« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月30日 (木)

ブルックナー 交響曲第9番 朝比奈隆&若杉 弘 指揮

Dsc01245夏のお蕎麦は、「つけとろ」がいい。
ワタクシは、このすりおろした山芋に、蕎麦汁を入れても、かき混ぜないで、分離したまんまのところへ、蕎麦を絡めてつぃーっとたぐるのが好き。
徐々に汁と山芋とろろが混ざってきておいしいんだ

こちらは、静岡で食べた蕎麦。
静岡といえば、丸子(まりこ)宿の「むぎとろ」が有名。
ここらの、ねばりの強い風味豊かな山芋を擦りこんだものに、味噌と出汁を加えた「とろろ汁」。これに麦飯がもう、やたらめったらウマいんだよう。

Sym9_asahina ブルックナー(1824~1896)の交響曲シリーズ、遅々としながらも最終の第9交響曲であります。
第8番の完成と同時に作曲が始められたのが1887年。
ブルックナー63歳。
しかし、同時にその8番の大幅な改訂、かつての1番(!)や3番の改訂などに取り組んだから、なかなか9番の作曲ははかどらなかったらしい。

ブルックナーが亡くなったのが、72歳。
9年の歳月をかけつつも、完成には至らなかったわけだが、この誰しもが先へ進めなかった第9を、こんなにまでも完了系の形で残し、その先の10番をまったく想像もさせもしないのが、ブルックナーの第9だと思う。
しかも、終楽章を欠いて、アダージョ楽章でこんな完結感をもっているなんて!

これは、まさに悟りの境地へ達した「彼岸の音楽」である。
音楽もそのひとつとして、あらゆる創造者がおのずと達してしまう高み。
すべてを極め尽くし、無駄も排し、すべては自己の音楽のみに奉仕してゆく境地。
この曲の第3楽章は、8番の延長ともとれるが、そういった神々しいすべてを極め尽くした音楽に感じるがゆえ、日頃からちょいちょい聴ける音楽ではないかもしれない。
音楽も破綻すれすれのギリギリ感を感じてしまうん。

マーラーの第9の終楽章とも、その旋律に類似性があるが、マーラーの音楽は「死」と隣り合わせ。死のあとには何もない即物的なもの、悲宗教的なものを思わせる。
ブルックナーは、「死」へ至る「生の浄化」に主眼があるように思える。

壮絶な第1楽章、かっこいいと思ってしまうのは不謹慎でありましょうか。
冒頭、弦のトレモロ開始とともに、ホルン群が奏でる勇壮な旋律、徐々にクレッシェンドしていって、最高のクライマックスが築かれる。ここでのティンパニのキメ打ちもいい。
それから、音楽は弱まり、わずかに休止したあと、弦によって歌うような素晴らしい第2主題が登場する。ここでの高貴な祈りに満ちた雰囲気は前段との対比もあってとても感動的。これらふたつの主題が絡み合いつつ、まるで歌いあげるようにして進行する長大な1楽章。
わたしの一番好きな場所は、最後の大詰めの場面で、ものすごいクライマックスのあと、ホルンが残り孤高の響きを聴かせる場面。
そしてカタルシス。その後のヒロイックなまでの音楽の運びにいつも涙が出そうになる。
その終結は無常なまでに崇高かつ非常・・・。

野人を思わせる激しいトゥッティが交錯するスケルツォ楽章。
初めてこの第9を聴いたときは、この楽章ばかりが耳に残ってしょうがなかった。
いまよく聴いてみたら、「はんにゃ」の「ずぐだんずんぶんぐん」にとても合うことを発見してしまった。こんなこと思って聴いてるって不謹慎でありましょうか。

終楽章に関しては、私は言葉を失う。この白鳥の歌ともいうべき音楽は黙してただひれ伏すように聴くのみ。
「愛する神に捧げるつもりで書いた」とされる第9交響曲。
この楽章は、神の前に額づく弱者たる人間が葛藤に苦しみつつも、やがて浄化されて平安を見出す姿を思う。
その浄化の場面で、第8交響曲の神々しい第3楽章と同じ旋律が回帰してくる。
さらに、第7交響曲のあの冒頭の旋律までもが姿をあらわす。
期せずして、自己の総決算を行ってしまったブルックナーに、この先の音楽は書けなかった。
私は、このあとに、テ・デウムなんて絶対聴きたくない。
そう思うのは、ファンとして不謹慎でありましょうか。

今回のこの記事、途中まで1か月前には書きあげていて、朝比奈盤や複数のヴァント盤、アバド盤、ワルター盤などを聴きつつあった。
だが、なかなかに筆が進まない。
音楽が重くのしかかりすぎた。

シリーズ最後を、朝比奈御大に敬意を表して、そのNHK交響楽団への客演ライブで締めくくろうとは、ずっと思っていたこと。
2000年5月のライブ、おやっさん92歳!
驚くべき精神力でもって貫かれた渾身の指揮ぶりは、優秀なN響を得て、双方熱くなった演奏となって結実した。この曲が初めてのブルックナー演奏だった朝比奈氏も彼岸を思い指揮していたのだろうか。
N響の圧倒的なパワーが響きの少ないNHKホールもあってか、このCDは非常にリアルな音の塊が聞かれる。実をいうと、それがやや不満で、もうちょっと響きに潤いが欲しいところだったりする。
こんな贅沢を思いつつも、やはり日本人がなしえた、西洋の神からは遠いが、八百万の神的崇高さを感じる・・・・。

Wakasugi_a そして先週惜しくも亡くなられた若杉弘さんのCDRを先週来何度も聴いている。
2007年の暮に東京フィルに客演したおりのライブ。
このときは、未完成とともに演奏され、別の日には、マーラーと新ウィーン楽派を取り上げるといった若杉さんらしいプログラムで、両方ともどうしても行きたかったけど、断念した心残りの演奏会。
これらはふたつとも、NHKが放送してくれて、私はとてもいい状態でCDRに残すことができた。
 これがしかし、あまりにも素晴らしい演奏なのだ。
ちょっとしたキズはあるけれど、最初から最後まで気のこもった、すさまじいまでの力の入れようで、全編にわたって若杉さんの唸り声まで聞こえる。
若杉さんは、インテンポの人だと思い込んでいたけど、最初から結構テンポを揺らして思わず手を握るほどの緊張感や開放感を生んでいる。
それらが小手先でなく、真摯なまでに音楽に共感し、寄り添ってているような演奏ぶりなので、聴き手の胸にぐいんぐいんと迫ってくる。
東フィルってこんなにすごかったっけ、とも思わせるくらい。
この若杉さんの文字通りの白鳥の歌、ブルックナーを通して神を見たかのような壮絶な演奏である。サントリーホールの音響をよくとらえた録音も放送音源とは思えないほど。
是非、CD化を

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009年7月29日 (水)

「ドイツの子供のうた」 ルチア・ポップ

Skycloud_1 日曜日、晴れた空を見上げたらこんなだった。
都会にいると、めったに空を見上げることがなくなった。
私の実家や今住む家はそこそこ田舎なので、窓からこんな空が眺められる。

こんな雲を大人はぼぅ~っと見てるだけだけど、子供はいろんなイマジネーションを働かせちゃう。

Skycloud_2 数秒後には、もう姿を変えてしまう。

雲を眺めて音楽にした作曲家・・・、ドビュッシーにホルスト、あと誰がいたかしら?

Popp_deutschen_kinderundwiegenliede ブラティラヴァの名花、ルチア・ポップの歌を聴きましょう。
いまさらながらに、その早すぎる死は惜しまれますが、いくつも残されたその音源を通して、彼女の伸びやかでイヤ味のまったくない歌声は私たちをいつまでも魅了してやまない。

オルフェオレーベルに83年に録音した「ドイツの子供の歌」。
ドイツの童謡とも言ってもいい、やさしくも懐かしい歌が23曲も収められていて、疲れた体や耳に心地よいことこのうえない。
 童謡といっても日本で思う童謡とはちょっと違う。
解説にもあるが、民謡やフォークソング、そして子守唄のような子供から大人まで楽しめる、そして口ずさめる歌、といったジャンル。
「ブンブンブン蜂が飛ぶ」や「霞か雲か」のようにあまりにも耳に親しい単純なる歌から、ブラームスの子守唄のような本格クラシカルまで、次から次へと歌われ、最後には心安らかにお休みなさい、の心境になります。
お休みまえのひと時にうってつけ。
でもいくつかの子守唄の歌詞には、おっかない内容のものやシニカルなものもあったりして、大人の子守唄としても受けとめることもできるかも・・・。

ここで聴くポップ、天が与えたかのような愛らしい歌声は清純無垢そのもの。
加えて、本格的な伴奏(ミュンヘンの器楽アンサンブル)がなかなか雰囲気豊かで聴かせるし、ギターやツィターもちょろりんと登場して、こりゃ南アルプスの世界も味わえちゃう。

オジサンのわたくしも、これでいい夢が見れようというもの。
いい夢見ろよ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年7月27日 (月)

ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」 バーンスタイン指揮

Nantsutei3_2 ご無沙汰してしまいました。
親戚の法事があって、週末は神奈川へ。
うまいこと地元方面に仕事もあてこんで、本日帰宅。
 今日、秦野のあたりをうろちょろしてたので、絶好のタイミングと思い、高名なるなんつッ本店に行ってきましたよ。
熊本ラーメンなんだけど、あちらで食べるよりはるかにウマい。
マー油がたっぷり浮いて真っ黒けっけなんだけど、見た目のインパクトと異なり、味わい深く、私には優しい豚骨味。
もう歳なんだからイケナイと思いつつも、結構スープ飲めちゃいますよ。
Nantsutei
これ、道路沿いの看板。
たしかに、うまいよ、ベイビー」

食後、今日一日、あんまり胃がもたれなかったのもうれしい。

Niji 今日の行動は、実家→大礒→茅ヶ崎→秦野→伊勢原→海老名→綾瀬→横浜→首都高→東関東→千葉。

ふだんこんなことは朝飯前の行動だけど、途中から結構な雨に往生した。
でも、綾瀬の基地の脇を走っていたら、空にはこんな、途切れた虹が見えた。
さっぱりと、いい気分でありました。

Stravinsky_firebird_bernstein

久し振りの音楽、でも車を運転しながら結構聴いてますがね。
いくつも書きかけの記事があるけど、今宵はそれらを補完する気分にもなれず、軽く短めの曲を。
ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲

全曲は、ほんと、稀にしか聴かない。
それもブーレーズとサロネン、小沢しか持ってない。
てっとり早く、気分も高揚できるし、クールな子守唄なども夢見心地に楽しむなら、組曲版。
一般的には、2管編成に縮小した1919版が多く、今日のバーンスタインイスラエルフィルのDG盤もその版によっている。
編拍子が吹き荒れる、カスチェィの踊りから子守唄は、フォルテで終わりつつも、そのままつなげるのが耳になじんだ演奏だが、このCDは完全休止してから、子守唄が始まる。

