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2007年7月

2007年7月29日 (日)

神奈川フィルのテレビ放送

Photo NHKの教育テレビで、去る6月の神奈川フィルの演奏会が放映されたので、急ぎ記事にしてみた。

1時間の放送枠ゆえ、ストラヴィンスキーは割愛されたがブリテンとベートーヴェンの1番の名演がしっかりと放映された。

神奈フィルの活動状況と、歴代指揮者、そして現在の充実期を楽員が生き生きと語り、シュナイト師の厳しい中にも暖かな人柄も短い時間のなかで、巧みに紹介されていた。

Photo_3 しっかりとビデオ収録し、速攻確認。
大勢が判明した選挙はもういいわ。

盛り上がる聴衆のなかに、自分を発見し、まずは自己満足で、悦に入る。

このベートーヴェンは本物だ。

どこに出しても恥ずかしくないどころか、本場ドイツでも聴けない域に達していたのでは。

というわけで、世界旅行の合間に緊急神奈フィルでありました。

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プッチーニ・ポンキエッリ・カタラーニ ムーティ指揮

Hayama_kamakura_yuigahama トンネルを抜けると・・・・、そこは海!

心あたりのある方もいらっしゃるのではなかろうか、この画像。
134号線を葉山から、鎌倉方面へ、由比ガ浜の海岸の眺望が一気に開ける。

週末をはずせば、こんな爽快感が味わえる。

Muti_puccini 子供たちは夏休み。
大人の一部も8月に入るとお休みを取ったり、休暇に向けた仕事モードになる。
そうでない方々も、夏は夏なりの過ごし方がある。私はどちらでもありません。
普通の日々を過ごすだけ。
でも見知らぬ海外にいつか脱出したい。
音楽の旅をしたい。
バイロイトに行きたい。

そんな私に企画したのが、音楽による世界旅行
こんな企画はたぶん途中で帰国、いやネタ切れになるだろうけど、夏だしやってみるか。

第1回は、西洋音楽の発祥地に敬意を表して、「イタリア」。
陽光降り注ぐイメージを優先して、この素適なジャケット。
海をバックに男ムーティ。かっこいいのだ。

 ポンキエルリ  「哀歌」
 カタラーニ   「スケルツォ」、「瞑想」
 プッチーニ   「交響的前奏曲」、「ヴィリ」間奏曲、「交響的奇想曲」

 リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団

「ジョコンダ」の「時の踊り」ばかりが有名なポンキエルリの第1曲目は、緊張感と哀感に満ちた桂作で、この人の作品をもっと聴いてみたくなる。
同様に、「ラ・ワリー」1作品のみと思わている、抒情派カタラーニの曲も歌に満ちた愛すべき作品。

でもやはり、プッチーニの巧みなオーケストレーションと、磨きあげられて繰り出される旋律の芳醇さは群を抜いている。いずれも、若書きの作品ながら、ワーグナー、マーラーに通じる和声と、先輩ヴェルデイの歌心がここに見事に聞いてとれると思う。

ムーティとスカラ座オケの、弾むリズムに心躍るカンタービレが、こうした作品達に惜しげもなく使われ、胸のつかえが取れるくらいに爽快で豊かな思いにさせてくれる。
ミラノはアルプスに近い北方だけれども、ムーティのナポリ魂とウィーン仕込みの柔和さが、抜けるようなアドリアの海と青空を思わせるサウンドを聴かせてくれる。

プッチーニのオーケストラ作品集なら、後輩シャイーがドイツのオケからシャープで繊細な音を引き出した素晴らしいCDもある。

あぁ、気持ちいいなあ・・・。

明日はどこの国を訪れようか。

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2007年7月28日 (土)

ワーグナー 「パルシファル」 クナッパーツブッシュ指揮

Saba 今週出張した、福島県いわき市の寿司屋で食べた「鯖」のにぎり寿司
私はひかりものが好きで、なかでも鯖が大好き。
夏場はちょっとコワイが、そんなことはお構いなしだ。この日の鯖は、あぶらも乗って濃厚ながら、身が充分にしまっていて、歯ごたえがコリコリするくらい。

鯖を食べたあと、地酒の燗酒を口に含めば、もう至福の瞬間!

Kna_parsifal64 寿司とは関係ないけれど、その鮮度がいまもって衰えることない「クナッパーツブッシュのパルシファル」

1951年、戦後始まった新バイロイトの看板演目は、「ヴィーラント・ワーグナー」演出の「パルシファル」。その演出はヴィーラントが1966年に亡くなって後も、弟子のペーター・レーマンやホッターらの監修で1973年まで続いたロングランだった。
そしてそのほとんどを文字通り死ぬまで振りぬいたのがクナッパーツブッシュだ。
クナ以外の指揮者でこの演出に登場したのは、K・Parsifal_1 クラウス、クリュイタンス、ブーレーズ、シュタイン、ヨッフムらである。
このうち、ヴィーラントが存命中指名したのが、クラウス・クリュイタンス・ブーレーズ。
シュタイン・ヨッフムは、弟ウォルフガンクが監督を引継いでからの指名なので、兄弟の思いの違いが歴然としていて面白い。
ヴィーラントは、意識してラテンの明晰な透明感を求めたが、ウォルフガンクは伝統的なドイツの仕事上手のカペルマイスターにしっかりとした演奏を求めた。
 
そんな中で、どうしてクナッパーツブッシュがあそこまで永くパルシファルを振りつづけたのだろうか?単純な発想ながら、パルシファルの持つ深遠で崇高な一面をクナッパーツブッシュほど自在に、しかも即興性をもって表現できる指揮者はいなかったからだろうか。
まさに余人を持って代えがたしの世界。
時に重厚でありながら、意外なほどの軽やかさもクナの指揮にはある。
でもブーレーズが成し得たような伝統の打破にも近い快速でスリリングでなパルシファルとは遠い世界がここにはある。

もし天才的なヴィーラントが49歳なんかで亡くならなければ、演出の世界はまた違ったものになっていただろうし、ヴィーラント自身が求めたワーグナー指揮者としてアバドやムーティがバイロイトで活躍していただろう・・・・・。

  アンフォルタス:トマス・ステュワート   ティトゥレル:ハインツ・ハーゲナウ
  グルネマンツ :ハンス・ホッター     パルシファル:ジョン・ヴィッカース
  クリングゾル :グスタフ・ナイトリンガー クンドリー :バーブロ・エリクソン
  聖杯守護騎士:ヘルマン・ウィンクラー    〃   :ゲルト・ニーンシュテット
  花の乙女   :アニヤ・シリヤほか    アルトソロ :ルート・ヘッセ

    ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                         (ウィルヘルム・ピッツ合唱指揮)
                          1964年バイロイト音楽祭

クナの指揮したパルシファルはそのほとんどが聴くことができる。              Parsifal_2
正規録音の51年、62年を始めとして、58年、60年そしてこの64年と5種類を聴いている。64年は、翌年に亡くなってしまうため最後のパルシファルだ。
前奏曲からしてもう独特のオーラが立ち込めるかのような神聖な雰囲気に包まれている。
全曲に渡ってゆったりとしたテンポは相変わらずだが、少しも弛緩せず叙事的な語り口でじっくり説き伏せられてしまう。
私は呪縛されたかのように、酷暑のなか4時間半を過ごしてしまった。
歌手陣も当時の新旧取混ぜた配役が豪華なものだ。
ホッターのぼそぼそ声ながら味わい深いグルネマンツ、若き苦悩をさらけ出すステュワーのアンフォルタスは立派すぎるくらい、ナイトリンガーのクリングゾルは、これぞザ・クリングゾル!これくらいしか録音のないエリクソンのクンドリーもなかなかよろしい。
そして、この配役のなかでの目玉は、ヴィッカースのパルシファルが聴けること。
先般のドン・ホセは異質だったが、このパルシファルは声のハリといい、スピントした時の力強さといい、素晴らしい。クセのあるダミ声も気にならない。気迫の声の勝利なんだ。

録音はお世辞にもよろしくはないが、貴重な記録として重宝している「パルシファル」のひとつ。
 

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2007年7月26日 (木)

ワーグナー オペラ管弦楽曲 マリナー指揮

Ostern2007 バイロイト音楽祭が始まった。
7月のこの時期になると、毎年そわそわする。
新演出はいかに、初登場の指揮者や歌手達はどうだったのだろう・・・・。
そういうわけで夏はワーグナー、さらに日本ではNHK様の恒例放送が暮に集中するので、12月もワーグナー。
私はそのふたつの時期をメインとして、年中ワーグナー・・・、はははっ!

