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2008年12月

2008年12月31日 (水)

R・シュトラウス 「最後の4つの歌」 ステューダー&シノーポリ

22

東京、丸の内の年末の様子。

かつての昔は、東京駅前だけれど、単なるオフィス街で、味もへったくれもなかった。

でも有楽町方面とつないでみれば、まっすぐに、素敵な街だった。
三菱系のオフィスビルを左右に、フォーラムとビックカメラをつないで、ショッピングと文化の織りなすナイスなストリートにございます。

さてさて、今年の終わりに、ワタクシのライブ音楽を振り返りましょう。
2008年は、オペラが18本、それ以外のコンサートが17本、合計45の音楽会に行った。ちょっと多すぎる。2009年は、少し減らさねばと思う大晦日。
オペラは、ワーグナーが5、R・シュトラウスが6、プッチーニが2と偏りがうかがえる。
では、それぞれの5傑を。

 オペラ部門
  ①チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」 二期会
  ②ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 パリ・オペラ座
  ③ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 東京シティフィル
  ④R・シュトラウス 「ばらの騎士」 横浜
  ⑤プッチーニ 「トゥーランドット」 新国立劇場

 その他の部門
  ①「パトリシア・プティボン」ソプラノリサイタル
  ②「シュナイト指揮 神奈川フィル」 田園
  ③「シュナイト指揮 神奈川フィル」 ブラームス第4
  ④「尾高忠明指揮 札幌交響楽団」 エルガー第3
  ⑤「ヤンソンス指揮 コンセルトヘボウ」 


こんな感じで、オネーギンを選んだのは、コンヴィチュニーの演出が抜群に面白かったのと音楽のよさが初めてといえるくらいに実感できたこと。
パリのトリスタンは、演出はイマイチだったけど、演奏、とくにオケが素晴らしかった。
それに負けないくらいにワーグナーの真髄を聴かせてくれた飯守&シティフィル。
二期会のワルキューレも飯守さんはよかったけど、シティフィルの方が勝っていた。
演出の面白さで、ホモキのばら騎士とブロクハウスのトゥーランドット。

プティボンは、その愛くるしいお姿からは想像できないくらいに強い声だった。
そして見聴きする人々を心から楽しませてくれるプロであった。
シュナイト&神奈川フィルの名演の数々は、どれもこれも挙げたいくらい。現田氏のラフマニノフもよかったけど、この体制の終焉は寂しいぞ。
尾高&札響は世界的にみてもエルガー演奏の最高の存在と確信。
そして、今年もヤンソンスはうまいものだったなぁ。

無念の訃報も今年はあった。
リチャード・ヒコックス、ヴァーノン・ハンドリー、ホルスト・シュタイン・・・・合掌。

Vier_letzte_lieder_studer

去年もそうだったけど、今年もラストは、R・シュトラウスの「最後の4つの歌」で締めよう。
深まる秋や、しんとした冬の晩に聴くのが相応しいこの歌曲集。

「春」「9月」「眠りにつくとき」「夕映えに」

もうタイトルだけで、これらの深淵な音楽が聴こえてきそう。
1948年、その死を1年後に控えて、シュトラウスは達観した澄み切った心境を音楽に託した。

「かくも深く夕映えのなかに、私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう、これがあるいは死なのだろうか」

昨年も同じ詩を引用したが、厳しかった今年1年、とくに心に沁みる。
わたくし、疲れました・・・・・。(飲み過ぎか??)

この美しい曲は、やはりシュヴァルツコップやヤノヴィッツ、ノーマンの言葉への思いを込めた歌が素晴らしく、それらは別格。
一方で、透明できれいな声のソプラノで聴くのも無類の喜びである。
80~90年代にかけて大活躍したアメリカのソプラノ、チェリル・ステューダーも、そうしたクリスタル系の声の人だ。
明晰さとあたたかさを兼ね備えた真っ直ぐな声は、いまも魅力的である。
言葉の歌いこみという点では諸先輩に遠く及ばないが、その素直な歌声から、シュトラウスの透徹した、軽やかな世界が垣間見ることができる。
 シノーポリドレスデン・シュターツカペレの作り出す音も、ステューダーと同じく、濃密さよりは透明感の方が勝っていて、ほんとうに美しい。

このCDは、あとワーグナーの「ヴェーゼンドンクの詩」と「トリスタンとイゾルデ」が収録されており、私にとって、最高の1枚なのだ。
ドレスデンのオケで聴くトリスタンは筆舌に尽くしがたく素晴らしい。
何気に、シノーポリ特集やっております。

26 皆さん1年どうもありがとうございました。
また数時間後にお会いしましょう。
ではでは。

 

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2008年12月30日 (火)

エルガー 「エニグマ変奏曲」 シノーポリ指揮

Imgp2120 数年前ですが、金沢の兼六園。
このところの寒さで、金沢も雪でしょうか?

北陸は、やはり冬がいい。

お酒も食べ物も

どうも食べることばかりだな。
別館はほったらかしだが、そろそろ溜まりにたまったネタを放出しないと・・・・・。
今日、仕事収めで、飲んでしまい家に帰ったらすでに31日。
バックデートして、補筆投稿でございます。

Enigma_sinopoli

エルガーの「エニグマ変奏曲」、オルガン版を入れると通算4回目の登場。
やはり、好きなんだな、この曲。

エルガーでは、第1交響曲、ヴァイオリン協奏曲、三大オラトリオ、弦楽四重奏、などが有名曲では大好き。
もちろん、2番や3番(これエルガー!)やチェロ協、他の器楽・室内楽なども当然に愛してやまないけれど、順番をつければ先にあげた諸作が上位に来ることとなる。
盲点はいくつもある、わたしのエルガー。
器楽や小品、歌曲、などなど・・・。
でも、いつどこで聴いてもエルガーの節回しは私の背筋を伸ばしてくれる。

私のように、英国音楽も愛しつつ、ワーグナーも聴き、シュトラウスやプッチーニを中心とするオペラを聴く人間にとって、それぞれのジャンルでの接点や共通項と見出すのも音楽を大系的に聴くこととの楽しみである。
エルガーがオペラを一曲も残さなかったのは、その気質からして頷けるものだと思う。
そのかわりに、神々しいまでのオラトリオや声楽作品にはドラマ性とともに敬虔で篤い信条を強く感じる。
またオーケストラ作品では、エニグマのように、描写性に優れた作品もあって、同時代人でエルガーを高く評価したR・シュトラウスとの近似性も感じることができる。

そのシュトラウスを指揮するかのようにエルガーを演奏したジュセッペ・シノーポリ
かなり濃厚なエルガーとなっていて、ユニークなエニグマ。
でもバーンスタインのように粘っこくなくて、サラっとしているのがシノーポリ。
デビュー当初は、とくにヴェルディなどでたぎるような情熱と分析的な解釈で、激しい音楽作りをしていたが、その後徐々に丸くなり緻密さはそのままに、音楽にも余裕が出てきて、イタリアの日差しが差し込むような暖かさが醸し出されるようになった。
晩年のバイロイト・リングや、ドレスデンとのシュトラウスなどは、最高の名演に思う。
嗚呼、その早世が無念なり・・・・。

このCD、ジャケットが実によろしい。
この変奏曲のテーマの人物たちを一同に登場させた創作イラストであるが、14の変奏だから、作曲者もふくめてちゃんと14人います。
さて、いったい誰が誰だか・・・。
まず、エルガーと愛妻アリスはわかりますな。
あと、チェリスト(12変奏BGM)と愛犬を連れた男性(11変奏GRS)も。
俳優風のおどけた方(3変奏HDSP)、おしゃべりなドラベッラはお茶目風の女性(10変奏Dorabella)。
あとは難しい。美しいニムロッドやロマンツァに描かれた女性たちは、どの方だろうか?

シノーポリの入念な演奏で聴くエニグマは、情感がとてもあふれていて素晴らしい。
緩やかな部分と、早い部分との対比がまた際立っていてとても見事。
ティンパニや打楽器がビシバシ決まる一方、ニムロッドやロマンツァでは、すごく音を抑えて思いのたけを込めている。
バーンスタインが6分もかけたニムロッドは、約4分。
それと、ニュートラルで明るい響きのフィルハーモニア管が実にうまいものだ。

年末に聴く「エニグマ変奏曲」、とても楽しく聴けました。
最後の作曲者自身の変奏曲で、メインテーマが情熱を込めて登場し、シノーポリが思いきりそれを歌わせるとき、感動で胸がいっぱいになってしもうた

 過去記事

「マリナー&アカデミー、コンセルトヘボウ」
「プレヴィン&ロンドン響」
「バーンスタイン&BBC響」
「オルガン・バージョン」

Imgp6109

こちらは、金沢の名物「治部煮」。
ワタクシ、これむちゃくちゃ好きやねん。
ほいで、この中から鴨肉を発見し、おもむろに頬張る時、天にものぼるようやで。

食べたい

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2008年12月28日 (日)

プッチーニ 「蝶々夫人」 シノーポリ指揮

Hamarikyu浜離宮を望む図。
人の会社から打ち合わせの隙をついてパシャリ

将軍家の別邸でもあったこの場所、海に隣接し、海水を引き込んで潮の満干をも楽しめる趣向。
海に囲まれた日本の土木・灌漑技術は古来素晴らしいものがあるのだな。

自然の機微を細やかに取り入れ楽しむ繊細な心情も元来、日本人特有のものであろう。
いまや、この場所も外資の高層ホテルやビルが見下ろす場所となってしまった。

Butterfly_sinopoli

生誕150年のプッチーニ(1858~1924)。
国内では、今年どれだけのプッチーニのオペラが上演されたろうか?
定番ばかりで、そんなに本数がないのに驚き。
三大オペラは毎年上演されているが、それにトゥーランドットと三部作のみ。
メモリアルイヤーだからこそ、普段接することのない作品も上演して欲しかったもの。
 でも、私の方は充実したプッチーニ・イヤーでありましたことよ。
「トゥーランドット」と「三部作」の舞台が観れたし、本ブログでは、オペラ全作品を今回で取り上げることができたのだもの。
全10作(三部作を1として)のうち、最後になったのは「蝶々夫人」。
実は苦手なのであります。
何故かって、理由はあまりありません。
「ある晴れた日に」があまりに有名すぎて近寄りがたいのと、子供の頃にテレビで見た八千草薫の扮する映画を見て、自害という、そのあまりの可哀そうな結末がショックであったこと。長じてそれが国辱的な思いにもなったことなどがあげられる・・・・。
あと、中国と一緒くたになってしまった、へんてこりんな日本の描き方を見たくないというのも理由のひとつだけれど、これはまあCDで聴くかぎりは問題にはなるまい。
 
だから蝶々夫人の音源を買ったのはそんな昔じゃありません。
社会人になってから、というか結婚を控えて、式のバックミュージックを自分で作ろうということになった。
入場は、「ローエングリン」で、あとはショパンの2番の協奏曲とか、ラヴェルの協奏曲、マーラーの3番・・・・。そして花嫁のお色直しでの音楽に「蝶々夫人」の「ハミングコーラス」を入れたのである。(ホント夢と希望に燃えていたのよね・・・・あの頃は)
このとき買ったのが今回のシノーポリの全曲盤なのであります。
 実はこれも買ったきりで、その後何年もしてから今度は、バルビローリ盤を購入して真剣に聴いてみた。そしたら涙がちょちょぎれるほどに美しい音楽だとわかった。
日本の旋律もふんだんに使われ、その溢れ出る素晴らしい音楽の泉に私は驚き、かつプッチーニの大胆なオーケストラの技法にもあらためて感じいった。

こうして私に遅れてやってきた「蝶々夫人」。いよいよ、年明けに新国で観劇デビューを果たすことと相成りました。
新国ならば変な演出じゃないだろうし安心。
最近ドイツあたりでは過激な演出が出ていて、以前ビデオクリップで見たが吐き気を催したくなる思いだった。ご参考までにこちらコミューシュオーパーでございます。

完璧主義者のプッチーニの台本選びは毎度大変だったらしいし、いざ決まって作曲を始めても、何度も訂正を要求されるため台本作家との衝突は茶飯事。
そんな中で、イルッリカとジャコーザのコンビとは抜群の相性で、三大オペラは、この二人を加えた黄金トリオのなせる技なのだ。
全オペラを聴いてきて、この3つとマノンは一際すぐれた出来栄えだし、のちのアダーミやフォルツァーノのすぐれた台本による、トゥーランドットや三部作も同様に霊感に満ちた名作となっている。
でも有名でないほかの諸作は、音楽は素晴らしい旋律に満ちてはいるものの、やはり台本が弱く、ドラマとしての魅力がいまひとつなのだ。

1903年の完成。プッチーニはロンドンで見たベラスコの同名の舞台劇に大いに感化され、オペラ化を思い立つ。
日本をかなり研究し、「おっぺけぺ」の川上音二郎や川上貞奴に会ったという説もある。
このあたりは、われわれ日本人として、とても嬉しい逸話である。

