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2008年11月

2008年11月30日 (日)

モーツァルト 歌劇「魔笛」 ハイティンク指揮

Disney2008_2 ディズニーランドは、今年開業25年。
もう四半世紀になるのか・・・・。
造られたものとはいえ、人々を夢の世界へと誘ってくれる別世界。
ディズニーランド開設を控えた2年前、その運営企業のオリエンタルランドが、新卒採用を大幅に募集した。
まさに、私の卒業年度で、就職先に選ぶ知り合いも何人かいたが、みんなちょっと変わり者だったりした。
自分はまったくそんな思いはなく、手堅い先を選んだつもりが・・・・・・。
人生は、わからないものである。

そんな夢破れたオヤジにも、束の間の時間、お伽の世界を開いてくれる。
息子が友達同士で行ってきた。そのお土産の袋だけでも、ウレシイ。

Mozart_zauberflote_haitink












休日はオペラ。
こちらもお伽話でまいりましょうか。

モーツァルト「魔笛」。
セリア、ブッファ、ジングシュピールと体系化されるモーツァルトのオペラは、それぞれに神がかりなまでの世界に達しているが、やはりブッフォのダ・ポンテ3作が群を抜いている。
 その次が、ジングシュピールの「魔笛」とセリアの「ティトゥス」「イドメネオ」といったところか・・。

晩年のこのオペラは、「ティトゥス」、最後のピアノ協奏曲や弦楽五重奏、そしてレクイエムと同時期のものながら、それらの澄み切った透徹した世界から比べると、ちょっと違うように感じる。
ジングシュピールという性格もさりながら、劇場興行主シカネーダーの何でもあり的な台本のせいでもあるようだ。
善と悪との対立、生真面目な恋愛、喜劇的な恋愛、親子の問題、そして忘れてならないのは、フリーメイソンが目的とした倫理的な概念をも導入していること。
だから、いろんなものを盛り込みすぎて、その多様性ゆえに、ダ・ポンテ三部作のような人間の心に踏み込んだ求心力が薄れているように思う。
 善・悪を明確にしすぎたためか、夜の女王は、パミーナの母親でありながら、復讐にこだわったがゆえに葬りさられてしまう。(もちろん、ザラストロは、敵を許すということを諭したのだが)物語的には、恋愛が成就したのに、母親がいなくなってしまって可哀そうなパミーナなのである。
 ついでに言えば、若い二人の火と水の試練は、フリーメイソンの儀式であろうか。
今でも存在するこの結社は、秘密結社でも怪しげな存在でもなく、ダ・ヴィンチやゲーテ、ハイドンも、歴代アメリカ大統領も、日本の経営者も、ともかくいろんな方々がそのメンバーであった。日本にもしっかりと存在していて、芝公園のほうにあるらしい。
興味ある方はこちら。徳川時代から続くその歴史は読んでおもしろい。

 ザラストロ:ロラント・ブラハト           タミーノ:ジークフリート・イェルサレム
 パミーナ :ルチア・ポップ             夜の女王:エディタ・グルベローヴァ
 パパゲーノ:ウォルフガンク・ブレンデル パパゲーナ:ブリギッテ・リントナー
 モノスタトス:ハインツ・ツェドニク          弁者 :ノーマン・ベイリー
 第1の僧侶:ヴァルデマール・クメント   第2の僧侶:エーリヒ・クンツ
 第3の僧侶:アンドレ・フォン・マットーニ 第1の武士:ペーター・ホフマン
 第2の武士:オーゲ・ハウクラント      第1の待女:マリリン・リチャードソン
 第2の待女:ドリス・ゾッフェル       第3の待女:オルトルン・ウェンケル
 3人の童子:テルツ少年合唱団員

      ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団
                        バイエルン放送合唱団
                                                フルート:アンドラース・アドリヤン
                          (81年ミュンヘン)

フリーメイソンのトライアングルを意識してか、3人セットが多い。
そして、どうでしょう、この素晴らしい配役。
味わい深いキャストの妙に、ため息が出てしまう。
EMIやデッカは、こんな布陣をレコード録音に平気で行っていた。
ギャラの問題なんて頭になく、後世に残す録音のため(と思いたい)。
同じEMIのケンペの「アリアドネ」を思い起こすような素晴らしいメンバーだ。
贅沢にも、武士の一人が、ペーター・ホフマンですよ。
81年といえば、バイロイトでローエングリンを歌っていた第一線級の歌手なのだから。
ショルティの1回目の魔笛でも、こうしたマジックがあった。
69年の録音だが、二人の武士は、ルネ・コロとハンス・ゾーティンなのだから!
そしてホフマンは期待に違わず、目の覚めるような声を聴かせてくれちゃう。
この頃はまだすこしもっさり気味のイェルサレムの声とは大違い。
かつて、ハンブルク・オペラの来日公演では、この役は同じヘルデンのロベルト・シェンクだっが、シュンクの太い声が耳にビンビンと響いて痛いほどだった。

僧侶に往年の名歌手、クメントクンツ。弁者は、オランダ人やウォータンを歌うワーグナー歌手の英国歌手ベイリー、待女たちも第一級の彼女たち。
婆さんがパパゲーノに歳を聞かれて答える17歳、それと同じ年のリントナーを起用したが、アイデア以上に素敵なパパゲーナでにんまり。
 主役級たちの個々の歌は、当然に素晴らしいもので、ポップの人を惹きつけてやまない素敵な声によるパミーナは、同役で最高のものではないかと思うが、ちょっと大人の声になりすぎているのが気になるは贅沢か。
グルベローヴァの完璧でありながら、冷徹にならない夜の女王も文句なし。
ブラハト、イェルサレム、ブレンデルの3人は、良いけれど、競合のほかの諸盤の同役たちには敵わない・・・・。
男性陣の私の理想の配役は、モル、コロ、プライの3人であります。
カラヤンがザルツブルクで74年だけ上演した魔笛の配役が良かった。
コロ、プライ、マティス、グリスト、グルベローヴァ、ファン・ダム・・・すごいでしょ!

さて、ハイティンクの指揮はふっくらとしたマイルドな響きのモーツァルトを聴かせていて、堂々たるテンポを取り趣きに溢れている。ただし、それがドラマを語るまでは至っておらず、個々には極めて立派な音楽が鳴り渡っているのだが、シンフォニックな耳のご馳走で終わってしまうもどかしさがある。
でも当時は、これがハイティンクの個性で、その後コヴェントガーデンでの音楽監督経験を充分に積んで、オペラにおいても巨匠ぶりを発揮するようになる。
ここでは、バイエルンのオケの素晴らしさが、指揮をしっかりと支えている。
いつも書くけれど、バイエルンのオペラと放送のオケは、南ドイツ風の温かさと機能性を併せ持った素晴らしい存在なのだ。

私のライブラリーにある「魔笛」は、ベーム、スゥイトナー、サヴァリッシュ、ハイティンク、アバドで、永く狙ってきたショルティの旧盤が安くなったから、ぼちぼち聴いてみたいと思っております。名盤揃いの魔笛、皆さんの愛聴盤は?

Disney2008_a いつも謎に思っていること。
ディズニーランドの照明はいつ、どれくらいで交換しているのだろうか?

着ぐるみは、臭くないのだろうか?

ミッキーに入っているのは、男か女か?

ミッキーは何人いるのか?

夢が壊れちゃうから、誰も答えられない問題なのだ。

      

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2008年11月29日 (土)

ベートーヴェン 交響曲第9番 マリナー指揮

2 年々大仕掛けになる、クリスマス・イルミネーション。
どこへいっても、カメラを手放せない状態だ。
設営費用も、電気代もきっと大変だろう。
でも、夜好き、イルミネーション好きのワタクシは、この時期が一番ワクワクする。

暗い世相と、閉塞感に満ちた毎日を、少しでもキラキラさせて欲しいもの。
そんな気分で、今晩もカメラ片手にさまよう筆者でございます。
夜も忙しいです。
こちらは、名古屋駅のJRタワー。

Beetihoven_sym9_marriner 歌入り交響曲シリーズ、いよいよ最終回。
これを取り上げずしてなんとする。
ベートーヴェン第9から始まった、歌入り交響曲のジャンル。
もう何をか言わんかである。

死を3年後に控えた1824年、54歳で作り上げた人類史上もっとも偉大な音楽作品のひとつ。
 ゲーテやシラーを敬愛したベートーヴェンは、シラーの「歓喜に寄す」に曲を付けた表題的な「ドイツ交響曲」の作曲を練っていたが、ロンドンのフィルハーモニック協会から8番に次ぐ新作の交響曲の依頼があったことで、9番目の交響曲に「ドイツ交響曲」のプランを導入して、これまでにない大交響曲に仕立てようと決心した。
こうした経緯や、初演の感動的なエピソードは、いまさら皆様ご存じのことばかり。
「第9」といえば、日本人だれでも知っている。ただそれも、終楽章の旋律だけで、「第9」に魅かれて演奏会に行くと、3楽章までは完全に休眠状態。
かくいう私の父も、息子にせがまれて、カラヤンの第9の映画を引率する立場と相成り、爆睡親父と相成った。バリトンの一声で、ビックリ起きるパターンであった・・・。
 ついでに言うと、その映画はクルーゾー監督のモノクロ第5と、ルートヴィヒやトーマスが歌った古い方の第9で、厚生年金会館での上映。目をつぶって指揮するカラヤンに憧れてしまい、家でも目を閉じて、小枝箸を振り回す小学生であった・・・・・。

モーツァルトが、もう少し生きていたら、歌入りの交響曲を書いたであろうか?
ベートーヴェンとの違いは、職業作曲家としての職歴だけかもしれない。
作曲家の職業が市民社会に、しっかり認知されるまで、モーツァルトが生きていれば、さらにすごい交響曲や、オペラが生まれていたことあろう。
そんな風に考えることも、音楽史はとても楽しい。

私が子供のころは、第9は年末しか演奏されず、冒しがたい神聖なものでもあった。
年末には、岩城&N響、小沢&日フィル、若杉&読響の第9競演が華々しかったが、小学生の私は、紅白の裏番組の教育テレビの第9放送のチャンネル権を奪取するのが大変だった記憶がある。
 いまや、第9は、参加し歌う時代にもなった。
歌入り交響曲の金字塔は、やはり第9であろうか!

シリーズ最後を飾る演奏は、サー・ネヴィル・マリナーの指揮である。
こんな肩すかし、お怒りにならないで欲しい。
マリナーの第9など、誰が好んで聴いているだろうか。
この演奏、マリナーと聴いてイメージするとおりのものである。
ロンドンのウォルサムストウの響きの良さはあるものの、オーケストラは人数を刈り込まれた室内バージョンのアカデミーである。
初演時の編成を重視したとある。
合唱も小回りの利くサイズで、オケ、合唱とともに透明感とすっきり感が際立って聞こえる。
当然に、苦渋の漂う1楽章のイメージはなく、楽譜そのものを音にしてみました的な雰囲気で、間のとりかたもアッサリ君そのものである。そこが、ワタクシには新鮮である。
 第2楽章は、隅々までがしっかり聴こえる見通しの良さが引き立っている。まさにスケルツォ的な、大交響曲を感じさせないところがワタクシには好ましい。
 第3楽章は、この演奏の白眉であろうか。ここでもサラサラ感は止まらない。ロマン派に完全に足を踏み入れたベートーヴェンの音楽だけれども、そんなことは別次元といわんばかりに、音符だけをそのまま音に乗せてしまったマリナー。すっきりと気持ちの良い演奏は良質な最上級のミネラル・ウォーターを飲むかのよう。私のドロドロ血液も、これで耳から効果で、サラサラに。
 威圧感や切迫感のまったくない終楽章の出だし。歓喜の歌の創出までクリアで明確な運び。低弦で現れるその歓喜の主題も、全然普通に奏され、変にppにしたり演出ぶることもなく、各楽器に受け継がれて盛り上がる様もごく自然で、むしろ何のこのはない。
だから、バスのサミュエル・ラミーのあまりに立派すぎる歌声に戸惑ってしまう。
独唱陣の豪華さは、並みいる第9の中でも随一であろう。
オペラ歌手ばかりを取りそろえたその意図は、マリナーの音楽にはたして合っていただろうか。唯一、淡泊で蒸留水的なオッターのメゾだけがマッチングしているやに思う。
そんな訳で、歌が入ってきて、このアッアリ第9は、ちょっと様子が変わってしまうが、オケと合唱の紡ぎだす明晰かつ思い入れの少ない響きは終始魅力的で、終結部もあわてず騒がず、興奮もそれなりにきれいに終わる。歌なしのカラオケ終楽章でも面白かったのに。

     S:カリタ・マッティラ     Ms:アンネ・ゾフィー・オッター
     T:フランシスコ・アライサ  Bs:サミュエル・ラミー

             サー・ネヴィル・マリナー指揮
    アカデミー・アンド・コーラス・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
                           (89.4録音)

最後をあっさり飾った「マリナー卿の第9」、私は大満足である。
マリナーのベートーヴェン全集は、今やすべて廃盤。
カラヤンもいいけれど、同じくらい録音をしているマリナー卿に、今一度スポットライトを当てていただきたい。

これにて、歌入り交響曲シリーズはオシマイ。
近世作品にまだ取りこぼしはあるが、自分でも本当に楽しみながら聴いてきた。
人間の声とオーケストラってのは、協奏曲と違ってドラマ性とメッセージ性に満ちていて、とても強い音楽のジャンルに感じた。
さて次のシリーズは・・・・。

3

こちらも名古屋のイルミネーションです。
ビルの壁面の巨大なネオンのスクリーン。

名古屋が凹むと、日本が大変だ。
がんばろう名古屋!

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2008年11月28日 (金)

ベルリオーズ 劇的交響曲「ロメオとジュリエット」 ミュンシュ指揮

Yurakutyo2 色々なことに悲しんでいてばかりもいられない。
そろそろ通常に戻って、シリーズの完結に急ごう。
あともいろいろ企画があることだし。
それにしても色んなことが日々起きて、私を惑わせる。
昨日は、会議があって、あまり面白くない結末に。
当然にその後、むちゃくちゃ酒を飲んだ訳である。
浜松町で焼酎を一本空けて、有楽町で日本酒を数杯。
電車の時間があることで、自己抑止力が効いて電車でウトウトしながら帰宅。
帰宅後、恐るべし、ブリテンのオペラを聴き、かつ記事をしたためながら、焼酎を飲むワタクシ。いったい私の体はどーなってんだ。
もう若くないんだから、自制しないと。

Berioz_romeo歌入り交響曲シリーズ」、取りこぼしの作品を遡って聴いている。
今回は、爆才ベルリオーズ(1803~1869)の劇的交響曲「ロメオとジュリエット」。
ベルリオーズは交響曲と名の付く作品を4つ書いている。
いずれも番号付きの純交響曲でないところが、ベルリオーズらしい。
作曲順に「幻想交響曲」「イタリアのハロルド」「ロメオとジュリエット」「勝利と葬送の大交響曲」の4つ。
そのうち、「ロメオ」と「大交響曲」が歌入りで、ロメオなどは、シェイクスピアの作品をそのまま取り上げた、かなりドラマに付随した音楽となっていて、どこが交響曲?というイメージもある。
独唱3人に、合唱を伴う大規模なもの。合唱は二手に分かれ、モンタギュー家とキャピュレット家を歌い、独唱のうちバスは、ローレンス神父役、あとのメゾとテノールの二人は、進行役的な存在。だから決して、オペラ的でもないし、オラトリオとも違う。
おまけに、オーケストラだけの写実的な場面が、そうとうに雄弁で、それらをつなぎ合わせると立派な交響曲のようになったりもする。

いずれにしても、1824年ベートーヴェンの第9が作曲されてから、15年、1839年にこのロメオは作られているから、それを考えるとベルリオーズの天才性と独創性に驚かざるをえない。ちなみにメンデルゾーンの「讃歌」が1940年だったりする。

