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2007年11月

2007年11月30日 (金)

シベリウス 交響曲第5番 セーゲルスタム指揮

1 琵琶湖の美しい光景。
もうすぐ日が沈む。
湖岸道路を走りながら、寄り道。
草津のあたりだから、巨大な琵琶湖のなかでは、一番南の方で対岸まで近いところ。

そして向いの山は、比叡山。
山の向こうは京都。

5segerstam シベリウス交響曲第5番は、全7曲のうちで一番好きな作品。長すぎず、短すぎず、盛上りにも欠けていない。北欧要素満載だし、長調の明るい牧歌的ムードは魅力的。
1915年、シベリウス生誕50周年の祝賀演奏会に向けて作曲された。

この曲を真剣に聴いて好きになったのは、以前にも紹介した1975年のバーンスタインとロンドン響のFMザルツブルクライブ。
その時のプログラムが、自作の「チチェスター詩篇」弾き語り「モーツァルト17番」、ショスタコ追悼「5番3楽章」、「シベ5」といったもので、前半が山盛り、後半は30分という結果的にアンバランスになってしまった演奏会だった。
これ全部録音して、今も宝物状態だけど、このシベリウスの5番をコンサートの最後に持ってくると、どうも座りが悪いような気がしてしまう。
盛り上がることは、盛り上がるが、休止符を伴なった6つの和音で終わるこの曲のエンディングは、華々しいところがひとつもなく、これを大上段に構えてジャンジャンとやってしまうと、シラけてしまうし、無作為に鳴らしても、これまた面白くない。
バーンスタインのライブや、ウィーン盤は、そのあたりが実に巧い。

セーゲルスタムは、ヘルシンキ・フィルを指揮して、そのあたりの難しさを、ばりっとした爽快感でもってきり抜けている。フィンランドの地元オケは、以前は鄙びた音色をどこも鳴らしていたが、このところ、フィルハーモニーも放送響もラハティも国際化しつつあるように感じる。セーゲルスタムは、サンタのような風貌とは裏腹に、かなりスタイリッシュな音楽を作る人に思う。だから、このコンビも、すっきりスマートなシベリウスを聴かせる。
問題のエンディングの場面も、直前まで朗々と金管を鳴らしていたと思ったら、いきなりインテンポとなり、6つの和音をあっという間に鳴らして曲を閉じてしまう。
大仰に振舞わず、全体のバランスの必然から生まれた鳴らし方ではないかと。
もちろん、北欧のオケならではの弦や管の澄んだ響きと朗々とした金管は、すごく魅力的。
1楽章で、とりとめない雰囲気がだんだんと形をなしていくさまは、実に巧いし、3拍子に入ってリズミカルに進められる場面ではもうワクワクしてしまう。
2楽章のドイツ音楽の緩徐楽章のような雰囲気でのピチカートの刻みの美しさと、木管のバランスがとてもいい。
急がずあわてずの3楽章は、先に記したように、ホルンの賛歌風のモティーフが大仰にならないのがいい。

本場のシベリウスでありながら、決してそうではないところが面白い演奏だった。
2003年6月の録音は憂愁で、雰囲気がとてもいい。
あくまで自然対のシベリウスに好感。

2 こちらは、守山あたりから見た琵琶湖。
琵琶湖大橋が見える。
対岸は大津・堅田あたり。
琵琶湖はでかくて、美しい。

3~5番までの3日間は、予約公開であります。
29日に、北の大地でチェコ・フィル!を聴きましたので、帰還次第ご報告。
素晴らしすぎ。

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2007年11月29日 (木)

シベリウス 交響曲第4番 バルビローリ指揮

Oga_night以前も貼った、秋田県男鹿半島の夕景。
11月初旬で、4時過ぎにはもうこんな光景に。

日が海に沈み、壮大な景色になるはずだが、ちょっと薄雲が出ていて残念。翌日は冷たい雨となってしまった。

4barbirolli シベリウスの交響曲を全曲聴くシリーズ。
第4番は、バルビローリハルレ管弦楽団の全集からチョイスしよう。

1911年初演の4番は、作曲者の病気などを経て、内省的で、晦渋。とっつきの悪い大渋の交響曲だ。
ロマン派的な世界からは完全に離脱していて、さらに民族的な世界への接近も、ここでは感じられず、シベリウスの感じたままの内面的・幻想的な音楽になっている。
この曲に関しては以前の記事が我ながらよく書けているのでご参照のほど。

この4番が、シベリウスの交響曲の中で一番好き、と言えれば通ぽくてカッコいいけれど、
そうはいかない。なかなかに手ごわく掴みどころがない。わかりかけると、すぅっと終わってしまうし、妙にそっけなく、あっけない。
でも聴けばきくほど、汲めどもつきない味わいがある。
何度振られても、一夜明けると会いたくなる。そんな憎らしい北欧の恋人なんだ。
特に3楽章の憧れに満ちた旋律が徐々に盛り上がっていき、ついに全奏で奏されるとき、心の底から熱い思いに浸される。
北国の我慢強い気質がついに情熱を吐露する瞬間、と思いきや、でもあっさりと終わってしまったり・・・。

何度聴いても満たされない音楽である。

サー・ジョン・バルビローリの指揮は、唸り声を伴ないながら、シベリウスに特化してしまったかのような没頭ぶり。
オケの精度は、さらに上を求めたいが、サー・ジョンとともに熱いうねりを伴なったシベリウスサウンドを聴かせる。
バルビローリのシベリウスは、全霊を傾けた情熱と、歌いどころをはずさないオケの人心を掴んでしまう統率力に満ちている。
そんなサー・ジョンのシベリウスでは、1・4・5・7番が好きだ。

Oga_sky 秋田の海の空。
本当にきれいで、刻々と姿と色を変えてゆき、時間があれば何時間でもながめていたかった。

でも、冬の空は突然に終わりがやってきた。一気に夕闇が迫ってくるんだ。

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2007年11月28日 (水)

シベリウス 交響曲第3番 ザンデルリンク指揮

Apple_2  11月初めの頃の青森津軽平野のりんご畑。
今はもう雪に覆われてしまったのだろうか?
弘前の周辺の街を車で走っていると、これでもかというばかりにりんご畑が続きに続く。

スーパーに入ったりすると、箱ごと売っていて、かなり安いけれど、「りんご」はあんまりたくさん食べれるものじゃないねぇ。
こう思っているだけで、口の中が甘酸っぱくなってきてしまった。

3sanderling 今日のシベリウス第3交響曲
1907年、2番から5年が経過し、1・2番のロマン派系統から、民族的かつ新古典的な簡潔な音楽の特徴が滲み出てくるようになった。
3楽章形式の30分の曲だが、これが演奏会にかかることはあまりない。
ハ長の調性の通り、明るくシンメトリーのバランスがよい。牧歌的な5番とともに、田園情緒あふれた音楽。
第1楽章の弾むように低弦で現れる旋律、次いでチェロで歌われる哀愁の主題、時おり現れる荒涼とした雰囲気、第2楽章の繰返し何度も歌われる北欧を思わせる旋律、第3楽章の単純な旋律が徐々に盛り上がって、ついにクライマックスを築いていくさま・・・・。
これらは、一度聴いたら忘れられない親しみやすいものだと思う。

ザンデルリンクは、東独時代の手兵ベルリン交響楽団を指揮して、シベリウスを全曲録音している。70~77年にかけてのもので、この3番は70年の録音。
ザンデルリンクは1912年生まれだから94歳になる。
指揮活動からは引退してしまったが、現存する長老では随一の存在。
生粋のドイツ人ながら、旧ソ連で学びかの地で指揮デビューしているから、ロシア・スラヴ系音楽を得意としていたから、このシベリウスの名盤も生まれたわけだ。

まず驚くのは、シベリウスにしては、音がすべて克明ではっきりしていること。
オケのせいか、重心もズシリと低い。北欧の曇り空を思わせる。
こればかりでは、やるせなくなってしまうが、ザンデルリンクという指揮者は以外と器用なもので、歌い回しが洒落ていたり、巨大なクライマックスを労せずに築きあげてしまうところもあって、重苦しさばかりでないのでかなり楽しめる。
ほかの作品も同じようにいいが、3・5・6あたりがいい。

Iwakisan 津軽平野に鎮座する、岩木山。
美しい山である。
この日の朝(11月7日)、初雪を観測していて、その頂きが、少し白くなっていた。

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2007年11月25日 (日)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ドレスデン国立歌劇場公演

Dresden_3 ドレスデン国立歌劇場来日公演の「ばらの騎士」を観劇。
最愛のオペラのひとつ、この「ばら騎士」は今年3度目。
この来日公演、指揮者の交代や歌手降板などが相次いだが、さすがはドレスデン。その伝統に培われた底力の前には脱帽せざるをえない。

そんな伝統ある名門も、ドイツの風潮として、演出優位の饒舌な舞台を仕掛けざるをえないのが、今のオペラ界のトレンドなのか。
そういう意味では、自前のハウスが出来てまだ10年の日本では、オペラ受容歴は長いものの、まだまだ保守的だ。かくいう私もその一人で、先日のコンヴィチュニーのタンホイザーは楽しめたけれど、後味も悪かったのも事実。

パンフレットの写真を見る限り、普通のばらの騎士の舞台のようなので、安心しながら喧騒(いつもながら最悪の環境に辟易)の渋谷の街をぬけてホールに。

  元帥夫人 :アンネ・シュヴァンネヴィルムス オックス男爵:クルト・リドゥル
 オクタヴィアン:アンケ・ヴォンドゥング     ゾフィー :森 麻季
 ファーニナル :ハンス=ヨアヒム・ケテルセン 歌手  :ローベルト・サッカ

  ファビオ・ルイージ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団/合唱団
                 演出:ウヴェ=エリック・ラウフェンベルク
                          (11.25@NHKホール)

Rose_3   普通と思ったけど、実に細かいところまで目が行き届き、仕掛けもいろいろ施されていて、まったく飽きることなく全幕楽しむことができた。そして、帰りの電車でパンフレットの解説を読んでなるほど、と唸ってしまった。

まず、このオペラを初演した劇場ならではの仕掛けとして、第1幕は、初演時の舞台装置が模倣されている。カルロスを思わせるくらいのルイージの快活な前奏に続き、幕が上がるとズボン役二人がじゃれあいながら部屋に入ってきて、慌しく、一刻も早く事に至りたいという思いらしく、着ている服をどんどん脱いでいく。
あら、いやだなぁ~と思うまもなく、それはマルシャリンとオクタヴィアンの二人。
下着っぽい姿になって、ベットに飛び込みもそもそとじゃれあっている。
こんな出だしだから、変に意表を突かれたけれど、後はさほどのことはなく、やれやれ。
それにしても、よく脱ぐし、際どい表現も。2幕で、オックス男爵の手下たちが、ファーニナル家の女性を追いかけまわすが、女性を椅子に追い込んでズボンを下ろしてしまう。
3幕では男爵も、カツラばかりか、服もどんどん脱いで下着姿になってしまう。
ここまで、リアリティーに徹しないと気がすまないのが今の演出なのだろうか?

