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2008年3月

2008年3月31日 (月)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 クリュイタンス指揮

                                 先週Kuranosuke金曜日のこと、品川で打ち合わせ後、田町まで歩いた。
近道をしようと閑静な高輪の住宅街を歩いていたら、またもや前日訪れた「泉岳寺」の前に出てしまった。

大石内蔵助」の立像をパチリ。

そして、伊皿子坂を歩くとN響の練習場がある。
今日は、高級車がたくさん止まっていて練習日の様子。
と思ったら、楽器を手にした、テレビでお馴染みの楽員が何人か出てきた。練習風景を覗き見たいものだ。

Img


大石内蔵助じゃないけれど、高潔の中年男性が活躍するオペラが、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。

中世の実在の人物、作家「ハンス・ザックス」は、まさに当時の風習として靴職工として2年間修行を積んだらしい。
その後、ドイツ各地を遍歴し、国民への啓蒙と、道徳の高揚に力を注ぐ詩作活動をし、ルターの新教にも目覚めてゆく。

こんなザックスの大まかな背景を知っておくと、ワーグナーが描いたザックス像が、とてもわかりやすいかもしれない。
旧習に捕らわれず、かといって古きも大切に。愛を忘れず、自己を知り、己を抑え、人を立てる。そんな人物が、民衆の人気を集める。
中世ドイツの「大石内蔵助」は、「ハンス・ザックス」。

Buehne_meistersinger_big トリスタンと二律背反するハ長調の世界、4月のスタートに相応しい調和の調べ。
何度も書くけれど、ロマン派歌劇を「ローエングリン」で極めてしまったワーグナーは、壮大な「リング」に着手し、「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」第2幕までを仕上げ、「トリスタン」そして、「マイスタージンガー」に没頭することになる。
「ローエングリン」から「ラインの黄金」への飛躍も驚くべき進化だが、「リング」の狭間の2作の驚異的な完成度、「マイスタージンガー」の長調主体の一見単純ながら複雑な和声法、それがそっくり「ジークフリート」3幕と「神々の黄昏」に引継がれていることに感嘆せざるを得ない。

音がひたすら開放的に向かってしまいかねない「マイスタージンガー」は、意外と完璧な名演がないかもしれない。
ヴィーラント・ワーグナーに請われてバイロイトで活躍した「クリュイタンスのマイスタージンガー」は、表情が明るいだけでなく、細部に目を凝らした緻密な演奏だ。
3幕の高揚感やダンスのリズムの素晴らしさといったらない。
今では、ブーレーズやアバドに代表される、明晰かつクール、そして音がイキイキとして、ドラマをおのずと語るような集中力。
簡潔な舞台で、ヴィーラントがワーグナーの音楽に託そうとしたメッセージは、曇りない明晰さであったろう。そこに複雑な人間ドラマの根源を見出そうとしたのでは。
 戦後の新バイロイトでのマイスタージンガーは、唯一ワーグナー兄弟以外の前世紀の遺物のようなハルトマン演出でスタートした。
B1 そして56年に、ヴィーラントがとりあげたマイスタージンガーは、センセーショナルなものだったらしい。写実的・具象的な背景が不可欠に思われたこの作品に、イマジネーションの世界を持ち込んだ。それは「ニュルンベルクのないマイスタージンガー」と呼ばれたらしい。
現在ならば、そんな「ニュルンベルクのない・・」演出は当たり前だけど。
いくつかの画像でしか確かめられないけれど、今でも新鮮な思いで見ることができる。
昨今の品のない饒舌な演出など薬にしたくもない、ファンタジー溢れる雰囲気だ。

  ザックス:グスタフ・ナイトリンガー  ポーグナー:ヨーゼフ・グラインドル
 フォーゲルゲザンク:フリッツ・ウール ナハティガル:エグモント・コッホ
 ベックメッサー:カール・シュミット・ワルター コートナー:トニ・ブランケンハイム
 モーザー:ヘルマン・ウィンクラー   フォルツ :オイゲン・フックス
 ヴァルター:ワルター・ガイスラー   エヴァ  :エリザベス・グリュンマー
 ダーヴィット:ゲルハルト・シュトルツェ 
 マグダレーネ:ゲオルギーネ・ミランコヴィック

 夜警:アーネスト・ヴァン・ミル

    アンドレ・クリュイタンス指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
            演出:ヴィーラント・ワーグナー (57年)

どうです?この味のある配役。ワーグナー好きなら、唸らざるをえないでしょ。
ナイトリンガーのザックスですよ。
ナイトリンガー=アルベリヒという図式が完璧に耳の中に出来上がっている。
ベームとショルティのリングをいやというほど聴いてきた自分にとって、古今東西最高のアルベリヒは、ナイトリンガー以外にない。
その彼が、ザックスを歌っているのだ!!
聴いてみると、豊かな声量と輝くばかりの低音で超立派なザックスなのだ。・・・・けれど、でもやっぱりアルベリヒだよ。これが。歌いまわしや、語尾が完全にあのアルベリヒを歌うナイトリンガーのイメージ。
強烈な個性の歌手を、その個性と役柄を同質化して見て、聴いてしまう、その典型だ。
でも、素適なザックスだ。酸いも甘いもかみ分けたような味わいあるザックスなのだ。

もうひとり、強烈なイメージの人といえば・・・・、そう、シュトルツェのダーヴィット。
こちらは、アルベリヒの敵対する弟ミーメのイメージが満載の歌手なのだ。
ダーヴィトは、シュライアーのようなコミカルかつ生真面目なイメージを抱く役柄だけれど、シュトルツェが歌うと、いまひとつ狡猾ながらもおっちょこちょい的な雰囲気になる。
これまた、面白い聴きものだ。
 さらにひとり、グラインドルのポーグナーは、私にはハーゲン刷り込み歌手なので、油断ならない雰囲気の声なのだ。ふふふっ。

グリュンマーの清潔な雰囲気、ブランケンハイムの性格的なコートナー、鬱陶しいくらいに達者なワルターのベックメッサー。みんな面白い。
初めて聴く、ガイスラーのワルターはちょっと野放図だがとてもいい声。
この歌手はイタリアものがいいかも。1918~1979ともう物故しているが、ほかに音源がないのが残念。

50年も前の録音ながら、まずは鮮明な録音。
冒頭にお馴染みのバイエルン放送のアナウンスが入っている。
各幕の終わりには、盛大な拍手も。終幕では、オケが鳴っているのに、興奮した観客の拍手がフライングもクソもないくらいに自然に始まっている。

いろいろマイスタージンガーを聴いた方に是非お薦め。
クリュイタンスのワーグナー、バイロイトではあと「タンホイザー」「ローエングリン」「パルシファル」を指揮している。オルフェオ復刻「タンホイザー」は聴いたので、のこる二つを是非にも聴いてみたい。

舞台では、ベルリン(スウィトナー)、ミュンヘン(サヴァリッシュ、メータ)、新国と4度観劇しているけれど、他の諸作と比べ、しばらく上演に間が空いている。
ウィーンが持ってくる話があったけれど、指揮者のマネジメント筋の高額ギャラ要求で、流れてしまった・・・。

 ヴァルヴィーソ指揮 バイロイト74年盤
 ベルント・ヴァイクル
 

 
 

 

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2008年3月28日 (金)

ブラームス シェーンベルク編曲 ピアノ四重奏曲第1番 ツェンダー指揮

Sengaku_temple今日の午後、職場を抜け出して「岳寺」まで歩いてみた。
京急線一駅だから、歩いて20数分。こんなに近いとは思わなかった、初めての泉岳寺。
思ったより、こじんまりとしている。
むしろ気になったのは、都会ゆえしょうがないが、学校や隣家が迫っていること。
相変わらずマンション建設も盛んで、中層の建物だらけ。
 でも桜はご覧の通り美しく、四十七士のお墓も静かに佇んでいた。

Sengaku1 Sengaku2

義士の墓石は、お預け先ごとに並んでいる。
かれらの先祖や家族と別れ、義士同士。
墓の写真も撮ったけど、ここでは配置図ときれいな桜だけ公開。
赤穂浪士が好きな方、クリックしてお楽しみください。
私も結構好きなのよ。
いろんなプロダクションがあったけど、中学(高校?)時代見た三船敏男の大忠臣蔵が一番だな。
よく泣いたもんだ。

Brhams_schonberg

ブラームスピアノ四重奏曲第1番は、1861年の作品で、晦渋な雰囲気を持ち、難曲ともされ、とっつきはあまりよろしくない。
その76年後の1937年、シェーンベルクが大オーケストラ曲に編曲した。
そして曲は、ブラームスの交響曲第5番とも呼ばれるような風格溢れるユニークな作品に変貌した。

シェーンベルク(1874~1951)はブラームスやJ・シュトラウスが好きだったらしく、ブラームスを通じてモーツァルトのリリシズムや起伏あるフレーズ、切り詰められた構造、組織だった作曲技法などを学んだと言っている。

この曲は、ブラームスの曲だから、どこから聴いても立派なブラームスだけれど、その響きは、新ウィーン楽派の眼鏡を通して見たものになっているところが、実に新鮮。
打楽器がじゃかすか鳴るし、弦の透明で頼りないくらいの鳴らし方も甘味さを誘う。
金管も管も唖然とするくらいに活躍する。
だが、3楽章を黙って聴くと、3番の交響曲の緩徐楽章と兄弟のような雰囲気でホンワカとなる。でも終楽章では原曲のジプシー舞曲風のリズムが、さらに拡張されたかのように、熱いフィナーレを迎えることとなる。
実に面白い曲なのだ。

今日のCDはかなり前に購入したもので、まだ「ユンゲ・ドイツ・フィルハーモニー」が大活躍していた78年頃のもの。かつてDGから出ていたと思う。
若者オケとしては、同時期にアバドが設立した「ECユースオケ」や同じアバドの後の「マーラー・オケ」などの方が高名になってしまった。
若くてハツラツとしたサウンドは、味は薄いがいやに鮮度が高い。
作曲家でもあったハンス・ツェンダーの的確な指揮で、ブラームスというよりは、かなりシェーンベルク寄りの音を奏でている。
ツェンダーは亡くなってしまったが、バイロイトでも指揮した人だと記憶する。
もう少し長生きしていたらブーレーズのようになったかも・・・・。

カップリングのベルティーニ指揮のマーラー10番も相当いいがコケまくり。

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2008年3月26日 (水)

マーラー 交響曲「大地の歌」 バーンスタイン指揮

Touzaiuwaya 横浜の港町の風情を彩っていた「東西上屋倉庫」が解体されている。
土曜の県民ホールへの道すがら撮影。
戦後、保税倉庫として活躍した建物は、引込み線が残っていたりで、風情があった。
開港150周年の整備計画で公園化してしまうらしい。
確かに、海への眺望はよくなるけれど・・・・。

Mahaler_das_erde_baerstein 春は出会いと別れの季節。
ことに3月は、別れの景色が濃厚だ。
学校で、会社で、それぞれ旅立ちがあるから。

マーラーの「大地の歌」は、こんなときに、しんみりと聴くのもいい。

この曲は、高校生の時に初めて聴いた。
テノールの奇数楽章ばかりがやたらに気に入った。
詩の内容はあまり気にせず、ホルンのかっこいい出だしの1楽章を何度も聴き、歌いもした。
そして初めて買った「大地の歌」のレコードが、バーンスタインイスラエル・フィルのもので、ニューヨークフィルとの来日記念盤でもあったように思う。
 ちなみに、その来日公演はブーレーズが音楽監督時代だったので、二人の指揮者兼作曲家に伴なわれて行なわれた。
バーンスタインのチケットは買えなかったので、私はブーレーズを聴いた。
演目は、なんと「イタリア」に「マイスタージンガー」「ペトルーシカ」という、今思えばすごいプログラムだった。客席にバーンスタインもいた。
そのバーンスタインは、マーラーの5番と「エロイカ」をメインとする二つのプログラムだったから、こちらはもったいないことをしたもんだ。
さらに余談ながら、イスラエル・フィルとのマーラー第9が私の唯一で最後のバーンスタイン体験で、拍手に応え、一人コートを肩に羽織って出てきた、ユダヤ人司祭のような風貌があまりに印象的だった・・・・・。

