月夜の晩に人は狂うのだろうか。
かつてより、西洋では、月と狂気は数々のドラマを生みだしてきた。
子供の頃、恐怖のどん底に陥れられた映画が、「吸血狼男」だ。
淀川長春の日曜洋画劇場かなにかで放送されたもので、不幸な運命のもと産み落とされた子供が、やがて月夜の晩に狼男に変身して血をもとめ歩く。
最後は町の人々に追いかけ回され、逃げ場をなくし、育ての親に銀の玉で撃たれて死んでゆくという、恐ろしいが悲しい映画だった・・・・。
日本では、女性の象徴としてのかぐや姫であったり、四季を通じて歌われる風物であったりと、その感じ方も大違い。
ベルクの「ヴォツェック」も月夜と狂気が描かれた、怪しくも悲しいドラマのオペラである。
詩人にして革命家かつ医学家のビューヒナー(1813~37)が残した原稿を、ウィーンのフランツォーフという文献家が復元した戯曲が原作。
この主人公は、実際にいた人物で、精神異常をきたし、浮気した愛人を殺害し、絞首刑になったらしい。1822年のこと。
作者の生誕100年を機に上演された舞台を見て、オペラ化を思い立ったベルクは8年をかけて作曲し、1925年にベルリンでE・クライバーの指揮で初演された。
息子クライバーも、この作品を得意にしEMIにドレスデンと録音が残されているとかいないとか・・・・・。
2度目の記事だけれど、今回は長くなるけどあらすじを。
第1幕
①兵役中の理髪師あがりのヴォツェックは、大尉の髭をそっている。
軽薄な大尉は、ヴォツェックにいろいろと説教しのたまい、教会の祝福なしに子を作ったことを非難するが、ヴォツェックは貧乏人には金もなく、教会も道徳も役にたちませんや、とぶつくさ言うのみ。
②友人アンドレスと野原を歩くヴォツェック。訳のわからない不気味なこと言って、友人を気味悪くさせる。
③妻マリーの部屋。軍楽隊の行進が近づいてくる。鼓笛長が色目を使い、近所の女がマリーをあてこする。マリーは混乱しながらも子守唄を歌い、そこへヴォツェックが帰ってくるも、意味不明のことをいって出てゆく。
④医師の部屋。ヴォツェックは医師から金をもらいながら実験台になっている。実験動物とされたヴォツェックは、かってに咳をするなとか言われる。
⑤マリーの家。鼓笛長があらわれ、マリーはついに抱かれてしまう・・・。
第2幕
①マリーの部屋。鼓笛長にもらった耳飾りを眺めている。そこへヴォツェックが帰ってきて、拾ったとする耳飾りがなんで二つあるのかと問うが、実験アルバイト代を手渡し出てゆく。マリーは自責の念に取りつかれる。
②大尉と医師との会話。不気味な二人の対話に、ヴォツェックが通りかかる。ますます錯乱の度を深めている様子を冷酷に観察する医師。大尉は、マリーの不義をそれとなくさとし、ヴォツェックは走り去ってしまう。
③マリーの家。ヴォツェックがやってきて興奮して飛びかかる。「わたしに触れたら、ナイフで突き刺すわよ」と凄まれるが、この言葉がヴォツェックの脳裏にしっかり刻みこまれてしまう・・・・。
④酒場。にぎやかな酒場で、みんな酔い潰れている。マリーと鼓笛長がワルツを踊っている。これを隅から見て興奮を隠せないヴォツェック。
白痴がヴォツェックのそばにきて、「匂う、匂う、血が」と暗示的なことをいい、ヴォツェックは周囲が赤く見えると言って、憑かれた様子に・・・・。
⑤兵舎。兵隊たちが寝ているが、ヴォツェックは眠れない。そこへ酔った鼓笛長がやってきて、さかんにヴォツェックをけしかけるので、ヴォツェックは飛びかかるものの、あっけなく組み伏せられてしまう。
静まりかえった兵舎のベットにまんじりともせずに座り続けるヴォツェック。
第3幕
①マリーの部屋。ろうそくを灯し、聖書を読み贖罪のマリー。
②池のそばの林道。夜、ヴォツェックとマリーが歩いてくる。池の上には月。
赤い月を見て、血のついたナイフというヴォツェック。そしてマリーののど元を。。。
③一転、酒場へ。飲んだくれて、近所の女にちょっかいを出すヴォツェック。
女は、右手に血が付いているという。その肘にも。手の血を拭いたとするヴォツェックはしどろもどろに。店の皆が、騒ぎ出す。
④池。マリーの死体、その首の赤い傷を見て、また誰かに首飾りをもらったのか。
ナイフを探しだし、池に投げる。しかし、泳ぐ人や月を獲る人(?)に見つかりはしないかと池の中に入って行き手の血を洗おうとするが、しだいに溺れてしまう。
大尉と医師が、遠くで人の溺れていそうな音を聴き身震いする。