時代設定は、1960年代初頭のように見える。
部屋に、スタイリストや寄付強要者や、物売り、歌手、ペット売りなど、ぞろぞろ出てくるが、目を引くのが、パグ犬3匹。ブラウンとブラック2匹。テノール歌手(R・サッカが美声で素晴らしかった)が歌う間もちゃんと聞いているみたい。
しかし、途中でブラウン1匹が、逃げ出して屋敷の奥の部屋に行ってしまう。
これがまた、仕掛けであって、3幕のごたごたでの、マルシャリンのあたりを打ち払う登場時に、小姓のマホメッド君に連れられ登場するのだ!これにはうけた。
それから、部屋の中にいかにもアメリカ人風の観光客が入ってきて、カメラでパチパチ写真を撮っている。これは意味不明だったが、解説を読むと、戦後の没落貴族の設定で、観光にも頼った生活をしているという。そして、壁紙や家具は古ぼけていると。
そういえば、そうであった、と合点がいった次第だ。
 マルシャリンが、鏡を見て、時間の経過に突然怯え、皆を帰らせ、一人アンニュイに浸るとき。私のもっとも大好きな場面だ。シュヴァンネヴィルムスの立居振舞いが、まったくもって絵になっていて、彼女に魅せられる思いだった。
そして、オクタヴィアンが赤いバラの花束をもって登場。気のない様子のマルシャリンに、オクタヴィアンはバラを床にばさっと落としてしまう。
マルシャリンは、ガラスの花瓶を奥の部屋から持ってきて、そのバラを花瓶に一本づついけながら、時間の残酷さを歌う。このすてきな場面に、私はもうグッグッときてしまった。
走り去るオクタヴィアン、舞台に一人残ったマルシャリンは、陽光降り注ぐ窓辺に立ち、外をしばし眺め、カーテンを閉ざす。舞台は薄暗くなり、ソファーに腰掛けて物思いに浸り、体を横たえるマルシャリン・・・・・。
なかなかの1幕の幕切れ。

2幕のファーニナルの家は、高級マンションの高層階にあるようだ。途中、窓の外がだんだんはっきりしてきて、ネオンに輝くウィーンの街並みが見えてきた。WIEN・・・・の文字が見える。
ばらの騎士の登場に合わせて、赤い絨毯がするするとひかれ、撮影用のスポットライトが据えられたり準備万端だ。騎士が登場し、ばらの献呈も終わり、今度はカメラマンによる撮影大会が始まった。それを取り仕切る執事は、椅子の向きを変えたり、ばらを画像に入れたりと大忙しだ。
オックス男爵登場で、夢破れるゾフィーの仕草表情も、めちゃくちゃはっきりしている。
手下の傍若ぶりも先に触れたとおりで、都会のウィーンに出てきたチロル地方の田舎者といった風情がよくでている。最後の場面で、彼らは、全員ボトルを手にしていて、酔っ払っていて、瓶から酒を振りまきながら有名なワルツで踊りまくる。

3幕では薄暗いレストランが舞台で、正面に奥へ続く階段がしつらえてある。
ヴァルツァッキとアンニーナを買収し味方につけたオクタヴィアンは、それこそアルプスの少女のようないでたちで、かわいい。味方の二人や、企みに加担する人物たちに、お金を配分するところなど、かなりリアルなものだ。
以前から、イタリア二人組は、オックスの元から簡単に翻ってしまうが、そこのあたりの描写に不満があった。
これだけリアルに金を渡す場面があれば、わかりやすいというもの。
お決まりのくどきのシーンでは、マリアンデル(オクタヴィアン)は、ワインを4杯も一気のみしてしまう。こんなに飲むのは初めてみたし、歌手も水だろうけど、大変だ。
5杯目のワインは、好色オックスが隙をみて捨ててしまうところなど、実によく考えられたものだ。
スキャンダル騒ぎに登場する警部は、コロンボのようにくたびれた刑事で、サラリーマンのよう。結構取り調べのようにメモったりしている。
そこへ、現れる元帥夫人の様子は先の通り。
黒いモード風のドレスをまとい、美しいものだ。でも足元にひょうきんなパグ公がチョロチョロしているのは、何とも・・・・・。
終始マルシャリンは背筋をしっかり伸ばし、気品を保っていて、チューリヒのマルシャリンのように、取り乱したりはしない。大柄で美しいシュヴァンネヴィルムスが外見とともに、実に板についた役柄だ。
ゾフィーを認め、すべてを受け入れる覚悟をしたマルシャリンが右、事の終わりを覚悟し不安に怯えるゾフィーが左、その間で揺れ動きどうしていいかわからないオクタヴィアンが真中奥に。こうした美しいシンメトリーの描き方も見事に思った。
本日の席は、思わず奮発した2列目最右翼だったから、至近にシュヴァンネヴィルムスが歌っている。その分、森麻季ちゃんは遠かった訳だけれど、シュヴァンネヴィルムスの演技の細かで入念な様子が手にとるようにわかった。ため息まで、ついているのだ。
この3重唱、オーケストラ共々、本日のハイライトと思えるくらいに絶美の場面だった。
毎度ながら、私の頬には涙がつぃーっと一筋・・・・・。

やたらに、若い二人がいちゃつくのもこのリアルな演出ならでは。
ファーニナルに手を副えられ、中央階段を去るマルシャリンに、オクタヴィアンが追いつき、振り返るマルシャリン。こうした場面もなかなかぐっとくる。
注目のエンディング。実は、モハメッドが、若い二人のやり取りを、ベッドの下に隠れて見ている。二人が去って、悪戯っぽく軽快な音楽に乗って、ベットの下から出てくるが、なんと、あのパグ公を追って、オックス男爵のニセ子供たちが4人走りこんでくる。
モハメッドの手には、お約束のハンカチが握られている。皆でパグ公を追い回し、幕がさっと降りた。
なかなかに、ユニークかつ洒落たエンディングにニンマリのわたくし。

まずは、ルイージ指揮するドレスデンの素晴らしさを賞賛したい。
どんな強奏でもうるさくなく、音がすべて明快に聴こえる。ドレスデンの出す音は、ともかくデカイ印象をかねてよりもっているが、こうして歌が乗ってもその音が全然うるさくないし、声をふさいでしまうことが決してない。
歌劇場のオーケストラとしての特質と、劇性を身につけたルイージの手腕ではなかろうか。
1幕のマルシャリンの歌におけるデリケートで精密な響き、2幕の若い二人の二重唱の場面の心躍るような歌いぶり(この旋律が大好きなのだ!)、そしてオックスの有名なワルツにおける弾むリズム、3幕の最後の3重唱の陶酔感・・・・。
どれもこれも、ドレスデンのシュトラウスは魅力に満ち満ちていて抗しがたく、いつまでも浸っていたい音楽の泉であった。

デノケの降板は残念だったけど、シュヴァンネヴィルムスはエリーザベト以上に素適だった。気品と憂愁、強さと弱さ、そのいずれをも豊かな表現力で歌いだしていたように思う。
舞台姿も実によろしい。
ヴォンドゥングのオクタヴィアンは、女性的なオクタヴィアンで、マリアンデルが一番似合っていた。その点、カサロヴァとは逆だけれど、彼女も声の幅が豊かで広くて、存在感があるのがよかった。
それでもって、リドゥルのオックス男爵が、まったくもって素晴らしかった。
ウィーン生まれのリドゥルは、現在最高のオックスではなかろうか。
下品ばかりに陥らず、大いなる俗物としてのオックスは、憎めない表現だった。
その声は、深々とした美声で耳にも馴染みやすく、忘れ難い。
時おり、歌がなくても、むにゃむにゃ喋ったり、口笛を吹いたりと芸達者でもある。
Pagu_2  森麻季は、健闘賞。あの小柄な体で、大きな歌手たちに混じってよく歌っていたのでは。
惜しむらくは、私の席ではよく聴こえたけれど、席によっては声が通らなかったらしい。
でも、その彼女にブーをいうのは、あまりに可哀想というものだ。
カーテンコールで、誰か一人でかいブーイングを浴びせた。ドレスデンという名門で実際に舞台に立ち、日本にも凱旋して来た彼女。その彼女に心無いブーは、日本人としてどうかと思う。あんな馬鹿でかいホールで、オペラをやらかすこと事態がブーの対象なのに。
きっと、ドレスデンでは小柄でかわいい日本人としての彼女は、大いにうけたのではなかろうか。シュヴァンネヴィルムスが、いたわるように、彼女のオデコに口付けをして称えていたのが印象的だ。

Curtaincall パグ公も、ちゃっかりカーテンコールに出てきていて、拍手を浴びていたのが笑えた。
ちなみにこの犬は、天クンとって、公募で選ばれたそうです。飼い主の方、パグ公なんて言って申し訳ございません、立派な役者でした。(画像はジャパンアーツHPより拝借)

本日も、期せずしてromaniさんとご一緒でした。
ワインを傾けつつ、幕間での楽しい会話もオペラの楽しみです。

ばらの騎士の素晴らしい舞台がまたひとつ経験できた。
何と言っても、「ドレスデンのばらの騎士」だったのだから。
でもNHKホールはもう勘弁・・・・・・。





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2007年11月23日 (金)

ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団演奏会③

Jansons2007_2 ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演の最終日を聴く。
休日のサントリーホール、6時の開演、祝日ならではのゆったりした雰囲気が漂う。私はいつものようにちょびっと会社に出たもんだから、毎度バタバタの滑り込み。トホホの余裕のなさ。

 ブルッフ    ヴァイオリン協奏曲第1番
         Vn:サラ・チャン

 ブルックナー 交響曲第7番(ノヴァーク版)

  マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

            
(11.23@サントリーホール)



Sarah_chang ミューザに続いて、サラ・チャンのブルッフ
前回は書かなかったけど、彼女は前後左右にかなり動き回るし、弾きあげると弓を思い切り上にかかげるし、片ほうの足も上げちゃうしで、なかなか派手な弾きかたなのだ。
でも出て来る音楽は、決してその動きとは連動していないように感じる。
つやつやした美しい音色で聴く第2楽章は爽やかなロマンティシズムに満ちていて、大家が時として弾く濃厚な味付けとはかなり違う。終楽章はヤンソンスとともに猛然とアッチェランドをかけて爽快に曲を閉じた。

ヤンソンスには、ブルックナーのイメージがあまり結び付かないが、このところ徐々に取り上げつつある。バイエルンとコンセルトヘボウといったブルックナーとマーラーに伝統を持つオーケストラのシェフを務める以上、はずせないレパートリーだし、本人もかなり傾倒しつつあると語っているようだ。
以前、3番の演奏をテレビで見たが、伸びやかで屈託のないブルックナーだった記憶がある。

先般聴いた、上岡/ヴッパータールの精緻で敏感な長大な7番のテンポと響きがまだ脳裏にあるが、ノヴァーク版による今宵のヤンソンスは、まるで違う曲のように鳴り渡った。
そりゃそうだろう、上岡版ブル7は、あまりにユニークかつ、誰しもマネできない演奏だったのだから。
Jansons そこへ行くと、ヤンソンスのブルックナーは普遍的なもので、日頃聴くブルックナーの延長線上にあって、安心して身を浸すことができる。
ブルックナーゆえか、ヤンソンスにはいつものように、伸び上がったり、下から持ち上げるような独特の指揮は一切見られず、旋律線を横へ横へと紡いで行くような、呼吸の豊かな指揮ぶりに思った。
1楽章から低回感なくずんずん進められるが、テンポは妥当で、流れるように歌われる各フレーズはとても自然で美しい。
その美しさは、第2楽章で最高潮となった。カラヤンの影響が強いヤンソンスであるが、師カラヤンが時に耽美的なまでに美を求めるのに対し、ヤンソンスはもっと開放的で我々の気分を開放してしまうような明るい美しさに満ちているように感じる。
だから、第2主題では、あぁ~、いい旋律だなぁ~、と心から思ってしまう。
3楽章のスピード感と、トリオの牧歌的なムードの対比も見事。
突出してしまうぐらい凄い、トランペットの名手は、だから音をすごく押さえこんでいた。
それから、アンバランスな佇まいを持つ終楽章で、こんなにスリリングな興奮を味わったのも珍しい。テンポで煽っているわけでもないのに、音楽が次へ次へと繋がって止むことがない。この楽章は、中間部で楽器間のやり取りが楽しく、教会の外の鳥のさえずりのような澄んだ世界をも感じることがあるが、このオーケストラの名手達の自然で鮮やかな演奏にこちらも目を細めながらそうした情景を思い描いて聴いたものだ。
終結部のクレッシェンドは、着実に盛上りを築きあげて輝くばかりのエンディングを迎えた。
演奏時間訳65分の、明るく明晰なブルックナー。
曲の特性もあろうが、どこまでも伸び伸びとして晴れやかで気持ちのいい演奏だった。
こんなブルックナーも私は肯定的に受け止めたい。
この演奏の特質の半分は、南ドイツ風の明るくも精妙かつ積極的なオーケストラの特色にもよるのではないかろうか。コンセルトヘボウとブルックナーをやったらどうなるだろうか?

