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2009年1月

2009年1月30日 (金)

東京フィルハーモニー定期演奏会 P・シュナイダー指揮

もし指揮をさせてもらえるなら?
こんな問い掛けには、いつも「マイスタージンガー」全曲と答えていた。
でも本当は「リング」4部作が本音の「
たわけもの」のワタクシ。
そんな、たわけの私にピタリのコンパクト・リングが今宵のヴリーガー編リング抜粋であった
歳と体力も考えて、これからはコレでいこう

  ベートーヴェン 交響曲第4番

  ワーグナー   「ニーベルングの指輪」~オーケストラル・アドベンチャー
               (ヘンク・デ・ヴリーガー編)

      ペーター・シュナイダー指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                           (1.30 @サントリーホール)

Tpo_schneider


















 
 冗談はさておき、抜粋とはいえ、1時間に凝縮されたリングのエッセンス。最高に素晴らしい演奏で、私は感激で息が詰まりそうになる場面が多々あったし、気がつくと自己犠牲のクライマックスでは、涙が頬をつたっていた。
東京フィルが濃密かつ積極的な音をバシバシ決めてくる。
これもひとえに、現役最高峰のワーグナー指揮者、ペーター・シュナイダーあってのもの。
ともかく、音のひとつひとつに、ドラマの背景が織り込まれているようなオペラティックな語り口で、リングをシンフォニックに仕立てたと思われる編曲の意図とはまた違う、舞台音楽としての演奏に感じた。
シュナイダーは、早めのテンポ設定で勘どころを押さえながら、テキパキと指揮をする人だが、ピットから出てステージにのっても、聞かせどころでも構えることなく、スイスイいってしまうところがある。
こうした場面では、歌が欲しい。思わず、ウォータンやジークフリートになって口が動きそうになってしまった。危ないあぶない。
そんな気にさせる雰囲気にとんだシュナイダーの指揮。編曲ゆえの唐突なつなぎも、とてもスムースで、リングを知り抜いた練達の職人技。
来たる「トーキョーリング」を控えた東フィルにとって、またとないベテランとの共演になったのではないかしら。
「ラインの黄金」の前奏曲は、最初低弦がもたつきぎみだったが、そのまさに混沌から徐々に盛り上がり、ついに「ヴァーガヴァーガ・・・」とウォークリンデの第一声が始まる・・、気になる。その後すぐに黄金の輝きと転じ、さらにニーベルハイムの喧噪へ降りてゆく。
舞台で金とこを3台キンコンカンコンやるさまは壮絶!!
次いでフローが虹をかける場面も歌が出そうになるが、入城の壮麗なエンディングはお預けをくらうこととなる。ウォータンが槍を拾い、なぜか剣のモティーフが出るところで、いきなり「ワルキューレ」の決闘の場面、そしてすぐさまワルキューレの騎行に飛んで、魔の炎の音楽に。私のもっとも好きなウォータンの告別の後半がたっぷりと聴ける。
このあたりのシュナイダーの雰囲気豊かな指揮には、はやくも涙がにじむ思いだ。
そして音楽はすぐさま、「ジークフリート」の森のささやきへ。東フィルの木管、大活躍。
ジークフリートの角笛の難所、ホルン氏頑張りました!
ファフナーとの迫力あふれる決闘に、その空しい死とジークフリートが火の山を超える場面。その後のブリュンヒルデの目覚めもたっぷり用意されていて、先に誉めたシュナイダーの指揮ぶりの面目躍如たる場面がどんどん続く。
休みなく、結ばれた二人の朝の場面は「神々の黄昏」に続く。
あとに起こるジークフリートの裏切りを知る我々には、明るいけれどかなり心に辛いラインの旅へと、原曲通りに進行してゆき、このあたりの音楽の躍動感はまったくすばらしく、楽員も体を大きく揺らしながら大いに乗っている。
そして、2幕後半から、ジークフリートが殺される場面へと流れ、葬送行進曲へと向かう。
葬送行進曲は、心持ち早めにテンポをとりながらも、圧倒的な演奏で、私は痺れまくってしまった。そのあとは、ワルハラの陥落を描く自己犠牲の場面がそっくり演奏される。
頭の中では、ブリュンヒルデの歌が鳴りながら、壮麗かつ感動的なシュナイダー指揮する東フィルの素晴らしい音楽が進行している。
愛馬に別れを告げ、火に飛び込むブリュンヒルデに、ハーゲンの「指輪に手をつけるな」の歌声が・・・。あまりに素晴らしいエンディングに涙が止まらなかった。
 静かに曲を閉じたのちに、いい間ができた。
盛大なブラボーが飛び交い、シュナイダーは何度となく呼び出され、オーケストラからも喝采を受けていた。

シュナイダーの指揮はバイロイト放送を通じて昔からかなり聴いている。 中でも忘れ難いのは、84年に、ショルティが一年て降りてしまったピータ・ホール演出のリングの指揮に急遽抜擢され、見事な棒さばきでバイロイトを救ったこと。この時の放送音源は、私の宝物でもある。
われらが大植栄次が初バイロイトのトリスタンで、一年で散ってしまったあとを引き継いだのも、シュナイダー。かつての、ホルスト・シュタインと同じような貴重な存在なんだ。
職人以上の味わいを醸し出すようになったシュナイダーは、これから独墺系の巨匠として重きをなすようになると確信しております。

ワーグナーばかり書き連ねてしまったが、前半のベートーヴェンも、すっきりとかつ明快な枠組みをもった名演だった。
シュナイダーによるオーケストラ作品、もっと聴いてみたい。
数年前は、たしか読響に客演しブラームスなども演奏している。
ウィーンフィルでもブラームスを演っているから、きっと本格シンフォニーも素晴らしい手腕を発揮しそうだ。
これまで、ウィーン国立歌劇場の来日公演と新国立劇場、ふたつの「ばらの騎士」で、ピットでのシュナイダーを経験済みであったが、今回のようなコンサート指揮者としての顔も是非とも継続して見せて欲しいものだ。
耳が洗われるようなワーグナーが聴けた今宵のサントリーホールでありました。

4月には、エド・デ・ワールトがN響で、今回と同じ「リング」を演奏する。
そのCDを今聴きながら、はやくも気持ちが揺れ動いているワタクシにございます。

 

 

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2009年1月29日 (木)

ブルックナー 交響曲第5番 アイヒホルン指揮

1 これはですな、奥に蕎麦がちらりと見えますね。
そう、鴨汁そばなのです。

少し食べてしまって、美しくはないけれど、こんなに鴨がたっぷり満載の鴨のつけ汁は、食べたことがないかも。

し、かも、ローストした鴨プラス、鴨のミンチ、いわゆる「つくね」が惜しげもなく入っているんだ。
実は少し前の冬に食べたのだけれど、あまりのおいしさに、ここの再登場させてしまったの。
柏市の名店「竹やぶ」の暖簾分けの店、茨城の守屋の「竹やぶ」。
車でしか行けない鬼怒川のほとりにある超マニアックな場所。
ともかく、おいしいです。(食べ物ブログになってしもうた、かも)

Sym5_eichhorn

ブルックナー連続シリーズは、交響曲第5番変ロ長調

自然と宗教を秘めこんだブルックナーの交響曲にあって、この第5番ほど、祈りと教会建築のような大伽藍を感じさせる曲はないのでは。

4番に続きすぐさま1878年に書きあげられた。
他の番号より、改訂癖が作者にもたげなかったこともあり、ややこしい版の問題はあまり存在しない。
原典版といわれるのがハースでありノヴァークであるようだ。
私には、さっぱりわからないし、どっちでもいいと思うくらい。
でも、初演者シャルクによる版はどうもいけない。
シンバルやトライアングルが空々しく空転して聴こえるし、短縮化も味気ない。
クナッパーツブッシュのレコードは、不思議な存在に感じる。
時代もあろうが、パルシファルを深遠なくらいまでに指揮したクナが何故?という気分。

この作品のイメージを総括するような低弦のピチカートの上に、オーボエがうら寂しく歌う。
やがて、コラールのようなファンファーレが響きわたり、いよいよ5番のシンフォニーが本格的に始動する。
このあたりのわくわく感は、なかなかのもので、ブルックナーらしくないとも感じるが、続いて第1主題が低音で出てくるともう教会で聴くオルガンのような雰囲気にのまれてしまうこととなり、その後の第2主題の神秘的なムードや、管による歌うような第3主題が発展していってリズミカルな動きに転じてゆく様なども大いに楽しい。
この第1楽章はこの5番のイメージをひとえに決定づける素晴らしい音楽だと思う。
 そして第2楽章の祈りの篤さ!寂しげな管の主題に続き、休止のあと現れる旋律の素晴らしさはいかばかりであろうか。
 第3楽章の激しさと、呑気な中間部は常套的すぎて、本当は2楽章との落差と全体の中での対比感がちょっと薄く思うのは私だけ?
 終楽章は幻想的な様相が強く、これまでの楽章の集大成的な巨大な存在あり、もう建築物さながら。
どこまで行くのだろうかと思わせるくらに幾層にも重ね合された圧倒的なフーガ。
まさに教会内部で、天井を見上げアーチ形式のように上へ伸びてゆく、その壮麗ぶりに感嘆するのと同じ心境を持つ。
そこに、一条の日の光でも差したらもう完璧なものだ。

私の世代において、クルト・アイヒホルンはオペラ指揮者であり、オルフのエキスパートというイメージが強かったが、その晩年、急速にブルックナー指揮者として大注目となった。
オペラは不明なれど、近現代ものに強かったヴァントがブルックナー指揮者として崇められて亡くなっていったのと似ている。
リンツのオーケストラと晩年にいつくか録音を残したが、その前のバイエルン放送響との90年ライブ録音が今夜の5番。
5番を聴くとき、マタチッチやヴァント、シュタイン(ある方のご厚意で入手)とともに一番取り出すのが、このCD。
なんたって、聖フローリアン教会でのライブで、その教会の高い空間をありありと感じさせる残響の豊かな録音が素晴らしい。
休止の多い5番。しっかり止まって、残響を味わえます。ほんとうに、5番に相応しい。
アイヒホルンのじっくりと構えつつも、情熱も込めた指揮が、その響きと相まってこちらの心にじんわりと届いてくる。
ヴァントのような厳しさのかわりに、南ドイツ風の暖かく、ちょっとユルイところがアイヒホルンのいいところ。
オーケストラの技量も完璧で、いつもながらの機能性プラスの明るさが、ブルックナーにはピタリとくる。
オケは放送管だけれど、アイヒホルンの「ヘンゼルとクレーテル」の心温まる演奏をも思い起こしてしまった。ドイツの森と村の教会の響きがする。

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2009年1月28日 (水)

