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2007年10月

2007年10月31日 (水)

イエス 「こわれもの」 (FRAGILE)

Bakyun_3 こちらは「占いバキューン」という携帯ゲーム。
射的ゲームの要領で、3段のステージに次々と現れるアイテムを狙い撃ちする。これが単純ながら、はまってしまうことうけ合い。
アイテムには、それぞれカテゴリーがあって、かわいい動物・野生動物・海外名所・日本名所・果物・星座・12ヶ月風物・・・・などなど。
これらのカテゴリーには、ある条件をクリアしないと登場しないお宝アイテムがあって、その解明がまたおもしろい。
こんなの、考えたのは、どこのどいつだ
電源がすぐに消耗しちまう!
ANAの携帯サイトから11月一杯、無料ダウンロードできますぜ。
あなたも、はまっておくんな

Yes_flagle_2 変わりものついでに、このブログには珍しいプログレッシブ・ロックの名盤をば。

イギリスのバンド、イエスの「こわれもの」。
クラシック一辺倒から、若い頃は興味本位で、いろんなものを聴いたもんだ。
普遍的なビートルズやストーンズは当然として、イギリス系のバンドをよく聴いた。
アメリカ系のAORやカリフォルニア系ロックは、大学時代に聴きまくった。
誰しも通る道ですな。

そんな中で、一番クラシックに接近していたバンドがイエスかもしれない。
1968年頃の結成で、常にメンバーの紆余曲折はあるものの、終始ヴォーカルのジョン・アンダーソンが一人残りイエスの顔的立場として引っ張ってきた。
まだ正式には解散していない長寿グループかもしれない。

そのかれらの最高傑作のひとつが、この「こわれもの」。
1971年の作品で、実に36年の年月が経過している!
J・アンダーソン、クリス・スクワイア、ビル・ブラッドフォード、スティ-ブ・ハウ、リック・ウェイクマン、といった黄金期のメンバーによる演奏は素晴らしい。

やはり、冒頭の「Round about」が名曲中の名曲。
今聴いても、そのカッコよさと曲造りの巧みさ、各楽器の抜群の巧さ、そしてアンダーソンの歌唱のものすごいくらいの上手さ!
録音もLP時代からよかったが、CDで聴いてみると細部までよく聴こえて驚きを禁じえない。

クラシックファンとしての驚きは、2曲目。
Cans and Brahms」で、R・ウェィクマンのキーボードでブラームスの第4交響曲の第3楽章がまるきりそのまんま演奏されているのである。
これには、クラシックファンだったらビックリ仰天。
実に音楽的で、あの堅物ブラームスもニンマリの名演奏。

他の曲も、いろんな工夫が施されていて、ひとつの組曲を聴くようだ。
のちに、これも最高傑作「危機」では、20分にも及ぶ大曲を造るようになるイエス。
80年代の復活劇で、「ロンリー・ハート」というヒットを生み出したが、いまだにこの「こわれもの」ないしは「危機」の頃が一番だったと思う次第。

アンダーソンが一時抜けて、「ラジオスターの悲劇」のヒットを呼んだ「バクルス」のトレヴァー・ホーンを迎えた時期もあったのが面白い。

たまにこうした音楽を聴くのもいいものだ。
ヘッドホンをしっかり装着しないとエライことになります。

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2007年10月29日 (月)

マリナー指揮 NHK交響楽団演奏会

Marriner_nhkso サー・ネヴィル・マリナー指揮NHK交響楽団演奏会へ。「ロマンチック・コンサート」と名付けられ、サントリーホール・リニューアル記念とある。
演目からして、はて、何故ロマンチックなんだろと思うけれど、まあいいや。サントリーホールはリニューアル以来、数回目だが、目に見えて変わったところは少ないものの、ホール内の内壁を張り替えたらしく、響きがよくなった気がする。バリアフリー化の徹底や、トイレ改修、バーカウンターの増加などをあらためて確認した次第。
あと、ホールスタッフの服が女性は変わってないみたいだけど、男性はタキシードにえんじのカマーバンドで、まるでソムリエのようになった。

前置きが長くなったけど、本日のプログラムは。

  ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲集 「四季」
            Vn:堀 正文
           「冬」~第2楽章(アンコール)
  モーツァルト  交響曲第41番「ジュピター」
           ディヴェルティメントK136~第3楽章(アンコール)

    サー・ネヴィル・マリナー指揮 NHK交響楽団

という訳で、モーツァルトはともかく、いまさら四季でも・・・、しかし、好きなマリナーだから、という軽いノリで気軽な気分で赤坂・溜池へ。
ホールのムードが、いつも自分が行くような雰囲気と違う。親子連れ、ご夫婦、恋人同士、女性同士・・・。私のようなクラヲタ風劇団ひとりや男同士がちょいと少ない。
てな具合で、居心地悪くなるかと思ったけれど、「春」の第一声で、ものの見事に救われた。いまでこそ、現代楽器でもピリオド奏法を取り入れ、ツーツー・・、といった響きに慣れ親しんでいるが、マリナーはそんな風潮はまったくおかまいなしに、従来の正攻法な手法で極めてさりげなく四季を演奏した。
身構えていた自分が情けない。
30年以上も前に聴いたあの「マリナー&アカデミーの四季」が、ここに再現される思いだった。当時あれだけ、斬新だった四季も今ではごく普通。
レガート風に春が始まったかと思うと、夏では思い切り強弱を付け、秋では一転ほのぼのかつリズミックに、冬のうら寒い様子は思い切り写実的に。
正直いって、四季をここ数年まともに聴いてなかったから、新鮮このうえなく響いたもんだ。
アンコールで繰り返された冬の緩徐楽章がとても美しい。
オルガンを通奏低音に加えるのもよい。
雪の東北地方、窓の外には雪がしんしんと降り、それを炬燵の中でミカンでも食べながらながめる・・・・、こんなムードの演奏。変な印象かしらん?
オケの編成は、さながらNHK室内交響楽団。
第1ヴァイオリン8、第2ヴァイオリン6、ヴィオラ4、チェロ4、コントラバス2、チェンバロ、オルガン。

Mariner5  後半のモーツァルトも同じ編成。ここに、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニが加わる。
軽めの低音の上に、主旋律のヴァイオリン群が乗って、聴いていてとても気持ちがいい。
1楽章は繰返しを入れたものの、早めテンポで、おそらく30分くらいの演奏時間では。
先だってのブラームスは、かなり表現にこだわったものの、このモーツァルトにこそ、我々がイメージするマリナーの姿があったように思う。
構成的には全体をキッチリとまとめ上げていて、真面目な表現だけれど、響きが爽快で明るい。スッキリと洗練されたモーツァルトは、お堅い筋からは相手にされないだろうけど、今日の聴衆、そしてマリナーの芸風が好きな私には全面的に受け入れられるものだった。
 昨年の今頃、ハーディングとマーラー・チェンバーオケで聴いたモーツァルトは、先鋭で表現意欲が満載のスリル溢れるものだった。
そして今日のマリナーのモーツァルトは、日常的にある微笑みのモーツァルトで、いつどんな時に聴いてもフレンドリーで、飽きのこないものだった。

アンコールは、フィガロをやるかと思ったら編成の関係か、ディヴェルティメントで、うれしい誤算。実に気持ちのよいアンコール。
終了後、喝采に応えるマリナー。
コンサートマスターの篠崎まろ氏を早めに連れ去り、9時前には解散となった。

日頃、重厚・長大ものばかりのワタクシの嗜好。
本日は、ローカロリーで、すっきり爽やか
あっさりした和食にも似たヘルシーなコンサートでありました。

マリナーさん、また日本に来て下さい


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2007年10月28日 (日)

フィンジ クラリネット協奏曲ほか マリナー指揮

Yurigaoka_3 以前、札幌の百合が原公園(マイフォト参照)で写したお気に入りの画像。
サントリナ ロスマリニフォリア
フランス原産、キク科の愛らしい花々。

これを葉書にして、病床の叔父に送ったりした。
夏に撮ったものだけれど、秋の気配をも感じさせる。
だから、病人に送るにはちょっとどうかと、後で思ったけれど叔父はとても歓んでくれた。
亡父にそっくりの叔父、そしてもう一人の伯父もまだまだ元気だ。

Marriner_finzi ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の全作品は40数曲あまり。白血病で50台半ばで亡くなってしまい、自己批判の厳しいフィンジは自作にも慎重だったらしい。

早くに父を亡くし、相次いで兄達と最愛の音楽の師までも亡くして、失意のフィンジ。
内面的な性格に拍車をかけるような出来事に、同情を禁じえない。

その音楽に、私はモーツァルトと合い通じるものを感じる。
快活であると同時に、人間の心の深遠にも届かんとする響きにあふれているから・・・。

   フィンジ  クラリネット協奏曲
              Cl:アンドルー・マリナー
          弦楽オーケストラのためのロマンス
          ノクターン(新年の音楽)
          カンタータ 「生誕の日」
              T:イアン・ポストリッジ

 サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー・セント・マーテイン・イン・ザ・フィールズ
                               (1996年6月録音)

マリナーの親子共演による、クラリネット協奏曲。
9年前に購入したこのCD。折から父を亡くして間もなかった。
そして、この曲を聴いて落涙した。
特に第2楽章の死を見つめたかのような静寂と抒情のみなぎる世界に心揺り動かされた。
息子を包み込み、いたわるような名伴奏のサー・ネヴィル。
アンドルーのクラリネットは真摯で気品に満ちたソロを聴かせつつ、デリカシーのかぎりを尽くす。終楽章の飛翔感もとても素適な演奏なのだ。

ロマンスもフィンジらしい、いじらしいほど美しい音楽だ。
マリナーの味のある演奏は、ヒコックス盤と双璧。
演奏会に是非取り上げて欲しい曲だ。誰しも聞き惚れてしまうのではないか・・・・。

あと、ポストリッジをソロに迎えた「生誕の日」も声高にでなく、小声で言いたい。
素晴らしい名曲だと!
ポストリッジのナイーブな歌声あっての演奏かもしれないが、17世紀の聖職者トラハーンの神との霊的交歓を歌った詩に付けたフィンジの5曲からなるカンタータにも、フィンジの心をうつしだすかのような内面的・静的な世界が描かれている。

サー・ネヴィルの思い入れを込めた素晴らしいフィンジに、思い切りひたってしまった秋の一日。こういう音楽や演奏を聴いていると、音楽とともに生きて行く喜びがふつふつと沸いてくる。
明日は、マリナーのコンサートを楽しんでこよう。


          

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2007年10月27日 (土)

ハイドン オラトリオ「天地創造」 マリナー指揮

On_the_sky_1 飛行機から撮った北海道から東北にかけての上空。
今日の関東地方は、いきなり台風が急襲してきて、午後は雨と風が吹き荒れた。
台風ってのは、どのくらいの高さにいるのだろか?
わからん?

