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2008年9月

2008年9月30日 (火)

フィンジ 「レクイエム ダ カメラ」 ヒコックス指揮

1 緩やかな水をたたえ、流れるともない河の流れ。
その土手に咲く「曼珠紗華」の赤い花。
まさに彼岸の風景は、この世のものとは思えない。
岐阜県の南濃町。
車で走っているときに彼岸花の群生の看板を見つけ寄り道。
そしたらこんな絶景が・・・・。
おかげで、仕事のお約束に遅刻。

Finzi_brtten_holst_hickox

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の抒情に満ちた音楽は、作品数としては決して多くはない。
自身が破棄してしまったものもあるにしても、40曲あまり。
そのどれもが、フィンジの個性ともいえるデリケートで優しい響きに包まれていて、いとおしい。

子供の頃に父親を亡くし、さらに兄達も亡くしたフィンジは健康も害し、ヨークショアのハロゲイトに移住し、ここで父や兄とも重ね合わせて敬愛した師ファーラーに出会い、音楽の勉強を本格化することとなった。
このファーラー(1885~1918)の音楽、いずれ取上げる予定だが、なかなかほのぼのとしたいい音楽。
 ところが、この師が第一次大戦で戦死してしまう。
またしても取り残されてしまったフィンジ青年。
戦後、コッツウォルズに戻り、1924年「レクイエム ダ カメラ」を作曲し、この作品を師ファーラーの思い出に捧げることとした。
ブリテンと同じく、反戦と平和への思いに満ちた「レクイエム」。

曲は4部からなり、1部はオーケストラによる静謐で美しい前奏で、これぞまさにフィンジならではの少し寂しげで、ひたむきな内向的な音楽。
2部は、ジョン・メースフィールドの詩に付けた真摯な音楽で、アカペラで自然の営みの美しさを歌いはじめ、徐々にオーケストラが加わって、変わることのない人間の行為を歌ってゆく。
3部は、トーマス・ハーディの詩に付けた曲だが、このオーケストレーションが未完で、フィリップ・トーマスという人が82年に補完して完成させた。
バリトン独唱がはいり、ハーディ特有のナイーブな世界と音楽が結びついた音楽が仕上がっている。フィンジは、この章がおそらく核心と思い、それゆえ書上げることが出来なかったのではなかろうか。
私の能力では元詩が理解できないゆえ、そのあたりはハーディ詩集を確認しなくてはいけませぬ。
4部は、1部のような平和で慰めに満ちた音楽で、W・ギブソンの詩。雨上がりの陽光をの中、雨に濡れたライラックの花々に小鳥が鳴く・・・・。平和が戻ってきた。
極めて印象的で儚いほどに美しい。

ステファン・バーコーのバリトン、ブリテン・シンガーズに、ヒコックス指揮のシティ・オブ・ロンドンシンフォニアの演奏は、これしかない録音という以上に、フィンジの魅力を伝えてやまない。ほかのカップリング曲も素適すぎる曲。
いや、ブリテンのカンタータがこれまた私の提琴に触れる素敵な曲。

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2008年9月27日 (土)

シュナイト指揮 仙台フィル演奏会

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シュナイト&石田が、杜の都に浜風を吹き込んだ

仙台フィルハーモニーに、シュナイト師が客演、しかも手兵神奈川フィルの石田氏を引き連れて。
直前にチケットを購入して、ワクワクしながら仙台へ。

仙台フィルは初めて聴くオーケストラだし、会場の青年文化センターというホールも初めて。
市の中心部から地下鉄で北へ向かい10分。大きな公園に囲まれ緑豊かな場所にあって、雰囲気がよろしい。
1階フロアのみ、802席という座席数ではあるが、天井がとても高く、響きがとても豊かで美しいホール。

ほぼ満席の会場で、楽員も出揃い、コンサートマスターの登場を待ち受ける。
そして、毎度おなじみとなったいでたちの石田氏登場。一瞬、おやっ、というムードがホールに流れた(気がする)。チューニングのあと、シュナイト師が姿をあらわした。6月以来だが、しっかりした足取りで、とても元気そう。
 そして、「魔笛」の和音が荘重に鳴り響いた。

     モーツァルト 歌劇「魔笛」 序曲
               ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」
                Vn:川久保賜紀
     シューベルト 交響曲第8番「ザ・グレイト」

   ハンス=マルティン・シュナイト指揮  仙台フィルハーモニー管弦楽団
                             コンサートマスター:石田泰尚
                          (9.26@仙台青年文化センター)

Orchestra

ゆったり目のテンポで厳かな雰囲気で始まった「魔笛」、活気ある主部が始まると石田氏はいつもの動きでオーケストラを活発にリードしてゆく。
ゆったりした部分はより遅く、早いところはほどほどに早く。シュナイト師の面目躍如の活き活きとした「魔笛」。
 次いで、川久保さんの繊細かつ能動的なソロが光ったヴァイオリン協奏曲。
オーケストラをよく聴きながら、ソロのない時は体も揺らしながら音楽に聴き入る彼女。
面白いことに、指揮者ではなく、コンマスとよく目を合わせながら溌剌と弾いていた。
2楽章の天国的な美しさと、有名な3楽章のトルコ風場面の切れ味のよさなどが、ソロ・オケともに印象に残った桂演だった。

休憩後の「ザ・グレイト」は、やってくれました、まさにシュナイト風、巨大な名演奏。
時計をちらちら見ながら計ってみたら、Ⅰ(15分)、Ⅱ(21分)、Ⅲ(14分)、Ⅳ(14分)の合計64分。繰返しなしでこの長さ。まさにグレイト!
 2楽章がまさに、「天国的」な長さ、というか遅さ!
それがまったく弛緩しないし、歌心に満ちていたのがまさにシュナイト師のシュナイト師たる由縁。木管がおそらく緊張のあまり、固かったがそれも徐々にほぐれ、このテンポによく着いていったという以上に、素晴らしく柔らかい響きをかもし出していた。
そしてやはり、シュナイト師と気心の知れた石田氏の存在は大きかった。
他流試合ながら、そして練習もそんなに多くはなかったかもしれないが、シュナイトイズムの落とし込みをしっかりやった以上に、弦楽セクションの明るく活気ある響きは、普段の仙フィルを知らずに言うのも恐縮ながら、石田氏のパフォーマンスによるところも大きかったのではなかろうか。
ともかく、美しい2楽章。中間部から後半にかけて、たゆたうような歌の数々は、涙が出るほどに素晴らしかった。
 さかのぼって1楽章。冒頭のホルンの主題は、先のとおり、固すぎて滑らかさが不足したが、主部に入ってからの音楽のノリのよさは特質もの。
楽章の最後、思い切りテンポを落として、朗々と主題を奏で聴衆は固唾を飲んでその終わりを見守った。
2楽章は、先のとおり。
3楽章のリズムのよさ。シュナイト師は足を踏み鳴らし、舞踏性にこだわったかのよう。
その中間部、テンポを大きく揺らし、左右に踊るように指揮するシュナイト師だった。
 そして、爆発的な終楽章。これまでじっくり積上げてきたものが、その頂点で爆発したかのような活気みなぎる演奏に、手に汗握る気分だ。
石田氏の動きも激しく、体一杯に音楽を表現している。
オケももう夢中だ!すごいぞ、仙フィル!
最後のコーダ、弦は弓を使いきり思い切りのユニゾンで応え、シュナイト師がこれまで押さえていた金管も大爆発。もうドキドキが止まらない。
そして、最後の和音は、フォルテで終わることなく、緩やかなドミネンドで極めて印象的に終了。シュナイト師は動きを止め、石田氏は弓を掲げたまま、オケも全員止まったままに、しばしの静寂が。
もうすっかりお馴染みとなった、シュナイト・エンディングがこの曲でも味わえた。
やがて会場はブラボー(客演のわたくしも当然に、ひと声参加)と喝采につつまれた。

いやはや、またもやシュナイト・マジックにやられてしまった。
この巨匠の個性は、時間の少ない客演ではなかなかに発揮されないし、その指揮ぶりもわかりにくいものだから、相棒の石田氏の存在は不可欠。
それにも増して、仙台フィルのアンサンブルの緊密さに驚いた。
神奈川フィルとのコンビで味わえる南ドイツ風の明るくも重厚な響きが、杜の都でも!
素晴らしいコンサートが聴けました。

7時にはじまり、ホールを出たら、もう9時20分。
美味しい酒と肴をもとめて、国分町へ向かったワタクシであった。

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2008年9月25日 (木)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 新日本フィルハーモニー公演

Img_0002 ばら戦争」は終わっていなかった!
昨年来の「ばらの騎士」の饗宴、今度こそ最後だろう。
2007年5月から数えて、通算5つ目の「ばらの騎士」を観劇。
一昨日の「トリスタンとイゾルデ」の響きがまだ脳裏に残るなか、迎えてしまった今日のばらの騎士。ワーグナーとシュトラウス、私のもっとも好きな作曲家達による、もっとも好きなオペラ。よりによって、こんなに集中して演ることはないじゃないの! 
好きだからこそ、そのすべてを聴きたくなるから困ったものだ。

今回は、新日本フィルの定期公演でもある、セミステージ上演。
オーケストラをステージ奥にきっちきちに押し込んで、その手前、つまり指揮者のうしろで演じ、歌われる仕組みだった。

簡単なセットは、左手の第1ヴァイオリンの前に据えられ、歌手達は、ステージ左手で歌うことが多く、右手前方の席だった私の首はいまも痛いっ

制約ある条件ながら、演出はしっかり付けられていて、飯塚励生(れお)さんによるもの。ニューヨーク生まれのこの方、以前の新日ホールオペラ「ローエングリン」の演出をはじめとするホールものの数々、またサイトウキネンの「グレの歌」なども手掛けた気鋭。
実力派の歌手たちばかりだから、果たして、どこまでが振り付けか個々の動きは不明だが、ホールオペラの利点を活かし、出演者と指揮者が掛け合いをしたり、客席からオクタヴィアンが従者を伴なって登場したり、オックスのチンピラのようななりをした手下たちが客席のあちこちで、ファーニナル家の女性たちを追いまわすなどの仕掛けが豊富であった。
アンニーナが、オックスの脱いだカツラを、こともあろうにイケメンのアルミンクにかぶせてしまい爆笑!
 さて、こうしたアイデアは楽しめたが、限られた舞台に新たな解釈を持ち込もうとしたものだから、私にはそれは「過ぎたるは及ばざるが・・・・」の印象であったことも事実。
最初から、原作にない白いドレスを着た妖精のような少女が出てきて、出演者にまとわりついたり、舞台の斜め右から一喜一憂しながら眺めたりしている。
1幕では、幼稚園児くらいの少女。2幕では、あれ成長したと思ったら、小学高学年くらいの少女。途中から二人とも登場・・・・。
ともかくその演技も、父親世代から見ると可愛くてしょうがないのだが、大人のドラマに何故?不自然であると同時に、ドラマの感興をそいでいたように思う。
モハメット君の役割は別にいるわけで、最後はぞろぞろ3人出てきて、今回はゾフィーが肩から落としたショールを拾いあげて幕となったくらい。
 可愛い彼女たち。
時の経過を司る少女たちではないかと思料。
1幕でオクタヴィアンと戯れるマルシャリンには見えなかったのに、幕の後半に、時間を意識してアンニュイになったあとから、マルシャリンには少女たちが見えるようになった。
少女に手を引かれ、オクタヴィアンの走り去った舞台を去る。
もう一人、少女たちが見えていたのは、オックス男爵。
2幕で、オクタヴィアンに決闘を挑まれるが、少女がオックスを後ろからチョンチョンとつついて、なに?と振り返った拍子にオクタヴィアンの剣でちょこっと怪我をする。
愛し合うオクタヴィアンとゾフィーと、少女たちの接点はなかった。
 云わんとするところはよくわかった。時間の経過とそれへの受入れ、同じコンセプトは、今春の横浜の「ホモキ演出」の根源だった。
ホモキは、舞台を逆さまにしたり、衣装を脱がせたりすることで、巧みにそれを表出していたが、今回の少女たちは、私としては、ちょっと過剰であったように思う。
それでも、カーテンコールで演出家へのブーイングは心無いことだ。
そんなことをしてどこが気持ちいいのだろう。素晴らしかったファーニナル役のユルゲン・リンが、あれれどうしてよ??というような面持ちだった。

