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2007年12月

2007年12月31日 (月)

R・シュトウス 最後の4つの歌  ニーナ・ステメ

7 大晦日の晩、紅白を楽しむ居間から離れて、ひとり音楽を楽しむ。
思えば1年、いやずっとこんな生活を送ってきた。
一人で楽しむ趣味だから、家族との絆はよっぽど時間を割いておかないと、密室の父状態になってしまう。

そんな今年も、いい音楽会やCDにたくさん出会えた。

記憶に残る音楽会をあげてみると・・・。

 ①「トリスタンとイゾルデ」 バレンボイム/ベルリン国立歌劇場
 ②「ばらの騎士」 W・メスト/チューリヒ歌劇場、シュナイダー/新国
            ルイージ/ドレスデン国立歌劇場
 ③エルガーの交響曲   大友/京響、尾高/読響
 ④ラフマニノフの交響曲  プレヴィン/N響
 ⑤未完成とR・シュトラウス シュナイト/神奈フィル
 ⑥「タンホイザー」 オーギャン/新国、エトヴェシュ/ドレスデン国立歌劇場

自宅での鑑賞の最大の喜びは、R・シュトラウスのオペラ全15作をこのブログで取り上げることが出来たこと。連続聴きはこれまで2回目のことだけれど、聴くたびに喜びが高まる。そして、音楽の出来が均一なところもシュトラウスのすごいところ。
私の二本柱のワーグナーは、こうはいかない。
リエンツィはともかくとして、妖精と恋愛禁制はかなり苦痛を伴なう。
でもこれも、しつかりしたテキストを得たり、舞台を経験すれば違うかもしれない

そして、たくさんの方々に訪問いただき、こんな拙いブログをご覧いただき、本当に感謝感謝!音楽を一人楽しみながら、その喜びを多くの方々と分かちあえる。
こんな素晴らしいことってないと思う。
皆様、ありがとうございました。

今年最後の音楽は、その名も「最後の4つの歌」、R・シュトラウス(1864~1949)の文字通り最後の作品。
1948年、死の前年に人生のすべてを達観し、黄昏に満ちた素晴らしい4つのオーケストラつきの歌曲を作曲した。
ヘッセの詩による「春」、「9月」、「眠りにつくとき」、アイフェンドルフの詩による「夕映えに」の4曲からなり、いずれも絶妙のオーケストレーションにのって時に飛翔するように、時に佇み、感慨に耽り、そして死を意識し、それを受け入れるかのように、これまでのシュトラウス音楽の総決算のようにソプラノが歌う。

こんなに美しい歌曲を私は知らない。
4曲すべてが美しい瞬間だが、なかでも「9月」の逝く夏を惜しむ場面のソプラノの高音での歌「夏は驚いて微笑み、そして力を失う・・・」、この場面がまずたまらない。最後のホルンのソロといったらもう・・・・・。
「眠りにつくとき」のヴァイオリン・ソロ!もう言葉がない。
神奈フィルの石田コンマスの絶美の演奏が耳に残る。

「夕映えに」では、シュトラウスのオペラの最終場面のようだ。
「かくも深く夕映えのなかに、私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう、これがあるいは死なのだろうか」
音楽はまさに、夕暮れに染まりゆく空を思わせる。
遠い空には、巣へいそぐ鳥の姿も見えるようだ。
どこまでも美しく、儚く、そして澄み切った明るさがある。

Nina_stemme この名曲を、スウェーデンの歌姫「ーナ・ステメ」の今年登場したCDで聴いた。
イゾルデやマルシャリンとして、心震わせる名唱・名演技をすでに残している彼女。
北欧の諸先輩と同じように、クリアーでもたれない明晰な歌声。
今風に厚ぼったくなく、クセのない声はとても気持ちがいい。
すべての音域に心が通い、無理なく声が出ている。
ワーグナーとシュトラウスは、もう彼女で決まりだ。
今年舞台で観た若々しいマルシャリンは、とても素適。1幕の終わりに、猫のように床に丸くなってしまった。オクタヴィアンとの別れに耐え切れないいじらしいマルシャリンを演じて見事だった。

これまであんまり聴いてなかった、パッパーノの指揮が意外によろしい。
というか本当にいい。コヴェントガーデンのオケの雰囲気ゆたかなサウンドを得て、シュトラウスに必須の軽やかさと歌心が巧まずして出ている。

「サロメ」の終幕場面と愛すべき「カプリッチョ」の最終場面も収められていてチョー嬉しい。

さあ、録音中のバイロイト・パルシファルでも聴きながら、年を越しますか!

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2007年12月30日 (日)

ワーグナー 「ローエングリン」 アバド指揮

Abbado_lohengrin 昨晩のバイロイト放送は、今年新演出の「マイスタージンガー」だった。(映像少しあり)
ウォルフガンク・ワーグナーの娘、カタリーナのバイロイト初演出。リヒャルトの正統の血を引く曾孫の彼女、将来はバイロイトの運営者ともささやかれる彼女がどのような演出を出したかは放送では不明。

 写真や報道を見聞きする限りでは、相当過激なものだったらしく、3幕が終わるとすさまじいブーイングに包まれるのが放送でも聴かれた。
私のバイロイト放送試聴の経験で、同様の激しいブーは、古いところからいくと、「G・フリードリヒのタンホイザー」、「シェローのリング」、「シュルゲンジーフのパルシファル」の3演目が挙げられるけれど、「カテリーナのマイスタージンガー」はそれに匹敵するくらいのブーイング。果たしてこれから、シェロー・リングのように輝かしい成功の道をたどるのだろうか?それとも、陳腐なだけのシュルゲンジーフのようになってしまうのか?

 記事を見ると「ナチズムの歴史と記憶からの回避」が根底にあるという。
聖地バイロイトは、我々日本人から見れば、純粋にワーグナー音楽の聖地なのだが、ドイツそして、ワーグナー家からすれば、ヒトラーに利用された忌まわしい過去がついてまわるということであろうか。
総裁のウォルフガンクが自身ができないことを、他の演出家に毎度やらせてきたこと。
まるで、ウォータンとジークフリートの関係のようだ。
カテリーナは、ブリュンヒリデとなりうるだろうか?
これだけ自己批判精神の強さを見てしまうと、なにやら気恥ずかしい気分でもある。
誰も傷つかない、万事丸く治めようとする、煮え切らないどこぞの国とは大違い・・・・。

いやはや、前置き長すぎ。

CDで聴くオペラは純粋に音楽に没頭できていい。
今回のアバドのローエングリンは、ウィーンのムジークフェラインでの完全なスタジオ録音なので、正に完璧な仕上がり。
ライブ録音ばかりになってしまった昨今にあって、こうした完璧なスタジオ録音が懐かしい。
Abbdo_lohengrin2 いうまでもなく、アバドはバイロイトに登場しなかった(この先もないだろう)大指揮者の一人だが、以外に若い頃から、ワーグナーを目指した人だった。
トリスタンやローエングリンの管弦楽曲は、早くから演奏してたし、スカラ座の監督時代にシーズンオープニングで、ローエングリンを上演して大成功を収めている。
この時は、ルネ・コロとの共演だから音源があれば是非聴いてみたいものだ。
 さらにウィーン国立歌劇場の音楽監督時代にもローエングリンを取り上げ、ドミンゴが歌った。
その後に録音されたCDが今回のもの。
さらに、ベルリンフィルに着任し、ザルツブルクのイースター祭で、ついに念願のトリスタンを指揮する。
その後は、病後パルシファルを上演して、ベルリンを離れてしまい、ワーグナー全曲を指揮する機会は失われたままである。

ローエングリン→トリスタン→パルシファル、この3作の流れは結果的に、いかにもアバドらしい。マーラーや新ウィーン楽派、ドビュッシーを好むアバドならではの選択に思われるから。アバドは、ベルリン時代、タンホイザーとマイスタージンガーを取り上げることも考えていたらしいから、彼の病気と離任はとても残念なこと。
 ルツェルンに新しいオペラも上演できる劇場が建設されるらしいから、そこでの活躍も期待しよう!

アバドのワーグナーの特徴は、ワーグナーを特別なものでなく、ごく普通の音楽としてとらえ、そこに精緻で清冽な響きと、豊かな歌を盛り込んだもので、マーラーやベルクを演奏するのとなんら変わらない品格をそこに与えることだ。
その精度の高さと、音符ひとつひとつにかける執念のような思いがにじみ出た音楽造りに、私はいつも感激してしまう。
それが重々しくならず、常に澄み切って軽やかなところが、カラヤンとはまた違ったワーグナー像の創造であると思う。
そんなアバドに、ウィーン・フィルの決してうるさくならない美音が大きく寄与していて、木管と金管のまろやかさにまいってしまう。
 でも、数年後ベルリン・フィルの音をより自発的で開放的なものに変えてしまったアバドにとって、最高のワーグナーを聴かせるパートナーはウィーンでなく、ベルリンになった。

ローエングリン:ジークフリート・イェルザレム エルザ:チェリル・ステューダー
ハインリヒ    :クルト・モル         テルラムント:ハルトムート・ウェルカー
オルトルート  :ヴァルトラウト・マイアー   伝令士  :アンドレアス・シュミット

  クライディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団
                           (92年録音)

豪華なキャストは、当時のDGならでは。
一番凄みがあるのが、マイアーのオルトルート。憎々しくもしおらしい、クンドリーと対をなすその二重の対比ぶりが素晴らしい。
主役二人には強烈な個性こそないが、やはり立派なもの。
ムジークフェラインの柔らかく雰囲気豊かな響きを捉えた録音もいい。

かつての記事から~アバドとローエングリン関連で

 アバドのワーグナー  「ワーグナー アバド」(ジルヴェスター) 
 アバドのワーグナー  「トリスタンとイゾルデ」
 アバドのワーグナー  「アバドのワーグナー」(ベルリンフィル)
 ローエングリン     「アルミンク 新日本フィル」
 ローエングリン     「マタチッチ バイロイト」
 ローエングリン     「スゥイトナー ベルリン」
 ローエングリン     「ラインスドルフ ボストン響」
 ローエングリン     「バイロイト2005」
  

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2007年12月29日 (土)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 バーンスタイン指揮

1 数日前、打ち合わせで訪れた横浜。
山下町のあたりから、みなとみらいを眺望。

このあと、汽車道をとぼとぼと歩くおじさん一人。
周りは楽しそうなカップルや家族連れ。

Mahler8_bernstein 年末になると、大曲が聴きたくなる。
バイロイト放送を録音しながら、時おりツマミ聴き。
一方で、大作を聴いてしまうのがここ数年のパターン。

ひさしぶりにマ-ラー千人の交響曲を聴く。
このオラトリオといおうか、カンタータのような音楽を交響曲と呼んでしまった破天荒のマーラー。
実際に千人もの人を擁し演奏される場面に遭遇してみたいものだ。
私の実演は、たった一度だけ。
亡きコシュラー指揮の都響の演奏で、もうかなり昔。まわりに家族風の団体がかなりいた。
そう、少年合唱の親御さん達が双眼鏡片手にいるのであった。
でも以外に大人しくて助かった。今思えば、昔の方が鑑賞マナーはよかったんだ。

マーラーは大胆にも、「これまでの交響曲は、この曲に対する序曲に過ぎなかった」などと言ったが、主観的な悲劇から普遍的な偉大な歓喜や栄光を称えたものになったからだという。7番までの曲が悲劇的な内容ばかりではないとは思うし、マーラーの心情や自然賛美のごった煮のような音楽だと思うが、8番は確かにそうした部分が後退している。
1部はラテン語の賛歌だし、2部は「ゲーテのファウスト」から題材が取られているから。

