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2009年5月

2009年5月31日 (日)

ひとんちの「にゃんにゃん」①

R_cat1_2 密かな人気を誇る「にゃんにゃん」シリーズ(笑)

でも「にゃんにゃん」の取材はなかなかに骨が折れるんだ。

にゃんこを見つけても、カメラがすぐに準備できないし、敵はすばしこいし、気まぐれだから、なかなかカメラにおさまらないんだ。 

そこで苦肉の策。
ひとんちの「にゃんにゃん」でござんす。
「にゃんこ」に肖像権(にゃん像権??)は主張できないから、ご主人さまのご了解を得ての登場でござるよ。

R_cat2 この、めんこいニャンコは、耳折れのスコテッシュ・ホールドですな。

英国好きのわたくしも、大好きな品種、いやにゃん種。

わたくしのマンションは動物禁止だけど、最近は緩和に向けて議論になってる。
マンションも古くなり、住む人々も子供が巣立ち、だんだん寂しくなってきてる。
やはり癒しも必要なんだな。

それにしても、この子はカワユイのだ
でもなんで、「ねこ」はまばたきしないのかねぇ?

ご主人さま、撮影の方、ありがとう

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2009年5月29日 (金)

ラヴェル 「ラ・ヴァルス」 プレヴィン指揮

Okayama_st 岡山・広島に出張してきました。
お家の布団が恋しくなるこの頃。

仕事で各地をさまようこと数十年。
県民ショーじゃないけれど、県境を超えると味も言葉も風習も違ってしまうことをつくづくと思う。

Momotaro 岡山駅前に立つ桃太郎さん。

岡山は、関西と中国、山陰そして四国、それぞれの味わいがあるように思う県ね。

Katsudon2
お昼は、カツ丼を。
岡山のカツ丼といえば、「ドミグラソースかつ丼」。
ご飯の上に、ゆでたキャベツが敷かれ、やわらかく揚げたカツ、そしてドミグラスソースがこれでもかとばかりにかかっているんだ。
おいしい、けれど、関東人の私には少し甘く感じる。
でもカツにドミグラは実によく合うし、しんなりしたキャベツがグッドでございましたね。

Pictures_previn 今日もワルツ。
ウィンナワルツをオマージュしたラヴェルの名作「ラ・ヴァルス」でございます。
1814年のウィーン会議での社交の場から、ヨーロッパ全土を虜にしていった、ウィンナワルツ。
その舞踏会の様子を雲間から見渡すようにして描いた素晴らしい舞踏曲。
 ラヴェルの数ある作品のなかで、もっとも好きな曲であります。
優雅でありながらノスタルジーも溢れ、最後は狂乱の渦に巻き込まれていく魅力的な音楽。

演奏会で聴くと、さらに楽しい。
去年のヤンソンスとコンセルトヘボウがコンサートのトリにした素晴らしい演奏。
かなり以前、小沢征爾が新日フィルで演奏したオールラヴェルプログラム。
そこでは、まず「優雅で感傷的な円舞曲」が演奏され、そのまま静かに終えたと思ったら、続けて「ラ・ヴァルス」を始めた。連続した二つのワルツが切れ目なく鮮やかに繰り広げられたもんだ。イキの良かった小沢さんの才気あふれる名演だった。

今宵は、アンドレ・プレヴィンが本場ウィーン・フィルを指揮した85年のライブ録音で。
この演奏はなかなかユニーク。
プレヴィンの指揮は、以外と腰が重たく少し粘着ぎみ。
でもテンポはゆったりで、ポルタメントもウィーン風で味わいがあって柔らかい。
この当時、ウィーンフィルはラヴェルやドビュッシーなどをあまり演奏していなかったはず。
気の合うプレヴィンの指揮に任せながらも、思う存分自分たちのワルツのように楽しんでいる風情が感じられる。

ドミグラかつ丼のような、取り合わせの妙で味わえる甘味な演奏にございました。
ごちそうさま。

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2009年5月26日 (火)

ワルトトイフェル 「スケートをする人々」 ボスコフスキー

Nezumi_2ねずみ男」がマスクしてる。

でも何で「スケーターズワルツ」なんじゃい?

まぁいいじゃありませぬか。
ちょいと懐かし系の記事なもんで、小学校の音楽の授業で聴いたこの曲を思い出してしまったのさ。
私のような世代だと、「軽騎兵」、「くるみ割り」、「動物の謝肉祭」、「金と銀」などだったけど、いまはどんな曲を聴いてるんだろう?

KitaroKitaro3_2 これは、実家にある「ソノシート」。
若い方は知らないだろうなぁ。
ビニールでできたレコードで、音で聴くテレビマンガだった。
絵本のようなジャケットと一緒で@300円。

本屋さんに売ってた。
わたし、たくさんもってます。
私のような世代の方は懐かしいでしょう。

Kitaro_2長期出張は、2府4県を車で巡った。
最後の日は、少し余裕ができて、境港市で昼ごはんでも、と思って「水木しげるロード」をひとり散策。
鳥取のこの港町は、水木しげるの生まれた街。

そしたら、前から「鬼太郎」が「目玉おやじ」を連れて歩いてくるじゃないの。
ポーズとってくれましたよ。
握手もしましたよ。

Maguro1

そして、食べたのが「まぐろラーメン」。
まぐろのカマで出汁をとったサッパリ系ラーメンで、生のマグロがのってます。
海苔と香ばしく焼いたネギ、かくし味の柚子が効いてます。
そして鬼太郎かまぼこ。
「ねぎま鍋」のようなイメージのおいしいラーメンでございました。
さらなる画像は、別館にてご紹介します。
Waldteufel ワルトトイフェル(1837~1915)は、アルザス系のフランスの作曲家。
ともかく、めっぽう明るく屈託がない。
世紀末に活躍しながら、全然そんな雰囲気のないいたって呑気な音楽に、妙に安心してしまう今のワタクシ。
あ~ぁ、疲れた体に心地よい。
800Kmも運転しちまった。
まだ体が揺れている。
スケーターズワルツで、さらにユラユラと・・・・。

ワルツの神様みたいなボスコフスキーモンテカルロ国立歌劇場のオーケストラの珍しい組み合わせ。あと有名なのは「女学生」です。

Neko 「キィーッ
やはり猫娘さんにも登場いただきまょう。

妖怪たちは、近々マイフォトにまとめますので、妖怪好きのあなた、お楽しみに。            

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2009年5月22日 (金)

あなたのフェチ曲は?

1_2 このところ、お家で音楽を聴いておりません。
外でのコンサートが多いのと、その反動ゆえか、やたらと忙しいのです。
だから、今宵は音楽ネタのみ。
皆さんは、その曲が大好きで、いろんな演奏を求めてやたらと集めてしまうことってありますよね。
いわゆるフェチ曲。
これぞクラシック音楽愛好の醍醐味と申せましょう。クラシック好きでない人からは理解しがたいことともいえよう。
ひとたび大好物になっちゃうと、ラーメンと同じように、醤油派・味噌派・塩派・豚骨派・・などのこだわりが生まれ、具の内容や麺の硬さなどさらに探求してしまう。
ちなみにね、わたしゃ醤油ですな。それも魚介系が好きだな。

CDショップに行くと必ずチェックしてしまう。クラシック音楽はだから金がかかるのね。
そこで今回は、わたくしのこだわるおフェチ曲を並べたてようというくだらん企画にございます。
同意いただく曲も多いのでは。

 1.ベートーヴェン 交響曲全曲 (16)
 2.シューベルト 未完成交響曲(15)
 3.ベルリオーズ  幻想交響曲(18)
 4.ブラームス 交響曲全曲(15)

 5.ブルックナー 交響曲第4番(10)
 6.フランク 交響曲(14)
 7.エルガー 交響曲第1番(15)
 8.ドヴォルザーク 新世界交響曲(14)      
 9.ラフマニノフ 交響曲第2番(12)
10.ワーグナー 管弦楽曲集(42)
11.リムスキー・コルサコフ「シェエラザード」(10)
12.エルガー 「エニグマ」変奏曲 (16)
13.ドビュッシー 「海」(15)
14.ホルスト「惑星」(10)
15.ディーリアス 管弦楽曲集(17)
16.ワーグナー 「ローエングリン」(10)
17.ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」(17)
18.ワーグナー 「マイスタージンガー」 (12

19.ワーグナー 「ニーベルグの指環」 (16)
20.ワーグナー 「パルシファル」 (14)


Cd ざっとこんな感じ。10種類以上ある曲を選択。
器楽や室内楽がなくて、ワーグナーばっかり。
あーあ、これまでいくら投資してしまったんだろう。ショップに行くと危険なので、このところ自粛中。
ネットショップも酔ったら絶対に見ない。
こんな禁欲生活はツライが、もう先の見えてしまった我が人生、たくさんたまった音源をいかに聴いていくかでございますな。
整理中の我がCD棚、オペラ部門であります。

明日より、マスクをしてしばし出張に出ます。
旅先の楽しみといたしたく、皆さまがたの「おフェチ曲」をお教えいただければ幸いに存じます。

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2009年5月21日 (木)

どいてよ! 「にゃんにゃん」

1 おっ、この先に「にゃんにゃん」発見。

2 こちらに気づいた。

ここは、海辺に近い私の実家のある街の路地。
車一台がやっと通れる道。

3 近づいていく私。
動じないねこ。

まったくの無視である。

このままでは、ここを通れない。

4

でもね、まったく見てない。
にゃんこが、前足をこんな風に折りたたんでいる姿はかわゆいのう。

でもよ、おい、どいてよ。

5 どこを見てるんだか、目の前の人のことをまったく無視してる。

しょうがないから、この「にゃんこ」を跨いで先へ進みましたとさ。

そしたら、私と入れ違いに車が一台。
この車、見てたら立ち往生してましたとさ。

苦しいときの「にやんにゃん」シリーズにございます。

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2009年5月20日 (水)

NHK交響楽団定期演奏会 尾高忠明指揮

Nhkso5m 土曜日のすさまじいまでの神奈川フィルのコンサートを体験してしまった私は、以来音楽を聴かず、ふぬけて過ごしました(仕事はしてますよ)。

そして今夜、尾高さんのさわやかな初夏のブラームスを聴くことができて、「
ふぬけ」から脱却できた

N響サントリーホール定期は会員でないと聴くことができない。
今回、いつもお世話になってますpocknさんから、チケットをお譲りいただくという、幸運に恵まれ、しかも1階席の最高の席でごさいました。
テレビでおなじみのN響の皆さんをこんなに間近に見るのも初めて。
pocknさん、今頃ベルリンでしょうか、ウィーンでしょうか?コンサートレヴューも楽しみにしてますよ!

