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2008年10月

2008年10月31日 (金)

ウォルトン ヴィオラ協奏曲 今井&尾高

Udon 讃岐うどん。
私はシンプルに「生醤油ぶっかけ」が好き。こちらは温泉卵が落とされ、たっぷりのネギと海苔、そして柚子。
シコシコと歯ごたえ充分のうどんは最高ですな。
前にいた会社には、高松に四国支店があって、よく行った。
四国支店に転勤になると、独身者は食費が安く上がると言われた。
朝にかけうどん、昼にカレーうどん、三時のおやつにぶっかけうどん、夜は一杯やってざるうどん。
1日中うどん。小腹が空いたらうどん。ほんまかいな??
でも讃岐の方は、ほんとによく「うどん」を食べる。車で走っていて、民家のようなところで、セルサービスのうどんを食べたことがあったが、ともかくうまくて、安かった。
そこでは、誰が客で誰が店に人かわからなかった・・・・。

Walton_vla_con_imai 今日は英国のクラシック雑誌「BBC MUSIC」の付録CDを聴こう。
BBC音源のオリジナルCD1枚が付いて1000円のこの雑誌は、時にあっというようなCDの内容の月があって目が離せない。
この1枚は、われらが大ヴィオラ奏者、今井信子尾高忠明指揮のBBCウェールズ響ウォルトンヴィオラ協奏曲
それに私の愛するアイアランドのピアノ協奏曲(ストットとA・デイヴィス)がカップリングされているのも魅力なのである。
NHKも放送音源を解放して、レコ芸あたりとこんな雑誌を仕立ててくれたらいいのに!!

ウォルトン(1902~1983)はランカシャー生まれで、早くから音楽の才能を発揮し、神童ぶりを称えられた。そしてデジタル時代まで長生きをし、自作を指揮して70年代までその録音はある。年代を考えた場合、作風は保守的とはいえるが、初期はモダンな音楽も書いたし、諧謔的な音楽や、映画音楽などもたくさん残したから、以外とその個性に一貫性がなく感じる。
でも、英国音楽特有のノーブルで大らかな節回しをしっかりと聴き取ることができて、ウォルトン以外の何者でもない響きを感じ取ることは比較的たやすい。
私は交響曲と協奏曲、ペルシャザール以外はあまり聴いていないので、それ以外のウォルトン作品へのチャレンジは今後の課題。

ヴィオラ協奏曲は、1929年の作品。20代の作品とはとうてい思えない、渋さと落ち着きを持った雰囲気に驚く。
当時の世界的なヴィオラの名手ターティスを想定して書かれたものの、当の本人に演奏を拒否され、かわりにヒンデミットのソロで初演されたという。
作曲者の指揮、ヘンリーウッド・プロムナードコンサートでのこと。

憂愁のムードに飾られる第1楽章、ヴィオラの早いパッセージによるオケとの掛け合いが聴き応えあり。
ウォルトンらしいカッコよさの横溢するスケルツォ風の第2楽章。ヴィオラの名技もさることながら、オケがよく鳴って演奏会で聴いたら盛り上がることだろう。
3楽章はファゴットのユーモラスな出だし、それをなぞってのヴィオラという印象的な場面。終結部は木管の繰返しの上昇音形のうえにヴィオラが英国音楽ならではのとても美しい第1楽章の旋律を繰返しながら奏で、徐々に静かになってゆく。

今井信子さんのヴィオラには、内田光子さんのピアノに聴くようなもの凄いギリギリの集中力と音ひとつひとつの磨き上げられた暖かな優しさを感じる。素適なヴィオラだ。
尾高さんの指揮は時おり唸り声さえ聞こえる気合と共感の入ったものだった。
 日本人演奏家二人が英国のオケとともに、ロンドンで演奏するウォルトン。
とてもうれしく、誇りさえも感じる。
ヴィオラの音色は秋に相応しく、ブランデンブルク協奏曲なども聴きたくなってきた。

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2008年10月30日 (木)

バーンスタイン 交響曲第1番「エレミア」 スラトキン指揮

Soseki_2 道後温泉にあった夏目漱石の胸像。
則天去私
画像をクリックして、その意をご覧下さい。

欲としがらみ、思い入ればかりの私の今の生き様。
このような心境になるのはいつのことやら・・・・。

Berstein_sm1_2_slatkin_2 歌入り交響曲。
今日は、作曲家レナード・バーンスタイン(1918~1990)。
ウィスキーとチェーンスモークがレニーの命を縮めたのは否めない。もう少し節制してくれたら・・・と思わざるを得ない。
明るく開放的なレニーと印象とは裏腹に、作曲家としての彼はシリアスな作品が多い。
ユダヤ人として、そして人間として神に訴えかけるような曲や、全人的に平和を希求するような作品。

交響曲は3曲残したが、そのうち1番と3番に声楽が使用されているほか、2番もピアノ独奏を伴なう協奏的なものだけに、オーケストラだけの純粋交響曲はひとつもない。
それだけ、交響曲というジャンルにメッセージ性を込めたといえる。
ワルターの代役で、歴史的なニューヨークフィル・デビューを飾ったのが1943年。
その前年の44年にこの第1交響曲は、ピッツバーグで自身の指揮で初演されている。
世界大戦真っ只中。バーンスタインは作曲と指揮で、アメリカの寵児となった。

交響曲第1番「エミリア」と題され、3つの楽章からなる。
ユダヤの抑圧への悲しみと怒りを秘めた重たく悲観的な内容で、それぞれ「預言」「冒涜」「哀歌」というタイトルが付けられている。
そのタイトルどおり、1楽章は何か悲劇の始まりを予見させる重々しい内容となっているし、2楽章はリズムと大音響が交錯しあう切羽詰まったような音楽。
そして3楽章には、メゾソプラノの独唱が登場し、旧約聖書の「エレミアの哀歌」からの数節を歌う。静寂の中に、嘆きと悲しみ、そして神へ憐れみを乞うこの楽章は、非常に感動的なものだ。

バビロニアのネブカドネザル王によってエルサレムの地を追われたユダヤの民。
いわゆるバビロニア捕囚。国も神殿も失ない希望も失いつつあった民に預言者エレミアが現れ、苦しみこそ、罪を清めるもの、神こそ導き手であり希望の源泉であると解く。
ユダヤ民族の発祥であり、世界の歴史の混迷の根源がここにある。

ああ、むかしは民の満ち溢れていたこの都
国々の民のうちで大いなるものであったこの町
今は寂しいさまで座し、やもめのようになった


主よ、顧みてください・・・・

戦争のさなか、自身のルーツを思い、同朋が苦難に陥っている。
バーンスタインは平和を思い、この並々ならぬ重い交響曲を作曲した。

これまで、作曲者自身の演奏ばかりであったが、いろいろな指揮者たちが取上げるようになった。
その中で、もっとも優れた演奏に思われるのが、レナード・スラトキンBBC交響楽団によるもの。音楽をわかりやすく明確な解釈を施すスラトキン。
深刻なばかりでなく、ひとつの交響曲として音楽に正面から向き合った真摯な演奏。
スラトキンは、さらに濃厚なユダヤ思想と平和希求の3番「カデッシュ」を別バージョンで録音している。
そして、メゾのミシェル・デ・ヤングの深い声もよかった。
彼女、イゾルデの待女ブランゲーネのスペシャリストだ。

バーンスタインの音楽もこうして、年代を重ねてクラシック音楽のジャンルの中にしっかりと組み込まれていくのだな。
感慨深いものがある・・・・・。

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2008年10月29日 (水)

ジャパンアカデミーフィルハーモニック演奏会 シュナイト指揮

Japan_academy ハンス=マルティン・シュナイト指揮する、ジャパンアカデミーフィルハーモニックの演奏会に行く。
曲目は、ブルックナー交響曲第7番

このオーケストラは、シュナイト師の指導のもとに生まれたジャパンユースフィルハーモニックが名称を変えたもので、名誉指揮者であるシュナイト師との最後の演奏会が今回のブルックナーとなった。
音楽監督として、こちらもドイツ長老のゲルハルト・ボッセが就任とのこと。

日本にはオーケストラは数あれど、若い団員たちが、ドイツ本流の巨匠たちの教えを受け真摯に奏でる音楽は、これからも楽しみ。
終演後そんな思いになりながら、そして気持ちいい酔い心地で帰宅したものだ。

団員が登場する前に、シュナイト師が登場して、ブルックナーについての簡単な解説をしてくれた。
ゴツゴツとした岩肌ばかりの厳しいアルプスの山々の自然と、カトリック信仰、このふたつがブルックナーの心にはあったと。
曲については、リヒャルト・ワーグナーの死を悼んだ2楽章と。
シュナイト師お付きの通訳女史が、リヒャルト・シュトラウスと思い切り間違えて3回も言っていたのはご愛敬。
新説(?)だが、そういえばシュナイトさんのR・シュトラウスは絶品だったなぁ!

そんなこんなで、音楽が始まったのが7時15分近く。
深い感動のうちに曲を閉じたのが8時30分はまわっていた。
約75分の大演奏。シュナイト・テンポには今更驚かないが、この長さで、若いオケも一切弛緩せずに、緊張が張り詰めていたのが見事。
聴いていても、その遅さを意識させないのは、シュナイト師の音楽には、いつも「歌と真摯な祈り」があふれているから。
 2歳年下の、アバドがルツェルンでこの曲を演奏したものは、全曲で58分。
余談ながら、このアバドの演奏、速さを逆に感じさせない。切り詰め研ぎ澄まされた熟練の演奏の極で、そこには音楽しかなかった。
そして、シュナイト師の演奏にも音楽のみがそこにあると切に感じさせるものであった。

素晴らしくよく歌いこむ第1楽章。特別参加の元神奈フィルの黒木さんのコントラバスが支える低弦と、同じく特別参加のヴィオラの百武さんと中山さん(顧問)がしっかりと上下で締めたヴィオラセクション、それぞれが極めて頼もしい支えとなって、それをベースにヴァイオリンや木管が飛翔するような素晴らしい旋律を次々と奏でてゆく。
こうして夢中に演奏するオケの皆さんの上気した顔を見ているだけで感動してしまう。
1楽章の終結部なんてもう目頭が熱くなってしまった。
 第2楽章のワーグナーチューバの4人。破たんなく、というかまったく素晴らしい深みとつやのある音色を聴かせてくれて見事。
第2主題のあまりに美しい清らかさシュナイト師はテンポを落として、本当に心をこめて歌わせている。
そして、ハース版ゆえ、シンバルとトライアングルの高鳴るクライマックスがあるわけだが、こちらも衒わずに、極めて音楽的で、祈りが最高潮に達し感極まった・・・、という自然な盛り上がり。そのあとの感動的な後奏とともに、静かにでもしっかりとこちらの心に届いた。
 3楽章は中間部が農民たちの集う夕べの祈りを思わせるようであまりにも素適すぎ。
そして、圧巻は終楽章。
普段は10分足らずで、バランスの悪い終曲だが、シュナイト師のこの演奏では、大交響曲の末尾を立派に飾る終曲となっていた。
金管の咆哮が止むと、弦や管がいかにも優しく心をなだめるような気分に満ちた旋律を奏でる。
こうしたいわば落差のある繰り返しが数回続くが、そのどのやり取りにもこちらは引き込まれ、思わず息をつめたり吐き出したりと忙しい。
そして、ついに終結部を迎えるが、そこには輝かしさではなく、一心に気持ちを込めて演奏してきた若い演奏者たち自らを、そして会場の我々を解放して飛翔させるような希望に満ちたエンディングであった
ブルックナーの7番は数々聴いてきたけれど、こんなにも無心でいながら、心の襞に染み入るような演奏は始めて。そして終楽章に息を止めるほどに感動したのも初めて。

Suginami_hall 会場は「杉並公会堂」。全面リニューアルされて、とても美しい響きのホールに生まれ変わった。
私は35年も前に、このホールでクラシック生体験をした懐かしい思い出がある。
このホールでは、岩城&N響がベートーヴェン全集を録音したりもしている。
このホールのきれいな響きも、今回のブルックナーに相応しいものであった。

荻窪から新宿に途中下車して一杯。コンサート後の音楽談義は、時や場所を変えても楽しいものであります。音楽の感動も分かち合えます!

