナーは、その後さらに進化し、癌という大病を経て、「トリスタン」の超越的な名演奏をやってのけるまでの高いステージに上り詰めた。
その「トリスタン」の全曲録音が残されていないことが極めて残念、かつ音楽文化の大きな損失のひとつとなるであろう。

音楽への誠実な奉仕者「クラウディオ・アバド」、来年は「フィデリオ」を手掛けるらしい。
いまなお新しいレパートリーに取り組むアバド、健康とさらなる活躍をいつも願ってやまない。

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2007年6月25日 (月)

ヘンデル 「水上の音楽」 マリナー指揮

Marriner_londonサー・ネヴィル・マリナー」が今年、久々にやってくる。
札響でメンデルスゾーン、N響でブラームス4番、四季などを演奏する予定。
プレヴィンとならんで、チケット争奪が厳しそうだな。

1924年生まれだから、もう83歳!
巨匠の一角に名を占める年齢だが、マリナーはそういうタイプではないかもしれない。
いつも変わらず、音楽を普通にわかりやすく聴かせてくれる身近な指揮者だから。

こちらの画像は、30年くらい前の雑誌の切り抜きから拝借したもの。テムズ川を背景に、絵になる「サー・ネヴィル」。

 

Marriner_handel_1 もうかれこれ35年ほど前だろうか、「マリナーとアカデミー室内管」が鮮烈なレコードを次々に送り出していたのは。
「四季」「管弦楽組曲」「水上の音楽」、モーツァルト、バルトーク、弦楽セレナーデ・・・・。
それらすべてが、新たな学究に基づいた新鮮で大胆な解釈による演奏で、ロンドンレーベルの巧みな宣伝にも乗って一家に1枚状態だったもんだ。
懐かしいよう。

 

そんな中から、時節柄、「ヘンデルの水上の音楽」を聴こう。
この曲は作者の自筆譜が残ってないため、数々の版があるらしいが、わたしには不案内な世界。
ただひとつ、英国作曲家「ハミルトン・ハーティ」の編曲したフルオーケストラ版は、今でも面白いと思う。
 マリナーのこの71年録音では、解説によるとケンブリッジの図書館の協力を得て独自の考察を経た解釈を行なっている。3つの組曲からなることに変わりはないが、曲の配列や入れ替えがなされているようである。
当然に通常の奏法ではあるが、打楽器が使われずシンプルで小気味よいサウンドになっていて、文字通りさわやかさの極地である。

Mariner2_1 現在は、古楽器やピリオド奏法が主流となってしまったため、35年前に極めて新鮮だった響きが、逆に今でも妙に鮮度が高く感じられる。

 

こちらも以前の切り抜きだが、アカデミー初期の頃は、曲によっては、自らコンサートマスターをつとめ、オケを率いていた。
隣りがアイオナ・ブラウン。

 

英国の上質な気品と、エスプリを感じさせる「マリナーとアカデミー」である。
こんな曲を聴きながら、舟の上で酒が飲めたら無常の幸せだな。
でも日本の屋形船は、ワタクシちょっとイメージが・・・・・。
あの天ぷらは最初はいいけれど、途中から誰も食べれくなって、山盛りの天ぷらにうんざり、船酔いと酒酔いにもうんざり、逃げ場のない接待などではまさに「水上の地獄」状態となる。

 

 

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2007年6月24日 (日)

ショパン 24の前奏曲  ピリス

Flower 今日は、娘のピアノの発表会。
毎年のことだから、もう勝手にせい、とばかり殆ど関知せず。
毎晩飲んだくれてるか、自分の好きな音楽に没頭しているかで、彼女が何を練習していたのかも知らない。
ああ、ダメな父親・・・・
でもうれしいことに、ドビュッシーの「子供の領分」の曲を見事に弾きおったお父さん感激

ご褒美に、今夜は、回転寿司だぞう
「わ~い♪」と子供達。(去年もこれでごまかした)
Dsc05052 つくづくありがたい子供たちだわ。
うれし~ぃ。
近隣のピアノ教室だから、ご近所さんばかり。
このあいだまで、幼稚園や小学校に一緒に通っていた子供たちが、ショパンやシューベルトをバリバリ弾くようになってしまった。
つくづくと、歳をとるものだ・・・・と廻る寿司をながめながら思う今日この頃なのだ。

ピアノの会は、千葉市のとあるホールで行なわれ、駐車場へ歩いていたら、前から「ジャパン」の赤いユニフォームを着た女の子が二人歩いてくるではないの。
そう、話題の「石川佳純」ちゃんでありました。
まだあどけない女の子だけど、試合のあの気迫はすごい。
何かに打ち込む子供たちの姿は見ていて清々しいものであります。
お父さんも頑張んなきゃ

Pires_chopin 子供たちの、生まれたての純なピアノを楽しんだ晩に「ショパン」(1810~1849)の「24の前奏曲」を聴こう。

数分間の24の前奏曲を集成した作品ながら、名旋律が次々に登場して飽くことがない。
7番は、「太田胃酸、いい薬です」だし、15番は、今の季節にピッタリの「雨だれのプレリュード」、20番は、「エリック・カルメン」だか忘れたけれど、ポップスのそれこそ前奏に使ってたし・・・。

でも、気のせいか、この曲は以前ほどCDや音楽会に登場しなくなったように思うのは私だけだろうか?
かつて、レコード時代は70年代以降に限ると、エッシェンバッハ、アシュケナージ、アルゲリッチ、ポリーニ等々、名盤続出であった。

マリア・ジョアオ・ピリス」はエラート時代にもこの曲の録音があったかどうかわからないけれど、DGにて復活後の録音は、掘下げの深い、心に突き刺さってくる印象的な演奏ばかりを残したように思う。
このショパンは、ピリス特有の澄み切った音と、感性豊かな明晰な表現に魅惑される素適な演奏。
ポリーニの演奏の硬質な演奏も好きだけれど、ピリスの鋭敏なショパンもいい。
1992年の録音。カップリングはプレヴィンと共演の2番のコンチェルト!!

それにしても、24番目、終曲のエンディングの厳しさはどうだろうか、「ショパン」って天才。
でもその音楽にはいつも陰りが漂っている。

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2007年6月20日 (水)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 新国立劇場

Rosenkavalier 新国立劇場の「ばらの騎士」を観劇。
6月20日(水)14:00、最終公演。

私の結論から真っ先に言っちゃうと、昨晩の「ファルスタッフ」と並んで、傑出した名舞台ではないかと確信する次第。
舞台に音楽に、釘付けの4時間だった。
ただでさえ大好きなシュトラウスの音楽。
最後の女声・三重唱の甘味でほろ苦い場面では、涙がチョチョぎれて、舞台の3人のトライアングルが滲んで見えた・・・・。

ジョナサン・ミラー」は時代設定を原作の18世紀から、シュトラウスが作曲をした20世紀初頭に置換えた。
モーツァルトが生まれる少し前、そう、マリア・テレジアの治世の時代を、第1次大戦前の不穏な時代、音楽ではマーラーが亡くなり、世紀末文化爛熟の時代に置いた訳。
これには、まったくといっていいほど違和感がない。
実際は、18世紀は貴族社会の最後の輝きの頃、20世紀初頭は貴族の次の主役、市民社会が終焉に近く、国家の暴走が始まる時。
あきらかに明確な違いがあるにも係わらず、舞台を見る我々日本人には、そこらへんはあまり意識することなく絢爛たる富裕社会の人々の洒落たお遊びの物語を楽しむことができるわけ。
これが、日本が舞台だと、どエライ違い。江戸時代と明治・大正時代なのだから・・・・。

Photo_5

ジョナサン・ミラーの遠近と陰影を見事に駆使した舞台は、今日も美しかった。大きな窓からは、陽光が、時に朝日に、昼の眩さに、暮れなずむ色に、それぞれ姿を変えて舞台に映えている。
 そして1・2幕は右側に、3幕は左側に、屋敷の通路を作り、ここを出入りする人物達を細かに見せてくれた。このリアルな効果が素晴らしく、舞台に奥行きをかもし出している。

