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2008年8月

2008年8月31日 (日)

ディーリアス 「人生のミサ」 ヒコックス指揮

Okuma_2

















群生する「ルドベッキア・タカオ
その黄色い花は、ひとつひとつもいいが、こうしてかたまっていると、とても美しい。
グリーンにも実によく合う。
名前がわからず、ネットで季節や色で絞込んで調べることができる。
かつて一家の応接室に鎮座していた百科事典は、もういらない世の中となった。

A_mass_of_life













夏の終わりにディーリアスを聴こう。
大作「人生のミサ」。

4人の独唱、2部合唱を伴なう100分あまりの大作。ディーリアスは穏やかな小品ばかりでない。
こうした合唱作品や、儚い物語に素材を求めたオペラなどにもディーリアスの思想がぎっしり詰まっているのだ。
 ディーリアス(1862~1934)は、まさに世紀末に生きた人だが、英国に生まれたから典型的な英国作曲家と思いがちだが、両親は英国帰化の純粋ドイツ人で、実業家の父のため、フレデリックもアメリカ、そして音楽を志すために、ドイツ、フランスさらには、その風物を愛するがゆえにノルウェーなどとも関係が深く、コスモポリタンな作曲家だった。
その音楽の根幹には、「自然」と「人間」のみが扱われ、宗教とは一切無縁。
そう、無神論者だったのである。この作品も、「ミサ」と題されながらも、その素材は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」なのであるから。
 アールヌーヴォ全盛のパリで有名な画家や作家たちと、放蕩生活をしている頃に「ツァラトゥストラ」に出会い、ディーリアスはその「超人」と「永却回帰」の思想に心酔してしまった。
同じくして、R・シュトラウスがかの有名な交響詩を発表し大成功を収め、ディーリアスもそれを聴き、自分ならもっとこう書きたい・・・、と思った。
1909年、ビーチャムの指揮により初演され、その初録音もビーチャムによる。
 
ドイツ語の抜粋版のテキストに付けた音楽の構成は、2部全11曲。
合唱の咆哮こそいくつかあるものの、ツァラトゥストラを歌うバリトン独唱を中心とした独唱と合唱の親密な対話のような静やかな音楽が大半を占める。
日頃親しんだディーリアスの世界がしっかりと息づいていて、大作にひるむ間もなく、すっかり心は解放され、打ち解けてしまう。

第1部
 ①「祈りの意志への呼びかけ」 the power of the human will
 ②「笑いの歌」 スケルツォ 万人に対して笑いと踊りに身をゆだねよ!
 ③「人生の歌」 人生がツァラトストラの前で踊る Now for a dance
 ④「謎」      ツァラトゥストラの悩みと不安
 ⑤「夜の歌」   不気味な夜の雰囲気 満たされない愛

第2部
 ①「山上にて」 静寂の山上でひとり思索にふける 谷間に響くホルン
           ついに人間の真昼時は近い、エネルギーに満ちた合唱
 ②「竪琴の歌」 壮年期の歐歌!
           人生に喜びの意味を悟る
 ③「舞踏歌」   黄昏時、森の中をさまよう 
          牧場で乙女たちが踊り、一緒になる
          踊り疲れて夜となる
 ④「牧場の真昼に」 人生の真昼時に達したツァラトゥストラ
           孤独を愛し、幸せに酔っている
           木陰で、羊飼いの笛にまどろむ
 ⑤「歓喜の歌」 人生の黄昏時
           過ぎし日を振りかえり人間の無関心さを嘆く
           <喜びは、なお心の悲しみよりも深い>
 ⑥「喜びへの感謝の歌」
           真夜中の鐘の意味するもの、喜びの歌、
           永遠なる喜びを高らかに歌う!
            
            O pain! O break heart!
                          Joy craves Eternity,
                          Joy craves for all things endless day!
                          Eternal, everlasting, endless dat! endless day!
                      
       (本概略は一部、レコ芸の三浦先生の記事を参照しました)

Mass_of_life_score その原作ゆえ、テキストを理解するのは難解だが、英訳をぼうっと見ているだけで、何となくわかったような気になる。
それ以上に、なんといってもディーリアスの音楽が素晴らしい。
 冒頭のシャウトする合唱には驚くが、先に書いたとおり、すぐに美しいディーリアスの世界が展開する。妖精のような女声合唱のLaLaLaの楽しくも愛らしい踊りの歌。
「夜の歌」における夜の時の止まってしまったかのような音楽はディーリアスならでは。
「山上にて」の茫洋とした雰囲気にこだまする、ホルンはとても素晴らしく絵画的でもある。
さらに、「牧場の昼に」の羊飼いの笛の音は、オーボエとコールアングレで奏され、涙がでるほどに切なく悲しい。この場面を聴いて心動かされない人がいるだろうか!
まどろむツァラトゥストラの心中は、悩みと孤独・・・・。
「歓喜の歌」の合唱とそのオーケストラ伴奏、ここでは第1部の旋律が回顧され、極めて感動的で私は、徐々にエンディングに向けて感極まってしまう。
そして、最後の場面では4人の独唱者が高らかに喜びを歌い上げ、合唱は壮大かつ高みに登りつめた歌を歌うクライマックスを築く。そして、音楽は静かになっていって胸に染み込むように終わる。
 シェーンベルクの「グレの歌」にも似ているし、スクリャービンをも思わせる世紀末後期ロマン派音楽でもある。
 以前、畑中さんの批評で読んだことがあるが、「人生のミサ」の人生は、「生ける命」のような意味で、人の生の完結論的な意味ではない、と読んだことがある。
英語の「Life」も同じ人生を思わせるが、原作の「Eine Messe des  Leben」のLebenの方がイメージが近いような気がする。

  S:ジョーン・ロジャース  Ms:ジーン・リグビー
  T:ナイジェル・ロブソン  Br:ピーター・コールマン・ライト

 リチャード・ヒコックス 指揮 ボーンマス交響楽団/合唱団
                   ウェインフレート合唱団
                      (96年録音)

英国音楽にとってなくてはならないヒコックスは、ディーリアスはボーンマス響との録音が多いようだ。2部からなる大規模な合唱の一部はマーティン・ヒル率いる合唱団が素晴らしく、ヒコックスのつくり出す壮大かつきめ細やかなオーケストラのパレットとともに、ディーリアス作品を聴く、大いなる満足感に浸らせてくれる。
オーストラリア出身というライトの、英国風歌唱もまた素適なもの。
 かつて、レコード時代にグローヴス指揮によるものが出て話題になったが、ディーリアス・アンソロジーでも組み込まれなかったような記憶がある。
こうした作品は、やはり国内盤が欲しいもの。

1












今、私の部屋からは、夏の青い空が久方ぶりに広がってゆくのが眺められる。
でも雲はすっかり秋を先取りしている・・・・・。

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2008年8月30日 (土)

R=コルサコフ 交響組曲「シェヘラザード」 ロストロポーヴィチ指揮

Okuma



 














昨日は、福島の浜通り(太平洋側)へ、自宅の千葉から車で日帰り出張。片道約250kmは、なかなかハードだったけど、雷雨が去ったあとの空は気持ちよかった。

こちらは、昼休憩に訪れた福島原発に隣接する展望所。
すっきり晴れていれば海と空がもっときれいだっただろう。
 でも風が吹き抜けて、波の音が近くに聞こえてとても気持ちがいい場所。目をあと10度くらい左に転じると、原発が見える。

今日も夕方から雷雨。どーなってんだ?

Rostro_scheherzade



 

 



「歌入り交響曲」は、終末はお休みして、悪天候のもやもや気分を打ち払おうと、爽快な管弦楽曲を。
おなじみR=コルサコフの「シェヘラザード」をロストロポーヴィチ指揮のパリ管弦楽団の演奏で。

この名曲を聴くのは、1年ぶり以上。
エキゾテックなメロディに華麗なオーケストレーション。わかっちゃいるけど、体には毒と思いつつケンタッキーフライドチキンのように、無性に食べたくなる日がやってくる。
今日がその日だった。
しかも数あるCDの中から、さわやか演奏を避け、一番濃ぃ~ロストロポーヴィチのものを手にしてしまった。
74年のこの録音。当時高校生だった私は、メータとロスフィルのレコードを持っていたので、買えなかったが、FM放送を録音し、パリ管の管楽器の名人芸を唖然とした思いで聴いた。その後20年を経て購入したCDは10年前。
じっくり聴けば、華やかさというよりは、旋律の節々に思いの丈を込め、緩急の幅を大きく付けた自在な演奏であった。
Rosutro 全曲は約47分かけていて、通常44分くらいの演奏が多いので、時間的にもちょっと遅めに感じる。遅さが体感できるのは、シェヘラザードのテーマの扱いが濃密であること。当時のパリ管のコンマス、ヨルダノフのソロが実に味わい深いものだ。
それと、全曲を通じて、旋律の明渡しや、歌い終わりにリタルダンドがかかること。
このあたりを濃いと感じるか、味わい深いと感じるかで、この演奏の印象が異なるが、私は今時こんなロマンテックな演奏は聴かれないので、非常に楽しく聴いた。
昨今は、オペラにおいても無用な感情移入は避ける傾向が多いので、大胆ともとれるロストロポーヴィチの濃口の解釈は異質ながら面白い。
終楽章のものすごいテンポの煽り方はすごい。オケがそれでも平然と着いていく。
当時の管の名手たちの顔が浮かぶようだ。情念のかたまりのような音塊にタジタジとなる。
ロストロポーヴィチはパリ管から、フランス国立管に活動の場を移してしまったので、ロシア管弦楽曲集とともに、貴重な1枚がこのシェヘラザード。

Rostro_scheherzade_2 こちらが、オリジナルジャケット。
シャガールの絵が、いかにもパリっぽい。
亡きロストロポーヴィチのEMI録音は廃盤が多い。
チャイコフスキーは復活したが、このCDやエウゲニオネーギン、ムツェリンスク、ドヴォルザークなど、どうしたことだろう!

 

 

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2008年8月29日 (金)

シベリウス クレルヴォ交響曲 デイヴィス指揮

Uirou2 東海・関東を襲った昨日の豪雨は凄まじいものがあった。
被災された方々にはお見舞い申し上げます。
豊橋の仕事仲間からは、駐車場が水没し、車が半分埋まってしまったとの報もあった。
何たる気象現象!

名古屋を代表する銘菓、「ういろう」。最近は、味のバリエーションも豊富で、一口ういろうなど、新しい姿もあって、頑張っている。
季節に応じた「かわりういろう」もあって、見た目にとても美しい。こちらは、初夏の「あじさい」バージョン。
それぞれ、「桃」「葡萄」「パイン」の味で洋菓子のような風情で、珈琲・紅茶にぴったり。
 それにしても、名古屋のお菓子は重いものが多い。これも伝統。

Kullero_davis 歌入り交響曲のシリーズ。
リストの後は、メジャー作曲家の歌入り作品は、1888年のマーラー「復活」までない。
でもその間30年足らず。
マーラーは歌入り交響曲の総本家みたいな人だが、さんざん取り上げたので、次の作曲家へ。
作曲年代的にやってくるのが、以外やシベリウス
番号付きの前、20代に作曲した作品番号7が「レルヴォ交響曲」。
1892年の作品。
全5楽章からなり、そのうち3・5楽章に合唱とソプラノ、バリトンが入る。
大叙事詩「カレワラ」からのクレルヴォの物語を取上げた劇的交響曲で、80分あまりを要するこの大作は、以前はまったく見向きもされず、初録音がたしかベルグルンドのものだったが、CD時代になってからかなりの数の録音がなされている。
 物語は、かなりきわどく、かつ荒唐無稽。
戦いの英雄クレルヴォは、黄色い髪に青い眼のハンサムだった。あるとき森で出会った乙女に夢中になってしまい、思わず、こと、いたしてしまう。
ところが、自分の妹であったことがわかり、みずからの命を絶とうとする。
だが母親にいさめられ、思い直し、かつての父の敵を討つべく戦いに挑む。
はれて、戦に勝ち、クレルヴォは森の中で自決して果てる・・・。