Marriner_haydn_schopfung 今日のマリナーアカデミーハイドンの「天地創造」を聴いてしまおう。1980年の録音。
天地創造の真偽は考えず、ハイドン(1732~1809)の残したこの純粋で屈託ないナイスな音楽に耳を傾けることとしよう。

ドイツ・オーストリーでは、功を成したハイドンがエステルハージ候の死とともに、フリーとなり、折からロンドンの音楽家ザロモンの招きで、2度に渡りロンドンに長期滞在することになる。

ここで生まれたのが、ザロモン・セットなる後期の交響曲群だが、ハイドンはロンドンの聴衆が英語で歌われるヘンデルの声楽作品に熱狂するのをつぶさに見て、自身も聴衆にわかる言語=ドイツ語で、聴衆に受け入れられる素材による作品を書こうと決心した。
それが、この「天地創造」で、旧約聖書の最初の数日分の出来事をベースした作者不詳の
テクストを有名なスヴィーデン男爵が独語訳した台本に基づいている。

神が万物を6日間に渡り創造するさまを、3人の天使が実況する。そして人間が創造され、アダムとイヴが神と万物、人間の愛、主の愛を称えアーメンで結ぶ桂曲。

こうした音楽は、マリナーの清廉でクリーンな音楽性にピッタリなので、安心して聴ける。
余計な演出や、思い入れがない方が、ハイドンの音楽にはいい。
でも、冒頭のカオスの場面から、「光あれ」とラファエルが歌い盛り上がっていく場面。
マリナーはインテンポで、あっさりと進める。
くどさ、あざとさがないのがマリナーのいいところで、そこが好きなのだが、ちょっとこうした劇的作品では、不甲斐ない場合もある。
それを、うまく補うようにフィッシャー=ディースカウの歌唱が実に巧みだ。
マリナーと歌い上手のF=ディースカウ、一見合わないようで、こうして絶妙のコラボレーションとなっている。
マティスの清潔でクセのない暖かな歌唱は、極めて素晴らしく理想的なガブリエルとエヴァだ。きっと、ポップやボニーもさぞかし・・・。
対するウリエルのバルディンは、破綻なく歌ってはいるがそれ以上のこともなく、はっきりいえば役不足だけれど、これもまたマリナーのハイドンには何故かしっくりきているから不思議なものだ。
3者三様の歌手たちが、それぞれマリナーの作り出す「天地創造」の一員として収まっていて、ハイドンを聴いた満足感に浸ることができる。

マリナーは2度目の「天地創造」を、シュトットガルトとEMIに録音しているが、そちらは未聴。
夜10時、特急台風も通り過ぎ、外は静かになり、遠くで救急車の音が聞こえる静かな晩が戻ってきた。

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2007年10月26日 (金)

バッハ 管弦楽組曲第2番・第3番 マリナー指揮

071026_211632_2 東京駅の地下通路を改造してオープンした、エキナカ「ランスタ」。毎日乗換えで通過するが、かつてはラーメン屋やワインショップなどがあった程度の場所に、45もの店舗が出来てしまった。今だけかもしれないけれど、あまりの混雑に先を急ぐ時は閉口する。品川のように、乗換え導線から内側に造ったのと違い、総武横須賀地下ホーム・丸の内と新幹線・八重洲を結ぶ通路だけに、落ち着くまでは混雑が困ったことになるかもしれない。
この通路に、表参道ヒルズにも入っている日本酒の「はせがわ酒店」が入店している。
カウンターで地酒が飲めるし、試飲販売もしている。駅の中なのに、かつては考えられないコンセプトの店舗がたくさん。焼鳥のテイクアウトなどもあるし、もうたいへん
エキナカが出来る駅はもう限られているらしいが、あとはショップの鮮度をどう維持するかですな。

Marriner_bach 鮮度といえば、時代とともに薄れるもの。
しかし、薄れたとはいえ、そのパイオニア的な存在が後に大きな影響を与えていたことが判明することもある。その先駆の存在には、大いに敬意を表さなければならない。

そんな音盤のひとつが、マリナーバッハ管弦楽組曲の第1回目の録音。

正確には、マリナー&サーストン・ダートとうことになる。「四季」の大胆な演奏で、颯爽と登場し音楽界を席捲したマリナー&アカデミー
マリナーは親友の音楽学者兼鍵盤奏者のダートと強力しながら、バッハのブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲の新解釈を施した録音をした。1972~3年頃のこと。

当時中学校の音楽の授業で、第2組曲が鑑賞曲として取り上げられていた。
でも同時期にFMで聴いたマリナーのそれとは、全然違う大掛かりな演奏に思えた。
このマリナーの演奏、小編成で小気味よく、テンポも速めにしたスピーディなバッハは当時、極めて新鮮だったに違いない。
今でこそ、古楽器を用いてのピリオド奏法が当たり前のように思えるけれど、当時は、クレンペラーやカラヤンの大演奏や、ミュンヒンガーやパイヤール、リヒターらの普通の室内オケでの演奏が当たり前だった。
そこに登場した、マリナー&ダートのバッハは驚きの1枚だった。
今聴けば、なんのことはない演奏かもしれないが、ここに秘められた大胆な革新とその解釈への確信。マリナーという指揮者が本来持つ進歩性と、革新性が伺える1枚。

本日のマリナーはこれまで。

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2007年10月25日 (木)

マリナー指揮 NHK交響楽団演奏会

Nhk10_2  サー・ネヴィル・マリナー客演のNHK交響楽団定期演奏会を聴く。
1924年生まれのマリナー、いつも若いイメージがあるけど、もう83歳。
経歴や盤歴から、大巨匠とも言われていいのに、そういう言われ方をしない、いやそういう肩書が似合わないマリナーなのだ。
録音魔と言われるくらい豊富な盤歴ながら、ここ数年は新録音がなかった。
マリナー好きの珍しいワタクシ。当ブログでもカテゴリーを設けてるほど好きで、数多く聴いてきたが、実演は10年ほど前の都響で、ヘンデル・ブリテン・エルガーを聴いたのが唯一。
その時の、シンフォニア・ダ・レクイエムとエニグマの素晴らしさが忘れられない。
マリナーはここ10数年で、確実に変わってきている。90年代半ば以降のヘンスラー・レーベルへの一連の録音でもそれを感じとることができる。
そんな期待を抱きながら、サントリーホールに向かった。

  べートーヴェン  ヴァイオリン協奏曲
              Vn:アラベラ・美歩・シュタインバッハー
  ブラームス    交響曲第4番

    サー・ネヴィル・マリナー指揮 NHK交響楽団

日本人を母に持つドイツのヴァイオリニスト、麗しき美女アラベラ・美歩嬢の後から、マリナーは元気に登場。全然変わってない。83歳とは思えないしっかりした足取りで颯爽と指揮台に上がる。譜面を眼鏡なしで、めくりながらの指揮ぶりは、腰掛けて指揮をしていた、サヴァリッシュ(1923)やプレヴィン(1929)と同年代または先輩とは思えない。
もちろん、彼らは持病があってやむを得ないんだけれど、マリナーは元気一杯で嬉しい限り。

Arabella2 ティンパニの連打で協奏曲が始まり、その長い序奏が実にまろやかで雰囲気がいい。
そして、アラベラ・美歩嬢のソロが上昇する音形で入ってくる。
その音色たるや、実に美音である。おっ、そう来たか!とこちらも頬が緩む。
ストラディヴァリウスを奏でる彼女、全編に渡って音色が豊穣で、屈託がなく、美しい。
ともかく美しい。その美しさが艶やかさにならずに、青竹のようにスクッとした清々しい美しさに聴こえるのだ。技巧も抜群で、両端楽章のカデンツァなどは唖然とするほどの見事さ。
技巧だけで、空回りしないのは、彼女が音楽を感じたままに嫌味なく表現できるから。
深みやベートーヴェンの難解さなどとは、無縁の美しい演奏に、これもあり、との思いだった。昨年のノリントンN響と庄司沙耶香の同曲は、ノリントン・イズムを奏者にまでも徹底させた指揮者ありきの、コンチェルトだった。
 今日のベートーヴェンは、若い美女が、思う存分に音楽を屈託なく楽しむ姿を、合わせ名人マリナーが優しく見守って、絶妙の伴奏を付けた演奏に思う。
2楽章の歌心に満ちたヴァイオリンがとりわけ素晴らしかった。
アンコールに、イザイの無伴奏ソナタ2番の終楽章が演奏された。グレゴリオ聖歌のお馴染みのディエスイレが顔を出す超越技巧の曲。難なくスラスラと弾く彼女の後姿を見ていたら、ムターを思い起してしまった。ドレスもそっくりで、オジサンもうメロメロよ・・・・。

休憩後のブラームス、これが実に素晴らしい名演だった
誰しも、え?これ、マリナー?と思ったことだろう。

Photo_2  早めのテンポで、何気なく始まる1楽章。
フレーズとフレーズのつなぎが、素っ気ないマリナー節。指揮姿を見ていてよくわかる。
でも、音の一音一音に気合が漲っている。ホルンの強奏、ティンパニの強打、かなりのインパクトを感じる。
古雅なブラームスの4番が、こんなに明晰で一気加勢の雰囲気で鳴り響くとは!
第2楽章の明滅するような古風なメロディーのやり取りも、細部に拘らずに流れが実に良い。N響の管の名手達の腕前も完璧だった。そして、さすがに弦へのこだわりはマリナー。
ピチカートひとつとっても、洗練されているが、最後にユニゾンで第2主題が熱く奏されるところは、目頭が熱くなるほど素晴らしかった。
続く、第3楽章も勢いが溢れ、ティンパニとトライアングルが大活躍。
テンポも動かし、終楽章に向かってどんどん盛り上がる。
アタッカで始めたその終楽章、インテンポのマリナーらしからぬテンポの揺り動かしかた。
ここでも金管とティンパニの強奏で、メリハリも充分で、最終変奏の全合奏による場面では、じっくりとテンポを落とし、着実なエンディングを築き、熱き中にも品格あるブラームスのエンディングをむかえた。

会場にブラボーが飛び交ったのは言うまでもない。

これを期に、たびたび日本でも指揮台に立って欲しいサー・ネヴィル。
巨匠然として欲しくない、いつまでも爽やかマリナーでいて欲しい。
でも今日の演奏を聴いてしまうと、マリナーも高い次元にステップアップしていることが認識できた。

Marriner_brahms4 ヘンスラーから、アカデミーを指揮したブラームス全集が出ていて、今も確認のため聴いているが、こちらは97年の録音。ブラインド試聴したら、絶対当てられない!
それだけ立派なブラームス。今回のライブは、このCDよりさらに素晴らしかった。
来週も、演目はイマイチだけど、マリナー&N響行きます。


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2007年10月22日 (月)

エルガー エニグマ変奏曲 マリナー指揮

Evenig 自宅から見た夕暮れ間近の空。
結構、夕焼けフリークなものだから、これからが美しい季節だ。
空気が怜凛としてきて、晴天が続く晩秋から初冬にかけて、空は藍色から茜色に染まる美しいパレットとなる。

かれこれ中学生の昔から、夕焼けを眺めながら、音楽を聴くのが好きだった。
ワルキューレのウォータンの告別や、ディーリアスのデリケートな数々の作品。

Marriner_enigma1

夕焼けとユニオンジャックを並べちゃうと、栄えある大英帝国の斜陽とばかりになるが、これはたまたまの組合わせ。
このセンスあふれるジャケットがやたらに思い出深いのが、サー・ネヴィル・マリナー指揮する、コンセルトヘボウエルガーの「エニグマ変奏曲」だった。

1977年の録音で、同時期に「惑星」も録音し、後者は音の良さもあっ大評判になった。
あれから30年。いまこうして聴いてもホールの響きをとらえた、実にいい録音。
そして、オーケストラの味わいある音。
そのくすみ加減が、エルガーに独特の味わいを与えている。欲をいえば、強奏で少し混濁する。最新のリカッティングを施すとまた違うのかもしれないし、私のチープな装置の限界なのかもしれない。
マリナーの指揮は、要所を押さえながら無難なものだが、彼のアッサリぶりがここでは少し目立つ。若い頃のハイティンクが指揮しているようなものだ。
ここでもう少し腰を落ち着けてじっくり・・・、と思うところで、スス~っと行ってしまう。
オケのコクと深みのある響きに助けられているともいえるが、それでも気品あるメインテーマの歌わせ方やじわじわと盛り上がるニムロッドなどは、さすがに奥ゆかしい指揮者の美質が聴かれる。実によろしい。

Marriner_enigma2 1993年、16年後にマリナーはロンドンにて、永き手兵のアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズとともにエニグマ変奏曲を再録音した。

前回のカップリングが、「威風堂々」だったのに比べ、2度目の録音では、「子供の魔法の杖」。
これからして、マリナーの円熟やエルガー感が伺えるかもしれない。
はたして、そのエニグマは?