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2008年10月26日 (日)

R・シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」 クライバー指揮

Rosenkavalier_kleiber 昨日HMVで、購入したホヤホヤのCD。
そして、今日、封を切るのももどかしいくらいに、ワクワクしながらCDを取り出しトレーにセット。

拍手が始まり、その拍手が鳴り終わる前に指揮棒が振り下ろされ、湧き上がるような上気したホルンの第一声が響き渡る・・・・・。

あぁ、なんて素晴らしいんだろう。
その場に居合わせたら、もうそれだけで涙が出てしまうかもしれない。

ついに出ました。カルロス・クライバーR・シュトラウス「ばらの騎士」正規ライブ!!!
「ばらの騎士」ばかり、何度も登場させて辟易とされている方もいらっしゃいましょうが、ここは、カルロスに免じてご容赦のほどを。ちなみに、今回でオケ版も含めて9本目の記事。

何がすごいかって、まず、カルロスのオペラ・ライブは映像を除いては初めてということ。
それも、ミュンヘンで毎年のように指揮していた名物「ばらの騎士」。
それから、映像で残されたカルロスのばら騎士は、79年のミュンヘン、94年のウィーンとあるが、今回の73年といえば、そのクライバーが鮮烈なデビュー作「魔弾の射手」を録音した年である。その翌年には、ウィーンフィルとの「第5」録音や、バイロイトでの「トリスタン」などが控えていて、ともかくクライバーの登場が音楽ファンを狂気させていた時期なのである。
 加えて、亡き名バス、リッダーブッシュのオックスが聴けることも大きい。
さらに、録音の鮮明さ。ライブ感溢れる立派すぎるステレオ録音。

 元帥夫人 :クレーア・ワトソン   オクタヴィアン:ブリギッテ・ファスベンダー
 ゾフィー  :ルチア・ポップ     オックス男爵:カール・リッダーブッシュ
 ファーニナル:ベンノ・クッシェ    マリアンネ:アンネリー・ヴァース
 ヴァルツァッキ:デイヴィット・ソー アンニーナ:マルガレーテ・ベンツェ
 警官  :アルブレヒト・ペーター  家令   :ゲオルク・パスクーダ
 テノール歌手:ゲルハルト・ウンガー

   カルロス・クライバー 指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                   バイエルン国立歌劇場合唱団
                演出:オット・シェンク
                         (73.7 @ミュンヘン)

72年にプリミエを迎えたシュンクの伝統的なプロダクションは、79年の映像でも確認できる。74年には、クライバーの初来日として、日本でも上演された。
この年の公演、私はまだ高校生になったばかりでオペラ観劇デビューにはまだ2年を待たなくてはならなかった。(サヴァリッシュのワルキューレやドンジョヴァンニも最高のキャストで上演されたのに・・・・)

先に書いたとおり、冒頭から音楽はいきいきと弾むようにオーケストラピットから湧き出てくるようで、耳にすっかり馴染んだシュトラウスの音楽に鮮やかな彩りを与えているかのようだ。奔流のように溢れては劇場に飛び散るような音たちに、私は聞き惚れるばかり。
 各所に散りばめられたワルツのふんわりと柔らかな肌ざわりと、豊かな歌心に抜群のリズム感。あまりに有名なオックスのご機嫌印のワルツで、こんなに体を一緒に動かしたくなってしまうことってかつてないこと・・・。
 そして、1幕後半のマルシャリンの独白の聞かせどころ、あまりの儚い美しさに茫然と聞き惚れ、目頭が熱くなった。時計の音を刻む場面の冷凛とした雰囲気なども息を飲むほど。
2幕の騎士を待ちわびる時めく音楽の高まり、そして、ついに騎士登場の場面のさらなる最高潮。姿も声もオクタヴィアンになりきったファスベンダーの颯爽とした姿が目に浮かぶ。映像はなくても、あのお姿が脳裏に焼き付いている。
 銀のばら贈呈の場面の陶酔的な美しさ(ルチア・ポップ!!!)、その後に再び歌われる二人の束の間の愛の二重唱の息苦しいまでの素晴らしさ(私はイタリア2人組に見つかるまでの、この場面がたまらなく好き)。
2幕も3幕も、拍手とかぶりながら指揮棒を振り下ろすクライバー。
曖昧で錯綜する複雑なオーケストラの3幕冒頭。見事なアンサンブルで応えるシュターツオーパーのオケ。毎度このオーケストラは放送響と並んでその暖か味ある音色がいい。
相当な練習を積んだことであろう、ユーモアも溢れる自在なカルロスの指揮のもと完璧。
オックスが大騒ぎで賑やかに出ていったあと、シュトラウスの精妙な筆使いの冴え渡る最高の大団円を迎えると、音楽も徐々に様変わりしてゆく。
三者三様の心持ちを支える素晴らしいオーケストラ。時におののくように、時に期待と、そして別れの寂しさを堪えるように。
舞台を左から右に、そうゾフィーのところへ移動するマルシャリンのドレスの絹ずれの音がいやでも舞台の情景を思い起させ、そしてこれから始まるあまりに美しい3重唱に胸が締め付けられる思いがする。

 あの人を正しい愛し方で愛そうと思っていた・・・、まさかこんなに早くその日が・・

マルシャリンが静かに歌いだすとき、私の涙はダム決壊状態に。
この場面、クライバーが導きだす、ホルンの強奏と豊麗かつ甘味な響きに陶酔するばかり。若い二人の鈴音のような二重唱に続き、急転直下のこ洒落た結末に息つく間もない。

Rosen_kleiber  まったくもって素晴らしいキャストの中にあって、リッダーブッシュのオックスが期待通りに素晴らしい。当時、舞台に録音にひっぱりだこだったこの不世出のバス歌手は、美声に加えて豊かな声量とタフなスタミナを兼ね備えた完璧な人だった。
オックスの一応貴族の出自を思わせる気品と、いやらしい品のなさ、この両方を幅広い歌唱力をもって見事に歌っている。そして声の威力にも唖然とする。
リッダーブッシュ、最高のザックス歌手という私の思いに加えて、モルとともに、最高のオックス歌手といいいたい。
 映像と同じファスベンダーポップのコンビには、もう何もいうことはありませぬよ。
声の相性とミックスの具合がえも言えず天国的であります・・・・。
ワトソンについては、ちょっと評価しずらいところ。少し古めかしい場面もあるが、とてもデリケートで入念な歌で、耳をそばだてさせる魅力がある。
先にあげた心震わせる最後の3重唱の素晴らしさ。ファーニナルと登場し、「Ja,Ja」と歌う声の儚さは何ともいえない。

ジャケットは、クライバーの書き込みのある「ばらの騎士」の総譜。
2幕で、ゾフィーがペルシャのばら油を一滴垂らした銀のばらの香りをかいだところ。

   まるで、天国からの あいさつのよう
  香りが強すぎて 耐えられないくらい
  胸がきゅんと引っ張られるよう・・・

カルロスの子息マルコ・クライバー氏の書いたCDの解説の表題、「天国からのあいさつ」とある。

    "Ist wie ein Gruβ von Himmel"

Kleiber スロヴェニアにあるカルロス・クライバーのお墓。
2004年7月13日が命日。
もう4年になる、いやまだ4年か・・・、
追悼音源があまり出ないこともあってか、もっと月日がたってしまった感もある。

そして、今日、あまりに素晴らしい「ばらの騎士」を聴くことが出来た。
オルフェオには、この先も貴重な放送音源の正規発売に頑張って欲しい

 「ばらの騎士」の過去記事

  新国立劇場        シュナイダー指揮
  チューリヒ歌劇場     ウェルザー・メスト指揮
  ドレスデン国立歌劇場  ルイージ指揮
  
神奈川県民ホール(琵琶湖) 沼尻竜典指揮
  新日本フィル公演      アルミンク指揮
  
  
ドホナーニ指揮のCD&4つの舞台のレビュー
  バーンスタイン指揮のCD
  ヴァルヴィーゾ指揮のCD(抜粋)
  プレヴィン指揮の組曲版CD

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2008年10月25日 (土)

日本フィルハーモニー演奏会 尾高忠明指揮

尾高忠明指揮の日本フィルハーモニー交響楽団の定期公演を聴いた。

      モーツァルト  交響曲第35番「ハフナー」
 
      三善 晃    交響三章

    ラフマニノフ  交響曲第3番

     尾高忠明 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
                     (10.25 @サントリーホール)

Odaka_jpo 渋いプログラムに、土曜の昼公演なのに観客は7割の入り。
私は、尾高さんのラフマニノフ狙いで、前半の演目は席についてプログラムを見てから思い出したくらい。
実は、このところ出張と飲みが続き、寝不足に加え、午前中も早めに仕事があったものだから体が重い。昼食を取らずにサントリーホールへ行き、大急ぎで「トゥーランドット」のカフェで食事をした。それにしても、ここは美味い。リーズナブルに店の中とほぼ同じ味が楽しめる。ふむふむ・・・。
なんていって喜んで、ホールにすべりこみ、モーツァルトの柔らかい響きに身を委ねた。
ところが、なんたる不覚。ものすごい睡魔に襲われてしまった。
お隣さんは、開始そうそう爆睡。ホールのそこここで、就寝中の方がいらっしゃる。
そんなホールを見渡す目も、尾高さんの優しい指揮ぶりを見る目も、ぼぅ~っと霞んでくる。いかんいかんと思いつつ、2楽章のアンダンテなどは、揺りかごに抱かれるような気分に誘われる・・・・。
それにしても、すばらしく気持ちのいいモーツァルトじゃあないか。
そんなことをうつらうつら思いつつ、終楽章を迎えてしまい、ここでようやく目も耳も復活。
おお、終わり良ければ云々で、和やかで優しいモーツァルトでございました。

次は初めて聴く三善晃の音楽。
1960年の日フィルの委嘱作で、初演は渡邊暁雄。
3つからなる形式の異なる章で、交響曲ではない。
当時とすれば、大胆で斬新な音楽であったはず。
ここに至って私も耳も全開。実に面白い音楽に、目と耳はきょろきょろ。
ゆったりと始まって、そのテンポを崩さないまま音楽は巨大化してゆく1楽章。
早いテンポで終始活力に溢れた2楽章は、シェーンベルクを思い起こさせる。
これまたゆっくり静かに始まる3楽章は、変奏曲形式で、とりわけヴァイオリンのピチカートから各弦部にそれが拡がり、全オーケストラでクライマックスを築く圧倒的な様相が素晴らしい。最後は、静かに消え入るようにしてこの緻密な音楽は終了した。
息を飲むようにして聴き入ってしまった・・・、が、しかし最後のピアニッシモで、爺さんが極めて大きな咳を音楽にかぶるように二発もした。
こりゃぶち壊しだったなぁ・・・・・・。でもオケが実にうまいもんだった。

後半は、尾高さんも、聴くわたしも充分に手の内に入ったラフマニノフ
ピアニストとして多忙を極めたことから、有名な2番の交響曲から30年も経過して作曲されたこの3番は、ラフマニノフの心の中のロシアを作品にしたものと自身語っている。
1936年のストコフスキーによる初演は、オーマンディも指揮したかったらしい。

2番についで、わたしはこの交響曲の魅力に取り付かれた。
そのきっかけは、FMで放送されたマゼールとベルリンフィルの演奏で、カセットに録音して、冬の最中、毎日ホットウィスキーを飲みながら聴いたもんだ。
ほどなく、そのコンビのレコードが出て、キレのいい録音とベルリンフィルの名技に参ってしまった。
CD時代も、たくさんの音源を揃えたが、尾高さんとBBCウェールズのものは、ノーブルで明晰な演奏でかなり好きな1枚だ。
実演では、エド・デ・ワールトと読響の素適な演奏を聴いたことがある。

 さて、今日尾高さんの日フィルとの演奏は、より自在でしなやかな演奏で、テンポもCDより速め。
3楽章ながら、緩徐楽章の2楽章の中間部にスケルツォ的な部分も挟まるところから、4楽章形式とも見立てることもできる。
また、冒頭の旋律が各章で回顧されることから、全体を見通す構成力も問われる曲。
その点における尾高さんの指揮ぶりは、まったく見事なもので歌に溺れず最後のクライマックスに向けて緻密な組立てを築きあげていたと思う。
それでもエルガーやラフマニノフを指揮する尾高さんのいきいきとした動きは毎度目を見張るものがあって、いつものイカダンスのような指揮ぶりにも熱が入る。
そして、終楽章のコーダの盛り上がりは、アッチェランドを巧みにかけて、CDとはくらべものにならない、圧倒的なものであった。
曲ゆえか、そのあっけない終結ゆえか、会場の拍手はやや盛り上がりに欠けた感あり。
私は一人、心の中でブラボーを叫んだものだ。

ラフマニノフ3番と、尾高さんのラフマニノフ、過去記事

「ワルター・ウエラーの3番」

「尾高&BBCウェールズの2番」

「尾高&東フィルの2番」

Rakhmaninov_3_odaka

尾高&BBCウェールズ響のラフマニノフ全集から第3番。
カップリングは、交響詩「死の島」。
お得意のグレゴリオ聖歌のモティーフがくどいくらいに鳴る。ジャケットのベックリンの絵にインスパイアされた作品。
マゼールのレコードもこの組み合わせだった。

 

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2008年10月24日 (金)

R・シュトラウス 「ツァラトゥストラはかく語りき」 メータ指揮

Kida1ご覧下さい、この美しい刺身。

たまにお世話になる名古屋のお寿司屋さんにて。
こんな宝石のような刺身をつまみに、私はビール一本に、日本酒2本はいけちゃう。
私にとって寿司屋は、飲み屋なのであります。
刺身のあと、つまみで穴子とか鯖を食べて、さらに日本酒2本。
それから日本酒1本で、ちょっとだけ握ってもらうという寸法。
寿司屋さんで、寿司をあまり食べない。食べても、赤身やひかりものばかりで、儲かる客じゃないのです。
目で楽しんで、少し食べて、たくさん飲む。これが私の寿司屋の楽しみ。

