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2008年4月

2008年4月30日 (水)

バックス 交響曲「春の炎」 ハンドリー指揮

Azeria 一気に初夏の陽気に。
ツツジもあわてて一斉に開き初め、甘い香りが漂っている。

普段にも増して、ぼぉーっとしてしまいそうな日々がこれから続く。
寒い時とか、酒を飲んでるときは、シャンとしているのだが、春から夏はどうもイカン。
苦手な季節。暑いのイカン。
ビール飲み過ぎちゃうし、お腹ぽっこりになっちゃうし、厚着でごまかせないし、頭が日に焼けちゃうし??

まあ、いずれにしても、年中飲んでいるのだな、これが。

Greenwood 酒と言えば、ワタシらが酒を飲みだした頃は、今のようなカクテルや酎ハイといった小洒落た飲物はなかった。かといってビールも高かったし、発泡酒なんてものもなかったから、いきなり日本酒か、ウイスキーだったんだ。
 ともかく飲んだ。でもウイスキーは、貧乏ながら一応選んで飲んでいて、たいていは「ホワイト」。
「レッド」は次の日、死ぬということを本能的に感じとっていた。「オールド」なんてめったに飲めなかったし、「リザーブ」なんぞ、拝むことすらできなかった。

ところが今はどーだ。
国産酒には見向きもせず、ジョニ黒・赤なんぞも、ありきたりの酒となって、量販店にごろごろ転がっている。

体のいらんところに肉も付き、嗜好も贅沢になってしまった・・・。
そんな、ワタクシのお気に入りのウイスキーは、アイリッシュモルト。
ブッシュミルズ、ボウモア、タラモアデュー、タリスカー、ジェムソン・・・、醸造元の街の名前で、いろいろな種類のボトルがあるが、あまりこだわらない。
ピートの燻した香りが味に染み込み、ヨード臭の強いものがとりわけ好きだ。
いわゆる、ヨードチンキですよ。
おねーちゃんもいない、ちゃらちゃらした雰囲気の一切ないバーのカウンターに腰掛けて、2~3杯ロックで飲む。

Bax_spring_fire_2 そんな時、きまって頭の中に流れる音楽が、アーノルド・バックス(1883~1953)の音楽。
ロンドンっ子ながら、アイルランドを生涯愛したバックスの音楽には、ケルトの香り、海の潮の香りがぷんぷんだ!

とらえどころがないところも、ニンフのようでもあり、夢の中の音楽のようでもある。
単なる自然の描写だけでなく、そこに感じるマジックやファンタジーが伴なっているものだから、ミステリアスな雰囲気がいつもある。

7曲ある交響曲は、いずれも番号だけの純粋交響曲だが、すべてが3つの楽章で、先にあげたようなムードに満ちているので、どの番号を聴いても、みんな同じに聴こえてしまう。
そこがバックスの面白いところで、何度も何度も聴いてゆくうちに、すっかりその虜となってしまう。

 今日の「春の炎」は、バックス初期の作品で、5つの表題を与えられた楽章からなっている。
Ⅰ「夜明け前の森にて」、Ⅱ「夜明けと日の出」、Ⅲ「一日」、Ⅳ「森の愛」、Ⅴ「manads」。
一気呵成にやってくる北国の春の様子が、幻想的かつダイナミックに描かれている。
ソフトで夢見るような森の国の夜明け、冬の眠りから醒めた大胆で陽気な森、あまりにも美しいロマンスのような情景、爆発的な妖精の踊り。
作曲後、第一次大戦の勃発や、その後も演奏の困難さなどで、演奏がなかなかされず、楽譜も消失したりした、なかなか恵まれない作品だったようだ。

ここでは、そんな経緯はともかく、ヴァーノン・ハンドリーロイヤル・フィルの詩情溢れる演奏で、とことんバックス・ワールドに浸ることができる。

一度ウイスキー片手に、バックスの音楽を楽しんでみてはいかが?
お酒がダメな方は、ヨードチンキ片手に弧高の海を思い浮かべながら、どうぞお聴きください。

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2008年4月29日 (火)

ルロイ・アンダーソン ピアノ協奏曲 スラトキン指揮

C東京ディズニーシーの20世紀初頭のアメリカ(ニューヨーク)をイメージした街並み。
夜ともなると非常にいい雰囲気になって、ここに佇み、ワンショツトひっかけたくなる。

ディズニーシーは、子供に引率されて春休みに念願のデビューを果たした。
酒が飲めることもさりながら、ヨーロッパ(ルネサンス期)やアメリカ、中近東、インカ、地底、海底などなど、世界のあらゆるシテュエーションが楽しめちゃう。

B そんな大人のテーマパークなんだ!

一度で好きになってしまった。
息子も気にいったようで、また男ふたりで行こう、なんて計画しているのだ。

さすがにオヤジ一人ではマズイだろうけど、もしかしたら「アフター6」に仕事帰りにふらりと寄って酒を飲んじまうのも粋かもしれない。
そんなことが出来そうなのも千葉県民の特権かもしらん。
マジやるかもしれませんぜ!

Anderson_slatkin 今日は、アメリカの生んだユニークな作曲家、ルロイ・アンダーソン(1908~1975)のオーケストラ作品集を。
ナクソスから出た素適な1枚は、レナード・スラトキBBCコンサートオーケストラの演奏。
メジャー指揮者で愛国心一杯のスラトキンが、このところナクソスに自国音楽を録音しはじめた。
そんな嬉しい1枚でもある。

ハーバード出の秀才は、語学教師への道から、才覚のあった音楽の道へと転身し、ボストン・ポップスとの協力関係を築き、有名な短編曲をいくつも作曲た。
誰しも聴いたことのある曲ばかり。
戦後から60年代までがその充実期で、わたしのような世代がイメージするアメリカの豊かで幸せな社会を反映さえた、伸びやかで明るく、ユーモアも満載の音楽。
 ノー天気と言われようとかまわない。屈託ない音楽は聴くこちらの気分を解放し、心の休日を与えてくれる。
このCDは、生誕100年を記念しての、アンダーゾン作品全集の第一弾で、有名な「トランペットボランタリー」をはじめとして、あまり聴いたこともない曲もふくめて14曲ものオーケストラ作品が収められている。
 しかし、目玉は、ピアノ協奏曲。
1953年、作者の指揮、ユージン・リストのピアノで初演されたが、長く封印され、1989年アンダーソン未亡人の意思によりリヴァイバルした純アメリカ産のピアノ協奏曲。
20分あまりの3楽章形式の協奏曲は、アディンセルのワルソー・コンチェルトのようなロマンテックなものではないが、ハリウッド的・映画的な小気味のいい愛すべき作品に思える。
親しみやすい旋律にあふれ、そう、ディズニーのあの雰囲気にも通じる陰りのない明るさ。
一度聴けば、皆好きになってしまうのでは!

ジェフリー・ビーゲルというピアニストが快活に弾いていて、スラトキンのにこやかな微笑みが目に浮かぶようなオーケストラが実によろしい。
本家のBBC響のシェフをつとめたスラトキンが、BBCコンサートオケをどうした按配で指揮しているのか不明なれど、実に楽しいコンビになっている。
その実力のわりに、あえて王道を歩まないかのようなスラトキン。
ニューヨークフィルくらいの指揮者になってもいいと思うけれど、デトロイト響のシェフに就任との話もあり嬉しいことだ。
N響に客演時の、ラフマニノフの2番や、幻想、チャイ5など目のさめるような名演だった。
まだまだ、活躍が期待のスラトキン!

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2008年4月27日 (日)

ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」 シャイー指揮

Andrea_chenier_2 休日の今日、朝からお気に入りのオペラに浸ろう。

日頃、このブログをご覧いただいていると、ワーグナーやシュトラウス、イギリス音楽ばかりに思われるかもしれないが、わたくし、イタリアオペラも相当に聴いてきました。

ワーグナーから 入り込んだオペラの道。
途中から、プッチーニ、ヴェルディ、ベルカント、ヴェリスモと行き来しつつかなり聴き込んだ。
やはり、ヴェルディには心奪われ、主だった作品は聴き尽くしたぐらい。
今は、ドイツものを中心に、なるべくイタリアものも聴き、フランス、ロシアのオペラも聴くように心掛け、大切なジャンルのイギリスのオペラがこよなく愛しく思えるようになってきている。

言葉こそ違え、オペラは私の日々の生活の糧となるような大切な音楽のジャンルなのである!

プッチーニより一回りあと、R・シュトラウスと同世代のウンベルト・ジョルダーノ(1867~1948)の代表作、「アンドレア・シェニエ」を視聴。
以前より所有のビデオで、DVDと比べると、その解像度・音質に雲泥の差があるが、映像として観だしてしまうと、もう止められない。

プッチーニのような天才肌ではないかもしれないが、激情的な音楽が心を揺さぶるジョルダーノ。素晴らしい心を揺さぶる名旋律が満載のオペラをいくつか書いた。
フランスの革命時に実在の悲劇の詩人「アンドレア・シュエニエ」を題材としたイルリカの台本に基づいた、4幕の劇的なオペラ。
主役3人にあたえられた素晴らしいアリアの数々、死がからんだ唐突な筋立てと、革命と祖国愛というドラマテックな題材が2時間あまりの作品に素晴らしい緊張感を与えている。

この作品に初めて接したのは、NHKイタリアオペラのデル・モナコ、テバルディ、プロッティ(グエルフィ)の音源。そしてレコードでの、デル・モナコ盤。テバルディと、あまりにも素適すぎるバスティアニーニが聴けるガヴァッチェーニ盤のふたつ。
そして、カレーラスの来日オペラリサイタルで聴いたアリアと、カプッチルリのガラコンサートでのアリア。これらが忘れ得ぬ思い出。
新国や外来の公演もことごとく逃してしまい後悔の現在、久方ぶりの映像をとても楽しんだ。

第1幕 
1  革命前夜のコアニー公爵夫人の豪奢な館。著名人を招いての宴席、従僕のジェラールは年老いた父とともに、貴族たちを忌み嫌っている。
宴に招かれた、アンドレア・シェニエは、最初は拒むが著名詩人として即興詩を乞われ歌う。愛をもとに歌い始め、やがて暴政と貧しいものへの憤りの激情的な歌となり、居合わせた人々は顔をそむける。ただひとり、公爵夫人の娘マドレーヌは、心惹かれる。
ジェラールも物陰から心動かされる。

第2幕
 パリのカフェ。革命の立役者ロベスピエールを攻撃するかのような詩作をつづった過で、お尋ねもののシェニエ。
2 友人ルーシェは逃亡を進めるが、シェニエは、見知らぬ女性からの励ましと愛の告白に心惹かれ立ち去り難い。密偵が、狙い付回す。
同様に密偵は、今や革命政権の幹部となったジェラールの指示でマドレーヌも狙う。
マドレーヌの小間使いベルシの手引きで、出会うシェニエとマドレーヌだが、密偵に傍受され、それを受けたジェラールとシェニエは決闘となる。
傷を受けたジェラールは、かつて感銘を受けた詩人とわかり、マドレーヌのことを頼み、追手には不明の犯人ということで庇うことに・・・・。