84年の録音は、一連のDGへの再録音の一環だが、老獪にねっとりやるかと思ったら、思いのほか普通にスケール豊かな演奏になっている。
終曲の盛り上がりも以外にあっさりと終ってしまう印象がある。
デッドな響きの録音もそれに輪をかけているのかもしれない。
こうした聴き手がいやがうえにも期待してしまう、ドラマティックな場面はあっさりと流しつつ、この組曲のふたつの静かな部分、「王女たちのロンド」と「子守唄」が、なかなかにリリシズムあふれる味わい深い演奏に感じられるのであった。
そして、レニーもよく唸ってます。
これと反対に、大いに、しかも感動的に終曲を盛り上げているのが、ニューヨークフィルとの57年の1回目の録音。スリルとドライブ感ではこちらの方がすごい。
イスラエル盤は味わいとともに、マッシブな力強さを感じる。
人間、人生を経るとやはり変わるもんだ。
どちらも、巨大な火の鳥が大空を羽ばたくのを見送ることができる。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年7月23日 (木)

「にゃんにゃん」夜の会議「日本のオペラ界はどーにゃる!」

Dsc06417 「今日、集まってもらったのは他でもにゃい。
若杉弘さんが亡くなってしまって、日本のオペラ界を誰が引っ張っていくにょかをだにゃ、これをみんなではにゃしあいたかったのにゃ。」

Dsc00413 「え~ぇっ
「そんにゃの、わかんにゃいよ~」
「そんにゃこと、急に言われたって、若杉さん、亡くなるの若すぎーッ

Dsc06409
「ふん、そんにゃことかい。そりゃおめぇ、そんにゃのおにょに決まってんにゃろめ」

Dsc06420 「おい、おめぇ、そりゃ、大野だろが」

「また酔っ払ってやがんにょか

Dsc06410 「ぎゃん、るせーよ。おおにょ、で決まりだっちゅーの。
おら、けーるにゃ」Dsc06412
「でも、あいつの言ったことは正しいぜ」

















Dsc00412_2 「おっ、長老、そこにおりやしたか」
「でも大野は、海外にオペラのポストもってるし、日本での活動も限られるじゃにゃいですかい」
「おまけに、さらにゃる上のポストを狙えるし」

「そう、そういえば、ヨーロッパのにゃんこは何食ってんですかねぇ





Dsc06415 「ばかも~ん、関係にぇ~だろが」
「おれは、やはり新国次期音楽監督の尾高に期待したいにゃぁ」

Dsc06416
「おいっ、おめぇ、さっきから取材してるおまえ、カメラばっかり映してにぇーで、なんか言ったらどーにゃんだ

さまよい人「あ、はい、あのう、尾高さんは、コンサート指揮者のイメージが強いけど、ほんとはオペラが好きなんです。
わたし、昔、尾高さんの指揮する『タンホイザー』を観たことがあるんですが、しっかりした指揮でしたし、BBCのCDで、『神々の黄昏』を持ってるけど、そりゃすげぇ演奏ですにゃ。(あれ?)
それと、新国でブリテンの『ピーターグライムズ』をやりたいって言ってるくらいだから、得意の英国ものを披露してくれるんじゃないかと。
『ピーター・・』は、厳しい北海の漁師の物語なんですよ」

Dsc06419

「えっ、漁師の物語だって、それって魚臭いのか?」
「君、カメラマン君、もう尾高でよいから、私たちをピーターグライムズに招待したまえにゃん」

Dsc06413 「わしも、連れていってくれい

「えっ、長老まだそこにいたんですかい? それにしてもお疲れじゃござんせんかい。」

Dsc06421

「ちょっと待ってよにゃん」
沼尻クンを忘れてにゃぁい?」
「琵琶湖を継いだホープよ、シュトラウスもヴェルディも振れるわよ」
「あと、佐渡ヒロシも活きがいいわよ、これから勉強してますますおっきくなるわよ。そうそうそれに、バイロイトでこけちゃったけど、大植も忘れないでよあなた。あと上岡ちゃんに、現田もよ、にゃぁ~ん」

Dsc00414

「むーーーん」
ざわざわ・・・。

あんたどっから来たの??

飯守じゃぁ

(出席者たちは一様におぉぉ~っと、感心のため息)

Neko2
さらにもう一言。
小澤御大じゃわい」

(出席者たちは、シーーンとしてしまう)
小声で、「本物もいいが庶民目線が欲しいにょう。新国にもリーズナブルに登場すべきにゃな」

一同、ははぁーっ

Dsc06417_2 「ではこのまとまりのにゃい、にゃんこ会議をまとめてみるか」

「大野を待ち望みつつ、尾高にコンサートからシフトしてもらい、魚臭のオペラを皮切りにワーグナーとシュトラウスを受け持ってもらい、沼尻・現田がサポート。
佐渡&大植には関西にオペラを根づかす独自プロジェクトを担当してもらおう。
飯守大先生には、荒川バイロイトを発展系にしてもらって、東京バイロイトの総裁とにゃってもらうにゃん。
小澤御大には、世界基準の独自路線を進めてもらいたいにゃん。」

「こんにゃところで、どうにゃろか、みにゃさん。」
「おい、カメラマンも御苦労にゃった」
「あ、はい、どうもです」

※この会議はあくまでフィクションです。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2009年7月22日 (水)

若杉 弘さんを偲んで

Mita 昨日、体調をしばらく壊されていた杉弘さんが亡くなりました。
この報せを、日食の日の朝、新聞で知り、思わす「エーっ」と声をあげてしまった。
何ということでしょう

私は、極めて悲しいです。

ちょうど1年前、新国で「ペレアスとメリザンド」を指揮された舞台が、私にとって最後の若杉さんとなってしまった。
その時はずっと腰を掛けたまま指揮、カーテンコールにもなかなか登場せず、ようやく姿を現されたときは、舞台袖にそっと立ち、始終拝見しているのに、何かとてもお歳をめされたように感じた。
そのあと、入院され、コンサートもいくつかキャンセル。年末には復調され、得意の新ウィーン楽派やブルックナーを指揮され
安堵していた。
今年春先からまた入院、ムツェンスクや修善寺物語をキャンセルされ、秋のヴォツェックも断念の報に接したばかり。

そんな中での逝去の報せに、わたくし、どんなにショックを受けたことか・・・・・・・・。

Wakasugi
←若すぎの若杉さん、そして若すぎるその死。

私がクラシックを聴き始めたころ、若杉&読響、岩城&N響、小沢&日フィル、これら若手3人に率いられた在京オケがとても人気があった。
年末の第9などは、この3団体がいつも競っていて、いずれもテレビで見たりしたもんだ。
若杉&読響は、大曲の日本初演をたくさん手掛けていて、中でも「パルシファル」は金字塔ではなかろうか。何分お子様だったので観てませんが。

でも若杉さんは、指揮者の中でも実演をもっとも数多く聴いた方であります。
とくに私にとっては、若杉さんはオペラ指揮者だった。日本人指揮者が、ドイツのオペラハウスの音楽監督になるなんて、かつては考えられないことだった。
しかも、ライン・ドイツオペラに加えて、ドレスデン国立歌劇場の音楽監督にまでなってしまうなんて。 もちろん、ケルン放送とチューリヒ・トーンハレも快挙だった。
日本に活躍の場を移してから、新国の監督になるべくしてなり、見事なレバートリィの構築と斬新な演目で、連日満場の聴衆を唸らせとていたことはご承知の通りであります。
氏が傑作と呼んではばからなかった「ヴォツェック」や、生涯、力を注いでいたR・シュトラウスの「影のない女」を指揮できなかったこと、そして、いずれは予定されていた「パルシファル」もふくめて、きっとご無念であったことでありましょう。

実演以外でも、若杉さんはよく見かけておりました。幕間で飯守泰次郎さんと談笑している場面は何度も拝見した。
極めつけは、ある外来オペラのとき、隣接の百貨店を歩いていて、通路の角を曲がったらいきなり若杉さんと鉢合わせしてしまった。
あれ、どこかで見たことあるオジサンだなっと、思わず「こんにちは」と言ってしまった私。
若杉さんはもちろん、こちらを知らないわけだから、きょとんとしてました・・・。

オペラでは、ドイツオペラばかり観ることができた。初めて接する舞台が若杉さんの指揮によるものばかり。そう、数々の日本初演を手掛け、私もそこに居合わせることができたた。古いものからあげると。(※日本初演)

 ヴェルディ    「オテロ」 
 ベルク      「ヴォツェック」
 ワーグナー   「ワルキューレ」 
           「ジークフリート」 ※
           「神々の黄昏」  ※
 R・シュトラウス 「エジプトのヘレナ」 ※
           「ダナエの愛」    ※
           「ダフネ」       ※

 ドビュッシー    「ペレアスとメリザンド」

こんな感じで、シュトラウスは「インテルメッツォ」のチケットを持ちながらも行けなかったのが悔やまれる。これらの中では、「神々の黄昏」のラスト大団円が圧倒的な感動を植えつけてくれていて、何もなくなった舞台がただ真っ白く光るだけで、そこに自己犠牲の素晴らしい旋律があまりに美しく響いた・・・・。涙が止まらなかった。

若杉さんの知性と劇性のバランスのとれた安定感ある指揮は、オペラ上演の核的な存在として極めて頼もしい存在だった。
バトンテクニックも的確で、大曲を破たんなくまとめ上げる力は並々のものではなく、そうした力がヨーロッパでも高く評価された由縁であろうか。
まだまだたくさんオペラを指揮して欲しかったし、もっと聴きたかった若杉さん。

Wakasugi_tmso
今日は、若杉さんが黄金時代を築いた東京都交響楽団とのライブCDから、もっとも得意としたワーグナーの「ジークフリート牧歌」を追悼に聴きます。

コジマのための、贅沢な目覚めの廻廊の音楽。
今宵はこの心安らかな美しい音楽が、こんなにも切なく哀愁を持って響くなんて・・・・。

ゆったりめのテンポで心を込めて演奏されていて、オペラティックな感興も湧き上がって聴こえるほどに雰囲気がゆたか。

このCDには、シュトラウス「ドンファン」、プフィッツナー「パレストリーナ」、ヒンデミット「ウェーバー変奏曲」も収められていて、これ1枚がそっくり、若杉ワールドともいうべきお得意の作曲家で固められている。