そう、これが実に素晴らしい。演奏の長短は、その良し悪しに関係はないけれど、新盤は、旧盤に比べ概ね各変奏曲で、ゆったりした変奏で10秒くらいずつ長くなっている。
その要因は、曲の歌わせ方が念入りになり、表情付けも自然でありながら実に豊かになったことによる。アカデミーというと、室内オケの印象がついてまわるが、曲によって通常オケにも変身するフレキシブルオケだから、響きは薄くもなく立派なものだ。
冒頭のアンダンテによるテーマからして、実にふくよかに暖かく旋律を奏でている。
オケにコクは少なくあくまでノーマルな響きだけれど、マリナーの気持ちのこもった指揮で、作者を含む14人をテーマとする各変奏曲がイキイキとした特徴を語りだしているようだ。素適に思ったのが、第6変奏のイザベラのヴィオラ独奏を伴なう美しい瞬間、第8ウィニフレート・ノーベリの管と弦のしゃれたやり取りのあと、第9ニムロッドにアタッカで緩やかに入り込むところ。そしてそのニムロッドのデリケートな始まりから、徐々に熱を帯びてゆくさま。
旧盤は、3分44秒。新盤は4分12秒かけている。
ここに、この演奏のピークがあるといっていいかもしれない。
続く早いテンポの変奏ではテンポも増し、その分彫りが深くなり、ティンパニや打楽器の一撃も実によく決まっている。
第12変奏BGNの弦のユニゾンの美しいこと。第13変奏、エルガー愛人との説もあるこの曲、優しいクラリネットと不安げなティンパニの対比が見事で、10年前に都響を振った実演でのマリナーの指揮が、この部分をかなり音を押さえて慎重に演奏していたのが思い起こされる。
そして、快活で明朗な作曲者自身の最終変奏、エンディングを迎える完結感が、旧盤よりも素晴らしく、最終和音の絶妙の引き伸ばしも旧盤とは別人のように鮮やか。

新しい方ばかり誉めてしまった感があるけど、旧盤はコンセルトヘボウあってのエルガー、新盤はマリナーのエルガー。こんな思いで聞き比べてしまった。
来日中のマリナー、残念ながら英国物はひとつもないが、円熟の名演が期待できそう。

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2007年10月20日 (土)

スパス・ヴェンコフ ワーグナー・アリア集

Ninomiya_azumayama_dog 街をさまよい中出会った、イケメン犬。
すがすがしい、ナイスなワン君。
いいなぁ、おまえ、もてるだろ。

最近は見た目重視の社会。
「おかしいぞ」
「おまえにはまだ早い」

わんこも、にゃんこもカワユイやつばかりがもてる世の中。犬社会も大変なだろな。

Wenkoff こちらは必ずしもイケメンとは関係なさそうだが、声だけは実にいい男の、スパス・ヴェンコフ
ヴェンコフが突如注目を集めたのは、彼のキャリアの後半ともいっていい、1976年。
バイロイトでカルロス・クライバーのトリスタンが74年から始まったものの、リゲンツアのイゾルデは絶賛されたものの、ブリリオートのトリスタンは散々の評価で、クライバーが降りてしまうのではないかと噂されたりもした。
(今聴いてみて、不安定だけどそんなに悪くないブリリオート。)
その危急を救ったのが、突如現れたヴェンコフのトリスタンだった。ここでようやく、「カルロスのトリスタン」は完璧なものになったが、予定の3年でシュタインと交代してしまった。

ヴェンコフは、ブルガリア出身。マルチな才能の持主で、ソフィアの大学では法律を専攻し、法律家を職業としてスタートする一方、出身地のオペラ座のオケのヴァイオリニストとしても活躍していた。さらに、バスケットボールとチェスの名手ともある。
オペラ座で第二ヴァイオリンを弾く一方、コーラスにも参加し、正式に歌の勉強を重ねて50年代から60年代にかけて、オペラ歌手としてデビュー、役柄もアルフレートやピンカートンなどから徐々に広げて行き、同時に西ドイツに活躍の場を求め、数々のロールをレパートリーにしていった。
そう、こうしてみると、すごいキャリアをベースにした積上げ人生が見事花ひらいたの感がある。もちろん、豊かな才能あってのものだろう。
 
その後、バイロイトでは、トリスタン、タンホイザー、パルシファルなどを歌い、ベルリンを中心にワーグナーではなくてはならぬ存在として80年代半ばまで活躍した。
日本には、スウィトナー時代のベルリン国立歌劇場の引越し公演で「タンホイザー」を歌った。これはNHK放送されたし、同じメンバーのCDも出てる。
ブロムシュテットとN響のトリスタン2幕の演奏会形式公演にも登場している。
ウィーン国立歌劇場のトリスタン公演で、私は期待してNHKホールに出向いたが、キャンセル。代わりは、たよりないG・ブレンナイスだった・・・。
ということで、ヴェンコフは私にとって幻のような存在。

 「パルシファル」、「ジークフリート」森の場面、「タンホイザー」、「トリスタンとイゾルデ」

  ハインツ・フリッケ指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                           (1977年録音)

お得意のロールばかりを、バイロイトデビューの頃に録音した1枚。
これが実に聴き応えがある。トリスタンは3幕の長大なモノローグが25分にわたって収められている。
このトリスタンを聴いて、数日前のトリスタンが呑気な声に聴こえてしまう。
切実で真摯、それでいて切羽つまったような熱狂の度合いも強い。
強靭な喉に恵まれた音楽性、クレバーな自己制御と爆発力。
最強のトリスタンの一人といっていいかもしれない。

70年から80年代、カラヤンやショルティのワーグナー録音にはついぞ登場しなかったヴェンコフ。スター主義のメジャーレーベルは見向きもしなかったから、ほんとうに貴重な1枚なんだ。肉太のヘルデンテノールとは、完全に一線を画したピーンと張りつめた強い声。
バイエルン放送局に眠る数々の音源の復刻が待ちどおしい。

オーケストラの音色が、録音のせいもあるが、随分と渋い。
先般のバレンボイムの元では、ベルリン・フィルにも匹敵するような音色の美しいスーパーなオケになっていたのに。楽器の違いや、環境の変化によって変化せざるを得ないであろう。タンホイザーのローマ語りのオーケストラのくすんだ響きを聴いていて、そう思った次第。

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無謀な連続コンサートを回顧する

先週の金曜日から4日連続、1日置いて1演目。ということで、5つのコンサート・オペラを連日聴き、観劇したわけ。
こんな経験はこれまで初めて。
何故こんな暴挙を企てたかというと、理由は偶然。
好きな演目を拾っていったらこうなったし、同好のよしみで期せずして、ということもあった。

今回の作曲家を列挙すると・・・、好きな作曲家ばかりが並んだ。
モーツァルト、シューベルト、ワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウス、シェーンベルク、ということになる。独襖系ばかりの曲目ばかり。

シュナイト/神奈川フィル・・・・完結感あふれる最長未完成に、シュトラスの絶美の世界。松田嬢の日本人離れした歌唱も素適だった。
曲終了後の静寂も音楽と一体に。
                    
上岡/ヴッパータール響・・・・生気あふれる弾き語りモーツァルト。これまた最長のブルックナーは、上岡流清冽・敏感・清新なる演奏に驚嘆。
ここでも、演奏終了後の間が嬉しかった。アンコールのローエングリンもいい選定。

新国/タンホイザー・・・・・・・・華やかなオープニング演目、普遍的な内容に納得。
日本のプロダクションも捨てたもんじゃない。会場で見かけた若杉監督の満足そうな姿。
レパートリーとして定着化して欲しい演目。ベルリンのトリスタンと同時期にあたり、東京はワーグナーの街となった。

ベルリン/モーゼとアロン・・・難解な作品にも限らず、満員の文化会館。著名人多数。こういう作品がわれわれも普通に楽しめるようになった。演出優位の時代のなせるワザ。でもバレンボイムの強力な統率力あっての演目。

ベルリン/トリスタンとイゾルデ・・・・けた違いの音楽の力!そして稀に見る圧倒的な演奏。クプファーの予想を裏切るくらいのシンプルな演出。私ごとき凡人には理解できぬ舞台装置。ここでもトリスタン演奏の達人バレンボイムの超強靭な指揮が。
マイヤー、パペ、トレケルにブラボーを浴びせた私、でもあの拍手はBoo!