第3幕
 3 逮捕されたシェニエの告発文を書くはめとなったジェラール。
実際は、民衆を裏切ることとなることと、恋敵への嫉妬で悩む。
そこへ、マドレーヌがあらわれ、シェニエの助命を乞い、ジェラールの自分への思いを知った彼女は、シェニエのために死んだつもりで、横恋慕の犠牲になろうとする。
この時、彼女は「母が死に、生まれた館も革命で燃え、天涯孤独となり、シェニエへの愛のみが生きがい」と涙ながらに歌う。
これに心動かされたジェラールは、二人を救おうと改心する。
裁判に引き出されたシェニエ。シェニエは反逆者としての告発を否定し、死を恐れず名誉を傷つけられることを恐れると高潔の歌を歌う。
必死に弁明するジェラールだが、空しく処刑の命が出て、抱き合う男二人。泣き崩れるマドエーヌ。

第4幕
 牢獄内。シェニエは友人相手に、辞世の句を歌い、死を覚悟する。
ジェラールに伴なわれ、マドレーヌが最後面会にやってくる。ジェラールは、ロベスピエールに最後の嘆願をと向かう。マドレーヌは、牢番を買収し、死刑女囚になる。
二人高らかに、愛を歌いつつ、処刑台に向かい幕。

アンドレア・シェニエ:ホセ・カレーラス マドレーヌ :エヴァ・マルトン
ジェラール :ピエロ・カプッチルリ   ベルシ   :シルヴァーナ・マツェッリ
コワニー公爵夫人:ネッラ・ヴェッリ   ルーシェ  :フランコ・フレデリチ

  リッカルド・シャイー 指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団/合唱団
                演出:ランベルト・プジェッリ
                            (1985年ミラノ)

4 このオペラ、やはり主役のシェニエに人を得ないとはじまらない。
カレーラスは、姿かたち、その声もシェニエそのもの。
真面目で高潔、憂愁と激情がおりなす一本木な男にまさにピッタリのカレーラス。
1幕のアリアから、最後の二重唱まで、観ていて完璧な悲劇の詩人ぶり。
カヴァラドッシやマウリッツィオとともに、カレーラスのはまり役に思う。
 そして、かつてのバスティアニーニもかくやと思わせるカプッチルリのジェラールは、声の威力と、途中からロドリーゴのようにいい人に転じる男ぶりが実に素晴らしい。
70年代から80年代にかけて、何度も日本に来てくれたカプッチルリは、そのほとんどを聴いたくらいに、大好きなバリトンだった。
シモンを2回も観劇し、ガラ・コンサートでもジェラールを聴いた。
早世が惜しまれ、その声を思い出すにつけ涙が出そうになってしまう。
 マルトンのマドレーヌだけが、声と風貌がちょっと異質かもしれないが、ドラマティコとしての威力は替えがたいのかもしれない。

若きシャイーの精力的な指揮と、オケのかもし出す豊かな雰囲気はロンドンのオケとは次元を異にする素晴らしさ。

演出は普通すぎるし、舞台装置も具象的に過ぎるようにも思えたが、劇の進行が急すぎる題材が題材だけにわかりやすくもあって、これでよいのかもしれない。
調べたら、映像がかなり出ていて、ドミンゴやクーラなども観てみたいものだ。

最後に、シェニエの1幕のアリアと3幕のジェラールのアリアは、私の好きなオペラアリアでも最上位に来るもので、カラオケでもあれば歌いたいくらいであることを、ここに申し沿えておきます。ははは~。

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2008年4月26日 (土)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 アシュケナージ

Nino_garden 実家の庭に咲いていた花。
なんて名前なのかしら?
わからないけれど、輪郭がとても美しい。

世間の一部では、ゴールデン・ウィークが始まった。
ターミナル駅はなかなかの混雑だった。
私はカレンダーどおり、というか、半分は普段片付かない事務処理や決算処理の予定。
いつもフラフラしているツケが、GWや年末にやってくるというもの。

Ashkenazy_rachmanunov2_2  今日はメロディアスな音楽が聴きたい。
しばらくラフマニノフの交響曲も聴いてないけれど、「のだめ」によるブレイクも、少し過去のこととなったことだし、あまりにも有名なピアノ協奏曲第2番を取り出してみた。
私にとっての「ラフ2」は、交響曲であって、協奏曲ではないけれど、ご多分にもれず、ラフマニノフはこの2番、そして3番の協奏曲から入門した。
その後、前奏曲や練習曲を聴いて、交響曲はその少しあとのこと。

また昔ばなしで恐縮だが、中学生の頃、大木正興氏司会のN響のテレビで視聴したのが初かもしれない。その時のピアノも指揮も誰か不明。中村紘子と岩城宏之だったかなぁ?
チャイコフスキーのロシアともまったく違う、連綿とした歌と、バリッとしたオーケストラの響きに驚いた。
そしてほどなく現れたレコードが、アシュケナージプレヴィンのもの。

Ashkenazy 当時、西側に亡命してからは、ロンドンレーベルの看板アーティストの一人として大活躍していて、リストやショパンなどで超越技巧と抒情を売り物にしていたように思う。
そのアシュケナージが、EMIから貸し出されたプレヴィンとロンドン響をバックにラフマニノフを録音したものだから、非常に話題となった。
冒頭から、すごい技巧が目立つ・・・などと宣伝されたものだったが、今思えばさほどのことではなく、というか、そうしたことに重点をおいていない演奏だった。

久方ぶりに、旧盤にあたるプレヴィン盤を聴いてみて驚きは、冒頭のピアノの出だし。
ポロロ~ンと、分散させて弾いている。新盤では、一般的な聴こえ方と同じく、ほとんど和音のように弾いているのに。
この冒頭からして、アシュケナージが曲に込めた思いとラフマニノフに同化してみせた祖国への思いのようなものを感じ取ることができ、全曲に渡っての特徴に思う。
1970年の録音当時、まだ33歳だった。若さが空転することもなく、技巧の冴えの中に、ラフマニノフの抒情とみずみずしさがにおい立つようだ。
プレヴィンの指揮は、EMIへの第2交響曲の録音の頃と同時期なだけに、スタイリッシュな中に、よく歌いこんだ洗練さを感じる。旋律の歌わせ方もビューティフルで、お堅い評論家は顔をしかめそうだが、私はこんな優しいプレヴィンのラフマニノフが大好きだ。
 2度と生まれえない、若々しいラフマニノフ。

Ashkenazy_rachmanunov2 1984年、アシュケナージは今度は、ハイティンクコンセルトヘボウとともに録音した。
48歳の壮年となり、指揮活動も軌道に乗り、活動の軸足がピアノから指揮に移りつつあった頃。

以前、アシュケナージのインタビューで、伴奏指揮者として最高の人は、プレヴィンとハイティンク、そしてオーマンディの名前を挙げていた。
うむ、なるほどと思っていたら、ハイティンクとの録音が次々になされるようになった。

ハイティンクのラフマニノフなんて、あとにも先にもこれ以外にないが、コンセルトヘボウとのコンビから想像されるとおりの、重厚で渋く、くすんだ響きが聴かれる。
重いだけでなく、しっとりと憂いも含んで、唸りをあげるかのような低弦、むせぶようなホルンが素晴らしい。
 アシュケナージのピアノは、先のとおり、旧盤に比べ、思い入れが少なくあっさりした分、余裕と時おり立ち止って考えるかのような含みのある響きを感じさせる。
ことさら、抒情が明滅する2楽章でそれを感じる。
旧盤と演奏時間は、ほとんど同じながら、落ち着きとコンセルトヘボウの柔らかな響きに包まれて、じっくりと遅く感じる。

旧盤のピアノの方が、繊細でかつ奔放さがあって好きだけれど、オーケストラはどちらも甲乙付け難い魅力を感じる。

オーケストラという楽器を手にしてしまった指揮者アュケナージは、日本の我々聴衆にとって非常に身近な存在ではあるけれど、私にとっては、指揮をするアシュケナージはかえって遠い存在に感じる。
小柄な体を振り絞って、大上段に構えてシュトラウスやマーラーを必死に振るけれど、その魅力は彼自身のピアノに遠く敵わない。
バレンボイムやエッシェンバッハのような、強烈さ、いい意味での毒がないのかも。
いい人すぎるんだよね。

Pic_main_lilacs もうひとつラフマニノフの話題。
今回ネットで発見。映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」というロシア産の映画が上演されているようだ。ラフマニノフに恋愛ってそぐわないようなイメージがあるけれど、きっとメランコリックな内容になっているのだろうな??
さすがに、オヤジ一人じゃ見れないので、どなたかレポートお願いします。

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2008年4月25日 (金)

ティペット 「我らが時代の子」 プレヴィン指揮

Hanamaki_sky東北、花巻あたりの空。
澄んだ空気が、だんだんと夜気にまじわってゆく。

こうした空の移ろい行くさまを眺めるのがとても好き。

ぼ~っとすることが、近頃の世の中では許されない。
いつも何かをしていなくてはならないし、情報に追われ追いかけられて過ごしている毎日。

空を眺めて、大好きな音楽を一日中聴いて過ごすのが夢だな・・・。

                       英国の作曲家の一人、Tippett_achild_of_our_time_previn サー・マイケル・ティペット(1905~1998)は、ブリテンより数年早くロンドンに生まれ、そのブリテンより20年以上も長命だった同世代作曲家。

やはり、ブリテンと同じくあらゆるジャンルにわたって作品を残し、オペラや声楽作品を中心に、ブリテンが書かなかった交響曲も4つ作曲した。
さらに、音楽には関係ないところでの共通点は、ブリテンと同じ恋愛思想を持つところと、潔癖なまでの平和主義者であるところ。
良心的兵役拒否者であるところも同じ。

でも、その音楽は、ブリテンが持つある意味親しみやすさとは遠く、むしろ難解でとっつき憎く思われる。
今後ティペットの音楽を、じっくりと聴いていきたいと思っている。

そんな中で、ティペットの最高傑作といえるのが、オラトリオ「我らが時代の子」
1942年、まさに戦争の真っ只中に完成。1944年にロンドンで、ワルター・ゲール(コンサートホール・レーベルで有名)の指揮により初演。

暗雲立ち込めるヨーロッパ、ユダヤ人迫害がドイツで目に見えてひどくなり、1938年、ポーランド系ユダヤ人の国外追放令が出され、それに怒りを覚えたパリ在住のポーランド系ユダヤ人の17歳のヘルシェル・グリンシュパンが、ドイツ大使館に潜入し、職員を射殺してしまう。
これに端を発し、ドイツでユダヤ人排斥が始まることとなった・・・・・。

この出来事を杞憂し、怒りを覚えたティペットは、詩人のT.S.エリオットに原作を書いてくれるように頼んだが、逆にアドヴァイスをもらいながら、自作のテキストを書くこととなった。
シンプルで、短い詩が簡潔に並べられているが、ティペットが考えた構成とその音楽は、あまりにも深いものがあって、その真摯なメッセージに聴き手の心は揺さぶられることとなる。
冒頭で合唱は、「世界は暗闇に突入した。冬の時代に」と歌う。

3部からなるオラトリオの構成は、ヘンデルの「メサイア」をモデルに、第1部では、マイノリティや異端者たちの不幸を歌い、第2部では、我らが時代の子、17歳の少年の思いが歌われる。そして、第3部では、終わることとない嘆きや悲しみを包む希望が感動的に歌われる。