NHKでは、さっそく追悼番組として、マーラーの第9の放送が予定されているようだが、若杉さんが嗜好をこらした、6番や、8番、9番のそれぞれシリーズもしっかり放送して欲しい。
さらに都響とのマーラー全集、読響との幻想やベートーヴェン、たくさんある録音も復刻して欲しいものであります。

若杉弘さん、たくさんのオペラや未知の音楽を聴かせていただきどうもありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(冒頭の写真は、本日、都内で撮影したものであります)

| | コメント (14) | トラックバック (6)

2009年7月21日 (火)

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番 ハフ&トムソン

Jelly これはゼリー

涼しげでありましょう。
いい歳をして、しかも呑み助のくせに、甘いものが好き。
とくにこうしたゼリー系には目がないワタクシにございます。
子供と取り合いの末、喜々として食べる父であった。
ばかだねぇ~。
(でも一口だけで、ちゃんとあげますよう)

Mozart_pcon21_9_hough 今日は、重厚長大の私にしては、おとなしくモーツァルトの協奏曲をいきます。
ピアノ協奏曲第21番ハ長調K467であります。

それを、イギリス人たちの演奏で。

スティーヴン・ハフのピアノ、ブライデン・トムソン指揮するハレ管弦楽団。(87年録音)

まるで、英国作曲家のコンチェルトを演奏するかのようなコンビ。
こんなコンビでモーツァルトが録音されているなんて!
ハフはともかく、故トムソンのモーツァルトなんぞ、まったく想像が出来ないし、ハレ管との共演も珍しい。
トムソン、特に英国音楽の指揮においては、じっくりと腰を据えた勇壮かつ男性的なイメージが強く、エルガーもバックスも、RVWも他の演奏とは一線を画したダイナミックな印象の演奏である。
 まずオーケストラからいうと、ここで聴かれるフルサイズオケによると思われるモーツァルトは、軽やかさよりはダイナミクスの幅の面白さが特徴に思われる。
決して鈍重ではなく、清潔かつ真摯なものだから不思議なほどに透明感を感じる。
一方で、金管を強調したり、管の伴奏を時おりデフォルメしたりしているところが面白い。

 こうした特徴は、おそらく作曲や執筆活動も盛んなユニークなピアニスト、ハフとの共同作業において生まれたものではなかろうか。
61年生まれのハフは、英国音楽やあまり知られていない作品の発掘、その一方でモーツァルトやブラームス、ラフマニノフなども得意にいているらしい。
この21番では、自作のカデンツァが弾かれていて、それがとてもセンスがよろしい。
3楽章の出だしなど、ユニークなものだ。
これらが才気走ったところを感じさせず、自然児的なふるまいのように聴かれるところがいいのかもしれない。
英国人らしく、節度を保ち細やかさも感じるところがいい。
意図的にかクリアーにすぎる気もしなくもないが、深すぎるモーツァルトに飽いたら、スコッチウィスキーのような爽快・淡麗な味わいのこのモーツァルトも悪くない。
カップリングの「ジュノーム」もいいですよ。

明日の日食、お天気が心配ですねぇ。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009年7月20日 (月)

ワーグナー 「リエンツィ」 ホルライザー指揮

Kono_otoko街で見つけたこんなもの。
千葉県某所を走行中発見。

インパクトありますなぁ~。
でも、ばかだなぁ~。

どこの党かって・・・、いまや瀕死のあそこですよ。

Rienzi_hollreiser 本格的な夏を迎えると、わたしは毎年、海の向こうの「聖地」が気になってくる。
年中夢中だけれど、年末と年2度のワーグナー熱がやってきた。
今年のバイロイトは新演出はなし。
トリスタン以降の後期作品のみでの上演。
熟練シュナイダーのトリスタンの指揮、ティーレマンのリングがどう充実してくるか、藤村さんのクンドリーは今年はいかに、久々のタイトスがザックスに挑む・・・・、こんなところを注目。

バイロイトでは上演されない、「さまよえるオランダ人」より前の3作。
今日は、その中でもっとも規模の大きい「リエンツィ」を取り上げる。
正式には、「リエンツィ 最後の護民官」ということになる。

ウェーバーの影響を受けつつ、マルシュナーのような幻想世界をも意識したドイツロマン派の流れにベルカント的な要素も取り入れた「妖精」。
恋愛禁制」は、一転してこれがワーグナーかと思わせるようなブッファの世界。
ロッシーニ的な劇の進行もあったものの、しっかりとワーグナーの音が出てきていた。
そして、「リエンツィ」では、史劇をもとにした、これまでとまた異なるグランド・オペラの世界が長大なまでに繰り広げられるにいたった。
フランスのマイヤーベーアが当時その道の権化だったけれど、ワーグナーはマイヤーベーアが好きではなかった。でも、そのスタイルを取り入れざるを得なかったのは、パリで書かれ、そこで上演を目論んだから、というのが最大の理由。
 でも進取の気性と、移り気な気性に極めて富んでいたワーグナーは、自分の夢想する一般人のおよびもつかないオペラの世界を求めて試行していたからにほかならないのだと思う。
「リエンツィ」と同時に「オランダ人」の台本も書き、リエンツィ終了と同時にオランダ人の作曲も開始している。
神話や伝承に題材をとり、ライトモティーフを活用した「オランダ人」以降の有名作とのタイムラグはほとんどなかっただけに、ワーグナーが自身の立ち位置を、性格のまったく異なる初期3作で確立したわけである。

ワーグナーの遍歴癖は有名だが、「リエンツィ」はドイツから指揮者の職を得て赴いたロシア領リガで構想を練り始めたものの、これまた借金癖による負債から逃れるために、姉さん女房のミンナ(美人である)を連れて、ロンドン経由、パリに行った。
華やかなパリで「リエンツィ」を作曲してひと花咲かせようとの目論見だったが、1840年に完成したものの、オペラ座では上演されず、同時に第二の故郷のドレスデンから上演の機会を与えられることになり、いそいそとドイツに帰ってゆくワーグナーであった。
1942年、ドレスデンでの初演は大成功に終わり、その勢いで「オランダ人」も上演し、ワーグナーはドレスデンでの地位を得ることとなる・・・・・。
でも、またここでも問題を起こしちゃうんだな、ワーグナーさんは。それらはまたいずれ。

序曲ばかりが超有名。
この序曲で慣れ親しんだ旋律が随所に出てくるから、そんなに聴きにくいことはない。
でも長い。
全5幕、3時間40分。
CD3枚がギチギチに収録されていて、かつてレコードでは5枚組で出たし。

14世紀ローマ

第1幕
 ラテラーノ教会へ向かう路上、貴族のオルシーニ一行が現れリエンツィの妹イレーネを誘拐する。ここへ同じ貴族コロンナ家が通りかかり、それを逆に奪おうともみ合いが始まる。コロンナの息子アドリアーノ(ドラマテック・ソプラノ役)は、愛するイレーネを助けようとするが、そこへ民衆も加わり大騒ぎとなる。
ライモンド枢機卿が鎮めようとしても無理。
そこへ、リエンツィが登場して貴族たちに世界の法律と謳われたローマの栄光はどこへ、と大熱弁をふるい民衆を熱狂させ、「リエンツィ万歳!」と叫ぶ。
成り上がりものと、不満をぶつける貴族たちは、いずれ見ておけと城壁の外へと去ってゆく。リエンツィは、貴族たちが今後一切横暴なことはしないと誓わない限り城内にはいれないことを提案し、枢機卿や民衆の賛同を得る。
 イレーネは自分を助けてくれたアドリアーノをリエンンツィに紹介する。
アドリアーノは、「民衆の力で何をするのか」と問わば、リエンツィは「ローマの解放と自由都市の実現」と答える。貴族の立場ではそれに従えないし、イレーネを愛してるしで複雑なアドリアーノである。
 ここで、ソプラノ二人による愛の二重唱となる。
やがて、民衆が集まり、武装のリエンツィを迎えると、人々は「リエンツィを王に!」と叫ぶが、リエンツィは、自分はあくまで「護民官」として欲しいと応え、「リエンツィ万歳!護民官万歳!」と讃える。

第2幕
カピトール宮殿内。城外の貴族たちは治安を守る宣誓をし、城内に戻っていて、ローマは平穏になった。使者からもその平和の知らせを受けるリエンツィである。
 コロンナとオルシーニも、挨拶にくるが、そのあと、オルシーニはお前それでいいのか、と反逆をそそのかし、二人してリエンツィ暗殺を相談する。
それを聞きつけたアドリアーノは、リエンツィに忠告するが、衣装の下に甲冑を着けているから大丈夫と答える。
 ここで各国へも手を打った結果として、諸国の使者を接見し、平和の祝賀会が始まり、長大なバレエが挿入される。
それが済むと、オルシーニがリエンツィを襲うが、甲冑によって未遂に終わる。
捕らわれた貴族たちの人民裁判が即行われ、死刑が求刑される。
アドリアーノとイレーネが、父の助命を嘆願し、リエンツィは人民がそれを望むなら・・・、として、再び平和を守ると誓わせて許すことと相成った。
 市民の急進派バロンチェリとチェッコは、ほんとにいいのだろうか、と不安を隠せない・・。


第3幕
古代の広場。ローマを離れた貴族たちが武装してローマに攻めてきていることが判明。
リエンツィは、民衆を鼓舞して反乱軍を迎え撃ち戦おうと立ち上がる。
 一人残ったアドリアーノは、ついに父と恋人の板ばさみになってしまったことを嘆いて歌う。進軍ラッパが鳴り、戦場に向かうリエンツィたちを追い、父とともに戦おうと飛び出そうとするが、イレーネに懇願され引き止められる。
 戦いで夫や子供が亡くなってゆくことを嘆く女性たち、やがてリエンツィが凱旋してくる。
コロンナとオルシーニの死骸も運ばれてきて、アドリアーノは、叫びをあげて悲しむ。
彼はついにリエンツィとの決裂を選び、復讐を誓う。民衆もあの時処刑していれば・・・とわだかまりが。
しかし、戦勝祝いのトランペットが響きわたる。

第4幕
 ラテラーノ協会前。バロンチェリとチェッコが悪い噂を聞いたかということで、語り合っている。リエンツィが、ドイツの王子の神聖ローマ皇帝選出についての協議をしたことなどが大使から法王に伝えられ、不興を買っていること。そもそも、妹と貴族の息子の関係を利用して貴族側に取りいろうとしているようだ、と不満が続出する。
 そこへアドリアーノが現れ、リエンツィの裏切りの証拠ならいくらでも出せると意気込む。
朝となり、リエンツィとイレーネは教会へ向かうが、空々しい民衆の態度。
そこへ枢機卿が、貴族側の工作もあり貴族に傾いたローマ法王から、リエンツィ破門の知らせを持ってきてそれを宣言する。
アドリアーノは一緒に逃げようとイレーネを促すが、彼女はその手を振りきり、兄のもとにとどまることと決意。

