« チャイコフスキー 「エフゲニー・オネーギン」 レヴァイン&ショルティ | トップページ | マーラー 交響曲第5番 レヴァイン指揮 »

2008年7月15日 (火)

マーラー 交響曲第4番 ハイティンク指揮

Suzuki_1 週末の英国音楽とオペラをおいて、マーラー、そしてラーメンであります。

こちらのラーメンは、見るからにアッサリ君。
その名も「中華そば」、基本の具がシンプルに配置され、澄んだスープ越しに麺が伺える。

名古屋の「鈴木」という名の店。
錦3の繁華街にあって、飲んだあとの締めラーメンとして、そのいけない地位(メタボぅにとってネ)を確立しつつある名店。

Mahaler4_haitink_2

番号を追って、今日のマーラーは、交響曲第4番
1番と並んで、一番最小のシンフォニー。
終楽章に女声の独唱が入る。
3番でおさまらなかった、モティーフ「子供が私に語ること」が、そのまま持ち越された。
「角笛」交響曲のひとつ。
短いといっても、約1時間。
長大で、まさに天国的な美しさをもつ3楽章が21分、1楽章が17分、あとは10分に満たない。
終楽章のみが、女声ソロが入るが、歌が入ることによって、バランスが取れたともいえる歪(いびつ)な構成ではなかろうか。

例によって、この曲との出会い。
4番は、バーンスタインのニューヨーク時代のテレビ番組。
TVK(テレビ神奈川)にて、中学時代に見た毎週土曜のモノクロ放送で、バーンスタインが青少年向けに、NYPOを振りながら、楽曲解説を行なっていくもの。
ここで、この曲を念入りに解説していた(はず)。今はもう覚えていないが、鈴の音色だけが、やたらに印象に残っている。
その後は、アバド&ウィーンフィル、ゼーダシュトレムの歌による、ウィーン音楽祭のエアチェック。これが刷り込みで、その後に輪をかけて、聴きまくったのが、DG盤アバド/VPO/シュターデの名盤。
さらにハイティンクとコンセルトヘボウの2度目の録音。
音源はこれらと尾高/東フィルのFM放送が何故か名演。
 悲しいことに、実演はないのです。

今日のCDは、ハイティンクコンセルトヘボウを指揮して50周年を記念した演奏会のライブで、2006年11月の演奏会の模様。
前褐のとおり、ハイティンクとコンセルトヘボウは、①初回の全集、②クリスマスアチネ・ライブ、③83年デジタル録音、④ベルリンフィル、⑤06ライブと、4度に渡って録音している。
この4番に、こえだけ愛着をもって取り組んでいる指揮者は、ハイティンクをおいていないだろうな。ベルリンは別格として、同じコンセルトヘボウで、演奏がどう変化しているか・・・。

正直、コンセルトヘボウの滴り落ちるような美音と濃厚な味わいがあるのは、③の録音が随一。これはフィリップスのホールと渾然一体となった名録音によるところも大きい。
①は未聴なれど、②も③と同じ印象を受ける。
そして、今回の新録音は・・・・・。以外にあっさりムードで、ここをもっと粘って欲しい部分で、すすっ~といってしまうし、以前の録音で顕著だったポルタメントの強調も薄く感じる。

この変化はどう考えたらいいのだろうか。
無駄なところがなくなり、より簡潔になったが、先週聴いたシカゴとの3番のあの超シビレル名演との違いはいかに・・・。
演奏時間は、過去演との違いはさほどなく、極めてオーソドックス。
大きな違いは、3楽章の低回なく進められる伸びやかな歌の運び具合。
手持ちの過去演(BPO不明)と比較するとわずかながら一番早い。
この曲の最大の聞かせどこころで、意気込まずにさりげなく、感動の頂点を築きあげているんだ。
長年のコンビとは、どこからどこまでが指揮者とオケかの境界線がなく、完全に一体化しつつも、ハイティンクらしいあっさりした味付けと、昨今の巨匠然とした大きな音楽造りがの双方が伺える。
シカゴでは、大曲の大家・無為の大巨匠にオケが、その持てるキャパシティーのありったけを全開してしまうことで、壮絶な巨大演奏が成し遂げられ、かつての仲間とは、ややあっさりした中にもフィリップス録音をすっきりさせたような練達の境地を聞かせる・・・・。
異論はあるかもしれないが、コンセルトヘボウは、シャイーやヤンソンスの治世を経て、ハイティンクのもと、戻れない過去を振り返るような演奏をしてしまうようになったのだろうか。
かつてのコンビの至芸は、絶対的なものだけに嬉しいような、寂しいような気がする。
逆に、ハイティンクはオペラを極めることで、異なるステージに昇ったわけで、ドレスデンやシカゴとの新たなコンビは、オペラ指揮者としてのドラマティックなハイティンクの姿なのであろうか!

ここでの独唱は、シェーファー。実にリアルで、音符が手に取るような感じの歌だ。

|

« チャイコフスキー 「エフゲニー・オネーギン」 レヴァイン&ショルティ | トップページ | マーラー 交響曲第5番 レヴァイン指揮 »

コメント

今、僕もこの演奏の感想をメモしておりました。
僕はこの曲の理想的演奏の対極的な姿であると思いました。第4はアンチ・クライマックスのフィナーレを持つ音楽ですので、第3楽章をどのようにして解釈するかにかかっているのではないでしょうか。私見では、あくまでアンチ・フィナーレのフィナーレを『終曲』として捉える考え方と、長いアダージョを実質的な中心として、第4楽章をエピローグとして捉える考え方とふたつあると思うのです。
後者ではアダージョが長くなりがちですし、前者だと短くなります。前者の偉大な演奏ではクレンペラーがありますし、アバド(BPO)、そしてこのハイティンクがあると思います。後者ではMTT、シノーポリ。
で、このアダージョが流麗に流れて淀むことのないハイティンクの解釈は、第3楽章後半、ホ長調で爆発する光の音楽と歌の入る第4楽章がすでに始まっているものとハイティンクは考えたのではないでしょうか。
実際、第3楽章はホ長調の爆発以降、表情が変わりますしその雰囲気はそのままフィナーレに続いています。
ハイティンクの見識の深さに、僕はクレンペラーの域にまで達したという感慨で胸が熱くなりました。

投稿: IANIS | 2008年7月16日 (水) 20時04分

IANISさん、まいどです。
なるほど、実に深く聴いてらっしゃる!
そのご指摘はもっともですね。
私は、思ったよりスラスラ流れるよどみない運びと、あのシカゴとの演奏との違いがどうも解せなくて、オケの変貌のせいかと思ってました。
これには一理あるかと思ってますが、それにしても3楽章の爆発から4楽章までは、絶品でした。
シェーファーの歌も確信犯的な素晴らしさです。

投稿: yokochan | 2008年7月17日 (木) 23時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マーラー 交響曲第4番 ハイティンク指揮:

« チャイコフスキー 「エフゲニー・オネーギン」 レヴァイン&ショルティ | トップページ | マーラー 交響曲第5番 レヴァイン指揮 »