ベルオーズはシェイクスピアに相当入れ込んでいたらしく、幻想交響曲の仮想恋人ハリエット・スミッソンはまさに、ジュリエット役で活躍した女優だった。
その最愛の作品をテーマにした劇的交響曲は、経済的な援助も受けた恩人パガニーニに献呈されている。
100分あまりの大作は、3つの部分からなり、さらにそれぞれがいくつかに分けられている。
 1部では、物語の前段として両家対立のありさまや、メゾやテノールの独唱による、物語全体の顛末も歌われるプロローグ的なもの。
二人の愛を称え、シェイクスピアの詩をも讃えるメゾの歌は甘味でもあり、とても素晴らしい。
 2部は、華やかな舞踏会と、そこに忍び込み、愛を交わしあう二人、妖精マブの女王が描かれる。オーケストラだけの部分が多く、極めて魅力的。
美しい愛の情景に、めくるめく舞踏会の場面と熱狂的なマブ女王のスケルツォ。
 3部は、ジュリエットの葬送の情景と、キャピュレット家の墓の前にひとり佇むロメオ、そしてその早合点による自殺。目覚めたジュリエットも後追いをする。
これらは、オーケストラだけで演奏される部分で、かなり雄弁かつ夢想的で、クラリネットの悲痛な叫びにも似た独白、目覚めたジュリエットが傍らにロメオを見出したときの一瞬の爆発的な歓喜。急転直下そこに死を見出した時の、弦の厳しいまでの響きと下降線を描く音型。ベルリオーズの面目躍如たる場面である。
 そして、終曲は、唯一の登場人物ロレンス神父が大活躍。
二人の死の報は、両家を再び喧噪に巻き込む。神父は、両家のためになると思い、二人を結婚させていたことを朗々と歌う。それでも、両家はけしからん、いまいましいと喧嘩ごしである。神父はさらに、二人の死の真相を語り、このままでは両家に罰が下らんと諭すが、まだまだ過去の因縁をあげつらっていがみ合う両家。
ついに神父も、静まれろくでなしどもめ!と大演説をはじめ、ついには両家にも和解の風が吹き、それぞれが敵方のロメオとジュリエットを悼み、讃美する。
「私たちは誓います。すべての怨恨を捨て去り、永遠に友であることを・・・」
 この最後の部分が長大で、全体の緊張感ある凝縮感からすると、やや冗長で持ってまわった感もあるが、壮大ですべての合唱グループが唱和するので、かなりの高揚感を味わえる。
ここを聴くと、いつもワーグナーの「タンホイザー」の終結部を思い起こす。
実際、よく似ている。

この曲に初めて接したのが、75年にブーレーズがBBC響とやってきた時のオーケストラ抜粋の演奏。テレビとFMで繰り返し視聴した。
ブーレーズの整然とした指揮ぶりは熱狂とは遠かったが、愛の情景やスケルツォが本当に素晴らしかった。その後、マゼールとフランス国立管の全曲演奏の来日公演をこれもテレビとFMで楽しんだ。

音源では、ちょっと古くて音も割れ気味ながら、ロマンと熱狂、そして格調に満ちたミュンシュのステレオ盤が素晴らしい。幻想とカップリングで廉価盤となった、超お得のCD。
ボストン響の香り高い響きと、技量の高さ。独唱陣、とりわけハープにのって歌わえる、メゾのエリアスの歌は夢幻的でたまらなく好きだ。

     Ms:ロザリンド・エリアス  T:チェザーレ・ヴァレッティ
     Bs:ジョルジョ・トッツィ

      シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団
                      ニューイングランド音楽院合唱団 
                         (1962年録音) 

Yurakutyo1 大きな街はどこもかしこもイルミネーションだらけ。
植物もかわいそう。

有楽町フォーラムを左手に。

Yurakutyo3 有楽町マリオンの中通路。

  

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2008年11月27日 (木)

ブリテン 「ビリー・バッド」 ヒコックス指揮

4この世のなか、 死が横溢している。
敬愛する指揮者ヒコックスの死のショックは今ださめやらない。
どう考えても困ったことだ。

そして今日、インドのテロ事件。
あまりに不幸な犠牲者。
どこかで聞いた名前の方だった。
怪我をした、その上司の名前をセットにしてよくよく見たら、なんと、知人ではないか!

私がスピンアウトした会社ではあるが、亡くなった某氏は、私のそこの会社の名古屋支店時代に、配属されてきた彼だった。
人懐こくて、かわいい新人だった。あまり強くない酒もムリムリに飲ましていた悪い先輩だった。その顔も声も、思い出したとたんにありありと浮かんできた。
年末など、みな帰省するなか、名古屋駅で、彼は関西中国方面へ、私は関東方面へ、良いお年を、などと挨拶しつつ別れたことを、今更ながら覚えている。
その後、めでたく結婚したことも。

テロという卑劣な、意志の表現手段。いったいそいつらは無辜の生命を奪って何も思わないのだろうか。○○○の神の思し召しということなのだろうか!
許しがたい行為に悲しみよりは、怒りを感じる。
このくそったれやろう!

津田君、安らかに。遺族の方々には謹んでお悔やみもうしあげます・・・。

Billy_budd_hickox
11月は、私にとって鬼門の月。
この数回、そんなことを書いてきました。
ここにいたって、もう完璧なまでに最悪の日々。

ヒコックス追悼で、彼のもうひとつのオペラ指揮者としての側面をじっくりと振り返りたかった。
連続して録音していた、ブリテンのオペラ。
初めて、作曲者以外に全曲を踏破するものと信じていたが、その突然の死により未完に終わってしまった。
これから徐々に集めて聴いて行こうと思ってもいた。
歌劇「ビリー・バッド」。
登場人物や群衆(水夫たち)が全員男。お約束の少年までが登場する。
こんなあまりに特殊で、いかにも「ブリテンしてる」オペラ。
ブリテンのオペラの中でも、変な色めがねを外して純粋音楽としてみた場合に、傑作中の傑作と呼べるのではないかと、このところ感じている。

ハーディングの新盤も聴いて、その思いは深くなった。
いつもような記事が今回は書けないし、CD2枚半の大作ゆえ、後日の記事ということでご容赦いただきたい。
 純粋無垢で、正直かつ正義感に満ちた主人公と、彼の登場で、その存在を危うくされる上司。そのありさまを、理解していながら、真実から目を背けて、生き続けた船長。
人によっては、キリストの殉教と重ね合わせるし、事実ブリテンの意図もそこにあった。

ブリテン自身、K・ナガノ、ラニクルズ、ヒコックス、ハーディングと録音も多い。
ヒコックスの歌手陣の充実ぶり。
ラングリッジ、キーリンサイド、トムリンソン、オウピ、M・ベストなどなど、アングロサクソン系の名歌手をずらりと揃えた様は圧巻。
どこか冷めたハーディング盤に比べ、迫真の歌唱とオーケストラ演奏が眼前に展開される。

いずれ、ハーディング盤とともに、じっくり取り上げます。

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2008年11月26日 (水)

エルガー 「ミュージック・メイカーズ」 ヒコックス指揮

Kanazawa_sea 日本海に沈む夕日。
眩しい朝日の前の朝焼けよりは、沈みゆく太陽と夕日が好き。

そして空の青と赤のコントラスト。
それが刻々と変わってゆき、徐々に藍色から濃い夕闇にとって変わってゆく様がとても好きである。

私の人生も、どのあたりの色合いにあるのだろうか?
誕生月である11月は、いつもいろんなことが起きる。
それもよくないことばかり。仕事の不調、体長不良、家族の問題・・・・。
今年も例外でなく、仕事運は世相をしっかりと、いやそれそれ以上に反映して最悪。
それに追い打ちをかけるかのように、敬愛する英国指揮者ヒコックスの死。
つい先日、ヤナーチェクの奥深いオペラ「マクロプロス家の事」を観たばかり。
そのオペラの題材は、300年以上若いまま死ぬことがない美しいプリマドンナの物語。
生と若さへの欲望と、長く存在することの無常観。ヤナーチェクの深みのある音楽が、そうしたテーマに奥行を与えていて、見ごたえのあるオペラだった。
 その翌日に、精力的な活動の真っただ中にいたヒコックスの死があった。

私も、無用に歳を重ねてきた。いつでも、総決算を問われてもいい体制を敷いておきたいものだ。でもどこまでが悔いのないポイントなのか、忙しい日々の中にあってはすべてが心残りだ。まぁ、中間決算的な気分で日々を振り返り、明日を生きるのもいいのかもしれない。
誰もが迎えざるを得ない老い、そして死。だからそれをしっかり受け止める気持ちをもって、日々を過ごそうかとも思ったり。
音楽を聴けることをいとおしむ気分が、なおのこと高まっているのである。

Music_makers_hickox

エルガー(1857~1934)の「ミュージック・メイカーズ」は、1912年の作品。
メゾソプラノ独唱と合唱とオーケストラのための連作歌曲で、画家ゲイブリエル・ロセッティの友人でもあり動物学者でもあったオショーネシーの詩に付けたオード。
全部で10曲からなるが、まさに59歳にして、その時点での自己の中間決算的な音楽を成し遂げたような作品なのである。

壮麗さとともに、それまでの生きざまを振り返ったような潔さと神妙な観念に満たされた音楽。
それにより評価を不動にした「エニグマ変奏曲」のニムロッドと、直前に完成し大英帝国の交響曲となった1番の旋律が随所に現れる。
おなじみの旋律が独唱や合唱を伴い、感動的に歌われ、なぜか開放的な気持ちとある達成感に満たされる。

私たちは音楽の作り手。そして、私たちは夢を抱いてそれを追う。
荒涼たる流れにひとり舟をこぎ出すさすらい人。
淡い月の光のなか、私たちは、世界の心を動かし、そしてふるわせることができると思う。

ヒコックス追悼。
ロンドン交響楽団と手兵の合唱団を求心力強く導いた名演。
フェリシティ・パーマーのソロが、ニュートラルでありながら輝くばかりの低音を聴かせる。
彼女、メトの「ピーター・グライムズ」で詮索好きのいじわるなオバさんを演じていて、とても印象深かった。
英国音楽の作り手が頼りとしたヒコックスの遺品のひとつ。
カップリングの「海の絵」がまた最高、涙が出てしまった。

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2008年11月25日 (火)

追悼 リチャード・ヒコックス ディーリアス レクイエム

Hickox 何たることでしょう!!
訃報を見たとき、私は思わず落涙してしまった。
リチャード・ヒコックスが、11月23日、滞在中のカーディフのホテルで、心臓発作を起こし亡くなってしまった。享年60歳の若さで・・・・。
ブライデン・トムソン、ヴァーノン・ハンドリーに続き、これで英国音楽演奏の巨星がまた一人去ってしまった。あまりのことに、茫然としてしまう。
今後、英国音楽を担う指揮者はいったいどうなるのか・・・・・・。
この知らせを知った夕刻から、私は抜けがらのようになってしまった。

ヒコックスは、シティ・オブ・ロンドン・シンフォニアを設立し、そのキャリアをスタートさせていて、彼が終生メインレーベルとしたシャンドスから、そのコンビの演奏はたくさん出ている。そして彼は、合唱指揮での神様的な存在でもあった。
ロンドン交響合唱団の指揮者を長くつとめ、同団をイギリス第一級に育てあげた。
プレヴィンやアバドの合唱作品のCDを見ると、ヒコックスの名前がクレジットされている。

A_mass_of_life そして忘れてならない功績は、大系的に録音した英国音楽の数々。
私には、ヒコックスの指揮で知って、その裾野を広げていった作曲家や作品がたくさんある。先にあげた物故した二人とあわせて、英国音楽好きにしてくれた大恩人なのだ!

ヒコックスを追悼して、ディーリアスレクイエムを聴こう。
このレクイエムは、異端のレクイエムである。
無神論者のディーリアスは、通常のレクイエムのラテン語の典礼文に曲を付けるはずもなく、テキストは、旧約聖書やシェイクスピアに、ニーチェである。
普通でないところが、ディーリアスたる由縁だが、このレクイエムは第一次世界大戦で散った若い芸術家たちに捧げられているところもまた、心優しいディーリアスたるところ。
 ハレルヤとアッラーが交錯する合唱でびっくりするが、対立する宗教の無意味さを表したものだろうか。肝心なのは、すべての存在を超えた汎神論的な存在というのが、ディーリアスの心の根底にあったもの。
最後は長い冬のあとに来る春を歌い、たゆまず廻りくる自然への讃美で、曲はとても美しい余韻を残しながら終わる。

宗教感とは遠く離れたディーリアスのレクイエム。
ヒコックスの死を音楽で悼むにはとても相応しい・・・・・。

ヒコックスの実演は唯一体験ができた。
過去の記事でも書いたことがあるが、忘れもしない1999年の5月のこと。
ヒコックスとプレヴィンがそれぞれ同じ演目をもって来演した。
オーチャードホールで、新日フィルを指揮して、エルガーの序奏とアレグロ、ディーリアスのブリッグの定期市、ブリテンの春の交響曲が演目。
快活で明快な指揮ぶりに、オケも合唱も独唱も、大いに反応して素晴らしい演奏会だった。CDでは、緻密さや繊細さも充分に兼ね備えているけれど、ヒコックスは思いのほかダイナミックな音楽作りをすることもわかった。
Howells_hymnus_paradisi あれから10年もせずに亡くなってしまうなんて。
ヒコックスの最愛のCDをふたつ。
まずは、ハウェルズの「楽園讃歌」。
あらゆる声楽作品のなかでも、私にとって大事な音楽。
悲しすぎるほどに美しい音楽。愛するものを悼む純粋な心を反映した音楽に涙は欠かせない・・・・・。

Alwyn_lyra_angelica あともう1枚は、アルウィンの「リラ・アンジェリカ」(天使の歌)。
この絶美の音楽は、ヒコックスの録音あってこそ広まったし、フィギアスケートでも日の目を見たものだ。
ハープと弦楽オーケストラによる協奏曲。
そのイメージ通りに、天女がエレガントに舞う様を見るような音楽。
本当に美しい音楽。言葉を尽くしても語りきれない美しさ。
そして今晩は、その美しさとはかなさに、涙を堪えることができそうにない。

私の英国音楽の師がまた一人、天に召されてしまった・・・・・・。

リチャード・ヒコックスさんの死を悼むとともに、謹んでご冥福をお祈りします。
悲しい~。

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2008年11月24日 (月)

ヤナーチェク 歌劇「マクロプロス家の事」 二期会公演

Makropulos 二期会公演、日生劇場45周年記念上演、ヤナーチェクの歌劇「マクロプロス家の事」を観劇。
9つあるヤナーチェクのオペラの上演に接するのは初めて。音源でも「イエヌーファ」と「利口な女狐の物語」くらいしか聴いたことがなく、これから開拓すべき対象に定めていたヤナーチェク。
レコード時代から、その名前だけは知っていた「マクロプロス」。
「マクロプロス事件」とか呼ばれていて、その呼び方ばかりが脳裏にあって、今回の上演で「マクロプロス家の事」としたことじたいが、内容を知らないだけにさっぱりわからない「事件」だった。今回、チケットぴあで購入し、発券してもらうときに、係りの方が「マクロプロス家のこと」と呼んだのが、えっ?という気分にさせてくれた。
こんなことにこだわるのも、オペラの内容を知った今、タイトルを事件としてしまうと安っぽい三面記事的な痴話物語になってしまうし、まして最後の大団円で主役エレナ・マクロプロス(エミリア・マルティ)が、2時間ドラマよろしく、自ら謎解きを登場人物達の前でしてみせるが、それがなかなかに含蓄あるものだから、表面的には事件性を打ち消した方がいいと思った次第。
「こと」とすることで、エレナが永きに渡って係わり合った家々の歴史やエレナの過去も一緒くたに包括できる気がする。
唯一、若者が死ぬが恋に狂っての自殺があるけれど、事件性は薄いドラマなのであった。

原作は、カレル・チャベツという人でSFチックな作品を書いた人らしい。
その原作を作者の了解をえて、ヤナーチェクが自身台本を書いた。かなりの省略もあるし、登場人物個々の個性も弱まったといわれるが、こうして舞台にかかると、そんなことはまったく気にかからない。
1925年の作品、それとはぼ同時代の設定。  