好きな場面は、1幕の陶酔的な二重唱。プッチーニのオペラの中でも最も長大な愛の二重唱で、幸せな思いに満ちていた蝶々さんが愛らしい。
後半になると蝶々さんが可哀そうで、胸が痛くなる。
でもやはりあのアリアは外せない。フレーニの名唱で聴くと涙がにじむほどの感動を味わうこととなる。
それから人情味豊かなシャープレスに子供を見せて歌う歌もたまらない。
もうやめてといいたくなるし、ハミングコーラスが流れるなか、スズキと子供と3人で障子越しにピンカートンの帰りを待つ場面も想像するだに泣けてくる・・・。
脳天気だったピンカートンが悔やみ歌うアリアもいい。おばかなメリケン人だけど、いいアリアを付け加えてもらえたもんだ。
そして音楽は悲劇に向けて淡々と進んでゆく。やがてレクイエムのように、ティンパニが同じ音を繰り返し、そこにこれまで出てきたいろんな旋律が重なり、ついにティンパニの強打となり、自害の場面が用意される・・・・。

 蝶々夫人:ミレルラ・フレーニ     ピンカートン:ホセ・カレーラス
 スズキ   :テレサ・ベルガンサ    シャープレス:ホアン・ポンス
 ゴロー  :アンソニー・ラチューラ  ボンゾ  :クルト・リドゥル

   ジュセッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
                     アンブロージアン・オペラ・コーラス
                          (87年 ロンドン) 

プッチーニのオペラ全曲録音を果たせずに亡くなってしまったシノーポリにとって、プッチーニほど気質のあう作曲家はいなかったのでは。あと、シュトラウスとマーラー。
ゆったりめのテンポで、思わぬ静謐な音楽作りで、デリケートで緻密の限りを尽くす。
それが頭でっかちにならずに、音楽の隅々に息がかよっているから悲劇の隈どりが深い。オケの響きに何度、耳を澄ませたことかわからない。
 
フレーニはスコットと並んで、最高の蝶々さん。テバルディやカラスだとスケールが大きすぎるし、われわれ日本人からあまりに遠い存在に感じる。
その歌唱の細やかさと、ドラマテックな場面での迫真性。それぞれを見事に歌いだすフレーニに聴くこちらの思いも同化してしまう。
 ありあまる声を抑制し、同情心あふれる歌で感動するのがベルガンサポンスの二人。
カレーラスも良すぎるけれど、こんな真面目人間が日本女性を裏切ったらいけません
てな思いになるくらいに凛々しい・・・・。
 端役に、当時シノーポリと共演多かった日本人歌手たちの名前を見出す。
小松英典、片桐ひとみ、佐々木典子の3人。佐々木さんは、いまやワーグナーとシュトラウス上演になくてはならぬ人となった。

かくしてお決まりの涙ひとしずく、「蝶々夫人」聴きました。
これにて、たぶん年内のオペラ鑑賞を終了。

Red_shoes こちらは、「赤い靴」チョコレート。
異人さんに連れられて行っちゃった方。
こちらも国辱もの。
でもこのチョコかわいいのである。

 

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2008年12月27日 (土)

ブルックナー 交響曲第3番 ザンデルリンク指揮

1 寒い晩には、あったかい蕎麦を。
そして、飲んだあとに以外にもいける「カレー蕎麦」。

銀座「いけたに」のカレー蕎麦は、病みつきになるくらいにおいしい。
蕎麦屋さんのカレーは、粉っぽくなってしまい、それが逆に和風でおいしいのだけれど、こちらは、しっかりとしたカレールゥがベースになっていて、かなりドロンドロン。
注意深く食べないと、シャツやネクタイに黄色い斑点がついてしまう。
言葉にするのは難しいけれど、蕎麦に合うカレーでもあり、きっとライスでも充分にいけちゃうナイスなカレー蕎麦でございます。
香り高い一品で、これを食べると店内はカレー臭に満たされ、オヤジたちは競っておれも、おれも状態になってしまう。はははっ

Sym3_sanderling

ブルックナーのシリーズ、今晩は交響曲第3番
俗にワーグナー交響曲ともいわれるけれど、それは敬愛する大ワーグナーに、この曲を献呈し、快くそれを受けてもらったから。
 ワーグナーが、この曲のどこに愛着を感じ評価したのだろうか。
トランペットの出だしが、ワルキューレのジークムントの場面を思わせるし、そんな勇壮な場面とうらはらに、1・2番と同じく、大自然の声に満ちているから、自分にないベートーヴェンのパストラル的な要素を感じ取ったからであろうか。
1873年に作曲された年、ワーグナーは「リング」の完成に向けて取り組んでいる最中で、ルートヴィヒ2世を得て得意満面の時である。
そんなワーグナーに気にいられて、ブルックナーもさぞや嬉しかってであろうよ。
ところがやっぱりブルックナー。ウィーンフィルに演奏不能として初演を断られると、すかさず改訂。数年後、ウィーンでようやく初演にこぎつけるが、自身の指揮がへたくそだったりして散々の演奏だったため、ショックに陥り、その後数回にわたって改訂が行われた。
だからいろんな版があって、この曲もややこしい。
通常は、第二稿をもとにしたノヴァーク版やエーザー版が用いられるようであるが、私はどの版がどうなっているかなどは、実はさっぱりわからない。
インバル盤は、ほかの諸曲もあきらかに違うと理解できるけど、ノヴァークだハースだのは、さっぱりにございます。

例のごとくもやもやのなかから、トランペットが一筋の光のように鳴り始める。
その後、大いに盛り上がるものの、あとは自然と祈りへの讃美を織り交ぜたような豊かな音楽が展開される。
 法悦的なまでに歌に傾注してしまう第2楽章。
これまた、ブルックナーの緩徐楽章好きの私を刺激する。
楚々とした場面が勝っていた1・2番に比べると、酩酊したかのように自己の内面の高まりをさらけ出しているように思う。抑制感がないようにも思えるが、後期の神々しさへの過渡的な場面であろうか。
かつて、アバドがウィーン・フィルとこの楽章を演奏したライブを録音していて、それがまた歌うことへの信条がブルックナーの響きと見事にマッチした名演であったのだ。
 湧き立つようなスケルツォは、爆発的な部分と中間部の舞曲風な部分との対比が面白い。のどかな田舎は、ここにもある。
激しく始まる終楽章、熱いなかに柔和さも折り込んだ音楽は、1・2楽章からすると、後年の交響曲ほどの充実感がないかもしれない。
でもその1楽章のモティーフが高らかに回帰するコーダの素晴らしさは感動もの。

この曲を始めて聴いたのは、高校生のとき。
デッカに久方ぶりに録音した、あまりに有名なベームとウィーンフィルのレコードが初めて。その時は全然ワーグナーじゃないじゃん、と思ったもんだ。
録音ものちの4番の素晴らしさからすると、ちょっとこもり気味の印象を受けていて、3番はどうも冴えない交響曲だと思っていて苦手だった。
CD時代になって、ベームを買いなおしたら、なんと素晴らしいじゃないの。
まるでライブのような生々しさに満ちている一方、1・2楽章の自然の描写が素晴らしく感じられた。
 そして、突然登場したザンデルリンクライプチヒゲヴァントハウスのCD。
1965年の録音ながら、その存在が忘れられていた音源で、しかも廉価盤となって出たものだから喜んで購入。
これがまた素晴らしい演奏なのだ。
コンヴィチュニー亡きあとのノイマンの時代。マズア前の、まだまだ重厚でいぶし銀のサウンドを誇っていた頃。
そんな絵にかいたようなドイツ魂が聴かれるこのブルックナー。
以外やザンデルリンクは柔軟で、やわらかな響きも好む人だから、ガチガチの音ばかりでなく、2楽章などの息を飲むような美しさは並々のものでないし、終楽章の高揚感もスゴイ!

2_2 「いけたに」のカレー蕎麦を、ほじくり返して、麺をたぐるとこんな感じであります。
 どーすか?
おいしそうでしょう


 

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ショスタコーヴィチ 交響曲第3番「メーデー」 ハイティンク指揮

2 横浜中華街、中華街大通りの善隣門。
食べ放題で有名な横浜大飯店がある。
ここは人気店なので、週末ともなれば1時間待ちはザラ。
行ったことはないけれど、おいしいのかしら?
この日は、腹を空かせた子供たちも騒ぐので、適当に入った店がまた有名店のようで、まずはうまかった。豚まんで有名なとこらしい。

中華料理はパワーがあふれていて、元気が出る。

Shostakovich_sym3_haitink ショスタコーヴィチのシリーズ、本日は交響曲第3番「メーデー」。
この曲は前作2番の2年後、1929年に作曲された。初演は、翌年ガウク指揮のレニングラードフィルによって。
今回のハイティンク盤のように、第2番と兄弟のような存在で、終結部ににぎにぎしくも恥ずかしくなるような大合唱が入っており、演奏時間も30分と小ぶりである。
 前衛的なムードの前半と、その合唱部分とのギャップがなんとも言えなかった2番。
この3番はどうだろう。
いやはや、またもやの感あって、前半のオーケストラ部分と後半というか最後の5分間の合唱の空々しさには、いまこの時代、虚しさしか感じられない。

 工場よ、農村よ、5月のパレードを吹きひろげ
 土地を縦隊で握りしめよう
 われらの時代がきたのだ!

ところが世界同時不況にあえぐ今、こうした言葉は民衆には魅力と映る時がやってきてしまう危険性がある。
ソヴィエトが崩壊し、アメリカ型消費社会も脆さを露呈したいま、人間の良識はどこへ向かうのであろうか・・・・・・。

ちょっと脱線したけれど、この合唱の入る前の25分間は、2番の前衛ぶりとはうって変わって、ショスタコ風のどこまでも変転してゆく音楽が繰り広げられる。
つかみどころのない旋律が浮かんでは消えてゆき、すぐにまた次のヤツがやってくる。
そう、次の素晴らしい第4番を思わせるのであった。
ということは、多分にマーラー・チックなのである。
これがこれで、非常に聴きごたえがあって、オケ好きには楽しい25分間であろう。
しかし、最後の5分の赤っぽい合唱との脈連性がいただけない。
変な交響曲なのだ!

ハイティンクは、こんな交響曲も全力を込めて誠実に演奏していて、リファレンスとして完璧なもの。
ロンドン・フィルのニュートラル系・ブルー系の音色もハイティンクに相応しい。

ショスタコは、ハイティンクやヤンソンスばかりで恐縮です。
次もハイティンクです。

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2008年12月25日 (木)

ヴォーン・ウィリアムズ 「クリスマス・カンタータ」 ウィルコックス指揮

Sapporo1 日本人にとってのクリスマスは、完全に浮ついたお祭りの一環となり果てているが、私はそれはそれで構わないと思っている。
商業的にも年末を控え、活性化がもたらされるし、美しく街が彩られ、それを見る人々の心が和めばいい。
そして、親たちは、愛する子供たちのことを考え必死にプレゼントを用意し、家族の待つ家にいそいそと帰宅する。
子供たちは、お正月に誕生日にクリスマスの三大イヴェントを心待ちにしているし。

こんな宗教感のないクリスマスでも、人を思う気持ちがあるから良しとしようと思う。

でもさすがに今年あたりの厳しい社会情勢には、自分も含めて安穏としていられない。
あらゆる人々に平和なクリスマスが訪れることを願ってやまない・・・・。

写真は、札幌の大通公園。
一昨年のものを引っ張りだしてきた。
イエスは、中東の出身だけれども、ツリーと雪、ファンタステックなムードがクリスマスに似合う。
賑やかな日本も街々も、明日になったら、もう何事もなかったようにクリスマスムードは一掃されてしまうのだな、これが・・・・・。

Rvw_hodie 今年没後50年だったレイフ・ヴォーン・ウィリアム(RVW 1872~1958)
作曲家にしては長寿で86歳没。
1953年、大規模な声楽作品の最後のものともいえる「クリスマス・カンタータ」を作曲した。81歳というからその枯渇しない楽才と、初演も指揮した若さに驚き。
曲は、私の大好きな作曲家ハゥエルズに捧げられていて、全部で16の部分からなっている。
このカンタータのタイトルは、「Hodie(ホディエ)」が正式なもの(たぶん)で、そのhodieとは、「今日こそ」「今日ついに」といった、待望久しい意味での「今日」という意味。
第1曲めの、ラテン語のクリスマス典礼文の出だしがまさに「Hodie」である。

 「今日キリストはお生まれになった。今日救い主はあらわれた・・・・」

このような出だしではあるが、あとの内容は、ルカ伝によるイエス誕生の場面や、ミルトンの詩などを交互に織り交ぜながら約1時間あまり、独唱と合唱によって進められてゆく。
邦訳がないので、詳細は想像するのみだが、クリスマス音楽のお約束「パストラル」もあって、全体に平穏かつ伸びやかな音楽である。
そのパストラルは、バリトンの独唱によるもので、ここではJ・シャーリー・クヮークの素敵な歌声が聴かれてうれしい。
長い音楽ではあるが、ここに聴かれるのは、まぎれもなくRVWのサウンドで、これまでの集大成のような音楽であろうか。
交響曲でたとえれば、南極交響曲のペンタトニック風の荒涼とした響きやクリスタルな雰囲気、田園交響曲の安らかな響き、海の輝かしい勝利に満ちた響きなどなど・・・・
このところ数回聴いているが、聴けば聴くほど味わいを増すスルメ系の音楽に思う。
今年が初挑戦だったので、これから毎年聴いていきたいクリスマス音楽。
最後の輝きに満ちた讃美には胸が熱くなってしまう!
 