なんだかなぁ、の物語は、ワルキューレの禁断の兄妹を思わせる。あちらも暗い陰りを帯びた英雄であった。
北欧神話には、この手のものが多いのか・・・・。

それはともかく、シベリウスの初期の手法は民族色がストレートに出ていて生々しい。
後年のような深遠さや、透明感はないものの、力強い男声合唱や独特の言語によるイメージも加わって、荒々しい北欧奇憚が堂々と描写されている。
「イントロダクション」「クレルヴォの青春」「クレルヴォと妹」「クレルヴォ戦いに赴く」「クレルヴォの死」の5楽章。
何と言っても、冒頭に現れるクレルヴォの動機が、かっこいい!
この動機が終楽章に、決然と現れるとき、思わず「ぬぉ~っ、キタ~」という気分になること請け合い。80分間聴いた甲斐もあるというもの。それだけかっこいい。

正直、私にはまだこの曲を把握できていない。まだまだ手探り状態での視聴。
CDは、このデイヴィス盤のみ。自家製CDRでは、サロネンとサラステのライブを車を運転しながら聞いたりしている程度。
7曲の本格交響曲への愛着ぶりとは程遠いが、徐々に聴き込んで行きたい。
デイヴィスとロンドン響は、この後ライブでも再録音しているが、このRCA盤の気迫たるや見事なもの。唸り声も聞かれる男性的な演奏。本場の二人の独唱は雰囲気よし。
本日はこれまで。

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2008年8月27日 (水)

メンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」 シャイー指揮

1_3 銘菓シリーズ(どこまでネタが持つか?)。
今日は、北海道の「ハスカップ・ジュエリー」。
ハスカップは、アイヌ語で「ハシカブ」と呼ばれる木の実で、北海道とシベリアにしかない希少なもの。
空港にはハスカップの製品専門の店もあって、そちらのゼリーなどは最高においしい。
そして、MORIMOTOが出したのがこのお菓子。
これまたうまいです!
チョコで囲んだしっとりクッキーで、ハスカップのジャムゼリーとクリームをサンドした凝った一品。甘さを抑え、ちょっと甘酸っぱいお菓子。
白い恋人や、マルセイバターサンドに飽きたお客さん、このおしゃれなお土産はいかが。

Mendelssohn2_chailly あ~っ、下手こいた。
歌付き交響曲、ベルオーズの後は、メンデルスゾーだった。交響曲第2番「讃歌」は、1840年の作品で、38年の「ベルリーズのロメオ」はやはりすごい。
いずれしっかり取り上げなくては。

メンデルスゾーンの交響曲は、シューマンと同じように、番号の大小と作曲時期が一致しない。
1→5→4→2→3という具合で、早世だったその人生において、1番と最後の3番には18年の歳月の隔たりがある。
早熟だった故に1番は10代の作品だし、3番はなんと33歳。その5年後、38歳には亡くなってしまう。そして、この第2交響曲は、1940年31歳の作品で、グーテンベルクの印刷技術発明400周年のために作曲されたとされる。いまでは、ルネサンスの発明のいくつかは中国発ということにもなっているが、作曲家にとって、印刷技術の進化はどんなに心強かったであろうか。
 3楽章からなるシンフォニアと、10部に分かれるカンタータの第4楽章を持つ作品。
第9よりも、より自由で宗教性が高い。
聖書からの引用や、バッハのコラールも使用していて、キリスト教的要素が強いため、普遍的な自由を歌い上げた第9と、その作品の完成度はおろか、大衆性においてもはるかに開きがある。
 でもそこは、やんごとなきメンデルスゾーンの作品。
伸びやかで、屈託のない旋律が充満していて、聴く人を大らかな気分にすることにかけては、さすが。他の番号と同様に聴きやすく、親しみのある旋律が満載。
1楽章冒頭のトロンボーンで奏される旋律がとても耳に残る。
この旋律が、カンタータ楽章でも活躍し、エンディングの決めの場面で高らかに、感動的にあらわれるとき、大いなる感激を味わう。
私の持つCDはいずれも廉価盤で、歌詞がついてないので、どの聖句が使用されているか、いまひとつわからない。
 いずれその難所をクリアしたいと思っているが、聖句の理解がなくとも、瑞々しくも真摯なテノールや二人のソプラノの歌唱を聴いているだけで、ユダヤの出自だったメンデルスゾーンの心からの宗教心を素直に聴き取ることができる気がする。
マタイ受難曲を発掘したメンデルスゾーンである。

リッカルド・シャイーの、デビュー間もない頃の演奏は、同じロンドンフィルを指揮したハイティンクの演奏とともに、メンデルスゾーンの交響曲全集を形成した。というか、ハイティンクが2番を何故か録音しなかった。
シャイーは、他のイタリア系先輩指揮者と同様に、メンデルスゾーンの3・4番を別途録音したし、最近も作曲者ゆかりのゲヴァントハウスの指揮者になったおりも「讃歌」を演奏したりしていて、得意作曲家なのであろう。
 79年、まだ20代だったシャイーは、作曲者と同質化したかのように、爽やかでかつ堂々とした演奏を作りあげている。
カンタータ部分とのバランスが難しい曲だが、さすがに歌の扱いが見事で、4楽章が始まると断然、鮮烈な音色が響きはじめる。
M・プライスS・バージェスは、淡白なくらいにすっきりとした歌唱だが、イエルサレムは、少しばかり歌いすぎでオペラに傾きがち。でも後年、お馴染みのワーグナー歌手の声は耳に馴染んだものでもあり、わたしなどとても嬉しく聞けるのも事実。
いずれもピチピチした若さがいいし、ロンドンフィルの落ち着いたサウンドが、ハイティンクの時とちがってリズミカルにいきいきとして聴こえる。
Chaillyは、シャイーとどうして読めるのかしら?前からの疑問。

2 ハスカップの実。

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2008年8月26日 (火)

リスト ファウスト交響曲 バーンスタイン指揮

Hagi2 仙台銘菓「萩の月」。
これは、おいしい。
お土産品でもトップクラスかな。
しっとりした生地の中に、ほんのり甘いカスタードクリームの餡。
いやぁ、考えただけで食べたくなる。
お茶に、コーヒーに、ミルク、私にはウィスキーにも合いますぞ。

各地に「○○の月」という類似品を生むほどの名品。

Hagi3

Liszt_faust_bernstein_2 今週は、歌付きの交響曲を取り上げてみよう。
いうまでもなくベートーヴェンのそれは、その発想も含めて、存在があまりにも偉大だが、「歌付き交響曲」その後にどんな作曲家が続いたのだろうか。

有名どころでは、ベートーヴェンの次はベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」。
そして、その後がリストの「ファウスト交響曲」。
第9が1824年、ロメオが1838年、ファウストが1957年であるから、ベルリオーズの先進性に驚き。
ただ今回は、その抒情性はあまりに魅力ですが、ベルリオーズ作品は、取り上げません。
近現代もの好きなので、後が詰まっているから・・・。

そして、このリストの作品、「ファウスト」に関しては先んじていたベルリオーズに教えられたこともあって、ベルリオーズその人に捧げられている。
破天荒の二人の作曲家の接点がこんなところにあって、想像するだけで面白い。
どんな会話をしたのだろうか(笑)

全3楽章で、最終章に合唱とテノール独唱が入る。そして、暗闇(苦悩)から光明(歓喜)へという筋書きはまさにベートーヴェンのお決まりの路線。
第1楽章「ファウスト」、第2楽章「グレートヒェン」、第3楽章「メフィストフェレス」。
まさに自身があみ出した交響詩を交響曲にしたようなもので、それぞれの楽章は描写的でなくそれぞれの人物の持つ性格を概略表現しているという。
解説によれば、1楽章は「真理への渇望と人間の知識の限界」という葛藤。
2楽章は「あらゆる女性への賛美」、3楽章は「否定精神」だが、最後はあらゆる「ファウスト」にまつわる作品でお馴染みの「神秘の合唱」が入ってきて、かなり浄化された雰囲気になって感動的に終わる。

なかなか捉えどころがなく、難解な曲ではあるが、熱血的な指揮者のもとにかかると、その音楽はカッコよく、ダイナミックで、快感を覚える場面も多い。
その代表が、バーンスタイン盤。
昨日8月25日は、亡きバーンスタインの誕生日。存命ならば90歳。
親父りゅうのつぶやき横丁」さんでお教えいただき、感慨を深めた次第。
バーンスタインは、この曲が好きだったようで、ニューヨーク時代にもCBSに録音していたが、それは未聴。
そしてDGへのライブ録音は、珍しくもボストン交響楽団を指揮したもので76年のもの。
小沢と蜜月時代のボストンは当時、ヨーロッパ・トーンの落ち着きある響きと同時に、明るくバリッとした前向きな音がしていた。DGの録音のイメージもホールトーンをしっかり捉えた素晴らしいものばかりだったが、のちにフィリップスへの録音に切り替わると、響きはそのままにずっしりとした重厚さが聴かれるようになった。
 話はそれてしまったけれど、バーンスタインの演奏は、DGの鮮やかな録音そのままに、一点の曇りのない明晰かつ鮮やかなもので、その劇的な推進力をまともにオケが受け止めて音にしてしまった感がある。
弾むリズムに、思いを込めた歌い方、劇的な部分での溜めの見事さ。
指揮台でバタンバタンとする音と唸り声もライブ感充分で、その生々しさに聴くこちらも息を飲んでしまうくらい。
そんな興奮と陶酔のジタバタ模様であるが、最後はしっかりと感動の坩堝にバーンスタインは誘ってくださる。
マーラーの第8交響曲の、まさに先取りである。
ケネス・リーゲルのテノールは、マーラー第8のスペシャリストで、こうして聴いていると、弦の高域の澄んだ響きとハープのグリッサンドに乗って歌うさまは、まるでマーラーそのもの。そしてオルガンも神々しく鳴り渡る・・・・。
 実演で是非にも聴きたい、面白い曲である。

ファウストとは関係なかった、「萩の月」。
調子にのって、パッケージはこちら。
Hagi1

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2008年8月24日 (日)

R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」 ドホナーニ指揮

4rosenkavalier 昨年の日本では、「ばら戦争」が勃発し、その余波はいまだに覚めやらない。
9月には、思い出したように新日フィルがセミステージで取り上げる。

R・シュトラウス「ばらの騎士」は誰をも魅了してしまう素適なオペラで、シュトラウス好きの私もまったくその一人。
あらゆるオペラの中でもワーグナーの諸作品に次いで大好きな作品だけに、昨年から今春にかけての4つの上演をすべて観劇した。
興にのって、このような画像を作成してみた。背景はウィーンで購入した銀(金)の薔薇。
4つの舞台の自分のランキングをやってみよう。

①演出・・・・・ミラー(新国)→ホモキ(横浜)→ラウフェンベルク(ドレスデン)→ベヒドルフ(チューリヒ) こらはもう僅差で、主観の問題。細やかな心理表現に長けていたのがミラーで、マルシャリンの心の寂しさを洒落た演出で鮮やかに描きだしていた。
実はそれに、輪をかけて心理描写に行動や周りの状況変化を伴なわせていたのがホモキ。ラウフェンベルクは、具象的な動きがわかりやすかったし、初演時の舞台設定に現在をからませた舞台は秀逸。ビヒドルフは、厨房を舞台にしたのが私には不可解。でも落ち着いたカラーリングの舞台は美しい。

②幕切れ・・ホモキ→ラウフェンベルク→ミラー→ベヒドルフ これは甲乙つけがたし。
 服を脱ぎ捨てたマルシャリンは新たに生まれ変わりを感じさせ、モハメド小僧は現代の少年のなりで走り去ったホモキ演出。ハンカチを拾いパグ犬を追いかける少年たちに混ざって入り去るモハメド君、原作に一番近かったラウフェンベルク。
モハメドが、テーブルの上のフルーツを盗み食いしたミラー演出に、マルシャリンとガラス越しに手を合わせあったビヒドルフ演出。

③歌手・・・・・チューリヒ→ドレスデン→新国・横浜
 シュティンメ、カサロヴァ、ムフ、ハルテリウスとそろった日頃の見事なアンサンブルを聴かせたチューリヒが群を抜いていた。次いで、代役ながら素晴らしかったシュヴァンネヴィルムスとリドゥルが光ったドレスデン。麻季さんは頑張ったが気の毒。
日本人による横浜も鮮やかなもの。佐々木さん安定感抜群。そして新国のニールントとローゼが印象的。