1部は合唱主体で、響きが拡散ぎみになり、ややまとまりなく感じるが、1時間に及ぶ2部は聴き所満載。
役柄を与えられた独唱に素晴らしい歌がたくさんある。
感極まったバリトンが歌いだすところと、そのあとを次いだバスの深々とした歌。
常に情熱的なテノール(マリアを称える学者)は大車輪の活躍。
ソプラノによる清らかなグレートヒェンの歌、マリアの高貴な歌などなど、次々に繰り出されるし、山や森を歌う合唱とオーケストラの素晴らしさ、そして何と言っても最後の「神秘の合唱」。静かに歌いだされ、徐々に輝きと力を増してゆき、最後は燦然たるクライマックスを築きあげて大交響曲は終わる。

こんなすごい大曲は、かつては特別な時でないと演奏されなかった。
記憶にあるものでは、朝比奈隆と大フィル、小沢とベルリン・フィルやフランス国立管のもの、そしてバーンスタインとウィーンフィルのザルツブルク公演など。
いずれも70年代のものしか覚えていない。

 マーガレット・プライス、ジュディス・ブレゲン、ゲルッティ・ツォイマー
 トゥルーデリーゼ・シュミット、ケネス・リーゲル
 ヘルマン・プライ、ホセ・ファン・ダム

 レナード・マーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団ほか
                       (75年8月ザルツブルク)

DGに残した2度目のマーラー全集は、8番と10番を残してバーンスタインは亡くなってしまった。やむなく登場したのがORFに残されたザルツブルクライブの音源。
バーンスタインの覇気と情熱に、オケも独唱も合唱もみんな引きずりこまれた大熱演をそのまま録音してしまった。
ドタンバタンというバースタインの飛び跳ね、足を踏み鳴らす音や唸り声もそんまんま入っている。最初はうるさく感じるが、これも音楽と一体になっていることで、気にならなくなる。
勢いのよりあるロンドン響との旧盤より、音楽への没頭感があり説得力も強い。
歌手では、リーゲルの力演とプライの声の素晴らしさが抜きん出てるように思う。

世紀末アールデコの美術家「エルテ(Erte)」の作品をあしらったシリーズのジャケットもよかった。
そのエルテの残したアルファベット文字を使って、マーラーのお名前を作成してみた。
ちょっと気持ちわりぃな・・・・・・。

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2007年12月27日 (木)

プッチーニ 「ラ・ボエーム」 クライバー指揮

4プッチーニのボエーム、そう何度も聴けるオペラじゃない。
何故って、涙ちょちょぎれ、衆人のもとでは恥ずかしくて容易に聴けないもの。

こんな素適なオペラを書いたプッチーニ、彼も、主役の女性をとことん愛し、そしてさまざまなタイプの女性を描いた。
そうした意味では、R・シュトラウスと双璧かもしれない。

トスカやバタフライ、トゥーランドット、マノンはみんなおっかないけど、やはりミミは身近だな。
かわいい一途さがあるし、儚い命を燃え尽きてしまうところも男心をくすぐる。
ロドルフォやボエーム達の甲斐性のなさも、我がことのように身近に感じちゃう。(へへっ)

この愛すべきオペラ、なんとまだ舞台で観たことがない。
昨今、人前で密かに涙することが巧くなったから平気だと思い新国の公演に行こうと思ったら、すべてソールドアウト!

6 しょうがないから、とっておきの音源を聴いてしまおう。
カルロス・クライバーミラノ・スカラ座の1981年日本公演のライブだ。
FM生放送のエアチェックテープを自家CDR化したもの。
もう26年も経つ。
総監督アバドとともに来日したクライバーは、このボエームとオテロを指揮した。
アバドはシモンとセヴィリアとヴェルディのレクイエム。
いずれもNHKが生放送したし、テレビ放送もした。
当時新入社員だった私が、こんな豪華公演に行けるわけもなかったが、唯一大奮発して大ファンの初アバドのシモンをS席で観劇するのがやっとだった。
というより、クライバーのチケットなんてまったく取れなかったんだ。
しかし、アバドのシモンは生涯忘れえぬほどの感銘をもたらしてくれた。

1 無念のボエームやオテロはFMやテレビで観劇して、そのすさまじいまでの表現意欲にまったく驚いた。
ボエームのテレビ放送では、やはり涙が止めようがなかったが、クラシック音楽にはまったく興味にない亡父がこっそり見ていたのを覚えている。
88年の再演でも、金欠の私は立ち会うことができなかった。
ついぞカルロスの実演に接することができなかったことは私の音楽生活の中では痛恨のことなのだ!

  ミミ :ミレッラ・フレーニ          ロドルフォ:ペテル・ドヴォルスキ
  マルチェロ:ロレンツォ・サッコマーニ  ムゼッタ:マルゲリータ・グリエルミ
  ショナール:アントニオ・サヴァスターノ  コリオーネ:パオロ・ワシントン

今、意外に鮮明に録音できた音源を聴いてみて、ドラマといっしょくたになって自在に呼吸するクライバーの指揮の素晴らしさに感嘆せざるを得ない。
冒頭拍手も止むのももどかしいくらいに性急に始まる音楽。一気に引き込まれてしまう。
有名なふたつのアリアのオーケストラがこんなにニュアンス豊かに鳴るのはすごい。
終始早めのテンポで進められ、音楽は弾むように軽やかだ。ところが2幕のカフェ・モニュスの華やかさを境に3幕から、急速に悲劇の色を濃くし、オケは悲しみの色を増していく。
終幕の前半の取り繕った明るさが、瀕死のミミを見つけたムゼッタの登場で、急激に悲しみに陰ってしまう。ミミの死における慟哭は、ロドルフォの叫び以上にオケが雄弁なのだ。
この録音では、うなりながら指揮をするカルロスの声も聴こえる。

2 いつまでも若く万年ミミのフレーニが悪かろうがない。彼女のニュアンス豊かで暖かみのある声はクライバーにぴったり。
亡きドヴォルスキも全盛の頃で、豊かな声量による美声は快感でもあるが、ちょっと優等生すぎるか。サッコマーニのいい人を絵に描いたようなマルチェッロもいいし、グリエルのムゼッタの清涼飲料のような爽やかさもいい。

われながら、いい音源をいい状態で保存していたものだ。
NHK様は、映像も保管してないのだろうか。
3

やはり終幕では、胸に来るものを押さえきれなかった。

こんなオペラを作曲しちまったプッチーニ先生は罪なお人だ。

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2007年12月25日 (火)

バッハ マニフィカート ガーディナー指揮

2街を彩るイルミネーションの発祥ともいえる、仙台の光のページェント。
何年も仙台には行っているが、国分町で夜は終わっていたので、見たこともなかった。
今年は根性据えて見にいった。

単色イルミネーションでは、髄一の規模と美しさ。
こんなイヴェントが主に商店主の努力や市民のボランティアが中心となって行なわれていることが驚き。行政の関与はちょっぴり・・・・。

Bach_magnificat クリスマスの日に、バッハのマニフィカートを聴く。
日本ではイヴェントと化してしまったクリスマス。
かくいう私も、通俗的な日を過ごしてしまうが、音楽だけは、キリストの降誕という史実や宗教感に根ざしたものを聴きたい。

そんな1曲が、マニフィカートである。
この輝かしくも祝典的な音楽は、マリアの受胎告知後、喜び溢れるマリアが、親族エリザベツを訪問し、神を賛美する場面に基づくもの。
「私の魂は主をあがめ」という、ルカ伝の1節が原典。
独唱4人に合唱、金管の活躍するオーケストラのための音楽は、心踊るような躍動感と感謝の念に満ちている。
バッハの中でも壮麗な音楽のひとつ。

クリスマス・オラトリオとともに、この時期にぴったりの曲をガーディナーの屈託ない演奏で楽しむ。

5 1

25日を終えると、ツリーは撤去され、何事もなかったかのように元通りになってしまう、日本の街々。
なんなんだろ?
子供たちに聞いてみた。
クリスマスって何の日?
え?知らな~い・・・・・。

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2007年12月23日 (日)

R・シュトラウス 「カプリッチョ」 サヴァリッシュ指揮

Capriccio_2

 

 

 

 

 

 

 




R・シュトラウス
(1864~1949)のオペラシリーズ、いよいよ全15作のおおとり、「カプリッチョ」を取り上げる。
このブログでは、2回目、フレミングの映像で、カーセンの考え抜かれた演出のものだった。

「カプリッチョ」は、シュトラウス最後のオペラ作品であり、あとは吹奏楽のソナチネと「最後の4つの歌」を作曲したぐらい。
ダナエの愛」(1940)に続いて、とりかかり、1941年に完成。1942年にミュンヘンで初演された。

この作品も台本作者不在の宿命を背負っている。
ホフマンスタールのあと、ツヴァイクと良い関係が築けたが、ナチスの台頭でスイスに亡命してしまう。
そのツヴァイクが提案していたのが、サリエーリが作曲していた「はじめに言葉、あとに音楽」というオペラの内容。
ツヴァイクの次の台本作者グレゴールに頼んで、スイスに行ってもらって構想を練ってもらうことにしたが、結局は納得のゆくものが出来そうにない。
シュトラウスは、抒情でもない、詩でもない、感情陶酔でもなく、聡明で、無駄のない機知といったものを欲していたという。
まさに老練の境地とでもいえようか。
ヴェルディやワーグナーの晩年の境地を思ったことであろう。

そんなシュトラウスの意図をくまなく理解していたのが、芸術上の理解者であり協力者であった、クレメンス・クラウスだった。
シュトラウスの全面的な意図のもとに、クラウスが台本を書くという共同作業になった。
生粋のウィーンっ子であり、貴族の血も流れるクラウスの文学的な才能には驚きを禁じえない。
言葉の洪水的な部分はあるにしても、実によく練られよく考えられた台本である。
初演の指揮も、当然クラウス自身が行なっている。

カプリッチョ=狂詩曲という名のオペラ、舞台は18世紀後半、パリの貴族の宮殿で、久しぶりに神話の世界から回帰している。
オーケストラの編成は小振りで、合唱も登場せず室内楽なオペラで、これまでシュトラウスが希求してきた透明で羽毛のような軽やかで、かつ古典的なサウンドが完璧な作曲技法とともに満載となっている。
言葉(台詞)は多いけれど、音楽とともに無駄なものはひとつもない、と思わせる。
練達のシュトラウスが行き着いた境地ではあるけれど、まだまだ書くことができたのではないかとも思ってしまのは、欲張りだろうか・・・。
クラウスの求めもあったが、「これよりよいものが続きえるでしょうか?生涯の演劇創作の最良の終結ではないでしょうか?人は最良の遺書をひとつしか書けないものです・・・。」
と応えている。

この言葉は、オペラの題材と最後の場面を聴くことによって、大いに納得しうる。

パリ近郊、伯爵の兄と若い未亡人の妹が住む宮殿の客間。
作曲家フラマンが作った弦楽6重奏が演奏されている。
劇場支配人ラ・ローシュは、よき調べに気持ちよく眠っている。伯爵令嬢は、うっとりと聞き惚れている。
フラマンは、自分の音楽が令嬢に満足を与えたとして満足しているが、詩人オリヴィエは、自分の詩の方がお気に入りなのだとして譲らない。
言葉(詩)と音楽、どっちが勝っているか、さらにラ・ローシュも加わり、3人で激論が交わされる。
今夜、邸宅でオリヴィエの書いた劇が上演されることになっていてこうした人物達が集っているのである。
 代わって令嬢と伯爵が登場し、伯爵は令嬢が作曲家に惹かれているのではないか?とからかい、自分は詩の方がすぐれているという。
令嬢は、今夜の劇でその詩を伯爵お気に入りの女優クレーロンが朗読するからね、と逆にやり返す。
 ラ・ローシュが、今夜の演目を説明する。
まず、フラマン作曲のシンフォニア、次いでオリヴィエ作の劇、自身作のスペクタル劇、という具合に。
そこへ、クレーロンがやってきて、練習が始まる。
オリヴィエの伯爵令嬢への愛を歌った朗読に刺激を受けたフラマンは、作曲に没頭する。
その出来立ての歌は、令嬢を魅惑してしまう。
でも令嬢は、「あなた方は分かちがたく、一体化しています」とどちらともいえない態度。
二人になったフラマンは、明日朝返事を自分に聞かせてくれるという約束を令嬢から取り付ける。