第1幕
Makropulos1_002_2   弁護士コレナティーの事務所、図書館のようにうず高く法律書が配置されている。
秘書のヴィーテクが現在係争中の100年続くグレゴル家対プルス家の土地相続事件の関連資料を調べていて、当事者のアルベルト・グレゴルがやってきて係争の行方にやきもきする。
そこへ、娘のクリスタがやってきて、プリマドンナ「エミリア・マルティ」を讃美する。彼女も同じ舞台にたっているのである。
そこへ、入れ違いに当のマルティとコレナティー博士がやってくる。
マルティの求めに応じ、事件の経緯を博士は語る~ヨゼフ・プルスが遺書を残さずに死んだことから従弟が相続したが、グレゴルは異議を申し立てるが、プルス曰く、遺書はないし、口頭で、同じグレゴルでもマッハ・グレゴルなる人物にと言い残したと~。
 そこで、エミリアは、マッハ・グレゴルは、マックグレゴルを読み間違えていること、その母はオペラ歌手でエリアン・マックグレゴルであると語るものの、証拠を出せと言われたため、ヨゼフの遺言状のありかをリアルに語るので、皆は半信半疑となる。
それでも、博士はプルス家に走り、その間、二人になったエミリアとグレゴルのやりとりとなる。
エミリアは、あとギリシア語の手紙があるはずだから手に入れて欲しいと迫る。
 めでたく、遺言書がいった通りの場所にあったと、博士が帰ってくる。

第2幕
Makropulos1_008  劇場の舞台裏。クリスタとプルスの息子ヤネクが愛を交わしあっているところへ、父プルスとエミリアが登場。ヤネクはあがってボゥ~っとしてしまい言葉がでない。
アルベルトがプレゼントと花束をもってくるが、借金をしてまで何をする!と叱りつけるエミリア。さらによぼよぼのハウクがこれまた花束を持ってやってくる。
50年前、エミリアとそっくりだったジプシー女に入れあげていたことを、よたよたしながら歌いまくる。彼にはとても優しいエミリア。
プルス一人を残し、エミリアと二人。遺言状とともに、エリアン・マックグレゴルの手紙を見つけたが「E.M.」の署名しかない。それは、エミリア・マルティか、クレタ出身のエリナ・マクロプロスではないか?プロスは、遺贈を受けたフェルディ(グレゴル)はフェルディナント・マクロプロスであり、エリナ・マクロプロスの私生児であることを発見したのだ。
(異なる名前が同一人物であることを証明しなくてはならなくなったわけ)
やがて、エミリアの虜となったヤネクが現れ、父から手紙を盗むように指示されるが、そこにまた父があらわれ、ヤネクを追い出し、エミリアは色仕掛けでもって、手紙を持ってくることを約束させる。

第3幕
 エミリアの居室。一夜明けて、例の手紙を要求し、エミリアはついに手紙を手にする。
そこへ、プルス家より、息子ヤネク自殺の報があり、茫然自失のプルス。
さらに登場人物皆がやってきて、エミリアを責める。
博士は、昨晩クリスタがもらったサインの筆致と100年前のエリアン・マックグレゴルのものが一致するとして、偽造ではないかとする。
着替えてから話すと、奥に引き込むエミリア。
その間にも、全員で、E.M.と書かれたスーツケースや手荷物を調べまくると、一連の疑惑の名前が次々に出てくる出てくる。
 奥からウィスキーボトルを手に足元もおぼつかないままにエミリア登場。
ついに真相を語りだす。
Makropulos1_011_2 自分はエレナ・マクロプロス、クレタの生まれ、歳は337歳。父は16世紀神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ2世の待医。皇帝の命令で、不老不死・300年の若さを保てる薬を調合したが、これも皇帝の命令で娘の自分が実験台になった。
飲んだあと、1週間気を失ったため、早合点され父は処刑されてしまった。
その後ハンガリーに移り、欧州を名を変えて転々としたが、100年前、ヨゼフと出会い恋に落ち、フェルディを産み、薬の処方もすべてを話し、ヨゼフに託した。
ここで、力尽きて倒れるエミリア。皆の同情を得て
一旦は下がるが、やがて達観しきって再び現れる。
 ああ、こんなに長く生きるもんじゃない。それがあなたがたにわかったら、どんなに簡単に生きられるか!・・・信じて、人間性を、偉大な恋を、いつどんな時も多くを望んではならないの。・・・恐ろしい孤独、・・・・精神が死んでいるの。
 エミリアは、若いクリスタに手紙を欲しくないの? と渡そうとする。
皆が止めるのも聞かず、クリスタは手を伸ばし手紙を受け取る。
ところが、クリスタはそれを燃やしてしまう。
とたんに、エミリアは、白髪と化し浄化したようにこの世を去ってゆく・・・・。


かなり長く書いてしまったけれど、複雑すぎる筋の理解がまずこのオペラ理解につながる。ヤナーチェクが、不老不死の空しい人生に見たものは何か。
版権の問題を超えて、是が非でも惚れ込んだこの台本。
人間の持つ欲望、それはある程度、歳を経てから顕在化する。

ことに若さへの羨望と渇望は・・・・。
私の愛する「ばらの騎士」のマルシャリンの揺れ動く気持ちを考えてみるがよい。
ところが、永遠の若さを手にいれても、孤独と虚しさが残るというのだ。
死があることによる人生の充実感といずれ来る完結感。
ヤナーチェクは、なかなかに奥深く、心くすぐられる題材をオペラにしたものだ。

演出は不必要なものはなく簡潔で常套的なもの。
複雑な筋立てであり、聴きなれない音楽だからまずはそれでよかったものと思う。
それでも、登場人物たちの身のこなしや手の動きに、細やかな演技指導が行き渡っていることが感じられた。

  エミリア・マルティ:小山 由美 アルベルト・グレゴル:ロベルト・キュンツリー
  ヴィーテク:井ノ上 了吏      クリスタ:林 美智子
  プルス男爵:大島 幾雄      ヤネク :高野 二郎
 コレナティー:加賀 清孝     道具方 :志村 文彦
 掃除婦  :三橋 千鶴      ハウク  :近藤 政伸
 小間使い  :清水 華澄

  クリスティアン・アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
                  演出:鈴木 敬介
                     (11.24 @日生劇場)

そして小山さんのエミリアが特質大に素晴らしい。
小山さんの舞台は、おもにワーグナーの諸役で数々観てきたが、その都度その存在感の大きさに感心してきた。タイトルロールの今日は、本当に光り輝いていた。
明晰かつ強い声は、日本人離れしていながら、細やかさや陰りある表現にも幅がある。
さらに、その声の通りのよさは、デッドな日生劇場でも隅々まで、潤いで満たしたものと感じる。冷たい、非人間的な歌も必要とされ、最後は悟りの境地となる難しい役柄。素晴らしかった。
 情熱的なキュンツリー、私のご贔屓、さんのクリスタの可憐さ、近藤さんの芸達者ぶり、ベテラン大島さんののびやかなバリトン。
外套での歌いぶりが印象に残っている井ノ上さん、横浜のばら騎士の見事なファーニナル、加賀さんは難解な歌唱をものの見事に歌い、高野さんのヤネクは素直な声。
脇役もみんなしっかりと舞台を固めるなか、掃除婦の三橋さんが味ありすぎ!
褒めすぎかしら!
 褒めついでに、なんといってもイケメン、アルミンクの潤いあるオペラテックな指揮ぶりと、新日フィルのクリアな音色がとてもよかった。
ヤナーチェクの断片的でモザイクのような音楽が、錯綜し、やがて音たちがそれぞれ結びついてゆくさまが、先に記したホールのややデッドな響きでもって、とても身近にわかりやすく耳に届いた。

私は、今日のために未知のマクロプロスに近づくため、マッケラスのCDを先週購入して筋をわからないままに、何度か聴いた。
聴いたことがある・・・程度にはなったが、こうして真剣に舞台に接してみて、複雑ながらも求心力のある舞台と、ヤナーチェク独特の音楽に、まったく心奪われてしまった。
東方的でメロディアスな旋律と独特のリズムの交錯する少し長めの前奏曲がとても印象的。
この前奏曲のモティーフをしっかりと頭に刻んでおくと、最後のエミリアの独白の場面にそれが登場するものだから、とても感動できる。

Makropulos1_012 暗くなった舞台に、登場人物だけ照明が上から当たる。
クリスタに親しげに話しかけるエミリア。気の毒がるクリスタ。
クリスタが、手紙に火を着けたとたん、エミリアから真赤なガウンが外れ、白い装束に頭髪も白(銀)くなってしまい、彼女は皆に見送られつつ舞台奥へと歩んで行き幕となった。
感動した

プロンクター女史の声が2階席まではでに届いていたが、全然気にならなかった。
そのプロンクターと思われる方が、山手線で私の斜め前に座って、一生懸命に分厚いスコアをさらっておられた。
あの仕事も大変なものだな。音楽と言語と歌唱、すべてを把握しなくてはならないのだから。
 それと、今日は3幕に、天皇皇后両陛下がご来席された(様子)。
私は2階席で見えなかったが、盛大な拍手が起こった。
劇場のユニフォームを着たSP風の方もたくさんいたし。

ヤナーチャクのオペラ、こりゃ次々に聴いてみたいです。
チェコやスロヴァキアのオペラ団も、来日時は魔笛やドンジョヴァンニばっかりやってないで、ヤナーチェクやドヴォルザークを持ってきて欲しいもの!
(画像はclassic NEWSから拝借しております)

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2008年11月22日 (土)

「ラバー・ソウル」 ザ・ビートルズ

2横浜に遊びにいってきました。
雑踏の西口で買い物をして、中華街で食事をして、みなとみらいのイルミネーションを楽しみ、ランドマークタワーに登りました。

さまよえる神奈川県人としては、おもに文教及び買い物で横浜には始終縁があったけれど、横浜博を経てからのこの街は、さらなる一大観光地となったと思う。
若い頃は、西口か伊勢佐木町、元町くらいしかなかった気もする。
横浜というイメージもあるが、首都圏という大消費地の真っ只中にあることで、徳している面もある。
でも東京とは明らかに異なる文化と、進取の気性、以外なディープさとあっさり感。
横浜は楽しい!

Rubber_soul 今日は久しぶりにビートルズ
第6作目のレコードで、1965年12月アビーロードスタジオでの録音。
その頃、そのスタジオでは、クレンペラーやバルビローリが指揮をしていたことを思うと、なんともビートルズが革新的に思えてくる。
今から、43年も前のこととはとうてい思えないが、メンバーのうち二人、ジョン・レノンとジョージ・ハリソンはもう物故してしまっているし、存命の二人も70歳に手が届こうとしているから、歴史的な存在になりつつある訳だ。
 ビートルズに熱中した私は、高校1年の頃にこのレコードを買った。
その時は、もうとっくに解散していたし、10年前の録音を聴いたわけだけれど、スピーカーから出てくる音は、少しデッドだったものの、左右の分離が鮮やかで、やたらにステレオ効果を狙った、とても新鮮な音だった。
昔話ばかりで恐縮してしまうが、子供時代、ステレオで左右で音が別れて聞こえるって、とても嬉しいことだった!

このアルバムには、超名曲は入っていないけれど、どの曲もある意味革新的で、いろんなアーティストに影響を与えたし、その後の数々のブームを作ったトレンドLPなのである。
そのトレンドとは、まずインドの楽器シタールの使用。
ポピュラー音楽にシタールを使ったのは彼らが初めて。
ジョージ・ハリソンがインド音楽に傾倒し、ラヴィ・シャンカールと交遊を深めた背景があって、以降ビートルズのLPには、ジョージのシタールをともなった作品が続出する。
それを受けてあらゆるジャンルにシタールは溶け込んでいったはずである!
 それと、ミッシェルにおけるシャンソンのようでジャジーな音楽。ロックグループがこんなにムーディかつブルーな音楽を歌うことじたいがすごいことだった。
しかも、サビはフランス語だし!
(ちなみに、ワタクシこの曲、カラオケの愛唱歌であります。唯一歌えるおフランス語にて)
さらに、バッハを思わせるクラシカルなフレーズも取り入れられた曲(イン・マイ・ライフ)などもあったりする。

こんな風に、一曲一曲が、実に綿密かつ精度が高いのがビートルズであり、レノン=マッカートニーと、一歩引きながらも抒情性に溢れたジョージや、ほのぼのリンゴのコンビネーションの圧倒的な素晴らしさなのである。まさに、モーツァルト!

 1..ドラ
イヴ・マイ・カー
 2.ノーウェジアン・ウッド(ノルウェーの森)
 3.ユー・ウォント・シー

 4.ひとりぼっちのあいつ
 5.嘘つき女
 6.愛のことば
 7.ミッシェル

 8.消えた恋
 9.ガール
10.君はいずこへ
11..イン・マイ・ライフ
12.ウェイト
13.恋をするなら
14.浮気娘

アコーステックギターとシタールが鳴り響く清涼なノーウェジアン・ウッド。
なんだか寂しいけれど勇気づけられる「ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)」
愛こそ強しの「愛のことば(The Word)」
そして「ミッシェル(Michelle)」は、ポールの甘い歌声が冴えわたる、シャンソンのような一幅のラブソング。
美少女に翻弄され、悩ましいロリータソング「ガール」は、ジョンのひたむきさと怪しげな歌がとてもいい按配。
我が人生を語る趣きあふれる「イン・マイ・ライフ」は、真面目なジョンの歌で。中間部のバッハの平均律風な挿入部がうれしい。

いつまでも色あせないビートルズの音楽は、もはやクラシックの領域。
そして、私には大好きなイギリス音楽のひとつと認識。
イギリスはおいしい!

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2008年11月21日 (金)

マーラー 交響曲第2番「復活」 メータ指揮

1_2実は本日ワタクシ節目の誕生日であります。
若い頃から誕生日には仕事でろくなことがない。
今年も例外でなく、それに加えて周りを取り巻く環境の閉塞感たるやない!
子供の頃は、楽しいことばっかりだったもんだよ。
今の子供たちは、あんまり楽しそうじゃないし、彼らもそれを意識していないし。

でもですよ、私の楽しみは「音楽」にあります。
いくつになっても好きな音楽が聴ける喜び。きっと自分にどんなことが起こっても、この先音楽だけは聴いていると思う。
苦しいときも、悲しいときも、そして楽しいときも、音楽がそこにあった。
これからも音楽の神様、ミューズさま、どうぞよろしくお願いします。

こちらの画像は、名古屋駅のイルミネーション。かなり豪華です。写真撮りまくりです。
夜大好き、イルミネーション大好きのワタクシですから。
そして、酒の神、バッカスさま、これからもよろしくお願いします。
でもそろそろガタのきつつある体も気をつけなくては。皆さんもね。

Mahaler2_mehta

心残りの「歌入り交響曲シリーズ」。
シリーズ当初は、マーラー全曲を終えたばかりだったものだから、あえて省いたけれど、やはりマーラーさまを無視するわけにはいかない。
このシリーズを味わってみて痛感したのが、ベートーヴェンと、そしてマーラーの偉大さ。
マーラーはベルリオーズとはまた異なる次元で、ベートーヴェン後の交響曲の可能性を極めてしまった人に思う。
 それが職業作曲家オンリーではなく、有能な指揮者であり、卓越した劇場のオペレーターでもあったところがまたすごい。
 マーラーは、交響曲と歌曲、そしてオペラを一緒くたにして融合してしまった超人とも思っている。

そのマーラーの歌入り交響曲はここの記すまでもなく、2、3、4、8、大地の5曲。
そして本日はちょっと神妙な気分だから、交響曲第2番「復活」を聴いてみた。

この曲は、マーラーはおろか、あらゆる交響曲の中でも人気のトップクラスにあるであろう。演奏会で取り上げれば、必ず痺れるような感動を味わえるし、それは自宅でCDを聴いても同じこと。
今でこそCDでは、途方もないダイナミックレンジが収録されその再生も容易だけれど、レコード時代は、あまりの大音響に音割れ、へたすりゃ安物スピーカーがハウリングを起こし、音飛びまで危惧しなくてはならなかった思い出がある。
安物の装置でしか再生できなかったから、音響雑誌でみるシステムなどは夢のまた夢。
そんな安物装置の大敵でありながら、一方でうれしいくらいに良く鳴ってくれたのがロンドンレーベルのレコード。
メータの一連のマーラーもそのひとつであろうか。
私はこの演奏を手に入れたのはCD時代になってから。時を同じくして出たアバド&シカゴ響のレコードを先に買ってしまったからである。
このふたつの「復活」はまさに、マーラーの新時代の幕開けを飾った演奏なのだ!
バーンスタインやクレンペラーらの先達がマーラーとともに生きた演奏だったのにくらべ、アバドやメータ、そしてレヴァインは、マーラーを音楽史上の一人の作曲家として素直にとらえた純音楽的な演奏をおこなった。
そのアプローチは今でもマーラー演奏の根底となっていると思うし、様々な解釈を生む源流ともなったのだと思う。
ついでに書くと、ハイティンクは、バーンスタインと同時期にマーラーやブルックナーに熱中していったが、それはコンセルトヘボウとともに楽譜の忠実な再現という基本事項から、その独特の響きを熟成させていったといった、新時代的なマーラー演奏とも異なる次元の存在であったように思う。