 元帥夫人:ナンシー・グスタフソン オックス:ビャーニ・トール・クリスティンソン
 オクタヴィアン:藤村実穂子     ゾフィー:ヒェン・ライス
 ファーニナル:ユルゲン・リン    マリアンネ:田中三佐代
 ヴァルツァッキ:谷川佳幸      アンニーナ:増田弥生
 歌手     :佐野成宏

  クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
                     栗友会、東京少年少女合唱団
                     演出:飯塚励生
                        (9.25 @トリフォニーホール)

何と言っても、オクタヴィアン初挑戦の藤村さんがいい。
あの小柄な体で、そうしてあんなパワーある声が出せるんだろう。声が大きいというよりは、明晰で豊かな声量だから、オーケストラを圧してホールに響き渡るのだ。
その声も、暖かであり感情移入も豊かなので、聴き手の心をとらえてやまない。
バイロイトでフリッカやクンドリーを歌う藤村さんが、本場でも大きな歌手に負けずに評価されているのがよくわかる。日本人ばなれした声量と、日本的な細やかな歌唱。
 アイスランド生まれのクリスティンソンの深々としたバスにも感心。クルト・モルを思い出してしまったくらい。
ウィーンで活躍するグスタフソンのマルシャリンは、そのアメリカ人風の豊かな表情のとおり、少し大らかな歌唱だったが、若い歌手達の中にあって貫禄たっぷりの歌声。
Chen20reiss20fotoklein 予定された歌手が体調不良で降板し、代役で登場のライスは、驚くほど立派な声だった。
ゾフィーにしては声が強すぎかもしれないが、その美貌がまた素適な彼女、今後活躍しそうな歌手に思う。(画像)
他の諸役は、みんな良し。

それにしても、アルミンクと新日フィルの精緻でシンフォニックなシュトラウスは聴きものだった。右を向きすぎて疲れたとき、数々のワルツを優雅に指揮するアルミンクの姿を眺めたりしていたものだ。
 
 シュトラウスの巧みでニクイまでのオーケストレーション。
こうして舞台にあがったオーケストラを一望することで、普段ピットで見えないことが実によくわかった。弦楽器もソロあり、重奏ありで変幻自在な透明感をかもし出す。
何度観ても、何度聴いても、飽くこと無い「ばらの騎士」、そしてシュトラウスの音楽。
3幕の3重唱では、お約束の陶酔郷に誘われ、思わず涙が・・・・。

さて、5つめの「ばらの騎士」。
ひとつだけ、特殊な上演ではあったが、「これもあり」の「ばら騎士」。
あえて比較はいたしません。

次の「ばらの騎士」の舞台は、いつになるでしょうか?

「ばらの騎士」の過去記事

  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
神奈川県民ホール(琵琶湖) 沼尻竜典指揮
  ドホナーニ指揮のCD&4つの舞台のレビュー
  バーンスタイン指揮のCD
  ヴァルヴィーゾ指揮のCD(抜粋)
  プレヴィン指揮の組曲版CD

Dsc07552 開演前のホールの前の夕空。

そしてうれしいニュース。
カルロス・クライバーの「ばらの騎士」73年ミュンヘンの正規CDが出るとのこと。
リッダーブッシュのオックスが聴ける。  

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2008年9月23日 (火)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 東京シティフィル公演

Tristan_iimori_tcpo 東京シティフィル、オーケストラル・オペラ「トリスタンとイゾルデ」を楽しんできた。
指揮は日本が誇る大ワーグナー指揮者、飯守泰次さん。
今回は、会場をティアラ江東に移しての公演で、客席数1200、響きの豊かなこのホールは、これまでの文化会館や日生劇場よりは、ずっとワーグナーに適していたように思う。
第一、歌唱がオーケストラに消されることなくよく聞こえたし、オーケストラの音も芯があって、各楽器のブレンド具合がとても美しい。
このところ、ツェムリンシキーやスクリャービン、アルヴェーンなど、トリスタン後の音楽を聴いていたものだから、そうした作曲家たちが魅せられた本家トリスタンをオーケストラを俯瞰するような形式でじっくり聞きこむことができて、あらためてこの作品の偉大さに感服つかまつった次第。
日本人だけによる全曲上演は、もしかしたら初めてではなかろうか?
もし違っていたら教えてください。
私はかつて、95年、名古屋に単身赴任中に、時の音楽監督飯守さんの指揮で名古屋フィルのトリスタン演奏会形式抜粋を聴いたことがある。主役は岩本明志と渡辺美佐子。その時の記憶はうっすらとしかないが、まだまだ若々しかった飯守さんの指揮ぶりがやたら印象に残っている。
 あれから13年、髪もシルバーになり、ワーグナーにおけるカリスマ性を増して、恰幅のいい豊かで自在な音楽を作り出す巨匠となった飯守さん。
本日の主役は、飯守さん指揮する東京シティフィルだった。
ワーグナーの息の長い旋律と、刻々と移り変わる網の目のように張り巡らされた精妙なライトモティーフ。そんなオーケストレーションの妙を、このコンビは見事なまでに描きだしている。多少の傷はあったものの、そんなことはまったく気にならない。
1幕のイゾルデの長丁場を支える明晰な響き、2幕のブランゲーネの警告の夢幻なまでの美しさ、トリスタンが故郷を語る場面での寂寥感、3幕のトリスタンの渇望と熱狂。
こんな場面におけるオーケストラの素晴らしさ。
2年のブランクをおいて満を持しての「トリスタン」。かなり厳しい練習を積んだであろうし、なによりも飯守=シティフィルというくらいに、長い期間をかけたこのコンビが熟成の時を迎えているのかもしれない。リングの一部を除き、ローエングリン、パルシファルと聴いてきての実感。
フランスものを担当する矢崎さんの存在も大きいものと思う。
演奏終了後、拍手に応える楽員の中には泣いている方もいらっしゃった。
思わずこちらも涙腺が・・・・。
今年聴いた「ワルキューレ」もこのオケがピットに入ればよかったのに。

  トリスタン:成田勝美     イゾルデ:緑川まり
  マルケ王:小鉄和広     ブランゲーネ:福原寿美枝
  クルヴェナール:島村武男  メロート:青栁素晴
  羊飼い :近藤政伸

  飯守泰次郎 指揮 東京シティフィルハーモニー
              東京オペラシンガーズ
                     (9.23@ティアラ江東)

今ワーグナーを歌える日本を代表する歌手が勢ぞろい。
舞台栄えのする成田さん、出だしは体力をセーブしたのか慎重だったが、2幕の二重唱のリリカルな歌いまわし、対して3幕では声を全開してかなり思い切った歌となり、こちらも息を飲んだ。
緑川さん、少し前の出演をキャンセルしていて体調不良がまだ残っているのかもしれない。声の威力は相変わらず目を見張るものの、音程が決まらず、高音が苦しい、というか歌えていなかった。ちょっと気の毒。飯守さんのオケが巧みにバックアップしていた。
 あと、一番良かったのが、福原さんのブランゲーネ。「アリアドネ」の作曲家役で関東でも人気者になってしまった関西二期会の実力者だが、声に存在感が充分あって、その女主人よりも立派に聴こえてしまった。2幕の警告の場が、オケとともに極めて美しかった。
クルヴェナールの島村さん、前回の「パルシファル」のクリングゾルでの道化のような衣装の印象が私的にはまだ拭いきれないが、やや暗めの声によるクルヴェナールは実によかった。クルヴェナールが、トリスタンの傍らに倒れる時、毎度涙をそそられるものだが、演出の都合から、メロートと刺し違え、絶え絶えに倒れたとき、やはりグッときた。
 小鉄さんのマルケ、サルミネンばりの深々とした声に感心したが、ちょっと声が揺れぎみなのが気になったところ。
他の方々も贅沢な役どころで文句なし。水夫さん立派すぎだし。

舞台ぎりぎりにこぼれそうなオーケストラの背景に据えられた小舞台。
そこで、最低限の演技をするが、舞台奥の壁に刻々と変わる静止映像が映し出される。
当初は、ほぅ~と思ったが、何故に惑星の宇宙映像や、たくさんの覗き見お目々の映像は趣味わるすぎ。
でも2幕のグリーンの葉っぱはとてもきれい。
「愛の死」での胎児や宇宙、地球は、愛の死の浄化と救済を意味するのだろうか。
 映像はあってもなくてもよかったような・・・・、それよりも音楽が雄弁なものだから。

次のオーケストラル・オペラは、「オランダ人」「タンホイザー」「マイスタージンガー」のどれだろう。いずれも合唱がたくさん登場するだけに、ホールオペラ上演が難しそう。
いずれ、ティアラ江東で、「リング」連続上演をやってもらいたいものだ!
飯守さんのワーグナー、録音でもしっかり残していって欲しい。

「トリスタンとイゾルデ」過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演

おまけ画像=思い出の名古屋
Tristan_iimori_nagoya

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2008年9月21日 (日)

プッチーニ 「トスカ」 シュタイン指揮

Zakuro石榴の実。

めったに見かけなくなったが、先日都心で発見。
子供の頃、隣の家にその木があり、よく実をもらって食べたものだ。
だが不思議と、その味に記憶がない。決して美味しいものではない。

でも昔では考えられないほどに、その効能ぶりが評価されているスグレもの。(抜け毛予防なんかもアリよ)

Kishibojin 実は、これ、「谷中の鬼子母神」の中庭に植えられた石榴なのであります。
「恐れ入谷の鬼子母神・・・・」江戸狂歌のこのフレーズは、一時酔っ払っては口にしていたもんだ。
江戸には3大鬼子母神があって、雑司ヶ谷の法明寺、入谷の真源寺、下総中山の法華経寺。

石榴と鬼子母神も関係深い。
種が多く子宝に恵まれるということと、本来のインドからの言い伝えの神で、お釈迦さまが戒めに石榴を与えたとされること。
ふむふむ、何気ない都会の一隅で見かけた光景でも、深い云われがあるものだなぁ。

Tosca_stein

本日は、朝5時半に起き、運動会の開門に並ぶ。
6時とともに門が開き、ダッシュして陣取り。
もう10年もやっていると、若いお父さん方には敵わない。
その苦労も空しく、お昼のお弁当を済ますと分厚い雲が広がりすごい雨となりずぶ濡れ。
後半を残し、運動会はお流れに。

空いた午後を利用して、オペラを1曲。
ひねりを効かせて、プッチーニ「トスカ」独語版を聴こう。
何故にドイツ語か。
70年代前半くらいまでは、オペラは原語上演ばかりでなく、その国の言葉で上演されるケースも多かった。
日本でもほとんどが、ワーグナー以外は日本語上演で、私も何度も体験している。
今思えば奇異なことだけれど、字幕もなかったし、そうした方がオペラへの親しみが増したものだ。
ドイツでも、イタリア・フランスものは、ドイツ語上演されていたようで、その録音もかなりの数がある。今回の「トスカ」も同様、DGからは日頃ワーグナーを歌っているような歌手による、イタリアオペラ・ハイライト集も相当数出ていた。

 トスカ:ステファニア・ヴォイツォヴィチ  カヴァラドッシ:シャンドール・コーンヤ
 スカルピア:キム・ボルグ         堂守 :ギュンラー・ライプ
 スポレッタ:ヴェルナー・エンデレス

