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2009年4月

2009年4月29日 (水)

ディーリアス 「春はじめてのカッコウを聞いて」 ヒコックス指揮

Tanpopo1 今年は、蒲公英(たんぽぽ)が大繁殖。
黄色い花と、綿毛の白、そして緑の織りなす美しい光景。

Tanpopo3

綿毛の集団
これが風で一斉に飛んだら・・・・。

Tanpopo2

綿毛アップ。
キレイでしょ。

English_tone_poems_hickox

私の最愛の作曲家のひとり、フレデリック・ディーリアス(1862~1934)は英国生まれだから、同国の作曲家ではあるものの、両親はドイツ人なので、その血はドイツ人のもの。
英国・北欧・北米・ドイツ・フランスにと、かなりコスモポリタン的な活躍をした「ヨーロッパ人」なのだ。

私のディーリアスとの出会いや思いは、ディーリアスのカテゴリータグをクリックしてご覧ください。
英国音楽好きになったきっかけもディーリアスなんです。

ディーリアス入門となった曲が、「春はじめてのカッコウを聴いて」 
この曲がおさめられたビーチャムの名盤を、内容も知らずに何度も何度も聴いたのが、もう35年も前のことになる。
だから、ディーリアスのこうした小品を聴くと、私は必ずノスタルジーに浸り、昔のことや、故郷の海や山、亡くなった父親、若かった淡い恋などに思いをはせることになる・・・・。

そこはかとない、たゆたうような形式のない感覚的な音楽。
ここでは、春は霞の向こうから茫洋とやってきて、何度もこだまするカッコウの声のエコー。どこかうら哀しく、春なのに大事な何かを冬に置いてきてしまった感じ。
イギリスの夏は北海道の夏のように爆発的に花が開花してやってくるイメージがあるけど、その春は冬からの境目が曖昧で、日本の眩しさと違ってもっと緩い雰囲気を思う。
 ただこの曲は、大半を過ごしたパリ近郊のグレ・シュール・ロアンで書かれていて、姉妹編の「河のうえの夏の夜」がかの地での船遊びイメージしているから、この春の思いも、愛するグレの村の自然に耳を澄ましたものかもしれない。
 そう、わたしは、バイロイトとともに、グレにも行ってみたいのであります。
河の上とともに、メンゲルベルクの指揮で初演されたというから面白い。
どんな演奏だったのだろうか。想像もつかない。

去年亡くなった、リチャード・ヒコックス指揮のノーザン・シンフォニア・オブ・イングランドの演奏は精緻で、かつ細やかな詩情に満ちた桂演。

 1.「そり乗り(冬の夜)」          6.「ラ・カリンダ」  
 2.「フェニモアとゲルダ」間奏曲     7.「イルメリン」前奏曲
 3.「春はじめてのカッコウを聞いて」   8.「ハッサン」間奏曲とセレナーデ 
 4.「河の上の夏の夜」            9.「夏の夜」
 5.「夜明け前の歌」            10.「エアとダンス」
 

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2009年4月27日 (月)

江ノ島の「にゃんにゃん」

Dsc03691_2 「江ノ島」
子供の頃以来にこの橋を渡る。
行かないもんだわ。
子供時代に行ったら、サザエのつぼ焼きの醤油の香ばしい匂いに誘われ、食べた〜いっと言ったわいいが、これがまた苦くてエグイ味参ったもんだ。
大人になったいま、全然OK。
酒効果なり。

ここは、今や温泉もあったりするけど、猫天国。ねこ島なんだ。
Dsc03700 まず遭遇一匹目。
夕日を浴びている黒猫。

Dsc03704_2

見た目と違い、フレンドリーなヤツ。
いじらせてくれました。
顔は強面だけど。

Dsc03706 駅に佇むにゃんこ。
眼光が鋭い。

Dsc03707 断崖に立つにゃんこ。
こいつの目も鋭いね。

Dsc03712 獲物でもいるのかしら?
5分も見てたけど、ずっと動かない。
野生に帰った猫なんだ。

Dsc03715 交番の車両の上でまどろむにゃんこ。
平和であります。
おまわりさんにも、かわいがられてますよ。

Dsc03747 帰り道に通ったら起きてましたよ。
こいつも目つきがキツイなぁ。

Dsc03722 そして、この日最大のブ○○○にゃんこ。
カラーリングがなせる技なり~。
おもむろの千両役者の登場に、思わずブレちゃってます。

Dsc03729

そのあとにあらわれた今日一番の人懐こい可愛いやつ。
たくみに人の足の間に入り込んでしまう。

Dsc03730 こんなご尊顔。
でも目は家猫と違いますなぁ。

Dsc03749 江ノ島の下界に下りると、にゃんこの表情も揺らいでいる。
人に触れ合う機会がさらに多いのだろう。

Dsc03751 こいつも毛並みはいいけど、ちょっとお顔がねぇ~。。。

Dsc03754

江ノ島猫巡りをしてたら、いつの間にか夕暮れに。
相模湾の向こうには富士山が。

島を中心とする市民の愛情でのびのびと生活する猫たち。
もともとは捨て猫だったりして、何やら複雑な思いに。
猫募金箱もありましたよ。

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2009年4月26日 (日)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 金 聖響指揮

Kanagawa_po期待と不安の織り交ざった気持ちで、雨の激しく降りしきる土曜日を迎えた。
神奈川フィルハーモニーの新常任指揮者「金 聖響」さんの就任披露定期公演。
会場にはこんなゴージャス花束がいくつも。
 そしてなんといっても全席完売の満場の聴衆。
おまけにいつもより年齢層が下がった感じだし、おお、女性が多い。
金さん効果バッチリである。
Kanagawa_po_2009425  ハイドン    交響曲第101番「時計」

 ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

          「プロメテウスの創造物」序曲
           (アンコール)

    金 聖響 指揮
    神奈川フィルハーモニー管弦楽団
       (4.25@みなとみらいホール)

実は、わたくし、初金さん。
そして驚くことに、初生「英雄」。
もちろん初生「時計」

後期ロマン派&オペラ男なので、このあたりの演目に弱いのでありますが、今後の聖響さんのプログラムは古典派も満載なので、苦手克服と相成りますかどうか・・・・。

オーケストラメンバーが出てくるとパラパラと拍手、出揃ってコンマス石田氏が出てくると大きな拍手が沸き起こるのだけど、今日はメンバー全員立ったまま。
おっ、ニュー神奈川フィル、このあたりからもう違うぞ、と。
そして、このホールでは見慣れない対向配置。
左手から第1ヴァイオリン、チェロ、ビオラ、第2ヴァイオリン。奥左手からコントラバス、ホルン。右手にトランペットとティンパニ、という案配。

「時計」ってどんな曲だっけ、と思う間もなくアダージョの序奏が、ツィ~っと始まる。
やはり、ピリオド奏法。
聖響さんを他に聴いてないからわからないけど、それほど過激でない。
でも1楽章はかみ合わず少しモヤモヤとしたまま進行。有名な2楽章は、神奈川フィルの弦を中心とする美音が確認でき、その上に乗る木管群の素晴らしさも相まってとても美しい瞬間を味わうことができたことがうれしい。
はじけるリズムに躍動感を大いに楽しみつつも、弦が小規模なアンサンブルを途中作ってみたりと、見て聴いて、ハイドンの音楽ってほんとによく出来てるなと感心。
そんなことを思いつつ、あっという間に1曲目が終了。

休憩中のロビーのCDコーナー、居並ぶ聖響CDに混じって、今となっては懐かしい翁のジャケットを発見。おをっ、ブルックナーの7番じゃん!
ということで、CD禁止令が発布されているのに関わらずすぐさまゲット。
これだけでも、今日来た甲斐があったぞ、とホクホクの思いで、初生「エロイカ」(何か妙なTBが来そうな・・)を待ち受ける。

開始早々、早い。早すぎるし軽い。でもやたらに見通しがよく、普段聴こえない声部が急に浮き上がったりしてきて新鮮ではある。
しかし、勇壮な第1主題が埋没してしまって響いてこない。
バスを奥へ押し込んでしまったので、ズシリと低音がない。
その変わり軽やかさとスピード感がそれにとって変わって目立つ。
トランペットとティンパニがうるさいくらいに鳴りまくる。
繰り返しも実行しつつ、すらすらと第1楽章が終わり、深刻な第2楽章も明るささえ漂う爽快な演奏に聴こえ、こちらもあっさり終了。
3楽章のトリオのホルンセクションの輝かしさ。これがよかった。
そして一気呵成の終楽章。
あ、終わってしまった。う~む。

ということで、クラヲタ42年のわたくしの初生「エロイカ」はあっけなく終了してしまった。

異例のアンコール「プロメテウス」も超スピード。オケは一糸乱れず完璧に着いていった。
実は、このアンコールが一番楽しめた。そいういう曲だからでもあろうか。

こんな印象に終始して、ワタクシを古いヤツだとお思いでしょう。
長い付き合いではないけれど、現田&シュナイト体制の華麗・重厚音を常に聴き、感動の涙を流してきた私のような聴き手にとって、金さんが神奈川フィルから引き出した音は、ちょっとがっかり、というかこれは衝撃なのかもしれない。
私の愛するワーグナーの「リング」は長大な劇作品であるけれど、最後が終わるとまた最初に戻って始まるというような循環する作品に思う。
それは、終わりもまた始まり、ということだ。
でも同じ繰り返しでなく、演出家も変えて何度も何度も違うドラマを生んでいくんだ。

だから、この始まりの神奈川フィルの演奏。私には苦い体験だったけれど、オーケストラの多様性を高め、成長してゆく、これもまた大事な一歩に違いない。
フレキシビリティあふれる神奈川フィルを感じてとてもうれしかった。
次回は、わたくしの大好物「トリスタン」と「海」が予定されていて、とくと拝聴しましょうか。

終演後は、金さんを囲んでレセプション。サインをいただく長蛇の列を尻目に缶ビール(?)を2本も頂きましたよ。
オーケストラメンバーもちらほら、お写真もばっちりいただき。