ネットの音楽放送の恩恵で、すぐさまにバイロイトの様子が聴けるようになった。
何も暮まで待つことはないが、音質の違いはいかんともしようがない。
ハンガリーのストリーム放送を楽しむことが出来た。
今年の目玉は、総裁ウォルフガンク・ワーグナーの娘カテリーナ・ワーグナーが満を持してバイロイトに登場したこと。世襲性となるのか否か、時期総裁の最右翼候補の彼女が何をしでかすか・・・・。
演目は「マイスタージンガー」。
終幕、華々しく音楽が閉じると、ものすごいブーイング!!
おっお~!こりゃ、くそったれシュルゲンジーフのパルシファルやシェロー・リング、G・フリードリッヒ・タンホイザー匹敵する激しいブー!!
画像を探しだして拝見したが、なるほどねの中途半端な過激さ。
エヴァとマグダレーネが双子のようなのがやたら気になるが、これだけでは演出の優劣は判然としない。映像で確認してみたいものだ。
パソコンの貧弱音声だけれど、音楽だけはコメントできる。
指揮のヴァイクレは、ゆったりとしたのびやかな演奏。
ザックスのハヴラタは個性派バリトン、ちょっとクセがある声。ヴァルターはイケメン!フォークト。これはイカンかも?美声だがあまりに頼りない声で、どうして優勝騎士に選ばれようか。他は普通。エヴァちゃんの米国ソプラノ、メイスは良い。
演奏も含めて波乱のマイスタージンガーだったようだ。
若い歌手の起用も含めて実験劇場のバイロイトならではの出来事だが、演出においてはドイツ各地の劇場の後塵を拝しているかもしれない・・・。どーなるバイロイト、どーする血族。

Marriner_wagner
てなことを思いながら、最もワーグナーから遠い指揮者とオケによるワーグナーを。

「マイスタージンガー」「神々の黄昏~ラインの旅」「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」
 サー・ネヴィル・マリナー指揮ミネソタ管弦楽団

劇場経験のあまりないマリナーは、モーツァルトやロッシーニでは清新でイキイキとした指揮ぶりで、適性ゆえに素晴らしかった。
でもさすがに、ワーグナーをどっしり、またはネットリと指揮するはずがない。
だからここでは普通に、オーケストラ・ピースとして構えることなく演奏している。
ここでこうして欲しいというところは、すすっーと通りすぎちゃうし、聴きなれない内声部が浮かびあがってきたりで、逆に耳タコの曲が気を抜けない状態に。
80年代主席を務めたミネソタのオケも、明るく深みがなく爽快。
たまにはこんな、さりげないワーグナーもいいもんだ。
大ワーグナーの曾孫さん、カテリーナ、もっと肩の力を抜いた方がいいんじゃないのかしら。あと残念だったのが、ファビオ・ルイージがドクターストップで降板してしまったこと。
日本公演は大丈夫だろうね。

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2007年7月22日 (日)

R・シュトラウス 歌劇「アラベラ」 ショルティ指揮

Rstrauss_arabella_2 R・シュトラウス10作目のオペラは「アラベラ」。
黄金コンビ、ホフマンスタールとの共作も7作目にして、これが最後となった。
1929年から32年にかけて作曲、シュトラウス68歳の年に完成。
台本の優秀さを得て光るシュトラウスの抜群の作曲技法。
ギリシア神話の時代の荒唐無稽な筋立ての前作「エジプトのヘレナ」とはうって変わって、「アラベラ」は、絢爛たるウィーンを舞台にした喜劇ともとれる洒落たドラマとなった。

第1幕
「1860年のウィーン、退役の大尉ヴァルトナー伯爵は見栄っ張りでカード好きの浪費家。一家は破綻の窮状にありながら、高級ホテルに暮らしている。妻アデライーデは占い好き。占い師によれば、娘アラベラに金持ちの求婚者が現れると。
アラベラには、ズデンカという妹がいるが、娘二人を貴族の娘として養うには金がかかるので、男装させて、弟として通っている。
アラベラは美女だったので、3人の伯爵から求婚されているほか、若い軍人マッテオも熱い思いを寄せている。このマッテオの親友として振舞うズデンカだが、彼女は密かにマッテオを愛しているが、自分を殺してマッテオのために大好きな姉と一緒になることを思い、偽の手紙などを書いていじらしい企みをしている。
アラベラは誰にも興味を持てず、ただひと目みた目の大きな旅人風の男に憧れをいだいている。
父伯爵は、破綻の苦しみから、大金持ちの戦友マンドリーカに娘の写真を添えて手紙を出していたが、やってきたのは伯父の死で遺産を相続した甥であった。
アラベラの写真を見て、ひと目惚れして都会に状況してきたわけ。

第2幕
「フィアカー舞踏会の会場。会場で出会ったアラベラとマンドリーカ、二人はすぐに恋に落ち、アラベラは娘時代に別れを告げるため、1時間だけ舞踏会の女王となることの了承を申出る。3人の伯爵にお別れを告げ、ワルツを踊る。それを胸を焦がしながら見つめるマッテオ。自殺をもほのめかすマッテオを心配したズデンカは、姉からとして部屋の鍵を渡す。この場面を盗みみたマンドリーカ! もう嫉妬に狂いまくり、騙されたと踊り子フィアーミリと乱痴気騒ぎになる。そこへ、伯爵夫妻がやってきて、真偽を正そうと家(ホテル)へ帰ろうということに」

第3幕
長い前奏曲のあと「二階の部屋から、マッテオが事足りて身を整えておりてくる。そこへ、舞踏会を中座したアラベラが帰ってくる。姉と思い込んでいるマッテオは、アラベラのよそよそしさが理解できないうえ、さらに情熱的に言い寄る。
ここに伯爵夫妻とマンドリーカが帰還。この様子を見たマンドリーカは、アラベラを侮辱するかのような言動を吐くが、何もわからないアラベラには事実を述べる以外にどうしようもない。この騒ぎに飛び出して来たズデンカ。ドナウ川に身を投げるなどと叫ぶが、すべてを理解した姉は、妹を優しく抱きしめる。ズデンカが一番が立派なのよ、というセリフにはグッちくる。
これを見たマッテオは、アラベラへの愛を諦め、ズデンカをいとおしく思うようになる。
 マンドリーカは、この若い二人の結婚を許すように伯爵にとりなす。
Ara3 アラベラは、泉の水を一杯所望し、マンドリーカを残し、皆引き上げる。
自分を見向きもしなかったアラベラが許してくれないのは当然と失望のマンドリーカのもとに、アラベラが水をもって降りてくる。もう水を飲んであらたな気持ちになることはないので、これを飲んで欲しいと。マンドリーカの故郷では、花嫁が承諾のしるしに花婿に水を捧げる風習があるという。二人は抱き合い、アラベラは部屋に駆け上がり、マンドリーカは幸福に満たされて幕となる」

誤解が呼ぶ、悲喜こもごものドラマ。
Ara1_1  主役は二人の姉妹。ここでも女声好きのシュトラウスらしく美しい二重唱が散りばめられている。「ばらの騎士」や「アリアドネ」と同じくするズボン役。でもズデンカは本物の女性であるが。アラベラは、マルシャリンやダフネ、カプリッチョの令嬢などと同一線上の歌手によって歌われ、ズデンカはスーブレット役。
それをとりまく、二人の恋人役。特にバリトンのマンドリーカにも聞かせどころが多い。ヴァラキア(ルーマニア方面)地方の粗野さと純情さを兼ね備えながら、情熱に満ちた歌がたっぷりある。朗々としたカヴァリエバリトンがいい。
2幕の二人の二重唱には陶然としてしまうくらい素晴らしい。
一方のマッテオは色男役のテノール。頼りなげな情熱テナーでも充分。

  アラベラ :グンドゥラ・ヤノヴィッツ   マンドリーカ:ベルント・ヴァイクル
  ズデンカ :ソーナ・ガザリアン      マッテオ  :ルネ・コロ
  ヴァルトナー:ハンス・クレーメル    アデライーデ:マルガリータ・リロヴァ
  フィアカーミリ:エディタ・グルベローヴァ   占い師:マルタ・メードル

   サー・ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                          演出:オットー・シェンク

これは、1976年頃に収録されたビデオ映画である。
まずはその素晴らしい配役に感嘆。
そして常に室内で行なわれるオペラだけに、時代を思わせる美しく豪華な内装にもうっとり。そして、デラ・カーザの映像がないだけに、声と、少しトウがたったがその美しい容姿が理想的なアラベラのヤノヴィッツ。その怜凛とした美声は、やはりシュトラウスにこそ相応しいと思う。表情のひとつひとつまで気持ちのこもった演技にも驚き。
Ara2 若きヴァイクルもその美声を惜しげもなく発揮しまくりで、バリトンを聴く喜びはここに至れりって感じ。同様の喜びは、コロにも言える。ワーグナー諸役を歌う時と違って、甘い美声をコントロールすることなくひけらかせている。かわいいカザリアンもいい。
そしてちょい役に顔を出している、グルベローヴァと懐かしいメードルらの存在感。

ショルティの普段の硬直的な指揮ぶりは、画像を伴なうとまったく気にならない。
それどころか、2度に渡ってウィーンフィルの貴重なアラベラを残したショルティは、この作品によほど愛着があるみたいだ。やわらかなタッチで、シュトラウスの目のつんだ澄み切った抒情を描いている。でも、3幕の前奏曲はちょっと張り切りすぎかも。

以前発見したビデオをDVD化しての試聴。われ、正規盤の復活を望む。
ほかの愛聴盤は、ショルティ、カイルベルト、サヴァリシュ、ティーレマン(DVD)。
NHKで放送されたサヴァリッシュの公演は、ポップとヴァイクルの素晴らしい舞台だった。
そのビデオは家のどこかに埋もれていて、いずれ救出せねばならない。

ともあれ、この愛らしいオペラが大好きである。

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2007年7月21日 (土)

ウォルトン 交響曲第1番 B・トムソン指揮

Walton_thomson世界も日本も、身の回りのすべてが不安を来たしている。いつの時代もそうした不安はつきもの。
でもその圧迫感は日に日に増しているような気がしてならない。

そんな気分に押されるようにして作曲された音楽は、近世のものになるほど多い。

ウィリアム・ウォルトン(1902~1983)の作品は大半が戦前に書かれた名作が多い。
交響曲第1番は1932年から作曲され、1934年と35年に初演された力作。
ナチスが第1党になった頃にに作曲開始、ヒトラーが総統になった年に初演された。時はまさにきな臭さが漂い始めた頃。

そんな不安が1楽章からみなぎっていて、聴いてる方もかなりの緊張感に覆われる。
そんなシリアスななかにも、ウォルトンらしいブラスの大活躍するリズムのカッコよさが横溢していて、最初は落ち着かない雰囲気に戸惑いながらも、すっかりウォルトン・ワールドに乗せられて興奮してしまう自分を見出すことになる。
 2楽章のダイナミックなスケルツォ。続く3楽章のこれでもかと思われるくらいに重なりゆく悲劇的な様相の積上げには息詰まりそう。
でも4楽章に至って、状況は一変し、勝利への道を見つけだしたかのようだ。
フーガにより繰り広げられる壮大な音楽は、これまたカッコイイ。久しぶりに聴いていて、ヒンデミットを思い起こしてしまった。
打楽器が打ち乱れるエンディングは、爽快ではあるが、どこか不安をぬぐいきれないもどかしさも感じる。