①~④まで、奇跡的にも音楽が終わって充分な間があって、感動の余韻を楽しめた。
こんなことってあり?素晴らしいことだと思う。
なにも、感動をすぐに表出するのが悪いと言っているわけじゃないけれど、少なくとも指揮者が手を降ろすまでは、静かに聴き取るのが聴き手のマナーというもの。
ワーグナーは、静かな終結が以外と多いので、舞台に出向く時は最後が不安になる。
トリスタン、ワルキューレ、神々の黄昏、パルシファルである。いやはや。

昔の舞台写真をこっそり、堂々とご紹介。

Moses2 1970年の万博、ベルリンドイツオペラ公演の「モーゼとアロン」
この時の演目がすごい。コシ、魔弾の射手、ローエングリン、ファルスタッフ、モーゼ、ルル、といういぶし銀の6演目。
マゼール、ヨッフム、ホルライザー、マデルナの指揮者陣。
テレビで、ローエングリンを観た記憶がうっすらと。

Tanheiser1 Tritanjpg2バイロイトのヴィーラント演出による、「タンホイザー」と「トリスタン」
抽象的な動きの少ない新バイロイトの象徴演出。今とはまったく逆。
両曲ともに、ヴィントガッセンが大活躍。
サヴァリッシュとベームのライブ盤は今でもすばらしい。

トリスタンは歴代、名指揮者たちが名を連ねた。カラヤン、ヨッフム、サヴァリッシュ、ベーム、K・クライバー、シュタイン、バレンボイム。そこに大植英次は登場したが、今ではシュナイダーの無難な指揮にとってかわった。
一番多く振ったのが、ベームとバレンボイム。年季も充分なバレンボイムのトリスタンなのだ。

コンサートは、しばらくは散発。11月中旬には、ドレスデンとヤンソンス、N・デッセイが入り怒涛のコンサート通いが予定されている。ああ、もうすごいの来ないで、財布が・・・・。              

 

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2007年10月18日 (木)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ベルリン国立歌劇場公演

Linden_2 ベルリン国立歌劇場公演、トリスタンとイゾルデを観劇。当プロの最終日、平日15時開演にもかかわらず、巨大NHKホールが満席。大入りの看板も出ていた。みんなどんな人なんだろ?
まぁワタクシもその一人、というか、おバカなんですが。

まず、わたくし結論から先に言ってしまうと、世界のどこを見渡しても、こんな素晴らしいトリスタンはない、ということ。生涯最高の音楽体験と確信している

2000年のアバド/ベルリンフィルのトリスタンを例外として、いや、音楽体験としても、それに迫る稀有の名演奏として、胸に刻まれことになる上演だった。

それほどに素晴らしく、こちらも没頭してしまった名舞台、最後の「愛の死」でマイヤーに淡いスポットライトがあたり、彼女の歌に、オーケストラに、私は涙に濡れていた。
恍惚と歌い終え、オケの後奏が続き、オーボエの音を残しつつ、波が引くように音楽が終わる。
いや終わるはずだった。
ここで拍手がパラパラと起きてしまった。でも、さすがにマズイと思ったのか、パラパラでやんだ。しかし、最後の和音がまだ残っているのに、また始まった。これはもう止まらない怒涛の拍手になだれ込んでしまった・・・・・・
こんなぶち壊し拍手に、どう対応したらいいというのか
舞台は初めてでも、前奏曲と愛の死くらいは聴いてるだろ
イタリアオペラじゃねぇんだよ
主催者は、機械のように、何度も写真や携帯の注意を呼び掛けるんじゃなく、拍手のマナーも放送しろい
マーラーの第9ばりの静寂を要求してるわけじゃねぇ
ほんの少しでもいいから、余韻を楽しめないのかよう
そう、プンプンな私だけれど、それ以外は大満足だった。悔しいけど、忘れよう・・・・・。

Tristan1_2 すでに舞台をご覧の皆さんがいろいろ書かれていらっしゃる通り、クップファー演出としては、さほど強烈なコンセプト演出ではなく、仕掛けも少なく(気付かなかっただけ?)シンプルな内容だったように思う。
それだけに、凝縮されピリリと辛口の舞台だったのでは。
3幕を通じ横たわる、大きな羽を持った天使のようなオブジェがステージ中央に据えられ、この上で物語は進行する。このオブジェは一体何だろうか?
私は愛の女神と思った。誰の愛の女神か?
主人公二人であり、男性登場人物相互、女性登場人物相互、それぞれにである。
さすがに水夫は違うだろうけど、牧童や舵取までも、トリスタンに殉ずるわけだし、みんな死んでしまう姿を背景で見せていた。マルケ王は、嫉妬に怒り狂い、クルブェナールとその一派を打ち負かしてしまう。2幕で、トリスタンがメロートの刃に飛び込み倒れる先は、マルケ王の腕の中。ジークムントとウォータンのようにも見えるし。
 そしてイゾルデ以上に、ご主人様と密着度の高いクルヴェナール。
このいびつな関係が錯綜しているから、女神の羽は根元の部分で一部折れてしまっているし、その顔はうつむいて埋もれてしまっている。

舞台奥には、墓石が4つ斜めになって並んでいる。誰の墓だろうか?これはまったく意味不明。
そして、1幕最後、マルケ王のもとに到着すると、これまた舞台奥には、男女が横を向いて微動だにせずに登場。次いで2幕の濡れ場を急襲した際にも登場。
無言の傍観者の意味するところは彼らの衣装は、劇の時代設定とはまったく関係なく、ワーグナーの時代のもの。
舞台奥のワーグナーの時代の人々や墓石から、羽の上で演じられるトリスタンのモノトーンの世界を挟んで、現代の我々聴衆。アウトローの登場人物たちを傍観する二つの時代(世界)か
う~む、私には読めない、わからない。
 イゾルデの服が、1幕は赤、2幕は渋めのブルー、3幕は濃いグレーと彼女の心象を映し出すかのような効果を感じた。
2幕での、長大な愛の二重唱では、舞台は真っ暗になり、一筋のブルーの光だけがオブジェの上から当てられていたのが、とても美しい。

大枚はたいた、もしかしたら初トリスタンの年配の方々には、かえって最小限の舞台装置で動きも少なく、むしろ音楽に集中できるこの演出はわかりやすかったのではないだろうか。だからゆえ、あの拍手だけは許せない。 

  トリスタン:クリスティアン・フランツ   イゾルデ :ワルトラウト・マイヤー 
  マルケ王:ルネ・パペ           クルヴェナル:ローマン・トレケル 
  ブランゲーネ:ミシェル・デ・ヤング    メロート :ライナー・ゴールドベルク    
 
     ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                演出:ハリー・クプファー 
                     

現在トリスタンを振らせたら、その実績も含め最高の指揮者は、バレンボイムであろう。前奏曲から、異様なまでに音楽に気が満ちている。3時間30分の演奏時間のすべての音符に、その意志がこもっているし、その表現意欲が空回りすることなく、音楽の強さとなって奔流のようにオーケストラピットから音が湧き出てくるようだ。
それと、オーケストラの技量の素晴らしさもさることながら、弦楽器を中心として、音が本当に美しいと感じた。この美しさは、一昨日のシェーンベルクでは味わえなかったので、やはり音楽のケタの違いとでもいえるのだろうか。

そして、マイヤーのイゾルデ!!! 彼女がとてつもなく、素適だった。圧倒的な音域の広さ、余裕あるメゾの音域に裏打ちされた力強い高音。
なにより魅力は、中域の美しく輝くかのような声。ビジュアル的にも申し分なし。
ポラスキ(アバドの時、これまた大らかでナイスなイゾルデ)、ステンメ(女性的なやさしさ)らと並んで、最強イゾルデが、マイヤー。
Tristan2_2 それから、パペの深々としたノーブルなマルケ。フンディングばかりだったけれど、いよいよ当たり役が聴けた。
トレケルの友愛の象徴のようなクルヴェナールは、ベタつきはともかくとして、相変わらず真摯な歌唱。声量がもう少しあればいいけれど、その分見た目がよろしいから恵まれている。新国の神経質なグンターも懐かしい。
大柄なデ・ヤングのブランゲーネも印象に残る。彼女の強い歌唱は、さらに磨いて、将来ドラマテックな主役級をこなすようになるかもしれない。
それでもって、フランツのトリスタンであるが、最初から、新国のジークフリートやカニオ(パリアッチ)の見た目のイメージを引きずってしまい、イメージ的に受け入れにくかった。あのメタボ体型もちょいと、トリスタンとしては、がっかりだよ。
3幕の長大なモノローグで、温存していたスタミナを全開にして、スゴイ迫力となった。声がトリスタンにしてはあっけらかんとしすぎで、もう少し陰りが欲しいところだが、他にこれほどまでに歌えるテノールはいないから・・・・。
なつかしいR・ゴールドベルクがメロートとして登場。20年前、同じベルリンの公演でマイスタージンガーのヴァルターとして聴いて以来。トリスタンを刺すべく、じわじわ登場したとき右手がぶるぶる震えていたのが見えたけれど。演出なのかしら?

なんだかんだいって、すこぶる楽しめ、感激したトリスタン。
主役はオケとマイヤーかな、いや、ワーグナーの書いた音楽です
隅々まで、聴き親しみ、舞台でも4度目の今回だけれど、観るたび、聴くたびにいろんな発見があり、大いなる感動がある。
最後、画龍点睛に欠ける出来事があったが、まずは最高の「トリスタンとイゾルデ」が体験できた。
終演後のちょっと一杯も心から楽しいひと時でした。お疲れさまでした。

Tristan3 ちなみにベルリンでは、この次のトリスタンが上演されていて、この画像は、真っ白けで、今回のモノクロ的舞台とかなり異なる。日本のオペラパレスでは、いつトリスタンが登場するのだろうか?

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2007年10月15日 (月)

シェーンベルク 「モーゼとアロン」 ベルリン国立歌劇場公演

音楽が弦のユニゾンで消えていったとき、その伝えんとするものが何か、そんな単純なものでいいのだろうか?音楽が託したメッセージもこれでいいのだろうか?という思いにとらわれ、茫然となってしまった。

Linden ベルリン国立歌劇場来日公演から、シェーンベルクモーゼとアロンを観劇。 トリスタンの優先予約で確率を上げるためには、セット券が必須だったので、ドン・ジョウァンニでなく、モーゼを選択。
めったに出会えない演目だし、トリスタンと合わせることも意義あろうかと。
でも心配は音楽が少ないことで、歌もシュプレヒシュティンメで語り歌いが多いなど。
外来では1970年万博の年に、ベルリンドイツオペラが持ってきている。

当時、小中学生のワタシ、雑誌の写真をためすながめつして、同時にやった「ルル」とともに、どんな音楽なんだろ??と想像するばかりだった。
R・ゼルナーの演出、B・マデルナの指揮(これってものすごい!!!)で上演された舞台は、60年代後半のサイケデリックな色使いによる刺激的なものに思われ、私の妄想は膨らむばかりだった。

音楽だけはそれなりに聴いていたが、同じ12音でもベルクの旋律的なものと大違いで、とっつきの悪い、しかめっ面的音楽に辟易する思いもあったことは確か。

今回の舞台は2004年プリミエで大成功した、現総裁のムスバッハの演出。
早くから画像が公開され、映画「マトリックス」的な無機質の登場人物で構成されることで、注目されていた上演だ。
今日も、文化会館の前にはチケット求むの人が数人おられた。

簡単に劇の内容を記すと、旧約聖書モーゼの出エジプトの場面。映画ならば、「十戒」と重なる情景。神から人々を約束の地カナンへ導くことを命じられたモーゼだが、語りが苦手なモーゼ。語り手として弟分のアロンの口を借りて民衆を率いることになるが、シナイ山で神の掟(いわゆるこれが十戒)を受けている間に、山の麓では、疑心暗鬼になった民衆を押さえられなくなったアロンが、神の偶像崇拝を許し、ハチャメチャなことになる。
ここに下山したモーゼが現れ、偶像を壊し、アロンを罰するというもの。

こうした聖書上の史実にシェーンベルクは、ユダヤ人たる自己を意識して、独自の解釈に基づくドラマを作り上げた。
モーゼとアロンを神への無条件帰依と偶像崇拝という形をともなう信仰という、拮抗する対立要素として明確にとらえ、その元に揺れ動く群集の愚かさをよりはっきりと取り入れた。

