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2008年4月24日 (木)

モーツァルト 交響曲第40番 アバド指揮

Hills 以前も貼った六本木ヒルズの花々。
豪華でちょいと賑やかにすぎるが、花は心休まる。
人工的に改良されたものもあろうが、自然の偉大さは、こんな美しい生き物をも生み出したこと。

 各地で、その心無い行いが報道されているが、人の心は乾き、殺伐としてしまったのだろうか?
ニュースを見れば連日、暗く嫌なことばかり。
ニュースの世界と思っていたことが、身の周りでも起きてしまう。
あぁ、息が詰まりそう・・・・・。

そんな日々にあって、自宅に帰り音楽を聴くことが何よりの癒し。
相変わらず、へなちょこベイスターズは負けちゃうし、そんな悲しい(?)気分を慰めてくれるモーツァルトが聴きたくなった。

Abbdo40 久しぶりに、アバドロンドン響を指揮した名盤、後期の2曲を収めたものから、40番ト短調交響を聴く。
1980年の録音で、もう28年も前になってしまった。
この頃のアバドは、スカラ座の音楽監督(翌年来日)、ロンドン響の主席、ウィーンフィルのパーマネントコンダクター、シカゴ響の主席客演、と引っ張りだこの大活躍だった。
アバドのレコードは、すべて購入していたから、即買ったLPだが、当時は何でロンドン響?
ウィーンフィルとなんで録音しないの?・・・・との思いで手にしたものだった。
しかし、ターンテーブルに乗せて、鳴り出した40番の冒頭を聴いたときに、ウィーンじゃなくてロンドンだった理由がとてもよくわかった。

極めて、楽譜重視。それを真っ直ぐ見つめて、余計な観念や思いを一切はさまずに素直に音にしたような演奏だったのだ。
甘い歌いまわしや、悲しさの強調、熱さなどとはまったく無縁。
古楽器やピリオド奏法が定着した今聴いても、その印象は変わらない。
こんなに素直な演奏をすっきりしなやかにやられたら、聴く我々の心も緩やかな気持ちにならざるを得ない。
深刻な短調のモーツァルトを、胸かき乱して聴く方からすれば、この冷静な演奏には歯がゆい思いをするであろう。
実際アバドとロンドン響は、あっけないくらいに客観的な場所にたって演奏しているかのように聴こえる。
この客観性が生む知的でバランスの取れた彫像のような佇まいが、おのずと語るドラマ。
良い音楽は、ナチュラルに演奏すれば、自らが輝く。
これこそがアバドの音楽性で、マーラーやワーグナー、ヴェルディ、新ウィーン楽派の音楽と共通したアプローチであると思う。

ちょっと評論家じみてしまったけれど、アバドを聴き続けて36年。
若い頃も、最近のルツェルンの演奏も、基本的にアプローチは変わらないのではないかと思う。さらに最近では、そうしたアバドに共感と奉仕に満ちた感情を抱く音楽家たちが、また異なる次元の高みへと、アバドの音楽を運んでいってくれるようになった。

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