④指揮・・・・・W・メスト→F・ルイージ→P・シュナイダー→沼尻竜典
 オケも含めてスリムでスマートな現代的感覚のシュトラウスが実に新鮮だったチューリヒ。ハウスとしてのまとまりのよさもトータルに素晴らしかった。
指揮者の意欲とオケの美音がうまく結びついたドレスデンは、これからが楽しみ。
ベテラン、シュナイダーの手際よさとオペラテックな緩急。予想以上にしっかりした演奏だった沼尻/神奈フィル。

総合・・・・・評価不能、しいていえばチューリヒかな。

Rosenkavalier_dohnanyi 今日の音源は、1978年のザルツブルクライブで、おそらく放送録音と思われるが、れっきとしたステレオであるところが嬉しい。
でもエアチェックから起こされているらしく、時おり音揺れもあって、自分で作成したCDRの方が状態がいい。

この公演、本来ならベームが指揮をするはずだったかと記憶するがどうだったかしら?
影のない女と、ばらの騎士を挟んで、アリアドネをザルツブルクで指揮していたベームだったから。

ドホナーニは当時、ウィーンと蜜月で、日本にもベームとともにやってきたが、やや分析的でストレートな指揮をするドホナーニは、ウィーンよりはアメリカのオケやドイツの国際的なオケの方が相性が良かったのではないかと思う。
録音のせいもあるが、ウィーンフィルの管や弦のまろやかさがあまり味わえないがちょっと寂しい。

 マルシャリン:グンドゥラ・ヤノヴィッツ オクタヴィアン:イヴォンヌ・ミントン
 ゾフィー:ルチア・ポップ         オックス男爵 :クルト・モル
 ファーニナル:エルンスト・グートシュタイン アンニーナ:ドリス・ゾッフェル
 ヴァルツァッキ:デイヴィツト・ソー    歌手:ルチアーノ・パヴァロッティ
  警部 :クルト・リドゥル

   クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー
                          (78.7.26ザルツブツク)

この音源は、オケよりは歌手の顔ぶれに魅力がある。
まず録音のほかにない、ヤノヴィッツのマルシャリンが素晴らしい。持ち前のリリカルな歌声でりりしくも気品のある元帥夫人となっている。1幕の聞かせどころの独白の場面、か細い印象を抱きがちだったヤノヴィッツの声が静まりかえったホールに凛々と響き渡るのを聴くことができて感激。正規録音を残さなかったヤノヴィッツのマルシャリン。素適すぎ。
 それと、ニュートラルで中性的なミントンのオクタヴィアンもいいし、我らがポップのゾフィーもお馴染みのとおりだけれど、もうこの頃のポップの声は元帥婦人を歌えるくらいの力が備わってきているのがわかる。
そして絵に描いたように理想的なモルのオックスは文句なし。
贅沢にも、パヴァロッティがテノール歌手を歌っている、ちょい役も贅沢な顔ぶれなところが往時のザルツブルクである。

いやはや何度聴いても、いい音楽・いい台本である。
アルミンクの上演は、グスタフソンと藤村さんが楽しみである。土曜のチケットは完売とか。

 
            

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2008年8月23日 (土)

カントルーブ 「オーヴェルニュの歌」 フォン・シュターデ

Shiga 夏も先が見えてきて、今日のように曇りや雨模様だったりするととても寂しいものだ。
暑さも懐かしく思えるこの数日だ。

こちらは志賀高原の涼しげな光景。
なんちゃってスイス・オーストリアなところがいい。
数年前の夏に旅行した当地。
このあたりにカニクリームコロッケのおいしい洋食屋さんがあった。
私は、カニクリームコロッケ&カレーをいただいたが、舌がとろけそうな美味しさだった。

Von_stade_cantelpube フランス南東部のオーヴェルニュ地方は、山地地帯で旧火山もあって地沃には恵まれない厳しい地域と聞く。
歴史的にはケルト文化が根付いていて、フランス語ではゴールと呼ぶのだろうか、ブリュターニュ地方と通じるものがある。
風土的・文化的に、アイルランドにも近い。

そのオーヴェルニュ地方の民謡を集め、編曲したのが同地に生まれたカントルーブ
今ではこの「オーヴェルニュの歌」のみしか知られていないが、解説を読むに、オペラ・オーケストラ曲・室内楽などをも作曲しているらしい。
その地方色豊かなオペラは、是非にも聴いてみたいものだ!

ロスアンヘレスやダヴラツのレコードで有名となった、カントルーブの「オーヴェルニュの歌」は、CD時代になって、リリカルな歌声のディーヴァたちがいくつか録音するようになり、その音楽の素晴らしさに、いい録音で接することができるようになった。
「キリ・テ・カナワとジェフリー・テイト」、「ドン・アップショーとケント・ナガノ」そして「フレデリカ・フォン・シュターデアントニオ・デ・アルメイダ」の3種である。

3種ともに愛すべき歌唱だが、それこそ愛らしいシュターデの歌声が大好きだ。
70年代半ばに突如として現れたシュターデのそれこそシンデレラ・ストーリーは有名だ。
NYのティファニーで働いていたところ、その美声が認められて歌手となり、パリに渡り子守りをしながらヨーロッパ文化を身に付けていった賢明な彼女。
カラヤンやアバド、ショルティに認められ次々に大役をこなしていったが、スターぶることなく、いつもにこやかで優しい笑顔のステージマナーは、やはり自由なアメリカの生んだ歌手である。
チェネレントラ、ケルビーノ、オクタヴィアン、メリザンドあたりが最高の当たり役。
琥珀色のラブリー・ボイス」と呼ばれたその素適な歌声は、このオーヴェルニュの歌でたっぷりと味わえる。
ちょっとなまめかしく、でも気品があって、なめらかな声はいつ聴いても心和ませてくれる力がある。アバドのマーラーの4番の交響曲での独唱は、まさに天国の歌声そのものだった。深刻な音楽では深みにいざなう力が弱い気もするが、フリッカの歌はそれでいい。
 そう、彼女は「フリッカ」の愛称で親しまれた。
ワーグナーのリングに登場するあの怖~いフリッカとは大違いの、優しくフレンドリーなこちらのフリッカ。

冒頭の有名な「バイレロ」からして、もう身も心もとろけるような気分に誘ってくれる。
でも楽しい曲でも、この歌曲集には、哀愁と儚さが紙一重になっていて、山岳地方の風土の厳しさや、そうした自然の中で育まれた男女の仲の身につまされるような関係が巧みに描き出されているんだ。
フリッカの歌は、そうした音楽の意外な深みをさりげなく歌うことで、聴き手の想像力を刺激してくれる。
アルメイダとロイヤルフィルの伴奏が、それぞれがオペラの一場面のような雰囲気に富んだ演奏ぶりで、フリッカをひきたてていて見事。

オーヴェルニュといえば、今やウォーターの「ボルヴィック」で有名。
クリアな水と郷愁誘う清冽な音楽。
また行ってみたい場所が増えてしまった。

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2008年8月22日 (金)

ブラームス 交響曲第1番 メータ指揮

Cosoms2 今日は日帰りで盛岡まで。
車を借りての移動中、路傍にもう早咲きのコスモスが。
一雨ごとに夏の暑さは緩やかにになり、朝晩はめっきり涼しくなりましたな。

訪問先を変えての移動中、今日のFM放送「気ままにクラシック」で、スウィトナー指揮する「田園」の5楽章の放送があった。
のどかな旋律が始まったとおもったら、「ここで地震の情報です・・・」と中断してしまった。
運転中で気がつかなかったが、岩手内陸部を震源とするものであったらしい。夜には茨城県沖もあったし、このところ地震が毎日どこかで起きていて、その備えも実際、肝要かと!

Brhams_sym1_mehta 名交響曲シリーズ、今日はブラームス交響曲第1番をいきます。
この選択はどちらさまも異存がないのではないかしら。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、そしてブラームスにドヴォルザーク。
あとはチャイコフスキーにハイドンあたりが、私の幼年時代の入門曲だったなぁ。

今なら、いきなりマーラーやブルックナー、ショスタコを聴いてしまうのであろう。
オケの進化、CDの開発などもそうした風潮を後押ししている。

ブラームスの1番、「ブラ1」は苦心のあげくの名作で、あまりに出来がいいために、どんな演奏でもそれなりによく聴けてしまう。
全体の構成が少し大仰すぎて、私などシラケちゃうこともある昨今だが、やはり本当にいい演奏で聴いてみると、大いなる感激を味わうことになる。
この曲の巨大な演奏は、ベームがウィーンフィルとやらかした75年のNHKホールライブで、音のリアルだったFMの生中継やテレビにと、何度見聞きしたかわからない。
熱く燃えたぎるような熱演に、この曲の真価があらためてわかった。
そして、当時高校生だった私は、この曲に夢中になりスコアも買って指揮棒を振り回したもんだ。
そのベームのカセットテープとアバドのレコード。
この曲はやはり、ウィーンフィルがいいと思いこんでいたが、その思いにさらに拍車をかけたのが、今日聴いたメータの指揮によるもの。

この演奏はべらぼうに美しい。どこからどこまでもウィーンフィルで、そのなみなみとこぼれんばかりの美音は、聴く者の頬を緩ませる微笑みの世界なのだ。
ひとつには、ゾフィエンザールを使った当時のデッカ録音の素晴らしさが、ウィーンフィルの美しい響きをさらに際立たせてもいる。
ムジークフェラインの丸みを帯びた音と違い、こちらは艶やかな音と豊かな残響が魅力。
 そしてメータの指揮が、自分はオーケストラに奉仕してますよ、と言わんばかりの一体化ぶりで、ウィーンに学び育った仲間同士のような間柄と化してしるのだ。
ニューヨークでは決してこのようにうまくはいかなかった。
ロスフィルでは、自分の柄にあった後期ロマン派や近代ものにおいてその美質が現れたが、ウィーンでは古典やロマン派の音楽において、実に不思議なくらいにオケと同体になったかのような名演をいまだに聴かせている。
ウィーンフィルの常連指揮者のなかでも最古参のお馴染みメータなんだ。

何度も書くけど、ともかく美しい。
冒頭のティンパニの連打からしてしっとりとしているし、主部の展開もゆったりとかつ堂々として気持ちがいい。
2楽章のホルン、オーボエ、クラリネット、そしてソロヴァイオリン!
音が滴るばかりで、思わず手ですくいたくなるようだ。ソロは、記載はないがヘッツェル教授であろうか。
優しい3楽章、立派すぎる終楽章。ホルン・トロンボーン、フルートの素晴らしさはどうだろう。のびやかで極めて気持ちを解放してくれるあの有名な主題がいとおしくなってくる。
繰返しも行なった全曲堂々の49分。
ウィーンフィルもメータも、もう今やこのような演奏は出来ないのではないだろうか。
76年の録音。70年代のウィーンにおいてだからこそ出来上がった演奏。
あぁ、あの頃に帰りたい・・・・。

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2008年8月21日 (木)

シューベルト 交響曲第8番「未完成」 ハイティンク指揮

Sarusuberi 「さるすべり」がそこここで満開。
調べたら「百日紅」と書くらしい。
まず読めませんな。
近くで見るより、遠目が美しい花。
中国原産らしい。

中国といえば、オリンピックでの日本女子の活躍はすごい。
女子は強し、男子は弱し。
今の日本の風潮をまさに反映したかのような今回の結果。
 それにしてもソフトボールには感動だな!
オリンピックに一喜一憂しているうちに、世の中はどんどん良くない方へ・・・・。
たまたま、北京に急遽仕事で行った友人の話。
まず、いきなりで航空券が普通に買えた。
現地でオリンピックが行なわれている場所は、一般中国人は入れない。
観戦しているのはごく一部の限られた人だけ。作られたシチュエーションでのまさに作られたオリンピックだという。
う~む。ほうんとうかいな?