   ホルスト・シュタイン指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団
                    ベルリン国立歌劇場合唱団
                合唱指揮:ジークフリート・フォーゲル
                         (1961.ベルリン)

この演奏のポイントは、いうまでもなく、先ごろ亡くなったホルスト・シュタインの指揮。
しかもオケが、当時コンヴィチュニーがいたころのベルリンの歌劇場。
だから、さぞや重厚なワーグナーばりのドイツの響きを想像してしまうが、その予想に反して、冒頭の出だしから、明晰で透明感に富んだ響きが聴かれる。
その様子は全曲にわたって変わらず、威圧的な音は一切なく、プッチーニの大胆な和声を手馴れた様子で、かつオペラティックな歌いまわしでもって、見事に響かせている。
オペラの職人シュタインは、とても器用な指揮者だったからイタリアものや、ロシアものを指揮しても、透明感と軽やかさを失うことがなかった。
とても若い頃の録音ながら、ガチガチのドイツのオケからこんなプッチーニを引き出すなんて驚きだった。

「トスカ」ぐらいになると、原語がすっかり頭の中に刻み込まれているから、さぞやずっこけるかと思ったけど、全然普通。
1幕の壮麗な「テ・デウム」、スカルピアが「Geh,Tosca!」と歌うものだから、重厚なボルグの声と合わせて、思わずウォータンか。
こんな思わずニヤリの場面は随所にあるけれど、全然OK。
むしろ、2幕のトスカとスカルピアの緊張感ある場面や刺殺のシーン、終幕のトスカが身を踊らすまでのシーンなどは、ドイツ語の方がスリリングな雰囲気が巧まずして出ているようにも思えた。

歌手の中では、ワーグナーの諸役でも定評あったコーンヤが抜群にいい。
この人のプッチーニは、生真面目な歌声なだけに、そのシリアス感がお似合い。
ポーランドのヴォイツォヴィチは、最初はやや線が細いなと思っていたら、だんだんとその迫真の歌いまわしがツボにはまってきて、2幕以降は繊細かつユニークな歌唱に思えた。
ボルグの低音のドスの効いたスカルピアもいい。

口直しに、原語版も聴きたくなるのも隠せない事実だけれど、シュタインのプッチーニは大いなる聴きものでありました。

 参考過去記事

 「シャーンドル・コーンヤのプッチーニ・アリア集」

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2008年9月20日 (土)

ミャスコフスキー 交響曲第6番 N・ヤルヴィ指揮

2 せせらぎのたもとに佇む「彼岸花」
郊外を走っていて、ちょっと道をそれると、道端にはこの時期たくさん見かける光景だ。
繁殖力の強い植物だけに群生している。

遠くからはきれい。
でも近づいてよく見ると、なにやら怪しげな恰好の花だし、危険な様相も呈している。

台風は去ったが、無念なのは、札幌で行なわれた札響の「ピーターグライムズ」に行けなかったこと。
実は、チケットも早々に購入して、マイレージを利用して、ついでに仕事もしての札幌計画を練っていた。ところが、なんということでしょう! 息子の運動会と重なってしもうた。
最後の運動会だし、二人の子供で通算10年目の最終運動会に。
音楽への欲望は、家族愛が勝る。当然至極の出来事だったが、台風で運動会は順延に! あらら・・・・・。

Miaskovsky_sym6_2 

歌入り交響曲シリーズ。
本日は、ポーランド生まれのロシアの作曲家、ニコライ・ミャスコフスキー(1981~1950)の交響曲第6番を聴く。

このシリーズ、出だしは甘くみていたが、マーラー以降、歌入りシンフォニーは、あるわあるわ!
ベートーヴェンとマーラーは、やはり交響曲のジャンルにおいて、超偉大な存在なのだな、これが。

ミャスコフスキー(名前がややこしいし、打ちにくい名前なのだ)は、交響曲をなんと27曲も作った人で、交響曲分野における絶倫ぶりは、次に登場予定のブライアンと双璧!
ガチガチの軍人の家庭に生まれたゆえに軍人経験を経ての音楽志望で、学業中はプロコフィエフとご学友となり親友となった。
ロシア→ソビエトという体制の流れにもまれながらも、うまいこと体制に乗りつつ、神秘主義的音楽、アヴァンギャルド風、社会主義リアリズムにのっとったロマン主義風、古典派風と巧みに作風を変えていったという。
私は、ミャスコフスキーには奥手で、この交響曲がはじめて。

1921~23年の作曲で、伝統的な4つの楽章に、最後は合唱が登場する70分をようする大曲。社会主義リアリズムの路線で書かれたというが、初聴きのワタクシには、そんな概念はさっぱりわかりませぬ。

とてつもなく長大で、くどく、濃厚、甘味さも悲壮感もシニカルなユーモア感も、どれもこれもが満載の寄せ鍋のような音楽に聴こえる。

出張・通勤の車内で何度となく聴き、その勇壮でかっこいい第1楽章の旋律が頭にこびりついてやまない。この楽章は、私の愛するバックスの音楽のようで、荒涼とした人間を突き放すような大自然の音楽のように感じる。この楽章だけでも22分もある。
 次のスケルツォ楽章は、慌しく悪魔的な雰囲気。急転直下の中間部は、チェレスタがチロンチロン鳴り、フルートが涼しげに歌ういい場面が現れるが、それも束の間。
 3楽章の不安な出だしは、ちょっと落ちつかないが、1楽章の旋律が再び熱っぽく現れ、クラリネットがラフマニノフばりの憂愁溢れる旋律を奏で出して、音楽はロシア風の熱っぽい憂いを満ちた雰囲気になり、「怒りの日」までがうまいこと引用され、実にいい雰囲気。
 ところが、終楽章がこれまでの深刻・シニカル・憂鬱の雰囲気を打ち捨ててしまう。
あまりにあっけらかんとしたホルンの咆哮で始まる。
あれれ?の思いだが、フランス革命の音楽が鳴り響き、聴く側はもう気分的に追いつけなくなってしまう。革命成就の讃歌なのだ・・・。
ところが暗雲たちこめ、「怒りの日」が低弦にはっきりとあらわれ、再び不安の様相を呈するが、またもや明るい讃歌で打ち消され、やがて合唱がシリアスに登場し、神々しい雰囲気となって終了する。
その詩は、「我々は見た、死の体から魂が分離し、神のさばきのもとへ、そして体は母なる大地へ・・・」というようなもの。(と思う)

27曲をスヴトラーノフが全曲録音しているが、さすがの親父ヤルヴィもそこまではできまい。エーテボリ響とDGに録音したこの演奏は、相当に気合もはいり、デティ-ルも美しい最上の演奏に思う。録音も最高によろしい。
まだ聴き込みが足りないが、悪くはない。でもそんなに好きではない。しかし怪しくて気になる。
ほかの諸作はどうなってんだろう?
詳しい方ご教授のほど、お願いします。

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2008年9月19日 (金)

エルガー&ラフマニノフ 交響曲第2番 追悼ヴァーノン・ハンドレー

Handley 英国の名指揮者、ヴァーノン・ハンドレーが9月10日に亡くなった。1930年生まれ、享年77歳は指揮者としてはまだ早い。
英国音楽を愛好する者にとって、やはり早く亡くなった、ブライデン・トムソンとともに、その死が本当に悔やまれる。

(Handley ハンドレーかハンドリーか、その読み方は何とも言えませんし、弊ブログでも両方あったりして、あいすいません。)

ハンドレーで知ることとなった英国音楽は数知れない。スタンフォードにバントック、バックス、ブリッジ、ブリスにモーラン・・・・。
私が英国音楽にのめり込んでゆくとき、その時の指揮者は、たいていハンドレーかトムソンか、ヒコックスだった。

ボールトに認められ英国楽壇にデビューし、全英・アイルランドで活躍したハンドレー。
日本にも客演しているが、残念ながら聴く機会がなく終わった。
その練習がかなり厳しくて辛辣なため特定のポストに恵まれなかったというが、音楽を愛するあまりの修道僧のような人だったのだろうか・・・・・。

英国音楽の今後、同じようなオールマイティ派は、ヒコックス一人となってしまった。
後続の若手に期待したいが・・・・・。

Elgar_sym2_handley 昨日から、ハンドレーの指揮した2つの交響曲第2を聴いている。どちらも激安の廉価盤なところが嬉しくも寂しい。

まずは、ロンドン・フィルハーモニーとのエルガ
同じLPOを指揮しても、悠揚迫らぬ男性的なトムソン盤とくらべ、ハンドレー盤は、テンポとしては快適なまでにノリが良く颯爽としている。
 歌と自国愛に満ちた伸びやかな第2交響曲の魅力を、ハンドレーは巧まずして描きだしている。
2楽章のラルゲットの気品と悲壮感は、ハンドリーの死を悼み聴いてはいるものの、前向きで明るい明日を心に秘めているようで、何だかとても気分がよくなってしまった。
終楽章の低回なく進むなかにも感動的な音楽が立ち昇ってゆく様は神々しいものだ。

Rachmaninov_2_handley

同じような規模の第2交響曲でも、ラフマニノフは国を遠くから恋焦がれる切なさに満ちた泣きの音楽。
生真面目なハンドレーが、ロイヤルフィルを振って、意外や意外、相当に熱っぽい名演を繰り広げる。
元来、英国の音楽家達はラフマニノフが得意だが、この演奏は相当に、いや、かなりに素晴らしい。
 冒頭から、気の入れ方が違う。
3楽章の情熱の高まりはノーブルながら、そのじわじわ感が堪らない。
そして、騙されたと思って終楽章の熱き盛上りを聴いてみて欲しい。

英国の指揮者たちは、気品があって安定感のある人たちに往々にして見受けられがちだが、実はその腹の一物の熱きことただものではない人々が多い。
ヴァーノン・ハンドレーもまちがいなく、その一人で、英国音楽の演奏と録音にかける情熱な並大抵のものでなかった。
また一人、私の楽しむジャンルの達人が亡くなってしまった。
 でも、きっと大英国のことであるから、ヒコックスばかりでなく、ベテランや若手からも、その伝統をしっかり引継ぐ人が続出するに違いない。

ヴァーノン・ハンドレー(ハンドリー)さんのご冥福をお祈りいたします。

ハンドレー指揮の過去記事

 「ホルスト 惑星」
 「モーラン ヴァイオリン協奏曲とロンリーウォーターズ」
 「ディーリアス ピアノ協奏曲」
 「ディーリアス 夏の庭園で」
 「ディーリアス ヴァイオリン協奏曲」
 「ディーリアス 北国のスケッチ」
 「ブルッフ スコットランド幻想曲」
 「バックス 交響曲 春の炎」

 

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「雨に唄えば」

3二泊の出張、一泊目は飲みすぎて二日目は不調。
大人しく、ホテルで過ごすことに。
それでも、各酒手配して、テイクアウトのケパブサンドの具をツマミにテレビのチャンネルをくるくる回しつつ楽しむ。

おっ、「雨に唄えば」やってんじゃん

1

ハリウッド全盛時のミュージカルの名作。
1952年の作品とは思えない鮮やかな色彩と、ユーモアたっぷりの内容。
今はへろへろのアメリカだけど、世界が憧れるアメリカンドリーム。
家具も車も、洋服もみ~んなかっこいい。

2

主役兼監督のジーン・ケリーの歌と踊りの素晴らしさ。
その歌と踊りに加えて、デビー・レイノルズの美しさ。
「スター・ウォーズ」のレイア姫役、キャリー・フィッシャーは彼女の娘。
ドナルド・オコナーの少年のような親友ぶりもいい。
気の毒なのは、悪声のリナ役。
日本語吹き替え版もその声はめっぽう楽しかった。(小原及梨子だったかな?)