     ブラームス ピアノ協奏曲第2番
              pf:ネルソン・ゲルナー

             交響曲第2番

          尾高 忠明 指揮 NHK交響楽団
                 (5.20@サントリーホール)


ブラームスの長調の明るい2曲をプログラムのに据えた今宵。
N響はさすがにうまい。
ホルンのソロによる出だしも危なげなく、輝かしいし、随所に活躍する管楽器のソロも素晴らしい。
ことさら美しかったのが3楽章の藤森さんのチェロ
かつて、ルツェルンがやってきたとき、ポリーニがいまひとつ乗ってなくて、その「あれっ?」という雰囲気を救ったのが、ブルネロのため息の出るような美音によるチェロだった。
藤森さんのチェロ、最初のソロからきれいで耳がそばたったが、そのあと、ゲルナーのピアノが繊細このうえない音色で入ってくる。演奏によっては眠くなってしまうこの楽章、わたしはピアノとオーケストラが醸し出す親密でしずやかな雰囲気にウットリとしてしまった。
最後に再びチェロのソロにクラリネットが絡み合う場面はもう枯淡の境地にあった。
最初に初夏のブラームスと書いたけど、こちらは、晩秋に枯れ葉を踏んで歩むかの気分だった。
アタッカで入る終楽章も幸せに満ちた心躍る音楽であり演奏。
アルゼンチン生まれのゲルナー氏、以前ルイージ&N響と共演したラフマニノフの2番をCDR化して車を運転しながら度々聴いているが、とても流れがよく技巧のすござを感じさせない素直で美しいピアノだった。
今日のブラームスは、それに加えて沈着、かつ磨きあげられた感のある一音一音が、ブラームスの2番にとても相応しく感じられた。
尾高さんの指揮も、こうしたピアノと拮抗しつつ、明るく伸びやかなバックをしっかりつけていてお見事で、後半のふたつの楽章が前述のとおりの素晴らしさだった。

交響曲第2番は、久しぶりに聴く。
何故かって、2007年の5月に聴いた「シュナイト&神奈川フィル」の演奏があまりにも素晴らしかったものだから、それ以来封印してしまった曲だから。
あの時は、じっくりしたテンポの中でよく歌い、南ドイツ風の明るさが横溢し、最後は歓喜の爆発した超名演奏だったんだ。

 エルガーやラフマニノフを通じて、尾高さんをこのところずっと聴いている。
かつては安全運転的なイメージがあったが、気品と劇性がうまく調和して、ライブでとても燃える演奏を聴くようになってきた。
今宵は、最初からのびのびと、心から歌い、弾むように指揮をしていた。
後ろから見てると、尾高さんの動きは独特だけれど、その眼や顔は最初から最後まで柔和に微笑んで指揮をしていた。
N響も真剣にこれに応えていて、出てくる音楽は明るく、聴く私たちを幸せな気持ちにさせてくれるものだった。
ただ、ホルンがバランス的にやや突出していたように思われた。
低音の充実とヴァイオリンの輝きに、最後の熱狂はシュナイト&神奈川フィルの方が上だと思われたが、ヴィオラとチェロ、トロンボーンといったこの曲を下支えする中音域の充実と弾むリズムの良さは、尾高&N響がよかった。

演奏終了後、尾高さんとコンマスの堀さんが、楽しそうに笑顔を交わしていたのが、この演奏のすべてを物語っていたかもしれない。
ともかく、気持ちいい、爽やかな演奏会でありました。

そしてもうひとつ、ふぬけからの脱却。
大洋ベイスターズが、田代監督代行のもと、久々の勝利。
マリーンズは大洋の次に応援しているんだけれど、湾岸対決ゆえベイを当然に応援。
うれしいね、しかもおじさん「アラフィー工藤」が頑張ったもの。
同じアラフィーとして、頑張らなくっちゃね

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2009年5月18日 (月)

今宵はふぬけてます

Hamasuta 今宵は、音楽を聴きません。

画像は、横浜の夕暮れ。スタジアムが見えます。

連休を挟んで、この1か月あまり。
私生活も大変なことが続出だったけれど、たいへんな音楽ばっかり聴いてしまったものだ。

「新国のリング前半」「デ・ワールト&N響のワーグナーにR・シュトラウス」「金さん&神奈川フィル」「ルイージ&ドレスデンのR・シュトラウス」「新国のショスタコ・ムツェンスク」→「シュナイトのヨハネ受難曲」「パルシファル@あらかわバイロイト」「シュナイト&神奈川フィルのシューマン」

今年前半のコンサートラッシュは、ここまでで、あとは懐をかばいつつ大人しくしてます。
連休明けからの、ショスタコ、ヨハネ、パルシファル、シューマン(というか指揮者とオーケストラのありかた)、この4つは私の心に強烈な印象を刻みつけた。

これら4つの音楽会が、こうした順番で連続したことは、自分でチョイスした結果とはいえ、稀なる奇跡ともいえるのではないか、と本日は感激新たにふぬけている次第でございます。

誰でも持ってる人間の心の闇と転落とそれが行き過ぎると滑稽にもなる虚しさ、人間の冒した大罪を贖罪する誰しもの心にある神、劇場に持ち込まれた同じ原罪と贖罪・許し、音楽はひとつの手段だったかもしれない人間同士の壮絶なぶつかり合いと信頼。

土曜に経験した神奈川フィルのコンサートは、生涯経験できそうもないすさまじい人生体験のようなものだった。
あれを思えば、ふぬけてられない、しっかりしなくちゃ、と自分を叱咤したくなる

Bay

今日は、大矢監督が休養を余儀なくされ、シーズン開始早々で、監督交代。
正直、あの戦力では、という思いが強い。
他チームに強奪ないしは流出した選手が主力として活躍するのも癪にさわる。

権藤さんの優勝の影の立役者を、こんなにも無能呼ばわりしていいのか?
あの夢のような優勝に立会い、酔った私。
今日は、こちらも寂しく、さらにふぬけてます。

監督代行は、生え抜きの田代さん。
小田原出身、藤沢の学校、大洋OB。
これを応援せずして、いかにせん!
オレンジの時代から応援してまっせ。

追)しばらく音楽は静養しようかと思ったら、尾高&N響のブラームスのチケットをお譲りいただくことになりました。
こんな今のわたくしに、尾高さんのブラームスがどう響くかしら。

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2009年5月17日 (日)

神奈川フィルハーモニー演奏会 シュナイト音楽堂シリーズ

Schneidt_schumann20095 これまで、何度も感動の涙を流してきたシュナイト&神奈川フィルの演奏会。
でも今回は、これまでの涙と違う。

17回目を数えるシュナイト音楽堂シリーズのシューマンチクルス最終回の公演を聴く。
ハンス=マルティン・シュナイト師が神奈川フィルを指揮をする最期の演奏会に、万感の思いをいだきつつ紅葉坂を上って県立音楽堂へ。

ホールに着き次第、いつもお世話になってますyurikamomeさんから、一昨日、シュナイトさんが倒れ救急車が呼ばれたそうです、というショッキングな出来事をお聞きした。
一週間前のヨハネでは、あんなに元気そうにイキイキと指揮していたのに・・・・。

   シューマン 「マンフレッド」序曲

           ピアノ協奏曲
            Pf:ダニエル・シュナイト

           交響曲第4番
 
        (5.16@神奈川県立音楽堂) 
 


今度は不安を抱えつつ席に着き、神奈川フィルの出を待つ。なかなか出てこない。遅れること10分、メンバーが登場し、前回より始まった全員揃って挨拶が行われ、やがてシュナイト師登場。
一週間前と違う。
歩みが遅い。
そして、不安の中始まった「マンフレッド」序曲は、やはり極端に遅いテンポ。ただでさえ掴みどころのないシューマンなのに、もやもやとして音の焦点が定まらず決まらない。
バイロンの書いた主人公マンフレッドの苦渋は晴れることはないが、その音楽がやや明るい兆しを見せるあたりから、もやもや感が取れてきて、音楽がしっかり歩みだし、シューマン独特の幻想の世界にこちらも浸ることが出来てきた。
それにしても遅い。
でも、しっかり歌があって、ホールの温もり感も手伝って、ふくよかな響きであるところが、このコンビの素晴らしいところ。
憂愁の雰囲気のまま、曲が静かに閉じ、時計を見るとほぼ18分!
指揮台を降りるときに、足元がおぼつかず一瞬危なかった。

さて、次はシュナイト・ジュニア、ダニエル君との親子共演によるピアノ協奏曲
私の席の斜め前には、その母上、すなわちシュナイト師の奥様がいらっしゃって、それこそ膝の上で手を合わせたりしながら、もう心配そうに、でもうれしそうに聴いてらっしゃる。
冒頭から当然ながら親父ペースで、そこに必死に着いて、いや先走らないようにしている、息子。どうもしっくりかみ合わない。
でもオーケストラは、鈴木さんの素晴らしいオーボエをはじめ、煌めくようなヴァイオリンの音色、そうすっかり耳に馴染んだ神奈川フィルが、幸せな時期のロマンあふれるシューマンを奏でてゆく。
オーケストラもソロと同等に雄弁に書かれているから、このまま最後まで楽しめるな、と思った3楽章。ダニエル君は止まってしまった・・・。
もうこうなると、聴く私たちも、「頑張れ」と念じる一方で、冷静さを失ってしまう。
まして、前にいらっしゃる母上のお気持ちたるや。親父も、どうしたのだ?と振り返る。
それを救ったのが、コンマス石田氏。区切りよい「出」をさっと引き出しオケとソロをリードして再開。曲をなんとか終了させた。
まだ22歳の紅顔の青年ダニエル君。この競演を、楽しみにしていた親父も残念であったろうが、まだまだこれから。父の愛した日本でも、頑張って活躍して欲しいもの。
 でも、ここでの心ないブーイングは状況からしていかがなものかと・・・・。

シューマンのこの曲は、「同じようなフレーズが何度も繰り返しされるものだから、不明になってしまう」。休憩時間に、schweizer Music先生にお聞きした。
なるほど、以前も若いピアニストが3楽章で事故を起こしたのを聴いたことがある。
難しい曲だし、シューマンは手ごわい。

楽しみにしていたのが第4交響曲
じっくりとした巨人のような歩みによるこんな演奏をかつて聴いたことがない。
そして、指揮者の意志に奉仕するオーケストラの強い思いの結実を目の当たりにすることができた。
いつも以上に棒の動きが見にくい。後ろで見ていてどこで出るんだろうと心配になるようなものだが、オケはしっかりついてくる。
2楽章ロマンツェの、オーボエ、チェロの素晴らしいソロに、繊細なヴァイオリンソロが加わり、演奏はここで一気に締まった感があった。
でも続く3楽章のトリオでは、いまにも止まりそうな様相を呈するが、石田氏が体を目一杯使ってリードしてゆく。
シュナイト師の背中がこのあたりから、斜めに見えてきた・・・。
終楽章、あぁ、思いだすに痛々しい後ろ姿。そして、必至に全霊を込めつつ演奏をするメンバーひとりひとり。その胸中はきっと心配でならなかったであろう。
私は、皆さんの姿を心に刻みつけようと瞬きもせずに見入り、聴き入った。
でも、正直気が気でなく、コーダの熱狂に突入しても耳も心も上の空的な状態。
最後の音が鳴り終わり、一瞬の静寂後、指揮者に駆け寄る前列の奏者たち。
袖から舞台スタッフも足早に登場して、抱きかかえられるようにシュナイト師は舞台を下がった。前列の奥様も、すぐに客席をあとに。
 何が起こったか、切れぎれの光景しか覚えていない・・・。
私は気がついたら涙を流していた。
オーケストラは立ち上がり大拍手に一礼して、舞台を去った。
私たちは全員スタンディングで、人のいないステージに拍手を送った。
車椅子を嫌ったのであろうか、シュナイト師は椅子に腰かけて舞台袖に姿を現わし、私たちの感謝の声援に手を振って応えてくれた。
あまりにも悲しい充実した名コンビとの別れ、でも素晴らしい名演の数々を残してくれたことに、心の底からの感謝の念が湧きあがってきて、涙が溢れた・・・・。
同じ気持ちに包まれていた会場。素晴らしい音楽を同じ空気で共有することの喜び、ここに満たされリ。

シュナイトさん、ありがとう。
これからも、どちらへ舵をきろうと、神奈川フィルを応援して行きますよ!