Schubert8_haiteink 今日の名交響曲は、シューベルトの「未完成」。
あまりに有名なエピソードを持つ2楽章の交響曲は、短いがゆえに必ずカップリングの相手曲が必要だ。
 私のような世代の方々だと、「運命&未完成」のLPがクラシック入門の最強の1枚であったろう。
カラヤン、フルトヴェングラー、ワルター、バーンスタイン・・・・。
私は、この組み合わせは、コロンビアの1000円廉価盤「ダイヤモンド1000シリーズ」で購入。
マッターホルンの美しいジャケットに、ハンス・ユイゲン・ワルター指揮の「運命」に、渡邊暁生と日フィルの「未完成」。
実は、この「未完成」がとてもいい演奏だった。

いまや「運命&未完成」は過去のカップリングとなり、「運命」には同じベートーヴェンの交響曲、「未完成」には「グレイト」や同じシューベルトの交響曲、といった具合に変わった。
ちょいと寂しい気もする。
真剣に、この2曲を最初から勝負録音をする指揮者があってもいいじゃないか?

さて、私のフェイヴァリツト曲「未完成」の今日のCDは、ハイティンクコンセルトヘボウの75年の録音。
全集魔と呼ばれたハイティンクがシューベルトに取り組んだが、結局は成し遂げることがなかったし、再録音も一切行なわれていない。
シューベルトが苦手というわけでもなく、未完成とグレイトは頻繁に取り上げているから、縁がなかなかないのであろう。
 ここに聴くハイティンク&コンセルトヘボウのシューベルトは、誰もが抱くこのコンビの音色とフィリップスの優秀録音がそのまま楽しめる演奏となっている。
昨今の軽めのシューベルトとは一線を画する重い空気の張り詰めた未完成で、弦も管も思い切り鳴らし切っている。
だが、それが重厚すぎず柔らかな響きが伴なっているのが、このコンビの最盛期のいいところで、コンセルトヘボウのベルヴェットトーンは健在だ。
豊かな低弦の上に築かれたピラミッド型の音作りに、ふっくらとした響きが伴なって極めてユニークかつ魅力的な演奏に思う。
 「未完成」ってなんていい曲なんだろう、としみじみと思わせるハイティンクの演奏。
熱い日本茶でも飲みながら聴きたい。

Schubert9_haiteink こちらは、「ザ・グレイト」のレコード・ジャケット。
「未完成」のレコードは未購入だったが、同じキューピッドのジャケットはシリーズの継続を楽しみにさせる素適な1枚だった。「グレイト」のCD化も強く希望!

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2008年8月20日 (水)

モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」 スゥイトナー指揮

Tanzawa2_2

今日は9時過ぎ、千葉方面はものすごい雷雨に見舞われ、自宅のある駅で足止め。
雷が近くに落ちて、駅も数回停電に。
エレベーターが停止するも、幸い怪我人はなし。
思いもしなかった自然の猛威が突然襲ってくる。地震もあったし・・・・。

盆休みに帰った実家。
車を秦野市に向かって走らせ、丹沢連峰を川伝いに悪路を登ると清流のある河原へ降りることができる。
ここ数年訪れていて、バーベキューを楽しむことにしている。
通常、川も数本に分かれて流れていて、深いところでは子供が泳げるくらいの水量があった。
しかし、今年は流れが一本しかない。
信じられないほどの水量だったのだ。
山に雨が少なく、平地に多い。
どーなってんだろ。
来年の夏もバーベキューをやりたいぞ。

Mozart4041_suitner 今日の名曲。実は今週のシリーズと化した。
モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」は、かつての人気曲。
なんて書いちゃうと怒られそうだが、後期のほかの交響曲の方が今や演奏頻度は高いように思える。

ロマン派を見据えたような偉大な建築物のような威容を感じさせ、転調の多かったそれまでの天衣無為的な作風と異なり、ハ長の平明かつ壮大な交響曲となった。
モーツァルトらしくもあり、らしくもない。
あと少し長生きをしてくれたら、次にはどんな交響曲が生まれていただろうか。

オトマール・スウィトナーはインスブルック生まれのオーストリア人。そのスウィトナーが、故国ではあまり活躍せずに旧東ドイツで大きなポストを得て活躍したのは面白い。ドレスデンとベルリンの国立歌劇場の偉大なポストを歴任し、オペラ指揮者としてバイロイトを始めとする西側でも活躍した。
東ドイツの指揮者というレッテルを貼られてしまったスウィトナーが、商業的にも活路を開いたのは、N響の常連指揮者となり、日本での人気が高まったがゆえではなかろうか。
デンオンに録音したベルリンとの数々の名演奏と、その前の東ドイツレーベルへの質の高い録音。

強固なアンサンブルで克明な音色を刻んだ旧東ドイツ系のオケは、国際化の波にさらされずに昔風のドイツの響きを守り通した。
そこに、南の風を吹かせたのがスウィトナーではなかったろうか。
ドレスデンの持つ古風でまろやかな響きに、柔らかな音色を持ち込み、ベルリンの古武士のような、がっしりした固いサウンドに即興的ともいえるライブの感興を注入した。
それがスウィトナーの個性だったと思う。
ドイツ一辺倒のN響との相性が良かったのも頷ける話。

ドイツシャルプラッテンに録音したドレスデンとのモーツァルト・シリーズはいずれも、キビキビとしたスピード感と、たおやかで柔和な歌いまわし。
昨日のブロムシュテットのベートーヴェンと共通する中間色で染まられた音色の美しさ。
我々日本人は、N響やベルリンとのモーツァルトを散々聴く機会に恵まれたが、やはりドレスデンとのこれらの録音が最も幸せな音楽に感じる。

オケと指揮者の結びつきを考える時、N響も含めた3つとスウィトナーの関係は理想的なものと思う。ドイツ統一後、東側のオケが経済的な面も含め一時低迷したが、その後インターナショナル化してしまった。
スウィトナーは病に倒れたりしたこともあるが、活躍の場を失ってしまったのも旧東ドイツの国際化によるものとも思われる。
ベルリン辞任後、ボストン響に客演したもののまったく評価されず、日本しか変わらぬ高評価をしていなかったのも頷けるかもしれない。
私も多くの愛好家と同様、サヴァリッシュ・スウィトナー・シュタインの3人のN響名誉指揮者には、主としてワーグナーにおいて大変な恩恵を受けた。
シュタインは惜しくも物故してしまったが、引退したとはいえ、残る二人にはいつまでも元気でいて欲しい!!

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2008年8月19日 (火)

ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」 ブロムシュテット指揮

Obuse 夏の陽光まぶしい庭園。
くっきりと影を落す木々。
日差しを浴びた芝生の緑との対比がとても美しい。

こんな光景に心和ませながら好きな音楽が聴けたらどんなに幸せだろう。
この手の英国風庭園を眺めると、当然のようにディーリアスやRVWがお似合いだけれど、今日は「田園」を。

今日も名曲。
日頃ドロドロした後期ロマン派や、オペラばかり聴いているので、こうした体にしみ付いたような名曲を聴くと、逆に心洗われるような新鮮な思いに浸ることができる。

Beethoven6_blomstedt 私の初「田園」レコードは、カラヤンのDG最初の録音のもの。
「フィデリオ」序曲とのカップリングで、豪華見開きジャケットで、いま手にしても、その重厚感は高級感あふれるものだった。匂いまで覚えてます。

今にして思えば、スピーディーかつ重厚な演奏で、ちょっと田園のイメージとは違ってた。
ドイツ的であるけれど、カラヤンとは対極にあったゆったりとした翁系の演奏が、ワルターやベーム。
ゆったり大らか系で、翁要素を抜いた演奏が、今日のブロムシュテットやスウィトナーやアバドのウィーン盤など。

それにしても、このブロムシュテットとドレスデン・シュターツカペレの田園は素晴らしい。
作為的な要素が一切なく、音の一音一音がすべて渡ってベートーヴェンの書いたスコアに奉仕しているかの感がある。さすがに菜食主義者ブロムシュテットらしい、グリーンの色調に彩られた田園。
ドレスデンのややくすんだ美音が、指揮者の無心の指揮ぶりに寄り添うようにしていて、柔和でかつ平和な気分が巧まずして導き出されている。

「田舎について起こる晴ればれとした気分」「小川のほとり」「農夫たちの楽しいおどり」「雷雨、嵐」「牧歌、嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」

ベートーヴェンが残した各楽章につけた表題に、こんなに相応しい演奏はないであろう。
この演奏の最大の解説・・・。

こんなに自然で、あたりまえのような田園。
今やこんなにのどかな田園はめったに聴くことも出来ないのと同様、我々の身の回りを見渡しても平和な田園風景を見つけることができない。
地方の郊外を見渡すと立派な道路が走り、その先には忽然とイオンを始めとするショッピングセンターが田んぼの中に林立し、それを取り巻くように郊外店舗が集結する。
日本のどこもかしこも、少し走るとこんな光景になってしまった。
 田園は、郊外と郊外の間を探さないといけない。

Beethoven6_blomstedt_2 音楽だけは音源として残るから、今や脳裏にある幼き日々に親しんだ田舎の風景を思い起しつつ「田園」を楽しもうではないか。
こちらは、発出のレコードジャケット。
広告記事からのものでモノクロだけど、とてもセンスがいい。
当時のこのレーベルのジャケットは素適なものが多い。
私の持つ再発廉価盤のものは、おどけたブロムシュテットがちょっと違うかな。

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2008年8月18日 (月)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」 ケルテス指揮

5 もくもくとわき出る入道雲。
夏のこうした風景は、かつてはいたるところで見られたもんだ。
 昨今の熱帯地域化しつつある日本では、きれいな青空が少なくなり、晴れてはいても薄く雲がひいていたりして、からりとしない。
かと思うと、急に激しい雷雨が襲来するといった具合で、お天気の方も、昔を懐かしむようになってしまった。

Dovorak9_kertesz 久しぶりの定番名曲「新世界」を聴こう。
実家に帰って、古い音楽雑誌を眺めていたら、廃刊となってしまった「ステレオ芸術」に、いくつかの第9の演奏ランキングの記事があった。
1970年1月号である。
第9のチョイスは、ベートーヴェンにドヴォルザーク、ブルックナーの3人。
マーラーがいないところが、時代を感じさせる。

そしてこの雑誌で、「新世界」のランキングにノミネートされたのは、トスカニーニ・セル・アンチェル・バーンスタイン・ワルターに、このケルテス二度目のロンドン響とのレコードであった。
「新世界」の録音は、その後40年を経てやたらと増えたけれど、ここにあげられた演奏の数々は今もってその鮮度を保っていて、やはり永遠の名演と呼ぶに相応しいのであろう!

これらに、ノイマン、クーベリック、ジュリーニ、カラヤン、C・ディヴィス、アバドあたりを加えれば、古今の新世界の名演がとり揃うことだろうか。あと誰がありますでしょうか・・・。

ケルテス盤のお馴染みは、ウィーンフィルとの旧盤で、私のクラシック音楽初レコード。
新鮮で覇気に溢れた若さみなぎる名演だった。
そして、その数年後、今度はドヴォルザーク交響曲全集の一環としてロンドン交響楽団との再録音。鮮度の高さは変わらずに、繰返しを行い、旋律の歌わせ方も緻密でかつ大らかになって、ドヴォルザークの民族色をも感じさせる味わい深さが増した。
 今回久しぶりに聴いてみて、かっこよさとは無縁の、よどみなく流れる音楽の運びが、実に自然で、純音楽的な味わい深い新世界にとても気分がよろしい。
夏も後半に入り、朝晩が涼しい。
そんな季節にぴったりの「新世界」がケルテスとロンドン響の演奏だった。
ニュートラルなくせのないオケの響きが、優秀録音でまた映える。

以前にも記したとおり、水泳中に溺れて30年前に早世してしまったケルテス。
今もし健在なら、アバドあたりと同世代。押しも押されぬ大家としてどんな活躍を見せていただろうか!

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2008年8月15日 (金)

ヴェルディ レクイエム ジュリーニ指揮

1 2 先だって、熊本と福岡に行ってまいった。
実に3年ぶりの九州。以前は継続的な仕事があり、今は担当エリアから外れたためにご無沙汰九州。
今度は仕事を勝ち得ることが出来ますかどうか??
まずは、この方にご挨拶をして、昼の炎天下、天下の名城を攻める。
3 4

天守閣が見えるも、なかなかにたどり着かない堅牢な仕組み。
吹き出る汗に、吹き抜ける風が気持ちいい。

6 7 再現された謁見の大広間。
奥を重ねる襖の数々・・・・。
ははぁーッ!

