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2009年2月

2009年2月25日 (水)

ラヴェル 「ボレロ」 マリナー指揮

Yuzuゆずシャーベット

あっさり、さっぱり、ミントを添えればさらに爽快。

こんなフレーバー、日本人はよく考えるもんだ。

Bolero 今日は、日頃めっきり聴かなくなってしまった、ヴェルの「ボレロ」を。
ラヴェルは、かなり好きだけれど、ボレロは最後にあれがあると思うと、途中で気恥しくなってしまうのである。
一番聴いたアバド盤のあの有名なオケメンバーの「雄叫び」も、音源として何度か聴くと辛いものが出てくるし。

ライブで聴くとまた別な感動もあるのは事実。
唯一のライブ体験は、小沢と新日フィルの30年以上前の演奏会。
左手だけで、小さくしなやかに指揮しながら、音量が増えるにしたがって、右手も動きだし、指揮棒も振り出し、ダイナミックな音塊をつくりあげてゆく若き小沢の手腕に惚れぼれとしてしまった。

アンセルメやミュンシュのような味わいあるボレロもいいけれど、いまのわたしには、淡々とした、このとっておきのマリナー盤がよろしい。
しかも、オーケストラはドレスデン・シュターツカペレなのだ!
このコンビがいかにして生まれたかは不明なれど、まだ東の体制が布かれていた82年のこの録音は、東側のオケとイギリスのマルチ指揮者の幸せな組み合わせとして、のちのデイヴィスに先んじたものであろう。
いや、指揮者もマルチだが、ドレスデンのオケの順応性の高さにビックリする1枚なんだ。

 ラヴェル       「ボレロ」
 グリンカ       「ホラ・アラゴネーサ」
 チャイコフスキー 「イタリア奇想曲」
 シャブリエ     狂詩曲「スペイン」

フランス、スペイン、イタリアにそれぞれちなんだ、名曲集であるが、これを聴いてドレスデンのオケを当てることは難しいのでは。
それほどに軽やかで、羽毛を思わせるような柔らかくも優しい響き。
ボレロで各楽器をじっくり楽しめば、各奏者たちの鮮やかな技量と柔軟かつしなやかな音色に驚く。マリナーらしくインテンポで、無理せずに普通にクライマックスを迎え、普通に終わる。こんなボレロが嬉しい。
 ほかの曲も、オケの美しさと、それが映えるルカ教会での録音の良さが心から楽しめる。
渋さとともに、洒落っけと軽やかさが同居する素晴らしい音のシャワー。
これもまたドレスデンなのだ。
何もしていないかのようなマリナーの素っ気ないなかにも、要所をきっちりと締めた指揮ぶりが目に浮かぶ。

こんなナイスなCDが廃盤だなんて、もったいない。

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「にゃんにゃん」に・・・・・。

A ある公園にて。
おもむろにやってやってまいりました、一匹の「にゃんにゃん」

B

なかなかに、ふてぶてしい。

C

近づいてきた。

D 私の足に体をこすりつけて・・・

E あっけなく、行ってしまった。

F おいおい、と呼びかけたら、こんな体勢に。

G じー。
何かこちとらを窺っているぜ。

I と、そのとき、こやつは、私のカメラの「ひも」に飛びかかってきたのであった

H あわわわーっ
あまりのことに、わたくし、尻モチをついてしまいました。
きゃぁー

J 次の攻撃をしかけようとする不敵な「にゃんにゃん」に、わたくし、尻尾を巻いて退散いたしましたのでございます。

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2009年2月22日 (日)

エルガー 「ゲロンティアスの夢」 A・ギブソン指揮

Daiba_2 お台場を逆方向から眺めるの図。

東京湾に浮かぶ人口島。
海底トンネルで大井や、お台場あたりと結ばれている。

日曜朝に、ちょいとドライブ。
大型車がいないから、空いていて、天気もいいし、最高の気分

でも最近ちょっと心配なことがある。
(書こうか、書くまいか迷ったけど)
「地震」である。
いまのおバカな政治や世の中に気を取られてると、気がつかない。
このとこころ、各地で多いのである。震度3以上に限ってみても、21日を除いて、15日から22日まで連日各地で起きている。日をおって、岩手沖、静岡東部、千葉南部、福島沖、福井嶺北、茨城北部、茨城南部、岐阜美濃、といったあんばいで、本州中部から東北にかけて・・・・。
火山活動の活発化も含めて、地震活動があらたな局面を迎えているんじゃないだろうか?? 怖いよう。
来ちゃうものは防ぎようがないが、備えはあって越したことはない。
かくいう私はなにもしておりませんが・・・・。

Dream_of_gerontius_gibson

不安を煽るような、怖ろしい前段を書いてしまった。
でも音楽は、心が解放されるような感動的なものを。
エルガーの傑作、「ゲロンティアスの夢」。

エルガーは、いくつかの合唱付きの大曲を書いているが、この「ゲロンティアス」と「使徒たち(アポステルズ」「神の国」が、いずれも熱心なカトリックだったエルガーの篤い思いが込められた素晴らしい作品たち。
後者ふたつが、「最後の審判」と併せて3大オラトリオになるはずだったのに、残されなかったのが、極めて残念。

「ゲロンティアス」は1900年の完成で、委嘱先のバーミンガム合唱音楽祭にて、かのハンス・リヒターによって初演されているが、保守的な壮麗なオラトリオ作品を期待していた聴衆の受けはあまりよくなかったらしい。
その後、着実に評価を上げ、いまや本国イギリスでは、最高の人気作品となっている。
イエスにもなぞらえるゲロンティアスのテノール、司祭のバリトン、天使のメゾソプラノ、苦しみの天使のバリトン、これら独唱者に、友人、悪魔、精霊といった面々をそれぞれ合唱が担当する。
これら登場人物たちのキャラクターのわかりやすさが、ある意味英国大衆受けしたのであろうし、音楽もそのキャラクターに準じてわかりやすく、当然に素晴らしいものとなっているから当然。
でも英国以外では、エルガーの声楽作品は、まだまだマイナーな存在。
2005年の大友さんの演奏を聴き逃してしまったものだから、次はどこで誰が取り上げてくれることやらさっぱり不明。

宗教的な内容ではあるが、のちのオラトリオ2作ほどキリスト教的でなく、聖書的な史実も知っておく必要もない。
「人間の死と、その魂の救済と浄化」
こんな深淵なテーマのように思うが、でも難しいことを考えず、素直にエルガーの素晴らしい音楽に耳を傾け、身を任せるのがよいと思う。

第1部
死の水際のゲロンティアスが、死の恐怖にとらわれ、祈りにすがっている。
仲間の友人たちも同調して必死。
不安や怖れに千路に乱れるゲロンティアス。
司祭が祈りを捧げ、神の名の元にゆきなさいと、希望を説く。

第2部
ゲロンティアスは旅立ち、魂となっている。
気分も一新し、すっきりしたところに天使がやってきて、魂と対話を始める。
生あるときは、死や宣告が怖かった。いまや、その宣告がはじまり、その報酬の果実をもぎ取り、天の時が始まるのです・・・。
 天使についてゆく魂。すると、悪魔が待ち構えていて、さかんに誘惑し、不安を投げつけ、嘲笑を浴びせてくる。私は、こんなヤツラはいやだ、王座に玉する最愛の方に会いたい・・・・、こうして切り抜ける。
そのあとには、精霊たちの清らかな合唱が待ち受けていた。それは大いに盛り上がり、ついに魂は恐れに打ち勝ち、苦しみの天使から祝福され、高みへと達する。

「女性的なるもの」は登場しないけれど、これは、ゲーテのファウストと同じでは。
死の先にあるもの、それは人間すべての永遠の課題。

崇高な雰囲気の序奏からして、その深淵かつジェントルなエルガーの音楽に釘付けになってしまう。
1部では、ゲロンティアスの祈りがまるで、テノールのアリアのようでいい。同じフレーズを何度も繰り返すが、それぞれニュアンスが違う。
オルガンも加わる、仲間たちの祈りは教会で聴くような雰囲気だし、最後の合唱は、交響曲の緩徐楽章のように美しい。
2部の聴きものは、悪魔と精霊の鮮やかな対比の合唱の素晴らしさ。
悪魔の歌のha,haは強烈だし、精霊のまるでベートーヴェンのミサソレをも思わせるフーガがあまりにも素晴らしい。
そして、私がまず感涙してしまうのが、「神聖なものを讃えよ」という場面。これには私何度でも泣けます。元気になります。
 霊感漂う雰囲気のあと、徐々に音楽が沸騰してゆき、大和音の一撃が!
そのあと、魂が「導きたまえ!」と絞りだすように歌う場面。
ここでも背筋に電流が流れるような感動が・・・。
さらに、最終の天使の告別。オーケストラに静かに出てくる美しくも感動的なメロディにのって天使が歌い、そこに合唱もかぶってくる。
さきの、「神聖なもの・・」のフレーズが優しく出てきて、天に昇るように、アーメンの言葉で閉じられる。深い、あまりに深い余韻を残しつつ・・・・。
もうこのあたりは、胸がジーンとしてきて、あぁ生きててよかったなぁ的な気分になってしまう。