充ち足りない思いは、アフターコンサートにいつものメンバーでビアホール侵攻。
今回は、オーケストラのIさんとお仲間と合流して、若い指揮者を迎えてこれから盛りたてて行こうという、前向きでかつ楽しいお話がたくさん聞けました。
さらに、お馴染みの関内の居酒屋さんに席を移し、目もくらむようなおいしい魚に時間の経つのも忘れ・・・・、ん?
終電やばいと思ってお先に失礼したものの、時間計算を間違え家まで電車で帰れないことが判明。公園で寝ると捕まっちゃいそうだから、会社に宿泊。
晴れた朝に長傘をもってご帰還日曜日でございました。6時間も飲んでしまった。
皆様どうもお世話になりました。
そして、名古屋から転勤で神奈川にいらした「ピースうさぎ」さんとご挨拶できました。
ピースうさぎさん、次回のシュナイト音楽堂、どうぞよろしくお願いいたします。

以下写真集でございます。

Kimsan

金さ~ん
いろんな方の頭かぶってます。

Ishidayamamoto

コンマスとチェロ首席。
誰がそんな二人と想像しようか。
気になった方は、神奈川フィルを聴きにおいで

Ishida_2

「俺だ」
石田さま。

Hoya Saba

アフターコンサート第二部の素晴らしき肴たち。

ほや
サバ

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2009年4月24日 (金)

ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 ヤンソンス指揮

Sentokun 「いらっしゃ~い

ぼく、『せんとくん』でぇ~す。

ゆるキャラとかいう僕の仲間たち。

でも、僕は気持わりぃ~、なんて言われちゃって人気がないんだ。

そんなこと言わないで会いにきてよ。」

と、申しております。
この「せんとくん」、最近オープンした東京日本橋の奈良県のアンテナショップ「奈良まほろば館」の入口におわしますよ。
このHPもそうだけど、なんだかやることがお堅いね。
融通の効かない役人仕事って感じ・・・。

それにしてもこの姿・・・・・。
お隣の県の「ひこにゃん」のカワユさと比べちゃうとねぇ・・・・。

Shostakovich_sym8_jansons

ショスタコーヴィチ交響曲シリーズ、今日は第8番ハ短調。
7番「レニングラード」とともに、戦時下の作品で、独ソ線も前作は、戦況厳しい攻囲された環境下だったのに比べ、この8番作曲時は、開戦2年を迎えソ連の攻勢に転じつつあった1943年のもの。

いつもたくさんの言葉を残していて、それらが常に謎を生んでいるショスタコーヴィチ。
この作品には、「多くの内的・ドラマテックな葛藤はあるが、人生は楽し、人生肯定」のものという文章が残されている。

でも、私にはこの作品は、全体に暗く重々しい雲に覆われているように思われて、やるせない気分になる。
気分よろしく聴きはじめても、終わってみると憂鬱な気分に満たされてしまう。

全5楽章、そのうちを、演奏時間で40%近くを第1楽章が占めるといういびつなバランス。
しかも、その1楽章は中間部に強烈なアレグロ部分を有するアダージョ楽章であって、その冒頭部分とともに第5交響曲を連想させる。
この楽章は、今や聴き古して表層的に思えてきてしまった第5の1楽章と異なり、聴くほどに深く激しく孤高な音楽として迫ってくるものがある。
同じように深みある音楽が第4楽章のラルゴ。
パッサカリア形式の人類への葬送行進曲のような、何とも言えず内面的な音楽で、前楽章の大音響から休みなく始まり、皮相的な終楽章にそのまま連結している。
 リズミカルな動きが妙に楽しく、そして虚しくもあっけないスケルツォの第2楽章。
こちらもリズミカルだが、もっと強烈かつ行進曲的で激しい第3楽章。
先のラルゴをはさんで、妙に楽天的かつ捉えどころのない終楽章は、途中驚くべき悲劇への逆戻りのカタルシス大音響が待ち受けているものの、すぐさま妙な明るさを取り戻し、最後のピチカートを伴った消えゆくようなエンディングに収斂していく。
この満たされない終わり方。
ここに明るいきたるべき未来を見るか、戦争や悲劇はまだ続く、と見るか・・・・。
私には、どちらかわからない。

ヤンソンスが7年間在任したピッツバーグ交響楽団と残した唯一の本格録音が、この第8交響曲。
2001年のライブ録音で、ヤンソンスならではの実演での気迫とノリの良さを味わうことができる。ここには、この曲に求めたい深刻さと兇暴さがやや希薄ではあるが、オケの抜群のうまさと機能性が嫌味なく表出されていて、それらが独特の明晰な明るさと気概を与えてくれるところがおもしろい。
演奏者や聴き手を乗せてしまうヤンソンスならではの手腕ではないかと。
 この曲は、ハイティンクとコンセルトヘボウの最高の名演があるが、ヤンソンスも、もう少ししたら、コンセルトヘボウかバイエルンでこのCDより段違いの、もっと深遠な演奏をしでかすのではないかと思っていたりする。
ヤンソンスは、この曲の終わりを前向きにとらえているように聴こえる。

一見ばらばらのようでいて、マーラーにもっとも近接したまとまりのよい優れた交響曲に思える。
世評高い初演者ムラヴィンスキー盤は、何故か未聴。
自家製CDRも含め、ハイティンク数盤(RCO、BPO、WPO、SKD、LSO、BSO)とプレヴィン盤を愛聴してます。
最後に、「せんとくん」と今日のショスタコとは格別の関連性のないことを申し添えておきます。

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2009年4月22日 (水)

マーラー 交響曲第9番 アバド指揮

Myoukenji1 茅ヶ崎は、大岡越前守忠相ゆかりの地。
先週には、大岡越前祭があったという。
家康が関東に入府したときに、大岡家は茅ヶ崎に知行地をもらったことがその由来で、その代々の菩提寺が、市北部にある「浄見寺」。
車で走行中、発見し寄り道。
その庭がこちら。
静謐で心が静まりましたよ。

Abbado_mahler9_bpo 今日は、マーラー交響曲第9番
こんな中身の濃い大曲、平日の晩に気軽に聴けないけれど、今回はアバドの指揮で、どうしても取りださざるをえなかった。
最近のエントリーは、お気に入りのシンフォニーが続いております。
チャイコフスキーの5番を除いては、以前の記事に書いた「私の好きな曲ベスト」の交響曲部門ノミネート曲なのです。
それを、私の現役フェイバリット指揮者で取り上げるという、はなはだ自分勝手な特集なのだ。
その指揮者は、弊ブログをご覧いただいているとおわかりのメンバーで、登場回数も多い人たちなのですよ。
ハイティンク、プレヴィン、マリナー、アバド。あとは最近微妙になりつつあるけどヤンソンス。ヤンソンスだけ、ちょっとスターっぽいけど、基本は真面目で静かな指揮者が好き。
真面目にコツコツだけど、時に熱いものを吹きあげるような情熱を秘めている。

アバドとは、通算もう36年の付き合い。
ずっと変わらず聴いてきた。
ウィーン・フィルと来たときも、振ってるだけとかオーケストラに乗っかってるだけとか言われ、散々の評価を受けてしまった。
アバドの指揮の基本は、オーケストラとの協調と、音楽を一緒に作り上げることに喜びを見出そうとするコスモポリタン的な連帯意識。
それらを無心なまでに訴求し、病の淵から復活した今、最高の高みに達している。
 アバドは勉強家だから、ベーレンライター版をとりいれたり、ピリオド奏法も少しやってみたりと、進取の精神の若さを保っているが、本人は、そんなことはどうでもいいと思ってやっているのかもしれない。
 そこに音楽があるから、音楽が好きだから、そんな純粋な思いだけで貫かれている、いつまでも前向きなアバドなんだ。

ベルリンフィルとのこの録音は、1999年9月のマーラー・ツィクルスでの演奏会ライブ。
この頃はすでに病魔に冒されていて、翌年の演奏会は大半がキャンセルされてしまった。
そして、2000年11月にびっくりするくらいに痩せてしまい、目だけが鬼気せまる気迫に満ちた様相で「トリスタン」をひっさげて文化会館に現れた。
スカラ座の「シモン」、ベルリンの「トリスタン」、いずれも文化会館のピットでのアバドの指揮ぶりは、わたくし生涯忘れ得ぬ思い出でございます。

久しぶりに、アバドへの思いを書き連ねてしまった。

肝心のマーラーの第9。
深刻になりすぎず、精緻。しかしよく歌い、表情は明るい。
そんなアバドのマーラー。バーンスタインやテンシュテットのような陶酔的な演奏とは対極にあるすっきり系の演奏。
でもその細部は、ベルリンフィルの驚異の名技性とアンサンブルを得て、完璧なまでに研ぎ澄まされ、ところどころ、おやっと思うような表情付けがあったりするものだから気がおけない。
そして、ウェーベルンをも思わせるような1楽章の終わりの無常観に明晰な歌を聴かせてくれるところは、まさにオペラのアバド。
それは、終楽章も同じで、終始よどみないテンポで歌うこと!
アバドのトリスタンも、音楽をつきつめて、歌に特化した先に生れた、しなやかかつ緻密な演奏だが、そのアバド・トリスタン的な世界を感じさせる光明あふれる浄化の世界。
「死に絶えるように・・・」とマーラーが楽譜に記した言葉。
そして、その死の先の浄化を大いに意識させるのが、このアバドの演奏。
そう、死の先は終わりでなく、そこに救いがあるのです。
そんな明るいアバドのマーラーの第9。

ルツェルンでのマーラーは、ひとまずお休み状態だが、是非ともこの第9をやってほしい。
それと、トリスタンの1幕・3幕。そしてヴェルディのレクイエムに、マタイ、大地の歌・・・・。

Chigasaki_2_2 先の浄見寺を出ると、そこには、こんな鮮やかな桜の花が青空に映えて待ち受けていた・・・・・・。

このアバドのライブ、最後の音が消えてから38秒にもおよぶ静寂とその後のじわじわと盛り上がる拍手が収録されている。

 

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2009年4月20日 (月)

エルガー 交響曲第1番 マリナー指揮

Tokyo_tower1三田からの東京タワー。
オリンピック・パラリンピック招致活動応援として、五輪カラーのダイヤモンドヴェールが施された。
今日20日まで。
仕事帰りに、交差点の中で危険を冒しつつ撮影。
 対向車のランプもまともに捉えちゃったけど、かえってアクティブな東京の雰囲気が出たかも。
世界でも稀なる都市、東京ばかりがなぜこんなにキラキラしてるんだ!
オリンピックもいいけど、もっと富や経済、文化の分配を各地にできないものだろうか?

