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2008年2月

2008年2月26日 (火)

ブルッフ スコットランド幻想曲 タスミン・リトル

Tono 写した写真を眺めていたら見つけだした涼しげな1枚。
夏の初めの頃、遠野のカッパ淵の清冽な流れ。
遠野物語で、カッパが語られる場所。ほかに人がいなくて、あまりに静かで不気味だったけれど、何故か懐かしい雰囲気で、不思議と心落ち着いた。

今頃は、雪に閉ざされてしまっているだろうな・・・・。

Buruch_scottish_fatasy_little

今日は、イギリス音楽じゃないけれど、そのエッセンスが味わえる、しかも英国本場の演奏で聴く音楽を。UK-JAPAN2008であります。

ブルッフスコットランド幻想曲を、タスミン・リトルのヴァイオリン、ヴァーノン・ハンドレー指揮のロイヤル・スコテッシュ管弦楽団の演奏で。

ドイツのブルッフ(1837~1920)は、ヴァイオリン協奏曲の1番とこの曲ぐらいしか聴かれないけれど、交響曲もオペラも書いたマルチな作曲家らしいけれど、残念ながらほとんど耳にできない。
オペラなど是非聴いてみたいものだ。
以前、チョーリャン・リンとスラトキンの明るい演奏を取上げたこともある。

この曲は、「スコットランド民謡を自由に用いた管弦楽とハープを伴なうヴァイオリンのための幻想曲」という長たらしい原題をもつらしい。ロバート・バーンズが収集編纂したスコットランド・トラディショナルに感化されて書いた作品は、私にはまだ見ぬ英国高地地方、スコットランド地方の風景を思いおこさせる。
夢見るように遠くを眺めるようなロマンテックな音楽。
その音楽はまさにドイツ・ロマンティシズムであると同時に、英国独特の詩情にもあふれたみずみずしい桂曲。
前奏曲を入れて全5楽章、ときにしんみりと、ときに明るく快活に、そして終始ノスタルジックな音楽は、誰しも懐かしい故郷やまだ見ぬ懐かしい風景へとその思いをいざなってくれることだろう。

イギリスの元気娘、「タスミン・リトル」はもうベテランだが、その若き頃よりディーリアスの情熱的な演奏を聴いてきたヴァイオリニスト。彼女のHPはこちら
彼女の一点も曇りのないバッハなどがダウンロードできちゃいます。

ともかく快活で明るく積極的な彼女、その姿勢がそのまま音楽に現れていて、ほのぼのと、そして明日も頑張っちゃおうという気にさせちゃう。
こんな豊かな歌とフレキシビリティに満ちた演奏は、ドイツ系の奏者では出来ないのでは。

EMIにかなりの協奏曲録音があるはずだが、なかなか入手しずらい。
タスミンのブラームスやメンデルスゾーンが聴きたいし、エルガーのコンチェルトも是非弾いて欲しい。
ハンドレーと本場スコテッシュのオケの、立派な伴奏にも心惹かれる思いだ。
多くに方に聴いていただきたいタスミンの名演奏。

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2008年2月25日 (月)

ベートーヴェン 交響曲第7番 トスカニーニ指揮

Azabu_10 暖かかった先週のある日、仕事で東麻布の法務局まで行った。
そこから、久方ぶりに麻布十番へ足を伸ばし散策。
私の職場から、麻布まで歩いても15分くらい。
眠くなった時など、ちょうどいい散歩コース。
でも気をつけないと、いい蕎麦屋や焼き鳥やがあるから引っ掛かったら仕事が出来なくなっちゃう。
メインの大通りから、十番温泉と更科堀井、その奥には六本木ヒルズ。

Beethoven_7_toscanini このところ、初期の妖精にはじまり、ワルキューレとすっかりワーグナー漬けの毎日だった。
ワーグナーは毎日でもOKだけれど、ほかの曲も聴きたい。時間と体があといくつも欲しいもんだ。

今日は、そのワーグナーが「舞踏の聖化」と評した弾むリズムが強力な推進力を呼ぶベートーヴェン交響曲第7番を聴く。

泣く子もだまる名曲中の名曲。
私がクラシックを聴き始めた頃は、そんなにメジャーな初心者向きの交響曲ではなかった。
タイトル付きの作品「英雄」「運命」「田園」「合唱」からまず入り、この7番にたどり着くのは、少し後だった。
それが、いまやいきなり7番というファンも多いのではないかしら。
「のだめ」効果もさることばがら、乗りのいいリズムや、明るい熱狂などが今の世相にも合うのではなかろうか。

1812年の作曲といえば、まさにチャイコフスキーの大序曲、そう、ナポレオンのフランス軍ロシア敗退の年。ナポレオンと同世代のベートーヴェン、ヨーロッパではいろんなことが起きていたんだな。
日本は江戸末期、11代将軍家斎の時代で、各地で異国人が現れたりし始めた頃で、浮世絵も全盛時期に入る頃。う~む。
ちなみにワーグナーが生まれる1年前。

トスカニーニNBC交響楽団の1951年の録音で聴く7番は、一聴するとテンポが速いから威勢がいいだけに聴こえるが、そうした一面は認めつつも、よく聴けば音楽の仕上げが極めて緻密で、どこをとっても完璧なアンサンブルに裏付けられた強靭な歌に満ちている。
余分な音はひとつもなく、音がパンパン出てくる。
それでいながら、姿かたちが完璧に美しいフォームを保っていて、どこから見ても整然とととのっているところがすごい。

硬派の7番だけれど、完璧なまでに独特の熱狂感のあるトスカニーニの演奏、久しぶりで聴いて背筋が伸びるような思いだった。

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2008年2月23日 (土)

ワーグナー 「ワルキューレ」 二期会公演②

Walkure1_04









二期会ワルキューレ、今回2回目の観劇。
前回と異なるキャストでプレオーダーで取得した、グレードも上げた席(1階8列目)で土曜の午後をワーグナーにすっぽり浸かろうと万端の思い。    

あまりに説明的で、ト書きにない人物の動きに、ちょっと消化不良ぎみだった私。
一度経験したから、なんであんたがそこにの違和感はさほど抱くことなく、普通に受け入れられた。
やはり、リング4部作としてではなく、単発の「ワルキューレ」としての完結感をより出すために、しつこいほどの描写が必要であったのだろう。
ヴォータンが何故、指輪に手を直接出せず、そのためにウェルズング族を生まなくてはならなかったことや、指輪にかけられた愛を断念せざるを得ない宿命などが、単発ではなかなかわかりにくい。

Walkure1_06_2  どうしてヴォータンは愛するジークムントから手を引かざるを得なくなったのか、その点をもっともわかりやすくするためには、結婚をつかさどる女神フリッカを重要な役回りとして扱わざるをえなくなったのであろう。
前回書いたとおり、フリッカが最初から最後まで登場するし、フンディンクまでちょろちょろ出てくる。
 それ以外にもト書きにない、人物や場面がいくつも見られることになったが、これはこれでいいのかもしれないと思った。

ただそれは、ワーグナーが網の目のようにはりめぐらした精妙なライトモティーフを軽視することにもつながった。音楽と劇(舞台)が乖離してしまうことだ。
ワーグナーはしつこいまでに、登場人物や物や感情にまで主題を与えたが、そこに登場しない人物までには何も用意していない。ト書きにない人物や事象は、音楽だけから見れば場違いなのである。
劇の仕立てからすれば、何の矛盾もないことではあるから難しいものだ。

ただ、リングの中で重要な要素、剣や槍といったものが軽々しく扱われていたように思う。ジークムントが危急存亡の嘆きを発し、武器を求めてる場面、剣(ノートゥンク)の主題が高らかに鳴るのに、ノートゥンクは暗闇にむなしくささったままで無視されてしまう。
こうした矛盾がいたるところに散見。
ブリュンヒルデがヴォータンに、その槍で一突きにしてくれ、と歌っても、ヴォータンは手ぶらだったり・・・・・。


前回と異なる場面でいうと、ジークムントの死の場面。
前回は、ヴォータンはジークムントに手を差し延べ、拒絶され、終わったが、今回はそのあとジークムントはヴォータンの胸に倒れこみひしと抱き合う。
これだよ、私の好むお涙シーンのひとつは
ちなみに、きょうの涙ポロリの場面は、①ジークムントの死の告知の場面でのジークムントとブリュンヒルデの感動的なやりとり。(成田さん、横山さん、素晴らしいし、飯守先生の指揮が神々しかった)、②ジークムントの死、③ジークリンデがジークフリートの受胎を告げられ感謝をささげる場面(橋爪さん、素適すぎ)、④ヴォータンの告別、魔の炎の音楽でのオーケストラの圧倒的な盛上り(手を握り締めてしもうたわ)。⑤わかっちゃいたけど、少女ブリュンヒルデが登場してヴォータンに抱きつく、そして小さく手を振るんだもの、やめていただきたいです・・・・(涙)

今日はそこら中で、グスグスと鼻をすする音がしておった。

Walkure1_09








やっぱり、ワルキューレはリング争奪ではなくて、「愛のドラマ」なんだわな。
その愛は、夫婦・父息子・父娘・兄妹・恋人・祖父孫・叔母甥・・・・・。
ゆえに、「ニーベルングの指環」でありながら、リングが不在のドラマでもあるわけだ。
幕間で、二期会関係者に観劇中のある女性が、「あの井戸は、なんざます??」とまともに聞いていた。関係者の方、答えに窮して、「実はプロンクターボックスなんです」・・・・、女性は「はははっ、そうなの。で、何?」、「こちらのパンフレットに演出の意図が書かれておりますので・・・・」などというやり取りが行なわれていたのを盗み聞きしていたワタシ。
 私は、あの井戸は、運命をつかさどるモニュメントで、ここに登場する人物たちを惑わし、導くいわば「リング」ではないかと、想像する次第・・・・・。

     ジークムント:成田勝美     ジークリンデ:橋爪ゆか
    ヴォータン :小森輝彦     ブリュンヒルデ:横山恵子

    フンディンク:長谷川顯     フリッカ  :小山由美
    その他、ワルキューレ

  飯守泰次郎 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
              演出:ジョエル・ローウェルス
                   (2008.2.23 文化会館)