第5幕
 カピトール宮殿内。リエンツィは「全能の神よ、私をお見下ろしください・・・」という祈りに満ちた名アリアを歌う。
そこへ、イレーネが現れ、自分を見捨てなかったのは天と妹だけだというが、妹はローマの女の勉めとしながらも、恋人と別れる辛さはわからないだろうとと悲しむ。
兄はアドリアーノの元へ行けというが、妹は一緒に死を選ぶ覚悟を選ぶ。
いま一度、民衆を説得しようと出てゆく。
そこへアドリアーノがやってきて、イレーネに逃げようと誘うが、彼女は受け入れない。
折りから民衆が松明をもって宮殿に向かってくるので、イレーネは慌てて兄のあとを追う。
 宮殿に向って民衆が石を投げつけたりして騒いでいるなか、リエンツィがバルコニーに現れ、「誰がこの自由をもたらせたのか?・・・」と演説を説くが、人々はもう耳を貸そうとしない。バロンチェリは「耳を貸すな、ヤツは裏切り者だ」と叫ぶ。リエンツィは最後の言葉として、「これがローマか?永くローマの7つの丘は顕在だった。永遠の都市は不滅だ!お前たちは見ることだろう、リエンツィがきっと帰ってくることを!」と叫ぶ。
だが民衆は、ついに宮殿に火を放ってしまう。
イレーネもあらわれ、それを救おうとアドリアーノも宮殿に飛び込む・・・。
しかし、その宮殿の塔が崩れ落ち、リエンツィ、イレーネ、アドリアーノの3人は焼け落ちた宮殿とともに下敷きとなってしまう。


いやはや、長い長い。あらすじも端折ることあたわず、長文載せました。

群衆心理の恐ろしさと、先導者が扇動者となってしまうことの矛盾。
これまさに歴史において繰り返される政治の世界ね。
今も昔も同じこと。
求められて上に立ち、いつしか理想を追い求める姿を飽きられてしまう。
そしてやがて失脚する・・・・。

全曲を把握してみて初めてわかる序曲のありかた。
まさにグランドオペラの序曲としての存在で、その豊富なメロディは劇の内容を先取りするものだが、決して悲劇的な終末を予見しうるものではないが、その鳴りっぷりの良さは空々しいほどにオケの優位性を物語っている。
全曲で、オケがあまりにも雄弁にすぎるし、歌手に与えられた歌も難しい。
そして内容、しいては後年のワーグナーが描きつくしたようなドラマ性と登場人物たちの心理への切り込みが弱いような気がする。
音楽とドラマが密接に作用しあい、五感に訴えかけるように人の気持ちを揺り動かすようなワーグナーの音楽の強さはまだまだ感じ取れない。


 リエンツィ :ルネ・コロ         イレーネ:シフ・ウェンベルク
 コロンナ  :ニコラウス・ヒレブラント アドリアーノ:ジャニス・マーティン
 オルシーニ:テオ・アダム      ライモンド:ジークフリート・フォーゲル
 平和の使者:インゲボルク・シュプリンガー
 バロンチェリ:ペーター・シュライアー  チェッコ:ギュンター・ライプ

  ハインリヒ・ホルライザー指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
                     ドレスデン国立歌劇場合唱団
                     ライプチヒ放送合唱団
                          (74、76 ドレスデン)

Rienzi_1 唯一のスタジオ録音がこの音盤。
正規な録音としては、こちらと、これまでの初期2作で散々誉めちぎってきた83年のサヴァリュのライブ盤。
どちらも、主役のルネ・コロの独壇場である。
このコロの歌があってこそ、この巨大な未成熟作品が生きてくる。
この役は最初から最後まで出ずっぱりだし、演説の場面も数回あるし、殺されかけたり、凱旋したり、神に祈ったりと、あらゆる歌唱能力をふんだんにもとめれれる。
だから名ヘルデンテノールがいないと上演できない。
かつては、ヴィントガッセン、そしてコロ、少し前のイェルサレム、今はボータ。
ここでのコロは、甘い声をかなぐり捨てて熱きリエンツィを劇唱していて、持前の美声の魅力も相まって大いに聴きごたえがある。
3幕で戦いを鼓舞するヘルデンとしての力強さ、終幕の祈りでの折り目正しい清潔な歌。
最後の演説での破れかぶれの絶唱・・・・。素晴らしいです。

このCDの、もう一方の主役はホルライザー指揮するドレスデン国立歌劇場のオケ、いわゆるシュターツカペレである。
序曲から、一聴、その美しくふくよかな音色に違いがあることがわかる。
これがベルリンフィルだったらオケだけが突出してしまい耳がしびれてしまうところ。
ウィーン生まれの指揮者ホルライザーは、ワーグナーの大曲を手堅くまとめあげるという点で、ホルスト・シュタインばりの名職人だった。
サヴァリッシュのようなスタイリッシュ感はないが、オケの渋みを生かしつつ、浮ついた音楽とならないようにしっかりと手綱を握ってこの名盤を作り上げた。
日本では、リング、トリスタン、パルシファルをワーグナーでは指揮したこのオペラ指揮者。私はリングはロペス・コボスだったので、ほかの2作を体験することができた。
ウィーンのオケと気のあった、でもルーティンにならない味わいあるワーグナーを作り出していた。
それとライプチヒドレスデンの混成による合唱のすさまじいまでの気迫。
その変転ぶりがまったく見事。最後の熱狂ぶりはすごいです。

ウェンベルクのイレーネは、最後にはゼンタの自己犠牲のような歌を歌わなくてはならない役だが、それが叫び声にならずにクリアな歌唱に終始しているところがよかった。
ミュンヘン盤では、ステューダー。
J・マーティンはやや一本調子ながらドラマテックな歌唱は聴きごたえあり。
そしてまわりを固める当時の東側の名歌手たち。
こんな贅沢は当時のEMIならではで、アダムシュライヤー、ライプ、フォーゲル、シュプリンガーヒレブラントと実力を伴った豪華布陣。

こうした作品だからこそ、ちゃんとした歌詞対訳をつけた国内盤がほしいところ。

これで、初期3作を終え、「さまよえるクラヲタ人」はワーグナーの劇作品をすべて取り上げたことになった。
これで、お馴染みの7作品に回帰できるわけだが、初期3作は折にふれ聴いてゆきたいし、その捨てがたい魅力も味わいつくしたとは言い難い。
やはり舞台を体験してみたいもので、「恋愛禁制」と「リエンツィ」を観ることができれば、それこそワーグナー体験の完成といえるのだけれど・・・・。
死ぬまでに成し遂げたい夢であります。

| | コメント (9) | トラックバック (2)

2009年7月18日 (土)

ワーグナー 交響曲 ハ長調 レーグナー指揮

Mita_carnival2009今日、土曜日は恒例、三田納涼カーニバル。
私の職場からほど近い三田通りを封鎖してのお祭り。
本場リオのサンバ部隊や慶応のチアーリーダーたちも登場するんだ。
東京タワーをバックに毎年同じ繰り返しで、ちょっとレトロ。

いつも仕事をしいるから、音はすれども見たことがない。
今日も素面の私はビールを横目に見つつ写真だけ撮って帰宅を急いだのだった。

その反動か、いま、お家でワーグナーを聴きつつ、激しく泡盛中

Waganer_sym_regner

名のない交響曲週間、最後は、かのワーグナー(1813~1883)いきます。
ワーグナーにも交響曲がしっかりあるのであります。ついでにいうと、ピアノ作品もあります。

多くの作曲家と同じく、ベートーヴェンの交響曲を聴いて大いに感銘を受け、その道を志すこととなった。超人のように思われるけれど、ワーグナーも謙虚にベートーヴェンに惹かれていたんだ。
1928年15歳の頃というから、ベートーヴェンが亡くなって1年。
きっと第9も聴いたのだろう。
ベートーヴェンと、ワーグナー、ともに後続の作曲家たちに多大な影響を与えたふたり。

その若さと情熱で交響曲に挑み一挙に書き上げたのが19歳の年。
その後に、完成された初オペラ「妖精」が続くわけ。
母や姉たち、実父や義父たちが揃って俳優や演劇好きだった環境にあって、文学や劇作に夢中になっていった少年リヒャルトが書いた本格交響曲。
初期オペラを若気の至りとしてしまったワーグナーだけれど、初演時はそこそこ人気を集めたもののメンデルスゾーンに演奏依頼をしたものの無視されスコアも失ってしまったこの交響曲が、晩年にひょっこり見つかったものだから、自ら指揮して演奏したという。
失われたベートーヴェンへの早春賦に愛着があったのであろう。

伝統的な4楽章形式。
ベートーヴェンの4番のような長大な序奏を持つ第1楽章。その序奏のあとは、同じベートーヴェンの劇音楽の序曲のような晴朗で明るい推進力をもつ主部となるが、後年のワーグナーらしい顔がちょろちょろと垣間見れる。
シューマンを少し流麗にしたような音楽でもある。
緩やかな第2楽章は、こりゃまさにメンデルスゾーン似の抒情あふれる世界。
さらにシューマン的なロマンの芳香も漂う、もろロマン派の音楽。
メロディアスでなかなかです。
3楽章はスケルツォ楽章。こりゃシューベルトだわ。
のどかなトリオもシューベルトね。
さて、終楽章。これまたあなた、シューベルトざんすね。
しっかりとソナタ形式で書かれているが、舞曲調の弾むリズムが楽しいし、妙にクセになる音楽で、耳に心地よい。シューベルトのまま終わってしまう。

というわけで、このワーグナーの若書き交響曲は、ベートーヴェンとシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンをいっしょくたにしたような純正ロマン派音楽だったのだ。
 この曲を書いた人が、後年、トリスタンやパルシファルといった革新的な音楽を書こうとは誰が信じることができようか!
このギャップを確認するだけでも、この交響曲の存在価値は大ありか!
 後年のワーグナーを頭から締め出して、素直にロマン派のひとつの交響曲として聴くのがよいのかも。

でも、ほんというと、私には、気の抜けたビールのようであり、出汁を取り忘れた醤油ラーメンのように感じたんだけど・・・・。
このCDでは、シューベルト風エンディングのあとに、あまりに素晴らしい「ジークフリート牧歌」が収録されていて、そのまま聴いてしまうと、前の曲はいったいなんだったんだろ・・・的になってしまう。

ハインツ・レーグナーと東時代のベルリン放送管のスッキリと気の利いた演奏は、この曲にはとても良いのではなかろうか。
そしてそれ以上に「ジークフリート牧歌」の心のこもった演奏が素晴らしく感じる。