さらに、ティペットは、バッハの受難曲のように曲をすすめる。
バリトン・ソロが、エヴァンゲリストとなり、テノールが少年、ソプラノがその母、バリトンとアルトが伯父と叔母、合唱が聴衆や参加者となる。
これらを紡ぐコラールの役割を、黒人霊歌が担っている。
この緻密な構成に感嘆するとともに、曲の節目や、各部の最後に黒人霊歌が歌われるとき、感動のあまり涙ぐんでしまうこととなる。

第2部で、母が少年を思い嘆くソロに泣かされ、そのあと静かに始まる霊歌「steal away・・・」の場面には心底感動した。
最後の場面では、有名な「deep liver」(深い河)が楚々と歌われ消えるように終わる。
そこに残るのは、救いと希望の光・・・・・。

     S:シーラ・アームストロング    A:フェリシティ・パーマー
     T:フィリップ・ラングリッジ     Br:ジョン・シャーリー=クワーク

    アンドレ・プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                     ブライトン音楽祭合唱団
                          (1986年録音)

プレヴィンロイヤル・フィル時代の録音は、プレヴィンの優しい眼差しに満ちた心に響く名演。合唱の扱いがうまいのも特質もので、柔らかさと慈愛の光を感じてしまう。
英国の名歌手たちも、素晴らしすぎ。ことに、ラングリッジとアームストロングのやりとりには泣けます。

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2008年4月24日 (木)

モーツァルト 交響曲第40番 アバド指揮

Hills 以前も貼った六本木ヒルズの花々。
豪華でちょいと賑やかにすぎるが、花は心休まる。
人工的に改良されたものもあろうが、自然の偉大さは、こんな美しい生き物をも生み出したこと。

 各地で、その心無い行いが報道されているが、人の心は乾き、殺伐としてしまったのだろうか?
ニュースを見れば連日、暗く嫌なことばかり。
ニュースの世界と思っていたことが、身の周りでも起きてしまう。
あぁ、息が詰まりそう・・・・・。

そんな日々にあって、自宅に帰り音楽を聴くことが何よりの癒し。
相変わらず、へなちょこベイスターズは負けちゃうし、そんな悲しい(?)気分を慰めてくれるモーツァルトが聴きたくなった。

Abbdo40 久しぶりに、アバドロンドン響を指揮した名盤、後期の2曲を収めたものから、40番ト短調交響を聴く。
1980年の録音で、もう28年も前になってしまった。
この頃のアバドは、スカラ座の音楽監督(翌年来日)、ロンドン響の主席、ウィーンフィルのパーマネントコンダクター、シカゴ響の主席客演、と引っ張りだこの大活躍だった。
アバドのレコードは、すべて購入していたから、即買ったLPだが、当時は何でロンドン響?
ウィーンフィルとなんで録音しないの?・・・・との思いで手にしたものだった。
しかし、ターンテーブルに乗せて、鳴り出した40番の冒頭を聴いたときに、ウィーンじゃなくてロンドンだった理由がとてもよくわかった。

極めて、楽譜重視。それを真っ直ぐ見つめて、余計な観念や思いを一切はさまずに素直に音にしたような演奏だったのだ。
甘い歌いまわしや、悲しさの強調、熱さなどとはまったく無縁。
古楽器やピリオド奏法が定着した今聴いても、その印象は変わらない。
こんなに素直な演奏をすっきりしなやかにやられたら、聴く我々の心も緩やかな気持ちにならざるを得ない。
深刻な短調のモーツァルトを、胸かき乱して聴く方からすれば、この冷静な演奏には歯がゆい思いをするであろう。
実際アバドとロンドン響は、あっけないくらいに客観的な場所にたって演奏しているかのように聴こえる。
この客観性が生む知的でバランスの取れた彫像のような佇まいが、おのずと語るドラマ。
良い音楽は、ナチュラルに演奏すれば、自らが輝く。
これこそがアバドの音楽性で、マーラーやワーグナー、ヴェルディ、新ウィーン楽派の音楽と共通したアプローチであると思う。

ちょっと評論家じみてしまったけれど、アバドを聴き続けて36年。
若い頃も、最近のルツェルンの演奏も、基本的にアプローチは変わらないのではないかと思う。さらに最近では、そうしたアバドに共感と奉仕に満ちた感情を抱く音楽家たちが、また異なる次元の高みへと、アバドの音楽を運んでいってくれるようになった。

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2008年4月23日 (水)

マーラー 交響曲第5番 カラヤン指揮

Hama_sutaあ~あ・・・・・・・、また負けちゃった。
勝てる気がしない今年のベイスターズ。
ついに、ここに記事にしなくてはならない悲しさ。
順調に負け星を重ね、現在4勝15敗。
ははは・・・、連勝ありません。
投手陣総崩れ、打っても残塁の山ばかりの貧弱打線。
平均年齢も高いし、若手が育たず、怪我ばかり。

毎シーズンのことで期待しないことに慣れていたつもりだが、今年ばかりはオープン戦からメロメロ。も~どーしょ~もない状態。例年、連休までは持つのになぁ。
どうも、私生活でも気分が乗らないのは野球のせい??

戦力の弱体ぶりは、誰が見てもあきらかなこと。
押さえのクルクルクルーンまで、大枚に目が眩んで去ったし、金がないから、ろくな補強も出来ない弱体ぶり。多チームの有力選手で贅沢オーダーを組む、金満・強奪の虚阪中との戦力格差は開くばかり。
野球界にも、格差社会は歴然とあったのだ
目指せ100敗、ベイスターズ

Karajan_mahler5

ベイのことを考え、前段の記事にしていたら、もう音楽なんて聴く気もしなくなってきた。

でもせっかくだし、連続カラヤンも悪くなかろうと思い、マーラー交響曲第5番を聴くことにしてみた。
実は、初めて聴くカラヤンの5番。

野球のことも頭に残り、入ってくる音楽を口当たりの良さとともに、ぼんやりと聴いてしまい、何の抵抗もなく、「うめぇもんだなぁ」とするすると3楽章までを終えた。

ところが、そんなダルな気分は、4楽章のアダージェットでもって打ち砕かれた。
カラヤンが自らの禁断を解いてやりたかったマーラー。初めて取り上げたマーラーは、この楽章がやりたかったのではなかったのではないかしら。
絶美ともいえる、ヴァイオリン。うなりをあげる低弦。バーンスタインの没我の境地とはかけ離れた、そこには、官能的ともいえる怪しいまでの響きがあった。
終楽章も、ベルリンフィルの名人芸を堪能しつつ、極めて純音楽的に壮麗なクライマックスが築きあげられて行く。
こちらの意識の問題もあったが、前半の3楽章は、カラヤンのレガート攻勢がかなり気になり、フォーカスが甘いように感じたが、後半はオーケストラ美と名人芸の極地をまったく楽しむことができた。

Karajan_mahler5_2 1973年の録音、国内盤はその2年後。
マーラー初挑戦ということで大いに話題になった。
あれから、33年も経つ。
マーラーの受容史も、今や歴史を帯びてきた。
ワルター、クレンペラーを経て、バーンスタイン。
ショルティ、ハイティンク、クーベリックそしてメータ、アバド、レヴァイン、テンシュテット、インバル、マゼール、ベルティーニ、小沢・・・・・。

現在にいたっては、多種多様の演奏スタイルが乱立し、私なんぞ、少々食傷ぎみ。

そんな時に、豪奢で、ビューティフルだが、陰りの少ないカラヤン盤が妙に新鮮に響いたものだ。

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2008年4月20日 (日)

R・シュトラウス 「影のない女」 カラヤン指揮

3静岡の居酒屋の名店「鹿島屋」にて、旬の「かつお」を食す。
「かつお」は大好物なのである。

肉厚の切り身は、食べ応え充分で、一口頬張れば、かつお特有のねっとりとした食感と、芳醇な味が楽しめる。
そして、そのあと純米酒を口に含めばもう・・・・・・・。

たまりませんなぁ。

Die_frau_ohne_schaten_karajan

先日、HMVをチェックしに覗いたら、長く見かけなかった、カラヤンR・シュトラウス「影のない女」が復活して店頭に並んでいた。
「かつお」とともに大好きなオペラ。
しかも3890円也と嬉しい価格。(後で調べたら、ネットでうまく買うともっと安い!)
そくレジに直行。ついでに、尾高&札響のエルガーも手にして。

カラヤンは、正規録音として「影のない女」を残すことがなかったから、このウィーンライブは唯一のものとなる。
シュトラウスを得意にしたカラヤンが、録音したオペラは、「サロメ」「ばらの騎士」「アリアドネ」の3作に、同じライブ音源の「エレクトラ」と「影のない女」と意外に少ない。
オーケストラ曲なら豪奢に聴かせることに長けたカラヤンが、シュトラウスの後半生を飾ったオペラ作品の大半に手を出さなかったのもわかるような気がする。
新古典主義的な簡潔さと、地中海的な明晰さ・晴朗さといった要素が支配的な後半生の様式が、カラヤンに合うようで合わない。
ベームやクラウス、サヴァリッシュらとの個性の違いで言いえることでもあろうか・・・。
私のかつてな思い込みかもしれない。ダフネやカプリッチョあたりをやっていたら、すごく面白かったに違いない。

なんてことを思いつつ聴いたこの「影のない女」。
シュトラウス生誕100年の記念公演でもった、1964年6月11日、ウィーン国立歌劇場での公演は、きしくもカラヤンが、ウィーンと決裂して分かれてしまう最後の上演の一環ともなったらしい。
以降、1977年の歴史的な復活まで、カラヤンはこの劇場のピットに姿をあらわすことがなくなった。
以降のカラヤンのオペラ上演は、ザルツブルク音楽祭と、手兵のベルリン・フィルを初めてピットに入れることとなった、1967年から始まるのザルツブルク復活祭が中心となる。

「魔笛」にも似た錯綜する筋と荒唐無稽のお伽話、長大な内容で、慣習的なカットも施されることが多いが、カラヤンはより簡潔に、舞台転換もスピーディにするかのように、さらなるカットをなしている。大きなものでは、2幕の3場と5場のバラクの家での二つの場面がひとつにされている。
これはちょっといただけないと思ったが、当時の上演体制では、やむを得ない処置なのだろうか・・・・。
そんなこともあって、1幕63分・2幕53分・3幕55分、と短めの演奏時間。

早めのテンポで全編さっそうと進められるのがカラヤンらしいが、思い切り歌われるバラク夫妻の愛情こもった音楽や、2幕のエンディングのすさまじいまでの、猛烈きわまりない興奮。3幕の、皇后の葛藤を描く緊張感。そして最後、夫婦愛を唱和する二組で迎える幕切れの高揚感には、こちらも涙ちょちょぎれ状態だ。
オペラ指揮者としてのカラヤンの実力を見せ付けられる。
 かなりライブな雰囲気に満ちているため、ちょこちょことミスもあるし、弦のウィーン風のポルタメントな弾き方が少し古さを感じる。カラヤンならもっと完璧であってしかるべきかもしれない。

  皇帝 :ジェス・トーマス       皇后 :レオニー・リザネック
  バラク:ヴァルター・ベリー      バラクの妻:クリスタ・ルートヴィヒ
  乳母 :グレイス・ホフマン      使者 :ヴァルター・クレッペル
  若い男:フィリッツ・ヴンダーリヒ  鷹の声ほか:ルチア・ポップ
  天の声:マルガリータ・リロヴァ

    ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
             演出:カラヤン
             舞台装置:ギュンター・シュナイダー・ジームセン
                       (1964.6.11)モノラル録音