ブライデン・トムソン」はロンドン・フィルとともに、ウォルトンの大半をレコーディングしてくれた。
一点一角を揺るがせにしない丹念な指揮ぶりと、元来熱い人なだけに、熱気に満ちた豪演が出来上がった。

ウォルトンは映画音楽もかなり残した。この交響曲も映画のワンシーンのような場面も感じることがある。そこには、コルンゴルドにも通じる魅力があると思う。

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2007年7月19日 (木)

デュリュフレ レクイエム コルボ指揮

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以前、書いたお仕事「ロンドン・パリ編」のパリ版。
パリを起点に車を自ら運転して駆巡る出張。
恐怖のパリの街での運転のドタバタはまたにして、合間にルートをそれて訪れた素適な街をご案内。

ロワール川流域、イル・ド・フランスにある「エタンプ」という小さな町。パリから50km、車で1時間ちょい。もっと先へ行けば古城街道。
フランスのもっとも美しいエリアかもしれない。
まったく予備知識なく、ふと寄った町。
いきなり古びた教会があったので、入ってみた。
帰国後調べたら、もっと大きな史跡や教会もあったようで、いずれまた行って見たい町として脳裏に刻み込んで、はや10数年が経過してしまった・・・・。

Etamp_2
平日の昼間の教会には、人気がなく、ひっそりと静まりかえり、私の足音だけが響く。
心洗われるような、清潔で清新な雰囲気に胸が一杯になった。

その由来は今もって調べてないし、不明だが、保存史跡として財団を組んでいる様子で、佇んでいたら、どこからともなく、関係者と思われる女性が現れて寄付を強く要請してきた。あとで考えたらそう思ったまでで、その時は何がなんだか解からず、へらへら立ち尽くすのみの日本人に成り果ててしまった。とほほ。

Durufle
フランスの教会音楽を。
モーリス・デュリュフレ(1902~1986)のレクイエムは、60年前に書かれた先輩フォーレのレクイエムを規範とした、慈愛と優しさに満ちた音楽である。

近代の作曲家にしては、あまりに保守的な作風で、「ディエス・イレ(怒りの日)」を省き、「天国に」で終結するところまでもフォーレと同じで、その二番煎じとも思われようが、外観は同じでも和声や楽器の使用法などは明らかに近世のものだし、グレゴリオ聖歌も引用した作風はフォーレには見られないもの。

ともかく、フォーレのことは忘れて虚心に聴いていただきたい。
そのあまりにも美しく、心の襞に染み込んでくるような音楽は、聴くほどに気持ちを和ませ、優しく包んでくれる。
単なる癒しの音楽とも違った深い祈りに満ちた音楽の虜となるでしょう。
よく自分の告別式に流す音楽は?。。。などということを考えるが、フォーレとともこのデュリュフレも自分のなかで候補曲にあがる。もっとも、まだまだたくさんあって、永遠に告別式が音楽で終わらないことになるであろう。ハハハ。

作曲者自演盤もあるが、フォーレだけではなく、こちらでも名演を残してくれたのが、「ミシェル・コルボ」。あたたかな眼差しに満ちた素晴らしい演奏。

      Ms:テレサ・ベルガンサ     Br:ホセ・ファン・ダム
    ミシェル・コルボ指揮 コロンヌ管弦楽団/合唱団(84年録音)


A・デイヴィスのソニー盤と、尾高忠明/東フィルのライブ放送も素晴らしかった。

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エタンプの教会の内部。
ゴシック調の調和のとれたシンプルな美しさ。
こうしたところで、フォーレやデュリュフレを聴いてみたい。  

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2007年7月18日 (水)

ブラームス 交響曲第1番 マリナー指揮

Brahms12_marrinerネヴィル・マリナー」のブラームスの交響曲全集の存在はあまり知られていないかもしれない。
しかも、オーケストラは「アカデミー・ゼント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー管弦楽団)」。

アカデミーというと、室内オケのイメージが強すぎて、軽々しい演奏と思われるかもしれない。
しかし、「アカデミー」は、曲によって編成や規模を随時買える変幻自在なオーケストラなのだ。
だから、バルトークのオケコンやレスピーギのローマ三部作なんてのまで演奏しちゃうスーパーなオケなんだ。
ヘンスラーレーベルは、アカデミー・シリーズと称して、かなりの珍しいレパートリーを数々プロデュースしているので、それらを探しだしていくのもマリナー好きの私の楽しみなんだ。

そんな思いで手に入れたブラームス全集。1・2番が2枚組、3・4番が1枚に収まっている。シリーズ統一のジャケットが、曲にそぐわないが、中身は驚くほど立派。
 ティンパニの堂々たる出だしを聴いて、誰がこれを「マリナー/アカデミー」と言い当て得るであろうか!!世の評論家諸氏にブラインドテストをしてみたいもんだ。
ホルンの強奏が実に耳に心地よく響く。繰返しもキッチリと行い、かといってだれることもなく、低回せず音楽はズンズンと進んでいく。なめらかでありながら、すごい推進力をもって展開していく1楽章。
2楽章はうってかわって、弦楽器のシルキーな響きが心地よいし、3楽章では、木管を中心に澄んだ音色がよく聞き取れる。こうした響きの見通しのよさは全曲にわたっていえることで、重厚長大な演奏でなくても、ブラームスは立派に鳴り響くことがよくわかる。
終楽章の主部の誇らかな第1主題は、こだわりがないかのように、かなり早いテンポで進められる。逆に、コーダの部分は、テンポをみるみる落として、じっくりした歩みになり、コラールは高らかに明るく歌われる。そして慌てずさわがず堂々たるエンディングを迎える。

Marinner2_1 この演奏にベルリンやウィーン、ドレスデンのようなコクや重厚な音色を求めるのは、まずもってムリ。
誰にでもお薦めできるわけじゃないが、もうブラームスなんてたくさん聴いてきた、という方に聴いてもらいたい新鮮な演奏に思う。
残る3曲が楽しみ。

1997年の録音。最近メジャーレーベルでの録音が少ないが、この頃からマリナーはあっさりマリナーから次元を高めていったのかもしれない。
N響に来演し、ブラームスの4番を演奏するマリナー。注目!

かなり前から報じられていたが、「HMV」が日本市場から撤退する。
店舗は、売却するらしいが、購入先がHMVの呼称を引継ぐかどうかはまだ不明という。
「タワー」は日本独自に生き残っているが、英HMV経営陣は、日本市場の厳しさと「ツタヤ」の強さに負けたようなことを言っている・・・・。たしかに都市型の出店ばかりだったので、全国網の目のように店舗を網羅し、セルとリースの両建ての業態のツタヤは強い。
われわれ、クラシックファンには寂しいはなし・・・・・・。

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2007年7月16日 (月)

ビゼー 「カルメン」 デ・ブルゴス指揮

Carmen_burgos 日本列島の大半を舐めるように過ぎ去った台風が去ると、今度は地震!
テレビで被害状況が刻々と伝えられる。
不謹慎な話だが、地震の速報も地震を重ねるに従ってスピードと精度が高まっているように思う。
いつどこに地震が起きてもおかしくないギリギリの日本。電車が数分遅れただけで、遅れが連鎖して大混雑してしまう東京。すべてが過密な状況で,、もし・・・・と思うだけで恐ろしい。

台風と地震の被災地の方々にお見舞い申し上げます。

オペラ三連休を過ごしてしまった。
朝から「カルメン」、地震が起きたのに「カルメン」、昼にも確認のため「カルメン」、夜の今も、記事を書きながら「カルメン」。一日中、「カルメン」してる「海の日」であったよ。
こんな名曲になると、逆にほとんどあらためて聴くこともない。
かつての昔は、クリュイタンス盤を除けば、ギローが加筆したレシタティーヴォ付きの、グランドオペラ・スタイルの「カルメン」が主流だった。
70年代にはいって、オリジナルのオペラ・コミーク・スタイルが主流となり、セリフが重要な地位を占め、より劇性が高まった。その本格的なレコードが、この「デ・ブルゴス盤」で、そのあと、ベーレンライター出版のアルコーア版も登場し、マゼール、バーンスタイン、ショルティアバド、カラヤン、小沢、シノーポリ・・・・と気鋭の演奏が続々と登場することとなった。

 カルメン :グレース・バンブリー    ドン・ホセ:ジョン・ヴィッカース
 ミカエラ  :ミレルラ・フレーニ      エスカミーリョ:コースタス・パスカリス

 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮 パリ・オペラ座管弦楽団/合唱団
                          木の十字架少年合唱団(69、70年録音)

フランス以外でも、その人気に対応できるように、レシタティーヴォ方式を取り入れ、グランド・オペラ風の衣装をまとった「カルメン」。そのかわりに失われたビゼーの音楽の持つ求心力と、フランスの芳香、そして劇的な要素。
それを見事に復元した記念碑的な演奏がこれ。
デ・ブルゴスの指揮する、オペラ座のオケの鮮烈さは、今もって耳に心地よく響く。
多国籍指揮者デ・ブルゴスの若い頃は、それこそスペインの熱き指揮者のように思われていたが、いまやドイツ系の重鎮でもある不思議なキャラクターの人。歳を経てドイツ人としての血が濃くなったのか、活躍の場がドイツに集約されたからなのかは、わからない。
このカルメンは、このドラマが持つ劇的な要素を太陽のもとにあるかのように、明晰に聴かせてくれて素晴らしい。ジプシーの歌における強烈な興奮はちょっとスゴイ。