さて、「大地の歌」の真髄を味わうのは、そんな先でなく、同時期のカラヤンのライブをエアチェックし、このレコードと同じルネ・コロクリスタ・ルートヴィヒの歌で聴いてから。
ここでは、「告別」に目覚めてしまったのだ。
あの長大で静的な楽章が、Ewig・・・・と繰り返されて余韻を残しながら終わる。
静寂ののち、観客の一人がブラボと、呟く。これが実にきれいに決まって、「ほう、本場ではこういう音楽をじっくりと聴いて静寂も楽しむのか・・」と大いに感心したものだった。

そして手持ちのこのバーンスタイン盤を、対訳片手に徹底的に聴き込んだわけである。
あのホルンの出だしの音楽は、「生は暗く、死もまた暗い~Dunkel ist das Leben, ist das Tod」というあまりに印象的な結びがあること発見し驚いた。
このフレーズを高校生の私は何度歌ったことだろう。

そしてなんといっても「告別」の王維&孟浩然の厭世的な詩は、私を大きく揺り動かした。
「疲れた人々は、忘れはてた幸福と青春を、眠りの中にふたたび知るために家路をたどる」・・・・・、「友よ、わたしは君のそばで、この夕べの美しさを味わいたい。・・・」
やってきた友は語る、「汝、我が友よ。この世のしわわせは私には与えられなかった。私はどこへゆくのだ」「故郷にむかってさまよい歩こう」
「愛する大地にふたたび春がくれば、いたるところに花は咲き、緑はふたたび栄えるだろう。いたるところ永遠に、遠いはてまで輝くだろう、永遠に・・・・・・」

こうした詩につけたマーラーの音楽をなんと例えたらよいのだろうか。

先日観た「ばらの騎士」の音楽や登場人物が背負う「時の経過」のもつ甘味なまでの残酷さ、これに気付いたときの悲しみとともに、それを受容した時に見える明るく澄んだ心情。
これらと同じものをこのマーラーの音楽にも感じる。
演出家ホモキが描いたような、意外や明るい帰結がそこにあるのではなかろうか・・・。

Mahaler_das_erde_baerstein2 レコードは音が薄っぺらくて最悪だったが、CDでは少し改善された。
コロの歌もいいが、ここではルートヴィヒの歌がまったく素晴らしい。
気持ちのこもった情感豊かな歌唱は、この曲の最高の歌だと思う。
バーンスタインもライブらしく、尻上がりに調子を上げてゆき、告別では唸りをあげてイスラエルフィルから情念に満ちたサウンドを引き出している。

しっかし、すごい音楽だな。
このあと、あの第9を書いてしまうんだもの。

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2008年3月23日 (日)

R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」 神奈川県民ホール

Rosen_yokohama_1 横浜で「ばらの騎士」を観劇。オープン戦を横目にスタジアムを通り抜け、県民ホールへ。
昨年から続く「ばら戦争」、通算4回目。
新国・チューリヒ・ドレスデンのこれまでの3作いづれも印象に残る舞台で、いまでもありありと思い出すことできる。

トリをつとめるベルリン・コーミッシェ・オーパーのプロダクションはいかに!
びわ湖ホールと県民ホール、二期会の共同制作ですでに大津では上演済みとのこと。
最大の見物は、アンドレアス・ホモキの演出。
この人の演出、新国で「西部の娘」を見たが、簡潔な装置ながら、人の動かし方が細やかで、演劇性が強いという印象がある。

舞台の様子を。(これから観劇の方、ご覧にならない方が・・・)

第1幕
 舞台の中に屋敷の断面が据えられている。舞台いっぱいではなく、室内は狭い空間。窓ガラスもなく(上部にある天窓は閉じられている)、三方にある扉だけ。真ん中のベッドの下でじゃれあう二人。テーブルがないから、運ばれた食事はベッドの上、あげくのはては床におかれ、マルシャリンはパンをくわえてオクタヴィアンとおふざけ。
 オックス登場に大慌てするも、剣や靴はいつもマルシャリンとオクタヴィアンが隠しもっていて、その様子が観ていて楽しい。執事などの恰好からして、時代設定は作曲者の意図したマリア・テレジアの時代の様子。
オックスは早くも鬘をとり、そのはげ頭を露出させている。
孤児や売り子、イタリア人コンビなどが入ってくるが、その狙いは何故か最初はオックス男爵。そして全員出ていってしまい、イタリア人歌手の歌が始まるのにどうなるかと思ってい
Berlin たら、ひとりマルシャリンが、ロココ調の白いドレスと鬘で現れ、その後から大仰な成りをした歌手が着いてきて、彼女のために例のアリアを歌う。
周囲も暗くなり、ここにマルシャリンの心の転換のポイントを見たホモキの演出は明らか。
 以降、彼女はアンニュイに浸り、戻ったオクタヴィアンにもそっけない。
オクタヴィアンの仕草が、男の私が見てても、ほんといじらしい。
諦念にとらわれるマルシャリンをどう表現するか、この劇の演出の核心でもあるが、ホモキは彼女が何もない舞台に立ち尽くすことで、そのすべてを表現した。

第2幕
 幕が上がると、前幕と同じ設定。ファーニナル家の人々が家具や調度を忙しく運んでいる。ちなみに、時計は最後まで、11時30分のまま。
彼らは、20世紀初頭の衣装で、いつの間にか時代が早まっている。
ゾフィーや父親もダークグレーのスーツやドレスで機能的。
そわそわと、騎士登場を大勢で待つなか、意外やアッサリとオクタヴィアン登場。
黒の軍服姿は、警察官のようで、華やかさはコレッぽちもない。
「銀のばら」は箱に入ったまま手渡され、蓋を開けて覗きこむ次第。
二人で覗き、視線を合わせると、家中の人々がピタリと動きを止めてしまう。
Berlin3 周囲静止したまま、若い二人は夢のように美しいシュトラウスの調べに乗せて二重唱を歌う。
オックス男爵は、その仲間も含め、のっけから粗暴で、いやらしい。ここでも早くも、鬘を脱ぎ捨ててしまうし、ゾフィーにのしかかってしまう。ご機嫌な男爵やファーニナルにくらべ、ゾフィーのショックの表現は並々でない。男爵のワルツにのって、すすり泣くのだ。
 私の大好きな、若い二人の二度目の二重唱は、距離をだんだん縮めながら歌う場面が自然で、その素晴らしい音楽とともにウットリとしてしまう。
 男爵に一撃を加える場面は、なんだかわかんない(見ようによっては、自分から刺されたみたいに)うちに突かれてしまう。その後の騒動は全員出動で、大騒ぎ。
こんな騒ぎは見たことない。ファーニナルと喧嘩したゾフィーは何故か服を脱ぎ捨ててしまい出ていってしまう。
怪我しながらも、ワインで気分がよくなる男爵。舞台は、左に傾き斜めになった。
マリアンデルのニセ手紙のシーンでは、ご機嫌の男爵を、オクタヴィアンとヴァルツァツキが物陰から楽しそうに見ている。

第3幕
 舞台は傾いたまま、でも枠が逆さまになっている。閉ざされていた丸窓がぽっかり空いて下にきていて、かつての出入口は上部にあって、扉は壊れてぶら下がっている。
家具や調度もみな斜めに倒れている。
ここが料理屋の特別室とは思えない。廃墟のようだ。男爵とマリアンデル(オクタヴィアン)は立ち飲みのように、家具の上にワインを置いて酒を飲むし、倒れた家具のドアを開けるとフトンが転がりでてくる。
オクタヴィアンの女の子ぽい動きがとてもかわいい。ワインは2杯、一気飲み、あとはボトルをラッパ飲み。笑える。
お化けや奇妙な動きがあるのでなく、派手な雷鳴が何度もとどろく。その度に、男爵は布団に転がる。当然、ここでも鬘はどこかへいったまま。
仕上げの、本妻と隠し子登場に、舞台上は給仕ばかりか大勢の人々で溢れる。
オクタヴィアンは子供たちの合唱指揮までしている。
警部登場は、ピシッとコートを着た、まるで、ドラマに出てくるような警部。取り調べも部下を伴ない本格的だ。呼ばれたファーニナルは、殺傷事件もあって相当にくたびれたまま。
ゾフィーも下着の上にコートを羽織っただけ。
 そして真打、元帥夫人登場となるが、例の丸窓をかいくぐって出てくるので、威厳がちょっと・・・・。でもこれで、最後のクライマックスにむけてひたひたと感動が高まってゆく。
すべてを悟ったはげ頭の男爵、なかなか往生際が悪い。これを一括するマルシャリンは、かなり厳しく言葉でたしなめるが、態度ではなく、言葉だけでも今日の佐々木さんの歌は凄かった!
 何かが飛んできたかのように、舞台の4人は中空を見る。(いったい何の意図なんだろ?)そして、男爵が大騒ぎで出てゆく場面でも激しく雷鳴がとどろき、全員おおあらわ。
最後の絶美の3重唱、ごちゃごちゃした家具はみな騒ぎのなかで片付けられて、なにもない舞台に3人三様に立ち尽くす。
ゾフィーに近づく元帥夫人。どぎまぎして、仕切りに躓き尻餅をついてしまうゾフィー。
彼女に手を貸し立ち上がらせる元帥夫人。こうしたちょっとした動きに意味がこもっている。「この日が来ることがわかっていた・・・・・」ここでついに、マルシャリンの時間が一挙に現実のものとなった。
ファーニナルを元気づけるのは、馬車で送ること・・、との言葉に若い二人は声をあげて笑う。こんなの初めてだ。なるほどね。
恋人二人は外へ出てしまい、その歌い声がするだけで、舞台にはマルシャリンがひとり。
その歌声を聴き入っていたかと思うと、その場に倒れる・・・、でも気を取り直し、起き上がり鬘を脱ぎ、白いドレスも脱いでしまった。ロココ時代から一挙にほかの人々と共通の時代の人となったかのようだ。
思い出したように、「銀のばら」の箱を片隅から拾いあげると、マホメット君登場。
1幕では、インド風のお小姓だったのに、こんどは、ニューヨークにいるような黒人のカジュアル・ボーイに変身している。
その彼、マルシャリンから箱を受け取り外へ走りでてゆき、それを見送るマルシャリンが舞台に残り、鮮やかな幕切れとなった!