下城後は、下界にて熊本ラーメンに再度熱い汗を流すわたし。
つわもの共が夢のあと・・・・。

Verdi_requiem_giulini

毎年、私には8月の盛夏にヴェルディのレクィエムやブリテンの戦争レクイエムを聴くことが慣わしとなっている。
何回か書いたことで恐縮ながら、バーンスタインとロンドン響のテレビ放送を真夏に観たことが、暑い夏には熱いレクイエムを、平和への希求をこめて聴こう、という定番になった。

年月を経て付き合ううちに、この宗教曲は、怒りの日やトゥーバ・ミルムなどの大音響ばかりでなく、優しい抒情と歌に満ちた、ヴェルディならではのオペラテックな作品だということに当たり前のごとく気付くようになっていった。
そのきっかけ的演奏が、アバドとスカラ座のレコードと、同コンビの来日公演の放送。
そしてその後に聴いた先輩ジュリーニ盤もそうした傾向の演奏。
一番最初に聴いたのが、カラヤンのレコードだが、こちらはクライマックスをサンクトゥスや怒りの日の再現部に持ってきた劇的な演奏だったので、アバドやジュリーニがやたらに新鮮に聴こえたものだ。

その思いは、今こうして63年録音というかなりの年月を経た演奏を聴いてみて、変わらないばかりか、以前にも増して「歌うこと」の美しさ・素晴らしさ、そして強さを感じる。
トスカニーニの峻厳さよりは、私はジュリーニやアバドのような、救いのある優しさを込めた演奏が好き。ラクリモーサの心のこもった、かつ気品ある演奏は、このジュリーニが唯一かもしれない。
 静の部分に対し、目立つ動の部分では、オケに合唱は全開するものの、叫ばず慌てずに一音一音じっくり音と向きあった取組み方で、決してうるさくならないのがいい。
 大オペラ作曲家が、レクイエムという形式に託した「音楽による祈り」を巧まずに表出しつくしたジュリーニの名演は、いまも色褪せない。

  S:エリーザベト・シュヴァルツコップ  Ms:クリスタ・ルートヴィヒ
  T:ニコライ・ゲッダ            Bs:ニコライ・ギャウロウ

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団/合唱団
                    合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ

歌手陣の顔ぶれを見るだけで、ため息が出る。当時のEMI=レッグの力によるもの。
合唱指揮までが、バイロイトの重鎮ピッツだもの。
 ただ私見ながら、シュヴァルツコップの歌は、昨今のスタイリッシュで精密な歌唱からすると表情が過剰に感じ、濃厚に過ぎるように思った。以前はそんな思いはなかったのに、歌唱スタイルの変遷はこちらの耳をも変えつつあるのだろうか・・・・。
正直寂しくもあり、彼女のシュトラウスやモーツァルトを聴くのが、少し怖いような気になってきた。頭の中に、すでにイメージとして出来上がっている歌声なのに。
 同様のことが、ゲッダのテノールにも言えて、私には今や甘すぎて異質に感じるのも事実(インジェミスコはかなりつらい)。ところが、ルートヴィヒとギャウロウには、それらがない。

まあ、こんな贅沢いってたら、叱られてしまう。
私にとって、3種あるアバド、バルビローリとともに大事なジュリーニの演奏。
ベルリンでの新盤は未聴。
実はジュリーニが、75年にウィーン交響楽団と演奏したライブを自家CDRにしてあって、そちらがウィーンのオケの音色の微妙な配分と、素晴らしすぎの歌手(リッチャレルリ、ファスベンダー、カレーラス、ライモンディ)もあってかなりお気に入り。

今年も終戦の日を迎え、人の心がいつまでも平安で、穏やかであることを願う次第です。

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2008年8月13日 (水)

ディーリアス 「海流」 ヒコックス指揮

1 港に一羽佇む海鳥。
絵になりますねぇ。

ところで、この海鳥は、「ウミネコ」。
文字通り、ねこのように、ウニャーウニャーと鳴いて、群れをなすと極めてうるさいやつらだ。
 さて、「カモメ」とはどう違うのだろうか?
正直わかりませんな。
ネットで調べてみたら、羽の色、くちばしの長さ、目の輪郭などに違いがあるという。
 「ウミネコ」はお顔がきつくて、「カモメ」は優しい。
では、なるほどの1枚を。
3

こいつは、「ウミネコ」。
以前出張した八戸でのこと。
 昼食を簡単に済ませようと、コンビニでサンドイッチを買い、どうせなら海でも見ながらと、八戸港のはずれにある「蕪島」へ。
「蕪島」はウミネコの繁殖地として有名で、初訪問だった。
ところが到着してみて、チョー驚き。
うじゃうじゃいるのである。
路面にびっしり、神社の鳥居や階段にも隙間なく並んでウニァウニャ鳴いていて、その大合唱は耳を聾せんばかり・・・・・。
身の危険すら覚え、車の中でサンドイッチを取り出したものの、集団から離れたところへ移動。ところが数羽追いかけてくるのであるともかく監視されていたのだ。
護岸の近くまで逃げ、「もういいでしょう」とばかりに、サンドイッチを取り出したら、目の前のボンネットに、こいつがチャッカリいるのである。
密室ゆえ、食事は出来たが、ずっと見られていて落ち着かないことこのうえなし。
ともかく、食べ終わるまで未練がましくずっといるのである。いやなヤツなのである。
やっぱり、私には「にゃんこ」の方がはるかにいい。

Delius_sea_drift ディーリアス(1862~1934)の「海流」~Sea Driftは、オーケストラにバリトン独唱と合唱を伴なった、愛と別離を描いた一幅のノスタルジー溢れるドラマである。

海の情景を歌ったわけでなく、少年と「カモメ」が語り手となって、歌い継いでゆく、人間の愛と死(別離)の歌。
前段の憎たらしい「ウミネコ君」とは違い、ディーリアスの「カモメ」は、人間のように感情の襞を持った存在で、優しさとともに、とても儚い存在なのだ。

アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの詩集「草の葉」から「海流」というタイトルの連作の中から「いつまでも揺れてやまぬ、揺りかごの中から」という詩をもとに作曲された。

リラの香りがたちこめる5月のある日、一人の少年がカモメの巣を見つける。
そこには、夫婦のカモメがやってきて、交互に卵を温めて睦まじくしている。
少年は近づきすぎてはいけないと思い、静かに見入る。
雄鳥は、二人一緒の歓びを歌う。
 ところがある日、雌鳥がふいにいなくなってしまう。来る日も来る日も帰ってこず、雄鳥は探し続け、雌鳥を呼ぶ。悲痛の鳴き声。この声を聞いたのは少年だけ。
少年は昼に夜にやってきては、その声をいつまでも聞いていた・・・・。
雄鳥は愛の日々を想い、苦しくも悲しい歌を歌いつづける・・・。
 
 But my mate no more,no more with me
 We two together no more!

何と悲しい別離であろうか。
カモメに姿を変えた、人間の物語。
男も女もなく、人間に訪れる「愛と死」。
ここには、「トリスタン」のような死による浄化はなく、「別れ」があるのみ。
それを誰しもが淡々と受け入れなくてはならない。
少年は、若き日にこの摂理を体験し、成人して後に、その悲しみをさらに体現することとなるのであろう。

 ここにあるディーリアスの極めてデリケートな音楽は、精妙なガラス細工のようで、触れれば壊れてしまいそう。
だが、その優しさは、聴く私たちを暖かく包み込むようだ。
どこか遠くで鳴っているような音楽でもあり、気がつくと近くにいて優しく微笑んでいる。
人間の悲しみや悩みの一方で、海や大自然は変わらずに美しく日々存在している。
私は「海流」を聴くとき、雄鳥の悲痛の叫びに同情するよりは、人生に目覚めてゆく少年の心を想い同化してゆくのを感じる。
素晴らしい音楽にテキストだ。

      Br:ジョン・シャーリー=クァーク
  リチャード・ヒコックス指揮 ロイヤルフィルハーモニー
                    ロンドン交響合唱団

シャーリー=クァークの情に溺れない、それでいて感情を静かに歌いこめた様子はとても素晴らしい。こうした曲では余人をもって見当たらない。
80年録音で、ヒコックスの本格録音の初期の頃だが、ディーリアスサウンドが染み付いたオケを得て手兵の合唱団とともに一途な演奏となった。
ヒコックスには、ボーマス響を振ったシャンドス録音がのちにあるが、そちらはB・ターフェルが歌っている。ターフェルの声は、ちょっと強すぎるのが私には難点。
あと、レコードで何度も聴いた、ノーブルとグローヴスの演奏がカップリングの「高い丘の歌」を含めて最高のものではないかと思っている。

あぁ、人生は儚いものだのう。

さて、本日よりお休み。天気は下り坂だけど、海辺の街へ帰らせていただきます。
15日を目途の、予約投稿を1本いれる予定であります。

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2008年8月11日 (月)

R・シュトラウス アルプス交響曲 ケンペ指揮

Alpine_sym_kempe_rpo さぁ、世間はオリンピックに、甲子園に盆休みだ。

しかし、オグシオは残念だったな。相手が男だったもんな・・・?

さて、夏をクールダウンするのは、例年このリゾート音楽を取り出すことになる。

オーケストラ作品で、「海」なら、ドビュッシーやディーリアス、V=ウィリアムズ。「山」なら、ダンディとこのR・シュトラウスに指を折る。

そして数々ある「アルプス交響曲」の名盤のジャケットは、いずれもアルプスの山々をあしらったものがほとんどで、演奏内容とは別に、名ジャケットも数々ある。
「アルプス交響曲」ジャケットコレクションなどを企画してみたいものである。
その筆頭にあげるべき名ジャケットが、ケンペとロイヤル・フィルハーモニーのRCA盤である。1966年の録音で、私がクラシックを聞き始めたころには、このジャケットですでに出ていた。重量感あるレコード盤に、豪華見開きジャケットは、子供には高値の花だった。
後に、廉価盤で、ペラペラジャケットながら、RVWの「海」や「南極」とともに発売されたが購入せず。そんな幻のレコードをこともあろうに親類が持っていた。
早速、写真撮影だけさせていただいた次第である。
CDは、かなり前に購入した、新星堂の1000円シリーズのものを。
この音源、テスタメントで近々復活ともいう。私の廉価盤は、音質は明晰で素晴らしいが、音揺れがあるから、新しいマスタリングに期待。

ケンペの同曲は、EMIへのドレスデン録音が有名だし、実際にオケの美音もあって、名演の誉れも高い。
 このロイヤルフィル(RPO)盤、テンポ設定は両盤ともに約50分でよく似ていて、音楽の歌わせ方や表情付けも、ほぼ同じ。
異なるのは、ドレスデンの素晴らしく味のある奏者たちや、弦のマイルドな美しさ。

RPOの音色は正直、ドレスデンの比ではないが、ここのあるのは全体に張りつめる覇気のようなもの。不遇をかこっていたRPOが、名指揮者をむかえ、久々の録音に燃えて一生懸命になっているのがよくわかる。
登山の意気込みに燃え、途中の山道も元気一杯。牧場や降り注ぐ滝の飛沫も明晰で気持良さそうだ。そして、ついに山頂では喜びと達成感に大爆発する。
え、これってRPO?って思う。
そして、雲行きが怪しくなり、嵐も激しく吹き荒れ、ほうほうの態となるが、なかなかに落ち着きはらった下山である。最後は、感慨深げにクィーンズ・ノーブルサウンドを聴かせる。
 ケンペもドレスデンに比べると若々しく、ロンドンのオケとの相性の良さがうかがえる。
そして、ブラス群の素晴らしさは、ドレスデンとはまた違った喜びをもたらせてくれる。

R・シュトラウス(1864~1949)のシリーズの一環として、旧知ですが、曲について少し。
1911年から着手し1915年に完成。有名管弦楽曲をほとんど書き終え、15作あるオペラでは、5作目の「ばらの騎士」を書き終え、「アリアドネ」も併行して書き終え、さらに「影のない女」に着手していた。ガルミッシュ・パルテンキルヘンで日々アルプスを眺めて作曲したのは有名なはなし。