Carmen 歌手は、女性二人がいい。バンブリーの誇張のない音楽性ゆたかな歌は、現在のスタイリッシュなカルメンとして充分通用するのではないかと思う。
フレーニの若くてかわいらしいミカエラも素適だけれど、わずかに古風な歌いまわしを感じてしまったのは何故だろう。後年のフレーニの歌には決して感じることはないことなのに?
ヴィッカースのホセ(フランス読みではジョゼ・・・)は、その粘着質の歌唱と硬質の声が異質に感じざるを得ない。カラヤンのもとでのトリスタンは、そんなに悪くないのに・・・・。
それから、あまり録音のない、ギリシヤのバリトン、パスカリスもなんとなく冴えないのだ。
闘牛士の歌にワクワク出来ない醒めた自分にも原因はあるのかもしれないが。

男性歌手に不満はあるけれど、「パリのカルメン」は今もって、小股の切れ上がった洒落た演奏だった。
最終投稿に手を加えていたら、また地震が。今度は太平洋沿岸で。
地震の連鎖にならなければいいが・・・・。

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2007年7月15日 (日)

ヴェルディ 「トロヴァトーレ」 セラフィン指揮

Verdi_trovatore 私のオペラ道は、中学生時代のワーグナー体験によって目覚めた。バイロイト放送をだらだら聴きして、「カラヤンのトリスタン」をFMで聴いて、そして「ベームのリング」のレコードを拝み倒して買ってもらって・・・・。
同時にモーツァルトのオペラも聴き始めた。
魔笛→フィガロ→コジ→後宮→ドンジョヴァンニ、なんて具合に。
R・シュトラウスは、サロメとばらのみ、その全貌を楽しみだすのは、ずっと後年、大人になってから・・・。

というわけで、ドイツ系から入ったオペラ道。
イタリア・オペラは、プッチーニから入り込んだ。忘れもしない、中3の多感な少年(?)が「カラヤンのボエーム」を聴いて涙したのであ~る。
プッチーニからヴェルディへの逆流の道のりは、たやすかった。
おりから、「アバドとムーティ」のライバル対決が、ヴェルディにおいて次々と実現したものだから、こちらもヴェルディに徐々にはまっていった。
70年代は、経費や資材の関係から、オペラ録音はロンドンのオケを起用することが一般的だった。ムーティも当初EMIゆえにロンドン録音であった。
DGがアバドが監督を務めるスカラ座を起用できたは、極めて偉大なこと。
イタリアオペラ、ことにヴェルディにおいては、イタリアのオーケストラの存在は絶大なものがある。輝かしいカンタービレ、言葉に付随した音色の深さ、ともに伴奏が充分に語りかけてくれる・・・・・。

このヴェルディ熱は、マーラーを聴き始めると急速に醒めてしまった気がする。
ズンチャチャ・ズンチャチャが鼻に付きはじめ、劇の内容もワーグナーに比べ、深遠さに欠けるなどと思いはじめて。

ということで、この流れはいまのオヤジ時代まで引きずっている。
プッチーニは、後期ロマン派・マーラーの延長として聴きつづけているが、ベルカント系やヴェルディ後期以外は、なかなかプレーヤーにかかることがなくなってしまった。

前置きが超長くなってしまったが、昨日どうしようもなく暗いロシアオペラを聴いたものだから、今日は久しぶりにヴェルディを登場させよう。おりから台風も峠を越えたみたいだし。
中期の名作「トロヴァトーレ」は、吟遊詩人の物語でもある。スペインを舞台に生き別れた実の兄弟が、それと知らずに一人の女性を奪い合い、ジプシーの魔性の女の罠にかかってしまう、という他愛ない物語??

  レオノーラ:アントニエッタ・ステッラ   アズチェーナ:フィオレンツァ・コソット
  マンリーコ:カルロ・ベルゴンツィ     ルーナ伯爵:エットレ・バスティアニーニ
  フェランド:イヴォ・ヴィンコ

    トゥリオ・セラフィン指揮  ミラノ・スカラ座管弦楽団/合唱団(63年録音)

もう10年ぶりくらいに聴く「トロヴァトーレ」である。
シンジラレナ~イ物語の陳腐さに比べ、音楽の素晴らしさにはやはり感嘆せざるを得ない。次々とくめども尽きぬように繰り出される、美しい旋律と歌の宝庫。
さらに、スカラ座オケの由緒正しき純正なる響き。
あぁもう、耳が洗われるくらいの鮮度のよさ。どんなところにも目が行き届いているセラフィの歌心をくんだ見事な指揮。
 そしてそして、ここに名を連ねた名歌手たち。
414pt69z8kl なかでもバスティアニーニの素晴らしさ!勘違いの憎まれ役ながら、常に気品を保ちながらも役になり切り没頭したかのような歌。言葉の明瞭さも驚きで、イタリア語会話の勉強ができそうなくらい。この名ヴェルディ・バリトンが44歳にして世を去ってしまったのは痛恨。
 ベルゴンツィの正統的な折り目正しいマンリーコ、強靭な声の絶世期のコソットのアズチェーナ、少し不安定ながら、そのお姿とともに美しいステッのレオノーラ。

いやはや、やはり聴いてしまうと、ヴェルディ、ほんとにいいや
だから困ってしまう。オペラばかりに、うつつを抜かしていると、時間と資金の浪費が・・・・・。おっと、FM放送では、ヤノフスキの指揮で「パルシファル」なんてやってるぞ。
もう堪忍して。

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2007年7月14日 (土)

ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」 アバド指揮

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 ザルツブルクのピットのなかのアバド。

 

ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」

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1869年にアマチュア同然のムソルグスキーが30歳にして完成させた社会派オペラ。
プーシキンの原作に基づき、ムソルグスキー自身が台本を書いた。

 

完成時、ロシア当局から、アリアや女声の登場人物が少なく、バレエなどの場面がまったくないことに異議を唱えられ、演奏が却下された。すぐにその指摘を補完して完成させたのが、原典版の決定稿である。

初演は大成功だったらしいが、すぐに忘れ去られ、のちにR・コルサコフが手を入れ大幅に改定された。グランド・オペラ的な体裁が整い、この版がずっと「ボリス」の通常版としての地位を占め続けた。

1970年の大阪万博時の「ボリショイ・オペラ」公演では、ボリス個人の悪逆だけを非として、民衆や政治を善とした解釈で、テレビ観劇した小学生の私も、これが「ボリス・ゴドゥノフ」なのだと刷り込まれてしまった。
豪華絢爛たる、戴冠式の場は今もって脳裏にある。

 レコードでは、同じ70年代、カラヤンがウィーンで録音したデッカ盤が、やはりグランドオペラとしての「ボリス」の典型で、ギャウロウをはじめとする名歌手達の歌と録音の鮮烈がドラマテックな「ボリス」として捉えていた。

悔恨にあえぐ「ボリスの死」によって、幕を閉じると、個人が引き起こした悲劇が終わって、次代に希望を残した終結と感じさせる。

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その後、原典を見直す動きや、ソ連にも自由な空気が入りはじめたことなどで、80年代からは、ムソルグスキーが本来書いた原色のロシア色に塗りこめられた、救いの訪れない世界を表出するようになった。
ボリスは歴史の一コマに過ぎず、民衆は無知蒙昧で、一時的な熱狂に酔うだけ。

日和見の貴族(政治家)や宗教家。ボリスのあとの息子や、偽皇子も先が見えている。

ボリスが死んだあと、凱旋する偽皇子。
だが終わりのない悲劇が繰り返されるロシア、それを予見する聖愚者のつぶやきで幕となる。

 

原典版が見据えた社会派的な問題提起。

それを置き去りにしてきた時代はもう過去のものになったのだろうか?
いまの世界、いや日本にも通じるものを、ムソルグスキーが描いたドラマと音楽に見ることができるような気がする。

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この原典版の興隆に一役かったのが、「クラウディオ・アバ」。

 

アバドは執念のようにムソルグスキーに取り組んできた。
「はげ山」も原典にこだわり、何度も録音している。

ボリス」にいたっては、各地の劇場で何度も上演している。

スカラ座のオープニングに、これをもってきてしまうほどで、華やかなシーズン開幕を期待した聴衆を驚かせてしまったくらい。
その時のライブもあるが、そのすさまじいばかりの説得力にどんな人間も黙らざるを得ない。

    ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 

   ボリス・ゴドゥノフ:アナトーリ・コチュルガ  
   フェオドール:リリアーナ・ニチテアヌー
   クセーニャ:ヴァレンティーナ・ヴァレンテ  
   シェイスキー公:フィリップ・ラングリッジ
   ピーメン :サミュエル・レイミー        
   グリゴーリィ :セルゲイ・ラーリン
   マリーナ :マリヤナ・リポヴシェク      
   居酒屋女将 :エレーナ・ザレンパ

 

 クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                 スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団
                 ベルリン放送合唱団 
                       (93年11月 ベルリン)


アバドの指揮するベルリンフィルは、いつもは明るい音色なのに、原色のムソルグスキー・カラーに塗リ込められていて渋い。
 でも随所に恐ろしいほど見事なアンサンブルを聞かせるし、硬派でありながらも、リズム感が抜群なために決して単調にもならず、むしろ多々ある群集の場面では生き生きとした音楽に驚く。
歌手もふくめて、音符の一音一音にアバドの魂が込められた驚くべきムソルグスキー。

 

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 アバドは、1983年にロンドンで、名映画監督「タルコフスキー」(惑星ソラリスの監督)を演出に抜擢し、「ボリス」を上演した。86年にタルコフスキーは病死するが、1991年にも、音楽監督だったウィーンで上演し、94年のウィーンの日本公演にも、このプロダクションを上演した。

 

 NHKホールのS席7列7番という、最高の席で観劇することができた。
金縛りにあったような感銘を受けた。
暗譜で指揮するアバドの指揮棒一本に、歌手も合唱もオケも一体になり、我々聴衆はアバドとタルコフスキーの舞台が提示する問題提起に釘付けとなってしまった。

幕が引けて、渋谷の繁華街に下っても、別世界にいるようでボウっとしてしまったものだ。
先立つ、1993年のザルツブルクでは、時代設定を変えた、ジャケット写真の「ヴェルニケ」演出でも上演している。

 

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タルコフスキーとアバド、同じ年の生まれで、映像の詩人ともうたわれたタルコフスキーに、社会派アバドは大きく共感した。
ソラリス以外の映画は観たことが、これを機に他の作品を見てみたい。
アバドがどこに共感したのかも見据えてみたいから。

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  タルコフスキー演出の戴冠の場

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 時代設定を映したヴェルニケ演出の戴冠の場

 

 

 

 

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2007年7月13日 (金)

V=ウィリアムズ 交響曲第2番「ロンドン」 ボールト指揮

London もう10年以上前、出張でロンドン・パリ7日間を経験した。
私のいた会社は内販会社なので、海外勤務や出張とは無縁のはずだったが、施設視察という目的で、数十人の社員に指示がでた。

自分たちで、レンタカーを手配し、自ら運転し、ロンドンとパリを起点に日帰りで、とある流通施設の数々を見まくれ、というミッションが下された。
げっげぇ~!う、運転すんの!!