今回の歌手陣も前回にもまして強力で、ほんとうに素晴らしい歌が聴けて超うれしい。
小山さんの、フリッカの圧倒的な存在感と声の表現力、そいて独語の確かさ。
独語でいえば、初めて接した小森さんのヴォータンが言葉と歌が完全に一体化した見事な発声で、声も前回の泉さんにも増して美しい。これからこの人のドイツものがおおいに楽しみ。ヴォータン役の聴かせどころである2幕の長大なモノローグや、告別ではなかなかに味のある歌が聴けたし、フンディンクに蔑みの一撃を加える「Geh!」では、予想に反しソット・ヴォーチェで、むしろ凄みを感じさせてくれた。私は、ホッターやマッキンタイアと同じようなこうした歌い口のほうが好きである。
こちらが小森さんのHP
 そして、感心したのが橋爪さんの没頭感あふれるジークリンデ。前向きな声の力に溢れたすばらしい歌唱に思った。
お馴染みの成田さんのジークムントは順当な出来栄え。
長谷川さんの、安定感抜群のフンディング、頭も衣装も小鉄さんと全然違ってる。
上も下も、名前がとても親しみある、横山さんのブリュンヒルデ、以前シュトラウスの「エジプトのヘレナ」を聴いたときより、声に力強さと存在感が加わり、今後ますます国内のドラマテック・ソプラノの第1人者になるのでは。そして、こちらが横山さんのHP

8人のワルキューレたち、今回よく観察すると、衣装も羽も微妙に異なる。
オッサンとしては、何故かお一人(たぶんヘルムヴィーゲ)、胸の大きく開いた衣装でちょっと違和感が・・・・・。

飯守先生の指揮は、オケの時に空転する熱演(特に金管)はあったものの、相変わらずワーグナーの真髄をとらえて離さない熱演。
とりわけ素晴らしかったのが、ヴォータンの告別における高揚感。
そして、今回痛感したのが、場と場をつなぐ移ろい行く音楽。ワーグナーが巧に書いた主題の移り変わりを実に見事に表現していたように思う。
2幕、ヴォータンとブリュンヒルデの場面から、ジークムンとジークリンデの逃避行の場面に切り替わる音楽の素晴らしさ。鳥肌が立つ思いだった。
今日は、幕が降りきるまでヒヤヒヤしたけれど、拍手は音楽が止んでから。
よかったよかった。

いやぁ、なんだかんだで、すっかり楽しんだワルキューレだった。
今回で10度目の観劇体験。次は、来年、新国だ!

Oyama1











ワーグナーに身も心も浸り、肉が食べたくなった。
違う日になってしまったかのように寒風吹くなか、上野の山を下り、アメ横近くの「肉の大山」へひとり向かい、酒を飲む。
ここは超安くて、肉料理はなんでもある。ステーキ肉のような「牛かつ」や「煮込み」でひとしきり飲んで、東京駅へ出ると、なんと総武本線が大幅遅れ、というか動いてない。
肉食った祟りか、ワーグナーの毒をもっと覚ませともいうのか?
家には11時過ぎにたどりついた・・・・・・。ち~ん。

 

 

 

 

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2008年2月21日 (木)

ワーグナー 「ワルキューレ」 二期会公演①

Nikikai_walkure 二期会公演、ワーグナーのワルキューレを観劇。
ワルキューレは、演奏会形式を含めてこれで通算9回目。我ながらずいぶん観て聴いてきたもんだ。
どの舞台も、その時代時代、印象深い舞台で
今でもそれぞれ思いだすことができる。

今回の二期会ワルキューレは、タブルキャストで、平日二回と土日の上演。
今日は15時開演、19時40分終幕で、もう少しどうにかならなかったのだろうか?
幕あいの留守番電話対応が大変だった。
自分の仕事管理能力を棚にあげて。
夜8時前にホールを出て、その時間の中途半端なこと。でも今日は「鹿男・・・」もあるし、普通に満員電車に乗って帰宅することにした。


さて、すっかり手のうちに入ったワルキューレ、ローウェルスという演出家がいかなる舞台を見せるか、20年前大活躍だったベテラン大野徹也さんの久方ぶりのジークムントがとうか、飯守先生の自家薬籠中のワーグナーがどうか、などの思いで上野へ。

舞台の様子を本演出が、一般と違う点に絞って書いてみたい。
これから観る方は、お読みにならない方がいいかも・・・・。

 舞台は、黒系のモノトーン、装置はまったくといっていいほどなく、シンプル。
衣装も渋系で、暖色系は一切なし。時代設定
不明。

第1幕
ピットに迫り出したステージに四角の井戸のようなものがあり、1幕では出番のないはずのヴォータンが腰掛けている。
幕が開くとさらに二人。痩せて卑屈そうな様子でヴォータンの足元にいるのはローゲ。もう一人は少女時代のブリュンヒルデらしい。戦乱の亡者のような一行が、舞台奥を行進してゆく。

Walkure2_03 ジークムントが駆け込んできて、ジークリンデと出会うさまをウ゛ォータンは傍観している。
先ほどの四角いコーナーが、時に青に赤に光ったりして、泉の役割や、2幕でヴォータンが沈思するときに眺めたりするモニュメントとなっている
 フンディングは、手下を連れた文字通り虎刈りの俗物で、ジークムントが一人ウェールゼ・・・と悩んでいるとき、舞台の奥のベットで、ジークリンデに圧し掛かったりしてるオッサンになっている。
ジークムントが剣を抜くとき、またもやヴォータンが登場。槍を掲げ、手助けしている。
兄妹の二重唱の場面、出番であるはずのないフリッカが何故か出てきて、汚らわしそうにしている。

第2幕
開幕前から、ジークリンデがまとっていた、白い布が、1幕最後から四角いコーナーに掛けられ、そこに男がうずくまっている。
幕開き、いきなり8人のワルキューレが勇士達を収納している。
このワルキューレたち、本来3幕まで登場するはずもないが、虫のような羽をはやしている。
早くから、フリッカも出ている。
そしてフリッカとヴォータンの長丁場では、執事がいてヴォータンが脱いだ服を片付けたりしているし、二人分のグラスワイン(赤)を運んできたりする。
夫婦のやりとりがかなりリアルで、女性上位の動きでヴォータンはおろおろするばかり。出番なしのフンディンクが私のお願い聞いてとばかりに登場する。
 失意のヴォータンの長大なモノローグ。ヴァルハラに戦士を集め中の段になると、舞台奥が開き、8人のワルキューレたちと、勇士らが登場してごちゃごちゃやってる。
そこに、先のブリュンヒルデ少女もいる。
 兄妹の逃避行、ヴォータンとブリュンヒルデがいる間に、兄妹登場。当然二人には見えない神々の姿・・・。
兄妹ふたりになったあとも、ちゃっかりヴォータンが登場。自分が見えないように魔法をかけたのか、兄妹は動かない。ジークムントの方に未練がましく手をかけ、ジークリンデに至っては槍で突いて殺そうとする。でも思い直し、お腹に手をあて(妊娠を確認し)満足そうに去る。去り際にジークムントの顔あたりに手をかざしてから、ジークムントは正気に戻ったように動きだした。
 ジークリンデが夢の中で狂乱する。奥では、雪が降りしきり、妊婦が辛そうに横切る。
Walkure2_05_2 なんと、フリッカがブリュンヒルデの手を引き、ジークムントの死の告知の場面へ導く。
最初は見えないブリュンヒルデだが、彼女が手をかざすと魔法が解けたかのように見える存在となる。
戦いでは、やはり卑怯にもフンディングは手下二人を連れている。
手下をやっつけたが、フンディングとの戦いでは、ノートゥンクをヴォータンに折られ、ヴォータンに刺されたかのようなジークムント。
間にはいったヴォータンが、思わずジークムントに手をさしのべるが、ジークムントは拒絶する!見た目にもがっかり寂しいヴォータンである。死につつある息子が寄りかかってくるのを受け止めるだけ。
最後の確認にフリッカがまたもや登場して現場確認している。

第3幕
 勇士たちの戦場での戦いで、ワルキューレの騎行がはじまる。
戦士たちを集める戦乙女たち。舞台奥に薄暗い階段があり、勇士たちはそこを昇ってヴァルハラに向かうらしい。
駆け込むブルンヒルデとジークリンデ。このあたりは普通。
ジークリンデが、懐妊の知らせとともに感謝を歌う場面では、金色の照明が舞台右から全員を照らし、感動的な場面。
怒れる父と罰を受ける娘。大きな羽をはやしたワルキューレたちが、いろいろ分割しながらヴォータンとやり取りする。
父の厳罰が決定的となるなか、またもやト書きにない満足そうなフリッカが執事を連れて登場、ブリュンヒルデの背中の羽根を執事が取るのを確認。
父・娘の会話のあと、娘の懇願に負けるが告別の準備をまったくしない父親。
告別の素晴らしい音楽をうけて、なんとジークムントが登場しヴァルハラの階段をゆっくり登りだす。ジークムントは、こちらを振り返り、ブリュンヒルデと目をかわす。
神性を抜く口付けのあと、ひとりブリュンヒルデは舞台奥(多分、山頂)に去る。
去ったと思ったら、緞帳の影から、幼い日のブリュンヒルデ(少女)が駆け出てきて、ヴォータンと楽しく抱き合う??
Walkure2_10 娘の懇願を聞き入れ、山を火で包むが、ブリュンヒルデはいつのまにか、山の頂きに自分一人で勝手にいってしまっている。
火をおこすため、案の定ローゲが登場。この原作にないローゲ役、バレエダンサーだった。神妙な音楽の流れるなか、ローゲは激しく踊りまくる・・・。(あ~ぁ)
ひとしきり踊り、舞台奥のブリュンヒルデコーナーで、彼女が一人勝手に横たわろうとするとき、ローゲはゆっくりと舞台奥に消え、それより早く、ヴォータンは意外なほどあっさりと舞台を去る。魔の炎の音楽が鳴る中、舞台は鳥籠のようなブリュンヒルデの寝床が赤く染まり幕となる。

 
こんな具合の舞台。画像は、classic NEWSから拝借です。
う~む・・・・・ちょっとね~。そりゃ違うだろ・・・・・。
舞台の印象は、土曜の別キャストでの観劇ののちに。

    ジークムント:大野徹也     ジークリンデ:増田 のり子
    ヴォータン :泉 良平     ブリュンヒルデ:桑田葉子
    フンディンク:小鉄 和広     フリッカ  :増田 弥生
    その他、ワルキューレ

  飯守泰次郎 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
              演出:ジョエル・ローウェルス
                       (2008.2.21 文化会館)

なんといっても熟練の飯守さんの指揮がすばらしい。
どこをとっても、音楽が息づいていて、気持がこもっている。
オペラの呼吸を熟知した東フィルならではの、ハズレのない前向き音楽だった。

大野さんの日本人ではありえないロブストな声は、相変わらず健在だった。
見栄えのいい泉さんのヴォータンは、少し軽めながら、その声の美しさに満足。
けなげなジークリンデを演じた増田さん、最初は声がうわずってしまったけれど、立派なブリュンヒルデの桑田さん、存在感あったフリッカの増田さん(何度も何度も舞台登場ごくろうさまでした。)
歌手の皆さんは、立派なものだった。

初日は、皇后様がお見えになったそうだが、幕間のロビーにはそこそこの著名人が見かけられた。かつてのヴォータンのひとり、木村俊光さんもお見かけした。

土曜日に異なるキャストで、もう一度観劇予定。
あのローゲだけは、あんまり見たくないなぁ~。


あっ、それとまたあのぶち壊し拍手ありばかも~ん!!何度言ったらわかるんじゃ!!