久々に見て、あまりに楽しく、音楽も素晴らしく酔って涙が出てきた。

名古屋のホテルの一室で一人涙ぐむ、さまよい人ひとり。
翌日は、しっかり、ちゃんと雨であった
そして、台風が追いかけてきました

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2008年9月17日 (水)

アルヴェーン 交響曲第4番「海辺の岩礁から」 N・ヤルヴィ指揮

Acda0d2 IKEAレストランにて。
スウェーデンの世界的な家具屋さん「IKEA」。
日本再上陸後、船橋、横浜、神戸、大阪そして今秋、新三郷に出店。
世界統一モデルの家具が、家具は一生もの、という思いが根強い日本各地に根付くかどうか。

IKEAによると、東京西部、名古屋、福岡が次の出店候補エリアと。
カラフルな色使いや、自分で組み立てるコンセプトからして、年代的に限られてくるかもしれないが、これからおしゃれを意識する余裕ある世代が増えることで、年代の問題はなくなるかもしれない。
家具ばかりでなく、ファニシングや食器などが狙いだし、直系のレストラン会社の運営するIKEAレストランだけでも、行く価値アリです。
ブッフェスタイルなので、油断してると結構高くなります。要注意。
ワタクシは、遅い昼食でスウェーデンビールを飲んでしまいます。
夜間もアフター6に、ビール100円ですぞ。

それと長くなるのは承知で、もうひとつスウェーデンからやってきたのが「H&M」。
ユニクロにデザイン色を強く持てせたようなローコストカジュアル衣料の強力な業態。
世界第3位の衣料専門店。銀座にまず登場。

Alfven_sym4

歌入り交響曲シリーズ。

アルヴェーン(1872~1960)はスウェーデンの世紀末民族主義的作曲家。
民族音楽の収集に熱心で、故国の風物を歌いこんだ音楽もたくさんあるが、5つある交響曲と合唱作品の数々にその抒情とロマンティシズム溢れる作風を盛り込んだ桂作を残した。
交響曲第4番「海辺の岩礁から」。

まだ見ぬ北欧の風物。
シベリウスの音楽の背景にあるフィンランドの森と泉の弧高の自然とはまた違った印象を持つスウェーデンの自然。
短い夏を惜しみ解放的になり、冬は寒さに閉ざされた明暗の二面性を持つのではないかと思っている。
「夏の海辺の岩礁」を思うだけで、その光景が目に浮かぶ。
短い夏を寿ぐ男女の愛と海の情景を、テノールとソプラノのヴォカリーズを伴なって歌い上げた幻想的な交響曲は、「シンフォニア・エロティカ」ともかつては呼ばれたくらいに、悩ましくも充たされない思いがたくさん詰まった切ない音楽なんだ!
曲の概要は、以前の記事をご照覧くだされ。

Alfven_sym4 私は、この交響曲が大好きで、ちょうどシェーンベルクやウェーベルンから始まり、ベルク、マーラーに行き着いた頃に聴いた。
ウェステルヴェリイとストックホルムフィルに、セーデルシュトレムに売り出し中の亡きウィンベルイが歌ったレコードである。
夜に一人、グラスを傾けながら何度聴いたかわからない1枚で、今はCD化されているのだろうか?

それと、前回記事のナクソスから出たウィレンとアイスランド響の演奏も良かった。
そして今回、ジャケットが素敵なBIS盤を1枚1枚と揃えて楽しんだ親父ヤルヴィストックホルムフィルによる演奏を、歌入り交響曲シリーズの一環として取上げてみた。

1919年完成で、マーラー没後間もなく、欧州は世界大戦後のゴタゴタにあって、ますます世紀末的な退廃ムード蔓延のころ。
その音楽は、まるで、シュトラウスかツェムリンスキーの様相で、それらに北欧的な澄んだ響きと荒涼感を与えたようなムード。望郷のラフマニノフにも近い。
男女のアァ~ァア・・・・、という歌声が悩ましくも切ない。
これまた大人の聴き手に、是非にも聴いていただきたい夜の音楽である。

以前の記事からアルヴェーンの言葉を引用。
「この交響曲は二人の人間の愛の物語と関係があり、象徴的なその背景は外海へ転々と広がる岩礁で、海と島は闇と嵐の中で、互いに戦いあっている。また月明かりの中や陽光の元でも。その自然の姿は人間の心への啓示である。」

北欧系音楽の父(?)ヤルヴィにこの手の音楽を振らせたら文句なし。
でも、レコードで聴いたウェステルヴェリイの指揮によるものは、さらに茫洋としたロマンが立ち込めていたように思う。
クリスティーナ・ヘークマンのソプラノ、ハーカン・アーンショーのテノールは、雰囲気ばっちりの歌いぶりで、陶酔郷へと誘ってくれる。

あぁ、かの国に一度いってみたいものだ(純粋な気持ちでヨ)
スウェーデンという国は、世界的な量販業態をシステマテックに、しかもお洒落に創出することに長けているのかしらん。

過去記事

「ウィレン指揮アイスランド響」

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2008年9月15日 (月)

「地球はマルイぜ」 武満徹:SONGS 林 美智子

Suiren まだまだ暑いですな。
台風シーズンも心配な今年。
地震が来るなんて予言はめでたく外れたけれど、備えはしておかなくてはならないね。
私も、帰宅難民の一人と予測され、自宅まではおそらくまる1日。
いや、大きな川が何本もあるから2日。実家までも同じくらいかかるだろう。
いつか来るその日、私には何ができるだろう・・・。

涼しげな睡蓮の花が清々しい。

Michiko_hayashi_songs今年春に観劇したR・シュトラウスの「ばらの騎士」で小柄ながら、存在感あるオクタヴィアンを聴かせていた「美智子さん」のCDが出たのでさっそく聴いてみた。

「地球はマルイぜ」というユニークなタイトルの1枚は、武満徹の歌曲集なのだ。
武満作品とはいえ、あの精妙かつデリケートな現代作品ではなく、気のきいたフォークソングかシャンソンのような曲ばかり。
そう、日本版メロディー(フォーレのようなフランス歌曲)とでもいえる小粋な歌たち。
全21曲。一部を自ら作詞したが、半分は朋友、川俊太郎の詩によっている。
五木寛之詩の「燃える秋」も入っている。(かつてハイファイセットが歌った!)
伴奏は、ピアノのほかに、ギター、曲によっては弦楽四重奏も入って、クラシック系の聴き手にも充分に耐えうる響きにもことかかない。

そもそも武満徹はこのように言っている。「クラシックのこむずかしい現代音楽を書いている作曲家がこんなアルバムをつくったりするのか、不思議に思われただろう。・・・、私にとってこういった営為(いとなみ)は、<自由>への査証を得るためのもので、精神を固くとざされたものにせず、いつも柔軟で開かれたものにしておきたいという希いにほかならない
(以上、本CD解説及び石川セリのCDより引用しました)

偉そうなことはいえないけれど、私とていつも難しいクラシックやオペラばかりを聴いているわけではなく、時おり、若き日々に戻ってロックやポップス、ジャズ、演歌や歌謡曲も聴いているのであります。創作活動をしてるわけじゃないが、柔軟な耳と心を保つには、いろんな音楽も受け入れなくてはならないのであります。
一番の難題は時間との戦いのみ・・・。

Michiko_hayashi_songs_2

こんなことを書いたけれど、この1枚は、クラシックの歌手が歌ったものであって、私たち愛好家が日頃楽しんでいる領域にもしっかりあって、歌好き、オペラ好きの方々に是非聴いていただきたい。

タイトルの「地球はマルイぜ」は、「○と△の歌」で、「不良少年」という映画の主題歌。
「地球ハマルイゼ、林檎ハアカイゼ、砂漠ハヒロイゼ、ピラミッドハ三角ダゼ・・・」というシュールだが、以外に深くみある曲。

このようにユーモア溢れる曲、ちょっぴり寂しい曲、アンニュイな気分の曲、恋の曲、そして悲劇を予想させる曲、シリアスな曲、別れの曲・・・・、映画にまつわる音楽を中心にたっぷりと楽しめる。

気にいったのが、子供の頃をなつかしく思い出すような「小さな空」、自虐的だけれど不思議な希望に満ちた「昨日のしみ」、シャンソンのような「うたうだけ」、老人の悲しみを歌い染めたような「ぽつねん」、名曲「雲に向かって立つ」、悲しい別離を3拍子の音楽で歌う「ワルツ」、明日は誰にでもやってくるんじゃぁぁの「明日は晴レカナ、曇リカナ」。
オペラ歌手により歌われると、フォーレのエレジーのように聴こえる「燃える秋」!
そして、最後の3曲が深い音楽であり、歌唱なのだ。
ベトナムの平和のために作られた「死んだ男の残したものは」では、虚ろなくらいのピアノ五重奏による伴奏がつけられ、原曲のシンプルだが深遠な内容にさらなる深みを添えている。荒木一郎が作詞し歌った「めぐり逢い」は澄み切った空を眺めるかのようなモーツァルト的音楽。
そして、石川セリが歌った「MI・YO・TA」。
武満徹の葬儀で、黛敏郎が武満が作ったメロディをずっと持っていて、口ずさんだ曲だという。単純なメロディーながら、どこか寂しげで、辞世の色が濃い。

林 美智子さんのしっかりとしたメゾの声は、きりっと一本筋が通っていて、ぶれがまったくない。かといって、こちらもしっかりと背筋を伸ばしてかしこまるこ必要がなく、リラックスして彼女のよく響く声を受け止めるのがいい。
あたりまえながらに、日本語のニュアンスの美しさにも感心。
詩の情景が目に浮かぶように、谷川ワールドをもそれぞれ歌いだしているのもさすが。
明るい彼女のお人柄も感じます。

    木もれ陽のきらめき浴びて近づく
    人影のかなたに青い空がある
    思い出がほほえみ 時を消しても
    あの日々の歓び もう帰ってこない

         残されたメロディひとり歌えば
    よみがえる語らい今もあたたかい
    忘れられないからどんなことでも
    いつまでも新しい今日の陽のように
           
(MI・YO・TA 谷川俊太郎)

2008e5b9b43e69c8820e697a5photos2001 オクタヴィアンに扮した林さん。
同姓同名のベテラン女優もいらっしゃいました。
今度は、いつオペラの舞台に立たれるのでしょうか?

