プッチーニ 「トゥーランドット」 新国立劇場
新国立劇場のシーズンオープニング演目、プッチーニの「トゥーランドット」を観劇。
今回の新演出プロダクションは、10月1日が初日で、6回目の今夜が千秋楽。
ということで、どんな舞台であるかは、お仲間の記事などから何となく情報収集済みで、面白そうだったので大いに楽しみにしていた。そして最終ということで、舞台も歌も練れてきているであろうし。
ついでに書くと、プッチーニのオペラ全曲のブログ記事制覇も、このトゥーランドットで残りあとふたつ。
難敵「蝶々夫人」と未知「エドガー」が残るのみ。
年内には、取り上げて、プッチーニのメモリアルイヤーの記念としたいところ。
プッチーニ最後のこの未完のオペラは、3幕でリューが自害し、悲しみに包まれつつ静かに音楽を閉じるところまでしか完全には残されなかった。
結末にこだわり過ぎて、癌に勝てなかったプッチーニ。
ミラノでの初演時、トスカニーニがここで指揮棒を置いて、「先生が残されたのはここまでであります」と言って会場はし~んとなった。
かつて、NHKでプッチーニの生涯を描いた海外連続ドラマが放送されたことがあった。
その最後のシーンがこれだった。高校生の時に見たこのドラマ、この場面をとても覚えている。プッチーニの声は高嶋忠男で、美食と色好きのプッチーニをとてもよく描いていた。
アルファーノによる補完版がいまや定番となって、華々しいフィナーレを持つようになったのはご承知のとおり。最近ではベリオ版も出ていて、このオペラのとってつけたような結末にはこれからも論議をうむことであろう。
演出面でこの結末を逆手に取って、ユニークな解釈を施したのが、今回のブロックハウスのもの。
リューが死ぬまでを、仮面に覆われた劇中劇に仕立て、音楽が始まるまでに創作パントマイムが行われる。
時代設定を作曲時の1920年代に置きかえ、霧に覆われた舞台に人々が三々五々現れ、カフェや出店、遊戯施設などの準備が整う。そこへ一組の夫婦が現れるが、ちょっとよそよそしい。男は夫人の目を盗んで、カフェのウェイトレスと怪しい雰囲気を醸しだしている。
ここで、狂言回し的な連中が現れ、登場人物たちに仮面を渡す。人々も仮面を付け、なりも中国人風になっちゃった。中国劇団のお芝居の始まり・・・・。
夫婦はトゥーランドットとカラフだし、ウェイトレスはリュー、店主はティムールだ。
ここで、エキゾチックな和音が高鳴り、音楽が始まった。
狂言回しが3人いて、連中が劇場主のようだ。
バットマンのジョーカーのような顔や仕草で、このある意味で夫婦邂逅の茶番劇の仕掛人である。
この無言のプロローグと、リューの死以降が対となっているわけ。
劇中劇は、登場人物達が舞台真ん中て歌い演じるなか、左右にいる人々がその観客でもあり、北京の群集でもありで、彼らが飲み食いしたり、色んなをやっているし、悪趣味で目の痛くなるような衣装と化粧のピン・パン・ポンに加えて、マイムの狂言回しの3人がアクロバテックに動きまわっているものだから、舞台に落ち着きがないことこのうえない。
1幕最後、カラフが銅鑼を叩きトゥーランドットと叫ぶこのオペラ最高のエキサイティングな場面。やや緊張の求心力が欠けたのはごちゃごちゃした動きとカラフルで軽々しい舞台設定のせいかもしれない。
2幕になると、逆にこちらも慣れてきた故、ごちゃごちゃも違和感がなくなってきた。
バレエ・ダンスの多用もこの演出の特徴で、ピンパンポン(3P)が故郷へのノスタルジーに沈んでいるとき、たくさんのお姉ちゃんたちが戯れるように踊っていたが、妙に南国風だったのが気になった。このあたりは少し単調で、意味不足。
しかし、トゥーランドットが山車に乗って現れ、トゥーランドット役のテオリンが一声を発すると、舞台が一挙に締まった。
そのあとの、カラフとのクイズ合戦から幕切れにかけて、主役二人の見事な声に緊張して舞台に集中することができた。
3幕は観客が期待したカラフの「誰も寝てはならぬ」が大声量で歌われていやでも盛り上がる。
やがて仮面を付けたリューとティムールが引き出されてきて、名前を吐けと迫られる場面。このオペラのクライマックス。このあたりはごく普通だが、かわいそうなリューの運命を知る身としては、早くもうるうる状態に。
仮面を外したリューが自己犠牲を歌い、さらに、あまりに素晴らしいアリアを小上がりの舞台に上りつつ、トゥーランドットににじり寄るように歌う時、トゥーランドットはその顔も見たくないとばかりに顔を背けている。
夫の心が離れた当の愛人がニクイのか!