Mehta_zara_1 R・シュトラウス(1864~1949)の作品連続シリーズ。
オペラをすべて取上げてからは遅々として進まない。
今日は、メータの「ツァラトゥストラはかく語りき」だ。その豊穣な音色は耳のご馳走だ!
NHKだと、「・・・・こう語った」となるけれど、「・・・・かく語りき」の方が、いかにも哲学風で受け止めかたがよろしい。

1896年、シュトラウス32歳の作品。
オーケストラ作品では、それまでに「ドンファン」「死と変容」「ティル」などを書いているから、オケを鳴らすことにかけては、もう天才的な作曲家だったのが実によくわかる。
一方、歌の分野では、合唱曲や数曲の歌曲はあるものの、オペラは第1作の「グンドラム」のみで、「サロメ」でさえ、あと数年を待たねばならないかった。
愛するシュトラウスのオペラの数々を聴く時、そのオーケストラの素晴らしさにまず心動かされ、歌は歌詞、つまり台本の優劣に若干左右されるものと思う。
逆に、オーケストラ作品を聴くとき、私はそこに歌を感じることも多い。
このツァラトゥストラも、独奏ヴァイオリンや舞踏の音楽に、最後の死に行くような成り行きのなかに。
そんな訳で、シュトラウスの音楽の聴き方にはまだまだ多様な楽しみかたがあるような気がしてならない。

メータの名前を一躍、高らしめたレコードが68年に録音された手兵ロサンゼルスフィルハーモニックとのこの1枚。
レコード1枚にゆったりとカッティングされたこのLPは、当時オーディオのデモ用にもよく使われていた。
子供時代よく行った「ダイクマ」というディスカウント店に、オーディオコーナーがあって、タンノイのでっかいスピーカーの上にこのレコードがディスプレイされ、冒頭部分を思い切り鳴らしていた!
そりゃもう、ヨダレが出るくらいにすげぇ~音で、いつかはこのレコードを大型スピーカーで鳴らすぞ!、と子供心に誓ったもんだ。
以来、数うん十年を経過し、いまだにその夢は叶うことがなく、ヘッドホンでこそこそと、ちんまりと楽しむのみであ~る。はぁ・・・・。

CD化された音源を今聴いても、なかなかに重厚かつバリッとした音に快感を得る。

Mehta_zara_3 メータは、ニューヨークフィルハーモニックに移籍後、再びこの作品を録音した。
80年のデジタル録音で、12年の隔たりを経て、音楽はよりスムースによどみなく流れるようになった。

冒頭部分は、LAPO(2分)、NYPO(1分32秒)となっていて、聴いた印象が随分と違う。
旧盤が、一音一音をたっぷりと堂々と響かせるのに、新盤では練達の域ともいえるスマートぶりで、少しあっさりしている。
それでも、ここぞというところでは思い切り腰を落ち着かせ歌いまくっているし、濃厚な響きも聴かせる。

でも、それ以上に違うのが、録音である。
デッカとCBSとでは、音楽の印象すら異なって聴こえる。
これでは、レーベルの差が一般に不遇とされたメータの80年代、すなわちニューヨーク時代の原因なのではないかとも思ってしまう。
CBSは、低音がやや軽く、高音がきらびやかでハープの音色もやたらに耳につく。
鮮明で、もたれない軽やかさもある。
デッカは、重厚な低音が前提としてあり、その上に幾層にも渡る音のピラミッドがある。
そう、分厚く、濃厚なのである。でもきらびやかというよりは、渋さがある。

こうした曲だと、演奏のイメージも、なんだか録音が優先してしまう。
メータの一時の凋落ぶりは、レパートリーはそのままに再録音ばかりしただけに、録音のイメージがかなりあるのではなかろうか。
録音のマジックと捉えられても気の毒だから、メータを擁護すると、メータはアメリカよりは、ヨーロッパに根っこがあったのではなかろうか。
ニューヨークではなくて、欧州のどこかのオペラハウスでじっくりと自らを熟成させた方がよかったのかもしれないなぁ・・。

この「ツァラ」に関しては、ロスフィル盤の勝ち!
いずれ「英雄の生涯」も取上げるが、そちらの軍配は・・・・。

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2008年10月23日 (木)

J・D・サウザー 「You’re Only Lonely」

Dog1 Dog2 街で見かけた一匹のワンコ。

近づくと目をそらしてしまう。
カメラを向けても、目をそらしてしまう。
そう、目をそらす犬なのだ。
おいおい、こっちを向いとくれ!
しょうがないから、離れて遠くから見ると、こっちを見ていた。
シャイで不思議な好奇心のあるようでない犬。

Jdsouther 今晩は、クラシックはおやすみ。
なんとなく、大学時代を懐かしんで手にしたアルバムが、J・D・サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」。

クラシック一辺倒でなく、いろんなジャンルの音楽を皆さんもこれまでお聴きだと思う。
最近の歌も業務上覚えなくてはならないであろうし、クラシックファンは忙しいのだ。

でも記憶に残り続けるクラシック外の音楽は社会人5年目くらいまでかな・・・。

学生時代は、多様な友人たちの影響などで、ともかくいろんな音楽を聴いた。
時代もあって、ブリテッシュロックとカリフォルニア系のカントリーロック、AOR系などが好きだったな。
そんな1枚が、これ。79年の発売。カントリー系ロックの名盤。
まずジャケットのJDがいいでしょ。
男っぽいけど、シャイでナイーブなイメージ。そんなイメージ通りのクリアで優しい歌声。
J・D・サウザーは、シンガーとしては4枚くらいしかレコードを残していないが、ライターやギター奏者として、知る人は知る存在なのだ。
最初はイーグルスのグレン・フライと親友になり、二人でコンビを組んだり、のちに私の大好きなジャクソン・ブラウンとも親しくなった。もしかしたら、イーグルスのメンバーになっていたかもしれない。
リンダ・ロンシュタットに曲をかなり提供したりもしている。

こんなキャリアのJD。
どこか醒めていて、一歩引いてはにかんでいるようなタイプであり、歌なのだ。

タイトル曲の「ユア・オンリー・ロンリー」には泣けます。

 誰かがそばにいて欲しい そんな試練の夜には
 ぼくのところへ来てもいい
 おまえが女王だった時、ぼくはそこにいたし
 そして誰もが去った後にも お前の横にいるだろう
 だからぼくの名前を呼んでいい
 おまえが孤独なとき 恥ずかしく思わなくていい
 おまえはただ孤独なだけなんだ・・・・・。

湿り気を帯びた、ちょっとノスタルジックな歌。
いくつになっても同感できる男の気持ち。
こんな歌をさりげなく歌ってしまう男になりたい・・・・。
いつになくおセンチになっちまいました。

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2008年10月22日 (水)

ワーグナー 「使徒の愛餐」 プラッソン指揮

1 高いところがダメな方は、ご遠慮ください。
東京タワーの上から下を望むの図であります。
東京タワーに行くと、昔風の土産物屋があって、みょうちくりんな外人向けのスーベニアが売っている一方で、今風のタワーのぬいぐるみや、お菓子など、なかなかに進化した部分も散見される。
フードコート風の飲食店もあるし、ガイドのおね~ちゃんもかわいいし・・・、で久しぶりに行くと結構楽しめちゃうのであります。
私の職場から毎日手に取るように見えてるけれど、いざ歩いて接近してゆくとなかなか近づかない。
やはり、でけぇーもんだ。
東京タワーも、今年半世紀目を迎える。おぉ、他人事じゃないねぇ~、あたしぁ三丁目の夕日おやじなんだわ。

Liebesmahl_der_apostel 怖いもの見たさじゃなくて、聴きたさで、この1曲。
ワーグナー好きとしては、こうした曲も外せない。

「使徒の愛餐」は、ドレスデンの歌劇場で活躍していた頃、1943年の作品で、オペラでは「タンホイザー」を書き始めたころのもの。

「男性合唱と大オーケストラのための聖書の情景」という副題がついた、その名のとおりの大合唱曲である。
誇大狂のワーグナーは、ドレスデンの合唱協会の仕事を受けたことをいいことに、ドイツでも前代未聞の合唱コンサートを企画することにした。
そこで考えられたのが、この作品で、キリストの12使徒への聖霊降臨の場面を描いている。CDの解説には1200人の合唱に100人のオーケストラと書いてあるが、本当だろうか?マーラー先取りの呆れたリヒャルトおじさんである。

26分あまりの曲だが、その3分の2は、合唱の力強いアカペラで、最後にオーケストラがジャジャ~んと登場して華々しいこととなる。
ワーグナー自身の詩によるその歌詞は、まわりくどいくらいに延々と続く弟子衆や使徒らのやりとりで、その言葉を噛みしめながら聴くのは、正直辛い作業である。
諸君、とか兄弟たちよ、とか出てくるものだから、後世の暗い歴史に利用されかねなかった雰囲気も漂う。
しかし、このチョイ苦痛状態も、天上からのイエスの声「安心するがよい、私は汝らの近くにおり、その魂は汝らとともにある・・・・」という天啓ともいえる合唱で解放される気分となり、ついで待ってましたとばかりに、オーケストラが低音からジワジワと湧き上がり(このあたりはローエングリンの登場を思わせる!)、歓喜に沸く合唱となる。
ここまでくれば、あとは前期ワーグナーの見事な手法に聴き手は手玉に取られたように乗せられてしまうわけだ!
最後は賑々しく、そして晴れ晴れしく、勝利の讃歌となる。

  ミシェル・プラッソン指揮 ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ドレスデン・フィルハーモニー合唱団
                  ウィーン学友協会合唱団
                  ウィーン室内合唱団
                      (96年 ドレスデン録音)

トゥールーズとイコールの関係にもイメージされる、プラッソンは一時ドレスデンフィルの音楽監督もつとめ、日本にも来たようだが、あまり長続きはしなかった。
私はこのCDと、リストの交響詩集を持っているが、明るくシンフォニックな音造りは、かつての東の渋いオケとはかけ離れたものに感じる。
このコンビで、ブラームスやブルックナーなどを残してくれればよかった。

当CDは、「ワーグナー秘曲集」とあって、「祝祭歌」、「ウェーバーの墓前で」、「葬送交響曲」などの珍しい曲も収録されているほか、「ファウスト」序曲、「ジークフリート牧歌」なども演奏されている。
こうした曲にまじって、ジークフリート牧歌を聴くと、我が家に帰ってきたように安心する。
まして、プラッソンの演奏が暖かくも艶やかなものだからなおさら。

2 おまけ画像

上から画像ばかりでなく、下からも覗きこみましょう。

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2008年10月21日 (火)

武満 徹 「秋庭歌」 

Shichinohe 組みガラス越しに見る紅葉。
東北のとあるSAにて。
なかなかお気に入りの1枚。
トイレなところが玉に傷・・・。

組みガラスといえば、銀座のブランドビルが、外壁そのものを組みガラスで出来ていて豪奢なものだ。
構造的には充分な強度が取れるという。

Takemitsu_autum_garden 武満徹(1930~1996)が亡くなって、もう12年が経つ。
66歳での逝去は早すぎる人生。
でも死に急いだ感がまったくない。
多作だったし、その多くの作品がゆったりとした静かなものばかりで、その人生に静的なイメージがあるから・・・・・。

多くを聴いている訳ではないが、オーケストラ曲は比較的ライブでもよく接してきた。
思い出に残るものは、「カトレーン」の初演。
小沢・新日本フィルにアンサンブル・タッシの演奏。
それから、岩城&N響の武満作品によるコンサート
。これはライブCDになっている。
このふたつはいまだに印象深いコンサート。
若い自分も感受性が今より深くてナイーブな青年だった・・・(??)