こんな見事な舞台背景を得て、登場人物たちのきめ細やかな動きに感嘆した。昨晩のファルスタッフ以上に微細な指や手の動き、表情ひとつひとつに演出家の意図があるものと思い見入るばかり。
歌手達の演技力が昔に比べ格段に上がっているのも事実であろう。かつては名歌手たちの腹ワザ的な名演技に酔ったが、今は演出家の強い意志のもとにプロの歌手達が演技を行なっているものと感じられる。

R2_2 とりわけ印象的だったのが、1幕後半。マルシャリンが時の経過を嘆き、いずれ来るその時におののく場面。
マルシャリンの最大の聴かせどころ。諦念とアンニュイな気分にかられる彼女。ニールントは丁寧かつ儚い美しさをもって見事に歌い、演じた。ここで、オジサンの私も男ながら、自分の姿を重ね合わせて、ホロリとしてしまった。
変わってないと思っているのは自分だけ・・・」「夜中に、家中の時計を止めてまわりたくなる・・・」
さっきまで、朝の光が差し込んでいた窓には、雨の雫が流れている。
マルシャリンは、ドレッサーの上から煙草を取り、火を付け、煙草をくゆらせつつ、雨に煙る窓の外を眺めて、幕となった。この印象的な場面、すこぶるつきで洒落た場面で、深く心に刻まれた。
ある年代以上の方々には、たまらない思いであったのでは・・・・・・。

  あと独自な解釈としては、エンディング。
少年が、落としたハンカチを拾って走り去るところは、テーブルの上のフルーツか何かを盗み食いして、持ち去るところになっていた。元帥夫人に忠実な、モハメド少年の悪戯心か。
かわいかったぞ。

4 歌手たちは体型も含め、適役ばかり。オックス男爵のローゼは、ファルスタッフもかくやと思わせる役柄を伸びやかな低音でもって歌い抜いて、一番喝采を浴びていた。
3幕で、敗北を悟り、楽しく去る場面では、舞台の面々を率いて「いっしょにイキマショー」と日本語で言って立ち去り、みんな大笑い。

ゾフィーがビジュアル的に少しどうかなと思ったのは、モード風の衣装のせい?
でも声はよかった。
オクタヴィアンのロシア生まれのツィトコーワは小柄なかわいいオクタヴィアンで、堂々としたニールントより小さいのは愛嬌。でもなかなかの声量で、シュトラウスが一番意識した微妙な役柄をチャ-ミングに歌っていたと思う。

指揮は大御所ペーター・シュナイダー」!!
バイロイトの重鎮は、かつてのH・シュタインのような劇場叩き上げの堅実型だが、かつてのソツのなさから、一歩踏み出して、舞台に即した豊かな音楽を聞かせるようになったと思う。このところ出たワーグナーの伴奏CDや、昨年のトリスタンなどで感じていたこと。
20年前のウィーン国立歌劇場の来日公演でも、シュナイダーのばらの騎士は観ているが、オケの美しさ以上の印象が残っていない。
今回は東京フィルを完璧にコントロールして、素晴らしいシュトラウス・サウンドを東京で描きだしてくれたと思う。
その指揮姿は、オケを時には押えながら、歌うべき場面では立ち上がって、思い切りよく歌わせ、そのうえ歌手達へのキュー出しもすいすいしている状況で、まさに熟練のプロの技と見えた。貴重なオペラ指揮者だ。

盛大なカーテンコールでは、最後を迎えた芸術監督「ノヴォラツキー」が姿を現し、一瞬心ないブーが聞かれたが、ブラボーの声がすぐに増して、我々観客は、その功績を大いに称えた。こんな素晴らしい舞台を目の当たりにして、感謝感謝の気持ちだったのだから。

Dsc01887_1 ウィーンで買った「銀のばら」。

詳細はこちらで。

日本は、新国を皮切りに、ばら騎士戦争が行なわれる。
「チューリヒ」「ドレスデン」「びわこ」の3本が控えている。
ああ、どうしたらいいの?

「金と時間が・・・・・」、このオペラの中でもオックスが前者を、マルシャリンは後者を盛んに気にしてたなぁ・・・・。

最後に、隣席の男子(私と同じオヤジだけど)、オーデコロンがやたらに臭い!
つけ過ぎだよ。触れてないのに、こちとらのシャツに匂いが付いちまった。
ええ加減にせい!ほのかに匂ってこそいいのに、鼻がまがりそうじゃい。
人一倍、鼻が敏感な私だから、コンサートの「におい攻撃」には、お手上げだ。
頭が痛くなっちまったぜ。

  元帥夫人 :カミッラ・ニールント   オックス男爵:ペーター・ローゼ
  オクタヴィアン:エレナ・ツィトコーワ  ゾフィー   :オフィリア・サラ
  ファーニナル:ゲオルク・ティッヒ        歌手    :水口 聡

   ペーター・シュナイダー指揮  東京フィルハーモニー交響楽団
                         演出:ジョナサン・ミラー

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2007年6月19日 (火)

ヴェルディ 「ファルスタッフ」 新国立劇場

Falstaff 新国立歌劇場の今シーズン最終演目「ファルスタッフ」を観劇。6月19日19:00@オペラパレス(??)

同じ「ジョナサン・ミラー」が手掛ける、新演出「ばらの騎士」とともに、交互に上演されている「ファルスタッフ」は2004年プリミエのもの。

当初観る予定はなかったが、観劇した「I」さんのお薦めもあって、急遽決心した公演。
「ばらの騎士」と連チャンとなるが、以外や安値席も残っており、軽い気分で初台に参上した次第。

結果は上々。
音楽の素晴らしさはいうまでもないこと。舞台、演出、歌手、観客ともに満足・満足の出来で、帰宅の足取りは喜び勇む「ファルスタッフ」よろしく、飄々たるものであった。

何がいいか。

音楽の素晴らしさ・・・・・ヴェルディ晩年のハ長調の喜劇は、真面目な音楽だ。
 人間の悲劇を書き尽くしたヴェルディが到達した世界は、無駄のない簡潔な音楽。
 中期以前のヴェルディ特有のジンタ調や、心ときめかせる躍動感はないが、屈託のない
 明るさが酸いも辛いも知り尽くした達人の様相を呈している。

演出の素晴らしさ・・・・・医学博士の称号まで持つジョナサン・ミラーの演出は、自然体。
 むやみに考え込ませる演出ではなく、我々がイメージするシェイクスピアが描いたファル
 スタッフの世界を見せてくれているように思う。
 それでいて、登場人物の動きは実に考えられたもので、指先の動きひとつひとつに、そ
 の意志や意図が感じられるきめ細かいものに感じた。
 舞台はフェルメールの絵画を見ているような遠近感豊かな感じだった。

F1_1歌手達の素晴らしさ・・・・・プリミエ時のメンバーは一新されているが、アンサンブルが大切なこのオペラ、そのあたりは見事だった。女性4人の重唱は、ひとりひとりの声がよく聞き取れるほど。
脇役の日本人達も演技とともに唸らせてくれる。
売出し中の樋口のフェントンと中村恵理のナンネッタのコンビがフレッシュでベテランの中に混じっても輝いていた。
ドイツではワーグナーを歌うような3人。
タイトスのファルスタッフ、ブレンデルのフォード、アームストロングのクイックリー夫人。
この3人については何もいうことがないほどの素晴らしさ。ことにタイトスがいい。
最初は私としては、ウォータンのイメージを引きずったが 、途中からタイトスの自在な歌と演技に引き込まれてしまった。憎めないファルスタッフ!
 あのバイロイトのエルザだった、アームストロングは、メゾになったし、体格も立派に・・・・。
F2  唯一イタリア人、アリーチェのファルノッキアは、このオペラの準主役とも目される役を無難に演じたが、もっと歌う場面が欲しく、ヴェルディの他のロールでじっくり聴いてみたいと思われる。フレーニのように舞台を引っ張る華が欲しいところかな。

観客の素晴らしさ・・・・新国の観客も年とともに、練れてきて、無駄な拍手やガサガサ音も少なくなってきた。
平日だからかもしれないが、仕事帰りにふらっと来た風情の方がたも多く、熱心に観劇していていい雰囲気。
オペラを楽しむ環境がこうして出来つつあるんだなぁ。

オーケストラの素晴らしさ・・・・今日は東京フィルがピットに入った。連日、シュトラウスとヴェルディを弾きわける、ウィーンなみのスケジュールだが、日本でも一番オペラ経験
F3 が豊かなこのオーケストラ。アンサンブルに不安は残しながらも、伸びやかなヴェルディ・サウンドを出していた。
この功績は、なんといっても「ダン・エッテンガー」の指揮のゆえ。バレンボイムの秘蔵っ子とも言われるこの指揮者。
なかなかに統率力が豊かで、舞台もよく把握しながら振っているので、歌手もオケもやりやすいであろう。
それ以上に、音楽が生き生きとしていて、ヴェルディの音楽のよさがストレートに伝わってくる。
いい指揮者だ。

まだ、21日の昼公演がありますよ。時間の許す方は是非、観劇あれ!