それと、全然関係ないけど、アルミンクと新日フィルが「ばらの騎士」をホールオペラ形式でやりますぜ。

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2008年2月19日 (火)

ワーグナー 「ワルキューレ」ヴォータンの告別 テオ・アダム

Odawara 小田原駅に立つ北条早雲の像。
後ろ姿ながら、狡知・知略に長けた早雲の様子が伺える。
高校時代、小田原に通った私であるが、このあたりを通って通学していた。
当時新幹線口には、こんな像はなかった(はず)。
歴史の街に通いながら、そのことや、その街に昔ながらの、おいしいものがたくさんあることを、思い知るのは、大人のオジサンになってから。
「親のありがたみ」がわかる頃と一緒だ・・・・。

Adam_wagner ワーグナー週間。
名バスバリトンの「テオ・アダム」のワーグナー集を聴こう。
ワーグナーは、あらゆる領域の男女のロールに公平に、いい音楽を残したから、各声域の歌手達が、ワーグナーを歌った1枚を残している。
今日の1枚も、その典型で、「さまよえるオランダ人」、「ワルキューレ」、「マイスタージンガー」、「トリスタン」、「パルシファル」から、それぞれ、オランダ人・ヴォータン・ザックス・マルケ王・アンフォルタスの歌が収められていている。

まさに、テオ・アダムが得意中の得意にし、それぞれ全曲録音でも、名指揮者の元で歌っているロール。

テオ・アダムは、1926年ドレスデン生まれ。
ドレスデンの十字架合唱団で少年時代から歌った人だけに、バッハをはじめとする宗教音楽での真摯な歌は定評がある。テノールのシュライアーとも、合い通じる出自。
ワーグナー歌いとしては、50年代からバイロイトに登場し、あらゆる端役で、その名を見出すことができる。
そうした端役から、ローエングリンの伝令士⇒タンホイザーのウォルフラム⇒パルシファルのアンフォルタス⇒オランダ人⇒リングのヴォータン⇒マイスタージンガーのザックス⇒トリスタンのマルケ王⇒パルシファルのグルネマンツ、こんな風にステップアップしていったテオ・アダム。

バスバリトン歌手がワーグナーにおいて歩む道程であるが、アダムほどそのすべてに適性を示し、成果をあげた歌手はいないのでは。
おまけに、ハイティンクのリングでは、アルベリヒまで渋さをもって歌っている。

そんなアダムの最高の歌唱は、やはりヴォータンザックスであろうか!
アダムの声は、すこしアクの強さも感じるが、言葉の明瞭さと一本筋の通った気品とドラマテックな歌いだしが、まったくもって素晴らしい。
最高のヴァータンは、やはりホッターだけれど、アダムは唯一それにせまるヴォータン。
ベームとヤノフスキのリングは、アダムがいなければ成り立たなかったリングだと思う。
ちなみに、好きなヴォータンをあげれば、先のホッター、アダムに、T・ステュワート、マッキンタイア、ニムスゲルン、R・ヘイルなどであろうか。モリスはレヴァインとハイティンク盤をもう少し聴かなくては。

ザックスにおいても、アダムの人格的な投影が等身大になされていて、われらが親方的なザックス像が好ましい。ベルリン・シュターツオーパーの公演で観劇したが、ひときわ舞台に奥行きを与えていたのがアダムのザックスであった。

もう80歳を越えたアダム。歴史の証人のような存在になりつつあるが、ずっと元気でいて欲しいもの。
その思いは、バックをつとめる、スゥィトナーベルリン・シュターツカペレにも大いにいえること。
本録音は、1965年と66年であるが、それらの年、西側ではカラヤンとベルリンフィルがDGで活躍中、ショルティがカルーショーとリングを録音中であった。
そして、バイロイトでは、ヴィーラントの第二次リングがはじまり、ベームとスゥイトナーが交互に指揮を受け持った頃。
ヴィーラント・ワーグナーが目指した、ラテン的なワーグナーの裏腹な帰結として、モーツァルトを演奏するかのような軽やかさと真摯さ。
これを実践できるとしてヴィーラントが指名したのが、ベームにスゥイトナーであろう。
40年も前の録音ながら、その鮮明さに驚くうえ、オーケストラの明晰かつ克明な響きとスピーディな立ち上がりに感嘆してしまう。

こんな素晴らしいワーグナー指揮者迎えていたN響は、今思えばもったいないことをしたものだ。同様に、サヴァリッシュ、シュタイン、これら3人のワーグナー指揮者を常連に戴きながら、舞台上演が皆無だったN響。
その仕組み不足は、今思えば世界的に痛恨の出来事だ。

 ヴォータンの告別は、もう40年あまり夕焼けとともに聴いてきたが、娘を持つ父として、年々重くのしかかってくる音楽になってきた。
決然としつつ、思い切り後ろ髪引かれつつ、振り返るヴォータンに我が身を写しだす境遇になりつつある。
この音楽は、長年聴いてきたホッターやアダムの声が、心に沁みるなぁ~。

観劇3度目となる二期会の舞台で、私は泣くことになるのかなぁ~。

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2008年2月18日 (月)

ワーグナー 「恋愛禁制」「リエンツィ」ほか    サヴァリッシュ指揮

Aho

 

 

 

 

 

 

 

 

三重県の青山町(現伊賀市)のあたりを走行中、こんな地名を見つけて愕然(?)としたものだ。
かなり前から気になっていたので、カメラを慎重に構え撮影した。
「ほ」は濁って「ぼ」と読むはずだが、まるでワーグナーに対する自分のようで、嬉しかったり。

ちょっと調べると、「阿保親王」というやんごとなき方が、同名で二人いて、芦屋、松原、伊賀などに塚や古墳が残っていることが、地名の由来らしい。さらに青山の青が「あぼ」に通じるというからややこしい。さらに「青山」は墓のことも意味するから、さらにややこしい。じゃぁ、青山墓地は、「ぼちぼち」なのか・・・。青山学院は、墓地学院なのか・・・、おっとこりゃ他人事ではないな・・・。

漢字や地名の由来は、果てしない妄想を呼びさましてしまう。

ワーグナーに魅入られてしまっている私。
シュトラウスや英国音楽に重心が移ると、本妻ともいうべきリヒャルト某が、私の魂までをも奪いにくる。
「妖精」も観たことだし、今週は「ワルキューレ」も控えていることだから、思い切りワーグナーで行こう。 
オランダ人以前のCDは、その管弦楽曲も極端に少ないが、その渇を癒してくれるのが、サヴァリッシュのこの1枚。

Wagner

 「恋愛禁制」序曲(1836)、交響曲ホ長調(1834)
 「ファウスト」序曲(1839)、「リエンツィ」序曲(1840)
 「ヴェーゼンドンクの詩による5つの歌曲」(1858)~ヘンツェ編曲版

          Ms:マリアナ・リポヴシェク

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

ワーグナーは、交響曲を若き日々に2曲書いている。
19歳の時のハ長調の曲と、24歳の時のホ長調の曲。しかし後者は、1楽章と2楽章のほんのわずかで、未完のままとなった。
ここでは、その未完の方の1楽章が収録されている。
ベートーヴェンを意識しつつも、どこかとても明るくて伸びやかで、後年の深刻なオペラや楽劇の世界とは程遠い雰囲気だ。習作ともとれるが、よく鳴るオーケストラは、さすがにワーグナーと思わせる。

その明るさは、そっくり2作目の歌劇「恋愛禁制」にも聴いてとれる。
カスタネットにタンバリンで始まるこの曲の異様なワーグナーらしからぬ、軽薄な出だしは一度聴くと忘れられないインパクトがあるが、その後に出てくる、荘重な旋律との対比がいい。オペラ全曲は、やはりサヴァリッシュがバイエルンで上演したライブのエアチェック音源を持っているが、そこでのH・プライの至芸は素晴らしいものがある。

しかし、「ファウスト」となると、これらの明るさは消え去り、シリアスで嵐が吹き荒れるような音楽になってしまう。まさに「オランダ人」の音楽に肉薄している。

こうしたすぐれた創作活動は、「リエンツィ」にいたって、長大なグランド・オペラとして結実する。数年後の「オランダ人」のようなドラマと音楽が一体化した求心力はないが、ローマ時代の護民官の悲劇を壮大な音楽で飾っている。
序曲はそのエッセンスのような音楽。にぎやかな行進曲にどうしても耳がいくが、祈りの歌など、人を酔わせるメロディストとしてのワーグナーならでは。
こちらのオペラ、ルネ・コロの凄まじい歌唱が残されている。

「トリスタン」の幻影のような「ヴェーズンドンク・リーダー」を1976年に、W・ヘンツェが小編成オケに編曲した。透き通るようなオケは、まるで風呂上りのようにサッパリとしていて、妙に新鮮だ。リポヴシェクのクリアーな歌唱もいい。

サヴァリッシュ指揮するフィラデルフィア管は、まるでミュンヘンのオケのように暖かな暖色系の音がしている。
キビキビとスタイリッシュなスタイルのワーグナーを演奏したサヴァリッシュ。
シュトラウスとともに、サヴァリッシュ教授のワーグナー演奏は、私にとって規範のようなもので、いつでも信頼にたるもの。
適度に毒消しもなされているから、中毒になる心配もないしね。

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2008年2月16日 (土)

ワーグナー 「妖精」 東京オペラプロデュース

Wagner_die_feen_2 東京オペラプロデュース公演、ワーグナ「妖精」を観劇。
日本初演で世界的にも本格上映は極めて珍しい。
かつてエアチェックしたサヴァリッシュ指揮のカセットテープをCDRにして、聴きこんだが、それでも焦点が定まりにくい音楽の印象のまま新国立劇場に向かった。

果たしてその結果は?