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2008年9月14日 (日)

チャイコフスキー 「エフゲニー・オネーギン」 二期会公演

Eugene_onegin面白かった!!
この一言に尽きるすこぶるつきの演出を体験することが出来た。
二期会公演、チャイコフスキーが抒情的情景と名付けた「エフゲニー・オネーギン」を観劇。
サプライズの演出家「ピーター・コンヴィチュニー」が95年にライプイヒで製作した演出で、ご本人が直々に1ヶ月間に渡って指導した渾身の舞台。
カーテンコールにも、シャツにカジュアルパンツの軽装でにこやかに登場し、喝采を浴びていた。
 いわゆる読替演出とか言われる、昨今の演出上位のオペラだが、正直食わず嫌いの私である。
昨秋のドレスデン来日公演のコンヴィチュニー・タンホイザーは納得感がなかったものの、その豊富なアイデアと奇抜さに舌を巻いたものだ。
原作とは違う、と拒む前に、こんな考えもアリ?、作者もそれを思ったかも?・・・とかいう気分で、その「演出家作」の舞台を虚心に楽しんじゃえばいいのかもしれない。
優れた音楽作品は、そうした解釈を受け入れてもびくともしないのだから。



One_y23791幕から2幕第1場まで約90分が休みなく上演され、幕間休憩のあと残りの部分を上演。
 2幕1場は、タチャーナの命名日のパーティと男二人の決定的な亀裂。2場は決闘の場面。前半が長いが、よく考え抜かれた上演形態だ。
急転直下する場のつなぎが、唖然とするほど見事なのもこの演出家ならでは。ここでは、舞台の赤い幕をタチャーナを始めとする登場人物たちが自ら引き、時には半開きで場面を作り出したり、次の場を用意したりする秀逸さ。

簡単に今回の舞台を振り返ってみると・・・。

舞台は開演前から、数人いて掃除をしたり、新聞を読んだり、酒を飲んだり、談笑したりしている。すると突然、若い男がびっくりするくらいの奇声を発し、ぶっ倒れる。
あ~、びっくりした。ここでオケが音合わせを始め、指揮者が登場する。
オケピットは、舞台からの幅の広い通路で前面両脇を覆われ、まったく楽員が窺えない。

One_y8854_2 ①母ラリーナと乳母はアルコール依存症のようで、懐からスキットルを出しては飲んでいる。乳母の鼻は赤いし。タチャーナとオリガの姉妹、姉は本を片時も離さず、片隅には本の山が築かれる夢見る文学少女でそのおぼこぶりは悲哀を誘う。
一方の妹は、カチューシャを髪に付け、明るく陽気でダンス好きの奔放な少女。
舞台に最初から最後まで据えられたハープに乗って歌う姉妹の歌が素敵だった。
床と壁の半分は、鏡面仕上げで、ツルツルして眩しい。登場人物たちは、時に厚手の靴下を履いていて、その床をツィ~と滑ったりする。

村人の楽しげな合唱は、労働を強いられているだろう無愛想で無表情な労働者たちの合唱だった。
彼らは、舞台の真中に裸の白樺の木を立てて据えた。
 レンスキーとオネーギンが登場し、娘二人と歓談するが、オネーギンはシャンパンを懐から取り出し、その白い包み紙をそこへ捨てる・・・・。

One_y8945 愛の告白手紙を書くタチャーナは、本に埋もれながら必死。仕舞に先ほどの酒の白い包み紙を持ってきて、そこにしたためようする。あまりに素晴らしいタチャーナの手紙の場面は、こうして進められる。
彼女は、ピット前の通路に出てきて夢中になって歌う。
今回は3列目中央だっただけに、目の前で歌われるあまりに素敵なアリアがビンビンと耳に響く。
そこで、思い余った様子で一気に大紙に思いをしたためる。夜明け後、乳母に手紙を託す場面もいじらしく奥手ながらも現代ッ子風の動作に微笑みが浮かぶ。
 次の場、乙女たちが果実を摘みながら歌う合唱は、酒瓶を手にした酔いどれのエロテックな娼婦たちの合唱と化していた。
その女たちを抱えながら、足元も覚束ない様子でオネーギンが登場。

純真なタチャーナはもうドギマギして動揺を隠せない。
その女たちがいる中、例の大判の手紙を取り出し、娼婦と読みながら説教じみた話をするオネーギンは、まったくひどい。
夢やぶれたタチャーナを慰めるようにして去る娼婦達。
(この場面、ヴェヌスブルクのタンホイザーを思い出してしまった。乗り遅れてしまった人物たちの悲しい滑稽さの悲劇とでも言おうか)

One_y2666  ショックのタチャーナは、舞台の赤い幕を隅まで引いていってしまい、悲嘆に暮れるが、音楽は華やかなワルツが始まる。
幕の下から、足がニョッキリ、顔がひょっこり。ビックリするタチャーナ。
そして幕が開き、舞台は下卑たカーニヴァルじみた雰囲気のパーティ会場。
冠をかぶせられた哀れなタチャーナは、椅子の上に立たされ、今宵の主賓に。
酔ったオネーギンに無理やり踊らされる彼女に、上機嫌で場馴れしたおきゃんなオリガの対比が面白い。そんなところに登場する場違いなフランス人道化は、オカマちゃんで、キツネの襟巻きを巻いていて、それには値札だか血統書だかが付いているのがわかる。
この道化、タチャーナの大事な手紙を巻き上げたり、オネーギンをからかったりと、なかなかに面白い動きを舞台狭しとしてくれる。
 やがて、群集を巻き込んで全員で、マズルカの音楽に合わせて、なんと椅子取りゲームをわいわいと楽しげに始めてしまった。
その傍らで、レンスキーとオネーギンの喧嘩が始まり、決闘を約束することとなる。
詩人レンスキーは動揺しまくって、傍らの本の書籍の山から本を震えながら漁りまくる。何事も詩に託す、几帳面な哀れなレンスキー。
でも二人は、それぞれものすごい勢いで、椅子を蹴散らして奥の階段から退場する。





②幕間でも開幕と同じように舞台で人物たちが動いている。そしてお決まりになったかのように奇声を発する男の一声があったがが、今回は彼に対する拍手が起こった。

Onegin080911_09_2   決闘の場面は、分厚いオーバーや帽子をまとった男たちが、三々五々ゆったりと登場するなか、レンスキーの感動的なアリアが歌われる。
消沈したレンスキーは眼鏡を取り出し、いつも離さない小さなメモ帳を手に思いに耽りながら歌う。
その後ろを、コートを脱いで垂らしながら、オリガがゆったりと登場して舞台奥に消えてゆく。コートを脱いで、本心を表現した彼女の悲しげな歩みに、レンスキーの美しい悔恨のアリアが心に響く。
オネーギンが介添人とともに、べろべろに酔ってやってくる。
そういえば、彼のコートはずっと前からハープに掛けっぱなし。
コートを纏うのが偽りの姿か、脱いだら本心なのか?登場人物たちは、いずれもコートやオーバーを羽織っている。
それを時おり脱ぐのは、主役の4人だけ。まことに忙しい。
コンヴィチュニーは、コートにいつ出発してもいい自分、人生が別な場所にあるのではないかという思いを様式化したという。
酔っていたフリのオネーギンは、レンスキーとともに、過ちであって欲しいと後悔に暮れ、二人抱き合ったもするが、回りの群集の目がそれを許さない残酷なものになっている。
だんだんと、その男達から包囲されてしまう二人・・・・。

やがて、発砲の音とともにレンスキーが倒れる。私たちの目からは、一団の人の群れしかわからず、不本意ながらの傷害事件に思える。

One_y2729  ショックにおびえるオネーギンを残し、音楽はそのまま豪奢なポロネーズの音楽へなだれ込む。男達は、帽子や厚ぼったいオーバーを脱ぎ捨て、次から次にレンスキーの亡骸を覆ってしまう・・・・・。

本来なら、ペテルブルクの宮殿で、絢爛豪華なバレエが繰り広げられるこの場面。
そんなものは一切なく、服に埋もれたレンスキーの死体と、傍らでわなわなするオネーギンのみの殺伐とした舞台。
やがて、オネーギンは、レンスキーのメモ帳(たぶん辞世の詩の下書き・・・)を読み、服を一枚一枚取り除き、レンスキーをかき抱く!
息のないレンスキーを、無理やりに立たせ、二人で踊るオネーギンは死神のようだ。


 筋から言えば、ポロネーズは、2年後のタチャーナのトップレディ就任後、オネーギンの放浪後のものだが、ここではレンスキーの死といっしょくたになっている。
(こうすることで、死に至らしめてしまったオネーギンの孤独ぶりと猛省ぶりが強調されたように思う。)舞踏曲の一部がカットされたのは、このコンセプトからして頷けるもの。
そしてまた、コンヴィチュニーの卓抜なアイデアが。タチャーナとグレーミン公は、文化会館ホールの2階左サイドに登場し、貴族の一部はその右サイドへ。

舞台には、貴族や取り巻きがタキシードに白ドレスの合唱団姿で。
ピット前面通路には服も乱れたオネーギンが。それぞれがやり取りするし、グレーミン公のおのろけアリアも2階席で歌われるもだから、首が忙しい。
Onegin080911_12  取り乱したタチャーナは、着飾った貴婦人となっているが、舞台に戻るとそのコートを脱ぎ捨てオネーギンと抱擁を交わす。
そして、二人の愛情復活の押し問答は、音楽も含め、ちょっと霊感不足の場面だが、この演出では、またしてもタチャーナが幕を引いてしまった舞台前面で、緊張感あふれるやりとりが行なわれ、そのきめ細やかな、かつ即興的な二人の演技により飽くことがなく観れた。

ついに、タチャーナは例の大紙に書いた手紙を懐から取り出し、ビリビリと破きはじめる。
叶わぬ愛に絶望のオネーギンは、コートをまといキメ台詞「「何たる不名誉、苦しみ、哀れな運命よ!」吐くものの、幕が一気に開き、舞台には登場人物がもう勢ぞろいしていて、カーテンコール体制。傍らでタチャーナは、手紙をちぎりにちぎっている・・・・。


※画像は、二期会HPやClassic newsから引用しました。

かなり長くなってしまったが、自己の記録だから思い出すままに書き連ねてしまった。
その意図がよく理解できたとは言えないが、プログラムの演出ノートによれば、「コート」「ハープ」「白樺の木」などのモティーフに象徴的な意味を与えているらしい。
コートは前述の通りだが、「ハープ」は運命の楽器としての竪琴、「白樺」は枯れていて、かつて存在していたものを意味するという。
人生は中古品として認識され、人々は閉ざされた完璧なシステムの中で脱出願望がありながら閉鎖感に喘いでいる。時代背景たるロシアの19世紀ばかりに限定されないという。

    オネーギン:与那城 敬    タチャーナ:大隈智佳子
    レンスキー:大槻孝志     オルガ  :橘 今日子
    ラーリナ  :日野妙果     乳母    :加納里美
    グレーミン:斉木健司     トリケ   :上原正敏
    ザレツキー:北川辰彦

    アレクサンドル・アニシモフ 指揮 東京交響楽団
                         二期会合唱団
    演出:ピーター・コンヴィチュニー
                     (9.12@東京文化会館)

歌手達の歌と演技の素晴らしさを何と称えようか。
ロシア語なんて、むにゃむにゃしててサッパリだけれど、実に堂にいった歌いまわしで、指揮者も絶賛したという。
 大隈さんのタチャーナがダントツで良かった。見事によく通る声は、抜群にコントロールされ、しかも力強い。目の前で夢中になって歌うさまは、観て聴いているだけで引き込まれてしまい、目頭が熱くなってしまった。
 大槻さんのレンスキーも極めてよい。甘さも兼ね備えた声は魅力的。
オネーギンの与那城さんは、長身で舞台栄えするバリトンで、不思議キャラのオネーギンにぴったりでもあって、若々しい傍若ぶりをかもし出していたし、声もハリがあってよい。
それとオジサン的には、歌に演技にオルガの橘さんがとても可愛いかったのだ。
あとの方々もすべてOK。

アニシモフの指揮は、オケを充分押さえながら、充分にコントロールの効いたオペラテックなもので、旋律あふれるチャイコフスキーの劇音楽としての魅力を堪能させてくれるもの。
ピットの覆いがあったこともあるが、音はかなり押さえていて、デリケートなニュアンスにも欠けていない。ピットに入った東響が実にしっかりしていた。
     
アイデアの放出だらけで、音楽を無視して劇の本質に迫っていない演出は面白くてもお断りだが、父の大指揮者フランツ・コンヴィチュニーに風貌が、ますます似てきたサラブレッドは、確かな音楽的素養を背景にして、なかなか一筋縄ではいかない演出を繰り出す大家である。そのすべてを理解、同調できる訳ではないが、そのメッセージ発信力の強い舞台に魅力を禁じえないようになってきた。
次はいつコンヴィチュニー演出に接することができるであろうか。

蛇足ながら、来シーズンの二期会演目に、R・シュトラウスの「カプリッチョ」の名前があった。演出は「ワルキューレ」のローウェルス、指揮は沼尻竜典。若杉さんでないところが寂しいのう。

 過去記事
「レヴァインのCD&ショルティのDVD」
 

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2008年9月13日 (土)

現田茂夫指揮 神奈川フィルハーモニー演奏会

Studium 西日が眩しい電車に乗り込み、残暑もあとしばらくと思いつつ、夕刻を横浜へ向かう。

私の贔屓の球団、「へっぽこベイスターズ」の試合が行われているスタジアムを横目に見つつ、山下公園方面に急いだ。

私の秋のコンサートシーズン開始の演目、好物のラフマニノフの交響曲第2番を聴くために!