  ゲロンティアス:ロバート・ティアー  天使:アルフレーダ・ホジソン
  司祭、苦しみの天使:ベンジャミン・ラクソン

     サー・アレクサンダー・ギブソン指揮
     スコテッシュ・ナショナル管弦楽団/合唱団

95年に69歳で亡くなってしまったスコットランドの名匠、ギブソンの指揮は、オペラ指揮者としても活躍しただけに、劇性と歌には欠けていないが、真摯でひたむきな解釈のほうが目立つ気がする。
悪魔の合唱も普通で、インパクトはさほでではない。
でも、ジワジワと感動を味わうには、こうしたじっくり型の演奏の方が飽きがこないし、胸に響くものも大きい。
ティアーも歌い過ぎにならないところで止まっているのがいいし、私の好きなラクソンの美声うれしい。
ホジソンのいぶし銀のような深みある声がよく、ギブソンのオケとよくあっている。
合唱の精度が気になる場面はあるけど、微細にすぎない。
 
 それにしても、英国指揮者は、みんな早世してしまう。悲しい

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2009年2月21日 (土)

ブルックナー 交響曲第6番 サヴァリッシュ指揮

Hegi こちらは、新潟の「へぎそば」。

この四角い器を「へぎ」と呼び、そこに一口大に上品に盛り付けたものを「へぎそば」というそうな。

つなぎに「ふ海苔」が使われているものをみんな「へぎそば」というのかと思った。
以前仕事でよく長岡や六日町、小千谷に行っていたものだから、必ず食べていたもんだ。
コシがあって、滑らかな食感はのどごしが豊かで、スイスイ食べれちゃう。汁も、東京の濃いものから比べたら、あっさりしたもの。
こちらは、有名な「小嶋屋」だから、盛りも上品だけど、ロードサイドの普通の蕎麦屋さんに入って、大盛り~、なんて頼んじゃうと、その富士山のようなテンコ盛り攻撃に死ぬ思いをすることがあるので注意だ。

Sym6_sawallisch ブルックナーの交響曲シリーズ
交響曲第6番イ長調は、1879年から81年にかけての作品で、前作5番とかぶるようにして作曲が始められた。
完成後は、2・3楽章が初演されたのみで、全曲の初演は、1899年、作曲者没後に、かのマーラーとウィーンフィルによって行われた。
何とも気の毒なブルックナーであり、巨大な作品の間で埋もれてしまった6番が、何故かいとおしく思われる。
この曲は、あまり大きな改訂はなく、補筆程度だったので、ややこしい版の問題はないようでうれしい。
全体に明るく伸びやかで簡潔な雰囲気で、パウゼの少ない演奏時間、55分程度の交響曲。
この第6交響曲が、私は大好きなのです。
何度も書くことで恐縮ながら、深淵な後期交響曲と3~5番の人気曲の狭間にある、1・2・6番の3兄弟が、このうえなく好きなんです。
屈託ない第1楽章は壮麗でありながらちょっと陰りをおびていたりするし、この曲の白眉ともいえる第2楽章は、哀感と柔和さが織りなす崇高な気品に満ちた至福の緩徐楽章である。この楽章は、ブルックナーの中でも私の最も愛する楽章のひとつなんだ。
速くないスケルツォの3楽章は、まさに牧歌的で気分よろしい。
情熱的ながら、ホルンがのどかに響きつつも、アルプスの峰々を思わせる素晴らしい終楽章。

サヴァリッシュ指揮するバイエルン国立歌劇場管弦楽団のブルックナーは、途中で頓挫してしまったが、1、5,6,9番が録音された。
スタイリッシュで、オーケストラを制御しつつ完璧なバランスとドラマ性に秀でたサヴァリッシュの指揮は、N響でも聴き馴染んだものだが、やはりミュンヘンの少し緩めの暖かなサウンドを得ると、その怜悧さが緩和されて、えも言われない独特の南ドイツ・サウンドが引き立ってくるし、ブルックナーには最適のものに感じられてくる。
バイエルン放送響や、ウィーン響でも同様のイメージを抱くことができるので、やはりサヴァリッシュは南ドイツの気質を持っていたんだと思い起こす。
この6番の演奏に終始感じるのは、まだ見ぬイメージとして、アルプスを背にし、ひと山越えればイタリアというもの。
それをまさに感じさせてくれる素晴らしい演奏。
 このサヴァリッシュ盤にウィーンフィルとのシュタイン盤、ヴァントのケルン盤、カイルベルト盤が私のフェイヴァリット。
間違いなくよさそうなヨッフム盤はバイエルン、ドレスデンともに未聴なところが、これからの楽しみなんです。

このCDのジャケットは、ビールナウのバロック様式の聖堂の壁画。
800pxbirnau_foto_02 656pxbirnau_innenansicht いかにも、ブルックナーの音楽が似合いそうな教会。

願わくば、一生に一度、こうした教会で、バッハのカンタータやブルックナーを聴いてみたいものでございます。                   

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2009年2月19日 (木)

ショスタコーヴィチ 交響曲第6番 ムラヴィンスキー指揮

1 本当に久方ぶりに大阪へ行ってまいった。
仕事半分、旧交を暖め半分。

ズバリ飲み過ぎ。
大阪が本部の先進国首脳猥談に出席するという重大なミッションを従えて、雪の彦根から大阪入りをした私を待ち受けていたものは、巨大なソーセージであった。
そのとてつもないロングな攻撃と、食器が飛び散るイケメン攻撃とインド方式に一関東人は平伏すのみ。
(わかんねぇだろうな・・・)

2 3 お初天神通りに本店を構える「ニューミュンヘン」はいいかにもドイツっぽい雰囲気のビアホール。
でもその楽しいメニューやスタッフ~たちは、あまりにもその雰囲気から遠いざます。
そこで熱燗を飲む私たちも、全油種カヴァーの多国籍軍であった(後半に続く)

Shostakovich_sym6_mravinsky

どっこい忘れちゃいないぜショスタコーヴィチ・交響曲シリーズ。
第5番の成功で、一連の批判を払拭し、さらにソ連音楽界の期待を一身に受けることとなったショスタコーヴィチ。
当然のことながら、次の6番に対する期待も大きく、レーニン交響曲を作るとも宣伝されたりもしたし、自らも表明していた。でもこのあたりは例によって不明なのだ。

そして出てきた交響曲第6番は、大作を待ち望んだ人々をあっけなく裏切るユニークな作品であった。このあたりが、ショスタコの愉快なところであり、何を考えていたか、とらえどころのないところ。
全3楽章は、「序・破・急」ともとれる構成で、テンポが曲の進行とともに増してゆく。
Ⅰ「ラルゴ」→Ⅱ「アレグロ」→Ⅲ「プレスト」と、こんな感じなんだ。
要は、第1楽章がない交響曲。
悲劇性と抒情のおりなす長大な1楽章がかなり深みのある音楽で、ここをいかに深淵たる演奏にするかによって、バランスの悪い残りふたつの楽章が生きてくる。
スケルツォのような明るさとシニカルさがミックスした2楽章。
聴いていて、ばかだね~、なんて思ってしまうくらいの乱痴気ぶりの3楽章。
30分ちょいの、短さもうれしい。
この6番が結構好きなのである。
春、喜悦、青春といった気分が伝わるように書いたとされる。

1939年のこの曲の初演者、ムラヴィンスキーレニングラードフィルの演奏は72年のライブ。
このコンビのイメージ通りの緊張感と冷徹さ、そしてスピード感に満ちあふれた、おっそろしい演奏。
その完璧ぶりは、何事にも動ぜず、ムラヴィンスキーの微細な動きのタクトに全楽員がまんじりともせずに集中し、右向け右・・・的に、号令いっか、その指示に従っているかの感があり。
色はないけれど、これはこれで、ここまでやられちゃうと快感ではありますな。
Shostakovich_sym6_mravinsky65 あともうひとつ、ムラヴィンスキーには65年の同じモスクワ音楽院ライブがあって、そちらはレコードでずっと聴いてきた。
カップリングのオネゲルとともに、そちらの方が先鋭で録音もいいような気がする。