このライブの聴き所は、カラヤンもさることながら、充実した歌手陣にある。
見ていてため息のでるような顔ぶれ。
トーマスの皇帝は、カイルベルト盤よりヒロイックで、弧高の悲しみに満ちた歌唱で、トーマスらしい気品がまた素晴らしい。キングとコロと並んで最高の皇帝だ!
ルートヴィヒのバラクの妻は、もしかしてこれが唯一の音源かもしれない。これがまた超素晴らしい。ドラマテックな歌唱を要求される難役だが、皇后以上に、世俗に悩まなくてはならないその苦しみを、圧倒的な歌唱力でもって歌いのけている。
私生活でも夫役のベリーの暖か味ある歌唱とも共通した、人間味豊かな歌に感銘。
ちょい役で、ヴンダーリヒや若いポップの歌が聴けるのも、カラヤン治世下におけるスター主義の贅沢。
リザネックの聴きようによっては、ささくれたような歌は、確かに部分的に荒く感じるが、さすが、皇后にかけてはほかに右に出る歌手も見当たらない、役にのめり込んだ迫真ぶりがよい。後のベームや実演で観たドホナーニのハンブルク来日公演となんら変わらぬ歌いぶりが、息の長い歌手であることを思わせる。
聴きどころの、影を拒む「Ich will nichit!」は、後年のものの方が感銘が深いように思った。

それにしても、シュトラウスのファンタジーと人間愛に溢れた音楽は素晴らしい。

 過去記事の自己リンク

 サヴァリッシュのCD
 ショルティのDVD&ドホナーニ/ハンブルク歌劇場来日公演
 「影のない女」幻想曲 スウィトナー

 

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2008年4月19日 (土)

オペラ・スター・チャリティ 

Chabatake 静岡県島田市あたりの茶畑。
お茶の本場では、ちょいと道をそれるとこんな光景が延々と続く。
これから緑がどんどん濃くなり、「夏も近づく八十八夜~」という世界になるわけね。

話かわって、今日土曜日、会社でお仕事をしていたら、夕方エレベーターを使わず、外階段をドタドタと昇り降りする数名の足音。
ん?と思っていたら、激しくドアをノックするじゃない。
事務所は休日もあって私ひとり。
ノックとともに、入ってきた人は「○○警察です!」・・・・・。え?!っとばかり、応対に出ると、下の階の会社に強盗が入ったという。バールで、ドアをこじ開けて、侵入しようとしたところ、セコムのアラームで逃げたらしい。ほんの30分ほど前のことらしく、大きな音を聴かなかったか?とか、今日は何時からいて、何をしてたか?とか聞かれた・・・・・・。
いやはや、一歩間違えれば、ワタクシ襲われてました!
一人だったので、インターネットラジオを流していたしので、人がいることがわかったのかもしらん。音楽に救われました!

Opera_star_charity

「音楽は人を救う」
ガン撲滅チャリティだったかと思うが、1976年頃に発売された「オペラ・スター・チャリティ」のレコード。
今、住む私の家ではLPが聴ける機器はないが、高校時代、出てすぐに購入し、飽くことなく擦り切れるくらいに聴いたもの。

DG傘下の演奏家達が、まさにチャリティでとっておきのオペラのアリアや序曲を録音した。

まさに、このLPだけのための録音がほとんどで、ここでしか聴けない演奏もあって、今では極めて貴重な音源になっている。

 ヴェルディ 「運命の力」序曲     カラヤン ベルリン・フィル
        「ドン・カルロ」 ロドリーゴの死  ドミンゴ(2役)、アバド ロンドン響
 ベルリーニ 「ベアトリーチェ・ディ・テンダ」   フレーニ、マシーニ ウィーン響
 モーツァルト「フィガロの結婚」序曲  アバド ウィーン・フィル
         「イドメネオ」        ホルヴェーク、デュトワ ロンドンフィル
         「コシ・ファン・トゥッテ」  プライ、ベーム ウィーン・フィル
 ヘンデル  「ベレニーチェ」      F=ディースカウ、リヒター ミュンヘン
 ビゼー    「カルメン」前奏曲とハバネラ ベルガンサ、クーベリック バイエルン
 ワーグナー 「ローエングリン」3幕前奏曲 ベーム ウィーン・フィル

Opera_star_charity1 Opera_star_charity2

こんな収録曲に、今なお魅力を感じる方が多いのではないだろうか。
カラヤンのヴェルディ序曲は、この曲が初録音。光彩陸離たる燦然たる演奏とフィルハーモニーザールの響きに驚愕した。
アバドの水も滴るドン・カルロとドミンゴのバリトンの素晴らしさ。
フレーニの耳も洗われるかのようなベルカント歌唱。アバドやベームのオペラテックな雰囲気。そしてなんといっても、クーベリックとベルガンサのみずみずしくも、生きのよいビゼー。

こんな美味しい音源、復活はその由来から難しいかもしれないけれど、もう一度いい状態で楽しんでみたいな!
そして、いつまでも音楽を楽しむには、健康注意だ。

 

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2008年4月18日 (金)

ブリテン ヴァイオリン協奏曲 ヴェンゲーロフ

Shiodome 汐留の日本テレビのあたりから、そびえ立つビルを望む。
左手の鉄の塊のようなミニュメントは、ハウルの動く城だそうな。

汐留は、かつては貨物線の駅があった広大なエリアで、私が社会人になった頃は、線路だらけで何もなかった場所。
というか、まったく記憶にない場所。
かつて、貨物線の汐留駅は、鉄道発祥の新橋駅だったらしい。
 今の新橋駅は、烏森駅だったそうな。

芝浦で打ち合わせがあり、浜松町駅へ向かわずに、汐留方面に歩いて行くことにした。
モノレールの下を歩き、ビルとビルを結ぶベストリアンデッキを通じて、汐留まではすぐだった。こんなにビルばっかり立っているけど、ちゃんと稼動してるのかね?
そんなことを思いつつ、こんな環境でお仕事をしている方々が羨ましいやらなんやら・・・・。

Britten_violin_concerto_2大荒れの関東地方、本日の演目は、お得意の英国音楽をば。
ブリテン(1913~1976)のヴァイオリン協奏曲
ブリテンの没年を見ると63歳で亡くなっている。
かなり広範に作品を残したから、もっと長生きをしていたかのイメージがある。
この前のメットライブの「ピーターグライムズ」で幕間に、オールドバラのブリテン財団が紹介され、その時の話では、ブリテンの正式に公開されている作品はまだ一部で、その数倍もの作品がまだ残されているという。
実に驚くべきこと。
そしてそれ以上にブリテンの天才にも感心。

このヴァイオリン協奏曲は、ブリテン26歳の1939年の作品で、ここに早熟の才も見てとれる。
平和主義者のブリテンが、第二次世界大戦の戦火が見えつつある頃に、スペイン市民戦争の最中に同地を訪れ、出会ったブローサというヴァイオリニストのために書いた。
ニューヨークで、そのブローサのソロにバルビローリ指揮するフィルハーモニックで初演されたのが1940年。

その背景には、人道と平和を希求するブリテンの気高い思いが込められていて、音楽には気品とともに熱い情熱や、哀感に満ちた歌が溢れ出ているように思える。
切れ目なく続く35分あまりの伝統的な3楽章形式。
1楽章は、バーバーの協奏曲を思わせるような親しみやすい旋律。
プロコフィエフのようなスケルツォ的2楽章は、スペインを思わせるようなリズム感が抜群。
終楽章は、古典を思わせるようなパッサカリアの形式を採用し、複雑きわまりない様相を呈するが、最後はまるでベルクの協奏曲のようにどんどんと澄み切った境地に上り詰めてゆき、浄化されたかのような静かなエンディングを迎える・・・・。
実に、素晴らしい音楽だ。

超越技巧のヴァイオリン・ソロと大規模なオーケストラを伴なう難曲でもあり、長くネグレクトされてきた。ここ数年、演奏会で頻繁に取り上げられるようになり、私も実演はまだだけれど、FM放送を通じ何種類かのライブを聴いてこの曲に開眼した次第。
この曲復活の立役者は、マキシム・ヴェンゲーロフであろう。
おそらくサヴァリッシュ最後の日本での指揮になったN響定期での鬼気迫る演奏に、大植英次とトロント響のFMライブなどで集中的に聴いたヴェンゲーロフのブリテン。
 軽々と自在なその演奏ぶりは、ブリテンの若書きの才気が乗り移ったかのようでありながら、冷静ですらあるところがすごい。
ロストロポーヴィチの指揮が、ヴェンゲーロフをしっかりサポートしつつ、朋友ブリテンへの熱い思いが感じられ、クールできっちりしていたサヴァリッシュと大きく異なる。

今後、若いヴァイオリニストたちがこぞって取り上げる名曲となるかもしれない。
五嶋みどりがフィラ管との来日公演で来月演奏するが、チケットがやたら高い。

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2008年4月16日 (水)

R・シュトラウス 「サロメ」 ラインスドルフ指揮

Peach Plim1

左が「桃の花」、右が「プラムの花」。
どちらもおいしい果実がなり、その花もあやしいまでの美しさだ。
晩春を彩る短い命か。

Salome_caballe 本来の旧約聖書上、「サロメ」は少女ということになっている。
オスカー・ワイルドの戯曲では、その少女は妖艶で淫蕩な性格となっているため、R・シュトラウスの楽劇でもそうした設定が音楽上なされていて、さらに何かに憑かれたかのような狂信ぶりも加味されているから、実におっかない女なのだ。

そのサロメ、重量級ドラマティック・ソプラノの難役だし、舞台では踊りも披露しなくてはならない。
かつてのサロメは、歌がすごければ舞台でも全然OKだったが、今や演技と風貌も伴なわなくてはならない時代となり、われわれの目も肥えてしまったもんだ。

そんな思いを抱きつつ聴いたのが、今日の「サロメ」。
なんと、「モンセラット・カバリエ」が歌っているラインスドルフ盤
これが聴きたくて購入した、「カバリエ・オリジナル・ジャケットコレクション」で15枚のCDがそれぞれ紙ジャケットに収められボックス化された。しかも激安。
懐かしいジャケットのオペラアリア集やスペイン歌曲、シュトラウス歌曲、ノルマ全曲など、これまで未CD化のものばかり。

   サロメ :モンセラット・カバリエ    ヨカナーン:シェリル・ミルンズ
   ヘロデ :リチャード・レヴィス     ヘロディアス:レジーナ・レズニック
   ナラボート:ジェイムズ・キング    ヘロディアスの小姓:ユリア・ハマリ
   
       エーリヒ・ラインスドルフ指揮 ロンドン交響楽団
                             (1968年6月録音)

オペラ好きなら、思わず唸るこのキャスト。
イタリアオペラばかりに思われるカバリエミルンズキングハマリがちょい役に。
ラインスドルフの指揮もシュトラウスは珍しく、ロンドン響のシュトラウス・オペラも他にあったかな?