  ファルスタッフ:アラン・タイトス        フォード :ウォルフガング・ブレンデル
  アリーリェ  :セレーナ・ファルノッキア   ナンネッタ:中村恵理
  クイックリー夫人:カラン・アームストロング メグ    :大林智子
  フェントン  :樋口達哉            カイウス:大野光彦
  バルドルフォ:大槻孝志            ピストーラ:妻屋秀和

          ダン・エッテンガー指揮   東京フィルハーモニー
                       演出:ジョナサン・ミラー
         

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2007年6月18日 (月)

アディンセル 「ワルソー・コンチェルト」 フィードラー指揮

Ajisai_1 紫陽花は、同じくたくさん花をつける「ユキノシタ」科の樹木だそうな。

 

樹木科というと味気ないけれど。今の時期、梅雨を迎える紫陽花はほんまにキレイや。

 

Fiedler_grofe  「ボストン・ポップス」といえば、「アーサー・フィードラー
生粋のボストン子が、ボストン響からの有志で始めたアメリカならではのポップス・オケ。
今はどんな活動をしているのかしら。
誰しも、その華やかで鮮やかなサウンドを耳にしたことがあるだろう。フィードラーはそちら系の人という印象が強く、ガチガチ・クラシックファンには敬遠されがちだったけれど、私はその明るい音楽とRCAの録音が好きだった。
ボストン響を指揮した「新世界」の録音もあって、本格の素地のうえに成り立った名匠だった。

 

フィードラーのアメリカ音楽の有名どころを集めた1枚には、「グローフェの大峡谷」「ラプソディー・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」に加えて、「アディンセルのワルソー・コンチェルト」が収められている。ジャケットには記載ないけど。

 

リチャード・アディンセル」(1904~1977)は、英国生まれ。王立音楽院で学んだ、こちらも本格派。成功したのは、ハリウッドで映画音楽の作曲家として。
英国紳士の恋を描いた「チップス先生さようなら」の音楽があたり、戦時下のポーランドを舞台にした、連合国側女性ジャーナリストと、ポーランド軍に帰属するピアニストとの悲恋の映画「戦雲に散る曲」(1941年)が見事にあたった。それ以降の作品はあまり知られてないし、知りませぬ。
その音楽が「ワルソー・コンチェルト」である。これ1曲で名をなしたヒト。

 

10分足らずの曲は、甘~くて、メロディアスな音楽。
10分以上はつらくなるけれど、後ろ髪引かれる、あと引く音楽。
ピアノ・コンチェルトの1楽章のようで、ラフマニノフ好きにはたまらない。
日曜洋画劇場の憂愁の音楽にすこぶる近い。
わたしなんぞ、一杯やりながら聴いていると、ず~っと浸っていたくなる。
甘味なる第1(2??)主題なんて、もうたまりませぬ。

 

ロマンテックおやじとしては、一度この映画を見てみたいもんだ。

 

 

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2007年6月17日 (日)

エルガー 交響曲第1番 尾高忠明 指揮

Ajisai 陽光を浴びるアジサイ。

紫陽花と書く。
なるほどのそのお名前。イメージする色は、紫。
でも、日本人の感性からすると、雨に濡れそぼった花としての紫陽花がいい。

梅雨はどこへ?

Elgar_otaka_1エルガー(1857~1934)の最愛の交響曲第1番を聴く。2番もそうだけれど、誰のどんな演奏を聴いても好きな音楽は、最高の感銘を与えてくれる。
かなりの枚数を集めたが、そのどれもが好き。
1枚として気にくわない演奏がない。

私のブログでは、あえて大御所は外して、これまでプリッチャードノリントンを取上げてみた。
そして、今日は我らが「尾高忠明とBBCウェールズ」の記念すべき演奏を。

東京フィル時代の尾高氏は、正直あまり聴かなかったが、唯一、「マーラーの4番」と「デュリュフレのレクィエム」の名演がFMで放送され、テープで何度も楽しんだ。
その尾高氏が、BBCにポストを得た頃から、意識して聴き始めたものだ。
氏の得意分野である、英国音楽とワーグナー、マーラー、ラフマニノフが、私の好みとピタリと一致することからであった。
その頃から、中庸さから一歩を踏み出し、音楽と呼吸をともにしているかのような自然な息遣いが滲みでていると思うようになった。

その自然さが、このエルガーをおおらかで、とても気持ちいい演奏にしている。
オケはややスリムな音ながら、英国らしくノーブルで、涼やかな音色に聴こえる。
冒頭の「高貴に」と指示ある旋律が徐々に盛り上がっていく場面から私の涙腺は緩んでしまうが、この尾高盤も完全に泣かせてくれた。
どこをとっても素晴らしいこの演奏、ラストの最大の聴き所、冒頭の旋律が金管で再現され、荘厳たるエンディングを迎えたとき、またも私は涙ぐんでしまうことになる。
この伸びやかで、素晴らしいエルガー、是非聴いていただきたい。

Otaka_young 若き尾高氏

エルガー・イヤーに氏は、読響と2番、N響と1番を演奏してくれる。
札響との3番のCD発売も楽しみ。



Waellesh_1 ウェールズつながりで、この料理。
ウェルシュ・ラビット(ウェールズのうさぎ)」
チェダーチーズとビール、ウスターソースでつくるチーズ・トースト。

指揮者オーマンディのレシピにもあるこの料理を、大阪の音楽バーのマスターが見事再現。その製作を依頼した某理事とともに先日いただいた。

チェダーチーズのモチモチ感とビールやウスターで出たコクが大変マッチして、ビールと一緒にいただくと、もう最高の一品でした。

   BAR SAKURA  門真市本町9-19 ロイヤルビル4F
     
      ※別館にて詳細公開中

                      

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2007年6月16日 (土)

バックス 交響詩集Ⅰ トムソン指揮

Imgp3301a 北陸、金沢の海に沈む夕日。
昨年、秋の作品。

日の出は壮大で、徐々に明るさが支配してゆく様が前向きな気持ちを鼓舞してくれる。

夕日は、すべてを曖昧な雰囲気に染めてゆく儚さがいい。刻々と闇に染まる準備が始まる。決別の寂しさに人は感傷的になることが多いであろう。
山に沈む夕日、海に沈む夕日、どちらも好き。
そして私の頭のなかでは、いろんな音楽がこだまする。
その音楽はたいていの場合、英国音楽だったりする。そう、ディーリアスやバックスが。

Bax_tone_poems1

アーノルド・バックス(1883~1953)は、裕福な家庭に育った、生粋のロンドンっ子だが、長じてケルト文明に目覚め、スコットランドやアイルランドの荒涼たる自然に大いに感じ入り、生涯愛してやまなかった。亡くなった時も、アイルランドにいた。

だからその音楽も、神秘的、伝説的なファンタジーあふれる作品ばかり。
中年以降に手を染めた7曲の交響曲は、いずれも難解だが、噛めばかむほど味のあるスルメチックな交響曲たちだ。
だが、若いうちから書いた、ピアノ作品やオーケストラ作品は、親しみやすい旋律も満載だし、表題性にも富んでいて、交響曲ほどとっつき難くはない。

ブライデン・トムソン」は、史上初めてバックスの交響曲を全曲録音し、その余白に数々のオーケストラ作品を挿入したほか、交響詩ばかりを収めたCDをシャンドスに2枚残した。
こちらはその第1集。本場アルスター管弦楽団とともに、悠揚たるバックスを聴かせてくれる。