そのリューの浜田さんの心を打つ演技と楚々とした歌唱に、我々観客は涙をそそられ、あちこちで鼻をすする音が・・・・。ワタクシももちろん涙ぼろぼろ。
トゥーランドットの頭からかんざしを奪い自決。
亡骸にすがりつくティムールが哀れを誘う。
そんな一方で、他の人物たちは、中国衣装をそそくさと脱ぎ、プロローグの時と同じ20世紀初頭のファッションに戻りつつある。
ティムールというか、カフェ店主は、一歩で遅れて、後ろ髪引かれつつ衣装変え・・・。
リューの亡骸は男たちによって運び出され、劇中劇が終了した。
あとは、台詞とシテュエーションが矛盾だらけのエピローグに。
夫に向かって「異邦人の王子」だし、夫は妻に「前から好きだったよう」だし。
勝手に二人で戻った愛に酔いしれ、周囲もそれを称える。
可哀想なリューは?ウェイトレスはどうしちゃったの??
彼女だけが劇中に亡くなり、カフェ店主ひとりが皆が盛り上がるなか、しょぼんとして下を向いている。
ちょっと辛口で、苦い後味の残る「トゥーランドット」
演出家のノートによれば、気の多いプッチーニは嫉妬深い妻にあらぬ疑いを掛けられて自殺に追い込まれた、かつての小間使いを思い起してリューを登場させたとある。
そして、未完の総譜の最後には「ここから先はトリスタンとイゾルデのように・・・」と書き記されているとされる。
リューの自己犠牲が夫婦の愛情を呼びおこすきっかけとなったのだろうか?
「トリスタン」の方は、いずれも死んでしまうが、イゾルデの死は、死による愛の浄化ともいえるから、今回の演出は、あながち遠い解釈でもないのかもしれない。
プッチーニの意図は、今となっては不明だが、リューの死で終わるのも不完全だし、ベリオ版は二重唱のあと静かに終わるというし・・・・。
まだまだいろんな可能性を秘めた「トゥーランドット」ではある。
しかし、どんな版であっても、プッチーニの完全に残した部分は、オペラというジャンルの最高峰に位置する傑作ではなかろうか。
トゥーランドット:イレーネ・テオリン カラフ:ヴァルテル・フラッカーロ
リュー :浜田 理恵 ティムール:妻屋 秀和
皇帝アルトゥム:五郎部俊朗 ピン :萩原 潤
パン :経種 廉彦 ポン :小貫 岩夫
官吏 :青山 貴 マイム :ジーン・メニング
アントネッロ・アッレマンディ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
演出:ヘニング・ブロックハウス
(10.15@新国立劇場)
歌手は揃っていた。
今年バイロイトでイゾルデを歌ったテオリン。強靭な声が強大な声で会場の隅々に響き渡った。
クールで、往年のニルソンを思い起す北欧系のトゥーランドットは素晴らしい聴きものだった。
対するフラッカーロのカラフは、最初こそ押さえ気味に感じたが、2幕からピーンと張った声がギンギンに冴えていった。
見映えもデカイこの二人に、負けないくらいに見事な声と細やかな演技で光ったのが浜田さんのリュー。
今年聴いたメリザンドの静的な歌唱に心打たれたが、彼女の佇まいはプッチーニの好んだリューのイメージにピッタリ。
哀れ誘うティムールを歌った妻屋さん、激しい動きを強要されながらもよく歌った3Pの面々、みなさん良かった。
新国合唱団の強力ぶりは今回も変わらず。
アッレマンディの指揮は、強弱がすごく豊かで鳴らすところはものすごい迫力を感じさせるし、きれいに歌う場面では、かなりのこだわりを感じた。
ワーグナーやマーラー、ドビュッシーの延長線でプッチーニを捉えた場合、この指揮者とオーケストラはまだまだ解像度不足かもしれなかった。
実演では、プッチーニの精妙なオーケストレーションは捉えにくいのかもしれない。
(CDで聴く、メータやマゼールの素晴らしさ)
なんだかんだで、2度の幕間にワインとジントニックをしっかり飲み、そして泣き、そして楽しんだ「トゥーランドット」であります。
オペラのシーズンがまたこれで始まり、気もそぞろ。
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コメント
良かったですよね~!演出面での違和感も、最後に到って大納得、であります。浜田=リュウの死をもって劇中劇の真実が完成され、夫婦間の愛情が恢復するという、苦い解釈は切ないものがありますが・・・。歌手の出来は浜田→テオリン→フラッカーロの順でありましょうか。
テオリンの凄い声には感嘆しつつ、浜田のかそけきリュウは素晴らしいものでありました。ブラヴァー!