  Ms:ジャネット・ベイカー    Br:ジョン・シャーリー=クヮーク
  T :リチャード・ルイス

       ディヴィット・ウィルコックス指揮 ロンドン交響楽団
         バッハ合唱団/ウエストミンスター・アビー合唱団員
                           (65年 ロンドン)


素晴らしい英国歌手たちと、合唱の神様的なウィルコックスの指揮。申し分なし。
今年惜しくも亡くなってしまったヒコックスは、この曲を録音しなかったのだろうか。
いかにも、ヒコックス向きのRVWの「Hotie」である。

7_2  おまけ。
横浜みなとみらい、クィーンズスクエアのツリー。
みなとみらいホールの入り口近くでもあって、今年は何度か和ませていただきました。

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2008年12月24日 (水)

ストラデッラ 「クリスマス・カンタータ」 ヴェンツィンガー指揮

02 有楽町で途中下車して、二重橋を経由して東京駅まで撮影にいどんだ。
イヴの今宵、さまざなな世代のカップルを尻目に、カメラを片手に急ぐオヤジ一人。
それが、わたしだ。
イルミネーションの街に一人ゆくオヤジを見たら声をかけください。
私だよ!

光都東京☆LIGHTPIA」、28日まで実施中。
右のマイフォトに載せてみました。不景気はどこへ?閉塞感にさいなまれつつも、イルミネーションに心なごむワタクシでございました。

FMでは、バイロイト放送が始まった。今日は「ラインの黄金」をちょい聴き。
底から湧きあがるような前奏曲。ティーレマンのじっくりした指揮が実によろしい。
ラインの乙女たちは、声が絶叫、つーか出てない。
昨今のアルベリヒは、軽い声が多くて、ザ・アルベリヒ=ナイトリンガーが懐かしい。
苦節ウン十年のドーメンのヴォータンも苦しい・・・。
演技を伴う映像だときっといいんだろうな・・・・。

Stradella クリスマス、とくにイヴに聴く音楽は非常に多い。
楽しげなクリスマスミュージックも毎年この日に聴いているが、聖夜にはバロック期の音楽が似合う。
ヴィヴァルディやコレルリより前に活躍したイタリアバロックの作曲家、ストラデッラの「クリスマス・カンタータ」。

この曲は、中学生くらいにアルヒーフ・レーベルから出ていたこのヴェンツィンガー盤が、その名前からして気になってしょうがなかった。
それというのも、クリスマス好きの少年にとって、それ系の音楽は「メサイア」しか知らなかったため、二匹目のどじょう的に、その雰囲気に浸れるのではないかと思いこんでいたのである。
そんな思いもいつしか忘れ、社会人になって、ふと見つけたのが廉価盤となったこちら。
ご丁寧に、クリスマス協奏曲までカップリングされていて、うれしさ倍増。
もう15年くらい前のこと。

いざ、聴いたらかなりユルイ音楽に、ちょっとがっかり・・・・。
でもそのユルサが毎年聴くうちに何故か、心地よくなってきて、今ではほのぼのと安らかに聴くことが出来るようになってきた。
ヴェンツィンガーとバーゼル・スコラ・カントゥルームの昔風のバロック演奏は、まさに今となっては、いにしえの響き。
おっとりと、ゆるりゆるりとやっております。いいもんだ。
加えて歌手たちの顔ぶれが素晴らしい。
ツィリス・ガラ、E・マティス、エスウッド、タピー等々で、みなさんオペラ的な歌唱で、朗々と歌っております。
 昨今の先鋭感ある演奏で聴くときっとイメージ一新なのだろうけど、ちょっとこわいものがあります。これはこれで、いつまでもとっておきたい世界かもしれない。

ネット調査によれば、このストラデッラという御仁。なかなかのスキャンダラスなおっさんなのである。
教会の金を使い込んだり、女遊びに興じたりして何度も逃亡している。
あげくには、、パトロンの愛人の音楽教師となったものの、しっかり手を付けてしまい、逃亡生活をすることに。やがて、それがもとで殺し屋に殺られてしまうというムチャクチャ人生。
 こんなおっさんのくせに、その音楽は抒情的で美しい。
合奏協奏曲の創始者ともいわれ、実績豊かな人だけに、その人生のギャップが楽しい(??)

かくなるうちに、もうじき日が変わる。
みなさん、よいクリスマスを

10 光都東京の続き。

15

千代田区の小学生たちが書いた明かり絵。
きれいです。
でも人も多いです。
ほぼ全員、カメラや携帯で撮りまくり。情緒ありません。
アタシもその一員
メリークリスマス。

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クリスマス・イヴにて候

1 昨日の休日に、一足早く我が家は、クリスマス晩餐会を催しました。

毎年、わたくしが料理します。

最初はかなり凝った料理を手間暇かけて作っていたけれど、ここ数年手抜き主婦ならぬ主夫になりつつある。

2 チキンは、丸のものを買ってきて、一昼夜漬け込む。
ワイン・醤油・みりん・香味野菜・りんごなどとともに。
チキンが残骸になったら、それとともに漬けこんだタレや具材とともにグツグツと煮込む。
それを、カレーとしてもよし、スープを濾してラーメンとしてもよし。
かなり楽しめるのでござるよ。

こちらは、ホタテのカルパッチョ。
赤いのは、完熟トマトで作ったゼリーソース。
この一品は、白ワインやシャンパンにぴったりよ。
3 これはですな、お茶漬けなのよ。
中に焼きおにぎりが入ってるの。
鶏もも、エリンギ、まいたけをローストして入れて、そこに出汁を振りかける。
仕上げに、スーパーで半額で購入した松茸を焼いたものを乗せてしまうのであった。
ウマイよ!

4 まだ数品ありますが、大盛りのため美しくなく載せません。
ツリーのようなポテトサラダと、白身魚の香味揚げなど。

こちらは、カミさんと娘がこさえたケーキ。
甘さも抑えめで、おいらにゃ立派な酒のアテでござるよ。

以上、音楽とは関係ないyokochanレシピでした

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2008年12月22日 (月)

プッチーニ 「トゥーランドット」 第3幕ベリオ版フィナーレ シャイー指揮

08 新宿のサザンテラス。
今年は、ブルーを基調とした美しいイルミネーションで多くの人が集まるようになった。
昨年は、グリーンだった。

ちょうど1年前の今日に画像をのっけてる。

1年はまったく早い。

Chailly_discoveries

今年は、ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)の生誕150年の年だった。
そして今日12月22日は、その誕生日である。
ちなみにワタクシは、プッチーニの100年後の11月21日が誕生日で、ちょっとだけ因縁を感じて嬉しくもあり。
 プッチーニは天才肌というよりは、音楽家の一族の中にあって、もって生まれた才能を開花させた作曲家である。
代々、故郷ルッカの音楽院の院長を務めあげる地場の著名家族であったが、オペラに目覚め、オペラ作曲家となったプッチーニは、一族の中で異端であったようだ。
時代がヴェルディの後継者を求めるのと同じくして、出版元のリコルディの戦略や名台本作家たちとのコラボに巧みに乗って、ヒット作を次々に繰り出した。

有名なオペラ以外にも、あまり上演されない愛すべきオペラや、管弦楽や声楽作品がひっそりと存在していたりする。
そのどれもが、プッチーニらしい美しい旋律と新鮮な筆の運びに溢れていて、放っておくには惜しい作品ばかりだ。
ことし、ほぼすべてのオペラを聴いて、その感を強くしているし、大いなる愛聴盤のシャイーの管弦楽曲集を聴けば今更ながらの感銘と納得感を得られる。

そのシャイーが、前作を補完するかのように、未開の作品ばかりを集めた1枚を録音している。「プッチーニ・ディスカバリー」と題された1枚。

1.管弦楽のための前奏曲        2.エッチュ・サチェルドヅ・マニュス
2.スケルツォ                9.サルヴェ・レジーナ
3.「マノン・レスコー」2幕前奏曲    10.アダージェット
4.カンタータ「戦いの音を止めよ」   11.レクイエム
5.軍楽隊のための電気ショック     12.ヴェクシラ
6.軍楽隊のためのシチリアの戦艦    13.聖パオリーノのためのモテット
7.ローマへの讃歌            14.「トゥーランドット」3幕フィナーレ
                               (ルチアーノ・ベリオ版)


     リッカルド・シャイー指揮 ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団
                         同           合唱団

リューの自害の歌から最後まで収められた「トィーランドット」が23分あまり。
あとは短い曲ばかりで、オーケストラ曲、吹奏楽あり、合唱曲、オルガン付き独唱曲、オーケストラ伴奏付き独唱曲ありと、バラエティ豊かな1枚は、そのほとんどが初録音。

未完に終わったため、アルファーノの補完による、虚しいくらいのハッピーエンドは、プッチーニの意図からは離れてしまったとする節が有力。
リュー亡きあとの悲しみに満ちた場面。小休止のあと、不協和音風の音楽が湧きあがり、一瞬ベリオっぽい雰囲気に包まれるものの、各所にアルファーノ版と同じメロディも聴かれる。プッチーニのスケッチ+アルファーノ版を両睨みにして作曲したのであろう。
シロフォンの活躍が目立つし、先鋭の度合が増しているが決して聴きにくい音楽にはなっておらず、晩年のプッチーニのオーケストレーション能力が相当な高みに達していたことを思えば、全然OKの響き。
リューの死がどこかへ追いやられ、能天気な結末になってしまったアルファーノ版との最大の違いは、やはりエンディング。
プッチーニの手で、スコアに「この先は、トリスタンのように・・・」記されたことを、ベリオは完全に意識して、口づけ後の音楽を愛の昇華と捉えているようで、その背景にはリューといういたいけない女性の犠牲もあるという、ほろ苦い結末とした。
だから、音楽は同じ「誰も寝てはならぬ」の旋律が繰り返されても、ゆるやかに回顧される雰囲気だし、やがて後ろ髪ひかれるように、静かに曲を閉じる。
これはこれで、立派な解釈であるし、名作トゥーランドットのもつ別の姿と思えば、充分に受け入れられるものだと思う。
 あまり知らない歌手たちによるものだが、いずれも立派なものだし、シャイーの指揮するヴェルディ響のしたたるような音には抗しがたいものがある。

他の諸作で気にいったのは、18歳の処女作「前奏曲」の明るく快活な響き。
絶対に成功しないと後がなく、入念に改訂されて、いまはその形がない「マノンレスコー」の前奏曲。
第三者の編曲だが、ボエームのアリアやカルチェラタンの音楽を楽しく聴ける「シチリアの軍艦」。
ソプラノとオルガンの宗教曲「サルヴェ・レジーナ」は、一幅のアリアのようで、極めて美しい。それもそのはず、「妖精ヴィッリ」に転用されている。
転用の得意だったプッチーニ、オーケストラ作品の「アダージョ」は、「エドガール」のフィディーリアの清楚で美しいアリアに使われている。この曲は素晴らしく美しいのだ!!
あと、ヴェルディの死を悼んで、47歳で書いたレクイエムは霊感はやや薄いが、そのモニュメント的なムードがいい。
バリトンの長大なアリアが聴かれるモテットも宗教曲らしからぬ音楽で、妙に気持ちがいい。

多作家ではなかったが、その作品を聴くほどに、理解が深まり、愛情も増してゆく思いだ。
これまで、散々音楽を聴いてきて、今年ほどプッチーニと、そしてR・シュトラウスを聴いた年はなかった。
ともにワーグナーの呪縛のもとにあったのも確かだが、時代を考えるとそのメロディストとしての立場は保守的だが、オーケストラの扱いや大胆な和声は今でもびっくりするくらいに新鮮なものだと思う。
プッチーニの音楽をこれからもずっと聴いていきたいな。
その同時代のイタリアオペラ作家と、なんといっても大御所ヴェルディを極めるという大命題もございます。
音楽・オペラ人生、やめられません。

 「新国立劇場 トゥーランドット公演2008」

15 こちらは、同じ新宿南口を西口に結ぶミロードの通路。

シルバー・ホワイトでキラキラ感がおさえられて、こちらもなかなかに美しい。

19
さらにその先を下ると、天井にはブルーのオーロラのようなイルミネーションが。

   

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2008年12月21日 (日)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ベーム指揮

Winter3 日本ではNHKが放送するのが冬とあって、この時期もバイロイトの雰囲気が楽しめる。
今年は、24日にリングから始まる。

私は年中だけれど、長大なワーグナー作品が連日流されるので、その録音にいそしむのも、冬の恒例行事となっており、途中休みもあるし、消してしまったものもあるけれど、もう30年もやっている。
カセットテープ時代は、時間配分を計算し、オートリバース機能のない頃などは、瞬時にテープを取り出し入れ替える超ハヤワザを誇っていたもんだ。
VHSビデオに録音したこともあったが、さすがに音が悪い。
今は、在宅していれば、CDレコーダーのハードディスクに収録するし、飲んだくれているときは、DVDのハードディスクにそっくり収めて、のちに編集するという方式が定着している。便利になったものだ。

問題は、年々ふくれあがる音源や映像を視聴するヒマがないこと。これ以上どうすんだ、って思うけれど、やらないと気がすまないからしょうがない。

Meistersinger_bohmバイロイト音源は、バイエルン放送局の存在が計り知れないほど大きく、いわば我々はNHKを通じタダでワーグナーの素晴らしさを50年あまりにわたって享受してきたわけであります。

どの作品の、誰の指揮で、何年もの・・・、まさにワインのように、その音源に憧れてしまう。
そんな筆頭が、「ベームのマイスタージンガー、68年もの」なんだ。

そんな希少音源をついにオルフェオレーベルが掘り出してくれた
まさに垂涎の思いで待ち焦がれた「ベームのマイスタージンガー」。GMなどでもステレオで出ていたが、我慢を重ね、まさに待っててよかったオルフェオ盤であります
これで、ベームのバイロイト録音がすべていい音で聴けるようになった喜びは大きい。