今日は、秋にちなんだ音楽の多い武満作品の中から、雅楽による「秋庭歌」を。
演奏は宮内庁式部職楽部
1973年に、国立劇場の委嘱で書かれたこの作品。
日本のクラシック系作曲家が日本の伝統楽器や伝統音楽を積極的に取上げていた頃のもので、雅楽器による現代音楽ではなくて、雅楽そのもののような音楽に感じる。
そこが武満作品のすごいところで、革新性なき革新。

CDの解説によると、「古代の雅楽は、庭園で奏楽した立楽や、自然のなかを歩きながら奏する道楽」などがあって、今のように畏まって演奏されるスタイル以外の多様性があったらしい。
武満はそうしたイメージも込めてこの曲を考えたという。
 17人の雅楽奏者により、中央に「秋庭」、後方に「木魂」という配置で、秋庭のエコーを木魂が奏でるという曲の運びは、まさに日本人の好む絶妙な間や微細な音のずれによるえもいわれぬ空間を生み出してゆく。
静的な秋の澄んだ空気。そこにひとひらの紅い葉が舞い落ちる。
それ以外はまったく動きがなく、自分の活きている証の鼓動のみが鳴っている。
こんなイメージを私は聴き取ることができた。
皆さんはどうでしょうか?
いろんな秋の庭を思い浮かべて、この雅楽による音楽を聴くのも一興。
今、私は焼酎を濃い緑茶で割ってチビチビと飲んでいるところ。

のちに武満は、さらに5曲を作曲して全6曲の「秋庭歌一具」の大曲とした。
その第4曲として生まれ変わったのが16分あまりのこの曲。

「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起こったのである」
これは武満が宮内庁始めて雅楽を聞いたときに書いた日記という(CD解説より)。

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2008年10月20日 (月)

ホルンボー 交響曲第4番「シンフォニア・サクラ」 A・ヒュー指揮

Odawara_catsle 夜の小田原城
酔いにまかせて歩いて行ってみた。
幼稚園の遠足、小学校の遠足、それ以外はそういえば行ったことがなかったかもしれない。
高校時代、この街に通ったのに、そして、お堀の周辺は始終歩いていたのに、本丸まで行ったことがなかった。
地元とは、そんなものかもしれない。

久々に汗をかきつつ訪れた小田原城。堀の近くの市民施設では合唱の練習か、いいハーモニーが聞こえる。天守閣の元には、高校生の男女が楽しそうに集っている。
おいおい、君たち、私の後輩かい?
おじさんはね、・・・・なんて声をかけたら今時大変なことになる。
城址公園は動物園にもなっていて、長寿のゾウさんもいたところ。夜間は動物の匂いがする不思議空間。
高校時代を過ごした場所を探索し、酒を飲むって、大人の楽しみかもしれないね。

Holboe_sym4不連続、歌入り交響曲のシリーズ。
シリーズを開始して、調べ進むうち、予想外にあるこの形式。
ほとんどがマーラー後の近世で、ドイツばかりでなく、欧米亜各国の作曲家が盛んに取上げている。
その大半が未知の作品であり、作曲家も名前を知っている程度。
年代順にここまで来るなかにも、音源が見つからずに、はしょった作品もいくつもあるし、あと数回の中にも省かざるをえない曲もあるのが実情。

そんな中で、北欧作曲家はBISレーベルのおかげで、録音に恵まれることが多い。
その一人が、デンマークの作曲家、ヴァン・ホルンボー(1909~1996)。
同郷の先輩作曲家にカール・ニールセンがいるが、ホルンボーもニールセンとは接点があって、学生時代の恩師でもあり、その作風に多大な影響を受けた関係でもある。
ルーマニア人のピアニストと結婚したこともあって、同地で過ごしたこともあり、東欧風の響きもその音楽には響く。
近世・現代の作曲家ではあるが、この1枚を聴いて、他の作風も調べる限り、難解な音楽ではなく、先輩ニールセンやバルトーク、ストラヴィンスキーの響きが色濃く、北欧・東欧と新古典主義の融合の作風に聞こえる。
ただし、これも表面的な印象に過ぎず、なにせ、13の交響曲、20の四重奏曲、数曲の交響作品、オペラ・合唱曲など、多作家だっただけに、その全貌を知ることはCD1枚ではとうてい叶わない。
今回の交響曲第4番を聴いていて、先だって聴いた「ブライアンのゴシック交響曲」と同じような響きも聴き取ることができたのが面白い。

1942年の作曲で、全6楽章。時は第二次世界大戦の真っ只中。曲は、独軍収容所で死んだ弟に捧げられたもので、合唱を伴なう宗教的な内容となっている。
急緩急、交互に訪れる6楽章。作者自身による詩はかなり深刻なもので、最初は恐れと怒りに人類が覆われる暗い様相を歌うが、徐々に平安を望み、神の栄光を称えてゆく。
音楽も冒頭から激しいが、こちらも徐々に明るく澄んだ雰囲気に様変わりしてゆく。

最初の激しい音楽は、大河ドラマの「独眼流正宗」のようで、戦国武士が突進するようなイメージで、ちょっと和風。暗から明へ、その勇ましい音楽も、神を称える朗らかな明るさに徐々にとって変わる。
何度も聴いて、耳に馴染んでくると、なかなかに良い曲であります。
ほかの交響曲もよさそうであります。

ウェールズ出身のオーウェル・ヒューズはホルボーンの交響曲を連続録音している。
英国系の指揮者は、ニールセンやシベリウスを伝統的に得意にしているが、ヒューズもその一人なのであろう。鋭く、キレのよさと、しみじみ感が両立した演奏である。
オーケストラが本場デンマークのオーフス交響楽団
実力派と聴いた。オーフスは、ちょっと調べたら、中世の街並みを再現した場所もある美しい街のようである。
北欧3国には、どうも惹かれるものがあります。

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2008年10月19日 (日)

モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」 ベーム指揮

1 気持ちいい秋晴れの日曜、窓の外は淡い青空と色づき始めた公園の木々が風に揺れている。

こんな清々しい日には、モーツァルトのオペラでも聴きましょう。
モーツァルトのメジャー7大オペラは、ワーグナーに目覚めたと同時に聴き始め、何回聴いたものかわからない。
若い頃は、オペラといえば、ワーグナー、モーツァルト、ヴェルディばかり日々聴いていた。
シュトラウスやプッチーニを楽しめるようになったのは、ちょっとイケナイ大人になってから。

モーツァルトのオペラに親しんでいくうえで、多大なお世話になったのがFMでのザルツブルクライブ放送である。
かつては、ザルツブルクの公演のオペラ・コンサート・リサイタルのほぼすべてが放送されていたから、いながらにして超一流のアーティストによるライブがコレクション出来たもんだ。カラヤンとベームのオペラは毎年必ずあったから贅沢なものである。
モーツァルトでは、カラヤンのフィガロに魔笛(ルネ・コロのタミーノ!)、ベームのコシ、イドメネオ、ドン・ジョヴァンニなどがウィーンフィルの演奏で毎年放送されていたのだからすごいもんだ。

その中で、圧倒的な人気を博し、同じメンバーでロングランを続けていたのが「ベームのコシ」である。
その74年のライブ録音が今回のCDで、賞もいくつか受賞したのではなかったかな?
当時レコードで3枚組み。完全全曲盤となると4枚組。
フィガロも、ドンジョヴァンニも4枚組だったことを思うと、2枚のCDにきっちり収まり、廉価盤ともなると千円札2枚で買えてしまう今が恐ろしくもあり、消費財と化してしまった感がある。高額なレコードは始終買える訳でないから、エアチェックしたカセットテープで音楽の裾野を広げていった時代が懐かしい。
 久しぶりにベームのコシを取り出して、そんな思いに浸ってしまった・・・・・。

フィオルディリージ:グンドゥラヤノヴィッツ ドラベッラ:ブリギッテ・ファスベンダー
グリエルモ:ヘルマン・プライ         フェルランド:ペーター・シュライアー
デスピーナ:レリ・グリスト           ドン・アルフォンソ:ロランド・パネライ

  カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
               ウィーン国立歌劇場合唱団(ワルター・H・グロル指揮)
               演出:ジャン・ピエール・ポネル
                       (74.8.24 ザルツブルク)

2 60~70年代にモーツァルトを上演するなら真っ先に思い浮かんだ理想的なキャスト。
今こうして名前をみているだけでも、ため息が出ちゃうくらい。
ベームには、60年代終わり頃の映画版コシもあって、そちらは、ヤノヴィッツ、ルートヴィヒ、プライ、シュライアー、ベリー、グリストという配役だったかと記憶するが、そちらも是非DVD化して欲しい。

このオペラは、6人の登場人物による素晴らしいアリアが満載だが、ソロばかりでなく、アンサンブルも重要で、最初の恋人同士、男同士、姉妹同士、偽りの恋人同士、それに狂言回しの二人が絡んだり、四重唱、六重唱ありと、声のハーモニーがとても大切。
その意味では、名歌手ばかりが名を連ねればいい訳ではなく、劇場で日頃練り上げられたメンバーによるアンサンブルによるものの方が仕上がりがよいのかもしれない。
ベームの2度目のEMI録音は、強力な名歌手を揃えた名盤だが、個々のソロは別として、アンサンブルオペラとしてのコシを考えた場合、同じメンバーで毎年上演された3度目のライブ盤の方に魅力を感じる次第。

3_2  そして、フィルハーモニアよりは、自発性と感興に富んだウィーンフィルの方がいいのは明らか。
60年代の厳しくかっちりしたベームの緻密な音楽と異なり、70年代半ば以降は、ウィーンフィルの個性も相まって愉悦と微笑みに満ちた音楽も聴かれるようになった。
60年代に比べ、やや緩くなったのは否めないが、早めのテンポに乗って弾むように、ライブのベームならではのモーツァルトが楽しめる。
名アリアや重唱にちょこちょこと聴かれるホルンや木管の合いの手に、堪らないくらいに色がある。指揮者がどう指揮をしようと出てくるウィーンの音には参ってしまう。
数日後に迫ったムーティとウィーン国立歌劇場の公演に行かれる方が羨ましい!

4 個々の歌手では、私としてはヤノヴィッツが相当に素晴らしいと思う。
二つある名アリア、それぞれに心情が違うシチュエーションだが、それをえもいわれぬ素適な高音を効かせながら、そして女心の微妙な移り変わりを歌い分けている。
ファスベンダーは、日頃の中性的な役柄ではなく、姉よりもおきゃんで積極的な妹をくっきりと歌っている。
二人の姉妹の重唱はとても美しく、天国的ですらある・・・・。
男組についても文句なし。プライシュライアーの気持ちの良い声といったらない。
二人が自分たちの相手の心変わりを怒り嘆くところの悲喜こもごもには、さすがの歌唱を聴かせる。
グリストの可愛げある自在なデスピーナ、ベテランのパネライがやや精彩を欠くかもしれないが、味わいある歌はさすがなもの。

カセットテープを通じて聴いてきたベームのこのプロダクション。
ついつい手放しで誉めちゃうけれど、私には懐かしくも捨て難い名演なのだ。

1790年に完成したダ・ポンテの台本による「コシ・ファン・トゥッテ」。
「フィガロ」の第1幕で、スザンナの部屋に隠れたケルビーノを見つけたドン・バージリオが「コシ・ファン・トゥッテ」と歌う。
「女はみんなこうしたもの」、浮気性の伯爵=男の「フィガロ」と対をなすこのオペラ。
恋人が入れ替わっても、待女が変装してもわからない女たちが、あまりにコロリと騙されてしまう台本の陳腐さはあるし、世の女性の怒りを買うのも当然ではあるが、騙す男性陣も心から楽しんでいることも事実。「男も女もみんなこうしたもの」
でも、ここにあるモーツァルトの音楽の軽やかさと天衣無為の美しさは例えようがなく魅力的で素晴らしすぎます。

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2008年10月18日 (土)

神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト指揮

わかっちゃいるけど、またやられちまいました
シュナイト&神奈フィルの名コンビに。
王道ドイツ物プログラムゆえ、想定通りの名演がしっかりと繰り広げられた次第であります。

     ベートーヴェン  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
              Vn:竹澤 恭子

     ブラームス    交響曲第4番 ホ短調

   ハンス=マルティン・シュナイト指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 
                     (10.17 @みなとみらいホール)

Img間に合ってよかった。6時まで浜松町にいて、京浜東北線に飛び乗り開演3分前にホールに到着。
なんとか息を落ち着かせ、楽員が登場し始める。
コンサートの始まるまえ、今日はどんな演奏が聴けるかとの期待と緊張の一瞬がたまらなく好き。
おや? いつもは完全に埋まらないホールも今夜はほぼ満席じゃないか!
演目とソリスト、そして黄金コンビが評判を徐々に呼んできた証だろうか。

ちょっと大人しめのティンパニの連打で始まったベートーヴェン。オケの長い前奏は実にマイルドで重くない。
そして竹澤さんのソロが同じような柔らかな音色で緩やかに入ってくる。
この出だしからして、ソロと指揮者、オケとの三位一体が完全に美しく調和していることがよくわかる。
そして、曲が進むにつれて竹澤さんのヴァイオリンは熱を帯びてきてマイルドだなんて言っていられなくなってきた。彼女の楽器は名器ストラディヴァリウスであろうか。
その楽器を弾くにふさわしい彼女。艶やかさも、音の張りも、芯の強さもすべて兼ね備えた説得力の高い演奏なのだ。
終始、シュナイトとアイコンタクトを取りながら、時に厳しく、時に微笑みながらの表情を浮かべていて、ベートーヴェンの音楽にすっかり入り込んでいるのがよくわかる。
石田氏率いる神奈フィルも負けていない。竹澤さんの音色をよく聴きながら巧みに盛り上げてゆく。
両端楽章のカデンツァは実に圧巻だった。会場のわれわれもそうだけど、オケのみんなも一生懸命に聴き惚れている。
心技体すべてがそろった竹澤さんのヴァイオリンに、私は参りました。
久々に本物のヴァイオリンを聴いた思いだ。コンサートの前半によくヴァイオリン協奏曲が置かれ、その時は「ふむふむ、なかなかよいじゃない」とか思ってはいても、メインの後半の音楽が終わるとなかなか前半の印象が希薄になるのが常のコンサート。
でも、今日は違う。一夜明けても、彼女のベートーヴェンの熱くも柔らかく高貴な音色が耳に残っているのだ。
私の好きなオペラを聴いてその歌声がずっと残っているのと同じ。
彼女のヴァイオリンは声そのものだった。
後半がブラームス4番じゃなかったら、曲順を入れ替えてもよかったくらい!