長くなってしまったけれど、自分の鑑賞記録だからもうちょっと。
プログラムのホモキの言葉によれば、時代設定は20世紀初頭。ロココの1幕から始まることで、舞台空間の外側では時間が進行していることを意味付ける、とある。
なるほど、これは秀逸に思う。このオペラの最大のモティーフは、老い(時代)を先行して呼んだ元帥夫人の悩みでもあるのだから。
そして、やたらにみな服を脱いだけれど、元帥夫人は、最後にまとっていたドレスを脱ぐことにより、没落しつつある貴族、そして若いツバメのいた自分からの脱却と新しい一歩を意味していたように思う。終幕の場面では、明るい表情だった。
モハメドが、もう小姓でないのも同じこと。
ゾフィーは、父の言いなりの「よい子」からの脱却なのだろうか。

まだまだいろいろと考えたくなる、面白い舞台。
一挙手一投足がこのオペラすべてに渡って見逃せず、意味がある。
ホモキの舞台は大掛かりな仕掛けはないが、表情や細かな動きまでに気を配った繊細な演出であった。

  元帥夫人 :佐々木典子      オクタヴィアン:林美智子
  オックス男爵:佐藤泰弘       ゾフィー   :澤畑恵美
  ファーニナル:加賀清孝       マリアンネ  :渡辺美佐子
  ヴァルツァッキ:高橋 淳      アンニーナ :与田朝子
  テノール歌手 :上原正敏         ほか

      沼尻竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

                 びわ湖ホール声楽アンサンブル
                 二期会合唱団 (3月22日 神奈川県民ホール)

広いけれど、よく声の通るホールに、室内劇風の演出もあって、日本人歌手たちは、全員驚くほどイキイキと演じ、歌った。
先般のワルキューレにもまして、日本人によるドイツオペラもここまで来たかの感が強い。
一番素適だったのが、佐々木さん。バイロイトでも歌った彼女の言語明瞭で、しなやかな歌声はシュトラウスにピッタリ。以前のダナエの愛の感激がまた味わえてうれしい。
そして、林さんのかわいいオクタヴィアンには、お父さん参ったヨ。
もちろん、歌も立派でした。
少しバリトンがかってはいたけれど、声量豊かで、かといって低音もしっかり響かせていた佐藤さん。細やかな表情づけがきれいな澤畑さん
ほかの皆さんも、よかった。

沼尻氏の指揮は、まず無難なものだったけど、演出や歌手たちを考えよくオーケストラをコントロールしていたように思う。
指揮に色香にない分は、神奈フィルのきれいな音が補っていたのではないか。
おかげさまで、毎週のようにこのオケを聴く機会があるが、弦と木管が実にきれいだ。
石田氏は今日は降り番だったが、ピットをのぞくと、いつものメンバーがずらり。
ときおり乱れもあったが、在京の某オケのように致命的にならないところがいい。

今日も、お決まりの涙ひとしずく、の場面は、1幕のマルシャリンの独白、2幕のふたつの二重唱、3幕の三重唱・・・・。

4つの「ばらの騎士」を体験して、ますますこのオペラが好きになってゆく思い。
9月には、アルミンク/新日フィルがセミステージ上演するが、なんと藤村美穂子さんがオクタヴィアン、森麻季ちゃんがゾフィーなのだよ。ついにバイロイトでクンドリーを歌う藤村さん、日本の宝ですよ。

最初から、ゲホゲホしたり、ウェッヘンとか声を発する爺さんがいて気になったが、2幕で指揮者がいざ棒を振ろうというタイミングで、うェ~イ~と大きく一発。
これには、会場うけて沸いた。沼尻さんも、思わずずっこけてたし。ははは。

幕間に、山下公園を散策し、これまでの「ばらの騎士」の舞台などを思い起こしていた。
その比較や感想はまたの機会に。

 
  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
  バーンスタイン指揮のCD

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2008年3月20日 (木)

ワーグナー 「パルシファル」 レヴァイン指揮

Parsifal_levine明日は、聖金曜日。
キリストが十字架に架けられ殉教した日。
多くの日本人には「そんなの関係ない」状態だけれども、私のようなクラヲタ君は、音楽によって節目の日を確認したくなる。

聖金曜日という言葉がまともに使われているのは、ワーグナーの「パルシファル」が随一だろう。
歌劇や楽劇でもなく、舞台神聖祭典劇という、いかにも取っ付きにくいジャンルの表示をまとわせ、バイロイト以外での上演を禁じたワーグナーの意図は
尊大に過ぎるかもしれないが、晩年に到達した宗教的理念の純真な発意でもあろう。
「私の生からの告別」~ワーグナーはこの作品をそう呼んだ。

ワーグナーが、「パルシファル」を発想したのは、パルシファルの息子「ローエングリン」を着想中の時期に遡る。中世の聖杯物語やタンホイザーの登場人物ウォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルシファル」などを参考にしているという。

聖杯は、いうまでもなく十字架上のイエスの脇腹を刺した槍によってほとばしり出た聖なる血を浴びた杯のこと。
ダヴィンチ・コードなどでもすっかりお馴染みになってしまったが、本来のキリスト教の聖遺物である「聖杯」と「槍」が重要なモティーフとなっている。
そうした宗教の上にしっかり根ざした伝統演出は、聖地バイロイトでもすでに多面的な解釈に姿を変えて受容されているが、さすがに神聖祭典劇ともなると賛否両論を巻き起こすことも多い。
昨年は、観てもないのに、私がことあるごとにこき下ろしている映画監督のシュリゲンジーフ演出がようやく4年で終了した。バイロイト関連じゃないかもしれないが、怒った婆さんが卵を投げつけている面白い動画はこれ
ところが2008年の新演出は、ノルウェー出身の若いシュテファン・ヘルハイムが受け持つ。この人も大胆・過激なヒトらしく、ネットで調べたら音楽まで恣意的にいじってしまうらしいじゃないか・・・・。この夏もまた、バイロイトはすごいブーイングに包まれるのかしらん。
でも、ダニエル・ガッティの指揮は楽しみ。

Parsifal_friedrich 遡ること26年。パルシファル初演100年の演出は、当時東ドイツから呼ばれたゲッツ・フリードリヒ。物議をかもした72年のタンホイザー、美しい79年のローエングリンに続く登場。SF的な要素もあり、密閉された聖堂のような四角い空間の中で行なわれる劇は、脱神聖祭典劇をまさに目指したものかもしれず、意外にその舞台はすんなりと聴衆に受け入れられたようだ。
フリードリヒ演出は、私もベルリン・ドイツ・オペラの公演でいくつか観ているが、何と言っても生涯忘れ得ないのは、タイムトンネルを設えた「リング」だ。
この思い出はいずれ取上げてみたい。
 ただ、このパルシファル演出、指揮のレヴァインは痛烈に批判していて、ファンタジーがないとかなんとか後に散々だったらしい。
ゆったりと大河のような流れの音楽を作り出すレヴァインには、お気に召さなかったのだろう。やはり、メトの絵画的なシェンクの演出じゃないとしっくりこなかったのだろうか。

 アンフォルタス:サイモン・エステス  ティトゥレル:マッティ・サルミネン
 グルネマンツ:ハンス・ゾーティン   パルシファル:ペーター・ホフマン
 クンドリー:ヴァルトラウト・マイヤー  クリングゾル:フランツ・マツーラ

   ジェイムス・レヴァイン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                    合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
                               (85年7月バイロイト)

Parsifal_friedrich_2 まず何と言っても素晴らしいのが、ホフマンのパルシファル。
ピーンと一本張りつめたような揺るぎのない見事な声は、明晰で曇りないうえ、バリトンのような中域はかげりを帯びている・・・といった具合に、その声はいいことづくめで、音源で聴けるパルシファルとしては最高かもしれない。2幕の「アンフォールタ~ス」には痺れる。
(といいながら、コロ・キング・トーマスもいいけれど・・・)
ついで、マイヤーもこの頃はまだ若くて声の威力がすごいし(叫び声NO1かも)、病めるクンドリーに同情を寄せたくなってしまう。
エステスのアクは強いがこちらの悩める姿の表現力も圧倒的。
ゾーティンは、個性は薄いものの、長年グルネマンツを歌いこんだ安定感は抜群で、声の深みも美しい。バイロイト歴が長いベテランだけど、本当はヴォータンなども歌って欲しかった。ばらの騎士のオックス男爵を舞台で観たことがあるけれど、軽妙さもあるなかなかの役者ぶりに関心した覚えがある。
 それに、マツーラのクリングゾルも私は好きだ。このほの暗い声の性格バリトンもヴォータンを歌っていたらしいので、これまた聴いてみたかったな。

Parsifal_friedrich_3 さて、レヴァインの指揮。いやいやだった(?)とは思えないくらい、落ちついた音楽で、テンポは非常に遅い。クナッパーツブッシュを凌ぐかもしれない。
遅いけれど、弛緩せず、血が通っているし、歌手や合唱に無理のない歌いやすい間合いと緊張感にも満ちている。
もっと進化したパルシファルを我々はたくさん聴いてしまっているから、必ずしもこの指揮に満足は出来ないけれど、バイロイトの温もりある響きと相まって、ゆったりと気持ちのいい演奏には思う。
それにしても、このプロダクションの映像はないものだろうか!!

                      Ⅰ      Ⅱ     Ⅲ
  レヴァイン(バイロイト)     119分   75分    85分
  レヴァイン(メトロポリタン)   112分   78分    82分
  クナッパーツブッシュ(56)   112分   68分    79分 
    ブーレーズ(70)           94分   59分     65分  

パルシファルの過去記事

  ポール・エルミングのワーグナー  
  クナッパーツブッシュ(64年)
  クナッパーツブッシュ(60年)
  クナッパーツブッシュ(56年)
  バイロイト放送2006
  ショルティ(71年)
  エッシェンバッハ(04年)
  
バイロイト放送2005
  クナッパーツブッシュ(58年)
  
飯守泰次朗 東京シティフィル上演

 
  

   

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2008年3月19日 (水)

バッハ 「トッカータとフーガ」 リヒター

2新聞で読んだ記事から。
「暴走老人」・・・・分別あってしかるべき老人が、不可解な行動をとって周囲と摩擦を引き起こしたり、暴力行為を引き起こす。
病院の待合室で長く待たされた男性患者がしびれをきらせ暴れる。スーパーのレジで切れて店員に暴力をふるう等など。
新老人と名付け、①ネットや携帯による情報化や時間感覚に適応できない、②個室感覚の延長で公共の場でも自己のテリトリー意識が強くなった、③店舗や公共施設での接客マニュアル化で、明文化されないルールが増えすぎて、それに高齢者がついていけない・・・・(藤原智美氏「暴走老人!」)

こんな事情でキレる老人が増えているとみている。
確かに高齢者でなくとも、いまの日本の社会は息詰まるような無数の圧迫感に覆われていることを誰しも実感しているのではないだろうか。
昔なら、町には対話のある商店があったし、隣近所も力強いコミュニティだった。コンビニやファミレスは便利だけれど、あの紋きり型のマニュアル接客には背筋が寒くなるときがある。
その見知らぬ他人のにこやかな接客が、干渉されずにいいと思う若者が大半だろう。
私もあと数年で、新老人になってゆくのだろうか・・・・。
考えさせる記事を読んだから、今日はちょっと深刻に。

Richter_bach_organ 画像は、小樽の富岡教会の入口にあるステンドグラス。

バッハ「トッカータとフーガ」ニ短調は、あまりにも有名だ。でもその出だししか知らない人も多いかもしれない。
作曲の由来はあまり明らかになっていないが、バッハ20代初めの若い頃の作品とされている。
偉大なバッハは、こんなすごい音楽をそんな若さで書いてしまっていたんだ。

何がすごいかって、オルガンというひとつ楽器から、あまりに多彩で奔放な大伽藍のような音楽を作りあげてしまったのだから。
聴きようによっては、ロマンティックであり、100年あとの作品といわれても通用する。
私がこの曲をロマンティックで幻想的と思うのは、中学時代にFMで放送されていた「朗読の時間」でこの曲を初めて知ったから。
朗読の時間は、文字通り、小説をラジオで朗読してしまう訳だけれど、取上げる小説によって、テーマ音楽が毎回違っていた。
そしてこの曲が使われたのが、なんと「不思議の国のアリス」だったんだ!
まだ読んだこともないアリスの不可思議な物語に、時おり挟まれるこのオルガン音楽が絶妙にマッチしていた。若い頃のこうした体験はすり込みとなって、忘れられない思い出となってゆく。