今日のCDは、1枚に全曲がすっぽりと納まった徳用ぶり。
千人もそうだが、マーラーほどCDの恩恵を受けている作曲家はいないだろう。
81分あまりの収録で、音割れなどを気にせずに、メータウィーンフィルが作り出す、豊穣の響きに浸ることができる。
ここでのメータは、ともかく自然児のように、大らかにふるまっている。
メータ特有のグラマラスで肉太に響きは、ウィーンフィルの柔らかな音色で随分と緩和されている。鋭角的な指揮をするメータだが、出てくる音楽は角が取れていて、マイルドである。2楽章や3楽章ではそうした響きがとりわけ気持ちよい。
1楽章では、以外にテンポに緩急をつけていて、うごめき立ち上がる低弦は恐ろしく克明で不気味である。アバドの演奏では、この場面、ものすごいデリケートで逆な意味での無気味さがあった・・・・。
鋭さと繊細さのアバド、生々しさと柔和さのメータ、そんな「復活」の対比であろうか・・・。
 ルードヴィヒコトルバスの歌の素晴らしさは特筆もの。
そしてバラッチュ率いる国立歌劇場の言葉の意味をかみしめるかのような見事な合唱。
5楽章の「Bereite dich!」から俄然、音楽は熱を帯びてきて圧倒的なクライマックスに向けてひた走る。そのさまが実に気持ちがよろしい。そこに作為や思い入れがなく、音楽の発露であるところがメータやアバドのいいところだ。

それにしても、このころのデッカ録音は素晴らしく音がいい。1975年の録音で、ロケーションはゾフィエンザール、プロデューサー名にレイ・ミンシャル、エンジニアにジェイムス・ロック、コリン・ムアフット、ジャック・ロウといった、お馴染みの名前が書かれている。
聴き慣れたショルテイの「タンホイザー」や「パルシファル」と同じ響きをこの録音に聴くことも可能だ。

やっぱり、マーラーを取り上げてよかった。気分が少しは晴れ晴れとした。
あとふたつ、歌入り交響曲を補完します。

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2008年11月20日 (木)

ディーリアス ヴァイオリン協奏曲 サモンズ&サージェント

2 名古屋に出張。
出張先では車を使うことが多い。
自慢じゃないけれど、沖縄以外の全都道府県を自ら車で走行したことがある。
おかげで、普通じゃ行かない場所に行ったり、そこを経由したりする。
今日は、スーパー「バロー」で食料を仕込み、公園の駐車場でお昼を過ごすこととした。
地図を見ると、長久手に古戦場公園というのが近くにあるじゃない。
長久手の戦いなんて教科書の世界だけれども、名古屋や関西にはこうした史跡が家の横や街角に何気にあったりする。こんな光景をみちゃうと、「関東なんぼのもんじゃい!」というお気持ちよくわかります。近くにはそれこそ住宅街の中に「血の池公園」なんて恐ろしげな名前のきれいな公園があったりするわけです。
 こちらの紅葉は、古戦場のもの。美しいです。

Vnp_con ディーリアスヴァイオリン協奏曲は、かなりの愛好曲で、以前ホームズとハンドレーの演奏を取り上げたことがある。
尾高&札響の素晴らしい演奏会のあとに、強い音楽は聴きたくない。
出張疲れもあることだし、心の襞に染みいるようなディーリアスがいい。
ディーリアスは、もちろん素晴らしい音質のCDで聴くのがいいが、紗幕のかかったような古めの録音で聴く味わいも、また格別だ。
私の場合、初ディーリアスは曲名もなにも書いてなかった無地レーベルの業務用のレコードだった。中学生の頃だった。ジャケットというか厚紙で作られたレコード入れには、手書きで「ビーチャム・デリアス」と書いてあった。
レコードは傷だらけで、ノイズもひどい。レコ芸の付録の要覧で、ロイヤルフィルとの有名な1枚と推測し、曲名も自分で探しだした。
大昔の話。だから私のディーリアスはパチパチノイズも一緒に刷り込まれているのである。

そんなまさに私にとってのノスタルジック・ディーリアスが味わえるのが今日の1枚。
ラプソデックで形式的にも自由なこのヴァイオリン協奏曲、夢の中を緩やかに散策するような25分間。以前の記事でも書いたが、曖昧で明確な旋律もない、感覚的なその音楽に私はいつも身を任せるだけ。夢の中は夕暮れの光景が浮かぶ・・・・・。
ヴァイオリンのサモンズは1886年に生まれ、1950年に没した英国ヴァイオリニスト。
デイーリアス(1862~1934)と20歳違い、独学でヴァイオリニストになったというからすごいものだ。
1944年の録音ながら、遠い彼方の音ではなくて、結構明快な音で聴きやすい。
そしてサモンズのヴァイオリンの温もり感と懐かしさは、ディーリアスにぴったりで、サージェントロイヤル・リバプールの幽玄なバックも素敵すぎ。
サモンズは、ホテルで弾いているところをビーチャムに見出され、彼のオーケストラのコンサートマスターに抜擢されたとある。

このCDには、美しいピアノ協奏曲や、有名な小品や耳を澄ませたくなるような桂曲も収録されている。いずれも1940年代の味のある録音で聴ける。

1 冬の様相が急速に色濃くなって来るその前に、もう1枚!

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2008年11月19日 (水)

札幌交響楽団東京公演 尾高忠明指揮

Sso2008 11月恒例となったー尾高忠明指揮札幌交響楽団の東京公演を聴く。

2回ある札幌の定期演奏会で練り上げられた演目をもってやってくるし、今回はCD録音もした曲だから、手のうちにはいった充実した演奏が繰り広げられた。

前回、武満やドビュッシーを聴いて、はや1年、日の経つのはあっと言う間だ。何も変わらない自分がもどかしいけれど、今はそんな反省をしている場合じゃない。
 
 今回のプログラムは尾高さんならではの英国もので、ズバリ私の日頃のフェイバリット曲ばかり

というわけで、1年前から手ぐすねひきつつ本日を迎えた。

 ヴォーン・ウィリアムズ 「タリスの主題による変奏曲」

 ディーリアス       「村のロメオとジュリエット」~「楽園への道」

 エルガー(A・ペイン補完) 交響曲第3番

               「エニグマ変奏曲」~「ニムロッド」

         尾高忠明 指揮 札幌交響楽団 
                       (11.18@オペラシティ)

2部にわかれた弦楽によるRVWの奥ゆかしくも古雅な音楽は、札響のクリアーな弦楽セクションにぴったり。仕事でこのところいやなことばかりだけれど、この一曲目で一挙に茫洋とした英国風景にいざなわれ、そして心に染み入るような思いに癒された。
ヴァイオリンソロ→ヴィオラ→第2ヴァイオリン→チェロとそれぞれソロに受け継がれつつ弦楽四重奏のように、せつない主題が奏でられるとき、胸がジーンときてしまった。

2曲目のディーリアス。私のディーリアスの中でももっとも好きな曲のひとつ。
はかなくも、死の先を夢見るような彼岸の音楽。
デリケートでありながら、2度あるクライマックスは後期ロマン派的な陶酔ぶりを味わうのが私の楽しみ。
今日の尾高・札響の演奏は気持ちを充分込めた慈しむような演奏。
ホールの響きによるものか、ホルンと金管の音がやや強すぎるように感じた。
ちょっとメロディが違う風になっちゃったホルンソロも目立ってしまった。
以前、新日フィルで聴いたサントリーホールでの演奏の方がバランス的にはわずかによかったかもしれない。
それでも愛聴曲、最後の場面ではしっかりと涙をにじませていただきました
尾高さんが、新日の時に言っていた。「この曲を演奏するといつも涙がでちゃうんですよ」

休暇後は、エルガーの交響曲第3番。言うまでもなく、エルガーが残した決して多いとはいえないスケッチをもとにアンソニー・ペインが補筆完成させたもの。
 これをエルガーの意思の通った作品とみるか、まったくのエルガー風の創作とみるかで、評価もまちまちかもしれない。
私は、今や完全に前者の思いで、大好きなエルガーの交響曲がもうひとつ増えたという喜びが極めて大きい。
最初は敬遠していたけれど、ナクソスのポール・ダニエル盤をそれこそ朝に晩に何度も聴いて耳になじませ、これは、実にいい曲だし、よく書けていると思えるになった。
C・デイヴィスのCD、そして、尾高&札響のCDを購入し、ますますこの曲が好きになってゆき、そしてA・ペインがチョイスした部分やそのエピソードも知るにつけ、理解も高まってきた今年。
6月には、英国若手ワトキンスと都響での実演をP席で楽しみ、各楽器の活躍ぶりを把握。そして、いよいよ本日、世界でもっともこの曲を演奏し、理解していると思われる尾高さんと札響コンビのライブ。
 エルガーやラフマニノフを指揮するときのイキイキとした楽しそうな尾高さんの動き。
今日も健在で、終始細やかにかつ大らかに指揮をしていて、見ているこちらも指が体が動いてしまう。
豪快さとエルガーらしいノーブルな旋律が交錯する第1楽章。冒頭から、自分たちの音楽として心から共感して演奏しているのがわかる。エルガー独特の上昇音形も堂にいっていて、とてもかっこしい終結部であった。知らない故かもしれないが、思わず拍手が起きる。
 愛らしい第2楽章は、札幌の街の清涼な空気のよう。打楽器の活躍もうれしいしゃれた音楽。
 そして今日の演奏の白眉は、第3楽章。憂鬱な雰囲気から、雲から日が差すかのような優しい旋律が満ち溢れるようになる。このあたりに対比と歌心は、尾高さん、誠に素晴らしい。最後のコーダの場面、まさにファンタステックな一瞬だった。今日二度目のお涙いただきました。
 霊感不足に思える終楽章も、ライブだとその弾むリズムと親しみやすさから、会場にもスイッチがはったようだ。でも威勢がいいばかりでない、ちょっとアイロニーを含んだ響きも今日の演奏からは充分感じ取ることができる。
最後は、ほのかに、そして懐かしむように冒頭主題が回顧され、ドラの静かな一撃で曲を閉じた。
尾高さんは、動きを止め、オケも弓を掲げたまま、まんじりともしない。
素晴らしい余韻の間が生まれた。
私は静かにブラボー一声献上。
世界に通用するエルガー演奏ができる名コンビに、ブラボーが飛びかった。

拍手に応えての「ニムロッド」は絶品だった。オケも尾高さんも顔を真っ赤にして、情熱の静かな高まりを表現しつくした。これこそ、来年の予告篇かしらと納得。
拍手を制し、「来年もオペラシティです。オール・エルガー・プロやります」とのお話に拍手が巻き起こる。最後は、時計を指差し、お休みなさいの、尾高さんお決まりのポーズで解散。
あ~、素晴らしいコンサートだった。
恒例の、コンマス中心のオケメンバーによるお見送りと、ホクレン提供の「てんさい糖」の配付も嬉しい限り。

あぁ、札幌のファンが羨ましい。
今年はアクシデントで逃してしまった「ピーター・グライムズ」、いずれ新国で取上げるとの予告もあるし、「ビリー・バッド」やディーリアスもやっちゃって欲しい尾高さん。
来シーズンの札響は、エリシュカのドヴォ7、尾高さんのR・シュトラウス「ドンキ」、ブル5、ラフマニノフ2番、エルガー・プロなどなど。魅力的であります。
尾高さんとの蜜月、新国で多忙となりますが、いつまでも続いて欲しいものであります。
体と金がたくさんあれば、札幌・神奈川・名古屋の定期会員になりた~い!

・エルガー 交響曲第3番の過去記事

 「コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団のCD」
 尾高忠明指揮 札幌交響楽団のCD
 「
ワトキンス指揮 東京都交響楽団のコンサート」

・尾高忠明のエルガー交響曲の過去記事

 第1番「尾高忠明/BBCウェールズ響
 第2番「
尾高忠明/読売日本交響楽団

 札幌交響楽団 東京公演

 2006年「マーラー第5」
 2007年「武満&ドビュッシー」

Operacity2008 オペラシティのクリスマスツリー、20日が点灯式とのこと。




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2008年11月17日 (月)

ブランデンブルク協奏曲第3番 シェルヘン指揮

Akiu1 走る車の中から捉えた晩秋の風景。
かなり寂しいね。

ススキが哀れを誘うし、山の紅葉も色あせつつある。
日本各地には、こんな光景がまだまだ、たくさんあると思う。

日本昔ばなし的な、心くすぐられる景色じゃないかと思う。

Scherchen_brandebourgeois 今日はEINSATZレーベルから、ヘルマン・シェルヘ指揮でバッハブランデンブルク協奏曲第3番を。
6曲あるブランデンブルクの中でも、ひときわユニークな第3番。
なぜかといえば、その楽器構成が、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのみで、しかもそれぞれが3部に分かれている。
あまりに渋いその構成ゆえに、音楽もかなり渋くまとまっていて、2楽章形式ながら、その間をつなぐ中間部が、チェンバロやオルガンの緩徐楽章的な間合いがある。
最近ご無沙汰のブランデンブルクであるが、私の愛聴盤は、シューリヒトやリヒターのドイツ的な演奏や、アバド・スカラ座の明るい演奏。

さて、シェルヘンの1954年録音による当盤はいかに。
オケは、セント・ソリ管弦楽団。パリ・オペラ座を中心とする、50年代花の都のオケメンバーを選りすぐったメンバーからなるオーケストラ。

第3番といえば、小編成で小気味よくツゥー・ツゥーとスピーディに演奏されるのが常で、私もそうした演奏ばかり聴いてきた。
そこで聴く、このシェルヘン盤の濃厚な味付けに、出だしから度肝を抜かれる。
一音一音、しっかりと、それもテヌート気味に弓をしっかり上下させて歌っている。
まるでロマン派の音楽のようである。
 しかし聴くうちに、退廃的ともいえるムードに参っていってしまう。
あまりにゆったりとした1楽章と、ほんの数秒ながら過去に軸足をおいたような、チェンバロを効かせた緩徐的な部分。
そして2楽章でも、しっかりと楽器を鳴らしつつ、濃厚な味わいをかもし出す。
まるで、学生さん方の練習のようにしっかりと音を選びながら演奏している雰囲気に、おいおいという気分にもなるが、ここまで大胆かつやり放題の演奏は、逆にお目にかかったことがない。
そこまでやらなくても、いいじゃないかととも思うが、普通にきれいに仕上げようと努力した演奏よりはるかに表現意欲があって、これはこれでいいじゃないか、ということになる。
バッハの演奏様式は、非常に幅広い受容範囲を持つものと思うがゆえに、こんなバッハもありと納得。
シェルヘンのマタイは、聴いたことがないが、いったいどんな風なんだろう?