そう、素晴らしかった。大いに楽しんだ
3幕、3時間の大作ながら一時も飽きることなく舞台に集中できた。
ほぼ埋まった観客席も同様の雰囲気に満たされていて、満足感もひとしお。
やはり、舞台での演技が伴ない、対訳も字幕で把握できることから、作品理解が一挙に進んだことが大きい。


その前に書かれた「婚礼」は未完のまま破棄されているから、「妖精」は、現存するワーグナー(1813~1883)のオペラ第一作にあたる。
1833~34の作曲、ワーグナー30歳そこそこ。本プログラムによれば、姉で女優のロザーリエへの思慕や彼女の助力から生まれた作品で、上演に奔走してくれた彼女の急死もあって、ワーグナーは意欲を失い、以来このオペラは初演されることがなく、ワーグナーの死後1888年にミュンヘンで上演されたのが初とのこと。
それ以降も、あまり演奏機会がなく、近年での画期的な上演は、先にあげたミュンヘンでのワーグナー全作品上演を一人受け持ったサヴァリッシュ指揮の演奏会形式でのもの。
オケはバイエルン放送響、歌い手は、J・アレクザンダー、L・エステー・グレイほか、イタリアオペラも歌えるような歌手たちばかり。
そのほかは目立った演奏記録もないし、録音も少ない。

 

聖地バイロイトは、いうまでもなくワーグナー作品だけを盛夏に上演する音楽祭の地だが、かの地でも、オランダ人前の3作、「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」はかつて学生プロダクションの上演はあったらしいが、正規には取上げられず、事実上それらの3作は、オランダ人以降の7作と扱いが段違いに異なる作品となっている。

 

何故そのような扱いに陥ってしまったのか。
かく言う私もリエンツィ以外は、まったくネグレクト状態。

意欲溢れすぎるワーグナーの盛り込みすぎ~筋だてがややこしいことに加え、登場人物のそれぞれに難しいアリアを与えている。
それらをこなせる歌手を揃えること事態が大変。
そしてその主要人物が多すぎるし、ともすれば個性が希薄となってしまうので、出演歌手の賛同が得にくい。

いろんな要素のごった煮~筋でいえば、おとぎ話的で、「魔笛」や「影のない女」。
主役のアーダはプリマでかつコロラトゥーラの要素も必要。その相方アリンダルは、リリックであると同時に狂乱しなければならいうえ、最後にはヘルデン的な力強さとスタミナを要する。
喜劇的なコンビ、パパゲーノとパパゲーナのようなゲルノートとドロッラの芸達者な二人の男女を要する。
戦いに殉ずるシリアスなワルキューレのようなアリンダルの妹ローラと、アリンダルの親友いい人役、ウォルラムのようなモローラとの恋愛。
ともかくまだまだいろんな人物が出たり入ったり・・・・・。

 

3次元的な妖精の世界と、世俗的な王宮の中を始終、いったり来たりする舞台の混迷さ。
稚拙な舞台技術での上演は不可能ではないか。
これを休みなく舞台に載せるのは、最新式の回り舞台が必要になる。

 

今日の舞台を観て思いついたのが、これまで、この作品が埋もれていた事情。

 

このようなややこしい問題を、東京オペラプロデュースの面々は、限られた状況のなかで、ほぼ完璧にこなしていたのではなかろうか!
実績ある現役の実力派をズラリと揃えたダブルキャストの1日目の鑑賞。
日本人歌手とオケが、この難しいオペラを見事に上演したこと事態が驚きであり、賞賛してもしてきれない。

 

第1幕
かつて、アリンダル王子とその供のゲルノートは、8年前狩りに出て立派な鹿を見つけ、それを追ったが、川の水にのまれてしまう。
そこで出会った美しいアーダと恋に落ちたアリンダルは、その身分を問わないことを条件に夫婦となり、二人の子供をもうけるが、8年後、禁断の質問をしてしまい、アーダは消え失せてしまう。
王子を探しにきた、親友モラルトと部下たち。失意に沈むアリンダルを説得し、故国に帰る気にさせる。
アーダが現れ、そして悲しみ、アリンダルに何が起こっても自分を呪ってはいけないと話す。アリンダルは、また会えるのだから「誓う」と言ってしまう。
アーダの父が死に、王女になることになり、人間になることが難しくなっていたのだ。
彼女は、人間の男と妖精の女から生まれた女性なのである。

 

第2幕
祖国は敵の攻撃で壊滅寸前。ひとり気を吐くアリンダルの妹ローラ。
兄の無事帰還の知らせで沸き立つローラと民衆。
王子とともに行方知れずだったお供のゲルノートと、許婚ドロッラの滑稽なくらいパパゲーノ・パパゲーナのような結びつき。
アーダが現れ、ふたりのお付きの妖精とやりとりをする。その後の彼女の大アリアは素晴らしい。
兄の帰還に沸き立つ宮廷、そこにアーダ登場。
アーダは、二人の子供をアリンダルに手渡すが、その喜びもつかのま、アーダは
子供たちを裂けた大地の中に突き落とす。
さらに、軍が総崩れになった知らせとともに、敵が女で、アーダであったことが発覚。
これらの仕打ちに、ぶち切れ怒るアリンダル。
ついに呪いの言葉を口に。試練に耐えらえなかったアリンダル。
それとともに、悲嘆にくれるアーダ。
これで、人間になる望みを失い、自分は100年間石にならなくてはならないという。
軍を負かせたのは、内通者がいたからで、将軍モラルトを守り、やがて彼が勝利をもたらすこと。子供たちは、清めたのであってすぐに戻ること・・・これらを告白。
子供たちがそこに戻り、勝利のモラルトも帰還する。
勝利に沸く民衆と、悲しみに打ち沈むアーダとアリンダ
ル。

 

第3幕
狂気に陥ったアリンダルに代わり、友人のモラルトと妹のローラが王位を継ぎ、その祝宴。
モラルトは、喜ばしいことではないと、本来の王の立ち直りを全員で祈る。
皆が去ったあと、アリンダルは狂気と愛を求める夢想のなかで長大なモノローグを歌う。
 王室をかつて導いた魔法使いグロマの声がアリアンダルを励まし、空から、楯と剣と竪琴が降りてくる。
そこへふたりの妖精が現れ、ダメもととか言いながら、救ってみせると意気込むアリンダルを、石になりつつあるアーダの元へ連れていくことになる。
ふたつの試練を、グロマの声と与えられた武器で乗り越えたアリンダル。
最後は石を壊す呪文がわからない。
竪琴をかき鳴らし、愛の歌を歌い、ついに試練に勝ちアーダを救いだすことができた。
 妖精の王が現れ、試練に勝った報酬として、アーダとともに不死身の生を与え、妖精の国の王として王国を治めることとなる。
アリンダルとアーダは、故国の妹とモラルトに仲良く国を治めるように歌い、一同賛美のうちに幕。

 

珍しい作品だから、長くなったけれど、その要約を記しました。

 

   アーダ :福田 玲子    アリンダル:羽山 晃生
   ローラ :鈴木 慶江    モラルト :太田 直樹
   ドロッラ:羽山 弘子     ゲルノート :秋山 隆典
   ツェミーナ:工藤 志州   フェルツィーナ:高橋 華子
   グンター:西塚  巧     グロマ  :新保 俊紘

 

 マルコ・ティトット 指揮 東京ユニバーサルフィルハーモニー
            演出:松尾 洋/八木清市
                         (2.16 新国立劇場中劇場)

 

歌手の実力に、正直びっくり。
ホールの規模、小編成のオケなど、歌を生かす背景をしっかり得て、皆さん素晴らしい歌唱だ。
 難役アーダの福田さん。1幕ではセーブ気味だったし、全幕を通じてドイツ語が不明瞭ではあったが、その強靭かつ圧倒的な声量と迫真の歌唱力は胸を打った。
 これも難役、アリンダルは、リリックであるだけでなく、狂気の世界や、魔界での力強い戦いの歌、最後の締めも取らなくてはならず、スタミナとヘルデン要素を必要とされるが、羽山さんは、白眼をむき出したような没頭的な演技に驚くべき歌唱もともない、大ブラーボーを浴びていた。
そのほか、通常主役級をこなせる実力歌手たちの歌と演技に見入るばかりの私だった。

 

イタリアの若手ティトットが、極めて集中力溢れる指揮ぶりで、歌手や合唱とともに美声で歌い、唸り、夢中になっていた。
最前列、右サイドから見るこの指揮者、横顔ヤング・サヴァリッシュであったことを付け加えておこうか(笑)

 

アリア・重唱にこだわり、場や番号オペラの因習を踏んだワーグナーの音楽は、時にウェーバーであり、ベルリーニやドニゼッティであるが、ライトモティーフ風の示導動機も早くも導入しており、これまた時に、オランダ人やタンホイザーを彷彿とさせる響きやシーンも多々あった。これは、初期作も侮れないぞ

 

上演中、アリアが終わると、拍手が巻き起こる。
幕が降りて、満足しながら、出口に向い階段を昇るとき、「はて、ワーグナーを聴いたんだろうか?・・・・・?」と思ってしまった。
ワグネリアンの「はしくれ」として、愛すべきオペラかもしれないが、後年のトリスタンやパルシファルとのギャップが余りにも大きすぎる。

 

東京オペラプロデュースの方々、上演に携わった方々、その熱意と努力におおいに脱帽いたしました。
今度は、「リエンツィ」やってください。「恋愛禁制」の再演も。
「初期三部作は、東京で!」、世界に発信しましょう!!

 



  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2008年2月15日 (金)

ビートルズ HELP!

Neko 今日の「にゃんこ」
正面のイケメン顔は拝めなかったけれど、この美しい後ろ姿は、かなりのナイスなお顔が想像できる。
どう見ても、男子ですわな。

お~い、どこいくんだ!