Noge_chinise アフターは、野毛の味のある中華料理店で、神奈川フィルを愛するメンバーの方たちと、楽しいひとときを持てました。
この集いはまさに「シュナイト卒業式」でございました。
そして、おいしい中華料理も終わってしまった、の図。

途中、シュナイトさんの容態はさほど悪くなく元気、との報も入りひと安心。
今回も皆様、お世話になりました。

Momijizaka 県立音楽堂近くの、「紅葉坂教会」。

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2009年5月16日 (土)

ワーグナー 「パルシファル」 あらかわバイロイト

Arakawa_parsifal_2 ワーグナー舞台神聖祭典劇「パルシファル」を観劇。
バレンボイムによる演奏会形式公演を加えて通算5度目のパルシファル生体験。
今回は、ワーグナーがあえて付けた、こんないかつめらしいタイトルがある意味まったく相応しくない場所で上演された。
荒川区のサンパールホールは、バス便か地下鉄や都電でのアプローチ。最寄地下鉄から10分以上。なかなかディープな立地なんだ。
私は地下鉄の三ノ輪駅から歩いたけれど、上野から二駅の下町、明治通りでなく生活道路を歩いたから、マンションに、八百屋さんや肉屋さんなんかがあったり、町工場なんかもチラホラ。
ホールは区民会館みたいなもんだから、スタッフもなんやら素人くさくて、パンフレットを販売するごとに正の字を書いてたり、幕間ではトイレットペーパーをもってうろうろとしちゃってる。
バーがないので、ドリンクは自販機だし・・・

Arakawa でもですよ、こんなユルくも、庶民的な環境の劇場で行われるオペラ、それも本格ワーグナーなんだから嬉しいじゃありませんかぁ

新国や外来オペラでは、ちょっと背伸びしたゃうんだけど、ここでは気楽に普段着でぷらっときて、ワーグナーを楽しめちゃうというムード。
公演監督、田辺とおるさんが、「荒川バイロイト」と名付けて目指したワーグナー劇場のスタイルの一部はこうした雰囲気かも。
比較的廉価で価格設定をするためには、東京の下町であることも必然。3公演、違うキャストで、皆さん実績ある方々ばかりが登場しているのも驚きだけど、よく考えたら、ワーグナーの本格オペラを日本人歌手がそうそう体験できないから、歌手の皆さんもきっと大いに張り切ったことだろう。そこに、オーディションで選ばれた合唱とオーケストラの方々がくわわるのだから、本場バイロイトならぬ、荒川実験劇場と呼んでもいい。
今回が第一回めとなるワーグナー上演の試み、次回来年は「トリスタン」が予定されているから、驚きだ!

    アンフォルタス:太田 直樹   ティトゥレル:志村 文彦
    グルネマンツ  :大塚 博章   パルシファル:小貫 岩夫    

    クリングゾル :田辺とおる   クンドリー :蔵野 蘭子
    聖杯守護騎士Ⅰ:阿倍 修二 聖杯守護Ⅱ:鷲尾 裕樹
    小姓Ⅰ    :青山 奈未   小姓Ⅱ   :小林 由佳

    小姓Ⅲ    :安藤 英市   小姓Ⅳ   :岡村 北斗
    花の乙女   :加藤 裕美子         :青山 奈未
            :小林 由佳          :富永 美樹
            :熊木 道代          :本間 千晶

    アルト独唱  :小林 由佳

     クリスティアン・ハンマー指揮 TIAAフィルハーモニー管弦楽団

                       あらかわバイロイト合唱団
                         アンハルト州立歌劇場合唱団(録音)

                     演出:シュテファン・ビオンテック
                     公演監督:田辺とおる
                          (5.15@サンパール荒川)

演出はまったく常套的なもので、ト書きどおり。安心して観ていられるけど、バイロイト並みのメッセージの発信力は期待できない。この辺はこれからに期待。でもカーテンコールで演出家にブーが小さいながら出たのは気の毒。もともと上演コンセプトからして期待するほうがムリなんだから。
だからいつものように詳細をここに書くことはありません。
1幕や3幕は、簡潔な森、はりぼての柱が立つ聖堂が。2幕は何もない舞台が。
Arakawa_parsifal2 衣装もこんな感じで違和感はありません。(画像はパンフレットより拝借)
が、花の乙女、ちゅーか、花の○○さんたちの、おもむろの登場には、わたくしはもう・・・・・。
一生懸命ぶりも真剣すぎると滑稽になるけど、いや、頑張ってて絶対いいんだけれど、ちょいと無理がありすぎ。
手を上にあげてヒラヒラとしながら踊るさまは、こりゃまさに常磐ハワイアンセンター。
 それと聖杯騎士たちもおなじように○○さん。
アンフォルタスを担架に乗せて出てきたとき、足もともあやしくヨタヨタと・・・。
 こんなこと書いちゃってすんません。
もう少しやりようがあったのではないかと思う次第にございます。

やりようといえば、今回騎士や登場人物たちは、聖堂場面では、ほとんどの時間手を胸の前に組んでいたり、始終十字を切ったりしていて、キリスト教の祈りの所作を何度も繰り返していたけれど、それを日本人が演じ、観る場合にはちょっと過多すぎるのではないかと。
「パルシファル」という楽劇が聖典劇的な側面をしっかり持っているので、まったく正しい演出ではあるけれど、もう少しわれわれの日常性も意識して欲しかったかもしらん。
 常套的であるがゆえに、救いを求めるクンドリーがパルシファルの足を濯ぎ髪で拭き、やがて洗礼を受けさめざめと泣くとき、わたくしの涙腺も決壊した。
ただでさえ美しい野辺の音楽に、蔵野蘭子さまの素晴らしい演技がわたくしを刺激したのでございます。
パルシファルが「ただひとつの武器」で傷を癒し、聖杯の儀式を行うとき、その聖杯を取り出す役目はクンドリーであった。そして、お約束どおり、クンドリーはその後、うずくまって、こと切れたように思われた。
最近は、死なずに全員そろって未来を見つめちゃうような演出も多いから、彼女の死は、解放であり救いであるゆえ、よろしい結末であります。

その蘭子さまのクンドリーが歌も演技も素晴らしい。
二人の歌手が共存するかのような二面性あるクンドリーの役柄を、完璧に歌い演じていて、笑いや叫びも絶叫にならず広い音域を優しく歌いあげていた。
ゼンタもヤナーチェクも聴き洩らしたが、今回グートルーネ以来の蔵野さんに大いに感激。
パルシファル役の小貫さんは、以前「ダナエの愛」で聴いたことがあって、その時はもっとリリカルなイメージがあったけど、今回はびっくりするほど立派だった。
その声も歌い回しも、ルネ・コロそっくりに聴こえたけれど、誉めすぎだろうか。
声量と力強さが加われば、完璧。
 アンフォルタスの太田さんは初めて聴くバリトンだったが、この方もよかった。
ドイツ語のディクションが自然で、おのずとアンフォルタスの苦悩もにじみ出ていたし、声がきれい。
それと、これまた以前、ペレアスで若いお爺さんを歌い感心した大塚さんの大役グルネマンツ。今回も爺さん役で、それこそ深みには欠けるものの朗々としたバスは安心して聴けるものだった。
 さらに「そのまんまクリングゾル」の田辺さんは、まさに適役。
でもあの槍、実際に投げて欲しかったな。
バイロイトでは、マツーラとホフマンはやり投げを実践したというし。
 お姿が哀れだったティトゥレルの志村さんの深いバスもよい。
それで、アリアドネの作曲家でファンの一人となった小林由佳さんが3役で大活躍。
彼女の声はチョイ役でも際立っていて、もしかしたらこの楽劇の肝になっていたかも!

合唱とオケに関してはなにも書きますまい。
毎年同じメンバーで固定して、その精度を上げていって欲しいものです。
舞台に立ち、ピットで演奏し、その充実感と充足感はきっと格別なものがあるのでしょうね。芸のないわたくしには、うらやましい限り。こちらは客席から大きな拍手で讃えたい。
ちなみに、1幕のあとは、私は当然拍手せず。でもパラパラ拍手が起きたし、劇場側もカーテンコールをやったから、あんまり堅く考える必要もなしか。

指揮のハンマー氏、ともかくこの楽劇が体の隅々まで染み込んでいるかのような指揮ぶりで、手際がよいし、プロンクター役もこなしていたくらい(笑)
でも、そのテキパキぶりは、快速テンポとなっていて、ちょっと私にはスルーしすぎの部分が多すぎに感じられた。
若い人主体のオケだからかと思ったけど、本国で録音してきた裏方合唱のテンポもあるから、こういうテンポ感の人なのだろう。
Ⅰ(1:40) Ⅱ(1:00) Ⅲ(1:05) ブーレーズも真っ青。

客席は6割くらいの入りで、拍手も寂しかったけど、わたくしは、結構楽しみましたよ。
最前列だったし、字幕はほとんど見てなかったけれど、途中、舞台とずれていて滑稽なことになっておりましたねぇ。
それと、あのロケーションで雨が降ったことを考えると恐ろしいものがあります。

Arakawa2

これは何でしょう?