聴いてみて、いずれも違和感なく堂に入った歌唱に満足の極み。
カバリエは、ベルカントものから徐々にドラマテックな役柄にレパートリーを広げていったように思われるけれど、若い頃からシュトラウスを得意にしていて、元帥夫人やサロメ、アリアドネ、アラベラなどをも歌っていた。
そう考えると、モーツァルトからワーグナー、ドニゼッティからプッチーニ、ベルリオーズからプーランク、独・伊・仏のすべてのレパートリーをものにしたカバリエのような歌手は他にいないのではなかろうか。
同じスペイン出身で考えると、知的な歌唱においても、後輩のドミンゴと同じことがいえるのではないだろうか
一重に、一時期のあの体型がイメージとしてのマイナス要素だったかもしれないし、彼女の実際の舞台で相当苦労を強いられていたはず。
私は、唯一の舞台体験として、NHKのイタリアオペラの「アドリアーナ・ルクヴルール」を観たが、あの巨大で無機質のNHKホールの隅々に響き渡るピアニシモの歌声は、カバリエをおいて他に見当たらない。見た目には、カバリエとコソットの強烈コンビに翻弄されるカレーラスが気の毒に思ったくらいだけれど。
 そのカバリエのサロメは、少女でもあり、妖婦でもあり、その声の芳醇かつ豊満なことといったらない。独語の子音の発音が弱いかもしれないが、その極めて幅のある歌唱は、豊かな肉体という共鳴体が生み出す、繊細な楽器へと化しているかのようだ。
重ったるい独系や、怜悧すぎる北欧系のサロメと比べ、透明感と肉惑が一体になった魅力的なサロメ歌唱ではないだろうか

マッチョなイメージのミルンズが歌うヨカナーンは、以外に真面目で、かつ大人しめ。
エコーがかかった声が、井戸から償還されると、力強いリアルな声での歌唱になるが、録音の魔術はあるとしても、その変幻ぶりが実にリアル。
豊麗で啓蒙的なミルンズの声は、サロメではないが、聴いていて快感をも覚える。
でも独語との違和感が強く、カバリエ同様、子音が引っ掛からない。なめらかにすぎる。

そんな中で、切羽つまったような、極めて贅沢なキングのナラヴォートが存在感溢れている。
録音当時はジークムント歌いとしてギンギンに鳴らしたヘルデン・テナーが振られ役の端役。この劇の第一声は、キングの「Salome~」で始まるから、この録音が極めて締まったものになったとも言える。

キングで聴きたかったヘロデのレヴィス。演技派の英国歌手は、そんな思いを吹き飛ばすような、めらめらした怪しげなヘロデを歌っている。
レズニックの憎たらしいヘロディアスや、若いハマリも存在感がすげぇことになってる。

発売当時は、イマイチの評価だったろうが、今聴けば全然OKの「サロメ」。
オケは巧いもんだが、ラインスドルフの指揮が時に無粋かつ無機質に感じ、情感と切れ味不足。それゆえか、最後の場面、特に死ねと言わんばかりの迫力はコワイ。
当時のRCAは、オペラはラインスドルフばかりだった。ウィーン生まれのマルチ指揮者。
意外にプッチーニ、ヴェルディなどがよかったし、ワーグナーはロマンテック系がよかった。
考えたら不思議指揮者、ラインスドルフ。

カバリエは後年、バーンスタインとサロメの一部を録音したが、この全曲盤と比べ、その老練さと指揮の雄弁さばかりが目立つが、旧盤の新鮮なサロメは、なかなかに聴けるものではない。

 「サロメ」過去記事自己リンク

  ショルティ指揮のCD
  新国立劇場公演

 

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2008年4月15日 (火)

ベルリオーズ 幻想交響曲 ハイティンク指揮

Roppongi_hills2_3曇り→雨→晴が短い周期で繰り替えされる毎日。
4月は、ただでさえ忙しいし、雨を思うと新調の服(私はここ数年なしだが、肉体は成長中)もなかなか取り出しにくいし、何を着ていいかわからない日々が続く。
春は気まぐれで、ややこしい。

六本木ヒルズのエントランスの花のデコレーション。
色のバリエーションは4種類くらいあった。金が掛かってますねぇ。

Symphonie_fantastique_haitink2 ベルリオーズの「幻想交響曲」を久しぶりに取り出してみよう。
かわいいフレンチ・ソプラノ、プティボンに浮かれてしまい、彼女の歌が心の大半を占めてしまうここ数日。
そんな日々に、一応フランス音楽のジャンルであろうベルリオーズを聴く気分に。

以前も記したけれど、私は「幻想」フェチでもあります。誰しもあるかもしれない、特定曲のフェチ。
広義では、ワーグナーや英国もの、アバドなんかがそうだけれど、曲に関しては、この「幻想」、「海」、「未完成」、「ロマンテック」、「フランク ニ短調」、「ラフマニノフ第2交響曲」、「エルガー1番」・・・・・。

かつて、毎日「幻想」を聴き続けたことがある。ほぼ1ヶ月。
家族からはクレームが相次ぎ、それを境に夜間はヘッドホン試聴に甘んずることとなったし、だんだんと夢まで見るようになった・・・・・。
ベルリオーズとワーグナーを交互に聴きまくると、精神は宙をさまよい、我がおつむは夢想にかられ、白馬の騎士を目指してドンキホーテさながらとなってしまうであろう。
そうならない良薬は、私にとっては、英国音楽であり、シュトラウスの洒脱なオペラの数々なのだ。

スコアを見ながらこの幻想を聴くと、ベートーヴェンやシューベルトのすぐ後に書かれたとは到底思えない音符の数とその氾濫ぶりに驚く。
オーケストラの各奏者ってこんなすごいのを弾いているんだとつくづく感心したもんだ。

そこに熱狂を吹き込むこともベルリオーズの演奏の典型だが、その楽譜をあるがままに交響曲としてのバランスと構成をしっかりと再現したのが、ハイティンクとウィーン・フィルの演奏だ。
79年、ハイティンクがウィーン・フィルと初めて録音をしたのも、この1枚。
それまで、何度も共演し、相思相愛の関係にあったコンビだが、契約の関係で実現しなかった。その後このコンビは、ブルックナーやブラームスの名録音をなし、日本にもやってきた。
オーケストラの個性を優先し、そこに乗りつつも、重心の低いがっちりした枠組をつくりあげ、柔らかな弦主体の歌心をその上に載せる。
そんなハイティンクの個性が、優美なウィーンフィルと見事に結びついた「幻想」に思う。

ゆったりと始まり夢を徐々に開示してゆく雰囲気の1楽章、ポルタメントを多用し、ウィンナワルツのような2楽章、ウィーンの管の音色の素晴らしさ満載で、かつ弦楽器の延々と続く伸びやかな歌が素適な3楽章。少しもうるさくない音楽的な4楽章。着実な歩みで、圧倒的なクライマックスを迎える終楽章。

数ある「幻想交響曲」のなかでも好きな1枚、ハイティンク盤である。

あと好きなのは、アバド、ミンコフスキ、モントゥー(ハンブルク盤)、ミュンシュ(新旧)、ミュンフン、ヤンソンス・・・・などなど。でもその他もすべていいなぁ~。

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2008年4月14日 (月)

パトリシア・プティボン その2

Petibon1 土曜に聴いた「パトリシア・プティボ」のお姿と歌がいまだに脳裏と耳にこびりついて離れない。
主催者が、全然OKとのことだったので、写真も撮らせていただいた。
 あるオジサンなんか、デジ一で正面から狙って動かない。
「あんたもやるねぇ」と思いつつ、横に並んでパシャリ。
 ちょっと赤目になったけど、イケメンピアニスト(ムーティ似)といっしょくたに撮れました。

Petibon2 横からの彼女。
白いふわふわのドレスに、グリーンのショールと同系のブーツ。
さりげなくも、かわいいお洒落は、さすがおフランスでございます。

インタビューの動画と、コンサートでも歌われたファリャとコープランドの曲がこちらで見れます。
ファッションについても語っているが、日本の街を行き交う人々を見て、例えば「白と黒」というような両極端のものを合わせるような発想をもった国民だと思い非常に興味をもっていると・・・。

純正フランス語は素晴らしい、言葉がもう音楽のようだもの。

DGの専属が決まり、ハーデイングとモーツァルトなどのアリアを録音し、秋には発売になるという。
次の来日がいつのことかは不明なれど、チケット入手が難しい歌手の一人になりそうね。

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2008年4月12日 (土)

パトリシア・プティボン ソプラノリサイタル

Petibon_2  初めて聴いて以来、私のアイドル的お気に入り歌手となった、「パトリシア・プティボン」の来日公演を聴く。
昨年の来日が流れ、今年、一番気持ちのいい季節にやってきてくれた。

昨年は、これまた念願の姉貴筋にあたる「ナタリー・デセイ」を聴くことができたから、二人の素敵なフランス・ソプラノがいながらにして味わえて、本当に幸せだ。

そのパトリシア、ナタリーの妹分なんてことを言ってらんない。
レパートリーが一部被るだけで、彼女は、ナタリーとは別の次元にあるユニークな存在の歌手だということを、今日は痛感させられた。

 アーン     「クロリスに」、「懐疑の人」、「葡萄摘みの3日間」
          「彼女の館のとりこになったとさ。」
 コープランド   歌曲集「アメリカの古い歌」第2集より
          「シオンの庭」、「小さな馬たち」、「チリガリン・チョウ」「河にて」
 ロザンタール 「フィド、フィド」、「動物園の年寄りラクダ」
 バーバー   「この輝ける夜に、きっと」
 アメリカ民謡 「私の愛する人は黒髪」
 プーランク   「ヴィオロン」、「愛の小径」

 コレ      「ラバ引きたちの人生」
 オブラドルス 「花嫁はおちびさん」
 トゥリーナ   「あなたの青い眼」
 ファリャ    「七つのスペイン民謡」より
           「ムーア人の布地」、「子守唄」
 モーツァルト 「フィガロの結婚」より
           バルバリーナのカヴァティーナ
           スザンナのアリア「早くおいで、美しい歓びよ」
 サティ     「ブロンズの彫像」、「ダフェネオ」
 アブルケル  「愛してる」

        ~アンコール~
 日本古謡   「さくら さくら」
 オッフェンバック 「ホフマン物語」よりオランピアのアリア
 カントルーブ  「オーベルヌの歌」より「羊飼いの娘よ、私を愛してるなら」
 ファリャ    「アストゥリアーナ」
 アブルケル  「愛してる」

      ソプラノ:パトリシア・プティボン
      ピアノ :マチェイ・ピクルスキ
                (4月12日@オペラシティ)


実に渋くも、魅力的なプログラム。
前半は、フランス、アメリカの曲を交互に。後半は、スペイン、フランス、ドイツで。
初聴きの曲ばかりだったけれど、最初のアーンの曲からもう惹かれっぱなし。
大きなホールでのリサイタルにちょっと不安だったが、バッハを思わせる清楚な音楽の第1曲目、パトリシアの第一声からして、その不安は消し飛んでしまった。

Pitibon  ソノリティの豊かさ、一音一音の粒立ちのよさ、歯切れのよさ、明晰な発声と発音、完璧なテクニック、以外や強い声、あふれ出る情感とユーモア、はじけとぶような才気・・・・。
もうどんな言葉を尽くしても語りきれない素晴らしさ。
加えてチャーミングで暖かな歌声があるものだから、誰をも魅了してしまうのは必然。
この来日で、パトリシアは、私のアイドルから日本中の音楽好きのアイドルになってしまったのではないかしら。
寂しくも嬉しいこの気持ち。世界を魅了する彼女。日本人がもっとも好む声質とステージマナーを兼ね備えているからなおのこと。
ホールは、最後は立ち上がっての歓声に包まれ、彼女は「アリガトウ」と投げキッス!
カワユイぞ!