    1.「11月の森」          2.「幸せな森」
    3.「ファンドの園」         4.「夏の音楽」
      ブライデン・トムソン指揮 アルスター管弦楽団(1982年録音)

11月の森」は、文字通り森にインスパイアされた音楽で、木々の狭間に佇み、森の風に触れるかのような気分の音楽。(1917年)

幸せな森」は、楽しく弾むようなリズムが支配する音楽。軽い足取りで踊る妖精か・・。
(1912年)

Morar_1  「ファンドの園」は、ハープの伴奏にのって、木管の神秘的な調べが始まる。この幻想的な雰囲気は誰しも心惹かれることだろう。
この曲は古い伝説によりながら、スコットランド地方のMorarの薄暮の情景に導かれて書かれた。
そして、中間部は妖精たちのラブソング、懐かしくも美しい旋律がとうとうと流れる。
シンフォニーでも中間部に必ずこうした旋律的な場面は現れる、バックスお得意のシーンだが、私が好きなのはこうしたメロディック部分が現れては消えるところ。素直に感激できる。この旋律がクライマックスを迎え、音楽は冒頭の幻想的な場面に戻り、今度はファンドの姿とともに、消え入るように静かに終わる。(1916年)

夏の音楽」は、ビーチャムに捧げられた。南イングランドの7月の物憂い夏の様子を描いた抒情的な曲で、ディーリアスのそれを思わせる。
ディーリアスが真昼の庭園だとすれば、バックスは夜の庭園に聴こえる。(1920年)

Bax_2

若い頃のバックス。ナイーブそうな男。たいそうもてたそうな。
歳とともに、頭部にややリーヴな要素が出たが、夢想するロマンテックな作曲家バックスは不倫の末、女流ピアニスト、コーエンを生涯愛し、共にした。何だかいいなぁ。

    

  

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2007年6月15日 (金)

ヴェルディ 「オテロ」 ヴィントガッセン&F・ディースカウ

Othello 暑いですな。

じゃあ、熱(厚)い暑苦しい、変り種「オテロ」を一発。

ワーグナー専門といっていいくらいの、ヘルデンテナー「ウォルフガンク・ヴィントガッセン」の歌う「オテロ」をば。

DGが60年代にいくつか録音した、ドイツ語によるイタリアオペラの抜粋シリーズ。
約1時間の内容ながら、ズシリと文字通り重い。

  オテロ:ウォルフガンク・ヴィントガッセン  デスデモーナ:テレサ・ストラータス
  イャーゴ:D・フッシャー・ディースカウ    カッシオ   :フリードリヒ・レンツ

      オットー・ゲルデス指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                                (1966年頃録音)

ヴィントガッセン(1914~1974)といえば、ワーグナー。それもトリスタンとジークフリートという重量級を生涯歌い続けただけに、それらのイメージがあまりに強いし、実際ワーグナー以外の音源は、第9か「こうもり」、R・シュトラウスの一部ぐらいしか思いつかない。
そのヴィントガッセンのオテロが聴ける貴重な1枚。
ベームのトリスタンやリングと同時期の記録であることも嬉しいぞ。

爆発的な冒頭の場面から始まる。以外や録音優秀。オケもものすごい迫力。
この指揮者、「ケルテス」じゃなくて「ゲルデス」は、カラヤンのプロデューサーとして高名だが、DGにベルリン・フィルを振った新世界や、「タンホイザー」、ヴォルフなどいくつかあって不思議指揮者の一人。ここでは、まずまずですよ。
 合唱が「帆だ、帆だ・・・」と歌いはじめるが、ここはドイツ語。おっとっと・・・・。
喧騒を静めるかのように、ヒーローの登場!
「喜べー!」  原語では「エッスルターテ!」とピーンとスピントを効かせてオテロ登場となるが、・・・・・・ここでは「フロイント ヤーレ!」(たぶんこんな風に歌っているみたい)と歌って登場となる。そして、その声があのヴィントガッセンである。
熊を追って登場のジークフリートのようにくるかと思ったが、以外や颯爽たる登場で、これはこれでインパクト充分!

Windgasenn  デスデモーナとの美しい二重唱でも違和感は強い。なんとなくモッサリとしていて、「口づけを・・・」という場面は「ウン バーチョ」となるところが「アイン キッシン」となるわけ。
でも、3幕の苦悩のモノローグのド迫力は実際問題すさまじい。
機関車に乗ってズンズンと迫ってくるみたいで、この怒りと嘆きは誰も止められないと思われる。
「オテロの死」は、さながら傷に倒れた「トリスタン」だ。死の淵にある歌だ。
私にとって唯一無二の、デルモナコの直情的・ヒロイックなオテロをある意味忘れさせてくれる、ヴィントガッセンのオテロだ。
器用とはいえないヴィントガッセンが運命に翻弄されるままに演じたものだから。

もう一人の主役、F・ディースカウのイャーゴはさすがと思わせる、実に堂々たるもの。
言葉の魔術師FDさま。一語一語が意味慎重で緊張感が高い。
完全にオテロを操縦している様が、ヴィントガッセンとの二重唱でもわかる。
そしてFDが歌うと、ドイツ語が原語の作品であるかのように聴こえる。
バルビローリ盤が聴いてみたい。
若きストラータスもよい。

もう30年以上前、二期会「オテロ」を観劇した。若杉弘の指揮、宮原卓也、栗林義信、鮫島有美子(デビュー!)の面々の上演は、日本語訳詞によるものだった。
オテロの数々のカッコイイ場面は、日本語で「よろこ~べ・・・」「剣を捨て~ろ~」なんて歌われていて、ちょっと恥ずかしかったり、おかしかったり。
ドイツ語でも違和感を感じるのだから、やはり作曲者が音符を付けた原語のほうがいいに決まってる。

このシリーズには、FD、コツーブ、シュタインBPOの「リゴレット」や、ボルク、FD、トーマスの「仮面舞踏会」、「運命の力」、ステュワート、リアー、シュタインの「ナブッコ」・・・・こんな魅力的なものも出ている。

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2007年6月13日 (水)

ヒンデミット 交響曲「画家マティス」 アバド指揮

Grunewald_isenheim00











アバドの交響曲シリーズ
、最終はヒンデミット(1895~1963)の「画家マティス」。

ヒンデミットは作風はさほど現代風でなく、比較的聴かれる作品は新古典的なものが多い。でも若い頃は過激作品もあるようで、聴いてみたいもの。
年代的にはそんなに昔の人ではない。
何と言っても、ウィーン・フィルの初来日時の指揮者として日本に来ているくらい。

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その時何を演奏したか・・・、「ジュピター」にベト4に、ハイドン変奏曲に、なんと自作の「気高き幻想」などを指揮していて面白い。
1956年のこと。

交響曲「画家マティス」は、同名の歌劇から作り出された交響曲で、その歌劇はドイツ・バロックの画家、マティアス・グリューネバルトの生涯の一部を題材したもの。


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グリューネバルトの代表作は、現フランスのコルマールにある「イーゼンハイム祭壇画」で、真中の聖アントニウス像を取り囲むような3面の絵で出来た大作。
左上が、1面で「イエスの受胎告知と降誕と復活」。
真中が、2面で「イエスの磔刑とピエタ」。
一番下が、3面で聖アントニウスの誘惑」。

ヒンデミットは、この交響曲の3つの楽章に、「天使の合奏」「埋葬」「聖アントニウスの試練」と名付け、この絵を見たときの心の状態を音楽にしたかったらしい。

音楽はやや難解ながら、聞くほどに味わいが増す、スルメ系の音楽。
晦渋な雰囲気で始まるが、旋律はしっかりあるし、オケもよく鳴るように書かれている。
終楽章の終わりに築かれるクライマックスで、コラールが徐所にその姿をあらわし、金管で高らかに「ハレルヤ」が奏されると、かなりの感銘が味わえる。
聴き様によっては、かっこいい音楽であるともいえるかも。

Abbado_hindemith












アバドは96年に、ヒンデミットの代表作を集めたこのCDを録音した。
得意とするレパートリーであり、緻密にスコアを見つめ、効果を狙わず渋すぎなくらいにじっくりと内省的な演奏に徹した感じだ。
ベルリンフィルのべらぼうなうまさは感じるが、意識的に押えられている様子で、もしかしたらオケの猛者たちはもっと爆発したがっていたのかもしれない。私はこれでいいのだろうと思う。
 もっと面白い演奏でいえば、バーンスタインやカラヤンを聴けばよい。