 これまで、取り上げたアルプスの峰々と名ジャケット

 プレヴィン指揮フィラデルフィア管弦楽団
 ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団
 メータ指揮ベルリンフィルハーモニー

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2008年8月10日 (日)

プッチーニ 「三部作」 プッチーニ生誕150年フェスティバル

Trittico1




















 プッチーニ (1858~1924)の10作のオペラのうち、最後から2番目のオペラ。
最後は未完のトゥーランドットで、8作目のこちらは1幕もののオペラの三部作となった。
作曲の来歴等は、先週の記事のこちら
そして生誕150年の今年、プッチーニを愛する有志たちによって企画された、「三部作」の一挙上演があり、上野の文化会館に馳せ参じた次第。

「外套」

舞台は左右に倉庫群を思わせるレンガ模様の幕が数枚垂らされていて、奥にはスクリーンがあってセーヌの流れをイメージさせる映像が映されていて、色が日没に応じてブルーから赤に変わってゆく。
艀に横付けした船のイメージも、舞台上から斜めにかけられたロープやそれ風の桟橋でよくわかる仕組みになっている。
それなりにリアルな舞台で、悩ませる読み変えもなく、原作に忠実なため、私を含め多くの初見の聴衆にはよかったであろう。   
 最後のジョルジェッタの恐怖の叫びは期待したほどでなく、大人しめ。
原作のト書きにあるミケーレのサディスティックな行為もなく、オラオラというみせしめを期待していた身としては、ちょっぴり残念。   
そんなミケーレ役の牧野さん、声の威力がいまひとつで低域に凄みがかけてしまった。
ジョルジェッタの大山さん、舞台映えのする姿から、満たされない思いをよく歌いだしていたし、以外やおいしい歌いどころのあるフルゴーラの清水さんも存在感あった。    
ルイージ役の井ノ上さん、初めて聴く人だったが、実に立派な声で注目!(芸術監督であらせられる)

トスカと同様に、強力な主役3人を要する、ヴェリスモ色濃厚の難しいオペラと痛感。            
   
    ジョルジェッタ:大山亜紀子   ルイージ:井ノ上了吏
    ルイージ:牧野正一       フルゴーラ:清水華澄

「修道女アンジェリカ」

次はさらに難しい女声だけの作品。
大好きなオペラの初舞台は、こちらも泣きを想定して、幕あいにアルコール補填をおこなって涙腺を緩ませておくことを忘れなかった。
    
左右の垂れ幕は同じ、真ん中に階段を据え、両脇にスロープ。

奥には十字に切った外壁パネルがある。幕があがると、紗幕ごしに左右に並んだ修道女達が見える。
女版パルシファルのような宗教的雰囲気。
全般に具象性は少なく、泉に注す黄金の光も照明によるもののみ。
まぁ音楽が最高に素晴らしいから、これでもいいか。しかし、涙誘うアンジェリカの死の場面は、光の中に手を差し延べつつ息絶えるのみ。
聖母マリアが現出して、亡き坊やをアンジェリカに差し出すのだが、せめてシルエットぐらいは見せて欲しかったな。
泉の輝きと、この奇跡は伏線をなすものだけに、今日の聴衆にはもっとわかりやすく幕切れを演出したほうがよかったのではないかしら?
それと、伏線でいえば、修道女の一人が蜂に刺され、その解毒方をアンジェリカがレシビする場面がカットされていた。
アンジェリカが死を選び毒草を調合する背景がこれでわかりにくくなった。
こうした宗教的神秘劇は、なかなか日本人には溶け込みにくいもの。だからこそ、もう少し具象的にやってほしかった。
アンジェリカ役の井ノ上さん(外套の同姓の方とご夫婦でしょうか?)が調子がいまひとつで高音がぶら下がりぎみ。最初から気になったけど、プッチーニの音楽の素晴らしさはそれをカヴァーしてさらに勝るもの。
「母もなく」から、オーケストラによる絶美の間奏曲、そして自決と幕切れ。私は予定通りに涙ちょちょ切れでございました。
 憎まれ役の公爵夫人の岩森さんの存在感、ジェノヴィエッファの森さんのかわいさなどがよかった。
幕が降りて、明るくなってからも恥ずかしいから、席にて涙目のおさまるのを待った私。

  修道女アンジェリカ:井ノ上ひろみ  公爵夫人:岩森美里
  修道院長:新宮由理    
  ジェノヴィエッファ:森 美代子

「ジャンニ・スキッキ」

Trittico_2 悲劇と宗教劇に比べ、喜劇=笑いは聴衆をいとも簡単に虜にしてしまう。
そして少し醒めぎみだった前2作に比し、聴衆の集中力はここで全開となった感あり。
舞台は、両側の垂れ幕はそのままに、天蓋付きのベッド(死者が横たわってる)に、さまざまな家具、そしてほぼ現代の時代設定による、色とりどりのさまざまな衣装による登場人物たち。いやでも楽しい(いつわりの悲しみ)の雰囲気が漂っている。
高尚な伯父、高飛車な伯母、サラリーマン風の子連れ、チンピラ風の旦那、田舎から駆けつけたカバンを手離さない親父、若々しいアーガイルのベストの青年。
 ジャンニ・スキッキは、縦じまのスリーピースを着て、手袋にステッキのなりは、まるでマフィアのよう。愛娘のラウレッタはアメリカナイズした少女だ。
こんな個性溢れる面々に、かなり細やかな振り付けがなされれいて、その一挙手一投足に目が離せないほど面白い。当主の遺体を隠した戸棚にサッカーボールをぶつけてしまい、扉が開き遺体が転がりでそうになる。そんないたずら坊主の仕業まで演出されている。
グリーンが基調で、衣装とともに鮮やかな舞台だった。
 そして、歌手達の芸達者ぶりに加え、その歌唱もそれぞれに素敵なもの。
お馴染み樋口さんのリヌッチョの若さ溢れる情熱的な歌、かわいいラウレッタの高橋さん、喜怒哀楽ぶりが楽しいツィータの加納さん。その他、皆さん楽しすぎ。
そしてそして、直野さんのスキッキの見事さ。声はきっと隅ずみまでに行き渡っていたであろうし、声音も楽しい限り。やはりこの役は、バスバリトンくらいの豊かな音域と声量の歌手でないとね。
誰もが知る「私のおとうさん」が、ああした場面で、あのような歌詞で歌われる観て聴衆の間に、あぁなるほど的な雰囲気がただよった。
あと、極めて残念だったのが、最後のスキッキの口上。
幕が降りてきて、その前に残ったスキッキが、「私の差配はいかがなものでしたでしょうか?」と語って、オケの全奏で終わる場面。
幕が降りだしたら、拍手がもう始まり止らなくなった!
プッチーニの天才的な洒落たエンディングが台無し・・・・。
演出もこうした結末は予想すべきだった。幕が動くと、すぐに拍手してしまうのだから・・・。

まぁ、後味は悪いが、極めて楽しめた第3部。

  ジャンニ・スキッキ:直野 資   ラウレッタ:高橋薫子
  リヌッチョ:樋口達哉        ツィータ:加納里美

   小崎雅弘 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
          演出:粟國 淳
          芸術監督:井ノ上了吏

オペラに数々の実績を持つという小崎氏の指揮は、とても的確かつ安心。
3作の音楽の性格付けを見事に振り分けていて、東フィルからかなり精妙な音楽を引き出していたように思う。
三部作は名作なれど、これだけ性格のことなる歌手たちを一晩に集めることがまず大変であろう。プッチーニの意図はあくまで、一晩での3作上演だが、世界的にもなかなかレパートリーとして実現できないのもよくわかる。
 しかし、こうして体験してみて、この連作オペラは、天才の筆によるまぎれもない名作であり、プッチーニ円熟の最高傑作に思う。
上演に尽力された皆さん、お疲れさまでした。 

先週のCD視聴の記事

Puccini_il_trittico_pappano  「外套」
 「修道女アンジェリカ」
 「ジャンニ・スキッキ」  

 

 

 

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2008年8月 9日 (土)

「国歌ファンタジー」 ヘルツォーク・エリカ

China 北京オリンピックが始まりましたな。
天邪鬼のわたしは、開会式も見なかった。今朝のニュースでちょろ見しただけ。
それにしてもゴージャスなもの。
国家の威信をかけ、その繁栄の本物ぶりを世界に発信するまたとない機会と捉えているのだろう。
スポーツの本質が二の次にならなくてはよいが・・・・。
 考えてみたら、64年の東京オリンピックは日本国民が一団となって沸いた。就学前だった私もよく覚えている。外国に対する興味が増し、国旗や地図を必死に覚えたもんだ。

 中国の方々が自国愛と世界から注目を浴びているという自負に酔って当然。
そして、このオリンピックを機に、もっと外国のことや民族のこと、その生活ぶりにも大いに関心を向けて欲しい。

 日本は人々の生活や心はズタズタだ。自然災害や人災が茶飯事。
政治や生活への不満は、オリンピックやワールドカップのお祭騒ぎに一喜一憂して忘れ去ってしまう。これもどうかと思う。
選手の皆さんも気負わず、メダルへの悲壮感やプレッシャーもなく、虚心に頑張ってほしい。

な~んてこと言いながら、ワタクシは食い気。
世界の食べ物でやってみようと思ったけど、手持ちの中華料理の画像で編集してみました。よく見るとチープなものしか食べてないね。

National_anthems_erika

音楽で聴く世界巡りは、ヘルツォーク・エリカさんの「国歌ファンタジー」を楽しもう。

ピアノのエリカさんについては、1枚目のアルバム3枚目のアルバムの記事をご覧下さい。
オーソドックスなデビューアルバム以降は、ユニークなCDが出来上がった。
ことに、欧米作曲家の日本の印象を曲にした「日本の思ひ出」は、エリカさんの心を映し出した1枚で、とても気にいっている。
そしてその2枚目は、世界各国の国家を扱った作曲家たちの国歌アンソロジー集だった。
ジャケットも、お馴染みのエリカさんの下に万国旗が並ぶインターナショナルな雰囲気が横溢。
エリカさんをプロデュースして行くうえで、まずは時期的にも最善の2枚目。

かつてカラヤンが1972年にヨーロッパ讃歌というLPを録音し、世界の国家を本気で演奏した。本気かよ!という当時の思いとともに、天下のベルリンフィルを指揮してここまでやるんだ・・・という思いだった。
それは、普通に国家を大オーケストラで演奏したものと記憶する。そして、オケによる国家ということで言えば、このCDの解説で思い出したのだけれど、かつて外来オケの初日は「君が代」とその国の国家が二つ演奏されることが恒例だった。
カラヤンも例外でないし、ベームとウィーンフィルの実況放送でも、素晴らしい「君が代」が演奏されたもんだ。

そんな思いでこのCDを手にとるとかなり違う。
全19カ国の国歌を、有名無名の作曲家たちが編曲したりアレンジしたりしたものがたっぷりと収められ、さらに「オリンピック讃歌」とカラヤン編の「ヨーロッパ讃歌」まで収録の、まさにピアノによる「国歌ファンタジー」となっている。
エリカさんは、機を衒わず、しっかりと音楽的なピアノを聴かせてます。

National_anthems_erika2 ショパンのマズルカ風「ポーランド国歌」や、ベートーヴェンの「ゴッド・セイブ・ザ・キング」変奏曲、リストの「ラ・マルセイエーズ」、ラフマニノフの「星条旗」など、大作曲家たちによる、彼らのテイストが漂う曲や、あまり知られていない作曲家の手によるもの、さらに私には懐かしい「ウルトラセブン」の冬木氏による、中国と日本の国歌の幻想曲など・・・、とてもバラエティにとんでいる。
個人的に大好きなツェムリンスキーの「抒情交響曲」のエロイくらいの詩人タゴールによるインド国歌による少し怪しい雰囲気のインド国歌編もおもしろい。

多才なエリカさんならではの、楽しい1枚。
オリンピックはともかくとして、「日本の思ひ出」とともに、是非聴いて欲しい1枚でした。

Erica_herzog_2 「ためいき」

Memoire_of_japan_erika 「日本の思ひ出」

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2008年8月 8日 (金)

マーラー 交響曲第9番 ジュリーニ指揮

Tachikawa_garufu鹿児島ラーメンでごわす。
桜島の噴火は怖いけど、鹿児島は、北海道と同じように自然と人が懐かしく、一度行くとやみつきになる県であります。
何よりも酒と食が最高にいい。
みなさん熱いし、ゆるい。
そしてその豚骨ラーメンは、クリーミーで味わい深く、あっさりした中にコクがあってとてもおいしい。
ガルフと読むこの店は、鹿児島発信のラーメン店で都内やイオンに出店中。
かごんま、ほんのこて、うまいでごわんしょ。

Mahler9_giulini マーラー交響曲第9番は、多くの愛好家にとって特別な曲であり、すべてのクラシック音楽の中でも上位にくる人気度の高い作品。
私とて例外でなく、昨年のマイベスト音楽選の交響曲部門5傑の中にノミネートされた曲(なんじゃ?)

