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2008年6月

2008年6月29日 (日)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」② 二期会公演

Ariadne_nikikai

ダフルキャスト2演目めの二期会R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」を観劇。
シュトラウスのオペラを愛するものとして、ダフルキャストを組まれちゃったら、行かざるを得ない。
この冬の「ワルキューレ」も両方観たし。
歌手が異なることで、演出の意図や役柄の雰囲気が違ってくる。
大好きなワーグナーとシュトラウスだからこそやってしまう行為だけど。

新国は、シングルキャストで4~7公演やって、そのプロダクションの精度を高めて行くが、常設劇場を持たない二期会や藤原歌劇団は、海外で活躍する傘下の歌手達の国内での実績披露の場も確保しなくてはならない。
新国は外国勢が主役級を占めることが多いからなおさら。

これまで幾多の名歌手たちを生みだしてきた国内オペラ団と、経済的な不安の少ない新国との有機的なコラボレーションがさらに高まることを望みたいな。

そんなこんなだけれど、昨年の「ダフネ」に続き、同じ時期にR・シュトラウスを最高の布陣で上演してくれたこと事態が感謝感激。
関西二期会との競演は、甲乙付けがたく、その双方を楽しんだ次第であります。

    
    アリアドネ:横山恵子          バッカス:青栁素晴
    ツェルビネッタ:安井陽子       作曲家:小林由佳
    音楽教師:初鹿野 剛          舞踏教師:小原啓楼
    ハルレキン:萩原 潤         エコー  :谷原めぐみ
    執事長 :田辺とおる         ほか・・・

     ラルフ・ワイケルト 指揮 東京交響楽団
                 演出:鵜山 仁
                 (2008.6.27@東京文化会館)
 

P6070053 幕が開く前からオーケストラボックスに架けられた花道に、くたびれた犬のぬいぐるみが横たわっている。このワン公、かなりリアルで二期会のHPから拝借した画像。
執事長によって、汚いもののようにして取り去られてしまうが、オペラの最後で、アリアドネが自分のことを「洞窟で待つくたびれた雌犬」と歌うが、このあたりの伏線か。
この犬に代表されるように、ちょろちょろといろんな仕掛けが出てくるのだが、それらが透明・洒脱な「ナクソス島のアリアドネ」にどのように機能していたのか、正直わからなかったのが今回の演出。
Ariadnenaxos_c203_2  その執事長の田辺とおるさん、ドイツ語でまくし立てなくてはならない難しい役だが、見事にこなしていたし、指先の動きまでに演技のこもったプロの姿を見た思い。
舞台は、左右にお決まりのバルコニーを据えて、安っぽい照明や小道具が雑然と並ぶ。
燕尾服でお堅い作曲家チームと、悩ましいタイツ姿のツェルビネッタとお笑い芸人チーム、そして有り得ない衣装をまとったオペラ歌手チーム。見た目にも鮮やかな対比が。
ステージの両脇には、右に劇場のシート、左にベンチが並んでいて、後々の展開が予測される。
前回の谷口さんの作曲家がタカラジェンヌのような凛々しさがあったのに比べ、今回の小林さん、少し小柄でより女性的な雰囲気。明瞭な発声で、かなりよかったと思う。
ツェルビネッタが、作曲家に自分と同質の孤独を認め、二人、いい雰囲気になるのだが、前日の幸田さんの演技の方がかなり誘惑の度合いが濃かったように思ったし、作曲家の動揺ぶりも谷口さんの方がよく伝わってきた。この場面におけるシュトラウスの音楽の美しさといったらもう例えようがない!
 オペラ編の最後にツェルビネッタが舞台袖から登場し、この作品の本質ともいうべきセルフを歌うが、その時、幸田ツェルビネッタは、さりげなくシートで観劇する作曲家に触れて目を交わし舞台中央へ向かったが、安井ツェルビネッタは、ほぼ素通り。
このように、演出の枠の許容範囲の中で、歌手によってちょっとした違いもあるから、オペラは楽しいのだ。
 ちなみに、関西二期会では、この二人はバルコニーの上に仲良く顔を出したものだ。

Ariadnenaxos_c206 本編のオペラは、能狂言の舞台を思わせるような小ステージとついたて。そこには、まさに安っぽく枯淡の雰囲気ある岩山の絵が。岩戸や洞窟は省かれ、海は舞台仕掛けのみで、バッカスの船はおもちゃで、そこで人(道化たち)が遊んでいる。
具体的なもの、壮大なものは徹底して避け、完全な劇中劇としてのオペラを浮き彫りにしようとの意図。カーテンやカラフルな豆電球、クレーンに乗って姿を出したり引っ込んだりして滑稽ななりのバッカス。最後にむくむくと現れる岩もそれぞれ陳腐とも言える安装置にこだわったかのよう。アリアドネの糸もなし。
先にも書いたが、それらが全体として観てどうだったかは、今考えてみてもよくわからない。
アリアドネは、能の世界に住み表情を読めない。ニンフたちがやたらとまとわりつくのは、ちょっとどうかと思ったけれど、今回の3人のアンサンブルはとてもきれいなハーモニーを聴かせてくれた。
チャップリンやカトちゃんたち(ハルレキンたち)の愉快な歌やダンスにもニコリとしない。
客席のご婦人がたは大喜びだったけど。
佐々木アリアドネは、ツェルビネッタやお笑い芸人たちをともかく無視したが、横山アリアドネは、冷たく睨み返すのみ。
10分におよぶツェリビネッタのアリアでの退席は、歌を無視してツェルビネッタに背を向け花道を降りた。
さぁ、ここからが安井さんの極めて素晴らしかった歌の見せ所。
おもしろいように、コロラトゥーラが決まる。それとともに、客席もどんどん引き込まれてゆく。幸田さんよりも軽い声だが、より澄んでいて愛らしい。甲乙付け難い二人、新たなスターがまた生まれたようだ。彼女が拍手を一番集めていた。
 
バッカス登場で、能の襖絵は真中でふたつに割れ、カーテンの奥に怪しい姿が。
アリアドネの心が溶けたのであろう。表情も変わった。
そのバッカスが、やまあらし頭で、あちこちから、ぬぅーっと登場するものだから、笑いをこらえるのに困ったぞ。
Ariadnenaxos_c210 過度にベタベタしないアリアドネとバッカス。プロローグの登場人物たちが舞台両袖から現れ、腰を降ろし、舞台の行方を見守る。
最後に、ツェルビネッタが登場し、二人の横にたち、「新しい神(男)が愛を求めてやってくると、女たちは黙って身をゆるすもの・・・・」と歌う。
まさに、「コシ・ファン・トゥッテ」であります。
オペラ編のすべての登場人物たちが、その3人を囲み、和やかなムードで記念写真のように揃って幕となった。

横山さんのアリアドネ、佐々木さんの風格に負けず劣らずプリマ然とした気品ある歌声。
どちらもシュトラウスの歌唱としは最高。バッカスにより開放され、変化する様子がとても歌いこまれていた。
青栁さんのバッカスは、元気よく登場しなくてはならないのに、声の威力がいまひとつ。
声が素直でよすぎるので、もっとバカっぽいくらいの傲慢さがあってもよかったのでは。

ワイケルト指揮の東響は、前回はやはり硬かった。
音を押さえているのは、今回も同じだが、シュトラウスの千変万化する音楽を充分楽しむことが出来た。さらなる軽やかさも欲しいと思ったが、精緻さは出せても、日本のオケにはなかなか難しい領域ではなかろうか。

劇中劇に徹底してこだわった今回の演出。多くして語らない部分も多々あったと思うが、2日間、とても楽しんだ。
ダブルキャストそれぞれが、実力伯仲の見事な出来栄え。
シュトラウスのオペラにさらに魅せられてゆく自分であります。

画像は、「クラシック・ニュース」より拝借。

 

    

       

「ナクソスのアリアドネ」の過去記事

 6月26日 二期会公演

 関西二期会公演
 
 
サヴァリッシュとウィーンフィルによるCD

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2008年6月26日 (木)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」① 二期会公演

Ariadne_nikikai 二期会公演R・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」を観劇。
関西二期会の東京公演に続き、今年2本目。
同じ二期会グループなのに、まったく異なるプロダクションによる同一演目は、いかなる巡り会わせか不詳なれど、ドイツものに強い本家として、関西とどのように住み分けるのか、おおいに楽しみだった。

初見のメンバーながら、なかなか実力派ぞろいだった関西版。対する東京は日頃見聞きしている方々ばかりで、安心感もある。
ダフルキャストの2本目を観る予定だったが、佐々木典子さんと、なんといっても、幸田浩子さんが日に日に聴きたくてしょうがなくなってきた。
その思いを後押しして、チケットゲットに走らせたのは、幸田さんがDJ出演するFM放送。
「きままにクラシック」という番組で、笑福亭笑瓶との関西弁による楽しくお茶目でかつ知的な会話を運転中などに聞くにつけ、彼女のファンになってしもうた。
番組で、素人代表の笑瓶が、「ツェルビネッタってどんな役ですねん?」と聞くと、「キャッキャ系で、今回はちょっとお色気が・・・」発言に、即携帯ぴあ直行であった。
たんなるオジサン

     アリアドネ:佐々木典子        バッカス:高橋 淳
    ツェルビネッタ:幸田浩子       作曲家:谷口睦美
    音楽教師:加賀清孝          舞踏教師:大野光彦
    ハルレキン:青戸 知         エコー  :羽山弘子
    執事長 :田辺とおる         ほか・・・

     ラルフ・ワイケルト 指揮 東京交響楽団
                 演出:鵜山 仁
                    (2008.6.26@東京文化会館)

Ariadnenaxos_c107_2  舞台の様子は、また明日。
オーソドックスだった関西版に比べ、東京版は特に衣装やメイクが凝ったものだった。
まさにこの世のものらしからぬ3人のニンフたち、ライオンキング、はたまた、ごくせんの生徒かとも思わせたバッカスの頭髪。
ベティちゃんのようなツェルビネッタ。関西では正統イタリア系道化だったが、今回は、お笑い芸人勢ぞろい。
チャップリンにカトちゃんに、かぶりものあり、靴フェチありで、結構笑える。
全体として、明るく楽しいムードに満ちたアリアドネの舞台ではなかったろうか。

さて、注目の幸田さん。繊細で細やかな歌いぶりと、しっかりしたテクニックに裏付けられた軽やかなコロラトゥーラぶり。クセがなく、とても素直な声は誰もが好ましく思うはず。
小柄な容姿と、にこやかな笑顔は、アリアドネの中の狂言回し以上の存在感があった。
長大なアリアは、少しあぶなっかしいところがあったけれど、極めて素晴らしかった。
残念だったのは、というか、けしからんのは、アリアの最後のシュトラウスらしい洒落たエンディングを待たずに、まだ数フレーズ残っているのに拍手が始まってしまったこと。
これには、頭に来たので、しーッと言ってしもうた。
歌の素晴らしさに興奮したのも頷けるが、日本の聴衆もレヴェルも高まっているのだからこうした曲は是非とも予習もして欲しいもの。