Marriner_elgar1 次回のロンドン・オリンピックにちなんだ訳じゃぁありませんが、英国の栄華と大いなる夕暮れを感じさせるエルガーの交響曲を聴く。

この交響曲第1番は、あらゆる交響曲のなかでも最愛のひとつで、昨日のラフマニノフと並んで、CD棚(存亡の危機に瀕してますぅ・・・・)の中でも枚数的に大きな位置を占めている作品でもあります。
当然、同じ作曲家の第2番も同時に集めちゃうから、それに匹敵するのもわかりますよね。

本ブログ7本目の当作品、サー・ネヴィル・マリナー指揮するアカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏で。
長いけど、これが本名だからしょうがないオーケストラ。
ついつい、「四季」以来のアカデミー室内管弦楽団という名称が印象としてついてまわるが、その発足当初より正式名称は件の長いものだった。
レパートリーの拡張と、マリナーのグランド指揮者への成長に伴い、演目によって変幻自在に規模を変えるフレキシビリティ溢れる柔軟な組織となっていった。
そんな成果のひとつが、このエルガーの交響曲。

やや響きは薄いと感じる場面もあるが、逆に細密な印象を与えるし、通常のオーケストラと比べてまったく遜色ない音が響いている。
この録音は、1990年。80年代末期あたりから、マリナーは我々がイメージする、さらさらアッサリ印象に加えて、時にびっくりするくらいの大胆な表情付けや劇的な演出効果を出したりするようになった。
このあたりの微妙な按配というか、不思議な並立がマリナーの面白いところで、ある意味予想もつかない意外性を秘めていると私は思っている。
そして、それらが品の良さと、ちょっと距離を置いた冷静さを保っているところが私は大いに好きなのであります。
人によっては没個性・特徴のなさを嫌うかもしれないけど、私はこんなマリナーが好き。
楽譜をあるがままに音にする能力と嫌味のない音楽作りが、ますます磨きがかかったマリナー。一昨年のN響への客演でのブラームスでも、驚きの名演を聴かせてくれた。
プレヴィンとともに、N響への客演を今後重ねて欲しいな。

全体に早めのテンポをとってぐんぐんと進めるマリナーのエルガー。
でも、憂愁に富んだ第3楽章で起きるマリナー・マジック。
そう、かなり熱中的な表現で、聴いていて大いに興が乗ってくる。
過去を慈しんで夢見るようなそのエンディング。儚いホルンの合いの手に、遠く美しき「いにしえ」を懐かしむロマンの響きが心に届く。
ほんと、素晴らしいんだから。この場面、バルビローリやボールト、尾高さんとともに、最高の瞬間を聴かせてくれるマリナー。
他の楽章も素敵です。涙がもう出そうになる冒頭部分に、低廻することない推進力あふれる2楽章、そしてコーダでテンポを動かさず何気ない盛り上がりを見せる終楽章。
こんなマリナーのエルガーであります。

今は入手できないこのCD。
即買いの基本にのっとり、15年前に取得した1枚は、私のCD棚の中での大事な存在なのです。

 エルガー 交響曲第1番の過去記事

 「尾高忠明/NHK交響楽団」
 「バルビローリ/フィルハーモニア管」
 「
大友直人/京都市交響楽団 演奏会
 「
尾高忠明/BBCウェールズ響
 
ノリントン/シュトットガルト放送響
 
プリッチャード/BBC交響楽団

Tokyo_tower2 東京タワー部分を拡大の図。
トラック邪魔ね。

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2009年4月18日 (土)

ラフマニノフ 交響曲第2番 プレヴィン指揮

Korinbou 先週は、福井、金沢、長岡とまわってきました。
久しぶりの金沢泊まり。
駅周辺に泊まったものの、やはり足は北陸随一の繁華街、片町へ向いてしまう。

香林坊の裏手、木倉町あたりが一番雰囲気がよろしく、いい店が密集している。

Nagamachi_3飲んだあとに、駅まで長町や武家屋敷の土塀を見ながら散策。
そこらの辻から、武士でもひょいと出てきそうな晩。
あたりに人気はまったくなく、ぶらぶら歩いて1時間も過ごしてしまった。

金沢は、以前仕事で担当していた場所なので、月に1~2度は来ていた。好きな街金沢。

Kanazawa_st 駅も数年前に刷新され、新幹線を待つばかり。

ほいでぇえ、今年は、金沢でも「ラ・フォル・ジェルネ」。
モーツァルトがウィンクしてまっせ。

Rachmaninov_sym2_previn 今日も王道の名曲を、王道の名演奏にて。
大好きなラフマニノフ交響曲第2番
アンドレ・プレヴィン指揮のロンドン交響楽団

好きが高じて相当数のCDに演奏会。
記事も今回で10度目という熱中ぶりにございます。
それらの中でも断トツの演奏が、このプレヴィン盤。
73年、指揮者として色眼鏡で見られることの多かったプレヴィンの起死回生の録音は、完全全曲盤。
ただでさえ、まだあまり聴かれていなかったこの長大な交響曲を勝負曲としてロンドン交響楽団と演奏しまくった。
日本にもやってきて、テレビでこの曲を指揮するプレヴィンを観た記憶がある。
ドイツもの一辺倒だった当時の私が、ラフマニノフやプレヴィンを好きになるのは、もう少しあと。
大人になって、社会人になって、ほろ苦い経験を積んだりしてからのはなし。

ほぼ60分を要するこの演奏。
後年の演奏、ロイヤル・フィルとの再録音やウィーン、オスロ、N響などでのライブの数々では、思い入れも少なくなり、その分スケール感とまとまりのよさが勝る。
でもこの録音では、ラフマニノフの音楽の抒情と憂愁、そしてリズムと熱狂、これらを、迷うことなく思いきり聴かせてくれる。
この曲の持つすべての魅力が過不足なく描きだされていて、昨今のすっきり・かっちり系とは違う、私のとって懐かしさにも似た大人社会へ導かれた演奏なんだ。

憬れと爽やかな抒情に溢れた1楽章からして、ロンドン響のビューティフルな弦が歌いまくる。主部がテンポをあげて始まると、私はもう夢中になって聴きいってしまう。
 ラフマニノフ独特のリズムで始まる第2楽章は落ち着いていて、弾むようなスケルツォの主部と優しい旋律、そして打楽器も活躍する小刻みな場面との対比が鮮やか。
 そして、この演奏の白眉ともいうべき、最大最美の第3楽章は、何もいうことなく、何も考えることをせずに、この夢想的な音楽にただただ身を任せればいい。
プレヴィンの優しく、デリケートな演奏は、こうした聴き方が出来る唯一無二のもの。
 歓喜爆発の第4楽章のわくわく感もこのコンビならでは。
音楽はどんどんと輝きを増して、最後のコーダでは、ややテンポアップさせながら、両手を思い切り広げて新鮮な空気を吸いこむかのように、すべてを解放してしまう。

あ~ぁ、なんて素晴らしい音楽なんだろ。

そう素直に思えてくる演奏。
惜しむらくはEMIの厚みのない録音がイマイチすぎ。

長老指揮者となりつつあるプレヴィン。
今年から、N響の首席客演指揮者となり、毎年来日してくれる。
前回、そのすべてを聴いたが、首の具合があまりよくないようで、指揮も見にくいようだったが、そのマイルドで暖かいサウンドは健在だった。
今年は、モーツァルトの交響曲、ショスタコ5番、カプリッチョ(ロットが歌う!)に家庭交響曲などが予定されていて、すごく楽しみ。
ちなみの来シーズンのN響は、ホグウッド、ビシュコフ(マーラー&ショスタコ)、ブロムシュテット(マーラー9、ブル5)、尾高(ラフマニノフ2)、マズア(第9)など、大いに楽しみ。

Jibu_2 
こちらは、金沢の郷土料理「治部でございます。
私の大好物。
冬に、このアツアツと、燗酒があれば、もう最高。
天にも昇ります。
鴨肉としいたけ、金沢麩。醤油ベースの餡でとろみをつけて、山葵をといて食す。

ラフマニノフと聴くに等しい陶酔境なり。

 ラフマニノフ 交響曲第2番の過去記事

「ハンドレー&ロイヤル・フィル」
「現田&神奈川フィル」
「尾高&東京フィル」
「尾高&BBCウェールズ」
プレヴィン指揮 NHK交響楽団」 
大友直人指揮 東京交響楽団
ロジェストヴェンスキー指揮 ロンドン交響楽団」
ヤンソンス指揮 フィルハーモニア管弦楽団」
ビシュコフ指揮 パリ管弦楽団

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2009年4月17日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第5番 ハイティンク指揮

Sagamiwan 江ノ島から見た相模湾。
茅ヶ崎の街に、遠くには箱根の山々。
富士山も左手には見えるはず。
この海を見て、のほほんと育ったワタクシ。
生来ののんき者でございます。

今日は、北陸・新潟とまわって帰ってきました。
長岡では、電車の時間をにらみながら、毎度お世話になってます「I」さんと2時間集中飲み
新潟の酒は、ともかくうまいし、関東人の私の体に合う感じ。
そして、ハイテンクの話で盛り上がりました!

Tchaikovsky_haitink

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、ハイティンクの超名盤、チャイコフスキー交響曲第5番を取り出し、久しぶりに聴いてみたのよ。
 そして、それがまぁ、なんとすんばらすぃ~演奏なんだろうか!
名曲・名演奏・名録音、この3つが揃った私にとっての理想的な演奏。
何をどういったらいいのかわからない。
すべてが自然体で、そこににじみ出る風格と抒情、そして憂愁美。
ハイティンクコンセルトヘボウが、まったく一体になって、どこまでが指揮者の個性なのか、オーケストラの持ち味なのか、さっぱりわからない。
ロシアの演奏とは明らかに違う、ヨーロッパのチャイコフスキー。
潤いに満ち満ちたサウンドは、聴くワタクシの心の襞に沁み入るようにしてすぅ~っと入ってくる。
絶妙な間合いを保った第1楽章、一音一音心がこもっていて慈しむような第2楽章。
この2楽章のホルンや木管、弦の涙に濡れそぼったような響きは絶品で、至芸品の域にある。優雅さとは違う気品に満ちた第3楽章。
堂々として、あまりに立派すぎる第4楽章は、音楽的にすぎてかっこよさとは程遠い。
でも全曲を閉じると、その充足感に誰しも感嘆せざるを得ない。
欲をいえば、立派すぎることだろうか。

ハイティンクが、今のコンセルトヘボウを指揮しても、もう二度と出せないのはないかと思われる当時の理想郷。
でも、年輪のぎっしり詰まった今のハイティンクとシカゴで聴いてみたい曲のひとつではある。
ハイティンク、来シーズンは、シカゴでベートーヴェン・チクルスに挑むという元気ぶりで、ボストンで演奏したといわれる「マタイ」などと合わせて是非録音して欲しい。
 