正解は、オーケストラピットでございます。
ところどころに、こうした隙間があって、私の席からはフルート嬢の熱演が垣間見れるのでありました。
指揮者は、ピット内に出入り口がないから、客席を一瞬通ってソロリと登場するわけ。

ドイツはどんな田舎町へ行っても、オペラ劇場があってオーケストラがあって、モコモコした音響で、市民が気楽に楽しんでいる(んだろうな)。そんな感じの荒川劇場。今後も期待。

今秋はワルキューレの3幕抜粋と、来春の「トリスタン」上演が予告されております。
それとチラシで、来春の東京オペラの森での「パルシファル」演奏会形式公演を発見。
ウィーンのシルマーとN響でございます。
いやはや、東京全体、バイロイトか

Minowa

空腹に耐えかねて三ノ輪駅の近くの中国料理店へ。
これに、餃子をつけた晩酌セットで@1080円。
これで終わらず、そこそこ飲んでも、安い安い、うまいうまい。

     
  

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2009年5月12日 (火)

パーセル 「ダイドーとイーニアス」 ディヴィス指揮

Nihonbashi 日本橋の橋そのものから見た「日本橋川」。

無粋な首都高速がその上をしっかり蓋してしまっている。
この川のほぼ全域にわたって上には首都高。
東京が狙う次のオリンピックも川であって川でないようなこの光景は、このままなのだろうなぁ。

Purcell_didoaeneas_davis

パーセル(1658~1695)の歌劇「ダイドーとイーニアス」を取り出した。
 どういう訳か、最近は「ダイドーとイーニアス」と呼ぶ(読む)ことも多くなってきた。
どうしても「ディドーとエネアス」とした方が馴染みあるし、音楽の教科書なんかにもそう書いてあったはず。
今年、横須賀で初めて観たこのオペラ、そちらでは「ダイドーとイーニアス」になっていたものだから、今回の表記もそうします。

36歳で早世してしまった、パーセルの劇作品としてオペラ形式をもった唯一の作品は、1時間足らずのコンパクトな作品。
1689年頃頃の作品とされ、高貴なる気品と崇高なまでの悲しみ、そしてカラッとしたユーモアにもことかかない素晴らしい音楽は、320年経った今でも決して色あせることがない。

先の横須賀公演では、カルタゴの舞台をバリ・ヒンドゥーの世界に置き換え、痛快かつ笑いも呼ぶ誰しも飽きることない演出を作り上げていて、本当に面白かった。
そこには始めてオペラを観る人も多々いたが、皆さんすっかり引き込まれていた。
みっちゃん、こと林美智子さん演じるダイドーが、最後、嘆きの歌の末に、倒れ、無人の舞台に運ばれ、そこにはらはらと、バラの花びらが舞い落ちてきて彼女の亡骸を覆い尽くした・・・・・。本当に美しい舞台だった。

その記事と、超概略あらすじは、こちらで

ダイドー:ジョセフィーン・ヴィージー イーニアス:ジョン・シャーリー=クワーク
ベリンダ:ヘレン・ドナート       魔女   :エリザベス・ベインブリッジ
待女・第1の魔女:デラ・ウォリス   第2の魔女:ジリアン・ナイト
霊の声 :トーマス・アレン       船乗り  :フランク・パターソン

サー・コリン・デイヴィス指揮 アカデミー・セントマーテイン・イン・ザ・フィールズ
                  ジョンオールディス合唱団
                        (1970年録音)

80年代から、こうした楽曲は古楽優勢になってしまって、こうした現代楽器による録音などは、もう行われなくなってしまったし、へたすりゃ前時代のレッテルを貼られてしまう。
 このサー・コリンの方のディヴィスが、めずらしくもアカデミーを指揮したこの録音、すっかり忘れ去られてしまったものかもしれない。
そして、ディヴィスがヘンデル以前の音楽を指揮しているのも珍しい。
久しぶりに聴いてみて、昨今のすっきり系の古楽が喜びも悲しみも、感情の襞を見事に編みだすことができるようになっただけに、少し鈍重すぎないか、そしてロマンテックに過ぎないか、と正直感じた。
でも短いものだから、2度聞き返すうちに、すっかり昔の耳にさかのぼって聴くことができて、かわいいベリンダの軽やかな伴奏や、魔女たちの「わはは」ソングの洒脱さ、そして何よりも、あらゆるオペラの中でも、もっとも深淵で高貴なる悲しみに満ちた、ダイドーの最後の絶唱「When I am laid in earth・・・・」の慟哭にも似た伴奏とそのあとの、レクイエムのような静粛かつ悲しみに溢れた合唱とその後奏。
現在のリアルな楽器によって克明に演奏されたこのデイヴィス盤は、古き響きを新鮮に演奏したのに、今や古きカテゴリーの演奏形態となってしまった。
でもその感情移入の度合は、古楽では導き得ないオペラティックなものであって、いまやそれも耳に新鮮に聴こえるのであった・・・・。

カラヤンのリングをはじめ、ドイツ系の指揮者に可愛がられたヴィージーは、ブルー系のクールなリリシズム溢れる声で、最後のアリアは、マジで泣かせてくれます。
我々の世代におなじみのドナートのベリンダの可愛い歌に、英国音楽ファンなら泣く子も黙るクヮークの気品あふれるイーニアス、ちょい役でもったいないアレン、達者な魔女たちと、当時の英国系適材適所が配置されていて嬉しい。

この演奏を何度も聴いたあとに、パロットやヤーコプスなどを聴くと、これまた新鮮で別の音楽のように聴こえちゃうから面白い。
どちらも、音楽の正しいあり方ではないかと思ったりもしてます。

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2009年5月10日 (日)

バッハ 「ヨハネ受難曲」 シュナイト指揮コーロ・ヌオーヴォ演奏会

John_passion_schneidt バッハ「ヨハネ受難曲」を聴く。

74年創立、故佐藤浩太郎氏が初代指揮者で
、バッハを中心に宗教音楽を中心に歌いつんできた「コーロ・ヌオーヴォの公演である。

そして、何たって、先頃まで神奈川フィルの音楽監督を務めたおなじみのシュナイト師のバッハの宗教曲が聞けるとあって、発売早々チケットを手配した演奏会。
本来なら、ロ短調ミサもシュナイト・バッハ合唱団で演るはずだったけど、こちらは、9月に延期になってしまった。残暑厳しい日本に翁は帰ってきてくれるだろうか?
今回来日では、あと神奈川フィルでのシューマン。
そのあとはドイツに引きこもる予定とか。
シュナイト師が聴ける貴重な機会、慈しむような思いでいどんだ。

      福音史家:畑 儀文      イエス:成瀬 当正
      ソプラノ :佐竹 由美      アルト:小川 明子
      テノール :鏡 貴之       バス(ピラト):山田 大智

    ハンス=マリティン・シュナイト指揮 アンサンブルofトウキョウ
                      合唱:コーロ・ヌオーヴォ
                      合唱指揮:石川 星太郎
                      合唱指導:金子 みゆき
                      オルガン:身崎 真理子 
                         (5.9 @文京シビックホール)     
                      

季節もよくなり具合のよさそうなシュナイト師、元気な足取りで登場。
受難を予兆させ、たゆたうような足取りで始まる冒頭の素晴らしい合唱が始まる。
そしてこれが、異常なまでの遅いテンポだった。
シュナイト・テンポには慣れてはいるつもりだったが、最近バッハの音楽は古楽による軽やかな演奏を聴くことが多かっただけに、いきなりガツンとやられてしまったのだ。
だがそこに重々しさや悲壮感が伴わず、明るい音色で、よく歌おうとするがゆえの必然としてこうしたテンポになったという納得感があるところが毎度のシュナイト節。
 永遠に続くかと思われた第1曲が終わると、福音史家・エヴァンゲリストによるレシタティーフが歌われ、イエスの捕縛から物語が始まる。
こちらの畑さんの福音史家がまったくもって素晴らしい。
関西中心に活動されているものの、その名を知らなかったことが恥ずかしい。
オランダの名エヴァンゲリスト、ファン・エグモントに学んでいるとあって、その柔らかな声に沈着な中にもみなぎる同情を込めた歌いぶりには本当に感動した。
ペテロの否認の場面の慟哭にも似た語りには胸を突かれるものがあって私は涙が滲んできてしまった。
それと、シュナイト師の薫陶を受けたとあるオルガンの身崎さん。イエスのレシタティーフの場面に光輪をあらわすように伴われるが、その音色の緩やかで優しいこと。
全曲にわたって、通奏低音としての要的な役割を示していたように思える。
もちろん、チェンバロ、チェロ、コンバス、ファゴット皆さん達者で、独唱や合唱がこれで引き立つ。

「ヨハネ」は「マタイ」と違って合唱が活躍する受難曲で、よって静のマタイ、動のヨハネなどと思っているが、その劇性の高さを、コーロ・ヌオーヴォの精度の高い見事な合唱は充分に歌いこんでいた。
シュナイト師がそのひとつひとつに、心を込めて指揮をするものだから、普段は単調に聞こえるコラールの数々もそれぞれに血が通い、みな違って聴こえる。
それと、群衆としての合唱。集団の恐ろしさ残酷さが合唱によって引き立つ。

第1部は、福音史家と柔らかなバスのイエスの成瀬さん以外、独唱の皆さんやや声が届かなかったように思えたが、第2部では皆さん完璧。
ヴィオラ・ダ・モーレを伴ったテノールのアリアは、鏡さんの日本人離れしたリリカルな美声で堪能し、合唱との掛け合いを伴ったバスのアリアを山田さんのマイルドな歌声で楽しんだ。
 そして、大泣きしました・・・・。
イエスがこと切れる場面。「なし遂げられた」とイエスが語り、そのあと沈痛なアルトのアリア。ヴィオラ・ダ・ガンバとリュートの楚々とした伴奏で小川さんが心の限りに歌う。
この歌が、私の心の琴線にしっかりと触れ、涙が溢れた。その涙は口に達し、おっ、久々に涙はしょっぱい・・なんぞと思ったりもしたものだ。
 あと、「融けて流れよ、私の心よ・・・」のソプラノのアリアにも逝きました。
はかなげでリリカルな佐竹さんの声が染み透るようで、またもや涙が滲んだ・・・・。

最後の優しくも慰めに満ちた合唱。
「ルーエ・・・、ゆっくりお休みください・・・」シュナイト師は、この大団円の合唱曲を段々と音を弱くしていって静かに閉じると、次の最後のコラールを静かで丁寧な出だしでつなげた。
この神を称える最終コラール、2分に満たないものだが、徐々にクレッシェンドしていって最後には輝かしいまでの高みに達し、感動的に終結した。
これぞ、シュナイト・マジック。
手持ちのCDをいくつか確認したが、これほどまでに合唱曲とコラールの二つをつないで、カーブを描くような高まりを築いている演奏はなかった。