Ariadnenaxos_c110 シュトラウス歌唱に関しては、ダブルの横山さんとならんで、随一と思う佐々木さんアリアドネも群をぬいていた。
ドイツ語のディクションの素晴らしさと、しなやかな歌声。すらっと伸びたプリマ然とした容姿。これで、彼女のシュトラウスは、ダナエにマルシャリンに続き3役目。
次ぎは、アラベラかカプリッチョあたりを観たいもの。

バッカスの高橋さん、彼の主役級は初めて聴いたが、その声量にびっくり。
性格テノール系かと思ってたけれど、どうしてどうして、かなりの力強さを伴なった美声で、あまり重くないワーグナー系諸役などよさそう。近くのご婦人が、カーテンコールで、「じゅんちゃ~ん」と声をあげておりました。

他の方々、でこぼこ道化衆やニンフ3人組(羽山さんのエコーきれい)、いずれも皆さん芸達者で文句なし。
中では谷口さんの真剣なる作曲家も姿よし声よしで、楽しみな存在というかファンなりそうなワタクシ。

Ariadnenaxos_c112 W・メストの前のチューリヒ・オペラを率いたラルフ・ワイケルトは、実績充分のオペラ指揮者。N響にも客演してワーグナーやチャイコフスキーを指揮していた。
ドイツもの一辺倒でもなく、ロッシーニも軽やかに振れる人だから、透明感あふれるシュトラウスの音楽を、極めて自然に東響から引き出していたように思う。
小編成のオケが前提ながら、音量はかなり押さえぎみ。ホールの違いはあるが、飯守/関西フィルの方がでかい音が出ていたかもしれない。
大きなホールで、複雑で繊細なシュトラウスの音楽をきれいに鳴らし、その上に声量のあまり豊富でない日本人歌手たちの歌声を響かせようとの指揮だったのかもしれない。
このあたりは、明日、異なる席でまた確認しよう。
 ただ、会場から舞台に登場人物が行き来できるように、ピットに一部ステージを架けたものだから、一部楽員は指揮がよく見えたのだろうか?音も、その影響があったのではなかろうか?

今日は、このへんで。
明日の別キャストで、再度シュトラウスの素晴らしい音楽に浸ることとしよう。
画像は、「クラシック・ニュース」より拝借。

「ナクソスのアリアドネ」の過去記事

 関西二期会公演
 
 
サヴァリッシュとウィーンフィルによるCD

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2008年6月24日 (火)

ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」組曲 アバド

A 霧に煙る東京タワー。
梅雨時の東京タワーは、夜間いつもこんなふうだ。
遅くなると、上部を消してしまうので、「3丁目の夕日」のような未完成東京タワーのように見える。

 

土曜には、完全消灯が実施された。
墨田の新タワー(名前は??)の兄貴分として、東京のシンボルとして、頑張って(何をどうやって?)欲しいもんだ。

 

 

 

Abbado_debussy_pelleas_suite

 

6月26日は、私の私淑するクラウディオ・アバドの誕生日。1933年生まれ、75歳を刻む今年。
何度も書いてきたことだけれど、72年、アバド30台の頃からずっと聴き続けてきて、もう36年あまり。
私が中高生、大学、社会人と歩み続けるとともに、アバドを常に聴いてきた。
そのアバドも、ウィーン、ロンドン、ミラノ、シカゴ、そしてベルリンと着実にステップアップしていった。
私のようなデコボコ人生に比べて、なんと順風万般な王道を行くエリートの歩み。
 でもアバドの人間性の素晴らしいところは、常に奢らず、謙虚で、ポストや名誉に拘らず、時にあっさりと投げ出してしまうところ。
そう、でしゃばらず、周りから推され自然に高みにいざなわれたとでも言おうか・・・。
そしてそれに、ちゃんと応える素晴らしい実績を残しているところが、天性の才能。

そのアバドが、ベルリン時代に癌に冒され再起も危ぶまれたとき、私らファンの心境たるやいかばかりのものだったろう!心無い人は、不謹慎なことを言うし。
病み上がりの体で、まるで執念のように集中力溢れた「トリスタンを、2000年には東京で演奏してくれた。
この時ほど、ひとりの人間の音楽にかける意気込みの凄まじさを感じ取ったことはない。
ピットを見ていて、もうお願いだから、そんなに頑張らないで・・・という気分にもなった。
 その後、ベルリンでのアバドは異常なまでの充実ぶりで、オケも必死になってアバドのために演奏しているのがヒシヒシと感じたものだ。
そして、ベルリンから、夢の実現のためにルツェルンへ。
そんな頑張るアバドに押されるように、会社をスピンアウトして飛び出してしまった私。
生きるか死ぬかの思いに、いつもアバドの音楽は私を励ましてくれるようだった。
2006年、アバドはアバドを慕う音楽家たちとともに来日した。
このルツェルンとのマーラーブルックナーは、生涯忘れ得ぬほどの感動をもたらしてくれ、我が人生にもなにかしらの転機をももたらしたかもしれない。
そして、さらにアバドは進化を続けているようだ。
私も負けていられないよ。

 

アバドの愛する作品のひとつに、ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」がある。
Abbado_pelleas スカラ座やウィーンで何回も上演し、ウィーンフィルとも素晴らしい録音を残してくれた。
より精妙なベルリンフィルとも上演して欲しかったが、ラインスドルフが編曲した、オーケストラ版組曲を98年に録音している。
約30分ほどの4部からなるこの組曲は、原作と同じく、強い音・フォルテの部分がほとんどなく、静的で精緻な音楽となっている。
それぞれ、5幕ある原作から前奏や間奏をうまくつなぎ合わせ、オペラのエッセンスが込められた桂作。
 病魔に冒されていたかもしれないアバド。そんなことは思いもよらないくらいの集中力と、歌心をもって、ドビュッシーのニュアンス豊かな音楽を極めて感度豊かに表現してゆく。
全曲を聴く時間のないときなどに、このCDは、その褐を満たしてくれる。
ベルリンフィルの豊麗なサウンドは、いつになく押さえられ、かなり渋いが響きは明晰。
そしてその響きに、トリスタンやパルシファル、ウェーベルンを聴くことができる。
 欲をいえば、言葉(歌)が欲しい。この作品に、フランス語のディクションは不可欠だから。あと蛇足ながら、あたしには、ぶどう酒だよ。

 

少し早いけれど、26&27日は二期会「アリアドネ」、28日は新国「ペレアス」があるので、アバドの誕生日を記念する記事をUPしました。
28日の若杉さんの「ペレアスとメリザンド」、とても楽しみ。
来年は「ヴォッェック」を上演するというから、若杉さんもワーグナー以降の音楽シーンを、アバドと同じような思いで見ているのだろう。

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2008年6月22日 (日)

ロッシーニ 「ラ・チェネレントラ」 アバド指揮

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  先週後半は、仙台~八戸~青森に出張。八戸から帰ることも出来たけれど、長時間の新幹線はツライ。
三沢空港は、いつも満席。
どうせ車だから、青森まで走らせ、青森空港を利用することに。
最終便までの間に、市内で寿司を食べても充分に間に合う。
詳細は、近日別館にてご案内。

もう、美味すぎ!
貴重品となりつつある「いか」。
コリコリで、甘い。菊を添えて食べればさらに甘い!

青森では、例の秋葉原のことが日々の話題だ。
お客さんのなかに、妹が同級だったとか、親父は○○銀行だとか・・・・。どこへ行っても、人の口は減らないもんだなぁ。

Abbado_cenerentora













ロッシーニ
(1792~1868)は、39ものオペラを書いたが、そのすべてはその生涯76歳の半ばである37歳までに書いてしまった。
その後の悠々自適ぶりは、皆さんご承知のとおり。
美食と料理の研究にあかした後半生、羨ましいやらもったいないやら・・・・・。

普段は、ロッシーニはあまり聴かない私。
唯一、アバド好きとして、アバドのものだけを聴く。
アバドはオペラ指揮者としては、ロッシーニやドニゼッティ、ベルリーニからそのキャリアをスタートさせている。
特にロッシーニは、何を振っても評価されない日本の評論家たちには、ストラヴィンスキーとともに絶賛された。
アルベルト・ゼッダの校訂を経た版を採用したその演奏は、当時とても新鮮で、この「チェネレントラ」と「セヴィリアの理髪師」は、既存盤を過去のものとしてしまう存在となった。

今でこそ当たり前となってしまったが、当時は打楽器が派手に鳴り、オーケストラも無用に厚く、厚化粧を施されたロッシーニ・・・・、ように思われた。
アバドを聴いてから、遡って過去演を聴いたから、順序は逆だけれど、アバドの演奏は、その厚化粧を取り去り、まるで風呂上りのようなサッパリとした風情が漂っている。
でもスッピンの味気なさではなくて、音楽の持つ色気や風情がニュートラルに表わされていて、新鮮かつ活き活きとしている。
いやピチピチとしていると言えようか。
明晰で、どこまでも清潔。まさに水を得た魚のようなアバドに、アバドを無能呼ばわりした評論筋は誰一人不平を唱えられない。
当時、ざまみろ!という心境だった。へへっ。

シャルル・ペローの有名なる原作「シンデレラ姫(灰かぶり姫)」。

第1幕
 時は18世紀イタリアの某所。
落ちぶれ貴族、ドン・マニーフィコの娘二人がはしゃぐなか、アンジェリーナ(チェネレントラ)は古い悲しい歌を歌っている。
彼女は、ドン・マニーフィコの後妻の娘で、今はいびられ、小間使いのようにされている。
しかも母の持参金も親父とその娘たちに使い果たされてしまった・・・・・。
 そこへ、王子の顧問アリドーロが、乞食に扮してやってくる。
姉たちは、追い返すが、チェネレントラは優しく食べ物などを与える。
王子が従者に変装して現れ、チェネエントラと一目、恋に落ちる。
 かたや、王子に変装した従者ダンディーニは、ドン・マニーフィコや二人の娘たちにちやほやされる。
チェネレントラは、先の従者会いたさに、城の舞踏会に行かせて欲しいとせがむが、ドン・マニーフィコに聞き入れられない。
偽王子の「3人いるはずの娘さんは?」との問いにも、死にましたとドン・マニーフィコ。
偽王子の気を引こうと躍起の二人の娘、そこへ先の乞食に扮したアリドーロの手助けで、宮殿に着飾って登場したチェネレントラ。

第2幕
 偽王子のダンディーニは、チェネレントラに結婚を申し込むが、彼女は従者を愛していると素直に断る。
そこへ、本物の王子が進み出て、結婚を申し込むが、チェネレントラは腕輪のひとつを渡してその場を走り去る。
ドン・マニーフィコは、偽王子に従者です、と身分を明かされ唖然と・・・。

 何事もおきず、元通りになってしまい嘆くチェネレントラ。
二人の姉がまた辛くあたる。
(この時期のオペラにつきものの、派手な嵐のシーン)
雨を避けて、王子とダンディーニが立ち寄る。
チェネレントラの腕輪を認め、よく見ようとする王子だが、あっちへ行ってろと意地悪親父が・・・。
さすがに王子は怒り一喝。
それでも、親や姉をとりなす心優しいチェンレントラ。