そして、ちょっと褒めすぎかもしれないけれど、先に聴いたエド・デ・ワールトに、ハイティンクの姿を見てしまう今日このごろ・・・・・。

 

Tchaikovsky_sym5_haitink_1 画像は、レコード時代から愛聴したチャイコフスキー全集。
オリジナル・ジャケットはこちら。
頭は同じだけど、若いね、ハイティンク。
この録音あたりから、急速に日本でも評価され始めた。

1974年の録音。
充実の50分間

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2009年4月13日 (月)

ワーグナー 「パルシファル」 エド・デ・ワールト指揮

Shiba_1黄色い水仙が、下をうつむくようにして咲いている。
仕事の巡回コースのひとつ、増上寺そばの公園にて。

どっさりと咲くのでなく、こうして点々と思い思いに咲く花がよろしい。

Parsifal_de_waart オペラとコンサートで、今年は機会を失してしまった。
月の巡りで、今年は先週がイースター。
金曜が聖金曜日、日曜が復活祭。
西洋音楽を愛するものとしては、その背景に厳然とある宗教のことも知らなくては、その音楽理解が万全ではない。

毎年、この時期は、パルシファルやマタイやヨハネの受難曲を聴くわけだが、本年は先の理由に加えて、家の中での大移動で、部屋を失ってしまったわたくし。
かろうじて、片隅を確保して音楽をそぉ~っと聴けるようになった。でも周りには、段ボールCDが数箱。これをどうにかしろとの、我が家のトゥーランドット鬼姫の厳命があり、誰も寝てはならぬ、悩み状態で月曜がスタートした。眠いわ。

CDの省スペース化は永遠の課題だが、まずは買わないこと。
あとは、ケースを処分することだけど、これがまた金がかかる・・・・。
困ったもんだわ。。。。。

話は脱線しましたが、「パルシファル」ですよ。

ワーグナーの作品の中で、時間的に長大なものは、「マイスタージンガー」「神々の黄昏」「パルシファル」の3本。
その中でも、音楽がなだらかで起伏が少ないために演奏によっては、一番長く感じられるのが「パルシファル」かもしれない。
最初はとっつきが悪いけれど、聴くに従って、どんどんとこちらに入ってくる味わい深い作品。
私は中学生のときに、サヴァリッシュの演奏で「前奏曲と聖金曜日の音楽」を録音して、何度も何度も聴いて耳に馴染ませ、復活祭の日曜に必ず放送されていたNHKのバイロイト放送を録音して、完全に虜になってしまった。
その時の指揮は、ヨッフムで、ヴィーラント・ワーグナー演出の最後の年ではなかったろうか、キング、クラス、アダムらの黄金時代の有終を飾る名演奏だった・・・。
この演奏、オルフェオで早く復刻してくれないかなぁ。

また脱線したけれど、懐かしワーグナーならいくらでも語れちゃう。

そんで、今日は、4時間半も「パルシファル」を聴いてらんないという方にうってつけの、フリーガー編の「パルシファル」を。
先にN響や東フィルで聴いた「リング」と同じ手口による、歌のないオーケストラ版抜粋。

<前奏曲~パルシファルの登場~聖堂の場面Ⅰ~花の乙女~聖金曜日の音楽~聖堂の場面Ⅱ~役立つのはただひとつの武器、終幕>

こんな感じに約55分、途切れることなく、よどみないパルシファルの音楽のエッセンスが味わえる。
私なぞ、カラオケとして、時にパルシファル、時にグルネマンツを口ずさんだりしながら気楽に聴くことができる。
同じ版の「リング」と比べ、正直ものたりない思いは残るけれど1時間で味わう「パルシファル」に妄想を膨らませながら聴くのも悪くはない。

N響客演で、ドイツものへの重厚な解釈を、もたれない爽やかさで印象付けた名匠デ・ワールト
この指揮者は本当に素晴らしい。コンセルトヘボウを任せたいくらいのハイティンクの後継者だ!
オランダ放送フィルと録音した、「リング」と「トリスタン」とともに、コンパクトながら大いに楽しめる「パルシファル」なのだ。
オケの精度も高く、高貴な響きが心地よい。

聖金曜日にパルシファルがなした最初の務め。
悩めるクンドリーに洗礼を施すこと。

 「草原は今日はなんと美しく見えることだろう
  私はかつて不思議な花に出会い
 その花は情欲をもって、私の頭にまとわりついたが
 今このように優しい花や茎は見たことがないのです
 すべてが無邪気にやさしくにおい、
 親しげに私に語りかけるのです・・・・」

こうして、クンドリーは初めて涙を流し、激しく泣くことになるのであります・・・・。

私は舞台や映像で、この場面を観ると、涙腺大決壊となってしまう
救いや癒しの本質を春の自然の花々に織り込んだ素晴らしい場面ではないかと・・・。

 

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2009年4月12日 (日)

NHK交響楽団定期演奏会 エド・デ・ワールト指揮②

Nhkso_20094 エド・デ・ワールト指揮のNHK交響楽団の2本目の定期演奏会を聴いた。
前回はシュトラウスとワーグナー、今回は、シュトラウス、あれ、前半は何だっけ?
と、プログラム見てからチャイコフスキーの協奏曲と知ったしだい。それだけ、アルプス交響曲が燦然と私の頭なか(が、ではありません)で輝いていたわけであります。
だって、最愛のシュトラウスだし、ライブ初アルペンだし、シュトラウス得意のデ・ワールトだし~

 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
      
 バッハ 無伴奏ヴァイリンパルティータ2番
            サラバンド

      Vn:ジャニーヌ・ヤンセン

 R・シュトラウス アルプス交響曲

           エド・デ・ワールト指揮 NHK交響楽団
                         (4.11 @NHKホール)


ところがですよ、チャイコフスキーなんてあんまし聴く気分じゃねぇなぁ~っと、期待せずに始まったヴァイオリン協奏曲。
これがなんと、なかなかに個性的で、すんばらしい演奏だったのである!
大柄なジャニーヌ・ヤンセン嬢、バリバリに弾くかと思ったら、その出だしはソットヴォーチェで囁くような繊細な弾きはじめだったのだ。
対するオーケストラも、音を抑えきって静かに寄り添っている。
繊細なばかりでなく、いざ立ち上がると、ぐいぐいと技巧の限りに弾きまくる。
こうした対比が全曲あらゆる場面にあり、その濃淡ぶりが面白い。
表層的ともとれようが、私は普段は聴かなくなってしまった名曲ゆえに、不思議と新鮮に聴こえたものだ。2楽章で素晴らしかったクラリネットに乗って歌うカンツォネッタは、本日一番美しい場面だった。
オランダの同郷同士の競演。お互い完全な同調のうえでの演奏に聴こえた。

後半のアルプス登頂に備えて、ビールで喉を潤おし、登山準備完了!

2 ステージにぎっちぎちに乗ったフル&フルオーケストラ。
デ・ワールトは、今回も指揮台に飛び乗り、若々しさをアピール。
そして始まりましたよ、夜の場面が、静かにうごめくように鳴りだすと、私の耳は完全にシュトラウスモードに。
やはり、シュトラウスはいい。時代(1915年頃)を考えると、マーラーはすでに亡く、新ウィーン楽派の時代。古えに軸足おいたシュトラウスの最良の姿はオペラにこそあるけれど、「ばらの騎士」の頃に書かれた「アルプス交響曲」は、シンフォニーというよりは、波瀾万丈のシュトラウス流オペラのよう。
そんなことを、今日確信できた。
これは交響曲でなく、シュトラウスのオペラ。
静かに始まり、中間部で最高潮に達し、そのあとはカーブを描くようにして終息していく。
これはシュトラウスのオペラの常套なのではないか!
「英雄の生涯」にも通じるオペラの世界。
デ・ワールトの「アルペン」は、まずは全体の見通しの構図をしっかりと押さえ、鮮やかさや劇的な迫力よりは、流れの豊かさと起伏のうまい盛り上げ方が勝った演奏だった。
 シュトラウス・オペラを制覇してから、若書きの管弦楽曲にも歌やオペラの要素を見出すようになり、その聴き方が変わってきた自分。
おこがましいけれど、そんな耳で聴いたデ・ワールトのアルペンは私の耳にとても心地よく、安心して身をゆだねることができた。
 先のワーグナーでも強く感じたことだけど、デ・ワールトの紡ぎだす音は、その指揮棒から奔流のようになって流れ出ている。
指先を見ているだけで音楽が語られているようだ。
本当に、音楽的で巨匠とかいう次元とは違う別な意味での大きな存在のデ・ワールト。
わたくし、一押しの素晴らしい指揮者だ。
N響の唸るような低音と正確無比の木管群、破たんのなかった金管、とりわけ素晴らしかったホルン。実力のほどを、前回にも増して思い知らされることとなった。

難敵ホールだが、1階R席は、音がとてもよかった。
1 パイプオルガンの真下にいただけに、その重圧音は、まことにうれしい。

脳天直撃か

実演では、こんな攻撃に平伏すばかりじゃないっす。

3

拡大画像。
ちょっとボケてますが、雷を鳴らすサンダーマシン。
こんなの家にあったら大変。
でも我が家にはいつもありますし、打たれてますし・・・・。

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2009年4月10日 (金)

ワーグナー 「ワルキューレ」 新国立劇場公演②

本プロダクションの初演時はダブル・キャストだったが、ここ数年の新国の例にならい、シングル・キャスト。

  ジークムント:エンドリク・ヴォトリッヒ  ジークリンデ:マルティナ・セラフィン
  ウォータン:ユッカ・ラシライネン     ブリュンヒルデ:ユディット・ネーメト
  フンディンク:クルト・リドゥル       フリッカ   :エレナ・ツィトコーワ
  ゲルヒルデ:高橋知子          オルトリンデ:増田のり子
  ヴァルトラウテ:大林智子        シュヴェルトライテ:三輪陽子
  ヘルムヴィーゲ:平井香織        ジークルーネ:増田弥生
  グリムゲルデ:清水香澄          ロスヴァイセ:山下牧子

      ダン・エッティンガー指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
   演出:キース・ウォーナー
                         (4.9 @新国立劇場)