     ムソルグスキー   歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲
     チャイコフスキー   ヴァイオリン協奏曲
                  Vn:千住 真理子
     ラフマニノフ      交響曲第2番
     チャイコフスキー   アンダンテ・カンタービレ(アンコール)

     現田 茂夫 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                       (9.12 @県民ホール) 

Kanaphl
クラシック名曲紀行と題されたコンサートは、オール・ロシアもの。
1、2階はほぼ満席で、なかなかの盛況ぶりは、こうしたコンサートによくある前半注目型。
それでも、ラフマニノフの第2は人気曲だし、コンサートでも始終取り上げられるようになった。
この夏はミューザで、尾高さんの名演に接したばかりで、今回は、現田&神奈フィルコンビの適性にぴったりと予測され、後半狙いのワタクシは本当に楽しみにしていた。

さて、広大な大河ドラマオペラの前奏にいかにも相応しい「ホヴァンシチナ」前奏曲。モスクワ河の夜明けサブタイトル通りに、さざ波と朝もやがかかった景色が思い浮かぶ桂曲。時おり、不安げな和音が響くのが、社会派ムソルグスキーの作たるところ。
とても丁寧な演奏で、本日のプロローグとしては、実によろしい出だし。

Mariko_senjyu_2 ついで、千住さんをソロに迎えたチャイコフスキー。メンデルスゾーンと並んで、日頃真面目に聴かなくなって久しい曲ではあるが、こうしてライブで聴いてみると、やはり名曲の名曲たる由縁。いい曲だ。
千住さんは、もっと歌ってよかったのではとも思えたけれど2楽章がよかった。
彼女の思うところと、出てくる音楽が、ほんとうにあれでよかったのかしら、とも思ってしまったけれど・・・。オケの合わせは完璧。
 自宅の古い雑誌で、75年にブーレーズが来日したおりの写真に、千住真理子ちゃんを発見。おやまあ!
1楽章の終りに、予想通り盛大な拍手。
曲終了後も、大きな拍手だったが、3回ほどのコールで、おれよあれよで、拍手は終息してしまい、妙に拍子ぬけ・・・・・。

う~む、今夜の聴衆は・・・・。

同席したblog仲間の方にも危惧を語ったが、それは見事に当たり!
ラフマニノフでは、楽章の合間にぱらぱら拍手が。
でも、これはこれで私は微笑ましかったのも事実。
繰り返しを実行した、20分あまりの長大でナイスな1楽章に思わず手を叩きたくなるのもわかる。甘味なる3楽章でも少し起こったが、音が完璧に鳴り止んでから起きただけに、じっくりとかの素晴らしい楽章を味わっていただいたに違いないから・・・。

そのラフマニノフ第2交響曲
神奈フィルの顔ともいえる、コンマス石田氏の姿が本日はなく、ゲストコンマスだったが、現田氏の指揮だけに、輝くばかりの綺麗な音色がいつにも増してホールに響き渡ったものだ。ヴァイオリンソロの登場場面が数回あるが、そのソロを受けた第1ヴァイオリンの音色があまりに違うものだから、実に面白い聴きものだった。
やはりオーケストラの音色というのは、明確にあるものだなぁ。
それと、体を大きく揺らしながら弾くスタイルもメンバーに浸透していて、私も曲が曲だから、体が動きそうになるのを止められなかった。

現田氏の後姿を見て聴いていると、その豊かな歌心が音になって湧き出てくるのがとてもわかる。1楽章の長い導入部からして、その思いが実によく伝わってきた。
そして主部の哀愁に満ちた旋律にもううるうるしてくる自分。
2楽章のリズム感と中間部の緩やかな部分との対比が鮮やかで、打楽器もよく決まって鮮やか。
そして、注目の3楽章。実演では、長いクラリネットソロが大丈夫かな、とドキドキしながら聴くのが常だが、本日の森川さんのソロは実になめらかで、安心してその甘味なる旋律に身をゆだねることができた。
寄せては返す連綿たる音の流れが、徐々に高まってゆき、それが奔流となって響き渡るとき、私はいつにも増して涙ちょちょぎれ状態に陥ってしもうた。
先日の尾高さんが、あくまでジェントルにこの高まりを表出したのにくらべ、現田氏は、思いきり歌いまくり、オケもきらやかな美音でもって思いきりこれに応えている。
 この曲の総括のような終楽章、思いのほかじっくりとしたテンポで着実に盛り上がりを築きあげ、壮麗なエンディングとなった。
素敵なラフマニノフが聴けた喜びで胸が一杯になり、ブラボー一声献上。

予想外のアンコールは、アンダンテカンタービレ
エエ曲にございました。ここでも歌へのこだわりが、心に染み入るように感じられた。
ただ、ラフマニノフの余韻に浸ったまま、ホールをあとにしたかったのも事実かな。

Nihonodori Yajirobei

アフターコンサートは、日本大通りを抜けて、ベイスターズ勝利に沸くおいしい居酒屋さんにお連れいただき、楽しい時間を過ごしました。
お魚に、好物の馬刺し。
とろけるように美味しい。
ラフマニノフを聴いたあとに相応しい一品!
皆様、どうもお世話になりました。

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2008年9月11日 (木)

ツェムリンスキー 「抒情交響曲」 エッシェンバッハ指揮

Softbank 告白した女性に「タダトモでいましょう」と言われ悲嘆にくれる兄。
「人生には、いろいろある」と父。
「オヤジ がんも!!

最高に笑える名作CMではないか
白い犬「カイくん」の人気もすごいね。
北大寺欣也の声がまたよろしい。

わたしも、息子を叱る時は、「おまえには、まだ早い」とか言っちゃったりしてますぜ。

Zemlinsky_lyrische_sym_eschenbach_2 年端もいかないお子様が聴いてはいけない音楽のひとつが、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」だ。
子供たちには、「おまえにはまだ早い」「くるみ割り人形」でも聴いて寝ちまえ!と息巻いて、自分は後期ロマン派臭がプンプンのツェムリンスキーを一人楽しむ悪い大人なのだ。

今日の歌入り交響曲は、ツェムリンスキー(1871~1942)の「抒情交響曲」
1823年完成、翌年自身により初演。
マーラーやR・シュトラウスの後継者であり、シェーンベルクの義兄であり、その「新ウィーン楽派」作曲家たちやコルンゴルドらの師であったツェムリンスキー。
初期の頃はブラームス流でもあったが、無調→十二音に行き着くことなく、マーラーの先を推し進めた、新しくて、かつ後ろ向きの作曲家。
マーラーが完璧に受容された80年代後半頃からその再評価が始まった。
オペラの数々に、人魚姫に、3つの番号交響曲、室内楽曲、歌曲、詩篇など。
でもその代表は「抒情交響曲」であろうな。
バリトンとソプラノの独唱を配した7曲の連作歌曲のような交響曲。
そう、まさに「大地の歌」。作者自身も、その延長上にある作品と公言しているし、原詩をインドのノーベル賞作家「ラビンドラナート・タゴール」のベンガル語の叙情詩に求めていることから、世紀末的な東洋主義への傾倒ぶりにおいても、マーラーと同じ世界である。
 その英語訳が「The Gardener」という名前の詩集で、「園丁(庭師)」という軽々しさを持っているが、さらにそのドイツ語訳のテキストなので、なかなかにインドの雰囲気は見出すことが出来ない。
男女の出会いと、その愛の憧れの成就と別離による終末が歌われていて、その音楽は繰返しになるが、ギンギンの後期ロマン派風であり、甘味で濃厚、汲めども尽きぬロマンティシズムの泉である。

Ⅰ「私は不安だ、彼方のものに焦がれているのだ・・」
Ⅱ「お母さま、若い王子さまは、この戸口の前を・・・」
Ⅲ「おまえは、私の夢の空に広がる夕べの雲」
Ⅳ「お話下さい、いとしいお方!」
Ⅴ「おまえの甘ききびきから解き放しておくれ、恋人よ」
Ⅵ「最後の歌を歌って、別れましょう」
Ⅶ「安らかに、わが心よ。別れの時を甘味なるものにさせよう・・・」

わたしは、「人魚姫」と並んで、ともかくこの曲が好きで、レコード時代のマゼールBPO&F・ディースカウ夫妻の名演に始まり、ギーレン、シノーポリ、シャイー、クレーなどを愛聴している。
     
   Br:マティアス・ゲルネ   S:クリスティーネ・シェーファー

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮 パリ管弦楽団
                           (2005.6)

このエッシェンバッハ盤はやたら滅法に素晴らしい。
もたれるくらいに念入りな指揮ぶりだが、だれることなく、気力がみなぎっていて、一音足りとも気の抜けた音がない。甘味さやロマンティシズムよりは、入念さがもたらす緊張感が全曲に貫かれているのがいい。終曲のエンディングの濃密な雰囲気などため息もの。
そして、ドイツのオケでなく、パリ管であるところがまたこの演奏のウリ。
パリ管は歴代非フランス系の指揮者だっただけに、インターナショナルな音を響かせることにかけては、国際級だが、それでも管の音色はさすがに、おフランス系のきらびやかさがある。管ばかりでなく、咆哮するブラスに泣きの弦や唸りを上げる低弦。それらに身を浸らせる喜びは堪らない喜びをもたらしてくれる。
 そして二人の歌手も、他の音盤が霞んでしまうくらいに理想的。
FDの弟子にして、FDを忘れさせてしまう知的かつ情熱的な歌声のゲルネはとんでもなく素晴らしい。
それと、シェーファー。こうした音楽を歌うために生まれてきたかのような同質ぶり。
ピエロリュネールやルルとともに、絵に描いたようにはまっている
第6曲など背筋が寒くなるようなスゴサなんだ。

いやはや、この1枚は私にとってかけがえのない1枚となりそうだ。

「人生には、いろいろある」、大人たちよ、ツェムリンスキーのこの曲を聴け!!