宮殿では、許されたドン・マニーフィコと姉たちを、抱擁してチェネレントラは歓びとともに、素晴らしいアリアを歌ってハッピーエンドで幕。

   ロッシーニ 歌劇「ラ・チェネレントラ」

     チェネレントラ:テレサ・ベルガンサ   
     王子ドン・ラミロ:ルイジ・アルヴァ

     ダンディーニ:レナート・カペッキ    
     ドン・マニーフィコ:パオロ・モンタルソロ

     クロリンダ :マルゲリータ・グリエルミ 
     ティスベ :ラウラ・ザンニーニ

     アリドーロ :ウーゴ・トラーマ

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                スコテッシュオペラ合唱団
          チェンバロ:テオドル・グシュルバウアー
              (1971.9 @エディンバラ)

先に書いたとおりのアバドのスマートな指揮に、ニュートラルなロンドン響が実にいい。
後年のウィーンフィルとのロッシーニでは、オケがはみ出してしまうこともあって、それもいいが、ロンドン響は、まさにアバドの手足となって、この粋な演奏の一躍を担っている。
両者のつくり出すロッシーニ・クレッシェンドは、極めて幅が広く唖然とするほど見事にきまる。

歌手は、今でこそ、バルトリという超絶歌手が出てしまったが、当時はベルガンサが随一の存在。
ちょっと大人びた風情と少しの色気が、とてもいい。装飾歌唱の自然さとその技巧も素晴らしい。
のちに、カルメンを歌うようになることが信じられない。
 ほかのベテラン歌手たちの芸達者ぶりも見事だが、ちょっと古臭く感じることも・・・・。
姉役のグリエルミは、クライバーのボエームのムゼッタだったな・・・。

Image_20200324183501

72年の発売時の広告。
ついに出た、アバドのオペラ、ロッシーニ!

レコード産業は、ピークを数年後に迎えつつあった。

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2008年6月21日 (土)

ベルリオーズ 「テ・デウム」 アバド指揮

Nagoya_tvtower 名古屋のテレビ塔。
栄近辺は名古屋らしい商業の街。
でも名駅周辺の相次ぐビルや商業施設の開発で、ビジネスや買物がそちらに流れ、少し変化したかも。

それでも、お得意の夜の繁華街「錦3」は、他の都市のそれに比べたら賑やかなものだ。

かつてのデザイン博で、おしゃれになった名古屋の街。
テレビ塔を背景にシュールな雰囲気。

Abbado_berlioz_te_deum 廃盤となって久しい、アバドの指揮するベルリオーの「テ・デウム」。
アバドのベルリオーズといえば、「幻想交響曲」ばかりが有名だけれど、録音はこちらの方が早く、レパートリーとして取り入れたのも、この曲の方が早かったのではないかしら。

ベルリオーズ(1803~1869)は、破天荒の人生や「幻想」の大音響のイメージがどうしても強い。
膨大なオーケストラ編成に、大合唱を伴なった作品が多いこともそうした印象が先行することにもなる。
オペラを含め、そのすべてをまだ聴き尽くしてはないが、このところ聴いていて思うのは、ベルリオーズの抒情性なのだ。
メンデルスゾーンやシューマンと同時期に活躍したベルリオーズの天才性は明らかだが、その輝かしい響きは、静かな部分があってこそ生きる。

テンパニ奏者10人、シンバル10等の膨大な打楽器とブラスを要する「レクイエム」も、表面上は賑々しいが、実は祈りに満ちたとても静かな音楽でもあると思う。
同様に、それほどの編成は要さないものの、オルガンと大合唱団を伴なう「テ・デウム」は、初演時950人もの大編成だったらしい。
あと50人で、マーラーじゃないか。
Abbado_berlioz_te_deum2  「テ・デウム」は、信仰の勝利と賛歌を扱った聖歌で、教会で演奏されることを念頭におきながら、天上の効果が聴く側に現れるような配置までも指示されている。
第2曲「すべての御使いも」では、クライマックスで3度鳴らされるシンバルが、極めて輝かしい効果をあげているし、第6曲「裁き主よして来たると」では、全曲の最後を飾るに相応しい壮麗なフーガが展開される。
 一方で、ブラームスのような渋い第3曲「主よ、我らを守りたまえ」や、テノール独唱の入る美しい第5曲「願わくは、尊き御血をもちて」などは、オペラアリアのように聴き応え充分。

   テノール:フランシスコ・アライサ オルガン:マルティン・ハーゼルベック
   合唱指揮:リチャード・ヒコックス

     クラウディオ・アバド指揮  ECユースオーケストラ
                     ロンドン交響合唱団、ロンドンフィル合唱団
                     少年合唱団多数
                       (81年聖オールバンス大聖堂)

アバド指揮する、若いオーケストラの面々の紡ぎ出すフレッシュで清冽な音は、ベルリオーズにとても相応しく、教会の豊かな響きを捉えた録音も素晴らしい。
いかにもアバドらしく、演奏効果に背を向けたような誠実で内面的な演奏。
アライサの声もいい。

Abbado_berlioz_te_deum アバドにはもうひとつ、10年後、92年の映像がある。
こちらは、復帰後のカレーラスを迎え、ウィーンフィルを指揮したもの。
壮麗さも押さえ、かなり大人の演奏で、キュッヘル、ヒンクら、懐かしい面々が勢ぞろい。旋律の細やかな歌わせ方などは、こちらの方が上だ。
シンバル奏者が5人もいてこれも見もの。

そして、アバドはこの5月のベルリンフィル定期に登場して、この曲を取り上げている。
フィルハーモニーザールの出火で、ヴァルトヴューネでの野外コンサートとなったらしいが、きっと映像や音源で確認できることであろう。
今のアバドであれば、きっと神々しい演奏になったはず。

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2008年6月19日 (木)

「KIRI SIDETRACKS」 キリ・テ・カナワ&プレヴィン

Manbow1 ずらりと並んだアイリッシュ・ウィスキー。
ウィスキーを飲むときは、必ずアイリッシュにこだわる。
甘味と、くせのあるヨード臭がたまらなく好きだ。

これまた大好きな英国音楽の分野でいうと、バックスやハゥエルズ、アイアランド、モーラン、バントックなどと通じる世界。

こちらの店は、もうだいぶ前だけれど、大阪キタの「MANBOU」。
マスターが、カードのマジシャンで、目の前でカード・マジックを展開してくれる。
酔ってるからわからないのか?酔ってるからやたら目が冴えるのか?
何度もチャレンジしてもわからない。困ったもんだ・・・・。
 (曽根崎新地1-2-6 新松リンデンビル)

Kiri_sidetracks さて、こちらはマジックでもなんでもない、本物。
ニュージーランド系マオリの血を引くエキゾテックな風貌のチャーミングな大ソプラノ「キリ・テ・カナワ」。
彼女が、ジャズのスタンダートナンバー歌ったアルバム。
ピアノは、その道(ジャズ、映画)の大家にして、大指揮者の「アンドレ・プレイン」。
マンデル・ロウレイ・ブラウンのギターとベースは、ジャズが好きな方なら、泣く子も黙る超ベテランらしい。

非ヨーロッパ系のディーヴァたちは、その広範なバックグランウンドもあって、本格クラシックにこだわらないジャンルにも手を染め、ジャズやミュージカル、映画音楽、ポップスにと、素適な歌唱を残している。
時代を考慮せず順不動に思い起せば、フォン・シュターデ、ヘンドリックス、ボニー、マクネアー、アップショーなどなど・・・・。
逆パターンで素晴らしいのが、バーバラ・ストライザンド!

キリのこのアルバム、真面目な彼女、音程をしっかりと押さえ、言葉も明晰、語尾まできれいに歌うオペラ的な歌唱。
われわれクラシック畑の聴き手からすれば、普通に思える歌いぶり。
本格ジャズ愛好家からすると、即興性が少なく、四角四面に聴こえるかもしれない。
でも、彼女のいわゆる「クリーミーボイス」は、オペラでは甘すぎて抵抗を感じてしまうケースがあるが、このアルバムではそこが、まさにちょうどいい落としどころとなっていて、極めて心地がいい。
その素適な彼女をサポートするクリアでまさにツボを押さえた、プレヴィンのピアノとそのバック。こんな素晴らしいピアノを聴いてしまうと、クラシックだジャズだ映画音楽だ、と言うことがバカらしくなってしまう。
それほどに、感興あふれた音楽的なピアノなんだ。
モーツァルトを弾くように、ラフマニノフを指揮するように。
そこには何の隔てもなく、純粋に音楽を楽しむプレヴィンの姿を見ることができる。

全15曲、有名な曲や聴いたこともない曲などがたっぷりとおさめられた1枚。
とりわけ気にいった曲は、「Like Someone in Love」、「枯葉」、「It never was You」(K・ワイルの曲)、「いそしぎ」(ああ、アンディ・ウィリアムスが懐かしい・・・)、「Its easy to remember」(映画ミシシッピー)

あぁ、歌の世界ってなんて素晴らしいんだろうか!
でも、この手のアルバムは、飲み過ぎ注意だ・・・・・・・。

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2008年6月17日 (火)

東京都交響楽団演奏会 ワトキンス指揮

Tmso イギリスの若手指揮者 ワトキンス指揮の東京都交響楽団の定期演奏会を聴く。
会員でもなんでもない私、都響は何年ぶりかのお久しぶり状態。

そう、狙いはエルガー(ペイン版)交響曲第3番
尾高さんの演奏を逃してしまったから、生で聴くのは当然初めて。


そして! 極めて素晴らしかった!
普段、この曲をCDで聴いているのと格段に違うライブな臨場感が溢れ、眼前で手に取るように展開されるオーケストラに目を奪われっぱなしだった。
P席での鑑賞だったためであるが、「ここでこんなことを」、とか「こんな風に弾いてるんだ・・」とかの思いで満たされていたわけ。

      シューマン         ピアノ協奏曲
                  
                 Pf:中野翔太

      エルガー(A・ペイン版) 交響曲第3番 

       ポール・ワトキンス指揮 東京都交響楽団
                       (6.17@サントリーホール)

このところ、シューマンとエルガーばかり。
期せずして、その二人の作品の組合せの一夜。
シューマンの独奏は、若い中野クン。
冒頭は、ピアノもオケも噛みあわず、この指揮者、大丈夫かな・・と思わせるくらい。
1楽章後半から、徐々に音楽が響き出し、3楽章は実にフレッシュで活き活きとした演奏となった。ところが、3楽章で、ピアノが完全に落っこちてしまった・・・。
気を取り直して、なんとか曲を閉じたが、ちょっと後味が悪いかな。
この指揮者の振り方が見ていて拍子の打点がわかりにくい。
でもS・オラモ似の写真と違って、正面から見ていると、ときおりMr.ビーンのような顔をする。そういえば、ビーン氏はローワン・アトキンソンと、紛らわしいお名前。
イギリス室内管の准指揮者らしく、実力派で、顔はともかく、今後活躍する予感。