Dsc03477jpg1 ウィークデイの17時開演で満席。ワーグナー好きもたくさん混じっている会場は、イタリアオペラとはまったく違う独特の雰囲気。
巨大な舞台準備の関係だろうか、2幕の間合いに45分、3幕に35分と、マーラー3番一曲分を要したため、終幕が22時35分!!
家が遠いワタクシは、終電ぎりぎり。いやはや、疲れましたよ。
そういえば、2003年初演時もこんなだっけか。
その時は、幕間に腹へって吉野家いっちゃったよ。情けねぇ。
今回は、ちょっとグレートアップして、オペラシティ内の英国パブ「Hub」へ。
エールビール1パイントに、フィッシュ&チップス。チケット提示でほぼ、@1000円。
おおよそ、ワーグナーには合わないが、演出が英国チームだからよしとしよう。

Ki_20001919_1  バイロイトやドイツで実績ある歌手たちを据えた今回の上演は、演奏面でも大変充実していた。
まず、女声3人がいい。
凛々しくも声の幅が驚くほど厚く、あらゆるレンジにおいて完璧な歌声で、言語もきわめて明瞭なセラフィンのジークリンデ。大柄な彼女だけど、繊細さも情熱も備えたすばらしいジークリンデだった!!
 ネーメトのブリュンヒルデ。彼女もバイロイトでメゾの役で活躍中の実戦派。
こわもてでなく、人間味溢れた優しいブリュンヒルデを歌いあげていて、声の明瞭さではセラフィンに譲るものの、とても女性的で身近な歌手。この女声ふたりの3幕のやりとりはあまりに感動的で、涙がぼろぼろ。隣の見知らぬおじさんも泣いてました・・・。
 それと、お気に入りのかわいいツィトコーワ・フリッカ。
小柄で華奢なんだけど、よく声が出ている。ラインゴールドより、今回の方がよかった。
彼女、カーテンコールの時もそうだけど、動きがかわいい。

ライライネンは、ずり下げたりあげたりする音程のとり方がどうも好きになれないバスバリトンだったが、今回は、あまり気にならず、むしろ明るく明晰な歌唱が気にいった。
演出ゆえかもしれないが、威厳とは程遠い、身近な等身大のウォータンを歌いこんでいた。
それと、滑らかなバスのリドゥル。この人の悪役はその人間性をいろいろ拝見するにつけ、似合わない気がするが、やはり声は美しいく立派。
初演時は、D・マッキンタイアだったから、いずれも贅沢な世界第一級の布陣だったわけだ。
 さて、ヴォトリゥヒ君だ。
バイロイトでも長く活躍するひっぱりだこのヘルデンだが、バイロイト放送でいつも思うこと。そう、咽頭に引っかかったようなベール1枚かぶったような声。
どうもすっきりしないのである。
悲劇性はいやでも増すが、ピーンと張った声を耳まで届けて欲しいと何度も思った。
でも、ジークムントについては、キング&ホフマンが刷り込みなので耳が贅沢なのだからいたしかたなし。ヴォトリッヒのジークムントじたいは、ビジュアルもよく悪くないのだから。
8人のワルキューレたちは、日本の実力派ばかりで聴きごたえ充分

Ki_20001919_4 エッテンガーの指揮も、こうしてじっくり聴いてみると緻密でかつ繊細。
ライトモティーフをよく分析し、その場に必要な姿で、観ていて納得がいくように音楽が鳴っている。ある意味職人気質でもあり、歌わせるべきは、思いきりテンポを揺らしてうたいまくる。
パウゼ(休止)のとり方も絶妙で、何度も舞台と一体になって息詰まる緊張感が醸し出されていた。
オケも最初こそモタモタしてたけど、最後までほぼ完璧。
むしろ、ホルン・金管が素晴らしい!

終わってみれば、演奏面があまりに素晴らしく、文句なく楽しめてしまった舞台。

情報過多の舞台は、次から次へと仕掛けが飛び出してきて、舞台の隅々にまで意味があるような気がしてくる。
前にも書いたようにその情報が今のところ垂れ流し状態で、ウォーナーの「リング」がどこを目指すのか、何を謂わんとするのか不明。
映像記録を切り口とする展開もひとつにはあるが、そうばかりでもない。
なんでもありの舞台を、観衆が、素直に感じたままを感じればいいのかもしれない「トーキョー・リング」。
雑多なごちゃごちゃした無秩序・無愛想の東京~そこに住む日本人からしたら、そんな印象だけど、外人さんから見たら、すべてがかっこいい・・・、oh,クールということなのだろうか
シュールでポップなリング。何度も観て聴いて味わい、その都度な解釈や理解が生まれそう。
来年まで鮮度を保って「ジークフリート」を楽しませて欲しい。

  

 

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ワーグナー 「ワルキューレ」 新国立劇場公演①

Walkure_2009


















新国立劇場
「ニーベルグの指輪」第一夜「ワルキューレ」を観劇。
通産5度目のリング体験の前半戦が終了。
「ラインの黄金」からほぼ3週間。
劇の進行では、ウォータンがエルダや人間に子供を産ませ、アルベリヒがハーゲンを作りだすという経過があるから、ほぼ20年以上は経過しているけれど、リングサイクルとしてはなかなかにうれしい間合い。
でも、「ジークフリート」までは1年待たねばならない。
まぁ、お腹の中の子供が成長して、かみさんを娶るくらいになるんだから、こっちは結構な時間経過があるわけなのだけれど。

それにしても何度観ても、「ワルキューレ」は、何度聴いても素晴らしい作品。
単独上演も多く、私は今回で11度目の体験。こんなに観ているオペラもないかも。
リング争奪戦は、ひとまず置いておいて、愛の相関を展開して見せて、ドラマとしての完結性もある。
愛の形のデパートと私はかってに呼んでいるこのワルキューレ。
男女の愛・・・でも兄妹の近親相姦が兼用、冷めきった夫婦愛、父娘の親子愛、お仕着せの夫婦愛(憎しみに)、生まれ来る孫への愛、生まれ来る甥との近親相姦愛、継母と娘との複雑愛、憎しみだけで生んだ子供への愛(アルベリヒ=ハーゲン)。
まさに、なんでもありの愛の形態・百貨店状態のワルキューレなのだ

そう、の仕掛けで気になっていたこと。
ワルキューレのウォータンのモノローグから、アルベリヒが指輪を盗んだ神々を憎み、憎悪により憎しみの子種を宿した・・・ということが明らかになる。
「神々の黄昏」で出てくるハーゲンなのである。
しかし、ウォーナー演出では、指輪を奪取されたアルベリヒは、指輪を持つ者に呪いをかけ、神々を憎むのであるが、そのあと去り際に、自分の股間に小刀を突き立てる。
これは、機能が失われたことを示すのであるが、何故にハーゲンが生まれたのであろうか?
「ラインの黄金」に出てきたイケてるねーちゃんが母親なのであろうが、彼女とイタシテいた頃は順調で、愛を捨てて欲だけで生きていた。その後にウォータンが現れ指輪を奪われ、憎悪が生まれたわけだから、矛盾がある。
と、いうことは、前回「ラインの黄金」の舞台転換の中で微妙に魅せられた、あの「ねーちゃん」と、「ミーメ」の関係が怪しくなり、ハーゲンはミーメの子ではないかとする演出ともとれる。
それであれば、「ジークフリート」を育てそそのかし、「ハーゲン」で二重に完結させようとしていたミーメがしたたかな存在となってくるではないか・・・・ 
うーむ、わからん。。。

以下は、これから舞台をご覧になる方はネタバレ注意でございます。

第1幕

Ki_20001919_3

 

 

 

 









最初から、赤い剣が舞台前面に刺さっている。指揮者登場後、一旦暗闇に。その間にウォータンが出てきたらしく、前奏曲がはじまると槍を手に立っていて先の剣を抜いて、槍を振りかざし、ワルキューレ開始時の設定を暗示している。
ちなみに、ウォータンの槍はの時の槍とまったく別もの。プラスチック樹脂製の真っ赤なやつ。 
全幕を通じてウォータンは、この赤槍の扱いがぞんざいで、時にぶん投げたままほったらかし状態。   
逃げるジークムントに追うナイディング族が舞台奥を横切る。
やがて、フンディンクの家が降りてくる。天井からはトネリコではなく、ウォータンの巨大な槍の矢印のような先端部分が飛び出ていて、そこに真っ赤なノートゥングがはめ込まれている。   初演時に滑稽に感じた通りの巨大なテーブルと椅子。隅には、ジークリンデとフンディンクの結婚写真。
ジークリンデはテーブルの上で寝ていて、何かびんから飲んでいる。
寂しくて、キッチンドランカーになっちゃったのだろうか?
皮ジャンを着たアウトロー的なジークムントが登場。二人かなり親密な動きだか、フンディンク登場で家庭内はいゃーな雰囲気に。
フンディンクのなりは、チロルの中流市民のようで、わたしには、同じリドゥルなものだから、ドレスデンのばらの騎士を思い起こしてしまった。
このフンディンク、やたらと暴力的でまさにジークリンデはDV被害者みたい。眠り薬入りの酒をかっくらって、別室にいくわけだが、初演時はドアの隙間からジークリンデにのしかかるのが見えたように記憶するけど、違ったかな?
今回はそれがなく、手をだらんとさせて寝てるお姿が見えるのみ。ここでもベッドは巨大。
卑小な人間界をもじっているのか?ジークリンデが閉じ込められている社会の閉塞感がよくでている。
フンディンクが寝入ったあとの二人の二重唱、私の大好きなジークムントの「冬の嵐は去り」がはじまると、周囲は明るいグリーンになり床からにょきにょきと緑の矢印が数本生えてくる。シェローの幻想的な場面ほどじゃないけど、まあ美しい雰囲気。
槍にはまっていた剣が抜刃の際には、おもむろに立ち上がってきて、ジークムントはまったく難無く剣を手にする。
舞台奥が開き、そこは眩しい白と緑の大地の世界。

寝ているフンディンクに一瞥をくれ、ふたりは外のまさに開かれた世界へ文字通り跳び降りて、歓喜のうちに幕。

第2幕

ワルハラの設定。
舞台奥には、宇宙ステーションの通路のようなものがあり、住人たる神々はそこから出入りする。
Ki_20001919_5 怒ったフリッカのシルエットが映し出されたりしてこの装置はよい。
ゲッツ・フリードリヒのトンネル・リングも思い起こすことができる。
左手には、ラインででてきた引越し荷物が積んであって、映写機もある。
ウォータンが出てきて、槍で床を突くと、その都度下に緑の街が広がってゆく。
そして、その登場がわかっていたから、冷静に見てたけど、ブリュンヒルデは子供の木馬にまたがってツィーっと登場。会場では失笑がおきる。
怒れるフリッカは、この演出では全然おっかなくない。小柄でかわいいツィトコーワだからのせいもあるけど、ウォータンのことが好きでならない、冷めないで欲しいとねがっているようないじらしいフリッカだった。亭主を負かせて、ガッツポーズを取る姿も妙にかわいい