「気高き幻想」、「ウェーバー変奏曲」どちらもいい。
後者は、ロンドン響との旧盤のハツラツとした演奏も忘れがたい。

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これで、時代順に追って聴いてきたアバドの交響曲シリーズは終了。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、マーラー、シェーンベルク、スクリャービン、プロコフィエフ、ヒンデミット、以上15人がアバドが手掛けた作曲家。

逆にアバドが振らない交響曲作曲家は、シューマン、ニールセン、グラズノフ、シベリウス、ショスタコーヴィチ、英国作曲家など。

こうして見ると、アバドの好みがよくわかるような気がする。
シューマンは声楽作品などはよく取上げているのに、交響曲はさっぱり。鳴らないスコアがもどかしいのだろうか?
 ムソルグスキー好きだから、ショスタコの14番あたりをやりそうだったけれど。
私としては、エルガーあたりを振ってくれたら、すごくいいんじゃないかと夢想している。

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2007年6月12日 (火)

プロコフィエフ 古典交響曲 アバド指揮

Neko_shiba




















驚き、警戒するネコ。

街をさまよい中に発見した。
この妙なポーズの彼(彼女)は、このお姿から想像されるとおり、片足を90度上げて毛づくろい中だった。

ん?

撮影が終わると一目散に逃げてしまった。

Abbado_prokofiev


 

 

 

 




アバドの交響曲
も終了が近い。
お得意のプロコフィエフ(1891~1953)、若き60年代に、ロンドン響と「ロメオ」と「道化師」、「古典交響曲」と「第3交響曲」、ピアノ協奏曲などを録音していて、敏感極まりない秀演だった。
その後も数々の録音がある。
イタリア人はプロコフィエフがお好きなのか?

 交響曲シリーズにあたっては、奇天烈第3交響曲を取上げたかったが、すでに登場済み。

86年にヨーロッパ室内管と再録音した「古典交響」を。
プロコフィエフ27歳の作品で、若書きに特有の新古典主義もどきかと思ったら、すでに過激な「スキタイ組曲」なんぞも書いていて、聴衆は天才プロコフィエフが遂に作曲した交響曲がすっきりした古典的な作品だったので肩透かしをくったらしい。
でも単に古典を模倣しただけの作品でないことは、移り変わる曲想や転調の激しさなど、創意工夫がみなぎっていて、単純なだけではなさそう。
このあとに続く2番、3番がかなりアヴァンギャルドな作風なだけに、プロコフィエフの真意はどこにあったのだろうか?

私は、この手の作品がどちらかというと苦手。ブリテン、ビゼーなどの同種の作品も。
でも好きなアバドの手にかかれば、まるでロッシーニを思わせる軽やかさに、はじけるリズムのよさが、極めて新鮮。微笑んで軽く指揮をするアバドの姿が思い浮かぶよう。

加えてこのCDの選曲がおもしろい。「ピーターと狼」はともかくとして、「行進曲」や「英雄の主題の序曲」など、普通の人が取上げない作品をカップリングしているのは、アバドの見識。
実際それらの曲がおもしろい。
このCDは、各国の有名人をナレーターに起用した企画で、英語圏はスティング、日本は玉三郎だった。
私の1枚は、スペイン向けらしく、ナレーターのカレーラスはバリバリのスパニッシュで、妙な違和感がある。ジャケットもそうで、「ペーター」は「ペドロ」になっちまってる。
う~む・・・・。

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2007年6月11日 (月)

スクリャービン 交響曲第5番「プロメテウス」 アルゲリッチ&アバド指揮

Ginza_sonoko
















ちょっと前だけれど、銀座の夜の光景。

ひときわ目を引く、さるお方の白い顔。

夜の街に怪しく微笑む。

ふっふっふ・・・・・。

Abbado_prometheus_cd

 













アバド
の録音した交響曲シリーズ。
シェーンベルクらの時代と同じ頃、ロシアで神秘主義に傾倒した作曲家、「アレクサンドル・スクリャービン」(1872~1915)が、妄想にふけっていた。

「音と色」との融合についてである。
当時開発された、色光鍵盤を用いて交響曲を作曲した。
音とその音に対応した色が出る楽器。
なんじゃそれ?の世界だが、当時はさながら極彩色映画のように眩く見えたことだろうな。

それぞれの色には、意味が込められ、スクリャービンの紡ぎ出す、ちょいとエロく、神秘的かつ陶酔の音の世界と結びついた効果を上げたことであろう。
科学や芸術、人間の持つ、諸感覚の統一により「法悦」の境地に入り込むと思っていたらしい。

プロメテウス」はギリシア神話上の神。
音から神の姿に似せて人間を作り、魂と命を与えた。そのうえに、火と技術を与えたことで、「ゼウス」の怒りに触れた。人間がゼウスら神の好敵手となったからである。
プロメテウスはコーカサスの岩場に縛られ、その肝臓をワシについばまれることとなる。
その肝臓は枯れることなく、プロメテウスは苦しんだ・・・・・。
それを後に救ったのが「ヘラクレス」である・・・・。(ジャケット解説より)

なんともまぁヘンテコな話であること。

Abbado_prometheus_dvd












この作品は交響曲というよりも、幻想曲のようで、ピアノが活躍するから協奏曲的イメージもある。
サブタイトルは「火の詩」。
アバドはベルリン・フィル時代、毎シーズンのテーマを決めてコンサートプログラムを考えた。
1992年は、「プロメテウス」がテーマ。
一夜に、ベートーヴェン、リスト、スクリャービン、ノーノの題名曲を取上げたコンサートのライブが今夜の1枚。

ピアノは朋友「アルゲリッチ」で、息のあった二人は、激情よりも精妙な神秘性をクローズアップしたスクリャービンを作りあげている。
スクリャービンの持つ一方の特徴、後期ロマン派風の特徴をむしろ引き出している。
DVDも出ていて、やはりこちらの方が面白い。
発色ピアノではなく、ホールの照明を駆使しての演奏。
フィルハーモニーザールが、青や緑、赤や黄色に変幻自在に変わってゆくのが妙に心くすぐられる。ときおりクローズアップされる、ライスター、ツェラー、シュレジンガーらの超名手たちも、同じ色に染まっている。
でも法悦の境地には私は達しなかったぞ?

こんな曲でも美しく、しなやかに聞かせてくれるアバドに感謝。
若き頃、ボストン響と録音した「法悦の詩」が懐かしい。同曲一の名演だと思っている。

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2007年6月10日 (日)

R・シュトラウス 歌劇「インテルメッツォ」 サヴァリッシュ指揮

Strauss_intermezzo

R・シュトラウスのオペラ8作目は、「インテルメッツォ」。
作曲順にゆっくりと取上げているけれど、以前に舞台や映像の3作(ダナエの愛、ダフネ、カプリッチョ)を取上げているから、都合11作品を当ブログで扱った。
シュトラウスオペラ、全作通し聴きプロジェクトは、これで2度目の試みだけれど、作品的にはそれぞれデコボコがあるし、台本の優劣にかなり左右されることが多い。
でもどの作品も、声の選択が巧みであるし、言語としての独語の美しさが後年のものほど味わえる(もちろん、その内容の多くは理解できませぬが・・・・)
そして、言わずもがなだが、オーケストラの扱いの巧みさ。
ため息が出てしまうような美しい音楽や、官能的な音楽がふんだんに用意されている。

R_strauss 今回の「インテルメッツォ」もそう。
1918~23年にかけて作曲。24年にドレスデンで作曲者の指揮で初演。
交響詩はほとんど書き尽くし、ほぼ歌曲とオペラに専念するようになったシュトラウス。
全2幕の節々に挿入された、場をつなぐ、いくつかある間奏曲が楽しいワルツあり、美しくも甘味な旋律ありで、シュトラウス好きを泣かせる。もうたまらん。