Mose1 ムスバッハは、舞台を近未来的な、シルバーモノトーンの世界に置き、モーゼとアロンを含む登場人物すべてに黒いスーツとサングラスをまとわせた。
これによって、誰が誰だかわからなくなってしまう。女性も男性もない。
偶像のもとに繰り広げられる性的な儀式や肉惑も、中性的なモノセックスなものになっている。この群集の牛歩のような動きが実に効果的で、不気味であり、それが指導者モーゼとアロンを惑わしていく。ときに2階部分から見おろし、両袖から追い詰めながら。
そして、この作品のクライマックスたる偶像現出の場面。
舞台は暗闇となり、地下から白く光る杖(スターウォーズの剣を思い起こして下され)を持ちながら、まるで一歩先が見えぬかのように民衆が徐々に登場する。神の不在を象徴か?
いつのまにか、金の偶像の首部分が、民衆の手から手に渡されリレーされ前面に登場している。(この首、だれかが蹴ってしまったのか、オーケストラボックスに落ちそうになってしまった~笑)
オーケストラが一番面白い「金の子牛(偶像)の踊り」では、首なし立像が現れ、それを舞台に民衆が怪しい動きをする。
この立像、レーニン、チャウシェスク、フセイン、金日成・・・・を誰もが思い起こしたことだろう。

Mose2 モーゼが現れ、アロンは困惑して言い訳をするが、モーゼもシナイ山で得た神の掟が記された石盤を、脱いだ上着で包んで隠しもっている。
これをアロンに石盤も所詮偶像=印に過ぎぬと言われ、しょんぼりのモーゼ。
自ら倒した石像の上に座りながら、「おお言葉よ、われに欠けたるは、汝言葉なり」と歌うように語り幕となる。

最後のモーゼとアロンの「神のかたち」についてのやりとりのなか、民衆が無言で現れ、無数の小さなテレビを舞台にびっしり置いていった。
一方的な情報の発信と、それを無条件に受け止めるわれわれ。被害者兼加害者。
そんなメッセージだろうか?
冒頭、モーゼが語る。「唯ひとつにして、永遠なる神、あまねくところにおわす神。眼にも見えず、想像も絶する神よ!」・・・・この言葉の持つ甘味さと危険な因子。
シェーンベルクがウィーンに生まれながらのユダヤ人として、心の底から訴えたかったのは?

ムスバッハの優れた演出がどこまでシェーンベルクの思いに迫れたのかは、私ごときではわからない。
でも、この題材に身近なことが事象として常に起きている。
東洋の島国にわれわれとて同じこと・・・・・。

懐かしい、J・フォーゲルがモーゼで、明瞭な発声で頑迷で悩む役柄を見事演じる。
そして、リリックからヘルデンに転じた、T・モーザーが歌いどころの豊富なアロンを、モーゼの二重人格のように歌い演じた。
ほかの歌手は、外観が見分けつかずわからんが、見事なアンサンブル。
それ以上に合唱=民衆の演技と特異な歌に対する適応力と敏感さに驚かざるをえない。

いま、復習でブーレーズ(旧盤)を確認しながら書いているが、30年前には鮮烈だったブーレーズとは異なる意味で、デジタル的鮮明さと、強烈な表現意欲の違いを今更ながら思った。
ブーレーズの冷徹な音もそれでいいが、舞台を感じさせることがなかった。
 今日のバレンボイムの熱血指揮は、オケも舞台も聴衆も引きずりこんでしまう濃厚完璧ものだった。
今日の語り手は、モーゼでなく、アロンでもなく、ダニエルその人だった!

なんたる辛口で、重く衝撃的な体験だったろうか。
明後日のトリスタン甘味で待ち遠しいご馳走のように思えてきた。

本日は音楽著名人を複数お見かけした。
サンドイッチをぱくつくミッチーや来日中のプレトニョフ、降り番の歌手たちふう、有名評論家の方がた。これもオペラ幕間の楽しみ。
カーテンコールに応える歌手たちは、みなサングラスのままで、主役以外は正体不明。
主催側の若いねーチャンが、花束を持って現れると、サングラスを下げてわざわざ覗き込むユーモアあふれる歌手もいて、深刻な中にも、オヤジ的に微笑ましい出来事があり。

いやはや、怒涛のドイツ4連荘は終わったが、また一日おいて、最大の公演が控える。
明日夜飲み会があり、一抹の不安が走る・・・・・・。


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2007年10月14日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」 新国立劇場

Tannhauser_2 新国立劇場のシーズンオープニング演目、タンホイザーを観劇。若杉芸術監督下の今シーズンは王道演目主体に和製もの、現代ものを絡める、だれもが納得するプログラミング。まずは基本レパートリーを定着させ、ほんとうの若杉さんらしさは来シーズン以降から出てくるのではと。

注目の船出ながら、タイトルロールが早くから、ミルグラムからボンネマへと変更になってしまった。このボンネマは、若杉さんの指揮でオープンした新国のお披露目ローエングリンのタイトルロールでもあったけど、その時もザイフェルトの代役だった。因果は巡る。今回の2度目の晴れ舞台はいかなることに。 ほかのキャストがバイロイト組と一昨年のマイスタージンガーチームで強力なだけに歌手では注目の一人だった。
演出はペーター・レーマン、ヴィーラントやウォルフガンクのもとにいただけに、オーソドックスな内容が予想され、まさにその通り。読み替えや過激なものが多いなか、ちょっと一安心。でもちょっと面白くない、とわれわれも贅沢になったもんだ
Photo 贅沢といえば、舞台装置や衣装にも金がかけられている様子。ホモキの段ボールやジーンズとはえらい違い。プログラムのレーマンの解説によれば、「ワーグナーの音楽がすべてを書き尽くしている、タンホイザーを通して芸術家という人間のありかたを示し、同時に芸術家が人間であることを示すことが目的である」、と。
時代設定や人物の背景は原作そのままに、舞台はアクリルの様々に形を変えるモニュメントが時にヴェーヌスブルクになり、森になり、白の円柱になったりで、これに照明があたって、そこそこの効果を出している。そして、舞台の奥にはスクリーンがあってヴェーヌスブルクの場面だけ、ダンサーやヴェーヌスの姿を大映しにしていて妙にデフォルメしている。森やステンドグラスはいいけど・・
こうしたコンセプトだから、タンホイザーの基本事項は当然しっかり押さえられている。救済の背景にあるキリスト教的アイテム、大きな十字架にステンドグラス、巡礼者たち、祈りなど。それから、緑の美しい森~(この場面、ヴィーラント演出の写真で見たような。)
それと、ヴェーヌスとエリーザベトの表裏一体性。

エリーザベトは歌合戦のタンホイザーの歌に喜々として拍手してしまう。
Photo_3  3幕の祈りでかつて邪念に取り付かれたことを悔いるが、2幕でことが発覚するまでだが、これほどまでに喜ぶエリーザベトは珍しい。余計にその後の転落との対比が生きてくる。
そして音楽だけでも、いつも感動する場面だが、孤立するタンホイザーをかばうエリーザベトの歌と演技にホロリとなった。歌合戦の後半から、このあたりの群集の動かし方は見事なものだった。
群集といえば、合唱は相変わらず超素晴らしい。
でも中世貴族のなりは、どうも日本人には似合わないな。おばQやキョンシーのように見えちゃった。
ついでにお叱り覚悟で言っちゃうと、ヴェヌスブルクのバレエダンサー達は、最初出てきたとき、「小島よしお」かと思ってしまった・・・・。
冗談はともかく、最終場面、枯れた枝に新緑が生え、素晴らしい合唱を背景に、こと切れたタンホイザーの上に領主が枝を置いて、タンホイザーのみにスポットライトがあてられ、幕となった。このエンディングが私としては実によかった。
この場面と素晴らしい音楽に、聴衆は拍手を忘れ、オペラに珍しく、しばしの静寂が訪れた。私は、ささやかながら、ブラボーを一言。
実にいいエンディングとその余韻だった。

 領主へルマン:ハンス・チャマー      タンホイザー:アルベルト・ボンネマ
 エリーザベト :リカルダ・メルベト     ヴェーヌス  :リンダ・ワトソン
 ヴォルフラム:マーティン・ガントナー   ヴァルター  :リチャード・ブルンナー
 ビテロルフ :大島幾雄           ハインリヒ  :高橋 淳
 ラインマル :小鉄和広           牧童     :吉原圭子

  フィリップ・オーギャン指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                   牧阿佐美バレエ団
                   演出:ハンス=ペーター・レーマン        

気になるボンネマだが、遠めがR・コロ似である。コロ似だけど、声は全然違う。
やや発声にクセを感じ、言葉が不明瞭になり音程が怪しくなるきらいもある。だが、ここぞという場面での猛進ぶりはなかなかで、ローマ物語での絶望と自暴自棄ぶりは、壊れ行く芸術家としてなかなかのものと思った次第。
Photo_5  これに対する常識人代表・いい人代表好人物のウォルフラムのガントナーが実によろしい。以前のベックメッサーとはまったく異なる人物像を、明るくよく通る声でウォルフラムの理想像として築きあげている。ロドリーゴとならんで、私の好きなバリトンロールだし。
そしてバイロイト現役組の、女性二人、ワトソンの強靭でありながら、ヴェーヌスらしからぬ暖かみある声は素晴らしかったし、メルベの真摯なエリーザベトは終止落ち着いていて、舞台をリードしてしまうかのような貫禄と気品があった。メルベトの素直な声は、きっとジークリンデにもぴったりだと思う。
チャマーの領主へルマンもいい。

初めて聴いた、フランス人ワーグナー指揮者、フィリップ・オーギャは、期待以上によかった。今風の明晰で重心が上のほうにあるワーグナーと感じたが、ここぞとばかりにオケを鳴らしこんでメリハリもあって、聴き応えあるオーケストラだった。カーテンコールで、真っ先にオーギャンが出てきて、一同手をとりあって喝采を浴びている様子をみて、ボンネマの調子を察した指揮者の配慮かと・・・・。
序曲の途中からバッカナールに入るウィーン版による上演。

2階桟敷席に、ひとり観劇する若杉芸術監督の姿あり。
終演後は、ロビーでおいしそうなオードブルとお酒が準備されていた。いいなぁあ。

071014_132817 でも休日だから、今日は開演前にオペラシティにある、ロンドンパブ「HUB」でフィッシュ&チップスとエールビールを1杯。
明日は難物オペラが月曜というのに控えている。
トリスタンへの道は、シェーンベルクを通って逆走しなくてはならない。

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2007年10月13日 (土)

上岡敏之指揮 ヴッパータール交響楽団演奏会

Wuppertal

昨日の神奈川フィルに続き、再び、みなとみらいホール。今日もこの素晴らしいホールがドイツの響きに満たされることになった。
ヴッパータールはフランクフルト北部の街でそのオーケストラはこれまであまり知られていなかった。私は、以前シュタインのブルックナー5番を聴かせてもらったことがあって名前だけは知っていた程度の知識。シュタインの出身地であり、ヴァントにもゆかりの地。
しかも、昨晩のシュナイト師も永年音楽監督を勤めたという。こんな由縁もうれしい横浜公演なのだ。
上岡敏之は2004年から市の総監督を勤めているとのこと。

上岡氏はピアノのレペティートゥアから叩き上げのいまどき珍しいドイツの地方劇場からキャリアを積み上げてきている指揮者。かつてのカラヤンもベームもみんなそう。だからおおいに応援したくなる。