ロンドンはともかく、パリは標識がフランス語だよ、右側通行だよ・・・・。
恐怖のどん底に落としいれられたような命令だった。
でも案ずるより云々、以外に平気だった。それより慣れちゃうと、すべてが合理的に出来ているので、あれこれ悩む間もなく溶け込めてしまった。
London2

それでも、駐車違反はするは、逆走はするはで、ヒヤヒヤのしっぱなし。
良く無事に帰れたもんだ。

駐車違反をしたとき、車に戻るとおまわりさんが、怖い顔して待っていた。
映画にでてきるようなロンドンのポリスマンだ。英語でワーワー言っている。何もわからない。
グループに多少話せる男がいて、「日本から仕事できて、会社の命令で右も左もわからず、車を走らせていてetc、、、」と弁解をぐだぐだしていたら、おまわりさん、だんだん和んできて、「そりゃ大変だ、よい旅行と仕事をしなされよ!」というような意味のことを言って手を振っていってしまった。まぁ外人相手にめんどくさくなったんだろうけど、すごく嬉しく、ナイスおまわり!って気分で一杯になったもんだ。
上の画像は、いきなり現れた議事堂、車中より。下は、ちゃんと駐車をして撮影。
ロンドン市内、ストラトフォード・エイヴォン、ドーバーなどに訪問した。パリのお話とともに、またいずれ・・・・・。

Rvw_london ヴォーン・ウィリアムズ(RVW)の第2交響曲は「ロンドン交響曲」。
ロンドンの風物を音にした交響曲だが、決して単なる安手の描写音楽ではなく、この大都会の持つ賑やかさと憂愁、暗澹などを慈しむように描いた純音楽だと思う。

第1楽章は昼の活気ある街の雑踏、第2楽章は濃い霧の立ち込める夕暮れ、第3楽章は雑多な夜の賑わい、第4楽章は失業者たち溢れる不安な様子、ロンドンはいいとこばかりじゃないよ、とばかりの陰鬱な雰囲気。ウェストミンスター寺院の鐘が鳴り、問題を抱えたまま曲は寂しげに終わる。

この中では、2楽章がRVWらしい抒情的な音楽で、私はここだけ聴くこともある。しんみりとしてしまう。

ボールトとロンドン・フィルはキッチリとした中にも、微笑みつつ悲しみをこらえたアイロニーを感じさせる名演。
この曲のジャケットは、そのほとんどがテムズ河にたたずむ議事堂のものが多い。

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2007年7月12日 (木)

ディーリアス 告別の歌 サージェント指揮

Imgp2679 何だか「告別」シリーズになってしまった。
往年の歌手達が次々に逝ってしまうので、おセンチになってしまったから。

今日の告別は(これに「式」を付けたら、葬儀屋のセリフだよ)、ディーリアスの「告別の歌(Songs of Farewell)」。
ディーリアス(1862~1934)の晩年1930年の作品で、パリ郊外のグレ・シュール=ロワンに隠棲中、忠実な弟子「フェンビー」の助力もあつて完成した合唱曲。

ディーリアスが愛し続けた「ホイットマン」の「草の」からとられた詩に作曲されている。
草の葉は、V=ウィリアムズの「海の交響曲」にも使われていて、過去と決裂し、海への洋々たる旅立ちを大らかにうたった場面がいい。
岩波文庫から出ていて、一時読みまくったもんだ・・・・。

Delius_requiem 上記画像は、レコードによるディーリアス・アンソロジーの1枚。「ターナー」の幽玄で漠とした海洋画がそこはかとなく美しい。
下の画像は、CD化された1枚で、ジャケットは「クリムト」の「ポピーの茂る野」。
こちらは、この曲のイメージというよりは、「田園詩曲」のものだろうか?

初演者「サー・マルコム・サージェント」指揮のロイヤル・フィルとロイヤル・コラール・ソサェテイによるもの。
節度ある音楽作りが、静かな海に夕日とともに消え行く船をあまりに淡々と美しく描いていて、泣ける。

1.黙って過去をたどっていくことの楽しさよ・・・。
2.何か大きなクチバシの上にいるかのようにたたずんで。
3.君たちのところへ渡っていこう。
4.喜べ、同舟の仲間よ!
5.さあ、岸辺に別れを・・・・・。

いずれも、静的でしみじみとした雰囲気をたたえ、オーケストラはディーリアスらしい、儚くもいじらしい背景づくり。フォルテやアレグロの場面も少なく、起伏も少ない音楽だが、合唱に励まされるようにして18分あまりの全曲を一気に聴いてしまう。

海が大好きだったディーリアスは、晩年失明し四肢が麻痺しても、海の雰囲気を味わう場所に出かけたらしい。
この曲の主役も実は寄せては帰す「海」ではなかろうか?
終曲の弦の海のうねりのような繰返しの音形が、徐々になだらかになり、その上に、合唱が「Depart・・・・」と歌いつつ静かに曲を閉じる。
ディーリアスが海に心を託した、「人生への告別の歌」であろう。
海の見える窓から、夕日を眺めながら楚々と聴いてみたい。

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2007年7月11日 (水)

マーラー 交響曲「大地の歌」 ショルティ指揮

Solti_mahler_erde 昨晩は、二人のディーヴァのR・シュトラウスの異なる告別の音楽を聴いて、亡き名歌手たちを偲んだ。
今日も異なる「告別の音楽」を聴くことにしてみた。「大地の歌」自体は交響曲といいながら、連作歌曲のような彼岸の作品。

あとがない第9の番号のジンクスに恐れを覚え、無番号の作品としたのが「大地の歌」。そして宿命のように、次の純粋シンフォニーは、第9と付けざるを得なくなり、第10の完成を見ることなく、世を去るマーラー
死の影を引きずった「大地」と「第9」。
このふたつの厭世的な概念には抗し難い魅力があるが、それゆえ始終聴ける音楽でもないと思っている。
 マーラーは「大地の歌」を聴いたら「自殺者がでるのでは」とワルターに語ったという。
不謹慎だけど、駅のホームでこんなもの流したらどうなってしまうんだろう、ただでさえ・・・。
もっとも、ここ10数年でマーラーがごく普通の音楽として定着してしまったから、今更そんな柔なヤツはいないだろうけど。

「大地の歌」は、指揮者やオケがよくても、歌手に人を得ないとどうしようもない。
メゾのパートは、かなり神妙に書かれて、音楽そのものが「秋」「美」「告別」と物事の本質に迫った深い音楽だから、じっくり慎重に歌えば長大だけど何とかなる。
でもテノールは、「酒」に酔って世を憂えたり、「青春」を語ったり、「春」に酔いしれたりするもんだから、羽目を外して妙に浮ついて歌ってしまうと軽薄なだけの歌になってしまう危険がある。

ワーグナー役を歌うヘルデン系やリート系の歌手が歌う場合が多いが、意外やワーグナー系の歌手は、オペラチックに歌いすぎてしまい、先の軽薄さに陥ってしまうような気がする。
キングやイェルザレム、ケーニヒ、ヴィッカースなどがそれにあたると思ってしまう。
リート系は、浮ついたところを押えつつ歌うから声が軽量でもサマになる歌を聴かせる。
シュライヤー、ウンダーリヒ、パツァーク、ヘフリガーなど。

さて、今日の「ルネ・コロ」はどうだろうか。
一時ひっぱりだこになって、同時期に3種の録音に登場した。
ショルティ、バーンスタイン、カラヤンと3大指揮者のもとで。
基本は変わらず、いつもの「コロ」の輝かしくも若々しい声だが、客観的な歌いぶりがどこか醒めて聞こえる。結果、音楽の真実味が増して聴こえることになったと思う。

カラヤンは正規盤は未聴で、FM放送のみだが、ややムーディ。バーンスタインは本来濃厚に染まるところが、イスラエルフィルも含め、どこか徹しきれない気がしてしまう。
その点、ショルティとシカゴは縦の線がピシリと決まり、割り切った明快なサウンドが白痴美的なドライな印象を与える。この妙にベトつかないマーラーもいい。
厭世感とは、一歩おいた表現だが、70年代から始まったシカゴを舞台とするマーラーは、客観性と高い表現能力と音楽性において現在のマーラーブームの下地を形成したものだと思っている。コロの歌は、そうしたショルティの、シカゴのマーラーに即したものと感じる。
「イヴォンヌ・ミントン」の美声ながら淡白・清潔なニュートラルな歌もそこにピタリと収まっている。
「ルートヴィヒ」の歌声も心の隅で気になりながら、ミントンの歌もとても好きだ。

Ewig....Ewig...最後の「永遠に・・・」が、こんなに明快に歌われるのはないかも。
それにしても、「王維」と「孟浩然」の詩の内容の深さといったらどうだろう。
当時の西洋には驚きの虚無の世界であったろう。
この詩の世界にどっぷり浸かるには、もっと別の演奏がいいのかも知れないが・・・・・。

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2007年7月10日 (火)