でもエルガーでは、そんな指揮ぶりが全然問題なく、大きな枠組みを築きつつ、3番の交響曲が持つ壮大さをとてもよく引き出していたように思う。
1楽章は、早めでこだわりなく進む様子に、じっくり型の尾高さんの演奏との違いに戸惑いつつも、その流れのよさにすっかり乗せられてしまった。
その冒頭の第1主題は、前記事の「使徒たち」で書いたとおり、イエスの受難や復活を描いたオラトリオ3部作の、未完の「最後の審判」のモティーフだという。
 さすがに、その大作はペインさんも補完できないだろうなぁ。

2楽章の憂愁のスケルッオ、弱音器を着けたトランペットのソロがとても印象的。
打楽器が活躍するさまも、後ろから拝見していると、とても面白い。
都響のきめ細やかなアンサンブルが見事だった。
圧巻は続く二つの楽章。
「惑星」の「土星」を思わせる沈鬱かつ重々しい雰囲気を、エルガーの緩徐楽章らしい熱く高貴な抒情が打ち払う。ビオラにハープにオーボエにと、オケの動きに目が離せない。
ワトキンス氏の熱のこもった指揮は、オケをだんだんと熱くしていく。
そして、CDではとって付けたように感じる終楽章は、大交響曲の最後を飾る座りのいい音楽として鳴り響いた。
打楽器の大活躍は相変わらずであるが、全曲に渡って多用される、エルガーの特徴である上昇音型が見事に決まってゆく。
リズミカルで親しみやすい音楽に聴衆もついに引き込まれていくような雰囲気だった。
最後は急速に速度を落とし、ドラの音とともに静かに曲を閉じるわけであるが、もうひとつのエルガーの常套である、冒頭主要主題の回顧(ヴァイオリンでさりげなく現れる)を見事に決めてくれた。
 曲を閉じて、指揮棒を抱え込むようにしたワトキンス。
未知の曲の方もおられるであろうが、エンディングの余韻をじっくりと味わうことができた。

会心のワトキンス氏、かなりのブラボーも飛び、最後は、エルガー=ペインのスコアを高く掲げ歓声に応えた。

プログラム解説には、マーラー10番や、未完成、ルルやトゥーランドットといった補筆完成版のことが書かれていて、クック版マーラー10番が、たどった成功の道を、このエルガー=ペインもたどることができるであろうか・・・あなたの判断は? とある。
 私は、これまで、大好きなエルガーの交響曲がもう1曲増えたことを素直に喜んできたが、今回のライブ経験で、一歩踏み出し、札響・大フィルなど日本のオケが普通に名演をくりだすようになった、エルガーの名曲のひとつとして、認知いたします。はい。

11月には、尾高/札響が札幌定期で演奏したあと、恒例の東京公演でも演奏しますぞ!

  エルガー 交響曲第3番の過去記事

 コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団のCD
 尾高忠明指揮 札幌交響楽団のCD
 

   

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2008年6月15日 (日)

エルガー 「使徒たち」 ヒコックス指揮

Tomioka_church 小樽の富岡教会。
マリア像が楚々と立つ。

幼稚園も併設され、キリスト教の教えを日本ながらに子供たちに植え付けてきたであろう。
季節の花が飾られ、とても清潔で、心洗われる趣きに溢れていた。

極めて大昔のはなし。
私の幼稚園もカトリック系で、海辺にあって砂浜まですぐだった。
クリスマスには、宗教劇が行なわれた。児童が演劇するのだが、私はいつもイエスをあがめる乞食の役だった。くじ運が悪いのか何なのか・・・・。風呂敷をかぶり、東方の博士とともに、馬小屋に向かう役だった(と思う)。ゲームはもちろん、テレビはモノクロの時代。
子供の心を豊かに育む想像力や素朴な環境、純真な心情やに満ちていた時代・・・・・。

Elgar_aposteles

そんな思いとともに、今日はエルガーのオラトリオ「使徒たち」(アポステルズ)を。
エルガーが一躍人気作曲家になったのは、「エニグマ変奏曲」(1899年)からだが、それ以前にも、「生命の光」「オラフ王」「カラクタクス」「黒騎士」などの声楽作品があって、それらも徐々に聴き始めたところ。
これらの声楽作品を仕上げたあとは、活動を少しお休みしたりしたあとの、エニグマ、そして「ゲロンティウス」とくる。

1902年に、バイロイトに赴き、「リング」と「パルシファル」を観たことで、エルガーはオラトリオの3部作を作曲することを決心したらしい。
その第1作が「使徒たち」、第2がすでに取り上げた「神の国」、第3は「最後の審判」になる予定が作曲はされず、3部作構想は挫折してしまった・・・・。
その後、交響作品へ作曲の舵を大きく切り、解説によれば「最後の審判」のスケッチは、これまた未完の第3交響曲に見出すことができるとある・・・。
このところやたらと聴くこととなった、ペイン版第3交響曲もそうした思いで聴けばまた格別かもしれない。(6月17日都響予定)

この「使徒たち」で、エルガーは、イエスの受難をマグダラのマリア、弟子たちを交えて描いている。いわば、エルガーの受難曲。
全曲で2時間以上の大作は、1部と2部とに分かれている。
 
 第1部
  ①使徒たちを呼ぶわん
  ②路傍にて
  ③ガリラヤ湖にて
 第2部
  ①裏切り
  ②ゴルゴタ
  ③墓
  ④昇天

このようなタイトルに、宗教じみていてたじろぐ方もいるかもしれないが、マタイを中心とした聖書の記述を順に追ったドラマは、対訳なしに、詳細不明の英語の歌詞を見ながら聴いてもなかなかに楽しめるものだ。

 第1部では、イエスの奇蹟や言葉、マグダラのマリア悲しみとその救いを。
冒頭は、交響曲第1番のように、ティンパニと低弦で始まる。
「Spirit of the Lord」の主題が優しく高貴なムードで始まる。そして次の「悲しみの人々(man of sorrow)の主題。このふたつが全曲に繰返し出てくる。
いずれもエルガーらしい気品と感動に満ちた素晴らしい旋律。
次作「神の国」もそうだが、いくつかの主要旋律をしっかり覚えて聴けば、後の方になるとそうした旋律がいろいろに姿を変えてあわられるので、繰返し聴けばとても親しみのある大作になるのだ。そして、その音楽が自分に語り始める時がきっとくる。そのときの感動は例えようもなく大きいものになる。
エルガーの音楽は、そんな風に聴いている。

第2部は、まさにユダによる裏切り行為(対価である金貨を表わすかのキラキラした音楽まで鳴っている)とイエスの捕縛、ペテロの否認、ユダの後悔と逃亡。
十字架上のイエスでは、深遠な雰囲気で、イエスの言葉「エリ エリ レマ サバクタニ」はオケで重々しく表現される。
そして、最後の昇天では、使徒たちの前に再び現れ、伝道命令を行なうイエス。
「あらゆる国々に行って伝えなさい・・・・・、見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
使徒とマリアたちは、アレルヤを繰り返す神秘の合唱とともに、イエスと神を称えつつ、盛りあがり、聴く私を最高の感動の頂きに導いてゆく。このところ、毎日泣いているが、ここでも涙が止まらない。そして、徐々に静かに波が引いてゆくかのように曲を閉じる。

 天使ガブリエル:アリソン・ハーガソン マグダラのマリア:アルフレーダ・ホジソン
 ヨハネ :デイヴィッド・レンドール    ペテロ  :ブリン・ターフェル
 イエス :ステファン・ロバーツ      ユダ   :ロバート・ロイド

    リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団/合唱団

若きターフェルは、後年のクセがなくすっきり。ロイドの深々としたバスに聴く苦渋。
無垢なハーガソンのソプラノに、ホジソンの素晴らしいアルトの深みある声。
イギリス系の明るいバリトンのイエスは、後光が差すかのような声だし、ややオペラがかったレンドールもいい。
実力派歌手たちに、合唱のすごいウマさ。
それを束ねるヒコックスの手腕には毎度脱帽で、まとまりのよさを活かしつつ、声高に叫ばず、じわじわと全曲のクライマックスへ盛上げてゆく。

あとひとつ、ボールトの神々しい演奏も忘れ難い。
大友さん、もう一回やってくれないものだろうかなぁ??

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2008年6月14日 (土)

ヴェルディ 「椿姫」 ラ・トラヴィアータ 新国立歌劇場

今朝、東北地方を襲った地震。まだ不明の方もおられ、心配は尽きないが心からお見舞い申し上げます。
こんな時にオペラというのも不謹慎ながら・・・・。

Traviata 故水野さんではないけれど、いやぁ~、オペラってほんとにいいもんですね

そんな言葉が思わず言いたくなる。


新国立歌劇場、今シーズン最後の公演、ヴェルディ椿姫を観劇。
椿姫と呼ぶよりは、トラヴィアータと呼んだ方が好きだから、そうします。  実は、ドイツものばかりで、若い頃に夢中になったヴェルディから少し遠ざかっていた私にとって、苦手なオペラのひとつで、いまさら、トラヴィアータでもないだろう、とたかをくくっていた。
何故苦手か?
まずは、台本が弱いのか、登場人物達の描かれかたが浅い。気の毒なのは、ヴィオレッタひとりだけで、浅はかなジェルモン親子に翻弄されっぱなしなのだ。
もう少し親子の心理描写などが深く描かれていれば・・・。
それに付随して、ヴィオレッタに与えられたアリアとメロディは最高だけど、親子のノーテンキなアリアとのギャップが大きい。
あと、ジプシーの歌と闘牛士の歌の居心地の悪さ。

のっけから、こんなこと書いちゃって、このオペラのファンに叱られそうだけど、今日の新国で涙ちょちょぎらしてたのは、どこのどいつだいアタシだよ

やはり、舞台で観るとあれやこれは、感じなくなる。なんといっても、泉のように溢れ出すヴェルディの音楽の素晴らしさ。
加えて、アバドのスカラ座時代を支えた演出家の一人、ロンコーニの重厚かつ的確な演出と、3人の優れた主役達に、上岡ワールドともよぶべきユニークなオーケストラ。

Ki_20001171_1 3度目のプロダクションらしいが、初見。というか、わたくしトラヴィアータ・生デビューなんです。古い人間なものだから、NHKイタリアオペラの73年公演のテレビ放送が刷り込み。
その時は、スコット、カレーラス、ブルスカンティ-ニというキャストで、カレーラスはデビューしたてのほぼ無名状態。
 そんなイタオペ旧世代派には、ロンコーニのオーソドックスな演出は無難でよろしい。
新国自慢のスライド舞台が大活躍。それが、見ていて滑稽にも思えるところも散見されたが、ドラマの連続性をよく機能的に表出していた。
でも、私のようなドイツ派からすると、細切れに起きる拍手には、ちょっと戸惑う。
そっちの方でのドラマと音楽の緊張感の寸断は考え物かも・・・・。

  ヴィオレッタ:エレーナ・モシェク   アルフレート:ロベルト・サッカ
  ジェルモン :ラード・アタネッリ    フローラ  :林 美智子
  ガストン子爵:樋口達哉        ドゥフォール男爵:小林由樹