こうしたオーケストラ部分は、単独でも演奏され、CDもいくつか出ている。
が、このオペラの難解なところは、その言葉の洪水にある。
歌ではあるが、日常会話のような内容をものすごい言葉の数でもって歌手たちに強いている。
数年前に、若杉弘が日本初演をしたおり、日本人歌手たちだけで、原語上演したが、空前の努力を経たことであろう。いやいや、日本のオペラも進化したもんだ。すごいよ。
ちなみに、この上演はチケットを買っておきながら、都合で行けずじまいだった・・・。

オペラの台本は、シュトラウス自身。内容はお得意の家庭内秘話?のようなもので、聴衆は、たやもない夫婦喧嘩を見せ付けられることになる。完全に自分のことを作品にしているという。いやはや・・。
 嫉妬深く、いつも当り散らしている妻、寛大で鷹揚な宮廷楽長の夫。

「第1幕  ウィーンに長期仕事に出かける夫ローベルト・シュトルヒ。その旅の準備で大あらわの妻クリスティーネ。妻は仕度のかたわらもうイライラ。鷹揚な夫にキレテしまう。
喧嘩状態での旅立ち。
夫のいなくなったクリスティーネはスキーを楽しむが、そこでルンマー男爵なる金のない若者と仲良くなってしまう。でも、この男、こずるくて、クリスティーネに金の無心の手紙を書き、彼女はそれを見て怒りまくる。
そこへ、運悪く電報が一通。内容は『オペラのチケットを2枚送ってね、いつものバーで落ち合いましょう』という女のもの!
これに悲しみ、激昂するクリスティーネ。夫に別れの手紙を書く。
そばでは、かわいい息子が『パパはそんな人じゃないよ』と慰めるのがかわいい。
(子供はお父さんの見方なのだ)

第2幕  ウィーンで仲間とトランプ中のローベルト。ここに訳のわからん妻からの電報が到着。仲間の指揮者シュトローが、電報にある女の名前を知っている様子だが、ともかく妻と話すべくゲームを切り上げ帰途につく。
離婚手続きに入ろうとしたクリスティーネだが、公証人もローベルトを知っているし、ルンマー男爵とのあらぬ噂も知っていので、手続きを進めない。やれやれ。
 シュトローの弁明で、女が電話帳で、シュトローとシュトルヒを間違えたことを知り、誤解の原因を知ったローベルト。
シュトローから誤解話を聞いたクリスティーネだが、夫が家に到着してしても、ぐだぐだと文句ばかり。『こんなことはいつかは起きること、もういやだ・・、私のことなんか知らないくせに・・・』と駄々をこねまくる。これには、温厚なローベルトもぶちきれ、妻を思い切り叱る。
叱られて夫の愛みに目覚め、夫婦喧嘩を経て夫婦の絆が深まった・・・・」


いやはや、めでたいお話じゃぁないか
こんなオペラを見せ付けられたらたまったもんじゃない。
自分の身の回りだけで、たくさんだよ。
オペラは現実から逃避して夢を見させてもらう要素もあるのに・・・・。
でも、音楽は口惜しいほどに素晴らしく、よく出来ている

クリスティーネ:ルチア・ポップ ローベルト:ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
ルンマー男爵:アドルフ・ダラポッツァ  シュトロー:マルティン・フィンケ
ノタール   :クラウス・ヒルテ      宮廷歌手:クルト・モル

     ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団 

サヴァリッシュの整然とした指揮は、シュトラウスの複雑なオーケストレーションを見事なまでに解明し、そこからシュトラウス・サウンドの芳香がたちのぼるかのような素晴らしさ。
ミュンヘンの暖かみあるサウンドも最高。
それでもって、全盛期のルチア・ポップとF・ディースカウの文字通り、舌をまくほどの歌のうまさ。彼らの歌ともいえない会話のような歌を聴いていると、舞台で名優たちの演技に鳥肌が立つのと同じ思いがする。
そして、最終の夫婦仲直りのほのぼのとした二重唱に、ホロリとさせられることになる。

               

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2007年6月 9日 (土)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 コンヴィチュニー指揮

Paylates_of 見ぃ~ちゃったぞ。ミーハーだけど「パイレーツ・オブ・カリビアン」。

エンターテイメントの真髄を知り抜いたディズニーの製作は、相当な制作費をつぎ込んだ手のこんだ映画。
長いが、ともかく息をもつかせぬ面白さ。
そしてパロディーの塊。随所に「ははぁ~ん」と思わせる場面がある。

何と言っても「幽霊船」伝説をまともに取上げていること。その船の名もズバリ「フライング・ダッチマン号」だし、その船の船長は呪われ、海をさまよい、10年に一度だけ陸に上がれる運命を背負う。
この映画で、誰がその運命を背負うかは見てのお楽しみ。
 
それから、ヒロインの女性がその名も「エリザベス」。
16世紀、スペインの無敵艦隊を相手に、勝てるはずのない戦を前に、時の女王「エリザベス1世」が消沈するイギリス軍を鼓舞する歴史的な大演説をおこなった。
これに力を得たイギリスは、スペイン無敵艦隊を負かしてしまった・・・・。
この史実と同じことを、映画の「エイザベス」は海賊を前に行い、何十倍の戦力を誇る敵に戦いを挑むことになる。
これらは一例に過ぎず、もっと詳しい人が見たらいろいろと発見できるのでは?

ジョニー・デップの人のよさの滲みでた演技、ベッカム似のブルーム、ヒンギス似のナイトレイ・・・、みんなカッコイイ。音楽も聴き応えあり。

Hollander そんな訳で「さまよえるオランダ人」である。
またワーグナーである。
2時間20分のCD2枚は、リングに比べたら、ちょちょいのちょいである。
今日の「オランダ人」は、懐かしめの「コンヴィチュニ」盤で、1960年の録音。
ドイツは東西に分断されていたが、ベルリンの壁はまだ築かれてなかった。(1961年)
そんな時期の録音だから、歌手も東も西もなく、オーケストラのベルリン国立歌劇場の音色もその昔のドイツの重厚なものだ。
バレンボイムの一連の洗練されたワーグナー録音と比べると、その違いは歴然。うなりを上げる低音にシビれる。
   
 ダーラント:ゴットロープ・フリック   ゼンタ  :マリアンネ・シェヒ
 エリック  :ルドルフ・ショック      マリー  :ジークリンデ・ワーグナー 
舵手   :フリッツ・ヴンダーリヒ  オランダ人:ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ

           フランツ・コンヴィチュニー指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団

歌手陣の豪華さはどうだろう。舵手がヴンダーリヒですぜ。
FDの貴重なオランダ人は、明るく力強い。少し悲劇性は薄いが、バリトンを聞く楽しみが充分味わえる。
年代を感じさせない、現役でも立派に通用するオランダ人を聴き、私の心はまた他のワーグナー作品にさまようばかり・・・・・。  

昨晩は、関西出張にかこつけて、関西地区ブロガーの皆さんと、音楽バーにて食事に酒、そして音楽を楽しみました。
久しぶりに全盛時のパヴァロッティの歌声に感嘆した。そして驚きは、関西理事の持ちよられた、ラフマニノフの弾くショパン! 
これにはたまげたっす。まるで、ラフマニノフ編曲のショパン。涙チョチョギレの思い切りラフマニノフしてる珍盤?いや名盤だったのだ!
どーも皆様、ありがとうございました。
飲食状況は、いずれ別館にてご案内。

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2007年6月 7日 (木)

シェーンベルク 室内交響曲第1番 アバド指揮

Kyoto_st 京都駅。

平成9年の出現からもう10年。
このトラスとガラスの無機質ぶりはすっかりお馴染みになったが、いつも風が吹き抜け、夏は暑く、冬寒い。
ここに佇むと目眩を感じるのは私だけ?