このリサイタル、予想はしていたけれど、いろんな仕掛けやパフォーマンスが満載だった。
これに、ホールが一体となり、笑い、沸きにわいた。
少し詳しく紹介すると~
コープランドの「小さな馬たち」では、ウィンドチャイムやカスタネットなどを奏でながらの歌唱。次の「チンガリン・チョウ」では、陽気に足踏みをしながら舞台狭しと歌い、何故かイケメン風男性(日本人)が登場、彼はこれまたなかなかのイケメンピアニストにおもちゃのピストルで撃たれてしまうし、ピアニストはプティボンにクラッカーのピストルで撃たれる。
あとを、モップで掃除するユーモラスな彼女。
 オブラドルス「花嫁はおちびさん」では、達者な日本語による前置きがあった。
圧巻は「フィガロ」。
ホールの照明が落ち、舞台はピアニストの譜面を除き真っ暗。
緑色に光る野球のボールサイズの球体が転がり出てきて、それを拾い上げ持ちながら歌う。そのボール、青や黄、赤に変化する仕組みで、寂しさを歌うバルバリーナの心象をよく表わしていたのではなかろうか。
次のスザンナの結婚の歓びを待受ける健やかなアリアでは、お洒落な傘を持ちながら、そして傘に先ほどの光る球体を組み込んで思いを込めて歌った。
これには涙が出そうになった。なんて素適なスザンナなんどろう。
舞台は暗いまま、パトリシアのスザンナはそのまま舞台を下がっていった。
サティの2曲では、サイケなメガネをかけ、見世物小屋のしがなさを歌い、また大きな黒くて丸い付け鼻を付けたりはずしたりして、男女の会話を粋に歌ってみせたりもした。
 そして、最後は長い白い筒を持ちながらのアブルケルの「ジュテーム」。
Patricia_2 彼女のコロラトゥーラ炸裂の曲。舞台左右に動きまくり、筒をメガフォンに見立てて口に当てて歌ったり、客席に下りてきて、男性観客にちょっかいを出したり・・・。
ネクタイを引っ張られていた殿方がうらやましいぞ。私のほぼ斜め前。こんなことならネクタイしてくるんだった・・・・・。
それでもって、ジュテームの相手は、白い筒をするすると開くと、なんと「徳永英明」のポスターじゃないの!これには大受け。さらに、ピアニスト・マチェイ君、舞台袖から負けじとポスターを持ってきて広げると「柴咲コウ」だったものだから爆笑。

楽しいばかりでない。
アンコールでは、静謐な感が漂い観客を黙らせてしまった「さくらさくら」。
ビブラフォンを弾きながら歌う彼女。心に染み入る歌。
あらゆる歌に見せる適性の確かさ。おそらく彼女なら、日本の演歌も見事に歌ってしまうのではないかな!

普段馴染みのないアメリカの歌曲、バーバーや民謡での親密かつ心に響く情感豊かな歌には心底感動できた。コープランドの「河にて」も同様だったが、こりゃよく聴くと「たんたんたぬきの○○は・・・・」の歌でありました。
 さらにフランス語の響きの美しさ。
アーンやプーランク(とりわけ「愛の小径」の洒落た味わい)で聴く、パトリシアのフランス語には、我々日本人が逆立ちしても敵わないムードと情感に満ち満ちていた。
 
 
クリクリと動く眼、悪戯っぽい笑顔、元気なパフォーマンス、天性の歌うたいであり役者。
そんな彼女にまたメロメロになっちまったぜ。

Petibon2 終演後のサイン会は、パトリシア小吉ちゃんのすっかり虜と化した我々聴衆の長蛇の列にも終始笑顔で応対してくれた彼女。
「今度は、ツェルビネッタとゾフィーを聴かせて」と言おうと思ってたけれど、いざ彼女の前に立つと言葉が出てこない。だって、サインする前とした後に、にこやかに、こちらの顔を見つめてくれるのだもの。こんなドキドキしたの、おじさん久しぶりだよ~ん。
(ついでに言うと、イケメンピアニストも並んでサインしてたので、ついでに頂戴。このニイチャンにも見つめられてしもうた・・・・。要は二人とも、サービス精神旺盛なプロってこと)
写真も気軽に応じる気さくな彼女。
ずっとそのまま、ニュートラルで聡明であって欲しいな
今年、ベルクの「ルル」に挑戦するとのこと!!ジュネーヴに飛んでいきたい。

今回、ナタリーと同じく、romaniさんと並んで鑑賞。
同じ世代のお父さん同士、始終頷きっぱなし。今回もお世話になりました。

ナタリー&パトリシア、二人の共演を夢見て浮つくような足取りでホールをあとに。

プティボンのCD自己リンク
 「フレンチ・タッチ」
 「フランス・バロック・アリア」

 

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2008年4月 9日 (水)

ブラームス ピアノ五重奏曲 ポリーニ&イタリアSQ

Nihonnbashi_1 昨日の風雨で散ってしまう前の、日本橋界隈の桜。
普段歩いていても、足を止めることもない日本橋。
桜があると、立ち止って見上げたくなる。
花弁が、日本橋川に舞い流れている。

Nihonnbashi_3 Nihonnbashi_4 日本橋の上にかかる、あまりにも無粋な高速道路。
よく言われるように、東京オリンピックに合わせ、建設を急ぎ、川の上を通すことになった結果生まれたこの美しくない景色。
小泉元首相が、移設の検討を示唆したものの、それも今は昔の話となるのだろうか。
数千億もの費用の捻出は、昨今の騒ぎからして不可能に近い。
将来はともかく、どうなってしまうんだろ。

Brahms_klavierquintet_polliniブラームス31歳の作品、「ピアノ五重奏曲」。
苦行をにじませながら作曲したブラームスらしく、この曲は本来、数年前から「弦楽五重奏曲」として書かれ、そののち「2台のピアノのためのソナタ」に書き直され、そうした錯誤を経て、書きあらためられたのがこの「ピアノ五重奏曲」。
弦五がヨアヒムが、2台のピアノはクララ・シューマンが、それぞれイマイチと言ったことから、破棄または書き直しの運命をたどった。
 若いブラームスの苦労が偲ばれ、そうした経緯はまるでブルックナーと同じ。

ところが、残されたピアノ五重奏は苦労の末に行き着いたとはとうてい思えない完成の域にあることが驚きだし、20代で着想されたとは考えにくい渋さをまとっている。
憧れと情熱、緻密な構成と歌心に満ちた4楽章の長大な作品は、交響曲と互角に立ちそびえるブラームスの傑作。
出だしから熱い1楽章もいいが、私はいかにも思索する雰囲気に富んだほの暗い2楽章が好き。スケルツォ楽章をはさみ、序奏を持った終楽章は、徐々に熱気を帯びてゆき素晴らしいエンディングを迎える。

ポリーニイタリアSQの純正イタリアコンビが繰り出す明晰なブラームスは、アバドのブラームスとも通じるものがあるように思う。
晦渋さや陰りなどは、まったくなく、代わりにカッチリした揺るぎない構成感があって、見事な建築物や彫刻を思わせる。それは流麗なダ・ヴィンチではなくて、力強いミケランジェロ
のようだ。情緒に流されることのない、端正でかつ強靭な歌に身を任せるのもいいものだ。

             

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2008年4月 8日 (火)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 METライブビューイング

Bbtristanisolde_2 METライブビューイング、「トリスタンとイゾルデ」を観劇。@六本木ヒルズ。
18時30分から、2回の休憩をはさんで、終了は23時45分。
劇場だと、場内をぶらぶらしたり、軽く飲んだりするスペースもあって気が紛れるけれど、映画館だと長い休憩が手持ち無沙汰だ。館内では、メトのハウス内を固定カメラで録ったものが流されていて、我々がそうするように、オケピットを覗き込む人などが映されているものの、それをじっと眺めているのも退屈だし・・・・・・。
しょうがないから、白ワインを買ってきて持ち込み、それをミネラルウォーターで割ってチビチビ飲んで過すこととした。

Tristan_2250 毎回、一流歌手によるナビゲーション付がうれしいこのシリーズだが、今回は「スーザン・グラハム」。
理知的で聡明な彼女、ユーモアもたっぷりで、受ける歌手や劇場スタッフらの受け答えも洒落ていて楽しい。
この方は、メットのアシスタント・マネージャーの「サラ・ブリングハースト」で、世界中から歌手を集めたリ、発堀したりしているという。
興味深い内容だったから、長くなるけれど、今回は、本来ベン・ヘップナーが歌う予定であったが、病気で降板し、ベルリンにいた「ロバート・ディーン・スミス」を急遽、呼び寄せたという。
トリスタンをメットクラスで歌えるテノールは、世界に10人くらいしかいないし、どの歌手がどこで何をしているか、すべて把握していなくてはならいのだと。
 今では、リングがカザフスタンや中国、日本でも上演されるようになり、その回数が飛躍的に増えたが、歌手の状況はかわらない。
今はバリトンでも、数年したら立派なヘルデンになるかもしれないし、数年後も見据えて押えていかなくてはならないこと。端役から数年後には、ジークリンデが出てくるかもしれないし、若手の起用も行っていくとのこと。
 ドイツで、歌手の情報提供をしている協力者は、ワーグナーのひ孫エヴァ・ワーグナーだそうな。
こうした大劇場の裏舞台が覗けるのも、ライブビューイングの楽しさ。

  トリスタン:ロバート・ディーン・スミス  イゾルデ:デボラ・ヴォイト
  マルケ王:マッティ・サルミネン     ブランゲーネ:ミシェル・デ・ヤング
  クルヴェナール:アイケ・ウィレム・シュルテ

    ジェイムズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団
                     演出:ディーター・ドルン
                     (2008.3.22 メトロポリタン歌劇場)

Smithrobert_dean_lohengrin_02_2  今回のプロダクションは、数年前の「ディーター・ドルン」の演出によるもので、すでにDVDで出ているものと同じ(はず)。ヘップナーとイーグレンの巨大な恋人同士にレヴァインの指揮で、見た事はないけれど、重量攻勢に目をつぶって聴きたい映像・・・・。

そいいう意味では、今回、D・スミスに代ったことは大変にありがいことで、中肉中背のD・スミスとダイエットに成功したヴォイトの二人は、さほどのガッカリコンビにはなっていないところがよかった。
D・スミスは、時代考証ゆえか、後頭部にお団子のちょんまげを付けていて、見た目がまるで、千代の富士であったことを申し添えておこう。
3幕で、クルヴェナールの胸に倒れていた時、クルヴェナールの胸のバックルかなにかに、そのちょんまげが絡んでしまい、深刻にモノローグを歌いながらも、片手で必死にはずそうとしていた。それに気付いたシュルテのクルヴェナールが、こりゃイカン的な顔を一瞬して、手伝っていたのが実は笑えますた。
 大植英次のバイロイトデビュー時に、トリスタンデビューしたスミスは、なかなか立派なトリスタンになった。決して重い声でなく、力強いヘルデンというイメージでもないが、悲劇的な色合いをもったジークムント系の歌声にシビれる人は多いのではなかろうか。しぼり出すような声が賛否を呼ぶが、私は本人が無理をせずセーブしながら知的な歌い口なので良しとしている。
ジークフリートにはならない系のトリスタン。スミスのレパートリーは、ローエングリン、ジークムント、ヴァルター、最近タンホイザー、アルヴァーロ、レンスキー、シェニエ、グレーミン、皇帝(シュトラウス)など。