過去記事

 「シャイーの抒情交響曲」
 「シャイーの人魚姫」

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2008年9月10日 (水)

ヴォーン・ウィリアムズ 「田園交響曲」 ボールト指揮

Yurigaoka_1北海道の晩夏。
木漏れ日の織り成す、グリーンの濃淡が美しい。
英国の四季もきっと寒暖の差があるだけに、ドラマティックで美しいのだろうな。

唯一の英国訪問だが、高速を北に走っていると、そこここに緑の丘がぽこぽことあって、とても印象的な風景だった。
それは、まさに私の愛する英国音楽が似合う光景。
 

Rvw_pastoral

歌入り交響曲、今日は、レイフ・ヴォーン・ウィリアム(1872~1958)の「田園交響曲」を聴く。
 略してRVW
RVWには、9曲の交響曲があるが、バラエティに富んだ作風は鮮やかなくらいにそれぞれが異なった個性を放っている。
タイトル付きのものは、「海の交響曲」「ロンドン交響曲」「田園交響曲」「南極交響曲」と名付けてあるから、番号と併記するとややこしい表示となる。
そして、歌入りの交響曲は、「海」と「田園」と「南極」の3曲あって英国のシンフォニストの中では、一番歌に熱心だった。

この「田園交響曲」は交響曲第3番にあたり、1922年に本日聴いたボールトの指揮により初演されている。全曲がゆったりしたモデラートで書かれていて、ベートーヴェンの田園はリアルな田園風景だし、そこに人間も登場するが、RVWのものは、あくまで心象風景そのもので、より内面的な音楽に思う。
同じ作風は、5番の純粋交響曲にもいえること。しかも静かやながら、両曲ともに、二つの大戦の影響が影を落としている・・・・。

もともとは、北フランスにいた1916年頃から構想され、そのカミーユ・コローの風景画のような景色に大いにインスパイアされた。
しかし、第1次大戦が、この平和な交響曲に陰りを帯びさせることとなる。
構想から6年、完成した「田園交響曲」は、確かに平和でなだらかな牧歌的なムードにあふれているが、RVW独特のペンタトニックな旋律は、物悲しい北イングランド風で、戦争の悲しみをも歌いこんでいるかのよう。

木管の上下する音形で印象的に始まる茫洋とした出だしの第1楽章。徐々に霧が晴れてくるかと思うと、また風景は霞んでしまう・・・。
やはり静やかな第2楽章、長いトランペットのソロは、夜明けを切り裂くような悲しいラッパに聴こえる。あまりに儚い夢の中にあるかのようだ。
唯一元気のある3楽章は、フルートやヴァイオリンソロ、ハープの涼やかな合いの手が美しいが、ダイナミックな舞踏曲の様相となるユニークな楽章。
そして、この曲最大の聴き所の第4楽章。ティンパニのトレモロのなか、いよいよソプラノ・ソロが歌詞を伴なわずに入ってくる。このミステリアスな雰囲気で始まる繊細で美しい終楽章は、聴く私の心の襞に染み込んできてやまない癒しと安らぎの音楽だ。
最後に再度、ソプラノが歌い、消え入るように「田園交響曲」は終わる。

初演者のボールトニューフィルハモニア管を指揮した1枚は、小手先だけでないジェントルな大人の演奏。若きマーガレット・プライスのニュートラルな歌声も素敵。
のちに、カルロスの元でイゾルデを歌うことになろうとは、これを聴いた昔にはとても信じられないこと・・・・。

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2008年9月 7日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」 カイルベルト指揮

2ちょっと早いけど、 居酒屋も9月に入ると、秋のテイストに。
 
刺身に熱燗がおいしく感じられるようになってきた。

もう堪らない画像でしょ。
先週、名古屋の名居酒屋「冨士屋」にて。
「はまち」と「たこぶつ」。
たこは、日間賀島のもの(たぶん)。
菊正宗の辛口の燗は、純米だ吟醸だという前に、日本の食材によく合う。

Tannhauser_keilberth

ワーグナーの「タンホイザー」を聴く。
ワーグナーに帰ってくると、ホッとする。
英国音楽とシュトラウスともに、私の音楽生活の基本3原則だけに、安心して心を解放することができる。

通算7つめのタンホイザーCDは、カイルベルト盤
戦後バイロイトにクナッパーツブッシュとともになくてはならない存在だったカイルベルトは、それでも52年から56年までの5年間しか登場していない。
残された音源がいずれも立派だから。
それでも指揮した作品は、5年間でオランダ人、タンホイザー、ローエングリン、リングと4作品。
54年には、タンホイザー、ローエングリン、リングを、55年には、オランダ人、タンホイザー、リングを指揮しているからすごいことだ。今では考えられないバイロイトのシステムは、指揮者と演出が対等の立場にあった。
カイルベルトは56年を持って、68年に亡くなるまでバイロイトには登場しなくなったが、ミュンヘンの歌劇場を引き受けたことやザルツブルクへの登場、さらには、バイロイトではサヴァリッシュやクリュイタンス、ベームといったヴィーラント好みの指揮者の登用が多くなったことなどがあるかもしれない。
 今年、生誕100年のカイルベルト、先の「リング」とともに、正規音源の掘り起こしを期待したい。

Th1954a 今回のカイルベルトのタンホイザーは、1954年のライブで、51年から始まった戦後新バイロイトで、ヴィーラントが始めて出したタンホイザーの新演出。
54年と55年で、いったん引っ込めてしまい、61年に新たに新演出を問うこととなった。
指揮はカイルベルトとともに、54年がヨッフム、55年がクリュイタンス(オルフェオで発売済)。61年以降はサヴァリッシュやスゥイトナーが受け持った。
ヴィーラントの演出は、中学の音楽の教科書に出ていたので、そのシンメトリーの整然とした美しさが子供ながらに目に焼き付いていた。
昨今の、ごちゃごちゃした舞台のメッセージの多い舞台とは大違いで、これなら音楽を邪魔せずに一体化していそう。
それでも当時は、ヴィーラントの演出は物議をかもすことが多かったらしい。
2度目の演出では、バッカナールの振り付けにベジャールを起用して妖艶なバレエを見せたし、象徴的な不可思議なモニュメントを出したり、キンキラ・ヴェヌスブルクだったり。

 タンホイザー:ラモン・ヴィナイ エリーザベト:グレ・ブローエンスティン
 ウォルフラム:D=F・ディースカウ 領主ヘルマン:ヨーゼフ・グラインドル
 ヴェーヌス:ヘルタ・ヴィルヘルト  ヴァルター:ヨゼフ・トラクセル
 ビテロルフ:トニ・ブランケンハイム ハインリヒ:ゲルハルト・シュトルツェ
 ラインマル:テオ・アダム       牧童:フォルカー・ホルン

  ヨーゼフ・グラインドル指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                           (1954年)

Th1954b_2  素晴らしいキャスト。中でもヴィナイの、ほの暗く非劇的な色合いの声によるタンホイザーがいい。3幕での
それとやはり活きのしいF・ディースカウの明晰な声は、群を抜いているし、一番現代的。
グラインドルの深々とした声の領主に、のちの有名人たちで固められた脇役も文句なし。
ブローエンスティンのエリーザベトが声が素適な気品を感じさせはするが少し硬いのと、ヴィルヘルトのヴェヌスが少し古臭いのが気になった。
 素晴らしいのが、カイルベルトの逞しく気力あふれる指揮。
ビシビシと音が決まって、こちらの耳に飛び込んでくる。
1幕でのタンホイザーと旧友たちとの邂逅の熱さ、その後の盛上りは、猛然とアッチェランドをかけかなりのスピード感でもって興奮させる。
2幕は華やかさなどは微塵もなく、後半の感動的な場面では、ともに泣くかのような思い入れを込めた演奏。
一転3幕の、澄んだ空気に悲劇を予見させる前半は、じっくりと歌い上げていて、ニュアンス豊かなF・ディースカウの名唱とともに味わいが深い。
そして、「ローマ物語」からは、ヴィナイの重戦車のような大迫力タンホイザーもあいまって、大いなる感動をもたらし、最後の巡礼の合唱では感涙にむせぶこととあいなった。

 カイルベルト  Ⅰ(65分) Ⅱ(65分) Ⅲ(54分)
 クリュイタンス  Ⅰ(68分) Ⅱ(70分) Ⅲ(59分)

このカイルベルト盤、音の欠落がわずかにあったが、同じ演出でテンポがこれだけ違う。

放送録音で、ヒスノイズも目立つが、音質は驚くほどよろしい。

 タンホイザーの過去記事

「ドレスデン国立歌劇場来日公演2007」
「新国立劇場公演2007」
「クリュイタンス1955バイロイト盤」
「ティーレマン2005バイロイト放送」

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2008年9月 6日 (土)

シマノフスキ 交響曲第3番「夜の歌」 ドラティ指揮

Akafuku_2



ご存知、伊勢名物、「赤福」。

お互いいろいろあったけれど、なんだかんだで、北の「白い恋人」とともに、最強のお土産銘菓ではなかろうか!

赤福の原点は「赤心慶福」と株式会社赤福のHPに書いてありました。
商売をやる人間にとっては、心に刻むべき言葉かもしれませぬ。

亡父が、長らく名古屋に単身赴任をしていた。
週末に帰ってくるときは、名古屋のお菓子を鞄に詰めてやってきた。名古屋のお菓子は重たいものばかりなので、父の鞄はズシリと重かった。「赤福」「きよめ餅」「両口屋是清」「なごやん」「大須ういろう」・・・・、次から次に楽しんだもんだ。
父が退職後、私が今度は名古屋行きの辞令が出てしまい、週末のお菓子運搬を引継いだ。今は、義弟が名古屋に赴任し、現地婚をして名古屋人となってしまった。
たまの帰還のお菓子も赤福である。変わらぬ味。
でも「海老ふりゃぁ・シュークリーム」や「ばかうけ手羽先味」「きしめんパイ」・・・、なんだか最近の面白お菓子に人気は移りつつあるのか。軽いし・・・・。

名古屋にいた頃の、お客さんへの土産は、重くてがさばるものが重宝された。
間違っても、軽~いミルフィーユのような洒落た洋菓子はいかんかった。
名古屋でも、今はもう昔・・・・。

Szymanowski_sym3_dorati




歌入り交響曲。

ポーランドのシマノフスキ(1882~1937)の交響曲第3番「夜の歌」は1916年の作品。

シマノフスキは、遅れてきたような作曲家で、実はすごいカッコいい作品を書いたのに、全然見向きもされなかった。
ひとつには、ポーランドという国に地味さ加減もあるし、北欧のような熱烈な独立運動と音楽が結びつくことも近世においてなかったからかもしれない。
そして、シマノフスキの多面的な捉えどころのない変転する作風によるところが大きい。
 あまり多くを聴いてはいないが、ショパン風あり、シュトラウス風あり、スクリャービン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーあり、という具合に色んな味わいが横溢する。
ただひとつの括りで言えば、まぎれなく後期ロマン派で、ワーグナーとマーラーの流れをしっかり引き継いでいる。

交響曲は4曲残したが、3番は、13世紀ペルシアの詩人「シャルラディン・ルミ」の神秘的な詩をテキストにした、テノールに合唱を擁するカンタータ風の作品である。
ポーランドを出て各国で見聞を広め、古代ギリシアや東方・アラヴについても没頭した。
そしてドビュッシーを始めとする印象派音楽にも大いに触発され、この曲には、それこそ、いろんな要素がしっかり刻み込まれている。
 まず感じるのは。スクリャービンの神秘主義的な響き。これが一番強烈。
誰しも、これをスクリャービンと思うこと必至。
そして、ドビュッシーの精妙かつ印象主義的な模糊とした雰囲気もある。
意外に感じられないのが、シュトラウス風の甘いロマンティシズムで、その作風はこれよりも前の1番や2番の交響曲に聴いてとれる。

大まかに3つの部分に分かれる単一楽章形式。
25分ほどの音楽だが、その緊張感とまがまがしい雰囲気、そしてミステリアスな夜を歌う独唱や合唱に魅力を感じる。
ドビュッシーの夜想曲とスクリャービンのプロメテウスを足して割ったような音楽。

名匠ドラティが何故に、この1枚を録音したのかわからないが、さすがに明確で音楽の運びがしっかりと聴こえる。デトロイト響のうまさも充分感じとることができる優れもの。
あと他の演奏では、シマノフスキのスペシャリスト、ラトルの演奏はドラティが譜面を精確になぞった以上に、音楽への共感と思い入れが強い。

Akafuku_1 由緒あらたかな「赤福」
お伊勢さんへの、お抜け詣り、父が名古屋にいた頃に行ったことがある。
高校卒業の頃だったか、五十鈴川の清冽さを覚えている。
きっともう行かないだろうな。
出雲とともに、独特の雰囲気に満ちている。

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2008年9月 5日 (金)

ニールセン 交響曲第3番「ひろがりの交響曲」 ベルグルンド指揮

Okashinai 秋田県の「笑内チーズ饅頭」。
秋田内陸部の北秋田市にある笑内という街。
「おかしない」と読む。
お菓子があるのに、おかしない。
以前出張で、大館、鷹ノ巣に行ったときに発見した、このユニークなお菓子。
実は以前も紹介済みだけど、再登場させてしまおう。
 厳しい会議や会合の時に、こんなナイスなお菓子を出しちゃったら、その場を救ってくれることでありましょう。
かじるのが可哀想な、笑内饅頭でした。