Vh4 カール・リヒターのオルガンによるこの演奏は1954年の旧録音。DGへの新録音もあるが、その壮麗さにかけては、古いデッカ録音の方が上だ。

スイスはジュネーヴの「ヴィクトリア・ホール」のオルガンを使ったこの録音。
ステレオ最初期のものながら、驚くべき名録音でもある。響きがリアルで、目の前でリヒターがオルガンを弾きまくっているように聴こえる。
オルガンには素人だけれど、1890年頃の作で、アンセルメとスイスロマンドが活躍し、名録音を残したホールの豊かな響きが素晴らしい。
いまでも、名匠ヤノフスキが活躍するスイスロンド管の本拠地でもあるが、1984年に火災に遭い1993年に復興しているという。
オルガンもほぼ新調されたらしいので、50年以上前のこの録音、ますます貴重な1枚となりそうである。
ストイックなまでに厳粛なリヒターだが、オルガンの華麗さも加味してか、スケール豊かな壮大な演奏に思う。
いくつか収められているコラール前奏曲も胸に染み入るような名演で敬虔な思いにとらわれる。

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2008年3月17日 (月)

メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」 マリナー指揮

Forum1_2 東京フォーラムに飾られたチューリップのモニュメント。
いたるところに、色とりどりのチューリップが植えられ、やや人造的だけれど、とても美しい。
どこまで持たせるのか、まだ開花していないけれど黄色がとてもいい。

今年の春夏は黄色系が流行色になるそうだ。
バブル期に流行った夢よもう一度との思いらしいが、今更ちょっとね。
それよりも、いやなことが世界的に日々起こるから、落ち着かないねぇ。

今日は朝から、腹の腹筋がくしゃみをすると痛む。
激しく舞う花粉で、くしゃみのしすぎが原因かもしれない。
結構、激しいクシャミをする私。
オヤジだけど、よくある「へっくしょ~ぃい」といった、まさにオヤジ風のクシャミじゃなくて、「へくしぃん」といったような、カトちゃん風のくしゃみをします。
でも腹の底から思い切り出るもんだから、耳と腹にくるのである。
歩きながらすると、思わずよたってしまい、転びそうになることもある。
車にひかれないように気をつけなくちゃならないのだ。

Marriner_mendelssohn 今日は朝から陽気がよかった。夕方は風が出て冷たかったけれど、明日はまた日差しが暖かいらしい。
そんな、花粉舞う日に、目をこすりながら聴く音楽は、メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」。
別に花粉の季節に聴かなくてもいい曲だけれど、その明るい陽光を浴びたような響きに、こちらも、おおらかで開放的な気分になる音楽。

メンデルスゾーン(1809~1847)も38歳で早世してしまう短命の作曲家だったが、モーツァルト(35歳)、シューベルト(31歳!)の二人ほどには、もっと長生きしていれば云々と言われることがないように思う。
ほかの二人が死と隣合わせのような音楽を書き、その先いったいどうなってしまうのか?との思いを抱かせるのに比べ、メンデルスゾーンは、ユダヤ人として経済的に恵まれた環境にあったこともあって、その屈託のない伸びやかな音楽が、長命したとしても変化するのだろうか、との思いを抱かせるから・・・なんて思ってしまう。
そんな一面が逆にメンデルスゾーンの素晴らしいところであろうか。
いつでも、優しい微笑みのような暖かさがあり、短調の場面でも美しくもはかない抒情が聴かれる。

「イタリア」は陽気で明るいのは表面的なだけで、やはり北国ドイツからみたイタリアの風情が強いように思う。表題音楽が得意なイメージがあるメンデルスゾーンだけど、しっかりとした構成感があり、ドイツ音楽の伝統にしっかり根付いた人だと思う。
忘れちゃいけないのは、バッハの「マタイ受難曲」を発掘したのはメンデルスゾーンなのだから。

アバドの演奏を過去2回とりあげているので、ムーティかマリナーのどちらかにしようと2枚を取り出し、1楽章だけを比較した。
元気ハツラツの70年代ムーティもいいが、いまの気分は落ち着きのあるマリナーアカデミーの演奏だ。
マリナーはアーゴ(デッカ)とフィリップスの2回の録音があるが、今日は旧盤で。
余分な脂肪分を間引きしたかのような、さわやかなアカデミー室内管の響きが実に清涼だ。見通しよく、スコアがまるで目の前に見えてくるような心弾む演奏。
コクや色を求めようとしたら見当違い。
カップリングの3番と併せて聴くと、さらに爽快・明朗な気分になる。
 そんなマリナーの2度目の録音は、かなり深みを増し落ち着いた風情になっているが、そちらは3番でまたいずれ。

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2008年3月16日 (日)

バッハ ヨハネ受難曲 ヘレヴェッヘ指揮

Imgp3187a 「つくし」がちらほらと見かけられるようになってきた。
タンポポも咲いているし、春がそこまでやってきたようだ。

娘の卒業式があり、そのビデオを見た。みんな泣いてる。
それを見て泣いてしまう父。
このところ、泣きっぱなし。
ただでさえ、花粉で涙目なのに。

それにしても、日本人は最近よく泣く。テレビをつけると泣くシーンがたくさんあるし、本屋行くと、泣ける本まで売っている。
誰はばかることなく涙を流せる世の中になったのだろうか。

Bach_johannes_passion 今年の「復活祭」、イースターは3月23日。
そして、今日の日曜は「枝の主日」といって、イエスがエルサレムに入場した日。
人々が枝を持ってイエスを迎えたという。
映画などでもそんなシーンがあった。
この日より、1週間を聖週間といって、キリスト教の最大のイヴェントのひとつ。

さすがに、クリスマスやバレンタインなどをぱくった日本では、何事もなされない。
むしろお彼岸だし。

われわれ音楽好きだと、イエス受難の聖金曜日にまつわる音楽をいくつか思いおこすことができる。
バッハの受難曲やワーグナーのパルシファルがそう。

そして、本日は、バッハの「ヨハネ受難曲」を聴く。
現存するバッハの受難曲は、「マタイ」と「ヨハネ」の2作品ある。
「マタイ」は無人島にもってゆくCDのトップにランクされるくらいの人類不変の作品であるけれど、「ヨハネ」はそれに比べるとちょっと地味な存在だ。
どちらの受難曲も、それぞれの福音書にテクストを求め、福音書家エヴァンゲリストが朗唱し、イエスやピラトなども登場する。その合間に合唱によるコラールや合唱曲、独唱のアリアなどが挟まり、見事なバランスをとっている。

しかし、劇性において大きな違いがある。
アリアやエヴァンゲリストの比重が大きいマタイに比べて、民衆を歌う合唱の比重が高い。
よって現場の雰囲気が実にリアルなのである。
「あいつも弟子のひとりだ!」とか、「十字架につけよ!」とか・・・・。
 しかも、曲はいきなりユダの裏切りと捕縛というドラマテックな場面から始まり、十字架上で事切れるまでの短時間のドラマを2時間で物語るから、中身が濃い。

本来、ヨハネ伝にはない「ペテロの否認」や「神殿の幕が裂ける」などをマタイ伝から挿入してお決まりの場面を盛り込んで聴き手の心をくすぐる。

それでも、素晴らしいアリアに合唱曲はいくつも盛り込まれていて、「マタイ」と甲乙付け難い魅力がある。
冒頭のたゆたうようなオーケストラの響きにのって歌われる合唱曲は悲劇の予兆たっぷり。
2本のフルートに伴なわれて、イエスに従う信条を歌うソプラノのアリアとその後の、ペテロの否認のエヴァンゲリストの思いを込めた朗唱。
イエスの死を悼み「こと果たされぬ・・・」と歌う沈痛なアルトのアリア・・などなどあげだしたらきりがないくらい。

信者でなくとも、人間の心を歌いこんだバッハの宗教音楽はその謹厳さに素直に感動できると思う。

    福音書家:ハワード・クルック    イエス :ペーター・リカ
    ピラト  :ペーター・コーイ       ソプラノ:バーバラ・シュリック
    アルト  :カスリーン・パトリアッツ  テノール:ウィリアム・ケンドール

     フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 シャペル・ロワイヤル
                       コレギウム・ヴォカーレ
                                    
ヘレヴェッヘのバッハは、どちらかというと軽めで、さらさらと流れてゆく。
ほどよい客観性が、ドラマをより深いものにする効果もあるし、聴く側の想像力も試される結果となる。抒情に満ちたヨハネに過ぎるかもしれないが、リヒターの厳しさばかりでなく、こうしたバッハも好きだ。
本録音は87年、ヘレヴェッヘは後に再録音をおこなっていて、そちらは第2稿を使用しているとのことで、だいぶ音楽の趣きが違うらしい。

週末から、ブルックナー、V・ウィリアムズと立て続けに心に響く音楽を聴いて、そして今日、静かな日曜を過ごすことが出来た。

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2008年3月15日 (土)

東京交響楽団演奏会 大友直人指揮

Tso 大友直人指揮の東京交響楽団演奏会を聴く。
昨晩のブルックナーの祈りに満ちた演奏会の後だけに、気持ちを整えるのが容易でない。

でも、朝からしっかり仕事をこなして、さあ行くぞと池袋。
東京芸術劇場はオケはよく鳴るけれど、ちょっとデカすぎて、あんまり好きでない。

半年以上前からチケットを確保していたが、その時取れた一番いい席でも3階席。
心配したとおり、独唱の声が響いてこない

初めて実演で聞く大好きな曲なのに、損した気分だな。
ほぼ満席のホール。

土曜の午後に、グリーンスリーヴスメンコンをやると集客効果がたっぷりあるということか。
 それと目についたのは、招待客の方々。スポンサーがたくさんついてるから当たり前のことだけど、お金を払って真剣に聴きにくる客がよく聞こえない席で、ご招待の方々が良い席に陣取るのってなんともいえませんなぁ。
先週のガラガラの戦争レクイエムと大違い。日本の音楽界の考えさせる一面なり。

いずれにせよ、このホールは要注意だな。

   ヴォーン・ウィリアムズ 「グリーンスリーヴス」による幻想曲
   
   メンデルスゾーン    ヴァイオリン協奏曲
                  Vn:大谷康子

   ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第1番「海の交響曲」
           S:サリー・ハリソン   Br:オーエン・ジルフーリー

         大友直人 指揮 東京交響楽団/東響コーラス 
                          (3月15日 東京芸術劇場)

前半は、私にとっては前菜のようなもの。
さわやかなグリーンスリーヴスに続いて、ポピーの花を思わせるオレンジのドレスで登場の、東響コンマスの大谷さんのメンデルスゾーン。
爽快かつ軽快な演奏で気持ちもなごみ、美しい2楽章では、ぼぅ~っと(眠い)してしまった。
普段忘れさってしまったような名曲だけれど、こうして聴いてみるとメンデルゾーンって、メロディーメーカーだなと、つくづく思う。そして全曲がアタッカで結ばれているのもユニーク。
満場の拍手に、バッハの無伴奏パルティータ2番からアンコールが弾かれた。
コンマスがソロのコンチェルトって、お互いに楽器をすごく聴きあうし、親密で和やかなムードがいいもんだ。大谷さんは、お茶目だし。