さてその後半のブラームス、「もうなんもいえねぇ・・・」

いやになっちゃうくらいにピシリとはまった名演に、言葉はいらない。
お馴染みのゆったりめのテンポで45分をかけたとは思えない。
推進力と歌心があるためにテンポ感を聴く側にまったく意識させない。
全曲集中して息も切らさずに聴き入ってしまったけれど、印象に残った場面を列挙するとと・・・・・。
1楽章のじわじわと盛り上がるコーダの熱さに胸が熱くなる。
2楽章の弦のピチカートに乗って歌われる管の古風な歌のたたずまいと、後半に弦のユニゾンで壮麗に歌われる旋律に目頭が熱くなる。
3楽章の重厚さとチンチロ鳴るトライアングルのバランスの良さに感心。
4楽章のむなしさあふれる旋律のフルートソロの見事さに、パッサカリアの幾重にも展開する変奏が、徐々に盛り上がってゆく。シュナイト師の背中と音楽にのめり込んで夢中で弾いている楽員の姿たちを見ていると、その盛り上がりに併せてこちらの胸も苦しくなってくる。ブラームスの4番って、こんなに熱い曲だっけ!
再三ここに記したが、このコンビの音は南ドイツ風の重厚さと明るさを備えたものに思う。
ブラームスやブルックナーに相応しい音色に、いつの日かワーグナーを聴かせて欲しいと夢想するわたくし。

ブラボー飛びかう会場に、この演奏に大満足の喜悦の表情のシュナイト師。
舞台袖に戻らず、最初からオケの中を巡って楽員たちを称える好々爺ぶりに、会場の拍手も大きくなった。
またもやしばらく他の演奏が聴きたくない「ブラ4」。こうしていくつも封印された音楽が増えてしまうのか。日常はますます変な曲やオペラにのめり込んでゆくことになるのか。

Landmark アフターコンサートは、火照った顔と胸を冷ますことなく、おいしいビールでまた楽しい集いとなりました。

皆さんありがとうございました!



 

 

Blue_dal おまけ画像
横浜生まれのキャラクター、「ブルーダル」の神奈フィルバージョンのストラップ。
思わず購入(笑)
なかなか良いでしょ!

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2008年10月16日 (木)

プッチーニ 「トゥーランドット」 新国立劇場

Turadot_shinkoku 新国立劇場のシーズンオープニング演目、プッチーニの「トゥーランドット」を観劇。
今回の新演出プロダクションは、10月1日が初日で、6回目の今夜が千秋楽。
ということで、どんな舞台であるかは、お仲間の記事などから何となく情報収集済みで、面白そうだったので大いに楽しみにしていた。そして最終ということで、舞台も歌も練れてきているであろうし。

ついでに書くと、プッチーニのオペラ全曲のブログ記事制覇も、このトゥーランドットで残りあとふたつ。
難敵「蝶々夫人」と未知「エドガー」が残るのみ。
年内には、取り上げて、プッチーニのメモリアルイヤーの記念としたいところ。

ッチーニ最後のこの未完のオペラは、3幕でリューが自害し、悲しみに包まれつつ静かに音楽を閉じるところまでしか完全には残されなかった。
結末にこだわり過ぎて、癌に勝てなかったプッチーニ。  
ミラノでの初演時、トスカニーニがここで指揮棒を置いて、「先生が残されたのはここまでであります」と言って会場はし~んとなった。
かつて、NHKでプッチーニの生涯を描いた海外連続ドラマが放送されたことがあった。
その最後のシーンがこれだった。高校生の時に見たこのドラマ、この場面をとても覚えている。プッチーニの声は高嶋忠男で、美食と色好きのプッチーニをとてもよく描いていた。
         
アルファーノによる補完版がいまや定番となって、華々しいフィナーレを持つようになったのはご承知のとおり。最近ではベリオ版も出ていて、このオペラのとってつけたような結末にはこれからも論議をうむことであろう。


Ki_20001473_6 演出面でこの結末を逆手に取って、ユニークな解釈を施したのが、今回のブロックハウスのもの。
リューが死ぬまでを、仮面に覆われた劇中劇に仕立て、音楽が始まるまでに創作パントマイムが行われる。
時代設定を作曲時の1920年代に置きかえ、霧に覆われた舞台に人々が三々五々現れ、カフェや出店、遊戯施設などの準備が整う。そこへ一組の夫婦が現れるが、ちょっとよそよそしい。男は夫人の目を盗んで、カフェのウェイトレスと怪しい雰囲気を醸しだしている。
ここで、狂言回し的な連中が現れ、登場人物たちに仮面を渡す。人々も仮面を付け、なりも中国人風になっちゃった。中国劇団のお芝居の始まり・・・・。
夫婦はトゥーランドットとカラフだし、ウェイトレスはリュー、店主はティムールだ。
ここで、エキゾチックな和音が高鳴り、音楽が始まった。
狂言回しが3人いて、連中が劇場主のようだ。
バットマンのジョーカーのような顔や仕草で、このある意味で夫婦邂逅の茶番劇の仕掛人である。

この無言のプロローグと、リューの死以降が対となっているわけ。

Ki_20001473_5 劇中劇は、登場人物達が舞台真ん中て歌い演じるなか、左右にいる人々がその観客でもあり、北京の群集でもありで、彼らが飲み食いしたり、色んなをやっているし、悪趣味で目の痛くなるような衣装と化粧のピン・パン・ポンに加えて、マイムの狂言回しの3人がアクロバテックに動きまわっているものだから、舞台に落ち着きがないことこのうえない。
1幕最後、カラフが銅鑼を叩きトゥーランドットと叫ぶこのオペラ最高のエキサイティングな場面。やや緊張の求心力が欠けたのはごちゃごちゃした動きとカラフルで軽々しい舞台設定のせいかもしれない。
 2幕になると、逆にこちらも慣れてきた故、ごちゃごちゃも違和感がなくなってきた。
バレエ・ダンスの多用もこの演出の特徴で、ピンパンポン(3P)が故郷へのノスタルジーに沈んでいるとき、たくさんのお姉ちゃんたちが戯れるように踊っていたが、妙に南国風だったのが気になった。このあたりは少し単調で、意味不足。
しかし、トゥーランドットが山車に乗って現れ、トゥーランドット役のテオリンが一声を発すると、舞台が一挙に締まった。
そのあとの、カラフとのクイズ合戦から幕切れにかけて、主役二人の見事な声に緊張して舞台に集中することができた。
 3幕は観客が期待したカラフの「誰も寝てはならぬ」が大声量で歌われていやでも盛り上がる。
やがて仮面を付けたリューとティムールが引き出されてきて、名前を吐けと迫られる場面。このオペラのクライマックス。このあたりはごく普通だが、かわいそうなリューの運命を知る身としては、早くもうるうる状態に。
Ki_20001473_11 仮面を外したリューが自己犠牲を歌い、さらに、あまりに素晴らしいアリアを小上がりの舞台に上りつつ、トゥーランドットににじり寄るように歌う時、トゥーランドットはその顔も見たくないとばかりに顔を背けている。
夫の心が離れた当の愛人がニクイのか!
そのリューの浜田さんの心を打つ演技と楚々とした歌唱に、我々観客は涙をそそられ、あちこちで鼻をすする音が・・・・。ワタクシももちろん涙ぼろぼろ。
トゥーランドットの頭からかんざしを奪い自決。
亡骸にすがりつくティムールが哀れを誘う。
そんな一方で、他の人物たちは、中国衣装をそそくさと脱ぎ、プロローグの時と同じ20世紀初頭のファッションに戻りつつある。
ティムールというか、カフェ店主は、一歩で遅れて、後ろ髪引かれつつ衣装変え・・・。
リューの亡骸は男たちによって運び出され、劇中劇が終了した。

あとは、台詞とシテュエーションが矛盾だらけのエピローグに。
夫に向かって「異邦人の王子」だし、夫は妻に「前から好きだったよう」だし。
勝手に二人で戻った愛に酔いしれ、周囲もそれを称える。
可哀想なリューはウェイトレスはどうしちゃったの??
彼女だけが劇中に亡くなり、カフェ店主ひとりが皆が盛り上がるなか、しょぼんとして下を向いている。
ちょっと辛口で、苦い後味の残る「トゥーランドット」

演出家のノートによれば、気の多いプッチーニは嫉妬深い妻にあらぬ疑いを掛けられて自殺に追い込まれた、かつての小間使いを思い起してリューを登場させたとある。
 そして、未完の総譜の最後には「ここから先はトリスタンとイゾルデのように・・・」と書き記されているとされる。
リューの自己犠牲が夫婦の愛情を呼びおこすきっかけとなったのだろうか?
「トリスタン」の方は、いずれも死んでしまうが、イゾルデの死は、死による愛の浄化ともいえるから、今回の演出は、あながち遠い解釈でもないのかもしれない。
プッチーニの意図は、今となっては不明だが、リューの死で終わるのも不完全だし、ベリオ版は二重唱のあと静かに終わるというし・・・・。
まだまだいろんな可能性を秘めた「トゥーランドット」ではある。
しかし、どんな版であっても、プッチーニの完全に残した部分は、オペラというジャンルの最高峰に位置する傑作ではなかろうか。

  トゥーランドット:イレーネ・テオリン   カラフ:ヴァルテル・フラッカーロ
  リュー :浜田 理恵            ティムール:妻屋 秀和
  皇帝アルトゥム:五郎部俊朗       ピン    :萩原 潤
  パン  :経種 廉彦             ポン    :小貫 岩夫
  官吏  :青山 貴             マイム   :ジーン・メニング

   アントネッロ・アッレマンディ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                        新国立劇場合唱団
                 演出:ヘニング・ブロックハウス
                          (10.15@新国立劇場)

1 歌手は揃っていた。
今年バイロイトでイゾルデを歌ったテオリン。強靭な声が強大な声で会場の隅々に響き渡った。
クールで、往年のニルソンを思い起す北欧系のトゥーランドットは素晴らしい聴きものだった。
対するフラッカーロのカラフは、最初こそ押さえ気味に感じたが、2幕からピーンと張った声がギンギンに冴えていった。
見映えもデカイこの二人に、負けないくらいに見事な声と細やかな演技で光ったのが浜田さんのリュー。
今年聴いたメリザンドの静的な歌唱に心打たれたが、彼女の佇まいはプッチーニの好んだリューのイメージにピッタリ。
哀れ誘うティムールを歌った妻屋さん、激しい動きを強要されながらもよく歌った3Pの面々、みなさん良かった。
新国合唱団の強力ぶりは今回も変わらず。
アッレマンディの指揮は、強弱がすごく豊かで鳴らすところはものすごい迫力を感じさせるし、きれいに歌う場面では、かなりのこだわりを感じた。
ワーグナーやマーラー、ドビュッシーの延長線でプッチーニを捉えた場合、この指揮者とオーケストラはまだまだ解像度不足かもしれなかった。
実演では、プッチーニの精妙なオーケストレーションは捉えにくいのかもしれない。
(CDで聴く、メータやマゼールの素晴らしさ)

2 なんだかんだで、2度の幕間にワインとジントニックをしっかり飲み、そして泣き、そして楽しんだ「トゥーランドット」であります。
オペラのシーズンがまたこれで始まり、気もそぞろ。

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2008年10月14日 (火)

モーツァルト 弦楽四重奏曲第17番「狩」 ドロルツ四重奏団

Maron先行き不透明のなか、収穫の秋を迎えております。

生活や政治・経済がどうなろうと、自然の営みは変わらない。
それを受け入れる人間の心情や環境が変わるだけ。
それも一時で、自然は大きくは変わらずに見守ってくれている。

一雨ごとに深まりゆく秋。
いい季節であります。

Dorolc_sq 今日は日頃のワクタシとは趣向を変えて、古典派の室内楽を聴きましょうかね。

年をとったせいか、最近、寝ていても夢ばかり見るし、休みの日でも早く目が覚めてしまう・・・。
そして悲しいことに夢の内容を覚えている。
昨年「トリスタン」を聴きすぎて、自分で演出したかのような斬新な舞台の夢を見てしまったことを以前書いたと思う。
 このところ、学校の夢や育った家や親戚の家の夢を見たりする。
昨晩の夢~親戚のお墓に行く狭くて鬱蒼とした道を歩いていたら、前に怪しくも恐ろしげな女が座っていたかと思うとこちらに向かってズンズンやってくるじゃないの。あわてて、引き返そうとしたら、後ろからも別な何かが迫ってくる・・・・。あまりの恐ろしさに、神様と祈りつつ、「ひぃぇぇ~い」と叫んで起きてしまった!!!
あたしゃどうかしちゃったのかしら?? 寝るのが怖い。いやな夢だった。
それとも、あの女は、カミサンだったのか??だとすると起きていても怖い。