Tristan_2213a グラハムと「スージー」と「デビー」と呼び合う、アメリカーンなデヴォラ・ヴォイト
明るく楽しいキャラクターは、幕間でも予裕たっぷり。
そべての音域に余裕が感じられ、声量も豊かなドラマテックソプラノは、その歌唱も大らかでありながら、細部も完璧に歌いこんでいる。テクニックも万全でありがら、人間味豊かな声は、そのほのぼのとした雰囲気と相まって、怒れる人イゾルデというよりは、愛する人イゾルデの味わい。でも病的なまでの一途の盲目の愛ではなくて、女将さん的な、どんとこい的な雰囲気もあったことは事実。
素晴らしい声だけれど、もうすこし陰りや隈取りが欲しいところ。
W・マイヤーや、ステメらの欧州組との違いを、ポラスキなどと同じく感じてしまったがいかに。

昨秋のバレンボイムの公演でも聴いた、ミシェル・デ・ヤング(相変わらず大きい)の情感あふれるブランゲーネ、いい人まっさかりの、シュルテのクルヴェナール。
シュルテは、素晴らしい式武官として活躍したし、ベックメッサーとしても日本で聴くことができた名バリトン。
サルミネンの味わいあるマルケ王は、さすがに歳を感じさせた。もう30年近く歌っているベテランだ。

それ以上、35年に渡ってメットを本拠にするレヴァインも、さすがに風貌は年齢を感じさせる。そして、その巨体は苦しそうではあるけれど、出てくる音楽は重厚さとは異なる意味でのドラマテックでかつオペラテックなもの。弾むような豊かなリズム感もイキイキとした奥行きをドラマに与える。相変わらずのオペラ指揮者レヴァインだが、そろそろ職人芸を脱し、カリスマ感も欲しいかも。

映像を見たのに、演奏のことばかり。
演出については、語れるほど感じることができなかったから。
衣装や小道具は、ケルト風がリアルで、きめ細かく手が込んでいる。
1幕で、イゾルデが、「タントリスの物語」を歌う場面では、旅行箱の中から、船と人形を取り出すし、刃の欠けた剣も出したもんだ。
3幕のカレオールの廃墟では、まるでチェスやゲームのような戦士たちの模型が下からせりあがってきた。
こんな具象的なリアルさがある一方で、舞台装置は、極めて簡潔で、1幕の巨大な帆と、2幕の見張りの塔と箱のように小さく陳腐な厨風の部屋ぐらいしか目立つものはなかった。
 そんな中で一番効果的な存在は、全体にわたって背景をつとめた白いスクリーン状の幕。この幕が、人物の心象や出来事に応じて、いろいろなカラーに染まって舞台を支配していて、これが極めて印象的だった。
だから余計に、先の小道具の具象性が陳腐に感じられることに。
 さらに、この演出を大味にしていたのが、映像技術の饒舌さ。
マルチスクリーンを多用し、フェイドイン・アウトを繰返し、画面をいくつも分割し、舞台上の人物をそれぞれ映しだすなどの小手先の効果を狙いすぎた二次的な演出がなされた。
映像でクローズアップ画面を見ることじたいがそうではあるが、本来の実演舞台とは遠く離れた仕業に思った。
その映像担当監督は、動きが少なく、抽象的な内容が多いから・・・、などと語っていたが、ワーグナーにはそれを補ってあまりある音楽の雄弁さがあるのだから、そんな小手先の所業はそぐわないと思っている。

Hills47 こんな不満も抱きつつも、小さな炎を前に歌われた「愛の死」のヴォイトの歌唱に、涙を止めることができなかった。
アメリカ人歌手抜きでは、もはや考えられないワーグナー歌唱。
サルミネンとシュルテ以外は、すべて米国産。
ここに日中韓がまた入り込もうとしている。
エヴァ・ワーグナーの見立ては、間違いなくグローバルな視点に立っているようだ。

 「トリスタントイゾルデ」過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演

 

 

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2008年4月 7日 (月)

「ディズニー スペクタキュラー」 カンゼル指揮

002もう2週間前だけれど、子供に連れられ(?)念願のディズニー・シーにデビューを飾った。
卒業記念に友達と行く娘たちを引率する役目だったが、娘たちは、「ランド」に、息子と私は「シー」へと別行動。

「ディズニー・リゾート」の集客の課題は40~50台らしい。
子供が親離れしてしまう年代だし、本人達も夢を失いつつある世代だからね。

何故、念願・・・なのかというと、以前にも書いたが、「シー」ではお酒が飲めちゃうからなのであります。
アトラクションも激しいものは少ないし、どちらかというと水辺の外国の街の雰囲気を楽しむ感じだ。
030 ベネチアあり、ニューヨークあり、アラブあり、フィレンツェ風あり、インカあり、地底・海底あり・・・・。

ほんと、よく出来ている。

音の効果も素晴らしく、波止場ではカモメが鳴き、鐘が鳴っている。
そんな場所で、うららかな日差しを浴びてビールを飲んでしまうのだ。
大人(オヤジ)の、ディズニーの楽しみ方のひとつ。

疲れたり、寒くなったりしたら、海底の王国へ降りて行き、ほのかに湿った、まるで胎内のような中で居眠りをする。オヤジの休憩の取り方のひとつ。

003 小腹がすいたら、スペアリブやチキン、ホットドックなどを頬張ればいい。
散々歩いて、遅い昼食にブッフェスタイルのレストランで目移りするようなメニューを前に生ビールを。
オヤジよ、食べ過ぎ・飲み過ぎ注意だ。

どこからか、聴いたような音楽が・・・、おお、ドビュッシーの「海」じゃないか!
堪らんばい。
ということで、クラシック好きのオヤジも唸ってしまう仕掛けが。

Kuzel_disney

クラシック好きでも、かなり楽しめるディズニー系の1枚は、カンゼルとシンシナティ・ポップス「Disney Spectacular」。
もはやスタンダートとなった誰もが知ってるディズニーの名曲が大オーケストラで丁寧に演奏されていて、普通に素晴らしい。

「シンデレラ」「白雪姫」「ピノキオ」・・・、何ていい曲なんだろう。
私が子供の頃、毎週日曜にディズニーの番組が放送されていた。「ルーシー・ショー」や少しあとの「奥様は魔女」などとともに、アメリカのカッコよさを子供心に植え付けられたものだ。

横浜で「ばらの騎士」を観劇して、歳を重ねることの時間の経過に少しおののいてしまった翌日の「ディズニー」訪問。
006 どっこい、気分は若返り、夢の国に一日どっぷり浸らせていただいた。
まだまだ歳とるには早い。
「夢を忘れちゃあかんよ!」とミッキーも申しておりました。

バーバラ・ヘンドリックス sings DISNEY

マイ・フォトに「ディズニーシー」載せました。

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2008年4月 6日 (日)

ブラームス ドイツ・レクイエム シュナイト指揮

Schneidt_deutsches_requiem

4月3日は、ブラームスの命日だったそうな。
出張先の車の中で聴いたFM放送で知り、その放送では、ウラッハのクラリネット五重奏曲を流していた。
車を運転しながら、聴き入ってしまったけれど、あまりのロマンチックな泣きの演奏に、かえって辛い気分になってしまった。
名演だけれど、いま、このシテュエーションでは違うなって演奏ってある。
天に唾を吐くような思いだったが、ウラッハとウィーンの演奏は、まさにそう聴こえた。

ブラームスの音楽の聴き方が、曲にもよるがだんだんと変貌してきているように思う。
フルトヴェングラーやワルター、バーンスタインのようなロマン派的な演奏や、カラヤンのような響きを重視した演奏、ケンペ、ベーム、ザンデルリンクのようにカッチリした演奏。
これらも大いに好んで聴いているが、歌謡性もあってまろやかで豊かな詩情や歌に満ちたブラームスに、私は惹かれることが多い。

こんなことを長々と書いてきたのも、今日聴いたシュナイト師のドイツ・レクイエムがまさに、そうしたブラームスだったから。

         ブラームス    ドイツ・レクイエム

          S:平松英子    Br:トーマス・バウアー

    ハンス=マルティン・シュナイト指揮 シュナイト・バッハ管弦楽団
                          コンサートマスター:石田泰尚
                                                                      シュナイト・バッハ合唱団
                           (4月5日@オペラシティ)
   

Schneidt_deutsches_requiem2 昨年1月に、神奈川フィル定期で、シュナイト師のドイツ・レクイエムは聴いていて、その南ドイツ的な響きと精緻な音楽に感激したものだったが、今回はそれを上回る完成度で、75分あまり縛りつけられたように聴き入ることとなった。

こうした渋い演目となると、聴衆も心地よく眠りの境地へいざなわれてしまうもので、その対策としての飴やガムを口に運ぶガサガサ音が発生して気分を害してしまうのだが、今日はそれが皆無。
満席のホールの観衆は、宗教的な儀式に参列しているかのように、まんじりともせずに集中していた。
それゆえか、咳をする方が、やたら目立ってしまうことに・・・・。

この曲の試金石ともいえるような冒頭の静かな出だしから、慈しむような優しさに満ちていた。
そして、合唱がマタイ伝の一節「悲しんでいる人たちは幸いである・・・・・」と歌い始めると、もう私は感動で胸が一杯になってしまった。
ティンパニの痛打も全曲に渡って極めて印象的で、シュナイト師は、低音を時おり煽ったりして、充分響かせることに心を砕いていた。
第3曲のバリトンは、若いバウアー。この人の美しくも甘さをたたえた声は実に魅力的で、その誠実な歌は、宗教作品やリートにぴったり。
経歴をみると、レーゲンスブルクの聖歌隊の出身で、ここでシュナイト師との接点があったのであろう。
同じように、第5曲で清潔で天国的な歌声をホール一杯に響かせてくれた平松英子さんも、シュナイト師に師事したひとり。

このように、歌手も神奈川フィルが主体のオーケストラも、有志の合唱団も、すべてがシュナイト師を奉じて集まり、一丸となっていて、その絆というか、結びつきが作品の背景にある宗教心などをも越えてしまった音楽する喜びに到達していたように感じる。
それは、われわれ聴衆にも伝わってきて、こんな渋い音楽なのに、時おりブラームスらしい木管の優しい合いの手などを見つけては、微笑みさえ浮かべてしまう自分なのであった。

この作品のクライマックスであろう大規模なフーガを内包する、第3曲と第6曲が素晴らしかったのは当然として、優しさに満ちた第4曲と第5曲。
慰めに満ちた終曲。ハープのゆるやかなアルペッジョに伴なわれて静かに曲を閉じたとき、祈るようなシュナイト師の後姿を見つめながら、われわれ聴衆は拍手もなくじっと佇むのみであった。

「音楽の幸せ」ここに尽きる。

ライブ録音もなされていたので、そちらも楽しみ。
是非、多くの方に聴いていただきたい。

アフターコンサートは、新宿3丁目の素晴らしくも味わいゆたかな居酒屋の名店にご案内いただき、音楽の余韻を楽しみながら、おいしい酒と肴をいただきました。
みなさん、ありがとうございました。