後半は、楽しみにしていた「海の交響曲」。
残念な気分はさきに書いたとおり。
独唱二人とも声が通らなかったから、席のせい、ということにして、あとは合唱とオケに集中した次第。
それでも打楽器ばっかしゴンゴン響くこの席はいったい・・・・。
いやいや、気を取り直して聴かなくちゃ、なんてことを1時間中やってた私。

でも、しみじみいい曲なんだ。
冒頭の「見よ!海を・・・」この出だしでもうジワ~ときてしまった。
そのあとは、書いたとおりの葛藤状態だったけれど、長大な4楽章の素晴らしさ。
その後半は涙が溢れてとまらなかった。相変わらず独唱は口パク状態だったけれど、音楽はアールデコ調のホール自慢のオルガンも厳かに加わり、私の心をどんどん締め付けてくれる。
外洋に漕ぎ出す船、その船がかなた、おぼろげに見えなくなってゆく・・・、そんな雰囲気で曲はあまりにも印象的に静かに終わる。
拍手はしばらくなし。昨日の神奈川フィルに続き、今日もまた緊張をともなった素適な余韻を楽しむことができた。

それにしても、おおらかそうなイギリスのねーちゃんのようなソプラノと、R・ティアーを思わせる濃い外観のバリトンの声が楽しめなかったのが残念至極。
大友さんは、気持ちよさそうな、いつにもましてスマートな指揮ぶり。
安定感抜群の東響から、イングリッシュテイストの響きを充分引き出していた。
オケはとくに木管が素適だ。
そして、暗譜で歌ったコーラス!素晴らしい。
昨晩もそうだけれど、日本人の歌への思いと団体活動的な合唱への適性は、その勤勉さゆえに世界髄一ではないかしら。

RVW没後50年の今年、まずはいい音楽が聴けたことが喜び。
くやしいから、B・トムソンとハイティンクのCDを聴いております。

過去記事、プレヴィンの「海の交響曲」はこちら

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神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

Img神奈川フィルハーモニーの定期演奏会を聴く。
出張のため危ぶまれたが、春の嵐のような悪天候のなか、無理くりに時間調整してギリギリにみなとみらいホールへ。

こんな熱い気持ちになるのも、シュナイトさんの指揮が集中して聴けるのは神奈川フィルしかないこと。
おまけに回を重ね聴くたびに、神奈フィルの美質に魅入られてしまったこと。

すっかりこのコンビのファンになってしまった私。
はたして、昨晩もたいへんな名演が繰り広げられ、地味な演目ながら私を含む聴衆は、このコンビと合唱団がおりなす美しい世界に、食い入るように聴き入ってしまったものだ。
バレンボイムの演奏をもっていたはずだが、行方不明。
ショップには、ヨッフムやチェリビダッケ、リリンクのCDが出ているが、珍しい演目なので、真面目に聴いたのは今回初めて。

   ブルックナー   ミサ曲第3番 ヘ短調

           S:平松  英子     Ms:竹本 節子
           T:福井 敬        Br:福島 明也

    ハンス=マルティン・シュナイト指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                            神奈川フィルハーモニー合唱団
                           (3月14日 みなとみらいホール)

演目は、3曲あるブルックナーの若書きのミサ曲第3番の1曲。
70分あまりの曲ながら、これ一曲で勝負するシュナイトさん。祈りの音楽として、じっくりと受け止めて欲しいとの強い思いのあらわれではないだろうか。

ともかく美しい音楽であり、オーケストラの美音が際立った。
本格的な交響曲の作曲前ながら、どこをどう聴いてもブルックナーの響きがする。
独得のリズムに、永遠に続くかのような弦の刻み、オーケストラのユニゾン・・・・。
随所にそうした特徴が聴かれ、うれしくなってしまった。

合唱が終始歌い、ソロは控えめ。
テ・デウムのように、石田氏のヴァイオリン・ソロの活躍も多いが、ヴァイオリンとビオラのソロに管が優しく絡む場面など、オケの聴き所もたくさんある。

あれ、どこかで聴いたことがある。というシーンもいくつかあり、帰りの電車で解説を読むと第0番や第2番に引用されている旋律だった。
もっとも印象に残っているのが、ベネディクトゥス。
これぞまさに、私の大好きな1・2・6番あたりの緩徐楽章の楚々とした美しい世界。
アルプスの山々を見渡す野辺に咲く花々を思い起すかのような音楽に、私は陶然としてしまった。2番への引用もなされたこの章の、神奈川フィルの弦と、フルートの素晴らしさといったらなかった。
そして誠実極まりない合唱も掛け値なしに見事。
 それに続く、アニュスデイも天上の音楽のように響きわたり、ホールが教会であるかのような安らぎに満ちた空間になってしまった。
合唱が歌い終え、最後に弦とオーボエが残り静かに曲を閉じた時、シュナイトさんは両手を胸の前に併せて、祈るようなポーズをとって静止した。
合唱もオケも、そして聴衆もまんじリともしない。
長いながい沈黙がホールをつつんだ・・・・。

Top2 またしても、素晴らしい演奏が刻みこまれた。
シュナイトさんのつくり出す響きは、ドイツ的で低音も豊かだが、全体の基調は明るい南ドイツ風のものに思う。
そこに神奈川フィルのきれいな響きが加味されるので、独得の雰囲気が醸し出される。
専属合唱団もアマチュアとはとうてい思えない素晴らしさ。各声部のバランスがとてもいい。豪華な独唱陣ももったいないくらいの出来栄え。なかでもソプラノの平松さんの清潔な歌唱がとてもよかった。

いつもより早くはじまったお馴染みのアフターコンサート反省会でも、絶讃のコンサート。
楽しいひと時を過せました。
今年は、全国でシュナイトさんのコンサートが聴ける。
横浜はもちろん、札響(田園)、仙フィル(グレイト!!)などなど。いやはや困ったぞ。






                           

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2008年3月12日 (水)

シェーンベルク 「清められた夜」 サロネン指揮

Koriyama 今日はまた寒風が吹いて、春も足踏み状態。

福島の郡山を拠点に、会津と福島市方面に出張。
一昨日の郡山の晩は寒かった。
以前なんども訪れた店がなくなってしまい、よさげな店を探してさまよい歩く。
「馬刺し」と熱燗がうれしい。
会津若松に泊まればよかったな。

夜の空気が甘く感じるこの時期、帰宅を急ぐ住宅街に、沈丁花の香りがただよっている。

Schonberg_verklate_nacht_salonen_2 そんな時、聴きたくなる音楽が、シェーンベルクの「清められた夜」~浄夜
1899年の作曲。
ドイツ世紀末の詩人、リヒャルト・デーメルの詩「女と世界」のなかの同名の詩に触発されて書かれた弦楽六重奏曲が原曲で、シェーンベルク自身による弦楽合奏版の編曲の方が演奏機会が多い。

メータの新盤をすでに取上げたことがあるけれど、
今の季節だからこそ、また取上げたい。
作曲当時、その詩があまりに官能的で、音楽もそれにも増していて、賛否両論だったらしい。当時の評論で「トリスタンとイゾルデの楽譜を、まだ乾かないうちにこすってしまったような音楽」と批判された。
この言葉が、まさにこのシェーンベルクの甘味かつロマンテックな音楽の素晴らしさを物語っているように思う。

   男と女が寒々とした林の中を歩んでいる。
  月がその歩みにつきそい、二人を見下ろしている。
  月は高い樫の木の梢のうえにかかっている・・・・・。

実は、この場面。数年前、アバドが日本で上演した「トリスタンとイゾルデ」の第2幕の舞台がまるで、この浄夜の一場面を思わせるような設定だった。
長大な二重唱が、殺伐とした潅木の繁る林の中で歌われる。二人は離れたままで、結ばれることもないように思われた、グリューバーの演出。

トリスタンを振る指揮者は、意外やアバドを例外として、浄夜を得意にしている。
カラヤン、メータ、バレンボイムそして、サロネンも。
パリのトリスタンは、サロネンの指揮だったが、今夏の来日公演はビシュコフで残念。
ストックホルム室内管を指揮したこのCD。
いかにもサロネンらしく、クールで精緻。青白いロマンティシズムが立ち込めている。
怜悧さが勝っていて、もう少し官能の色香が欲しいくらいだけれど、厚化粧のカラヤンなどに比べたら若い男女のあっさりした関係の方が気が楽というものだ。

Banadai_2 会津、磐梯山を東側から望む。
気温の上昇で、雪が融けて蒸気が立ち昇っている。
途中、ものすごい霧が出て、見通しが悪かった。

ここで、一句

「雪融けて 霧を見わたす 会津かな」

お粗末・・・・・。

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2008年3月 9日 (日)

ブリテン 戦争レクイエム アルミンク/新日フィル

Britten_war_requiemUK-JAPAN2008
連日のコンサート通いに対する後ろめたさもあって、せめてもの罪滅ぼしと、今朝は早起きして息子とサッカーにキャットボールにバトミントン。
当然野外だから、これがいけなかった。
暖かいけど、風の舞う今日。
クシャミ連発、鼻水タラ~リ、目は痒い。
こんな苛酷な状況で、錦糸町のトリフォニーホールへ向かう。
楽しみにしていた、ブリテン戦争レクイエムを聴くために。

もうひとつ、難題は昨日聴いたシュナイト/神奈フィルの「田園」があまりに素晴らしかったので、いくら好きとはいえブリテンの深刻な音楽がまともに聴けるのか?ということ。

心配その1、花粉症はホールに入ってビールを飲んだらきれいサッパリ発症しなくなりました。
コンビニで買った大人ののど飴(シトラスジンジャー味)がまたよく効く。
それにしても、あのビール600円は高いぞ。グラス一杯だもんな・・・。

心配その2、最初の一音からすっかり、気分はブリテン。
昨日の「田園」も聴く人の心を癒す演奏だったが、ブリテンの平和を希求する心が生んだこの名作も祈りと哀悼に満ちたある意味癒しの音楽でもあるのだ。
約80分間、私は身じろぎせず、しっかりとこの素晴らしい音楽に聴き入った。

何度聴いても思うこの曲の重さ。
ラテン語の典礼としてのレクイエムに、早世の詩人オーウェンの生々しい反戦詩による独自のオラトリオ風な詩劇を混ぜ合わせた独創的な作品。
重くて、やりきれないし、反戦の詩が時に残虐であったりする。
でも最後の最後、リベラ・メで「ともに眠ろう」、「彼らを平和の中に憩わせたまえ・・・」と繰返し歌う場面で、すべては浄化されて音楽が祈りのうちに静かに閉じる。
この極めて感動的な最後の場面を目指して80分間集中できる。
今日も、ここで涙が溢れてきた。
音楽が終わって訪れた静寂。かなり長かった。相当、長かった。

レクイエムでは、フル・オーケストラとソプラノ独唱、合唱・児童合唱。
詩劇の場面では、室内オケとテノール・バリトンの独唱。
それぞれが交互に歌い演奏する。
最後のリベラ・メで両者が一体になり、祈りの音楽となる。

    ソプラノ:ジェラルディン・マクグリーヴィー
    テノール:ロバート・マーレイ  バリトン:石野繁生

 クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
                     栗友会合唱団
                     東京少年少女合唱団
                       (3月9日 トリフォニーホール)

どうしても、歴史的なブリテンの自演盤が耳にあるものだから、あれを前にしてはどんな演奏でも不利に聴こえる。
今日のアルミンクの果敢な挑戦は、響きが少しスリムで流麗にすぎるきらいはあったが、戦後世代の演奏として客観性もあり、素直に楽しめた。
汗だくになって曲に没頭するタイプじゃないから予想はできたことだけれど、もうすこし切実な響きも欲しかった気もするが贅沢かしら。