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2008年11月15日 (土)

NHK交響楽団演奏会 コウト指揮

イルジー・コウト指揮のNHK交響楽団の定期公演を聴く。コウトはもう15年もN響と共演しているというが、このコンビ実は初めて聴いた。
ベルリン・ドイツオペラでやってきたときに聴いてるはずなのに、あまり記憶がない。
かつては、ジリ・コートなどと読まれていたから国籍不明人だったけど、現在の読み方になったら、いかにもチェコ人っぽい。
現在はドイツ国籍を持つ名匠。
私は今日の実演でコウトの実力のほどに感じいった次第である。
亡き思い出の指揮者シュタインとも相通じる、カペルマイスター的な手堅くも、オペラの呼吸が読めるコウト。名誉指揮者衆にワルベルク、ドレヴァンツなど、N響はこういう指揮者が好きなのだな。

  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
    前奏曲と愛の死

    第2幕 全曲

   トリスタン:アルフォンス・エーベルツ  イゾルデ:リンダ・ワトソン
   マルケ王:マグヌス・バルトヴィンソン  ブランゲーネ:クラウディア・マーンケ
   メロート:木村俊光

      イルジー・コウト指揮 NHK交響楽団
                   ゲスト・コンマス:ペーター・ミリング
                           (11.15@NHKホール)

前奏曲とイゾルデの歌入りの愛の死を前半に演奏し、休憩が入った。
多少いびつになっても、愛の死を切り離して、最後にもってきた方がよかったかも。
2幕が終わって、拍手なしで「愛の死」に入ればとても効果的かも。
でもそうすると、休憩なしの長大なコンサートになってしまうから、それもまた難しいもの。
以前、ブロムシュテットが同じN響で、同じ演目を取上げたことがあったが、その時は、前奏曲だけだったものと記憶する。

その前半は、聴く私の耳が、昨日を始めとする「みなとみらいホール」のプレゼンスのいい響きに馴れきっていたものだから、音が届いてこないもどかしさが不満だった。
今日の席は、2R6列目だけれど、ともかくデカ過ぎのこのホールは場所によって音が違いすぎる。
その不満も声が入るとかなり解消された。ワトソンの声がオケを物ともしないものだからかもしれないが、毎度のことながら寄せては帰す波のような前奏曲と法悦と浄化の愛の死で、私はもう大好きなトリスタンの虜となってゆく。
今回も余韻を味わうことのない無粋な拍手が鬱陶しい。

さて、白ワイン(NHKホール@700円は極めて高いぞ)で気分を高めて、恍惚の愛とマルケの嘆きの第2幕にのぞむ。
残念だったのは、二重唱の一部にカットがあったことか。
バイロイト並みの素晴らしいキャストで光ったのは、ブランゲーネ役のマーンケ
これからが売出し中のメゾらしいが、言語明瞭で音程も抜群、声はやや硬質ながらどこまでも明晰で、へたすりゃワトソンの高音域にその威力では勝っていた。
このメゾは今後注目。シュトゥットガルトからフランクフルトのオペラの専属となり活躍中。
F・ルイージとも共演多いみたいだ。
 リンダ・ワトソンは、ポラスキのあとを継ぐアメリカン・ドラマティックソプラノと私は大いに評価する一人だが、時として大雑把な印象と叫ぶような高音が??の時がある。
でもG・ジョーンズもそうだが、メゾの音域の例えようもない美しさは、この大ホールでもよく通っていて聴きごたえがあった。それでも新国で聴いたブリュンヒルデの方が快活なこの人には合うような気がする。
 アイスランド出身、写真ではインディアン系のような風貌のバルトヴィンソンのマルケ王。
初めて知ったバスだが、レパートリーは相当広いらしく、この人もまたフランクフルトの専属という。テオ・アダムを思わせるような明るい中に渋い色合いをもったバスで、オヤジ然としたエーベルツのトリスタンに比べて若々しい雰囲気があった。
 私のとっての初ウォータンであった木村俊光さんが、メロートで贅沢にも登場。
この方がいなければ、二期会のワーグナー路線、いや日本人によるワーグナー上演は考えられなかったろう。大橋国一さん亡きあとを、この方が一人背負ったドイツもの。
一人暗譜で、大きな外国の歌手たちに混じって存在感を示していて、とてもうれしかった。
舞台袖で、クルヴェナールの「お逃げなさい・・」を歌ったのも木村さんでは!
 さて、肝心のエーベルツのトリスタン・・・。
ワーグナーのヘルデン系ロールを歌うのに必須の力強さとほの暗さは持ち合わせている。
陰りのあるバリトンのような声は魅力であるが、搾り出すような高音とちょっと不安定な中音域がとても気になった。
新国の魔弾の射手は行きそびれたが、バイロイトのくそシュルゲンジーフのパルシファルはFMで毎年聴いたが、どうも好きになれない声で、観てもないのに、へんてこ演出といっしょくたのマイナスイメージが定着してしまった私のとっての不幸なエーベルツである。
ワトソンの声がしっかり届いているのに、エーベルツは切れ切れだった。
成田勝美さんのトリスタンの方が・・・・。

そしてそして、コウトの熱のこもった指揮はこの2幕に至ってさらに熱を帯びてきて、トリスタンの登場を待ちわびるイゾルデの焦燥を描いた部分と、その後の熱い二重唱の興奮の度合い、メロートに踏みこまれるまでのクライマックス。いずれも乗りに乗った演奏で、N響がこんな夢中になるなんて・・・・。
一方で、バスクラリネットによるマルケの苦悩の場面の深刻かつ静謐な音楽の描き方も実に見事。オケの前面で立って歌う歌手たちへのキュー出しも的確で、オケピットにいるかのような指揮ぶり。
それとN響の抜群のうまさと、音量の幅の大きさ。なんだかんだでひさしぶりに聴くとスゴイもんだ。
ドレスデンからのお馴染みの客演コンマス、ミリング氏を始め、今日のN響はトップが勢ぞろい。はまるとやはりNO1の実力を遺憾なく発揮しますです。
2幕では夢中になってしまって、ホール云々の不満は吹っ飛んでしまった・・・。
 それとオケを見ながら聴いていると、ワーグナーのライトモティーフの綾なす精緻なオーケストレーションが実によくわかるというもの。

この熱演に、拍手とブラボーもかなりのものだった。
やっぱり、ワーグナーは強い。

Parco N響の会報に、来年度の予告がちょろっと出てます。
なんと、10月にプレヴィン登場であります。
プレヴィン好きの私、そして皆さん、心してくださいよ。
9月はホグウッド!、12月がサンティ。

公園通りのパルコの今年のツリーはなんだかメカニカル。
小気味いい音楽と連動している。
金かかってそう。


 

 

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2008年11月14日 (金)

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会 ヤンソンス指揮

Rco_2008 マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会を聴く。
もともと日本贔屓で来日も多いヤンソンスが毎年秋にふたつの手兵を交互に連れてやってくるようになって5年目。私も5年連続しっかりお付き合いしてます。

そして今年は創立120年の名門コンセルトヘボウの番。

今回はプログラムがいまひとつ私を刺激しない曲目ばかりで、悩んだけれど、秋にはヤンソンスが定番となっているのだし、みなとみらいホールでコンセルトヘボウの音がどう響くかが聴きたくもありで、チケットを購入した次第。

今回来日の全演目は、ドヴォルザーク8番、メンデルスゾーン「イタリア」、「ティル」、「ラ・ヴァルス」ブラームス3番とヴァイオリン協奏曲。
もう少し本格的な曲目が欲しかったなどといったら叱られようか?
本国ではトゥーランガリラとかやっているのになぁ・・・・・。
なんて贅沢なことをを不満たらたら思っていたらとんでもない!
今回も聴かせ上手ヤンソンスの術中にしっかりとはまってしまうことと相成りました。

意外なくらい客席は埋まらなかった。(最近の神奈川フィルのほうが埋まる!)
これは、平日の横浜と、高い外来チケットによるものか?

でもヤンソンスのコンサートに特有のワクワク感と高揚感がホールに徐々に充満し、熱気溢れる拍手とブラボーの坩堝となった。
これぞライブで聴くヤンソンスの楽しみ!

 ドヴォルザーク 交響曲第8番
 R・シュトラウス 交響詩「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
 ラヴェル     「ラ・ヴァルス」
   (アンコール)
 ドヴォルザーク スラブ舞曲op72-2
                (11.14 @みなとみらいホール)

いきなりドヴォ8。出だしは、ちょっと固いと思った。名手兼美人のエミリー・バイノンも最初は音がつまっていたように感じた。あまり埋まらなかったホールがショックだったのかしら??
テンポを上げ主部に入ると俄然音楽は精彩を帯びてきて、はずむリズムにイキイキとした表情付けがビシバシ決まりとても楽しい気分になってきた。
この曲はフルートが活躍するから、バイノン女史は大活躍。舞台横の席だったので、彼女とヤンソンスを交互に見ながら大いに楽しんだ。彼女の木質感あふれるきれいなフルートの音色にはいつも参ってしまう。
彼女に代表されるコンセルトヘボウの木管はぬくもりと躍動感が際立つ名手揃い。
そしてですよ、弦の美しさ。伝統的なベルヴェット・トーンはややスリムになったけれど健在だと確信。それが、ただでさえきれいな響きの「みなとみらいホール」で聴けるのだから、こりゃもう耳のご馳走である。ともかくキレイ。LA席でオケの横で聴いたものだから、弦の残響がホール右手に拡がってゆくさまが快感である。
 のどかで夢見るような第2楽章。強弱を思い切りつけて歌を際立たせた素敵な3楽章。
お約束の最後の盛上げが、わかっちゃいるけどすごかった終楽章。
1楽章でもそうだったが、最後のティンパニの強打は実に効果的で、まさにエンディングの天才ヤンソンスの面目躍如!
女性の声でのブラボー第一声が見事決まった!

Rco2_2  休憩後の後半は、演奏時間にして30分もない。
でも物足りないどころか、ものすごく濃密な30分だった。
ティルは、私がこれまで聴いたティルの中で最高ではないか!
デリケートな響きから強大なフォルテまで、ダイナミクスの幅が極めて大きい。
最後のクライマックス、オケが駆け上がるように全奏で上昇音形を奏でる場面の完璧なアンサンブルと凄まじいまでの迫力には痺れた!すごすぎ。
そのあとの処刑と静かな回顧の場面との対比も見事で、急転直下のエンディングもまた完璧なまでに爽快だった。味のある演奏とは違うが、五感を刺激されるような痛快なティル。

トリが「ラ・ヴァルス」というコンサートは初めて。
ラヴェルの作品の中で一番好きな曲が「ラ・ヴァルス」だ。
シュトラウスとラヴェル、オーケストレーションの魔術師二人を並べて聴くのも思えば贅沢な楽しみである。前半の自然感豊かなドヴォルザークと、この二人のテクニシャンとの対比を
狙ったヤンソンスは心ニクイことをするもんだ。文句いってすいましぇん。
 ウィンナワルツのオマージュとしてのヴァルス。
分割された低弦が混沌とした雰囲気を作り出し、徐々にワルツが組成されてゆく。
そのさまを見守りながらも、高まり行く舞踏音楽に心が弾む。
いいぞ、マリス! そんな声を掛けたくなる素晴らしさ。
私は音楽とその雰囲気に酔い、酩酊状態になった。体も動き出しそう。
贅沢を言えば、完璧すぎる演奏に、こうした曲では、もう少し色合いが欲しいと思った。
ワルツとワルツのつなぎがスムーズだけれど、実はそこにほんの少しの間が欲しかった。

Landmark アンコールは感傷的なスラブ舞曲でしんみりと。コンセルトヘボウの絹のような弦の音色全開。あぁ、もっともっと浸っていたい。
アンコールはこれ1曲で終わり。オケのメンバーの譜面を見ていたら、まだ次があったようだけれど、ヤンソンスは解散をうながした。
楽章の合間で咳き込んだりしていたし、体調は万全ではなかったのかもしれない。
明日は京都、あさっては名古屋で終了。ハード・スケジュールであります。
それでも鳴り止まない拍手に一人登場して歓声に応えるヤンソンス。
毎回、サインを頂戴していたが今回は帰路が長いし、マリス氏も早く休んで欲しいから、イルミネーションのきれいなランドマークを抜けて駅へ急いだのでした。
 来年は、バイエルン放送響と一緒にやってきておくれ。

ヤンソンス過去の来日公演記事

「コンセルトヘボウ管弦楽団2004 悲愴」・・・ブログ開設前
「バイエルン放送交響楽団2005 幻想」
「バイエルン放送交響楽団2005 ショスタコ5番」 

「コンセルトヘボウ管弦楽団2006 新世界」
「コンセルトヘボウ管弦楽団2006 マーラー1番」
「バイエルン放送交響楽団2007  マ-ラー5番」
「バイエルン放送交響楽団2007  ツァラトストラとブラームス1番」
「バイエルン放送交響楽団2007  ブルックナー7番」

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2008年11月13日 (木)

グレツキ 交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」 シモノフ指揮

Cosmos 黄花(きばな)コスモスであります。

コスモスは強く、やたらに群生するけど、集まるととてもきれいだ。

でも一本一本は、とても華奢な茎で、今にも折れそう。
そして花はとても可憐で愛らしい。
(オヤジのいう台詞じゃないけれど)
でも、根っこは結構しっかりしてます。

人間も一人一人かくありたいもの。

Gorecki_sym3_simonov

歌入り交響曲シリーズ、終章は、ポーランドの作曲家ヘンリク・グレツキ(1933~)の交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」。
その第2楽章が、BBC放送(?)で繰返し放送されたこともあって、ジンマンとアップショーによるCDがヒットチャート入りしたという話も、最近のことながら、何故か懐かしい。
 あくまで、癒し系の音楽として大いに評価されたから。
今の世の中、さぁといえば、「癒し」を売り物にすることばかりだけれど、その「癒し」の概念も変転しつつあるように思う。
92年頃からブレイクした「悲歌のシンフォニー」は、音楽による癒しというブームを巻き起こした。その前から「アダージョ・カラヤン」とかなんとかで、コンピレーション・アルバムが作り出されていたから「癒し」の下地は出来ていた。
私のようなヘヴィー・クラヲタ・リスナーからすると、ミュージック・セラピーなんて鼻もひっかけないジャンルだけれど、「悲歌のシンフォニー」は癒しなんぞとは全然違う、メッセージ発進力の強い音楽に思う。
 
 クラシック音楽界の癒しは、あいもかわらず、耳ざわりのいい音楽の羅列ばかりだけれど、ドラマや日本の歌々は、リアルに人に涙に訴え、五感を刺激することがトレンドになりつつあるように思える。「篤姫」などはその典型ではないかと。
ともかく、男も女も泣く。あたり構わず泣く。
そして、私も音楽で泣くことにかけては誰にも負けていない。

ペンデレツキと同い年のグレツキは、初期の頃こそ前衛的な作風であったらしいが、アウシュヴィッツ(オシュウェンツィム)生まれだけあって、悲惨を重ねた光景が染み付いているであろう。
調性へ回帰し、中世の典礼音楽やルネサンス期のポリフォニーなども考慮して、独自の響きを希求し、構成も単純化・明晰化するようになった。
明るさと祈りのような音楽、そして単純な音形の繰返し(ミニマム音楽)などがグレツキの音楽の特徴となったようだ。
暗い過去や環境からの脱却を音楽に込めたのかもしれない。

この曲は、1976年の作品。3つの楽章からなり、ソプラノ独唱を伴なう。
第1楽章、コントラバスでうめくように、ささやくように開始される、24小節の定旋律の繰返し。重々しく悲しみに満ちた音楽は、徐々にこちらの胸を締め付けてゆくようだ。
ソプラノが、ポーランドの祈りの聖歌を歌う。聖母マリアの嘆きであろうか。
 私の愛しい、選ばれた息子よ、その傷を母と分かちあい給え・・・・
 私の愛しい恵みよ、あなたはもう私のもとを離れようとしているのだから・・


第2楽章、美しいけれども、あまりにも切なく重い雰囲気が支配する。
ナチスの独房の壁に刻みこまれた祈りの言葉。18歳の女性によるもので、独唱によって切実なムードを伴なって歌われるが、不思議と心休まる音楽・・・。
 お母様、どうか泣かないで下さい。
 天にまします清らかな王女さま、どうか私をお救いください・・・・

第3楽章、この楽章はこれまでの音楽と雰囲気を異にするものだから、違う曲になってしまったのかと錯覚してしまうくらい。普通にオーケストラ伴奏で、独唱が素朴で寂しげな歌を歌いはじめるものだから、「カントルーヴのオーヴェルニュの歌」を思い起してしまった。
ポーランドの民謡だそうな。
これがなかなかに胸を打つ。同じ音形をこれまた繰りかえすオケにのって、クリアなソプラノの歌声が単純な歌を楚々と歌う。歌好きの私も満足のこの楽章。
 亡くなった息子を思い歌う母。
 私の愛する息子はどこへ、きっと蜂起の時に殺されてしまったのでしょう・・・ 

ジンマンのCD以来、本場ポーランドのものを中心にいくつも録音されている。
今日はちょっとひねって、名匠ユーリ・シモノフ指揮のロイヤル・フィルハーモニーの演奏。
爆演系シモノフは、もともと劇場の人だけに、音楽の起伏をしっかり捉えてドラマをしっかり見据えた演奏をする人だ。淡々とした中に、おやっと思わせる聞かせ方があったりして、とても充実した「悲歌のシンフォニー」となっている。
とおり一片のムード音楽などでは決してなく、クラシカルの分野の交響曲のひとつとしての演奏といっていいかもしれない。
シモノフは手兵モスクワ・フィルと度々来日しているけれど、毎度毎度辟易とするソリスト連の冠コンサートで、まったく聴く気もおきない。
単独での来日プログラムを切に切に望みたい!
ソプラノのスーザン・グリットンが同情を込めた歌唱で、私のお気に入りの歌手アップショーの域に達しているかも。

これにて、歌入り交響曲シリーズは完結。
何度も書くけれど、音源が入手できない作品は多数あります。
ロパルツ、アイスラー、伊福部、團伊球磨、柴田南雄、クニッペル、メラルティン、ニストレム、ハンソン、ホヴァネス、シュニトケ、グラス・・・などなど。

でも、今回とりあげなかった心残りがあります・・・・。
時代は、さかのぼりますが次週3作ほど取上げておしまいとしたいと存じます。
乞うご期待・・・??