     モーツァルト  ピアノ協奏曲第23番
     ブルックナー 交響曲第7番


弾き語りのモーツァルトは、ピアノを縦に置いてオーケストラに向かって振りながら弾くのでなく、通常のソリスト配置で、前に出て来て豊かな表情と身振りで指揮をしながら、ピアノに戻っては弾く、という芸当をみせてくれた。
イ長調の伸びやかな旋律の引き込まれるような表情にいきなり聞き手の心は解放されてしまった。
ピアノもオーケストラも完全に一体化している。
2楽章の短調の旋律はピアノも木管も涙に濡れているかのよう。そして楽しく弾むような3楽章は、思わず微笑んでしまった。なんたるステキなモーツァルト。プレヴィンの柔らかなピアノもまだ耳に残るが、上岡氏の表情豊かなイキイキとしたモーツァルトも心に残しておきたいものだ。

Wuppertal2 こんなモーツァルトのあとに、だれがあんな壮絶なブルックナーを予測できようか先月ライブ録音されスピード発売された7番の交響曲。演奏時間91分という触れ込みである。
ほんとうに、どんだけ~の思いで後半に挑んだが、それはホントウであった

1楽章だけでも30分。
確かに90分はウソそじゃなかった。
何故こんなに長いのか。
ハース版でもノヴァーク版でもない、上岡氏がシャルクやニキシュが手を加えたスコアなども含めて検討推敲した、彼独自の版なのだそうな。
パンフレットには、「ブルックナーが望んだであろう繊細なこの曲本来の響きに近づきたい」との氏の言葉が添えられている。

そして長いということは、遅いということで、1・2楽章でそれぞれ30分以上。
第1楽章、極めて繊細に、極めてゆったりとトレモロが始まり、第1主題がこれでもかというばかりに美しく始まる。それから、リズミックな第2主題までが長かったこと。
でも戸惑いはここまでで、あとは90分間にわたって上岡ブルックナーの呪縛にかかってしまったかのようだった。
第2楽章も大河のようにじっくりしたもので、第2主題がいやがうえにも美しい。
クライマックスでは、シンバルとトライアングルが鳴らされるが、それも必然と充分に納得できる頂点の築き方。そして私は、「ジークフリートの葬送行進曲」とだぶらせてしまった。
一転第3楽章は、目の醒めるようなリズミカルなスケルツォ。でも中間部のトリオはまたもや腰を据えてじっくりと歌うものだから、わかっていてもうれしくなってしまった。
そして、通常あっけないゆえに、座りの悪い終楽章が大交響曲の立派な終楽章として存在感を増している。中間部に現れる楽器の様々なやりとりも、ゆったりとしていて別な次元にいざなわれるような気分。ついに終結部はじっくりとものすごい盛上げを築きあげて壮麗なエンディングであった。上岡氏とオーケストラは微動だにしない。
ここで前夜の神奈フィルをもしのぐかのような静寂が・・・・。
会場がブラボーの嵐に包まれたことはいうまでもない。
私はもう感動して目頭が熱くなってしまった。

上岡氏の指揮ぶりは、動きが豊富で、顔の表情も豊か。ここぞという時は、ものスゴイ気合とともに指揮棒を振り下ろす。見ていて、俺はこう思うからこうしたいんだ!!という強い意志を感じる。その強靭な意志のもとに、楽員は一丸となり、聴衆も一体となってしまう。
豊かな音楽性とともに、稀有な能力をひしひしと感じた次第。

アンコールに、ワーグナーの「ローエングリン」1幕の前奏曲が演奏され、ブルックナーの思いを完結させてくれた。
071013_134802 上岡氏、楽員が去ったあとも拍手に応えて何度か登場。
最後に楽員をもう一度呼び戻し一同で拍手に応えて、長大なコンサートはお開きとなった。
充実極まりない土曜の午後、今日は明日にそなえて横浜を早々にあとにした。

ドイツ国旗に、横浜市章。
連日の横浜ドイツ祭り、明日からは東京に戻り、ワーグナーとシェーンベルクだ。

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2007年10月12日 (金)

シュナイト指揮 神奈川フィル演奏会

20071012_1 神奈川フィルの定期演奏会
10月は音楽監督のハンス・マルティン=シュナイト師。
プログラムは、右のとおり、私の好きな作品ばかりの純ドイツもの。
これを聴かずにいられようか!

実によく考えられたプログラム。この演目の3曲はいずれも静かなエンディングを迎える。そして秋のムードにぴったりで、寂寥感とともに死を予感させる渋い3曲。
こんな見事なプログラミングに聴いくまえから感動の先触れが。

「未完成」は、私の交響曲フェイリバリットにも選出された(偉そうですが?)お気に入りだけれども、本日のシュナイト師と神奈フィルの演奏はほかの誰ともことなるユニークなもので、まずはそのテンポ。
だれよりもゆったりで、隅々まで丁寧。ゆっくりとは言っても、鈍長だとか重厚だとかは無縁。音はむしろ明るく柔らかい。神奈フィルの音色に毎度言えることだが、これはこのオケの個性でもある。
 がしかし、アフターコンサートでご一緒いただいた神奈フィル団員の方のお話では、なんでも合わせられるフレキシビリティが神奈フィルの得意とするところ、とのことで、これには驚き! ってことは、オケの個性でもある以上にシュナイト師の音楽性でもあるのだろうか。ミュンヘンに代表される南ドイツは、そこのオケも暖かくまろやかな優しさと明るさが

ある。この名指揮者のもとで、本場南ドイツにも劣らない音色を奏でているのが、われらが神奈川フィルハーモニーということになる!!

E_pict_hanns_martin3 35分くらいかけた「未完成」、このテンポにオーケストラもしっかりと付いていった。われわれ聴き手も一生懸命にならざるを得ない。1楽章が終わったときに、思わず大きなため息が出てしまった。いやため息というか、息継ぎのような気分。でも重々しくないから、気持ちは安らか。
2楽章ではもう天国的な気分に満ちてしまった。
弦のやさしい刻みの上に、管がたうたうように流れ、歌う。
全曲が終わり、マーラーを聴いたかのような満足感に満たされたものだ。

休憩後のR・シュトラウスのソリストは、松田奈緒美さん。沖縄出身の新鋭であるが、すでにドイツや国内でオペラとリートに実績を積んでいるらしい。
彼女の繊細にして強い発声は、まるでバーバラ・ヘンドリックスを思い起こすかのようなもので、第1声から聴衆を虜にしてしまったかのようだ。
そして彼女をやさしく包み込むかのような声楽の神様の指揮するオーケストラ。
歌が入ると音を巧みに押さえ込み、オケの間奏では心の底から歌わせる。
石田氏のヴァイオリンソロを始め、ホルンも木管も絶美の世界。
「夕映えのなかで」での日の沈みゆく空に飛ぶ鳥の鳴き声のような美しいエンディングに、松田さんも感極まって涙を浮かべる姿もあった。
 実演ではかつて一度だけ、J・ノーマンと小沢征爾を聴いたことがあるが、その圧倒感とはまた全然次元の異なる、まるで水彩画のような美しい名演であった思う。

若書きの「死と変容」は、これまたゆったりとしたテンポによる堂々たる演奏。
こんなにじっくり延ばしに延ばして、聴きなれないフレーズまでよく聴こえてしまう。
細部にこだわらず見通しが良いからもたれない。むしろここでも音色は明るく、きらめいて感じたくらい。本日の演目のなかで唯一最強のフォルテが数回ある曲に、終始腰をかけて指揮をするシュナイト師も3回立ちあがった。
死と戦う苦闘の結末というよりは、明るく澄み切った境地の死を感じさせるエンディングに、音が鳴り終ってからマーラーの第九のあとのような静寂がしばらく続いた。

071012_173812 毎度深い名演をしてのけるシュナイト/神奈フィル、いつもながらドイツを聴くなら横浜へ、「イキマショー」。
アフターコンサートも楽しいひと時でした。皆さんありがとうございました。

そして私もドイツもので固められた生涯初の、怒涛の4連荘。気が付くと手帳が連日埋まってしまった。えらいこっちゃ。

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2007年10月10日 (水)

ホルスト 「雲の使者」(The Cloud Messenger) ヒコックス指揮

Darubaert

先だって休日出勤して、三田のあたりをさまよっていたら、インド・ネパール料理の店があまりにマニアックな立地にあったので、ランチに一人潜入してみた。休日だけあって、がらがらで大いに観察し、ネパール人のニイサンにも話しかけたりして楽しんだ。
これは、ネパールでは毎日食べるお袋の味なんだそうだ。その名は「ダルバート」。
カレーやスパイスを利かせた野菜の具をご飯に混ぜながら、一見味噌汁のような豆のスパイシーなスープをかけて食べる。
これが実にうまい。ほんとにうまいよ。ネパールの定食屋には必ずあるらしくて、少なくなってくると、すぐに足されてしまう食べ放題メニューだそうな。
私は、ネパールのエベレスト・ビールを飲みながらの食事だったから、断ったけど、どーですか、どーですか?ってお代わりを聞いてくる。でもそれほどにうまい。いいよ、ネパール。

Holst_cloud

ギュスターフ・ホルスト(1874~1934)は、「惑星」ばかりが有名な作曲家であるけれど、声楽部門にも大作がいろいろある。
ホルストは英国で活躍したから同国の人と思われがちだが、父親がスウェーデン人だった。
だからグスタフなのだ。
王立音楽大学在籍中に、V=ウィリアムズと親友になり、各地の民謡を採取してまわったりして、終生仲良く付き合ったという。
いい話だねぇ。
一方で、ホルストはインド・サンスクリットの東洋思想に感化され、一時その翻訳文などを読みあさった。その時期に書かれた作品が、この「雲の使者(メッセンジャー)」らしい。1910~12年の作曲で、「惑星」は1914~15年。
神秘的な雰囲気は共通するが、ハデハデしい惑星との違いと強烈なエキゾシズムに驚く。

4世紀インドの偉大な詩人「カリダサ」の同名のサンスクリット語による詩、実際はフレイザーの英語訳(Silent Gods and Sun-steeped Lands)を原作とした5部からなるカンタータのような作品。
私の英語力では、さっぱりわからない。

03

  聖なる河ガンジスを越え、仏教・ヒンドゥー教の聖なる山カイラスにかかる「雲」を賛美する詩のようだ。
シヴァ神のこと、大いなる神のこと、狂乱の踊りのことなどが歌われている模様。
ネットで、「雲のメッセンジャー」の原作を発見し、邦訳したが、これがまたさっぱりわからん。しょうがないから、ホルストの書いた豪快かつ繊細な音楽に浸るだけにした。

この音楽は正直おもしろい。
神妙にに始まり、徐々にもりあがって合唱が入ってくるところは実にいい。感動する。
そして第2部中間部の抒情は、惑星の金星のようだし、一転、踊りの部分は、ペタントニックな要素が全開で、欧州人が感じたまんまのオリエンタルな雰囲気満載。
東洋を舞台にしたB級映画の音楽のようで、ちょいと笑えるわ。
ダンスが終わり、最後は、思いに深く沈んでいくかのような音楽になっていき、静かな瞑想のうちに曲を閉じる。