思えば、ミュンヘンはかつてより名音楽たちが活躍してきた街だ。
ドレスデンと並んで、モーツァルトとワーグナーとシュトラウスが実際活躍したし、70年代は、オペラのサヴァリッシュ、放送オケのクーベリック、フィルハーモニーのケンペ、といったスゴイ顔ぶれが揃っていた。
今は、ヤンソンス、ティーレマン、K・ナガノらが、ミュンヘンの新しい顔となっている。
それを思うだけで、なんだかワクワクしてしまう。

Jansons_berlioz今年も例年どおり、マリスのサインを頂戴した。
通常手に手に入れにくい、バイエルンとの幻想のCDを会場で思い切って購入。

疲れもしらぬヤンソンス、にこやかに長蛇の列を作ったファンのサインに応えていた。
来年もまたよろしく、マリス君!
コンセルトヘボウとの蜜月も聴かせてくれたまえ!
願わくは、本国でも演奏する、メシアンの「トゥーランガリラ」を持ってきて欲しい。

Ana_tokyo

今年のサントリーホールには、クリスマスツリーや、イルミネーションがいまのところない。
隣接する全日空ホテルのツリーを1枚ペタリ。
ブルー、グリーン、パープルととりどりに変わって美しい作品。



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2007年11月22日 (木)

ナタリー・デセイ オペラ・アリア・コンサート

Opera_city1_2  ナタリー・デセイのオペラ・リサイタルを聴く。
このところ、ドイツものばかりだし、久々の伊仏のラテン系なので、新鮮な思いで今日を迎えた。
会場は初台のオペラシティだから、歌ものが聴けるからといって間違って新国立劇場に行ってはいけませぬ。オペラシティのビルの吹き抜けには、赤が基調の大きなツリーが飾られていて、時折オペラの旋律とともに光りのパターンが変わる凝った仕掛けになっていて、イルミネーション好きの私の心をくすぐる。
しばし鑑賞ののち、ホールへ着くまでもなかなかの美しさ。
コンサートに向けてのワクワク感が高まる仕組みになっているじゃない。入口では、チケット求むのカードをかがげる人数人。


  ヴェルディ 「シチリア島の夕べの祈り」序曲
             同  シチリアーナ「友よありがとう」
         「ラ・トラヴィアータ」前奏曲
             同  「ああ、そは彼の人か~花から花へ」

  ロッシーニ 「セミラーミデ」序曲
  ドニゼッティ 「ランメルモールのルチア」~「あたりは沈黙に閉ざされて」
     同    「ロベルト・デヴェリュー」序曲
     同    「ランメルモールのルチア」~狂乱の場

       アンコール
  マスネ    「マノン」~ガヴォット
  プッチーニ  「ラ・ボエーム」~ムゼッタのワルツ

       S:ナタリー・デセイ

   エヴェリーノ・ピド指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
       ヴェロフォン:サーシャ・レッケルト
                  (11.21@オペラシティ コンサートホール)


プログラムを見て序曲が疎ましくなる。早くナタリー出ておいでの気分で聴く「シチリアの晩鐘」。
つややかで迫力あるヴェルディになんだかんだで、夢中に。
ついでいよいよ登場のナタリーは、鮮やかな赤のドレスが眩しい。

「シチリア」のアリアで3拍子の弾むリズムに乗って歌うナタリーのグローリアスな声に完全にイチコロ。
Natalie 続く「トラヴィアータ」は前奏曲から一緒に出て来て腰掛けて、その前奏曲に耳を傾けている。

彼女の演劇人としてすごいところは、この前奏曲からして音楽に入りこんでしまっているところ。
ヴィオレッタは彼女の新境地を示す役柄だが、新しい恋心と娼婦としての自暴の気持ち。こんな揺れ動く感情にオヤジたるワタクシがこんなに心動かされ、一喜一憂していいのだろうか
ちょっと風邪ぎみなのだろうか、低域が少しかすれる場面があったが、歌のディティールは完璧の上を行く鉄壁さで、加えて唖然とするくらいのテクニック。
彼女の、さながら楽器のような歌声は、どこまでも人間的なぬくもりを感じさせて、メカニカルにならない。コンサートなのに、その目と手の動き、そして指先に至るまでが、音楽を感じ演じている。
まったくもってのプロのなせる技でありつつ、かつ嫌味のこれっぽちもない迫真性。

なんでロッシーニの序曲がここに紛れ込まなくてはならなかったのか?よくわからないが、なかなかの桂演に、よしとしよう。

ヴェルディ、ロッシーニときて、ドニゼッティとくると、音楽の劇性よりは、抒情性と歌謡性が勝っていることがよくわかる。狂乱の前のいわば、しらふのルチアは、恋に燃える純真な乙女だ。そんなルチアに与えられた超越技巧のアリアを、ナタリーは難なく歌う。
その技巧は聴く側に快感とともに、異常なまでの集中力をもたらす。
彼女の一挙手・一投足に目が釘付けとなり、会場はもはや酔ったような空気に満たされている。ああ、なんてスゴイんだろう。なんて素晴らしいんだろう。
後半は、赤のドレスから、ご一緒したromaniさんと予測した白が裏切られ、ペパーミントグリーンのドレスだった。美しいです。

God Save The Queenが、まんま引用された「ロベルト・デヴェリュー」序曲はなかなか迫力の曲。なるほど、ルチアとともに、英国が舞台の音楽で後半を飾るわけね。

そして、クライマックスの「狂乱の場」。
CDでグルベローヴァの狂乱の場ばかりを集めたCDを聴いて、そのもの凄さに驚嘆しつつ、ものすご過ぎて疲れてしまった覚えがあるが、もしナタリーだったら結構飽きずに聴けちゃうかも。彼女の声は表現の幅が極めて広く、繊細さなソットヴォーチェから強靭な高域のコロラトゥーラまでにいくつもの段階がある。
彼女の歌をおそらく知り尽くしたピドの見事な指揮もあって、極めてオペラテックなオケが寄り添うようにして伴奏するものだから、ナタリーの歌がどんなにピアニシモに心を砕いても会場の隅々にその声が響き渡っていたと思う。
その繊細さに、見事に調和していたのが、グラスハーモニカ(ヴェロフォン)で、その澄み切ってクリスタルな音色は、彼女の歌うルチアにピッタリだ。
狂乱するナタリーのルチアは、目が完全に役者のそれになっている。
宙を舞い、焦点が定まらない。でもその歌は舌を巻くくらいに、ピシリピシリと決まっていく。
ずっとそのまま歌っていて欲しいと、切に思うばかりだったが、彼女の最高に素晴らしい高音を残して、この大アリアは終わってしまった。

素晴らしく気持ちのこもった拍手に応えてアンコールを2曲歌ってくれた。
しかも、歌う場所を移して。マスネでは、耳にも嬉しいフランス語の美しさと、拍手したくなる聴衆に「まだヨ!」の合図を出しながらのユーモア溢れる仕草に、会場は沸いた。
そして、クリスマスのイルミネーションを見ながらやってきた我々に嬉しいムゼッタのワルツには、思わずニンマリしてしまった。
思えば、アンコールも含め、道を踏み外しかけた女性ばかりを歌い演じたんだ。
男心をくすぐるぜ。

歌も姿も最高にチャーミングなナタリー。
会場の四方に挨拶を送るサービス精神も満点。考え抜かれ、きっと鍛錬を積んだはずなのに、どこまでもナチュラルかつ完璧な歌を聴かせてくれたナタリーがさらに大好きになった。

願わくは、日本で実際の舞台に立って欲しい。
ルチアとヴィオレッタ、そしてシュトラウスで。

Opera_city2 最後に私ごとですが、本日は○○回目の誕生日。
このところのコンサート続きで、自分へのご褒美だらけで、家族に顔向けが出来ないが、こんな我がまま父さんを見守ってくれて、あんがと。
ご褒美には、ちゃんとお仕事して応えなくっちゃね。
そして、本日お世話にになりましたromaniさん、本当にありがとうございました。
最高の一杯でした!

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2007年11月19日 (月)

ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団演奏会②

Jansons2007 ヤンソンスバイエルン放送交響楽団の2演目め。
東京に場所を移して、サントリーホールで3プログラムをこなす傍ら、大阪公演も間に入ってるから、忙しい。プログラムを見ると浜松→川崎→豊田→東京→大阪→東京、てな具合で新幹線で行ったり来たりの過密ぶり。この間、休みは浜松・川崎間の1日だけ!あとは連日コンサートなんだ。
タフネス、ヤンソンスも最後の舞台袖への出入りは、ちょっと疲れて見えたのは気のせいか?
それでも、サービス精神満点のアンコール王だけあって、今宵は2曲も演奏してくれた。

R・シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
ブラームス   交響曲第1番
          (アンコール)
       ブラームス   ハンガリー舞曲第5番
       R・シュトラウス 「ばらの騎士」組曲から

ホールにぎりぎりに飛び込むと、ステージ奥、左右に巨大なスピーカーが鎮座している。
ははぁ、オルガンは録音なんだな。まぁいいだろう!
オーケストラの名技性がのっけから炸裂する。ピーンと耳に飛び込むトランペット(この首席ルゥービンはスゴイ)に代表されるように、バイエルンの金管は本当に素晴らしい。
あとホルン首席のリッツコウスキーも唖然とするうまさと音のとおりの良さ!
こんな風に書くと賑々しい冒頭に思われだろうが、ヤンソンスは誇張することなく、むしろ控えめにツァラトゥストラをスタートさせた。
そして終始、極めて音楽的に、そして抑制された響きを持って音楽は進められていく。
大音響や音の大伽藍を期待すると肩透かしを食らうくらい。
細部は綿密で、音のひとつひとつに気持ちがこもっていて、無駄なものがひとつもない。
シュトラウスのオペラばかり聴いていて、管弦楽曲は卒業した気持ちになっていた私に、警鐘をならすかのような、当たり前で音楽的な、ピュアな「ツァラトゥストラ」だった。
こうした演奏ならば、しばしば聴いてもいいな
低弦のピチカートで静かに終わると、嬉しいくらいに静寂が。ヤンソンスが指揮姿を崩して、しばしの間をもって拍手が。

Jansons2 メインのブラームスも、決して構えず、テンポも速すぎず、遅すぎずで、王道を行くかのような名演。ブラームスの苦節ウン十年というような苦味は、一切なく、音色はむしろ明るいくらいで、そこにあるのは、素晴らしい音楽のみで、それを気持ちを込めて指揮する指揮者と、その気持ちをしっかり受け止めて演奏するオーケストラの共同作業があるのみ。
どこをどうしたとかいう演奏ではなくて、ともかく聴いていてすべてが自然で、無理がなく、誰が聴いてもすんなり受け入れられるものだ。
ヤンソンスらしい、リズムの刻みの確かさや、独特の躍動感も充分生かされていて、私は音楽に合わせて体が動きそうになってしまった。(実際動いちゃうと近隣にご迷惑がかかるので耐えておりましたが・・・・)
2楽章のヴァイオリンソロを含む各楽器間の親密さは、ヤンソンスもすべてを楽員たちに委ねているようで、こうした場面でのこのオケの自主性は視覚的にも、そして出てくる音を聴いても、まったく素晴らしいと思った。
終楽章の高揚感は、ライブの人ヤンソンスならではで、この名曲を聴いて久々にドキドキしていまう。当然、盛大な拍手とブラボーの渦。