Nielsen_sym3 歌入り交響曲、今日はニールセン(1865~1931)の交響曲第3番
広がりの交響曲」と呼ばれる。「シンフォニア・エスパンシーヴァ」=おおらかさや感情の表出を意味するらしい。

6曲あるニールセンの交響曲のうち、1911年のこの作品は、40代半ばの充実期のものらしく、交響曲の伝統を保持する部分と、新しいものへの表現意欲とにあふれた前向きな音楽。

きれいな4楽章形式。
第1楽章は、いきなり強烈なトゥッティで音楽が始まる。その推進力たるや並々のものでなく、誰しもやる気もりもり感を味わうことになる。
この楽章が一番長く、全体がニールセンらしい変拍子のような3拍子で、中間部にはワルツも登場する。
第2楽章は、一転して牧歌的な、まさに「おおらかな」ムードの音楽で、私などは英国音楽風、そうV・ウィリアムズとシベリウスのような響きを聴いてとることができた。
やがて、男女のヴォカリーズのソロが登場し、雰囲気がとてもよろしい。
この楽章は、私のお気に入りであります。アルヴェーンの同じような交響曲をも思い出す。
第3楽章は、不可思議なスケルツォだが、表情は明るく聴きやすい。
終楽章が、古典風で親しみやすい堂々たる旋律で始まる。
この旋律が刻々と姿を変えて曲は進んでゆき、最後にその旋律が堂々と登場し、曲は完結する。ここでは、私はエルガーを思い起してしまった。

北欧音楽の権化、パーヴォ・ベルグルンドがニールセンの本場、デンマーク王立管弦楽を指揮した全集。
構成感豊かな指揮に、クールで合奏能力の高いオケに驚き。
歌好きのワタクシ、2楽章の「ア~ァ~」が最も気にいりましたぞ。

Okashinai2 おかしな、お菓子、おかしない(笑内)チーズ饅頭。

おしまいに、雑談を。

9月、まだ暑いけれど、音楽シーズンは開幕しつつある。
残念(心配)な話としては、若杉弘先生が、体調悪く9月の演奏会をキャンセル。今月一杯は入院らしい。膵炎ということらしいが、回復を切に祈るのみ。

バイロイトでは、総裁ウォルフガンク御大が引退し、二人の娘エファとカタリーナが二人で引継ぐこととなった。
異母姉妹の二人、いずれも強烈な個性らしいから、これはまた楽しみ。大ワーグナーの曾孫は、お顔も似てる。

日本の総裁は・・・、テレビ受けする有名政治家が続々と名乗り。

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2008年9月 3日 (水)

アイヴズ 交響曲第4番 小沢指揮

4 今日のお菓子は、銘菓と呼べるかどうか??
再褐ながら、クリスピー・ドーナツを。
都内に数店オープンしたものだから、新宿や有楽町の行列はさほどではなくなったけど、街や電車で、この箱を持ち歩く方を見かけることはいまだに多い。
首都圏だけなので、出張土産としての人気も高いと聞く。
口に頬張ると、サクサクっと溶けてしまうような食感。たしかにおいしい。
でも、おいしいものには棘がある。
甘すぎの超アメリカーンなスィーツなのだ。
日本に上陸して間もないが、本国アメリカでは70年の歴史がある。
そして健康志向に追いやられ、苦戦中で、FCの中には廃業してゆく先もあるという。
さてさて、日本ではどうなることでしょうか?
味に敏感な繊細な日本人。本国の許しが得られれば、独自の味が開発できるのではないかしら。

Ives4_ozawa 歌入り交響曲。
今日は、アメリカのホリデー・コンポーザー、チャールズ・アイヴズ(1874~1954)の交響曲第4番
1909年から16年にかけてじっくり作曲された。
アイヴズの作風からして、もっと最近の作品のように思うが、マーラーが存命の頃の作品だけに、アイヴズの「趣味」の領域の作曲の腕前に驚きを禁じえない。
趣味とか書いたものの、実際は音楽家だった父親からみっちり教育を施されたほか、大学でも正規に作曲を学んでいる本物。
軍楽隊長だった父の影響は、マーラーさながらに、シリアスな音楽に突然割り込んでくる軍楽隊のマーチや賛美歌、街の喧騒音などの同時進行ぶりに現れている。
 そんな独創性が、絶対に受けないと考えたアイヴズは生計を立てるために保険会社のサラリーマンとなり、高業績を納め、さらに会社まで設立してしまったのは有名なおはなし。
 その合間に作曲をしたから日曜作曲家と呼ばれてしまう。
才能ある人が羨ましい。ワタクシなんぞ、酒飲んでごろんごろんしているだけだもの。

それはさておき、第4交響曲は4楽章形式で、第1と第4に合唱が入るがいずれも賛美歌。この交響曲は、既存の素材の寄せ集めとされるが、その素材は40曲以上ともいわれる。聴いていると、曲想や楽想の違う旋律が現れては消え、消えてはまた現れる。
それが最初は目まぐるしさを感じさせるが、聞き込むと徐々に旋律の出し入れが見えてくるし、いずれもアメリカ風の旋律ばかりなので、親しみやすいことに気付いてくる。
でも、しばらくして聴いてみると、またよそ行きの顔をしていたりするから、アイヴズの音楽はやっかいなのだ。
1楽章は短く、「夜を守る友よ」「はるかに仰ぎ見る」が荘重に歌われる。
2楽章に至って、いよいよ複雑極まる雑多なごった煮音楽が始まる。これを紐解くのは至難の業だし、旋律を追う事は私のような人間にとって不可能に近い。
というよりも、メインの指揮者に、サブを二人要したとされるストコフスキーの初演。
小沢は、これを安々と一人でこなしているところがスゴイ。すごすぎるよ。
3楽章は、別人のような音楽が流れる。フーガの技法で、オルガンも加わり荘重で感動的な旋律が幾重にも重なってゆき、最後はなかなかに感動的な場面となる。
この楽章は、なかなかに素晴らしい。アメリカ・ザ・ビューティフル!
4楽章、冒頭は打楽器と低弦が怪しい雰囲気をかもし出す。
この楽章は、実存に対する宗教的な経験を象徴しているとされるが、最後の方で、その錯綜するオーケストラのリズムに乗せて、合唱がアカペラ風に入ってくるところは、聴く身にとっては、ようやく光明が差したかのような気分が横溢する。

「芸術の作法」は学術的なものや決められた書式から生まれるものでなく、人生経験や日常の中から生まれてくる、というのがアイヴスの考えだったという。
まさに、この交響曲はその言葉どおりの音楽と受け止めていいのかもしれない。
でもまだまだ、私にはわからないところの多いアイヴズであった。

小沢とボストン響、ダングルウッド合唱団の76年の録音は、完璧なまでの演奏。
つーか、他の演奏を聴いたことがない。
同時期のベルリンフィルとのライブ放送を録音して聴いていたが、当時はさっぱりわからないヘンテコ音楽だった。今こそベルリンフィルで聴いてみたい。
 でも、この頃のこのコンビは最良の時期だった。
何よりも気力に満ちていたし、鮮度が抜群に良かった・・・。
M・T・トーマスとシカゴ響のものを一度聴いてみたい。

1_2 5  

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2008年9月 2日 (火)

スクリャービン 交響曲第1番 キタエンコ指揮

Imo1_2 















今日の銘菓は、ご存知、舟和の芋羊羹!
今も変わらぬ、お江戸の味。
子供の頃、貴重なスィーツだった。
浅草で久方ぶりに購入して、帰宅後、熱いお茶でもっていただいた。
 心から、ほっとできる、ホンワカ・ムードの芋羊羹。

お芋の繊維質もしっかりあって、よくできてます。

Skriabin1












歌入り交響曲のシリーズ、今日はスクリャービン(1872~1915)の交響曲第1番
6楽章形式、その終楽章に、メゾ・ソプラノとテノール、合唱を伴なう交響曲は、1899から1900年にかけて作曲された。

実は、日曜に聴きこんだディーリアスの「人生のミサ」がずっと心と耳に残っていて、月曜は音楽なしで過ごしたし、今日もこのシリーズを再スタートするのが辛かった。
それほどに、素晴らしかったディーリアス。
自分にとって、かけがえのない作品となった!

ディーリアスの陰りをおびた世界から、少し肉惑的でロマンテック極まりないスクリャービンの初期作品へは、以外やすんなりと溶け込むことができた。
そして、ディーリアスとの意外な接点は、ともにニーチェに心酔したことか。

スクリャービンというとイメージする神秘的な音楽や、色を音で表現しようとした独特の色彩感、これらは1908年以降のことで、それまではワーグナーの末裔たる後期ロマン派風の作風に染め上げられている。
 私は、その別人のような二面性あるスクリャービンのどちらも好きだが、実を言うと前期のロマンテック・スクリャービンの方にさらなる魅力を感じる。
ツェムリンスキーやシェーンベルク、ウェーベルンと同じ響きを感じ取れるし、ピアノ協奏曲などはショパンの響きもするロマン派ぶりだ。

6楽章あるこの曲、マーラーのようなバランスや完結感の良さがない。
オーケストラによる5楽章までと、声楽の入る終楽章とのギャップがでかい。
まず、朝靄が徐々に晴れてゆくかのような美しいカオスに満ちた第1楽章がいい。
シェーンベルクの「グレの歌」の冒頭のような音楽に、陶酔感が増す。
第2楽章は短調のラフマニノフのような哀感あふれる音楽で、これもイイ。
第3楽章、クラリネットに導かれの泣かせ節のような旋律が充満し、ホルンの合いの手も効いてなかなかにロシアチックな緩徐楽章だ。ラフマニノフと違うところは、旋律に溺れることがなく、クールさを保てるところか。
第4楽章は、スケルツォ。あまり弾むこともなく、どこか哀感あふれていて、スクリャービンらしい寒々しい中間部がある。
第5楽章、やたらに深刻なムードで始まるが、全体にとらえどころがない。このあたりにくると、背筋が伸びるような刺激が欲しくなるが、音楽は相変わらず擬似ロマン的なムードに染められていて、ピリっとしないのも事実。
さて、いよいよ終楽章。管による導入部は、何となく後年の神秘和音を匂わせ、そこにメゾが歌いだす。歌詞は、スクリャービン自身の作で、「芸術讃歌」である。
芸術が最上の存在で、それによって人類を救済しましょう、という内容のようだ。
ちと、たじろいでしまう内容であるが、ロシア語のテキストによる二人の独唱は、とても雰囲気豊かで、ダルになりかけた気分がかなり持ち直し、壮大な讃歌の展開へと期待が膨らむ。トリスタンのように熱い二重唱が繰り広げられるものだから、その期待は余計に増す。
オケによる中間部を経て、合唱の讃歌が入ってくるが、これがカノン風に男女の各声部で繰返し複合してゆくのである。
1楽章の素適なスクリャービンはどこへいったかと思うくらいに、時代はさかのぼり、メンデウスゾーンの「讃歌」のような調和の世界に逆行してしまい、晴ればれとしたエンディングとなる・・・・。
不思議な交響曲第1番なのだ。

でもこんなスクリャービンの音楽、とてもいいと思う。
実は「法悦の詩」や「プロメテウス」の響きがちゃんと聴いてとれる。

キタエンコと当時の手兵フランクフルト放送響の演奏は、前任のインバルとはまた異なった意味での、スタイリッシュな演奏で、スキのない完璧ぶり。
欲をいえばロシアのオケと合唱で一度聴いてみたいものだ。
そういえば、アシュケナージがN響で演奏していたなぁ。

Imo2_2 !!

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