Abbado_schoenberg アバドの交響曲、シェーンベルクの室内交響曲第1番op9を聴く。
この曲を交響曲と呼べるかどうか?
刈り詰めた15人の奏者による室内楽といってもいい。フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラ、コントラファゴット、ホルン2、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。

1906年の作品は、まだ調性音楽で、後期ロマン派風の濃厚な色合いも持っているが、時に調性が崩壊しかねないような不安定感もちらついていて、何となく落ち着かない雰囲気。

そして驚くのは、各奏者に要求される名技性。編成が薄い分、あらゆる楽器が明確に聞こえるが、どの楽器ひとつをとっても何だか激しく吹き・弾きまくっている。
それが渾然となって独特の雰囲気をかもし出している。
全体は切れ目ない5部からなるが、冒頭の4度跳躍による動機が曲のモットーのように時おり鳴り響く。
しかし、第4部の緩徐楽章は、なかなかに美しい。
ベルクのヴァイオリン協奏曲のような雰囲気。
最後は賑々しく、あっけなく終わるこの曲。
ツェムリンスキーを挟んで、マーラーの10番のあとに続くような音楽に思う。

アバドは新ウィーン楽派を最も得意にしている。
どんな錯綜した部分も、明晰に聴かせる。そのうえに、どんなパッセージやフレーズにも歌心が感じられて無機的にならないときている。
ヨーロッパ室内管の凄腕たちも間然としたところがまったくない。
95年のイタリア、フェラーラにおけるライブ録音。
リゲティの妙に美しいフルートとオーボエのダブル協奏曲も収められている1枚。

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2007年6月 6日 (水)

マーラー 交響曲第7番「夜の歌」 アバド指揮

Tokyo_tawer_1 一瞬、パリの雰囲気かと思いきや、三田界隈から見た東京タワー。
コテコテの立喰い「麻布ラーメン」が悲しみをそそる。

パリの話題をふたつ。

1.「エッシェンバッハ」がパリ管を2010年で去り、後任は「パーヴォ・ヤルヴィ」が予定されているそうな。
頭部は似ているが、似ても似つかぬ個性。
フィラデルフィアも辞め、どこへ行くエッシェンバッハ!
それにしても、息子ヤルヴィの快進撃はすごい。

2.2008年7月に、パリのバステューユ・オペラがやってくる。
かのモルティエ体制下、過激な歌劇(!)が見られる。
演目はなんと、「トリスタン」「青髭城」「消えた男(ヤナーチェック)」「青髭(デュカス)」。チケットはかなり高い。どーする、フレンチ・トリスタン

Abbado_mahler7

アバドの交響曲、今日はお得意のマーラー
68年ザルツブルクにおいて「復活」で歴史的成功を収め、以来70年代後半から今にいたるまで、全交響曲をまんべんなく演奏し続けてきた。

自身の回想録で、マーラーへの共感と同質性を訥々と語っているアバド。
先達らと違い、アバドはマーラーの音楽にのめり込まず、客観的な視点でどこまでも自然にスコアに書いてある音楽を捉えている。
その響きは強大なものでなく、スリムでしなやか。
というわけで、バーンスタインやテンシュテットのマーラーと対極にあるマーラーは、30年来変わらない。ルツェルンでは、オケがアバドの意志を完璧に捉える共同作業態だから、さらに熟練の度合いを深め、すべての音ひとつひとつがマーラーの音楽そのものを自然に語り始めるようにまで進化した。

ほぼ2度に渡る全曲録音のなかで、登場するオケは、シカゴ・ウィーン・ベルリン・ルツェルン。スカラ座やロンドン響とも録音してもらいたかった。
4つのオケとの演奏のすべてが好きだが、個人的に思い入れがあるのは、シカゴ響とのもの。70年代後半、同団の主席客演指揮者だったアバド。
音楽監督ショルティのもと豪気なマーラーを、アバドとは繊細かつ鋭利なマーラーを、そしてジュリーニとは深遠なマーラー、レヴァインとは明快なマーラー。
今に至るまで、まさにシカゴは、マーラー・オケなんだ。
これらの指揮者とともに、シカゴ響は、当時「新時代のマーラー」の担い手だったわけ。

どうも昔ばなしばかりになるが、84年録音のこの7番の二つの「夜の音楽」の楽章を聴いていると、アバドが紡ぎ出すニュアンス豊かな歌心に、当時のことをいろいろと思い出してしまう。私もまだまだ、夢や希望に満ちあふれていたんだ。

この奇矯な交響曲に、今夜は少しばかり感傷的になってしまった。

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2007年6月 5日 (火)

私生活バトン

リベラさんから、バトンを頂戴した
喜んでお受けした。

ここに、拙者「さまよえる男」の私生活を明かそうではないか。

ついで、報告がござる。
ブログペットなる、不可思議な鳥をサイドバーに載せもうした。
主人である拙者の命じるままに、こやつは旅に出る。
日帰りあり、長期旅路につくこともあり、まさに「さまよう鳥」である。
ワーグナーのリングの「森の小鳥」には、名がない。やむを得ぬから「ジークフリート」と名づけもうした。
食事やおやつを与えて下され。
飛んでる時は、余が旅を命じた時じゃ。地図をご覧下されば、かのものがどこにおるかわかろうというもの。かわいがって下され。

さて、詮議に答えることとしよう。

1.家に帰ってまず何をする?

 まずは、武装を解き平服に着替えもうす。
 して、すぐさまに、「手洗いと うがい」じゃ。
 このぶくぶく・ガラガラの習慣で、余は風邪をめったにひかんのじゃよ。

2.普段家での格好は?

 余の平服は、Tシャツと短パンじゃ。
 冬は寒いから違うがの。

3.部屋はどんな感じ?

 西洋机があり、椅子を回転させ振り向くと、音響装置と映像設備(単なるテレビじゃよ)が
 ある。見上げると、中二階のようなものがあり、そこにスピーカーが置いてあるのじゃ。
 来る大地震には、拙者はスピーカーの下敷きになるじゃろうよ。
  机の両脇には、余の家人どもの衣装箪笥が迫っておってな、余が音楽を楽しんでおる
 と家人が始終乱入するのじゃ。指揮真似なんぞしておるときは、恥ずかしいわい。

4.その部屋はあなたの理想にかなってる?

 狭いながらも、ほぼ満足というところかのう。出入自由が、ちと不満じゃがのう。

5.朝方人間?夜方人間?

 両刀使いじゃ。ふっふっふ・・・・。

6.好きな音楽は?

 西洋音楽じゃ。

7.好きな本は?

 常に変遷するが、変わらぬのは「池波正太郎」の「剣客商売」じゃ。
 飲食いする場面がたまらぬ。
 あと、ちと変わったところでは、「三浦綾子」も好きじゃのう。

8.好きな漫画は?

 漫画は読まんが、唯一「酒のほそ道」なる漫画は好きじゃよ。

9.好きなゲームは?

 ゲームとはいったい何かの?
 西洋トランプなら、「ナポレオン」が得意じゃわ。

10.好きな服装は?

 普段は武士の成りをしておるが、粋な町人姿なんぞいいのう。

11.好きな食べ物は?

 馬肉、カツオ、鴨、蕎麦、中華そば
 
12.好きな飲み物は?

 酒すべて。 

13.好きな動物は?

 犬や猫に代表される、毛で覆われたモコモコ動物はみな好きじゃよ。いっしっし。

14.好きな場所は?

 居酒屋でござる。

15.好きな言葉は?

 「お~い。酒!」
  しかし、飲み過ぎ・喰い過ぎは注意じゃ!

16.苦手なものは何?

  カマキリと煙草がきらいよ。

17.コレだけは人に負けないものは?

 思いあたらぬわ。いかんのう。しいて申せば、豊富な成人病の品揃えであろうかの。
 
18.親友に一言

 肩の力を抜いて、もう少しゆるく考えたらどうかの?

19.○○(バトンを回した人)に一言

 未知音楽をさらに極めて下され!


20.最後にバトンを回したい人を五人まで

 naopnig さん、受けて下さらんかのう?