このコンビは、学生時代に一度聴いたことがある。
シベリウスのトォウネラと7番、チャイコフスキー5番というすげぇプログラムで、NHKホールの隅々にまで音が鳴り響き、かつ繊細なすんばらしい演奏であった。
そして指揮者は、ホントおっかなそうなムード満点で、懐から武器でも取り出すのではないかと思われた。

4 5

大阪で楽しんだ翌日、いつもお世話になっている、関東理事の方が来阪されるとの報に、私の中の悪魔が目覚め、もう一泊することに

ところが久方ぶりの大阪に、昼から食事をご馳走になりワインまで飲んでしまう。
さらに夕方、お会いした仕事仲間の方々に、せっかくだからということで、飲み行きましょうということになり、4時半から阪急のガード下に突撃。
この方々には、かつて十三のディープエリアに連れ込まれた経験があり、警戒していたが、今宵は、7時からの猥談理事会があって猛追を押しやることができた。
そこそこ飲んで、再びお初天神通りへ。
ナイスな居酒屋「ニュー松屋」で、また楽しく飲みマスター。
「どて焼き」と「鯛子」は、いかにも大阪の一品。うまい。
 ホテル帰還前に、さらに関東理事とショットバーへ。
いやはやよう飲んだ。4時半から11時半まで、7時間にございます。
バーを出て一人になったら、なんと方向感覚を失い、ホテルと反対方向に延々と歩いている自分。でも朝、気がつくとホテルの部屋で寝ている自分。自分っていったい・・・・・?
ワーグナーが1曲とマーラーが2曲聴けちゃう時間を尽くして飲み。
みなさま、二日間にわたり、どうもありがとうございました。
また突撃いたしますのでよろしくお願いします

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2009年2月15日 (日)

ヴォーン・ウィリアムズ 「毒の口づけ」 ヒコックス指揮

1



















静岡市の青葉公園のイルミネーション。

1月末で終わっちゃったけれど、きれいだから登場させちゃう。

イルミネーション好きとしては、2月の夜は街が一番暗く感じて寂しいもんだ。

でも夜気には、春の香りが感じられて、何かロマンテックな雰囲気もするもんだ。

Poisoned_kiss_2












このインパクトのありすぎるジャケット、何だと思われますか?
ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)のオペラ「The Poisoned Kiss」というオペラ作品なのです。
訳すと「毒の口づけ」とでもなりましょうか?
「毒入りキッス」じゃぁ、まがまがしすぎるし。
どんな恐ろしいオペラなんだろ、以前から気になるCDだったが、出張先の札幌のタワーのワゴンセールで、50%OFFのシールが貼られているのを見て、即お買上げとなった思い出深い一組。

まるで吸血鬼を思わせる怪しいジャケットとは裏腹に、そのドラマは愛に充ち溢れたおとぎ話のようなコメディであったのだ。
そして、その音楽は、さすがにヴォーン・ウィリアムズ。
美しい旋律と田園情緒とダイナミクスに満ちた、どこから聴いてもRVWの特徴に溢れた素敵なもの。
何度も何度も聴いて、その歌が口ずさめるようになってしまった。
それほどに親しみやすい音楽なのであります。

RVWには、オペラ的な作品が7つあって、中では「天路歴程」が有名だが、4つ目のあたる「The Poisoned Kiss」は、まったくネグレクトされた存在で、2003年にヒコックスが録音したことで、日の目を見た。
全3幕、CD2枚、約2時間というコンパクトサイズながら、セリフがカットされている。
実は、そのセリフがかなり長くて、もしかしたらこうしたバランスゆえに、眠った作品となってしまったのではなかろうか?
「カルメン」はそのセリフもすっかりドラマと化しているけれど、それはビゼーの音楽がかなり劇的で、構成にも優れているから。
RVWは、どちらかというと人間ドラマよりは、自然の機微や崇高な宗教感を背景にした起伏の少ない音楽造りの人だから、セリフ入りではキツイかもしれない。
だから、このは音楽部分のみを収録し、セリフはリブレットで追うことになる。
原作はリチャード・ガーネットという人。
台本は、女流のエヴリン・シャープと作曲者自身。
ちょうど、「恋するサー・ジョン」と「ヨブ」というふたつの劇作品を並行して書いていた1928から36年頃の作品。

   V=ウィリアムズ The Poisened Kiss「毒のくちづけ」

          トルメンティラ:ジャニス・ワトソン
      アメイラス:ジェイムス・グリクリスト

            アンジェリカ:パメラ・ヘレン・ステフェン 
              ガラントゥス:ロドリック・ウィリアムス

            皇后ペルシカリア:アン・コリンズ    
              ディプサクス:ニール・デイヴィス

 リチャード・ヒコックス指揮 BBCウェールズ・オーケストラ
               アドリアン・パーティントン・シンガーズ
                   (2003年録音)
物語の前段

 むかしむかしあるところ、若い魔術師と若い王女が恋に落ちました。
でも、王女の両親は身分の低い若い男との結婚を許さず、別れさせてしまいました。
そして、別々の相手と結婚し、それぞれ魔術師は娘を、王女は皇后となり息子をもうけましたが、いまや彼等の相方も亡くなり寡と未亡人に。
皇后を逆恨みした魔術師ディプサクスは、娘トルメンティラを使って復讐を企みます。

第1幕

 森の中、いろいろな動物の鳴き声がします。そこへ迷い込んだ王子主従。
その従者ガラントゥスは、魔術師の娘のメイド・アンジェリカに恋してしまいます。
一方親父魔術師ディプサクスは、森に人が侵入しているとして、怒り嵐を起こし、雷がガラガラと鳴り渡ります。
トルメンティラは、さすがに魔術師の娘です。
ペットのコブラ蛇をかわいがり抱きしめたりしてます。
父は、娘を森から出られないように魔法をかけているのです。
何故かって?王子アメイラスをおびき寄せ、娘に引き合わせるためです。
この悪い親父魔術師、娘の唇にすでに毒を仕込んであり、口づけした最初の男を死に至らしめるのであります。
 さてさて、王子は、美しい子守唄を歌うトルメンティラの声に惹かれ、まんまと一目惚れしてしまうのでした。
そして、娘も王子を見てこれもまた好きになってしまいました。
この二人の愛の二重唱が美しく歌われますが、二人が恋をそれぞれに歌うセリフが面白い。
王子は「庭に青いヒセンソウが咲き誇り、夏の空には白い雲・・・・」と自然賛美。
娘は「黒いひよす(魔女が儀式で使う香草)のしげみを蛇がうねり、頭をもたげる・・・・」と魔界賛美。
 でも、娘は、父の司令を拒み、王子を愛してしまったがゆえに、キッスができません。
親父は怒り、娘と絶縁し市街地に追放してしまうのでした。

第2幕

 娘とメイドのアンジェリカが暮らす追放先の街。
親父魔法使いの手先の妖精3人組(男)が今夜、王子をここに連れてこさして、毒のキッスをさせちまおうぜ、と悪だくみを練ってます。
アンジェリカのもとへ、彼女を恋する従者ガラントゥスがやってきて、王子が娘に恋い焦がれていてしょうがないと、相談しますが、アンジェリカは例の口づけの秘密を明かします。
そこへ皇后の霊媒の女3人が現れ、毒消しのキャンディを置いてゆくのです・・・。
 さぁ、夜です。そろそろ寝ようとするトルメンティラの元へ、アメイラスが現れ、二人はほんとに真実?といわんばかりに感激し抱き合い、彼女は最初は拒絶し毒のことを話しますが、そんなの関係ないとばかりに、王子は唇を奪うのでありました。
 王子はバタリと倒れてしまいます。
魔術師サイドの妖精3人組はやったといわんばかりに喜び、駆け付けたメイドと従者はショックにひしがれ、トルメンティラは永遠の別れ・・・とアメイラスの元に膝をつくのでありました・・・。