      上岡敏之 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                  新国立歌劇場合唱団
                 演出:ルカ・ロンコーニ
                           (6.14@新国立劇場)

上岡氏の指揮は、賛否両論あるかもしれない。
テンポの揺れがあり、一定していないし、前奏曲や3幕前奏曲も快速で味気ない。
時には歌手にはおかまいなしに、、前倒ししてしまうカ所もあった。
それでも私が気にいったのは、各所にデリケートともいうべきニュアンス豊かな場面も多々あったということ。
Ki_20001171_11_2 一例で言えば、ヴィオレッタのモシュクとの合意に基づく共同作業やに思うが、このオペラの見せ場、2幕での身勝手親父ジェルモンとのやりとりで失意に暮れるヴィオレッタが苦しげに歌う場面。そこでのオーケストラは、極限までにピアニシモで押さえ、唯一オーボエのみがヴィオレッタの歌をなぞる。この場面の美しさといったらなかった。
  それと、同じ幕でのアルフレートとの別れのシーン。ここでは思い切りテンポを落とし、ヴィオレッタの思いのたけを表わすかのような表現。私の涙腺はダム決壊状態だったのはいうまでもない。
全体の完成度という点では、課題があるかもしれないが、表現意欲に溢れた上岡氏、作秋聴いたヴッパータールの繊細で長大なブルックナーの指揮者であることを思い起させてくれた。もっとこの人のオペラを、いろいろと聴いてみたいものだ。
東フィルもいつになく精度の高い素晴らしさだった。

Ki_20001171_12 モシュクのヴィオレッタが、とても素晴らしかった。
きれいで繊細な高音は、聴くわれわれ観客誰をも唸らせてしまったと思う。
その声をホールの隅々に響かせていたのは、上岡氏のオケの押さえ方でもあったかと。
 モーツァルト歌いの印象のあった、サッカのアルフレートはとても音楽的でよかったし、アタネッリの見た目、兄のようなジェルモンもいい声を響かせていた。
それと、横浜の「バラ騎士」で一挙にファンとなった、林美智子さんの存在感。樋口氏も同様で、他の諸役を、日本の実力派たちが固めていて万全の舞台であった。

気が付くと、すっかり感激して楽しんでいる自分。文句言うんじゃなかった。
でも、次回は、もう少し斬新な舞台が見たい。
ジェルモンが実は、ヴィオレッタに目が眩んで、横取りしようとしまうとかね・・・・。ありそう。


   

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2008年6月13日 (金)

アイアランド 「レジェンド」 パーキン&トムソン

Ajisai

紫陽花が盛りを迎えておりますな。

淡い色の数々、自然はこの雨の時期にほんとうにパステルの美しい花を作ってくれたものだと思う。

紫、ピンク、白、ブルーといろいろあるけれど、このラムネブルーが好きだな。

Ireland_piano_concerto_thomson

  アイアランド  ピアノとオーケストラのためのレジェンド

            シンフォニック・ラプソディ「マイ・ダン」

            ピアノ協奏曲 変ホ長調

        ピアノ:エリック・パーキン

    ブライデン・トムソン指揮ロンドン・フィルハーモニック

                         (1985.12@ ロンドン)


ジョン・アイアランド(1879~1862)は、英国音楽の中でも抒情的でメロディアスかつモダンな作風をもった人。
交響曲とオペラ以外のジャンルにそこそこの数の作品を残していて、先日は、その素適な歌曲を横浜で聴いたばかり。

マンチェスターの出身だが、バックスと同じくケルトの文化に大いなる関心を抱き、さらに、海を愛したことでも同じだ。
ウェールズの作家アーサー・マッケンに触発されたことも大きいらしい。
マッケンはわたくし、未読だけれど、ケルト臭プンプンの幻想作家らしい。これは是非にも読まねばなるまいの。

レジェンド」は、マッケンに捧げられた音楽で、サセックス州あたりのHarrow Hillという場所に触発されて書かれたという。
そこには、有史以前の城郭の遺跡や鉱山があるらしい。
ピアノとオーケストラのための15分あまりのこの音楽は、幻想味豊かで、古代に思いを寄せるようなミステリアスな雰囲気や抒情的な歌に溢れたもの。
バックスのクールな荒涼感を思わせる壮絶な雰囲気もあって、短いながらにケルテックなアイアランドの音楽の特徴が凝縮されているように思う。

Maiden_castle_dorset

もう1曲、この作品と兄弟のようなオーケストラ作品「Mai-Dun」。
メイデン城という、これもいにしえの遺跡にちなんだシンフォニック・ラプソディ。
リズミカルなメインテーマで始まるが、すぐに静謐なムードに支配され、コールアングレやホルンがとても美しい雰囲気を作り上げ、徐々に情熱的な歌となってゆく。
こうしたノスタルジックな要素や、妖精の舞うようなファンタジー溢れる音楽は、英国音楽を愛する私の最も好む場面。

このCDのメインは「ピアノ協奏曲」。以前取り上げたけれど、こちらの方が親しみやすい音楽かもしれない。その第2楽章の美しさはたとえようがありませぬ。

エリック・パーキンのピアノに、ブライデン・トムソン指揮するロンドン・フィル。
バックスでも素晴らしい演奏をたくさん残したこのコンビの演奏、悪かろうはずがない。
というか他が考えられない・・・。

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2008年6月11日 (水)

中村靖&金子裕美 「英国の薫り」

Nakumurakaneko バリトンの中村靖さんとソプラノの金子裕美さんのジョイントリサイタルを聴く。
ピアノは、柴田かんなん。

「英国の薫り」と題されたコンサート、フィンジやウォーロック、クィルター らの抒情と文学性豊かな、あまりにも素適な歌曲の数々。
同様のジョイントリサイタルは、これで3回目、中村さんのソロコンサートを入れると6回目の英国歌曲コンサートとなるらしい。
今まで、知らなかった自分が疎ましい。
ともあれ、初参戦のわたくし、今後は必ず押さえなくちゃならないシリーズであります。

みなとみらい小ホールで全席自由ながら、チケットは4500円と、ちとお高い。
土曜日聴いた、神奈川フィルが定期会員割引があったとはいえ3200円だったものだから・・・・。
平日の夜の横浜、英国音楽好きを自認する身としては、何をおいても駆けつけなくてはならない。

英国作曲家の歌曲は、デリケートで静かやな曲やミステリアスな雰囲気の曲が多いだけに、輝かしい声や雄弁な語り口、うますぎる歌手とは無縁の世界かもしれない。
今日のお二人は、そうした部類の歌手には属さない。真摯で暖か、ちょっと甘さも感じさせてくれる、伸びやかで、それは気持ちのいい歌声だった。

  ウォーロック 「結婚日和」、「乳搾りの娘たち」、
          「睡蓮(The Water Lilly)」
           「さくらんぼ釣り」、「思いてよ」
  ガーニー   「野は満ちて」、「柳の園で(The Sally Gardens)」
           「時がもし」、「春の願い」
  クィルター   「夢の谷」、「フクシアの樹」、
           「音楽は、優しき声絶えしとき・・」
  アイアランド   「歌曲聖俗集」
  
  フィンジ   「ディエス・ナタリス(生誕の日)」
           歌曲集「歌人へ」

  ~アンコール~
  
  レーマン   「ここに一人の男とその恋人が」
  ブリテン   「柳の園で」

       金子裕美(ウォーロック・クィルター・生誕の日、レーマン)
       中村 靖 (ガーニー・アイアランド・歌人へ、ブリテン)
       ピアノ:柴田かんな
                       (6.11@みなとみらい小ホール)

彼岸にたどり着いてしまったかのような歌曲集「たいしゃくしぎ」の作曲家ウォーロック
あの曲のイメージが強すぎたか、今日の5曲の歌は明るく楽しい牧歌調の音楽に驚き、かつ聞き惚れた。別名をもつ二面性の人ゆえか・・・。
 いかにも英国田園情緒満載のガーニーさんの歌。
リズミカルなヶ所が楽しく、明るく屈託ないクィルターの曲。他の曲もいろいろチェックしたくなる。
オーケストラ曲やピアノ曲を親しんでいるアイアランドの歌曲は、今回始めて聴く。
抒情とモダンな大胆さが交錯するアイアランドの歌曲。バーバーやジャズの雰囲気を感じてしまった。いい曲じゃないか!

 そして、本日のメインは後半のフィンジの2連作。
フィンジは寡作ながら、ナイーブで傷つきやすいデリケートな素晴らしい音楽ばかり残した。クラリネット協奏曲は、ワタクシ最愛の音楽のひとつ。
そして、ディエス・ナタリスも大好きな曲。本来のオーケストラ伴奏版はいくつか持っているが、今日のピアノ版は、オケよりもニュアンス豊かに感じ、極めて美しかった。
そう、この曲を始めとして、ピアノの柴田さん、あまりにも素晴らしい。慈しむようなピアノの音色に英国の緑の丘の風景が、ほのぼのと浮かびあがってくるようだ!
金子さんの、クリアーボイスで聴くフィンジ。
序奏の場面から、もう私は不覚にも涙をこぼしてしまった。
 同様に、中村さんの歌う「歌人へ」。これは初聴き。
なかなかに崇高かつ気品溢れる曲調で、哀感もたっぷり。
中村さんの真剣な歌い口は、とても共感が溢れていてよかった。

イェーツの「柳の園」に付けた曲が3つ。ガーニーに、アイアランドの歌曲集の中に、そしてアンコールのブリテン。いずれも青春の甘酸っぱさを感じる桂曲!
英国音楽を愛するお二人、とても素晴らしい。
ことに、金子さんの繊細で無垢の声はとても気に入りましたぞ。
私の郷里に近いところの方というのも、親しみがわくし。

なかなか満席とはいかない、渋いコンサートだったけれど、私の近くのご婦人など、フィンジの曲を聴いて「あぁ~、きれい」とおっしゃっていた。
こんな風に、英国音楽が静かに楚々と広まっていけばいいと思う。
ただ、曲のひとつひとつで拍手をするのはいかがなものかと。まして歌曲集ではちょっと・・・・。

Nakumurakaneko2

幸せのコンサートでありました。
また来年に。

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2008年6月10日 (火)

コルンゴルト 弦楽六重奏曲 フレッシュSQ

4 京都の御池通りにある人工的な風景。
下は地下鉄と地下街が広がる。

数々の歴史を刻んできた街なのに、新しいものにどんどん上書きされてしまう。
昼夜問わず、外国の方々が京を求めてやってくる。へたをしたら、その方々の方が日本の情緒を愛し、その歴史も含めて、よく理解しているかもしれない。
河原町あたりの日本のどこにでもある繁華街を歩いていると、日本のどこにでもいる、若い「にいちゃんやねぇちゃん」が屈託なく過ごしている。
かたわらで、日本の歴史が満載のガイドブックに見入る外国人がいる。
観光地ならではだけど・・・・。