即買いしたが温存し、ついに聴きました。
先般の「カルロスのばらの騎士」と同じく、開封して超ワクワクしながらCDプレーヤーのスイッチを入れる。
そして、始まりましたよ。ハ長の明るい調和の調べが。
れっきとした分離のよいステレオで、バイロイト特有の木質感とピットの生々しい音のリアル感がたまらなく、そう、あの「ベームのリング」にも通じる響きなのだ。
Meister1 この前奏曲からして、金管がガンガン鳴って明るい色調丸出しのマイスタージンガー。
録音のバランスにもよろうが、ちょっと鳴りすぎかもしれない。
それでも、私はあのウィーンフィルとの75年来日のアンコール演奏を思いだしてしまった。テンポ感も音の響かせ方も同じなのである。
そのまま突入する教会の合唱、やはりバイロイトの劇場の響きがもっとも相応しく、ウィルヘルム・ピットの君臨した合唱団の威力は素晴らしく、柔らかな教会の合唱から、人々の喧噪、ザックスを称える勇壮な場面、そしてラストの感動的な場面と、市民がもうひとつの主役であることを強く印象付けるものだ。

 話をベームに戻せば、その音色の明るさは明晰さにつながるもので、音塊は混濁せず、どこまでもクリアー。
それこそ何度も書いてきたことだが、戦後新バイロイトのヴィーラント・ワーグナーが音楽面で目指した音の体現者のひとりがベームだったわけで、「モーツァルトの目を通してワーグナーやシュトラウスを見る」といわれたように、明快でもたれないワーグナーは今でも主流の演奏スタイルになっている。
 そのヴィーラントは、マイスタージンガーの演出ではあまり成功を勝ち得ず、その指揮はクリュイタンス、クナッパーツブッシュ、シッパース、ラインスドルフ、クリップスらで、クリュイタンスを除くと音楽面でのパートナーには恵まれていなかった。
ただ64年の数公演だけベームも指揮をしているようだが、それがどんな演奏であったか気にかかるところ。
 ヴィーラント亡きあと、ウォルフガンクはより具象性のある舞台でこそ映える「マイスタージンガー」の新演出を打ち出し、ベームが68年の初年度に登場した次第。
ベームはこの1年で降りてしまい、以降はクロボカール、ヴァラット、ヴァルヴィーゾ、ホルライザーと地味な職人指揮者の手にゆだねられようになった。
74年のヴァルヴィーゾは素晴らしく、フィリップス録音がなされたが、68年のベームもDGによってライブ録音が予定されていたものの、ザックス役に予定されたワルター・ベリーの降板で流れてしまったのは有名なおはなし。
降り番だったテオ・アダムがすべてを歌ったが、当時の東独との政治関係から正規録音が流れてしまったのであろうか・・・・。

Meist6 ベームのライブ感あふれる感興豊かな指揮は、時おり唸り声もまじるくらいに熱いもので、煽ってテンポが先走ってしまうケ所もあってご愛嬌なくらい。
1幕のヴァルターの試練の歌の伴奏部分における細やかさ、2幕のザックスのモノローグにおける夜の甘い香りを感じさせる静けさと諦念、そしてベックメッサーとザックスのやり取りの巧妙さと、喧噪へと徐々にひた走る盛り上げのうまさ。
3幕のこれまたザックスのモノローグ、「ヨハンネス・ターゲ・・・」のアダムの歌とともに感動的な瞬間が訪れる。
ラスト大団円、「親方たちをさげすんではならぬ・・」では格調高い音楽が、ジワジワと、まばゆいばかりに輝きを増してゆき神々しく曲を閉じるとき、さらなる感動でいっぱいになった。

 ザックス :テオ・アダム      ポーグナー:カール・リッダーブッシュ
 コートナー:ゲルト・ニーンシュテット ナハティガル:ディーター・シュレンベック
 フォーゲルゲザンク:セヴァスティアン・フェイエルジンガー
 ベックメッサー:トーマス・ヘムスレー  ツォルン:ギュンター・トレプトゥ
 エイスリンガー:エーリヒ・クラウス    モーザー:ウィリアム・ジョーンズ
 オルテル :ハインツ・フェルドホフ    シュヴァルツ:フリッツ・リンケ
 フォルツ  :ハンス・フランツェン      ヴァルター:ヴァルデマール・クメント
 ダーヴィット:ヘルミン・エッサー     エヴァ   :グィネス・ジョーンズ
 マグダレーネ:ジャニス・マーティン   夜警    :クルト・モル

    カール・ベーム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
                 合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ
                 演出:ウォルフガンク・ワーグナー
                            (68.7.25 バイロイト)

私のような世代にとって懐かしい思いで、眺めてしまう素晴らしいキャスト。
トレプトゥ、W・ジョーンズ、エッサーなど他の劇場ではジークムントやトリスタンを歌っているような歌手だし、リッダーブッシュは後に素晴らしいザックスに、モルも名ポーグナーになってゆく。G・ジョーンズマーティンも後には、ゼンタやブリュンヒルデなのだし。
そんな楽しみをもってこれら歌手たちの歌声を堪能した。
なかでは、アダムの定評あるザックスが一番安定しているが、私にはちょっと声が明るく感じなくもない。その一方のリッダーブッシュの深々とした美しいバスが相変わらず素晴らしい。
あと、カラヤンとの共演で、リリカルなばかりのイメージをもっていたクメントが、なかなかに力強い声で驚きだった。声のイメージは、イェルサレムとケルルとヴンダーリヒを合わせたような感じ。
Meist8 あと、若いG・ジョーンズの輝きある声は、かなり好きだ。いろいろ言われちゃう声だけれど、私は彼女のブリュンヒルデやクンドリー、イゾルデの諸役は、ことその中音域の素敵さで参っているのだ。
力強く小回りのきかないダーヴィットになってしまったエッサーは声が立派すぎて、ヴァルターとの対比がいまひとつかもしれなし。
ヘムスレーのベックメッサーは当時評判だったようで、この英国歌手はクーベリックの録音でも登場しているし、ブリテンのオペラなどにもその名を見出すこともできる。
なかなか個性的でユニークな声はヒステリックで独善的なベックメッサーを歌い出していて面白い。

こんなわけで、待望のベームのマイスタージンガーを大いに楽しんだ次第であります。

「マイスタージンガー」の過去記事

  ハイティンク指揮  コヴェントガーデン97年盤
  
クリュイタンス指揮  バイロイト57年盤
  ヴァルヴィーソ指揮 バイロイト74年盤
  ベルント・ヴァイクル

2_2 千葉の中央公園。
東京に比べれば寂しいけれど、一応政令指定都市だし、イルミンーションも毎年、そこそこに美しいのであります。

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2008年12月20日 (土)

ブルックナー 交響曲第2番 ヴァント指揮

2a  隅田川にかかる「永代橋」。

調べによれば、この橋は元禄時代綱吉の時代に架けられた由緒ある橋。

美しいアーチの流れるような姿は、ブルーにライトアップされ、揺れる川面も美しく、背景の佃島の高層マンション群との対比もいい。
トレンディードラマのシーンをいくつも飾った場所でもありますな。

ブルックナーのシリーズ。ショスタコと併せて、その交響曲第2番を聴いてしまおう。
何度も書きますが、ブルックナーの日蔭者のようなマイナー番号がたまらなく好き。
1・2・6番の3兄弟は、ともにブルックナーの中でも最美ともいえる緩徐楽章をもっていて、それだけを日曜の晩寝る前などに、しんみりと聴いたりすると、眼前に山々や田園風景が広がって、とても心が安らぎ、嫌な月曜日の目覚めもよろしい。
ヒーリング音楽というわけではないが、自然と宗教に根ざしたブルックナーの音楽の真髄的な部分だと思っている。

Sym2_want 1872年、ブルックナー48歳の作品で、翌年初演されたもののすぐに改訂し、さらに77年にも第2稿が出版され「ノヴァーク版」のもととなっている。
さらに、後年92年にも手を入れて出版されていて、悩めるブルックナーの典型的な作品となっている。さらにややこしいことに、「ハース版」も存在するという複雑な第2番なのである。
例によってトレモロのブルックナー開始でスタートする第1楽章から、とても詩的な音楽だ。おおらかでリズミカルな第1主題が、休止によって一斉に止むと、緩やかな第2主題がチェロで始まり、やがて弦の刻む印象的な音型のうえに木管が美しく歌い始める・・・。
次々に魅力的な場面が管に弦に繰り広げられる。
約20分間にわたってこうした素晴らしい楽想が、橋渡しされるように流れては消えてゆく。
 そして、魅力的な第2楽章アダージョは柔和な祈りに満ちた賛美歌のようである。
後年の深みに満ちた荘厳なアダージョ楽章ではなく、ここには愛らしささえ漂う純な祈りの気分と鳥のさえずる緑豊かなアルプスの自然が横溢している。
 無邪気な農民の踊りてきな3楽章。まさにブルックナーのパターンである。
かなり速くと指定されたフィナーレは、少しも速くなくて、あわてず騒がずの宗教音楽のようである。正直、1・2楽章とのギャップを作品的に感じるけれど、ミサ曲ヘ短調のキリエの主題が神々しく登場するとなかなかに感動するものだ。

なかなか不人気だったこの2番も、近頃はCDや演奏会にも登場するようになった。
先頃のウィーンフィルの来日公演でもムーティが取り上げたので、お聴きになった方も多いのではなかろうか。
私は古い演奏ばかりを聴いているから、最近のCDはまったく未聴。
シャイーやミスターS、ヤング、デイヴィスなど気になるが、きりがない。
私の刷り込みは、スウィトナーとN響のライブ放送とジュリーニ、シュタイン、そして今日のヴァントとケルン放送響の演奏である。
 ハンブルクに赴く前の81年の録音で、神々しさよりは、自然に任せた伸びやかな演奏で、ケルンの西部ドイツ風な明るい色合いが、ハンブルクのそれとは違って、味わいが深い。若杉氏やベルティーニが振っていた頃の、この機能的なオーケストラは、ヴァントとともに活気と若さに満ちたブルックナーを演奏した。
この頃のヴァントも良かった。
ハルモニアムンディの廉価版でレコード発売されたおりに、全曲を揃えて1枚1枚楽しんで聴いたものだ。

過去記事
 「ジュリーニ&ウィーン響」

4 永代橋から体を反転させると、清州橋が見える。
東京の川に架かる橋は、どれも美しい。

 

Photo しまった

ブルックナーに蕎麦のシリーズだった。
思い出したように貼り付けたのは、銀座の老舗「吉田」のおろしそば。

山盛りのおろしがすごい。
ここは銀座だけど、安くてうれしい。
芸能人もよく来る。
私は、至近で吉本多香美さまを拝見しました。
ウルトラマンの娘さんですな

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ショスタコーヴィチ 交響曲第2番「十月革命に捧ぐ」 ヤンソンス指揮

1 久しぶりに家に帰ってきた土曜日。
今日こそ帰るぞと思い、意思を強~うして飲み始めるのだが、気が付くと終電のデッドラインに。
私の場合、少し遠いものだから、東京駅を11時過ぎには出発しないと、先の乗り換えにたどりつかないのであります。

そんな訳で、お家が恋しかった今週は、お疲れムード。
そんな気分に鞭打つように、ショスタコーヴィチを聴こうじゃないか!

こちらは、香港かと見まがう横浜中華街の様子。

Shostakovich_sym2_jansons ショスタコーヴィチ交響曲シリーズ、本日は第2番「十月革命に捧ぐ」
青春の香りも横溢した若書き第1番に続いて2年後、1927年に書かれたこの第2交響曲は、単一楽章で、後半に合唱が入る意欲作。
レニングラードとモスクワでは、ヨーロッパへの立ち位置が異なる。
当時レニングラードで活躍を始めたショスタコーヴィチは、その街の現代音楽協会に属し、ヨーロッパの音楽動向を積極的に吸収していたようである。
古典的な1番に比べて、かなり前衛的な作風で、オーケストラだけによる前半部分は、のちの第4番をも上回る刺激的な音に満ちていて驚く。
混沌とした出だしのモヤモヤから、じわじわと盛り上がりなかなかに濃い雰囲気の無調風音楽になってゆき、大いに耳がそば立ってくる。サイレンも使用されているが、このCDでは金管が代用している。
こいつはおもしれぇやと思っているうちに、第二部の合唱部分になる。
 ところが、ここからがどうにもいけない。
音楽は明るめの調性音楽になり、朗々とした合唱の伴奏と化してしまう。
どこへいってしまったあの前衛ぶり・・・・・。
 おまけに、歌詞を拝見してしまうと、思わず赤面にてしまう、まさに赤軍的な大讃歌なのであるよ。

 「闘争!君はわれらに労働の勝利を与えた・・・・、
 10月、これは畑と機械の幸福・・・・・、
 10月、コミューン、そしてレーニン!」


若気の至りか、若いころに声高に主張したものは、のちに長じて見つめてみると、気恥しくなるものだ。ショスタコーヴィチも同様の内容をもつ第3番とともに、この曲は演奏してくれるなと言っていたらしい。

ヤンソンスは、大真面目にこの短い作品に取り組んでいる。
バイエルン放送響の機能的なアンサンブルを駆使した、第一部は、聴きごたえ充分であるが、同様に素晴らしい能力を持つ合唱団をもってしても、第二部は虚しく響くのみであった。まぁいいか。
18分の不思議体験であります。

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2008年12月19日 (金)

私の好きなオペラアリア ソプラノ編

2 テノール・アリア編での、オリエンタルハヤシに続いて、オリンタルカレー。
オリエンタルは、私の子供時代に、テレビでさんざんコマーシャルが流れていた。
6時だか7時ころの、子供のマンガの放送のコマーシャルがそれ。
一番覚えているのが、松尾嘉代さんの「オリエンタル・マース・カレー」と南利明さんの「「オリエンタル・スナック・カレー」。
改めて、こちらで見れます。

1 粉末のルーだから、とっても簡単。
約100円で、野菜と肉をうまく調達すれば、ワンコインでカレーが誰でも簡単に作れちゃう。
本格的な味を期待しちゃだめ。
給食風・お子様風の味は懐かしさに溢れております。

名古屋郊外や高速のSAには、オリエンタル直営のカレーショップがあるらしい。

Schwarzkopf 私の好きなアリア。
ソプラノ編まいります。

ワタクシ、男子ゆえ、さすがにこれらのアリアは一緒になって歌えませぬ。
悔しい限りであります。

思えば、作曲家のほぼ98%が男性で、台本作家もほとんどが、男性。
そんな男諸衆が、女性の気持ちを思い作曲したわけだが、考えてみたら勝手な話である。
だいたい、自己犠牲ばかりを強いる身勝手極まるワーグナーに女心なんてわかるはずもない。
でも、モーツァルトやプッチーニ、R・シュトラウスは女心をしっかりと掴んでいたように思えるけれど、それもまた男子たるワタクシの一方的な思いなのでしょうか?