シルズとクレスパン R・シュトラウスで偲ぶ

Sills 生粋アメリカ産の歌姫「ビヴァリー・シルズ」が7月2日に、ニューヨークにて肺がんのため、78歳で亡くなった。
この3月に、彼女のアンソロジーCDを楽しんだばかりなので、驚いた。
私は彼女の熱心な聴き手ではなかったが、かなりのオペラ全曲録音が残されており、放送を通じていくつか楽しんだ記憶がある。
「ルチア」「清教徒」「セヴィリア」「トラヴィアータ」などなど。クセのない素直な声は、とてもチャーミングでかつフレンドリー。
ベルカントものばかりでなく、フランスもの、独オペレッタ、本格ドイツもの・・・・、広範な適応力があったことが、この2枚組アンソロジーCDでわかる。
この中から、シルズの追悼として、前回も感嘆したR・シュトラウスの「ダフネ」の最後のダフネ変容の場面をあらためて聴いてみよう。
シルズの蒸留水のように滑らかで通りの良い歌声は、円熟のシュトラウスの地中海サウンドに以外やピタリとくる。後輩ルネ・フレミングの濃厚な隈取りの強さとは、かなり違う。
女声がことさら好きだったシュトラウスが、きっと気にいってしまうはずのシルズのかわいいダフネ。チェッカート指揮のロンドン・フィルも軽やかなシュトラウスを響かせている。
 さらにコルンゴルドの「死の街」マリエッタの歌も聴き、じっくりと歌いあげる、その素晴らしさに涙した。

Rosen_crespin さらに、7月5日フランスの名花「レジーヌ・クレスパ」がパリで亡くなった。こちらは享年80歳。
同世代の二人のディーヴァが次々に世を去ってしまった。
クレスパンも、マルチなレパートリーを誇った人。
お国ものはもちろん、ヴェルディもよく歌っていたが、私にとっては、ワーグナーとシュトラウスの素晴らしい歌い手だった。
ワーグナー好きなら、ショルティの「ワルキューレ」のジークリンデ、カラヤンの「ワルキューレ」のブリュンヒルデの2役をお持ちのことだろう。あとは、クナの「パルシファル」(60)のクンドリーも私は楽しんでいた。
Crespin そして彼女は素適な「マルシャリン」だった。ショルティとの全曲盤があるが、未聴。
かつて取上げたばらの騎士」抜粋を改めて聴いてみる。
60年代初頭の、クレスパンが30台の脂の乗っていた頃の録音。
ちょうど舞台のマルシャリンと同年代の等身大のクレスパンは、大人の色気も感じさせながら、艶と気品を合わせもった無類のマルシャリンだと思う。
シュヴァルツコップが言葉の一つ一つの思いのたけを注ぎこみマルシャリンの憂鬱を歌いこめたのに比べ、クレスパンは深みはないかわりに、細やかな音符の歌いこみが絶妙で思わずため息が出てしまう個所が多々ある。
スイスの名指揮者「シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ」がウィーン・フィルとオペラテックな背景を作りあげている。この指揮者もすでに亡くなった・・・・。

時の流れは止められないのは当たり前だけれど、こうして次々と名歌手たちが世を去るのを目の当たりにしていると、とても寂しい。自分の楽しんできた名演奏がどんどん過去に追いやられるようで悲しい。
シュトラウスの二つの告別の場面、「ダフネ」終結と「ばらの騎士」1幕終結、これらをしんみりと聴いていると尚更の感がある・・・・・。
ふたりのディーヴァのご冥福をお祈りします。

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2007年7月 8日 (日)

東京交響楽団演奏会 大友直人指揮

大友直人指揮の東京交響楽団演奏会を聴く。
@東京芸術劇場。
 
     エルガー       行進曲「威風堂々」第6番(日本初演)
    チャイコフスキー  ヴァイオリン協奏曲
                   Vn:ネマニャ・ラドゥロヴィッチ
    エルガー       交響曲第2番

Tso7_1 エルガーの第2交響曲がメイン、おまけに威風堂々行進曲第6番日本初演とあっては行かねばならぬ。
日曜日のコンサートとあって、ホールは満員。
チャイコフスキーの協奏曲を楽しみにいらした方も多いであろう。
エルガー狙いだった私は、ホールに着いて、チャイコフスキーをやることを知った。そんな天邪鬼の私。エルガーの間にチャイコフスキーかぁ?

でも、これがなかなかおもしろかった。
ユーゴスラビア出身のこのヴァイオリニスト、もじゃもじゃ長髪を振り乱し、体を大きく揺らしながらのパフォーマンス充分な演奏は、技巧ばかりでなく、甘く豊かな音色が美しい。
大友氏もアッチェランドを効かせまくり、熱い演奏となった。1楽章からブラボーが飛び交ったもんだ。
アンコールの無伴奏パルティータでは、なみなみとした美音が大きなホール一杯に響き渡った。

行進曲は、第3交響曲と同じく、アンソニー・ペインが補筆完成させたもので、2006年のプロムスで初演されたライブをネットで聴いたことがある。
一連の行進曲の延長としてまったく普通に聴ける。リズミカルな冒頭から、親しみやすいモティーフが登場するし、打楽器の効果的な活用もうれしい。
だが、それ以上の印象は残念ながら受けなかった。第3交響曲と同じく、何度か聴き込まないと味が出てこないかもしれない。尾高/札響の録音を楽しみに待とう。

休憩後、ラッキーなことに、前と隣りのお客さんがいなくなった。
見通しすっきり、膝の上もすっきりで、待望の交響曲に全霊を込めて集中できた。
全体的にまさに大友氏の手の内に入った、これまた見通しのいいすっきりした演奏。
プログラムの日本エルガー協会の水越氏の解説によると、大友氏と東響はこの第2交響曲を演奏するのが3度目、オケとしては5度目という。こりゃ、日本で一番だろうて!
ついでに、この水越氏の解説には感服。「エルガーが心の深層をさらけ出しているのは、第4楽章の最後の部分」という。おお、なるほどと、読んでて思わず席で声に出してしまった。
今まで漠然とそのフーガの素晴らしさや、エルガーの常套手段の冒頭旋律の回帰を手放しに感嘆するだけだった・・・・。

ここのポイントによく注意して聴いた大友氏の演奏。足を前に踏み出し熱の入った指揮ぶりで、楽器への指示もここへ来てさらに細やかに伺えた。
全曲の各モティーフが錯綜するように現れ、4楽章のメインの旋律に収斂されて行く場面では、思わず感動のあまり涙が出た。そして慈しむような大友氏の演奏は最後にやさしく懐かしい雰囲気のまま終結した。

もちろん、伸びやかな1楽章、実はここでも涙ちょちょぎれた第2楽章の哀歌、かっこいいエンディングがものの見事に決まって楽員もニヤリの第3楽章、それぞれに素晴らしかった。この曲の真髄がまた味わえ、かつ理解が深まった気がする。
やはり大友氏の英国物は信頼できる。
そして、もう一人、尾高忠明のエルガー2番も年内絶対に聴かなくちゃならん。

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2007年7月 7日 (土)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ラニクルズ指揮

2008年にやって来る、ウィーンのオペラ2団体の、公演案内が送られてきた。
5月が「フォルクス・オーパー」で、「こうもり」「マルタ」「ボッカチオ」の演目、指揮は「ハーガー」の名前だけだが、何と「ルネ・コロ」「ツェドニク」「「コワルスキー」らの魅力的な名前が。
10月は「シュターツオーパー」で、「コシ・ファン・トゥッテ(ムーティ)」「フィデリオ(小沢)」「ロベルト・デヴェリュー(ハイダー)」の演目と指揮者、歌手は当然「グルベローヴァ」や中堅実力派。
う~~ん。こりゃ、フォルクスオーパーの方が魅力的だぞ。
「ティーレマン」の指揮で、「マイスタージンガー」か「トリスタン」じゃなかったの??
「ウェルザー・メスト」の音楽監督決定で、ティーレマンが降りちゃったの?
「フィデリオ」は、「ヴォイト」「D・スミス」「ドーメン」と、ワーグナー級の歌手が並んでるぞ、
おかしいな??
ムーティのコシに人気が集中しそうだな・・・・・。といろいろと勘ぐってしまう来年のウィーン・フェスト(と主催のNBSが名付けてます)
オーケストラ・コンサートの指揮者も二人決定なんだろな、Mはともかくとして、う~む。

Tristan_runnicles 七夕の今日は、「トリスタンとイゾルデ」を聴きましょう。
私のブログで「トリスタン」が登場するのは、これで、7度目。ほんと好きだねぇ~、と言われそうだけれど、好きなものはしょうがない。
「ワーグナーの作品で、いちばん好きなのは?」と聴かれたら・・・・・。
こりゃ難しい。
「トリスタン」か、いや「ワルキューレ」もいいし、それこそ「リング」だよ。まてよ、「パルシファル」だぜ。じゃあ「マイスタージンガー」は・・・、もう選べない。
ロマンテック3作は、ちょっと分が悪いが、ここは、今聴いている作品が一番
ということで。

今のところ一番新しい「トリスタン」が、これ。
結構高くて躊躇してたら、ある中古店で、未開封で何と3000円で発見!!
小躍りしそうになったが、値付け間違いだったらどうしようと、ドキドキしてしまったよ。

これは「ブリテッシュ・トリスタン」だ。
2002年から翌年にかけて、ロンドンのバービカンホールで、3幕を別々に演奏会形式で上演したもののライブ録音。
これが、なかなかいい「トリスタン」なのだ。

  トリスタン:ジョン・トレレーヴェン      イゾルデ:クリスティーン・ブルーワー
  マルケ王:ピーター・ローゼ         クルヴェナール:ボァーツ・ダニエル
  ブランゲーネ:ダグマール・ペチコーヴァ メロート:ジャレッド・ホルト