Korngold_sextet

エーリヒ・ウィルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)は、私の好きな作曲家の一人。
ウィーン生まれのユダヤ系で、ツェムリンスキーに学び、そのウォルフガンクの名前通り、神童としてもてはやされた。
ヨーロッパ時代は、ワルターやワインガルトナーも好んで演奏したくらいの人気作曲家。
だが、ナチスに退廃音楽として目を付けられ、アメリカに渡り、ハリウッドで活躍したものの、戦後もヨーロッパの本流に復帰できずに不遇のまま世を去った。
後期ロマン派の時代の真っ只中を生き、アメリカではその甘く、爛熟かつゴージャスな響きがハリウッド受けした。ヨーロッパでは、無調や12音技法が、トリスタン・マーラー後の主流となり、アメリカのコルンゴルトは、逆に過去の遺物的なウィーンの世紀末の濃密なサウンドにこだわり続け、取り残されてしまった。

しかし、音楽の受容センスが多様化した現在、マーラーやツェムリンスキー、新ウィーン楽派、シュトラウスのオペラなどを心から共感して楽しめるのと同じに、コルンゴルトの残した様々なジャンルの音楽も心に響いてやまない。

室内・器楽の分野にもそこそこの作品がある。
今日は、若書きの弦楽六重奏曲を。
どう若いかって、1914年、17歳の作品だから。
17歳で作曲は、もしかしたらありえるかもしれないが、曲の内容がとうてい年齢を思わせないからなのだ。
ブラームスの同曲をモデルにしていて、4つの楽章からなり、各2挺ずつの楽器が対等に活躍する、35分あまりの堂々たる作品。
そして驚くべきは、2楽章の甘くて切ないロマンテシズム。「死の街」をも彷彿とさせる旋律が静かに、とうとうと流れる。若くしてこの円熟。末恐ろしいませた青年。
 まさにブラームスのような、内声部の充実した1楽章、間奏曲風の洒落た3拍子の3楽章はウィーンを思わせる。
終楽章は、リズムが楽しく、どこかで聴いたようなフレーズがポンポン出てくる。
後のかっこいい大交響曲の旋律の先触れも聴かれるし(解説書によれば)、最後は1楽章の旋律が回帰してきて、なかなかのエンディングとなる。

英国のフレッシュ四重奏団にヴィオラ、チェロの二人のメンバー加わっての演奏は、とても美しく覇気があっていい。
音楽とともに、楽しめた1枚。
30年後に作曲された、弦楽四重奏曲第3番は、コルンゴルドの筆致もやや複雑な様相を呈しているが、それでも聴きやすく、甘い音楽に満ちていた。

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2008年6月 8日 (日)

シューマン 「ファウストからの情景」 アバド指揮

Cofee_chu コーヒーの焼酎。
サミットの洞爺湖畔にある洋食屋さん「望羊蹄」のブレンド珈琲豆を使用した凝ったお酒。
昨年、仕事で洞爺湖畔に泊まったおり、近くの酒屋で購入。
 そしたら、なによ、イオンにも売ってるじゃない・・・・。

お味は、まさにコーヒーで、なかなかクセになるおいしさ。
多量に飲むと眠れなくなりそうだから、夜静かに音楽なんぞ聴きながらチビチビ飲むのがいい。

昨日の神奈川フィル演奏会で聴いたシューマン。その時にわかったこと、今日6月8日は、シューマンの誕生日だということ。
そこで、シューマンの畢生の大作、オラトリオ「ファウストからの情景」を聴くこととしよう。

Abbado_schumann_faust ゲーテの「ファウスト」を題材にした音楽は非常に多い。人間の野望と贖罪、弱者の救済、といった不変のテーマに幾多の作曲家の筆をとらせることとなった。
ベルリオーズ、グノー、シューマン、リスト、ワーグナー、ボイート、ブゾーニ、マーラーなど。

これらの中にあって、シューマンの作品は、オラトリオという形式もって、一際、地味な存在。
1844年から53年の9年間もかけて悩みつつ作曲した大作は、序曲と全3部からなる2時間あまりの曲。

第1部~グレートヒェンとファウストの恋愛と母を殺し、不実の子を宿し、神に祈りながら亡くなるグレートヒェンを描かれる。
第2部~悔悟に暮れるファウスト、メフィストフェレスとの縁を切ろうと決心する。
そこへ、灰色や憂愁の女たちが現れファウストに取り付く。ファウストは視力を失いつつも
自由の国の建設のために、メフィストフェレス挑み、死を決して亡くなる。
第3部~「ファウストの変容」と題された場面。ファウスト、グレートヒェン、エジプトのマリア、そしてマグダラのマリアらは、聖母マリアを称え救済され天上に上る。

作曲は、第3部から遡るようにしてなされ、途中、机の引き出しにしまいこんでしまうほどに、悩んだらしい。こうして聴くと、第3部が一番聴きやすくシューマンらしい歌謡性に溢れていて、前半のものほど、とっつきが悪く感じる。
そうした場面が、この作品を地味な存在に見せかけているのかもしれない。
私は、アバドのCDで初めてこの作品に触れ、何回か聴くうちに、この作品の味わい深さが、まるで「するめ」を噛むかのような思いで楽しめるようになった。
 ブリテンやクレーのレコードは存在したが、ベルリンフィルの音楽監督がその定期で、こうした地味な作品を何度も取り上げるなんて、アバドならではのこと。
アバドは、気に入った作品があると、執念のようにそれを折りあるごとに取り上げ、完璧きわまりない演奏で、それを古今東西の名曲に仕立て上げてしまう。
「シモン・ボッカネグラ」「ヴォッェック」「ボリス・ゴドゥノフ」「ランスへの旅」などの渋い劇作品。マーラーのいくつかの交響曲と「リュッケルト歌曲」、ブラームスの「運命の歌」などもそう。
この「ファウスト」もそれらの中に入る作品。

他の作曲家たちが残したように、このシューマン作品でも、グレートヒェンに切実で素晴らしい歌がある。また、シューマンらしいファンタジー溢れる自然描写もありオーケストラの美しさに合唱が見事に応える。
そして、充実の第3部は、素材も同じくして、「マーラーの千人の交響曲」の第2部を先取りしたような音楽だ!
あまりに美しいマリアを崇拝する博士の賛歌。天上の音楽を描くかのようなハープの音色に乗って歌うバリトンの歌。ここで感動のあまり涙ぐんでしまうことになる。
そして、最後には「神秘の合唱」が感動的に歌われ、静かに曲を閉じる。
 さらなる曲の精度や、歌謡性を求めたくなる場面もあるけれど、これがシューマンと思って聴けば過不足なく感じ取れる。

   ファウスト、マリア崇拝の博士:ブリン・ターフェル
   グレートヒェン:カリータ・マッティラ 
   メフィストフェーレ:ヤン=ヘンドリック・ローテリング
   バーバラ・ボニー、エンドリク・ヴォトリヒ、スーザン・グレアム
   ハンス=ペーター・ブロホヴィッツ、イーリス・ヴェルミヨン

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                    スウェ-デン放送合唱団
                    エリック・エリクソン室内合唱団
                          (94.6月ベルリン)

Abbado_bpo 録音当時、すでに病魔が迫っていたかもしれないアバド。
際立った集中力と、歌に対する細心の心配りを持った指揮。
シューマンの文学へのこだわりから生まれたこの作品。その描こうとした人間の弱さや、救済感をアバドは優しい眼差しをももって描ききっていると思う。
 素晴らしいメンバーの歌手たちもいい。
ターフェルは神妙で、普段のアクの強さが少なめなのがいい。

シューマンの誕生日に聴いた大作。
シューマンの多様性と、言葉=歌へのこだわりがよく感じられた。

おっと、明日は今度は、息子の誕生日だ。

 

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神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

Kanagawa_phl_200806 今日は、午前中はお仕事。午後は、横浜へ行って神奈川フィルを聴く。
シュナイト音楽堂シリーズを楽しむようになって、土曜はこんなパターン。

今期のシューマン・シリーズ最後は「ライン」を取り上げることもあって、ほぼ満席。
でも、ブラームスとシューマンという、ドイツロマン派本流のプログラムは、渋いといえば渋い。


  ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
  
  シューマン チェロ協奏曲
           VC:山本裕康

          交響曲第3番「ライン」

          ハンス=マルティン・シュナイト指揮 神奈川フィルハーモニー
                                  (6.7 県立音楽堂)      


20080607_1 ブラームスのハイドン変奏曲を冒頭に持ってきたのは、オーケストラにとってもその実力開示の試金石みたいな曲だけに、なかなか大変だったのではないかしら。低弦だけの伴奏の上に乗って管が奏でる主題。硬さがひとつもなく、暖色系のトーンはこのコンビならでは。この曲、生て聴くとオーケストラの各楽器がいろんなことをやっていておもしろい。ピッコロやトライアングルも入ってピロピロ、チンチロやるが、そこはブラームス、浮ついたところがひとつもない。
そのあたりの燻し銀の中に南ドイツ風の響きを感じさせるところが、シュナイト師の毎度の真骨頂か。

チェロ首席の山本氏をソリストにした、協奏曲。
この旋律の明確でない、何か模糊とした協奏曲は演奏効果を発揮しにくい曲。
CDで聴いても、どうも判然としないことが多い。晩年のシューマンの持つ晦渋さを、どう解きほぐすか。そのあたりが聴きものだった。
山本氏のチェロ、1楽章は硬くまだほぐれていない感じで、う~むの雰囲気。
対するオケは、シュナイト師に絶妙にコントロールされて素晴らしい伴奏ぶり。
2楽章、山本氏の紡ぎ出す美音は、ここでついに本領発揮。弦楽器のピチカートに乗って、ロマンテックな旋律をそれは綺麗に歌う。オーケストラのチェロ独奏との絡み合いも、さすがに息のあった雰囲気で心和む。
リズミカルな3楽章の難しいパッセージの連続も難なく易々とこなし、オケを見渡しながらの演奏ぶりで、とてもリラックスしていた様子。
やはり、オケの一員としての協奏曲の演奏。シューマンのこの曲の場合、それでいいのだろう。とてもよかったが、この曲はやはり捉えどころがないな。
 むしろ、「明日はシューマンの誕生日。ということで、バッハを」と笑いをとってのアンコール、無伴奏チェロ組曲「サラバンド」が、息を飲むほどに、抜群に素晴らしかった。
同僚のコンマス石田氏とのやりとりも楽しかったし、シュナイトさんの山本氏への思いやりとユーモア溢れる動作も微笑ましかった。

Top2 「ライン」は、シューマンの交響曲を聴き始めるのに「春」とともに、真っ先に馴染む曲。
私も、この曲から入ったけれど、ほかの番号の方(はっきり言って2番)にだんだんと魅力を感じ始め、この5楽章のバランスの悪い交響曲をあまり聴くことがなくなってきた。
 そんな浮気な私に褐を入れんばかりの、シュナイト/神奈フィルの演奏。
1楽章の出だしから、ガツンとやられてしまった。
何と言う芳醇かつ暖かな音色なのだろう。すべてが自然で、いろいろ言われるシューマンの楽譜をいじくりまわした形跡など微塵もない。
有名な2楽章には、とうとうと流れるラインの様子を思い浮かべてしまう大らかさが充溢し、愛らしい雰囲気をやさしく表現した3楽章もこんなに楽しく聴いたことはないと思う。
そして、圧巻は4楽章。この楽章の重々しさと、終楽章の一転明るさが、いつも居心地悪く感じるのだが、そんなことを感じてた自分を恥じなくてはならないくらいに、その対比が見事だった。聖堂の大伽藍を仰ぎみるような気分で聴いた4楽章に、宗教的なものすら感じることができた。さすがに祈りの指揮者シュナイト師!
明るい終楽章は、走らず着実な演奏で、最後までテンポを守りぬいた堂々たるラスト。
満員の聴衆が湧いたのは、申し上げるまでもないです。