 1.ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」~「愛の死」 ニルソン
 2.R・シュトラウス 「ばらの騎士」~モノローグ シュヴァルツコップ
 3.プッチーニ 「ジャンニ・スキッキ」~「私のお父さん」 ポップ
 4.プッチーニ 「ラ・ボエーム」~「私の名前はミミ」 フレーニ
 5.モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」~「あの恩知らず・・」 シュヴァルツコップ
 6.ヴェルディ 「ドン・カルロ」~「世の虚しさを知るもの」 テバルディ
 7.R・シュトラウス 「アラベラ」~最終幕 デラ・カーザ
 8.R・シュトラウス 「カプリッチョ」~最終幕 ヤノヴィッツ
 9.プッチーニ 「修道女アンジェリカ」~「母もなく」 ドマス
10.ワーグナー 「タンホイザー」~2幕エリザベート命乞い デルネッシュ

当然10曲では治まらないのが、わたくし。

11.レハール 「メリー・ウィドー」~「ヴィリアの歌」 シュヴァルツコップ 
12.ヴェルディ 「リゴレット」~「慕わしき名」 N・デッセイ
13.チャイコフスキー 「エウゲニ・オネーギン」~「手紙の場面」 フレーニ
14.シャルパンティエ 「ルイーズ」~「あの日から」 テ・カナワ
15.J・シュトラウス 「こうもり」~チャルダッシュ シュヴァルツコップ 
16.ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」~「亡くなった母を」 テバルディ

あれ、16曲になっちゃった。
まだまだたくさん。モーツァルトやプッチーニはそのどれもが捨てがたいし、ヴェルディも欲しい。ワーグナーはやはり全体として捉える芸術だから、歌だけ取り出すのが難しい。
ブリュンヒルデの自己犠牲は、最高傑作ではあるが長大すぎてここにはそぐわない。

この中から、1曲取り出せと言われたら・・・、「私のお父さん
短い中に、恋人への思いと父親への思いを見事なまでに歌いこめた名アリアだと確信している。
そして、誰もが好きになってしまう名旋律でありましょう
あぁ、感激。
娘にいつかこんなことを言われたらどーしましょう

追記)
今回記事は、先週末に書き溜めしたものでございます。
連日の酒気帯びに、さすがにわが強靭(と思われますが)なる肝臓も悲鳴をあげつつあり、なにより数日家に帰れない状態・・・・。
自宅のベットが恋しい、金曜の晩にてございます・・・・・。

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2008年12月16日 (火)

モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 新国立劇場

Don_giovanni国立劇場オペラ公演「ドン・ジョヴァンニ」を観劇。
平日月曜の白昼という大胆なチケット選択である。
午後休みを取って万全を期したものの、何となく後ろめたい気分は平日マチネーの宿命。
それでもほぼ満席で、こっちは青色吐息のなか不安を抱えつつ駆け付けたのに、皆さんにこやかで余裕の表情。世の中は広いし、東京は人間の層が厚いね。

今回はアサガロフの新演出によるプロダクションで、この演出家は「カヴァレリア&パリアッチ」についで2度めの体験。
オーソドックスで正攻法の演出イメージと装置や衣装の鮮やかな色使いが印象に残っている。
今回のドン・ジョヴァンニも総体として、同じ印象で目新しい解釈や奇抜な装置のない、ある意味誰でも安心して楽しめる美しい舞台だった。
時代設定は、モーツァルトの時代くらい、舞台はゴンドラで、ドン・ジョヴァンニとレポレロがすぅ~っと登場するし、その背景の街並みから、ヴェネチアではないかと推測。登場人物達が付ける仮面も謝肉祭風だし。振り付けや劇への解釈が普通だから、どこがどう、といったことが書きづらいけれど、思いついた場面だけを羅列するに留めます。

序曲から幕が開きドン・ジョヴァンニ主従が現れ、右手階段に主人は消える。
バタバタと仮面を付けたドン・ジョヴァンニを追い掛けるドンナ・アンナに優しく口づけする。これにより、ドン・ジョヴァンニの夜這いの顛末はご想像にお任せ・・・・という次第。
Ki_20001639_8「女のにおいがするぞ」のセリフには毎度笑ってしまうが、今回は舞台に架けられた橋の上から下を覗き込んでのもの。この橋が、屋敷の二階の回廊になったりもして上下の空間を各所でうまく活用するツールとなっていた。
ドンナ・エルヴィラに主人の武勇伝を聴かせるレポレッロのカタログの歌の場面では、巨大な女性(金髪)の少しリアルな人形が降りてきて、それをドン・ジョヴァンニが二階から操るという細工が施された。この人形、イメージとして観客にだけ見える設定ではなく、レポレッロはスカートに中に入ってしまうし、エルヴィラも興味深く触ってみたりで、実在として登場した。この人形は、最後の幕切れでその意味の種あかしがあった。
ツェルリーナとマゼットの村の集いの場面は、それこそ色とりどりの、鮮やかな衣装の男女が、回転木馬で戯れている。
Ki_20001639_10 その木馬、ブラック&ホワイトのチェスのナイトで出来ている。紳士であるはずの騎士の象徴としてのパロディであろうか。ツェルリーナもマゼットも立派な騎士様だから大丈夫、と今は安心してしまう。
ドン・ジョヴァンニの「シャンパンの歌」は、衝立の壁が降りてきて舞台前面だけが仕切られた状態で歌われる。ここでの急速テンポぶりは、野放図なドン・ジョヴァンニの性格を浮き彫りにしようとの意図であろうが、何故かガッロの声が二重にハウリングを起こしたように聴こえたのはどうしたことだろうか?舞台を仕切ったゆえの響きか?
後でこうした設定で、他の女声たちが歌ったが全然普通だった・・・・。
被害者3人(ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオ、ドンナ・エルヴィラ)がマスクを付けて、宴会に潜入するが、黒いマントに白いマスク、そのいでたちは、まさにヴェネチアのもの。
エルヴィラの館の前で、衣装を取り替えっこする主従。
その背景は、とても美しい森が描かれていた。主人の声で、その演技指導を受けつつエルヴィラに謝罪して取りいらんとするレポレッロ、このやり取りに観客から笑いが。
その森は縦に数枚用意された木を描いた大きなつい立てだが、それが前後互い違いによく動いて、迷路のような仕掛けとなって、数人の登場人物たちが出たり入ったり。
裏切られたことがわかっていながら、揺れる女心を歌い出したエルヴィラの名アリアでは、彼女はレポレッロが残していったドン・ジョヴァンニの帽子を抱えながら歌う。
ミコライの名唱とともに、印象に残る場面だった。
Ki_20001639_12_2騎士長の立像のある墓地では、真中にまっ白い騎士長が立ち、左右に先のナイトが並ぶ。空には満月が浮かんでいて、とても美しい舞台を作りだした。
ドン・ジョヴァンニの邸内。長いテーブルで、フルーツを頬張り、キジのグリルにうまそうにかぶりつく主従。楽士たちも律儀に並んで演奏していて、レポレッロから報酬をもらったりしている。このあたりは、今風に芸がリアルで細かい。
エルヴィラが思いなおすように飛び込んでくるが、ここで唯一、女性を押し倒すような動きをようやく、というかやっと見せるドン・ジョヴァンニ。
無謀でハレンチぶりを強調する演出が昨今多いなか、口ばかりで行動は意外と紳士的だった今回のドン・ジョヴァンニ。日本の保守的な聴衆を意識したのか。
騎士長の来訪は、お馴染みの二階部分に。
舞台右手で、両足を貧乏揺すりで震わせるレポレッロ。なかなかの恐怖感が出ている。
ドン・ジョヴァンニは軽やかにテーブルの上に飛び乗り、騎士長と対峙する。
手を握るのは、二階からだから届かず、身振りだけ。
Ki_20001639_13_2  ドン・ジョヴァンニの地獄落ちは、テーブルがしずしずと舞台の下、文字通り奈落に沈んでゆき、そのテーブルのうしろから、白い手が数本にょきにょきと出てきて、地獄へいらっしゃ~いムードが満載になるし、背景の舞台装置が逆に上へ昇ってゆくので、その落ちゆくさまがなかなか効果的になった。
何もなくなった舞台に6名の登場人物が集合。
先の奈落から、今度は騎士長の立像が不在の墓と、レポレッロのカタログ、ツェルリーナの結婚祝いのブーケ、ドンナ・アンナの下着風な黒いもの(だと推察?)が上がってきて、それぞれ該当する人物たちが手に取って歌う。
そして、例のデカイお人形さんも再登場。今度は首ももげ、ぐったりくん状態で。
これによって、希代の色事師ドン・ジョヴァンニの消滅が象徴され、被害を受けた女性たちも戻るべき先・治まるべき先を見出す、といったところか。
 皆が左右の出入り口に消え、フィナーレの音楽が奏されるなか、ひとりレポレッロはカタログを手に、そしてパラパラとそれを落としてこちらに背を向けて幕となった。
レポレッロは、新しい主人をまた見つけ、まだまだドンファンはどこかで活躍しますよ・・・・。

大胆で大掛かりな解釈こそなかったものの、なかなかピリっとした締まった舞台ではなかったでしょうかね!

 ドン・ジョヴァンニ:ルチオ・ガッロ   騎士長:長谷川 顯  
  レポレッロ:アンドレア・コンチェッティ ドンナ・アンナ:エレーナ・モシェク
 ドン・オッターヴィオ:ホアン・ホセ・ロベラ ドンナ・ルヴィラ:アガ・ミコライ
 マゼット:久保 和範          ツェルリーナ:高橋 薫子

  コンスタンティン・トリンクス指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                      新国立劇場合唱団
              演出:グリシャ・アサガロフ
                      (12.15@新国立劇場)

歌手は過不足なく、いずれも満足。
なかでもやはり、タイトルロールのガッロの存在感の大きさが光る。
「西部の娘」での憎々しい悪漢保安官が今でも脳裏にあるが、その豊かな声量と表現力の強い歌唱は舞台映えする姿とともに、今回も忘れられないものとなるであろう。
アバドのフィガロでの素直な歌唱から、さらに進化した性格バリトンで、来シーズンのオテロあたりにも是非出て欲しいものだ!
Ki_20001639_2  あと、私が気にいったのが、ミコライのエルヴィーラ。広い音域を要求され、いつも怒っているようでいて、愛憎半ばする難しい存在であるが、そのあたりを確かな歌唱で、かつ美しい声によってきれいに歌っていた。ポーランド生まれの彼女、ヨーロッパではかなり活躍している様子で、覚えておきたい存在。
 それと我が日本人の3人。外来客演陣にひけをとらないばかりか、それをも凌駕する実力ぶりを発揮していてうれしい限り。
高橋さん夏に素敵なラウレッタを聴いて気になっていた存在。モーツァルトが描いた、かわいいスーブレットの理想的な歌唱で、声も安定してよく出ていて見事。
ドン・ジョヴァンニがしつこく狙うのもわかるというもの。
シュトラウスのダナエで素晴らしかった久保さん、寝そべりつつ、駄々をこねつつ、いい声でした。いい声といえば、長谷川さんもだけど、ちょっと疲れていたかしら。
もう少し、デモーニッシュな迫力が欲しかった。
今年のヴィオレッタを歌ったモシェク、絶妙のピアニシモと見事な高音を惜しげもなく聴かせてくれて、新国の聴衆にその名を刻みつけたにちがいない。
 アバドやムーティとも共演のあるコンチェッティのレポレッロ、最初は声が届かなかったし、固い声かと思っていたら、徐々にエンジンがかかり、自在な演技も加わって若々しいレポレッロとなった。
甘口のテノール、コロンビア生まれのロベラはおそらく逸材であろう。きれいな声は、きっとベルカントものに絶大な力を発揮するであろう。(ドイツものの私には甘々で、ちょいと苦手かも)
あいや~、歌手べた褒めすぎか。