ハウェルズ 「ヴァイオリン・ソナタ」 バリット

15 タンポポ咲いてました。

「ダンデライオン」といえば、松任谷由美。
そのサブタイトルは、「遅咲きのたんぽぽ」
でも、こちらは早咲きのたんぽぽ。
この花の生命力はすごいもんだ。
気がつくと1年中、どっかで咲いている。
私は、花びらがライオンのたてがみに似ているから、こんな英名が付いているのかと思っていたら、そのギザギザ葉っぱが、牙にたとえられたそうな。
ふぅ~ん、って感じだけど、ユーミンの歌は懐かしいですな。
ここで聴いてみてくださいまし。
かつていた会社の後輩の女性がなぜか、ユーミンを知っていて、電話で話したりしていて、その声や話しぶりをちょいと聴いたことがる。
一本、筋の通った凛々しさをその声に感じた記憶があります。
OLさまの心を鷲づかみにしたユーミンは、男のあたしでも憧れですねぇ。

Howells_vln_sonata ハウェルズ(1892~1983)は、私のフェイヴァリット英国作曲家。
つい最近まで、存命だったとは思えない保守的な作曲家だが、V・ウィリアムズやフィンジの流れをくむ抒情派で、かつエルガーにも心酔し、教会音楽にも特化した英国紳士である。

ちなみに、Howells、私のようにハウェルズとするか、ハウエルズとするか、はたまたハゥエルズと読むか。難しいものである。

先にこの人は、抒情派と書いたが、その音楽はほんと、どこまでも旋律的で、歌心に溢れたものである。だが、そのメロディは常に哀愁をおびていて、はかなげで、かつ寂しげ。
そう、フィンジとまさに同じ香りがする。
 二人に共通するのは、肉親の死が重くのしかかっていること。
父と兄弟、音楽の師を失ったフィンジ。
ハウェルズは、最愛の息子を失ってしまった。
同時に、父親の破産で、故郷を去らなくてはならなかったゆえに周囲に過敏になってしまった。
このふたつの大きな出来事が、ハウェルズを深淵な宗教作品に向かわせた。
楽園讃歌、スターバトマテル、ミサ、レクイエム、オルガン曲など。
それまでは、器楽曲やオーケストラ作品をたくさん書いていたのに。

今回の3曲あるヴァイオリン・ソナタや小品は、先にあげた事件前の作品である。
いずれも、のびやかで田園的な桂曲で、とても親しみある旋律が溢れている。
でも、やはりハウェルズの音楽は、どこか寂しげで、メロディアスな場面でも急に立ち止まってしまい、思索に耽ってしまう。
常に儚さと懐かしさが支配する、わたしにとって「ふるさと」のような音楽なのだ。

後年の、事件後の作品は、その悲劇の度合がきわめて強く、聴いていて心が張り裂けそうな局面がある。でもその根底には、前期作品における特徴がしっかりと受け次がれているから、どこか田園情緒に満ちた懐かしさがあるのである。

こんなハウェルズを、疲れ切った晩にひとり静かに聴くとき、いつ知れず、優しい気分に満たされ、人にも優しくありたいと思うようになる。
いい音楽であります。

 ヴァイオリン・ソナタ第1番(1917~19)
    〃       第2番(1917)
    〃       第3番(1923)
 「揺りかごの歌」
 3つの小品

    ヴァイオリン:ポール・バリット
    ピアノ     :カスリーン・エドヮルズ

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2009年1月25日 (日)

プッチーニ 「蝶々夫人」 新国立歌劇場公演

Butterfly
















新国立劇場公演、プッチーニ「蝶々夫人」を観劇。
2005年のプロダクションで3度目のサイクル。
そしてその最終日にあたったのが、土曜のマチネ。
オペラは初日のワクワク感も、有名人がいたりして好きだけれど、最終日は演出も演奏も練れてきて、充実しているし、カーテンコールの出演者たちの開放感あふれる姿を見るのも楽しい。
今日も満足げな歌手たちに、堅そうな見た目とは大違いの指揮者モンタナーロ氏の明るい動作に湧いたものだ。
ちょっと会場の雰囲気が違ったのはあらかじめノーティスされていたが、学生さんが入っていたこと。
幕開きまで、結構黄色い声が飛び交っていたけれど、上演中はお利口さんに、静かでした。
きっと、悲しいドラマと美しい音楽、そして歌手やオケの競演に感激されたのではないでしょうか!
こうして、オペラを日常に感じていくことは、東京の恵まれた環境があるとはいえ、実によいことであります。

Ki_20001740_8_2 さて、肝心のわたくし、実は、本日は「初蝶々さん」だったのです。
弊ブログをご覧の方々ならおわかりのとおり、舞台体験はワーグナーに偏重していて、国内上演は殆ど観てきたものの、有名オペラには弱く、トラヴィアータは昨年が初なくらい。

一念発起して、初観劇に向かう気になったのは、ひとえに新国立劇場のおかげ。
二期会や藤原歌劇団ではそうはいかなかったかもしれない。
やはり、オペラは専用劇場で、かつオペラ好きが醸し出す独特の親密な雰囲気の中で観るにかぎる。文化会館もいいのだけれど。

 観劇のきっかけ、その2は、プッチーニ。
以前より特別な存在ではあったが、一昨年からその全作品を聴いてきて、その時代性ゆえ、私の大好きなR・シュトラウスやマーラーと相通じる世紀末の響きを感じ取るようになったし、何よりもその甘味な音楽が、甘いだけでなく苦さも悲しみも含有していることに大いに共感するようになった。
だからこそ「蝶々さん」に接してみたくなったし、大いに涙してみたくもなったわけ。

そして、泣きましたよ。
歳とともにすっかり弱くなった涙腺を、しっかりと刺激されましたであります。

 蝶々夫人:カリーネ・ババジャニアン  ピンカートン:マッシミリアーノ・ピサビア
 シャープレス:アレス・イェニス      スズキ :大林 智子
 ゴロー  :松浦 健            ボンゾ :島村 武男
 神官   :龍 進一郎           ヤマドリ:工藤 博

 ケート   :山下 牧子

      カルロ・モンタナーロ指揮   東京交響楽団
                         新国立劇場合唱団
               演出:栗山 民也
                         (1月24日 @新国立劇場)


もうすでに語り尽くされているであろう演出だから、ここに細かなことは書きません。
プログラムにある演出家の言葉にもあったが、われわれ日本人は、外国人が見て描いた奇妙な場面を、そりゃ違うだろと、修正を加え、正しい所作を持ち込もうとするあまりにオペラから離れて違う結果に行きついてしまうことがある。
そういう意味からすると、具象性を排して、全幕を通じシンプルな装置にとどめ、動きも少なく「光と影」の効果を多用したこの演出は、とても好ましく思った。

細かな動きも、よく考え抜かれていて、ピンカートンは土足で畳の上に上がってしまい、アメリカ讃歌を歌い、ゴローはそりゃ困りますとばかりに畳を拭いたりしている。
節度あるシャープレスは、一切上にはあがらずピンカートンや蝶々さんをあたたかく見守る。
1幕は、枯葉の舞う季節で、提灯のあかりがほのかに美しい。

Ki_20001740_2_2 Ki_20001740_3_3                     
 舞台左手から上に階段があり、上には「星条旗」がはためいている。
これが、消える場合もあるが、舞台の進行や音楽に合わせてスポットを浴びたりする。

2幕1場最後の「ハミングコーラス」。障子ごしに、蝶々さん、スズキ、坊やの三人の姿がシルエットで浮かびあがる。
音楽の素晴らしさと合わせて、とても美しい場面だ。
坊やはスズキにもたれて寝てしまい、影が一人いなくなる。次に蝶々さんが花嫁衣装で出てきて、ゆっくりと歩み髪に赤い花をさし、階段を登ってゆく。

Ki_20001740_4_2  そこには、星条旗が濃紺の空にはためいていて、蝶々さんはその横で聴衆を背にピンカートンを待ち受けつつ幕となる。
 なんて美しいんだろ。その音楽とともに、私は惹かれっぱなしだった・・・・。
美しさでは、その前の「花の二重唱」では、庭に散りばめられたりためられた桜の花びらを二人で集め、部屋にまき散らし、舞台上からは花びらが舞い散ってくる。

さらにさかのぼって、シャープレスとの「手紙の二重唱」。
ただでさえ、ぐっときてしまうのに、坊やが右手坂道を走って登ってくる。その姿が、舞台壁にシルエットとなって写し出されるのである。これには、お父さん参った・・・・・、涙でました。

ティンパニーのレクイエムのような連打が鳴りだすと、もう私の涙腺は手に負えない。
母を振り返りつつスズキに引かれて去った坊やが、蝶々さんが自害したときに障子を開けて走りこんでくる。
舞台裏からは、憎っくきピンカートンの声がするが、姿はあらわさない。
舞台には、短刀を自ら突き立てた母と、それをじっと見る息子が目を合わせ、まんじりともしない。舞台上には、星条旗は相変わらず(呑気に)はためいている・・・・。
オーケストラの断末魔の響きとともに、蝶々さんは遂に倒れ、こと切れる。
坊やは、父の声はそのままに、母を見つめたまま、舞台は真っ暗になり幕・・・・・・。

やはり日本人でよかった。そう思わせる、われわれ日本人が感じた舞台ではないかしら。
軽いヤンキー気質で慎重さに事欠いたピンカートン、周囲の声が聞こえなくなり真面目に一途になりすぎて自らの退路を断ってしまった蝶々さん。
気が良く、同情心あふれてはいるもののそれ以上を踏み出せなかったシャープレス。
時代ゆえ、主従の枠から踏み出せず、主人を厳しく助けられなかったスズキ。
 一番かわいそうなのは、子供じゃないか。
彼は、よく聞かされてはいたまだ見ぬ父ではなくて、母の元を選んだわけだが、この場面を直視してしまった。ケートに引き取られて幸せになったのだろうか・・・・・。
 そんなことを考えてしまった演出である。

Ki_20001740_13 アルメニア出身のババジャニアンは、エキゾテックな美貌も加わって、蝶々さんとして違和感はまったくなく、着物での身のこなしも堂にいった落ち着きあるものだった。
蝶々さんを主要なレパートリーにする彼女、シュトットガルトを中心に活躍しているという。
ビジュアル的には完璧な彼女、高音があまり響かなかった。というか、はなやかな高域をひけらかすソプラノでなく、ちょっとメゾがかった豊かな中音域がとても魅力的に感じる、内省的な知的なソプラノに思った。
だから舞台の隅々まで声を行き渡らせ、ドラマテックに引っ張るタイプではなく、感情をこめて歌いこむしっとりとしたソプラノに感じる。
ここ一番を期待したむきには、不足だったかもしれないが、「私の坊や」での迫真の心に迫る歌唱には涙が止まらなかった・・・・。
ここで彼女の歌声をお聴きください。

ピンカートンのピザピアは、生粋のイタリア人。これが実はすんばらしい声で、私は今日の一番だった(声のみ!)。
コレッリに師事した経歴の持ち主だが、そのリリカルでかつ輝きあふれる声は、晴朗かつクリアー。この人もピンカートンを持ち役にするらしいが、ロドルフォやアルフレートなんぞ是非聴いてみたいもの。
でも、ビジュアルが・・・・。ハンバーガーか、それこそピザの食い過ぎのアメリカの兄ちゃん的な風貌は、考えなしのピンカートンにはお似合いかもしれないが、蝶々さんとつり合いが取れまへん。
「さらば愛しい家」を歌って、階段を駆け上がる姿は、ちょいと滑稽だったり・・・。
でも、いい歌手。注目!