ウォータンの聴かせどころ、ブリュンヒルデにこれまでの来歴を語る場面では、映写機を使ってのプレゼン状態。途中、フィルムを替えたりする芸の細かさ。
二律背反する複雑な心中を歌い、世界の終末を語るとき、赤槍をフィルムに突っ込んで止めてしまう。
フィルムを引き出し、ごちゃごちゃのこんがらがりぶりを強調。神様のシナリオ通りにことは動かない!
そのフィルムを引きながら、ブリュンヒルデが袖に下がると、今度は、そのフィルムを伝いつつジークリンデとジークムントが登場。ここで休もうとするジークムント、フィルムを離してしまうジークリンデ。
ここからは神様に導かれたシナリオのない逃避行となるわけだ。
天井からは、3本の赤い矢印が。ひとつは、「ウェルズズング族」、ひとつは「フンディング一族」、あとひとつは、多分「天上界」とかいう意味なのか・・・が書いてあって、それらの下で微妙に行き来しつつ歌う二人。
この楽劇の中でも、もっとも感動的な場面のひとつ、「死の告知」の場面。
ジークムントは、床に横たわって、文字通り休んで寝てしまう。
そのまわりを、ジークリンデは、剣を携えながら、夢遊病者のようにゆっくりと歩いている。
トンネルのドアから、武装したブリュンヒルデ。
彼女らワルキューレは、白いフェンシングのウェアのようないでたち。
面まで付けてて、手にする盾は、真っ赤な赤十字のよう。

ブリュンヒルデの問いかけで目を覚まし、二人の問答は段々と盛り上がってくる。
ジークリンデは、やがて疲れて寝てしまい、その傍らで、愛する人を刺してまでも伴にしたいと劇唱するジークムント。でもヴォトリヒの歌が気勢があがらないのが残念。
歌ばかりか、この場面の描きかたがどうも単調で劇性がないように感じた。
というのも、ブリュンヒルデが洋々と去ると、ジークムントはそそくさと、最初のお眠り体勢に戻ってしまうのだ。告知は夢の中の出来事としたのであろう。
あ~、いい夢見た、爽快、ってな感じで起きあがって、ジークリンデを確認してから、さあ一丁闘ってくっかぁ~、的なノリなんだ。
もう少し、深刻さが欲しいぞ。
 そして戦いの場面。ジークリンデが見守るなか、さっきから気になっていた、おそらくフンディングの家であろうと思われた、高さ30㎝くらいの小さな家がパコンと割れて、フンディングがぐぃーんと登場。まわりには、1幕にも現れたフンディングのスタッフーたち。

Ki_20001919_6

 

 












彼等は、スーツを着たギャングみたいな無機的な存在で、手に手にハンマーのような武器をもっている。
闘いが始まると、フリッカがチェックしにやってくる。そして、ブリュンヒルデが、頑張れとばかりに。最後にウォータンがドアを開けて出てきて、ジークムントの剣を掛声とともに砕く。
武器を失ったジークムントに、先のスタッフーが寄ってたかって襲いかかって、ぼこぼこにしてしまう。ひどいんだ。
倒れたあと、ブリュンヒルデは折れた赤剣を広い集め逃げるが、ウォータンはじっと見たまま。それより、ジークムントを少し確認しただけで、抱きかかえようともしない。
このあたりは演出によってさまざまだけど、ウォータンの胸に倒れ、父がヒシと抱きかかえる、そんな情に満ちたウエット演出が好きだな・・・・。
 でも、ライライネンの「Geh~」は、よかった。かなり伸ばして感情こもってて、フンディングご一行様が、一斉にぶっ倒れたもんだ。

第3幕

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初演の時の印象は切れぎれだが、この場面が一番鮮明。
の神様軍団のレセプション会場が、ワルハラ野戦病院と化している。
もくもくと煙幕が立ちこめ、私の席まで到達。左右に8つの扉。救急信号が回転してる。
8人のワルキューレたちは、白い衣装の上に手術用のエプロンに手袋、エプロンには血が付いたりしてる。そして、手術用ベットに英雄たちを乗っけて走りまくっている。
英雄たちは、みずから立ち上がり、奥のワルハラと表示されたドアから出てゆく。
そこへ駈け込むブルンヒルデとジークリンデ。ジークリンデはしょんぼりとして、ベットに折れたノートゥングを乗せて出てくる。ここまで行くと、奇を衒い過ぎか・・・。
そして、涙が滲む名場面のひとつ。自暴自棄のジークリンデが懐妊の報を受け、生へと目覚め、ブリュンヒルデを祝福する場面。ここは音楽だけでも最高に素晴らしくウルウルしてしまうが、この舞台では、まずはブリュンヒルデは目にあまるほど感激しまくっていたし、当初庇うのを嫌い、ドアの窓から覗き見していた妹軍団たちも、武具を脱ぎ棄て、それぞれに感激に打ち震えている姿が面白かった。ヒシと抱き合う女二人。
将来生きていれば、嫁と姑の関係なところがなんとも・・・・。
 怒り狂う親父ウォータンは、ブリュンヒルデが隠れたベッドを次々に暴いていく。
お仕置き内容を発表し、悲嘆にくれ騒ぐワルキューレたちに、ウォータンは赤槍を投げつけ、舞台前面に出てくる。

Ki_20001919_10

 

 

 











すると、遠近感ある真白な野戦病院は、舞台奥へどんどんと下がっていく。
新国自慢の奥行きと機能を活かした舞台に、見ごたえ充分。
でも私が気になってしょうがなかったのは、槍の行方。一緒に遠ざかっていってしまった・・・・。
 そして、かわりに舞台には、巨大な木馬が下からせりあがってくる。

グラーネと書かれた木馬は、異様にリアルである。
ここから、父娘のこれまた感動的なやりとりと告別になるのだが、この二人、最初、手をやさしく握り合ったかと思うと、ウォータンは娘を責め、その手も強く握ったらしくて娘はとても痛がったりする。処々に父娘の愛情表現が微細にあって、目がはなせない。
でも、どうしてもいけないのは、あの最高潮に盛り上がる、ウォータンの告別の場面で、二人がついに別れを惜しんで抱き合うところ。
もう、私の涙は止まらない。
でも、この二重唱と告別でも、ずっと気になること。
あの赤い槍はどこへいった??
「その槍で組み敷いて刺してください・・・・」「この槍を恐れるものは・・・・」などと歌われるのに、ウォータンはずっと最後まで手ぶらなのである。
これは意図的なものであろうが、剣や槍は、ライトモティーフも重要だし、アイテム的にも外せないものだから、ここまであえて軽視してしまうのもどうかと思うけど・・・。
 Ki_20001919_12 木馬とベッドを入れ替える関係からか、ウォータンがまどろみの動機の中、幕が降りて、白い扉から出てきて、悩みつつも赤い扉にたどり着き、そこでローゲを呼ぶと幕が再び開き、ブリュンヒルデがメタルチックな巨大ベッドに横たわっている。
傍らには、槍と兜、でかい目ざまし時計が置いてある。
舞台上部には、「この槍を恐れるものは、誰も炎を超えて近づくな」という、ウォータンの最後の絶唱のセリフが燃える文字で流されている。
その歌を槍なしで宣言したウォータンは、かたわらの映写機のある場所に座り、スィッチを入れると、ベッドも回りに火がともされる・・・・。
魔の炎の音楽が感動的に流れるなか、ワルキューレは終わりを告げる。
 こんな終わり方だったし、幕もかなり最後まで動かなかったから、拍手は一切なし。
この楽劇で、最後の音までしっかり聴いて、おまけにその余韻まで味わえたのは初めての経験!

 

大好きな作品、そしてあまりの情報量の過多に、こちらも書いておきたいことばかり。
自分の鑑賞記録でもありますので、長文・駄文ご勘弁を。
②へ続く・・・・。

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2009年4月 8日 (水)

音楽聴けないから満開の「桜」

Dsc03408_2 夜桜です。
目黒で飲んで、へろへろになって、帰れなくなって写しました。

家のなかでの移動辞令に基づき、音楽難民となったわたくし。
CDが聴けません。

Dsc03437
翌朝、うららかな日差しのなか、目黒川沿いの桜並木をしばし散策。
二日酔いもあって、ふわふわした足取りだけど、茫洋とした桜が美しく、霞んで見える。

しっかし、臭い川だねぇ。きたねえし。

Dsc03432

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桜の花は、こうして近くで見ると妖しい魅力がありますな。

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目黒から職場にもどり、午後からは浜松町。

Dsc03471_2 浜松町で打ち合わせ後、増上寺経由三田まで歩く。

Dsc03462_2 こちらでは、露天が出てて、みんな焼きそば食ったり、ビール飲んだりしてる・・・。
それを横目に、生唾飲んで職場に帰る。

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見てちょーだい。
この見事なしだれ桜。

あー、日本人でよかった。

Dsc03444 でも、こうして散っちゃうのよね。
儚くも寂しい桜。

頭に桜の花びらくっつけて職場に帰ると何言われるかわからない。
みんな注意だ!
ちなみに、私の場合は付きようがないから大丈夫だ。

早くCDが聴きたいよぅ。

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2009年4月 7日 (火)

ブルックナー 交響曲第7番 ベーム指揮

Kurama鴨南蛮や鴨汁のシーズンは、やはり冬。
濃厚な出し汁で、身も心も温まる。

そろそろ本物のおいしさはおしまい。
でも、ありがたいことに今や、蕎麦屋さんでは年中食べれる。

閉口したのは、観光地で鴨南を頼んだら、その鴨肉は、なんと燻製のスモーク鴨ちゃんだった・・・。

こちらは、そんなことありませぬ。
新座の名店、鞍馬。荻窪の暖簾別けで、清々しい店の雰囲気。
めちゃくちゃおいしかった。
この一品があれば、お酒を少なくともお銚子4本はいっちゃうな。

Sym7_bohm1

ブルックナー(1824~1896)の交響曲シリーズも、後期の充実の森へ分け入ることになってきた。
かといって、私は後期も前期も全然隔てなく好きで、音楽の構えが大きくなったただけで、ブルックナーの音楽の在り方は習作の時代から変わってないといつも思いつつ聴いている。