この歌手陣を引き立てたのが、33歳の若手、ドイツのトリンクスの指揮。
この人は大野和士のアシスタントを務めたこともある実力派で、はやくもダルムシュタットの音楽監督就任が予定されているという。
緩急を自在につけ、かなりドラマテックなオーケストラ。世代や経歴からして、ノンヴィブラートの古楽奏法も身につけているようだが、今宵はそうした傾向は多少感じられたものの控えめ。でも、名アリアの数々でのニュアンス豊かな伴奏のつけ方には印象的な部分が多い。ツェルリーナの「ぶってよマゼット」におけるチェロのオブリガートソロをかなり強調した場面など美しかった。その反面、先にあげたように、猛スピードで走る場面もあって、おや、っと思わせるところもあった。
全体をしっかりまとめ上げるというよりは、部分部分を美しく、そして面白く聴かせるような演奏に感じた。
ちなみに、チェンバロを弾きながらの指揮でありました。

1 劇場をあとにしつつ、やはり痛感するのは、モーツァルトの音楽の素晴らしさ。
人間の持つ多面的な心情が、愉悦と笑い、そして深刻さの中に見事に描きだされている。
深いものだ。

今年の最後のオペラにして、最後の演奏会(たぶん)でした。

来年はどんなオペラが観れるのかな?
というより、こんな世の中で、オペラやコンサートが引き続き楽しめるように切に願いたい。
4





 

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2008年12月14日 (日)

R・シュトラウス 「英雄の生涯」 メータ指揮

2 富士山の頂き部分。
今年の雪は多く、白い部分が下まで広がっている。

こちらは、先週、神奈川の実家から沼津まで車で足を伸ばし、沼津港から撮影したもの。

富士山の頭に雲がかかるると、その日は風が強くなる。
子供の時からそう教えられ、実際そういうものと経験してきた。
この日も例外でなく、北風の強い寒い一日であった。
おかげで、山以外は雲が吹き飛ばされて青い空との対比がとてもきれいだった。

R・シュトラウス(1864~1949)の作品シリーズ。
あまりに有名な、交響詩「英雄の生涯」をば、聴きます。
一般にはオーケストレーションの巧みな作曲家として、交響作品が有名なシュトラウスではあるが、その魅力の真髄が、オペラや声楽作品にもあることに気づいてしまってオペラ中心の聴き方になってからというもの、かつてのオーケストラ名作の聴き方も変わってきたように思う。
豪奢で聴き映えのする部分から、若いのに過去を振り返ったり、達観したりする緩やかで静かな部分に心が惹かれる。
かつて親しんだ名盤も、そんな気分で聴けば全然違って聞こえる。
シュトラウスは、本ブログでも何度も書いているとおり、15作あるオペラの前に、そのほとんどの管弦楽作品を書き尽くしてしまった。
オペラが必要とすること。その素材である劇作選び、そしてオペラに向けた台本制作、作曲とオーケストレーション、初演に向けて劇場選択と歌手・指揮者・オケへの落とし込み。
こうした経過を考えると、いかに人と金がかかることか!
器楽やオケ作品からスタートし、やがてオペラに向かっていったシュトラウスの作曲家としてのステップアップは、大いに頷けるものだとと思う。

「英雄の生涯」は、1898年の作曲、翌年の初演。
最後の交響詩で、後年作曲した有名どころのオーケストラ作品では、家庭交響曲とアルプス交響曲のみ。
一方でオペラは、第1作「グンドラム」のみで、あと14作も残すことになる。
シュトラウス34歳である。

Heldenleben_mehta_lapo ズビン・メータは、R・シュトラウスのオーケストラ作品の演奏においてはデビュー時より、第一人者で、ほぼすべての作品を録音してきている。
なかでも、「英雄の生涯」はもっとも得意にする作品で、68年、81年、92年とほぼ10数年置きに録音してきており、オーケストラも異なっていて、それぞれ、ロスアンゼルス→ニューヨーク→ベルリンといった具合に、確実にステップアップしてきている。
ちなみに、私は2005年のバイエルン国立歌劇場との来日でのオーケストラコンサートで、この曲を聴いているから、40年に渡っての「メータ・英雄の生涯」を確認することが出来ているわけだ。

ロスフィル盤は、オーディオ面でもあまりにも有名なツァラトゥストラのころの録音ながら、その鮮烈さにおいては少しも負けていない演奏となっていて、相当に雄弁で、32歳の録音と聴くとあまりにも大人びているし、生意気な小僧とも思ってしまう。
ところが、ロスフィルの覇気に満ちた響きは、カリフォルニアのあっけらかんとした幸せなムードを醸し出していて、ウェストコーストのパームツリーのもとで、ゴージャスな年金生活を送らんとする余生が見えてくる。手にした酒はウィスキーのソーダ割りだ。
音のリアルさでは、他の2盤とは群を抜いているし、音楽の造りがデカイ。
デッカの録音もあって、マルチ的にすぎて潤いが足りないが、今の閉塞感漂う世の中にあっては、心頼もしい演奏である。

Heldenleben_mehta_nypo CD時代になって発売されたこちらは、ニューヨークフィルとのもの。
1枚のCDでこれ1曲。
いま思えば贅沢極まりない。当時3800円もした。
若いサラリーマンにとってあまりにも高かった。
ところが今や、ロンドンレーベルから、ロスフィル盤がツァラとカップリングされて1枚1000円を切ってしまうとんでもない飽食・飽聴の時代なのだ。
 メータ45歳、脂の乗りきった年代で、ニューヨークでさらにひと花咲かせようと張り切っていた時代だろう。
タメが大きくなって恰幅が豊かになり、旋律の歌い回しにも工夫が見られる。
でも全体に落ち着いたムードで、意外と渋くまとまっていて、こんなニューヨークフィルの音も私は好きだな。
マンハッタンの摩天楼で、眼下に街を見下ろしながらドライマティーニを飲んで、西海岸の若い頃の業績を回顧する図である。

Heldenleben_mehta_bpo

ニューヨークを去ったメータは、活動の拠点をヨーロッパに移し、従来のイスラエルを始め、フィレンツェでのオペラ、ニューイヤーコンサート、ベルリン、ミュンヘンとオペラとオーケストラ、双方を両立させた活躍を始めることとなる。
 91年ベルリンフィルとのライブ録音は、ソニーに同オケと再録音しはじめたシュトラウスシリーズの一環。
この頃は、カラヤンが亡くなってすぐの頃だし、朋友アバドも就任したばかりで、オケの音色は、まだまだカラヤンの残影を引きずっている。
その出だしから、少し明るめでゴージャスな響きに耳がそば立つ。低音の厚みは底知れないほどだし、どこまでも伸びゆくヴァイオリンのクリアーな響きもすごいものがある。
テヌートぎみな弦の刻みもカラヤンが残したオケの足跡か。
メータは、そんな超優秀なベルリンフィルに乗っかってしまって、豊穣極まりないシュトラウスサウンドに酔いしれながら指揮をしている感じ。
55歳にして、ヨーロッパに返り咲き、オペラ指揮者としても経験を積みつつあったメータ。
「英雄の伴侶」の恋物語でのしたたり落ちるような美音と歌には、完全にやられてしまった。同様に「英雄の業績」から「英雄の引退と完成」は、実にしみじみと、これまでにないくらいに落ち着いた響きを聴かせる。
コールアングレの音色に聴かれるのは、まさにヨーロッパの自然そのもので、メータはついに自分の音楽のルーツ、ヨーロッパの音色を手にした。
 フルトヴェングラーやカラヤン、そしてシュトラウスが指揮したウィーンやミュンヘンのオケに囲まれながら、音楽の殿堂に身を置き安住の場所で黄金色に輝くワインを手に余生を送るの図。

 ロサンゼルスフィル盤 68年 (45’50)
 ニューヨークフィル盤  81年 (46’58)
 ベルリンフィル盤    91年 (47’10)
 バイエルン国立歌劇場  2005年 サントリーホールにて

ミュンヘンのオケとの演奏会は、実に素晴らしかった。自在で達観したかのような演奏で、柔らかくすっきりした響きがホールを満たした。フライングブラボーがあったけれど、アンコールはカルロスを思い起こさせるように「こうもり」を爽快に演奏した洒落たコンサートにメータの円熟を聴いた。

以上、メータの「英雄の生涯」の歴史、オシマイ。

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沼津港にて

7_2 先週の風の強い日の沼津港。
「びゅうお」という施設からの眺望。

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港のそばには、観光を意識しつつの市場がある。
寿司屋さんや、定食屋さんもたくさん。
なかでも、私の好きな「丸天」本店がうれしいね。

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2008年12月13日 (土)

プッチーニ 歌劇「エドガール」 フェロネージ指揮

3 横浜みなとみらい、ランドマークタワー、ガーデンスクエアにあるツリー。

クリスタルかつメタルなツリーに、週末に今年も雪が降り注ぎます。

お誘いあわせのうえ、お越しください。

と、宣伝しておこう。

FMヨコハマの携帯サイトに会員登録しておくと、誕生月に展望フロア「スカイガーデン」が無料で入場できる。
おまけに、エフヨコステッカーがもらえちゃう。
お連れ様も割引になっちゃう。
私は、その展望フロアから、番長・三浦大輔が留まった横浜スタジアムを息子とともに、感慨深く眺めたものだ。律儀な男三浦!

Edgar_veronesi

プッチーニ(1858~1924)全オペラを取り上げるシリーズ。
3部作を1作と考えると、全部で10曲のオペラを残したプッチーニ。
作曲順に、「妖精ヴィッリ」「エドガール」「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「ラ・ロンディーヌ」「西部の娘」「三部作」「トゥーランドット」。

いずれもプッチーニらしい美しいメロディに溢れた名作で、第1作から、未完の最終作まで、どこをとってもプッチーニの個性があふれてる。

ただし、現在舞台に頻繁にかかる名作とそうでない作品とがはっきりと別れてしまっているのも事実。
後者のマイナーな作品でいうと、「ヴィッリ」「エドガール」「ラ・ロンディーヌ」の3作。
この3作に聴かれるプッチーニの音楽は、有名オペラに負けじ劣らず、本当に素晴らしく、かつ愛らしいもので、その旋律美には抗しがたいものがある。
 では何故、舞台にかかりにくいし、その録音も少ないか。
それは一にも二にも、原作及び台本の弱さに起因している。
ロンディーヌはともかくとして、初期2作の陳腐なドラマと、その脈連性を欠いた唐突ぶりにはへたすりゃ噴飯ものである。
この2作は、ともに、ガブリエル・フォンターナの台本で、次作「マノン・レスコー」からは紆余曲折があったものの、イッリカ&ジャコーザという名コンビを得て名作の森を築きあげることとなる。プッチーニの音楽の熟達もあったのであろうが、やはりオペラには有能な台本があってこそ名作が成り立つというもの。

「エドガール」の原作は、フランスの詩人ミュッセの「一寸先は闇」という詩劇で、チロルを舞台にした、メリメの「カルメン」のような作品。すでにビゼーが成功をおさめている題材に魅かれたのであろうか、フォンターナはその台本を作成し、プッチーニに届けた。
舞台は、チロルから、ほの暗いフランドル地方に置き換えられている。

第1幕
 居酒屋の店先でウトウトしているエドガールの前に、幼馴染のフィディーリアがやってきて持ってきた花束に口づけをしてエドガールに投げ渡す。(ここでのフィディーリアの歌はふるい付きたくなるほどに愛らしい)
そこへ、エドガールを狙っているムーア人の娘ティグラーナがやってくるので、フィディーリアは姿を消す。そのティグラーナはエドガールに言い寄るが、彼は冷たい。
一方で、フィディーリアの兄フランクは、ティグラーナのことが好きなのである。
居酒屋の傍らにある教会ではオルガンを背景に村人のミサが聞こえるが、ティグラーナはそれを嘲笑し、不謹慎な態度をとる
。(カヴァレリア・ルスティカーナのムードである)
フランクは、夕べお前はどこへいっていたのだ、と非難しながらも、ティグラーナへの思いを歌う。(このバリトンによるアリアもまた素晴らしいものだ)
 毒づくティグラーナに、村人たちは怒りだし、出てゆけと攻め立てる。
騒ぎを聞きつけて、表に出てきたエドガールは、ティグラーナがいじめられていると思いこみ、彼女を擁護し、しまいに居酒屋に火を放ち、ナイフを片手にすごみ、思わずフランクを刺してしまう。興奮した村人を静める、長老フランクの父。そしてエドガールはティグラーナを連れて逃亡する。

第2幕
 エドガールとティグラーナの愛欲の住処は、豪華な庭園のある館。
エドガールは、そんな生活に飽きてしまい、しきりに昔を懐かしいでいる。(
エドガールのアリア、懐かしい彼女と後悔を歌った情熱的なもの~ドミンゴ若い!)
そんな彼を責めるティグラーナ。(これはまさに、タンホイザーじゃないの~失笑)
そこへ、軍楽隊とともに、軍隊がやってくる。エドガールは、歓待しようと引きいれる。
そうしたところが、その隊長はフランクであった。フランクはかつての愛は冷めているし、エドガールは事件を謝罪し、すっかり仲直り。それじゃ、一緒に戦おう、ということで意気投合してしまい、ティグラーナの元をホイホイと出ていってしまう。
「アンタは私のものになるか、死ぬかだよぅ~」と凄むおっかない女ティグラーナであった。