話が脱線しすぎたのも、このCDを聴いていて、レコードの音色を思い、若き日々も思い起したから。
懐かしくも希少性の高い音源の復刻に取り組んでいるレーベル「EINSATZ」の最新の1枚は、1950年結成の「ドロルツ四重奏団」ハイドンモーツァルト
この四重奏団は、主としてベルリン・フィルのメンバーたちから構成されていて、当然にフルトヴェングラーやカラヤンのもとで演奏してきたツワモノたちなのだ。
カラヤンのもとで来日もしているらしい。
そんな連中が、のびのびと、思い切り音楽を楽しみ歐歌している様子がモノラルの柔らかな響きの中から聴いてとれる。
聴き古した感のあるモーツァルトの曲が、こんなに新鮮なのは、普通すぎるなかにも足を踏み出したかのような甘やかさと耽美性があるから。
スマートでキレのいい昨今の演奏とは一線を画する気持ちのなごむ演奏に、なにか今日はいい夢を見れそうな気分になってきた、かも・・・。

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2008年10月13日 (月)

ストラヴィンスキー 詩篇交響曲 バーンスタイン指揮

Yui 東名高速、静岡の由比あたりを上り方面に走る。
東名高速のルートの中でもこのあたりは一番風光明媚な場所。

下りは、海に向かって走るみたいだし、夕刻だと海が染まって美しい。
そして、上りは海の上に富士がそびえて見えて気持ちがいい。

うすぼんやりと、富士が見えます。

Bernstein_3 歌入り交響曲、今回はストラヴィンスキー(1882~1971)の「詩篇交響曲」。
ストラヴィンスキーはスタイルの異なる交響曲を5つ作曲している。
習作の第1番、管楽のための交響曲、3章の交響曲、ハ長の交響曲、詩篇交響曲。
合唱が用いられたのが、「詩篇交響曲」で、3つの楽章からなり、それぞれに合唱が旧約聖書の詩篇を歌う。
合唱曲のようで、どこが交響曲なんだとも思ってしまう。
ストラヴィンスキーは、合唱と楽器の合奏を対等に扱い、交響曲の形式から離れたいわば協奏交響曲のような形式を思い描いたらしい。

ヴァイオリンとヴィオラ、クラリネットを省き、ピアノ2台を加えた変則オーケストラに児童合唱と混声合唱。
くすんだ渋い響きに充たされた、宗教的な儀式めいた音楽。

ボストン響のクーセヴィッキーの委嘱により、1930年に書かれた。
様式を変転させていったストラヴィンスキーの第二期、新古典主義時代にあたり、「エディプス王」「ミューズ・・」「妖精の口づけ」「ヴァイオリン協奏曲」などが同時期に書かれている。
だから決して難解ではなく、弾むリズムとシンプルな楽想に溢れた聴きやすい音楽となっている。

 第1楽章は、神の慈悲を乞う真摯な祈りの音楽。印象的な管のトゥッティとユニゾンが耳に残る。繰返しのオスティナート効果が特徴的で、ブリテンやバーンスタイン、映画オーメンの音楽を思い起してしまった。
 第2楽章は、神への感謝。フーガである。オケの静かな場面に続き、神秘的な合唱がなかなかに聴きもの。最後には、フォルテでオケと合唱による賛美が強く現れ、ドキっとする。
 第3楽章は、全能の神を称える音楽。オケと合唱が交錯し好対照をなす壮大な音楽に発展してゆき、そのリズムとともに、なかなかの高揚感が味わえる。
最後には、神を称える「ラウダーテ ドミニウム」が静かに歌われ曲を閉じる。

とっつきのいい音楽ではないが、冷静でシャープな演奏や曲に没頭し熱い演奏などで聴きたい。前者は、ブーレーズや未聴ながらギーレン、ラトルなど。
後者がバーンスタインだ。
さすが、ユダヤの使徒のような存在であっただけあって、こうした音楽や言葉への共感度の高さがその熱い音にストレートに跳ね返ってくる。
ロンドン響の反応がいいが、ニュートラルな響きもまたそれに相応しい。
合唱はイギリス・バッハ祝祭合唱団によるもの。
1972年4月の録音は、この曲が初演されてまだ42年しか経っていなかったし、作曲者がその前年に亡くなったばかりのもの。
もうこの頃、私は音楽ファンでして、ストラヴィンスキーが亡くなったこともよく覚えております。合掌。

(本CDは、「エディプス王」とのカップリングで、エディプスはいずれ取上げる予定につき、ジャケットなしです)

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R・シュトラウス 「アラベラ」 ハイティンク指揮

Arabella_haitink 秋晴れの今日は、オペラをDVDで。
R・シュトラウスのロマンテックで純情姉妹劇、「アラベラ」を自宅観劇。

15作中10作目、シュトラウス68歳の作品は、ホフマンスタールとのコンビによる練達のオペラとなった。
19世紀半ばのウィーンを舞台とし、喜劇的な要素と純情可憐な姉妹の愛情と、物欲や世間体に弱い両親、美人に言い寄る道楽ものの男たちに、ウィーンの夜をひさぐ女たち。そして純朴な田舎の大資産家。
こうした個性ある登場人物が、1幕はアラベラの家(ホテル住まい)で、2幕は舞踏会場で、3幕はホテルの回廊で、目まぐるしく立ち回る。
そんな中で、一番ぶれずに、終始落ち着いているのが主役のアラベラである。

そのアラベラ役で一世を風靡したのは、デラ=カーザで、その声は今聴いても素適だが、you tubeなどで、映像を見ると映画俳優のように美しい。
それから以前取上げたヤノヴィッツ、ヴァラディ、キリ・テ・カナワ、そして日本人にとって忘れられないルチア・ポップ、最近ではルネ・フレミングあたり。
歴代アラベラのなかで、あまり知られてはいなけれど、「アシュレイ・パットナム」は、まずその容姿にかけては抜きん出て美しいのではないだろうか。

2 パットナムは1952年生まれのニューヨーカーで、アマチュア声楽家だった母の影響も受けて、最初はフルートを吹き、やがて音楽を正式に学び出してから声楽に転向。
アメリカ国内各地で学び、1976年メトのナショナル・カウンシル・コンクールで優勝し、国際的なキャリアを歩み出している。
デビュー間もない頃のフィリップス録音、ディヴィス指揮のボエームでのムゼッタ役が初録音で若々しいメンバーによるボエーム録音のなかでも一際新鮮なムゼッタだった。
寂しいことに、この録音のみがメジャー録音で、そこそこに舞台やコンサートシンガーにと活躍したものの、パットナムの名前はあまり見出すことがなく、現在はアメリカで後進の指導を行なっているようだ。
 そんな彼女の代表作が実はこのアラベラの映像、84年グライドボーンでのライブである。
4 時代により女性の美しさの変遷もあると思うが、パットナムは80年代のアメリカ美人といった趣きがあるかもしれない。
デラ=カーザやヤノヴィッツ、ポップが板についたヨーロッパの婦女子を感じさせるのに対し、パットナムは健康的で屈託のないアメリカンな娘といった風情。
でもそれがあっけらかんとしていなくて、やや陰りを帯びているところがいい。
テレビドラマの「チャーリーズエンジェル」に登場してもおかしくないと思ってしまうのは、私のようなオジサン世代なのかしら?
 肝心の歌唱は完璧であります。声の素直さと強弱の見事さ。テクニックと感情移入のバランスのよさ。文句なし。でも完璧すぎて、おいしい蒸留水を飲んだかのような思い。
もう少し色があれば・・・、という贅沢な思いが唯一残るところ。

そのあたりはハイティンクの指揮も同じ。
完璧ながら、シュトラウスの音楽の味わいの豊かさが抜け落ちたかもしれない。
ショルティはウィーンフィルに助けられたし、サヴァリッシュとミュンヘンは日常の音楽を奏でるだけでいとも簡単に、それぞれが行間を読むかのようなシュトラウス・サウンドを実現した。24年前のハイティンクはグラインドボーンからコヴェントガーデンに羽ばたく頃で、オペラ経験を必死に補っていた時分。
でも音楽の恰幅のよさと、ふくよかな柔らかいサウンドはまさにハイティンクらしいところ。
そして、手兵ロンドンフィルのコンマスには、読響のD・ノーランの姿も見える!

 アラベラ:アシュレイ・パットナム  マンドリーカ:ジョン・ブレッヒェラー
 ズデンカ:ジァンナ・ローランディ  マッテオ:キース・ルイス
 ヴァルトナー:アルトゥール・コルン アデライーデ:レジーナ・サーファティ

  ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
                      (84年グラインドボーン音楽祭)

3 他のアングロサクソン系で固められたキャスト、みんな面白いし、どこか律儀でいい。
ネーデルランド系のブレッヒェラーのマンドリーカは、お髭がむさくるしいが、田舎のぼんぼん風でもあり、役柄としてなかなかに見映えがよろしい。
歌が時に一本調子になるが、ヴァイクルで固められたイメージを忘れさせてくれる、なかなかのマンドリーカで、その豊かで明るい声域は魅力。
ウォータンも歌ってしまうブレッヒェラー。目力が全編強すぎ。

5 ズデンカの歌も容姿もぽっちゃりぶりもよいし、小太りのK・ルイスのよく通る明るい声は当時名指揮者たちに引っ張りだこだったのも窺える。

J・コックスの演出は、常套的なもので、グライドボーンの限られたステージを奥行き豊かに活用しながら、美しい舞台を築きあげている。
昨今の演出からすると歯痒い場面も多々あるかもしれないが、「アラベラ」という作品にホフマンスタール&シュトラウスが込めた思いを過不足なく表出しているように思う。
6 シュトラウス作品は、台本がしっかりしているが故に、かなり限定的な舞台解釈を強いるものと思うが、「アラベラ」においても新たな視点での演出、そうした洗礼をそろそろ期待してもいいのかもしれない。

でもシュトラウスの書いた素晴らしい音楽は不変。
美しい旋律が満載の「アラベラ」。
新国で、次期監督・尾高さんの指揮で来シーズンあたり再演を行なって欲しい。
音楽も、ドラマもとても日本人好みなのだから。

過去記事

 「ショルティ&ウィーンフィル、ヤノヴィッツ」の映像

1 興が乗って、安いスパーグリングワインを飲んでしまった。

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2008年10月11日 (土)

幸田浩子&林美智子 デュオ・リサイタル

Nikikai_nagoya木曜は平塚・小田原へ出張、お昼は同級生の営むラーメン店で食事、夜は実家へ泊まり、金曜から名古屋へ。
金曜に「幸田浩子&林美智子」ジョイントリサイタルがあるのを発見し、チケットを電話予約し、怒涛の勢いで仕事をこなし、喜々として伏見のしわかわホールへ赴いた。

しらかわホールは初めて。
700席の美しいクラシック専用ホールだが、難点は2階バルコニー席。
予約の際に、1階や2階正面が売り切れておりますが・・・と言われ、じゃあしょうがないねと、バルコニーにステージ斜め上くらいの席に。
ところが、実際に席に行ってみると、なんと手すりが目線の位置にあるじゃないの。
舞台がまったく手すりの下にあるわけよ。
まったく見えないわけでもなく、格子状の側壁と手すりの間から覗き見える寸法だ。
これには参った。目がやたらと疲れるし、歌手が動くと隙間を探してこちらも首を回すことに。
音響的には適度な残響と密度の濃さがあって文句はないのだが、ステージを観るということにストレスがたまる席。こうした席でも一律同一料金ってのはちょっと考えものだ!
また、ホールのサイズに比べてロビーが不必要なまでにでかくて落ち着かない。
ホワイエのワイン@600円もボトルにはラベルが貼られていない無地で、どこのものか不明だし、味もさっぱりだったなぁ。

最初から文句ばっかり言っちゃいけないけど、コンサートは楽しかった。

  ヘンデル デュエット集から「夜明けに微笑むあの花を」Ⅰ~Ⅲ
         「セルセ」より「懐かしい木陰よ」
         「リナルド」より「私を泣かせてください」
  モーツァルト 「皇帝ティトゥスの慈悲」より
            「ああ、この苦しみ」
            「もしまだあなたに涙がおありなら」
            「私は行くが、君は平和に」

  ドリーブ  「ラクメ」より「おいで、マリカ」
  デッラクァ 「ヴィラネル」
  ドリーブ  「カディスの娘たち」
  オッフェンバック 「ホフマン物語」より
            「森の小鳥は憧れを歌う」
            「見ろ、震える弦の下で」
            「舟歌」「フィナーレ」
   アンコール ベッリーニ 「平和の天使」
           「舟歌」

           ソプラノ  :幸田 浩子
           メゾソプラノ:林 美智子
           ピアノ    :冨平恭平
                      (10.10@しらかわホール)

前半は、白いドレスの幸田さんと紺の林さん。
ヘンデルのデュエット曲は、「メサイア」の合唱曲と同じ旋律のもの。とても馴染みやすい。
そして林さんの歌う「オンブラ・マイ・フ」に幸田さんの「リナルド」の名旋律。
ふたりの伸びやかな声がホールに響き渡り、疲れたので目を閉じて聴いていた。
前半のハイライトは、林さんの歌うセストのアリア。ただでさえ素晴らしい音楽に、林さんの豊かな声量に温もりある声にしびれました。