ホルストが東洋かぶれになったのは、一時のことだったらしいが、おかげで面白い曲を残してくれたもんだ。出来れば、ちゃんとした翻訳のもとに聴いてみたいぞ。
ヒコックスとロンドン響(抜群に巧い)、メゾにデッラ・ジョーンズをむかえたこのCDは、この曲唯一のもので、今後も録音される恐れはない。
こうした曲を明快にわかりやすく聞かせてくれるヒコックス。
彼とシャンドスレーベルがなかったら、英国音楽はどうなっていたろう・・・・。

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2007年10月 9日 (火)

シーズン終了

Hossy シーズンが終了した。
音楽は、ますます本格シーズンだけど、私の野球シーズンのこと。
チクショー、今日勝てば5割を越えたのに、3対4、9回裏2アウト2塁3塁。一打サヨナラが、凡打万事休す!
このチームの不甲斐なさを示す最終日ともいえよう。
もともと、この戦力でよく戦ったもんだ。
最下位ぶっちぎりかと思っていたら、夢のAクラスも現実味を帯びていたから・・・・・。

Bay そういう意味では、大矢監督の力はたいしたもんだ。1998Vの立役者は、実は前任大矢監督だったのは周知のこと。
貧乏球団で、毎度身売りや、マスメディアの出資合戦に翻弄されてきた。
某金満球団のように、有力選手を獲得(強奪)できないし、外人(害人)も獲得できないから、小粒な和製オーダーを組まざるをえない。
こんな軍団が、これだけの活躍をするというのは、実は画期的なことだと思う。
強奪4番バッターばかりで、チームを構成する球団がぶっちぎりに優勝できないには理由がある。
あたりまえのことながら、野球はチームでやるものだから。
そんな基本的なことを、今年の「横浜大洋ベイホエールズ」は示してくれたように思う。

Baybay でも、今年ソフトバンクからの寺原、虚人からの仁志、工藤がいなかったらどうなったことだろう。
いずれも再生以上にチームに活力を与えてくれた連中だ。彼らもプロとして、そして意気に感じて活躍してくれた。

よくやってくれたよ!ベイ。

とりあえず、CSとか日本シリーズとかがあるみたいだから、ベイの代替品としてロッテと日ハムでも応援しようかなっと。

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2007年10月 8日 (月)

ベートーヴェン 交響曲第9番 シノーポリ指揮

Imo  秋は芋。それも「焼きいも」だねぇ。
イオンで見つけた「安納芋」、太ったのが2~3個で、298円は安い。即購入して、本日焼いてみた。
うほほっ~っ♪
この色、そして濃厚でネットリした食感と甘味。
まるで、スイートポテトやん♪
正直ウマイ、うますぎ。
芋焼酎にもあう。
種子島原産の安納芋は、このところ大注目で、馴染みの薩摩料理の店で、天ぷらにしてもらったら、異常においしくて忘れられなかった。
それを、スーパーで売ってしまうなんて、イオンの仕入れ力、恐るべし。

Sinopoli_beethoven_2 芋とは関係なく、今日は第9でござる。
それも、亡きドクター・シノーポリの指揮で。
第9も、ルーティン化してしまい合唱が入ってくるとかえってシラケてしまう。
あんまり大衆化しても、いざ聴くと拍子抜けしてしまうもの。天下の名曲もそうした試練があるから大変なのだ。
でも何だかんだで、聞き出せば、さすがにベートーヴェン。実にいい音楽なんだ。
第1楽章など、ワーグナーの先触れのように感じるし、第3楽章などはマーラーの緩徐楽章のように聴くこともできるんだ。
そして問題の第4楽章は、オペラとして聞けば何のことはない。
そんな風に思いながら聴けるのが、シノーポリとドレスデンのライブ録音である。
これがユニークな第9なんだ。
69分ながら、ゆったりとした部分が多く感じる。そうかなり克明に楽器を鳴らしているんだ。1楽章から、暗雲が立ち込め、弦の刻みも克明を極め深刻である。ドレスデンの縦にピシっと決まった明確なアンサンブルもシノーポリ路線をしつかりと受け止めている。
2楽章のイキイキとしたリズムは独特だが、圧巻は3楽章の横に横に広がる抒情の波。
こんなに伸びやかな3楽章は聴いていて快感を呼ぶ。どこまでも透明で美しく、オペラアリアでも聴くかのようだった。
そして、オペラティックな終楽章は、独唱も合唱もシノーポリのもとに一語一語極めて明確な発声で、押し出しが強く感じる。リアルな録音のせいもあるかもしれないが、歌の苦手な聴き手にはちょっとつらいかもしれない。
唯一残したシノーポリのベートーヴェンの交響曲。何故第9だったのか、聴いてよくわかった。ワーグナーとマーラーの原点を見てとったのではないか、というのが稚拙ながらの思いである。

     S:ソルヴェーグ・クリンゲルボーン  Ms:フェリシティ・パーマー
     T:トマス・モーザー            Bs:アラン・タイトス
   ジョゼッペ・シノーポリ指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団/合唱団
                            (1996.3ライブ録音)

11月に来日する、ドレスデンがハイティンクをつなぎとして、イタリアのF・ルイージを音楽監督に迎えたことが興味深い。
このオケはまだ1度しか、生で聴いてないが、音がデカイ。
それでいて深くて、コクのある音色がする。
明晰な音楽造りをするイタリア系指揮者が好まれるのは、どういう具合なのだろう。
シノーポリの残されたCDと、来月の実演で確かめてみたい。

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2007年10月 7日 (日)

R・シュトラウス 「平和の日」 シノーポリ指揮

Friedenstag














R・シュトラウスのオペラシリーズ

全15作の第12作は、「平和の日」。

この訳語は、ちょっとおかしくて、「講和記念日」とも訳されるが、「平和記念日」でも変だし、なんともいい邦訳がないもんだ。
とりあえず私的には、シュトラウスのオペラっぽい響きがすることから、「平和の日」にしておく。
1936年から40年にかけて、まさにナチス政権下において作曲された。
ホフマンスタールの死を受け、前作「無口な女」では、作家シュテファン・ツヴァイクとの良好な関係を築き、その次の作品として、この「平和の日」の構想をツヴァイクは、シュトラウスに示していた。
シュトラウスもその気で、二人の間でドラマの詳細のやり取りが始まったが、なかなか意見が合わず、遂にはツヴァイクとの共作を断念せざるを得ず、そのアイデアは、ヨーゼフ・グレゴールに引継がれ完成された。
 作曲の前後に、シュトラウスは当局を揶揄したツヴァイクとの書簡が発覚し、帝国の要職を解かれてしまう。
ツヴァイクはユダヤ系ゆえ、国外に逃れ自決することになる。

Strauss_dg










平和をモティーフにしたオペラが、引き起こす悲劇は皮相である。
ナチスの元で、このような反戦平和希求ドラマが書かれ上演されたのが不思議ともいえるが、逆にナチスにシュトラウスはプロパガンダとして利用されたことにもなる。
でもこの劇の本質は、やはり真の平和希求であり、ユダヤ人ツヴァイクの求めたところに他ならず、シュトラウスは心から純粋な思いで作曲したに違いない。

 <時は1948年10月24日の夜明けまじか。
ドイツのカトリック信仰のとある町。
周囲は北からのプロテスタント軍が包囲し迫り、それを守る城郭の広間が舞台。

守備隊が街の荒廃や燃える農家を見て絶望に嘆いている。
一方、司令官は日夜毅然として地図を睨んで検討している、それを見習えとも言っている。
皇帝からの手紙を持って包囲をくぐり抜けてピエモンテ人(イタリア)がやって来て、イタリア語の美しいアリアを歌う。
これを嘲笑する軍人たち。
 やがて、町から市長や老司教たちに率いられて市民たちが、要塞になだれこんできて、司令官に降伏して開城するように懇願するが、司令官は勝利のみを求め、これに耳を貸さない。
さらに、前線の兵士がやってきて、火薬も濡れ、武器も錆び戦えない、城の武器庫の最後の弾薬を使わせてくれと告げるが、ここでも司令官は、その弾薬は最後まで残しておけと厳しい。
ここで、皇帝からの手紙が読まれるが、内容は町を死守し確保せよ、というものだった。
これに絶望した市民たちは罵声をあびせ、司令官も混乱するが、正午に決定を下すから戻って待つようにと収める。
そして、市民がいなくなると、兵士たちに、よく戦ってくれた、弾薬を積上げて導火線を付けるように命じ、曹長には、かつて自分を助けてくれた礼を述べ、皆で城を出て生き長らえてかまわない、と演説する。
しかし、すべての兵士たちは、それを拒絶し、それぞれの持場へ去る。

一人、司令官夫人マリアがやってきて、雰囲気から状況を察知し、私は夫とではなく、戦争と結婚したのだ。
夫への愛を歌うが、彼が微笑を忘れて久しいことを嘆く。(ここは長大なアリアである)
そこへ、司令官がやってきて情熱的な二重唱となり、マリアは運命をともにする決意をする。

砲声が響き、いよいよ玉砕となった時、遠くから鐘が響く。
その鐘がいたるところで鳴り始める。
敵兵たちが、銃に花冠をつけ、白旗をあげて近づいてくる。市民達も城に近づいてくる。
これを罠だと、信用しない司令官。
ついに敵ホルシュタイン人の司令官がやってきて、これまで勇敢に戦った司令官に敬意を評し会いたいと進み出る。
講和条約が結ばれ、30年戦争は終わったのだ。
しかし、頑なな司令官は、敵の宗教を侮蔑しこれまでの憎しみを述べ、剣を抜く。
ホルシュタイン司令官も応酬し、剣に手をかけるが抜かない。
ここに割って入るのが妻マリア。
今までのことが何だという、この人を送り出した道を見よ、そこにある主の姿を見よ、と平和を説く。
これに感じ入った二人の司令官は、抱擁をかわす。
最後に二人の司令官、マリア、すべての市民、兵士たちが平和と和解の喜びを歌い、眩いばかりの大きなクライマックスを築いて曲は終わる>

全曲が77分あまりで、CD1枚にピタリとおさまるコンパクトオペラ。
でも合唱は入るし、登場人物もたくさんいる。オーケストラも久々のフル編成で、賑々しい。
まるで、オラトリオのようなオペラで、これがなかなか上演されないのもわかる。
でも、妻マリアのアリアとニ重唱はシュトラウスらしい情熱と甘味さの交じり合った私好みの場面だし、最後の邂逅の場面の高揚感とエンディングも素晴らしい。
イタリア人のアリアはまるで、「ばらの騎士」を思い起こす。

シュトラウスは、次作の「ダフネ」とのセット上演を考えていたが、1938年のK・クラウスによるミュンヘン初演では、ベートーヴェンの「プロメテウス」と合わせて上演されたらしい。
この時の司令官役は、H・ホッターだから驚きだ。
ちなみに、ベームが「ダフネ」を初演した時には、この作品が一緒に舞台にのったという。

  R・シュトラウス 「平和の日」

     司令官:アリベルト・ドーメン  
     マリア :デボラ・ヴォイト
     曹長  :アルフレート・ライター  
       ピエモンテ人:ヨハン・ボータ
     敵司令官:アッティラ・ユン    
     市長  :ジョン・ウィラース

 ジョゼッペ・シノーポリ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
               ドレスデン国立歌劇場合唱団
                    (1999年録音)

短いが、この一見まとまりにかけるオペラに、シノーポリサヴァリッシュの名盤が残されていることは幸いである。
どちらも献身的で素晴らしい名演なのだ。
サヴァリッシュ盤のほうが配役が豪華(ヴァイクル、ハス、ローテリング、モル、シュンク)で、88年のミュンヘン・シュトラウス全作品上演時の記念碑的なライブで熱気に満ちている。
しかも、東西融合直前ということも意味ある1枚。
でも、今日は入手難のシノーポリ盤を取り上げた。
スタイリッシュな中に透明感あふれるシュトラウスを聞かせるサヴァリッシュに対し、シノーポリは、音符のひとつひとつが肉厚でありながら、すべてが見通しよく明晰なシュトラウス・サウンドを聞かせてくれる。
それにしても、シノーポリの死は痛い。
ワーグナーとシュトラウスに独自の演奏を築きつつあった途上だった。
現在は同じイタリアンで、ルイージとガッティが頼りだ。
ドレスデンの音はいつになく豪快だが、弦管金の融合が美しい。
そして歌手陣は、渋い実力派だが、ヴォイトがいい。
シュトラウス好みの役柄を女性的な面から芯のある女性への変貌をよく歌いだしている。
ドーメンのいくぶん陰りのある声は、かたくなな司令官に妙にピタリとくる。
流麗なヴァイクルより、適役。

今回の12作目は、短編ながら、長文になってしまった。
日本ではまだ未演かもしれない。若杉さんあたりで、演奏会形式でもいいからやって欲しいものだ。盛り上がること、うけ合いだから!