第3幕
 なかなか聴き映えのする前奏曲(シャイーのCDでおなじみ)。
戦死したエドガールの葬儀(
あれ?死んじまった?)が行われようとしていて、フィディーリアは父とともに嘆き悲しんでいる。(ここでのフィディーリアの歌も1幕に似ていじらしい)
そこへ、フランクと目深に頭巾をかぶった見知らぬ修道士がやってくる。フランクは、エドガールの戦功と勇敢さを称えるが、一方で修道士はエドガールが愛欲に浸っていたとか、悪いことばかりを暴きたてるものだから、人々はけしからん、恥だと興奮してエドガールの亡骸に危害を加えようとする。
そこへ、フィディーリアがかばうようにして登場して、涙ながらに訴える。
「私は、エドガールと同じ村に生れた幼馴染です・・。彼を毎日、日が暮れるまで待っていました・・」(
このアリアもまた、プッチーニが好んだ女性のタイプに残した素敵な歌のひとつ。でもこれもまた、タンホイザーでありますな!)
こうして静まった会場。
そこへ、ティグラーナが神妙な雰囲気でやってくる。フランクと修道士(実はエドガール)は、その様子がおかしく、何か怪しいたくらみを抱いていると疑い、誘導尋問にかける。
お嬢さん、どうかしましたか?とかいろいろ問いかけるが、静かにしておいてくださいな、とティグラーナ。それじゃぁってんで、首飾りをちらつかせ、エドガールの罪状を人々の前で並べたてたら、差し上げようと持ちかける。
まんまと本性を出したティグラーナは、エドガールのひどさを言いまくるので、人々はまた激昂して、その棺を投げようと持ち上げるが、なんとそこは鎧だけ。

 「実は」、と修道士は正体を明かし、人々に過去を謝罪し許しを乞い、フィディーリアは喜び、エドガールに抱きつく。そして、エドガールとフランクは、ティグラーナを捕えようとするが、ティグラーナは隠し持ったナイフでフィディーリアを刺し殺してしまう。
 ティグラーナは人々に捕えられ、フランクは父のもとに、エドガールはフィディーリアの亡骸に倒れ伏して人々の祈りとともに幕となる。


かなり長いあらすじとなってしまった。
こうまで書かないと脈連ないドラマゆえに、さっぱり不明となる。
それでも、何だかなぁ~、の連続攻撃に、笑う気力も失せてしまう。
何故、居酒屋に火を放つのか? 愛の巣に軍隊が何故やってきて、いとも簡単に意気投合してしまうのか? そしてギンギンにエドガールの声、いやもろにドミンゴドミンゴしているのに、誰も修道士を見抜けないのか? なんでわざわざ、寝た子を起こすように、ティグラーナの本性をひきださずにおかなかったのか? 何で、フィディーリアちゃん一人が死ななくてはならないのか?
はぁ・・・・。

 エドガール:プラシド・ドミンゴ  フィディーリア:アドリアーナ・ダマート
 ティグラーナ:マリアンネ・コルネッティ  フランク:ホアン・ポンス
 ジャルティーロ:ラファル・シヴェク

 アルベルト・フェロネージ指揮 ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
                         同           合唱団

                           (2005.5 ローマ)

劇の陳腐さに目をつぶれば、その音楽はリリカルで、なかなかに素晴らしい。
まして、このCDのような真剣な演奏であればこそ。
やはり、ドミンゴの独壇場。まるで歳を感じさせない艶やかさと強靭な歌声は、プッチーニの若書きを充実したドラマを添えているようだ。
しかし、欲をいえば、もっと無分別ゆえの若々しさが必要とも感じたことも事実。
修道士の立場では、声を少し変えたりしてバリトンがかった歌を聴かせてはいるものの、だんだんとモロにドミンゴになってしまうのがご愛敬。
でもなんだかんでで、不世出の大歌手の全力投球は見事。
Damato_2  ダマートがとても素敵だった。ミミやリューと同じような役柄のフィディーリアを歌うのに彼女のあたたかくも優しい歌声は最適で、主役級の悪女役コルネッティが少しおとなしめなので、カルメンのミカエラともとれるフィディーリアがヒロインとして、大いに目立つこととなった。
ポンスも贅沢なくらいに立派なものだった。
 若いフェロネージサンタチェチーリアのオーケストラは、若々しくそしてプッチーニの抒情を見事に引き出しているように思った。

1889年、プッチーニ31歳、スカラ座で初演。
ほとんど上演されないこの作品。怖いもの見たさで舞台に接してみたいものだ。
カルメンとタンホイザーとカヴァレリアを足したようなオペラに笑ってしまうかも。

4 これで、本ブログで取り上げるプッチーニのオペラも、残すところ、「蝶々夫人」のみ。
明1月には、新国で蝶々さんの舞台を始めて観る予定。

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2008年12月12日 (金)

私の好きなオペラアリア テノール編

2 ハヤシライスを作成してみました。

もちろん、市販のルーを使ってでござる。
その名は、オリエンタルの「即席ハヤシドビー」。

名古屋のオリエンタルの懐かしい名品で、名古屋のスーパーで買ってきて作ってみました。
一袋で4人前出来て、そのルーのお値段は100円。
もちろん具材は別だけど、超リーズナブル。
そして実に簡単。
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なんで、「ハヤシドビー」なんだろ。
わかんないけど、おいしいからいいや。
トマトをふんだんに使ったこともあって、ちょっと水っぽいけれど、どこか懐かしい風情漂うお味。

一緒に「オリエンタル即席カレー」も買ったので、そちらも近日ご報告。

「むっちゃくちゃ、うみゃ~であかんわ。カレーもあるでよ。」
懐かしいこちらのサイトもどうぞ。

Tenore

オペラ好きにとって、その醍醐味はドラマを楽しむことにも増して、聴かせどころの歌、そう登場人物たちに与えられたアリアを聴くところにある!

作曲家たちが、その全霊を込めて主役級に与えた古今東西のアリアたち。
そのアリアがあるゆえに、そのオペラが好きだったり、オペラはいまいち好きでなくとも、そのアリアだけが堪らなく好きだったり・・・・。
皆さん思い思いに好きなアリアをお持ちかと存じます。

そこで今回、テノールを手始めに、各声部のマイフェイヴァリット・アリアを羅列してしまおう、という企画を思いついた。
挙げたらキリがないのは承知のうえ。
本当に好きで、男声の場合はカラオケで歌えちゃうくらいの思いをもとに選択しました。
10曲に限定は、あまりにきつかった。さて、どーでしょうか
曲とともに、そのアリアで、もっとも好きな歌手も挙げてみましたよ。

 1.ワーグナー 「ワルキューレ」~「冬の嵐は去り」 キング
 2.プッチーニ 「ラ・ボエーム」~「冷たい手を」 パヴァロッティ
 3.プッチーニ 「トスカ」~「妙なる調和」 カレーラス
 4.レハール  「微笑みの国」~「君こそわが心のすべて」 コロ
 5.ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」~「ある日青空を眺めて」 カレーラス
 6.ヴェルディ  「ルイザ・ミラー」~「穏やかな夜には」 ベルゴンツィ
 7.ワーグナー 「マイスタージンガー」~「朝はばら色に輝き」 コロ
 8.R・シュトラウス 「影のない女」~「鷹よ・・・・」 キング
 9.プッチーニ 「トゥーランドット」~「誰も寝てはならない」 パヴァロッティ
10.コルンゴルド 「死の街」~「マリエッタの歌」 コロorケルル

あちゃ~、まだまだあるよ。あと5曲許して。

11.ヴェルディ 「オテロ」~「さらば清き思い出よ」「オテロの死」 デル・モナコ
12.ワーグナー 「ローエングリン」~「グラールの物語」 コロ
13.チャイコフスキー 「エウゲニ・オネーギン」~「レンスキーノアリア」 ゲッダ
14.チレーア 「アドリアーナ・ルクヴルール」~「身も心も疲れ果て」 カレーラス
15.ビゼー 「カルメン」~「花の歌」 ドミンゴ

あぁ、なんて気が多いんだろう。
でもこうしてみると、ワーグナーとプッチーニが多い。
そして、モーツァルトがない。モーツァルトは女声!
同様に、愛するR・シュトラウスは女声を好んだがゆえにテノールに名旋律は少ない。
ヴェルディは個人的な趣味もあるが、やはり女声、そしてバリトン。
まんべんなく、各声部にノミネートされるであろう作曲家は、ワーグナープッチーニ
そして、ベルカントは苦手なの。許して。

家人のいない晩などに、酒を飲みつつ、これらのアリアの入ったCDをしこたま選択して聴く楽しみといったらない。
酔いに任せて、名歌手たちと一緒に口ずさむ。
時には、車で聴いて、思いきり大音量で鳴らし、そして歌いまくる。
信号待ちでは、音を絞って、何事もなかったようにしている。
でも、回りには絶対聞こえてるし、大口あけているから、隣の車と目があったりすると、チョー恥ずかしい・・・・。
おバカなオペラファンであります。
CD画像は、テノールアリアのカラオケCD。本場イタリアの水もしたたるようなオケをバックに歌えます

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2008年12月11日 (木)

ブルックナー 交響曲第1番 スゥイトナー指揮


Oroshiこちらは、越前の「おろし蕎麦」にてございます。
一昨年の冬に訪れた福井県。
北陸3県は、会社人時代、担当エリアだったので、金沢を中心によく行っていた。
今思えば贅沢なもので、行けば金沢の片町で散々飲みまくっていたもんだ。

どうしても金沢に泊まることが多かったから、福井や富山は昼食ぐらいしか記憶がない・・・。
そして福井といえば、越前そば!

福井市内にもおいしい店はあるけれど、武生や今立あたりの普通のお蕎麦屋さんが、実にうまい!
こちらは、今立のとある蕎麦屋さんだけれど、蕎麦粉10割に近い極太ぼっそり麺に、けずりとネギをかけ、おろし汁をそこへぶっかけ、ずずぅ~とすする。
ピリ辛感と、あっさり感、そして蕎麦の触感がえもいわれぬハーモニーを現出する。
かつて、昭和天皇が食され、お気に入りとされた越前のおろしそば。
その店にも、大雪のなか行ったことがある。量が少ないので、酒を飲みつつも、いったい何杯食べてしまったろうか。バブリーな思い出でございます。

Sym1_suitner

ブルックナー(1824~1896)シリーズ。
交響曲第1番ハ短調は、ブルックナー人気の中にあっても、マイナー番号作品である。
0番、1番、2番、6番のマイナー軍団がそれ。
ブルックナー受容の初期こそ、4・7・8番にかたよっていたものの、その後は、まんべんなくブルックナーを聴いてきたので、今ではこれら4兄弟の美質を見出して好んで聴くことが多い。

リンツでオルガン奏者を務めつつも勉学に励み、1865年、「トリスタン」の初演に立会い、大いなる感銘を受け、ビューローとの接点もできたブルックナー。
翌66年に、この第1交響曲を完成させ、68年に初演。自身の指揮のまずさもあって、いまいちだった。さらに後年、オーケストレーションを書き改めてウィーン版が初演時のリンツ版に対して出来上がった。
ただ、この1番の場合は、あまり変化は聴かれないと思う(と思います)。
 作者自身がようやく付けた1番の番号。きっと後年まで愛着があったのであろう。
先の0番と、とてもよく似ている。楽章の配置や、それぞれの形式・楽想までそっくり。
でも、それぞれが彫りが深くなり、旋律の運びも自信に満ちている。
田園情緒もまた、さらに深く美しくなり、それがまた魅力の一端となっていて、私の好きな場面ともなっている。
何度も書いているが、マイナー軍団の緩徐楽章の一幅の絵のような儚い美しさは、後年の大交響曲にはないもので、私は一度しか訪れたことがないが、車窓から見たスイス・アルプスの光景を思い起こさずにはいられない。
まるで、評論家のK・Uのような表現だけれど、ことブルックナーのこれらの緩徐楽章には魅せられっぱなしの私なのである。

弦の刻みで軽やかに始まる1楽章は、心地よいテンポによる推進力あふれる楽章だが、その第2主題はゆったりとテンポを落として、こちらも田園情緒を味あわせてくれる。
そして、私にとっての核心部分の2楽章は、半音階的な出だし、そうワーグナーを思わせる部分から始まるが、すぐに調和のとれた平和なムードが横溢し弦の柔和な旋律やオーボエの愛らしい旋律が次々に出てきて、至福の世界を醸し出してゆく・・・。
あぁ、素晴らしい。これもまた天国的な音楽といえるだろうな。
 独特のブルックナー・リズムあふれる3楽章は、他の諸作と同じように、のどかなトリオ部分がまた楽しい。
「火のように」と付された終楽章、強烈さでは、以外やこの1番が随一かもしれない。
その発端は、0番でも見られるし、このあと3番まで続くパターンではあるが、それでもこの1番のまさに火を噴くような一心不乱ぶりは、40超えとはいえ、晩成ブルックナーの音楽表現への若き発露といえるかもしれない。

1番で、最高に好きなのは、やはり思い入れも手伝って、アバドとウィーンフィルの第1回目のデッカ録音で、ロッシーニのような軽快でリズミカルな部分と滴るような歌が素晴らしい。
そして、後年聴いたのが、活動晩年のスゥイトナーベルリン国立歌劇場管弦楽団の伸びやかな演奏。
インスブルック出身のオーストリー人が、ガチガチのドイツのオケを柔和で自主性あふれるオケにしてしまった。バレンボイムはその反動を利用し、ベルリンフィルのような機能性を併せ持った有機的な万能オケにしてしまった。
スゥイトナーという存在があってこその今のベルリンシュターツオーパーだと思っている。