一同が揃う中、新しいバレエダンサーが紹介され、ガヴォットなどいくつかを踊る。
その間、伯爵はクローレンに、今夜一緒にパリへ行くという約束をしニンマリ。
ここで、今夜のスペクタル劇を説明するラ・ローシュだが、2部形式の古めかしい活劇を説明し、全員の嘲笑を浴びる。
それでもめげない彼は、「劇場の永遠の法則」を朗々と長時間に渡り大演説を行い、逆に大喝采を浴びる。

  そこで、解決策として令嬢は、「オペラ」を作ることを提案。
内容は、「今夜起こったこと」をテーマにすることで、兄の伯爵。
すっかり意気投合した、詩人と作曲家(でも、詩が音楽が、一番だと思っている二人)は、劇場支配人とともに、準備のため去る。
女優と伯爵は、パリへ向かう。

誰もいなくなった部屋に、召使たちが現れて、やれやれ、すべてはお芝居、自分たちこそ舞台裏を知っているのに・・・・。
家令がひとりとなり、そこに居眠りしておいてきぼりを喰ったプロンクターが登場し、家令ととぼけた会話を交わす。


 二人が去ったあと、音楽は美しすぎる「月の光の音楽」となる。

正装した伯爵令嬢が登場、そこへ伝言を持った家令がやってきて、詩人オリヴィエが明日朝にお会いして、オペラの結末について聞きたいとのことを告げる。
期せずして、二人がかち合うことに。「これは宿命、二人は分かちがたく結びついているのだわ」決めあぐねる令嬢。
令嬢は、ハープを弾きながら、オリヴィエの詩に、さきほどフラマンが作ったソネットを歌う。
鏡に映る自分に問いかける、「さあ、なんと答えるの?愛されているのに、自分を与えられないの?二つの焔の間で燃え尽きたい?・・・・」
「あの人たちのオペラの結末を見つけるのに、月並みでない結末があるかしら?・・・」
迷う令嬢に、家令が食事に仕度を告げにきて、音楽は洒落た結末となる。

全1幕、2時間20分。同じ舞台に様々な登場人物。動きは極めて少なく、各人の心象心理のみがドラマとなっている。
言葉と音楽、鶏と卵のような永遠のテーマに、詩人と作曲家への愛を重ね合わせた秀逸なドラマ。
ここに付けられたシュトラウスの音楽の素晴らしさに、はなはだ抗し難い魅力を感じる。
グルックやピッチーニの音楽ばかりか、オペラのテーマを決めるのに、これまでの自作(アリアドネやダフネ)の旋律も鳴り渡る。
主要な登場人物すべてに、歌いどころが作られていて、誰もが主役。
フラマンの愛の告白の歌はシュトラウスがテノールにつけた一番美しい曲かもしれないし、ラ・ローシュの大演説は驚きの大曲。
お決まりのイタリア人歌手も登場する。
さらに、フーガや8重唱なども組み込まれていて、ヴェルディの「ファルスタッフ」をも思わせる。
そして、一番素晴らしいのは、シュトラウスらしい澄み切った心洗われる終幕場面。
私は、月の光の音楽から、伯爵令嬢のモノローグまで、明滅するように、儚くあまりに美しすぎる音楽には言葉がなく、感動のあまり茫然としてしまうことになる。

 R・シュトラウス 「カプリッチョ」

 伯爵令嬢:エリーザベト・シュヴァルツコップ 伯爵:エーベルハルト・ヴェヒター
 フラマン :ニコライ・ゲッダ  オリヴェール:ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
 ラ・ローシュ:ハンス・ホッター          クレーロン:クリスタ・ルートヴィヒ
 イタリア歌手:アンナ・モッフォ

  ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
                             (1957・58年録音)

Capriccio_emi









ほれぼれするような豪華キャスト。もうステレオ時代だったのに、EMIは遅かったのが残念だが、モノラルながらいい録音。
初演者でもある、ホッターのかくしゃくたる劇場支配人がとてつもなく素晴らしい。
こんな器用な人だっけ?と思ってしまったし、例の演説もウォータンばりの歌唱。
それに、若いゲッダF=ディースカウの美声の名コンビ。
FDとルートヴィヒの朗読も見事という他はないし、ヴェヒターの軽やかな伯爵もいい。
 これに加えて、シュヴァルツコップが悪かろうはずがない。
一語一語に、推考を重ねた思いのたけのこもった名唱。
贅沢を言えば、スタイリッシュな歌唱がスタンダートとなった今、少し味わいが濃いかもしれない。
ヤノヴィッツやトモワ・シントウと比べても、と、ほんとの贅沢な話なんだけれど。

若きサヴァリッシュは、今も昔も変わらない、それこそ、スマートで明晰なシュトラウスに取り組んでいる。
ニュートラルな英国オケもそれに寄与している。
ホルンは、かのデニス・ブレインだろうか?録音が、ホルンだけちょっオフに聴こえて残念。
ついでながら、バリトンの美声を持つサヴァリッシュが、ほんのチョイ役で登場するのもご愛嬌。
よき時代の夢のような録音。でもこれがデッカかDGだったら・・・・・。

Bohm_capriccio こちらは、もうひとつの愛聴盤のベームのバイエルン放送盤。
負けず劣らずの素晴らしいキャストにため息。

シュタイン、ウィーン・フィル、トモワ・シントウのザルツブルクFMライブも自家CDRを作成して聴いている。

あと、いつも思うEMIの再発もののジャケットのお粗末さ。
このところ出てるオペラの廉価盤など噴飯もの。
何故、オペラだけオリジナル・ジャケットが使えないのだろうか?

 

これをもって、R・シュトラウスのオペラ全15作品を取り上げたことになる。
近くレヴューしてみたいが、つくづくと劇場の人であったシュトラウス、「グンドラム」から「カプリチョ」まで駄作がひとつもなく、どこをとってもシュトラウス。
劇的な転換は、「サロメ」「エレクトラ」から「ばらの騎士」だが、あとは大きな変換はなかったように思われる。何度も書いたが、有名な管弦楽作品は大方書き終えて、オペラに集中したシュトラウス。生涯、女性の声にこだわった。

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2007年12月22日 (土)

グィネス・ジョーンズ ワーグナー集

3 今日は、冷たい雨が降った東京。
疲れた内臓に鞭打って、今日も夜の街をさまよい歩く。

新宿の南口、ミロードからサザンテラスまで、グリーンを基調とした美しいイルミネーションが飾られる。
ドーナッツの行列を尻目に盛り場へ急ぐ。

Gjones

デイム・グィネス・ジョーンズ、このステキな歌手も私の世代にとっては、忘れ難い名歌手。
1936年ウェールズ生まれ、今はもう引退してしまったろうか?息の永い歌手で、60年代から2000年始めまで活躍していた。
私が音楽を聴き始めた70年代初頭、彼女は引っ張りだこで、ベームバーンスタインらの録音には必ず起用されたし、バイロイトでもその頃から活躍を始めた。
役柄的に、ニルソンの完全な後継者であるけれど、ニルソンが歌わなくなってしまったジークリンデやマルシャリンも良く歌っていて、ドラマティック・ソプラノばかりとも言えない。
彼女のレパートリーを思いつくままに列挙すると、レオノーレ、ゼンタ、エリーザベト、ヴェーヌス、エルザ、オルトルート、イゾルデ、エヴァ、ジークリンデ、ブリュンヒルデ、クンドリー、サロメ、エレクトラ、マルシャリン、オクタヴィアン、バラクの妻、マクベス夫人、エリザベッタ、デスデモーナ、トゥーランドット、トスカ・・・・・・。
いやはやスゴイ!!
ワーグナーは、すべてのソプラノとメゾのロールをすべて歌っている。
このフレキシヴィリティの高さこそ、彼女の強みでもあるんだ。

ジョーンズの声についてあれこれ言う筋は、必ずしも少なくない。
叫ぶような高域がダメだというのだ。
私は、そうした意見も多少は認めつつも、それ以上に魅力を感じるのが、彼女の中域から低域にかけての神々しいまでの輝きと美しさである。
ジョーンズのイメージは、叫びの高域ではなく、その部分なのだが、ところが実演の素晴らしさに接するとそんなことは言ってらんなくなる。
ハンブルク・オペラで来日の「影のない女」とウィーンとの「イゾルデ」で彼女の舞台に接したが、出演者の中でも一際抜きんでて声が通る。
すべての音域が耳にビンビンと響いてくる。そればかりか、演技派の彼女の迫真性には心打たれるものがあった。バラクの妻の葛藤とイゾルデの怒りと盲目の愛・・・。
本当に素晴らしかった。今でも耳もとにあの時の歌声が残っているくらいだ。

ブーレーズ&シェローのリングにおけるブリュンヒルデでも、まさにそんな彼女の素晴らしさが体験できる。音声だけでなく、彼女の演技を体験することが一番いい。

今日の1枚は、1990年、本国シャンドス・レーベルがこれまでなかったデイム・グィネスのワーグナー集を残してくれたもの。
「タンホイザー」「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」(前奏曲と愛の死)、「神々の黄昏」(自己犠牲)。全盛期からすると、やや寂しいヶ所もあるが、相変わらず品格と気品に満ちたワーグナーを歌っている。
やはり、イゾルデとブリュンヒルデが素晴らしく、思わず背筋を伸ばさざるを得ない。
ロベルト・パテルノストロ指揮のケルン放送響がかなり立派な演奏だ。
リングも録音しているパテルノストロは、ラテン系のイメージが強いが、ベネチア人を父、ウィーン人を母に持つ、アバドやメータと同じくスワロフスキー門下のオペラの名手である。
すっきりともたれない、今風のワーグナーは実に好ましく聴いた。

G_jones_2 こちらの画像は1971年頃、ゼンタを歌ったもの(たぶん)。
あまり大差がないから、CDジャケットはちょいと前のものを使用している様子。
一般には、ギネス・ジョーンズと呼ばれるが、ご本人は、グィネス・ジョーンズと呼んでもらいたいらしい。(Gwyneth Jones)
ステージを離れると、我は強いらしいが、お茶目でかわいい人らしい。
いつまでも元気でいて欲しい大好きな名歌手の一人。

1 2

賞味期限が過ぎないうちに、しつこく貼っちまいます。

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2007年12月20日 (木)

ジーン・コックス オペラ・アリア集

Ginza12m2 銀座のソニー・ビルの様子。

いつも思うけれど、こうした飾り付けにいくらかかっているんだろう。
こちらは毎年チャリティー募金が目玉になっていて趣旨は非常によろしいけど。

空虚なネオンやイルミネーションはそろそろ見直して欲しいもの。

でも夜のネオンは、いつどこでも恋しいけれどね。

Jean_cox

ジーン・コックス」の名前をご存知の方は、私と同世代のワーグナー・ファンかもしれない。
1970年代前半に、バイロイトで獅子奮迅の活躍をした歌手なのだ。
私はご多分にもれず、年末恒例のバイロイト音楽祭のFM放送のおかげもあって、ワーグナーに開眼していったこともある。
ヴィーラント・ワーグナー演出のリングは、1970年(マゼール指揮)で終わってしまい、その年はまだワーグナーなんて思いもよらない世界だったが、1971年からのウォルフガンク・ワーグナーのリングあたりから聴き始めた。
たしか、そこで登場したのがホルスト・シュタインであり、ジークフリートを歌ったジーン・コックスだったはず。