ワーグナーは、この交響曲のあと、2作目の交響曲に取りかかったが、ひとつの楽章だけで終わってしまった。サヴァリッシュの指揮によるもので、すでに取り上げ済み。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月17日 (金)

コルンゴルト 交響曲嬰ヘ長調 ケンペ指揮

Ginza 銀座・数寄屋橋です。

ソニー・ビルに不二家、奥はプランタンにマロニエ・ゲート。

不況とはいえ見ためは華やかなもんです。

「銀座で飲む」ということへの憧れは、今の若い方々にはないでしょうな。
私にはいまだに縁がござんせん。

Korngold_symphony_kempe

今日の「名無し交響曲」は、エーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト(1897~1957)の交響曲嬰ヘ長調

これまで何度も書いたかもしれないが、簡単にその数奇で気の毒な生涯を。

父にウォルフガンクの名前を付けられ、ウィーンで神童ともてはやされたコルンゴルト。
マーラーやシュトラウスからも認められ、ワルターやシャルクまでもが指揮をしたがった。

後期ロマン派をギンギンに受け継いだ人で、早熟のオペラの数々は、R・シュトラウスの甘味な世界とマーラーやツェムリンスキーらの世紀末爛熟ムードにあふれた素晴らしい作品ばかり。
新国で「死の街」がかかることを夢みている。

その約束された未来は、彼がユダヤ系ゆえ、さらに頽廃音楽と貼られてしまったレッテルゆえ、アメリカに亡命せざるを得なくなり変転してしまった。
だが、新天地では、ハリウッドが門戸を開いてコルンゴルドの第二の成功を待ち受けてくれていた。
オペラティックでゴージャスな音楽は、アメリカの文化とマッチングして大成功し、まさにいまのJ・ウィリアムズに受け継がれている。
その成功をもとに、戦後ウィーンに復帰を図るが、時代はもうギンギンの濃厚音楽を求めていなかった・・・・・。まったくネグレクトされたコルンゴルトは失意のままアメリカに帰り、その生涯を終えることとなる。

ナチがいなかったらコルンゴルトはどうなっていただろうか?
無調や十二音なども取り込んだろうか、はたまた独自路線を突っ走ったろうか?
かたやハリウッドは、コルンゴルトから受けた恩恵ははかりしれない。
大陸を挟んだ面白い可能性に思いを寄せるのも楽しいものだ。

唯一の交響曲は、ウィーンで受け入れられず、アメリカに帰った、この期間にまたがって書かれたもので、完成は1952年。
初演のいきさつは、よくわからない。ミトロプーロスが気に入って演奏しようとしていたが、その死で流れてしまい、正式なコンサートとしての演奏は、なんと!「ケンペミュンヘンフィル」のものだった
72年にすぐさまレコーディングされたのがこのCD。
3大B(ブルックナー)のイメージがるとともに、なんのことはない、R・シュトラウスのスペシャリストだったケンペである。コルンゴルトは全然普通に近い存在だった。
こちらも早世が残念で、それこそ「死の街」を指揮して欲しかった。

正統的な4楽章形式の堂々たる交響曲。
演奏時間、充実の48分あまり。
演奏会のレパートリーとしても、立派にトリを務めることができる素晴らしい交響曲だ。

ピアノを伴ったモダンな雰囲気の出だしの第1楽章。ホルンの咆哮にオケのトゥッティがカッコよすぎる。リズムの刻みもやたらにすごいが、徐々におさまると抒情的な場面になる。
こちらは絵画的あるいは映画的ともいってよい安らぎに満ちた雰囲気。
これらが繰り返され、音楽は堂々と歩んでゆく。
 第2楽章もまたカッコイイ!
目まぐるしく変転するリズム、それも楽器間の橋渡しが聴いていておもしろい。
やがて、ここでもホルンが勇壮なファンファーレをヴァイオリンとともに奏でる。
第3楽章を先取りしたような瞑想的な中間部との対比もいい。
そして、最高に好きなのはメランコリックな葬送音楽のような長大な第3楽章。
泣きぬれたようなウェットさがあるが、基調はシャープでほろ苦い、まるで悔恨に満ちたような人生回顧の音楽。
これもまたヒーロー(ヒロイン)が死んでしまった映画のひと場面を思わせる。
ワタクシ、自分が死んだら音楽に、この楽章いいかも。
 一転、楽天的な気分に覆われる第4楽章。コルンゴルトのほかの曲も、オペラ以外は最後はこんなハッピーエンドが多いんだ。
これまでの楽想が回帰してきて、全体のまとまりもよく曲を締めるところが、シンフォニーたる由縁。

ケンペの指揮は、思いのほか熱い!
情熱をこめて歌いまくっているし、この曲のキモであるリズムも見事に押さえられている。
3楽章は、オペラのひと幕を見ているような気分になる素晴らしさ。
ミュンヘンフィルに、ロンドンのオケのような切れ味はないが、雰囲気がとても豊か。
あのベートーヴェン全集をEMIに録音している頃と、同じコンビとは思えない。

この曲、かつてプレヴィン盤を取り上げた。
あとは、ウェルザー・メスト盤も愛聴。
そこでは、B・ヘンドリックスの歌う「マリエッタの歌」が収録されていて、絶品である。
思っただけで涙がでちゃう。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009年7月16日 (木)

デュカス 交響曲ハ長調 ジョルダン指揮

Syonan_yokosuka 見てくださいよ。
先週、房総方面で見つけた夢のような編成の電車。

湘南電車横須賀線がドッキング。
踏切待ちをしていて、いきなり登場したもんだから慌ててシャッターを切った。
神奈川育ちなものだから、この二つにはお世話になった。
今では、ステンレスの車両になってしまったけど、湘南のオレンジと緑をイメージしたこの色の取り合わせは、懐かしく望郷を誘うもの。
川崎時代の大洋ホエールズのユニフォームもこれだったり。
床が木でできていた頃まで覚えてる。

私は今、千葉に居を構えていて、千葉駅までまず出てから、都心に向かうのだけれど、この千葉駅までのわずかな区間が、朝は無茶苦茶に混雑する。
そして、今朝ですよ、このオレンジがやってきましたよ。
乗っちゃいましたよ。
写メしてる人もいたし、女子高生なんて、ナニこれ~なんて言ってた。

ともかく通勤がちょっと嬉しくなりましたよー

Dukas_jordan

今週のお題は、「交響曲という名の交響曲」。
ということで、デュカス(1865~1935)の交響曲ハ長調を聴きます。

この時代のフランス圏の作曲家のご多聞にもれず、フランクの影響下にある交響曲。
3楽章形式であり、循環主題もしっかり踏襲。
サイズも40分くらいでお手頃。

デュカス、あるいはデュカとも呼ぶのだろうか?

フランクと師弟関係にあるわけではなさそうで、当時の必然として影響を受けたということだろうか。
有名な話だが、自己の作品に対して常に懐疑的で相当数の作品が破棄されてしまったという。結果として、20曲に満たない作品しか残ってない。
それらを聴くにつけ、「もったいない」の極みである。
破棄された中には、交響曲やオペラもあるというから、ほんとにもったいない。
あやうく難を逃れた作品に素敵なバレエ「ラ・ペリ」がある。

デュカスといえば、「魔法使いの弟子」。
ミッキーマウスのあれは、100%の人が見ていると思う。
あの華やかでストーリー・テラー的な音楽の印象でもって、この交響曲を聴くと退屈してしまうのでは。
音楽の基調は、ハ長の調整の通り明るく見通しがよい。
でも核たるメロディラインが掴みにくいのである。
そうした意味では曖昧模糊感の中にも洒落たセンスの光ったショーソンの方が聴きやすいかもしれない。
また大半のCDが、「魔法使い」と「ペリ」をセットにしているので、大曲なのに刺身のつま的な存在になってしまうんだ。

そんな気分で、ここ数日何度も聴いてみたが、その印象は完全にはぬぐいきれない。
でもフランク→ショーソンと聴いてきて、デュカスが書いた交響曲の必然性が何となくわかるような気がしてきた。
フランクは支導動機のように旋律に意味あいを持たせ、晦渋に開始し、やがて歓喜へ導く誰もが逃れられないベートーヴェン的な構成を踏襲し、そこに敬虔なオルガン的な響きを導入した。
ショーソンはフランクを敬愛しつつ、そこにフランスの感覚的な世界を投入した。
デュカスは先達と同じ形式を守りつつも、シンプルな古典主義への回帰を試みたような気がする。それは、形式上のものでなく、響きにおいて。
ストラヴィンスキーやルーセルを思い起こすこともできる。
一方、メロディアスな部分では私はドヴォルザークを思い出してしまった。
こんな多角的な色合いがチラチラと垣間見れるデュカスの音楽は、何度も聴いて味わいを増す部類のものかもしれない。

明るく、どこまで伸びやかに進捗してゆく第1楽章。リズムの弾み具合もとてもいい。
印象に残る快活なメロディ。しつこくてなかなか終わらないフィナーレ。
チャイコの1番とか、しつこいラストはいくつもあるが、これもそのひとつ。
白眉は長大な緩徐楽章。ここにあふれる苦渋を伴った抒情は、聴いていてしんどくなるくらい。ひとつの交響詩を聴くかのように明滅する感情の機微。
ドライな白葡萄酒なんてのが合うかも。
開放的な3楽章。先達のような深遠な雰囲気を出すようなことがなく、ルーセルみたいだし、バレエ音楽みたい。でも中間部はなかなかの、おフランスぶりだし管楽器のセンスある洒落たモティーフがいい。明るく屈託なく終わるが、古典派すっきりのノリ。
ワタクシ的には、もう少し濃厚さが欲しいかも。

アルミン・ジョルダンスイス・ロマンド管弦楽団の演奏。
フランス語圏スイス人同士、とても息のあったコンビだった。
スイス・ロマンドはドイツもフランスも、イタリアもすべてにいい味出してたオケだと思う。
アンセルメ、クレツキ、サヴァリッシュ、シュタイン、スタインバーグ、ヤノフスキ、歴代の指揮者のなかで、独・仏・伊のすべてに素晴らしかった指揮者ではないかしら。
あと、ヤノフスキも。
 このCDの「ラ・ペリ」は絶品ですぞ。
他盤では、あとマルティノンを聴いてます。

追)本日、横浜ベイスターズは5連勝目を挙げた。
断トツ最下位のへっぽこ球団なれど、最悪のチーム状況なれど、1年のうちにはいいことも必ずあるし、もしかしたらひとつ上への可能性だってあるんだ。
ベイを見習って、ワタクシも人生捨てたもんじゃぁありません、ってな気持ちにしていただきましたね。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009年7月15日 (水)

ショーソン 交響曲変ロ長調 プラッソン指揮

Enoden夕闇せまる湘南海岸。

関東地区は、梅雨が明けましたな。
こんなに早く明けちゃって大丈夫だろうか?