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2008年12月10日 (水)

ショスタコーヴィチ 交響曲第1番 ハイティンク指揮

1 こちらは、手製の「ドライカレー」。
焼き飯を作る要領で、カレー粉を適当に振り混ぜる。
ガラムマサラもあれば、さらにエスニック風となります。
野菜などは、冷凍ものを使ってしまう。お肉はできればチキンか、ビーフがよろしい。
問題は、ひとつしかないフライパンで、目玉焼きとライス、どっちを先につくるか。
目玉焼きをきれいにつくるには、キレイなフライパンと時間配分とが必要。
よって、目玉焼きを先に作り置きしてから、ドライカレーを炒めます。半熟たまごを崩しながら、ライスとともにいただく、その至福の瞬間、皆さん、わかりますよね!
あぁ、食いてぇ~

Shostakovich_sym1_haitink

ドライカレーとは、まーったく関係ないけれど、ショスタコーヴィチ(1906~1975)の交響曲シリーズ始めます。

同時進行をもくろむブルックナーのアントン氏に比べると、こちらドミトリー氏の交響曲は才気とナゾが入り混じった複雑な系統である。
69歳で亡くなってしまったのに、多作家だった。
15番目の交響曲のパロディーのあとには、いったいどんな世界を見せてくれたのだろうか。
これもまた、永遠のナゾなのであ~る。

そんなナゾおやじの、出世作である交響曲第1番は、ペテルブルク音楽院の卒業作品で、19歳(1925年)の作品である。
(ここでもブルックナーを引き合いに出すと、苦心の末の第1番は40過ぎ。)
生真面目な4楽章形式からなるコンパクト・シンフォニーで、ストラヴィンスキーやプロコフィエフといった先輩諸氏の影響を聴くことも、そしてマーラーのアイロニーをも見出すこともできる。
正直、あれ?これショスタコ? という場面も多々あって、タコさんらしくない無難な1番なのである。ワルターも大いに演奏して広めた1番であるが、継ぐ2番では、早くも路線変更してしまう一筋縄ではいかないナゾぶりを発揮するわけである。

この1番での聴きものは、第3楽章の深い哀感で、オーボエと独奏チェロの旋律がなかなかに悲しい。そこに何度も鳴り響くトランペットのモットー。
そして、レントから渦巻くように盛り上がる終楽章の頂点で、オケは全休止してしまい、先のトランペットのモットーをティンパニが響かせる。この怪しげな瞬間。こんな場面こそ、ショスタコを聴く楽しみである。その謎解きは、各自ご自由に・・・・。
最後は、そんな思いを振り切るかのように盛り上がってズドンと終わる。

ロンドンとアムステルダムでショスタコーヴィチ全集を作り上げたハイティンクは、よく言われるように、楽譜に書かれた音楽そのものを純度高く再現してみせた模範生のような演奏である。洗練されすぎてしまった感もあるが、私はすべての番号において、ハイティンクの演奏に信頼を寄せている。
ロンドンフィルの番だったこちらの演奏は、カッチリとした交響曲としての枠組みの中に、ショスタコーヴィチの折衷的な音楽を収めこんで、完璧な演奏を行っている。
この曲はこれでよいのだろう。
ティンパニの音を明晰にとらえた、デッカ録音も素晴らしいし。

はてさて、不思議交響曲なり。

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2008年12月 8日 (月)

ショパン バラード第1番 ツィメルマン

2 今日のツリー。

仙台駅前に今年オープンしたパルコ前のツリー。
デカイです。
パルコ系のツリーは、例年どこもゴージャスだけれど、仙台のそれは、オーソドックスな豪華さを誇っていた。
本拠地渋谷は、今年デジタルでポップな雰囲気で、美しいというよりはユニークなツリーだったので、正直口直しのように感じた仙台版。

まるで、ツリー評論家のようであります。

ツリーは樅の木がやはりいい。
あの匂いがとても好きで、幸せだった子供時代を思い起こすことができる。
庭に植えてあったものを、鉢に移してツリーにした絵のようなクリスマス。
親と同じ立場になって、家庭には、実はいろいろ大変なことがあるし、あったことも、今更ながらに理解する大人の社会。

ちょっと無理しても、ツリーを飾ることって、それぞれの家庭にとって幸せで、後々大切ななことだなって、思う。

Chopin_balladen_zumerman

ピアノ音楽では、やはりショパンが好き。
オペラや歌もの、英国音楽に傾倒する私としては、歌謡性と夢幻性のあるショパンに心惹かれる。

短い生涯ゆえ、少ない作品群はあるが、そのさりげない小品に至るまで隅々に行き渡る詩情。
ピアノ1台、10本の指から、何でこんなに豊かな音色があふれ出てくるのだろう。
多感な高校時代に、このジャケットのツィメルマンの如くアンニュイに浸りつつ、ショパンを聴いたものである。

4曲あるバラードは、同じ数のスケルツォとともに、ショパンの詩情と即興性、そして名技性に満ちた名作で、どんだけ聴いたかわからない。
なかでも、幻想味あふれる第1番が大好き。
これまた昔話だけれど、「ホロヴィッツ・オン・TV」(カーネギーホールのリサイタル)がNHKで放送されたとき、この第1番が演奏された。
あの大きな平たい手で、すらすらと弾くホロヴィッツのピアノに驚嘆した。

あれ以来好きになった「バラード第1番」。
ポーランドの詩人の叙事詩にインスパイアされたバラード集であるが、リストニアの若い王子の悲劇を歌ったのが、この第1番。
その内容を知らずとも、自由に幻想の世界に浸り、遊ぶことができるから、聴く僕らは、自由だぁ!

今や孤高の哲人のようになってしまったツィメルマン。
今晩は、硬派なイメージも抱かせつつ、柔軟で柔らかなタッチのショパンは、乾いた心にスッと響く包容力あふれるショパンに聞こえた。
 余白に収録されたショパンで一番好きな曲、「バルカローレ(舟歌)」がまた絶妙な強弱のニュアンス豊かな演奏で、涙が出そうになってしまった・・・・・。

3
おまけ画像。
右手の仙台駅にパルコ。

本日は、朝早くから仙台日帰り。
そんなときでも、新幹線の時間の許すなかで、駅周辺で飲んでしまうのだが、そんな誘惑の魔の手も押え切り帰宅。
 こんな自分を褒めてやりたい。

ははっ、でも家に帰ったら、芋焼酎を開封し、ゴンゴン飲んでますわ。
こんな晩に限って、帰ったら「おでん」なんだもの・・・・・。

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2008年12月 7日 (日)

富士を眺め休息

1週末は、ネット環境のない実家に帰らせていただきました。

音楽もなし、ネットもなし。
不安はあるが、何故かほっとするのも事実。
でも3日が限度。
禁断症状がそろそろ出そう。

このところいろいろあるし、忙しいかった。
冴えた空気に富士が映えて美しく、癒されたのであります。
音楽行きますよ

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2008年12月 4日 (木)

ラヴェル 「クープランの墓」 エッシェンバッハ指揮

26 本日(12月3日)の東京タワー。
今年50周年、クリスマスに合わせて、50の数字と、TOKYOの文字が瞬く。

20時以降は、ダイヤモンド・ヴェールと名付けられた新ライトアップがなされる。
7時過ぎに、事務所を出て、ゆっくりと東京タワーに向かい、取材(?)に取り込んだ。
カメラを構える人々多数!
この中の多くが、ブロガーであろう。みんな好きだねぇ。

Ravel_eschenbach ラヴェルの「クープランの墓」は、他の諸作にあるように、もとはピアノ曲。
志願してまで従軍し、看護兵として従軍したラヴェルは、そのかたわら、クープラン時代の様式にのっとり洒落た6曲からなる組曲を作り上げた。
戦時の音楽と思うと奇異な感じだが、慰安の心もあって作曲に勤しんだのであろう。
各曲は、戦死した友人たちの名を記して、捧げられている・・・・。

オーケストレーションを施した4曲は、戦争のことなどまったく感じさせない、それこそ小洒落た音楽で、われわれがラヴェルの音楽に感じるエスプリをそれは香しく漂わせている。
高校時代に聴いたアンセルメのレコードが今も脳裏にあふれている。
今では、その思い出に、デュトワ、ハイティンク、アバドなどの素敵な演奏が加わった。
今晩は、以前とりあげたエッシェンバッハの少しばかりリアルな演奏を聴いてみた。
音を一音一音選びぬいて、いつものかなり克明な指揮ぶりであるが、どっこいパリ管の豪奢な響きが鮮やかにこちらの耳に届いてくる。
濃厚でありながらも、小粋な、味のあるラヴェルである。
 3曲目のメヌエットの終結部は、いつ聴いても震え上がるほどに素敵な場面だ!
パリとフィラデルフィアを辞して、どこへ行くエッシェンバッハ・・・・・。

16

8時過ぎには、こんなお姿になる。
今しか見れないレアなお姿。
東京のど真ん中に50年間立ち尽くす、東京タワーの美しい姿に、しばし世の中の厳しさを忘れることができる。

どんな時も、東京タワーはそこに立つ。
そういえば、ワタクシ、東京タワーと同期生でございます。
完全に歳がバレましたな、ふっふっふ。
まだまだ、ワタクシ頑張るぜ、皆の衆

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2008年12月 3日 (水)

ブルックナー 交響曲第0番 マリナー指揮

Iketani_1_2 基本の「せいろ」1枚。
こちらは、海苔が律儀に別に添えられてきて嬉しい。
ざるそばを頼むと、海苔がすでに振りかけられてきて、そばと一体化してしまい、一緒くたになってしまう。

ここでは、好みに応じてふりかけるなり、別に口に含むなりで、楽しめる。
銀座の「いけたに」は、よく訪問するお蕎麦屋さん。
お酒もつまみも豊富であります。

今日から、じっくりと、「蕎麦とブルックナー」のシリーズに取組みます。
以前の「ラーメンとマーラー」シリーズを受けての試み。
書いてる自分からして、夜半にこんな画像を見ちゃうと堪らないのに、ご覧いただく方々の小腹を刺激してしまい、誠にに申し訳なく存じます。

歌入り交響曲を数々聴いてきて、ブルックナーに久しぶりに出会うと、その朴訥さと、多くを語らない受動的な音楽がきわめて新鮮に感じられる。
歌はなくとも、自然と神への讃美は、しっかりと伝わってくる。
人間くささはどこにもない。
これから番号順にいろんな演奏で聴いて行こうと思うのだが、マイナーな番号ほど心がときめく。冬の澄んだ空気には、マイナー番号の緩徐楽章のアルプスの自然の光景を思わせる音楽が似合う。

Sym1_marriner ブルックナー(1824~1896)の9曲の名品の前に、習作交響曲がふたつある。
よく言われるように、自作に自信がなく、批判されるとすぐに改定したり、ひっこめたりする奥ゆかしいブルックナー。
生涯独身の裏には、ローリータ好きというサガもあった(あぁ、こんなこと書くと悪趣味のTBが来るであろうな)
でもそんな、おやじアントン君が実に微笑ましいではないか。
極めて熱心なクリスチャンで、自己批判も強かったゆえに、習作には番号が与えられず、1863年頃、39歳で作曲したものの公表しなかった。
のちに改定を施したものの、初演は没後であったという。
こうして、かつて類をみない交響曲第0番が誕生した。
もうひとつ、ヘ短調の交響曲があって、私の若い頃は、「交響曲ヘ短調」としか呼ばれなかったが、今は「交響曲第00番」、なーんて、呼ばれている。
インバル盤をもっていたが、見当たらないし、印象が薄いので、このシリーズでは割愛します。

この「0番」、では、とるにたらない凡作かというと、そうではない。
立派にブルックナーしてる。隅から隅までブルックナー。
着実なトレモロによるブルックナー開始、金管主体のコラール風旋律、ゲネラルパウゼの多用。執念的なまでのリズムの反復、やたらに熱い終楽章。全部そろってます。
 そして嬉しいことに、2楽章のアンダンテ楽章の美しさにおいても、1,2,6番に通じるようなマイナー系の美質を合わせもっている。
正直、12分あまりの2楽章にはまいってしまう。
一輪の花を愛でるような、楚々とした気分の中に、祈りと情熱の感情が込められている。
 3楽章の中間部も、のちの諸作と同じようにのどかで、のびのびとした興に満ちている。
終楽章があまりにあわただしく、そっけないのは、マリナーの指揮のせいだけではあるまい。あっけないくらいに、音楽は突き進んで、そっけなく終わってしまう。
このあたりのスケール感や完結性は、もっと後の作品でないと味わえない。

マリナーのブルックナーなんて!
第9に続いての、サプライズ・セレクトだが、ブラインドで聴いたら絶対にマリナーとわかるまい。気合を込めた唸り声までしっかり収録されている。
確かに、重心は上のほうにあって、心持ち軽めの演奏ではあるが、その気合いたるや並々のものでなく、オケと一緒に息の長い旋律を歌っているかのよう。
ある意味、シュトットガルトのオケに乗っかってしまっているようなところがあって、ブルックナーの雰囲気を巧まずして導き出してしまった演奏に思う。
パウゼもしっかり取られているから、間のすくないアッサリ・マリナーらしくない、というより、楽譜をしっかり捉えての演奏だからであろうか。
録音は83年。成熟した現在から去ること、25年前。
ドイツの放送オケという、英国の手兵とはまた違ったフレキシブルで反応のいい団体との素晴らしい結びつきの1枚だ。

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