演奏終了後、観客ともども全員動きを止めてシュナイト師の祈ったかのような腕が下がるのを待つのが、シュナイト教の信者の務め(??)ではあるが、今宵は後方や2階席より、音が終結するとすぐさま拍手が起きてしまい止めようもなかった。
 しかし、それでも動かず、やがて独唱者たちに一人一人眼で挨拶するシュナイト師の動かない背中に、拍手はパラパラと止んで、静かになった。
 ようやく、指揮者が動き、ここで私や周りの方々は暖かな拍手に興じた次第。
不思議な光景ではあったが、演奏があまりに素晴らしかったので、そんなことは気にならない。

祈りの音楽をつねに訴求する師、シュナイト師の音楽の真髄を、こうした宗教作品に見た思い。指揮棒をもたず、日頃に似ず細かい指揮ぶりで、指先の動きも表情豊か。
 78年にアルヒーフにこのヨハネを録音している。
レーゲンスブルクの聖歌隊とオケはコレギウム聖エメラムという古楽オケであるが、これはCDにはなっていない。同時期にクリスマスオラトリオも録音しているので、これらは是非とも復活してほしいものだ。
 ピリオド奏法に背を向けた今や懐かしいバッハであったが、新しい演奏がそぎ落としてしまった大事な何かを今宵はしっかりと受け止めることが出来た。
その何かとは、歌であります。

神奈川フィルでいつもご一緒のスリーパーさんが、図らずも斜め前の席に。
ほぼ同じ思いで、休憩後・終演後語らいました。
来週が終わると、帰独して、活動はほとんどないとのこと。
健康(?)のためにも、来日して叱咤して欲しいもの・・・と笑い合いました。

一昨日の、ショスタコの激烈な音楽とあまりに違う音楽。
聖と俗、でもどちらも人間の本質のドラマだ。
救いのまったくなかった「ムツェンスクのマクベス夫人」、「ヨハネ受難曲」によって救済され心が浄化された思いがする。水と油の極端に異なる音楽だが、私に耳にはどちらも共存しているところが、これらの音楽の強さと素晴らしさか。
次週は、大作「パルシファル」に、横浜でシューマン。
5月の演奏会ラッシュが終わると、懐にやさしく、しばらく大人しくしております。

「ヨハネ受難曲」の過去記事

 「ヘレヴェッヘ指揮シャペル・ロワイヤル」

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2009年5月 8日 (金)

ショスタコーヴィチ 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 新国立劇場公演

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新国立劇場公演、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観劇。
ハードな演目なのに、連休明けの平日にもかかわらずはぼ満席。

強烈なショスタコの音楽と演出はさほどリアルではなかったものの生々しい筋だてに、観衆は3時間、釘付けとなった。

私にとって、オーケストラによる間奏曲や舞踏曲以外、実は初めての「マクベス夫人」。
時間もなかったけれど、あえて予習せずに本番にいどんだ今宵。
日頃、聴き親しんだ交響曲と同じ響きをここに聞き取ることができた。
そこにセンチメンタルなロシアのロマンスや、荒涼殺伐とした大地の響きなど、ロシアオペラのお約束のコーナーもしっかり踏襲されているところがおもしろいし、こんなところから過激一方でなく大衆受けしたことが理解できる。

 

それと、ロシア大衆は、われわれ日本人大衆と違ってあけすけで、多分に感情的であり、言葉に苦慮するものの粗野である。
そんなイメージを根底に抱きつつも聴いたこのオペラ。
先にあげた交響曲でいうと、まさに私の大好物の第4番と前後する作曲時期で、音楽にも共通項が多く、クラリネットソロなど、まんま4番の曲だった。
 その4番が、マーラーとの同質性を強く意識させるように、このオペラもマーラー的な多様性と複雑な心情吐露を併せ持っていて、万華鏡のような一様でない音楽に感じた。
悲劇も、恋愛も、深刻さも、笑いも、諧謔も、死も、生も・・・すべてが一緒くた。
4番の交響曲の記事はこちら
 
カテリーナの不幸と犯罪にひた走る本劇のストーリーは、ほんの一面で、ドラマのストーリー以外に、ショスタコーヴィチの音楽はもっといろんなことを見据えながらメッセージを発信しているかのように思える。
でもこれも考えすぎなのか、以外や単純なのかもしれないし・・・・。
ヴォツェックとともに、血なまぐさいヴェリスモオペラのように思えるが、劇の内容はともかく、ベルクの音楽ともども、とても魅力を感じてやまない。

 ショスタコーヴィチ 「ムツェンスクのマクベス夫人」

 カテリーナ:ステファニー・フリーデ  ボリス :ワレリー・アレクセイエフ
 ジノーヴィ:内山 信吾          セルゲイ:ヴィクトール・ルトシェク
 アクシーニャ:出来田三智子      ぼろ服の百姓:高橋 淳
 御者   :大槻 孝志          司祭  :妻屋 秀和
 警察署長:初鹿野 剛          ソニェートカ:森山 京子

  ミハエル・シンケヴィチ指揮 東京交響楽団
                    新国立劇場合唱団
               演出:リチャ-ド・ジョーンズ
                       (5.7 @新国立劇場)

演出は、イギリス出身の人らしくユーモアが随所に溢れる一方、過激さは後退しているものの演劇的な要素が高い。
舞台装置は同じくコヴェントガーデンでお馴染みのキース・ウォーナーをも思わせたり、人の動かし方などは、独創的なコンビュチュニーをも思わせるものがあった。

第1幕

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舞台は、真ん中に仕切りをおき、客席から左右の部屋をうかがえる仕組みで、その四角い空間は、閉塞感充分。1950年代に据えた演出の時代設定。汚れた壁に、汚い厨房や冷蔵庫、映りそうもないテレビが並ぶなか、カテリーナは単調な何も起きない日々をうらやみ歎いている。いきなり、暗く悲しいモノローグが歌われ、彼女は壁のカレンダーのようなものをむしり取りながらゴミ箱へすてている。
そこへ現れるいやらしい舅。子供の出来ないことに小言を並べつつも、体を密着させたりして嫌な爺さんなのだ。爺さん、床からデカイ鼠の死骸を拾いあげてゴミ箱へ捨て、カテリーナに鼠殺しの薬をまくように指示する。
この薬の箱がなかなか目立つわけだ。 
やがて別室に息子ジノーヴィが新しい使用人セルゲイと多数の使用人達が薄緑色の作業服で無機的な動きでぞろぞろ登場。
使用人たちは反抗的で、かつ表情がない。
事業地の事故で、ジノーヴィが長期留守をすることに・・・・。

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そんなかたわら、下女アクシーニャを団体で襲ういかがわしい場面では、セルゲイがゴミ箱に入れこしになった鼠入りのポリ袋を見せて脅したり、被せたりして、ワルぶりを印象付ける。使用人達の何人かは、鼠や豚のかぶりものを付けて、アクシーニャの服を脱がしにかかる。
どこまでいっちゃうんだろ、と思って見てたら、カテリーナが怒って飛び込んできて、セルゲイと大喧嘩になる。女としての強い自己主張だ。
この鉄火場の女のような逞しさを見て、同じステファニー・フリーデが演じた「西部の娘」を思いだした。 
やがて、舅が現れ皆は去り、カテリーナに寝るように促す。むしゃくしゃするカテリーナは一人残ったあと、テーブルをひっくり返し、その大音響とともに、間奏が始まり舞台は転換し、寝室と壁を隔てて広間となった。
何度も様子を見に来たり、ドアの下から覗き込んだりの爺さん。
カテリーナは、まるでヴォツェックのマリーの歌のような、冷涼とした美しいアリアを歌う。ベットに腰掛け、まったく孤独のカテリーナ。
服も脱いで寝ようとしたところへ、広間の横倒しになったタンスからセルゲイ登場。本を貸してとか言ってたくみに取り入り、寝室に入りこみ、抵抗を見せるカテリーナをついにものにしてしまう。
2階のバルコニーにバンダ数人登場し、激しい音楽となり、聞くものを興奮させる。有名な「ポルノフォニー」で、ははぁ、こんな場面で鳴るのかと納得。
舞台では、新国の紳士淑女の前て、セルゲイはズボンを下ろし、壁の片隅に追い込んで、ついで衣装ダンスの裏に回りこんでイタシテおり、タンスが移動して、最後は扉が開いちゃった。過激さよりは、滑稽さが先立ち、わたくし笑えましてよ。


第2幕
(連続上演)

部屋割りはまた変転して、寝室が右、厨房が左。
右では不倫カップルがベットの中。左は寝付けない爺さんが悶々としていて、不能の息子ジノーウ゛ィを歎き、自分が若ければと、真っ赤なソファーを女性に見立てて相手にするという倒錯ぶり。これもまたユーモアあふれる演出とワルツを使ったショスタコーヴィチのユニークな音楽に魅せられっぱなし。
 爺さんまたもや、ドアの下を覗き寝室の明かりを発見し、人の気配に姿を隠す。
満足しきったセルゲイが出てくると、ボリス爺さん、これをとっ捕まえたくさん出てきた他の使用人たちとともにセルゲイを鞭打ちの刑に。
これで息を切らせて死んじまうのではと思わせるくらいに、音楽に合わせて規則正しく延々と鞭打つ。
1幕での登場から、やたらと気になっていた高橋淳さん演じるボロ服の男が寝室のドアを開けカテリーナが飛び込んでくる。
嘆きとともにボリスへの憎悪をたぎらすカテリーナ。背中を血で染めたセルゲイは倉庫に閉じ込められ、その鍵を懐にしまう爺さん。
皆が去ったあと、カテリーナに強圧的になり、「腹減ったから、きのこ料理でもしろ」と命令。カテリーナはフライパンできのこをソテーしつつ、先ほどらい存在感のあったネズミ駆除薬をそこに振りかける。
出来たきのこを、うまいうまいと頬張るボリス爺。ほんと、うまそうに食器をカタカタ鳴らして食べるんだ。真近で見守るカテリーナ。やがて、ボリス爺は苦しみだし大声で人を呼び、司祭を呼べと命令。カテリーナは懐から鍵をせしめ倉庫へ向かう。やがて出てきた司祭は、いわゆる生臭坊主。
いい加減に告解を聴き、ネズミ薬でやられた、との言い分も聞き流す。
 ついに死んでしまうボリスに対し偽りの嘆きをガッツポーズとともにするカテリーナ。