後半、ピンクのドレスは幸田さん、白にグリーンの花をあしらったドレスの林さんが現れ、これからフランスものが始まるという華やかなムードに一新された。
誰もがうっとりとしてしまう、これまた名旋律の「ラクメ」の二重唱は、私の好きな曲。
ソプラノとメゾが艶やかに溶け合うロマンティックな歌声に聞き惚れてしまう。
どうせなら、ゾフィーとオクタヴィアンの二重唱も聴きたいよ・・・。
 あと素晴らしかったのが、林さんの歌った「カディスの娘」の魅力的な中声部の輝きと、幸田さんのオランピアのアリアの完璧なまでのテクニック。その技巧が鼻に付かず、豊かな音楽性に裏打ちされ、まるで微笑みを伴なったかのような暖かさを感じるのが幸田さんの素適なところ。
林さんの中音域と幸田さんの高音域。この二つはとても美しいと思った。
日本人的な繊細さと細やかな神経のかよった美しさ。
冨平さんのピアノは、ニュアンス豊かで見事なもの。オランピアのネジも回してます。

後半は、歌がホールを熱くしてしまい、ブラボーも飛び交って会場に一体感もうまれ、私の席のハンデも気にならなくなってしまった。
ビジュアルばかりでない、豊かな音楽性と、気さくで明るいお二人の人柄が感じられるステージマナーにも感心したいいコンサートでした。

帰りを気にしなくていいだけに、オジサン心が大いに芽生え、持参した林さんのCDに加え、幸田さんのモーツァルトを購入してサイン会の列に並んでしまった。
ドキドキしながら順番を待ち、いよいよ私の番に。
緊張しながらも、林さんに「横浜のオクタヴィアン素適でしたよ!」とお話をしたら、にこやかに「ありがとうございます」と。
そして、幸田さんには「こんど、お二人で、ばらの騎士やってくださいよう」とおねだりしたら、「4年前にやったんですよ。文化会館で、ねぇ、(みっちゃん)」とか、ほんと明るく話していただきました。「またやってくださいね。楽しみにしてますね」と私。
ミーハーっぽいけど、お父さん嬉ちぃ。日本語が通じるってのはえぇね(あたりまえか)。
11月に、幸田さんのシェーンベルク「ピエロ・リュネール」を聴く予定、これ必聴!

おふたりの過去記事

 「ばらの騎士」 林さんのオクタヴィアン
 「ナクソスのアリアドネ」 幸田さんのツェルビネッタ
 「地球はマルイぜ」 林さんの武満ソングス

おまけ(小さいですぞ)

Hiroko_koda_2 Michiko_hayashi_3

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2008年10月 8日 (水)

パトリシア・プティボン 「恋人たち」オペラアリア集

3 コスモス畑。
去年の写真であります。
関東以西ではこれからが本番。

山口百恵の「秋桜」が、親心を刺激するような年代になってきた。
さだまさしの作った名曲。
詩を読むだけで胸が熱くなっちまう。

そんな繊細な情感を歌いこんだ日本の歌をこの人が歌ったら、さぞや素晴らしいのだろうなぁ~

Petibon_amoureuses_dg 私の大好きなキュートなソプラノ、「パトリシア・プティボン」である。
2年前にその歌声を聴いて以来、すっかりノックアウトされてしまい、今年4月には念願の来日リサイタルにも接することができた。
 その時の嬉しさと感銘は、後述の過去記事リンクをご覧いただきたいところです。
実物の彼女は、プロとしてのサービス精神も往行で、清々しいくらいの明るさで聴衆をいとも簡単に虜にしてしまう魅力に満ち溢れていた。
歌の実力も並外れていて、表現の幅の大きいことといったらない。
人の心にすぅ~っと入り込んできて、時にさりげなく、時に大胆に、感動を植え付けてくれる。

その彼女が、DGの専属となり、来日直前の今年1月に録音した音源が早くも登場した!
しかも、相方が、これもDGの若きスター「ダニエル・ハーディング」指揮する「コンチェルト・ケルン」だからたまらない。
師クリスティの元を羽ばたいてのメジャー本格デビューは、「恋人たち」と題された、グルック、ハイドン、モーツァルトらのウィーン古典派作曲家のアリア集。

 ハイドン   「月の世界」
 モーツァルト コンサート・アリアK.418
 モーツァルト 「魔笛」 ~夜の女王のアリア
 モーツァルト 「フィガロの結婚」 ~バルバリーナのアリア
 モーツァルト 「フィガロの結婚」 ~恋人よ、早くここへ
 モーツァルト 「ルチオ・シルラ」 ~ああ、いとしい人の
 モーツァルト 「ルチオ・シルラ」~死のこの上い不吉な思いのうちに
 ハイドン    「薬剤師」
 グルック   「アルミード」
 ハイドン    「アルミーダ」
 グルック     「オルフェオのエウリディーチェ」
 ハイドン    「無人島」
 グルック      「トーリードのイフィジェニー」
 グルック    「アルミード」
 モーツァルト  「ツァイーデ」 虎よ!爪をひたすら磨きすまして
 グルック    「アルミード」

古典派に弱いワタクシには、モーツァルト以外は初めて聴く曲ばかり。
でもこれら初聴の音楽がまったくそれと感じさせないところが、パトリシアの素晴らしいところ。音楽は今生まれたばかりの活きの良さで、音符のひとつひとつがツヤツヤと輝き、弾んで聴こえる。
外盤ゆえどのようなシテュエーションでのアリアかわからないが、パトリシアの多感な歌声に聴いているだけで、手に汗握り、胸弾ませ、夢中になる思い。
「ツァイーデ」なんてすごいですよ!
 有名どころでは、耽美的なくらいに物思いに沈んだK418のアリアや、来日公演でも照明を落として連続して歌った「フィガロ」の揺れる女心(あたしゃオジサンだけど)の機微の素晴らしさ。夜の女王の音楽的な完璧さ。全然鼻につかないスマートな歌唱。

パトリシアの機敏な歌に完璧なまでに唱和している、ハーディングの指揮するオケの鮮やかさといったらない。

グルックとハイドンで、同じ題材のオペラを並べて取上げていて、その音楽が対比できるのも面白い。それを完璧なまでに歌いわけている聡明なパトリシア。
最初は、グルックもハイドンもみな同じに聴こえてしまう自分だったが、この二人の優れた音楽家の手にかかるとその違いがよくわかる。
ハイドンの遊び心もあるユニークさと、きっちりした古典的なフォルム。
グルックのシリアスさと、以外や大胆なリズムと予想外の節回し。
こうした音楽にこそ、クリスティ門下にあったパトリシアの本領発揮。

バロックから古典に対するいきいきとした大胆な歌唱。
ベルカントオペラ、ロマン派フランス音楽、後期ロマン派、それぞれを明快に歌いこなすパトリシア・プティボン。
メジャーと契約し、無理なレパートリー拡張をせずに、その素適な声をゆっくりと聴かせて欲しい。

最後のこのCDへ苦言。
最近はやりの一部紙製のケースで、環境的にもボリューム的にも支障なく受け入れるものだが、ぎちぎちのサイズのため、解説書を入れるところが裂けそう。
それに輸入盤には、無慈悲にも表紙にシールがしっかりと貼られていて無粋このうえない。実にけしからん。

そりゃそうと、パトリシア・プティボンの歌声が充分楽しめた1枚でした。
次はフランス歌曲やR・シュトラウスを録音してね。
そうそう、もう1枚とっておきのプティボンCDがあるのでした。近日公開。

 プティボンの過去記事

 デビューCD「フレンチタッチ」
 「バロックオペラアリア集」
 「来日公演2008年4月」①
 「来日公演2008年4月」②

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2008年10月 7日 (火)

ブライアン 交響曲第1番「ゴシック」 レナルト指揮

Manjyushan1 これは何でしょうか?

実はこれ、もう季節はずれとなったけれど「冷やし中華」にございます。
でも冷やし中華発祥の地とされる仙台では年中食べれちゃう。

こちらは、国分町で酔ってふらふらと入った四川料理「成龍萬壽山」という店。甘酸っぱくユニークなお味。

この翌日、地元の方に連れていっていただいた店は、もっともっと美味かった!
次の機会にその驚きのおいしさをレポートします。(最近、飲食系の別館がほったらかしでネタがあり過ぎなもんで)

Brian_sym1 歌入り交響曲シリーズ
思い出したように、とうか、超巨編だもので曲を知るのに時間が掛かりすぎた。
そしてその思いは、いまだ変わらず、もう何十回と持ち運び通勤・出張のお供に聴いたものの、その構成や造りがさっぱり見えてこない交響曲。

ハヴァーガル・ブライアン(1876~1972) は、英国の怪作曲家。
その交響曲第1番「ゴシック」は、演奏時間141分の最長交響曲のギネスを保持するとんでもない作品。
その楽器編成も超巨大。
8管編成(32の木管・24の金管)に打楽器奏者きわめて多数、オルガン・チェレスタの大オーケストラに別働隊のブラスバンド、600人の合唱、4人のソリスト!!
まさに、ばかやろう規模の途方もない交響曲は、よっぽどバブリシャスな投資家がスポンサーにならない限り実演には及ばないであろう。
(トヨタさま、全国アマチュアオケ・フェスティバルとか称してやってもらえませんか。)

怪人ブライン、これで驚いたらまだ甘い。
このオッサン、交響曲を32曲も書いているのだ!
しかも、この1番が51歳完成の作品で、80歳以降に12番~24番、90歳以降に25番~32番という巨魁ぶり。その他オペラや声楽作品もあるというから・・・。
でも、ばかげた巨大作品は1番のみで、あとは普通、もしくはシンフォニエッタ風の小振り作品だったりして、それらが以外と英国風の落ち着きある音楽で悪くない。
といっても、1番以外は、ほかに手に入る2枚のCDを聴いての印象のみでありますが。
労働者階級の出身で、音楽はほとんど独学。小学校卒業後、大工や石炭工、塗装工などを転々とした変わりだねだが、ある意味天才だったのかも!

ともかく長く、複雑で、音楽の特徴を一言でいうことは不可能。
なんでもかんでもありの、寄せ鍋的な音楽とも聴こえる。
冒頭は、大河ドラマかよ、スピルバーグかよ、と思わせるようなJ・ウィリアムズのようなカッコイイ出だしに、おぉっ、と思わせたかと思うと、すぐに歌謡性ある旋律が現れる。
それはまさに英国音楽風のほのぼのムードで、私的には「待ってました」の一言。
これが第1楽章で、あとはもう、いろんな断片がモザイクのようにからみあう不思議な音楽で言葉にできませ~ん。

wikipediaの力を借りて、その構成を記すと・・・・。
オーケストラによる1~3楽章(40分)、合唱が加わる4楽章が「テ・デウム」(20分)、同じく合唱が中心の巨大な「クレド」が5楽章(15分)。そして独唱も参加する壮大な終楽章(36分)。
1~3楽章が第1部、ゲーテの「ファウスト」をモティーフとし、残りが信仰告白の第2部。
12世紀以降のゴシック様式にも感化されたブライアンは、以降もそれをイメージした音楽を書いている、ゴス・ロリおじさんなのだ。
テ・デウムなんて言って宗教的な固い雰囲気かと思うと全然違う。
オケはぐゎんぐゎん鳴りまくるし、合唱もこれでもかといわんばかりに咆哮する。
かと思うと、妖しげな異教徒の生贄の儀式を見つからないように影からこっそり見ちゃう風な音楽になったりする。
そして突然「スターウォーズ」の宇宙人が集う酒場の音楽みたいに軽薄な音楽がひゃらひゃら鳴ったりしちまうし・・・・。
そして最後は結構神妙な雰囲気で静か~に音楽を閉じる。
えぇっ?ほんとに終わりなの?まだなんかあんじゃないの?ってな気分。

日本でもお馴染みオンドレイ・レナルトさんは、すげぇ頑張った。
オケはスロヴァキアフィルだけど、それ風なところでは、英国ムードをよく出していて立派。合唱も独唱もごくろーさん。
あとにも先にも、これが唯一の音源となるでありましょうか?
初演者ボールト(!)の非正規音源があるという。
wikipediaによれば、この作品はR・シュトラウスに献呈されているとされるが、CD解説では、朋友の作曲家バントックと書いてあるように思える。


いやはや、疲れました。印象が一本化できませぬ。
今回は歌入り交響曲シリーズの一環でチャレンジしましたが、これにてご勘弁を。
もっともっと聴き込みが必要な作品ではあります。
それより、手持ちのほかの交響曲をあらためて聴いてみましょう。

旺盛な好奇心とおヒマをお持ちの方、是非お聴きください。
そしてご感想をお聞かせくださいませ。
そしてそして、トヨタさま、この曲に投資しませんか!