シャープレスのイェニスは、スロヴァキア出身の若手で、こちらはスマートで身のこなしも鮮やか。そして声も中庸で、可も不可もないが、好ましいこの役柄をしっかり歌っていた。

以上三人、いずれもまだ日本ではあまり知られていない若手だったが、今後しっかりと活躍しそうな人たち。新国もなかなかいい歌手を見つけてくるもんだ。
蝶々さんを主要レパートリーにするババジャニアンにとって、今回の舞台はきっと忘れがたいものになったであろうし、スズキのあまりに素晴らしい大林さんとの共演も、日本人的な身のこなしを体感するうえで大いなるものがあっただろうな。
その大林さんをはじめとする、日本人歌手や合唱団の着物の着こなしやその動作は、日頃のわれわれの日常のものゆえに、舞台にかかるとなんときれいに感じることだろう。
 これで、海外DVDを見てしまうと、冗談としか思えなくなるから悲しい。
そうそう、坊やクンは実に物怖じもせずに名優だったぞ。

モンタナーロ指揮する東京交響楽団。こちらも素晴らしいものであった。
前半はよく押さえながら、抒情的な表現に徹し、後半は激情の度合を徐々に高めつつ、巧みにクライマックスへ向かっていった。
そして、よく歌わせること。
幕が降りたら、オケを称え、そしてスコアを掲げていた。

蝶々さんの悲劇ばかりでない、登場人物たちの悲劇をも感じさせた舞台だったように思う。

Backstage06_1 Stage29_1      

 

 

 

 

 

こちらは、ババジャニアンの出演したヨーロッパの舞台。
何ともはや・・・・。
まぁ、こんな感じなんだろな~

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2009年1月24日 (土)

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 スラットキン指揮

14 夕日を迎える前の瞬間。

太陽が山に沈む前、日の出と並んで、もっとも輝かしい瞬間かも。

逆光だけど、あえて撮ってみた。
バカチョンデジカメでも、自在に撮れちゃうもんだ。

デジイチ欲しいよう。

でもオペラに行くようがいいか・・・。
悩ましい、両方ガマンすりゃいいんだけどねぇ~ 
富士山も見えます。

Shostakovich_sym5_slatkin ショスタコーヴィチ(1906~1975)の交響曲シリーズ。
本日は一番の有名曲、交響曲第5番である。
ショスタコ入門は、誰しもこの曲。
私も、しっかりこの曲。
もう耳タコ状態の、タコ5であるからして、最近はもう何だかなぁ~っていう気分なのである。
初聴きは、たぶんN響のテレビ番組「コンサートホール」で、岩城宏之かラインハルト・ペータースだったかと思う。それと、オーマンディとフィラデルフィアのCBS盤のエアチェック。
ともかくもう、そのかっこよさに夢中になったもんだ。当然に、終楽章である
でもいまや、その終楽章にシラケテしまうのであるから困ったものだ。
大仰な始まりや、ティンパニ・太鼓の連打するエンディングがそうだ。
 歳とともに、そうした音響が辛くなっているのと、どうも、例の「証言」が意識の根底にあるからなのかもしれない。

1937年の作曲と初演。初演を引っ込めてしまった前作4番と、プラウダキャンペーンによる批判などで、名誉挽回をねらった大交響曲とされ、ベートーヴェンの第5と同じ、最後には歓喜の勝利を勝ち得ると評された。
私が、この曲を聴きはじめたのは70年代前半だから、演奏者はみなそうした下地をもって演奏していたのだろう。晴れがましいエンディングに歓喜したものだもの。
 それが79年の「ヴォルコフの証言」では、喜びを強制された仮面を被った歓喜であるとされたものだから、さあ大変。
私は文庫版になってから苦心のすえに読んだが、その証言もいまや偽物であるという説の方が強いのであるから、その証言を意識した演奏もまたいったいどーなっちゃうんだろ・・・、とかなんとか考えちまうと、この曲がめんどくさくなってしまった訳なのであります。

プラウダ批判以降、自分の声を封じてしまった作曲者なものだから、そして体制そのものが崩壊してしまったものだから、こんな諸説が氾濫してしまうのであろう。
ゆえに、ショスタコーヴィチの曲は、ハイティンクのように音楽をスコアを信じて純粋に演奏したものが、私には一番安心。
ハイティンクが全集を録音しつつあるときに、証言は飛び出したのだが、それに惑わされない頑固な指揮者だったのだな、ベルナルト氏は。

本日は、名匠レナート・スラットキンとセントルイス交響楽団の86年録音のCD。
この演奏も予想通りに、スマートに美しく、そして生き生きとよく書けているスコアを再現している。スラットキンは、旋律の浮かびあがらせ方や、主旋律以外の部分を強調したりで、ともかく聴いていて、面白い解釈を時に施すことがある人だ。
かつてのN響への客演もいずれも名演揃いだったが、CDには最近なかなか恵まれない。
 オーケストラ・ビルダーとしての才能もあり、セントルイス響をシカゴに次ぐ実力とまで言わしめるまでに育てあげた人ながら、ビッグタイトルを意識して避けているとしか思えない経歴、でもデトロイト響の指揮者になるというのは朗報。
しかし、ほんとうは、ロスフィルかニューヨークだろうな。
 この演奏は、実はテンポが遅い。約54分。(私の聴いた最短は、ヤンソンスとレニングラードの来日公演の放送で、40分を切っていた~これ超爆演!)
通常45分前後なのに、かなりテンポを動かして入念なのだが、出てくる音は、スラットキンらしく爽快で、3楽章のラルゴも深刻さよりは、抒情の勝った雰囲気になっていたし、問題の終楽章も、超スローで始まったかと思うと徐々にスピードをあげて、エンディングは普通にまとめあげていて私には嬉しい仕上げであった。
ともかく普通がよろしく、妙にコテコテしていないのがいい。
それでも、終わったあとに、空しさが残るのが、ここ数年の私のタコ5の印象であります。
この曲のファンの方、申し訳ござらぬ。
私には、みょうちくりんな「4番」の方が未開の喜びも満ちていて好きなのでございます。

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2009年1月22日 (木)

バックス 2台のピアノのためのソナタ ブラウン&タニェール

13 冬の空。
月も浮かんでます。

私の住む関東の太平洋側は、冬はずっと晴天が続く。
この晴れと乾燥が当たり前になってしまうから、雨がとても新鮮だったりする。

毎日、曇天だったり雪が降ったりする地域の方々には申し訳ないくらいの青空。
駅に降り立ったりしたとき、空を眺めて、その青さに感激したりする。
そんな気持ちのゆとりも大事だなぁ。

Bax_piano_duos 生粋のロンドンっ子でありながら、ケルトを愛し、アイルランドや北部イングランドをこよなく好んだアーノルド・バックス(1883~1953)。
英国音楽でも、その独特のファンタジーに富んだ作風は、一聴、とらえどころがないけれど、何度も繰り返し聴き、いったん妖精が飛び交うような幻想ムードにはまってしまうと、もうバックス・ワールドから離れられなくなってしまう。

ディーリアスに始まった、私の英国音楽の旅は、バックスを知ることによって、ケルトに魅せられた他の作曲家たちもすぐさま視野に入ってきて、とても幅が広がった。
具体的な描写音楽ではないけれど、その音楽はほとんどが、四季の移り変わりや、アイルランドやスコットランド、北欧の大自然を元にして得た心象風景を元にしている。
ディーリアスを好きな方なら、きっと気にいっていただけるバックス・ワールド。

それと大事なことは、私にとってなくてはならないツールとして、アイリッシュやアイラ系のモルトウィスキーとの相性。
燻したピートを含有したウィスキーのシャープでほろ苦く、かつ甘みのある味。
それが、バックスの音楽にぴったりなんだ。

シンフォニストとしてのバックスを聴くのもいいが、ピアノの名手であったバックス。
ソロ作品に加え、学生時代からピアノデュオも組んだりして、オペラの伴奏や編曲などをかなり行っていたという。
 そして、作曲家として自立後は、ロバートソン&バートレット夫妻のピアノチームのためにいくつかの作品を残し、それらがまた、なかなかの桂曲なのである。

 1.2台のピアノのためのソナタ
 2.「Red Autumn」
  3.「ハルダンゲル」
 4.「毒を入れられた噴水」
 5.「聖アンソニーを誘った悪魔」
 6.「Moy Mell~アイリッシュ・トーン・ポエム~幸せな平野」

    ピアノ:ジェリー・ブラウン&セータ・タニェール


3楽章形式、22分あまりのソナタは、1929年の作品。
第3交響曲や、荒涼としたロマンあふれる「ウィンター・レジェンド」と同じころ。
後者は、ピアニストのハリエット・コーエンのために書かれた曲で、不倫ながらも二人の仲は公然の事項だったという。そんな時期だから、このソナタは何か春の息吹を感じさせる芳香に溢れているよう。
春の物憂いくらいの日の中、もやもやとした雰囲気と爆発的にはじける自然。
ケルト的な妖精ムードに綾どられた静的な様相も、夢想的でとてもいい雰囲気。
実に、いい曲である。

そのまま訳すと「赤い秋」。それよりも、red autumnの方が詩的だな。
オーケストレーションも施そうとしたらしく自然の機微を感じとった、極めて詩的な音楽。
これぞ、バックスなのかもしれない。
このそこはかとない、何を主張するでもない感覚的な音楽は、ディーリアスにも相通じるもので、聴き手はただ音楽に身を委ねて、ぼぅ~っと聴いていればいいと思う。
日本の枯淡の秋の紅葉と違って、鮮やかな赤が静物画のようにとどまっている雰囲気。

一番、耳に馴染みやすく楽しいのが「ハルダンゲル」。
ノルウェーの風光明媚な一地方の名前であると同時に、そのノルウェーの伝統楽器のヴァイオリンの一種。弾むリズムがとても楽しい。
そう、グリーグに思いを馳せて書いた作品なのである。舞曲のような一品。

次の3つの作品は、まるで表題付きの交響詩のよう。
しかし、あまり曲の云われやデータがない。
とても静かで神秘的な「毒入りの噴水」、画家マティスの描いた場面「聖アンソニーを誘惑する悪魔」は、スクリャービン的であるともされる。
この二つは、わたしにはちょっと、インスピレーション不足に思われたが。
 最後のMoy Mellは、かなりいい。
これは1916年頃、アイルランドの印象を取り込んだ初期の作品で、それが極めて素直に表れていて、明るくも美しい。そしてとても旋律的で、2台のピアノの使い分けが効果的で、このCDで初めて、あらピアノ2台なのね、と感じ入る曲であった。

以上、いずれも、オーケストレーションがなされれば、立派にバックスの交響詩として通用する、まさにバックスワールド大展開の素敵な音楽。
英国男女のペアによるこの演奏、とてもいいのではないでしょうか
そして、燃えるような紅葉のジャケット、とてもいいです。