でも次の8番は、ベートーヴェンの第9に匹敵する巨大かつ深淵な作品だし、9番も未完ながら孤高の作品であることは疑う余地なし。
では今日の7番はどうだろうか。

1881年、6番の完成後すぐに作曲開始。
1883年にワーグナー逝去の知らせを受けて、その死を予感させつつ作曲していた第2楽章を葬送行進曲とした。
ニキシュとゲヴァントハウスによって初演。
この7番には、ややこしい版の問題はさほどないが、原典版・ハース版・ノヴァーク版がそれぞれ存在する。2楽章のクライマックスで、打楽器を高らかに鳴らすか否かが表面的には一番大きな問題。
たいていは鳴らされる演奏が多く、私もやはりそこで鳴ってくれないと寂しく、つい期待してしまう。
歌謡性に溢れた第1楽章。
荘重で神々しい第2楽章、その中に涙がでるほどに美しい第2主題が織り込まれている。
弾むリズムに一度聴いたら耳に残るトランペットの主題を持つ第3楽章。
長さ的にアンバランスだが、全曲の総括のようでいて演奏の難しい第4楽章。

私は、4番とともに相当早い時期から聴いてきたし、通常のブルックナー入門パターンも私と同じに、4・7番だと思うから、7番はどちらかというと、手垢にまみれてしまった超おなじみ有名曲という捉え方になってしまう。
ゆえに、1・2・6番を愛好する偏重ぶりにもなるわけ。
だからよっぽどの機会がないと聴かないし、音源も思い入れがないものでないと聴かない。
前者、つまりコンサートで記憶に残るものは、朝比奈&新日フィル、上岡&ヴッパタール、シュナイト&ジャパンアカデミーの3本。
それと音源では、マタチッチ&チェコフィル、カラヤン&ベルリンフィル(EMI)、ブロムシュテッット&ドレスデン、アバド&ウィーン・ルツェルン、そして今宵のベーム&ウィーンフィルなのだ。あと懐かしいところでは、コンサートホール盤のモコモコした録音のシューリヒト。

ベームがウィーンフィルとともに久方ぶりに日本を訪れ、熱狂の渦を引き起こしたのが1975年。当時、私は高校生で、招聘元のNHKに往復はがきでチケットを応募した。
何枚も出したけれど、かすりもせずFM生放送やテレビにかじりついたものだ。
アイーダで鮮烈デビューを飾ったムーティのチケットは簡単に取れてしまい、初ウィーンフィルをムーティで聴いたのも懐かしい思い出。
 脱線するけど、その時の演目が、「プロメテウス序曲、ブラームスのドッペル、新世界」という妙なプログラムで、アンコールの「運命の力」が目もさめるようなすげぇ演奏だった。
大振りムーティもかっこよかったなぁ。

Sym7_bohm2 かたやライブで燃えるベームの真骨重は電波からも痛いほど伝わってきて、テレビの大映しで観るベームの眼の玉をひんむいたお顔が忘れられない。
そのコンビがウィーンに帰って、翌年録音したのがこちらのブルックナー。
LP3枚で、7番・8番をケースに収めた豪華なもので、当時6900円もした。
ライブでなく、ムージクフェラインでのセッション録音。
極めて落ち着いた、でも老いなどは一切感じさせない若々しい演奏で、ライブの熱に冒されたような興奮はないかわりに、堅固なまでの構成感とゆるぎない自信に充ち溢れている。2楽章はあくまで自然にじわじわと盛り上がり、そのピークを迎えた感じでカタルシスや悲壮感はまったくない。
この無骨なまでの自然体のベームの指揮に、ウィーンフィルの甘やかな音色が絶妙に色を添えている。
ムジークフェラインのリアルな響きをしっかり捉えた当時のDGの録音もうれしく思える。
あの黄金色のホールで、一度ウィーンフィルのブルックナーを聴いてみたいものである。
夢のまた夢なり・・・・。

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2009年4月 6日 (月)

逃げるな「にゃんにゃん」

先週末は、家の中の大移動。
子供の進学もあって、気の毒なお父さんは、ついにお部屋がなくなることに。
家の中でも、「さまよえる」人生を歩むことと、あいなりましたことを、ここにご報告申し上げます。
移動に伴い、ネット環境はようやく復元。
しかし、オーディオ機器は縮小を余議なくされ、いまだつながれず放置プレイ。
膨大なCDも段ボールに呑気におさまったまま、途方にくれている。
コメントも遅延し、申し訳ございません。
記事は、あと1作は書いてあります。
あとは、オペラと演奏会のみ。
当面、ヘッドホンによるちんまり生活を余議なくされた、さまよい人の日記を、今後もご愛顧いただけましたら本望に存じますぅ。

とりあえず、困ったときの「にゃんにゃん」攻撃ですにゃん。

1_2 路地に佇む、一匹のにゃんこ。
すこし、固まっております。

2_2 逆光の中、睨みあいは続く。
う~む。
じりじりと、近づくわたくし。

3

あ、ありゃりゃ・・・、ちょ、ちょっとぉ~。
逃げるこたぁねえだろよ。

虚しくひとり残されたわたくしにございました。
寂しい・・・・。

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2009年4月 5日 (日)

NHK交響楽団定期演奏会 エド・デ・ワールト指揮

Nhkso_20094 うんざりするほどの人混みをかきわけて、NHKホールに向かう。
今日はとりわけスゴイ。
なんでこんなに人がいるの?それも、若者ばかり。 この若者たちと、そのパワーをひとつまみ。少し地方の街に振り分けてあげたい。
そんなことを思いつつ、自分が人混みにまぎれて、これから、なにしに行くんだっけ?
毎度書いてしまうが、最低のロケーションの巨大ホールは好きになれない。

でもですよ、ちょっと奮発した上がかぶらない2階R席は、極めて音がよろしかった。
シュトラウスワーグナー、好きなデ・ワールトの指揮ゆえの奮発S席であります。

  R・シュトラウス 「最後の4つの歌」

  ワーグナー   「ニーベルンクの指輪」(ヴリーガー編曲)

         S:スーザン・ブロック

     エド・デ・ワールト指揮 NHK交響楽団
                      (4.4 @NHKホール)


デ・ワールトは、フィリップス時代からよく聴いていた。オランダ管楽アンサンブル、ロッテルダム、コンセルトヘボウ、サンフランシスコなどとの録音を通じて。その後、オランダ放送フィルとRCAに入れたワーグナーやマーラーは素晴らしいものだが、いまや廃盤。エクストンへの最近の録音は高いから聴いたことなし。ミネソタ管やシドニー響、現在は香港フィルとミルウォーキー響の指揮者をつとめていて、68歳、本来ならメジャー級のオケの指揮者になっているべき実力派。読響への客演でラフマニノフ、二期会での「オランダ人」でその素晴らしさを体験すみ。
レパートリーが、モーツァルト、ワーグナー、シュトラウス、マーラー、プッチーニ、ラフマニノフと、わたくしの好きな分野としっかり被っている、うれしい指揮者なんだ。

長い前置きはここまで。

あまりにも素晴らしかった後半の「リング」の前に、コンサートが終わってみると、ちょっと影が薄くなってしまった「4つの最後の歌」。
それだけリングが良すぎたのだけれど、シュトラウスもワールトらしい、明晰で細やかな詩情にあふれたオーケストラだった。
精密なN響のアンサンブルとの相性もいいみたいだ。
そして、ドラマテックソプラノであるスーザン・ブロックの声をたくみにセーブしつつ、心をこめた歌は、とてもうれしかった。
それでも、この曲には、この巨大ホールは酷にすぎる。
オケの詳細はわかるものの、歌手の微細な歌いぶりが響いてこない。
大が小を兼ねない、という典型であろうか。
私の中では音盤以外は、シュナイト&神奈川フィルに松田嬢の演奏が、それこそ絶美の演奏だ。あまりの感激に私も涙したが、歌う松田嬢も泣いてしまった。
堀さんの今日のヴァイオリンソロは素晴らしいものだったが、神奈フィルの石田氏の透きとおるような繊細さには叶わなかった・・・・。

後半の「リング」抜粋は、心揺さぶられる名演奏だった。
1月に「シュナイダー&東京フィル」のワーグナーの真髄ともとれる、これも名演に接したばかり。そして読響でも、この「リング」を演奏したが、私は聴くことができなかったデ・ワールト。
Edo  若々しく、指揮台に飛び乗り、その指揮姿は後ろから見ていて、とても美しい。
美しいというか、音楽に即している動きなんだ。
無駄がまったくなく、その指揮棒と指先から音符が奔流となって溢れ出ているような感じなんだ。これは、オーケストラも身を任せやすいし、巧まずして指揮者の思いがメンバーに伝わっているんじゃないかと思って観ていた。
ヴリーガー編曲によるこのコンパクト「リング」。
パンフをまったく見ずに挑んだものだから、出だしが「ワルキューレの騎行」だったもんだから驚き、そしてがっかりした。
やはり「ラインの黄金」のあの原始を思わせる前奏から始まってほしかった。
だから、ラインゴールドの前奏とニーベルハイムのじゃんがら効果音の場面もなし。
さらにワルキューレの2幕の決闘のあたりから「ワルキューレの騎行」になだれ込む場面もなし。
 でもこのカットは、最後に理由が判明。
「ブリュンヒルデの自己犠牲」をそっくりそのまま演奏し、スーザン・ブロックがブリュンヒルデとして登場して歌ってみせたのである。
この場面だけで20分以上かかるから、全体が1時間半になってしまうため、オーケストラ・コンサートとしてのバランスを考えてのこと。
途中から、ラインゴールドの不在はまったく気にならなくなって、デ・ワールトのワーグナーにどんどん引き込まれていった。
「ジークフリート」の「森のささやき」でのホルンの長いソロは、首席の松崎氏が席を立ち、舞台裏から吹いた。そしてファフナーとの戦いになだれこむわけだが、ライブでのホルンの難しさを今日も痛感。いつもヒヤヒヤしてしまうわけだが、ちょろっちょろと外してます。
こりゃもうしょうがない。そのかわり、とってもブリリアントな音色が嬉しい。
ブリュンヒルデの目覚め、「神々の黄昏」の夜明けときて、「ラインの旅」。
このあたりから、デ・ワールトの作り出すワーグナーの呼吸が、私のワーグナー演奏の理想とピタリピタリと符号して心地よい。
本日の白眉は、「葬送行進曲」とそして「自己犠牲」。
おおよそワーグナーを指揮する指揮者が、そのワーグナーへの適正があるやなしかが判ってしまう曲が「葬送行進曲」だと思っていて、今日のデ・ワールトの演奏は、ほぼ完璧なまで崇高さと輝き、そして気品と悲壮感に充ち溢れていた。
久々に、この曲を聴いて手を握りしめてしまったし、涙を流してしまった・・・。
ブルンヒルデの歌が入っての「自己犠牲」はもう感動のしっぱなし。
馬力もあるが、それ以上に温もりと優しさ溢れるブロックのブリュンヒルデ。
新国のトーキョーリングで、かつて「ジークフリート」と「たそがれ」でのブリュンヒルデを聴いている。その時の若々しい娘のようなブリュンヒルデが、今日は思慮深い大人のブリュンヒルデに聴こえた。
こうした曲になると、声がビンビン響くNHKホールである。
デ・ワールトの作り出すワーグナー。自己犠牲のモティーフが弦にあらわれ、ラインの娘たちが喜んでいるさまも目に浮かぶ感動的な場面。
ラスト、一旦休止して、自己犠牲の旋律が澄み切ったように奏でられる。
この場面、私の理想はベームにブーレーズの演奏なのだが、今日のデ・ワールトの演奏もそれに匹敵する神々しさ。
いやぁ、もうダメ。涙ちょちょぎれ。おりからの花粉症末期の鼻炎も手伝い鼻水たらーりのぐちょぐちょ状態(きたなくてすんませんねぇ)。
もうちょっと余韻に浸りたかったけれど、満場の大拍手が、じわじわ盛り上がり、ブラボーが駆け巡った。