私のような古くさいクラヲタにとって、マーラーは途中からやってきて、いきなりホームランバッターになってしまったような作曲家だ。
若い愛好家の方々の中には、マーラーが普通に4番バッターで、モーツァルトやベートーヴェンが3番5番、そして地味な7番バッターくらいにブルックナーがいたりするのではないだろうか。

そんな日本のマーラー受容史において、画期的な演奏会は、1970年の万博の年に来日したバーンスタインとニューヨークフィルによる第9の演奏だろう。
小学生の私が行けるはずもなく、購読を始めたレコ芸の記事で吉田秀和氏が絶賛していた。それは、演奏がどうのこうのでなく、マーラーの音楽のすごさを書いていたものに思う。
そして演奏会は真夏のことで、バーンスタインとNYPOの面々は白い夏用の燕尾服を来た写真だった。

マーラーの第9とはいったいどんな曲なのだろう??
押さえようもない興味にかられ、初めて聴いたのが、その数年後のFM放送で、なんとコンドラシンとモスクワフィルのレコードによるものだったが、驚くべきことに終楽章の終わりのほうでちょん切られてしまった・・・・、という風に記憶する。
その無常観を抱きつつ、バーンスタインの演奏のさわりを、サンプラーLPで聴いたり、N響が森正の指揮で演奏したテレビを見たりしていた。
 そして75年に、クーベリックとバイエルン放送響の来日公演の放送や、ジュリーニがウィーン交響楽団と演奏した録音の放送を録音し、すっかりこの音楽に馴染んでいった。

そして、満を持して購入したジュリーニとシカゴ響とのLPは、アバドの復活とともに、当時、私の心を震わせたマーラーのモニュメント的な2枚組である。
同じオーケストラを振ったジュリーニもアバドと同様明るい音色が基調となっていて、歌に満ちあふれている。野放図に歌うことに傾注しているわけでなく、しっかりした構成感の元、堅固な造型の中にあるので、全体像が実に引き締まっている。
ルネッサンスの巨匠ミケランジェロを思わせる音の大伽藍。
テンポはゆったりと、沈着で、品格が漂う。
こんなに長い1楽章はないが、それを遅いと感じさせないのは、歌が豊かだからなのだろう。
諧謔と自嘲にあふれた第2と第3楽章は、慌てず騒がず堂々としたもんだ。
3楽章の中間部は、僥倖のようでとても美しく、終楽章への伏線として納得感のある表現だ。
そしてその終楽章は、音楽を慈しみつつも歌に傾注していて、目を閉じて聴いていると、指揮棒をぐわっしと握りしめ顔をかしげたジュリーニの指揮姿がまぶたに浮かんでくるようだ。弦はボウイングを思い切り使い鳴り切っていて、粘りも充分。
だがその粘りは、情念系のバーンスタインのように胸掻き毟るようなことがなく、どこまでもスッキリかつ明晰。
「死」を意識するというよりは、諦念の後にやってくる澄み切った境地を感じる。
70年代後半レコードで聴いていた頃は、音楽の持つスゴサに平伏してしまって、ジュリーニの音楽がこんなに歌に満ちていたなんて思わなかった。
その後に様々な第9を受容してから、CD化されたジュリーニ盤を聴いてみての今回の印象が以上である。

古典派から脈々と続いた純粋交響曲のピークを飾るに相応しい演奏がジュリーニ。
アバドは、この曲のあとに新ウィーン楽派が控えていることを意識させる点で、ジュリーニの完結型の演奏と異なるように思ったりしている。

例によって実演体験を。
なんといっても、バーンスタインとイスラエルフィルの超絶的な名演が忘れられない。
まさにジュリーニと正反対にあるセルフイマジネーション的なバーンスタインの指揮は、ユダヤの同朋たちと完璧に溶け合い怒涛のような演奏をしてのけた。
ユダヤ人司祭による儀式に参列したかの思いだった・・・。
 ベルティーニ&都響、若杉&N響、エッシェンバッハ&フィラデルフィア、ヤルヴィ&フランクフルトなどなど。
名曲名演目白押し。皆様も思い出がたくさんおありかと思います!

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2008年8月 5日 (火)

尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー交響楽団演奏会

Muza フェスタサマーミューザ、尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団演奏会を聴く。
好きな指揮者、尾高さんお得意のラフマニノフだけのコンサート、しかも割安のチケットでもあり、早くからチケットを入手済み。そんな時に限って仕事が入りそうになったが、必死の抗弁ですりぬける。

蒸し暑さと激しい雷雨の一日だったけれど、尾高さんの指揮する真夏のラフマニノフは、べたつかず、爽やかですらあって、心軽やかにミューザを後にした。

ラフマニノフ  ヴォカリーズ
                     パガニーニの主題による変奏曲
                          ピアノ:小山実雅恵
          交響曲第2番
              (8月5日 ミューザ川崎)
                     

ヴォカリーズはまずは小手調べ、夏の夜にぴったりの涼しげで、はかない音楽。気持ちのこもった演奏。
 次いで、小山さんのパガニーニ変奏曲は、小気味いい軽やかさと、鮮やかさが際立つ素敵な演奏。彼女のラフマニノフは以前3番を聴いたが、その優しい風貌とにこやかな笑顔からは想像できないくらいにスケールの大きなピアノだった。


今日は曲がそれほと巨大ではないから、スケール感よりは、軽やかさが目立った。そして、 あの美しい旋律は、オーケストラともども絶美であった。本日の涙うるうる第1回目はここだ。

さて休憩時間に、白葡萄酒を流し込み、耳と体を柔らかくして、うきうき気分で最愛の交響曲に臨んだ。
20060701_otaka_04 先般のエルガー1番とともに、得意曲だけに、暗符で指揮する尾高さんは、イキイキと弾んだような動きで終始オーケストラをリードしていて、この曲が好きでしょうがない、といった感じだった。
聴く私もエルガーとともに大好きな交響曲なものだから、尾高さんとは毎度ながらに波長が合いっばなしで、体は動かさないまでも音楽にすっかりのめり込んでしまった次第。
ノーブルな歌い回しがとても粋だった第1楽章、主部の第1主題がヴァイオリンに出てくるところで、本日うるうる第2弾、次いで美しい第2主題でも涙が・・・。そして、低弦とティンパニの決めの最終音が見事決まった。
地味な中間部の抒情が光った第2楽章。
そして、さあ泣けと言わんばかりの第3楽章。思い入れを込めすぎず、あくまで音楽的に除々に盛上げてゆき、ついに全奏のクライマックスを迎えるとき、今日の最高の瞬間だった。当然私も涙うるうる第4弾目。
勇壮快活な終楽章、聴く私はもう夢中。素晴らしすぎの音楽に着実冷静の尾高さんは、以外なまでにオケを追い込んだり、パウゼをおいたりと、なかなかのメリハリ。
ウェールズ響とのCDと比べて、熱いことこのうえないエンディングとなった。涙はなし、そのかわり手を握り締めドキドキの私。
盛大な拍手とブラボーの渦に染まったミューザ。私も一声参戦したのは言うまでもない。

よかったよかった。東フィルもソロが多いだけに心配だったが、ほぼ完璧。
メンバーも会心の笑顔で拍手の応えていた。
鳴り止まない拍手に、尾高さん、いつもの時計とお休みのポーズでお開き。
次ぎのスケジュールは、ロンドンに飛んでプロムスに登場して「悲愴」を演奏。
札幌で「ピーター・グライムズ」と多忙の日々が続く。
新国の音楽監督は大丈夫だろうか・・・・。

過去関連記事

 尾高&BBCウェールズ響のラフマニノフ

 小山さんのラフマニニフ

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2008年8月 4日 (月)

プッチーニ 三部作~「ジャンニ・スキッキ」 パッパーノ指揮

Sengaku_cat 今日のにゃんこ。
その「ねこ」は、とあるお寺にいらっしゃった。

私が声をかけると、何も言わずに「にゃんだ!」と睨み返してきた。
睨み合いは数分続き、こちらが負けてしまった。
不敵な「ねこ」であった。
実はこれ、かの赤穂浪士ゆかりの泉岳寺にいた「ねこ」でござるよ。
そんな不屈の闘志あふれる、今日のにゃんこでした。

Puccini_il_trittico_pappano_2 プッチーニの3部作の3作目は、ブッフォの「ジャンニ・スキッキ」。
ダンテの「神曲」では「天国」に相当する劇。
ワーグナーが「マイスタージンガー」、ヴェルディが「ファルスタッフ」と、歴代のオペラの先達が熟練の域に達したときに奥の深い喜劇を書いた。
プッチーニも60歳になり、悲喜こもごもの3部作の最終3作目に唯一の喜劇を書いた。

笑い」は、やはりオペラ作曲家たちの到達する最終局面であり、愛憎や悲劇をすべて味わい尽くした後の境地は、終始シリアスなシンフォニスト達と人間ドラマを見据えた立脚点の違いを感じる。
人間が主役のオペラ=ドラマだからこその世界ゆえ。

激情と熱情の相まった「外套」、宗教的な神秘感のある「アンジェリカ」、そして「ジャンニ・スキッキ」はいきいきとした人間ドラマであり、愛憎や宗教からもほど遠い。
フィレンツェの街が主役と化しているところも特徴的で、マイスタージンガーにおけるニュルンベルクと同じかも。
中世風の旋法を音楽に使ったり、歌手達の多様な歌いまわしも実験的ですらある。
そんな作曲技法が嫌味になって聴こえないのがプッチーニならではだし、何と言っても、聴く我々の心を捉えて離さないように、しっかりと素適なアリアが盛り込まれている。
誰しもが愛してやまない「私のお父さん」である。相方テノールにもフィレンツェを称えた名アリアがあるし、主役のスキッキにも「ファルスタッフ」ばりのアリアが用意されている。

1299年のフィレンツェ。ブオーゾ・ドナーティの家にて。

朝のドナーティ家、当主ブオーゾはすでに亡く、一族が取り囲んで神妙に泣いたふりをしている。膨大な遺産を期待する面々が、巷の噂の寄付ということを聞きつけて集結している。
きっと遺言状があるだろうということで探しだしてみると、噂どおりの全額教会寄付。
坊主だけが潤うと、一同は大騒ぎに。
そこで、リヌッツィオは、許婚の父ジャンニ・スキッキに知恵を借りようと提案するが、策士だとして賛同を得られない。
そこへスキッキと娘のラウレッタ登場。貪欲な一同に呆れ、こんな奴らに協力したくないと、ソッポを向いてしまうスキッキ。
しかし、愛娘が「私のお父さん」のアリアを歌い、父の心をメロメロにしてしまう。

「私は、この人が好きなの・・・・、愛の指輪を買いに行きたいの・・・、もし愛することがだめなのならば、ポンテヴェッキオに行きます。そこで身を投げます。恋が私の心を燃やし苦しめるの、どうぞ神様死なせて下さい、お父さま、どうぞお哀れみを・・・」こんな掟破りの歌を娘に歌われたら、お父さんどうしよう。