歌手は、テノールのマーレイが実によろしい。
英国テノールの伝統のうえにある人って感じで、きれいさと、没頭感とが競合していた。
出待ちで椅子に座っている時は丸くなっていて、頼りない雰囲気だけれど、歌いだすとすごかった。
すごいといえば、石野さん。去年の「ローエングリン」の伝令士で絶賛した人だけれど、今日もまた素晴らしい声を響かせてくれて、完全マークの日本人歌手の一人となった。
ソプラノのイギリス人歌手は、ちょっと声が届かなかったけれど真摯な歌いぶりがよい。

そして鍛え上げられた合唱の素晴らしさ。これはどこへ出しても恥ずかしくないくらいに立派すぎる。オケも薄口だけどうまい。打楽器の活躍は見ているだけでも楽しい。

こんないいコンサートなのに、客席は空席だらけ。6割くらいか。
おまけに字幕がなしで、対訳を見ようにも細かい字で見えない。(自慢じゃないけど、私はなしでも大丈夫だったけど)
これじゃみな寝てしまう。私の両脇の方々は、ほんとよくお休みになっていた。
チケットの高さや、曲の内容から予測はできたことだけに、主催者側にはもう少し工夫が欲しかったかも。

310 3月10日は、東京大空襲から63年。ホールのあるあたりも、未曾有の犠牲者がでた。
まだ63年しか経っていない事実。
私の生まれる十数年前の出来事。
繰り返してはならない過ちに、平和を祈る気分になった日曜。
千葉の駅に降り立ったら、駅頭で初老の紳士がこんなビラを配っていた。


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2008年3月 8日 (土)

神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

Kanagawa_fill200803 素晴らしい瞬間に遭遇すると、人は無口になってしまう。
春めいてきた、土曜の午後。
言葉に尽くせない音楽を耳にして、まるで酩酊状態。
足取りはふわふわと覚束ない。
同じ経験をした方々も、お互い交わす言葉もとぎれがち。
ビールで乾杯したら、堰を切ったように言葉があふれてきた。

そんな体験をしてしまった。
ハンス=マルティン・シュナイト指揮の神奈川フィルハーモニーの演奏会。
このコンビは、そうした秘蹟にも近い名演をこれまで何度か繰り広げてきたが、これほどの秀演とはお目にかかったことがないかも・・・・。

        ハイドン       交響曲第82番「くま」
        ベートーヴェン   交響曲第6番 「田園」
                        (3月8日 神奈川県立音楽堂)

日頃、高カロリーの血液ドロドロ系音楽ばかり聴いている私には、まさに耳の洗浄効果をおよぼすかのような、あっさりメニュー。
ハイドンの「くま」は真剣に聴くのは初めての曲。
何てすっきり、くっきりした音楽なんだろう。コンサートマスター石田氏がグイグイとオケを引っ張ってゆく。終楽章、なるほど、「くま」か・・・と思いながら、楽しく聴いた。

そんな呑気なことを言っていられたのは、ここまで。
「田園」が始まると、私の思いはここになく、まさに自分自身の田園風景に飛んで行った。
完全に心奪われ、解放されてしまったのだ。
 私のその風景とは、子供の頃によく遊んだ、実家の隣町にある母親の里にある小川の流れる場所。
弁天様があって大きな木が立ち、そこには小川がさらさらと流れ、周辺の田んぼには蛙の鳴き声、空にはひばり・・・・。
ここは、いま厳島湿生公園として保存されている。

Hanns_martin こんなことを思いながらの「田園」。
描写的な演奏ではなく、オーケストラがシュナイト師の指揮棒を信じて一心になった極めて純音楽的な演奏だった。
早すぎず、遅すぎずの約45分。どこがどうだった、あそこがちょっとなんていうこと自体がヤボになるけれど、最高の場面は、終楽章の最後の場面。
テンポも音量も落して、回顧するように第1主題が現れるとき、シュナイト師は思い切り押さえて、そして心を込めてオーケストラを鳴らした。
ここで私の涙腺は完全に緩んでしまった・・・・。

今更ながらの「田園」を聴いて、こんな思いを不覚にも味わったのは初めてだし、これを限りになるのではないだろうか。

ホールの外は、春めいたとはいえ、冷たい風が頬に気持ちよかった。
毎度、神奈フィル詣でのあと、お世話になった方々と祝宴に直行するが、皆さん冒頭に書いたとおり、言葉が少ない。
注文も忘れてしまうくらい・・・。
でも飲みだすとほんとに楽しい、クリムト直行便?
ウィーン・ホイリゲンシュタット・ツアーをまじで企画したいです。
それにしても、野毛入口という場所にありながら、なんと芸術的な居酒屋だろうか。
音楽を語るわれわれ、神奈フィルのメンバーも散見、グリークラブと思しき方々が隣では素晴らしいハーモニーを聴かせている・・・・・。
まさに、ホイリゲ状態。

困ったことに、ブリテンの戦争レクィエムと連ちゃん。
いくら好きでも、こんな「田園」のあとでは、ちょっと気が重いなぁ。

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2008年3月 7日 (金)

プッチーニ 「トスカ」 マゼール指揮

Tosca_maazel プッチーニ(1858~1924)の生誕150年の今年。
ちょっとずるいけれど、昨年分も入れて全作品制覇を目指してます。

オペラ作品は、全部で10作品。(三部作を分けると12作品)
これまで、「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「西部の娘」「ラ・ロンディーヌ」を取上げた。
ヴェルディの延長としてではなく、マーラーやシェーンベルク、そしてR・シュトラウスと同時代人としてとらえて聴くと、プッチーニのあらたな面が見えてくる。
ともかく、オーケストレーションの巧みさの中に、斬新な響きや、甘味な歌がたっぷり盛り込まれている。それが完璧な構成の中に、見事なドラマを築きあげているんだ。
天才としかいいようがない。
モーツァルトのレクィエムが、弟子の補筆とのギャップがあまりに大きいのと同じに、「トゥーランドット」のリューの死以降の出来栄えの格差はいかんとも仕方がない。

Photoトスカ」は、その舞台がローマの名所・旧跡で色どられていて、さながらローマ観光をする思いである。
だから、演出もその装置に金がかかるだろう。
でも人気作品だから、何度でも上演できるから、減価償却もバッチリ終えることもできるだろうな。
読替えや、過激な舞台に仕立てにくいし。

こちらは、第1幕の舞台「サンタ・アンドレア・デェラ・ヴァッレ教会」に似ていると思われる教会の内部。(画像がなかったのであります)
こんな聖なる場所で、トスカとカヴァラドッシは愛を囁きあい、嫉妬に燃えてしまう。
悪漢スカルピアは、いやらしい妄想をテ・デウムとともに歌っちゃうし。
このテ・デウムは、最高に素晴らしい。ワタシ歌っちゃいますぜ。

Photo_2 第2幕は、ファルネーゼ宮殿。
ミケランジェロもたずさわった豪華な宮殿は、今はフランス大使館らしい。
ここの一室で、バッド・ガイ、スカルピアは「ムフフ・・」といわんばかりに、いやらしい思いでいる。
窓の外からは、階下で歌うトスカの声が聞こえる。
CDによっては、その窓をガシャンと閉める音がリアルに入っていて、妙にうれしい。
この敵の陣地で、カヴァラドッシは破れかぶれに「ヴィットーリーア~」と高らかに叫んでしまうんだ。
絶望に捕らわれるトスカが、涙ながらに歌う「歌に生き、愛に生き・・・」は、息詰まる劇的な展開の中に涙誘う素晴らしいアリア。
そして、トスカはナイフで、「ふっふっふ・・・」とばかりに迫って来た悪代官をグサリと。

3 第3幕は、サンタンジェロ城。ローマ皇帝の霊廟として作られた。トスカの時代には、牢獄だった。
幕開きはローマの清々しい朝で、絵のような音楽だ。
ここで、カヴァラドッシは死を覚悟し、嘆くがトスカの登場とともに甘い二重唱を歌って、希望を取り戻す。
 ところが、悪代官の方が1枚上手だった。
目の前で、カヴァラドッシが銃殺され、「いい演技ねぇ」なんて言ってたトスカ。
ようやく気が付き、「スカルピア!神の御前で~」と叫んで、城壁から身をひるがえす・・・・・。3人全部死んじまう。
大きなカバリエが、どッカーンと落ちる映像が忘れられない。
このシーンが、美しかったのは、カヴァイヴァンスカですな。

   トスカ :ビルギット・ニルソン   カヴァラドッシ:フランコ・コレルリ
   スカルピア:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
   アンジェロッティ:シルヴィオ・マイオニカ スポレッタ:ピエロ・デ・パルマ

 ロリン・マゼール指揮  ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団/合唱団
                               (1966年ローマ)

このマゼール盤、数あるトスカの演奏のなかでも、もっともユニークな演奏だと思う。
主役3人と指揮者のなかで、イタリア人はコレルリだけ。
あとは、ワーグナーでも上演できそうな3人。
ニルソンが、ワーグナーばかりでなく、イタリアオペラのドラマティックな役を得意にしたのは周知のとおりだが、歌姫トスカは、可憐さや嫉妬に狂ういじらしさ、恋人の拷問に耐えられなくなってしまうか弱さも必要な役柄だ。
ニルソンは、そんなイメージとはちょっと違って聴こえる。
スカルピアと対等に張り合い、カヴァラドッシに負けちゃいけないと言わんばかりの強さを感じる。どうもこれは、私が彼女のブリュンヒルデやイゾルデを聴きすぎで、その声のイメージを引きずりすぎているからなのだろう。それとイタリア語がちょっと・・・。
そんなイメージを払拭すれば、声は冷凛として透明かつ輝かしく、聴き応え十分。

F=ディースカウは、予想以上にサマになっている。
まさに頭脳的・確信犯的な悪漢になりきっていて、言葉ひとつひとつに込めたドラマはもの凄く説得力がある。ニルソンと違って、あまりにも明晰に発声するイタリア語は憎々しい。
ゴッピと違った意味で、「悪いやっちゃ!」と思わせるFDのスカルピア。
トスカとスカルピアの死闘はものスゴイ迫力。

この強烈な二人に挟まれて、意外やいつも粘っこく感じるコレルリが、実に爽やかでよい。
むしろ普通すぎて面白くないところが悲しい。
素晴らしいカヴァラドッシなのに。(カラスとゴッピと共演するカヴァラドッシが可愛そうなのとおんなじだ)

60年代のマゼールは、その個性も全開。
思い切り引っ張り、思い切りあっけなく。そんなマゼール独特の緩急が随所に聞かれる。
歌を邪魔せず、ドラマにそれが生きているのがこの時期のオペラ指揮者としてのマゼールのすごいところ。
そして、ローマのオケの水も滴るような鮮度の高い響き。
この時期のイタリアのオペラのオーケストラを聴く楽しみがいやでも味わえる。

それにしても、よく出来たオペラである。ワーグナー聴く間に、トスカ2回聴けちゃうし。

                 

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2008年3月 6日 (木)

ショパン スケルツォ第2番 ポリーニ

Nara1木曜日は、早く帰宅して、「ケンミンショウ」を見て、「鹿男」だ。

鹿男、ついに佳境に。
生徒が鹿の使い番だったし、狐の使い番はやはりあの先生。
そして鼠はやはり・・・・・。
藤原先生があなたは何なんですか? と言われて、「私は人間です」と答えるところが面白かったし、カワイイ。
演じる「綾瀬はるか」の天然具合が味がある。
彼女の髪型は、「ぱっつん前髪」といって、眉毛が隠れるくらいまで、前髪をきれいに揃えてしまう髪型。
今、ブームだそうな。
CMで、「安室奈美恵」もしっかり、ぱっつんしてる。
う~む、そんな前髪、ワタシも欲しいぞ。
安室ちゃんといえば、以前、飛行機で遭遇したことがある。
伸ばせば手が届くくらいに近くにいた。サインもらえばよかった。
飛行機といえば、パティシエの奥さんになる「川島なお美」にもモノレールで遭遇し、ずっと羽田まで一緒だった。しかもエスカレーターで、真後ろになったため、変な意味でなく、ともかく近くで観察しちゃった。
ピンクづくしで、スーツケースも帽子もピンク。
「実は学校の先輩なんですぅ!」と声をかければよかった。キャンパスでも遭遇していたし・・・・。