演出に独創性が希薄となり、指揮もベームやマゼールからすると小粒、歌手もヴィントガッセン、ニルソンの時代から世代交代の時期にあった。
でもそこはシュタイン、年々磨きがかかり、誰をも納得させてしまうワーグナー演奏を次々に繰り広げることとなった・・・・。

でもソプラノもテノールも、やや不毛の時期だった。
リゲンツァやジョーンズまでは少し間があったし、デルネッシュはカラヤンが独占してしまっていた。
ヘルデン・テノールにおいて、J・キングの守備範囲以外、ヴィントガッセンとR・コロ、ホフマンの間をつないだのがこのジーン・コックス。J・トーマスは、70年代は不調だったし。

アメリカのアラバマ州に生まれ、ボストンでじっくり勉強をつんでヨーロッパに渡る。
このあたりは、先達とまったく同じ道を歩む。
イタリアでデビューし、ファウストやロドルフォを歌い、その後、マンハイムに拠点を移しイタリアものを中心に活躍。とりわけオテロは今でも語り草・・・と解説にある。
マンハイムでいよいよワーグナーの諸役に挑み、やがてバイロイトへの道が開かれることになる。
当時、マンハイムにはホルスト・シュタインもいたから、この二人の関係もうかが知れる。

Cox バイロイトでは、エリック、ジークフリート、パルシファル、ヴァルターを歌った。
年によっては、ヴァルターとジークフリートすべてを歌うという快挙もなしていて、当時バイロイトにはなくてはならぬコックスだったのだ。
正規録音は、残念ながら「マイスタージンガー」のみで、シュタインのリングが聴けないのが残念だ。
かなり気合をいれて飛ばしてしまう人だから、スタミナ配分に問題があったらしく、ジークフリートでは元気一杯のブリュンヒルデに押されっぱなしだったし、黄昏では、息も絶え絶えの葬送行進曲のモノローグだったらしい。
私のエアチェック音源でジークフリートが少し残っているけれど、結構いいと思うけど。
CDRでも売ってるけど、高い!

そんなコックスの唯一と思われるCDが今日の1枚。
「フィデリオ」「魔弾の射手」「タンホイザー」「マイスタージンガー」「パルシファル」「神々の黄昏」、これらから歌われている。
なかでも黄昏は、ジークフリートが記憶を回復しつつ、鳥の歌やブリュンヒルデのことを歌う場面から、その死と葬送行進曲までたっぷりと収録されている。
録音時期が不明だが、正直全盛期を過ぎていることは否めない。
声の威力や音程に不満があるのは事実だが、高音をエイッとばかりに張り上げるさまは、コックスの特徴で、人によってはダメのレッテルを貼りそうだが、私は微笑ましく聴く。
こんな健康優良児的な人のいいジークフリートは他に聴かれないから。
神々しい役柄よりは、朴訥であったり自然児的であったりする役柄の似合うコックスなのである。それにしても、どんなオテロを歌っていたのだろう。やたらに興味がある・・・・。

オーケストラは、英国のフランク・シップウエィ指揮のマンハイム国立歌劇場
このオケが聴ける点でも貴重な1枚。雰囲気豊かないい演奏に驚き。
このCDは、ひょっとするともう手に入らないかもしらん。

Gotter3_cox

ウォルフガンク演出のリング。中肉中背のコックス・ジークフリート。

今年も25日から、恒例のバイロイト放送が始まる。
新演出のマイスタージンガーの盛大なブーが聴きもの??

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2007年12月18日 (火)

エルガー 交響曲第3番 デイヴィス指揮

Matsuya 銀座の老舗デパート「松屋」。

百貨店の大連合は、どこがどこのグループだかさっぱりわからなくなってしまった。
同じエリアで競合するし、少ない都会のパイを求めて生き残りが大変。
松屋は老舗のブランドをかなぐり捨てるかのように、海外ブランドに自ら身をまとってしまった。
「ヴィトンのトランク」がまんま外装になってしまった。

Elgar_sym3_davis
今日は、数年前、物議をかもした、エルガー・ブランドの交響曲第3番を聴く。
作曲家であり学者でもある「アンソニー・ペイン」が、エルガーの残したスケッチ等を基に補筆・完成したもので、1997年のこと。
初演は、1998年、アンドリューのほうのディヴィスによって行なわれている。

この作品のあらましは、いわずと知れたこちらをご参照。
1932年、死を2年後に控えたエルガーが、BBCの委嘱により作曲を始めたものの、未完に終わった。
第3楽章までは、あきらかにスケッチが残るが、4楽章はペインの創作によるもの。
初演10年をして、ここのところ急速に浸透してきた3番。
メモリアルイヤーの今年、世界でどの程度演奏されたのだろうか?
CDでは、ヒコックスが出たし、我らが尾高さんも録音した(威風堂々6番も!)。
日本では、今年正式公演はなかったかも・・・・。そのかわり、年明け1月に大フィル、11月に札響が、いずれも尾高さんの指揮でコンサートに取り上げる。
大友さんはというと・・・・・?

肝心の音楽であるが、これはもう完全にエルガーそのもの。
隅々までエルガー・テイストに満ちていて、新たな純交響曲の登場に、エルガー・ファンなら、それだけでも嬉しくてしょうがなくなる。
私は出遅れ組で、当初は懐疑的だった。
だが、各方面の批評を目にし、実際に、ナクソスのP・ダニエルのCDを手にして、何度も聴き馴染むうちに、これはもうエルガーだ!との思いに達するようになり、交響曲第3番として認識せざるを得なくなったものだ。この1年くらいのことだ。

まだまだ、聴き込みが足りないが、1楽章のエルガーらしい第2主題、2楽章の憂いと気品のスケルツォ、3楽章の優しさと物憂さ・沈鬱さに満ちた調べ、終楽章、他作品の引用をせざるを得なかったものの、いかにもエルガーの思い描きそうな堂々たるフィナーレ。
いずれも楽しめること請け合いなんだから。

コリン・デイヴィスとロンドン交響楽団は、まるで既知の大交響曲を演奏するかのように、音楽にのめり込んでいる。ディヴィスの唸り声と歌声がまともにとらえられているし。
このようにして、いわくを度外視した名演が次々に重ねられることによって、エルガーのもうひとつの名曲として定着していくことであろう。
欲をいえば、このLSO自主制作盤は、バービカン・ホールの乾いた響きがマイナスとなって聴こえる。
これを思うと、ナクソス盤の方が、演奏に遜色ないうえ録音もよろしい。
ヒコックス盤が聴きたいけど、高いし・・・・・・。

Ginza12m

銀座通り。PM11:00の図。

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2007年12月17日 (月)

ヘンデル 「メサイア」 バーンスタイン指揮

Hamamastutree 浜松駅前にあるツリー。
このツリーは、なかなか精巧に造られていて、下から見上げると驚きだった。

今年は例年より地味な街(特に渋谷)と、そうでない街が混在しているが、どちらかというと、日本の繁華街は落ち着いた趣に向いつつあることを思わせる。

 

日本人にとってのクリスマスとは、商業的なイメージが先行するのみである。
神道ないしは仏教徒の国で、キリストの生誕を祝うのも奇異な話であるが、中国や韓国もどうもその傾向から逃れられないらしい。
25日になると、昨日までのクリスマス・ムードはきれいさっぱりとなくなってしまう。
本来のキリスト教国であれば、1月の1週くらいまでは、聖週間が続くらしいけれど。

そんな風潮にイルミネーション好きの私はしっかり乗ってしまう。
家でも、子供も見向きもしなくなったツリーを一人飾る寂しいお父さんなのである。
このお父さんは、クリスマスにはチキンをローストし、毎年違った料理に腕を振るう。
家族は、そんなのいいから、寿司でも食べさせろという。
自己満足の父なのである。

 

Bernstein_messiah

 

自己満足のひとつが、この時期の「メサイア」である。今でこそ、オリジナル楽器による俊敏な演奏も現れ、様々な解釈が楽しめるが、私がメサイアをはじめて聴いた頃は、大オーケストラによる豪華なものばかりであった。
FMで聴いたデイヴィスとロンドン響のものが初メサイア。

それから、カール・リヒターのドイツ語版がバッハよりのユニークなヘンデルだったが、そのリヒターもロンドンで英語版を録音した時は、少しロマンテックな解釈に傾いていた。

でも、常に心にある「メサイア」は、アメリカーンなメサイアで、オーマンディとフィラデルフィアのCBS盤なのだ。中学生の時にはじめて買ったメサイアがそれ。
2枚組2500円のダブルシリーズで、録音もよく擦り切れるほど聴いたものだから、もう傷だらけで、今は再生できないだろうな。

 

そんな思いで、バーンスタインの抜粋盤を聴いてみた。
1956年というステレオ最初期の録音で、バーンスタインとニューヨークフィルのコンビもごく初期の頃。元気一杯のにぎにぎしいメサイアを予想すると、意外に落ち着いた雰囲気に驚く。結構大人しく神妙に指揮している。
でもそこはバーンスタイン、ハレルヤコーラスなどは、じっとりと腰を落として演奏している。
そんな具合に、合唱曲はちょっと重たいが、ソロの場面ではなかなかいい雰囲気につつまれる。録音の具合もあろうが、もう少し派手さがあっても、と思わせるくらい。
歌手は、テノールがまるでズーズー弁で、へっぽこに聴こえる以外は、まずまず。

 

バーンスタインは、若い頃から、この「メサイア」や「マタイ」「天地創造」などの宗教作品をよく指揮していた。ヒューマンなレニーがマーラーなどと同等に、こうした曲に没頭していたのが面白い。

 

Ormandy_messiah

 

オーマンディの「メサイア」のレコード。
いまだに、このメサイアが私の指標。
我復活を望む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hamamastu_tree2 浜松ツリーを下から覗くの図。

 

 

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2007年12月16日 (日)

エルガー 「神の国」 ヒコックス指揮

1_2

以前訪問した、小樽の富岡教会。
昭和4年のゴシック様式による本格カトリック教会。
教会の左手下には、マリア像がひっそりと立っていた。

イギリス国教会は、ローマ・カトリックとは異にするものだが、なだらかなアーチや、堅固な佇まいがエルガーの音楽にも相応しく思い冒頭に載せてみた。

エルガーは、ヘンデルの「メサイア」以来の英国オラトリオの歴史に燦然と輝く名作をいくつか残している。
エニグマや交響曲ばかりでなく、最近はオラトリオの諸作を聴くようになって、エルガーへの多面的な理解が深まるようになったと思う。

ゲロンティアスの夢」が一番有名だが、エニグマで有名になる前でも、「生命の光」「カラクタクス」などの大作が作曲されている。
国内で行なわれる音楽祭では、伝統的に宗教・合唱作品の需要が高かった為、ドイツやフランス、イタリアなどと比べ近代英国作曲家は声楽作品に秀でている。
エルガーばかりでなく、何人もの作曲家たちの素晴らしい作品が思い浮かぶ。
 