マーラーと違って、しっかりやってくれる、お約束アンコールは、ブラームスとシュトラウス。
このコンサートを巧みに完結させてくれる2曲が演奏された。
ハンガリー舞曲の緩急の自在さと、劇的なパウゼは見事。
シュトラウスは短いものの、期せずして、ドレスデンとの比較ができようというもので、私の最愛の音楽のひとつだけに、頬が緩みっぱなし。
明るく機能的な素晴らしいオーケストラに、生まれつきの音楽家のような指揮者。
幸せな結びつきを目の前に楽しむことが出来て、とてもうれしい一夜だった。

でも、ちょっとイヤな出来事ふたつ。
アンコールのハンガリー舞曲で、最前列にいた観客が、こともあろうに演奏中フラッシュを焚いて写真を撮りやがった。上から見てて、えっええーっ・・・て思ってたら、まだ懲りずに、2枚目を撮ろうと構えているところで、ホールの人に注意されていた。
これ、演奏中の出来事ですぜ。私は悲しいよ。
放送オケだから、放送用のクルーが常にホール内にいてビデオを回したりしてたけど、私ら観客は違うでしょ。約束は約束。守らなくてならないことは、そうしなくてはいけません。
サントリーホールはそうしたことに一番厳しいし、聴衆のマナーの日本一のはずなのに。

それから、もうひとつ、書くべきか迷ったけど、書きます。
私の斜め前の席。私も当該観客も通路側です。その方が、隠し撮りをしていた。
1曲目の終わりで、カバンに手をいれてゴソゴソやってるのを見て変だな?と思ってた。
休憩中は、ワイン飲んで、記事の下書きなどをしてたから忘れていたけど、後半では、カバンが不自然な位置に。じっくりカバンを観察すると、小さなマイクらしきものが左右ふたつ巧みに上部に付けられている。
どうしよう、告発すべきか?と躊躇するうちに、ヤンソンス登場で、ティンパニの連打が始まってしまった。ドキドキと、気の弱いワタクシ・・・・。
でもやはり、いけないことはイケナイのだ。コンサートに来て、そんなことをしながら聴いてどこが楽しいのかしらん??

ここ数回、聴衆側のマナーについて考えることが多い。
あんまり厳格に音楽を受け止めるあまり、ほんのちょっとのことでむかつくのもどうかと思うが、ルール違反は、マナー違反とは大きく異なる。
こんなことが増えると、手荷物検査とか、規制のための規制が生まれたりして厄介なことになってしまうよ。

ハードスケジュールの中で、最高の音楽を奏でてくれる演奏者たちに、失礼だし、どう申し開きをしたらいいのか?
東京は、ミュシュランのレストランガイドが出版される名誉ある都市になるそうだが、まだまだ文化度やモラルにおいて星をいただけるような状態じゃないかも・・・・・。


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2007年11月17日 (土)

ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団演奏会①

Brso2007マリス・ヤンソンスバイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く。

 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
       Vn:サラ・チャン
 マーラー 交響曲第5番
           (11.17 ミューザ川崎)


ここ数年、この時期になるとヤンソンスは、バイエルンとコンセルトヘボウという、ふたつの名器を交互に引き連れてやってくる。
この多忙な指揮者を毎年日本に数週間拘束するのだから、日本の音楽マーケットはやはりスゴイ
今、東京には、ルイージとドレスデンゲルギエフとキーロフもいる。
世界のどこにこんな都市があるだろうか!
毎年秋には、こんなことが起こる。ウィーンやベルリンが来ない分、まだましなくらいなのだ。

そんな御利益を全部味わいつくそうとすると、大散財にみまわれる。
ヤンソンスはお気に入りだし、毎年聴いているから外せないので、他の諸国はあきらめて、ドイツだけに絞り、ベルリン、ドレスデン、バイエルンを楽しむことにした次第。本blogをご覧になっておられる皆さんは、よくあんなにコンサートに行って、余程のお金持ちなのね!な~んて思っておられるかもしれないが、行きたいコンサートやオペラは、かなり早くから絞りこんで、発売時に即手当てするから、計算が成り立つ。
行かないときはいかないし、衝動的に行く場合は安値席じゃないと行かないようにしている。こんな次第。


さて、満席のホールに赤のドレスで登場のサラ・チャン。黒髪に黒い瞳は、隣国人として非常に親近感がわき、その快活で明るいステージマナーも好ましい。
彼女のヴァイオリンも、まさにその見た目の通りで、躍動的で積極性に満ちていた。
しっとりした情感の代わりにすがすがしい明るさと情熱を感じた次第。
ヤンソンスを信頼し、自信に満ちた彼女、終演後、サイン会をやっていたので、近くで、とくと拝見。にこやかで、美しいお姿に、オジサンはちょいとふらっとしました。
次週もよろしく、サラちゃん。

メインのマーラー
この5番の交響曲はこれまで何回聴いてきただろう。
私がクラシック音楽を聴き始めた頃は、マーラーなんて実演じゃまずやらない。
レコードも、ワルター、クレンペラー、バーンスタイン、ショルテイぐらいで、不人気音楽の代表だったのに。
実演では、マゼール、アバド、ベルティーニ、ショルティ、小沢などなど、最近では尾高/札響が良かった。いずれもライブならではの興奮を味わってきた。

Jansons_2 今宵のヤンソンスは、すべてが綿密な練習を経て完璧このうえない演奏だった。
そのうえで、ヤンソンスならではの感興と覇気に満ちたイキイキとした躍動感がみなぎっていたマーラーであった。
何度も記すが、ヤンソンスのいいところは、楽員も聴衆のいっしょくたに盛上げて音楽に夢中にさせてしまうところで、このマーラーの起伏に富んだ音楽などは、まさにそうした気質がバッチリと当てはまるものだ。
テンポは揺れ動きが多少あるが、細部に至るまで目が行き届き、これ以上ないくらいに磨き抜かれ、洗練された響きがミューザのホールに鳴り渡る。
こんなに気が入ってあとあと大丈夫なのかな?と思わせるくらいの1・2楽章。
各楽器が呆れるくらいの名人芸を披露しつつ、気持ちのいい3楽章。
心持ち早めに進められたアダ-ジェットは、ストレートな表現ながら、実に美しく、弦とハープが織りなす透明感に涙が浮かんだ。
そして曲は最後のロンドに突入し、考え抜かれた完璧なフィナーレ~でも、聴いているとすべてが必然で、かつ新鮮なのだが~を迎える。
最後のコーダは、テンポを落とし、じっくりとした終結を迎えるかと思ったら、猛然とダッシュして唖然とするくらいすさまじいクライマックスを築いて終結となった。

もの凄いブラボーが起き、会場は騒然となった。
こんなマーラーのあとにアンコールなぞなし。
やまない拍手に、マリスは一人登場し、歓声に応える。

しかし、バイエルンはなんとすごいオーケストラなんだろうか。
ドレスデンと同時期に聴いてみて、その違いも歴然で、その機能性とアンサンブルの鉄壁さは、完全にバイエルンの方が上だ。その上、南ドイツ特有の暖かな音色があるものだから、味わい深さにおいてアメリカやイギリスの同じように優れたオケとはかなり異なる。
ドレスデンは、音色において比べるものがないくらい上質だが、その機能においてはバイエルンに数歩遅れる。
どちらも、ドイツの名オーケストラに間違いないが、現時点で、完成度にこだわればバイエルンで、ドレスデンは劇場空間から生まれた味わいの点で上位に立つと思う。

コンサートは、お隣や周辺のお客さんによって、恵まれ具合が異なってくる。
本日のお隣さん、終始身を乗り出し、首は振るし、指揮っぽい動きはするし、お隣の女性(奥様)にキュー出ししたり、手話っぽい会話をしたりで、落ち着かないことこのうえなし。
さらに、きょうのミューザでは、3楽章が華々しく終わったら、ブラボーするヤロウがいた。
これには、場内大いにシラケたし、演奏者もあれれ?って顔してた。
おまけに、その方ではなかろうが、3階席の方が一人、足音も賑やかに、3楽章終了後、バタバタガタガタと出口に向かうありさま。あの異様な雰囲気は、ちょっと言葉にできないが、コンサートのリスクはこんなところにもある。同じお金を払いながら、環境が選べないのである。

A ミューザのお隣、ラゾーナ川崎のイルミネーション。
今年は、グリーンを基調にしていて、美しい。

この次はサントリーホールに場所を移しての公演。
次週も忙しいな。


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2007年11月16日 (金)

シベリウス 交響曲第2番 シュタイン指揮

Sangayu 青森の八甲田山麓にある酸ヶ湯温泉近くの地獄沼。
温泉の沼そのもので、手を浸すと暖かいが、奥はかなりの高温らしく、もくもくと湯気が。

先に見える山には11月始めながら、青森の初観雪が。
人を拒む厳しい自然が厳然とそこにある。

2stein

シベリウスの交響曲第2番は、ホルスト・シュタイスイス・ロマンド管弦楽団の演奏で聴こう。

世紀の変わり目に作曲が進められ、1902年に初演された。幻想的で、夢見心地だった1番がロマン派的な交響曲の流れを引きずっていたのに対し、数年後の2番は、自国を強く意識した、いわゆる民族的な雰囲気をかもし出し初めている。
とくに第2楽章の厳しく頑固な頑迷さに、その要素を見る。
この2番は、終楽章がなかなかに華やかなところもあって演奏効果もあがり、一番人気の曲で、私も1970年万博の伝説的な「セル/クリーヴランド」の演奏をテレビでみて、いっぺんで気に入ってしまった。
若いうちはどうしても、終楽章にばかり目がいっていたが、シベリウスを聴きすすむうちに、第2楽章の憂いに満ちたほの暗さが好きになっていった。

そのあたりのシベ2の魅力を、克明な演奏で際立たせているのが、シュタインのものだ。
ワーグナーの専門家のように思われているが、シュタインは実にフレキシブルなレパートリーの持主で、ことにチャイコフスキーとシベリウスは非常に得意にしていて、N響でもかなりシベリウスを指揮していた。
その内容は手堅いだけでなく、金管をときに思い切り強奏させながら簡潔で、かなり凝縮された響きを聴かせる。無駄が少なく、情緒的なものは乏しいが、シベリウスの演奏に必要な熱き歌心は、その簡潔な響きの中に聴いてとれる。
ドイツ系でもカラヤンのような壮麗さとは無縁だが、意外なほどの明晰さと軽さもあって聴くほどに味わいを感じる。
スイス・ロマンドがアンサンブル的にもっとしっかりしていればと思わなくもないが、明るい音色はシュタインのシベリウスにプラスに働いている。
シュタインはバンベルク響とチャイコフスキーの5番やバレエ音楽を録音しているので、そちらも是非CD化していただきたい。

Hatsukouda1 八甲田の山々を望む。
飛行機までの時間を惜しんで、車で一気に上り詰めた。寒いのなんの。
紅葉は終わり、山々は色あせていく途中。
冬は閉ざされる。いったいどんなになってしまうんだろ?