あらら、今日は芸能に走りすぎだわ。

Chopin_scherzi_pollini 久方ぶりに聴くショパンはいい。
大規模なオペラや、大オーケストラにも負けないくらい、激しいドラマと、あまりにはかなく美しい詩情がある。

ショパン(1810~1849)は、数年おきに「スケルツォ」を4曲、作曲した。
スケルツォは、普通、交響曲やソナタのなかの楽章のひとつとして存在し、メインではなく、軽めの楽章であることが多い。
それを独立した形式で作曲し、しかも軽いどころか、めちゃくちゃ深刻で、激情的な音楽に仕立てたショパン。まさに天才だわ。

どの曲も素晴らしいが、一番有名なのが、第2番。
私は3番も好きだが、今日は時間の関係で2番を。
そのユニークな出だしからして独創的で、すぐさま詩情に満ちた旋律がアルペッジョに伴なわれて始まる。
そして、夢みるような中間部は、あまりにも夢想的で、酒好きの私にはたまらない音楽。
私の稚拙な言葉では言い表わせない、極めて流動的かつ夢想的な音楽。
いつもワーグナーばっかり聴いてきるけれど、ショパンの流動性に比べたら、ワーグナーの方がよっぽど硬く、決まりも多く人の気持ちを縛りつけてしまうかもしれない。
でもそれがやめられないワタシなの・・・・。

ポリーニの90年の録音。
あいかわらず、完璧な打鍵に裏打ちされた強靭なピアノの響き。
そこにイタリア人としての豊かな歌が伴なっているものだから、明るくはっきりとしている。
完璧すぎてコワイけれど、その歌が救いなんだ。
こうしたショパンも素晴らしい。

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2008年3月 5日 (水)

シューベルト 「冬の旅」 プライ&サヴァリッシュ

7 夢の続き・・・・、昨晩は思い出せるほどの夢は見ておりませぬ。
よかったよかった。

新幹線の駅のある地方都市は、駅周辺はチェーン店や若者を中心とした店でどこも同じような顔になってしまったように感じる。
必然的に、旧市街地は、少し寂しくなってしまったが、地元に愛される心休まる路地や小路がしっかり根付いている。

そうした場所で一杯やるのが、なによりの楽しみ。
地のものがしっかり食べれるし、地元の方との出会いも楽しい。

こちらは、山形の花小路。かつて栄えた花街。ここがまたすばらしく雰囲気がよかった。
ネオンに染まる雪を踏みしめ、好みの店をさまよう・・・。
冬の居酒屋、さすらい旅、ここに極まれリ。
よそ者のさまよい人である私を、暖かく向かえてくれた。

Prey_winterreise 春は近いけれど、まだまだ冬の名残は厳しい。
まだまだシューベルトの「冬の旅」がいける。

1827年、シューベルト死の前年に書かれたこの歌曲集は、「美しき水車屋の娘」と同じくウィルヘルム・ミュラーの詩によっている。

恋に破れ同じように、さすらう若者の歌ではあるけれど、「冬の旅」の主人公の顔は見えず、ただひたすらに世捨て人のように街から街へと、人目を避けるようにして死へ向かって歩き進む。
 そこに救いは見出せそうで、見出すことが出来ず、最後に至って年老いたライアー回しを見出し、行動を供にすることになる。
その老人に自分の姿を見出し、永遠の歩みを踏みだすことになる・・・・・。

なんという暗い内容なのだろうか。
でもこの行脚に、われわれは共感してしまう。いつも何かに追いかけられているし、先が見えない毎日だから・・・・。
詩だけでは、どうしようもなく暗いだけ。そこにシューベルトの霊感に満ちた素晴らしい音楽が付いて完璧な符合を見せている。
ミューラーとシューベルトは、同時期に生まれ、そして亡くなった薄幸の人である。
こんな偶然以上に、詩と音楽の同質性を深く感じる。
菩提樹は有名だけれど、この辛い旅にあっては唯一の憩いの音楽。
全24曲、暑い日も寒い日も、私の心をとらえて離さない。

Prey_sawallish ヘルマン・プライが69歳で世を去って、今年でもう10年になる。
プライも、ホッターやF=ディースカウと同じように、冬の旅を何回も録音している。
今日は、ピアノの名手でもあったウォルフガンク・サヴァリッシュと組んだ1971年の録音で聴いた。
プライは、その屈託のない声から水車屋向きのバリトンのイメージがあるけれど、ここでの歌は決して無理をせず、いつものままのプライがいる。
冬の旅も、プライのような伴侶がいれば、暖かく過ごせそうである。
「春の夢」の安らぎにホッとさせてくれるけど、不安のうちにその思いを閉じる歌が素晴らしい。「最後の希望」の最後の一節「僕の希望の墓に泣き伏す・・・」の場面には、心底感動した。

プライとルチア・ポップは、永遠のパパゲーノとパパゲーナに思えるくらいに、私の心に生き続ける素適な声の持主だ。
サヴァリッシュのニュアンス豊かなピアノも素晴らしく、きっと歌いやすいのだろうな。
去り逝く冬に今日の「冬の旅」。

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2008年3月 4日 (火)

ジュセッペ・ディ・ステファノを偲んで

昨日は、トリスタンの夢を見たことを書きました。
そして、昨晩の夢も朝からうる覚えに記憶している・・・・・。
今回は、なんと「ラ・ボエーム」だったのである!
それも、最後の場面。ミミは登場しなかったけれど、ロドルフォが泣き叫んでいたんだ。
そして、その場面を家族に見せて、どう?泣けるでしょ? なんて、言っているワタシがいた。なんちゅう夢じゃ?
それと朝でも覚えている自分、歳を感じるなぁ~。今晩は、いったい・・・・。

Di_stefano_2 3日、ミラノにて、世紀のテノールのひとり、「ジュセッペ・ディ・ステファーノ」が亡くなった。
享年86歳、新聞によれば2004年にケニアの別荘で、強盗に襲われ負傷。以来、昏睡状態だったという。
粋なディ・ステファーノとしては、本当に無念の亡くなり方ではなかったろうか!

1921年シチリア生まれ。生粋のイタリアン・テナーとして、デル・モナコ、フランコ・コレルリ、タリアヴィーニ、ベルゴンツィらと、まさにイタリアオペラの黄金時代を担ったステファノ。

直情的なドラマティコのデル・モナコと違い、もう少しリリックでベルカント系に強かった。
多少の歌い崩しがご愛嬌で、それが歌いどころでバッチリ決まってしまう味のあるテノールだった。型の決まったヴェルディよりは、ドニゼッティやプッチーニ、ジョルダーノが良かった。
そして何よりも、ステファノですぐに思いおこすのは、ナポリ民謡の数々だろう!!
何種類も録音が出ていて、誰もが一度は聴いたことがあるはずだ。
まさに、故郷の歌を気持ちよさげに、思いのたけを込めて歌うステファノの声に、明るい陽光を見る思いだ。

Callasstefano 日本との係わりでは、よき伴侶だったマリア・カラスの復活公演に同行し、1974年にNHKホールでジョイントリサイタルを行なったこと。
ステファノがカラスをいたわり、立てつつも、衰えを隠せないカラス。
それに引きかえ、元気一杯・立派だったステファノ。
そして翌年75年には、カラスとステファノの「トスカ」が横浜で上演されることとなった。
だがやはり、カラスは無理で、カラスの指名を受けたモンセラット・カバリエがトスカを歌った。この模様は、NHKFMで生中継されたし、後日テレビでも放映された。
Stefano カヴァラドッシを元気一杯歌ったステファノは、お腹がポッチャリ・メタボだったけど、とんでもなく立派なもんだった。「ヴィット~リ~ア~~!」の聴かせどころも、もの凄かった。
この公演では、ステファノ自身が演出家もつとめた。
懐かしいカセットテープがあるはずなので探してみようか。

その後のステファノの活動は、あまり耳にしなかったが、悠々自適のいなせな後世を送っていたのだろうな・・・・・。
決して美声ではないけれど、感性のおもむくままに歌い上げた歌は、いつも心がこもり、時として音楽のフォルムを踏み外してしまうこともあったかもしれない。
その心の入れ込み具合を味わうのが、ステファノの歌を聴く醍醐味。
こちらの気持ちも解放され、大きく深呼吸する気分になる。

あまりに素晴らしい「カタリ」を聴きながら、今宵は偉大なテノール歌手を偲ぼう。
ご冥福をお祈りします。

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2008年3月 3日 (月)

ノラ・ジョーンズ Not too late と、トリスタンの夢

Noge_3












昨晩の夢のお話。
トリスタンとイゾルデの夢を見た。
それも、ちゃんと音楽がしっかり鳴っていた。
画像は、横浜のとある一角。

夢の場面は、第1幕の終わり。禁断の愛に踏み切り、二人が恍惚としている場面で、トリスタンがしっかりと歌っていた!
ところが、その演出たるや。
一応、私の夢ゆえ、演出はby yokochanということで。

舞台は、海または湖の上。水上を疾走する、モーターボート(のようなもの)。
そこに女性ひとりと男性ふたりの3人。一組はトリスタンとイゾルデだが、残る男性は何ものだろうか?

これが朝からわからない。
クルヴェナールかマルケかメロートか??
3人とも水着を着ている。
女性は、笑っちゃうことにメゾの「ウルマーナ」がひとり実名で登場。
彼女の水着姿、すごいナイスなんだ(笑)
船はものスゴイ勢いで、水を切って走る、走る。それでもちゃんとトリスタンは歌っている・・・・。

朝起きても、この夢を覚えていた。
ついにワーグナーは私の夢の中までを占拠しだしたのだろうか
晩にテレビで見た「鉄腕ダッシュ」で国分太一が、沖縄の海を足漕ぎ船で走るのを見た。
その影響だろうか?
誰かワタシの夢を占って・・・・・・!

Norah_jones_not_too_late















夢はワーグナーだったけど、今宵はひな祭りにあやかって、素適な女性シンガーの1枚を。

ノラ・ジョーンズNorah Joans)。
ジャズ・ピアノを専攻したところからスタートし、バンドを組んで弾き語り、名門Blue Note に見出され、その才能を開花させた才人。

そしてなんといっても、私の注目を引いたのが、彼女がインドの高名なシタール奏者・作曲家の「ラヴィ・シャンカール」の娘だということ!!