Elgar

そして、「ゲロンティアス」に次いで、エルガーはオラトリオ3部作の作曲に取り掛かる。
第1部が「使徒(アポステルズ)」で、マグダラのマリアと使徒たち、そしてイエスの受難を描いたも。
第2部は、「神の国」。イエスは受難後、復活を経て使徒たちに姿をあらわし、さらに使徒たちに聖霊が舞い降りる。この聖霊降臨を描いているもの。
さらに、第3部は、「最後の審判」を描いたものになる予定だったが、結局は完成されなかった。第3部の未完は、とても残念なことだが、残された2作は、エルガーの最充実期だけに、本当に素晴らしい音楽に仕上がっている。

今回は、時期が降誕節も近いことから、受難の物語もなんだから、「神の国」を取り上げてみた。
昨晩の交響曲第2番の響きがまだ頭から離れないが、交響曲第1番が1907年、2番が1911年、そして「神の国」は1906年の作品。

Elgar_the_kingdom

ペテロとヨハネのイエスの弟子たちと、イエスの母マリアとマグダラのマリアを独唱とし、新約の「使徒行伝」に基づきながら、エルガー自身がテキストを作成している。

全5場からなります。

ユダに代わる新しい使途の選出
二人のマリアによる、足や目の不自由な人を癒したイエスの秘蹟の回顧
聖霊降臨、使徒たちが様々な言語で語り始め、ペトロによる感動的な説教
ペトロによって、イエスと同じような秘蹟が行なわれるが、司祭らに二人の使徒は捕らわれてしまい、マリアによる祈りの歌が歌われる
釈放された二人、使徒たちは喜び、パンを配り聖餐がとりおこなわれ、父なる神を称える。

このようなキリスト教的な内容に、退いてしまう方もおられるかもしれないが、素直にエルガーの書いた音楽に耳を澄ませば、大いなる感動に包まれることは間違いない。
 また、ワーグナー好きなら、「パルシファル」との類似性なども思い起されるし、二人のマリアが重視されるテキストは、聖杯伝説・・・なども想像することもいいかもしれない。

とりわけ素晴らしいシーンは、③のペトロの励ましの説教とそれに続くクライマックス。
おそらくイエスを思わせる全曲を支配するライトモティーフが、素晴らしい高揚感をもたらしてくれる。私は、涙ちょちょぎれ状態になってしまった。
そして④のマリアの献身的な祈り。ピュアでかつ熱い気持ちを込めて歌われるその歌は胸を打つ。さらに感動は、最後の主の祈りと静かなエンディングの場面でももたらされる。
聴き終えたあとも、しばらくはいくつかの印象的なモティーフが心に残り続ける。

聖母マリア:マーガレット・マーシャル  マグダラのマリア:フェリシティ・パーマー
ヨハネ :アーサー・デイヴィス     ペテロ:デイヴィット・ウィルソン・ジョンソン

    リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団/合唱団

ヒコックスの全霊に満ちた指揮とオケ、合唱は火の打ちどころもなく素晴らしい。
独唱も地味ながら、よく歌っている。とくにジョンソンがいい。

エルガーの声楽作品、これからゆっくりと楽しんで行きたい、麗しくも気高き山々である。

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2007年12月15日 (土)

尾高忠明指揮 読売日本交響楽団演奏会

Suntry_2 尾高忠明指揮の読売日本交響楽団の定期演奏会を聴く。好物のエルガーの交響曲をやってくれちゃうもんだから、かなり前からチケットを手当てしていた。
実は昨晩、シティフィルのコルンゴルドの交響曲のチケットを忘年会で没にしてしまった。12月のコンサートはこうしたリスクがつきものだけど、土曜日ならば大丈夫。余裕のよっちゃんで(ふるッ)でサントリーホールへ。そういえば、銀座線に旧型の真黄色の車輌が復活してますな。

  マルトゥッチ  ピアノ協奏曲第2番
        ピアノ:ゲルハルト・オピッツ

  エルガー    交響曲第2番

        尾高忠明 指揮 読売日本交響楽団
                    (12.14@サントリーホール)


うかうかしてると第九だらけになってしまう前の貴重なプログラム。
トスカニーニも愛したというマルトゥッチのピアノ協奏曲は初めて聴く曲。マルトゥッチ(1856~1909)はマーラーと同世代でナポリ生まれながら、ブラームスの影響が色濃いということで、興味深々で聴き始めた。
そう、確かにブラームスの響きがする。と同時にシューマンやショパンも。そして私には、スクリャービンのロマンチックなピアノ協奏曲も思い起こさせた。

滔々と流れる音楽は、ブラームス風とはいいつつも、とても明るくて親しみやすい。
最初は戸惑ったけれど、旋律が豊富で、とりわけ夜想曲のような2楽章の美しさにはうっとりとしてしまった。
この曲のスペシャリストであるオピッツのピアノは、完全に手のうちにはいった弾きぶりで、余裕さえ感じる。強弱のレンジがきわめて広く、かつ繊細なピアノは素晴らしかった。

ムーティ/ウィーン・フィルとのエアチェック音源を探し出して、つまみ聴きしてみる。やはり、2楽章がとてもキレイだ。それは静かな海に浮かぶ月のようだ。ムーティも同郷のマルトゥッチが好きらしい。

さてメイン・デッシュのエルガーの交響曲。
メモリヤル・イヤーの今年の末尾を飾るに相応しい素晴らしい演奏。
今年3回目の第2交響曲、これまで2回はいずれも大友直人さんの演奏で。
とりわけ京都で聴いたものは、大友さんが京響で培ってきたものの集大成のような、オケと聴衆と三位一体感のある心の襞にふれるような桂演だった。

同じくして英国音楽を得意とする尾高さんの第2はどうであったか。
それは思いのほか熱く、気合のみなぎった、尾高さんのエルガーに対する思い入れが奔流となって湧き出てくるような音楽だった。
こう来るとは思わなかった。
気合の声も聞かれるなか始まった第1音からして惹きこまれる。
いくぶん早めのテンポで、ぐいぐいと進められる1楽章は快活そのもの。時おり立ち止って回顧する場面での懐かしい雰囲気は、ロンドンの街並みに佇んでいるかのような気にさせる。
哀切感溢れる2楽章、押しては引く波のようにジワジワと盛り上がりゆくさまに、聴いてる私もここでは涙腺が潤んでしまう。尾高さんの祈るような指揮振りも見ものであった。
打楽器が大いに活躍する3楽章での爽快感と、崇高な終楽章の対比も見事。
まとめるのが難しいこの終楽章、終わりに近づくにつれて神々しくなっていって、1楽章をゆっくりと回顧する場面、もう息を飲むような素晴らしい終結部を描いてゆく。
夕映えのようなエンディングに、消え行く音楽に尾高さんも指揮棒を両手で抱えるようにして動きを止めた。この静寂を早くも破ってしまう無常の拍手!!
またもや、やられてしまった。あのベルリンのトリスタンを思い起させるようなパラパラと止み行くような拍手に。
でも、尾高さんも、しょうがない、といった感じで手をさっと降ろし体勢を緩めたものだから、拍手はうまく連鎖して拡がって、やがて熱い拍手とブラボーに変わった。
毎度のことながら、何故、余韻を楽しもうとすることが出来ないのだろうか。
拍手なんて、あとでいやというほど出来るだろうに。

スリムな京響に比べると読響の音は重心が低いように思ったが、尾高さんの指揮に完璧なまでに反応していて、弦の美しさと木管のバランスが非常に良かった。
デヴィット・ノーランがコンマスを務めているとは不覚にも知らなかった。
ロンドン・フィルの名コンマスで、ショルティやテンシュテットの信任も厚かった名手だけに、尾高さんのエルガーにとって、今日の読響は心強いパートナーだったであろう。
ちなみに、ハイティンク時代のいぶし銀のロンドン・フィルのコンマスは、ロドニー・フレンド。
LPOの一番いい頃で好きな時代だったかも。

1 今日のコンサートで、今年の音楽会は打ち止め。
大好きな英国音楽、エルガーで締められるとは、無常の喜び。
尾高さんのエルガーは、来年6月にN響で1番、11月に札響で3番。おそらく恒例の東京公演も3番。札響とのこのCDも春には発売になるはず。
来シーズンの、尾高/札響は、「ピーターグライムズ」全曲やディーリアスも取り上げるので、いまから旅費の工面に頭を働かせている。
 そして大友さんも、負けてない。
東響で、エルガーの威風堂々を毎回取り上げるプロジェクトがある。京都との連携もあるだろうし、楽しみだ。
二人の英国音楽の旗手には、どんどん競合していろいろな曲を取り上げていって欲しい。

写真は、赤羽橋あたりから見た昨晩の東京タワー。

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2007年12月12日 (水)

J・ウィリアムズ 「スター・ウォーズ」 ウィリアムズ指揮

9 草木も眠る丑三つ時、ここはとある大名の江戸屋敷・・・・。

どうすか?この雰囲気。今にも、同心や岡っ引きがあれわれそうじゃありやせんかい?
思わず、物陰に隠れてやり過ごしたくなるじゃねぇですかい。

はて?
ここはどこでしょうかねぇ?
当てて下せぇ。

Williams_star_wars 時は江戸の昔から、未来へと駆け抜けますぜ。
惑星間で、銀河系の覇権をめぐる正邪の戦いが行なわれつつあった。
その血湧き肉踊るドラマが「スターウォーズ」である。6部からなる超大作は、誰しもを夢中にさせた。
おいらも、ご多分にもれず1978年の第1作(エピソードⅣ)を、大学時代、今は亡き渋谷の東急で観てから虜になったんだ。
1~3(エピソードⅣ~Ⅵ)で充分完結していたのに、その前歴を扱うべく、ダース・ベーダの過去までが映画化された時は、こちとら、はなはだオッサンになってたもんで、劇場なんてのにぁ行けねぇ。

ところがよ、そこはビデオの恩恵で、てめえの家でしっかり見れるとくりゃ、こりゃ文句はねえってことよ。
映画のクォリティは、全6作均一で、えれぇえ、よく出来てやがる。
でもよ、音楽は最初の3つがあって、残りの3つができたの感ありありで、聴くべきすべては、1~3(エピソードⅣ~Ⅵ)にあるんだぜ。

メータ&ロスフィルのハリウッド・スタイルの名演・名録音も懐かしい。
作曲者ジョン・ウィリアムズの自演盤は数々出ているが、今回のものは1990年に、特別編成のオーケストラ、その名もスカイウォーカー交響楽団を指揮して録音された、エピソードⅣ~Ⅵの音楽組曲である。
監督のジョージ・ルーカスとJ・ウィリアムズは、ホフマンスタールとR・シュトラウスの関係のようなものだ。二人で、登場人物たちのテーマ(まさにライトモティーフ)を考え、映画を見ながら演奏し、修正を加えていったらしい。

そのルーカスが功なり財なって、カリフォルニアに音楽スタジオを手にいれた。
そこに、腕っこきの奏者を集めて、このCDが録音された。
奏者は、西海岸で活躍する連中をJ・ウィリアムズが選考したという。
おそらく、LAPOやSFOやオペラの連中が集まったのだろう。写真を見ると100人編成くらいの大オーケストラなのだから。

こんな経緯で出来上がった演奏は、もう感涙の1枚。
これをバックに映画を音を消して楽しみたい。
私のお部屋では17インチのテレビしかなくて、愛器につなげば音はそこそこ出るが、映像があまりにもお粗末・・・・・。永遠の課題ですな・・・。

まあ、それにしてもよく書けている音楽であることよ。
はなはだクラシカルな「未知との遭遇をはじめとして、ジョーズ、オリンピック・ファンファーレ、スーパーマン、ET、ジュラシックパーク、ハリーポッター、インディ・ジョーンズなどなど。
SF、スペキュタクラーものに圧倒的な威力を発揮する大作曲家なんだ。
ボストン・ポップスの歴代指揮者の一人でもあるし、間違いなく現代の偉大な音楽家のJ・ウィリアムズ。
まだまだこれから、いい音楽を書いてくれることだろうて。