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そして使用人たちも圧政から解放されたかのように同じ姿勢でお悔やみを歌う。
ともかく表層的な連中ばかり。
なかなかに深いラルゴによる間奏曲が入るが、幕は開いたまま、裏方作業員がぞろぞろ出てきて、足場を設営し、壁紙を花柄に替え、ベッドも豪華なダブルベット、天井にはギリシャ正教を思わせるような派手目の照明。ドレッサーに壁の絵に、最新式のテレビにと、次々に調度品を一新してゆき、古いものは、狭くなった倉庫に。
カテリーナが模様替え中に登場するが、髪は見事な髪金、豪奢なネグリジェに装飾品。
 鮮やかな転身と、舞台転換を見せることによるカテリーナの虚飾に満ちた心情と閉塞感からの解放を見事なまでに見せつけてくれた。

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セルゲイが帰ってきてテレビをつけると、プロレスが放映されていて、セルゲイはスナック菓子かなにかを頬張ってみている。
カテリーナが、セルゲイに迫るものの、彼はそっけない。気の毒なカテリーナ。
そして寝てばかりいるセルゲイ。
するとテレビがついて、画面には死んだボリス爺が出てきて恨み節を歌う。
おびえるカテリーナだが、セルゲイはまた寝てしまう。
 やがて、玄関に物音が。そう、ジノーヴィーが帰ってきたのだ。
この不能息子、親父のようにドアの隙間からカテリーナを窺ったりして、これまた笑を誘う。セルゲイはおなじみの洋服タンスに隠れ、不倫の噂を聴きつけ帰ってきたというジノーヴィーの詰問を受けるカテリーナ。

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セルゲイのズボンのベルトを見つけられ、彼の助けを呼び、二人がかりで、ベットの向こうでベルトで絞殺。
おまけにダメ押しとばかりに、セルゲイは斧を持ち出し振り下ろす。斧を持ってでてきたとき、客席からは失笑が・・・・。何もそこまで、という感であったろう。
当然、殺害者二人は血まみれ。1幕のゴミ袋に血まみれの何か(?)をいれ、死体はビニール袋にくるんで倉庫の古いタンスの中に収納。
やれやれと、血まみれのまま、寝室にもどるふたり。
何事もなかったかのように、スナック菓子を頬張るセルゲイに不安そうなカテリーナ。

第3幕

Ki_20002010_11  















着飾った二人に、モールを飾りつけ、チープなパーティ会場を準備する下女アクシーニャ。今度は右手が先の倉庫である。
倉庫への扉を気にするカテリーナに、気づかれないように注意するセルゲイ。
怪しむアクニーニヤ。
二人出ていったあとに、高橋さんのボロ服男が、ウォッカ片手に出てくる。社会の窓は開いてるし、へろへろで、酒を讃美しつつ妙チクリンな歌を歌う。
ロシアオペラで、ちょっと足りないテノール役が、狂言回しとなる前例は多く、ショスタコーヴィチもあえて意識したかのように、この役を投入しているみたいだ。
その彼は、思い出したように倉庫の鍵を取り出し中へ。ゲェー、アクシーニャとともに臭ぇ~っと。
やがて死体を見つけ、二人して血に染まったポリ袋を手に警察へ。
そこへカラフルな服をまとった自由を謳歌する使用人たちがやってきて激しく踊り、間奏曲へ。この爆発的なショスタコーヴィチ独特の音楽は、幕を下ろしてバンダが幕前に登場してオケとともに大いに盛り上がった。
これまた人を興奮状態に陥れるショスタコマジックなり!!

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警察署では、署長が結婚式に招待されなかった恨みつらみを歌いつつ、どこかで甘い汁は吸えないものか、事件はないかと、極めて不届きかつ悪徳の雰囲気を醸し出している。署員たちの動きも面白く、天井近くの映りの悪い(でもカラーなところが権力側のなさるところか)テレビを必死に写そうとしてる。そこにはカテリーナの結婚式の踊りの様子が映しだされる。警官の中にはお面をつけた妙なヤツもいる。
幽閉された妙なカエル博士が出てきて、体制への風刺とも読める場面もあるが、血染めのポリ袋をもった二人が訴えでてきて、これを待ってましたとばかりに署長はゴミ箱から花束を引っ掴んで現場へ急行!
 現場では、結婚式が始まったばかり。適当な司祭のもと、檀上のふたり。
使用人(群衆たち)は、手に手にウォッカの瓶をもって、合唱の声部ごとにその酒を飲みほしてゆく。司祭や群衆が徐々に酔っ払いつつも、何度も何度も「空に輝く太陽よりも美しいお方は」と、カテリーナに対して歌うが、彼女は気もそぞろだし、ついにはボリス爺の亡霊が出てきてウロチョロし、かの倉庫に消えてしまう。
 全員、酔い潰れ、二人はこのままではマズイので、ありったけの金を集めて逃げようということになり準備して戸口に向かうが、時すでに遅く警察が踏み込んでくる。
カテリーナは観念するが、セルゲイは逃げようとして、警察官たちにボコボコにされてしまう。

第4幕(連続して上演)

犯罪者としてシベリア送りの二人。
年老いた囚人(ボリス役のアレクセイエフの味のある名唱)の哀歌がなかなかに郷愁を誘う。シベリア鉄道ならぬ、トラック車のコンテナ2基がシャッターを開いていて、そこに男女別の囚人がのりこんでいる。
 カテリーナは警官にわいろを渡し、セルゲイと合うが、変わらぬ愛を求める彼女に、セルゲイは、お前とあったばっかりに俺の人生はとんでもないことになってしまった。由緒ある商家の嫁なんてとんでもない・・・と罵り責任を押し付ける。
見ている側も、こんなヤツとんでもねぇ、と思う。
ショックの彼女は、悲しい歌を歌い眠りにつこうとする。
かたや、セルゲイの野朗は、淫媚な囚人ソニェートカを誘惑し、見返りに靴下を要求される。彼女のストッキングは確かに穴が空いているし、カテリーナはオペラ冒頭から身に着けていたブルーのストッキングを履いている。
 セルゲイは足の具合が悪いのなんのとカテリーナの同情を引いてだましてブルーのストッキングを脱がしてまんまと手にいれ、その眼の前でソニェートカに小躍りして手渡す。
女囚人からも小馬鹿にされ、茫然のカテリーナ。軽薄な音楽とともにご褒美のお楽しみに姿を消すセルゲイ。
スポットライトがカテリーナだけにあたり、「このあたり森の深みに湖があって・・・・」と極めて深淵な歌を歌う。これには参った。
このオペラの主役たる彼女の孤独の悩み、そして転身、華やかな生活と愛、そしてそこからの急転落と、最後は信じた男の裏切り。
一筋の四角いスポットライトが、そのすべてを見事に照らしていた。

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勝ち誇ったように戻ってきたソニェートカに、手にした菓子を投げつけられたり、カスを袋からかけられたりと、さんざん愚弄される。
河の奈落に突き落とし、その後自らも飛びこむとあるが、この演出ではソニェートカを捕まえて舞台全面に引っ張ってきて、その頭を押さえこみ、自分もろとも舞台下の奈落に沈んでいく、という場面が施された。
 これを見て、ドンジョヴァンニの地獄落ちを思ってしまった。
どっちが、ドンジョヴァンニで、どっちが騎士長なんだろか?
 舞台から消えた二人。
こりゃ無理だわ、と警官。
何事ももなかったかのようにコンテナに囚人を押し込め、囚人たちも静かに幽囚の感を歌いつつシャッターが閉まり、歌声は消えてゆく。
大きなクレッシェンドとともにオーケストラの音も終焉を迎えた・・・・・。

                 

ああ、ヘヴィーなる一夜であった。

外来3人の圧倒的な歌唱はまずは文句なし。
ことにカテリーナのフリーデのスピントの聴いた歌声は、女性的な優しさも備えつつ素晴らしいものがあった。西部の娘のミニー以上のすさまじい歌唱に大拍手。
彼女、赤ちゃんでもいるのかしら??お腹がぽっこりでしたが・・・・。
 アレクセイエフルトシェクともに、声の存在感と悪意の歌唱がまったく素晴らしく、劇場を震わせていたと思う。
内山さんの息子役も、変質的に変貌してしまう様が見事。
 そして何よりもおなじみの高橋さんの性格テナーぶり。先ごろのミーメも大絶賛したが、今回の怪しげぶりの歌唱と演技もひと際目立つ存在だった!
 日本人にとって難しいロシア語歌唱。皆さん完璧。
それと毎度ながら、新国合唱団の威力をまざまざと見せつけられました。
今回の演目では、顔のない残酷な群衆も、重要な存在であるが、実に頼もしいものだった。

若杉さんに変わってピットに入った、シンケヴィチの指揮が予想外に的確かつ特徴的でよかった。完璧に曲を手のうちにいれており、よくぞこんな指揮者が見つかったものだ。
時おり指揮棒を置いて手だけで表情豊かに指揮する姿は、そのヒラヒラぶりからして師匠のゲルギエフそっくりだった。
 東京交響楽団のパワフルサウンドは、その完璧なアンサンブルとともに指揮者に鉄壁なまでに作用していて、ピットから出てくるショスタコサウンドは、私にとって驚きの連続だった。もう一方の楽団じゃなくてよかった・・・。

ということで、予習なしが功を奏し、素晴らしく新鮮な舞台体験とあいなりました。
ショスタコの交響曲同様、今後楽しめそうなオペラになりそう。
DVDやCD、第二稿の「カテリーナ・イズマイロヴァ」、第三稿映画版と、それぞれ楽しんでみたいものであります。
若杉さんは、来シーズン「ヴォツェック」あるし、それと合わせて是非とも指揮をしたかったのだろうな・・・・。
早く元気になって、ヴォツェックと影のない女を指揮して欲しいです

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2009年5月 6日 (水)

「ドレスデン・シュターツカペレに酔う」 ②

12 富士を背景に田植え。

これもまたゴールデンウィークの光景かも。

Wakasugi_wagner
ドレスデン・シュターツカペレの音の確認第2回目。

今日は70年代後半以降。
この頃から、東ドイツのレーベル「ドイツシャルプラッテン」や、そちらと「デンオン」の共同などによる録音が次々と出るようになり、EMIしか聴けなかったシュターツカペレの音が、腰の据わった素晴らしい音響で聴けるようになった。

ブロムシュテット ベートーヴェン 「田園交響曲」
グリーンなムード満載の気持ちいい田園。
こんなに作為のない自然なベートーヴェンってほかにあるだろうか?平和そのもののこうした音楽は、耳に心地よいとともに、辛くもある。
そう、いまやこんな音がどこにも聴けなくなってしまったから・・・・・・。
当時地味だったブロムシュテットが、真の巨匠となるなんて誰が予想したろう。
ドレスデンの指揮者選びは、現在まで、なかなか大したものだ。