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2008年11月12日 (水)

黛 敏郎 「涅槃」交響曲 岩城宏之指揮 and 神奈川フィルのこと

Akiu2 秋空が眩しすぎて、黄色い銀杏が飛んでしまった。
バカチョンデジカメの限界。

でも、妙にあっちの世界っぽい雰囲気になった。

我々日本人の生活には、仏教や神道が根付いていて、それを無視しては社会生活を営めないし、主として消費生活の面からは、キリスト教の行事までを取り込んでしまっている。
宗教にこんなにフレキシブルな人種は日本人くらいか・・・・。
それに都合いいときだけ、手を合わせるのも。

Mayuzumi_nirvana_sym 歌入り交響曲シリーズ。いよいよ終盤、日本人作曲家の登場。
歌入りジャパンシンフォニー、誰でも、この曲を思い浮かべるかもしれない。
あとは團伊玖磨か林光か・・・・。

黛敏郎(1929~1997)の「涅槃」交響曲
1958年の作品で、もう半世紀前。

黛敏郎といえば、私には「題名のない音楽会」の司会者のイメージがあまりにも強い。
それと、黛ジュンのお兄さんかと真剣に思っていた時期もあった。
沈着冷静、端正で姿勢も正しい紳士という面影が強く残っていて、氏の語る音楽談義に絶対の信頼を寄せていたものだ。番組で時おりビートルズも取り上げ、賞賛していたのも私の意に大いにかなうことだった。
長じて、氏が右寄りだったことがわかり、おいおいちょっと待てよ・・・、ということにもなったが、N響の放送で、「饗宴」や「涅槃」「曼荼羅」などを聴くにつけ、そうした存在よりは極めて日本人的な名作曲家という思いを強くしていったものだ。

こうした音楽になると、CDの解説しか頼るものがなく、いくつか引用させていただく。
黛敏郎は、日本人の自然や宗教観を重く捉え、「梵鐘」の響きを解析し、それをオーケストラの響きに置き換えた。57年の「カンパノロジー」という作品。
それを第1楽章に引用し、さらに「声明」という人声を取り入れることで「梵鐘」と溶け合うようにした。それがこの交響曲となって結実したわけ。

第1楽章「カンパノロジー」、3つに分かれたオーケストラが互いに音をずらしあうことで、鐘のうなりの効果を表出する。
第2楽章「首楞巌神咒」(しゅうれんねんじんしゅ)、さっぱりわかりませぬが、禅宗の経が男性合唱によって力強く歌われる(唱えられる)。かなりもり上がります。
抑揚ある経を聴いて、何かとりつかれたように忘我の境地になってしまう感がある・・・。
第3楽章「カンパノロジーⅡ」、オケだけの梵鐘の部分。カッコイイです。
第4楽章「摩呵梵」(まかぼん)、天才○○・・ではありません。
大乗仏教の経典が唱えられる。これまた2楽章と同じく、怪しいまでに熱を帯びていて、本能をくすぐられるようだ。
第5楽章「カンパノロジーⅢ」、乱打される実際の鐘にオスティナートのようにオケが何度も何度も同じフレーズを繰り返す・・・。そこにヴォカリーズの合唱も加わりクライマックスを築きつつも静かに終楽章に収斂されてゆく。
第6楽章「一心敬礼」(いっしんきょうらい)、前の楽章からヴォカリーズが「お~、おぉ~お・・・」と歌いつなぎ、弦の持続音と管のこだまがそれを支える。
「お~、お~」は次第に盛上り、やがて静かに消え入るようにして終わる。

亡き岩城宏之指揮の東京都交響楽団東京混声合唱団の共感あふれる演奏は95年のライブ。
そーいえば、小沢さんは、黛作品を振らないな。
海外でこの曲を演奏したら、今ならかなりウケると思うんだけど!

煩悩を突き抜けて、最後には悟りの境地にいたるのが、この交響曲の描かんとする世界という。私には煩悩が多すぎてこの交響曲40分だけでは解脱できませぬ。
これに、マタイにヨハネに教会カンタータ全部をもってしても無理かもしれない、典型的日本人なのであります。
第一、酒飲みながら聴いてるんだもの・・・・。

補追)
神奈川フィルの指揮者体制刷新のニュースが、昨日いつもお世話になっているyurikamomeさんのブログからもたらされました
何となく気配はあったものの、現田&シュナイトの二頭体制が黄金期としての最充実の時を迎えているのに、何故??という気持ちが正直あった。
新常任指揮者は、金聖響さん。人気指揮者だけれど、私はCDも含め一度も聴いたことがない。
今の神奈フィルの音を築き上げた現田さんは、名誉指揮者の称号が授与されるが、シュナイトさんはいかに・・・。足腰が弱くなり、体調を考えての退任。
悲しい体制変更ではあるけれど、どこの楽団にも、そして会社や社会にもあること。
願わくは、それが新たな輝かしい一歩であることを祈りたいもの。
金さんといえば、私は「遠山の金さん」か「金さん・銀さん」だったけれど、こうなりゃ、指揮者・金さん、大いに応援しますよ! 我が故郷オーケストラ、神奈川フィルの指揮者だもの。
来期は、「トリスタン前奏曲と愛の死」や「ミサ・ソレ」を振るみたいだし、現田さんはショスタコ!、湯浅氏がエルガー1番、このあたりが注目。

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2008年11月11日 (火)

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」 ハイティンク指揮

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昼時の駐車場で見つけたねこ。
かなりくたびれた、おんぼろねこ。
見ていて気の毒なヤツで、眼が悪そう。車が近づいても動かない。

「もー、あたしは疲れました・・・、そっとしておいて下さいまし」

そんな雰囲気ただよう、今日のにゃんこでしたぁ。

Shostako13_haitink












歌入り交響曲シリーズ、いよいよショスタコーヴィ(1906~1975)の登場。
ショスタコーヴィチの歌入り交響曲は、第2番、第3番、第13番、第14番と4曲あるが、初期のふたつは短く、アヴァンギャルド風で実験的でもあって、イデオロギーが横溢し??の気分となる。
晩年に向かう、13番、14番は、ショスタコーヴィチの最高傑作とも言える巨大な作品で、ふたつとも「死」と「恐怖」を描いた問題作でもある。
そのふたつがショスタコの交響曲の中で、4番と並んで、もっとも好きな作品。

1962年、スターリン体制終結後のフルシチョフ体制化の作品で、「体制の雪どけ」で固く閉ざしてきたリアルな音楽を書き始めた頃。
エフゲニー・エフトゥシェンコの詩「バビ・ヤール」のいくつかの部分と、さらに、この作品のためにあらたに書かれた詩の5篇からなる。
「バビ・ヤール」は、キエフ郊外にある谷の名前で、ナチスがユダヤ人はおろかウクライナ人、ポーランド人、ロシア人までも大量虐殺した場所という。

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番「バビ・ヤール」op113

バビ・ヤール」この曲の白眉的な1楽章。ナチスによる暴虐が描かれる。
独唱は、自分がユダヤ人ではないかと歴史上の人物たちを上げて歌う。アンネ・フランクの悲劇についても言及される。リズミカルで不気味な行進調の音楽が2度ほど襲ってくる。
ファシストたちの到来である・・・・。

ユーモア」、ユーモアを忘れちゃならねぇ。支配者どもも、ユーモアだけは支配できなかった。辛辣かつ劇的な楽章、オーケストラの咆哮もすさまじい。

商店で」、獄寒のなかを行列する婦人たちを称える讃歌。
これも皮肉たっぷりだが、音楽は極めて深刻で寒々しい・・・。

恐怖」、これまた重い、重すぎの音楽。恐怖はどこにでもすべりこんでくる。その恐怖はロシアにおいて死のうとしている。・・・・が、詩(DSは作曲であろうか)を書きながらとらわれる、書かないという恐怖にかられる。仮面を被った痛切きわまりない音楽に凍りそうだ。

出世」、終楽章は一転おどけた、スケルツォのような音楽だ。
ガリレオ、シェイクスピア、パスツール、ニュートン・・・、世の偉人たちが生前そしられ、誹ったものたちは忘れられ、誹られた人々は出世した・・・・。
「出世をしないことを、自分の出世とするのだ」
皮肉に満ちた音楽、最後はチェレスタがかき鳴らされ静かに曲を閉じる。

不思議な作品ではあるが、その緊張感と皮肉に満ちた1時間はとても魅力的。

ハイティンクの純音楽的な解釈は、あまりにも立派すぎて、この交響曲の威容を伝えてやまない。コンセルトヘボウのカロリーの高い響きもまことに素晴らしく、快感すら覚える。
彼らがブルックナーやマーラーを演奏するように、真摯に楽譜に取り込んだ結果がこれ。
より鮮烈な解釈や、緻密な解釈の演奏もほかにあるが、ハイティンクの一本筋の通った演奏は誰をも納得させてしまうだろう。
 冷静かつ音楽的なリンツラーのバスも素晴らしい。
この人はこの曲のスペシャリストで、デュトワとベルリンフィルのFMライブでも歌っていた。

  ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ
                     同 男性合唱団 
                     Bs:マリウス・リンツラー
                       (84.10録音) 

次回予定している、「ショスタコーヴィチ・シリーズ」では誰の演奏をとりあげようか、楽しみ。「オーマンディ盤」の過去記事はこちら

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2008年11月 9日 (日)

ブログ開設3年 ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」から ベーム指揮

 

3_2



















 



 2005年11月7日が初記事でありました。

今の世の中、変化が早く何が起きるかわからないから、3年前は大昔にも感じてしまう。
むしろ、30年前とか昔の方が最近のことのように思う私は歳を無駄に重ねてしまった証拠か・・・・、とほほ。

 

本記事で743本目。
別館の放置飲食ブログが、重複あるものの255本。
あわせて998本の記事。
今月節目の誕生日を迎えるまでに1000本記事は行けるかも。
我ながらよく続けられたもので、これも読んでいただける方々がいらっしゃるからであります。
感謝感謝、Danke schon!

写真は、仙台郊外の秋保大滝。

ブログを始めて、1枚のCDをよりじっくりと味わうようになった。
凡人ゆえ、おいそれと文章にならないのである。
それと、ますます好きな分野に特化していくようにもなった。
ブログ前なら、1日に何枚も聴くことが出来たけれど、今は1枚をじっくり聴く楽しみの方が勝るようになった。
これもブログのおかげかもしれないな。
一方で、雨あられのように発売される魅力的な音源・映像にも心が動き、ついつい購入してしまう。
未聴のCDや忘却買いのCDであふれかえった部屋は家族の苦情の元となりつつあり、そろそろ抜本策を打たねばならぬ状態。

悩ましい日々、されど楽しき音楽のある生活。
綱渡りの日々ではあるけれど、これからもこんな毎日が続行できることが幸せなのかもしれない。

Tristan_bohm3














 またまた「トリスタンとイゾルデ」の登場であります。
記事にして、これで13度目。
「パルシファル」13本、「ばらの騎士」9本あたりが上位。

一番の最初の記事が、二期会の「さまよえるオランダ人」。
ブログタイトルの由来でもあり、ワーグナー信者としてのスタートに相応しかったから。
そして、今日はワーグナーの中でも1,2を争うほど好きなトリスタンを。
昨晩、美しいシェーンベルクを聴いたので、トリスタンの響きを確認してみたかった。

全部は聴けないから、抜粋して。
前奏曲~イゾルデのモノローグ~1幕幕切れ~2幕前奏曲~二重唱~マルケのモノローグ~2幕幕切れ~3幕前奏曲~トリスタンのモノローグ~愛の死

今年はトリスタンの当たり年だったかもしれない。
パリオペラ座公演、メットオペラビューイング、飯守シティフィル、そして今月、コウトN響の2幕ほかの演奏会。
いずれも観劇済み、または予定。ほんと、好きだねぇ。
私の初トリスタンは、カラヤンのレコードのFM放送録音で、初レコードはベームのDGバイロイトライブ
中学生の頃、初オペラのレコードでもある。
 5枚組9000円。
平塚のレコード屋さんの棚に鎮座しているのを始終目にして、「いつか買ったる!」との思いでいた。
小遣いを貯めて、ドキドキしながらこのレコードを棚から持ち上げた時の重量感といったらなかった。
そう、昔のレコードは重かったし、組物は装丁が超ゴージャスだったから。
そして、レジにもってゆくと、そのときの店員さんの驚きの表情といったらなかったな。
田舎の中坊が、こんなレコードを買おうとしてるんだもの。

その後に拝み倒して買ってもらった「ベームのリング」とともに、以来、擦り切れるほど聴いたこのトリスタンは、やはり私にとっての刷り込み演奏である。
レコードの5枚目のB面には、3幕のリハーサルが収録されていて、元気でおっかないベームの声が嬉しかった。

トリスタン:ウォルフガンク・ヴィントガッセン  イゾルデ:ビルギット・ニルソン
マルケ王:マッティ・タルヴェラ       ブランゲーネ:クリスタ・ルートヴィヒ
クルヴェナール:エーベルハルト・ヴェヒター メロート:クロード・ヒーター
牧童:エリヴィン・ヴォールハルト     舵取り:ゲルト・ニーンシュテット
水夫:ペーター・シュライアー

   カール・ベーム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
                演出:ヴィーラント・ワーグナー
                      (1966.7@バイロイト)

ライブで燃焼しつくすベームの指揮、前奏曲からむせ返るような熱気に満ちている。
早いテンポは、のちのバーンスタインの超ねっとりテンポと双璧。
1幕最後のスリリングな高揚感は興奮を呼ぶ。
長大な愛の二重唱では、濃密ななかにも、ベームらしい透明感があって筆舌に尽くし難いほど美しい・・・。
ヴィーラントの演出、照明はこの音楽の時にどのようであったろうか!