1 2
さっきの画像は実は、浅草寺なんでさ。

夕刻に訪れると、観光客は消え去り、ゆったりとした時間が過ごせる。
まるで時代を間違えたかのような光景もたくさんある。
レトロな洋食屋で舌鼓をうつもいいし、怪しげな居酒屋でホッピー飲んで300円を払うもよし。そして、さまよい中に見つけたレコード店。完全にその世界に特化しているんだぜぃ。

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2007年12月11日 (火)

チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」 メータ指揮

25 またまた、札幌のイルミネーション。
札幌は例年どおりだけど、今年あたりから街の明かりの様子が変わってきた。
原油高による節電・省エネも意識としてはあろうが、それ以上に明るすぎる街を見直すというトレンドがあるように思う。
以前新聞でそんな記事を読んだこともある。

最近オープンする最新のビルやブランド・ビルは一様に照明も間接的で、派手さはない。店名やビル名もどこにも書いてない。
パチンコ店も最近は、派手なネオンなどなくシックであったりする。
例年楽しみだったサントリーホールも寂しいし、繁華街も少し暗くなってきた感じがする。
昔は、都会でも一歩脇道に入ると暗闇があった。
そんな暗さに人はまた安堵感を覚えるようになってきたのだろうか・・・・。
一方で、殺伐とした事件も暗闇でまた起きている。
昔はいい、と皆が思いながらも、もう戻れなくなるところまで来てしまっている・・・・・・。

Mehta_tyhaikovsky前置きが違う方向に行ってしまった。
チャイコフスキーの交響曲は、なんだかんだで好きなんやけど、誰もが大好き5番に次いで、1番が好きなんや。

冬の日の幻想」なんて季節感と、地方感まるだしのタイトルからして惹かれてしまう。
むせ返るような憂愁のかわりに、さらさら感のあるパウダー・スノーのような軽やかな抒情がある。
この曲がわれわれ音楽ファンに親しみをもって定着したのは、M・T・トーマスとボストン響のDG盤ではなかったろうか。
あれは、この曲の理想的な名盤。
私もMMT盤でこの曲に開眼した。

26歳の若さで書かれたこの曲。
素晴らしい旋律が全編みなぎっていて、いつも夢中になって聴いてしまう。
冒頭の木管で奏される旋律からしていい。2楽章のメランコリックなオーボエの歌とそれに続く夢みるような展開、3楽章のスケルツォ中間部の素晴らしくも憧れに満ちた場面。
そして全曲ファンファーレのような元気のいい終楽章は、くどいくらいのエンディングが用意されている。
いい曲なのである。

ズビン・メータとロサンゼルス・フィルのコンビは1978年頃に、一気に全集録音をした。
このコンビでイメージできる音楽が、そのままここのおさめられている。
ちょっと元気が良すぎる場面もあるが、意外にしっとりと演奏されていて気持ちがいい。
弦・木管・金管、それぞれがしっとりと融合しながら、ツヤツヤした美しい音色になっていて、音を磨き上げるメータならでは。
MMT盤は当然として、さっぱりしたマリナー盤も大好きな1番である。

21 この全集のCD化は鶴首ものだっが、数ヵ月前ようやく入手しながら放置中であったもの。
新橋の某ディスカウント店で、3千円ちょっとで購入した。安いでしょ。
通勤途中の駅ながら、最近久しぶりに行ってみたら、ショップの名前はそのままに、携帯屋兼ブランド・ショップになってしまっていた・・・・。
どこへ消えた!!あのクラシック専門の売場は?
新譜輸入盤でも、千円台の半ばで買えたのによう!シクシク・・・・・。

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2007年12月 9日 (日)

コルンゴルト 「死の都」 ラニクルズ指揮

Korngold_die_tote_stadt

















今年、メモリアル作曲家、エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト1897~1957)の代表作、オペラ「の都」を久々に聴いた。
「死の都」または「死の街」とも訳される。
ベルギーの都、ブリュージュを舞台にするサスペンスチックかつ、幻想的な物語にコルンゴルトが音楽を付けたのは1920年のこと。
作曲者23歳!!
アマデウスにちなんだ名前を持った、早熟のコルンゴルドは、すでにオーストリアで大作曲家の地位を確立していた。

1920年は、マーラー没して9年、シュトラウスでいえば「インテルメッツォ」作曲中、「影のない女」は初演済、ベルクの「ヴォツェック」と同時期。「モーゼとアロン」の10年前。プッチーニは最終作「トゥーランドット」を作曲中。こうして見ると、シュトラウスの保守性が浮かびあがるということも判明するが、コルンゴルドの立ち位置がよくわかるというもの。

全3幕、2時間10分の大作は、主役にヘルデン級のテノール、ヒロインにリリコ・スピントのソプラノを擁する本格ドイツオペラで、ナチス台頭によるコルンゴルドの亡命までは、欧米さかんに上演されたという。
マーラーの復興や、それに伴なう後期ロマン派系音楽の見直しで70年代後半から、このオペラ、しいてはコルンゴルドの名前が生き返った。
いうまでもなく、RCAが録音した、「ルネ・コロ」をタイトルロールとしたラインスドルフ盤がもたらした影響はあまりにも大きい。
たしか、77年頃だったが、国内盤が出たけれど、当時ワーグナーとヴェルディ、プッチーニに夢中で、大好きなコロには惹かれつつ、手が伸びなかったレコードなのだ。
 ついでに言うと、ラインスドルフ盤でマリエッタを歌っている「キャロル・ネブレット」はアメリカ歌手で、「アバドとシカゴ」のマーラー第1弾「復活」でデビューした歌手で、その後、メータとのプッチーニ「西部の娘」なども歌い、世紀末系の音楽にやたら適性を示したソプラノだ。さらに彼女は、相当の演技派で、そのためには脱ぐこともいとわない体当たり的なやる気満々の歌手だった。

 

そんなタイトルロールを、このライブCDでは、トルステン・ケルルアンゲラ・デノケが歌っていて、コロやネブレットを唯一忘れることが出来る没頭的な名歌唱を成し遂げている。
ライブならではの熱気と、ライブとは思わせない精度の高さに舌をまく。

 

第1幕
ブリュージュに住む中産階級の男パウルの家。先頃亡くした若い妻マリアのことが忘れられず、自宅に亡妻の肖像や遺髪をあしらった部屋を設け悔悟に浸っている。
友人のフランクや、家政婦から、生き続けてマリアを偲ぶことこそが幸いだと言われるが、パウルはまだ妻の死を受け入れられない。
その証拠に、街でマリアに似た女に会い、今日この家に招待したと言う。
 そこへ、マリーとパウルが思い込むマリエッタがやってくる。
彼女は快活で美しい踊り子なのである。
もう夢見心地で錯乱的なパウルに戸惑いながらも、マリエッタはそれでも大切なお客の気を惹こうと踊りや歌を披露する。このとき高名な「マリエッタの歌」が歌われる。
これで恍惚としてしまうパウロ、その彼を残して、マリエッタは立ち去ってしまう。
 以降は完全に、パウロの幻想の中・・・・。
マリーの肖像画から亡霊のようにマリーが出てくる。自分を忘れないように・・・・。
一方でマリエッタへの興味もありつつのパウロ。ますます困惑していく・・・・。

 

第2幕
幻想のまま、2幕に突入。
マリアは、しっかり生きて・・・と言うが、パウルはマリエッタにぞっこんだ。

方のマリエッタは、仲間を引き連れて賑やかに登場。
道化や二枚目、ダンサーたち。彼らに請われて、蘇りの寸劇を躊躇しながらもすることに。
しかし、パウルはここに現れ(夢の中で、目覚めて)、嫌悪感を示し、マリエッタは、一同を去らせる。
二人きりになったマリエッタは抵抗せずにパウルを受け止めるが、これも実はまだ、パウルの幻影の中の出来事なのだ。

 

第3幕
幻影と現実が入り乱れる。パウルの幻影のは続行中、マリエッタと暮らすようになったが、パウルがあまりに変なものだから、マリエッタも愛想をつかしつつある。
亡き妻の遺髪を引っ張り出したものだから、パウルも切れてしまいマリエッタの首を締めてしまう。ここで「亡きマリーにそっくりだ」と驚くパウル。
 殺してしまった・・・・と、夢から覚めるパウル。実は悪夢の中に漂っていた・・・・。
ここでようやく夢から覚めて我に返る。
実はまだ、1幕から時間がちょっとしか経っていない。
そのマリエッタもちょっと前に忘れた傘を取りに来て、さりげなく去る。
パウロは友人フランクの勧めを受け入れ、「死の都ブリュージュ」を立ち去ることを決心し、死者は安らかに止まり、自らはこの家を離れ生き続けることを歌い、幕となる。

 

あまりに私人的な出来事を仰々しく劇にしているものだが、この女々しい男の数時間の「まぼろし」を、コルンゴルドの音楽は見事なまでに描ききっている。
全曲中数回現れる、マリエッタの歌の旋律が、聞かせどころのツボになっているが、それ以外にピアノ・チェレスタ・鉄琴・ハープといった、コルンゴルト・サウンド特有の音色が全曲に渡って効果的に支配している。
この革新の音色をどう表現したらよいのか。あまりに美しさに卒倒しそうになってしまう。

 コルンゴルト 歌劇「死の都」

  パウル:トルステン・ケルル     
  マリエッタほか:アンゲラ・デノケ
  フリッツほか:ボー・スコウウス   
  ブリギッタ:ダニエラ・デンシュラーク

 ドナルド・ラニクルズ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                 (2004.ザルツブルク・ライブ)

全曲が静かに終わると、盛大なブラボーに包まれるこのライブ。
ウィーンにネグレクトされたコルンゴルトが、こうして多国籍とはいえオーストリアの音楽祭で喝采を浴びている。
惜しむらくは、せっかく最美であるはずのウィーン・フィルながら、録音があまりにお粗末。
舞台の歌は完璧にとらえながら、ピットのオケはバランスがあまりに悪く、金管と打楽器ばかりが鳴り響く。ウィーンの弦や木管はどこへいった・・・・・・。
この貧血気味の録音は本当にマイナスなのだ。
続けてラインスドルフ盤を聴いたら、その潤いある響きとの違いに唖然としてしまう。
どっちがウィーンなのよ???

でもラニクルズの的確かつ俊敏な指揮ぶりは見事で、ちょっともっさりしたラインスドルフと水をあけている。
歌唱は先に述べたとおり、ケルルの素晴らしい歌唱に息を飲む。
デノケも同様で、そんなに歌いこんで大丈夫かいというくらいにのめり込んでいる。
バリトンの暗い響きをもって全霊をもってこれまた、のめりこんだケルル、サロメをも思い起させるすさまじい表現意欲のデノケ。
スコウウスはプライの万能ぶりには及ばないけれど、性格歌手ぶりを充分発揮している。

 

返す返すも録音が残念。豊富な舞台写真も、特にデノケの演技ぶりがうかがえて楽しい。
このオペラ、新国で、若杉さんか井上ミッチーあたりで是非上演すべし!!!