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2009年1月21日 (水)

サン=サーンス 「サムソンとデリラ」~バッカナール オーマンディ指揮

1 新年、新橋の居酒屋で食べた刺身の盛り合わせ。

いわゆる、「刺し盛り」でございます。

中トロ、鯛、生タコ、ぶり、ほたて、とり貝。
やたらにおいしい、海の宝石箱やぁ~

冬場のお刺身は、脂のり~の、たんぱく・さっぱり~ので、ともかくおいしい。
こんな厳しい時代、高いお金を出さずに、おいしいものはいくらでもあります。
一方、スーパーの刺身も目が肥えればいいものがしっかりあります。
中食・内食の時代、お父さんも、お母さんも、安くて、いいものをしっかり手配しましょう。
自分で、釣れるようになれば一番。
私の亡親父は、海に川に結構、調達してきました。

Ormamdy 今日は、おいしい刺し盛りのような1枚を。

オーマンディフィラデルフィアのコンビによる、オーケストラ名曲集をば。

CDタイトルは「ファンタステック フィラデルフィア」。

70年代前半にRCAに録音されたオーケストラ・ピースをしっかりと集めたもので、全部で11曲。
学校の音楽で習う通俗曲ばかりでなく、クラシックファンをもうならせる、なかなかの選曲になっていて、私は曲名をブラインドで聴いたが、おぉ、そう来たかとか、なるほどねぇ~とか、ぶつくさ言いながら、おおいに楽しんだ1枚であります。

  ①サン=サーンス   「死の舞踏」
  ②デュカス        「魔法使いの弟子」
  ③シャブリエ      「スペイン」
  ④ムソルグスキー    「はげ山の一夜」
  ⑤スメタナ             「売られた花嫁」~道化の踊り
  ⑥サン=サーンス    「サムソンとデリラ」~バッカナール
  ⑦ポンキエッリ         「ジョコンダ」~時の踊り
  ⑧ブラームス            ハンガリー舞曲第5番
  ⑨グリエール           「赤いケシ」~ロシアの水兵の踊り
  ⑩ファリャ             「三角帽子」~火祭りの踊り
  ⑪カバレフスキー      「道化師」~ギャロップ

   ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

こんな構成のCDを、いまどきあらたに発売しても、きっと売れやしないだろう。
そもそも、有名なオーケストラ・ピースを真剣に演奏する指揮者もカラヤンとマリナー以来、絶えてしまったし、そんなCDを作ろうとするレーベルもなくなってしまった。
これも時代なのだろうか?
ここにあげた名曲たちは、「いにしえ」の名曲なのであろうか?

今の若い方々は、何を聴いてクラシック音楽に入ってくるのかしら。
新世界や運命、田園、第九は一部変わらないとは思うけれど、私のような世代では考えようもない、マーラーやブルックナーを普通に聴いてスタートしておられる方もいるのではないでしょうか?
音楽を享受するメディアの進化によって、そしてオーケストラの技量の進化によって、名曲の尺度が変わってきたように思われてならない。
だからこそ、カラヤンやオーマンディ、マリナーらが振ったオーケストラ名曲集を、時にはゆったりと聴いていただきたい。
自分こそ、日頃、しんねりむっつりと、大曲やオペラを一人楽しんでいるけれど、子供たちと、こうした名曲をああでもない、こうでもないと聴いてみるべきかもしれない。

殺伐とした時代に、明るい家庭を音楽から・・・・。

それにしても、オーマンディとフィラデルフィアの屈託なくも名技性に富んだ演奏は、何も考えることなく、普通によろしい。
どうしても、オペラ好きなものだから、この中では「サムソンとデリラ」と「ジョコンダ」がバレエ音楽ながら劇中のものとして、とてもうれしく、そして一人盛りあがった
あと、これまた、古風なる運動会ミュージックの⑪も
やっぱり、こんな味のあるCDを制作できるレーベルや、演奏家は、今やどこにもないなぁ~

 
 
 

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2009年1月20日 (火)

ベートーヴェン 交響曲全集 カラヤン&クリップス

Beethoven 今日は、大写しにふたつのベートーヴェンの交響曲全集を。

このふたつとも激安全集であります。

カラヤンのDGへの1回目の全集が@1500円也。
クリップスの全集が@1000円。
いずれもHMVにてお買い上げ。

円高の恩恵か、輸入盤が、ガンガン安くなる。
こんな飽食CDの時代、いくら安くされても、買わないように努めていたが、過去に軸足のあるワタクシのような人間もさすがに触手を伸ばさざるをえないふたつのベートーヴェン全集だったのだ。
ついでに、アバドのDVDによるベートーヴェン全集も@3694円で、手にいれましたぞよ。
なんという時代。あんなに高値の華だったレコードが、昼ごはんをちょっと節約するだけで買えてしまうなんて・・・・。

60年代のカラヤンのベートーヴェンにはお世話になった。
カラヤンしか知らない子供。初レコードは、「ケルテスの新世界」と「カラヤンの田園」の2枚をクリスマスに買ってもらった。
その後、何枚かそろえた日本グラモフォンのカラヤンのベートーヴェン。

ついで、1970年、万博の年+ベートーヴェンの生誕200年。
日本コロンビアから出た日本初の1000円レコード。
当時は、通常1800~2000円だったが、その半値のレコードは衝撃だった。
その名も「ダイアモンド1000シリーズ」で、そのシリーズの一環に、ベートーヴェン200年記念のシリーズがあって、「クリップスとロンドン交響楽団」のベートーヴェン交響曲全集が6枚組@6000円だった。
これには、小学生のおいらも驚き。しっかりとしたカートンボックスに入った、真白い装丁のジャケットは廉価盤とはいえ6000円の重みがあり、おいそれとは買えないひと組だった。
Beethoven_p1 このシリーズには、ブレンデルとメータの皇帝を含む協奏曲や、ファイン・アーツSQの弦楽四重奏全集などがあって、なかなかのラインナップを誇っていたし、評論家・大木正興氏も絶賛していたりしたもんだ。
こんな酒飲みの昔話に共感いただけますでしょうかねぇ・・・。
ともかく、当時は、1000円とはいえ貴重だったし、むさぼるように聴きまくったのであります。

いまは、邪念に満ちた大人のワタクシが、6分の1の価格になり、お菓子の箱のような缶ケースに収まったクリップスのベートーヴェンを聴くとき、演奏のどうのこうのでなく、そんな今昔を思ってしまうのであり、それだけで、酒のアテになったりもしてしまうのであります。

いずれ、カラヤンとともに、そのイケナイ大人が聴いた懐かしい全集をレヴューしたいと存じます。
ついでに申さば、この缶入りベートーヴェン全集をば、子供たちにみせて、「ほーら、ウィーンのチョコレートだよぅ」と言ったら、まんまと引っ掛かったものでございます。

本日は手抜きの思い出話でした。

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2009年1月18日 (日)

ブリテン 「燃える炉」 ブリテン音楽監督

12 不景気ゆえに、各地で人出の目立った初詣。

人は何故に手を合わせるのであろうか。
人間の存在のうえに神を置き、その神も世界に八百万(あおろず)あり、その信仰ゆえに争いが起き、それも悠久の昔から続いている。
まったくなんのための神様わかりゃしない。

Burninng_fiery_furnace ブリテン(1913~1976)のオペラ。
17作品あるなかで、ひと際ユニークな存在が、教会寓話三部作。
カーリュー・リヴァー」(64年)、「燃える炉」(66年)、「放蕩息子」(68年)からなる。
いずれも1時間あまりの室内的な作品で、オペラという枠を超えて、聴衆も劇の参加者のような立場で観劇する気分になる不思議な世界を持っている。

教会寓話というには、それぞれ教会で演奏されるのを念頭においたこともあるが、内容が旧約・新約それぞれの聖書から題材を得ているからである。

日本の能にインスパイアされた「カーリュー・リヴァー」が一番有名だし、内容的にも独創的で聴きごたえがある作品。
でもほかの二つはどうだろう。
正直、これまで聴いたことがなく、ブリテンのオペラを聴いて行くうえで、順番がやってきたに過ぎないような存在。
作曲者が初演直後に録音したものしかそれぞれ音盤が存在しないのも寂しいし。
それと、なんだか怪しげなジャケット。
ちょっと逡巡してしまう雰囲気なのだ。

音楽は、Salus aeterna(とこしえの救い主)という讃美歌によって始まる。
教会の奥の方から無伴奏で歌いながら徐々に近づいてくる。
この遠近感のステレオ効果は、まぎれもなく、当時のデッカの録音技術の先端。
ジョン・カルショウ、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソンの名前がクレジットされている。
この場面のあとは、フルート、ホルン、トロンボーン、数人の弦楽奏者、ハープ、オルガン、打楽器などの編成による古典風であり、エキゾテックでもあり、この世ならぬ風でもあり、といった、まさにブリテン特有の響きみ満たされてゆき、そこに朋友ピアーズをはじめとした名手たちの狂気にも似た迫真の歌唱を聴くとき、すっかり引き込まれる自分の姿があった。
上記のような特殊な編成と、歌手たちはすべて男声に少年・・・・。
またもやの世界ではありますが、こりゃもうブリテンを聴くうえでの宿命でございますな。

聖歌を歌いながら修道院長や助祭らの一団がやってきて、院長が善男善女の皆さん、これより神聖な劇をご覧にいれますと、口上を述べる。
時は、紀元前6世紀のネブガドネザルが支配するバビロニア。
イスラエルの三人の若者が、バビロンの3つの地方を納めるように選ばれたことから、ネブガドネザルのもとに連れていかれることとなったが、3人の父たちには、信仰を裏切らないように強く言い含められていた・・・・。


院長は、ネブガドネザル役となって、劇が始まる。
3人が登場し、王のもとで占星術師からバビロニア風の名前を与えられる。
そして、飲めや歌えやの祝宴が始まるが、3人は、いっさいを口にせず、飲みものも手にしない。
これに怒った占星術師とネブガドネザル。イスラエルの法により禁じられてますと3人。
怒りながら退席しつつ、占星術師は王にバビロンの危機を忠告し、偶像の崇拝による人心の一体化を勧める。
黄金の像の建立が布告され、拝まなければ「燃える炉」に投じられるとした。


皆が拝むなか、件の3人は自分たちの神を祈るのみ。
ついに王も怒り、3人は「燃える炉」送りに、しかも7倍熱くしろと命令。
ところが、炉には、3人のほかにもう一人現れる・・・・。
天使がやってきて、3人とともに祈り、そして炉の中を平然と歩んでいる。
これをみて驚愕したネブガドネザルは、心を改め、占星術師を追放し3人の神を真実として布告する・・・・・。


修道院長の姿にもどった院長は、「友よ忘れてはならない、黄金は火で試される。そして人間の勇気は屈辱の炉で試されるのだ」
劇の終わりを宣誓し、またもや賛美歌を歌いつつ退席する。