それにしてもN響の底力はすごい。
トーキョーリングで、東フィルからN響にオケが変わったときに、そのあまりの違いに唖然とした。安定感では、やはりN響。でもオペラテックな息使いと、舞台を読む呼吸は東フィル。
そして、デ・ワールトのワーグナーは、ほんまに素晴らしい。
78年にG・フリードリヒ演出の「ローエングリン」で、バイロイトデビューをした。
その時の演奏は、私家盤CDRとして手元にあるが、1年で降りてしまいネルソンと交替した。シドニーでの「ワルキューレ」も持っている。
いずれも、緻密でありながら、つかみは大きく、明確なフレージングに基づき曖昧さが一切ない。

香港とミルウォーキーじゃもったいない。
N響さん、しっかり掴まえてくださいよ、エドを!

香港での様子はこちらの香港フィルのサイトで。
なんだか、とっても羨ましいし、やたら上手いぞ。
マーラーもシュトラウスも、アバも中国の作曲家もやってるし。すげぇぜ。

Ring_de_waart デ・ワールトのワーグナー

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2009年4月 2日 (木)

「レミオベスト」 レミオロメン

Sakura_shiba 寒い日々も、関東は今日まで。
たぶん、天気予報によれば。

でも季節は巡って、ちゃんと桜が咲くのだから自然ってのは、偉大なものであります。

桜は、別れと出会いの季節に咲き、いろんな思いを人々に残して散っていく。
季節の区切りに、これほど相応しい花はないのであります。

Remioromen 今日は、ちょっと踏みはずして、日本の歌を。
こんなのも、私は聴くのであります。

小学生時代から開眼したクラシック道。
クラシック以前も、ベンチャーズやグループサウンズ、ディズニーと結構音楽好きだった。
一時、ストイックなまでにクラシック一辺倒だったけれど、中学・高校はビートルズ、大学はプログレッシブ・ロックにソウル、AOR、ニューミュージック。
ともかく貪欲に聴いてきた。
社会人になっても同じ。
でも結婚してからは、クラシックとジャズばかりになったけど、子供が音楽を自分で選ぶようになってまた、日本の歌を一緒に聴くようになった。
好きな人と同じ、恋人と同じ、そして今は、子供と同じ。いや、子供のために聴いている。
いつか、子供たちが、お父さんの好きなクラシック音楽にめざめてくれるように。
・・・・だって、こんなに膨大なCDや音源、君たちが聴いてくれないともったいないもん。

レミオロメンは、ワタクシが数年前からイチオシの若者たち。
子供たちには、これから教えてあげるグループ。
ベスト盤が出たので、さっそく買ってみる。
インパクトあるジャケットは、この3人組が郷里の山梨を愛するが故か!
幼なじみだった3人が高校時代にバンドを組んだが、卒業後はバラバラに。
でも音楽を忘れられない3人が、距離や境遇を超えて再び集まった。
そして生まれたこのグループ。
3人がそれぞれランダムに言葉を選んで、そしてつなげたら「レミオロメン」になった。

2000年の結成以来、4枚のアルバムをリリースしている若者たち。
ナイーブでありながら、誰もが若いころ経験し、通過してきた何げない男女の機微を四季の光景に織り込んで、歌ってみせた味のある歌を歌う「レミオロメン」。
こちらを普段ご覧いただいているクラシック好きの方々ならば、きっと気にいっていただけるシューベルトの歌曲のような世界。

 1.SAKURA   2.3月9日                     3.スタンドバイミー
 4.電話      5.ビールとプリン              6.もっと遠くへ
 7.雨上がり    8.南風              9.明日に架ける橋
10.太陽の下  11. Wonderful & Beautiful  12.アイランド
13.粉雪     14.紙ふぶき          15.夢の蕾

どの曲も詩情にあふれた桂曲で、つい口づさみたくなる。
今現在の新曲「SAKURA」は、明るくもさみしい、でも希望に溢れたラブソング。

 「さくらの花びらは綺麗すぎて たまに胸が苦しくなってしまうけれど
  散っても舞っても花吹雪の中を進んでいこう
  そしてまた会える日まで・・・」

ぼんやりとした日常の夕暮れ、日々を思う「太陽の下

 「ぼんやり日が落ちて 輝く星 太陽の贈り物
  曖昧な地平線 その向こうでも人は営んでいる
  恋をしたり 涙流したりして
  音楽に合わせて 地球で踊るんだ

  笑って心開いたら あなたの事好きになった
  ひと巡り 太陽の下で 深い眠りからさめたら
  もう少し素直に生きたいよ
    だってあなたに会いたいから・・・」

南風、粉雪・・・、みーんな素適な歌たち。

Sakura_shiba_water
増上寺の手水舎に映る桜と東京タワー。

いつもでも、心若く、敏感な大人でいたい。

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2009年4月 1日 (水)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」ワルツ ワルベルク指揮と「玉子かけごはん」

9_2 これ、卵ですぅ。

11 これに、玉子かけ専門の醤油をタラッとたらして、おもむろにご飯にかけちまうのです。
美しい黄色。
ご飯もうれしそうに輝いております。
 酔ったワタクシは、そんなうれしそうなご飯たちをパクリ。
う~ん、至福の味なり。
先だって、大阪より上洛を果たせし、関西理事をお連れした新橋の居酒屋「恭恭」。
土佐ジローの刺身や焼き鳥、そして締めにその玉子かけご飯が食べれちゃう。
別館にてその食いざまの詳細を近日公開なり~。

3 玉子かけご飯のような、金色のホール。
甘く儚いウィーンの香り。
ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートでおなじみのムジークフェライン・ザール。

4 ウィーンの二番手のようにされてしまう、ウィーン交響楽団もニューイヤーっぽいコンサートを行っているのだろうか。
新星堂で見つけた500円のDVD。
4曲しか入ってないけど、いくつもシリーズがあった。
そんな中から、リヒャルトとヨハンの二人のシュトラウスが味わえる1枚。
しかも、指揮は我々日本のファンに馴染みあるハインツ・ワルベルク
その指揮姿が、やたらと懐かしい。

   R・シュトラウス 「ばらの騎士」~ワルツ
   ツィーラー    ワルツ「いらっしゃい~」
   レハール    「ロシアの皇太子」~誰かがくるでしょう
               Sp:タマーラ・ルント
   J・シュトラウス ワルツ「もろびと手をとり」

       ハインツ・ワルベルク指揮 ウィーン交響楽団
                          (1984 ウィーン)


2 2004年に81歳で亡くなってしまったワルベルクは、N響に何度も登場していて、実演を聴くことはできなかったのが痛恨だが、このコンビはテレビですっかりおなじみに。
ドイツのオペラ劇場からたたき上げた、生粋の職人指揮者で、ウィーン・トーンキュンストラーを長く指揮していたから、ウィーンとの関係も深い。
75年に、ジュリーニとともに、ウィーン響と来日し、ウィンナ・ワルツの夕べを指揮した。
ヴァイオリンの名手だったので、弾き振りも行った。ジュリーニは聴いたけど、こちらもいま思えば聴きに行けばよかった。

無難な職人指揮者とのレッテルがN響を振っても先行し、評論家受けはよくなかったが、レコード録音は多いし、オペラを中心にとても器用な指揮者だった。
晩年のN響客演を録音してあるが、ヒンデミットやワーグナーなど、なかなか巨匠風の大演奏だった。
N響も称号を与えればいいのに、と思った矢先に亡くなってしまった・・・・。

1_2 そんな思いでこのDVDを観た。

ワルベルク、実に若々しく、体を大きく揺らしながら、オーケストラと一緒くたになって楽しそうに指揮している。
ばらの騎士の冒頭のホルンは、やはりウィーンの団体で、それもムジークフェラインで響くところが、最高に快感である。
オケはちょろちょろと粗相しているが、シュトラウスの書いた優美でかつほろ苦い音楽を実に雰囲気よろしく聴かせてくれちゃう。
あ~ぁ、いい気分だ!
続く3曲も、世紀末ムードも溢れていて酔える。
私の愛するワルツ「もろびと手を取り」なんて、アバドのニコニコ演奏ぶりにはかなわないけど、微笑みのワルツとして最高の演奏に感じた。

ワルベルクは、EMIにオペレッタ、コンサートホール・レーベルに相当数の管弦楽曲を録音していて、私はワーグナーなどを愛聴しているが、そのレーベルにあるブルックナーの8番を是非にも聴いてみたいものだ。
Wien_walberg

これを観て聴いて、500円が安いか高いかは、皆さまのご判断に。
「ワルベルク、懐かしい!」と思った方々は、さぁ、500円玉を握りしめて、全国の新星堂に走れ!

演奏の合間に、ウィーンや近郊の映像が入ったりもします。

  
 

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