Sizuoka_3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静岡市の青葉シンボルロード。
色とりどりのイルミネーション。
これはごく一部だったけれど、それはそれは見事なものだった。
エリアを分けて、カラーが違うのだもの。

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2007年12月 8日 (土)

パトリシア・プティボン フランス・バロック・アリア集

05 札幌ホワイトイルミネーション。
まるでパリのようなショットが撮れた。
夕焼け好き、イルミネーション好き・・・、夜大好きのワタシ。

Petivonパトリアシア・プティボン」、聴くからに心地よい名前の響きの彼女。フランスに咲いたかわいい名花。ナタリー・デセイの妹分ともいえる存在。

その彼女が、今年の来日が延期となり、来年春に日本にやってくる。
ほのぼのとした日本の春にかわいい子悪魔のようなプティボンが旋風を巻き起こすことだろう。
オーケストラとのオペラ・リサイタルでなく、ピアノ伴奏によるものだから、より親密な雰囲気の中で、彼女の才気煥発の個性が楽しめるのではなかろうか。

惜しむらくは、最近録音がない。デッカから出た「フレンチ・タッチ」以降、ちゃんとしたリサイタル盤もないし、このところオペラ盤もない。レパートリーの拡張に慎重な彼女だし、専属が定まらないのも原因かも。
ファミリーにように若手歌手や演奏者を育てる「ウィリアム・クリスティー」の活気みなぎる一派の一員でもあるから、意外にクリスティのオペラ録音にちょこっと出てたりするから探してみなくては・・・・。

Petivon2キュートで明快清澄な彼女の歌声の魅力は、こうしたバロックもので遺憾なく発揮される。
日頃、このあたりの分野に疎いワタシではあるが、こうして真面目に聴いてみると音楽の幅が非常に豊かで、あらゆる可能性に満ちていることがよくわかる。
プティボンの明るくも、才気みなぎる歌い口でこそ、わたしのような後期ロマン派男の心にも響いてくる。

ラモー、シャルパンティエ、リュリー、グランヴァルらのオペラから次々に歌われるこの1枚。
歌詞など不明でも、プティボンの爽快な歌声を聴いているだけで、心が洗われ気分が上々となる。
バックをつとめる、ラ・フォリ・フランセーズはうまいものだが、現代楽器によるピリオド奏法なので、古楽器の先鋭な響きの方が小回りの効くパトリシアちゃんには、よかったのではないかな・・・・。

バロック期のものもいいけれど、ワタクシ的には、R・シュトラウスを録音して欲しいな。
ツェルビネッタにゾフィー、ズデンカ、フィアカーミリなどなど・・・・。
姉筋にあたる、ナタリーとの共演も夢のようだし。ナタリーはいずれマルシャリンということで・・・・。

098時56分の大通り公園。
この日は、こんな時間に札幌入りして、空腹のまま寒空のもと、さまよった。
冷えた体のまま、居酒屋に入ったら、眼鏡はくもるわ、目眩はするわで、プチ・パニックに・・・・。
体温調節機能の衰えを感じる今日この頃、やばいやばい。

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2007年12月 7日 (金)

シベリウス 交響曲第7番 オッコ・カム指揮

Umi 日本海に沈む夕日。前にも書いたけれど、私は夕焼けフリークなのである。
ことに海に沈む夕日はたまらなく好きなのだ。
海と夕日を見ながら、空がだんだん藍色に染まってゆく。

7kamu

シベリウス(1865~1957)の交響曲第7番。最後の交響曲にありながら、大曲でない。
でも究極の交響曲に思う。
6番と同時に作曲はすすめられ、1924年に完成。
まだ余生は30年あまりあったから、隠者のようなシベリウスがもっと作曲を継続していたらどのような交響曲が生まれただろうか!
残念ではあるが、この7番の先には何も必要としないような気もして、ラスト・シンフォニーとしての必然性を強く感じる。

20分あまりの短い曲だから、演奏会で稀に取り上げられても、最後を飾ることなく、コンサートの冒頭や前半が多い。
私はこのような濃密な音楽こそ、演奏会の最後にじっくりと聴きたいと思っているが、なかなか効果を上げにくいし、編成も2管で小ぶりだから実際には難しいのだろう。

交響曲でありながら、単一楽章。作者は幻想風なものを目指したとするが、ちゃんと4部に分かれているし、統一モティーフがあるので、非常に完結感がある。
中でもトロンボーンで奏される勇軍な旋律が素晴らしく、ブラームスの1番を思わせるくらいに高揚感を与えてくれる。曲の出だしは、まるで晦渋な4番を思わせるが、すぐに田園的な雰囲気になり、徐々に熱くなってきて、その旋律が高らかに現れる。
曲の中間部でも不安な雰囲気の中で、しっかり登場してこの旋律が気分を和らげてくれる。さらに後半、混沌とした中に、トロンボーンできっぱりと登場するこの旋律。
そこからクライマックスを迎え、フォルテとともに急激な沈黙、そして弦の泣くような旋律とともに回顧節が切々と始まり、熱い思いのうちに、この完璧な交響曲は閉じる。

オッコ・カムコペンハーゲン・フィルという北欧コンビで聴くシベリウス。
日本でもすっかりお馴染み、若いとばかり思っているカムも60歳を越えている。
カラヤン・コンクールに優勝してベルリン・フィルと第2交響曲を録音する快挙を成し遂げたあとは、フィンランドに引きこもってしまったようにして、すっかり地味な存在になってしまった。70年代のDGの交響曲全集では、カラヤンが全集を録音しないものだから、既存の2番に加えて1・3番を録音した。フィンランド放送響とのこの2曲がまた名演に思う。
DGはこの時、カラヤンは諦めて、カムで全集を作るべきだった。
 さらにカムで忘れられないのが、ヘルシンキ・フィルとの来日公演での全曲演奏。
渡辺暁雄と振り分けての演奏は、FM東京ですべて放送され、すかさずエアチェックした。
2番以外のシベリウス開眼は、この放送であった。

1982年冬のこと、まだまだ新人の会社員、寒い新宿の侘び住まいで、当時流行っていたホットウィスキーを呑みながら来る日も来る日もこの録音テープを聴いたものだった。
1・4・7が渡辺暁雄で、残りがカム、いいとこを渡辺先生にもってかれてしまった感もあるが、鄙びたシベリウスは今では聴かれない素適な演奏だった。
懐かしいなぁ~。

いまだにシベリウス全集のお声が掛からない、地味カムのシベ7は、思い入れもなくシンプルな演奏。デンマークのオケも以外にあっさりしたもの。
でもこの何気ない演奏に彼らの日常のシベリウスが浮かび出てくるようだ。
北欧系でない演奏の方が、思い入れが強く、じっくりと熱い演奏が生まれる。
バルビローリ、ディヴィス、バーンスタイン・・・・。

01

札幌のテレビ塔、麓ではホワイト・イルミネーションが真っ盛り。
マイフォトにて公開中。

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2007年12月 6日 (木)

シベリウス 交響曲第6番 ブロムシュテット指揮

1 帯広駅前にて。
先週のこと。ところどころに、その前の週に降った雪が凍って残っている。

夕方5時前なのに、気温は0度に近い。身を切るような寒さが、空気を澄んだものにしていて、イルミネーションがとても映える。

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シベリウス交響曲第6番。この渋いが魅力的な交響曲をどう称えたらよいのだろうか。
幻想的・内省的・民族的・教会的・・・・・・、どんな言葉も当てはまるし、逆にそのような言葉なんて一切不要にも思われる。
このことは、同時期に着想されていた第7交響曲にも言えることだ。
シベリウスが行き着いた彼岸の世界とでも言おうか・・・・・。
でも風景的には、北欧の厳粛な自然を思わせる。

1923年の完成で、5番からは8年の歳月が流れているものの、5番作曲時からこの曲も計画されていた。シベリウスらしく、じっくりと書き上げた6番ではあるが、4楽章という伝統的なスタイルを持ちつつも、全曲は30分たらずのモールァルトサイズだし、オケ編成も大きくはない。調性はニ短調ながら、教会旋法を用いていて、牧歌的な5番を挟んだ4番への親近性もある。

やはり冬の音楽。冷たい空気のなかで聴いてみたい音楽だ。
どこまでも澄み切った雰囲気が支配していて、4楽章のどこをとっても北国の響きがする。
私の好きな場面・・・・、1楽章の弦の分奏による澄んだ旋律、弦とハープの上に乗って登場するフルートの楽しい旋律、どこまでも続く弦の刻み。2楽章の終わりのほうに出てくる弦の流れる川のような刻み、その上に管が小刻みに歌う。3楽章のきっぱりとしたエンディングと、それに続く4楽章の教会風な出だしの対比。一転リズミックに動く主部。思わず4拍子で指揮が取りたくなってしまうノリのよさが続くけれど、最終部ではテンポも落ち、昔を回顧するような寂しい雰囲気になり、憧れを抱きつつ静かに曲を閉じる。

スウェーデン出身のブロムシュテットは、ニールセンとともにシベリウスを得意にしている。
シベリウスにもスウェーデンの血の流れていたゆえ、同属の血が騒ぐのだろうか。
明るいカリフォルニアサウンドのサンフランシスコ交響楽団から、驚くほど渋くもあり、明快かつ清潔な音色を引き出している。
この菜食主義で潔癖な指揮者は、ドレスデンを振れば馥郁たる音色を引き出すし、ゲヴァントハウスでは以外なほど機能的で明るい音を出していた。
なかなか個性が掴めない人だが、その個性はこの明晰なシベリウス演奏にこそ出ているようだ。
デッカの録音の素晴らしさも特筆ものだろう。
ブロムシュテット&サンフランシスコが残したCDはどれもこれも素晴らしいものばかり。

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帯広駅と、電車から見た新夕張あたりの車窓。
今週はもっと深い雪景色となっていることだろうな。

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2007年12月 3日 (月)

R・シュトラウス 「ダナエの愛」 ヴィントフュール指揮

Die_liebe_der_danae R・シュトラウス(1864~1949)のオペラ全作品シリーズ。
15作中の14作目は、「ダナエの愛」。
お得意の神話時代に題材を求めたオペラ。

実は、このブログに2度目の登場で、我が国のシュトラウス演奏の大家、若杉 弘さんの演奏会形式日本初演を聴いたときのもの。

さらに先頃、ルイージとドレスデンの来日演奏会で、この作品の一部が演奏され、感銘を受けた。

でも、なかなか聴かれないし、上演も少ない。
シュトラウス独得の息の長いロマンティックな旋律や、描写的な場面や、大音響も満載なので、シュトラウス好きはもちろん、もっと聴かれていいオペラに思う。

1940年に完成されているが、その台本の原作の起源は1920年頃に遡る。
影のない女」と「インテルメッツォ」の間くらいのこと。朋友ホフマンスタールから、手紙で「ダナエ」にまつわる劇の概略を受け取った。
『「ばらの騎士」、「アリアドネ」、「町人貴族」の路線を進めたもので、軽く才気に満ちた音楽が書けるあなた(シュトラウス)だけが作曲できる』として作曲を勧めたが、どういう訳か当のシュトラウスは気乗りせず、そのままになってしまった。
 このことを、後年思い起させた音楽学者がいて、シュトラウスは作曲を決断したらしい。
しかし、ホフマンスタールはすでに亡く、その当時の協力者ヨーゼフ・グレゴールが台本を執筆することとなった。
ところが、こうして完成したものの、世界大戦の真っ只中の状況にあって、正式初演は延びに延びて、1952年、作曲者が亡くなってからのこととなった。
こんな経緯をもった作品からか、台本が冗長でシュトラウスの霊感が不足するとか言われたからか、このオペラは埋もれた作品となってしまった。
 日本初演時に、ホフマンスタールが書いた草稿のコピーが配布された。「ダナエ もしくは 打算の結婚」というタイトルで、内容は残されたオペラとかなり異なる。
筋はさらに複雑ながら洒脱な雰囲気が勝っているように感じる。
もしも、ホフマンスタール存命中に作曲されていたら、どんな作品が仕上がっていただろうか?こんなことを妄想するのも、楽しいものだ。