どーですか?
ちょっとアレですが、悪くはないでしょう?
ストイックさが「モーゼとアロン」を思わせるし、黄金の像を讃美する廷臣たちの歌やその伴奏が、かなりまがまがしく怪しげ・・・・・。
それが延々と続くものだから、このあたりはちょっと辟易としてしまうし、燃える炉の中での天使の声は「ア~」しか歌わなくて、しかも少年ちゃんなもんだから、これまた勘弁して欲しい・・という気分になってくる。
こんな場面と聖的な清涼感が混在する独自の作品。
そう何度も聴けないけど・・・・・、興味のある方は聴いてみてくださいまし。

 ネブガドネザル:ピーター・ピアーズ   占星術師:ブライアン・ドレイク
 アナニアス:ジョン・シャーリー=クヮーク ミサエル:ロバート・ティアー
 アザリアス:スタッフォード・ディーン   伝令:ピーター・リーミング

     イギリス・オペラ・グループ管弦楽団/合唱団
     音楽監督:ベンジャミン・ブリテン、ヴィオラ・タナード
               (1967年5月オックスフォード・パリッシュ教会)

残る「放蕩息子」も近々取り上げます。
まだオペラは、これで6作目。前作制覇まで、あと11作品。
先は長いです。

過去の三部作

「カーリュー・リヴァー マリナー指揮」

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2009年1月17日 (土)

神奈川フルハーモニー定期演奏会 現田茂夫指揮

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第250回定期演奏会は、オール・アメリカ音楽。

      バーンスタイン 「キャンディード」序曲

      ガーシュイン   ピアノ協奏曲ヘ調
                  
                  Pf:小川典子

      コープランド   交響曲第3番

         現田茂夫 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                         (1.16@みなとみらいホール)

20090116_1 今の閉塞感がアメリカ発症の源ながら、そんな思いを吹き飛ばしてくれたような、気持ちよい爽快なコンサートだった。
そう、20日に迫ったオバマ新大統領の就任も意識させる、ナイスなタイミング。
まさに、アメリカ・ザ・ビューティフル

今回もこんな渋いプログラムながら、ホールはかなり埋まった。
最近人気の神奈川フィルである。
おまけに、今日は大物ソリストも登場だったし、それと何といっても、14年間続いた現田さんの、常任としての最後の定期公演というモニュメンタルな会でもありました。

コンサート前のプレトークに、終了後のお見送り、欠かさずに現田さんはこなしてきたという。
こうしたたゆまぬ積み重ねの成果が今の神奈川フィルの興隆をもたらしたのであろう。
独特のきれいな音色も、彼らコンビから生まれ出たものであろう。
私が、このオーケストラをこうして応援しだしたのは、まだほんの数年。
今更ながらに、もっと早く知っておくべきでございました。

さて、前置きはともかく。
5分の短編ながら、「キャンディード」序曲は、バーンスタインの才気がたくさん詰まったびっくり箱のような桂曲。
冒頭から、ノリが良く、メンバーもニッコリとほほ笑んだりしながら演奏している。
ゲストコンマスの大阪フィルの長原氏、どうしてどうしてオケを引っ張っていたし、他の曲でのソロもオケと同質性を感じさせる音色でよかったのでは。
この演奏、私の好きなプレヴィンの演奏を思わせるような優美さと快活さのバランス感覚がとてもいい。現田さんの気質にぴったりの曲だし、これから始まる舞台をも想起させてくれちゃう感興にも事欠かったなぁ。

ついで、登場の小川典子さん。
多くを聴いていないけれど、小川さんのイメージは、ヴィルトゥーソ的な部分と、私の大好きなディーリアスのCDに聴かれるニュアンス豊かな繊細さの二つがあった。
今宵のガーシュインのヘ調の協奏曲では、はじけるような抜群のリズム感とスィングするジャズ的な感覚、そして優美な歌、そのいずれにも惚れぼれするくらいに聴き入った。
伝統的な協奏曲の枠組みを持ちながら、その中に込められた自由な歌い回しは、クラシックでありながらそうではない。
この曲もやはり、プレヴィンやバーンスタインが実にうまいものだが、今日の演奏会がCDにならないものかしら!
オーケストラも常にリズムと歌を意識していなければならない難曲。
現田さんと神奈フィルは、破綻なく、各ソロも含めて最高だったように思う。
終楽章のエンディングには鳥肌が立つほどワクワクしてしまったぞ。

コープランドの第3交響曲は、45分、4つの楽章の本格シンフォニー。
打楽器多数、鍵盤楽器、ハープ2台、金管フルの大規模な編成で、随所ににぎにぎしいファンファーレや、憂愁を帯びたラテンアメリカっぽいムードや、アメリカの草原を思い起こすようなおおらかさなどが、満載となっていて、シリアス交響曲とはいえ、いかにもコープランドの音楽であった。
有名な「市民のためのファンファーレ」が終楽章にはじめはゆったりと、そして金管群が朗々と奏でだすと、いやがうえにも盛り上がってゆく。
愛国心を楽天的な響きの中に込めた長大な曲は、こうして華々しく終結したが、ホールいっぱいに本当によく鳴りわたる音楽だ。
やりようによっては、取りとめのない音楽になってしまうところを現田さんは、実によく締めていて金管や打楽器が突出しないようにしていたし、2楽章の中間部や3楽章の緩徐的な場面を歌に満ちた場面としてよく際立たせていたように思う。

演奏終了後のコールで、セクションごとに声をかけて労をねぎらっていて、その後、花束を受けた現田さん。
アンコールに、ファンファーレを金管がスタンディングで再演し、会場は大いに盛り上がってた。
手を振って去る現田さんの姿に、ちょいとウルウルしてしまいましたワタクシでございます。

その後、ロビーで、現田さんを囲んでちょっとした慰労会が行われ、軽く飲み物も。
楽団理事や、現田さん、ソリストの小川さんも、それぞれスピーチをされ、とても和やかな会でございました。
ファンファーレは、マリノス応援にも使ったし、今年はベイスターズ応援にも編成される計画ともいう。嬉しいじゃぁないの。
ともあれ、現田さんお疲れさまでした。
これからも名誉指揮者として、神奈フィルを振ってください。できれば、オペラを

缶一本ではとうていおさまらない、毎度お世話になってます「勝手に神奈フィル応援メンバー」にて、美酒とそして素晴らしい肴を堪能しつつ音楽談義。
毎度楽しいひと時、ありがとうございました。

おまけに、ナタリー・デセイの歌う「キャンディード」の眼も眩むような鮮やかなアリアをどうぞ。
序曲がお好きでしたら、きっと楽しめると思います。
そして、ナタリーのすごさ

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2009年1月15日 (木)

モーツァルト 「戴冠式ミサ」K317 クーベリック指揮

11正月の駅伝を見た帰りに、国道1号線を横断し、海の方まで散策してみた。

そのあたりは、私が子供時代を過ごした場所で、白砂青松の美しい海岸だった。
その後バイパスができて、橋脚と波消しブロックだらけになり、海岸線も迫ってきて、環境は変わってしまった。

一昨年の台風直撃で、ついに砂浜が消えてしまった・・・・・。

子供時代を見て過ごした海の風景は、今いってもどこにもない。

海が見えた当時通った幼稚園もすっかり改築され、新しい教会も立っている。
そして、真新しい洒落た戸建て住宅がたくさん建ってしまい、その園からも海が見えなくなっている。
 自分の記憶の中にある風景だけは、いつまでも変わらないが、実際の風景は確実に変化してしまっている。
大人になって、子供の頃の街へ行ってみると、こうした変化に驚くと同時に、あれ?こんなに狭かったっけ?小さかったっけ?と、大幅なスケールダウンの構図にも目を見張ることがある。
自分にとっての思い出の街の風景は、いつまでもそのままであって欲しいもの・・・・・・。

Mozart_coronation_mass_kubelik モーツァルトが1779年に書いた、愛らしいミサ曲を聴く。
ザルツブルク時代に、宮廷作曲家としての立場からいくつも書いたミサのなかで、一番有名なこの曲は聖像の戴冠を祝うために演奏されるために作曲されたとか、ほかの説では、レオポルド2世の実際の戴冠式に演奏されたから、といった経緯から「戴冠ミサ」と呼ばれている。
25分、5部からなる軽めのミサながら、モーツァルトらしい明るく伸びやかな音楽で、このところ、重厚長大な音楽ばかりを聴いてきた、私の耳にそれこそ石清水のように清冽に沁みこむばかりに響いたものだ。
通常の典礼文通りに、「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」の5曲からなり、いずれも長調が基調で屈託なく進められ、アーメンの歌声もやたらに明るい。
そんななかで、最終アニュス・デイが、オペラアリアに傾いたような音楽となっている。
「フィガロ」の伯爵夫人のアリア「楽しい思い出はいずこに・・・」に似た旋律は、とても美しい。

   S:エデット・マティス    Ms:ノーマ・プロクター
   T:ドナルド・グロ-ベ   Bs:ジョン・シャーリー・クヮーク

     ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団/合唱団
                         (1973年録音)

まるで、マーラーでも録音できるかのような歌手も揃えたクーベリックの指揮は、ある意味立派すぎるし、うますぎる。
もっと稚拙で素朴であってもよかったかもしれない。そう、かつてのグシュルバウアー盤のように。贅沢言っちゃいけませんな。立派なモーツァルトなのだから。
でも、最大の聴きものは最後のマティスの透きとおったような無垢の歌唱である。
これにはすっかり気分がよくなってしまう。
誰しも心洗われることであろう。
あぁ、これでぐっすりと眠れそう。気分よろし。

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2009年1月14日 (水)

ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」 エッシェンバッハ指揮

Owariya_tensoba 浅草は「尾張屋」の天ぷらそば。

以前にも紹介済みの、あまりにも有名なこちらの天ぷらそば。
明治3年の創業というからすごいですな。
丼からはみ出す、ピンとはった海老天が2本。
カラリとゴマ油で揚がったその海老を頬張れば、もう口は至福に緩む一方だ。

こんなウマい食べ方を誰が考えたんだろ

Sym4_eschenbach ブルックナー(1824~1896)の交響曲シリーズ。
交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」でございます。
3番に引き続き1874年に作曲され、リンツにて初演されたが、またまた改訂癖が出て、第3楽章は全く違う曲となり78年に完成。
さらにまた手を加え80年までかかった。
これが第二稿と呼ばれるもので、今標準的に演奏されている版。
ハース版やノヴァーク版は、こちらの第二稿となっているが、ほかの諸稿については、さっぱりわからないし、あまりにもややこしいから、もういいでしょう
原始霧の弦のトレモロの中から、ホルンが柔らかく響いてくると、そこは中世ドイツの森のよう。この前段で主要主題が出揃い、輝かしいクライマックスとなる第1楽章。
ホルンがオケの上に響き渡る最終場面は、ブルックナーらしくもなくかっこいい。
そして、深い森を逍遥するような第2楽章は、大いに渋く、孤独を味わうこともできる。
ピチカートに乗ってヴィオラが歌う場面はとても美しく好きな場所。
ホルンや金管の活躍するリズミカルな3楽章は、森へ向けて駆け抜ける狩人たち。
トリオは相変わらずのどかなものだ。
そして、長大な終楽章は、なかなかに難解で、その分味わいが深い。
これまでの楽章の集大成的な存在で、寄せては返す波のようにクライマックスが次々に訪れ、何度も息を詰めるような思いになる。
この楽章の最後にもホルンが活躍する。