Hatsukouda2 明治35年に、雪中行軍を敢行し、200名近くが遭難し命を落としたという悲劇の場所に、像が立っていた。周囲は山また山で、風は強いし、恐ろしい場所で寒気がした。
学生の頃、「八甲田山」の映画を見た。
「天はわれわれを見放した」の名セリフ。
心が寒くなるような悲しい映画だった・・・。
冬になると、雪中行軍ツアーなるものがあって、豪雪の中、ここまで来るらしい。
どーにもこーにも??
あと、以前テレビで、この像の周辺を夜間赤外線カメラで写すと、当時の隊が行軍している様子が映っていているのが放映された。ホントかねぇ~??と思いつつみていたけれど、この日訪れた記念碑には、私一人。
空は曇り、雪が落ちてくるような寒風。正直怖かった・・・・。

どうです、私が撮ったこの写真。何か見えますか?

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シベリウス 交響曲第1番 ラトル指揮

Oga1_2 秋田県の男鹿半島の突端、入道崎。10月の終わりに、男鹿市に訪れた際、足を伸ばした。
いわずと知れた「なまはげ」で有名なところ。
国道を走ると、巨大な「なまはげ」が二体で迎えてくれる。

子供の頃、NHKかなにかで、「なまはげ」が家々を訪れ、「悪い子はいねぇ~がぁ!」と言って廻るのを見たことがある。当然、子供たちは恐怖のどん底に落しいれられ、泣きまくる。
テレビを見る子供の私も、秋田というところは何て恐ろしいところなんだ!と思い込んでいた。
大人になった今、素晴らしい自然と酒と食に恵まれた秋田を実感している。
そして飲み過ぎてしまい、翌朝は、やはり、恐ろしいところと再認識したりしている。

1rattle_2 今年は、シベリウスの没後50年のメモリアルイヤー。その締めくくりに全曲行ってみよう。
シベリウス好きの国民といえば、本国フィンランドとその周辺のスカンディナビア諸国、英国と、そして日本かもしれない。
いずれも海に囲まれた国々。
しかも冬は厳しく切ない。
そう、哀愁ある曲や演歌のような自虐的な音楽が好まれるといったら言い過ぎかしらん。

第1交響曲は、1899年、作者34歳の作品。
日本では伊東博文が首相の頃だから、大昔に感じるけれど、こうした音楽を聴くと、 日本はいったいなにをしていたんだろう?と思ってしまう。列強の仲間入りを果たしつつも、文化度はまだまだだったのかも。

全7曲のなかで、以外と好きな1番。チャイコフスキーにも近く、憧れに満ちた旋律の宝庫でもある。とりわけ2楽章の単純で牧歌的な旋律が、だんだんと熱を帯びていくさまが好きだ。そのさまは幻想的でもある。
終楽章の熱を帯びた中間部の旋律も極めていい。

ラトルの1984年のバーミンガム市響を振っての録音。
出てすぐに購入した国内盤。久々に取り出し、その若いジャケット写真にびっくり。
ちょうどこの頃、フィルハーモニア管とともに初来日し、ブリテンとシベリウスの2番を演奏した。若かった私もそこに居合わせたが、奇をてらわない渋い音楽造りだった。
燕尾服の裏地が鮮やかなレッドだったのを今でも覚えている。
この1番の録音でも感じることは、情熱や熱い思いなどとは一線を画した音楽のみをじっくりと見つめた演奏だということ。
時に物足りなくなる時もあるが、その場合はバルビローリを聴く。
フレッシュな青い芽が新鮮なシベリウスなのだ。

Akita_inter 本格的な冬の到来を待ち受けるかのような、秋田の空。真冬の東北は、関東者が車で行くには命を賭けるようなもの。
かなり以前、吹雪の中を運転したことがあるが、正直自分がどこにいるか、さっぱりわからなくなる。
あの恐怖は、子供にとっての「なまはげ」体験に匹敵するかも・・・・・・・。

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2007年11月14日 (水)

F・ルイージ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏会

Nhk2007 NHK音楽祭の一環、ファビオ・ルイージ指揮のドレスデン国立歌劇場管弦楽団を聴く。

ウェーバー 「魔弾の射手」序曲
ワーグナー 「さまよえるオランダ人」ダーラントのアリア
       Bs:クルト・リドゥル
ウェーバー 「オイリアンテ」序曲
R・シュトラウス 「ダナエの愛」 第3幕間奏曲と最終場
       Br:ハンス=ヨアヒム・ケテルセン

ワーグナー 「ワルキューレ」 第1幕
       S:エヴリン・ヘルリツィウス
       T:ヴォルフガンク・シュミット
       Bs:クルト・リドゥル

       ファビオ・ルイージ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                           (11.14@NHKホール)

劇場音楽をテーマにしたNHK音楽祭。ドレスデンにうってつけのプログラムは、私にとっても、ヨダレがでそうなご馳走演目ばかり。ウェーバーが、ワーグナーが、シュトラウスが指揮した由緒あるオーケストラが聴けるんだから、ホールがどうのこうのいってらんない。
でもね、魔弾の射手はホールの堅い響きが気になって、いまひとつオーケストラの鳴りがよくないように感じた。
先週聴いた、県民ホールの美音はどこへいったのだろう?と不安になってきた。席によって響きが全然違うこのホールは、やっぱり手強い。
ルイージのメリハリの効いた躍動感あるウェーバーは、爽快だ。でも響きが少なく、ドイツの深い森がこだまするかのようなシュターツカペレサウンドが聴かれない。

ついでリドゥルの歌うダーラントの歌から、ホールのことが気にならなくなった。やっぱり歌が入ると違う。美しくなめらかな声の持ち主リドゥルの素晴らしい声がビンビン響いてくる。演奏会でこのアリアが取り上げられるのも珍しいが、ウェーバーの後に聴くと、ドイツオペラの本流にそいつつも、タンホイザー→
ローエングリン→リングへと続くワーグナーの革新性がよくわかる。
オーケストラも手探りの状態から目覚めてきた感じで、オイリアンテではばりっととした決然たる音が楽しめた。

それでもって、いよいよ楽しみにしていたシュトラウスダナエの愛をやるなんざ、なんて洒落たセンスなんだろう。ルイージお得意の演目だから、是非レコーディングして欲しい。
若杉さんの日本初演を聴いたときに、徹底して聴きこんだオペラ。筋は荒唐無稽ながら、シュトラウス熟練の音楽はきわめて美しい。 この曲にいたって、ドレスデンの美音が全開になった感がある。
日頃親しんだシュトラウスサウンドを、ドレスデンの実演で聴けるという喜び。
素晴らしい音がどんどん私の体に溶け込んできて、私の全神経は開放され、中空に舞うかのような思いだ。ちょうど温泉につかった時に、「あぁ~気持ちいい~」と、心の底から言葉が出るように、例えればそんな気持ちになってしまった。
多少の省略はあったものの、「ダナエの愛」は聴衆に美しい音楽として受け入れられたはずだ。ユピテルのケテルセンの熱演もよかった。

休憩中に、白ワインを飲んで、このほんわかムードはさらに増長。
だれもが期待した「ワルキューレ」。
字幕がない分音楽に集中したはずだ。
シュトラウスとは違う意味で、私の掌中にある音楽。
ジークムントが歌えちゃうくらいに聴いてきたワルキューレを、ドレスデンで聴けるなんて。
オーケストラが舞台に乗ると、微細な部分までよく見えるし、聴こえる。
Luisi 今回素晴らしく美しかったのは、ジークムントが水を飲み干す場面のチェロのあまりに美しい甘味なソロ、フンディングの動機でのホルンの音、諦念と悲しみに満ちたウェルズングの動機、ジークムントとジークリンデの二つのアリアの細やかなニュアンスと抒情。
これらをルイージは、これ以上はないくらいに歌いつくし感情を込めて指揮した一方で、歌手が苦しいと思われるくらいに追い込んだり、伸ばしたりして劇性をも強調していたように思う。オペラを知り尽くしたオーケストラあっての技であろうが、この劇性はルイージの天性で、これまで3度、彼の指揮を体験したが、いずれも感じたこと。
根っからの劇場の人なのかもしれない。
でもあの首を大きく振る指揮ぶりは、体への負担が大きいのじゃないかと心配になる。
小柄で華奢で、学者風のルイージ、見た目とは違う情熱と知性の融合された音楽性はこれからどう進化していくのだろうか。

トネリコの木から剣を抜き、白熱していく音楽。ついに、ジークムントの雄たけびとともに、最終場面を迎えるが、ものすごいアッチェランドをかけて素晴らしいエンディングを築きあげた。NHKホールは、ブラボーの嵐に埋め尽くされた。その一声に加担したワタクシ。

歌手もよかったから自然とブラボーしちゃった。
ヘルリツィウスのジークリンデがいい。先般のヴェーヌスでは出番が少なかったが、今日はじっくり聴けた。高音の強さの一方、暖かな声は、かつてのリゲンツァを思わせる素晴らしさ。この馬鹿でかいホールに行き渡る声が、小さな体のどこから出てくるんだろう。
低域が出にくかったのは体調なのか否か不明。(バイロイトでのブリュンヒルデは音声で聴くかぎり完璧だった)
 シュミットのジークムントは、「ウェールゼ~!!」では、ルイージが思い切り伸ばすものだから、顔を真っ赤にしての力演は見事だったし、最後のシメの「ウエッズングの血よ栄えあれ」との雄たけびも見事だった。
が、しかし独特の明るいなかにもクセのある声は、相変わらず。
音程のふらつきを感じさせる不安定感が逆に迫力に通じてしまうのもシュミットならではかも。でもルイージとオーケストラが、あまりに雄弁だったから救われていたかも。
リドゥルのフンディングと比べると、青二才のようなシュミット。
この人は、今回サロメのヘロデを歌うが、こうした性格役のほうが似合っているような気が。スキンヘッドの見かけも・・・・・。

演奏会形式でオケを見ながら聴くと、本当に楽しい。
あら、こんな風に演奏してるんだ、あの楽器はあれだったの?などなど。
完全にオペラのオーケストラが舞台に乗って、主役となっていた一夜
帰宅後の留守録FM音源を聴いたら、全然いい音じゃないか
あのホールは、生より放送収録用のスタジオじゃないのかね??