ヴィントガッセンの長丁場をものともしない強靭な歌を支えるオーケストラ。
思い切り歓喜にむせび、悲嘆にくれる。
イゾルデの来訪への興奮と、見え隠れする船を見守り一喜一憂する場面。
飛ばし過ぎなくらいに凄まじい演奏。

 最後は怜悧なニルソンの歌唱とともに浄化されつつ高みへ昇ってゆくベームの音楽。
やっぱり、私のトリスタンは、ベーム盤。
歌手も最高だし、録音も鮮烈。
昨今の演出優位のオペラではなく、大指揮者が要となっていた時代。
もちろん当時のバイロイトでは、兄ヴィーラントの理念が真っ先にあったわけだが、ベームこそヴィーラントの意向をもっとも体現した指揮者であった。
あとは、クリュイタンスとサヴァリッシュ。

さて、皆さん、これからも我が道を行きます。
どうそよろしくお願いします。

・今後のシリーズ特別予告  
 
 「ブルックナー&蕎麦」、「ショスタコーヴィチ交響曲全曲」、「V・ウィリアムズ交響曲全曲」、「ブリテン・オペラシリーズ」、「プッチーニ全集(あと少し)」

・トリスタン過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演
 飯守泰次郎と東京シティフィル

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2008年11月 8日 (土)

「世紀末ウィーンとシェーンベルク」

Wien_schonberg 東京文化会館主催による「世紀末ウィーンとシェーンベルク」を聴いた。
めったにお目にかからないシェーンベルク・プログラムに豪華な演奏者、楽しみにしていたコンサート。
会場に着くと、チケット求む、と立つ人もいて、ソールドアウト状態。
いかに小ホールとはいえ、こんなプログラムで・・・・・。
やはり、幸田浩子さま人気なのであろうか。

パンフレットとともに、ちゃちな3Dメガネを渡され、これで演奏前に上映されたウィーンやシェーンベルクを紹介した短編映画を見る寸法だった。
その映像、いきなり、大友直人がリアルに登場してナビゲーター役として語りだした。
大友さん、文化会館の音楽監督なんだ。
内容は、ウィーンの名所とクリムトの絵画をデフォルメしたものや、12音技法を解説する大友さんが、鍵盤のうえを歩くものであったり。
きれいな映像ではあったが、ちょっと取ってつけたようであり、これに時間を割くのであれば、キャバレーソングや、無調の次の12音技法作品、たとえばピアノ曲や弦楽三重奏などを演奏して、より大系的なシェーンベルク像を描き出した方が良かったのではと思う。

  シェーンベルク 「浄夜」(弦楽6重奏版)
                            
             Vn:矢崎 達哉、双紙 正哉
             Vla:鈴木 学、  篠崎 友美
             Vc: 山本 裕康、宮田 大

             「月に憑かれたピエロ」

             Sp:幸田 浩子
             P :相沢 吏江子
             Vn,Vla:鈴木 学
             Vc:山本 裕康
             Fl,Pic:小池 郁江
             Cl,Bcl:伊藤 圭
             指揮:村上 寿昭
               (11.8 東京文化会館小ホール)

首都圏のオーケストラの主席級を集めた「浄夜」。(私は「清められた夜」というかつての名前の方が好きだな・・・)
豊穣な響きに細かなニュアンスが埋没してしまう弦楽オーケストラ版と比べると、繊細で音がよりリアルに感じる。もちろんより世紀末的な退廃ムードの出るオケ版の魅力も捨て難いけれど、こうして生で聴くと、シェーンベルクが6人の奏者に与えた音符が、実に細やかで線的であることが手にとるようにわかる。
6つの楽器がほぼ対等に扱われ、時にバラバラに弾いているようで、初期シェーンベルクの後期ロマン派ムードが横溢する音に収斂して溶け合ってしまう。
その絡みあう音たちと、透明感ある響きに私はすっかり陶酔してしまった。
CDで聴くブーレーズ監修盤のような鋭さはないが、日本人ならではのクールな抒情がとても美しい。
この曲を、私は真冬や寒さの緩む頃に聴くのが好き。月の輝く夜に、ほのかに漂う沈丁花の香り。そんな晩に聴くのが相応しい。
今夜の演奏もそんな日本人的な季節感と香りに満ちた演奏だった。
私にとってお馴染みの山本さんが、メンバーの音をよく聴きながら、そしてアイコンタクトもよくとりながら、素晴らしく美しいチェロを聞かせていた。
矢崎さん、鈴木さんを始め、皆さんさすがの演奏!

Wien_schonberg_2 こんな素晴らしい「浄夜」のあと、白ワインを一杯楽しんで、「ピエロ・リュネール」を待つ。
この曲は好きでも嫌いでもないたぐいの音楽だが、高校時代、シェーンベルクの生誕100年にさかんに放送されたライブを録音し、歌詞もわからないままに何度も聴いた覚えがある。
長じて、ブーレーズ盤やCDのエトヴェシュ盤などを楽しむようになったが、まだまだ不明の音楽ではある。こうしてライブで聴く時こそ、字幕があればなおよかったのに。
 今日は幸田さんが、シュプレッヒティンメ歌唱をどうこなすかが注目だった。
彼女はもの凄く勉強して幸田さんなりのシェーンベルクを歌い語ろうと頑張ったと思う。
だがやはりそこは、不満も多い。多彩な声を出し入れしなくてはならないこの作品。
だからこそ、かつてジャズシンガーなども歌ったし、今ではシェーファーのような性格的な歌手が抜群の強みを発揮する。
そんな強烈な個性と強靭な声を持ち合わせない幸田さん、正直、声のレンジにおいて低域が厳しい。「夜」などの、ささやくように、時としてドスを効かせなくてはならない場面は甘すぎ。
でも彼女の美しい高音域は、「ピエロリュネール」においても、とても、そう極めて素晴らしい。ドイツ語の発声もきれいだし、ある意味、白痴美的な美しさを伴なっていたように思った。天真爛漫な彼女が歌うシェーンベルク、これからもっと魔が差したような怪しさをその味わいに加えていったら面白いものになりそう!
でも彼女の柄じゃないけれどねぇ。
 ここでも山本さんのチェロは的確。そして驚きは鈴木さんのヴィオラとヴァイオリンの掛け持ち。ニュアンス豊かな音色を二つの楽器から引き出していた。
美人のフルート小池さん、耳をつんざくようなピッコロと、狂おしいくらいのフルートのざわめきを巧みに吹いていた。
アイロニーあふれるクラリネットを吹いた伊藤さん、オーケストラさながらに変幻自在のピアノで盛上げた相沢さん。
 ドイツの歌劇場で活躍中の村上さんが指揮をしたが、こうした小アンサンブルでも縦線が揃えにくい曲では指揮者が重要。
名手たちも指揮者がいると安心なのであろう、幸田さん始め、皆しっかりと指揮を仰ぎつつ演奏。
こうした曲を指揮して、ああ素晴らしいとか、うまいもんだとかの感想は生まれにくいもの。
ちゃんとしたオペラやコンサートで、その実力を確認したいものだ。
シェーンベルクは、法則にのっとり結構厳密な音楽を書いたりしているが、無調のこの作品でも左右対称のように、曲の中間部で音形が逆行してゆく曲があったりする。
以前、その楽譜を見たことがあるが、ともかく複雑で、蜘蛛の巣のように音符が張り巡らされていて驚きだったし、ソプラノも半音記号とシュプレヒティンメ印ばかりで、よくこんな譜面が歌えるのかと思うばかり。

12曲目の「絞首台の歌」が2度アンコールされた。
短く効果的だからというのもあるし、同じ部分を繰返し聴いて音楽理解を求めようとの考えであろう。幸田さんの明るいステージマナーとともに、聴衆はそこそこ盛り上がった。

「月」は、元来、人を惑わし、狂わせる象徴と言われてきた。
アルベール・ジローの詩は狂おしくも甘く、かつ残虐でニヒリステックでもある。
13曲目という不吉な数字に「打ち首」という詩を配列したシェーンベルクもなかなかである。そしてその曲を頂点として、シンメトリー的な山が築かれてるように思う。
怪しい「ピエロリュネール」が、今日の実演体験で、一歩私に近づいた気がする。

幸田さんのチャレンジに敬意を表しつつ、これからも彼ら、人気と実力を備えた演奏家の皆さんに、こうした演奏会をどんどんやって欲しいと熱望する次第であります。

上野の山は、冷たい風が吹き付ける寒い晩だった。


  
                


           

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2008年11月 7日 (金)

神奈川フィルハモニー演奏会 P・ヴェロ指揮

Img 神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期公演を聴く。
今日は暖かな金曜日だった。
お昼ごはんを食べていなかったので、少し早めに横浜入りして、「みなとみらい」とは反対側、そう私などにとっては足を踏み入れたら出てこれない魔界のような「野毛」・・・・、を無難に通り越して、一度行ってみたかった「KIKUYA CAFE」にて食事。
少し汗をかきつつ、開演間際にホールに滑り込む。
満腹中枢が、睡魔を連れて来る危険があり、それが逆に緊張感を呼び、2時間のコンサートは一音も漏らさず集中できた。

本日は、前半がチョー渋いオール・フランスプロ。
リヨン生まれの生粋のフランス人、パスカル・ヴェロの客演。
9月に、我らがじーちゃん・シュナイト師が仙台フィルに客演したのを受けて仙台からヴェロがやってきた。
このところ雑誌でもその評判がうたわれ、世評も高まりつつある神奈川フィル。
今日も会場はかなり埋まった。
その熱気は、前半と後半、いずれもそのフィナーレで大いに盛り上がった。

   ルーセル    シンフォニエッタ

   トマジ      トランペット協奏曲
           Tr:オーレ・エドワルド・アントンセン
     (アンコール)
   フリードマン  ソロス~4楽章

   ベルリオーズ  幻想交響曲

     パスカル・ヴェロ指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                    (11.7 @みなとみらいホール)

ルーセルは、たぶんCDを持っているけれど、あまり記憶にない音楽。
出だしは、まるで第3交響曲のようにリズミカルな動きに溢れた活気ある曲だが、ルーセルの音楽特有の戦下を思わせる暗い陰りも全般にある。古典風の緩やかな第2楽章に、これまた弾むような3楽章。
弦楽だけの小さな曲だけれど、小股の切れ上がったような小粋な音楽。
日本人にはもっとも難しいと思うけれど、さすがは神奈フィルの弦楽セクション、ヴェロの弾むような指揮に合わせていい雰囲気を醸し出していた。

次いでトマジ(1901~1971)。これは初聴き。
今更ながらに調べたら、このトマジ、あらゆるジャンルに作品をものした人で、映画音楽もある。そして、なるほど、世紀末風かつジャジーな音楽はとても耳に馴染みやすい。
曲想に応じて、奏者はふたつ用意した弱音器を付けたり外したりと忙しい。
小太鼓の微細なトレモロと、チェロソロの上に、トランペットが静かに優しい旋律を奏でつつ始まった2楽章。この楽章が絶美の素晴らしさで、月光に浮かぶ海を思い浮かべてしまった。そして、私はコルンゴルドの響きも思い起こしていた。
快活で体を動かしたくなる3楽章も楽しい。
 ノルウェー生まれのアントンセンの完璧極まりないソロには驚き。
トランペットひとつから、どうしたらあんなに多彩な音色を引き出すことができるのか?
矢のように、ホールの最上段まで突き刺さるような音を出したと思ったら、耳を澄まさなくては聞こえないくらいのピアニッシモで歌ったりと。
 アンコールも凄まじかった。楽器はひとりなのに、何人もが吹いているかのよう。
聴衆は、驚きとどよめきにあふれた!

一時、幻想フリークになり、CDも相当な数となった。
でも今宵のヴェロ&神奈フィルの幻想は、これまで聴いたことのないユニークな幻想となった。
1楽章の始まりから極めてデリケートに、そして入念に音を選びながら演奏されてゆく。
おのずとテンポはゆったりめ。そして愛を表す示導動機が徐々に盛り上がってゆくそのリズミカルなことといったらない。K・クライバーが幻想を指揮したらこんな風なんだろうなぁ、と思いつつ聴いていた。繰り返しを行ったこともその必然性が理解できる。
そのリズムの良さに加えて、歌うことへのこだわりも終始感じた。
優美な2楽章の舞踏会では、オーケストラの面々がいつにも増して体を大きく揺らしながら気持ちよさそうに弾いている。こんな流麗な2楽章なんて久々に聴いた。
 最近、歳なのか、ベルリオーズの緩除楽章が心に沁みるようになった・・・。
そんな私にピッタリのデリケートでかつ爆発的な演奏の3楽章。ダイナミクスの幅がめちゃくちゃ大きい。
断頭台~ワルプルギスの夜も怒涛のようでありながら、決して騒々しくなく、慌てず騒がずの着実な演奏で、その自然な盛り上がりをじっくりと楽しむことができた。
3楽章までのユニークさがやや薄れて感じたのは、破天荒なベルリオーズの音楽ゆえか。
 大きな拍手とブラボーに包まれたのはいうまでもない。
ベルリオーズのスコアを最後は掲げたヴェロさんでありました。

それにしてもこの指揮者、私は初めてだったけれど、個性的だし劇場的な感性もたっぷりでなかなかの実力派に思う。
後ろから見ていて、その動きがとても面白く、時にぎくしゃくと操り人形のような動きをしたかと思うと、ズバズバと指刺し確認・ご指名も行う、さらに踊るような優美な動きも。
指揮者を見ていて楽しかったのは、これまで、シモノフとノリントンが私のお気に入りだが、ヴェロさんも加えちまおう!
 かつて新星日響でご一緒だったのだろうか、コンマス石田さまとのいちゃつきも微笑ましい(ははは)。

1 終演後のビールがまた美味しい!
ピッチャーを注ぐワタクシの腕も上達中。マイスター近し!

こちらはランドマークの下のイルミネーション。

もひとつおまけは、「KIKUYA CAFE」のシチュー。
うまいよ。

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2008年11月 6日 (木)

ブリテン 「春の交響曲」 プレヴィン指揮

Ashiyu 初公開、ワタクシの足。
足湯でくつろぐの図であります。

11月に入ったら寒さを体感するようになった。
頭冷やして足冷やさず。
「頭寒足熱」とは、ほんとよく言ったもので、足をこうして暖かくするだけで、体中ポカポカ。
コタツと一緒、寒い日などは、入ったら出られない。

四季おりおり、日本人の発想は素晴らしいもんだ。

Britten_spring_sym_previn 歌入り交響曲シリーズもいよいよ先が見えてきた。
今を生きる我々の世代の音楽にバーンスタインあたりから入ってきた。
以前も書いたが、実は存在は把握できながら、音源が手に入らずにこちらで取上げられなかった曲がかなりある。日本人作曲家もいるし、ソ連やドイツ、アメリカ、フランスなど、多彩なものだ。

ブリテン(1913~1976)は、バーンスタインより5歳年長、ショスタコーヴィチより7歳年下。
この3人は、お互い交流があった点でも音楽史的におもしろい。
バーンスタインはいずれの作品もよく指揮していたが、同世代人のカラヤンは・・・・、と思うと面白いもんだ。
これら3人を今よく演奏する指揮者は、スラトキンにラトル、そしてプレヴィンの3人。

そのプレヴィンロンドン響時代の名盤が、ブリテンの「春の交響曲」。
78年の録音で、イギリスの春の爆発的ともいえるうつろいを、わかりやすく明快なタッチで演奏している。
早熟なブリテン36歳、1949年のこの作品は、マーラーの大地の歌のような連作歌曲の集合体のような作品で、バリトンを除く独唱3人と混声合唱、少年合唱を伴なった作品。
大きく4部からなり、それぞれの部はいくつかの章に細分化されてはいるが、春の訪れという導入部的な1楽章、反戦の意を込めた緩除的な2楽章、スケルツォの3楽章、歓喜に沸くフィナーレの4楽章、という交響曲的な構成。

春にちなんだ英国の詩14編が、全12曲に散りばめられ、その作者は中世の作者不詳のものから、スペンサー、J・ミルトン、オーデン、W・ブレイクら高名な方々まで。
以前の記事と結びは同じになってしまうけれど、夏の到来による輝かしい季節への突入を最後に高らかに歌う。この場面はブリテンの才気爆発ともいえるもので、私は何度聴いても高鳴る胸を押さえきれない。かっこいいブリテンの音楽を体感していただきたいもの。

中世のカノン「夏は来たりぬ」が合唱や独唱によって歌われ、少年合唱がこだまのように入ってくる。次々に高まり行く高揚感。
そしてテノールが、ボーモント&フレッチャーの詩を語るようにして歌う。
神を称え、王国を称え、人々を称える。
その後、唐突なまでのトゥッティで曲を閉じる。

    S:シーラ・アームストロング  A:デイム・ジャネット・ベーカー
    T:ロバート・ティアー

   アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団
                    ロンドン交響合唱団
              合唱指揮:リチャード・ヒコックス
                (78.6 ロンドン・キングスウェイホール)

完璧な独唱、ことにJ・ベーカーが素敵すぎ。
合唱指揮にヒコックスの名前が見られるのがうれしいね。
秋なのに、春です。

過去の記事
「ガーディナーの指揮」によるものはこちら

  

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2008年11月 3日 (月)

ヴェルディ 歌劇「マクベス」 アバド指揮

Desiny_hotel

本日眠いです。
朝6時前に起床、子供たちだけで冒険的に企画したディズニーランドの行きの運転手役が急遽私に回ってきたものだから。
休日ゆえ道路はスイスイ。7時20分頃、30分足らずで着いてしまう。いやはやこんな早くからTDL周辺はいるもんだねぇ、車も人も。
画像はヨーロッパのお城のようなディズニーランドホテル。
8時に帰宅して、さて何しようと悩む中高年ひとり。