 「ドイツ・レクイエム」自己リンク

 シュナイト/神奈川フィル
 尾高忠明/札幌交響楽団



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2008年4月 4日 (金)

「英国の四季」 マリナー指揮

Mtazuma 誰もが待ち受けていた春だけれど、紫外線はきつくなるし、最近の温暖化で穏やかなのも4月の初めくらいかな。
上着を着て歩いていると、汗ばむくらいで、すぐに恨めしい夏がやってくる。
先週末、神奈川に里帰りして「吾妻山」に行った。
1月から菜の花が咲き、まだ健在。
「桜」と「菜の花」と「海」が一緒に楽しめる素晴らしい場所。
何をやっても中途半端な町だけれど、この吾妻山公園だけは大正解。
前にも書いたかれど、麓の小学校が私の母校で、当時はこんな公園はもちろんなくて、ただ山と神社があるだけ。
山道も険しいものだったけれど、授業で始終登っていた。猿や蛇・マムシも出てくる本格的な山だったから、こんなところに来る人はまずいなかったな。昔ばなしになってしまう。
こんな絶景で、ビールを飲んでしまうのが贅沢の極み。
一昨年なんか、前の晩のカツオの刺身を持ってきて、焼酎のお湯割りを飲んじまった。

English_seasons1_2 日本の本州あたりの春は緩やかにやってきて、ジワジワと夏や梅雨という独特なシーズンに変貌してゆくが、イギリスはどうなのだろうか。
北海道のように、いきなりやって来て短い夏とともに走り去ってしまうものなのだろうか。
内容こそ違え、同じ島国として、明確な四季があって、その移り変わりの機微を楽しむ風潮はきっと同じではないかな。

イギリス音楽には、四季それぞれをテーマにした音楽が多い。
そんな音楽を1枚に収めた素適なアルバムが、サー・ネヴィル・マリナーの指揮したアカデミーによる「英国の四季」。

   ディーリアス      「春初めてのかっこうを聞いて」
   ブリッジ         狂詩曲「春のはじまり」
   フォールズ       「春~イングランド」
   ブリッジ         交響詩「夏」
   グレインジャー  「収穫の讃歌」
   バックス      交響詩「11月の森」
   ブリッジ      クリスマス舞曲「ロジャード・カヴァリー卿」

冬が手薄な選曲ながら、春が3曲も収まった今の季節向き。
大好きなディーリアスバックスは、耳に馴染んだ名曲だけれど、ブリッジのダイナミックな作品3曲がとてもいい。
これら3曲に「海」を収録したグローヴス盤を聴いているけれど、このマリナー盤は自然の抒情とダイナミズムが素晴らしい録音もあって自然にかもし出されている。
同じブリッジでも、はじけるような元気のいい「春のはじまり」よりは、「夏」の方が幻想的な抒情のまさっているところが英国的なところか。
さらに、冬の「クリスマス舞曲」では「蛍の光」が途中から響き出すところが印象的。
 フォールズやグレインジャーの曲も珍しい桂曲。
フォールズ(1860~1939)は、私もあまり知らない作曲家だが、マンチェスターのハレ管でチェリストとして活躍した人で、後に本格作曲家となった。
その音楽は、イギリスのコープランドのような民謡的な懐かしい旋律が満載で、楽しくもしみじみとした雰囲気。
 そして、オーストラリア生まれのグレインジャーは、それこそ各地の民謡を集めた人だが、とても親しみやすく、味わいがある。ガーディナーの指揮した合唱作品などは、子供時代のアルバムなどを見ながら聴くのに最適。

マリナーとアカデミーのコンビは、こうした曲だと無類の素晴らしさを発揮する。
バルビローリやビーチャムのような、思い入れや歌心はないかわりに、曲の真髄を過たずに掴んで何度でも楽しめる演奏を提供してくれる。
爽やかな思いに満たされる1枚。

Azuma_2 東海道線の駅と、これまた私の通った中学校。奥には、大磯ロングビーチ、さらに江ノ島までが眺望できる。

おっと、テレビで先日の二期会の「ワルキューレ」やってるわ。
今更ながら、小山さんのフリッカはすごいし、小森さんの言葉にかけた重みも実感。

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2008年4月 3日 (木)

R・シュトラウス 「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 マリナー指揮

Hama_neko 酒場の路地をさまよっていたら、どこからかネコの鳴き声がする。
さがしてみると、頭上、二階の屋根からこちらを見下ろしているじゃない。
フラッシュを炊いてパチリと撮ると、ご覧のようなまさに猫目(赤目?)。
結構笑える1枚になりましたよ。

Strauss R・シュトラウス・シリーズ、今日はあまりにも有名な「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を。
「ドン・ファン」「マクベス」「死と変容」に続く4作目の交響詩で、1895年の作。
オペラの分野では、まだ第1作の「グンドラム」を仕上げたばかりの31歳。
早熟なシュトラウスは、もうこの若さで、オーケストレーションの魔術師のような熟達ぶりだ。

副題は「昔のならず者の物語によるロンド形式の大オーケストラのための・・・・」となっている。
馬にのって暴れ、市場に飛び込んだり、小便を引っ掛けたり、女性をナンパしたりと、やりたい放題のティルは、最後死刑台の露と消える・・・。15分あまりの曲に、こうした出来事が音としてリアルに表現されている。
オーケストラ・ピースの1曲に過ぎない評価を与えられかねないが、じっくり聴くとオケは難しいことをいろいろとやっているし、精緻で細やかに書かれた名作に思える。

サー・ネヴィル・マリナーのR・シュトラウスなんて聴いているのは、私ぐらいかしらん。
イメージがそぐわないからかもしれないが、どうしてどうして、かなり本格的な名演なのだ。
というか、語り上手でもないし、濃厚なロマンもないし、華やかさもないのだけれど、スッキリと整然としたシュトラウスは、これらを聞き古した耳には、とても新鮮に響く。
かつて手兵であった、シュトットガルト放送響がまたスリムで機能的。
味のありすぎる演奏に飽きたら、こうした何気ない演奏で耳を掃除するのもいいもんだ。
この「ティル」や「ドン・ファン」もいいが、「カプリッチョ」前奏曲や「ばらの騎士」組曲がまた実によろしい。涙がでるほど粋な演奏。

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2008年4月 1日 (火)

ブリテン 「ピーター・グライムズ」 METライブビューイング

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英国音楽=UK・JAPAN2008
METライブビューイング
前から観にいきたいと思っていたが、なかなか機会を捻出できなかった。
だが、演目がブリテンの「ピーター・グライムズ」 となれば、なんとしても時間を作らなくてはならない。
ということで、今日朝からの上演に参加。
六本木ヒルズのTOHOシネマズにて。
10:30~14:00ということだが、実際の上演のタイムスケジュール通りに幕間の休憩があるから、その間に仕事のお電話もOK。

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さらに、毎回名歌手たちが作品や出演者のレポートを行なう。
今日はなんと、「ナタリー・デセイ」だったのだ。
チャーミングな彼女が、出演者・指揮者・演出家・舞台裏方などにインタビューをする。
こちらは、指揮のラニクルズ
知性とユーモアに溢れた彼女が、これでまた好きになった。
まさかこんなところでナタリーに逢えるなんて。

客の入りは、散々だったけれど、映画館のゆったりしたシートで、周りを気にせず思い切り楽しむことができた。

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 CDでは何度も聴いている名作だが、舞台というか映像では初めて。
予想通り、暗く救いのない舞台に仕上がっている。
演出のジョン・ドイルは、このオペラの舞台になった作者クラップの故郷オールドバラに似た漁師町ヘイスティングス生まれで、そこの暗く冷たい海や街を再現させているようだ。

舞台の真中に、床から天井までを埋め尽くす燻されたような木製の家々の壁。
そこに扉がいくつもあり、登場人物達が出入りしたり、姿をあらわしたりする。
最初から最後まで、ほぼ変わらないその光景。
息詰まるような閉塞感を与える。周囲から隔絶された村社会とその監視・密告という無言の掟。アウトローとしての「ピーター・グライムズ」を舞台すべてが追い込んで行くかのようで、映像を見ていてもその緊張感は、息が詰まるような思いだった。
ガラガラの映画館で、こんな暗くも切実な映像を見せられては堪らないだろう。

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 ブリテンお約束の少年も、見ていて胸が詰まるくらいに可哀想。おどおどとしていて、狂気に捕らわれたピーターに追い詰められてゆく。
ピーターが、このドラマの被害者でもあり、加害者でもあるのだが、完全に気の毒な被害者はこの少年だ。
彼の迫真にせまった演技は、涙が出そうになった。

以前ハイティンクのCDを取上げたおり感じたことを再褐。

いやはや、なんという暗澹たる内容であろうか!
弟子を少年に固執するピーターも、何だかブリテンしてるが、まるで「ヴォツェック」のように自らを疎外者として振舞ってしまい、そしてその通り社会からはじき出され、行くところまで行き着いてしまう。
 おまけに、こんなピーターを追い詰めてしまう、社会たる村人たち。事件後は、日常に回帰するだけの第三者だが、なんと恐ろしい加害者たちなのだろうか!

あらためて、ピーターとヴォツェックとの同質性と人のつくる社会の矛盾・恐怖を感じた。
3幕で、人々が無表情に動きを止めて、観客に向かってピーターの名前を激しく叫ぶ場面の緊迫感にはゾォ~としたもんだ。
その後の間奏と、狂乱のピーターが歌う場面は、まさにヴォツェックそのもの・・・・。
映画館で味わう、ブリテンの素晴らしい音楽。

 ピーター・グライムズ:アンソニー・ディーン・グリファー
 エレン:パトリシア・ラチェット 
 バルストロード:アンソニー・マイケルズ・ムーア

 
   ドナルド・ラニクルズ指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団/合唱団

                   演出:ジョン・ドイル

                         (2008.3.15 @MET)

グリファーは初めて見聞きする歌手だが、見た目は体格のいいブリン・ターフェルのよう。
でも繊細でクリアーな声は、神経質な役柄をも歌い出していて、その役柄に没頭した演技も見事なもの。
エレンの同情的な役柄を誠実に歌い演じたラチェットも素晴らしかった。
ほかの歌手たちも、まるで映画俳優のような役者ぶり。
そして、私が常々評価している左利き指揮者のラニクルズの豪放かつ共感豊かな指揮にも惹かれっぱなしだった。
世界中の映画館で見られることを前提にした一連のプロダクションであり、いずれはDVDとしても商業化されるであろう、あらたなオペラハウスの試み。
東京以外の各地のシネコンでも観劇することができ、クラシックの一極集中が避けられることで評価されると思う。
願わくは、客の入りは悪くとも、一過性の試みに終わって欲しくないことだ。

ナタリーが、語っていた。世界中のみなさんに見て欲しい。そして、生の歌とオケの迫力はまた格別なので、お近くのオペラハウスに是非行って欲しいと・・・・。
たしかに、生のオペラと映像とでは感銘の度合いが違うけれど、今の日本では映画によるオペラ布教も重要なことだな。今日も、若いカップルも見受けられてうれしかった。

Roppongi_hills1












さあ、来週は「トリスタンとイゾルデ」だ!
仕事サボろうか?終演が24時覚悟で夜、観るか?

ヒルズから見たミッドタウン方面。

自己リンク

「ピーター・グライムズ」ハイテンク指揮

「4つの海の間奏曲」 ラニクルズ指揮

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