⑤マリーの家の前。木馬で遊ぶマリーの子供を含め、子供たちが戯れるなか、子供の一人がマリーが死んで発見されたことを言いにきて、みんな見に行ってしまう。
ひとり残されたマリーの子供は、少しためらったのち、やはり追いかけていく・・・・。
長く書いたのは、小間切れのパッチワークのような5つの場が、3つの幕にきれいにおさまっていて、その与えられた構成がまた3つの幕でそれぞれ違うことを明らかにしたかったから。
解説によれば、
1幕は、組曲(古典組曲、ラプソディ、行進曲・子守唄、パッサカリア、ロンド)
2幕は、交響曲(ソナタ形式、幻想曲とフーガ、ラルゴ、スケルツォ、ロンド)
3幕は、5つのインヴェンション
こんな緻密な構成になっていて、さらに大枠で見ると、
1幕は、各人物の相関関係を示す提示部
2幕は、疑惑が生まれ発展する展開部
3幕は、二つの死と残された子供の悲劇を予兆させる破局部
音楽は無調によるものだが、ベルクらしい甘味さと明晰さに溢れた聴きやすいもので、ライトモティーフもあるし、シュプレヒシュティンメ歌唱も取り入れられている、まさに新ウィーン楽派の音楽。
そして、各場に設けられたオーケストラによる前奏や後奏が極めてすばらしい。
マリーの祈りの場、殺害後の強奏ふたつ、ヴォツェック死のあとの宿命的かつ甘い長い間奏。これらがある3幕の緊迫感がすさまじい。
子供たちの残酷さと、残された子のこれから始まる悲劇。
今も厳しい世相に、身につまされるような、救いのないオペラである。
でも、幕切れの不思議に浄化された和音は、少し明るい未来を予見させる・・・・。
ヴォツェック:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ マリー:イヴリン・リアー
鼓笛長:ヘルムート・メルヒャルト アンドレス:フリッツ・ヴンダーリヒ
大尉 :ゲルハルト・シュトルツェ 医師:カール・クリスティアン・コーン
若い職人:クルト・ベーメ 若い職人:ローベルト・コフマン
白痴 :マーティン・ヴァンテイン
カール・ベーム指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/合唱団
(1965年録音)
今となっては、ちょっとソフト・フォーカスのベルクだが、当時こんな演奏がオペラのレパートリーとして、普通に上演されていたのかと思うとスゴイものがある。
バイロイトやウィーン、ベルリンで大活躍だった壮年のベーム。
ワーグナーやR・シュトラウスの延長としてのベルクを聴くことができる。
厳しい造形と全体を見据えた15曲の配列の美しさを描きだす手腕は、ベームのオペラ指揮者としての最良の姿ではないかと。
ホルンや金管の強奏はベームならではで、手に汗的な迫力とともに、歌を支える劇場的な棒さばきも感じる。
ずっと後年の、アバド盤があらゆる点で最高だと思うが、このドイツオペラの歴史の一こまのようなベームの演奏も捨てがたい美しさがある。
その思いは、F・ディースカウの考え抜かれた神経質ともいえるヴォツェックにもいえる。最初は、そんなにお利口さんだったら狂ったりしないのに・・、なんて思っていると、だんだんと青白いような狂気に取りつかれていき、殺害と溺死の場でピークを築く。
こうした歌唱は、逆に今では昔風に聞こえるかもしれないが、これはこれで私は完璧なものとして、後世まで残るFDの名唱だと思う。
同じ印象を、リアーの歌にも感じる。彼女、凄味では負けておりません。
それと、異常なまでにいやらしいシュトルツェの大尉は、ミーメ以上のすんごい歌唱。
いつも春が近づくと聴きたくなる「ヴォツェック」。
始めて観た二期会の舞台。
若杉さんが指揮をし、歌唱は当時日本語によるものだった。
前にも書いたが、葦が茂る不気味な池が赤く染まり、月が怪しく登る。
ヴォツェックは、その池にわけいって沈んでいった。
そのあと続いた、素晴らしい間奏。
家に帰るとき、その旋律がずっと耳について離れない。
秋の日だったけれど、どこかの家に植えられた金木犀が甘く香ったのを覚えている。
だから、春先の沈丁花の香りにも、私はヴォツェックなんだ。
11月に若杉さんの指揮で上演される新国立劇場での公演。
バイエルンとの共同制作の舞台とともに、指揮が大いに楽しみ。
過去記事
「ドホナーニ&ウィーンフィルのヴォツェック」
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