第3幕
 
 皇后の王宮。
3人の霊媒たちに、自分と魔法使いの過去を語ります。
一方、医者が王子は、娘と会えなければ、ショックで死んでしまいますと、助言します。
息子をそんな思いにさせた娘はいったいどんな女なの?と皇后は、トルメンティラを呼び寄せます。
その娘がかつて愛したディプサクスの娘であること、アメイラスは自分の息子で生きていることなどを話します。
 そのあと、皇后はついに魔法使いディプサクスを呼び出し、なんであんなことしたの?と詰ります。
そして、息子アメイラスは生きていることを語ると、何でやねんとディプサス。
毒消しのキャンディを準備した皇后の方が一枚上手だったわけでございます。
さらに、愛する二人の姿を幻影でディプサクスに見せ、自分たちの若いころを思い出して、なんと熟年の二人はかつての愛を思い起こして仲直りするのでありました。
 アメイラスとトルメンティラ、ディプサクスと皇后ペルシカリア、ガラントゥスとアンジェリカの3つのカップルが誕生しました。
おまけに、妖精3人組と媒体3人組の男女のカップルまで生まれてしまうというお笑い付き。
それからずっと、みんな仲良く幸せに生きたのございましたとさ。
めでたしめでたし。

  ----------------------

と、まあこんな内容で、まるで、「魔笛」にそっくりでございますな。
でも魔笛のザラストロと夜の女王は結ばれなかったし、モノスタトスと待女たちも同様。
しかし、このファンタジック・コメディに付けられたV・ウィリアムズの音楽は最高に美しく、とってもロマンテック。
1幕のメイドと従者の出会い。朝のさわやかな空気の中、クラリネットのソロがとても素敵で、それに乗って歌うアンジェリカの歌のきれいなこと!
そして、そこにかぶるように従者の優しいバリトンが登場して愛らしい二重唱になる。
 夢見るようなトルメンティラの子守唄。
こっけいな男女3人組のコミカルなそれぞれの重唱。
魔法に導かれて王子が娘のアパートにたどりつく際の、ヴァイオリンソロは、マジックがかかったような神秘的雰囲気がただようもの。
そして、二人の再会の二重唱と、別れの場面は、このオペラの白眉ともいうべき絶美の音楽で、私は思わず落涙してしまった。
3幕のストーリーと、その音楽はときに霊感不足に感じる瞬間もあるものの、全体としての音楽のよさは、皆さんに是非聴いていただきたいと思わせるものであります。

 スッキリ・クリアな、いかにも英国歌手らしい方々は、文句なく素晴らしい。
そして、こうした演奏を聴くにつけ、ヒコックスの早世は悔やまれてならない。
BBCウェールズで尾高さんの後を継いだヒコックスは、同団と蜜月を築きつつあったのに・・・・。

10

いいオペラです。

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2009年2月14日 (土)

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」 アメリカ7大オケ

1 今日はバレンタインデー。
私のような、おじさんにはまったく関係のない日だけれど・・・・。

ファルスタッフのように、「おれだってっ若いときゃ・・・」と歌いたくなりますぜ。

ははっ。しっかし、昨日は、13日の金曜日。
ジェイソン君も微笑む日だったのであります。
まぁ、関係ないけど。

2

こちらの二つの写真は、山の斜面にある巨大な「恋文」、いや「ラブレター」。
遠いものだから、アップで撮ってみました。
神奈川県の藤野町の国道20号線(甲州街道)から見えます。
なんでも、造園会社が造ったらしいです。
ばかばかしいけど、いいでしょ

ばかばかしさついでに、本日は愛の名曲、チャイコフスキー幻想序曲「ロメオとジュリエットを、アメリカの7大メジャーオケで聴いてしまおう企画なのであります。
Rome_juli_6_2 こんな、おバカな企てをどうかお許しください。
指揮者の重複はあるものの、たまたま、アメリカオケでそろっていたし、シカゴの超優秀・高性能ぶりを真近に見せつけられたばかりなので。

①シカゴ交響楽団             アバド指揮
②クリーヴランド管弦楽団         シャイー指揮
③フィラデルフィア管弦楽団    ムーティ指揮
④ボストン交響楽団          アバド指揮
⑤ニューヨークフィル         バーンスタイン指揮
⑥ロサンゼルスフィル         メータ指揮
⑦サンフランシスコ交響楽団     小沢指揮

なかなかの愛読家だったチャイコフスキーは、シェイクスピアを愛し、その作品にちなんだ音楽をかなり書いているが、この「ロメオとジュリエット」が一番有名で、20分足らずのなかに、原作のストーリーとは必ずしも忠実ではないものの、愛のシーンや、争いのシーンなどをしっかり盛り込み、起伏に富んだ素晴らしい作品にできあがっている
ロメ・ジュリを素材にした音楽作品は、ベルリオーズ、べルリーニ、グノー、プロコフィエフ、ディーリアス、バーンスタインなどなど、多々あるが、一番簡潔で演奏効果もあがる名曲ではないかしら。

7大オケを勝手に順位付けしてみたけど、①以外は順位不明で、もしかしたら、デトロイトやシンシナシティ、ミネソタ、セントルイスなどが来てもおかしくない。
ビッグ7に加えて、これらを入れて「エリート・イレブン」なんてサッカーみたいな呼び方もかつてはあったように記憶します。

シカゴは、ショルティやバレンボイムとも録音があるが、手元にはアバドのCBS盤のみ。克明・緻密なアンサンブルには驚きを禁じえない。でもアバドの歌心溢れる指揮が、固さや冷たさから救っていて、オペラティックな雰囲気さえも漂う。ただ録音に潤いが・・・。
クリーヴランドのスリムでしなやかなアンサンブルが、優秀なデッカ録音のもとでリアルに眼前に迫ってくる。シャイーの一直線な指揮ぶりも好ましく、佐々木小次郎みたい。
フィラデルフィアはやはりうまい。役者が違う。でもオーマンディのような普遍性の美しさがムーティにはなく、力技の巧さが鼻につく。でも、歌に満ち満ちていて、歌とドラマの結びつき方が絶品。EMIでなくフィリップスだったらよかったのに。
ボストン響は、やはりどう聴いてもヨーロッパ・トーンを持っている。
RCAから移籍して、DGに録音し始めた頃だから、よけいにそうした雰囲気があるし、若きアバドの情熱と歌に充ち溢れる指揮にまともに応えてしまった気迫に満ちたライブ感が、どうしようもなく素晴らしい。録音も含めていまでも色あせない、私にとってのアバドとの出会いを記念する超名演なんだ。
ニューヨークフィルは、バーンスタインで。後年のDGの悠揚迫らざる演奏ではなく、若きCBS盤にて。こちらはちょっと勢いで押してしまったような演奏で、ニューヨークフィルも荒っぽい。でも聴いていて手に汗的な面白さがあるのも事実。
ロスフィルは、落ち着いたプレヴィン盤もあるが、こちらも若きメータ盤。
ロスフィル時代の典型ともいえるスピード感とバリバリのかっこよさ。闘争の場のダイナミックな描き方は、これらの演奏のなかでも随一だし、反面、愛の場面のロマンテックなことといったらないっす。
サンフランシスコ時代の小沢の代表盤は、これら個性派からすると大人しい。
思いのほかまっとうで真面目。フレーズもきっちり押さえていて、無用な色付けもなく、あっさりとさわやか。オケのアンサンブルにやや難ありと思われるが、日本人の感性としてはすんなりと受け入れられる愛の音楽で、結構好き。

以上でございます。

Abbado_bso で、私の一番は、アバド&ボストンです。
後年のベルリンとの3度目の録音も含め、一番好きな演奏なのです。

というわけで、私には関係ないけど、ハッピー・バレンタイン

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2009年2月12日 (木)

コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲 シャハム&プレヴィン

1_2 芝増上寺のとなりにある公園では、寒桜が咲き始めていた。
東京タワーとの対比がなかなかにきれいでありました。

4

一方、増上寺には白梅が満開。

ゆっくりと春が近づいております。

Shaham_barber_korngold コルンゴルト(1897〜1957)のヴァイオリン協奏曲は、私のもっとも愛する協奏曲のひとつで、このブログにもこれまで3度も登場しております。
何が好きかって。まずその頽廃的ともいえる甘味なる旋律に溢れていること。
それが、私の好む世紀末系の音楽の延長にあることと、R・シュトラウスのオペラのような後ろ髪引かれるような哀愁と諦念にも溢れていること。
それとなによりも、ウィーンの香りとハリウッドの香り、両方がミックスされた独特の味わい。
マーラーとツェムリンスキーと初期シェーンベルクとR・シュトラウスとプッチーニ。
私の大好物ばかり。その延長にあるのがコルンゴルトなんだ。
一昨年のメモリアル・イヤーも何事もなく終了し、相変わらず静かな人気で終始していて、嬉しいやら悲しいやら・・・・・。