      ドナルド・ラニクルズ指揮   BBC交響楽団

まず、驚くのはオーケストラの充実ぶり。ロンドンのオケでも一番機能的でクールなサウンドのBBCだが、ここではその印象はそのままに、ワーグナーのうねりをも見事にとらえ、時に荒れ狂うような音の洪水を浴びるようで、驚きであった。
なんといっても、指揮の「ラニクルズ」の功績である。
左手に指揮棒を持つ、スコットランド系のこの指揮者は、バイロイトでシノーポリの後を受けて「タンホイザー」を指揮した。このタンホイザーがなかなか熱かった。
ミュンヘンやウィーンで、ワーグナーとシュトラウスで腕をあげ、サンフランシスコ・オペラのポストにある。胸に熱いものをもった男っぽい指揮だが、じっくりとした堂々たるテンポで、オーケストラの機能性も充分意識して、精緻で目のつんだ響きも聴かせる、なかなかの指揮者と見た。

トリスタンのトレレーヴェンは、もうお馴染みの英国産ヘルデンだが、その声はちょっとモッサリ君に聴こえる。でも中低域の余裕をもった力強い声域は魅力的で、3幕のモノローグはかなり聴き応えがあった。3幕が別に演奏されたスタミナ面のメリットは、この人が一番享受しているみたい。
そして、歌手のなかで、一番気に入ったのが、イゾルデのブルーワー
売り出し中の、アメリカ生まれのドラマテックソプラノだが、決して馬力ばかりの声でなく、細やかで女性的な歌は次世代のポラスキを思わせる。
マルケ王には、先だっての「新国のばらの騎士」のP・ローゼ。あの姿がいやでも浮かんでしまうが、なめらかで深々とした声のマルケ王はいい。
他の諸役も初見ながら、みないい。
ロセッティ風のジャケットも美しく、CD収納のカートンは色とりどりの花、CDレーベルにも同色の花や剣が刷り込まれていて、センスがとてもいい。

              Ⅰ      Ⅱ       Ⅲ      トータル
 ベーム         75分    72分     71分     218分   
 カラヤン(旧)    80分    75分     74分     229分
 クライバー      77分    79分     76分     232分
 バレンボイム    82分    77分     76分     235分
 カラヤン(新)    85分    80分     74分     239分
 ラニクルズ     87分    81分     80分    248分
 フルトヴェングラー 85分    92分     75分     252分
 グッドール      81分    93分     83分     257分
 バーンスタイン    92分    90分     93分     275分

こうして見ると、テンポだけなら、ベームとバーンスタインは両極にある。
このタイム差、実に57分!
マーラーやブルックナー、1曲いけます。ご参考まで・・・・・。
  

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2007年7月 6日 (金)

ドビュッシー 夜想曲 フルネ指揮

 

 

Kamishizuku_9 普段、漫画は読まないけれど、「神の雫」は少ない愛読書のひとつ。
呑んベイで、食いしん坊だから、この系統の漫画にだけは弱い。

 

世界的に高名なワイン愛好家の息子「雫(しずく)」は、幼い頃からワイン好きになるべく育てられたが、母も亡くし、絶対的な父親 に反発しワインとは別世界に生きようとした。
しかし、その父が死に、膨大なワインコレクションの遺産が残された。それを巡って、ライバルと熾烈なワイン対決をすることになる・・・・・・。

 

ここに描かれるワインの歴史や現状、薀蓄もすべて本物の世界。
作者の確かな経験に基づいていて、この人ワインどれだけ投資したのだろうと感心してしまう内容。まだ連載中で、かつ取材中。どこまで広がるのか、ワインの世界!といった感じ。

 

私もご多分ももれず、ワインには相当凝ったし、飲みまくった。
だが、酒好きがはまると、本当に身上をつぶしてしまう。しかもそのまま飲むわけだから、度数は高いし、純度も高い。おまけに、カロリーもお値段も高い料理と飲むと、さらに味が引き立つと思い込んでしまった。
こいつは、ふところにも、体にも危険と察知して、何故か日本酒にシフト、こっちはさらに体に悪い、そこに登場したのが焼酎というすっきりした優れもの・・・・・・。
でも「神の雫」に影響され、葡萄の神さまが、おいでおいでしているヨ。
なんだかんだいって、世界の酒巡りは、それこそ堂々巡りを継続中である。

 

Fournet_debussy 期せずして、小品によるヨーロッパ巡りをしている今週。仕事は絶不調で、史上稀に見る失態続き。
でも、どんなに落ち込んでも、音楽だけは聴くぞう。

 

そして今夜は、フランスを訪れようではないの。
ドビュッシーの夜想曲(ノクチュルヌ)」を、フルネ指揮のオランダ放送フィルで。

マラルメの詩に感化された「牧神の午後」で、音楽における印象主義を掲げたドビュッシーは、5年後の1899年に「夜想曲」を発表し、その地位を確立したという。

 

切れ切れにたゆたう様子が、まさに儚い音楽の「」、賑わい行く行列の喧騒と盛上りを描きながらも、どこか寂しい「祭り」、旋律のなく途切れ途切れのイメージが模糊とした印象の「シレーヌ」。
これら3部からなる、美しい音楽を、いまだ日本のわれわれの脳裏にその優美な指揮姿が浮かぶ、ジャン・フルネは、まだ一流とはいえなかったオランダのオケを指揮して、ドビュッシーの真髄ともいえる録音を残してくれた。
ストコフスキーのもで有名な、デッカのフェイズ4録音の生々しさも懐かしい。

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2007年7月 5日 (木)

エネスコ ルーマニア狂詩曲第1番 デルヴォー指揮

Wine 「ルーマニア」と交易をしている方から、珍しい「ルーマニア・ワイン」を頂戴した。
東欧のこの国は、われわれ日本人にとってはあまり馴染みがない。
ルーマニアで思い起こすのは、「コマネチ!」「チャウシェスク」「ドラキュラ」ぐらいかしらん。
音楽好きから見ると、「ラドゥ・ルプー」「ゲオルギュー」そして、「エネスコ」くらいが思い起こせる。オーケストラやオペラハウスはあるにはあるが、怪しい限りだ。

そしてもっと未知だったのが、かの国のワイン。話によれば気候風土がワイン造りに非常に適しているとのこと。
地域により特色ある高品質ワインを産み出しているが、この二本はルーマニア北東部の「コトゥナリ」のもの。甘口の貴腐に近いワインだ。
貴腐ワインは「ハンガリーのトカイ」があまりに有名だが、あちらは希少の葡萄から手間ひまかけて造られるのに比べ、「コトゥナリ」は普通に貴腐に近いワインが出来てしまうらしい。
一口飲んだ印象は、上質の葡萄ジュース。甘い中にもさっぱりとした爽やかさがあって、クイクイ飲める。が、しかしジワジワと効いてくる。しっかりワインしてるから。
デザートワインに最適。スィーツなどに合わせて、女性をターゲットに、これはブレイクするかも??
そういえば、ルーマニアは化粧品も有名で、若返りツアーなんてのもあるみたい。

Central_eu ワイン話が長くなったが、ルーマニア関連音楽といえばこれしかない。「エネスコのルーマニア狂詩曲
エネスコは言うまでもなく、大ヴァイオリニストのエネスコである。作曲も本格派で、オペラまで書いている。

そして一番ポピュラーなのが、この狂詩曲。
誰もが一度は耳にしているかもしれないし、NHK様の名曲アルバムの定番でもある。
民族色ゆたかな旋律が次々に現れ、のどかに進みながら、徐々にチャルダーシュのような熱狂にとってかわって狂乱のうちにクライマックスを迎え華々しく終わる。

ルーマニアは永くトルコの影響を受けたことから、東洋風な要素があるのと、ハンガリーともかのドナウ川で通じていることから東欧的な要素も高い。ジプシーがたくさんいるらしい。
でも民族的なラテンの熱い情熱の血が流れているというから、複雑極まりない・・・・。
そんな縮図がこの桂曲に見て取れる。

フランスの名匠「ピエール・デルヴォー」が「アムステルダム・フィル」を指揮したコンサートホール盤。このレーベル特有のモコモコした録音が妙に雰囲気を高めていていい。

この曲聴いて、ルーマニア・ワインを飲んで、ルーマニアに行こう。(行った気になろう)

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2007年7月 4日 (水)

チャイコフスキー 幻想序曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」 ハイティンク指揮

Heitink_tchaikovsky 今日の首都圏は雨模様。
千葉の自宅の駅に着くと、ものすごい雨。
傘はあってもずぶ濡れ状態に、こちらも歩いていて、ヤケクソになってしまう。帰宅早々、発泡酒をぐびぐびっとあおり、軽い食事をしても、まだヤケクソがおさまらない。

よっしゃ、景気のいい曲を聴くべぇ!!