唯一タイトルを冠したこの交響曲は、ブルックナーの中でも一番ポピュラーで、演奏頻度も高い。
私もご多分にもれず、この曲から入門した。
カラヤンが第9以外に初めて録音したブルックナーで、4番と7番の3枚組のEMI盤。
その4番のみをカセットに録音し聴いたのが初。
いま思えば、壮麗にすぎる演奏だが、中学生の私には、小難しい曲が輝かしく響き、快感だった。
その後は、7→9→8→3→5→6→2→1・・・・、こんな塩梅で聴き進めていったのではないかと思う。
どうしても、4番で入門しても、そのあと後期の名作から中期、そして初期へとなってしまうのが、マーラーと違う大器晩成オヤジのブルックナーの聴き方である。

今回の演奏は、クリストフ・エッシェンバッハパリ管弦楽団によるCD。
これは、実にユニークなブルックナーであった。
まず遅い。全曲で73分30秒。
最速のアバドで60分あまり。それは早く感じないほどの透徹した演奏だったが、このエッシェンバッハは、どう聴いても遅い。
一概にエッシェンバッハは入念な演奏をするから、常に演奏時間は長い。
全部が遅いわけではなく、要は時に立ち止まって入念な解釈を施す場面が多々あるからなのである。
各楽器がそれぞれに歌う場面も、他の楽器を抑えてしまって、その楽器をクローズアップしたようにじっくりと歌わせる。2楽章では、それが実に美しい効果を生んでいるし、終楽章の難しいエンディングも相当のタメを含みつつ堂々としたものになっている。
デフォルメに過ぎると感じるむきもあるだろうが、私はこんな指揮者の個性が好きである。
そう何回も聴ける演奏ではないかもしれないが、こうしたブルックナーがあってもいい。
そして、エッシェンバッハの個性に加えて、パリ管の軽めの音が全体がネットリしてしまう印象から救っている。
ライブ録音ゆえのホールの特性もあろうが、管楽器の軽さと金管の輝かしさ、弦の薄味さなどが、私には妙に快感である。
このコンビの解消は残念。「リング」全曲上演など、ワーグナーもかなり演奏していたから、「フレンチ・リング」の録音を期待していたが・・・・・・。

Esheinbscha 若き日のピアニスト、エッシェンバッハ。
すごく敏感そうで、詩的な感じ。

このあと、すごく長髪になり、小沢との皇帝では、ロックミュージシャンのような二人が、とてもかっこよかったんですけれど。

ちゃんと、ありますが、こういう風な感じがあぶない。

まぁ、人のことは言えませんがね。

Img10381252527
そして、ご参考までに。
抱腹絶倒のパロディ映画「オースティン・パワーズ」
マイク・マイヤーズ。
詰め襟風の衣装までが・・・・。

以前からずっと思っていた。

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2009年1月12日 (月)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 サヴァリッシュ指揮

Hollander_sawallosch

暮れのバイロイト放送を録音したものをようやく編集してCDR化した。
全部を聴いたわけではないけれど、楽劇ばかりが上演された(何年かのサイクルでこういう年が必ずある)2008年は、好みは分かれそうだが、ティーレマンの圧倒的な実力が光り、おそらく今年と来年で一番すぐれた上演になるであろうことから、ライブ録音もなされるものと思われる。
 そして、ガッティのゆったりとしたパルシファルも明るく伸びやかでよかった。
あと、職人シュナイダーのトリスタンが一昨年よりテンポも落として、かなり重厚さを増していたように思った。
今月、東京フィルに来演するシュナイダー。
リングの抜粋を演奏してくれるが超楽しみ。
 ワーグナーの曾孫二人に委ねられたバイロイト、カタリーナの先鋭的な変なマイスタージンガーの映像がバイロイトのHPから手に入るようだ。
見たくもあり、目をそむけたくもあり・・・・・。

さて、本題は、「さまよえるオランダ人」。
こちらは、1974年に制作された映画版オペラである。
ミュンヘンのスタジオで収録されたもので、実際の歌手たちが演じているのでイメージ上の不自然さはまったくない。
映画版なので、ト書きに忠実で、妙な読み換えもなく、誰でも安心して「オランダ人」を楽しみことができるし、それ以上に、配役とオーケストラが素晴らしいものだから、ワーグナー好きには大いにお勧めしたい。

  ダーラント:ベルント・ルントグレン  ゼンタ :カタリーナ・リゲンツァ
  エリック  :ヘルマン・ウィンクラー   マリー :ルート・ヘッセ
  舵手   :ハラルト・エク        オランダ人:ドナルド・マッキンタイア

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                         バイエルン国立歌劇場合唱団
                         演出:ヴァーツラフ・カシュリーク
                          (1974 ミュンヘン)

3_2   1937年生まれで、1988年には引退してしまったスゥエーデンの名花リゲンツァのワーグナー映像が観れることが一番大きい。
リゲンツァの音源は正規には、「ヨッフムのマイスタージンガー」と「カラヤンのリングの端役」、「DGへのヘンデル歌曲集」ぐらいしか残されていない。
一方、実演では70~80年代を代表するドラマテック・ソプラノだっただけに、ドイツを中心に大活躍していて、同国の先輩ニルソンが、「私のあとは、リゲンツァとリンドホルムがいるから大丈夫よ」と言っていたくらい。
5_2 非正規盤ながら、「カルロスのトリスタン」でその素晴らしいイゾルデが聴ける。
私は、87年、ベルリン・ドイツ・オペラの来日公演の「リング」を全部観ることができて、リゲンツァのブリュンヒルデとコロのジークフリートを体験できた幸せ者である。
(そのときの日記をいずれ、こちらに載せようと思っております)
そのリゲンツァ、先輩ニルソンの強靭な声とは異なり、神々しさよりは、女性的な優しさをもった身近で大らかな声に感じる。
こうして映像を伴って聴いていると、思いつめて病的なゼンタではなく、幼馴染のエリックに冷たくもできず、一方でオランダ人に強く同情するという風情が感じられる。
そうした常套的な演出あってのうえかもしれないが、リゲンツァの歌には無垢な透明感のようなものを感じた。
オルフェオには、彼女がブリュンヒルデを歌ったシュタインのバイロイトリングを取り上げて欲しいものだ。

1 マッキンタイアのオランダ人は、演技派の人らしく、眼力からしてすごい。
海辺で、波にひたひたに浸かりながら歌う「期限は切れた」のモノローグは、実際に青ざめて苦悩に充ち溢れているし、ダーラントを宝石で籠絡するギラギラした顔もいっちゃってる。マッキンタイアは、録音・映像ともに恵まれていて、ウォータンやザックスもその演技力はなかなかと思うし、その以外にもまろやかな声で細やかに歌う心理描写は、目を閉じて聴いても立派なもの。
新国のトーキョーリングで、贅沢にもフンディングとして登場したことには驚いたもんだ。

他の歌手たち、みなさんベテラン揃いでいいです。
ベームのオランダ人でも舵手を歌っている、エクがなかなかのイケメンです。
あと、ルート・ヘッセも懐かしい名前。

4 チェコの演出家というカシュリークは、同国の先輩スボヴォダの影響を受けた人らしいが、なかなかリアルで、わかりやすい映像を作り上げたものだ。
無用に歌手のアップ画像があるわけでもなく、舞台を感じさせるような全体像が、画面から見てとれるのがよいと思った。
メッセージ性はないが、オランダ人入門としては格好かもしれない。
序曲を聴けば、幕切れのバージョンがわかるが、本編は救済なしでも、折衷バージョンで、まずは納得感のあるものだった。
 面白かったのは、映画ゆえにできるリアルさ。
嵐による波がじゃばんじゃばんと船や人々、舵手にかかるし、船から降りて波間を歩くとき、今度はジャバジャバと水を切る音がしっかり聴こえる。
こうした屋外の場面では、登場人物たちの吐く息も白い。
ゼンタの前に登場したオランダ人の上には、その肖像が掛かっていて、戸口の奥には海が見渡せ、そして「赤いマストのオランダ船」が見える仕組み。
7 居酒屋場面では、その居酒屋とダーラントの船、幽霊船との位置関係の空間処理が映画ならではだし、目覚めた幽霊船の船員たちがゾンビのように居酒屋を襲ってしまう。
これは笑える。まるで、複数の「ジョイマン」がうねうねと踊るんだもの。

オーケストラは、録音的にバックグラウンドミュージックっぽいが、きびきびと要所を押さえながらのスタイリッシュ指揮ぶりはサヴァリッシュならでは。
このコンビの来日公演での「オランダ人」を今更ながらに思い起こしたものだ。

6 今となっては、一時代前の印象はぬぐえないが、普通がうれしかった「オランダ人」でありました。

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2009年1月11日 (日)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハイティンク指揮

8 シーズンに張り忘れ。
野菜による、野菜だけのツリー。

そう、ベジタブル・ツリーや

JAは、減少する農家のためだけに存在したのではもうやっていけない。
地場野菜を売る、大規模な産直のお店が各地に出来てきている。
実家へ行くたびに、買出しにいくこちらは、朝早めにいかないと、品薄になるくらいに人気。
地元の方々が作った、パンや弁当、蕎麦やラーメンも売っているから、何でもありの生鮮スーパーさながらなのだ。

Shostakovich_sym4_haitinkcso ショスタコーヴィチ(1906から1975)の交響曲シリーズ。
本日は、交響曲第4番ハ短調

この交響曲が好きで、本稿で3度目の登場。
大野和士&新日本フィルのライブハイティンク&ロンドン・フィル
CDもそこそこ持ってます。
上記のハイティンク、ヤンソンス、ゲルギエフ、ラトル、ミュンフン、ロジェストヴェンスキー。
音源・映像では、ロストロポーヴィチ、デュトワ、ヤノフスキ、ハイティンク(BPO!)などなど。

どの音源も、聴けば聴くほど、その複雑に絡み合った旋律がどんどん馴染みになってはいくけれど、次々に脳裏から消え去ってゆく。
いったいこのつかみどころのない音楽は何なのだろうか?
この交響曲は、そのごちゃまぜ、何でもあり的な要素からも、マーラーとの類似性を強く言われるが、悲観と楽観、世俗と神聖などが入り混じったマーラーの方がまだわかりやすい。
このまるで、闇鍋のような交響曲(そもそもどこが交響曲なんだろうか?)に、ショスタコーヴィチは何かを隠したのであろうか?
1936年、時はスターリン治下のもとにあった。
「ムツェンスクのマクベス夫人」がその悲劇性が受け、内外に大いに評判をとっていたが、スターリンが劇場で観たのちに、プラウダ紙はこのオペラを痛切に批判し、大キャンペーンを張った。
スターリンの大粛清の前哨戦ともいえる、芸術批判の始まりだった。
同時に期待の高まる交響曲への批判もなされるようになった。
第4交響曲の2楽章までを仕上げていたショスタコーヴィチは、反論せず、沈黙を守り、この交響曲の完成へとこぎつける。
 (このCDには、ハイティンクとシカゴ響のオーケストラホールでの演奏の模様を差し挟みながら、こうした経緯を豊富な歴史的映像を交えて紹介するDVDがボーナス盤として付いていて、今回記事もそちらから参照した事例が多いです。)