「さあ、遺言状を貸してごらん」と、スキッキ。
この一族以外に誰も当主の死は知らない。では、自分がブオーゾになるまでと、そこへ、医師が回診にやってくるが、声音を使って見事にやり過ごすスキッキ。
自分がなり代わって遺言状を書き換えるまでよ!と巧みなアリアを歌う。
一同は感嘆し、それぞれの相続の思惑をスキッキに語りまくる。スキッキは、もしこの語りがバレたら法的には一同は手首をちょん切られると警告。ははっ!
 やがて公証人がやってくる。
すべての遺言のたぐいは今破棄し、これより語ることが唯一の遺言と、偽ブオーゾは声音で語りだす。遺産のそれぞれを一族の思いのままに語り、小さくブラボーを得る。
そして、一族の関心のハイライト、フィレンツェの勇壮な自宅と製材所、ロバと資産価値の高そうなアイテムは、なんと親友の「ジャンニ・スキッキ」に、とのたまう。
苦虫をかみ締める一族たち。公証人には、頭のなかで今考えたことを言ってるだけですよと言い、公証人は大いに賛同して去る。
 さて大騒ぎの一族、とんでもない泥棒、ごろつき、うそつきと悪態の限り、スキッキは私の地所から出てゆけ!一族は「あぁ」、スキッキは「出てゆけ」の応酬。
 騒ぎをよそに、恋の成就に熱くなる二人の恋人がフィレンツェを称える。
スキッキは語りで口上を述べ幕となる。

スキッキの洒落た口上はこうだ。「皆さん、ブオーゾの資産がうまく処理できましたかどうか。こんなやり口で、私は地獄の憂き目に会うでしょうが、偉大なるダンテのお許しを得て今宵お楽しみいただけましたらお許しください。どうぞ、情々酌量のうえ」

このオペラでの台詞以外の声は、当主ブオーゾの亡くなった時の偽りの嘆息と、スキッキにやられた時の口惜しい嘆息。3作ともに異なる嘆き。素晴らしすぎ。
人間のあさましさや、情の厚さを見事に描ききり、それに軽妙かつ精妙細やかな音楽を施したプッチーニ。もしかしたら、この短い作品はプッチーニ最高のオペラかもしれない。

 ジャンニ・スキッキ:ホセ・ファン・ダム  ラウレッタ:アンジェラ・ゲオルギュー
 リヌッツィオ:ロベルト・アラーニャ    ツィータ:フェリシティ・パーマー
 シモーネ:ルイジ・ローニ ほか

ファルスタッフとザックス、それにこのジャンニ・スキッキを録音しているのは、F=ディースカウと、このファン・ダムのみではなかろうか。
いつも生真面目な印象を与えるファン・ダムだが、このスキッキは水を得た魚のように縦横に振舞っていて、なかなかの芸達者ぶりである。理が勝さることもなく、その面白さ・味わい深さに、私は思わず快哉を叫びたくなってしまった。
恋人役の美女・イケメン夫婦はいずれも素敵だし、一族・医者・司法書士の取り巻き連中も楽しい。
例によって、パッパーノの明るく快活な演奏もいい。

久しぶりに、3部作を順を追って聴いてみたが、実に楽しかった。
そして、オペラ作曲家としてのプッチーニの天才性にあらためて脱帽。
痒いところに手が届き、こちらの心情はくすぐられっぱなし。
8月10日に、文化会館で3部作上演があります。行ってきます。

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2008年8月 3日 (日)

プッチーニ 三部作~「修道女アンジェリカ」 パッパーノ指揮

Shiodome_cat_3 今日のにゃんこ。
ショーウィンドウの中、感慨にふける。新橋と汐留の堺あたりにある質屋さんに、彼女(?)はいる。
冬や春の天気のよい日には、きまってここにお出ましになって店番。
 専用の座布団も毛だらけ。
ねこ不在のショーウィンドウには空しく座布団があるのみ。
じっとして置物のような今日のニャンコでありました。

Puccini_il_trittico_pappano

プッチーニ3部作の第2話は、「修道女アンジェリカ」。
ダンテの「神曲」に倣えば、こちらは「煉獄」ということになる。
イタリアのとある修道院が舞台、登場人物は女性だけ。男性だけのおホモチックなブリテンの「ビリーバッド」と好対照をなすオペラは、宗教的な神秘劇で、その繊細であまりにも儚く美しい音楽は、1話のやたらリアルで激情的な音楽と180度違う。
 でも、どちらも子供を亡くしてしまう悲劇でもある。
主役の女性がプッチーニ好みの薄幸の人生であることも3部作の中では唯一。

抒情的で、透明感に溢れた音楽は、いやでも修道院の清々しい雰囲気を引き立てるし、一転我が子のこととなると人が変わったように必死となるアンジェリカには、意外なくらいに強い和声を響かせたりしている。
これまた1時間に満たない音楽ながら、大きな感動をもたらせてくれる名作に思う。

時は17世紀、トスカーナ地方のとある修道院。

 修道女アンジェリカは、フィレンツェの公爵家の娘ながら許されぬ子を宿し産んだため修道院に入れられ懺悔の日々を送っている。
修道女たちの祈りの合唱。修道女ジェノヴィエッファが中庭の泉に太陽の光が差し金色に輝くのを見つけ、マリア様の奇蹟が訪れるのよ、と沸く。
しかし、1年前にある修道女が亡くなったことも思い出す・・・・。
アンジェリカは生あるうちに花開き、死には何もないと語り、願いはないと語るが、皆はその言葉を信じず彼女の身の上話をささやく。
そこへ、修道女のひとりが蜂にさされ怪我をしたと騒ぎになるが、薬草に詳しいアンジェリカが秘伝の治療法を託す(ここは後に伏線アリ)
そこへ、アンジェリカの伯母の公爵夫人が立派な馬車でやってくる。修道院長から呼ばれ、接見するが、意地悪な伯母から、アンジェリカの妹が結婚することになりその遺産分与の同意を得にきたと伝えられる。家名を汚した姉の償いを妹がするのだとなじる。
7年前に生んだ坊やの消息を必死に尋ねるアンジェリカに、公爵夫人は2年前に伝染病で死んだと冷たく答える。その場に一人泣き伏せるアンジェリカ。
「いつ坊やに会えるの?天であえるの?」と、あまりにも美しいアリア「母もなく」を楚々と歌う。
彼女は、死を決意し、毒草を準備する。
毒薬を服し、聖母に自決の罪の許しを必死に乞うアンジェリカ。
そこへ天使たちの歌声とともに、眩い光が差し、聖母マリアが坊やを伴なってあらわれ、死にあえぐアンジェリカの方にそっと差し出す。にじり寄りつつ、彼女は救われ息を静かに引き取る・・・・・。

 このオペラは、私はもう涙なしには聴けない。
ドラマにまさに付随したプッチーニのあまりに美しい音楽!
涙さそうアンジェリカのアリアから、これまた絶美のオーケストラによる間奏曲。
心に染み入る天使の歌をともない、神々しくも優しい幕切れ。

 アンジェリカ:クリスティナ・ガラルド=ドマス 修道院長:フェリシティ・パーマー
 公爵夫人:ベルナデッテ・マンガ・ディ・ニッサ
 ジェノヴィエッファ:ドレテア・レーシュマン

   アントニオ・パッパーノ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
                      ロンドン・ヴォイセズ

「外套」では死の苦しみの喘ぎと、驚愕の叫びがあったが、「修道女アンジェリカ」では、子供の死を知った母の絶望の嘆息、救われる時の放心の嘆息が聞かれる。
その嘆きの声に聴き入るばかりに情の入ったドマスのアンジェリカがとてもいい。
リリカルで優しい、時に母の強さも歌いだす、素適な歌唱。
現在大活躍のレーシュマンがちょい役ながら、とても美しく存在感ある声。
 オケがフィルハーモニアに変わり、パッパーノの指揮も精妙の限りを尽くし、一方で温もりある響きも充分。
真夏の部屋で、汗をたらしつつ、一人涙するワタクシでございました。合掌。

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2008年8月 2日 (土)

プッチーニ 三部作~「外套」

Track おーっ、哀れなり!
いや、違います。
あまりの暑さにぐったりのにゃんこ。
もーだめ・・・・、とのことであります。
でもトラックの下はあぶにゃい。
(もしかしたらこの会心の写真、すでに公開済みかも、ボケてますもので)

Puccini_il_trittico_pappano

プッチーニ(1858~1924)のオペラ全曲シリーズ。10作中の8作目は3部作。
トゥーランドットの前は、1幕ものを3つ集めた3部作となった。
7作目「西部の娘」の初演後、パリで観たセーヌの雰囲気の横溢する悲劇「外套」に大いに引きつけられ、オペラ化を決心。3部作にしたいと思いつつも、
なかなか台本作家が見つからず、ようやく決まって1915年に、まず「外套」を作曲。
 残り2作が決まらないまま、愛すべき「ラ・ロンディーヌ」を1917年に作曲。
併行して、ほかの2作の題材を選別し、順次作曲し1918年に「3部作」完成、メトでの初演となった。

イル・トリッティコ」3部作、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」    
ダンテの「神曲」にならい、それぞれ「地獄」「煉獄」「天国」に相当するように作られている。
1曲目の「地獄」は「外套」。ヴェリスモ風の死の横溢する激しい愛憎劇は、甘味な旋律と耳を聾する大音響が交錯する。
円熟の筆致に達していたプッチーニの作曲技法も鮮やかなものだ。
パリの雰囲気を豊かに表わす警笛や手回しオルガンなどがリアルだし、主役3人に与えられた短いが情熱的なアリアは極めて素晴らしい。
 でも、劇の内容はあまりに陰惨で目を覆いたくなる。
若い妻に初老の夫。ようやく出来た赤ん坊が亡くなってしまうことで、二人の間には隙間風が吹き、悲劇へと転がっていってしまう・・・・。

時は作曲当時、場所はパリのセーヌのほとり。海運を細々と営むミケーレ親方と妻ジョルジェッタ、働き手のルイージと仲間たち。

 仕事を終え煙草をふかすミケーレ、ジョルジェッタのつれないそぶりに心は浮かない。
ジョルジェッタは、仕事を終えたルイージや仲間たちに酒を振舞い、楽しい雰囲気。
仲間の妻は、田舎で旦那とつましい余生を送りたいと歌い、ジョルジェッタは、自分やルイージはパリの郊外の生まれで、こんな水辺での浮き草のような生活は早く終わりにしたいと歌う。そして、愛を交わしあい、密会を約束しあう二人。ルイージは熱い思いを歌う。
 寝ずに火照りを覚ますジョルジェッタにミケーレは、ふたたび「自分の外套に包まれればよい」と、やり直しを迫るが、またしてもそっけない妻。
 一人になり、怒り震わせ男をひっとらえてやると、豹変するミケーレ。
煙草に火を着けるが、それを同じ合図と勘違いしたルイージが船にやってくる。
「ははぁん、お前か」「違う、あっしじゃありやせん」「いやテメエだ!」と押し問答の末、絞殺してしまう。物音に出てきたジョルジェッタ、夫の怪しい雰囲気に怖くなって、以前のように「喜びも悲しみも包んでしまうといった、外套に私を包んでよ」とおねだり。
「そうさ、時には罪もな!俺のとこへ来やがれ・・・」と外套から転がりでたルイージの死体にジョルジェッタの顔を無理やり押し付ける。凄まじい悲鳴とともに幕。

こえ~。ミケーレはサドっ気ありすぎ。
ルイージの断末魔のうめき声に、ジョルジェッタの異常なくらいの叫び声。
特に後者は、あらゆるオペラの中でもナンバーワン級の「ウギャー~~ツ」である。

 ミケーレ :カルロ・グェルフィ    ジョルジェッタ:マリア・グレギーナ
 ルイージ :ニール・シコフ       ブルーゴラ:エレーナ・ズィーリオ
 恋人たち:アラーニャ&ゲオルギューほか

      アントニオ・パッパーノ指揮  ロンドン交響楽団
                         (97年録音)

トスカやカヴァレリアを歌えそうな強力メンバーによる録音。実際、この1時間足らずのオペラには凄まじいほどのドラマテックな声を必要とする。
この3人に文句のつけようがありませぬ。
でも甘味な曲だけれど、最後のギャーがあるかと思うと、そう何度も聴く気になれません。
パッパーノの唸り声も伴なった渾身の指揮は、ことさらに大音響を強調せずに、熱を帯びた音楽を見事につくり出すことに成功していると思う。

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