ヤノフスキ ワーグナー 「ラインの黄金
80年から、ドレスデンの「リング」録音が開始された。それまで、ドレスデンでは、数十年も演奏されなかったリングの指揮を託されたのは、マレク・ヤノフスキ。
この人もまた当時、??の目で迎えられた指揮者。
オーケストラ・ビルダーとして、オペラ指揮者としての抜群の手腕を買われ、見事なリング録音を成し遂げた。ドリームキャストによる歌手陣の素晴らしさもさることながら、シュターツカペレが生みだす大河のように滔々と流れる豊かなワーグナーサウンドこそ、身を任せるに相応しいものはない。
巨大なドラマの幕開きの、混沌とした響きからやがてラインの流れが見えてくるような前奏からして、もう聴き出したらとまらない。こうしているうちに、ウォータンが登場してヴァルハラのテーマが勇壮に響き出した。なんて素晴らしいホルンに金管なんだろう。

若杉 弘 ワーグナー 「ローエングリン」前奏曲
若杉さんが、ドレスデンの音楽監督になった時、それは驚いたもんだ。
西ドイツで活躍中で、ケルン放送やデュセルドルフの音楽監督をしてはいたものの、かの名門の指揮者になるとは!
そしてすぐさま、このワーグナーが録音された。若杉さんの精緻さと、オケの清冽で気品ある響きがえもいわれぬ崇高なワーグナーを生みだした。

K・クライバー ウェーバー 「魔弾の射手」序曲
DGの録音を通じての付き合いだったが、オペラティックな感性に秀でたカルロスとドレスデンは抜群の相性だった。ドレスデンゆかりのウェーバーの音楽が、こんなに生き生きと弾み、どこをとっても音楽に血が通っていて無駄なものがひとつもない充足感。
ここまでされて息詰まることのがないのが、カルロスの凄さだし、有機的なオーケストラのなせる技。松やにの飛び散るような弦、弾む管にうるさくならない金管の響き、たたみ込むようなクライマックスに、今しも幕が開くかのような感興に震える。

デイヴィス フンパーディンク 「ヘンゼルとグレーテル」序曲
バイエルン放送とともに、デイヴィスはドレスデンでも重要な地位を占めた。
穏健派のジェントルマンでありながら、熱き情熱も併せ持ったディヴィスは腰の据わった重低音のうえにピラミッド型の音響を築きあげる人だ。
同じドイツオペラでも、カルロスの俊敏な響きとは大いに異なり、どこか懐かしいドイツのオペラハウスの音がする。
フンパーディンクの深い森を思わせるような優しく暖かい音楽が、まったく過不足なく響いていて、これもまたシュターツカペレの持ち味なのだと痛感。

シノーポリ R・シュトラウス 「火の欠乏」愛の情景
ドレスデンが自分たちの指揮者に選んだのがシノーポリ。
当初奇異に思われ、その個性も水と油のように感じたが、年を重ねていくうちに先鋭さを残しながらも、味わい深い、でもちょっと味付けの濃い音楽を作り出すようになったシノーポリに、シュターツカペレがピタリと寄り添いユニークな演奏をするようになった。
それはまだ始まったばかりで、この先どうなるか、楽しみなコンビだったのに。
このコンビのシュトラウスは、主にそのオペラが絶品で、歌手以上にドラマを語り尽くしてやまないものだった。
おそらく、シュトラウスの全オペラに、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニもすべて録音してくれたはずだ・・・。

ハイティンク ウェーバー 「オベロン」序曲
シノーポリの急逝により、ドレスデンが選んだ指揮者は、ハイティンク。
あとで納得するものの、奇異な人選を繰り返すドレスデンの選択に、今回ばかりは、誰しも大納得。しかし、本人もあくまで代打と公言していたとおり、あっさり退いてしまったところがハイティンクらしいところ。内実はルイージ体制がうまく機能しはじめたおり、かまわないだろう。
冒頭の柔らかなホルン、ほのかな弦、踊るような木管の合いの手・・・・、まさにオベロンの世界、夢幻境に誘われるようなオーケストラの美音である。
続くアレグロの主部もハイティンクの造りだすふっくらした音楽のイメージにピタリピタリとはまっていく思い。ほんと、素晴らしいです。
もう少しハイティンクが若ければ、長期熟成の黄金コンビになっていたかも。そう、コンセルトヘボウのように。

ルイージ R・シュトラウス 「ばらの騎士」終幕
現在のシェフ、先日聴いたファビオ・ルイージ。
才能あふれるオールマイティ指揮者。いまのところ死角はないように感じるが、慢心せずじっくりとこの素晴らしいオーケストラと付き合っていって欲しい。
ガランチャのアリア集の最後を飾るこの終幕場面、ピエチョンカ、ダムラウといった今や花形歌手を揃えた贅沢な12分間の音のご馳走。
 ウィーンもミュンヘンもいいけど、「ばらの騎士」を聴くのに最高のオーケストラ。
そして女声3人は、まさにドルチェでございます。
あとは、カルロスの色気やハイティンクの年輪が出てくれば文句なしのルイージ(後者は難しいけれど)。

3

眩しい陽光の中の富士の頂き。

14

夕闇迫る富士の頂き。
こんな光景を見ながら、温泉に入っちまいました。

「御胎内温泉」であります。
最高の温泉ですぞ。

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2009年5月 5日 (火)

「ドレスデン・シュターツカペレに酔う」 ①

5 この連休中、手近ではあるけれど、実家に帰り、好天のもと、御殿場・箱根方面に車を走らせた。
御殿場富士霊園は、そこにご縁がなくとも、普通に景色や花々を楽しめる巨大な公園。
こんな素晴らしい自然に囲まれて安らかに微笑んでみたいと思ってしまう・・・・。

15 最近、清水由貴子さんのことがあったばかり。
でも何度も訪問しているこの場所。普段と変わらず、富士の頭が見え、桜が終わって、今やツツジが満開。心晴れる素晴らしい場所。
お隣のレース場の音が、現世の賑やかさとの接点。

Karajan_meistersinger 連休前に聴いた、ルイージドレスデンの素晴らしいR・シュトラウス。
ずっとその音が耳に残っている。
その残影があうちに、歴代ドレスデンを指揮した指揮者たちが、シュターツカペレからどんな音を引き出していたか、そしてレーベル各社はどんなカペレサウンドを捉えていたか。
意識して、オペラ系統を選んで手持ちの音源で聴いてみた。

戦後は東側のヴェールに一時包まれてしまったこともあって、モノ時代の録音がほとんどない。
SP時代の音源は持ってないので、60年代以降であることが、ちょいと残念。
録音年代は順不動で、シュターツカペレとの係わりあいの古い順を想定して聴き進んだ。

ベーム モーツァルト 「イドメネオ」序曲
堅固な厳しい中に、そこにはみでる柔和な表情は、ウィーンとのベームの顔そのもの。
このコンビによるモーツァルト・オペラは地味な3作が残されたが、こちらではウィーン
よりも生真面目なセリア系のオペラゆえか、剛毅さの中に微笑みがあるカペレサウンド。

スウィトナー モーツァルト 「魔笛」序曲
われわれにおなじみの指揮者の演奏。ベルリンのリンデン、N響それぞれを通じて長く親しんできた柔らかでマイルドなモーツァルト。弦楽のふくよかな響きと木管・金管の三和音が全然刺激的でない。昨今のピリオド奏法なんて、まっぴら。

ザンデルリンク ブラームス 「悲劇的序曲」
これは、渋い。音楽好きが頭に浮かべる、いぶし銀のブラームスのイメージそのもの。
重厚でいかにもドイツ的ともいえるけど、意外ともいえる明るさがあるのがザンデルリンクかも。

ケンペ R・シュトラウス 「ばらの騎士」ワルツ
ケンペは団員だったから、その付き合いでは一番長いし、音楽性も均一。
最強のカペレ指揮者かも。シュトラウス全集は、このオーケストラとシュトラウスを愛する聴き手にとって、宝物のような存在。
ダムのホルンの輝かしくもなめらかな咆哮で始まる「ばら騎士」。いやもう、このままめくるめくマルシャリンとオクタヴィアンの熱い情事に突入して、ほろ苦い別れの感傷にまで引っ張ってもらいたい・・・・。ほんまにすばらしい。
ケンペが独自に編んだ17分の抜粋は、さながら「ばら騎士」のダイジェストで、シュターツカペレの芳香あふれるサウンドが満載。
ウィーンフィルが、J・シュトラウスのワルツを自分たちの音楽として奏でるように、R・シュトラウスは、ウィーンやミュンヘンもいいけれど、ドレスデンの自家薬籠中の音楽なんだ。

カラヤン ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
70年に、カラヤンが東側に渡りレコーディングをした。東西混成のカラヤン好みの歌手たちを勢ぞろいさせての録音は、主役がカラヤンになるはずだった。
でも、それはドレスデンの歌劇場のオーケストラの素晴らしさを世界の音楽愛好家の隅々にまでわかりしめる結果となった。
テヌートぎみのカラヤン芸を聞かせはするが、どっこい音色は手兵のような華やかさはなく、渋く落ち着きあるサウンド。惜しむらくは、一部の歌手が古臭いのと、EMIの録音の薄べったさが気になる。
ケンペのものと合わせ、DGかフィリップスだったらと・・・・・・。
そして、指揮が当初予定されてバルビローリだったらと・・・・・・・。

サヴァリッシュ シューベルト 交響曲第5番第2楽章
サヴァリッシュとカペレの関係はあまり知らないが、ドイツロマン派の録音において、最高の組み合わせだった。学者の風貌で、知性の打ち勝ったようなイメージのサヴァリッシュ。
抑制の利いた響きとともに音楽やドラマの本質を見据えて指揮する姿は、今や懐かしい。
シューベルトの歌心を、くすんだオケの響きとともにさりげなく聴かせてくれちゃう。
シューマンとともに、このシューベルト全集も評価されていい一組。

Abbado_dsk アバド ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」
この組み合わせは、一期一会的なもので、第3交響曲とともに、唯一の1枚。
アバドを愛する私ゆえ、取り上げましたよ。
この組み合わせがいいのやら、悪いのやら?これだけじゃわからないけれど、アバドは全体のまとまりを大事にしつつ、かなり歌っているし、強弱のバランスも素晴らしく、弱音における歌心は40歳のこの時期ならでは。
対するオーケストラは、アバドの指揮に応えつつも、かなり堅固なアンサンブルでちょっとお堅いところを見せているところがおもしろい。
このコンビ、後年のシノーポリ、ルイージのようなイタリア組の先駆けになった可能性もあって、これだけで終ってしまったのが残念。

今日のところはここまで、明日は70年代後半以降のシュターツカペレの音を確認します。

8
さきのつつじ。
手入れが行き届き、きれいな光景がいたるところに。
上に梵鐘があって、誰しも祈りとともに鳴らすことができる。
5分は続く残響を自ら鳴らした鐘で楽しめる。
  

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2009年5月 4日 (月)