完成後、訪ソ中だったクレンペラーに、この全曲をピアノで聴かせたというエピソードもあって、ショスタコーヴィチはこの曲にある程度の自信を持っていたはず。
そして、初演は、メトでワーグナー指揮者として活躍したドイツ亡命のスティードリー指揮のレニングラードフィルで行われるべく準備中だったが、劇場支配人から初演を自ら引っ込めるように示唆され、さもないと行政処分になると言われた。
こうして、初演は幻に終わり、実に25年後の61年、コンドラシンとモスクワフィルによって演奏されたのが本格初演だった。
「いろんな意味で、私のあとの交響曲よりも良い」とコメントしたと言われる。

「言葉は私とともに墓にあり、音楽のみが私の中でしっかりとある。ほかは歩み寄ることさえ怖がっている・・・・」

どこまでが本当かわからないが、あの極度の近視の牛乳瓶の底のような眼鏡の奥で、ショスタコーヴィチが何を見つめていたのか・・・・、うーん、わかりません。
そしてこの音楽は、落ち穂拾いでも何でもなく、まるで次に何が出てくるかわからないカートに乗っているかのような新鮮な驚きの連続である。
凶暴なくらいに刺激的な響きとリズムに満ちた第1楽章。
悲壮感が皮肉なまでに感じる打楽器満載の第2楽章。
陳腐で通俗的な前半だが、後半の大フィナーレ、それに続く意味ありげで、何かノドに引っかかったような終わり方をする第3楽章。

ハイティンクシカゴ交響楽団は、この曲待望の新盤。
唖然とするくらいに鮮やかなシカゴのアンサンブルと、金管の輝きまで感じる咆哮。
まさに最高水準のオーケストラ演奏がここに展開している。
ここには、ラトルやゲルギエフらが聴かせる強烈さやロシア系の人が聴かせた原色の響きもなく、ハイティンクはまったくもって正攻法で音楽に対峙している。
旧盤と基本的には同じアプローチでの楽譜の忠実な再現ではあるが、そこは円熟のハイティンクと最強のシカゴで、音の彫りは深くなり、とりとめない構成が、立派な骨組みの大交響曲となって響く。
旧盤が67分、他の指揮者がだいたい64分、ミュンフンが最短60分のところ、ハイティンク新盤は70分をかけている。
 実は、きれいに仕上がりすぎてしまったという贅沢な注文もあるが、これはこれで超立派なものだから、聴きば聴くほどに味わいの増すスルメ系の演奏でもある。
土曜から日曜にかけて、何度も繰り返し聴いてしまった。2008年5月のライブ。

このCDの秀逸なジャケットの意味も、DVDを見るとわかります。

手持ちの4番CD

Shostakovich_sym4

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2009年1月10日 (土)

ガランチャ&ヤンソンスのカルメン

最近のコンセルトヘボウでの演奏。
エレーナ・ガランチャは最近のメゾの大金星。
明瞭でぶれのない完璧な歌唱は、カルメンからオクタヴィアン、チェネレントラ、ケルビーノ・・・、とてつもない可能性のある歌手じゃないかしら。
ヤンソンスのノリのよさと、コンセルトヘボウの自主性ゆたかなアンサンブルが、盛り上がってどうしうようもない感興へと誘ってくれる。
「メゾ&アルト」の追加であります。

ガランチャのCD過去記事

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私の好きなオペラアリア メゾソプラノ・アルト編

8 水仙の花が咲き始めた。

うつむきぎみの花が美しい。

洋名ナルキッソスは、ギリシア神話のナルキッソスに由来するらしい。
そう、水面に映った自分に惚れてしまって焦がれ死ぬっていうあのお話。
だからうつむいて咲くんだそうな。
花言葉は、自己愛とかうぬぼれ。

花ひとつに、よくまぁ、いろいろとあるもんだわな。

ちょうど今、R・シュトラウスの「アリアドネ」の序幕のツェルビネッタの美しい陶酔的な歌を聴いていたものだから、その音楽になんとなく、この花が相応しく感じてもしまった。

Bartoli ソプラノとテノールをやったから、その他の声部をやらないのは片手落ち。
今日は、メゾ&アルトの声域でのオペラ・アリアのマイフェイヴァリットを取り上げてみます。
オペラでは、ソプラノがヒロインとして主役を張った作品が多い。
テノールは、その相手役であったり、タイトルロールのヒーローであったりする。
メゾ&アルトとバリトン・バスの役柄は、なかなかに主役が少ない、というかむしろ、主役に対峙する役柄や憎い役柄が多かったりする。
でも彼女たち、彼等が、オペラという舞台に大いなる華を添えているからこそ、主役級が映えるし、最近の演出では主役を食ってしまう場面も多々見受ける。
 メゾ&アルトの名曲は、ヘンデルやモーツァルト、ロッシーニに多い。
バロック期のものは、カストラートの存在があった故だろうが、モーツァルトはあらゆる声部に素晴らしいアリアを残したし、ロッシーニはメゾ&アルトが主役になっている。
それと、プッチーニとR・シュトラウスは、ソプラノ偏重で、この声域にあまり積極的でなかったように思える。
ワーグナーは、ドラマティックで広い声域を役に求められるから、メゾ領域の歌手がソプラノのタイトルロールを歌うことも多々ある。

 1.モーツァルト 「フィガロの結婚」~「恋とはどんなものかしら」 シュターデ
 2.ロッシーニ 「チェネレントラ」~「悲しみと涙のうちに」 バルトリ
 3.モーツァルト 「ティトゥスの慈悲」~「私は行くが・・・」 バルトリ
 4.サン・サーンス「サムソンとデリラ」~「あなたの声に心は開く」 カラス
 5.ワーグナー 「パルシファル」~「幼子のあなたが」 マイアー
 6.チレーア 「アドリアーナ・ルクヴルール」~「苦い喜び、甘い苦しみ」 コソット
 7.ヴェルディ 「ドン・カルロ」~「むごい運命よ」 ヴァルツァ
 8.ヴェルディ 「マクベス」~「日の光が薄らいで」 コソット
 9.ビゼー  「カルメン」~ハバネラ ベルガンサ
10.マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」~「ママも知るとおり」 シミオナート

あと5つ

11.ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」~ブランゲーネの警告 ルートヴィヒ
12.R・シュトラウス 「ナクソスのアリアドネ」~作曲家のモノローグ トロヤノス
13.J・シュトラウス 「こうもり」~「お客を呼ぶのが好き」 ファスベンダー
14.チャイコフスキー「エフゲニ・オンーギン」~「私はあなたと違って」 オッター
15.ワーグナー 「神々のたそがれ」~ヴァルトラウテのモノローグ ルートヴィヒ 

以上、気がつけばてんこ盛り。
ズボン役あり、おっかない女あり、二重人格あり、嫉妬に狂う女あり、忠実な待女あり。
ともかくバラエティ豊かな、この声域での役柄は、こうして挙げてみると魅力的なものばかり。
このなかからふたつあげるとなると、今なら「チェネレントラ」と「デリラ」。
ケルビーノとカルメンは、これらの中でも名曲中の名曲。
ロシア、フランス、ベルカントものに弱いワタクシですから、片寄りは大目に見ておくんなさいまし。

9 もう1枚。
この正月に実家の庭に咲いてました。

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2009年1月 8日 (木)

レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」 デュトワ指揮

7 実家の庭になっていた夏ミカンと、手前がネーブル。

夏ミカンは、夏じゃなくて、秋に濃い緑の実がなって、冬に黄色くなってゆく。
2月頃がもぎ頃。
我が家のネーブルは、ちょうど今が食べごろで、大量に収穫されました。
こいつがまた、すごーく甘いのであります。フフッ

Respigi_dutoit

レスピーギの「ローマ三部作」、最初に書かれたのが「ローマの噴水」で1916年、次いで「松」が1924年、「祭り」は1928年という具合で、それぞれ年代に開きある。
それを反映して、「祭り」は大胆な和声と円熟の筆致が際立つ一方、「噴水」は、文字通り瑞々しく新鮮な感性が際立っているように感じる。

ほかの2作のように、華々しいフィナーレがあるわけでないから、コンサートでも最初か中間の、手馴らし的な存在として演奏されるようだ。
 でも、ここにある抒情的で、かつキラキラしたムードは捨てがたい魅力を放っていると思う。

ローマにある有名な4つの噴水をそれぞれが最も美しく映える時間をイメージして、描かれている。

①「夜明けのジュリアの谷の噴水」朝が来る前の曖昧な雰囲気のなか牧歌的なムードも漂う。
②「朝のトリトンの噴水」ナイアディスとトリトンが朝の眩しい日差しの中で踊る。ホルンは明るく響き、ピアノや打楽器が舞い踊るように活躍する。
③「昼のトレヴィの噴水」ついに日は高く昇った昼。ネプチューンの勝利の凱旋。この曲最高のフォルテが聴かれるまで大いに盛り上がってゆく。この場面、「アルプス交響曲」をいつも思ってしまうのは、私だけ?
④「黄昏のメディチ荘の噴水」夕暮れを迎え、夕焼けは徐々に夜へと変わってゆく。

全編に漂う幻想的なムードは、この曲の最大の魅力。
①と④を聴き、まだ見ぬひと気のないローマの朝靄や夜霧を思うのもいい。
キラキラ輝く②トリトンの泉に目を細めるのもよろしい。
そして、③活気ある観光地トレヴィで、コインを投げ入れ、そして噴水の水飛沫を思い切り浴びちゃってください

デュトワモントリオール交響楽団の面目躍如たる鮮やかさ。
爽快で聴かせどころもしっかり押さえた名演奏が、デッカの明晰な録音によってまた映える。往年のアンセルメ路線をしっかり受け継いだこのコンビ、最良の頃の録音は82年。
フィラデルフィアで、もうひと花咲かせるか、デュトワさん。

 

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2009年1月 7日 (水)

レスピーギ 交響詩「ローマの松」 トスカニーニ指揮

6 お正月の3日目くらいから、おせちにも飽きて、日常のものが食べたくなる。
その代表は、ラーメン
そして、カレーでありましょう。
私は、4日の晩に食べましたよ。
こちらは、サンマーメン
神奈川地区のご当地ラーメンで、アツアツの野菜あんかけがたっぷりのってます。
秋刀魚がのってる訳じゃござんせんぜ。