と取り出した、ハイテンクのチャイコフスキー全集。

付録のように収録された、管弦楽曲から「1812年」を、と思ったが、「待てよ、今週は小品とはいえ、憂愁かました音楽を自分は求めているんだっけか?」と思い直し、より劇音楽的でメランコリックな「フランチェスカ・ダ・リミニ」を選択した。

同じ幻想序曲の「ロメオとジュリエット」と兄弟のような、文学作品に題材をとった曲。
交響詩といってもいい。
ロメオが29歳の1869年、フランチェスカが36歳の1876年の作品。
ともにロマンと情熱が隅ずみまでみなぎった熱い音楽だ。ロメオは愛の場面が、かなりの時間を占める甘い作品であるが、フランチェスカは原作が陰惨なだけに、荒れ狂うような奔放な響きが横溢するドラマテックな作品になっている。

原作はかの「ダンテ」。
リミニの国の領主の娘フランチェカは好きでもない政略結婚をさせられ、その男の弟パオロと恋に落ちてしまう・・・・・。結末は、暴君である亭主の刃に二人ともかかって死んでしまう

「ハイティンクとコンセルトヘボウ」の作り出す音楽は、あまりにも立派である。
整然と、チャイコフスキーが書いた情念の音楽をありのままに示してくれる。
ともかくオーケストラのびっしりと目の詰まった響きが素晴らしすぎる。
そこになんの気負いもないハイティンクが、きっちりとした枠組みを作り出している。
そこから匂いたつような、ヨーロッパ調のチャイコフスキーが生まれるわけだ。
このコンビの最良のコラボレーションではなかろうか!
ハイティンクのチャイコフスキー全集は、すべてがこんな具合に素適な演奏。

画像は単独発売のレコード。やたらに音がよかった。1812年も、私のボロ装置が実に良く鳴ってくれたもんだ。

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2007年7月 3日 (火)

シベリウス 交響詩「エン・サガ」 サージェント指揮

Sargent 梅雨空にシベリウス。理想は冬の寒空だけれど、梅雨の肌寒い空気にもいいもんだ。
もっとも、ここ数年の梅雨は南方系の梅雨のように、時に激しく降り、気温も湿度も不快そのもの。
シベリウスによるクールダウンは果たして・・・・・。

今晩も小品で。

シベリウスの「エン・サガ」は「伝説」とかつてよく呼ばれた。
北欧古譚伝説を示すアイスランド語から来ているという。
解説によれば、特定の物語を想定したものでないらしく、その英雄伝説から受けた漠たる印象を音楽にしたものらしい。ちょっと謎ではある。
18分程度の作品だけれど、起伏に富み、旋律もゆたかで、非常に聴きやすく、英雄を想定できるカッコよさにもことかかない。
作品番号9は、1892年27歳のシベリウス初期の作。まだ交響曲はひとつも手掛けていないが、そのクールなたたずまいと熱気の相反する要素が見事に調和していて、北欧の風景と人々の熱き思いを見るようだ。

Sargent_siberius 英国指揮者は伝統的にシベリウスを得意にしているという。紳士「サー・マルコム・サージェント」も例外でなく、今晩のCDは彼のシベリウスを2CDにしっかり収めた嬉しい一組。
60年代前半に、かの「ウィーンフィル」を指揮して、管弦楽曲を録音している。
「フィンランディア」「エン・サガ」「カレリア」「トゥオネラ」の4作品。どれもがまったくもって素晴らしい名演。
サージェントの格調と気品、でもその棒にこもった英国人としての強情さ。これにウィーンの柔らかな響きが絡みつき、不思議に熱いシベリウスが出来上がったように思う。
録音の生々しさも今もって鮮度が高い。
オーボエやクラリネットが、もろにウィーンの響きなのがいい。
下の画像は、高校時代擦り切れるほど聴いたセラフィムの廉価LP。懐かしい・・・・。

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2007年7月 2日 (月)

モーツァルト ディヴェルティメント ニ長調 K136

Mo_baumgart 週末の激しいオペラ攻勢にかなり疲れてしまった?自分で選択した、好きなものを聴いたのだから、実は全然疲れてないのだけれど、重厚長大系は少しお休み。

家庭に、仕事に、人間関係に、人生には、いろいろある。大好きな音楽も受け付けられないくらいに、ダメージを受けることもある。
聴こうと思えば聴けるけど、そんな時に大事な音楽を聴いてしまって、そのイメージを台無しにしたくない。

そんな時に、モーツァルトをさりげなく聴く。
モーツァルトはどんな時でも変わらずに、やさしく微笑んでくれる。悲しい時は一緒に泣いてくれそうだし、落ち込んでいる時も、少し距離をおいてささやいてくれる。どんな時でも、変わらずにそばにいてくれるモーツァルトの音楽。

ディヴェルティメント K136は名曲中の名曲。
明るく楽しいばかりでなく、ひっそりと悩み疲れた心に寄り添ってくれる優しい音楽。
優美とも思える第2楽章を聴くと、その繊細さに心が反応して、気持ちが開放される。
ありがとうモーツァルト・・・・、そんな今夜の気分。

R・バウムガルトナー指揮のルツェルン弦楽合奏団の演奏は、呼吸のゆたかな自然体の演奏で余計な言葉を失う。

今晩はこれまで。最短更新なり。

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2007年7月 1日 (日)

R・シュトラウス 歌劇「エジプトのヘレナ」 クリップス指揮

Strauss_helena R・シュトラウス第9作目のオペラは、お得意のギリシア神話の時代に題材を求めた「エジプトのヘレナ」。
朋友ホフマンスタールとの共同作品。
面白いもので、シュトラウスは、性格や内容の異なる作品を交互に書いたように思う。
前作は、ドメステックな「インテルメッツォ」だし、その前が壮大なお伽話の「影のない女」、さらにその前が小編成オケによるギリシア神話題材「アリアドネ」・・・・、といった具合に。

エジプトのヘレナ」は、1924~27年にかけて作曲され、28年にF・ブッシュの指揮で「ドレスデン」初演された。欧米でも上演機会が少なく、70年代のウィーン(当ライブCD)、80年代のミュンヘン(サヴァリッシュのシュトラウス全作上演の快挙)、2000年代のザルツブルク演奏会形式上演。これらに混じって、2004年に二期会が、日本初演上演をして遂げた!
Helena_nikikai Helena_5 二期会と若杉氏との熱意溢れる素晴らしい舞台だった。
主役の横山恵子と福井敬の日本人ばなれした声に感嘆。

そして何よりも、シュトラウスの豊穣なサウンドに酔いしれることが出来た。
サヴァリッシュの放送音源と、今回のCDでかなり学習してから、舞台に挑んだが、生で聴くシュトラウスはまた格別。
思い出に残る体験であった。

物語の前段・・・・絶世の美女ヘレナに目がくらんで、彼女を奪ったトロイアのパリスから、妻を奪還しようとスパルタ王メネラが仕掛けた、10年におよんだトロイ ア戦争に勝利し、帰還する二人。メネラスはヘレナを愛しながらも、不貞の妻が許せない。
ヘレナはゼウスが人間の女に生ませた半神、メネラスは人間。

第1幕
「海神ポセイドンの愛人アイトラの宮殿、アイトラは世界のすべてを見渡せる全知の貝で、ヘレナを見て同情し、助けてあげようとする。アイトラはこのオペラの狂言まわし的存在。
彼女はヘレナに過去を忘れる秘薬を飲ませ、悩むヘレナを悩みから開放する。
 一方、旦那はまだ怒りが収まらず、幻影でまたパリスを殺したと思い込んだりするが、眠るヘレナを見て、さらにアイトラから秘薬を飲まされ、清純な妻と再会した喜びに震える。
二人は、世間から遠いアトラスの山に行くこととなる。」

第2幕
「アトラスの山中、ヘレナは第二の新婚の喜びを噛みしめ、素晴らしいアリアを歌う。
だが、メネラスはまだ錯乱していて、へレナの求愛を拒んでしまう。
アイトラの命を受けた、地元の首領親子(アルタイルダ・ウド)が、ヘレナに忠誠を誓いにやってくるが、二人はヘレナをひと目みてぞっこんになってしまう。罪な女である。
息子の歌う美女を称える歌も実に魅力ある音楽。
これを見たメネラスはまた不快。息子と狩にでて、彼を憎きパリスとダブらせて殺してしまう。嫉妬とは恐ろしいものだ。
こんなことばかりなので、ヘレナは憂えてしまい、逆に現実を直視するために、すべての記憶を回復する薬を調合させ飲む。メネラスにもその薬を勧めるが、妻の幻影が勧めているのかと思い込み、いっそ死んで本当の妻に再会しようと、潔く回復薬を飲む!
二人の記憶がまざまざと蘇えり、メネラスはヘレナを嫉妬のあまり殺そうと剣を振りかざすが、二人は見つめあい彼女への愛を取り戻し剣を捨て真の和解に達する。
首領の親父がヤケクソに、ヘレナを強引に連れ去ろうとするが、アイトラが愛人ポセイドンの助けを乞い親父は敗退する。
そこに、ヘレナとメネラスのかわいい娘ヘルミオーネが登場。
親子が愛情とともに揃い、スパルタへ帰郷の旅にでる。音楽は歓喜のうちに終わる」

かなり複雑な筋立てなので、長文となってしまったが、要は「夫婦和解」の遠大な物語である。「インテルメッツォ」とも共通の話題を超世界的視野で捉えたもの。
何もここまで・・・・・、という気もするが、音楽がいいから、まぁいいや。
時代はヴォツェックやピエロリュネールを生み出していたのに、保守的なシュトラウス・サウンドはここでも全開。甘味・陶酔・繊細・熱狂の世界を大オーケストラが奏で、ワーグナーばりのタフな歌手達を要する。
しかし、題材にも現れているように、明快で澄んだ地中海的な世界も拓かれていて、以降ますます澄み切った境地を目指して行く。

  ヘレナ :グィネス・ジョーンズ     メネラス :ジェス・トーマス
  アイトラ:ミミ・コルツェ         アルタイル:ピーター・グロソップ
  ダ・ウド:ペーター・シュライアー    全知の貝:マルガリータ・リローヴァ
  ヘルミオーネ:エディタ・グルベローヴァ
      ヨーゼフ・クリップス指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
                        演出:ジャン・ピエール・ポネル

Helena_wien 1970年のウィーンライブは、ジョーンズの豊穣たる声とトーマスの輝かしい声、グロソッの憎々しさ、シュライアーの無垢な歌、さらにちょい役でグルベローヴァまで登場する素晴らしいキャスト。とりわけジョーンズとトーマスは最高、ワーグナー好きならシビレます。
そして、ウィーンの個性的な音色満載の、名匠振るオーケストラ。
録音はれっきとしたステレオで、かなりいい音で楽しめる。

ジョーンズはこの作品を得意にしていて、のちに、ドラティ/デトロイト響でのデッカ録音があるが廃盤ゆえ未聴。どうもそちらも素晴らしいらしい。
海外では、メトでF・ルイージが上演したらしい。
どうも、ケンペやサヴァリッシュ、シノーポリのシュトラウスの伝統を継いでゆくのは、ファヴィオ・ルイージとティーレマンらしい。

  

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