その不遇の人生は、これまで何度も書いてきたので、弊ブログのコルンゴルト・カテゴリーをご覧ください。
ヴァイオリン協奏曲は、健康的なエロさをもった悩ましくもかっこいい音楽で、私は毎度、舌もとろけそうなおいしい肴をあてに、葡萄酒や華やかな吟醸酒などを飲みながら聴くのが常となっている。な〜んて言うと贅沢すぎ。実際は、発泡酒や芋焼酎なんだけどね。
でも今日は、コンビニで買ってきた「ミミガー」をつまみに、レア芋焼酎の「八幡古酒」をロックで飲んでしまっているのだ。
これがまた異常にうまくて、度数も37度あるんだ。

そんなほろ酔い加減で聴くコルンゴルトの協奏曲、本日はギル・シャハムのヴァイオリンと、プレヴィン&ロンドン響で。
甘いザッハトルテのような第1楽章を以外やキリリと演奏したこのコンビ、見捨てられたウィーンを思う望郷の歌に涙したくなるような素敵な第2楽章は、美音の限りをつくし、プレヴィンともどもクールに歌いまくる。
かっこいいフレーズが変転しまくる第3楽章は、超絶技巧満載だが、シャハムは鼻歌まじりにいともやすやすと弾きまくっているし、そのキレ味たるや惚れぼれとしてしまう。
この曲のスペシャリスト、プレヴィンとLSOの味わいとリズム感に富んだバックは最高としかいいようがないです。

はぁ、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲、大好きであります。

これまでの同曲記事

「ムター&プレヴィン」
「パールマン&プレヴィン」
「ハイフェッツ」

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2009年2月11日 (水)

私の好きなオペラアリア バリトン・バス編

2 夜の銀座でございます。

不況とはいいながらも、曜日と時間帯によっては、こんな光景が見られるのもさすがに銀座たるもの。

着物姿のお姉さまと同伴する紳士。
黒塗りの車。
この時期だと、いそべ焼きの屋台がいい匂いをまき散らしている。
まだ20代の頃、そのいそべ焼きを飲んだ勢いで、お土産にしないで6つも食べてしまい、胃がもたれて死ぬほど苦しんだことがあった。
色気より食い気なのですな、わたくしは。
今は・・・、ご想像にお任せします。ふっふっふ。

Ghiaurovabbado 声域別に、お気に入りのオペラ・アリアを集めてきた。
最後は、男声低音部でございます。
バリトン、バスバリトン、バスと大きく分けて3声部あるうえ、今回リストアップしてみたら、素敵なアリアがごまんとある。

男ならテノールもいいが、こうした声域で渋いところを歌ってみたい。
恋人役やヒーローはテノールに任せて、バス、バリトンは、苦渋に満ちた父親や長老、恋敵や主人公と相反する敵役、友愛に満ちた親友、影から見守る好人物、明るい狂言回しなどなど、主役もあるもののが、舞台を引き締めるカナメ役が多い。
こうした男の世界は、いまの軟弱化した世にあっては頼もしい限り。

この声域を好んだ作曲家も多く、ヴェルデイを筆頭に、ワーグナー、モーツァルトなどに素晴らしいアリアを聴くことができる。

 1.ワーグナー 「ワルキューレ」~「ウォータンの告別」 ホッター
 2.ヴェルディ  「仮面舞踏会」~「おまえこそ心を汚すもの」 バスティアニーニ
 3.ワーグナー 「マイスタージンガー」~「にわとこの花」「迷いだ・・」
                 「親方たちをさげすんではならぬ」 リッダーブッシュ
 4.ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」~「国を裏切る者」 カプッチルリ
 5.ヴェルディ  「リゴレット」~「悪魔め鬼め」 カプッチルリ
 6.ヴェルディ  「ドン・カルロ」~「最後の日はきた」 カプッチルリ
 7.ヴェルディ  「ドン・カルロ」~「ひとり寂しく眠ろう」 ギャウロウ
 8.モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」~「カタログの歌」 
 9.プッチーニ  「トスカ」~「テ・デウム」「トスカはいい鷹」「この時を・・」 ゴッピ
10.ワーグナー 「タンホイザー」~「夕星の歌」 F=ディースカウ

  あ~まだまだ。

11.レオンカヴァルロ 「パリアッチ」~「ごめんください、皆さま方」 ミルンズ
12.モーツァルト 「魔笛」~「この神聖な殿堂」 モル
13.ヴェルディ  「オテロ」~「クレード」 ゴッピ
14.ムソルグスキー 「ボリスゴドゥノフ」~「ボリスの死」 ギャウロフ
15.R・シュトラウス 「影のない女」~「バラクのモノローグ」 ベリー
16.モーツァルト 「魔笛」~「娘か可愛い女房が一人」 プライ
17.ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」~「市民のものたちよ」 カプッチルリ
18.ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」~「フィエスコのモノローグ」 ギャウロフ
19.ビゼー  「カルメン」~「闘牛士の歌」 ミルンズ
20.R・シュトラウス 「無口な女」~「モロズスのモノローグ」 アダム

くっ、多すぎる。
同じ役をいいことに、ザックスとスカルピアは複数ノミネートしてしまうとズルさ
若い頃や、酒の力を借りたりするとテノールの声も出なくはないが、たいていの男子はこの音域。普段、口づさんだり、車の密室で歌ったりするのがとても気持ちいい。
車を運転しながら、ウォータンやスカルピアを歌ってるワタシっていったい・・・・・。

「オランダ人」はワーグナーだらけになるから落としたし、モーツァルトは総体としてはすべていいが、どれという決めてにかけてしまった。
でも、ヴェルディはいい。
この男声音域における最大の作曲家ではないか。
プッチーニとシュトラウスが、ソプラノに偏重したのに、ヴェルディとワーグナーはすべての音域に万遍なく素晴らしい歌を残してくれた。

一人でも、楽器がなくても、誰でも音楽を奏でることができる人間の声って、ほんとに素晴らしいもの。喜びも悲しみもそこに載せることができるのだもの。

フェイバリット・アリア集、もう一本ありますよ。

「私の好きなオペラ・アリア ソプラノ編」

「私の好きなオペラ・アリア メゾ・ソプラノ、アルト編」

「私の好きなオペラ・アリア テノール編」

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2009年2月 9日 (月)

横須賀芸術劇場15周年記念オペラ モンテヴェルディ&パーセル

横須賀芸術劇場15周年公演の古楽舞台作品2本を観劇。
今年は減らすなんて公言しておきながら、このところ演奏会が立て込んでいて、公私ともに忙しい。
重厚長大系が中心の私にとっては、守備範囲外のレパートリーでありますが、横須賀芸術劇場に一度行ってみたかったのと、出演者が日頃馴染みのある方々であること。
そして、英国音楽愛好家としては、パーセルの唯一のオペラは是非観てみたかったことにあるわけ。

   江崎浩司 「スカジャン」
   パーセル 組曲 ト長調
          チャコニー

   モンテヴェルディ 「タンクレーディとクロリンダの戦い」

   パーセル 「ダイドーとイーニアス」

      江崎浩司 指揮 トロヴァトーリ・レヴァンティ
                 横須賀芸術劇場合唱団
      演出:彌勒忠史

                      (2.8 @横須賀芸術劇場)

 
(「ディドーとエネアス」で慣れ親しんだけれど、今回プロジェクトの呼称に合わせます)


Yokosuka15 幕開き前に、演出の彌勒忠史氏が登場し、音楽の特徴や見どころを面白おかしく語ってくれて、こうした作品に不慣れな我々観衆にはうれしい配慮だったように思う。
           
江崎浩司氏の「スカジャン」は、まさにご当地作品。
ブルーのスカジャンにサングラスの出で立ちで、さらに2本のリコーダーを同時に吹きながら指揮をする芸当つきのナイスな曲。

続くパーセルの組曲と小品はたおやかでゆったりとした曲で、本当に気持ちがよい。
オケピットの中での小編成古楽オケの繊細な響きはこの大ホールにはきつかったけれど、私は逆に集中力を高めて聴くことができた。

タンクレーディ:宮本 益光   クロリンダ:鈴木 慶江
テスト :望月哲也

さて、モンテヴェルディである。マドリガル的な語りを伴った作品であるが、それを舞台にかけるにあたって、歌舞伎の要素を取り入れ、歌に合わせて、日本舞踊をパントマイム風に舞わせた。
筋は、愛し合う仲の十字軍側のタンクレーディとイスラム側のクロリンダが戦場でともに相手と知らず闘ってしまい、死ぬ間際のクロリンダが洗礼を請い、浄化されつつ亡くなるというもの。