でもライブならではの熱気につつまれたNHKホール。
あの場の空気は録音では伝わらない・・・・・。

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2007年11月13日 (火)

尾高忠明指揮 札幌交響楽団 演奏会

Img 札響が今年も東京にやってきた。毎年、冬の便りとともに、11月の定期プログラムを持って来る。
今回は、サントリーホールじゃないのが残念だけど、尾高忠明さんらしい、実に考え抜かれた渋いプログラム。晩秋に心静やかに聴くにはうってつけの内容だ。

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
武満 徹   ファンタズマ/カントス
ドビュッシー クラリネットと管弦楽のためのラプソディ
        Cl:ポール・メイエ
武満 徹   遠い呼び声の彼方へ!
        Vn:堀米ゆず子

ドビュッシー 交響詩 「海」  

    尾高忠明 指揮  札幌交響楽団 

        (11.13 東京芸術劇場) 

      

    

 前日からの悪天候の北陸出張からの帰りだけに、眠くなりはしないかと心配だったが、静謐な音の世界に身を委ね、陶然とするうちにすべてが終わってしまった感がある。
いきなり、牧神で夢心地の心境に。
音楽会の1曲目というのは、なかなか乗り切れないものだが、そのムードと音楽の持つまどろみ的な緩やかさがまさにマッチしてしまった。札響のクールな響きがアクセントに感じられた。
ついで、P・ペイエの登場による武満ファンタズマ/カントスは20分の大曲。
解説によると、ファンタズマは幻想、カントスは歌。作者はこのふたつを同義語として扱い、日本の回遊式庭園から示唆を得たと残しているという。
なるほどに、始まりと終わりが接合したような循環するような静的な音楽で、クラリネットソロがときにむせぶように、ときに楚々と歌うように大活躍する。
大編成のオーケストラながら、時間が止まったかのように静かな世界を築いている。

この曲のあとに、ドビュッシーを聴くと、武満音楽との同質性とともに、フランス的なエスプリの世界を強く感じさせる。ペイエのクラリネットは、この曲でも冴えに冴え、大きな会場の隅々にその美音を響かせてくれた。
アンコールに演奏された、「センド・イン・ザ・クラウン」はまさにセンス溢れる瀟洒な音楽だった。

休憩後の「遠い呼び声の彼方へ」は、堀米ゆず子のお得意の曲。

さきのクラリネットの曲よりは、はるかに聴きやすい。これを聴いて、マーラー、ウェーベルン、ベルク、そしてドビュッシーの響きを感じ取ることが出来る。
私的には、もっとも安心の領域。堀米さんは、貫禄も付き、相変わらず才気がほとばしるかのような素晴らしい音楽性。
 
最後には、武満の川から海への音楽から、ドビュッシーの海へ。
尾高さんは、豊かなニュアンスをつけながら繊細で美しい海を聴かせてくれる。
札響の自主性溢れるサウンドが思い切り鳴り響き、壮麗なエンディングで、この素適なコンサートの幕を閉じた。

ドビュッシーと武満徹で組まれた、ひとつの作品を聴くかのようなまとまりあるプログラムだった。

来シーズンの定期プログラムが配られた。
私に、定期会員になれと言わんばかりの超魅力あるラインナップ。

マーラー4番(5月尾高)、ブリテン「ピーターグライムズ」演奏会形式(9月尾高)、RVWタリス・楽園への道・エルガー3番(11月尾高)、オランダ人・サンサーンス3番(1月飯守)、ブル4(2月尾高)、ブラームスV協・田園(3月シュナイト

どうですか!!

Hakajima 来年のことだけど、東京公演はおそらくエルガーですぜ。

コンサートホール「キタラ」のある中島公園。
この公園をそぞろ歩いて美しいホールに到達する素晴らしいアプローチ。
でも冬は雪に覆われちゃう。

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2007年11月12日 (月)

ディーリアス 「パリ」夜想曲~大都会の歌 マッケラス指揮

Paris 「花の都パリ」なんて言葉はもう言われないのだろうか?
もう数十年の昔、パリには2回いったことがある。
旅行で行った時はお決まりのルートで、観光名所を巡るだけ。確かに、美しく、香水の香り漂う街。
2度目は、仕事で無理やり車を運転させられ、恐怖のどん底に落しこまれた。
あのムチャクチャに乱暴な運転の横行する街を車で走らなくてはならないなんて!!
でも、やってみるとそんなに怖いことはない。
信号を守らない歩行者と、標識にさえ注意してれば、あと後の車に注意していれば・・・・・。
車をホテルに置いて、地下鉄で夜のパリに繰り出し、カフェで酒を飲む。最高の瞬間だった。

Delius_paris 若いディーリアスもパリに憧れ、生気を吸い取られるくらいに奔放の限りを尽くした。
裕福な実業家の家に育ったディーリアスはアメリカで父の仕事を手伝うが、音楽ばかりにうつつを抜かし、イギリスに帰され、さらにパリ近郊に移ったのは1990年頃。
そうその世紀末のパリで音楽や、酒、女性に、他の芸術家との交流にと、幅広い活動をしたらしい。
ムンク、ミューシャ、ゴーギャンらも仲間だったというから、興味は尽きない。

このパリをイメージした「大都会の歌」は、その頃のことを思い起し、また、懐かしむように1899年に作曲された。ディーリアスにしては、なかなか賑々しい音楽で、活気と哀愁とが交錯する華やかな音楽でもある。パリという魅力的な都会の夜と夜明け前の印象を書いたとも、自身述べている。
これを聴いていると、決して華やかばかりでないパリのざわめく陰の部分(ちょっと路地入ると怖いよ)などが感じられるし、飲み過ぎたあとの哀愁にもにた諦念も感じることができる。
そう、ちょっと大人の音楽なんだ。

「神秘の都、快楽の都 陽気な音楽と踊りの都 化粧した美しい女たちの都 日を避け、夜に生き、目覚める街の物音と陽の昇らんとする暁に、家路につく者にのみ正体をあらわす、不思議の都パリ」・・・・ディーリアス(三浦淳史訳)

東京にはこんな色気はないな。強いて言えば大阪や京都かな?

マッケラスロイヤル・リヴァプール・フィルの演奏、録音がちょっと硬いけれど、美しくもファンタジー溢れる演奏に思う。かつてこのオーケストラは、グローヴスとも録音していて、そちらの方が録音も含めて潤いがあったように感じる。

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2007年11月10日 (土)

ワーグナー 「タンホイザー」 ドレスデン国立歌劇場公演

Dresden ドレスデン国立歌劇場の来日公演初日を冷たい雨が時おり降る横浜で観劇。
ルイージからエトヴェシへの指揮者の交代に続き、ちょっと期待していたオアフ・ベーアが急病で、降り番のアラン・タイトスにかわった。
席は前から3列目。二列目までの方々は主催者側の手配で席を移動していた。
変な舞台装置で見にくいのかな?と一抹の不安。  
演出がコンヴィチュニーというのもその不安に拍車をかける。

だか、序曲からオーケストラの音色、特に弦、そしてホルンが、とても美しくじっくりと楽しめる。肝心の舞台はなんとか見渡せた。次回から文化会館だが、席によっては・・・・。

以下は、自分の記録もこめて書いてしまうが、まだ初日。
これからご覧になる方は、どうぞ飛ばして下されよ。

幕が開き、ヴェーヌスブルクは黄色い内側のお椀を二つにわった中。
小さなタンホイザーの人形がお椀の上の淵から顔をだす。キース・ウォーナーのトーキョーリングの出だしを思いおこす。
この人形をお椀になげいれ、ニンフ達が淵から滑り降りてくる。彼女たちは、赤やオレンジの衣装にグリーンの顔と腕、頭は赤の鬘のへんてこぶり。
そして人形は徐々に大きくなり、ついに等身大に。この人形はもてあそばれ、首がもげちまう。
この様子をタンホイザーは、びくびくおどおどと見ている。
Tanhoeiser ニンフの親分ヴェーヌスも似たなりでの登場。そんなに怪しくないけれど、目のところが濃いグリーンで妙といえば妙。
彼女に決裂すべくタンホイザーがマリアの名を叫ぶと、お椀が割れ剣を持ったタンホイザーもどきが数人現れ、彼女たちを成敗(?)する。ヴェーヌスやニンフたちはあちこちにごろごろ倒れたまんま。
いついなくなるんだろう?と見ていたが、ずっとそのまんま。
牧童が羽根を1枚生やして清らかに歌っているときも、さらに巡礼者がでてきても。この巡礼者たちも不可思議で、転がっているニンフ達を不思議そうに眺めている。そう、このコンヴィチュニー演出は舞台上のことをすべて表現しないではすまないのかもしれない。領主らの登場のホルンの合図で赤い彼女達はそろそろといなくなった。
この演出では、合唱もかなり細かい演技を個々に強いられるから大変なのだ。
領主達は現在のモードに、一見十字架にもとれる剣を持っている。この剣は全幕を通じて活躍する。
そして、タンホイザーが一番そうだがミンネゼンガー達がみんな軽いノリの動きなのだ。皆に受け入れられたタンホイザーは、抱き着いたり、キスをしたりと大喜び。最後には、全員で例の銀に輝く安っぽい剣を掲げて肩を組んで一列に。
領主の顔を覗き見ていい?と了解をもらってスキップしながら足取り軽く一同退場。これには失笑した。
舞台はこんなでも、オーケストラはまばゆいばかりの素晴らしいクライマックスを築いているところがスゴイ。

2幕では先のお椀の片割れがアーチ状に残され、舞台奥に急な階段状の座席が。エリーザベトは真っ白なドレスで嬉々として登場。晴れやかに歌い、ウォルフラムに連れられタンホイザーがやってきて二重唱となるが、ウォルフラムは去らずに居残り再会の二人と一緒に過ごす。カットされることの多い、ウォルフラムのエリザベートへの恋情のセリフがここで再現されていて、ちょっと驚き。
エリーザベトはドレスの一部を剥ぎ取り白いケープのようにタンホイザーの肩に、タンホイザーは手袋を取りエリーザベトの手に・・・・。
これが歌合戦後、タンホイザーの裏切りで、お互い戻しあうことになる・・・・。
歌合戦の諸国の聴衆は、女性は色とりどりの普段着。みんなドイツのそこらのおばさんみたい。男声は普通のスーツを来たおじさん。
ウォルフラムやヴァルター、ビテロルフが歌うときは、称えるようにして手を掲げているが、タンホイザーが歌うと、手を降ろし、みんな不安げに。
ただ一人エリーザベトだけは逆で、タンホイザーの歌に顔を輝かせ、他に歌には退屈そうにしているのがみえみえなのだ。タンホイザーの軽薄ぶりが目立つ。
事が露見し、エリーザベトがタンホイザーをかばう場面。彼女は舞台の右端で例の剣を抱えて熱く歌う。タンホイザーは打ちひしがれ、床をはいつくばりながらエリーザベトの足元まで向かう惨めな姿だ。
上着を脱ぎタンクトップになり、靴も投げ飛ばしてしまう。
これらを、ほかのミンネゼンガー達が抱えたりして歌う。
「ローマへ」とタンホイザーは、舞台奥の急階段をひとり登ってゆく。

3幕最初のローマ巡礼行でまたオケの素晴らしさを確認。渋さとマイルドさが溶け合って、聞き惚れてしまう。
巡礼帰りの人々は、よろよろ来るのでなく、いきなり舞台中段のステージに走り出てきた。
連中の顔が宇宙人のようだ。よく見ると眼鏡をかけている。熱砂に耐えてきた姿か?
タンホイザーの姿を見出せないエリーザベトは、ウォルフラムの前で、祈りの歌を歌う。
普通は彼女を見送るウォルフラムだが、エリーザベトが一人で去ることがない。
そのまま居残り、夕星の歌を歌うウォルフラムの腕の中で事切れる。
そこへタンホイザーがよろよろと登場。ウォルフラムは、タンホイザーがかつて着ていた上着で彼女を覆う。ローマ物語で、ウォルフラムを脅したりしながら歌うタンホイザー。
もうやけくそ気味のタンホイザーの求めに応じて、ヴェーヌスが現れる。
黒いワンピースにオレンジの上着をだらしなく羽織り、先ほどの急階段からよろよろと降りてくる。手にはウィスキーの瓶をもち飲みながら。捨てられた彼女はアル中のようだ。
ウォルフラムはやめてやめてといいながら、タンホイザーのご一緒に的な誘いや、ヴェーヌスの働きかけにも苦しそう。これまた上着を脱いで、タンクトップ姿になってしまった。
でも力を振り絞って「エリーザベト」と叫び、上着の覆いを取り外すと、茫然とするタンホイザー。ヴェーヌスは、負けを認めて立ち去るかと思ったら、ジワジワとエリーザベトの亡骸に歩みより、彼女を起し、かき抱いてしまった。ここに瀕死のタンホイザーも加わり、二人を抱くかのようなヴェーヌス。
舞台中段ステージには、領主と同僚、民衆たちがまた例の剣を掲げて奇跡を賛美する。
舞台左手には、葉っぱの生えたツルのような枝がチョロリと出ている。
あれれ、ウォルフラムは?と探したら、民衆を書き分けて、先の急階段を登っていくではないか・・・・。こんな状況での幕切れとなった。