怪しい「にゃんにゃん」

Nyannyan なはははぁっ

これは笑った。
千葉県八街市で発見のラーメン屋さん。
この近くで立ちながら打ち合せしてたら、相手の方が、あの「にゃんにゃん」はこの前泥棒に入られたとか、「にゃんにゃん」の先の交差点は事故が多いの、どうのこうのと、ことあるごとに「にゃんにゃん」というものだから、わたくし、笑いをこらえるのに苦労しましたよ
今度、実食レポート行きます。
でも、怖ぇ~な。。。。

Neko

夜のねこを、フラッシュたいて撮るとこんなになっちゃう。

ねこは、瞬きしないし、夜で目を見開いているから起きる赤目なんだろな。
車の下に逃げ込み覗き見るの図。

Hama_neko
これは、再登場の笑える赤目にゃんこ。
声がするから見上げたら、屋根の上から覗かれてたの図。

怪しいヤツ。

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2009年5月 3日 (日)

シューベルト 歌曲集「美しき水車小屋の娘」 ヘフリガー

Fuji_1 年々、花の旬の時期が早まってる。
5月の連休のイメージがある藤の花もすでに盛りを過ぎてるし、ツツジやサツキももう満開。
人の家をちょちょいと撮影。
失礼をばしました。

ああ、酔うほどに濃い香りに陶然とするオヤジ一人。

Schubert_die_schone_mullerin_haefli

春の盛り、いやもう陽気は初夏だけど、敏感な青春譜のような、シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」を聴く。

それにしても、シューベルトは31歳にして亡くなっちゃったなんて想像もつかない。
なのに残されたその作品ときたら、あらゆるジャンルにほぼ1000近くの曲を残したのがすごい!
そして、そのすべてに即興性と豊かな詩情があふれ出ているところがまたシューベルトの魅力。
 でも忘れてならないのは、そこに常に潜んでいるのが「死の影」だ。モーツァルトの悲しみの影より、時にそれは深く感じることがある。
彼が選びとる歌曲の題材からも、それは強く感じる。

以下は、以前の記事からの引用・・・・

元気良くさすらいの旅に出る若者だが、親方の娘に恋をし、恋敵、狩人の出現から陰りある雰囲気になってくる。最後は恋破れ、身を投げてしまうが、水車を回す小川だけがいつも彼を見つめ、優しくつつんでくれる・・・。何も死ぬことはないだろうが、こんな多感な気持ちを今の別次元の若人には理解できまい

私のようにちょいと古い世代、若い頃には携帯もパソコンもネットもなく、意志の伝達は固定電話か手紙や電報しかなかった。あと伝書鳩なんかも(笑)

感情の持ち方、表し方は、時代とともに変遷する。
それは文化文明の進歩とともに当たり前のこと。
でも愛し愛され、人を思い、同情し、そして悩む。人間として当たり前の感情に変遷があってはならないだろう。
心やさしいシューベルトの音楽が、ジワジワと心の襞にしみ込むのを感じながら、不安に満ちた世知辛い世の中が虚しく思えてきた。

ミュラーの詩とは関係ないが、「相田みつを」の詩をひとつ。
こちらも、しみます。

  つまづいたり ころんだりしたおかげで
  物事を深く考えるようになりました

  あやまちや失敗を繰り返したおかげで
  少しずつだが
  人のやることを暖かい目で
  見られるようになりました

  何回も追いつめられたおかげで
  人間としての自分の弱さとだらしなさを
  いやというほど知りました

  身近な人の死に逢うたびに
  人のいのちのはかなさと
   いま ここに
  生きていることの尊さを
  骨身にしみて味わいました

エルンスト・ヘフリガーの折り目正しい誠実な歌で聴く水車小屋。
前向きに元気な若者の旅立ちを歌う冒頭では、かなり飛ばしているように感じるヘフリガーの歌。詩が進むにしたがって、若者の心に陰りが差してくる。
ヘフリガーは、そのあたりの機微をやさしく生真面目なまでにとらえて、若者に付かず離れず、聴きようによっては冷静に歌いこんでいる。
でも、ザ・エヴァンゲリストとも言えるヘフリガー、そこににじみ出る深い同情の影と優しい眼差しはとても暖かい。
 ピアノはエリック・ウエルバ。60年代後半の録音。

過去の記事
 
 「ヴンダーリヒの水車小屋」

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2009年5月 2日 (土)

ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏会 ファビオ・ルイージ指揮

Dresden2009

ファビオ・ルイージ指揮のドレスデン国立歌劇場管弦楽の来日最終公演を聴いた。

R・シュトラウス

 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

 「アルプス交響曲」

     (5.1 @サントリーホール)


今回の来日6公演の中で、唯一演奏された「アルペンシンフォニー」、最後の公演とあって、オケも指揮者もその気合いは尋常でなく、演奏も神々しいまでの大名演となった。 こんなすごい演奏の後にアンコールはいらない。誰しもそう思ったであろう!

譜面は用意されていたけれど、ブラボーが乱れ飛ぶ大拍手を心から感謝しつつも、ヘヴィーな2曲を演奏しきったオーケストラに引き上げをうながすルイージ。
でも拍手はなりやまず、楽員が去ったあと、ルイージは、コンマスほか数人を引っ張って登場。
最後はひとり声援を受けていた。
私も含めて、それくらいに大いに讃えたい素晴らしいアルペンだった

1 まずこの演奏者にとってハードな2曲。
オペラも神話やお伽話、旧約などの題材ばかりで、無神論者だったシュトラウスのニーチェへの傾倒ぶりをあらわした、大作ふたつを並べたプログラミングの妙。
そしていずれも深長に静かなエンディングを迎える動と静のくっきりした曲。
シュトラウスの本領は15作品あるオペラにあると確信しているが、ほとんどの交響作品が晩年まで書き続けたオペラに先立って書かれている。
でもしかし、それらの交響作品もオペラも同じシュトラウス・ワールドであることに、最近つくづくと思うようになった。
それをもっとも感じるのは、アルプスと家庭に英雄の生涯。

ジェノヴァ生まれのイタリア男ルイージは、歌の情熱と知的な抑制が不思議にバランスのとれた、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの指揮者となったが、そのルイージと、歴史あるドレスデン・シュターツカペレのいぶし銀サウンドが、どういうマッチングを示すのか。
2007年来日時には「ばらの騎士」と「ワルキューレ」1幕を中心とするオペラ抜粋のコンサートを聴いたが、抜群のオーケストラコントロールと、音の開放感と劇性をもったルイージに驚き、オーケストラは美しいものの、もう少し熟成の時間が欲しいとも思った。

今回の印象は、2年前と実はあまり変わらない。
というか、これはこれでいいのではないかと思ったのだ。
相変わらず、大きな動きで細かいところまで細密に振るルイージの棒は、オーケストラに先んじて動いているように見える。ドイツのオケによくある光景ではあるが、出てくる音たちは、楽員が全員それぞれ聴きあい、確認しながらのものなので、完璧なまでに揃っているし、ルイージもそれがわかって振っている。
ソロのひとつひとつまで、細かに指揮を付けて振り分けている芸当に驚きもしたが、まさにオペラの住人ならでは。
歌の呼吸を持ったこのオーケストラとの相性はこういったところに見てとれる。
レパートリーも含めて、シノーポリの姿を見ることもできる。

「ツァラトゥストラ」は、慎重な出だしで前半よりは後半が俄然よかった。
特に舞踏の歌の弾むようなノリのよさと、弦楽のあまりの優美で美しいさまには陶然たる思いで浸ることができた。

3 そして「アルプス」である。
「始めちょろちょろ、中パッパ、赤子泣くとも蓋とるな」+「終わりもよければすべてよし」(これは私がプラスしました(笑))
こんなお米を釜炊きする基本の心構えのような曲であり、演奏。
弱火で初めて、中間で火を強めて、でもどんなに吹いても蓋はしたまま我慢我慢。
そして、最後には心が洗われるくらいに白く立ったおいしいご飯が炊ける。
この極意、最後に必ず、澄み切った心境に達し解脱のエンディングを迎えるシュトラウス・オペラに通じております。

 こんなわくわくドキドキの、登山に下山。ドレスデンの美音が、あらゆるところで炸裂。
このオーケストラ、ハイティンクの時に聴いて驚いたのは音がやたらとデカイこと。
今回もそれを感じたが、全然うるさくなくて、どこまでも音が澄んで聴こえてとがっていない。
登頂の圧倒的なクライマックス、大振りするルイージに応えて、オーケストラは全身でもって演奏して渾身の演奏。それでもすべてのセクションがよくお互いを聴きあいながら、大爆発の手前くらいに抑えているように思える音。でも大音量なのですよ、これが。
それだけ、音が明晰でブレンド感が豊かだということ。ルイージ効果でもあり、このオペラオケの特徴ではなかろうか。
 弦楽の紗がかかったような懐かしくも温かな音色にしばしば聴きほれ、ブリリアントなホルンも顕在、トランペットの柔らかさ、同質性に貫かれたウィンドセクションのえもいわれぬブレンド感。ことに終曲の感謝に満ちた場面での澄み切った弦とオルガンに導かれ、ホルン、トランペット、木管群、そして弦楽にと、素晴らしい歌が歌い継がれていく場面。
ここがほんとうに、特筆大に素晴らしかった。一編のオペラのエンディングを観るかの感覚におちいり、私は涙がにじんでしまった。
叫ばないブラボー一声は決まったが、もう少し待って欲しかった。
まだルイージは、手を降ろしてなかったんだから。

先頃のエド・デ・ワールトのアルプスも素晴らしいものだったが、N響はやはりドレスデンの前では分が悪すぎる。
ルイージはN響、新国、ウィーン響、ドレスデン2007とこれで6度目だが、次はヴェルディとワーグナー、シュトラウス晩年のオペラに接してみたい。
来春には、ウィーン響とまたやってくる。どんどんいい指揮者の顔になってくる。

Pollini 休憩時間に深呼吸しにホールの外へ出てみた。
そしたら皆さん、煙草プカプカ。
猫背のじーさんが、やたらウロウロしながら煙草をふかしている。
よくみたらなんと、ポリーニさまじゃぁあ~りませんか。手ぶらでサインもらえず、写真撮っちゃいましたよ、ボケボケだけど。


Dsc04542jpg_1

アーク・カラヤン広場では、英国風のバラ園が。
夜でもきれいでございましたことよ。

※ルイージとホール演奏の画像は、ドレスデンゼンパーオーパーのHPより拝借しております。

蛇足ながら、今秋のヤンソンスはバイエルンの番。チラシ入っていた。
しかし、なんでソリストが、ヨーヨーマと五島みどりなんだ
せっかくワーグナーやチャイコの5番をやるのに、チケットがばか高い。
ちょっと怒ってます。

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