Help 今日はちょいと、はみ出して英国の音楽でも非クラシックの「ビートルズ」を。
UK-JAPAN2008賛同企画であります。

1962年公式デビュー、1970年解散。
4人のビートルズとしての短い活動時期の極めて充実した創作は、クラシック音楽の分野でいえば、さながらモーツァルトのような天才にも通じるものだと思う。
ジョンとポールがいうまでもなく音楽の中心だったが、ジョージの独創的・抒情的な才能も開花したし、リンゴのバランスあるキャラクターがメンバーの与えた重しも見逃せない。
ジョンとジョージが物故してしまい、ますます伝説化しつつあるビートルズを英国とゆかりのある今年、聴くのもいい。

私のblogでは、名作「サージェント・ペパーズ・・」をすでに取上げたけれど、今晩はさらに遡って、1965年の「ヘルプ!」。
私くらいの世代だと、誰もが通る道がビートルズ。
中学生の時にむちゃくちゃはまった。その時は、解散してまだ間もない頃で、ラジオをつければビートルズばかりだった。
レコードもぎょうさん買った。
映画も観た。
「A Hard Days Nighat」、「Help!」、「Let It Be」の3本の映画を映画館で観たのも懐かしい。
映画「Help」は、ちょっとドタバタのバカらしい映画だったけれど、極彩色のかなりサイケな雰囲気の映像で、ジョージ・ハリソンを中心にのちにのめり込んでゆく、インド風かつカリビアンな異国情緒にも溢れていた。劇中、狂信的な宗教集団が出てきて、リンゴを追いかけまわすのだが、彼らが「カイリ~」という合言葉を口々に叫んでいたのをいまだに覚えている。

その映画で使われた音楽を中心に組まれたこのアルバム。
ヨーカ堂のBGMでも流れるタイトル曲「ヘルプ」(購買欲を刺激するのかしら?)、「涙の乗車券(Tiket ToRide)」、「Yesterday」といった名曲中の名曲に加え、シンプルでわくわくするような音楽が目白押し。
わたし的には、ジョージの「I Need You」がナイーブでとてもいい。
それでもって、クラシカルな「イエスタディ」は古今東西稀にみる名曲だな。
オヤジのわたしは、カラオケで歌ってしまう。
昨今の若者は、これを知らんから困る。

短い曲だけれど、弦楽四重奏を大胆にも起用した彼らの天才。
これを聴きながら、アイリッシュ・モルトウィスキーを傾ければ、思いははるか昔に飛んでゆく・・・・・。

   Yesterday
  all my troubles seemed so far away
  Now it looks as though they're here to stay
  Oh I believe in yesterday

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2008年2月13日 (水)

ワーグナー 「妖精」と「ワルキューレ」

今日は寒い~。 
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このふたつが無性に欲しくなるような日。
やたらに星空がきれいな今宵、帰宅すると「おでん」の夢は破れ、コロッケがおかずの晩ごはん。
でも、文句は言えない、一杯やろうじゃないの。

という訳で、きょうは不本意ながら、コロッケを肴に新潟の酒と芋ロックを飲りながら、ワーグナーを聴いているわけであります。
Diefeenfront1

そのワーグナーは、歌劇「妖精」。
今週末に日本初演が行なわれる、ワーグナーの現存するオペラ第1作。
こんなにワーグナーを聴いているけど、「オランダ人」以前の3作、「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」は、リエンツィを除いて正規盤を持ってないし、真剣に聴いたためしがない。
だから、東京オペラプロデュースによる本邦初演を見逃さない手はない。この団体は、かつて恋愛禁制も上演していて、その努力たるや並々ではないと思う。
3幕、2時間30分に及ぶ大作は、ウェーバーの延長にありつつも、後年のロマンテッィツクオペラ3作を先取りしたかのような、ワーグナーらしい響きも満載。でもまだまだ、耳に馴染んでこない。
今日のCDは、自家製CDRで、サヴァリッシュがミュンヘンの総監督時代、ワーグナーの全作品を上演した時のFMライブで、初期3作のエアチェックテープをCD化したもの。
いずれもオルフェオ・レーベルからも発売されていた。
こうして何度も聴いていると、筋はややこしそうだけれど、なかなかの桂曲に思えてくるのは贔屓のしすぎかしら。

Ring_nikikai2_a それから、次週は二期会が「ワルキューレ」を上演する。
ダブルキャストで、それぞれ2回づつ。
それぞれ観にいってしまおうと目論む私。

やはり聴き所は、飯守泰次朗さんの指揮。
若杉さんとならんで、一番信頼できるワーグナー指揮者だ。

日本人指揮者で、国内でリング4部作を指揮した経験のある人は、若杉さん、朝比奈さん、そして飯守さんの3人。

Ring_nikikai_1_4  こちらの画像を拡大してご覧下さい。
二期会のリング上演の経緯であります。
上記の画像とともに、かつてのパンフレットから拝借したもの。

若杉・飯守・大野の3人が登場。
サイクルからしたら、大野ジークフリートだったのかもしれない。
飯守ワルキューレを出すということは、単発と見られ、4部作を取上げる見込みは薄い。新国との関連も強化し、舞台での「飯守リング」を切に望みたいところ!

二期会リング、私は、ジークフリート(若杉83)、ワルキューレ(若杉86)、神々の黄昏(若杉91)、ワルキューレ(大野96)を観劇している。
ラインゴールドがないのが画龍点睛を欠くところ。
飯守シティフィルのリングでは、ワルキューレと神々の黄昏。

歌手では、83年のジークフリート以来、二期会リングを支えてきた大野氏の歌が個人的楽しみ。
演出はどーなんだろ。ローウェルスという若い人。

しばらくシュトラウスだったが、この2週間は、ワーグナー漬けになれる真冬の東京。

ちなみに、飯守さんの公式ホームページが最近立ち上った。
こちらによれば、シティフィルとの「トリスタン」は、9月21日(日)&23日(火)の2回。
成田勝美と緑川まり、であります・・・・。う~む。

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2008年2月12日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ラトル指揮

East_i 仙台駅で見た「East i」
軌道検測車ということらしい。
私はいわゆる「鉄ちゃん」じゃないけど、こういう変わった車輌を見ると嬉しくなっちゃう。
 以前、取引先の方にかなりの「鉄ちゃん」がいて、その方、酔っぱらって通勤電車に乗っていたら、子供のようにシートに逆座りになって窓の外を見てしまっていた自分を発見して愕然としたことがあったそうな・・・・。
さらにその方、家の中のひと部屋を、激しいくらいのジオラマ・ルームにしているんだそうな・・・。

ちなみに、その方の部下も「人知れず、私も鉄ちゃんなんですぅ」と語ってくれたもんだ・・・。

Rattle_shostako10 久しぶりに、ショスタコーヴィチの交響曲を。
若き、サイモン・ラトル指揮のフィルハーモニア管弦楽団の1985年録音。
交響曲第10番は、1953年の作品で、今となっては馬鹿らしいくらいに、当時のソ連国内ではイデオロギー論争となったらしい。

前作の9番が、その第9という重みに反して、軽快なくらいの小交響曲であったので、偉大な交響曲を望む世論の重圧があった。
そこで登場の10番は、内容が全編重い雲が立ち込めるような暗さに覆われていること、そして3楽章までの厳しさに反して、終楽章の軽さ。
こうしたことが論戦の対象となったらしい。
スターリンの死後の、いわゆる「雪解け」ムードとの兼ね合いでも、この曲の真意がどこにあるかの議論もあったし、ヴォルコフの「証言」では、スターリンについて書いたとされているが、これまた不明の「証言」の証言。

ムラヴィンスキーによって初演されたこの作品、欧米でも本国以外の初演権を巡ってかなり争われたらしい。
何気に、カラヤンが得意にしていて、2度も録音したりしているが、私は未聴。

結局、この交響曲の真意や背景は不明、ということになるのか、でもあんまり知りたくないけれど・・・・。

だからこそ、ショスタコーヴィチは、スコアを信じて、その万全の解釈をする演奏が、一番説得力ある演奏であると思うんだけれど・・・・、これも自信ないねぇ~。

ラトルのこの演奏は、そうした演奏の筆頭にあって、客観性と音楽性の絶妙な両立が、ロンドンのニュートラルなオーケストラから巧まずして表出されている。
ハイティンクの演奏に合い通じるものがある。
ベルリンに行き、少し大人しくなってしまったラトルだが、もしかしたらもっと違うショスタコーヴィチを聞かせてくれるかもしれない。

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2008年2月11日 (月)

マリア・カラス

Callas

マリア・カラス」(1923~1977)
この不世出の大歌手を取上げるのは何となく恐れ多かった。
そのすべてをまだ聴き尽くしてないし、カラスに必ず付いてまわる音楽以外のゴシップなどが、どうにも苦手だったから。

53歳で亡くなってしまったカラス。
無理なダイエット、オナシスとの別れと歌手生命からの別離による鬱症状。それを克服しようとした薬漬けの日々・・・・・。

ドラマのようなカラスの人生は、映画にもなったし、これから先、伝説を呼んでいくことだろう。

Callas_tosca そんなすごいカラスには、私は高校生の時に出会った。
もちろん、現役を退いてしまっていた頃だけれど、プレートルの指揮するステレオ盤の「トスカ」のレコードを買ったのがきっかけ。
今にして思えば64年のこの録音ではもう、カラスの声は衰えが目立つが、その風格とトスカに乗り移ったかのような大女優の貫禄には、ほとほと参った。加えてゴッピのスカルピアのもの凄さと、ベルゴンツィの高潔なカヴァラドッシ・・・・。
デ・サバタ盤もいいが、これも今もっていい。

次いで、1974年のカラスの復活来日公演。
前年にオープンしたNHKホールという巨大空間で、ピアノ伴奏による、ディ・ステファノとのジョイントコンサートが開かれた。
欧米を経てから、カラスの生涯最後のコンサートが、日本だったことは複雑な気持ちだが、その公演はNHKで放送され、テレビとFMに釘付けだった。
出来栄えがどうのこうのではなく、モニュメント的なコンサートだったが、映像で見たカラスは、その立居振る舞いに大歌手のオーラが出まくっていた。
そして、カラスより、ステファノが現役そこのけの立派な歌だったのも鮮明に覚えている。
この映像と音源は、私の貴重なコレクションとなっている・・・・・・。