幕が上がると、中央にステージがあり、そこから白い巨大な木が生えている。
私にはワルキューレのトネリコの木のように思われた。
歌舞伎の囃子に合わせて戦いの二人が登場。
私の後ろあたりから、「待ってました」「いょ~、ご両人」と声がかかる。
その世界に暗いわたしには、おいおい、という気分だったけど、あまりに見事に決まっていた
タンクレーディの兜と扇子には十字架が、クロリンダのそれらには、三日月がそれぞれ描かれている。舞台奥の空にも三日月がかかり幻想的な静寂の世界。
そして右手には、主役二人と、彼ら以上に歌いどころの多い語り(そう受難曲の福音士家のような)、さらに古楽器テオルボがならぶ。
演出ノートによれば、義大夫語りを意識していて、日本の語り物との共通項を意識して欲しいとある。
な~るほど、同じ1600年頃にオペラと女歌舞伎が誕生したともある。
う~む、と静的な中にもドラマチックな人間感情を込めた日本の伝統文化と今でも新鮮で大胆な音楽に感じるモンテヴェルディが見事に合体
洗礼を授けるため、兜に泉の水を浸し、敵の兜を外したとき、はらはらと女性の鮮やかな長い髪がこぼれ落ちる。それを見て、後ずさりして驚くタンクレーディ。
いやはや、美しい場面であった。

クリアボイスの鈴木さん、存在感あふれる宮本さん、それ以上に望月さんの歌唱の素晴らしさに舌をまいた。難解きわまるフレージングを易々と明快に歌っていた。
舞踊のお二人も情感あふれる見事なものと感じた。

 ダイドー&魔法使い:林 美智子   イーニアス&水夫:与那城 敬
 ベリンダ       :國光 ともこ   待女&魔女:澤村 翔子
 魔女&使者      :上杉 清二

後半はパーセル
大まかな筋は、相思相愛で結ばれた、ダイドーとイーニアス。
カルタゴへの復讐のため、その仲を引き裂こうとする魔女らは、ゼウスの使者に化けて、狩りの途中のイニーアスにカルタゴを去るように命じる。
突然の別れをなじるダイドーに一時は考え直すものの、ダイドーは一度裏切った心を許すことできず、イーニアスは去る。
しかし、イーニアスなしに生きてはいけなくなったダイドーは、待女の元で息絶える。


先ほどの舞台背景と同じにステージと木。
そこに横たわる派手目な衣装の女性。と、そこに、悪魔風の仮面を付けたダンサーが現れる。ん よく見るとその仮面はバリ・ヒンドゥーの神だか何だかのもの。
そして起き上がった女性は、ダイドーで、林さん演じる彼女のなりは、もうまさにバリの民族衣装。やがて集まる、待女や宮殿の人々の鮮やかな衣装もそう。おまけに椅子や背の高い日よけ傘もよくテレビで見るバリのもの。
やがて現れるイーニアスはバリの衣装なのだろうか?異国の人だからと、私にはライオンキングのように見えたけど。
二人を祝福する人々は、座り込んで胸の前に手を合わせ、それを上のほうに掲げる。
ケチャはさすがに出なかったけど、ホント、まんまのばりばりのバリ。
ここまで徹底すりゃあ、ほんとに面白い。

演出ノートの彌勒氏の言葉では「読み替えのための読み替え」など嫌い、でもこれは読み替えと呼ばれるだろうが、300年前の作品を現在にわかりやすく味わってもらうための工夫とある。
わたしゃ、それこそ読み替えだと思うけど。
パーセルの音楽の意図は今となっては曖昧だが、でもドラマの持つ意図を多面的に感じさせてくれる意味では、音楽に付随した大胆かつ見事な演出ではないだろうか!

聞き慣れない音楽を飽きさぜず、楽しませてくれた仕掛けも随所にあった。
愛のキューピッドのようなイーニアスの付き人の持つ弓は、その矢がバラになっていて、1幕最後に舞台に置かれた矢を拾いにきた付き人がその矢を引っ張ると、マジシャンよろしく、一本のバラに様変わり~。
 出港を控え、もうここには用はねぇ~、とばかりにイーニアスは客席後方から駆け足で登場し、ピットを背に最前列で歌い、手にした花束のひとつを客席の女性に渡して走りさる。
 傘と丸い地球のような球を手にした魔女3人。たくらみの成功をイヒヒとばかりに喜び、さぁいくよ、とばかりに傘に球を乗せてクルクルっと、「はいっ!」・・・・。これには場内爆笑。
こんな踏み外しもよしではないか。

今回、イーニアスと魔女、待女と魔女などが同じ歌手で演じられた。
これはまさに人間の持つ二面性を同一人物が歌うことで明らかになること。
これも、ノートに記載のことながら、バリ・ヒンドゥーの善・悪両立の思想と同じくするという。
私はあと、タンホイザーのエリーザベトとヴェーヌスの二律背反する存在を同一視する考えも思い起こした。
 魔女が嵐を引き起こし、狩りが中止になり街へ帰還せざるをえなくなり、その後に偽ゼウスのご神託があるのだが、待女はイーニアスを引きとめまるで魔女の手先のような動きをしたし、ダイドーも引き上げつつ、怪しげな笑い声を出していた・・・・。
おそろしき女性の二面性。そして単純なるかな、男子諸氏。
(女性の皆様に怒られそう)

それにしても、パーセルの高貴でかつセンチメンタルな音楽の素晴らしさ。
まさにイギリス音楽の祖である。涙が滴るような最後のダイドーのアリア「私が土に横たえられたとき」は、音楽的にもとても素晴らしいし、さんの真摯で没頭した歌唱に大いに心動かされた。
狩りの場で、待女の歌う昔話のアリアも素敵な曲だし、澤村さんのメゾもとても可愛かった。それと、歌いどころの多い待女ベリンダ役の國光さんの快活でのびのびした歌唱もよい。
オネーギンで印象的だった与那城さんは、私の注目歌手だが、ここでも存在感ばっちりの明るくぶれのない素晴らしい声だった。
カウンターテナーの上杉さん。実は女性だとばかり思っていたくらいのクリアーボイスでびっくり。

最後にピットの江崎さん指揮のトロヴァトーリ・レヴァンティに大讃辞を。
曲が曲だし、ホールが大物だから躍動感云々はやむを得ないが、その変わりノーブルかつ繊細。ドラマに付随した舞台との一体感を感じることができた。
常々色の少ないと思っていた古楽器でも、こんな多彩な音色が出てくるものだ、と大いに関心した次第なのだ。

日本人の感性が生んだ素敵な舞台作品が、海の近くの横須賀の素晴らしいホールで楽しめた。
ちなみに、「二つの愛と死」という舞台タイトルが今回、冠されていました。
「愛と死」は、ワーグナーを通じてお手のものだが、パーセルの最後の場面は本当に美しかった。
人々に送られて去ったダイドーが、天上に導かれ、幕開きと同じ場所に横たわる。
すると上から、赤いばらの花びらがひらひらと舞い落ちてきて、ダイドーの亡骸を埋め尽くす・・・・・・・。
少し美的に過ぎるが、これも、死の浄化の美しい描き方かも

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横須賀芸術劇場15周年記念オペラ 番外編

Dsc01273 横須賀は車では何度か訪れたことがるけど、音楽会を伴ってのことは初めて。
神奈川育ちだけど、横須賀三浦方面って、なかなか縁遠い。
京急汐入駅に直結の、横須賀芸術劇場。
その前のショッパーズプラザや公園から見える港。

午前中お仕事をして、私の職場のある三田から京急で50分。
でも自宅の千葉までは、2時間。

1

横須賀中央駅やJR横須賀駅では、「スカレー」ちゃんがお迎えしてくれまっせ。
 横須賀は、海軍カレー、カレーの街であります。

Dsc01254 「魚藍亭」で、元祖海軍カレーをいただく。

野菜ごろごろ、牛肉はホロホロに煮込まれた、家庭的なお味に感激。
観劇前だけど、ビールと自家製コロッケもいっちゃう!