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2008年10月 5日 (日)

シェーンベルク 「グレの歌」 俊友会管弦楽団特別演奏会

Gurrelieder シェーンベルク「グレの歌」を聴く。
トヨタ自動車グループの後援によるトヨタコミュニティ
コンサートで、チケットは全席3000円と割安。
世界のトヨタさまが、全国でもう何千回も行ってきたコンサート。
わたしは初めてだが、プロでもめったにやらない、こうしたコンサートなら毎回各地へ足を運びたくなる。
トリフォニーホールは7割くらいの入り。そのうちどれくらいが、トヨタ関係者なのかは不明なれど、普段通いなれたオペラやコンサートとはちょっと雰囲気が違うのも確か。
というのも、客席で聴いていて聴衆が音楽に浸っているという雰囲気をあまり感じられなかったから。
知らない音楽でも音楽に集中する「気」のようなものをホールに感じることがあるじゃないですか。それがなかったような気が・・・・
先だって同じホールで聴いた「ばらの騎士」の雰囲気とは大違い。
曲が曲とはいえ・・・、いや、やはり曲ゆえだろう。

   シェーンベルク 「グレの歌」

    ヴァルデマール:水口 聡    トーヴェ:佐藤ひさら
    山鳩      :向野由美子   農夫・語り手:東原貞彦
    道化クラウス:小山陽次郎

          堤 俊作 指揮 俊友会管弦楽団
                     晋友会合唱団(清水敬一指揮)
                     (10.5@トリフォニーホール)

本日の席は、11列目の左より。
しかし、油断大敵。巨大編成で、ステージをせり出し、シートは事実上は前から6列目。
こうした声楽をともなう巨大作品では、中から2階せり出しのない後列が理想だった・・。
おそらくそちらは、お偉いさまたちのお席になっていたのでは。
しかし、眼前で聴くシェーンベルクの膨大な濃密度の音塊を全身で受け止めると、CDで恐る恐る聴くのと異なり、かなりの快感を味わえる。

今日は、このコンサートの音楽監督、三枝茂彰さんのお話が音楽が始まるまえに10分ほどあった。
こんなすごい曲をアマチュアがやる快挙、日本でも5~6回しか演奏されていないこと、もうしばらく味わえないでしょうとのこと、シェーンベルクの無調・十二音のこと・・・などなど、珍しい楽器の紹介もあわせてのご案内があり、とても有意義だった。

さて、この曲については、以前の自分の記事から引用。
(我ながら端的によく書けているもんで)

>そのまんま「ワーグナー」である。
第1部のヴァルデマール王と乙女トーヴェの愛の二重唱は、トリスタンそのものの官能の世界。
テノールとソプラノで交互に歌われる9つの歌は、ツェムリンスキーの抒情交響曲との類似性も見られる。
山鳩が王の妻の嫉妬で、トーヴェが殺されたことを歌う。鳥の登場は、ジークフリートの世界。
第2部は短いが、王の恨み辛みのモノローグ。
そして第3部は、怒りで荒れ狂う王の狩の様子。これはまさにワルキューレ。
そして王に付き従う道化は、性格テノールによって歌われるとミーメそのもの。
最後は、シェーンベルク独特のシュプレヒゲザンク(語り)により、明るさがよみがえり、光り輝く生命の始まりが語られると大合唱による大団円となる。<

ワーグナーを経てシェーンベルクやベルク、ウェーベルン、そしてツェムリンスキーにたどり着いた私としては、その甘味で濃厚なロマンティシズムと、無調へ向かうギリギリの境目にあるこの作品が堪らなく好きだ。
ワーグナーのように強力な歌手陣と構成感よくまとめ上げる耳のいい指揮者が不可欠。

今日の最大限にすばらしかったのは、堤さんの指導のもと率いられたオーケストラ。
出だしこそ固かったものの、2時間に渡ってほぼ完璧な仕上がり。
大音響もクリアだったし、シェーンベルクが細心に渡り作りあげたモザイクのように分割された小編成のオケの繊細な響きも実に見事。
オケの眼前にあって、私はきょろきょろと忙しかった。それだけ、オケが随所にいろんなことをやっている。
堤さんのわかりやすい指揮ぶりもオケにとっては頼もしいのであろう。
各奏者の皆さん、楽譜に首っ引きなんてことはまったくなく、音楽を楽しみながら、体を揺らしながら弾いていらっしゃっていてとてもアマチュアとは思えない。

独唱者の中では、日本を代表するヘルデン、水口さんの力強い声がことに2部と3部において素晴らしかった。オケの大音量と拮抗しなければならない難役を見事に歌った!
山鳩の向野さんのよく通るメゾは素適だったし、性格的な小山さんのクラウスもいい。
佐藤さんのトーヴェは、ドイツ語がややこもりぎみで、ホールに馴染みにくい声だったかもしれないが、とても美しい声だった。
そして、東原さんの語りが、最高によかった。
ドイツ語によるシュプレヒゲザンクが、何故あんな見事に歌い語られるのだろうか。
3部で、語りが入ってきて、音楽がどんどん浄化されゆくところ、私は感動で涙が溢れてきた。そうして、合唱が眩い音楽とともに歌い出して、曲がキラキラと輝くように終わった。
あぁ、世紀末音楽を充分に歐歌し、わたくし、シビレてしまった!
今宵もブラボー一声献上しました。

曲が閉じても、今夜は大人しめの拍手。

こんな大曲に身も心も動かされてしまう聴き手はまだまだ少ないのだろうか?
ともあれ、今日演奏された皆さんの熱意と頑張りに、大大拍手を捧げたい。

この半月の間に、「トリスタン」と「ばらの騎士」と「グレの歌」を聴いてしまった。
互いに密接な間柄の音楽、これらを高水準の実演で聴くことができる東京は異常な音楽都市だ。

 「グレの歌」の過去記事

   「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」

 





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2008年10月 4日 (土)

ルチア・ポップ R・シュトラウス オペラ・アリア集 シュタイン指揮

1a 私の姉が作ったフラワー・アレンジメント。
丸いのは何だろうと調べたら、「ピンポンマム」という花らしい。

菊科の愛らしい形のこの花、丸いから姿の違う花々と合わせると見映えがとてもいい。
今は色んな色が開発されて、まさに七色以上あるみたい。

Popstein_strauss 今日は私のとっておきのCDを。
ブラティスラヴァの歌姫、亡き「ルチア・ポップ」が、これまた先頃物故してしまった「ホルスト・シュタイ」の指揮で録音した「R・シュトラウスのオペラ・アリア」。

こんな素晴らしいコンビによる、理想的なR・シュトラウスは、どこを探してもない、そして永遠に生まれることのない組み合わせによる1枚。

何度もここに記したことだけれど、1993年に54歳の若さで癌で亡くなってしまったルチア・ポップ。
あまりの無念さに、それを思うだけで15年が昨日のように感じる。聴くものは誰しも好きになってしまう、素適な歌声を持っていた。
ヘルマン・プライとともに、その早すぎる死が惜しみてもあまりある・・・・。

R・シュトラウスは、ポップがモーツァルトとともに、最も得意とした作曲家であり、彼女がウィーンで愛されたのも二人の作曲家のチャーミングなロールでオペラ座をわかしたからであろう。
これまた何度も書いているけど、コロラトゥーラからスタートし、スーブレット、そしてリリコスピントへと声を強くしていった彼女。
シュトラウスなら、ゾフィーから元帥夫人へ、ズデンカからアラベラへ、そしてもしかしたらツェルビネッタからアリアドネもあったかもしれない。ダフネや伯爵夫人(カプリッチョ)も歌ったくらいだから・・・・。こんな風に、あれこれ思ってしまうのも、彼女の声でその役柄を想像して夢想してしまうから。

 R・シュトラウス 「カプリッチョ」 月光の音楽と伯爵令嬢のモノローグ
           「ばらの騎士」 元帥夫人のモノローグ
           「アラベラ」 1幕フィナーレ、2幕二重唱、3幕フィナーレ

             S:ルチア・ポップ
             Br:アラン・タイトゥス、ワルター・ツェー

        ホルスト・シュタイン指揮 バンベルク交響楽団
                          (88年3月録音)

これら3つのシュトラウスのオペラは、私の最も好むシュトラウス作品で、これらにあと「アリアドネ」「影のない女」「ダフネ」「ダナエの愛」が私のフェイバリットであろうか。
この3作品にポップが残した唯一の録音が実はこのCD。

女声を愛したシュトラウス、そのオペラの大半がヒロインが主役。
シュトラウスのオペラは、そのほとんどが男性を差し置いて、ヒロインが諦念や達観の高みに達し、澄み切った心境のうちにフィナーレを迎え、あまりに素晴らしく霊感に満ちた歌と音楽で幕を閉じる。
これら3作も、まさにその世界。

月光の光を浴びて、音楽と詩、ふたりの芸術家のどちらも選べない伯爵令嬢の胸の内
シュトラウスが書いた最後のオペラ「カプリッチョ」は洒落たセンスと透明感に満ちた夕映えのような名作。ポップの令嬢はもうまさに理想的な歌で、情熱に揺れ動く細やかな感情の機微を歌い出していて、その素晴らしいオーケストラの背景とともに、私は涙が止まらないほどの感動に震える・・・・。
シュヴァルツコップとヤノヴィッツ、トモワ・シントウに継ぐ名令嬢になったかもしれないのに。
シュタインはウィーンフィルとのザルツブルクライブもあるが、このバンベルクでの演奏も軽妙で美しい演奏だ。

時間の経過に心が揺れ動くマルシャリン。
これを歌いだすポップは、ゾフィーの20年後の自分。
まだまだ若いのに、じつはそうじゃない。去ってゆく恋人も見える・・・
ポップの元帥夫人のライブは、きっとミュンヘンあたりにあるのではないか?
いずれ驚きの登場を待ちたいもの。
このCDで残念なのは、オックスを追い出したあとのモノローグだけで、オクタヴィアンが戻ってきてからの場面がカットされ、1幕の最後の静かな音楽につなげられて終わってしまうところ。どうせならオクタヴィアン役も探してきて、カットなしで録音してほしかった。

初めての恋におののき、娘時代に別れを告げるアラベラ
ポップの「アラベラ」は、日本でもサヴァリッシュの指揮、ヴァイクルのマンドリーカで上演され、私は行けなかったもののNHKのFMとテレビの記録を大切にしている。
1幕では、ズデンカの歌もちょっとだけだが、一言歌っている。いい寄る男たちではなく、一目みたあの人が・・・という切ない歌の背景に流れるシュトラウスの音楽の刻々と色が変わるかのような素晴らしさがまじまじとわかる。
階段で歌われる最後の二重唱も、出だしのあまりに美しく静謐な音楽が私は極めて好き。
そのあと、情熱の高まりと明るく前向きで洒落たエンディング。
アラベラはポップの当たり役でもあり、その声質がもっとも合っている。
おなじみのタイトゥスが神妙にマンドリーカ役をつとめている。

ほんとうに素晴らしい1枚。
欲をいえば、先ほどの「ばらの騎士」の構成と、曲順。
「カプリッチョ」は最後に持ってきて欲しかった。
廃盤であることがまったくもって信じられない。

 ルチア・ポップの過去記事

 「オペラ・アリア集」
 「ミュンヘン・オペラ・ライブ」
 「R・シュトラウス ばらの騎士」
 「R・シュトラウス ダフネ」
 「マーラー 子供の不思議な角笛」

 

 

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2008年10月 3日 (金)

ドヴォルザーク チェロ協奏曲 シフ&プレヴィン

Iketani_tsukimi 過ごしすくなったというよりは、めっきり涼しくなりました。
蕎麦屋へいくと、暖かい蕎麦が食べたくなる。
心にしみるほのぼのとした出汁の効いた汁をすすれば、誰しも「あぁ!」と一言もれる。

音楽も食も、本当にいい季節であります。
銀座「いけたに」の月見とろろそば。
ほどよく飲んで、蕎麦をたぐる。
最高であります。

Dvorak_vccon_schiff 今週は出張と飲みが重なり、連日、音楽を聴けない日々が続きちょいと音楽に飢えております。
そんな金曜、疲れた体と胃に優しい、和やかなドヴォルザークを聴こう。
ドヴォルザーク(1841~1904)のアメリカ時代の名作のひとつ、チェロ協奏曲は古今のチェロ協奏曲のなかでも最高の作品であろう。
チェロだけが突出するわけでもなく、オーケストラにも聴かせどころが多く、ソロとオケが拮抗している。
望郷の思いに浸ることも出来る懐かしい雰囲気もあるし、ボヘミアの土の香りもプンプンとする民族臭もたっぷり。
長い曲だけれど、誰もが愛着を感じる協奏曲であろう。
これから深まる秋の日にぴったり。

私も含めて愛好家のほとんどは、ロストロポーヴィチとカラヤンの雄弁かつ美しい演奏をお持ちであろう。それとノーブルなフルニエとセル。
今日はハインリヒ・シフプレヴィン&ウィーンフィルの演奏を。
オーケストラも重要なこの曲。ウィーンフィルの録音って他にあったであろうか?
出だしからウィーンの魅力的な木管、ホルンの音色が威力を発揮する。
ベルリンフィルだと威圧的になってしまう部分も、マイルドで柔らかく感じる。
相性抜群のプレヴィンの指揮だけにそのチャーミングぶりには惚れ惚れとしてしまう。
最近は指揮者として活躍も目立つシフの2度目の録音は、ロストロさんのようなスケール感はないけれど、瑞々しくも流麗なチェロは、プレヴィンとウィーンフィルと音が見事に溶けあっていて、2楽章の掛け合いなどは極めて美しい。
オーストリアのチェリストとオーケストラによるこのドヴォルザークは、土臭さにはやや欠けるものの、適度な洗練されたムードがとてもよろしい。
ああ、いい気分。

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