その翌年、カラスは横浜の県民ホールで「トスカ」の舞台に立つ予定だったが、やはり無理だった。かわりにカラスに指名されたのが、モンセラット・カバリエ
皮肉にも、カバリエの巨漢と、見事なソットヴォーチェを印象付けた上演だった。

Callas_japan こちらは、73年に公演を前に初来日したカラス。
雑誌の切抜きから。
長崎の「マダムバタフライ・コンクール」の特別審査員として来日。

私が思うカラスの素晴らしい役柄を3つあげると、「トスカ」、「ノルマ」、「ルチア」 だろうか。

決して美声ではないが、知性に裏打ちされた圧倒的な歌唱力は聴いていて、それこそ平伏し、ヒロインといっしょくたになって、感動の涙にくれざるを得ない。そんなすごい説得力に満ちているカラスの歌。ほかの歌手たちとは、比較もできない。
カラスはカラス。オンリーワンの歌手。

EMIに残した、スタジオ録音による13枚のリサイタル盤を集大成した今回のCD。
昨年夏に、今は亡き新橋のキムラヤで、格安で購入。
以来、おりにふれ、1枚1枚聴いて楽しんでいる。
モノラルの若い頃のものほど素晴らしいが、30歳そこそこで、こんなに役にのめり込んだスゴイ歌唱をしていたのかと思うと恐ろしい。
歌うたびに、そしてそのたびに、きっとものすごい努力を重ね、命をすり減らしていたのだろうか・・・・・。54年録音のプッチーニ集から、ミミの歌や、アンジェリカの歌をそんなことを思いながら聴いていたら、落涙してしまった。

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2008年2月 9日 (土)

R・シュトラウス 楽劇「サロメ」 新国立劇場公演

Salome_2  新国立劇場公演、R・シュトラウスの「サロメ」を観劇。新国4度目のサイクルでレパートリーとして定着した演目のひとつ。
私は今回が初めて。
エブァーディングの常套的かつの温厚な演出は、安心できるものだから、本来過激なオペラながら、土日の昼下がりに、善男善女を集客するには問題ないプロダクションなのだろうな。
私もその一員として楽しんだひとり。
ほぼ満席の会場。若い女子学生さんがたが多く見かけられたのは最近の風潮か。

でも・・・・、不満は、やはり「サロメ」ぐらいになると、普通じゃない何かを求めたくなる聞き手をほんとに満足させえたかということ。
同じシュトラウスでも、先般のアリアドネあたりと異なる次元の作品だし、ポピュラリティのうえでも受容歴が長い。さらにDVDなどで、海外の先端上演も眼にしている。
だからこそ、ぼちぼち冒険も必要ではないかと思う。
第一、エヴァーディンクはもう亡き人なのだから。

そんな思いを別にして、「サロメ」という楽劇を楽しむには、まずは間違いなく完成度の高い普遍的な舞台であり、新国のプロダクションとして完成作品に到達していると思った。

  サロメ :ナターリア・ウシャコワ   ヘロデ :ウォルフガンク・シュミット
  ヘローディアス:小山由美       ヨハナーン:ジョン・ヴェーグナー
  ナラボート:水口 聡          ヘロディアスの小姓:山下 牧子

      トーマス・レスナー指揮 東京交響楽団
                     演出:アウグスト・エヴァーディング
                             (2008.2.9)

Salpme2 タシケント生まれのウシャコワの歌唱と舞台姿に注目であった。
他の主要歌手は、いずれも定評ある人ばかりで、やはりシュミットのエキセントリックな声と風貌は昨年のジークムントなどより、はるかにはまり役。
小山さんも、新国3度目のヘローディアスだし、抜群の安定感。
そして、バイロイトの最近の常連、ヴェーグナーが今宵は一番素晴らしかった。
はりがあるバリトンらしく力強い声は、分厚いオケを圧して響き渡っていて見事。
さて、肝心のウシャコワだけれど、定評と実力からすると不本意の出来ではなかったろうか。彼女の経歴を見ると、ゲルギエフ、ムーティ、アバドなどとの共演が記されているが、いずれも、ヴィオレッタ・リュー・マリア(マゼッパ)・ドンナアンナ、などのロールで、何故彼女がここでサロメを歌わなくてはならなかったのかが読み取れない。
要は、CDならともかく、舞台でのサロメに彼女の声は合わなかったのだと思う。

本来、少女であるサロメ。その魔性ゆえ、ヨハナーンの声と姿で妖艶な血を呼び覚ましてしSalpme3 まう訳であるが、役柄に求められる声はリリカルな少女の声から、取り付かれたような魔性の女としてのドラマテックな声を歌い出さなくてはならない。
最近は、リリカルな声で緻密に歌いこむサロメが主流だが、その場合、取りつかれたような雰囲気や、プロはだしの演技や見事なヴェールの踊りが伴なっているサロメだ。
ウシャコワは、声が第一サロメにまだ達してないのではなかろうか。
かといって、恵まれた容姿がありながら、あの演出における何もその気にさせないダンスはいかん。非難を覚悟にいえば、田舎のストリップ劇場のもっさりダンスだった。
彼女のダンスも演出はともかく、う~む・・・の出来。

私の3階席中央では、オケに中音から下はかき消されていた。
高音はよかったけれど、小山さんの声は通っていたから、ウシャコワの冒険はどうだったのだろうか?

ウィーンの新鋭、34歳のレスナー東響をよく鳴らしていたと思うが、サロメの声をよく聴いていたかどうか。それでも、わずかにキズはあったものの東響は素晴らしかった。

今日も若杉監督は2階の桟敷で観劇していた。
このサロメのプロダクション、もう次回は新演出を打ち出していいのでは。

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2008年2月 8日 (金)

バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 ブーレーズ指揮

ピエール・ブーレーズは、今年83歳。
作曲家としてブーレーズに関しては私は不案内なので、なんともいえません。
指揮者としては、1950年代後半から自作を中心に活躍しはじめ、コンサートホールに録音した、「春の祭典」でその指揮者としての実力を見せつけたはずだ。
同レーベルには、同じストラヴィンスキーの結婚や、水上の音楽なんかもある。
そのブーレーズに目を付けたのが、ヴィーラント・ワーグナーで、1966年、クナッパーツブッシュの後任として「パルシファル」に起用したのだ。
「オペラは死んだ」とか「オペラハウスを燃やせ!」なんぞと、過激な歌劇発言をしていたブーレーズは、幽玄長大だったクナのパルシファルとは反対に、快速・明晰なパルシファルをこともなげに聖地で演奏してしまった。
ヴィーラントの眼力とその目指した音楽に、今もって驚かざるを得ない。

それでもって、話題はブーレーズの頭のこと。
若い頃に較べて、髪が増えているのである。
カツラなのか、リーブ増毛なのか、1:9分けかなんかで、思い切り横から持ってきているのか???
歳を経るごとに、髪が増え、音楽も先鋭一本やりから、丸みを帯びるようになったブーレーズ。笑顔も増えたし。
こんなことしてゴメンなさい、ブーレーズさま・・・・。

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Boulez_2_4 Boulez4_3

Boulez_bartok

ブーレーズがCBSに録音し始めた40代の録音のひとつが、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」(弦チェレ)とストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲。
オーケストラは、BBC交響楽
このジャケットからして、あの頭部の時代。
バルトークが1937年に完成させた斬新かつ民族色の濃い作品は、フルトヴェングラーも初演後すぐに演奏したという。

4つの楽章からなるが、全編厳しく、緊張感たっぷり、ある意味無愛想なくらいのクールな雰囲気に満ちている。
このクールな雰囲気が、青白い炎のようにメラメラと燃えるような押さえた情熱を感じさせるところが、バルトークならでは。
精確無比、怜悧で切れ味鋭い、このブーレーズの演奏は、私が高校生の時に聴いた。
当時レコード芸術で、諸井誠氏が、「ぼくのBBB」という連載を書いていた。
女の子一人と、音楽喫茶の主人(だったと思う)と客のクラヲタ達の物語で、BBBとは、バーンスタイン、ブーレーズ、バレンボイムである。
この3人の演奏をいろいろ比較して聴いてゆく内容だった。
そこで、3人が共通して録音している曲が、この弦チェレで、これを読んでいて、無性に聴きたくなって購入したレコードなんだ。
少しツメは甘いけれど大らかなバーンスタイン、若さみなぎり踏み外さんばかりのバレンボイム、完璧なブーレーズ・・・・、こんな内容だったように思う。

シカゴとの再録音は未聴ながら、40年前の録音とは思えない色褪せない演奏。
ちなみに、「火の鳥」は1910年版組曲を採用しており、通常より長いが、終曲がなく、カスチェイの踊りで終わってしまう。ちょっと消化不良の感を抱くが、当時のブーレーズならではの選択であり、演奏である。

私もあやかりたい、ブーレーズの頭・・・・・、悲し~~。

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2008年2月 7日 (木)

コルンゴルト チェロ協奏曲 スラトキン指揮

Daikoku この不可思議かつ幻想的なイルミネーションは、横浜の大黒パーキング
色とりどりの星が、そこここに植えこまれていて、とてもきれいだった。

Daikoku_ramen3 食い気でいうと、ここ大黒パーキングのラーメンはかなりおいしい。
あっさり醤油味で、シンプルな具が多めに入っております。

そうそう、ラーメンといえば、ドレスデン・シュターツカペレの日本人女性ヴァイオリン奏者の島原さんのダイヤリーHP、これがまた面白い。
オケの内側から見た秘談などもたっぷりあって、いつも更新を楽しみにしているのだけれど、今回は、「Suppenbar (ズッペンバー)=スープ・バー」のお話。
かなり面白いからまず読んで下さい。
サントリーホールの道路向い側にある、あの店かしら・・・・・・。

札幌出張の時にいつも行く寿司屋さんが、「ドイツ人が何人も、何日間か毎日来るから聴いたら、ベルリンフィルのメンバーだった」と言っていた。
チェコフィルにコンビニが占拠された話は以前書いたけれど、その気になれば、オケの皆さんと何気に遭遇できるわけであります。

Slatkin_hollywood 話はまるきり変わって、ハリウッド関連のクラシック音楽家の作品を収めたBBCの1枚を。
いずれも、レナート・スラトキン指揮のBBC響の演奏。
スラトキンがBBC響の主席指揮者をつとめていたときに生まれた素適なディスクだ。