以上、つまらぬ余の生活振りを聞いて下さり、かたじけない。
naoping殿、申し訳ござらん、スルー可でござるよ。

ではこれにて。

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2007年6月 4日 (月)

バーバラ・ヘンドリックス sings DISNEY

Hendricks_disney_1 みんな大好き、夢の国「ディズニー・ランド
私のようなオジサンでも、無条件に楽しめるし、我を忘れさせてくれる場所。

「ディズニー・ランド」しかなかった頃、あんな楽しい場所で、唯一「酒」が飲めないことが不満だった。マジで、ペットボトルか水筒で酒を持ち込もうかと思ったこともある。
ことに、あんなキレイな夜の灯りの中で、水割りでも飲めたら・・・・・。

しかし、「ディズニー・シー」では、酒が飲めるというじゃないか!
だが、不幸にして、子供達は友達同士で行く年頃になったし、カミサンではちょっとねぇ?・・・・誰か、ワタシをシーに飲みに連れてって~

突然、「ディズニー」なのは、日曜に、娘の吹奏楽部の定期演奏会があって、その中の演目が「ディズニー・メドレー」だったのである。
頭のなかは、土曜に聞いた神奈川フィルのベートーヴェンが響きつつ、「ディズニー」のメロディーたちも席捲しつつあった妙な演奏会になってしまった。
わずかにある娘のソロに、ビデオ持つ手はもう汗でじっとり。

不滅のキャラクターを生み出し、テーマパークを作り出し、映像と音楽にと、ディズニーが世界に残す足跡は巨大。われらクラシック好きにも近い存在。
いろいろな場面で使われたクラシックの名曲。
そればかりか、ディズニーの愛らしい音楽を、クラシックの演奏家が好んで取上げることもあるからスゴイ。
子供のころ、毎日曜日にディズニーの番組があり、そこで受けた印象はいい意味での情操教育にもなったのかしらん。そして、素適な音楽もみんな覚えてしまった。
アメリカはすごい、戦争に勝てるわけがない。

Hendricks_disney2 レパートリーの広い「バーバラ・ヘンドリックス」が、ディズニーの名曲を録音したのは、95年から96年にかけて。
愛らしいリリック・ソプラノとして、一番輝いていた頃。
曲目は左のうずまきをご覧あれ。ずらりと17曲、それこそ一献傾けながら聴くと幸せな気分で一杯になる。ややハスキーがかった歌声もまた魅力で、決して手を抜かず、立派な歌曲のように気持ちを込めて歌っている。
かといって、オペラ歌手が自分の領域にたぐり寄せたかのようなデフォルメチックな歌いぶりじゃなく、どこまでも自然で違和感のないのがいい。

Disney_classic_1 Disney_clasic2

あとディズニーものでは、「クンツェルとシンシナシティ」のオーケストラ集と、こちらのオリジナル盤2枚を楽しんでおりまする。

世の老若男女の皆様、そして某国パクリ・テーマパークで楽しんだ皆様も、ディズニー聴いて、「いい夢見ろよ~」

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2007年6月 3日 (日)

神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

Schneidt2_2 2日(土曜)、横浜で神奈川フィルを聴き、そして心の底から楽しんできた。
先日の忘れられないブラームスから、まださほど日がたっていないのに、音楽監督シュナイト氏と神奈フィルは、またまたスゴイ名演をやってくれた!

会場は、横浜の音楽シーンにその名を刻んできた趣きある「神奈川県立音楽堂」。
そんなこと言いながら、私はほぼ30年ぶり!
今となっては懐かしいピアニスト「宮沢明子」を聴いていらい。
その記憶ははるか彼方に・・・・・。

ちょっとデッドな響きだが、音が真近に感じることができて、その粒立ちが手にとるような臨場感があった。

  1.ブリテン        「シンプル・シンフォニー」
  2.ストラヴィンスキー  「プルチネルラ」組曲
  3.ベートーヴェン    交響曲第1番

こんな洒落たプログラム。若書きの作品が、新古典主義のバレエ音楽を挟み、それぞれがまた古典の粋でつながっている、というよ~く考えられた選曲に脱帽。

ブリテンの曲は、あまり真剣に聴くことがなかった。シリアスな作品ばかりを聴いていたけれど、こうして聴くとなんていい音楽だろう。特に、第3楽章の優しい抒情は、若きブリテンがエルガーやRVWらの先達につながっている、英国作曲家であることが今更ながらに理解できた。こんな桂曲を名コンマス石田氏率いる、神奈フィル・ストリングスは心にくいほど気持ちよく演奏した。
シュナイト氏の指揮も、次のストラヴィンスキー共々、背中が楽しそうに感じられた。
 「プルチネルラ」では管が活躍するが、後半登場のトロンボーンのマイルドな音色と万全の技巧に驚き。最初のあたりで、自分としてはやや停滞感を感じてしまったが、これでこの曲はサマになったどころか、ストラヴィンスキーの諧謔的な遊びの境地が楽しめた次第。

休憩をはさんで、ベートーヴェン。
1番が「トリ」だなんて、あまりきいたことがない。(でしょ?)
ところがですよ、今日のシュナイト/神奈フィルの1番は、決まるべきところが決まり、収まるところへ収まった、という感じで、音の充実感で30分の交響曲がベートーヴェンのほかの大交響曲に匹敵する音楽であることを示してくれた。
冒頭の序奏の和音から思わず背筋を伸ばしてあらたまってしまった。
慌てず騒がずのじっくりした動きだが、決して遅くはない。
全曲にわたって、我々がイメージする重心が下のほうにある、ドイツ音楽そのもの。
それが鈍重にならないところが、シュナイト氏のすごいところ。
オケの清新な響きと楽員のやる気がまた耳に、目に嬉しい。
音楽が終わると、ブラボーの嵐。1番で、こんなに盛り上がるなんて!! 感激!!

シュナイトさん、ご満悦で、聴衆に向かって「みなさんの神奈川フィル、そして私はハマっ子」とやらかしたものだから、会場は大ウケ。
練習は厳しく、音楽も厳格だけれど、指揮台を降りると、人のいいドイツのオッサン。
次回の登場は秋、「未完成」とR・シュトラウスですよ!
仕事をサボって横浜へ行こう。

Yokohama アフターコンサートは恒例となった「神奈川フィルの余韻を楽しむ会」(yさん、この名前イタダキ!)

コンサートの余韻を文字通り楽しみつつ、音楽談義に時間の経つのも忘れて楽しく酔いしれました。
皆さんお世話になりました。

今朝は、毎度おなじみの酒の余韻も楽しんで(?)おりまする。

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2007年6月 1日 (金)

ドヴォルザーク 交響曲第8番 アバド指揮

Mita_1 いい青空に、いい雲。
でもこのあと、にわかに厚い雲に覆われ、大粒の雨が降り出した。

昨日の港区の空。

ちょろりと見える、尖がったビルはN○○の本社ビル。
いいよな、裏金作って接待はともかく、遊興費だもんな!
勘違いも甚だしい。大企業の枠に甘んじたおバカさんたち。仕事もなくて汲々としている人々がゴマンといるというのに・・・・。

Abbado_dvorak_8_1 ビルの先端は無視して、青空のように爽やかな音楽、ドヴォルザークの交響曲第8番
今はそんなことはないけれど、かつては「イギリス」なんて副題がついていた。
単に出版元が英国の業者だったからで、音楽の中身はドヴォルザークらしい、ボヘミア臭の色濃いもので、あふれ出る旋律の数々は親しみやすく、心和ませる。
ドヴォルザークはメロディメーカーなんだ。
年取ってどの曲も第2楽章の静かな部分が好きになってきた私だが、この曲も負けてはいませぬ。
詩的であるとともに、小鳥のさえずりなども聞こえる自然賛美でもあって、この楽章ひとつだけでも取り出して聴くことがある。

アバドとベルリン・フィルの93年のライブ録音は、アバドには珍しく、即興的な歌いまわしや思い入れをこめたアゴーギク豊かな演奏。
ベルリンフィルの余裕ある明るい響きがそれに輪をかけて、幸せな音楽が出来上がった。
オケの面々が気持ちよさそうに、体を揺らしながら演奏しているのが目に浮かぶよう。
同じオケでも、カラヤンのそれは、もっと都会的で洗練されていたが、そこには強烈な統率のもと、アリの這い出る隙もない完璧さが優先していたように思う。
アバドの個性は、楽員との協調から生まれる音楽の喜びがまず先にあった。
そこから生まれるライブ感が、時に爆発的なものを生み出す場合があったし、病魔に冒されつつあった時は、そっけないような音楽しか生まれないこともあった。
このドヴォルザークは、いうまでもなく、前者のたぐいの名演で、この愛すべき音楽の理想的な演奏ではないかと・・・・。
ためしに2楽章を聴いてもらいたい。自然の息吹きや草いきれなどを感じる。
メランコリックな3楽章の、繊細な響き。弱音の中にも豊かな歌があって、オペラの一場面のよう。

FM音源での、ロンドン響、ウィーンフィル、それぞれの8番を聴いたが、このベルリン盤が最高。

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