Abbado_macbeth1

う~む・・・、そうだ久しぶりに純正イタリアのヴェルディでも聴こうじゃないか、と取り出したのがアバドの「マクベス」。

ミラノ生まれ、父も兄も係わりのあったヴェルディ音楽院卒業のアバドが、なるべくしてなったミラノ・スカラ座の指揮者。
68年、36歳で音楽監督となり芸術監督も経て86年までスカラ座とともにあったアバド。
リベラルなアバドは、国情ゆえ財政難だったスカラ座の地位をなげうってまで抗議したりもした。
ヴェルディの持つような高貴でかつ愛国的な熱い血のかよったアバドなのである。
 アバドの後を継いだムーティも長年スカラ座に君臨したが、その最後は後味の悪い決裂となってしまった。
ウィーンもそうだが、名門歌劇場というのはなかなか伏魔殿的な要素が多いようだ。
スカラ座を去って以来、アバドは故郷の指揮台に立つことはない。

スカラ座のオーケストラや合唱の素晴らしさはかつてより変わらないが、アバドが就任するまでは、60年代半ばのDGによる「ドン・カルロ」や「リゴレット」「トロヴァトーレ」等以降、正規の録音が久しく途絶えていた。
74年にこのコンビが録音したのが「ヴェルディ・オペラ合唱集」で、高校生の私はロンドンのオケとの雲泥の違いに驚愕し、次いで世界が待ち望んだ全曲録音がこの「マクベス」というわけ。
レコードアカデミー大賞を受賞した名盤中の名盤であります。
連続して翌年発売された「シモンボッカネグラ」の方がさらに完成度が高い弧高の名演。

26作あるヴェルディ(1913~1901)のオペラの中にあって、「マクベス」は10作目、作者33歳の作品。位置付けとしては祖国愛や激しい恋愛ロマンを描いている作品の多い初期から、人間の心理をより深く見つめ出した中期にかけてのオペラ。
後続が「リゴレット」や「トラヴィアータ」だからヴェルディが悩み多き登場人物のドラマにいかに素晴らしい音楽を書き始めた頃かがよくわかる。
シェイクスピアの原作にほぼ忠実。この原作もアバドのレコードを聴いてから読んだが、簡潔ながらシェイクスピアがマクベス夫人に与えた邪悪な野望の持主という性格は恐ろしいものであった。そしてそれに鼓舞されて人生を狂わせてしまうマクベス。
 ヴェルディもシェイクスピアの意そのままに、マクベス夫人を歌う歌手は「完璧に歌うのでなく、粗くて、しゃがれたようなうつろな響き」を持ち「悪魔的な感じ」を求めたという。
そして、マクベス夫妻の歌のスコアには、「ソットヴォーチェ」とか「叫びで」、「暗く、うつろに」「しゃべるように」・・・・、といった指示がたくさん書かれている。
 このオペラの二人の主役がいかに難しく、性格描写が求められるかがわかるというもの。
以前にテレビの劇場中継で、玉三郎のマクベス夫人、平幹次郎のマクベスを観たことがあるが、凄まじいまでの迫力とともに、権力を求める哀れさを感じた覚えがある。

第1幕
 3組の魔女たちが歌うところに、マクベスとバンクォーが登場。
魔女は、マクベスがコーダーの殿となり、やがて王ともなる。バンクォーは王の父となると予言する。そこへ、マクベスがコーダー領主となったとの使者が現れ、二人は驚く。
 マクベスの居城では、夫の手紙を読み野望にメラメラと燃える夫人がいる。
おりから、王ダンカンが今宵やってくるとの報に、帰館した夫に王暗殺をしむける。
ついに刺殺してしまうマクベスは、おお殺っちまったとおののくが、夫人は凶器の短剣を夫から取上げ、王の部屋へ置きにゆく。やがて大騒ぎとなる・・・・。

第2幕
 国王となったマクベス。魔女の言葉を一緒に聞いたバンクォー親子の存在が気になってしょうがない。
ならいっそのこと、と夫婦で次の殺害をたくらみ、刺客を雇ってバンクォーを殺してしまうが息子マクダフは逃げおおせる。
城の広間に客人をもてなすマクベス夫妻。しらじらしげに、バンクォーはいかがした?とか言いながら、バンクォーの席に座ろうかなどと言うと、血にまみれたバンクォーの亡霊が座っているのが見え動揺しまくるマクベス。
夫人はその場をとりなし、夫を励ます。

第3幕
 マクベスは魔女たちに気になる未来を見てもらおうとする。
魔女たちは、幻影を呼び出し、その幻影が語る。「マクダフに用心、女から生まれた者でマクベスに勝つ者はいない、バーナムの森が動かない限り戦いに負けない」と。
有り得ないことばかりに意を強くしたマクベスだが、王たちやバンクォーの亡霊が現れ、バンクォーの子孫たちが生き返ると聞かされ気絶してしまう。
 帰って夫人に報告し、二人でマクダフの城を攻めてしまえと毒づく。

第4幕
 マクベスの暴政に悲しむ人々の合唱。復讐に燃えるマクダフに亡き王の息子マルコムは、バーナムの森の木々を切ってそれを手に持って姿を隠そうと作戦を練り励ます。
城ではマクベス夫人が狂乱の死の境に立っている。
手についた血のしみや匂いに囚われてしまっている・・・・。
 マクベスは今しもイギリスと組んで攻めこようとするマクダフ軍に毒づき、最後の時が近づくのを悟り、自分の墓には悪口しか残されることはないと歌う。
そこへ、バーナムの森動くとの報。くそっとばかりに武器を持って戦場へ出るマクベス。
マクダフと出会い、母の腹をやぶって取り出された生い立ちを聞かされ、マクベスは「地獄の予言を信じたゆえ罰を受ける。卑劣な王冠のために・・」と歌い破れ死ぬ。
 勝利に沸く民衆とマクダフとマルコム。 
幕。


  マクベス:ピエロ・カプッチッリ   マクベス夫人:シャーリー・ヴァーレット
  バンクォー:ニコライ・ギャウロウ マクダフ:プラシド・ドミンゴ
  マルコム:アントニオ・サヴァスターノ 待女:ステファニア・マラグ
  医師  :カルロ・サルド         従者:ジョヴァンニ・フォイアーニ

 

   クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                    ミラノ・スカラ座合唱団
               合唱指揮:ロマーノ・ガンドルフィ
                         (76.1 ミラノ)


前奏曲からピシっと一本筋が通ったように張りつめたオーケストラの音。
すべてに意味があり、血が通っているように聴こえる。それがあまりにも雄弁であるがゆえに、この演奏を聴くにはかなりの緊張と集中力を要する。
アバドの指揮するヴェルディの素晴らしさは、緻密な表現の中にも持って生まれた歌心と劇場的な開放感もあることで、ドラマテックな場面でのたたみ込むような表現には興奮してしまう。よく優等生などと言われるアバドであるが、これらヴェルディをはじめとするオペラの数々を耳をかっぽじって聴くがよいだろう。

Abbado_macbeth2

名バリトン、カプッチッリのマクベスには邪悪さはあまりないかもしれないが、夫人と運命の綾に翻弄される矛盾した存在を美しく輝く声で表現している。
輝かしいバリトンだからこそ、強烈な性格表現にも嫌味がなく迫真の歌に息を飲む思い。
ギャウロウの深みある声も同様。
ただ、ドミンゴの声は立派すぎるというか、テカテカしすぎかとも思うのは贅沢か?
アバドがマクベス夫人として指名したヴァーレットは、同時期のムーティ盤のコソットの強烈さこそないが、緻密な頭脳的歌唱で、多彩な声の使い分けも見事。
ヴェルディが望んだほどの「悪魔的な感じ」というには遠いが、女性的なマクベス夫人でもあった。
合唱・オケともに超強力。
録音も超優秀。
なんだか誉めすぎのアバドのヴェルディでありました。

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2008年11月 2日 (日)

松村英臣 ピアノリサイタル

Hideomi_matsumura 浪花の隠れたる名ピアニスト、関東に登場。
松村英臣さんが、その人。
神奈川フィルの演奏会などを通じ、いつもお世話になっております、Scweizer Music先生のご友人で、先生が応援されている松村さん。
その劇的ともいえるチャイコフスキーコンクールでのエピソードは、こちらでご覧下さい。
90年、ベレゾフスキー優勝時のチャイコフスキーコンクールで、ニコラーエワ女史が松村氏落選に激怒し、「ベスト・バッハ賞」という賞を創出して称えたという。
以来、関西を中心に活躍されたので、関東では、その名声があまり聞かれなかった。

今回、東京で初リサイタルを行なうにあたり、Sweizer Musics先生にご案内いただき、聴いてきた次第。

    バッハ          フランス組曲第2番
    モーツァルト      デュボールのメヌエットによる9つの変奏曲
    バッハ(ブゾーニ編)  シャコンヌ
    ムソルグスキー    「展覧会の絵」
       (アンコール)
    チャイコフスキー    「四季」より 4月
    ヒナステラ        「優雅な乙女の踊り」
    シベリウス        「樅の木」
   
         ピアノ:松村 英臣
                  (11.2 浜離宮朝日ホール)

バッハのフランス組曲、音の輪郭がはっきりと明確ながら、その音色の美しさに思わず引き込まれる。瑞々しくも、すごくきれいな音。
思えば、バッハがキレイでどこがいけないだろうか!
年代的に、峻厳なバッハを是としてしまう傾向がある。
曲が曲だったからかもしれないが、松村さんのピアノには、そんな思いを払拭させてしまう微笑むバッハがあった。
 続くモーツァルトは一転、優しく愛らしい調べと9つの多彩な変奏の豊かな味わいに心和ますことができた。ほっと一息、暖かいお茶でも飲んだような気分といえようか。
 そして驚きは、ブゾーニ編のシャコンヌ。
申すまでもなく、無伴奏ヴァイオリンパルティータのピアノ編曲版であるが、これがまた別物といえるくらいに巨大な作品となって聴こえた。
ヴィルトーソ的な要素は原曲でも充分あるが、4本の弦で奏でられ、上下する幅広い音域をそのままピアノに持ち込むわけだから、それを弾きこなす技巧たるやすさまじいものがある。打鍵の強靭さに驚きつつも、繊細さも充分あって聴き応え充分。
シャコンヌって、こんなすごい曲だっけ!
モーツァルトは、お茶の似合うサロンのムードを感じたが、このシャコンヌは教会の大伽藍を思い浮かべてしまった。

後半のムソルグスキーは、華やかなオケ版にない泥くささと、この作曲者特有の死をイメージさせる暗さを表出するのではと予想したが・・・。
以外や、各曲を微細に弾きわけるというよりは、キエフの大門にピークを持っていったスピード感あふれる鮮やかな演奏に感じた。
この曲のオケ版が実は苦手で、若い頃は好んで聴いたものの、ラヴェルの完璧さがムソルグスキーの素顔を覆ってしまったようで、もってまわった曲に聴こえてしまうようになった。
久方ぶりに聴くオリジナルは、これだけズバズバと弾かれると気持ちがいい。
関西のノリなのだろうか、「こないですぅ、門は大きおまんねん」というような、明るく快活なムソルグスキーに、快感を覚えた次第。
それにしてもスゴイ技巧と強靭なフォルテ。

満場の拍手に、松村さんの楽しいトークを挟んでアンコール3曲。
チャイコフスキーの抒情と、シベリウスの有名な円舞曲を思わせるような冴えた響き。
どちらも素晴らしく、このあたりに松村さんの本領を見た思い。ともかく美しい。
そして、曲も含めて、大いに気に入ってしまったのがヒナステラの曲。
初めて聴くこの音楽。私はラフマニノフ風の感情の高まりに甘味なものを感じた。
ヒナステラ、調べたらあらゆるジャンルに曲を残してるじゃないの。
少し探求してみる価値ありそう。

松村さんのピアノ、これは本物と感じた今日のリサイタル。
日本各地より馳せ参じた聴衆もいらっしゃるということで、これはまた注目のピアニストあらわる、ですぞ!
来年も、東京での演奏会を予告されています。各地の皆さんも是非

コンサートのあとは、アフター神奈川フィルじゃないけれど、とてもおいしいタイ料理とビールに大満足でありました。ご紹介ありがとうございました。皆さんお世話になりました。
そのムード満点のお店は、弊ブログ別館にて近日ご案内いたします。

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2008年11月 1日 (土)

ラフマニノフ 歌劇「アレコ」 キタエンコ指揮

Neko おいおい、そんなに隠れなくたっていいじゃないか。

ねこを見かけたので、いつものように声掛けをしたら車の下に逃げ込んでしまった。
ねこは、逃げても必ずどこかで見ている。好奇心旺盛なんだ。

オジサンはね、悪い人なんかじゃないんだよう。

Rachmaninov_aleko ラフマニノフ(1873~1943)が残したオペラは完成されたもので3作品。
それ以外にも未完のものや、構想だけで終わったものがいくつもあって、ラフマニノフは劇場作品への適性と、多忙な演奏活動や自身のなさで、作品を完遂できなかったことがうかがわれる気がする。

今回聴いた「アレコ」は1幕ものの1時間作品で、1892年の作曲。
なんと20歳である。
モスクワ音楽院の卒業作品でもあったこのオペラ、高い評価を得て、大金メダルという賞を受賞した。
19や20歳の頃の自分って何やってたんだろ?

短い作品ながら、そのドラマはヴェリスモっぽくて、ジプシーの暗い生活と嫉妬や死の横溢する激しい内容である。原作者はプーシキン

簡単なあらすじ

都会の生活を捨てた壮年のアレコ。ジプシーの群れに加わって生活してゆくうちに、若いゼムフィーラと恋仲になった。
年老いたジプシーは、かつて愛した女が異なるジプシーの集団についていってしまい、残された娘がゼムフィーラ、その日から女というものが信じられなくなったと歌う。
ズムフィーラは、アレコが他所から来たインテリで利己的で最近しっくりこないと思っている。あからさまに歌で揶揄し、アレコはいらつく。
有名なアレコのカヴァティーナで、かつての愛を懐かしみ、心変わりを責める。
 その夜、若いジプシーとゼムフィーラはいい仲となってしまい、その場をアレコに見咎められる。アレコは必死に昔を思い出して欲しいと歌うが、それを蔑む二人。
ついにアレコは切れ、若いジプシーを殺害し、ゼムフィーラをも殺してしまう・・・。
ジプシーたちが現れるが、口々に「恐っろしい」を連発するのみで、老ジプシーも「わしらには掟なし、罪も攻めぬ。が、血も見たくない。一緒にいれない」と悲しく歌う。
アレコは「不運なこの身、またも一人・・・・」と歌い、幕。

なんともいえないばからしさではあるが、「パリアッチ」や「外套」のようだし、最後は身勝手な「オネーギン」や「ドン・ホセ」をも思わせる筋立て。
ジプシーの自由気ままさと、奔放さ。それ以外の人間との隔たりと社会との疎外感。
何とも暗い内容ではある。

若書きとはいえ、どう聴いてもラフマニノフなのである。
序奏に、ふたつある劇中のダンス、甘味な間奏曲などのオーケストラ部分。
歌も、劇の内容の濃厚さとは裏腹に結構さわやかな抒情と、ラフマニノフ特有のリズムに乗った特徴的な旋律に彩られていて、なかなかの聴きものと思う。

アレコ:エウギニ・ネステレンコ  若いジプシー:アレクサンドル・フェディン
老いたジプシー:ウラディーミル・マトーリン 老いたジプシー女:ライザ・コトヴァ 
ゼムフィーラ:スヴェトラーナ・ヴォルコヴァ

 ディミトリ・キタエンコ指揮 モスクワフィルハーモニー交響楽団

ネステレンコのたっぷりしたバスが聴きもの。
ロシア人特有の肉太でヴィブラートがかった声はなんとも濃厚で深刻。
アレコのカヴァティーナのあとに始まる間奏曲の幻想的でロマンテックなことといったらない。このあたりで、ウォッカ2杯は飲めちゃう。
キタエンコのシンフォニックな解釈は、べたつかずスマートなラフマニノフとして非常によろしい。
ほかのラフマニノフ・オペラも聴きたくなってきた。

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