BBCは、前任がアンドリューの方のデイヴィス、後任がチェコのビエロフラーヴェクで、ロンドンのオケの中でも、歴代渋くていいシェフを戴いている。
ちなみに、現在のビエロフラーヴェクは、日本でもお馴染みの指揮者だけれど、ここのところ急速に名を上げつつあって、昨年のグライドボーンの「トリスタン」は素晴らしかったし、プロミスでのブリテンもよかった。
DGからは、ヤナーチェクのオペラが出たし、名匠の仲間入りを果たしつつあるように思う。

 1.バーンスタイン 「波止場にて」交響組曲
 2.コルンゴルト  チェロ協奏曲
 3.ガーシュイン  「Walking the Dog」
 4.ローザ      「白い恐怖Spellbound」協奏曲
 5.ワックスマン  「トリスタンとイゾルデ」ファンタジー

どうですか、この魅惑の選曲。
ミクロス・ローザなんざ、「ベン・ハー」の人ですよ。
そしてドイツから渡ったワックスマンは映画界の大作曲家ですわ。
ハイフェッツの弾くコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲に、ローザの協奏曲とワックスマンの曲がカップリングされている。

それぞれに書き出したらきりがない、素敵な曲ばかり。
であるが、本ブログとしては、コルンゴルトに焦点を当てざるをえない。

このチェロ協奏曲は、映画「愛憎の曲~In Irving Rappers Deception」のために作られた音楽。
映画は、美貌のベティ・ディヴィス扮するクリスチンとマルチ音楽家でセレブの男の愛人と、彼女が惚れてしまったチェリストとの三角関係を描いたもので、最後はクリスチンは、セレブ男を殺めてまで、チェリスト君と愛し合おうとする物語。
このなかで、セレブが作曲しチェリスト君が弾いた音楽が原曲となっている。
これをコルンゴルドがバージョンアップさせたのが、この協奏曲。

映画で、チェロの音を出していたのが、エレノア・アラー(Eleanor Aller)という当時ハリウッド四重奏団のメンバーで、かつ、ここで指揮しているレナート・スラトキンの母なんだそうな!!
彼女はもちろん、バージョンアップした協奏曲の初演もおこなっている。
レナートの父、フェリックスは、もう有名なハリウッドボウル管弦楽団の名指揮者だった。
血は争えない。まさに、こうした音楽では心の底から共感した演奏を聴かせるレナート。

哀愁と甘味かつ、ほろ苦さに満ちたコルンゴルトの音楽は12分足らずだけれど、私を魅了してやまない。
チェロは、なんとまあ、レナートの兄フレデリック・ズロットキン(Zlotkin?)で、ピィアティゴルスキーやローズに師事した本格派ながら、シナトラやA・フランクリンなどとも共演してきたユニークなチェリストで、ものすごく説得力あるソロを聞かせる。

スラトキンは、デュトワがN響に選ばれた時の対抗馬だった。
二人ともオーケストラ・ビルダーだったけれど、スラトキンはクールなデュトワより熱っぽかったし、意外性もあった。さらに英国ものも得意だから、おもしろい選択だったはずだ。
まだ遅くはないと思うけれどねぇ~。

 

 

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2008年2月 6日 (水)

仙台 クライバー コルンゴルド

Kleiber 盛岡→仙台に出張してきた。
食いしん坊の感性を満たしつつ、仕事をするのはなかなかに大変だが、そこに音楽関連も充足させようとすると、至難のワザなのだ!

そんな中でも、いいコンサートがあったりすると、巧みにに一人になるべく見事な作戦を編み出してしまう自分がうれしかったりする・・・・。

今回は、会食を1次会でうまいことすり抜け、以前から行きたかった店へ急行したワケなのであります。

その店は、仙台にある喫茶「クライバー」。
以前取上げたこちらの店は、夜10時まで営業していて、コーヒーだけでなく、夜はお酒を少しだけ飲める。
小雪の舞うなか、喜び勇んで訪問。

まず驚くのは、店内の塵ひとつない清潔さ。
テーブルも椅子も完璧なまでに真っ直ぐにそろっている。
オーナーのこだわりと、生真面目な性格がすぐにわかる、この雰囲気。

流れていた音楽は、J・シュトラウスの「こうもり」序曲。
お~、さすがは「クライバー」だ。と思って、飾られたCDを見たら、なんとチェリビダッケとミュンヘン・フィルの演奏!!
おやまぁ。克明かつ流麗な演奏に聴き惚れてしまった。

客は、9時という時間もあって、劇団私ひとり。
迷うことなくビール(レーベンブロイ)を飲みつつ、店内を観察すると、CD在庫からリクエストOKとあるじゃないか。
演奏家別のジャンルの膨大な棚のCDを眺めつつ、よくみると作曲家ジャンルもある。
確かにクライバーは完璧な品揃えだ。だが、よく見ていくと、おっ、コルンゴルド・コーナー発見!! 10枚はあるぞ。
すかさず、ヴァイオリン協奏曲。それもワタクシ未聴のハイフェッツ盤をリクエストだぁーっ。
でも小声で申し訳なさそうに、ですよ。

702 本格装置で気兼ねなく聴く音楽は、自宅で周囲を気にしながら聴くのとは大違いで、心置きなく堪能できた。
それも大好きなコルンゴルドのヴァイオリン協奏曲なのだから。
ビールを飲みつつ、艶っぽいハイフェッツの至芸と、年代柄、雰囲気出まくりの録音に酔いしれてしまった。
もう心も体もとトロトロにとろけそう・・・・・。

そのとろけた体で、寒空のもと、通り(上禅寺通り)の向かい側の「国分町」のネオン街へ一人さまよい行く私であった。

仙台の音楽好き、仙台出張やご旅行の音楽好き、皆さん、クラシックファンの聖地のような「クライバー」に訪れてみてはいかがですか。
お店のブログは、こちら

 「クライバー」  仙台市国分町3-4-5 クライスビルB1
           TEL:022-214-1036  木休

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2008年2月 4日 (月)

プロコフィエフ 「アレクサンドル・ネフスキー」 アバド指揮

Nosyapu 昨日は、関東でも終日雪で、私の住む千葉でも10cmは積もったろうか。
子供は、朝からテンションが上がりっぱなし。
雪に慣れた地域の方からすれば、なんのことはないと思われるだろうが、ちょっとの雪で道路や鉄道は止まってしまうし、ケガ人も続出。

この画像は、数年前の1月に訪れた根室の「納沙布岬」。
日本最東端の地からは、北方領土も真近に見えるはずだったが、ご覧の吹雪状態。
これ、ワタシです。ゆえあって、アライグマの恰好をしております。
道内の方と一緒だったが、その方もせっかく来たのだから行きましょうと、吹き荒れる岬に向かった。途中、車が雪にハマってしまい、地元の方に助けられたりもした。
Imgp0370 Imgp0377その方からは、「バカなことすんでねぇ」なんて怒られたけれど、我々は決行してしまった。
灯台に近づくほど、雪はない、というか強風で雪が飛ばされてしまっているのだ。
風と氷の世界に、身も凍る思いだった!

 

Prokofiev_alexander 氷の世界、といえば、この音楽も。
プロコフィエフ(1891~1953)の「アレクサンドル・ネフスキー」。
この中に、「氷の上での戦い」が描かれている。
この音楽のクライマックスでもあるが、氷のツルツルとした雰囲気も音楽でかもし出されているし、戦いの凄まじさもクレッシェンドしてゆき、やがて大音響となる様子で描きだされている。

 

映画への付随音楽、いわゆるサウンド・トラック音楽に熱をいれていたプロコフィエフが、「戦艦ポチョムキン」で有名なエイゼンシュタインの依頼で、この「アレクサンドル・ネフスキー」の映画に音楽を付けることとなった。1938年のこと。
プロコフィエフは、この音楽から7編を抜き出し、カンタータ形式の声楽作品にしたてあげたのが、この曲。

13世紀、ゲルマン騎士団の侵攻をくい止め、撃破したアレクサンドル・ネフスキーを描いた映画を一度、この音楽とともに観てみたいものだ。
プロコフィエフの音楽は、ドラマテックであるとともに、国を蹂躙されて苦しむロシアの民を深刻に描いたり、戦士を悼んだ独唱が入ったり、最後は賛歌ありと、なかなかヴァラエティー豊かで楽しめる。

ロシア音楽を好むアバドは、とりわけムソルグスキーとプロコフィエフが得意だ。
ムーティやシャイーもプロコ好きだから、イタリア人はプロコがお好きなのか。
リズムとモダニズム感が、共感を呼ぶのであろうか。
アバドは、圧力に苦しむ民衆の声を描いた部分と、その解放の喜びに大きな共感をよせて指揮しているようだ。
強弱の幅が、めちゃくちゃ広くて、どんな大きな音でも、細部がよく聴こえる。
オブラスツォワの歌う哀歌、彼女の歌も素晴らしいけれど、オケの美しさも特質すべき。
アバドとロンドン響の名盤のひとつは、録音も目覚しくよい。

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2008年2月 3日 (日)

チレア 「アドリアーナ・ルクヴルール」 カプアーナ指揮

Adriana1 チレア(1866~1950)の「アドリアーナ・ルクヴルール」は、私の愛するオペラのひとつで、この素晴らしい作品との出会いはかつてのNHKイタリアオペラ1976年に遡る。
カバリエ、コソット、カレーラスがそろったその時の名舞台と演奏は、こちらで熱く語ってしまった。

ヴェリスモ抒情派のチレアの作品は、この「アドリアーナ」と「アルルの女」以外は知られてないが、最近ショップを徘徊していると、ほかのオペラや器楽曲なども出ていて、今非常に気になる作曲家でもあるのだ。

アドリアーナは、美しい旋律の宝庫で、音楽による筋立ても実によく出来ている。
プリマドンナのロールと二枚目テノールによる恋愛を軸に、チョイわるメゾによる横槍。
そして控えめなバリトンが暖かく見守り、ブッファのアンサンブル的な仲間たちが取り巻く。
 それぞれに、短いながらも素晴らしいアリアが配置され、バレエ音楽まで設けられている。
グランドオペラのスタイルをしっかり受け継ぎながら、ただ単に美しい音楽が垂流されている訳でなく、登場人物たちやその行動には、ライトモティーフが与えられ、音楽によってしっかり色分けがなされている。さらに新古典主義的・回顧的な音楽もあるし。
 かなり緻密なオペラが出来上がっているわけなんだ。