※これで、全15作を取り上げたけれど、作品順にあと3作行きます。(目標年内完結)

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2007年10月 6日 (土)

ワーグナー オペラ管弦楽曲 バレンボイム指揮

Nimonji_1 またまた「うなぎ」
名古屋で「一人ひつまぶし一人ひまつぶし」(じゃなくて)をした翌日は、岐阜へ赴き、商談を済ませると、先方さんが「お昼行こうか、なにがいい?(岐阜風に)」とおっしゃるので、何でも結構です、と答えたら、うなぎ屋さんに連れていかれてしまった。

う~む。晩にうなぎ、翌昼にうなぎ、というのは生涯初の試みだけあって、鼻血ブゥ~にならないか、とても心配だった。

がしかし、そんな思いとは裏腹に、その絶品具合に降参。
いやはやウマイのなんの。浜松あたりの混在を境に、うなぎはよく言われるように、東は背開きで蒸しを入れる。西は腹開きで有頭でそのまま焼く。
ほろほろで柔らかく濃厚な東に比べ、西は少し固めだけど、香ばしくもさっぱりとしている。
岐阜で江戸時代から続く「ニ文字屋」にて。
おかげで、スタミナ満載、元気に夜は松阪で3軒呑みまくり、そして翌日死んだようになった。

Barenboim_wagner 今日も、若きバレンボイム君を。
しかもお得意のワーグナーの出発点となった1枚。
フルトヴェングラーを私淑するバレンボイムだけに、ワーグナー、それも「トリスタン」を指揮することは大きな願望であったろう。
1981年、39歳の若さで、バイロイトで「トリスタン」を指揮したのがその始まり。
以来、「パルシファル」「リング」「マイスタージンガー」を指揮し、バイロイトの重鎮となった。
ピアニストのバレンボイムが、モーツァルトの弾き語りをしていた頃、誰がそんなことを予測できたろうか?
今では、ワーグナーの主要作品を録音してしまい、伝統あるベルリンで、繰返し指揮し続けている。
なかでも、「トリスタン」は最も得意とするところで、ポネルの美しい演出のDVD版、ミューラーの閉所的な演出のNHK放送版に続き、クプッハー演出の最も新しい「バレンボイムのトリスタン」がもうじき体験できる。

 「トリスタンとイゾルデ」 前奏曲と愛の死、第3幕前奏曲
 「さまよえるオランダ人」 序曲
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 前奏曲
 「ラ・クルティユからの帰り道」 
    ※レコードには入っていたが、CDではカットされ、ワルキューレの騎行が!
   ダニエル・バレンボイム指揮  パリ管弦楽団

82年、バイロイトデビュー後の録音。当時の手兵「パリ管」がここでは決め手!
でも、パリ管でありながら、華やかな要素はまったくなく、堂々とした落ち着きが憎らしいくらいだ。テンポもゆったりとしていて、マイスタージンガーなど最長のブーレーズにも匹敵するくらい。トリスタンでは、弦もたっぷり弾かせていて、なかなか濃厚な響きが聴かれる。
劇場経験を積んで、後年はもっと密度が濃くなり、テンポも上がっていくが、多分に大先達を意識した演奏は、なかなかに面白い。
そして、パリ管が自分達の音色を時おりチラチラと響かせているのも楽しい。
特に木管やホルンは、フランスのそれを意識させる。

この頃のバレンボイムは、いいんだか、悪いんだかわからず掴み所がなくて、かえって面白い。ことにオケがシカゴやパリや、ロンドンだったりするので、オケ好きには違った興味もわいて楽しい。

「モーゼ」と「トリスタン」は再来週。楽しみでならない。

ワーグナーの話題ふたつ。
11月のドレスデンの来日公演、ファビオ・ルイージが「タンホイザー」を降り、「ばらの騎士」にまわり、準・メルクルとエトヴェシュが「タンホイザー」を。
あらら、がっくり・・・。私のタンホイザーは、エトヴェシュ。あちらでは大活躍のオペラ指揮者で、いい機会かも。でも、速攻で、「ばらの騎士」を買い求めた。また散財、トホホ・・・。

来年のバイロイトの新演出は、「パルシファル」で、ヘールハイムの演出、ダニエル・ガッティの指揮。これで、くそシュルゲンジーフは葬り去られることに。
ガッティの活躍も目を見張る。
  

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2007年10月 5日 (金)

ブルックナー 交響曲第4番「ロマンテック」 バレンボイム指揮

Mabushi 名古屋の「ひつまぶし
美味そうやろ!
その後の展開は、別館にてご覧下され。
私は、名古屋弁が好きで、名古屋圏に行くと言葉も変わってしまう(?)
名古屋圏といっても、三河や尾張、岐阜、東濃とかなり言葉の様子が違う。
そして西に走り、川を渡ると桑名インターの料金所のオジサンは、「まいどおおきに・・」と関西に近い三重弁となる。ほんの数分なのに。

私は名古屋とは非常に縁が多い。
単身赴任で数年住んだ都市だし、その前後も今も出張で始終訪問している。
亡父も、名古屋に10年は赴任していたし、義弟も赴任中で、当地で結婚までしてしまった。だから、家族で名古屋弁をものにしてしまった。
名古屋にお住まいの方がたからはお叱りを受けるかもしれんが、名古屋弁は何故か、楽しくていかんわ。東海ラジオの昼の番組「聞いてみや~ち」をレンタカーで聞いて、笑っとるのは、ワシだがね。コマーシャルも楽しいわ
そして、忘れられん思い出は他でもないわ、数年まえ、新幹線ホームでのことだがね。
電車の入線を知らせるベルとともに、駅員さんの放送「ホームのはじを歩いてみえるお客さん、あぶないですから・・・・・」これには、正直笑えた。
最初の頃、名古屋に行ったら、「今度いつ名古屋にみえる?」と言われ??となったもんだ。

Barenboim_bru4a
名古屋とは関係ない、今来日中のバレンボイムブルックナーを聴きましょう。
最初の全集はシカゴ交響楽団と70年代におこなっていて、その最初の録音がこの4番。
1973年、まだ大オーケストラを指揮しはじめた頃の31歳。ジャケットの通り、もじゃもじゃ頭でやたら若い。そしてシカゴ響のDGデビュー盤でもあった。

もぎたてのリンゴのよう・・・」とかいう歌い文句で宣伝され、当時、すぐに買ったレコード。
録音がめちゃくちゃ良かった。
安物の私のシステムが、実によく鳴った。
そしてシカゴ響の金管の威力が恐ろしいまでに味わえた。

Barenboim_bru4b ジャケットの裏面の録音風景のぎっしり並んだオケを見ながらアメリカの物量と豊穣さに圧倒される思いだった。

そんな強力な武器を使いながら、バレンボイムは物怖じせず、堂々たるテンポで大人びた指揮ぶりである。柄は大きいが、音のひとつひとつの響かせ方が豊かで、美しいものだから、決して威圧的なムードにならず、フレッシュで眩いくらいに明晰さを感じる。
だから2楽章のアンダンテが誠に美しい。
ヴァイオリンのピチカートに乗って歌うヴィオラの旋律がこんなに屈託なく歌われながらも瑞々しいのが素晴らしい。

大家となってしまったバレンボイム。

「そんな時代もあったわね♪・・・」誰にもあった若き日々をバレンボイムも思うのだろうか。

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2007年10月 1日 (月)

大友直人 京都市交響楽団 エルガー

Img_2  京都でエルガー! 
なんと心地よい雰囲気なのであろうか!

チェロ協奏曲と交響曲第1番、この素晴らしいエルガー・プロを見過ごす手はなかった。
エルガーをはじめとする英国音楽を得意とする大友さんは今期限りで京都市交響楽団を勇退することになっているため、京のエルガーもあまり聴けなくなるとの思いもあった。

まずは、初めて訪れた京都コンサートホールの立地環境とそのレスポンスのよさに感心。
雰囲気ゆたかで、エントランスからロビーまでのアプローチがスロープの回廊となっていて実によろしい。

協奏曲のソリストは、若い横坂君。
まだ紅顔の21歳は、しっかり曲に没頭しながらも、フレッシュで感性豊かなチェロを聴かせてくれた。
早いパッセージの連続する2楽章では、技巧の冴えが素晴らしかった。
これから才能をさらに開花させることであろう。
大友氏は、息子をいたわるようなバックを優しくつとめていた。

休憩後の交響曲第1番は以前披露した、私のベスト音楽の交響曲部門のトップを飾った曲だけに思い入れは深い。
ティンパニに導かれて始まる循環主題が序々に盛り上がって全奏に至るとき、私はいつも感動でわなわなとなってしまう。そして曲の最後に情熱を込めて、この主題が現れると涙がちょちょ切れてしまう。
 大友/京響は、こうした名場面でも、それは見事なもので、前列で鑑賞しただけに、指揮者もオケも渾身の力演が実感できた。
大友氏はいつもジェントルな印象が優先するが、この日は作品への思いが爆発したかのような熱さで、2楽章のリズム刻みの確かさ・力強さ、3楽章のノスタルジーに浸るかのような美しさも見事。3楽章の最後で、ホルンが2度、こだまのように合いの手を入れるが、この場面はこれまで聴いた中で一番素敵な演奏に思った。
 最終場面で涙したのはいうまでもない。

Kyoto 京のエルガーを堪能した稀有の昼下がり。
晩には、先斗町でまったりと一杯。

カフェでおいしい食事と、初京響・初ホールをエスコートしていただいた関西ブログ仲間に感謝。
ちなみに、この記事Cafe ELGARさんで仕上げてます。
おいしい紅茶とご主人の楽しいお話とともに。

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