江ノ電がいい感じで撮れましたよ。
この先は海沿いの国道なんだけど、信号がなくて踏切とともに、タイミングの取りにくい場所なんだ。

でも海はいいね。

Chausson_symphonie_plasson

ショーソン(1855~1899)の変ロ長調の交響曲を聴く。
実は、今週のシリーズ企画なのです。
初めにフランクのニ短調交響曲を取り上げた。
次は、酒によってしまい、にゃんにゃんシリーズ。
交響曲という名の交響曲」シリーズでござるよ。
1曲しか作曲しなかった、かつ名無しであること。
そこそこあります。
複数書いた人でも、あとから出てきて番号なしとかも。

それで、ショーソン。
年代的に世紀末をまたぐはずだったが、44歳の若さで、不運な自転車事故で亡くなってしまう。
その生涯に、あらゆるジャンルに作品を残した(オペラまである)から、事故さえなければどんなに素晴らしい作品を残してくれたことだろうか。

ショーソンは、正式にはマスネに師事しているが、フランクに多大な影響を受け、フランクからも大いに評価されたという。
それと、ワーグナーへの強い傾倒ぶり。ワーグナー後期と重なる活躍時期に、ご多聞にもれずトリスタンやパルシファルに感銘を受け情念的なサウンドを取り入れるようになった。
 ドビュッシーにほんの少し先立つ世代。
ワーグナーの影響力のすごさを認識するとともに、その後のドビュッシーの深化ぶりに思いを巡らすのもよい。

ショーソンの音楽は、フランドル系ドイツに傾いた師フランクの晦渋さを受け継ぎながらも、より感覚的、詩的で繊細なイメージが強くなっていて、これぞまさにフランス音楽と言いたくなる雰囲気に満ちている。

この交響曲、師と同じ3楽章形式で、その序奏の出だしもフランクを思わせる。
循環形式をしっかり踏んでいるんだ。
 でも主部は急きょハープや管の駆け上がるようなつなぎの部分を一瞬経たあと、一転して明るく軽やかな運びとなる。
こんな気分のまま伸びやかな輝きを保ちつつ1楽章は進行する。
 次ぐ2楽章は、抒情の宝庫とも言うべき悲しく泣きぬれたかのような沈痛な一章である。
ここでも冒頭序奏の旋律が巧みに作用しているし、師と同じくイングリュ・ホルンが活躍するんだ。
3楽章は活気に満ちてはるものの、どこか切迫したような緊迫感がただよう。
でもだんだんとエレガントなムードも出てくるし、トリスタンの昼と夜のせめぎ合い的な音楽(わかりますか??)にも思えてくる。
そんな高まりを見せつつも、最後には循環主題が静々と現れ神妙な気配を伴いつつも、全体を回顧するように終結する。

EMIにあらゆるフランス音楽とその周辺を録音してくれたミシェル・プラッソントゥールーズ・キャピトル管に、音楽好きはどれだけ感謝したらよいだろうか。
このショーソンも実に香り高く、高尚な気分にあふれた演奏となっていて、少しばかりの鄙びた味わいもオケの持ち味ゆえか醸し出されていて、とても気分がよろしい。




| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年7月14日 (火)

「にゃんにゃん」とにらめっこ

Toride_neko_1 とある街をさまよっていたら、見つけた「にゃん太郎」。
♂かよ?

Toride_neko_2 近づくわたし。
構えるにゃん太郎。
緊張は高まる。

Toride_neko_3

さらに接近をはかり、こんな近くまで。
にゃん太郎は、瞳孔をすぼめる。
これは威嚇か、それとも脅えか・・・・

Toride_neko_4 さて、もう一歩踏み出した。
そしたら、あれっ
目つぶっちゃった。

あっけない幕切れの睨めっこに、気も抜けるほど、がっかりのワタクシでございました。

あんたにゃぁ、ガッカリだよ、にゃん太郎

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年7月13日 (月)

フランク 交響曲ニ短調 バルビローリ指揮

Shinobu1 今日、7月13日は、何の記念日でしょうかぁ~。

実は、「オカルト記念日」なんだって

あの身も凍るような恐怖の映画「エクソシスト」の日本公開日がこの13日だったことによるらしーーー

あの第1作目は怖かったなぁ。
主役リンダ・ブレアは、あの取りつかれ少女、首一回転、悪魔声のイメージがあまりにも強烈な刷り込みになってしまったのも気の毒というか何というか・・・。

こうした怖いものを見たり、聞いたり、場合によっては体験したりすると、明らかに体温が下がって、クーリング効果があるんですな。

夏のクーリング作戦は、怖いものじゃなく、飲み物食べ物の方が楽しくてよいです。
こちらは、以前、仙台で食べた「冷やし中華」。
冷やし中華発祥の地仙台にも、いろんな冷やしがあるけれど、こちら(しのぶ支店)は、シンプルな中華そばのようなサッパリつるつる感が最高。
体温が2度ほどさがりましたよ。

Frank_sym_barbirolli オカルトやクールダウンにゃ関係ないけれど、本日は何故かフランク交響曲を。
以前から考えていた企画だけれど、昨日のN響アワーを見ていて、次回は「フランクの交響曲」とアナウンスされたものだから、すぐさまに取り上げることとした次第だ。

この曲は、私のフェチ曲のひとつでありまして、CD棚には20種類を数えることができる。

初聴きは、N響のテレビかラジオで、指揮者は誰だったかな?
岩城宏之か森正だったかしら?
いわゆる循環形式で書かれたかっちりした構成をもっているから、同じような旋律が何度も出てきて、とても覚えやすかった。

聴いた当初の印象。中学生の頃。
暗雲垂れ込めるような渋い1楽章ではあるが、循環主題が何度か姿を変えて現れるそれぞれの場面がともかく気にいった。
2楽章のイングリッシュホルンのもの悲しい旋律はちょっと退屈だしオケが鳴らない。
歓喜に満ちた3楽章、出だしやメインは輝かしく気にいった。でも過去を回顧するような後半部分からちょっと退屈になる。でもやっぱり、最後には明るく終わってメデタシ。

ちょっぴりイケない大人になった頃~今現在に至る。
1楽章は、フランドルの晴れ渡らない雲とフランスへの憧れ。66歳にして初めて書いた交響曲。オルガン奏者として、ブルックナーと一脈通じる控え目な彼。
そんな慎ましい作曲家だが、弟子たちは超優秀。
ちょい聴きではわからない音楽に内包されたオルガンの響き。
 そして、いまや退屈だった2楽章が一番好き。
例の物悲しい旋律がいろいろと発展をしつつ色んな楽器に橋渡しされてゆくさまがとても味わい深い。弦のトレモロの刻みもとても印象的で、このあたりや、最後の場面などは、「おフランス」的なムードも漂っちゃう。
ベルギー人であって、フランス人でなかったフランク。
洒落たフランス音楽を素敵に演奏したクリュイタンスもベルギー人。
クリュイタンスのベートーヴェンやワーグナーが素晴らしいのもわかりますな。
 3楽章は、演奏によっては効果を狙いすぎて全体のバランスを見失ってしまう場合があるが、スケルツォ楽章をあえて外したフランクの意図をしっかり汲んでオルガンのように多層的にじっくりと取り組んだ演奏だととてもいい。
エンディングにいたる静かな場面も、しみじみと聴けるようになったワタクシにございます。

いくつもある音源から、変わり種で、バルビローリが唯一チェコフィルハーモニーを指揮したものを取り出した。
1962年の録音で、やや古く感じるが、オケの音色もあって、輝かしさが抑えられ渋いなかにも、バルビローリらしい歌いまわしが聴かれてユニークなフランクになった。
音が混濁してしまい潤いも乏しい録音が本当に恨めしいが、チェコフィルの弦は健在。
このコンビで、マーラーをやってくれたらさぞかし素晴らしかったろう。
 ちなみに、唸り声は聞こえませぬよ。

 過去のフランク

「バレンボイム&パリ管」

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

ヴェルディ 「アイーダ」 ムーティ指揮

Yamachan1 名古屋が発信した手羽先文化。
東京にもいくつも出店した「世界の山ちゃん」。

ここで繰り広げられた怒涛の大クラヲタオフ会

お招きいただき、連チャンもいとわず、いそいそと参加してまいりました。
みなさん得意の分野をそれぞれお持ちで、大いに刺激されることばかり。

話すことは音楽のことと、ラーメンのことばかり(笑)。
いいですなぁ。こーゆうのって。
私は、移動する仕事にも恵まれていて、各地でこうした集いを持つことができてます。
数えたら、今回で6つめの輪ができました。
いつか、全体総会なんぞ開催できたら凄いことになるかも

皆さん、どうもお世話さまでした。

Aida_muti いつもよりデッカイ画像で。
本格的な夏をまじかにして、熱いオペラ、「アイーダ」を。
ヴェルディ(1813~1901、ワーグナーと同年に生まれ、ワーグナーより長生きした)、26作のオペラのなかで、最後から3つめの後期充実期の作品で1870年。
その年、ドイツではワーグナーは「リング」の仕上げに勤しんでいた。

1869年スエズ運河が竣工、あわせて首都カイロにオペラハウスが建設され、そのこけら落としのオペラの作曲の依頼に基づき生まれたのが、古代エジプトを舞台とするこの「アイーダ」。
結局は諸事いろいろあって、こけら落としには間に合わなかったらしいが、1871年のクリスマスに上演され大成功。ついで、スカラ座でもヴェルディが立会い入魂のリハーサルをつけ、これまた大成功。
いまや、オペラの人気曲のひとつ。
 こけら落としという祝典的な場を想定していただけあって、バレエや大合唱をふんだんにとりこんだ、壮大なオペラとなっていて、その分上演にもっともお金のかかる作品のひとつでもあるわけだ。
ゴージャス・メトでのレギュラー演出はいわずとしれたゼッフィレルリ版。
そう、昨シーズンの新国のオープニングがそのプロダクションだし、10年前のこけら落としの一環上演でも出された。動画・3分程度
 あと記憶に残るものでは、NHKホールのコンサート部門はサヴァリッュの第9だったけど、オペラはこの「アイーダ」だった。
その時の歌手が、ベルゴンツィにコソット、指揮はファブリティース。
テレビにかじりついて何度も観たもんだ。
そして伝説的な上演としては、1972年ミュンヘンオリンピックの記念公演。
アバドがスカラ座を引き連れていっての上演で、ドミンゴ、コソット、カプッチルリ、ギャウロウ、アローヨというドリームキャストによるもので、FM放送され長く愛聴したし、音源も手にいれたけど音が悪い。でも熱気あふれるものスゲー演奏なのだ、これが。