いやはや、なんだかんだで、このコンビに、またやられちまいました。
これで、9月までシュナイトさんの指揮はお休み。ひとまず、ドイツへお帰りになることだろうが、また元気に帰ってきて欲しい! 自他ともに認める「浜ッ子」なのだから。

アフターコンサートは、毎度お馴染み「神奈フィルを勝手に応援する会」が開催された。
今回の例会場は「一の蔵」が満杯であったので、小粋な中国家庭料理の店へ。
居酒屋と違い、酒飲みにとって「間」が持つかなとも思われたが、なんのことはない。
こちらもなんだかんだで、楽しく時は過ぎ、いい時間に。皆さんお世話さまでした。

シューマンの響きを思い起こしつつ、うつらうつらと、東京湾を半周して帰還。
あまりに満足だったので、寝ながらヨダレなんぞ流してなかったかしら・・・・・。

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2008年6月 6日 (金)

ナタリー・デセイ 「ヴォカリーズ」

Margaret 今日は暑かったですねぇ。

昨日は、日帰りで静岡まで出張。
懇意にしていただいてる、さる有名人のお父さんにすっかりご馳走になってしまった。
新幹線の時間を見計らって、お開きにしてくれたのに、自分ったら、「もう帰るのめんどくせ~」と「おでん横丁」へ突入。
 気がついたら、ホテルで寝ていましたとさ。
寿司屋→オネイサン→おでん→スナック、こんな按配のアル中モードであります。
午前中約束があったものだから、死ぬ思いで静岡から朝帰り。
それにしても、お魚におでん、最高っす、静岡。
実はワタクシ、父親の仕事の関係で、生まれは熱海なのですよ。2歳くらいまでで、その後は神奈川なのだけれど、のほほん性格は、生地や育った地から来ているのだな、これが。

Dessay_vocalises そんなこんなで、寝不足の二日酔い。
外出先で、京浜東北線を反対方向に乗ってしまい、快速運転だったから、相当ロスをしてしまった。
ボケです。

そんなボケ男に、ズバリとシャープな歌声で褐を入れましょう。

昨秋その歌声に接することのできた、ナタリー・デセイの「ヴォカリーズ」。
1996~97年の録音は、彼女の初期のもの。
超越的なコロラトゥーラの技巧が満載、いわば、ナタリーのデモンストレーションアルバムだ。
グルベローヴァの一人勝ちの分野に、登場したフランス産の名花は、メカニカルな雰囲気の一切ない、人間味に溢れた歌で世界を魅了してしまった。
私もすっかり、参ってしまっていて、プティボンとともに、私のアイドル的存在。

 ラフマニノフ 「ヴォカリーズ」   アリャビエフ 「ナイチンゲール」
 サン=サーンス「ナイチンゲールと薔薇」
 ドリーブ   「カディスの娘たち」 ラヴェル 「ハバネラ形式のエチュード」
 グラナドス  「マハと夜鶯」     ブロッホ 「主題と変奏」
 デラックァ  「ヴィラネル」     グリエール コロラトゥーラのための協奏曲
 J・シュトラウス 「春の声」

          ソプラノ ナタリー・デセイ

    ミカエル・シェーンヴァント指揮 ベルリン交響楽団 

見慣れない名前の作曲家や曲が並んでいるが、そのどれもが、ナタリーのために書かれたのではと思わせるような音楽ばかり。
冒頭のあまりにも美しいラフマニノフの曲は、夜の音楽だ。ナタリーの美声でシビレて下さい。面白いのは、次ぎのアリャビエフの曲。ロシア民謡を扱っているが、どこかで聴いたことがある懐かしい雰囲気。解説によれば、この作曲家、殺人の冤罪でシベリア送りになったらしい。ナタリーのハイポジションの高音が冴えに冴えまくる。
 サン=サーンスのヴォカーリーズ作品は、すごく抒情的で透明感溢れた桂曲。
その声は、まさにヨーロッパの庭園で聴くようなナイチンゲールのさえずりのよう。
ドリーブのムード満点のスパニッシュな曲は、色気さえ漂う震いつきたくなるような歌声だ。
プティボンもこの曲をかわいらしく歌う。
 こうして歌でやられると、ミステリアスな雰囲気の漂うラヴェル。
まさに本家スパニッシュのグラナドスの曲は、気だるくも夜のマドリードの気分だ。
この曲は、有名なピアノ曲「ゴイェスカス」をもとにしたオペラの中のアリアで、このCD唯一のオペラ作品。ゆえにナタリーのドラマテックで思いのこもった解釈がまったく素晴らしく聴ける。ブロッホやデラックァの作品は珍しいが、ナタリーの歌ゆえに、名曲として聴こえるから不思議だ。気品と品のよい情感がたまらない。
 そして、コロラトゥーラ協奏曲は、まさにソプラノの声を楽器にように扱った音楽。
2楽章15分の大作だが、濃い目の作曲グリエールらしからぬ、さわやかな作品に思う。
2楽章のワルツなど、ウィーン情緒さえ漂う洒落たムードだ。
ナタリーでしか歌えない作品に思えるし、事実唖然とするくらいの技巧の冴え。
それが全然、鼻に付かないし、温もりある清潔感が漂う声だから堪らない。
 最後は、超メジャーなシュトラウスで、これまたお口あんぐりのすげぇ歌で、この素適なCDはおしまいとなります。

いやぁ、ともかく素晴らしい。彼女の歌声に、すっかり頭が冴えてしまった。

はやく彼女のオペラの舞台が日本で実現しないものかしらん。

 ナタリー・デセイの過去記事

「フランス・オペラ・アリア集」
「R・シュトラウス オペラと歌曲」
「オペラ・アリア・コンサート2007年公演」

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2008年6月 5日 (木)

フランクフルト放送交響楽団演奏会 P・ヤルヴィ指揮

Furankfurt_rso パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団の来日公演を聴く。
このオーケストラは、やはりエリアフ・インバルの名を抜きには考えられない。インバル後、キタエンコやウルフがよく務めたものの、インバルとのマーラーを初めとする精密で分析的な演奏は、このオケの名前についてまわる宿命かもしれない。

ウルフは、シュトットガルトのように、ピリオド奏法をこのオケに植えつけたが、そちらの分野にもめっぽう強い多角的なP・ヤルヴィの音楽監督就任は、誠にいい選択かもしれない。

インバルの幻影を打ち払うことができるか!

私の大好きな演目に、そこそこリーズナブルなチケットで、即飛びついた私だ。

       R・シュトラウス  最後の4つの歌
               S:森 麻季

       マーラー      交響曲第9番

    パーヴォ・ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団
                        (6.4@サントリーホール)

観客は7割の入り、休憩後のマーラーになって8割くらいに増えたかな?
シュトラウスは、フライング拍手があったりで、客の反応はちょつとイマイチ。
マーラーになると、聴衆の側の聴き入ろうとする空気が違って感じられたから、いかにマーラーが時代を掴んでしまったかがわかる。

Maki_mori そのシュトラウスの歌曲だが、ドレスデンでのゾフィーが巨大NHKホールの前に力負けしてしまった森麻季ちゃんのきれいな声がサントリーホールでは、いかに響くかが、大いに気になるところであった。
そして、結果は・・・私の2Rの席には響いてこなかった。
第1曲「春」の歌いだし「In dammirigen gruften・・・」だけは聴き取れた。
がしかし、その後は完全にオケに埋没してしまっていた。
指揮者の押さえようという雰囲気がなかったから、前方の席ではよく聴こえていたのだろう。前方で観劇した、「ばらの騎士」は全然問題なかったから、一重に声量なのだろうか?
第2曲「9月」のオケを透かして聴かれる歌いまわしや美声は素晴らしいのに・・・。
ここでのホルンのソロの素晴らしいこと!
続く「眠りにつくとき」、「夕映えの中で」は、いずれもオケの奏者達の腕の冴えが目立つ。
 もう少し編成を刈込んでもよかったのでは。
素適な声の持主だけに、オケとの合わせものは慎重にした方がいいのかも。
おなかに、赤ちゃんがいらっしゃるので無理はしないで欲しいし・・・。
今日の彼女、黒いドレスに髪をアップにして、大人の雰囲気。
遠目には、キャスリーン・バトルを思い起させた。
 オケも含めて、昨秋聴いた、シュナイト&神奈川フィルの美音に敵わない。

本日は、二人の世紀をまたいだ作曲家の晩年の作品を集めたプログラムだが、シュトラウス作品が1948年。マーラーの第9が1910年。
38年もの開きがあるのに、かたやロマンティシズムにどっぷりとつかり、過去を回顧するかのような爛熟の響き。一方は、無調の扉を開き、新時代への掛け橋とならんとする彼岸の響き。
どちらも好きなだけに、これを並べたプログラミングの妙に感心。

Furankfurt_rso2 メインのマーラーは、ユニークかつ壮絶な名演とあいなった。
個々のカ所では、初めて聴くような音の押さえ方や、出し方、間の取り方など、細かな点がたくさん散見。大枠で言えば、リズム感が豊かで(パーヴォの指揮はいつも弾むような動き)しなやか。そして明るく、前向きな音楽の運び。
マーラーの第9と、大仰に構えず、1曲の交響曲として全体を見据え、全体を睨みながらも清新な響きを細部にまで漲らせる。
私には、息詰まるような緊張感はあまり感じられず、音楽の美しさ(終楽章の美演)や革新性(1楽章の終わり)を意識させる演奏だった。
後ろ姿のパーヴォ、N響のラフマニノフに続いて2度目だが、その姿が実に指揮者してる。
ブレない正確かつ明確な指揮は、きっとオケからしても頼もしいのだろうな。
恐ろしきヤルヴィ一門。
 終楽章エンディングは、克明な解釈で、しっかり指揮して、オケもしっかり着いていった。
それがまた完璧に決まった。
この曲、お約束となってしまった静寂の享受は、演奏者と聴衆が見事に一体となって完璧だった。
楽員が去る中、ヤルヴィは拍手に呼びだされてステージに再度登場。

それにしても、完璧な精度のオーケストラだ。機能性も充分伺えたし、弦は厚く、管も層が幾重にもある。金管も完璧。ドイツの放送オケはすごい。
そして、明らかにインバルとは違う個性を見出し、フランクフルトは多様性を持ったマルチオケとなる気配を感じる。
心配は、パーヴォ氏の多忙。ドイツカンマーに故国のエストニア・オケ、シンシナシティに、このフランクフルト。さらにパリ管までも手中に・・・・。


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2008年6月 3日 (火)

ルチア・ポップ アリア集

1 今年の梅雨は、早く始まったけれど、どれくらい降るのでしょうか?