筋は確かにややこしく、神話時代の神々のエグサについていけない思いもあるが、作品のモティーフは、シュトラウスならではもので、その地中海的な明るさと軽やかさで「アリアドネ」や「ダフネ」「エジプトのヘレナ」の路線。愛を高め昇華していく点で、「影のない女」、「ダフネ」などとの共通項を見い出せる。
そして、神に邪魔され、試練を課せられ愛を深めていく点で、「影のない女」への親近性が高い。

第1幕
借金で首がまわらないポルックス王のもとに、債権者達が押しかけ大さわぎになっている。王は、もうすぐ触れるものを金に変えてしまうミダス王が船でこちらに到着する。
その王と娘ダナエを結婚させて借金を返済するから、と娘をダシにした計画を語る。
Danae_2_2  そのダナエは、寝室で、黄金の雨が激しく降り注ぎ抱かれるような夢を見たと語る。
実は、最高神ユピテルが黄金に変身して、誘惑しているのだ。(
なんじゃそりゃ?)
ミダス王の腹心として、クリゾファーが黄金の衣装を届けにやってくる。
このクリゾファーが、実はミダスそのものなのだが、彼は、ダナエに強く愛を感じ、彼女もそう思うようになる。
そこへ、船の到着の知らせ。ミダス王に変身したユピテルのダナエ攻略作戦の始まり。
ダナエはまたも、黄金の雨の君・・・、と恍惚として気を失ってしまい、雷鳴とともに偽ミダスのユピテルが大地を踏んで降り立つ。
    
絵はクリムトの「ダナエ」

第2幕
宮殿内で、ポルックス王の4人の甥の妻たちが初夜の飾り付けをしている。

そこへ、ユピテルがやってくるが、実はこの4人ともかつて関係があった。(まったくとんでもない神さんだ)
ユピテルは、今度は本気なんだ、と決意を語ったり、正妻ユーノーが怒っていることなども語る。
いやはや・・・・・。ちなみに、この4人は、セメレ、エウロペ、アルクメネ、レーダで、いずれも聴いたことがある名前でありますな。
4人が去り、ミダス登場。彼はユピテルに、ダナエへの愛を語る。
しかし、ユピテルはかつて黄金の力を与えた事をミダスに思いださせ、恩着せがましく怒り、ダナエを得るのは神たる自分であるとして出ていく。
 そこへダナエがやってきて、ミダスは黄金の力を見せて、実は私はクリゾファーでなくて本物ミダスなのだと告白し、二人は情熱的に愛を語る。
ミダスがダナエに口付けをしたために、ユピテルはダナエを黄金に変えてしまう。
ミダスとユピテルは大喧嘩になるが、二人は黄金になり行くダナエに、どちらを撰ぶかを問う。ダナエは絶え絶えに、「ミ~ダ~ス」と答え、雷鳴とともに人間に戻る。

ミダスとダナエはその場から逃げ、残ったユピテルは、神の愛を捨て人間を撰んだことに怒りまくる。この幕のエンディングはなかなか迫力のサウンドである。
この怒りの神は、まるでウォータンのようではないか!

第3幕
逃げ行く二人。黄金の生活が失われて嘆くダナエ。
ミダスは、かつて自分は貧しいロバ曳きであったが、見知らぬ老人(ユピテル)から黄金の魔法を授かり、代償にいつでも姿を入れ替えなければならなくなったことを話す。
しかし、ダナエと出合い、真実の愛に目覚め、黄金の輝きより、ダナエの愛を撰んだのだと語り、ダナエも大いに感激してミダスについていくことを決心する。
 ふられたユピテルはしょんぼりしていて、使者のメルキュール(マーキュリー)にからかわれたり、正妻が笑っていることなどを話し、再度のアタックを勧める。
  それではと、貧しい二人の家に、またまた登場のユピテル。
黄金を思い起させて口説こうとするが、二度も「ご覧ください、私が愛しているものを」とダナエに言われてしまい、がっかりと退却しようとする。
それを引き留め、ダナエはユピテルに黄金の髪留めを渡す。
いよいよ悟ったユピテルは、「人間の愛は神の贈り物、神の眼は人間たちにやさしく輝き、その祝福と感謝を照らす・・・」とダナエの愛を祝福して去る。
それを見送ったダナエが、部屋の竈に歩み寄ると、ミダスが仕事から帰ってくるのが見える。ダナエは、ミダスの名を呼び彼のもとへ駈け寄る。

こんなややこしい筋だけれど、ライトモティーフが巧みに用いられているので、主要なテーマや旋律を耳に入れておくとわかりやすい。
なんでも音で表現することができたシュトラウスだから、実に芸がこんでいてちっとやそっとじゃ解明できないし、私も解らん。でも複雑に綾なす旋律の絡み合いに身を浸しているだけでとても気分がいい。
全曲に数か所ある、ダナエ&ミダスの二重唱の美しさ。前奏や間奏曲の素晴らしさ。
とりわけ、3幕の間奏曲は堪らなく好きだ。ユピテルとダナエの和解の最終場も、どんどんとあたりが透徹した響きで満たされていってユピテルがそれこそ「偉大な神」に思えてくるようだ。

  ユピテル:フランツ・グルントヘーバー    ダナエ:マヌエラ・ウール
  ミダス :ロベルト・ケイフィン         ポルクス:パウル・マクナマラ
   その他大勢(読めません・・・・)

   ウルリヒ・ヴィントヒュール指揮 キール・フィルハーモニー管弦楽団
                      キール・オペラ合唱団
                          (2003.キールライブ)

Danae_3 これはグルントヘーバーの一人舞台になるかと思いきや、知らない歌手たちばかりだが、皆さん大健闘で、ドイツ地方劇場の底力を見る思いだ。
でもさすがに、グルントヘーバーの圧倒的な表現力を伴なった歌が抜きん出ていて、ユピテルの押しつけがましさから、神々しさまでを見事に歌い出している。
ウールのダナエは、不安定なところもあるけれど結構いい。シュトラウス向きの、クリスタルな透明感ある声は、ダフネなどを聴いてみたくなる素質に思った。
ほかは、ボルクス役がかなり危なっかしいのを除き、なかなかのもの。
 ヴィントヒュールという指揮者とオケには、さらなる精度を求めたいが、完全全曲版を取り上げ、熱意をもって演奏していて好ましく思う。

この作品の正規盤は、このCPO盤と、ボッツスタインのテラーク盤、K・クラウスのライブ盤があるのみ。
上演実績のあるF・ルイージによる録音が望まれる。
 そして愛聴盤にFM録音のサヴァリッシュ指揮の自家CDRがある。スタイリッシュで、透明感あふれる指揮に、ロロフ、ハース、P・フライ、J・キングといった名手たちの歌が素晴らしいものだ。こちらの正規化も是非望む次第。

シュトラウスのオペラは、年内あと「カプリッチョ」を残すのみ。
なんだか寂しい。

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2007年12月 1日 (土)

マーツァル指揮 チェコ・フィルハーモニー演奏会

Img 幸運以外の賜物でしかない。
札幌訪問中に、チェコフィル「我が祖国」のコンサートが行われる。
こんな千載一隅のチャンスを逃してなるものか!

出張の楽しみは、こんなところにもあるけれど、お誘いを振り切って、夜一人になることはなかなか出来るものではない。「いやぁ~、音楽会があるもんで・・・」なんて、言えないものね。
今回は、出張の日程が定まった時点で、このコンサートを見つけ、綿密に行動計画を立て、チケットも手配した。

われながら、こうしたことにかける情熱は大したものだ。へへへっ・・・。

   スメタナ 連作交響詩「我が祖国」

   ズデネク・マーツァル指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
                  (11.29 @札幌コンサートホールKitara)

Kitara1a 地下鉄中島公園駅を下車し、すでに凍ってしまった池や豊平館、白樺の木などがほのかに闇に浮かぶ中をゆっくりと逍遥しながら歩くこと7~8分。
美しいイルミネーションに飾られた「キタラ」が見えてくる。
以前も書いたが、このホールへのアプローチは、「みなとみらい」と並んでまったく素晴らしいもので、これから音楽を聴くというワクワク感が自然と湧き上がってくるというものだ。
ホール内のロビーや通路、ホワイエもすべてゆったりとしていてゆとりがある。
都内のホールとの物理的な違いが歴然に・・・・・。
今回ホールの入りは、6割ぐらい。残念なことに空席がかなり目立つ。
やっぱり「新世界」やらないと駄目なのかしら?

Kitara1高い城」が、印象的なハープの独奏で始まると、私は北の地にいることを忘れ、緑豊かなボヘミアの地にいざなわれていく思いで一杯になった。
こんな味のあるハープは聴いたことがない。おまけに美人だし・・・・・。
ミニチュアスコアを時おりめくりながら指揮するマーツァル(でもなんでミニチュアなんだろ?)、「モルダウ」では譜面を閉じ、流れるような身のこなし。
滔々としたヴルタヴァ川の流れが、本当に目に浮かぶような演奏にジーンときてしまう。
こんな耳タコの曲に。こんなに惹きつけられるなんて
高名な旋律にこちらの体も揺れる。村人たち踊りの弾むリズム。月の光を映しこむ川面。
このオーケストラの弦は、なんてきれいなんだろう
ホルンの強奏もうるさくないし、突出しない。管も名技性を誇るような奏者はひとりもいないが、美しい弦と見事に溶け合って、ほのかなぬくもりを感じる。

Kitara2_5  バイエルンの明るさ、ドレスデンのまろやかさ、 最近聴いたこれらのドイツオケと、あきらかに違う。
ビロードやベルベット生地のような、肌触りの優しい感触と言おうか、色でいうと、紺や紫の落ち付きある風情を思わせる。「シャールカ」「ボヘミアの森と草原から」「ターボル」「ブラニーク」、全曲に渡って、チェコ・フィルが自分たちの体に染み付いた国家のような音楽を、そんな音色で心の底から演奏してくれた。
オーソドックスなマーツァルの指揮も、オケの特徴と一体化してしまっていて見分けがつかないようだ。
おらが国の音楽を、おらが国の指揮者とやってみました。
そんな普段着の顔つきの控えめな楽員たちだったように思う。ブラニークのエンディングの盛り上がりも、あくまで自然体で、ほんとうに気持ちいい演奏だった。

アンコールはなし。そう、この曲に、アンコールはふさわしくないから。

Macal 終演後、マーツァル氏のサイン会があり、長蛇の列に参戦せず、横でしばし観察。ジャケットにあったと思うが、帽子と白いマフラーで登場のマエストロ。缶ビール片手に気さくな雰囲気。
ホールを出て、いい気分のまま、「すすきの」に黙っていても足が向かう。
すると、後ろから聞き慣れない言語がたくさん近づいてくる。おやまぁ、チェコ・フィルの方々じゃないかい
公園入口のパークホテルに入っていく。演奏会終了後の解放感からか、なごやかムードで。
さらに見てると、ホテルへ入らない人は、
交差点を渡り「ローソン」へ続々と入っていく。
おお、コンビニの中がチェコ・フィルだらけだ。これはまたスゴイ光景だった。
皆さん、外で食事せずに、コンビニなのかしら。
おや、先ほど関心した美人ハーピストが出てきて、ぶつかりそうになってしまった。

1 私はというと、「すすきの」の魔界にちょっと足を踏み入れ、お寿司をつまんだ。
これまた至福の時。外へ出ると白い雪が舞っていた
寒いけれど、ほのぼのとした気持ちで雪の中、ホテルへ向かったものだ。

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