マーラー 交響曲第3番 アバド指揮
このところの涼しさに、かえって猛暑の時の体の疲れが出てしまうようだ。
朝起きれない、眠い。
朝、ぼ~っとしながら、歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に入れた。
げげっ~つ!!なんじゃこの薬品は。
娘の洗顔フォーム「クレアラシル」じゃねえか!青と白のチューブでいかにも歯磨き粉のようだ。
悲しいよう。。。。
そんなオバカなわたしだけど、音楽のこととなると、身が引き締まりキリリとします。
去る夏を惜しんで、マーラーの3番の交響曲を聴くことにする。
この曲はマーラーの自然観、肯定的な人生観、愛への思いなどが幸せな形で表現されていると思う。年中イケルが、夏の朝や晩に涼しい風に吹かれながら聴くと、また爽やかな幸福感もひとしおである。
かつては、6楽章まであり、100分もかかる長大さに、聴いたこともないのに敬遠していたものだ。バーンスタインとショルテイ、ホーレンシュタインぐらいしかレコードもなかったし。
時代がマーラーの予言どおり、その作曲家を受け入れてからは、人気曲のひとつとなった。オーケストラの演奏能力の向上もあって始終演奏会に登っている。
そんな3番の私のフェイバリットは、アバドとウィーンフィルの旧盤である。
1980年のこの録音は、ウィーンとの蜜月の幸せな結実のひとつでもある。
隅々まで目が行き届き、ゆったりと、どこまでも自然な感情に裏うちされた素直な演奏。
その伸びやかな歌心に、ウィーンフィルが全面的に協力している。
指揮者とオーケストラの個性が、完全に一体化してしまった稀な演奏ではなかろうか。
健在だったG・ヘッツェルのもとのウィーンフィルは、現在ほどインターナショナル化しておらず、ウィーン訛りもそここに聴かれる。
ムジークフェラインの響き、そのもののような名録音も花を添えている。
アバドは99年に、ロンドンでベルリン・フィルとのライブを再録音している。
ウィーンとベルリンの両方で、さらに他曲はシカゴでマーラーを録音した指揮者は、アバドをおいてほかにない。
ベルリン盤は、表現がもっと自在で、流れがよく大河のような大らかさがある。
加えて、ウィーンの柔に、ベルリンの剛にして明晰。でも共通しているのは、全編に流れる歌とマーラーへの熱い共感だ。
そして今年、アバドはルツェルンでこの3番を再び取上げた。
この8月、ロンドンのプロムスでも出張公演を行なった。
この模様はBBCのネットライブですぐさまに聴いた。
このところのアバド/ルツェルンのトレンドで、快速感があって、かつ音のひとつひとつの充実度が、オケの高性能もあって並外れて漲っている。
いずれNHK放送もあろうし、DVD化もあろうが、マーラーへの愛情が満ちた、これまた幸福感一杯の3番になっていることだろう。
余談ながら、今年のプロムスは例年にもましてスゴイ。
ハイティンクとコンセルトヘボウが、「ブル8と、トリスタンとパルシファル」、ドゥダメルが「ショスタコ10」、S・オラモが「エルガーのアポステルズ」、ヤンソンスが「第9」、そしてリングシリーズ最終回は、ラニクルズの「神々の黄昏」
この黄昏は、実によかった。ブルーワー、アナセン(どうしちゃったの?くらいの立派さ)、トムリンソン。BBCのオケ。みんな素晴らしい。
ラインはラトル、ワルキューレはパッパーノ、ジークフリートはエッシェンバッハ(パリ菅だぜ!!)。こうした4部作。
まさにプロムスの厚みを思い知らされる思い。NHK音楽祭だかも、もっと激しくやってよ。
再度、終楽章「愛が私に語ること」を聴いている。
少年合唱の「ビムバム・・・・」が静かに消えると、そおっとした雰囲気であの素晴らしい旋律が流れ始める。
アバドのウィーン盤がこのあたりは最高だ。 今を去ること、愛情(??)も去ること数十年前、舞浜の某ホテルにて行なった、拙者の結婚式の背景音楽は自分が選んだ(無理やり)好きな曲ばかり。
「ローエングリン」「喋々夫人」「ショパンの協奏曲2番」「ラヴェルのP協奏曲」「ラフマニノフの交響曲2番」「ディーリアスの楽園への道」「ビージーズの愛はきらめきのなかに」「ナット・キング・コール」・・・・
そしてトリは、このマーラーの終楽章。しかもアバドのこの演奏。
式の終了の挨拶に、両家を代表して・・・・、亡き父が訥々と感謝の言葉を述べた。
その背景に流れるマーラーの音楽。
散々飲まされていた私も、ことここに至って神妙になり、涙がはらはらとこぼれてしまった・・・・・。
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