年々、シトシト雨じゃなく、ドバッとまとまった雨が降るようになっている。
古来、梅雨の雨にも情緒を読み取って、楽しんできた日本人だが、そんな悠長なことは言ってられなくなってきた。
雨と汗で、びしょぬれのままの満員電車は極めて不快。
それ以上に、雨災害など起こらないことを祈りたい。

Lucia_popp

ブラティスラヴァの名花、ルチア・ポップが1993年に亡くなってしまって、もう15年。
享年54歳、あまりにも無常な早すぎる死。
ヘルマン・プライとともに、誰からも愛される声と人柄だっただけに、惜しみても余りある・・・・。

なんでやねん!
彼女の残された音源や映像を視聴するたびに、彼女がまだ健在なら・・・・、との思いに神様を恨みたくなる。

1939年、チェコのブラティラヴァ生まれ。
そう、かの地はグルベローヴァやドヴォルスキも生まれた場所。
素晴らしい声と音楽性に恵まれた名歌手の里は、ウィーンにも近く、当然にポップもウィーンで大活躍することとなった。カラヤンに認められたことがきっかけで、コロラトゥーラからスーブレット、そしてリリコ・スピントの領域へと進化していった。

彼女の持ち役を見ると、「魔笛」夜の女王→パミーナ、「フィガロ」スザンナ→伯爵夫人、「ばらの騎士」ゾフィー→マルシャリン、「アラベラ」ズデンカ→アラベラ・・・・といった具合に、うれしくなるような進化ぶり。
誰しも、こんな声における進歩を、素晴らしい成果をもって遂げられる訳ではない。
若い頃の、リリカルな役柄と、のちの充実期の役柄の歌を比べてみても、どちらもが素適で人間味に溢れていて、彼女の歌が常にベストフォームを維持していたことに驚く。

それでもやはり、80年代半ば以降の10年間が、我々日本人にとっても身近だったこともあって、忘れ難い歌唱がいくつもある。
伯爵夫人、エヴァ、アラベラ・・・・、実際の舞台やテレビを通じて、彼女の声と姿はいまだに目に焼き付いている。

   「魔笛」 パミーナ              「魔弾の射手」 アガーテ
   「じゃじゃ馬ならし」 カタリーナ      「リゴレット」 ジルダ
   「ジャンニ・スキッキ」 ラウレッタ     「フィガロ」 伯爵夫人
   「マノン」 マノン               「ルイーズ」 ルイーズ
   「売られた花嫁」 マジェンカ        「ルサルカ」 ルサルカ

         ルチア・ポップ  ソプラノ
  
   クルト・アイヒホルン指揮 バイエルン放送管弦楽団
                         (82年ミュンヘン)

82年録音のアリア集は、モーツァルト、ロマン派ドイツ、イタリア、フランス、東欧、といったまさにポップが得意としたジャンルのオペラから選曲されていて、これだけ見てもため息がでちゃう。
欲を言えば、二人のシュトラウスも欲しいところだが、ひとたび聴き始めると、ポップの無垢で、温もりのある歌声にすっかり身も心も洗われる思いがして、そんな贅沢は言っていられなくなる。それぞれのアリアが短く感じて、もっともっと聴いていたいと思う。
それにしても、なんて心を魅惑する声なのだろうか!
フランクでお茶目な人柄が、その音楽の隅ずみに温かな眼差しを与え、人間味豊かな解釈を吹き込む。
そんな彼女に悲劇のヒロインは似合わない気がする。
晩年、マルシャリンを素適に歌い始めたポップ。きっと、ゾフィーやスザンナの心を持った、優しくもかわいい不世出のマルシャリン像を打ち立てることとなったであろうな・・・・。

この中で、涙が出るほど感動したのは、「ルサルカ」の「月に寄せる歌」。
メロディメーカーとしてのドヴォルザークの抒情的な旋律を、それこそいとおしむように丁寧に歌う。これを聴いて、心動かされない人は心の乾いた人だ!
同様に、「私のお父さん」も泣けるし、「ルイーズ」の世紀末的な陶酔感も実にイイ。

晩年ブルックナーの専門家みたいに思われていたアイヒホルンは、ドイツの劇場叩き上げの職人。雰囲気がとても出てて、これまたいい。

ああ、ルチア・ポップ、天上でも歌っているのかしら。

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2008年6月 1日 (日)

ヴェルディ 「仮面舞踏会」 アバド指揮

Tadachi 今日は素晴らしい天気。
外で子供とちょっと運動したたでけで、汗だくになってしまった。

こんな日は、こんな緑と清流のかたわらで、ビールをシュパっと開けて、「そうめん」などをするっと食べると最高だな。

最近知合った仕事仲間で、海外にもよく行く方がいて、外国から来たお客さんをもてなすのに、自宅で「そうめん」を食べさせるそうな。
白くて細く長い麺に、皆、目をしろくろさせているが、「これは、日本の宮廷のやんごとなき食べ物であ~る」と宣言するそうな。
すると、外人たちは箸を使いながら神妙に、音を立てずに、そろりそろりとお食べになるそうな。実際に、宮廷食だったこともあるそうだが、まあ意地悪なこと。

Verdi_un_ballo_in_maschera_abbado

今日は、久しぶりにヴェルディのオペラを。
仮面舞踏会」は、ヴェルディ中期43歳の作品。
26作あるヴェルディのオペラ、初期のものは「マクベス」を除いてちょっと苦手だが、でもその溢れ出すメロディの宝庫には、魅力を禁じえない。

前作の「シモンボッカネグラ」あたりから、祖国愛ばかりでなく、登場人物の苦悩や葛藤といった心理的な描き方が深みを持ち始めた。
オーケストラも、大きな音を響かせる一方で、輝かしさと、内省的な渋さが目立ってくる。

「運命の力」「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」と、後期の充実作品へと、さらにヴェルディの筆は磨きがかかることとなる。

有名な作品だから、超概略。舞台はボストン。本来のスクリーブの台本は、スウェーデンのギュスタフ三世を扱っていて、実際にあった話。
ナポリで初演をしようとした際に、イタリア人によるナポレオン三世暗殺未遂事件があり、その情勢から、舞台と人物を移し変えて上演せざるをえなかったらしい。

 第1幕
ボストンの知事リッカルドは、秘書レナートの妻アメーリアに想いを寄せている。
その知事を暗殺せんとする、サムエルとトムの2人組み。そのふたりを見張るレナート。
給仕のオスカルが、占い女のウルリカの助命を求めてくるので、リッカルドはウルリカに会いにゆく。リッカルドを占ったウルリカは、最初に握手をした友人に殺される運命にあると言う。そこへ、レナートが現れ、知事の安全を知り握手する・・・・。

 第2幕
ボストンの郊外の野辺。アメーリアは、恋を忘れる薬草を探している。そこへ、リッカルドが現れ、陶酔的な素晴らしい二重唱となる。
そこへ、危険を知らせにレナート登場。アメーリアをレナートに託し、リッカルド去る。
そこへ、サムエル&トム登場。自分の妻とも知らずに・・・とからかう二人。
ヴェールを脱がすと、何と妻。レナートは、リッカルドの暗殺計画に加担することに。

 第3幕
レナートの部屋。アメーリアは死を決意し、レナートは素晴らしいアリアで応酬。
2人組との打ち合わせで、レナートは自らが刺すことを決定。
一方、知事室では思い悩んだリッカルドが、レナート夫妻を本国に帰すことで、この問題解決をはかることを決意。オスカルが、仮面舞踏会は危険との手紙を持ち込む。
 さて舞踏会場では、仮面のためレナートはリッカルドを見つけられない。
オスカルに重要な用件として、姿を聞き出したレナート。
おりから、危険を知らせるアメーリアに会ったリッカルドをレナートは剣で刺してしまう。
絶え絶えのリッカルドは、二人を移動させようとしていたこと、アメーリカは無実であることを語り息絶える。

  リッカルド:プラシド・ドミンゴ   アメーリア:カーティア・リッチャレッリ
  レナート :テナート・ブルソン  オスカル :エディタ・グルベローヴァ
  ウルリカ :エレナ・オブラスツォワ サムエル:ルッジェーロ・ライモンディ
  トム   :ジョヴァンニ・フォイアーニ

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                       ミラノ・スカラ座合唱団 
                                    (79・80年ミラノ)

Abbado_2  アバドスカラ座時代に残したヴェルディ録音は、「マクベス」「シモン」「仮面」「アイーダ」「ドンカルロ」の4作のみで、その数の少なさは残念極まりない。でも、レパートリーの選択に慎重だったアバドは、ヴェルディで取り上げたのは、あとは「ナブッコ」くらい。
「オテロ」と「ファルスタッフ」は、ベルリン時代だったから、機が熟すのを待っていたのか。
ついでに、スカラ座時代のレパートリーは、「フィガロ」、「セビリア」、「チェネレントラ」、「ルチア」、「カプレーキとモンテッキ」、ヴェルディ諸作、「ローエングリン」、「ボリス」、「ホヴァンシチナ」、「カルメン」、「ヴォツェック」、「3つのオレンジ」など。
いかにもアバドらしい演目ばかり、こんな内容でイタリアの殿堂スカラ座を束ねていたのだから、その手腕と地元出身者の強みを感じざるを得ない。

歌に偏重すると、ヴェルディが取り組みだした大胆な和声や響きがおろそかになる、そんな難しい「仮面舞踏会」だが、アバドはそんな難題に見事に応えているように思う。
アバドの得意な歌うピアニシモ、その反面のダイナミクスの幅の大きさ。たたみかけるような迫力や抜群なテンポ感も充分。
2幕のワーグナーをも思わせるようなロマンテックな響き。
幕切れもペシミステックになりすぎず、冷静な節度を保っているのがいい。
そんな熱くならないヴェルディが面白くなければ、アバドよりはムーティを聴けばいい。

このオペラの主役は、真面目なテノールがいい。かつてはベルゴンツィ、そしてここで歌うミンゴが理想的。この頃は、イキがよく、何を歌ってもそれは見事なものだった。
その相手役リッチャレッリも、若く美しく、苦悩する役を真摯に歌っている。
もともとドラマテックな声でない彼女、無理せずに身の丈にあった歌いぶりだが、2幕のアリアなどでは、さらに強い声を求めたくなるのも事実。
ブルソンは当時もうベテランだったが、この録音が本格的なメジャーデビューではなかったかと記憶する。後年の彫りの深い声とは違って、美声だけが目立つ気もしなくはない。
カプッチルリだったらば・・・・・。
オブラスツォワは、あきらかに異質。でも、グルベローヴァライモンディが贅沢にも脇をしめていて、彼らがちょこっと歌うと場が引き立つ思いだ。

スター歌手を揃えながら、それぞれの出来栄えが微妙にしっくり来ない。

アバドは後年、ウィーンのニューイヤーコンサートで、J・シュトラウスの作になる「仮面舞踏会」のカドリーユを、むちゃくちゃ楽しそうに、そして唖然とするほど見事に指揮していた。
いずれも、アバドの一時代の記録であろう。

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