う~む・・・・。しばらく拍手できず。
ヴェーヌスとエリーザベトの同質性と、ウォルフラムの恋情と悔恨による旅立ちか・・・。
でもタンホイザーはお調子もので終わりなのか??
正直言って、アイデア満載で舞台の隅々まで眼が離せない。
だが、タンホイザーの深い悩みや後悔、エリーザベトの自己犠牲的な救済の意図が伝わってこない。タンホイザーとウォルフラムの表裏一体性は面白いが。

タンホイザー:ロバート・ギャンビル   エリーザベト:アンネ・シュヴァンネヴィルムス
ウォルフラム:アラン・タイトゥス     ヴェーヌス:エヴリン・ヘルリツィウス
ヘルマン  :ハンス=ペーター・ケーニヒ

  ガボール・エトヴェシュ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                   ドレスデン国立歌劇場合唱団
         演出:ペーター・コンヴィチュニー

歌手陣はみなアンサンブル的に完璧に出来上がっているメンバーで、穴がない。
ヘルリツィウスのヴェーヌスの強靭でありながら繊細な歌はもったいないくらいだ。
ブリュンヒルデで鳴らした彼女の歌がもっと聴きたかった。小さくて華奢な姿にも驚き。
それでもって、シュヴァンネヴィルムスのエリーザベトが素適過ぎだ。
美しくもかわいい彼女。そのお姿とは裏腹に、熱を帯びた歌唱は誰しも心を打たれたはずだ。2幕の聴かせどころは胸をうった。私もそうだが、周辺で涙をぬぐう姿を感じた!
ギャンビルのタンホイザーもよい。多少の歌い崩しは良しとしよう。
妙に明るいのは、彼の天性なのかしらん。
20年前に、新婚旅行(!)でウィーンに行った時、フォルクスオーパーで「魔笛」を観れた。その時のタミーノがギャンビルだったのだ。あのリリックテノールが重くなって、バレンボイムのもとでタンホイザーを歌った報を聞いたのがもう10年前。
ようやく日本にやってきたわけだ。
タイトゥスはお馴染みすぎて、イメージはウォータンなもんで、ウォルフラムにしては声が立派すぎるかな。他の歌手もみなよし。
合唱の威力には圧倒されっぱなし。その上ちゃんと演技もし、存在感抜群なのだ。

エトヴェシュの指揮は、オーソドックスながらも、オケをよく鳴らしていて、それがドレスデンなものだから、うるさくならずに細かな部分までよく聴き取れた。
メルクルの指揮でも聴いてみたいタンホイザー。
休憩中、ピットには常に楽員がいて、パート同士の確認や合わせの練習に事欠かなかった。この積極性と自主性こそがドレスデンのサウンドが引継がれる秘訣なのだろう。
日常弾きなれた曲でもこれだから。

071110_143714 私は自分では、ワーグナーにかぎっては保守的な聴き手だと思うが、これくらいの演出なら内容なともかく全然OKだな。なによりもわかりやすいのがコンヴィチュニーのいいところであり面白いところ。音楽を邪魔しなけりゃいいの。

横浜の県民ホール前の山下公園。
NHKホールよりもずっと音に真実味がある。

次回はルイージの指揮でワルキューレ1幕とシュトラウス(ダナエの愛!!)、ばらの騎士と続くが、惜しむらくは両日NHKホール。
先月はベルリンのリンデンオーパー、そしてドレスデンに、次週はバイエルン放送響にデッセイ。夢のような毎日がまだ続く。
どこで仕事してんのかな??


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2007年11月 9日 (金)

大友直人指揮 京都市交響楽団演奏会

Kyoto_so 再び、大友直人指揮京都市交響楽団を聴いた。ぎりぎりまで悩んだけど、うまく出張がセットできた。
前回の最愛のエルガーの第1交響曲に続き、第2交響がメイン。おまけに、これまた好きなラフマニノフが前半飾るとあっては、こりゃもう我慢しろという方がムリよ。

という訳で新幹線に飛び乗ったのは昼過ぎ。

平日ながら、最上階を除きほぼ満席。京都コンサートホールはまだ2回目だけど、地下鉄の駅からも近く、周辺は閑静で、館内でのアプローチもよくて雰囲気がとてもいい。
「キタラ」と「みなとみらい」と並んで立地環境のよろしいホールに思う。

さて、長大なラフマニノフの3番の協奏曲
今宵のピアニスト小山実雅恵さんは、ライブでは初めて。
テレビやラジオのDJなどを通じてのイメージ通り、にこやかで優しい雰囲気のお方。
ところが、思ったより小柄な体のどこにそんなバワーが秘められているのか、というくらいの技巧と音量にびっくり。
難しく激しいパッセージの連続は聴きごたえ満載だが、それらを呆れるくらい正確に弾きわけ、そこにラフマニノフの情念が見事に浮き彫りにされていくのを心踊る思いで聴いた。
むせ返るようなロマンチックな場面では、オケともども少しクールに、程よい冷静さがよかった。
終楽章のコーダの場面、揺れ動くテンポが難しい場面だか、見事に合って、そのあとの怒涛のエンディングは、バッチリ決まった大友氏とオケの面々も改心の笑顔だった。
今回は、オケの斜め後ろから見下ろす席で、打楽器の方々が、そろりそろりと出番に備える姿がよく見えて楽しかった。

休憩後のエルガー7月に東響とのコンビで聴いたが、その時よりも大友氏の指揮には力がこもり、より自在な印象を受けた。
これはホールや座席の違いもあるかと思う。東京芸術劇場では2階席で遠くからその素晴らしい音楽に立ち会うといった印象で、今回の京都はオケの後ろで音楽が目前で展開していく様を身近に見守った感がある。
それにしても何て素晴らしい音楽なんだろうか
どちらかといえば、よりわかりやすい1番で感涙にむせぶことが多いが、今回の大友/京響の演奏で、2番がいかに旋律と歌に満ちた美しくも深遠な作品であるかが実によくわかった。
いかにもエルガーらしい、高貴で伸びやかな音楽に、何度も背筋を伸ばして聴き惚れる思いだった。
第2楽章の短調のラルゲットは大友氏の全霊を込めた指揮に京響が最高の集中力をもって応え、その涙に濡れた音楽にワタクシもはからずも、目頭が熱くなってしまった。
一番難しい終楽章では、まさにエルガーが意図したという精霊が立ちのぼっていくかのような精妙なラストに感動。
大きな感動と満足感に満たされた!
ちょいと拍手が早かったけど。

東響では、前半がイケメンヴァイオリニストのチャイコフスキーがあって、それ目当ての聴衆が多いように感じ、メインのエルガーでは聴衆の集中力といったものが希薄に感じたが、京都では、大友氏のやりたいことを進んで受け止めていこうという京都の方々の前向きで積極的な音楽の受止め方がひしひしと感じ、暖かい気持ちになったことも事実だ。

演奏終了後、楽員たちをパートごとに祝福し、聴衆の喝采をオケのメンバーすべてに行き渡らせていた大友氏。(ハープの美人姉妹には、やたらにこやかに・・・・)
最後に大友氏、マイクをもって、京響友の会会長の岡田さんの叙勲を報告し、花束でお祝いする場面もあり。

東京の競争厳しいオーケストラ界にはなかなかまねのできない市民オーケストラの麗しい姿。

翌日朝一での彦根入りを控え、四条のホテル近辺の料理店で軽く飲んだ。
プログラムを見ていたら、大将が「何を見てはるんですか?」と。
「いやぁ、京都コンサートホール行ってきたんですよ」と私。
「ほな京響ですか?」としっかり応えていただいた。

地方オケの旅を重ねたくなるような実にいい出会いだった。

愛すべき神奈フィルを見習うかのように、東京も地ローカルに染まろうとする動きが各オケにあってこれからが楽しみ。私の今住む千葉はお寒い状況だけに、地元も応援しなくちゃね。

Nanzenji_3京都に到着後、大慌てで南禅寺・永観堂を観光。
色づきはまだまだだけれど、京都らしい風情を堪能。もっと時間にゆとりを持って行かなくてはいけませぬ。

そして、蹴上の駅からとって返し、カフェエルガーにお邪魔したら、もう閉店。
そうか店主も今宵のコンサートに備えて・・・・。


071107_180156 それから、徒歩で猛然と祇園方面へ。
かねてから食べたかったゼリーを購入すべく。

切通し進々堂」の「あかいーの」&「みどりーの」でございます。
@300円。いちごとメロンのあまりに美しいゼリー。ホテルにお持ち帰りして鑑賞後、一機に戴き、まったりとした気分で京都コンサートホールへ。

 

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2007年11月 5日 (月)

知られざるプッチーニ  P・ドミンゴ

Takanosu 先週は、秋田・青森に出張。
今回は気ままなレンタカーでの、一人出張だったから、時間の許す範囲内で寄り道したり、食べたりしたが、こんな場合は往々にして、電話攻勢を受けてしまい、どこでもかしこでも携帯が鳴ってしまう。

人を不自由にしてしまう文明の利器なり

こちらは、秋田県鷹巣市のとある神社。国道から、よさげな小さな森が見えたから、思い切りハンドルを切り潜入。簡潔でとても美しい神社だった。苔に落ちた銀杏の葉がとてもきれいだ。

Domingo_puccini

こちらは、作曲家プッチーニ
いや、ウソ。
プッチーニらしくポーズを決め、変装したドミンゴ
セピアの画像が、まったくもってそれらしい。

このCDは、プッチーニの未発表の作品を含む、主に若書きの作品集。
全部で16曲が歌われているが、ピアノないしは、オルガンの伴奏によるもの。
その伴奏が、ウィーン生まれの指揮者で、シルズとの名コンビで数々の録音を残した、ジュリアス・ルーデル
まず先に、ルーデルから誉めちゃうと、これがまた達者でかつ情感たっぷりで素晴らしい。
外盤につき、詳細は不明なれど、このCDの録音にあたっては、ルーデルの研究成果もかなりあるのではないかな?

肝心のドミンゴが悪かろうはずがない。
最近でこそ、何でもかんでもドミンゴで、その立派過ぎて分別くさい声が、やや鼻についてしまうが、プッチーニやヴェリスモ系に関しては、私はドミンゴの精緻で整った歌唱が好きだ。プッチーニ特有の甘い旋律や、豊麗な響きなどは、ドミンゴの声でこそ映える。

ほとんどの曲が初めて聴くものだが、プッチーニのオペラを聴いたことがある人なら全然OK。ボエームやバタフライの有名旋律がチョロチョロと顔を出すし、まんまそのものの曲もある。こうして聴くと、プッチーニはメロディー・メーカーとして天才的なものがあったと感心してしまう次第。
宗教的な歌曲も含むが、それらも実にメロディーしてるし、歌として聴き応えがある。
バスとの二重唱は、F・ディアスが登場していて、これまた美声だ。

オペラも含めて、プッチーニの作品の全貌がまだ必ずしも親しまれていない実情。
ロンディーヌ(つばめ)やエドガー、ヴィリ・・・。
なかでも、つばめは愛すべきオペラなんだけどな。

Kuroishi_koyo 北東北の紅葉は場所によってはもう終わっていた。
こちらは、青森県黒石市郊外の紅葉谷。
この道を登りつめると、「八甲田山」がそびえる。

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2007年11月 4日 (日)