Dsc01264 Dsc01265    

芸術劇場に至る「どぶ板通り」。
アメリカカジュアルの店や、ハンバーガー店、アクセサリー店などが並ぶ。今は少し寂しくなってしまったかな・・・・。いろんなジャンルの音楽家の手形が歩道に。
Dsc01275

スカレーちゃんの持つカレーは・・・・。
リアルでございます。

ナイスな横須賀。
皆さんも一度どうぞ。

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2009年2月 7日 (土)

プッチーニ 「ラ・ロンディーヌ」~つばめ~ METライブビューイング

METライブビューイング、プッチーニの「つばめ」、ラ・ロンディーヌを観劇。
木曜から名古屋へ一泊出張。
そういえば、ラ・ロンディーヌ上映してるんだった
朝思い出して調べたら、金曜が最終日。
これはいけない激しく仕事を片付けて、東銀座の東劇へ間に合いましたよ。
ちなみに、名古屋でよく行くお寿司屋さんで高○純○さんに遭遇
テレビで見る通りのナイスなお方でございました。

Larondine3 さて、プッチーニの「ラ・ロンディーヌ」(私はつばめと呼ぶより、この方が好きなのであります)は、名作揃いのプッチーニのオペラの中にあって、あまり聴かれない作品。
でも、わたくしは、この愛すべき素敵なオペラが大好き。
アンナ・モッフォの歌った一組をずっと愛聴していて、いつかその舞台を見てみたいと思っていた。
先頃、待望のDVDも出たが、まだそちらには手が回らないうちに、メット上映がやってきたわけであります。

 マグダ:アンジェラ・ゲオルギュー  ルッジェーロ:ローベルト・アラーニャ
 リゼッタ:リゼッタ・オローペサ    プルニエ:マリウス・ブレンチュー
 ロンバルド:サミュエル・ラミー

   マルコ・アルミリアート指揮 メトロポリタン・オペラ・オーケストラ
                          (2009.1.10 @メット)

メットらしい写実的でゴージャスな舞台。そして、このオペラにうってつけの、美男美女のおしどりコンビのゲオルギューとアラーニャ。いや、この二人のためにプッチーニが書いたのではないかと思えるくらいになりきっていた恋人たち。そして、あまりに美しく、洒落たセンスに満ちたプッチーニの音楽。
以上3つが、この上演のすべて

1幕は、世紀末パリの豪勢なお屋敷。金持ちパトロンの別宅といった風情で、ゲオルギューのぴったりフィツトのドレスがなかなかにセクシー・・・・。髪もクレオパトラのよう。
 2幕は、社交の場、要は男女の出会いの場のホール。アールデコ調な造りで、壁も柱も細部にいあたるまで、ほんとうによく出来ている。
マグダは、若い頃のお針子時代に逆戻りした純情そうな花のドレス。
一方、お小姓のリゼッタは、ご主人のモード風のドレスに身を包んでいる。
 3幕は、陽光降り注ぐリゾート地にある別荘のテラス。大きな窓のステンドグラスは葡萄の柄だし、壁や柱には、地中海風の装飾が。
ここでのマグダ、またもピッタリドレスで素敵すぎ。相方ルッジェーロは、生成りのベストに白いシャツ、首元にはスカーフと、すっかりリゾートルック。

おおまかな筋は過去記事をご参照いただきたい。
田舎出の青年と恋に落ちた、金持ちの囲われ者で愛に憧れる女性とが恋に落ち一緒になるが、女性は自分の出自を恥じ入り、自ら身を引き青年と別れる。
「椿姫」と「ボエーム」、「ばらの騎士」、「微笑みの国」と同じように本心とは裏腹に、身を引く悲しさと愛するがゆえの優しさ・・・・・。
ここに付けられたプッチーニの音楽は極めて美しい。

こんな素敵なオペラが何故不遇なのか?

映像ながら、始めて舞台を観て思ったことは、3幕=2時間の中のドラマの配分のバランス感の悪さ。1幕では、マグダとその仲間の生活ぶりと、狂言回し的なプルニエによるマグダのつばめのような人生(飛び立ち、また帰ってくる)の示唆。
2幕は、マグダとルッジェーロの出会い(ボエームの2幕との類似)。
そして3幕は、二人の愛の巣とその切ない別れ。
そう、3幕でいきなりリゾート地に暮らす二人のベタベタぶりが描かれたと思ったら、いきなりお別れとなってしまう。このあたりにもう少し起伏が欲しかったところ・・・・。
 思えば、人が死なないプッチーニのオペラは、こちらと「西部の娘」「ジャンニスキッキ」くらいなもの。ドラマティックな出来事に背を向けたプッチーニだった。

それと、優秀な歌手たちを揃える難しさ。
ずっと出ずっぱりのマグダは、華やかさと若さ、そして陰りをも歌いださなくてはならない。
相方のルッジェーロは、甘口テノールでは頼りなく、最後には行かないでくれとせがむばかりでなく、自立を覚悟する男も歌いこまなくては面白くない。
あと、プルニエとリゼッタのブッフォ・コンビにも存在感が必要。

Rondine 今回のメット上演では、豪奢な舞台と優れた歌手、歌心溢れる若々しい指揮者とによって、弱点を感じさせない素晴らしい上演になっていたように思える。
まさに夫婦でしか醸し出すことのできない心の通いあった二人の演技は、極めて説得力があった。3幕で、ルッジェーロの母からの手紙を読むゲオルギューの顔色が変わらんとするのを押さえこむ演技の素晴らしさ。そして、心を決して過去を話し、潔く別れを言う場面には参った。覚悟はしていたが、またもやワタクシの頬を涙が・・・。
 そして、必至に取りすがるアラーニャのルッジェーロは、ほんとに泣いてるんだ。
いやはやプロの凄さと、映像が入ることによる歌手たちの力の入れ具合に感心。
幕開き前に、総支配人からゲオルギューが風邪で不調ながら、今宵のために全力を尽くす旨、アナウンスがあった。
たしかに、1幕のアリアでは少し苦しかったし、高音はきつそうだったけれど、演技力でカヴァーしつつも、彼女のほの暗い声が逆に素敵な効果をあげていて、彼女はプッチーニが一番素晴らしいと確信できるものだった。
でもさすがの彼女もアップ画面はそろそろ・・・・・。
アラーニャは相変わらず好調だし、若いブッフォ二人組に、贅沢にもラミーの爺さんもビジュアル感も申し分なし。

今回の案内役は、ルネ・フレミングで、出演者たちへのインタビューがユーモアあふれる楽しいものだった。
いずれDVD化されるし、NHKでの放映もあることであろう。
多くの方に観て、聴いていただきたい愛すべき「ラ・ロンディーヌ」であります。

熱くなった頬を冷たい夜の空気で覚ましながら、築地から有楽町駅まで銀座を抜けて歩いて帰った。頭の中ではセンチメンタルなプッチーニの音楽が響きつつ・・・・。

ライブビューイングの今後。
 「オルフェオとエウリディーチェ」  
 「ランメルモールのルチア」  ネトレプコ&ベッチャーラ
 「蝶々夫人」 ドマス
 「夢遊病の女」 デセイ&フローレス
 「チェネレントラ」 ガランチャ!

過去記事
 「モッフォのラ・ロンディーヌ」
 「ゲオルギュー&アラーニャ ヴェルディ」

 

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2009年2月 5日 (木)

シカゴ交響楽団演奏会 ハイティンク指揮 ②

Chicago_so_2009 ハイティンクシカゴ交響楽団来日公演最終日。

 モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
 
 R・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

    ベルナルト・ハイティンク指揮 
       シカゴ交響楽団

        (2.4 @サントリーホール)
        
前回のドレスデンとの来日でも取り上げた得意のプログラミング。
今回の席は、LD2列目。ハイティンクの指揮ぶりをを左横から眺める席。
そして、シカゴの誇る強力ホルン・セクションの真上。
前回のマーラーは、最前列でシカゴの低音楽器群の威力に圧倒され、まさに平伏してしまった。
今回は、豊かにブレンドするシカゴの鉄壁のアンサンブルの素晴らしさを目と耳でしっかりと堪能することができた。
マーラー・オケというレッテルに惑わされてはいけない。
柔らかく繊細、センスのよいモーツァルトを聴いて、このオーケストラの底しれない能力に感服した。大は小を兼ねる、じゃないけれど、どこまでアクセルを踏み込んでも余裕のある高級車のようでありながら、低燃費で小回りの効く機能も持ち合わせているのだ。

ハイティンクはモーツァルトのオペラは録音しているのに、交響曲や協奏曲はひとつもない。
ジュピターだから、きっと堂々たる演奏になるかと思っていた。
そうしたらどうだろう
先に書いた通り、その出だしから柔らかくもふくよか、そして、きめ細やかな美しいモーツァルトが始まったのである。音がともかく澄んでいてきれい。
休止が多い1楽章だが、その休止が入るたびに、ホールに響きがゆったりと「こだま」する。その美しさにため息が出てしまう。
2楽章の弦の目のつんだ澄み切った音色。弦出身のハイティンクらしく、とてもよく歌わせている。
シンプルな3楽章、威圧的にまったくならない、清冽な終楽章。
ほんとうに気持ちのいい、すっきりとした素敵なモーツァルトにこのとところの胸のつかえが、とれた思いだった。