そのアバドのレコーディングを鶴首していたのに、そのキャストをほぼそっくり使って録音してしまったのが、リッカルド・ムーティだったのだ。
1974年、ムーティの鮮烈なデビュー盤。

 アイーダ:モセラット・カバリエ      ラダメス:プラシド・ドミンゴ
 アムネリス:フィオレンツァ・コソット   アモナスロ:ピエロ・カプッチルリ
 ランフォス:ニコライ・ギャウロウ     エジプト王:ルイジ・ローニ
 使者:ニコラ・マルティヌッチ       巫女 :エステル・カサス

  リッカルド・ムーティ指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                 コヴェントガーデン歌劇場合唱団
                           (74.6 ロンドン)

Aida_muti_4_2  当時高校生のワタクシ、ワーグナーと並んで、ヴェルディ=愛だったので、即レコードを購入。
そして、アバド好きにありがちのムーティへの軽い嫉妬心を抱きつつも、ドキドキしながらも聴きましたよ。
そしてその鮮烈でかっこいいムーティの音楽に痺れまくり、興奮しまくり、わたしも箸振りまくり(?)。
これだけのすごいキャストを前に堂々たる指揮ぶりに加え、随所に聴かれるドラマテックなまでの追い込みにすごさ。ことに凱旋行進曲に乗った大アンサンブルのかっこいい締めくくりなどは、もう何度も何度も聴いて、胸のすくような感激をそれも何度も味わった。バレエ音楽も、実際に舞台じゃ踊ることのできそうもないダンサー泣かせのぶっちぎりの超スピード。
一方の繊細な場面では、ロンドンのジェントルなオーケストラの持ち味がよく出たすっきりぶりで、この演奏をにぎにぎしいだけのものに終わらせていない。
 アバドのミュンヘンライブの方が、熱いのは確かだが、後年のアバドの正規録音よりはこちらのムーティ盤の方がオペラティックな感興に富んでいるかもしれない。
(蛇足ながら、アバドの録音は、カルロス・クライバーのボエームの録音が不可能になり、急きょ行われたもので、アバドとしたらもっとじっくりと取り組みたかったのかもしれない)

Aida_muti_3 いまこうして聴いてみると、少し青臭くも感じるのも確かで、運命に翻弄される登場人物たちの心情にもっと踏み込んでくれてもよかったとも感じる。
EMIの滑らかすぎる録音も、ちょっとマイナスか・・・。
 一方、歌手陣には文句のつけようがない。
70年代を代表するキラ星の歌手たち。
絶妙のピアニシモを聴かせ、独特の緊張感と快感を呼び覚ますカバリエ。「O patoria mia・・・」の名アリアは絶品。舞台じゃなくて音源でこそ映えるカバリエの絶頂期!
テカテカぶりが、後年ほどでなく、剛毅さあふれるドミンゴ
圧倒的な存在感と、声の威力が目覚ましいコソッ
ヴェルディオペラにおける最強の低音コンビ、カプッチルリギャウロウ。この二人の歌いこみの深さは、映像社会の今となってもその声だけで、ドラマが語られ脳裏に浮かぶ。
この二人ともにいまや鬼籍に入ってしまった・・・・。
チョイ役のローニの美声のエジプト王に、のちのドラマテックテノール、マルティヌッチが贅沢にも登場している。

何年ぶりかで懐かしい思いで聴いた「アイーダ」でした。

Yamachan2_2Yamachan3_2
世界の山ちゃん」の続き。

左は、納豆オムレツ。糸も引くけど、あと引く癖になりそうな一品にございましたよ。

それと、右は、名古屋のスーパーで見つけて買ってきた山ちゃんブランドのサワー。
これがまぁ、強烈なゲテものサワーでございましてね、なんと、八丁味噌味なんざますよ。
甘くてベタベタで、なんとも言えないお味にございました。

次回は、これいってみますか皆さん・・・・・。
わたしゃこれは遠慮しますがね

| | コメント (26) | トラックバック (1)

2009年7月11日 (土)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 ゲッツェル指揮

Landmark 野毛山にある、成田山横浜別院から、ランドマークを眺めるの図。
ちょっと早めに桜木町に着いたから、登ってみましたよ。

さぁ、これからどんなモーツァルトとマーラーに出会えるのかな、楽しみ楽しみ。

Img モーツァルト 「アダージョとフーガ」

        「踊れ、喜べ、汝幸いな魂よ」

         S:森 麻季

マーラー   交響曲第1番「巨人」

      サッシャ・ゲッツェル指揮

    神奈川フィルハーモニー管弦楽団
       (7.10@みなとみらいホール)

まず、モーツァルトの深淵な音楽で始まった今日のコンサート。
最後には大爆発の怒涛の大おもしろ演奏会になった。
そんな結末を前半のモーツァルトに誰が予想しようか。
先週、東響に客演してその片鱗を見せていたようだが、横浜のホールに集まった聴衆のほとんどは、私も含めて初ゲッツェル

弦楽だけで演奏する1曲目。神奈フィルの誇るキレイな弦楽セクションの音色をじっくりと味わえる。
指揮棒をもたずに入念な振り方のゲッツェル君。さすがは、ヴァイオリン出身と思わせる。
ところが、フーガに入ってその悲愴感が極まっていった時、それを見せたのである。
そう、ジャンプしちゃうんだ。
コンマス石田氏も負けてないけど、さすがにここでは飛ばないし。
モーツァルトで飛ぶ指揮者は初めて見たよ。

オルガンを真中に据え、黒と黄色の素敵なドレスの森麻季さんを迎えてのモテット。
ここではさすがに「飛び」はナシ。
それより、デリケートな麻季さんの声を巧みに活かしてオケをしっかり抑えて、それはもう天上の音楽のような背景を築きあげた。オペラや合わせものがうまい指揮者だろう。
 そして、麻季さんは、そんなオーケストラなものだから、とても安心してクリスタルのように美しくガラス細工のように精巧な歌声を響かせることができたように思う。
芸劇のような巨大ホールで聴いたときは、その声がオーケストラに完全に埋没してしまってガッカリだったけど、今回は麻季さんの声の素晴らしさを心の底から堪能することができた。彼女のゾフィーがもう一度聴いてみたいな。
 蛇足ながら、ソリストを立てる指揮者のステージマナーもなかなかでしたぞ。

休憩後は、オーケストラがギッチギチにステージを埋め尽くしてのマーラー
前回定期もフルオーケストラだったけど、件の対向配置だっため、左側は一杯、右側はすかすかの、ビジュアル的にもどこか物足りないものを残していた。
しかし、今日はギチギチでいいぞ。

そしてゲッツェル氏登場。
冒頭の弱音の持続音。すごく音を抑えていて思わずこちらも耳をしっかりと澄まして聴きこむ体制に。
やがて「さすらう若人の歌」の旋律がフレンドリーに奏でられ繰り返しも行い盛り上がり、またそのあとに訪れる静かな場面。ここでも音量をものすごく落として緊張を誘う。
そして、この曲に3度ある大爆発の1回目。
そうジャンプ おまけに今度は、石田氏も完全に腰を浮かしてジャンプ
鮮やかな強弱の対比、壮大なダイナミクスの幅。
いろんなパターンを持つ華麗なジャンプはともかく、ゲッツェル氏のこだわり抜いた部分はこのあたりか。
 2楽章の弾みと中間部の優美さ、この対比も鮮やか。
意外や、一番気にいったのが3楽章。
コントラバスはソロじゃなくて、ユニゾンで奏されたが音は例によって抑えられているので、まるでソロのように聴こえる。グロテスク感よりは、優美な葬送の行進。
神奈フィルの管が今日はとても素晴らしかったから、揺れ動くテンポのこの楽章がとても楽しく聴けた。
そちらが死んだように終わったあとは、アタッカで強烈な終楽章が始まった。

Goetzel_sascha2 この楽章、飛ぶは飛ぶは。連続ジャンプもかまし、もうゲッツェル君の一挙手一頭足にその目は釘付け。だって面白いんだもん。
とゆーか、わたしゃ、笑いをこらえるのに苦労したぞよ。
でも出てくる音楽がまっとうで、とても音楽的だからそんなパフォーマンスも「よし」なんだ。
3発連続ジャンプは、指揮台を斜めにピョンピョンと進みつつ行う。
片足ジャンプは、おもに右足を抱えるようにして上げて行う。
基本ジャンプにおいてはその着地点を完璧きわまりなく正確に定めて行う。
いずれのジャンプも、決して音を立ててはならない。
かつての大御所ジャンパーは、ライブ録音でもドシンバタンが収録されていて失笑を買ったものだ。
 おっと、跳躍だけに気を取られていてはいけない。
その腕の振りも目をみはるものがあるんだ。
指揮棒持つ右手は相当にまともで、そのバトンテクニックは完璧で、実にわかりやすい。
左手は、右と一緒に拍子をとっていたかと思うと、扇風機のようにぐるんぐるんと回すことしきり。オジサンの私があんな動きをしたら脱臼して一生使い物にならなくなっちまう。
体の伸び縮みも伸縮自在、あれ、ちっちゃくなったちゃった、てな感じ。
お顔の表情もきっと豊かだったんだろうな・・・・。

そう、終楽章のはなし。
こちらでも2度の大爆発と、それらに挟まれた平安で優美な場面や過去への回想、これらの対比がまた見事なもので、神奈フィルの弦の美音で酔いつくし。
そして痺れるようなエンディング。
案の定、ホルン立ち上がり、ついでにトロンボーンまで立ち上がりーっ。
いやがうえにもアッチェランドがかかり眩いばかりのフィナーレが形成されたわけであります
一瞬の静寂後、われんばかりの大喝采。
何度も呼び出され、オケが何度も、指揮者を称え立たずに迎える姿はおざなりでないものを強く感じた。
ゲッツェル氏、オケをステージ後方席にも向かせて挨拶させたりと、ほんとによく気がまわる人で、その音楽作りも含めて楽員からも人気が高いのがよくわかるというもの。
 楽員さんから絶対お勧めとのこともお聴きしていた今回。
そのお勧めどおりに、とても素晴らしく楽しいコンサートでございました。
そして胸のつかえがすっととれたような感じでもありますねぇ。あ~おもしろかった。

ゲッツェル氏は、ウィーン生まれ。ウィーンフィルの団員だった父に手ほどきを受け、自身もウィーンフィルのヴァイオリン奏者になった。
そして、有能な指揮者をたくさん育てたパヌラに師事したりして、指揮者に転向したという。
調べたら、現在フィンランドのクオピオ交響楽団とトルコのイスタンブールのオーケストラの指揮者を務めている様子。
まだ若くて将来を見込める指揮者だからゆえ、神奈川フィルもしっかりつかまえておいたほうがいいですよね
草食系の金さんに、ヨーロッパ肉食系のゲッツェル氏。
神奈川フィルも多彩なオーケストラになりつつあります。