投稿: IANIS | 2008年10月16日 (木) 19時35分
IANISさん、面白かった!
こなれていないまでも、こうした演出が新国に現れるようになることは、日本のオペラのためにもいいことであります。
ドイツ人演出家は今回は手ぬるいまでも、こうやらざるを得ないのしょうかねえ?
それにしても浜田さんはよかったです!!
外国勢にあって、われらが日本人組は、合唱も含めて素晴らしいものがあります。
「リゴレット」は平日行けそうなときにぶらりと攻めようかと思ってます。
投稿: yokochan | 2008年10月17日 (金) 00時12分
「トゥーランドット」は台本も音楽も宙ぶらりんなところがある作品なので、所詮どのようにやっても万人が納得するような首尾一貫した上演は不可能なのかもしれません。であればプッチーニが完成した部分とそれ以外とを無理矢理くっつけるよりは、はっきり別物として切り離してしまおうというのも演出上のひとつのアイディアとしてはありかなと思いました。新国にこれをこの先さらに練り上げていく気があるのであれば、再演の際はもっと面白いものに化けるやもしれません。
それにしてもフラダンスは1920年代のイタリアで流行していたんでしょうか?時代背景から見てありえなくはないですね。首切り役人のダンサーの見事なダンスと、なんとなくやる気なさそうなその他大勢の踊り子たちの風情の落差に笑ってしまいました。
投稿: 白夜 | 2008年10月17日 (金) 00時36分
白夜さま、こんばんは。
トゥーランドットの難しさは、モツレク以上のものがあるかもしれません。今回の落差の激しい舞台を観て痛感しました。
ですから余計にまだまだ解釈の余地があるのでしょうね。
新国のこれからも捨てたものではないかもしれません。
私もあのダンサーたちには別次元のものを感じました。
首切り役の彼女のブログを発見しましたが、それはそれは真剣なものでありました。
投稿: yokochan | 2008年10月17日 (金) 01時03分
こんばんは。拙宅にコメント&TBをありがとうございました。
日こそ違えど同じ演目を鑑賞した方の感想を読ませていただくのは楽しいですね。当日の感激が甦る思いです。
yokochanさんも涙ぼろぼろでしたか。私もリューの場面では視界が滲んで困りました(笑)
>往年のニルソンを思い起す北欧系のトゥーランドット
同感です。トゥーランドットは今のところニルソンがいちばん好きなのですが、彼女で全曲を聴いたことがありません。録音出てましたらyokochanさんのおススメをぜひ教えてくださいm(_ _)m
投稿: しま | 2008年10月18日 (土) 19時16分
しまさん、こんばんは。
遅ればせながら観てまいりました。
勝手に自分の好きな分野からの視点で書き連ねてしまいました。
リューの場面はいけません。どんな舞台でも絶対泣けてしまうでしょう。
お涙頂戴のオペラ、5傑に入るでしょう。
ニルソンのトゥーランドット、私も一番好きですね。
彼女のトゥーランドット、EMIから出ているものが録音も含めて一番かもしれません。カラフが重戦車のようなコレルリ、リューがスコットであります。
ある意味、不感症のようなトゥーランドットが凄まじいです!
http://www.hmv.co.jp/product/detail/47169
投稿: yokochan | 2008年10月18日 (土) 22時55分
yokochan様
新国立劇場の生上演の話題を語り合える、首都圏在住の好楽家の皆様、何ともお羨ましい限りでございます。試聴済みディスクは、セラフィン、ラインスドルフ、メータと何れも以前の物であります。このオペラ、耳だけで接すると何やら怪しげなミュージカルっぽい、面妖な作品なるイメージを抱いて居りました。しかし1987年にメットでの上演(ゼッフィレッリ演出、レヴァイン指揮)を収めたDVD(ユニヴァーサル・UCBG-9277)を観まして、何か本質と魅力を知るとっかかりに、なりました。タワレコのレヴューにも投稿しましたので(『タクヤ』名義)、ご興味にお暇が御座いましたら、御拝見のほどを、それでは。
投稿: 覆面吾郎 | 2022年8月 3日 (水) 11時07分
トゥーランドットは、わたしも古めの録音ばかりで、カラヤンすら持ってません。
この作品はむしろ映像向きですね。
タワレコのコメントも拝見しましたが、ゼッフィレッリの豪華絢爛メットの舞台は、現在も続くこのオペラの定番ですね。
メットでは、ネルソンス、セガンと一連のスター指揮者がピットに入っていて、そのあたりの最新映像も期待されます。
田舎に引っ込みましたので、もう都心に出るのが億劫で、新国もすっかりご無沙汰となりました。
投稿: yokochan | 2022年8月 6日 (土) 15時00分