英雄の生涯」、冒頭から確かにシカゴ
ぐぃーっと腹に響くような出だしだ。
そして、シュトラウスとなるとシカゴの威力は、また全開となり、その音の洪水はホールの隅々まで溢れかえる印象で、オケを横から聴いているだけに、その鮮やかな音たちが、ステージから自分の右手側のホール奥にブワッーと拡がっていくさまが手に取るように感じ取ることができる。
 しかし、この演奏には、威圧感はこれっぽっちもなく、カラヤンやメータのような聞かせ上手の語り口もない。
最初から最後まで、どこまでも音楽的でむしろ訥々とした味わい深い「英雄の生涯」であったのだ。
もちろん、「英雄の戦場」における大迫力場面と、勝利シーンでのあまりに感動的な冒頭部分の再現。これらはもう無条件に、いや、なすすべなく降参。
もーーすごすぎ。グレヴェンジャー率いる9本のホルンの輝かしいことといったら・・・。
 それと、コンマスのチェン氏のソロの鮮やかさ。
こうした名手たちが突出することなく、全体のシカゴ・サウンドの中で機能していることも、スーパーオケたる証しであろうか。
 でも一番素晴らしかった部分は、「英雄の業績」から「引退と完成」にかけての最後の場面だった。まだ若いシュトラウスが、自己の過去作の主題を振り返りつつ老成へと至らんとした場面。様々な楽器で、浮かんでは消えてゆき、歌い継がれてゆくティルやドンファンのモティーフ。これらが、実に味わい深く、かつこんなに明晰に演奏されるのを、私はまったく初めてといっていいくらいに聴いた。
私の好きなシュトラウスのオペラ数々、その最後のトリのような感動的な場面をも思わせてくれる。
 ハイティンクがじっくりと自己を熟成させて築き上げてきた実り豊かな人生。
そんな感慨深い名演奏ではなかったろうか
本当に心に響いた。

Tit01_ph 静かに曲を閉じ、会場は静かなまま。
ハイティンクが指揮棒を譜面台にコトリと置く音までホール響いた。
それを待っていたかのような大きな拍手に会場は包まれた。

マエストロ、いつまでも元気で。
また日本にやって来て欲しい。
今度は、ヤンソンスとともに、コンセルトヘボウとバイエルンで



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2009年2月 1日 (日)

シカゴ交響楽団演奏会 ハイティンク指揮 ①

Chicago_so_2009 なんという音楽性、なんという音の威力

このふたつが完璧なまでに調和して、目の前に展開された稀有の体験をすることができた。

こんな音楽体験ができるなんて、東京というところはとてつもなく恐ろしいところだ、と思うとともに、不況感に喘ぐ日本のなかの東京とはいったいどんな都市なのだろうと、怖くなった。

世界から見たら、日本はドイツと並んで今や有力な国なのであろう。
一方、国内は、悲しいまでに寂寞感が溢れている。

こんなことを書いたのは、音楽における夢の実現と、信じることの大切さを思ったから。

ベルナルト・ハイティンクは、クラウディオ・アバドと並んで、私の愛する指揮者の一人であって、1973年頃からレコードを通じてずっと聴いてきた人。
当時、日本の評論家筋は文字取り、けちょんけちょんで、私は、アバドと並んで、あまりに不当な評価に反動して、かえってかたくなまでに応援したものだ。
アムステルダム・コンセルトヘボウとのブラームス、1回目のチャイコフスキー、ワーグナー、シュトラウス、マーラーにブルックナー、ロンドンフィルとのリスト、ハイドン、英国ものなど、いずれも聴いた。
 ハイティンクが評価されだしてからも、ずっと聴いてきた。
ドレスデンとの前回来日で、ブルックナーの8番を聴いて、とてつもない感動を味わった。
そのハイティンクが、着実にステップアップして、世界の最高峰のオーケストラのプリンシパルになった。

今日、ご一緒したIANISさんと痛飲しながら語り、氏から教授いただいたことと、私も大いに同感したこと。
そう、ハイティンクは私生活も含めて、人生を波瀾万丈じっくりと極めてきた・・・・・、その経験が長年に渡って熟成され、ここに人間としても、音楽家としても最高度に人の尊敬に値する高みに達しつつある。
本来コンサート指揮者であった人がオペラ経験もしっかり積むことによっても、その熟成の度合いが強まったはずだ。
 ともかく人間ハイティンクが、オーケストラを動かし、聴衆を感じいらせるようになった。
80歳を超えての、このハイティンクの事実は、音楽を聴くわれわれもしかり、すべての中高年にとって、人生の後半生を生きる心強い糧となるのではなかろうか
 こんなお話を、IANISさんの主導でしながら、おおいに盛り上がったアフターコンサートでした。

       マーラー  交響曲第6番 イ短調

        ベルナルト・ハイティンク指揮 シカゴ交響楽団
                        (2009.2.1 @サントリーホール)

懐も鑑み、最後まで悩んだシカゴSO。
やけくそぎみに、買ってしまった時は、いい席がなく、今回は最前列のA席だから、チェロの真ん前。
ハイティンクの指揮姿は、首を大きく左に向けながらの観劇。
でもこの席、シカゴの誇る低音域が、あまりに手近に、あまりに圧倒的に響く。
チェロ奏者の気迫がリアルに感じられ、その松ヤニがいましも飛んできそうな迫力に満ちていた。
最前列で聴くと、そちらのプルトばかりが分離して聴こえてしまうのが日本オケの常だけれど、シカゴはすごい!!
威力あるチェロは、こんな間近に聴いても音は一体で、一本。
右側からはコントラバスがズンズンとこれも一本の音で迫ってくる。
1楽章の冒頭から、こんな感じで圧倒されっぱなし。
この楽章の最後は、あまりのかっこよさに失禁しそうになってしまった
アイロニカルな2楽章もきわめて音楽的。どこまでも、まじめさが本質の演奏。
耽美的に陥る3楽章アンダンテは、きっちりとどこまでも清潔で高潔。
シカゴの誇る弦セクションが、もう堪らないくらいの歌を奏でる。
とくに第1ヴァイオリンのここぞというときの素晴らしさ。
 そしてですよ、終楽章の圧倒的な音塊の連続とそのピラミッド感。細部が緻密なまでに完璧で、リズムの刻みが100人のメンバーの隅々にまで行き渡って完璧なまでに縦線がそろっている。じわじわと盛り上がりつつ、とてつもないクライマックスを築きあげる。
いったい、どこが最高潮のクライマックスなのだろうか? 
ハイティンクの余力をもった柔らかな指揮を見ながら聴いていると、まだまだ秘力があるような気がする。
最後のはて、苦しげにコンバスと木管低域がうごめく。ここでの音の明確さはあまりに完璧で、むしろ白日の明るささえ漂う。
思いきりの大打撃で、ピチカートとともに、すべてが終結した時、会場にはしばしの間が漂い、静寂が覆った。
でもそこは、さりげないハイティンク。
いったん止めた指揮棒も、ささっとおろして、拍手を待つ。
アバドとルツェルンが、緊張に満ちた静寂を音楽の一部として永くわれわれに共感させたのに対し、ハイティンクはどこまでも普通に指揮棒を降ろした。

あたたかくも熱い拍手に応えて何度も応じるハイティンク。
最後はひとり、まじめそうに聴衆の拍手に出てきた。
謙虚で真面目人間のハイティンク。その生き様が、本日も勝利した日である。

ハイティンクの指揮ぶりを、それこそ手近に観た。
いつものハイティンクらしく、しっかり拍子をとりながら、譜面も確認しながら、目をつぶったりしている。でも、ときおりパっと目を押し開き、各奏者を見つめ、指示する、その眼ぢからの強さ
こうした場面からも、経験とともに人間力の味わいを強めつつある一人の偉大な人間を思わざるを得ない。
ハイティンク、シカゴをムーティに譲ってからも、さらなる高みを目指すかもしれないし、あらたなオーケストラとの出会いや再開をやってのけるかもしれない。

1 アメリカのオーケストラとしてのシカゴ響。
人種的には多国籍化しているものの、その根源はヨーロッパのものであり、そうした存在としてもハイティンクとの相性も強く感じた晩でもありました

アバドとルツェルンを聴いた2006年から3年。
あれ以来封印してしまったマーラーの6番。
今日またハイティンクによって封印の儀とあいなりました・・・・・・。

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