仕事が始まった昼食も、ラーメンやカレーは混んでいましたなぁ。
あと、ハンバーガーも多かった。

やはり、ちょいとB級がよろしいようで。
今日から、学校も始り、日常生活がまた復活。

Respigi_toscanini

7日で、松の内の正月も終わり、いわゆる「松が取れる」とか言われる。
狙ったわけじゃないけれど、別々の演奏で「ローマ三部作」を取り上げてみる企画は前から考えていた。
期せずしてシノーポリ特集をやったもんだから、その流れで「松」がやってきた。

レスピーギ(1879~1936)は、弦楽器奏者出身で、作曲をロシアで学んだ変わりだね。
R・コルサコフの弟子であるところが絢爛豪華なオーケストラの鳴らし方において共通項。
一方、ドイツや本国イタリアでもしっかり勉強しているから、同国人のR・シュトラウスやプッチーニ、そしてドビュッシーの音色や音響も感じ取ることができる。

ローマの松」は、三部作の中間で書かれた作品で、もう何もいうことのない名曲中の名曲。この曲を最後にもってくれば、必ずコンサートのフィナーレとして成功するし、祝典的な気分も横溢しているから、ジルヴェスター系のコンサートにももってこいだ!
「松」を歴史の証人としての恒久的な存在として、ローマの悠久の過去を音楽で振り返るという寸法で、そのアイデアは実に秀逸。

①「ボルジア荘園の松」松の木立の下で元気に遊ぶ子供たち。
②「カタコンブ付近の松」ローマ時代の地下墓地、迫害を受けたキリスト教徒たちに思いをはせる。グレゴリオ聖歌の引用。
③「ジャニコロの松」満月を受けて浮かびあがる松。幻想的な光景でナイチンゲールも美しく鳴く。
④「アッピア街道の松」ローマ軍の進軍街道、アッピア街道沿いに立つ松。勇壮で力強い大行進が思い起こされる。

この4編の中では、③ジャニコロが一番好き。
ドビュッシー的な雰囲気で、いかにも詩的な夜のムード。夜鶯が心をくすぐる。
そしてもちろん、最後はローマ軍の大進軍で打ちのめされてください。

トスカニーニNBS交響楽団の超強力な演奏は、1953年の録音という時代を一切感じさせない。こうした曲は、録音がいいことにこしたことはないが、そんな思いは輝かしいボルシア荘園の出だしを聴いただけで吹っ飛んでしまう。
イメージからすると、おっかないトスカニーニに怒鳴り飛ばされてねじ伏せられてしまうように思うけれど、そんなことはまったくなく、豪快でありながら、デリケートで美しい歌心にも欠かさない雄弁かつ柔軟な演奏なんだ。
 実をいうと、「ローマの祭」がまた凄まじい演奏なのでありますな、これが。

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2009年1月 6日 (火)

レスピーギ 交響詩「ローマの祭」 シノーポリ指揮

4 川崎大師の参道の仲見世の様子。

左右いっぱいに立ち並ぶ商店。
飴屋、葛餅屋、だるま屋、せんべい屋、漬物屋、蕎麦屋・・・・。

それを冷やかしつつ練り歩く。

こりゃ、日本のカーニヴァルだね。
正月の神社仏閣は、景気はともかくお祭り状態なんだ。

Respigi_sinopoli_2 そして音楽でカーニヴァル状態のものは、レスピーギ「ローマの祭」
これ、ワタクシ大好きなんざます。

「ローマの松」もそうだがともかく、オーケストラがよく鳴る。
3部作のうち、一番最後(1928年)に書かれただけあって「祭」の方が多彩な表現に満ちており、R・シュトラウスばりの熟練のオーケストレーション技法がバリバリに楽しめる。

プッチーニの20年後輩だが、オペラに向かわずにオーケストラ作品や素敵な歌曲に桂曲を残したレスピーギ。
それでもオペラ作品もあるようなので、聴いてみたいと日頃思っている。

以前のヤンソンス盤の記事から再褐。

いきなり金管の大咆哮で始まる「チルリェンセス」はローマ時代の暴君の元にあった異次元ワールドの表出。
キリスト教社会が確立し、巡礼で人々はローマを目指し、ローマの街並を見出した巡礼者たちが喜びに沸く「五十年祭」。
ルネサンス期、人々は自由を謳歌し、リュートをかき鳴らし、歌に芸術に酔いしれる「十月祭」。
手回しオルガン、酒に酔った人々、けたたましい騒音とともに人々は熱狂する。キリストの降誕を祝う「主顕祭」はさながらレスピーギが現実として耳にした1928年頃の祭の様子。

①の不協和音が乱れ飛ぶかのようなカオスの世界、ジワジワと祈りが浸透しつつ美しい広がりを見せる②、まさに自由だ!的な③は、イタリアの歌心満載。
そして、だまっていてもすさまじい④で逝っちゃってクダサイ。

シノーポリは、かつてトスカニーニが指揮して初演した同じニューヨークフィルを時に抑制しつつも、巨大な音塊を引き出している。
オケのうまさはすさまじいものがあるが、抒情的な祈りや雰囲気豊かなリュートの歌の部分に緻密な歌心を感じさせてくれる。
最後の乱痴気騒ぎは、堂々たるテンポ設定で、わくわくしながら聴く私を大いに盛り上げてくれた。

あー、すっきりした
シノーポリ特集終了

5
だるま

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2009年1月 5日 (月)

ヴェルディ 「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」 シノーポリ指揮

1 お正月は、実家に帰り飲み食いのだらだらの日々を過ごしました。

これ、恒例ながら、今年は特に、年末から胃と肝臓に多大の負担を掛けていたため、2日の朝からどうも胃が重たく、調子があがらない。
そんな気分で、子供の頃から継続している「川崎大師」への初詣にお出かけ。

不景気を反映してか、ものスゴイ人出で入場制限もかなり早めに開始されていた・・・。


2_2そしてそして、まさに世間の厳しさは、お賽銭箱の中身にまで・・・・。
こんな不遜なことして申し訳ございません。
いつも覗いてます
お札少ないっす・・・・。
もちろん、われらが家族も小銭にて候う。

例年、屋台BBグルメで一杯を楽しむが、今年は不調でイマイチでした。

Opern_chore_sinopoli

なにげに、またもやシノーポリ
本日は、シノーポリの血のたぎるヴェルディ初期オペラの「ナブッコ」から、ヘブライ人の捕虜たちの合唱「行け、わが思いよ、金色の翼にのって」を。

バビロニア捕囚を受けたユダヤの民が、故国を思って歌う望郷の合唱。
祖国愛に燃えて、常にそうした題材をオペラに求めていた初期ヴェルディ。
時代や場所こそ違え、旧約聖書の世界にみた望郷の念。
憬れと熱い想いに満ちたすばらしい合唱で、誰もが口ずさみたくなる名曲なのだ。

「行け、わが思いよ、金色の翼にのって。行って憩え、あの丘に、山に・・・・、さむなくば、神から授かって、聞かせてくれ、苦しみに耐える力となる楽の音を」

いまの嫌な世の中を、こんな思いでやり過ごしたいし、みんなが心安らかに過ごせる日々が早く訪れて欲しい。

シノーポリの82年の録音。ドイツやイタリアのオペラの中から、合唱曲を選んだ1枚。
この曲は、全曲盤から取られていて、その全曲盤は、デビュー当時の先鋭で切れば血潮わくような生々しい響きに満ちたヴェルディだった。
オケと合唱は、ベルリン・ドイツ・オペラ
この合唱だけに限れば、アバドとスカラ座のものが超最高に素晴らしいけれど、シノーポリのリアルな演奏も好き。

3_2大学箱根駅伝を見学。
一晩、ぐっすりと眠り休息を充分とったら、胃は活性化し、復調の兆し。
早起きして、今年は見学でなく、応援に。まさかこんなことがあるなんて。
関係者に声をかけたら、大学名の大きな幟を持たされてしまった。
応援虚しく、というか予想通りの当然の結果に。
お目当ての選手が駆け抜けたあとに、「以上で選手はすべて走り終わりました。ご声援ありがとうございました・・・」のメッセージを後続車が流して走る。
後輩も頑張ってるのう、あたしも順位を気にせずに、ともかく気張らなくちゃ。

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2009年1月 1日 (木)

リスト 交響詩「レ・プレリュード」 シノーポリ指揮

Photo 2009年となりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

この間までクリスマスでメリークリスマスなんて言ってたし、ここ数日は、よいお年をなんていってたとおもったら、明けましてになっちゃう。
時間のジェットコースターに乗ってるみたいで、どうも振り回されているようでいやだな。
テレビも辟易とする番組ばっかし。
じっと考えたり、立ち止まったりすることが本当にできない今の生活。

でもなんだかんだ音楽は日々しっかり聴いているから、やっぱり自分の時間をちゃんと過ごしているんだなぁ、と納得。
こんな感じで今年も過ぎてゆくのであろうよ。まぁいいか

例年通り紅白も見ない私がふとテレビをつけたら、アンジェラ・アキがピアノ弾き語りで歌ってました。彼女の歌唱力はすごいものだ。そしてその曲も涙が出ちまった。
そして、ベルリンフィルのジルベスターは、今年もアメリカ音楽。ラトルさん、ほんとに好きだねぇ。

こちらの写真は、相模湾の朝日でございます。私が撮りました。
眩しいです。

Liszt_les_preludes_sinopoli 2009年、一発目はリストの前奏曲という名の交響詩。
そう呼ぶとやはり妙だから、「レ・プレリュード」とした方がかっこいい。
ワーグナーの義理のオヤジだけど、オペラとは一切関係ない前奏曲。
ラマルティーヌの詩的瞑想録をあとからこじつけた音楽。
いかにもリストらしい。

「われわれの一生は死への前奏曲・・・・・、愛は輝かしい朝焼けのようなものだが、運命はそうした青春の歓びを一瞬にして奪い去ってしまう・・・」
こんなほろ苦くも、夢も希望もない詩。
トホホだけど、実際うまいこと言うもんだ。

音楽もまさにリストらしいかっこよさに満ちているが、私は中間部の田園情緒を歌いこんだ場面がとても好き。
愛の夢の作曲者であることを強く感じさせる。
厳しい運命や絶望、反抗ばかりじゃ困る。
やはり、愛や夢は大事。そんな気分に満たされる「レ・プレリュード」にございます。

シノーポリ特集、今日は晩年、相性が非常によかったウィーンフィルとの演奏。
やはりオケの美音が素晴らしく、夢の場面での滴るような音色はたまりませぬ。
ほかに収められた交響詩やラプソディーもリズムと歌が生き生きとした名演であります。

シノーポリが指揮したオーケストラは、フィルハーモニア、ウィーンフィル、ベルリンフィル、ドレスデン、ベルリンドイツオペラ、ローマチェチーリア、ニューヨークなどなど、一流揃い。
まだまだ生きて、これらの名オーケストラと共演を重ねて欲しかった。

さあ、今年もマイペースで、私の好きなものばかり聴くぞ、観るぞ、食べるぞ、飲むぞ。

ということで、実家に帰らせていただきます
(と言われないように今年も注意だ

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