1902年の作曲。その頃、先輩プッチーニは、トスカを終え、喋々夫人に取りかかるところだった。マーラーは5番の交響曲を作曲中、R・シュトラウスは交響詩を書き終えてしまい、家庭交響曲を執筆中、でもサロメはまだ構想の中だったし、シェーンベルクはペレアスを作曲中。
フランスではドビュッシーが活躍中。英国ではエルガーが・・・・。
 こんな時代背景を考えると、私の好む音楽が固まっている時代。
やや保守的軸足をもつチレアだけれど、生々しいヴェリスモから一歩も二歩も距離を置き、美しくもデリケートな旋律を追い求めた。

オペラのあらすじは、以前の記事をご参照くだされ。今回もう少し詳細に書こうかともおもったけれど、大好きオペラだけに、またいずれ取上げますので、その節に。

Adriana_1976 1976年のNHKホールの舞台。
中央にカレーラス、左にコソット、右に腰かけたカバリエ。強靭な声と存在感たっぷりのコソットに、巨大なカバリエ(声はあまりにも繊細で素晴らしかった)に押しつぶされそうなカレーラスが、いかにもこのオペラのヒーロー役のマウリツィオに相応しかった。
国を思うあまり、アドリアーナを愛しつつも、敵役公爵夫人に接近さざるをえなかったマウリツィオに名を変えた独サクソニア公は、そうした悩ましい境遇を苦しげに歌いこまなくてはならない。
一方で、ヒロインを死に至らしめるいい加減さといおうか、野放図さもなくてはならない。そうした意味では、カレーラスのある意味、ひ弱で一途な歌唱は、まさに適役だった。

アドリアーナ:レナータ・テバルディ     マウリツィオ:マリオ・デル・モナコ
ブイヨン公爵夫人:ジュリエッタ・シミオナート ブイヨン公:シルヴィオ・マイオニカ
ミショネ :ジュリオ・フィオラヴァンティ  僧院長 :フランコ・リッチャルディ

 フランコ・カプアーナ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
                     同   合唱団
                       (1961年 ローマ)

もう物故してしまった人々ばかりの大演奏。
これで、アイーダが上演できちゃうすごい顔ぶれ。
アドリアーナと公爵夫人のコンビは、数ある演奏の中で、最高のものではなかろうか。
テバルディの風格と気品は、アドリアーナにぴったりで、朗読の場面や、嫉妬に燃える迫真の歌唱、最後に消え逝く儚さなど、大歌手兼大女優である。
でも常に、暖かさと人間味に満ちた声は、近寄り難いデーヴァというよりは、庶民的な親しみ安さをも感じる。テバルディならでは。
 シミオナートについても、まったく同じことがいえる。
押し付けがましさが本性の公爵夫人でありながら、恋に震えた女性を歌いだしていて素適だ。コソットとともに最高のブイヨン夫人。

Del_monaco そして、デル・モナコのマウリツィオ。
こればかりは、デル・モナコの歌には合わない役柄ではなかろうか。
不器用なデル・モナコはここでも、祖国とアドリアーナへの愛情にゆらぐ一途な男を、それこそ目一杯歌いこんでいて、胸が熱くなる。
でも、カレーラスが歌ったマウリツィオは、もっと弱くて繊細な男だった。
どうしてもヒロイックに傾いてしまうデル・モナコ。
そんなデル・モナコは大好きだけれど、カレーラスのような華奢な男の翳りの部分は歌いだせなかったのではないか。
レヴァイン盤のドミンゴは、かなりいいが、あの分別臭さには、一途さがない。
今のところ、カレーラスが一番のマウリツィオだ。
映像で聴けるドヴォルスキー(フレーニの素晴らしいアドリアーナ)もいいが、コレルリやベルゴンツィも是非聴いてみたい。

カプアーナはNHKイタオペにも来日した懐かしいオペラ指揮者だが、1800年代に生まれた巨匠で、すでに69年には世を去っているが、こうしたイタオペの名匠は、いまはなかなかいないのではないか。人生の機微に通じた実に味のある指揮で、オケの意外な機能性と渋いくらいの彩りがたまらない。

アドリアーナの死を前にした、二人の二重唱の切なさは、ほろ苦い大人の音楽だ。
そして、愛する人の死を前に慟哭するマウリツィオと、愛する人をじっと見守ってきたミショネの静かな悲しみの対比は、あまりに悲しくて、美しすぎる。

多くのオペラ好きに聴いてほしい、「アドリアーナ・ルクヴルール」なのであります。
涙に濡れてもう書けませぬ・・・・・・。

Dvc00010 関東地方も今日は雪。

音楽を聴くしかすることがないわ。

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2008年2月 2日 (土)

エルガー 交響曲第1番 バルビローリ指揮

London3 ロンドンの風景の代表といえば、これ。土産物の絵葉書だけど、そして色彩的にデフォルメされているけれど、とても気に入っている。

テムズ河に沿って、ビッグベンを据えた国会議事堂は、ちんまりした日本のそれとは比較にならないくらいに、壮麗で美しい。
さすがに、議会制度を導き出した英国である。

今年は、日英修好通商条約締結150周年で、「UK-JAPAN2008」という催しも行なわれ、われわれクラシック音楽ファンも、英国音楽を取上げたコンサートにきっと多く行くことになろう。
すみだトリフォニーホールでは、ブリテンの戦争レクイエムが、3月に2度も違う団体によって演奏される。まずは、アルミンクと新日フィルのチケットを購入した次第。
もう一方の、群響は考え中・・・・。

Barbirolli_elgar1 エルガー(1857~1934)は、去年が生誕150周年だった。
演奏会もエルガーが取上げられることが多かったが、ブームになるほどのことはなく、残念だった、というか、安心した。
大友/京響の2曲の交響曲、尾高/読響の2番、これらは大いなる感銘をもたらしてくれた。
1年のうち、こんなにいくつもエルガーの交響曲が聴けるなんて、そうないことだし、英国音楽を愛する二人の指揮者の存在も頼もしかった。

エルガーがそのキャリアにしては、遅咲きの交響曲を完成させたのは、1908年。
それまで、威風堂々やエニグマ変奏曲や声楽作品などで、押しも押されぬ英国音楽界の大作曲家となっていたが、交響曲を熱望する声はさぞかし、プレッシャーであったろう。
マンチェスターで、ハンス・リヒターによって初演され、各地で絶賛され、まさに英国産の大交響曲としての地位を得ることになった。

初演100年の今年、東洋の島国にいながら、この曲を聴いて100年前の英国に思いを馳せるのも楽しいもの。
目をつぶれば、エドワード朝にあった栄光の国とそこに住むジェントルマンたちの、立居振る舞いが思い浮かぶかのようだ。

愛するこの交響曲、今日は久しぶりにサー・ジョン・バルビローリフィルハーモニア管の演奏を取り出してみた。
全曲にわたる循環主題(モットー)につけられた「ノビルメンテ~高貴に」という指示が、これほど似合う演奏は、このバルビローリとボールト、そしてB・トムソン、尾高をおいて他にないと思う。
全編にわたりゆったりとしたテンポで、時にいとおしむように、時に立ち止まり振り返るように、そして決然と立ち行くように、まさにバルビローリ渾身の指揮は、私を惹き付けてやまない。
毎度のことながら、冒頭のモットー旋律がじわじわと盛り上がっていくところからしてジーンとしてしまう。
2楽章の荒れ狂う金管の旋律のあとの、涼やかな一風のそよぎのような雰囲気もいい。
そして、アタッカで静かに突入し、繊細かつ熱い思いに満ちた美しい3楽章こそ、サー・ジョンの演奏の核心部分に思う。憂いを含んだ旋律を愛情こめて奏でるさまは、息を飲むほど素晴らしい。そして、静かにこだまし、明滅するホルンに伴なわれて消えゆく音楽・・・・。
終楽章のエンディングで、モツトー主題が、力強くあらわれ、私を感動の坩堝へといざなってしまう。
名曲名演奏なり!
1962年、初演後54年、いまから46年前の録音。

※これまで、とりあげたエルガーの1番の記事

 大友直人/京都市交響楽団 演奏会
 尾高忠明/BBCウェールズ響
 ノリントン/シュトットガルト放送響
 プリッチャード/BBC交響楽団

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2008年2月 1日 (金)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番「月光」 ルービンシュタイン

Luzern スイスのルツェルン湖に浮かぶ白鳥。
もう大昔の写真を引っ張り出してみた。
ルツェルンは、いずれまた訪れて見たいところで、ともかく美しい街だった。
素晴らしい音楽祭もあることだし、大作曲家たちの縁ある地でもある。

Luzern_2 夜に一人で散歩した。
右手にカペル橋が見える。
橋を渡り、湖のほとりを散策していると、市立劇場があった。
近づくと、オペラが上演中である。
耳をすませると、歌が聞こえるじゃないか!
出し物は、私の大好きな、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」だった。
忘れられないすてきな思い出。

ベートーヴェン月光ソナタは、詩人レルシュタープが「ルツェルン湖の月の光に映え、さざ波に揺れる小舟のよう・・・・」と形容したことからその名が付いたとされるが、本当にうまくその印象をあらわしたものだ。
Moonright ベートーヴェンの思いはまた別だったらしいが、不器用なベートーヴェンは伯爵令嬢ジュリエッタに心を奪われていたとも言われる・・・・。

そんなこんなの、いわれを知らなくても、この幻想的なソナタを聴く時、大いにロマンテックな思いに浸ることができる。

1楽章は出だしが難しくないから、私でも弾けちゃう。でも最初しか弾けない。

中学生の時に夢み心地によく聴いたのが、このレコード。17cmの33回転レコードだ。
400円で、30分以内の曲が両面に収録されてた。
おまけに豪華見開きジャケットになっていて、存在感も充分あったのだ。

そんな訳で、私にとって、ルービンシュタインの演奏がこの曲のすり込み状態。
格調高く、優美でさえある。バックハウスの演奏を聴いていた従兄弟が、このレコードを聴いて、「これいいじゃん。すごく水っぽくて・・・」なんて言っていたけれど、今思い返すと、至極言い得ていて、納得。

Rubinstein_beetohoven CDでは、「月光」に、「告別」「悲愴」「熱情」がカップリングされていて、ほぼ1000円。
時代は、変わり、私も歳をかさねたが、月光ソナタはあの頃と同じようにそして、ノスタルジーとともに、心に響いた。

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