R・シュトラウス 歌劇「ダフネ」 ハイティンク指揮

Haitink_daphne R・シュトラウス、オペラシリーズ。全15作中の第13作は、名作「ダフネ」。
今年の2月に、二期会の日本初演上演があった。
あらすじは、その時の記事、こちらをご参照。
1937~40年にかけての作曲。同時期の作品は有名どころはもうないが、日本帝国への祝典音楽(ブリテンを思い起して下されよ)や、渋い歌曲や吹奏楽曲などが残されるのみ。
このダフネと同時期に、連続して次作「ダナエの愛」「カプリッチョ」を作曲し、その後は最晩年の47~48年の「最後の4つの歌」まで、寡黙してしまうこととなる。
終戦との関係を考えざるを得ない。
あのような不幸な戦争さえなければ、シュトラウスのオペラはもう少し書かれていたのかと思うと残念極まりない。
 シュトラウスのオペラ作品は、比較的後発に取組まれ、オーケストラ作品を卒業してまで没頭した。それらの作曲の経緯を見ると、いずれも前作と重なり合う形で作曲は複合して進められている。
全作制覇の最後に体系的にレヴューしようと思うが、作曲様式やドラマの背景も大幅に変えながら次々に取り上げていたものの、いくつかのカテゴリーが繰り返されていたようにも思う。そのカテゴリーの幅広さが実に驚くべき多用さなのである。
Apolondapfneダフネ」は、題材は神話の世界に、音楽は室内的な明晰・透明な地中海的な世界と大音響に満ちた宇宙的な空間を意識させる世界とに、それぞれ位置するカテゴリーにあるオペラ。

ホスマンスタール亡きあとを受けた、シュテファン・ツヴァイクがユダヤ系ということで、国外に去った後、シュトラウスの相棒となったのが、ウィーン人の劇史家ヨーゼフ・グレゴール
ダフネの草稿を見たシュトラウスは、大いに気に入り、16世紀のイタリア人彫刻家ベルニーニの「アポロとダフネ」像を思いながら構想を練ったという。
そして、グレゴールの台本には何度も注文を付け、自身が思い描くダフネに近づけていった。「邪魔になるものはすべて取り除いてください。最後は月桂冠だけが歌うのです」とシュトラウスは言ったという。

そう、まさにその言葉の通り、音楽は透明感と簡潔さに溢れ、聴くほどに味わいの増す充実したものになっている。言葉の多さは、相変わらずだが、オーケストラが一見単純なようでいて、もの凄いきめ細かくよく動いていて、精妙の限りを尽くしている。
ライトモティ-フも見え隠れしながらも複雑にからみ合いながら変化を続けていく。
シュトラウスの作曲技法、ここに極まれリという感じだ。
 先のシュトラウスの言葉通り、最後のクライマックスで、ダフネが自身の望みのとおりに、月桂樹の木に変容を遂げていく場面での音楽は、まさに神がかり的に素晴らしい。
幼なじみロイキッポスの死への深い同情と悔恨、人間じみた欲望の虜となってしまったアポロの後悔と諦念を受けての許し・・・・、ダフネはすべての感情を純化させ、昇華してゆく。涙が出るほど美しく、シュトラウスの書いた最高の音楽のひとつだと思う。

1938年10月、ドレスデンでこの作品を献呈されたベームの指揮により初演。
「モーゼとアロン」が1930年の作品と思うと、シュトラウスの旋律に満ち満ちた音楽は保守的かもしれないが、この汲めども尽きぬ音楽の美しさには敵わない。

  ダフネ :ルチア・ポップ     アポロ :ライナー・ゴールドベルク
  ペナイオス:クルト・モル     ゲーア :オルトルン・ウェンケル
  ロイキッポス:ペーター・シュライアー 

   ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団
                      バイエルン放送合唱団
                             (1982年録音)

初演者ベームの最高の名盤もあるが、今日はハイティンク盤を。
モーツァルトを熟知したベームは、意外なほど軽やかだが、ハイティンクはまるで交響曲を指揮するように重厚な響きを聴かせる。
一転一角を揺るがせもせずに、シュトラウスの書いた譜面を信じ誠実な指揮に徹している。そしてこの朴訥なまでの生真面目で清潔な演奏に、紛れもないシュトラウス・サウンドの一面が鳴り響くのを聴くことができる。
ミュンヘンのオーケストラの、人肌のような暖かさが彩りを添えている。

そして歌手では、間違いなくポップの一人舞台。いや他の歌手もいいが、聴く側がポップの声の素晴らしさに、彼女の声ばかりを聴き求めてしまうのだ。
彼女の声は誰が聴いても、チャ-ミングだし、暖かい。みんなが大好きルチア・ポップ!
この作品の大きな聞かせどころ3つ。
冒頭近く、自然や木々を賛美する長大な歌では初々しくかわいい。
ロイキッポスの死を悼み、女性として、悲しみにくれる歌での胸を打つ切実さ。
最後の変容の場面、人間を超え、澄み切った心境を素晴らしいオーケストラに乗って高みへ昇るかのように歌う・・・・・。

先日、ベルリンのトリスタンでメロートとして登場したゴールドベルク
ちょっと生硬な感じだが、まずまず。でもベームのキングには比べるべくもない。
ロイキッポスのシュライアーは申し分なし。

冒頭近く、本物のアルペンホルンが朗々と鳴り渡る。EMIらしいこだわりの仕掛け。
EMIは、こうした音源をオクラ入りさせないで、とっとと再発すべきである!!
それと、へっぽこなジャケットは無用。オリジナルで。

Bohm_daphne

こちらは、ベーム盤。ギューデンによる舞台写真がうれしいジャケット。
ウィーン響もきれい。
年内シリーズ完成を目指します。

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2007年11月 3日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハイティンク指揮

Morioka_saba朝晩、寒くなりましたな。
寒くなれば、また美味い魚がぞくぞくと登場する。熱燗でツィーっと一献。

こちらは、10月半ばのものだが、盛岡で食べた「しめ鯖」。宮古産の地場もの。
脂の乗りもいいが、コリコリ感もたまらなく、日本酒に最高!
盛岡は、冷麺→焼き肉、蕎麦、といったイメージが強いけれど、内陸部ながら三陸産のおいしい魚が入ってくるからウニや牡蠣もむちゃくちゃおいしい。以前一人でこわごわ入った寿司屋が、異常においしかった。そこで地元の方とカウンターですっかり飲んでしまった。

冬は日本有数のシバレる街。雪より気温の低さが厳しい。
でも北上川が市内をゆったり流れる街の風情は素晴らしく、人々も緩やかだ。

Haitink_shostako415あるショスタコーヴィチの交響曲の中で、一番不可思議なのが第4交響曲
意気込みに満ちた青春の1番から、転じてアヴァンギャルドな2・3番。
そして、体制をも納得させてしまった普遍的な5番の間にあって、この4番である。

1935年頃の作品、スターリン治下、その関連性もある「ムツェリンスクのマクベス夫人」が批判され、この交響曲も演奏されることなくオクラ入りしてしまった。1961年にコンドラシンの指揮で初演されるという、ついていない交響曲。
3楽章形式で1時間超。膨大なオーケストラ編成を擁し、大音響と室内楽的な雰囲気が交錯しつつ、いろいろなメロディーやフレーズが脈連ももなく次々の現れては消えていく。いままで、明るく楽しかったのに、急に暗く救いようもなくなるし、いきなり大ファンファーレが鳴り響いてもくる。
あらゆるものが混在し、そう、何でもありなのだ。
こうして書くとまるで、マーラーのようでもある。

ハイティンクの演奏で聴くと、なおのことマーラーへの接近が強く感じられる。
ハイティンクが残した交響曲全集は、譜面を正攻法にとらえ、真っ正直までの真面目さでもって取り組んだショスタコーヴィチだった。
ロンドン・フィルの渋い中にもニュートラルな響きは、コンセルトヘボウにも似て聴き応え十分。
少し硬すぎる演奏かもしれないが、この奇怪な音楽が、極めて立派な大交響曲に聴こえる。

77年頃の録音で、当時はまだ珍しい曲だったが、最近は個性的な名盤が増えた。
一番すごいと思ったのが、ラトル/バーミンガムの鋭利な演奏。ヤンソンス/バイエルンは、このハイティンクに近いかもしれない。ゲルギエフ/キーロフはタフで強靭な演奏。
ミュンフン/フィラデルフィアは、オケとのマッチングがいまひとつながら、楽しい。
ロジェストヴェンスキー/ウィーンフィルの非正規ライブは、VPOとは思えない、というか、かわいそういなくらいに乗り回せれている面白い演奏。
こんなに集めてしまった。
プレヴィン/シカゴ、インバル/ウィーン響、コンドラシン、シモノフなども是非聴いてみたいものだ。
ビデオ映像では、ハイティンク/ベルリンフィル!、ヤノフスキ/N響、デュトワ/N響などもあります。

なんだかんだで、このヘンテコ交響曲が大好きなのである。ふっふっふ・・・・。

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2007年11月 1日 (木)

シューベルト 「白鳥の歌」 H・プライ

Momiji_morioka_2_3 北から紅葉の便りが降りてきている。私の住む関東はまだまだだけど、北海道から東北・甲信越はそろそろ見頃。
こちらは、昨年の盛岡の公園にて。

青空に紅葉の赤は実に映える。
でも晩秋はまた寂しいものだ。

Prey_schwanengesang シューベルト(1797~1828)の死後、編まれた歌曲集「白鳥の歌」。
文字通り、シューベルト死の年に作曲された、レルシュタープ(7曲)、ハイネ(6曲)、ザイドル(1曲)に詩による歌曲を集成したもので、3大歌曲のなかでは、最初から物語性をもって作曲されたものではないが、病にみまわれ、精神的にも鬱屈し苦悩の中にあった作曲者の屈折した心情が滲みでているという意味で、完成された完結感がある。

でもそこにあるのは、水車屋のナイーブな恋する青年でもあり、諦念に満ちた旅人の心境でもありということで、苦しい心境にありながらも、文字通りシューベルトの芸術の集大成といってもいいかもしれない。
あまりに有名な第4曲(レルシュタープ)の「セレナーデ」は、甘味な旋律の裏に悲しみの歌を聴くことは容易である。
そして、13曲(ハイネ)の「影法師」。ピアノの伴奏が不気味な和音を弾き続ける。
歌は、歌でなく独白のようだが、徐々にもりあがり、魂の叫びのような痛烈な様相を呈する。この重さをなんとたたえようか!
ことに、プライの歌はこの曲があまりに重い。つらい。
一転、最終の14曲。唯一のザイドルによる「鳩の使い」は、シューベルトの抒情が戻ってきたようだ。ここで一挙に救いの道を見出すようだ。
足取り軽く、これから楽しい旅に出ようか、と思わせる素晴らしい音楽。
この一曲で、我々聴き手は救われる思いをすることになるであろう。

もしあの人が亡くならなければ・・・の歌手部門で、R・ポップとならんで、ダントツでNO1は、ヘルマン・プライであろう!
万年青年のようなプライが1998年に68歳で亡くなってしまった。
自己抑制も万全の歌手だったから、まだまだ歌えたのに。
オペラではベックメッサーを歌ったりして、性格バリトンとして新境地を拓きつつあった時に。ヴォツェックもやるはずだったのに。そしてドン・ジョバンニやウォータン、ザックスにも挑戦したかもしれないのに・・・・。

本CDは1981年のライブ録音で、ピアノはレオナード・ホカンソンである。
語り口の抜群の巧さ、でも人柄が滲みでたかのような声のよさでもって、頭脳的・小手先的な巧さとは程遠い。ドイツ語の発声も教材にしてもいいくらいに明確で耳に心地よい。

白鳥の歌は、高い音域から、低音までとレンジの広い歌曲集である。
だから、F=ディ-スカウかH・プライのハイ・バリトンがいい。
プライには珍しいくらいに力こぶの入った歌も聴かれるが、気迫と優しさの合い混じった素晴らしい歌唱に数日前から何度も聴きいってしまった。

私はこの曲、FDとプライに加えて、ホッターのいぶし銀も聴いております。

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