そのセキゾテックな容姿に、父親の顔を見てとれる。
ビートルズとクラシック音楽をともに聴いてきた身としては、インド音楽・シタール・シャンカールという要素は切り離せない。
いまは、食いしん坊からの視点もあって、インド音楽が好き。

でも、ノラの歌はそんな世界とはまったくかけ離れている。
ジャズでもない、ポップスでもない、当然のことながらインドとはまったく関係もない。
ニューヨーク生まれの彼女は、完全なアメリカンだ。
弾き語りの彼女の歌は、ほとんどが自作で、ノン・ジャンルといってもいいかもしれない。
私のように普段クラシカルな人間でも、普通に入っていける。
しいていえば、「ジャニス・イアン」に似ている。
こうなると、ジャズ・シンガーでなく、マルチ・ヴォーカリストではないかしら。

Norah_jones_not_too_late2















伸びやかで、素直な歌。ジャジーな雰囲気も充分。
その根底は、明るく人生に肯定的だから、夜にウィスキーなどを嗜みながら聴くと、とても気分がよろしい。

このCDでは、ピアノはおろか、ギターも弾いていて、その才人ぶりを発揮している。
タイトル曲や、Wish I could、Not My Friendなどが、気に入った曲。

彼女が主演した映画「My Blueberry Nights」も、この3月公開されるという。
ますます、そのマルチな才能を開花させる「ノラ・ジョーンズ」、是非お聞きあれ。

ちなみに、妹アヌーシュカ・シャンカールは、父のあとを引継ぎ、シタールの若き名手として活躍中。彼女もまた、すごい美女なのさ。
そのCDには、姉とともに、スティングまで登場している。
妹さん、近々取上げます。父は、すでにこちらで登場済み

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2008年3月 2日 (日)

エセル・スマイス「難破船略奪者」 マルティネス指揮

9_3 
















雪の山形。
降りしきる雪を浴びながら酒場へとさまよい歩くワタシ。

酒とおいしいものを求めるには、どんな苦難もいとわない。
こんな自分が、たいしたもんだ、と思うことがある。
 そんな意欲を仕事に活かせ
内なる声がいつも鳴り響く今日この頃~

6
















飲んで、ふらふらとさまよって、どこがどこだか、わからなくなってしまった。
雪のなか、遭難するんじゃないかと思った。
ラーメン屋があったので、いけないと思いつつ避難した。
そこを出たら、また、さまよってしまった。
いつになったらホテルに帰れるんだろ

Smyth_wreckers













今日は、そんな遭難にまつわるオペラを。
イギリスの女流作曲家「デイム・エセル・スマイス」(1858~1944)の「難破船略奪者」(Wreckers)。
すごいタイトルだけれど、「レッカーズ」を邦訳すると、そんな名前や、または逆の難破船救助者という意味も出てくる。
このオペラは、悪い方々の意味。

そして、何気に「スマイス」は、今年生誕100年のメモリアル作曲家である。
ロンドン生まれながら、ライプチヒやウィーンで学んだガチガチの硬派で、ブラームスやワーグナーの影響が聴いてとれるという。
わたしは、このオペラでスマイスを初めて本格的に聴いたが、たしかに古典的な枠を守りながらも、重厚・長大なワーグナー風の勇ましい響きに驚くが、一方、英国音楽に特有の抒情的な歌にも溢れていて、その社会派風の内容とともに、大いに楽しめた。

彼女は、女ブリテンだったらしいが(要は同性愛)、そんなことはさておき、厳格な家庭に生まれ、その反発から生まれた自立心からか単身ドイツで勉学に励み、ロンドンに帰還後、当オペラ(1906年)などを次々に発表して英国楽壇で名を揚げてゆく。
 しかし、さらに別な側面での活躍が彼女の名をさらに高め、そして音楽界から煙たがれれてしまうことになる。
当時、ヴィクトリア朝の英国は男性至上主義真っ只中だったが、女性の社会的地位向上の女権運動に身を投じてゆき、やがて自身が投獄までされてしまう。
その主義に殉ずる音楽も書いたし、著作も残した。
 女性が職業としての作曲家で自立しようということ自体が当時は異端であった。
作家のヴァージニア・ウルフとも深い交流があった彼女、まさにフェミニストとして、女性だけのオケを作り指導したりした。
そんな彼女の才能だけを見つめ大いに評価し、バックアップしたのが、サー・トーマス・ビーチャムなのだ!
後に、聴覚に障害が出て、執筆活動に専念することとなるが、オペラは6曲も作り、協奏曲・室内楽曲などをたくさん残している。

「年の離れた男性と愛のない結婚をした主人公の女性が、若者と恋に落ち、船を難破させて略奪行為をなし、生計を立てていた村人を裏切り、船を救う。
その行いを攻められ、死を宣告され、やがて満ちてゆく波に飲まれて死を待ちながら、正義と愛を昇華させてゆく」

正義を自ら実行する力強い女性を描いたスマイスならではの社会派オペラ。

超簡単なあらすじ。

第1幕
 舞台は、コーンウォール地方の崖の上に立つ寒村。
(そうワーグナー好きなら、トリスタンの殺伐とした故郷、トリスタンは何もないところ、と歌っていましたな。)
村人が集まり、神への賛美とともに助けを求めている。村の長老パスコーは、村人が神への祈りを忘れていると嘆くが、彼は村が略奪行為で生計を立てていることに貧しいことをわかっているがために微妙な立場でいる。
彼の若い妻、サーザはこの夫に愛情を持てないし、村人に教会へ行けと言っている。
灯台守ローレンスの娘エイヴィスは、若い漁師マークに恋していて、かつて愛を約束したはずと、彼に迫る。
マークはサーザが好きなので、エイヴィスはサーザを憎むようになる。
そんな中で、獲物の船舶がやってくる。村人は大いに盛上り、踊り狂う。

第2幕
 夜半、マークがサーザへの満たせぬ思いを歌う。
そこへ思いがけず、サーザがやって来て、まるで「トリスタンとイゾルデ」のような濃密な二重唱が歌われ、二人は船を救う信号を出すことにして決行すことで立ち去る。
そこへ現れた、夫パスコーは二人の姿を見て固まってしまい立ち尽くす。

第3幕
 誰かが難破から船を救った。村の掟を破ったのはパスコーだ!極刑だ!として村民裁判が行なわれる。
妻を見たパスコーは無言。皆は彼を謀反者として責める。
エイヴィスは、違う、サーザがやったのだ、と疑惑を激しくぶちまける。
そこへ、マークが現れ「私だよ。どうぞ裁いて欲しい。そして極楽浄土へ行きたいのだ」と告白。
さらに、サーザも現れ、自分達がやったことと自白。
パスコーは、必死に彼女をとどめるが、サーザは喜んで死を受け入れ、二人違う世界へ行きたい、と信念を歌う。
エイヴィスも嫉妬に狂い、マークは自分と会っていたから無実だ!など叫びまくるが、マークがあっさり否定。
全員が立ち去るなか、二人は歌う。
「日の光よ、我らの死を照らせ!海よ、我らを胸まで埋めよ!おお、海よ法悦とともに我らを抱け・・・・」

            

おそらく、こんな内容であります。
筋としては「アイーダ」や「村のロメオとジュリエット」(ディーリアス)、「ピーター・グライムズ」を足して割ったようなもの。
パスコーとエイヴィスが、旧来の世俗的な存在。
マークとサーザが、社会的な自覚をもった存在。

   サーザ :アン・マリー・オーウェンス    
   マーク :ジャスティン・ラヴェンダー

   パスコー:ピーター・シドホム       
   エイヴィス:ジュディス・ハワース
   ローレンス:デイヴィト・ウィルソン・ジョンソン ほか

 オダリィン・デ・ラ・マルティネス指揮 
          BBCフィルハーモニック
          ハッダースフィールド合唱協会
             (1994.7 @ ロンドン)

ロイヤル・アルバートホールにおける記念碑的な上演。
キューバ生まれ、主として南半球で活躍する女流指揮者マルティネスの、作曲者が乗り移ったかのような指揮があってこそこの演奏が成り立ったかのように思える。
彼女は、初めてプロムスに登場した女流とも書いてある(84年)。
歌手もみな聴き応えある。

Smyth













昨年暮れあたりから、このCDを何度聴いたろうか。ようやく記事に出来るまで聴きこんだ。
全貌の掴みにくい作品ではあるが、正義をまっとうしようとする時に出てくる旋律、序曲の半ばで出てくる、大らかかつ英国的なジェントリーな旋律がともかく素適だ。
最後の死にゆく場面もなかなかに高揚的。

ほかのオペラや、協奏作品も是非に聴いてみたいぞ、スマイス女史。

素敵なスマイスさん、スーツにネクタイも似合います。

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2008年3月 1日 (土)

R・シュトラウス ホルン協奏曲第1番 ザイフェルト&メータ

1 しばらくのご無沙汰更新。
火曜から土曜まで、秋田・山形・宮城を出張行脚。
山ひとつ隔てるだけでも、日本はこうも広いものか、と思うくらいに気候・風土が違う。
秋田県大館から、秋田まで奥羽本線、秋田で乗り換えて山形県新庄まで、さらに新幹線で山形まで。
こんな6時間の長旅。
窓の外は常に、こんな風景。
手動開閉のドアを開け閉めして、どこの駅でも学生さんたちが、乗降りする。
二日酔いでヘロヘロだったけど、寒さが妙に気持ちよかった。
こうした生活を拝見すると、雪のない地方は恵まれているかもしれないな。
2 こちらは、秋田駅にあったD51のフェイス。
前にも書いたけれど、私は鉄チャンじゃありません。
でも小学生の頃、空前の蒸気機関車ブームがあって、友達がプラモデルやソノシート(ビニールシートで出来たレコードですよ)を収集しているのを横目に見て、うらやましかったものんだ。
でも、私にはクラシック音楽があって、お小遣いは、そのレコードを買うために無駄遣いはできなかった。
そんなノスタルジーの「デゴイチ」なんだな。

Alpensinfonie_mehta

R・シュトラウス(1864~1949)シリーズ、今回はホルン協奏曲第1番
1883年の作品は、作者19歳のもの。
驚くべき早熟で、以前聴いたヴァイオリン協奏曲の次の作品。
よくいわれるように、シュトラウスの父フランツは、ミュンヘンの宮廷オーケストラの優秀なホルン奏者だったゆえ、管弦楽曲やオペラでもホルンが活躍する場面が多い。
そしてその極めつけが、2曲あるホルン協奏曲。

第1番は、父の60歳を祝して書かれたが、2番はその50年後、15のオペラもすべて書き終え自在の境地にあった作品。
この2曲のギャップは大きいが、ホルンの機能や音色を知悉した扱いの巧さが若書きの作品にしつかりと刻まれていて、その音楽の親しみやすさと、アルプスに鳴り響くホルンをイメージさせることから、1番の人気も高い。

小編成のオケをバックに、冒頭から気持ちの広々とするような勇壮な出だしに誰もが耳をそばだてることだろう。
そして3楽章のホルンの名技と明るい伸びやかさも極めて印象的。フルートを中心とする管のトリルに彩られた中間部も素適だ。
間に挟まれた2楽章は、地味だけれど、明るさが基調にあるロマン派的な音楽だ。
これら3楽章は連続して演奏され、その演奏時間も15分たらず。
気分転換にもってこいのナイスな音楽に思う。

ベルリン・フィルのカラヤン時代を象徴したかのような名手のひとり、クルト・ザイフェルトメータとベルリンフィルをバックに89年に録音したこのCD。
唖然とするほど、見事なホルン。
楽器のことは素人だけれど、ホルンって、こんなに吹き手によって音色が違うものなんだ。
バイロイトで長年、ジークフリートの角笛を吹いていたザイフェルト。
まさにあの祝祭劇場に鳴り響く朗々としたホルンが、ここに聴かれる。
ベルリンフィルともども、心が晴れるような気分のいい演奏だ。
ただ屈託がなさすぎるのが唯一の難点か・・・・。曲が曲だけに、まぁいいか。
ダムとケンペのドレスデンコンビは、もうちょいと味わいが勝っている。

メインのアルプス交響曲もいいが、そちらは、メータとしては、ロスフィルの旧盤の方が迷いがなく登山一直線だった。

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