アフターコンサートは、毎度おなじみ、まるで2週間まえからずっと飲んでるような錯覚におちいるような楽しい会でございました。
気がついたら店は、神奈川フィル関連だらけ(笑)
みなさん、今回もお世話になりました。

| | コメント (8) | トラックバック (2)

2009年7月10日 (金)

ブリテン 青少年のための管弦楽入門 スラトキン指揮

Radio_3 臨海副都心のトンネルに入らんとする。
上は海。
とそこに、なにか命令が書いてある。

Radio2 あ、はい、わかりました。

Young_peoples_2 ブリテン(1913~1976)の9歳の写真を使ったこのジャケット。
スラトキンロンドン・フィルハーモニックの演奏による、管弦楽作品の名品。
この美少年を見てどう思われるかは、それぞれ皆さん次第でございます。

ブリテンの少年趣味は、オペラにもほかの作品にも多々登場するが、一方で反戦と平和希求を常に訴え続けた優しくも志の高い人であった。

そして保守的な面も残しながらも、斬新な和声と大胆な楽器の扱い、無調の世界と英語の美しさを活かした歌唱、東洋音楽への傾倒など、ブリテンならではのユニークな世界を築きあげた。
相当数の作品が残されているけれど、まだ未発表の作品も多々あるという。
63歳という早すぎる死を思うと、その早筆ぶりと天才性に驚きを禁じえない。

学校の音楽の授業で、誰しも、「ピーターと狼」と並んで、そのナレーション入りのものの洗礼を受ける「青少年のための管弦楽入門」。
私の場合は矢島正明のナレーターに、カラヤンかマルケヴィッチのレコードだったかな??
 大人となり、ヲタ的な耳で聴くには、ナレーションなんて無用だし、そのタイトルも「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」といった方がいい。
BBCの音楽教育番組のために作曲されたのだけれど、よく味わって聴いてみると、先のブリテンの音楽の特徴が随所に聴いてとれる。
ホルンや金管の咆哮に、厳しいピーターグライムズの響きを聴くことも可能だ。
曲の大半をオーケストラの各楽器・パートを主役とした変奏曲が占め、最後の数分を全オーケストラによる壮大なフーガが受け持って、二重の掛け合いによる極めて面白いフーガとなっている。このあたりのかっこよさは、ブリテン特有のもので、ライブでは大いに盛り上がるわけだ。
このCDには、パーセルの原曲をブリテンが弦楽用に編曲したものも録音されていて興味深い。

英国音楽を得意にする、レナート・スラトキンとロンドン・フィルの正攻法の演奏はしっかりしていてとても聴きごたえがある。
この曲もいいが、このCDに収められたふたつの名品が、私はとてつもなく好きなんだ。
皇紀2600年の日本に奉じられたけれど、お祝に鎮魂曲とはなんぞやと演奏拒否されてしまった「シンフォニア・ダ・レクイエム」。
北の絶海が主役であるような人間の生き様の悲劇「ピーター・グライムズ」の4つの海の間奏曲とパッサカリア。
音の強弱・出し入れがとてもうまく、新鮮な音楽を作り出すスラトキンに、弦主体にくすんだ響きと柔らかな管のLPOが素晴らしく機能している。
RCAに録音した英国音楽の数々、廃盤も多いがこれからも聴いて行きたいスラトキンである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年7月 9日 (木)

ストラヴィンスキー 「春の祭典」 70年代乱れ聴き!

Dsc06157 こっ、これはぁっ、ラーメンであります。
千葉県富津市の竹岡。
そう、竹岡ラーメンのご本尊的存在の「梅の家」。
昨日、あちら方面に車で走ったものだから初めて訪問。
朝10時開店、16時閉店という不思議な営業時間。
地元の漁師さんや魚業関連のお客さんが常連。
私は、朝7時に出発、木更津で一仕事して、11時前にはこちらに到着。
するともう、狭い店は満席。でも運良くあいてすぐに着席。
待つこと10分、常連さんが次々にやってくる。そして、名物の梅酒割りやビールを飲んじゃう。おぉーっ、って感じ。店を取り仕切るオバちゃんたちは、常連さんを名前で呼んでオーダーを通し、それ以外は服の色で(笑)
 そして見てよ、このチャーシュー。不揃いのそれは、あっけに取られるほどのうまさ。
白いのは玉ねぎのみじん切り。
スープが醤油汁みたいなものだから、玉ねぎが合うのよ。
ラーメンとしてはこれよりうまいものはいくらでもあるけど、このインパクトある暴力的な存在にはお手上げでしたよ。
一日中腹一杯。

Abbdo_le_sacre_printmps 暑いけど、ラーメン食べちゃう。
そして暑いけど、ハルサイ聴いちゃう。
この暑苦しい音楽は、夏の祭典だよ。
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭」。
こんなかっこいいオーケストラ作品はちょっとない。
いまや人気曲。
これが定着したのが70年代だろうか。
それまでは、激しい変拍子に指揮者の技量もついていかなかったり、オーケストラもグチャグチャになったり。

60年代は、ブーレーズ(フランス放送)とマルケヴィチ。
70年代に入ってからは、やはりブーレーズ(クリーヴランド)とメータのふたつのレコードがハルサイブームに火を付けた。
そこから始まったハルサイ戦争。
今日は、私が聴いた70年代の「春の祭典」を聴きまくりだ

ナンバーワン、いや、ハルサイで一番好きな演奏が、「アバド&ロンドン響」。
軽やかなスピード感と躍動感、そして豊かな歌謡性。
まるでロッシーニのように弾み、強弱ゆたかで、隅々までよく聴こえ透明感ある。
オケの反応と立ち上がりの抜群のよさも特質もので、アバドの指揮にぴったり。
アバドを無能呼ばわりする人々もこのハルサイには当時ビックリだった。
いまだに色あせない鮮度のよさを保っている演奏だと思うんだ

Mehta
メータとロスアンゼルスフィルが、次々とヒットを飛ばしたなかの1枚がこのハルサイ。
デッカの目も覚めるような素晴らしい録音も大いににプラスした。
メータの演奏はやたらに速い。
そしてカロリーも高く濃厚。でもその重量感あるスピードはアメ車に乗ってぶっ飛ばすような気分で、ゴージャスなものだ。
これが出た当時、ともかくその速さに驚いたもんだ。「春のきざし」の刻みのものすごい速さは、斬新であっけにとられたもんだ。
低域を強調した録音もすごくて、中学生のわたし、本箱の上に置いたスピーカーが振動で暴れ出し、机に落ちてきて深い傷を作ってしまった。
35年前のその傷はいまだに机にあります。

Bernstein
バーンスタインがロンドン響といれた1枚。
50年代のニューヨーク盤の熱さとはことなり、こちらは悠揚せまらぬユダヤ教的な演奏。
そう、早いところは早く、遅いところはねっとり遅く。
のたうちまわるようなユニークなハルサイ。
当時流行った4チャンネルSQ録音で、スピーカーを4つ用意して配線をちょっと工夫すると擬似4CHが楽しめた。
うしろから前から、いろんな楽器が飛び出してくる。
楽しかったなぁ。
それと、ご覧のジャケットがサイケで最高。
同じ楽団を使いながら、アバドと正反対のような演奏。

Heitink 手元にオリジナルジャケットがないので割愛。
ハイティンクロンドンフィルと録音した3大バレエはいずれも素晴らしい。
ノーブルかつ、男らしいグッと1本いってみよう的なかっこよさがあるんだ。
英国・蘭国紳士がじっくりと誠実にハルサイに取組み、一筆書きのように見事な書体で聴くものをうならせてくれる演奏。
この演奏はマジで素晴らしいと思うぞ。ベルリンフィル盤は未聴なれど、素晴らしかったオリジナルジャケットでの復刻をわれ望まん

Boulez_le_sacru_du_printemps

そして、これを忘れちゃいけません。
ブーレーズクリーブランドのCBS盤。
後年のDG盤は丸くなってしまったけれど、70年頃のブーレーズは容赦なく冷徹で、音楽もクールで青白い。
完璧なアンサンブルで、冷たさのなかに厳しいまでの迫力とパワーがある。
3度の録音のなかで、これが一番すごい。
これが出た70年、ブーレーズはセルとともにクリーヴランド管と来日している。
鬘を着用せず、怖そうな笑わないオヤジだった。

Harusai_solti_2 ショルティ閣下もついにハルサイ。
あのギクシャクとした唐突な指揮ぶりがそのまま音楽になったような、切羽詰まったような剛直な音楽。
そして、そしてですよ、シカゴ響なんだから、すごくないわけがない。
その攻撃に、村の長老たちはタジタジになってしまうだろう。
アメリカの物量攻撃に。
いまでも耳を圧する音は、ロンドンのスリムな響きに比べ強烈このうえない。
ここまでやられちゃうともうしょうがないねぇ。でもそこには何があるんだろ。

Mazel

なにがあるんだろ、と言えば、このマゼール
こともあろうにいやがるウィーンフィルに鞭をくれ、これでもかとばかりに乗りこなしてしまう。
聴いてる方は、そのデフォルメぶりに口あんぐり。
今やなんのことはない表現でも、当時はお下劣だったなぁ。
ウィーンフィルも、ハルサイなんていまやお茶の子さいさい!

あと、M・T・トーマス&ボストン響、デイヴィス&コンセルトヘボウ、小沢&ボストン、マータ&LSOなどなど、ありました。
70年代のハルサイはかっこよかったぜ

by70年代青春男

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2009年7月 7日 (火)

ビゼー 「アルルの女」 チョン・ミュンフン指揮

Avignon_2 南フランス、アヴィニョンの街角。

ほんの数日まえの画像。

毎年夏に行われる世界的な「アヴィニョン演劇祭」。

もう60年以上の歴史をもつ演劇祭に、毎年日本からも出場している。
かつては、こんにゃく座、東京乾電池など。
昨年からは、「桜文月社」という劇団が登場していて高い評価をい受けております。

われわれクラシック音楽好きも、楽しめる楽しい舞台のようです。
知り合いがお手伝いをしております。
おフランスに行かれる方はぜひ、アビニョンにも足を運んでやって下さいまし。
 公共スペースのいたるところに、こうして競って広告を貼りまくるらしいのです。

Bizet_lalesienne_chung_1

今日もオーケスラの名曲を。

ビゼーの「アルルの女」組曲。

暑かった今日。こんなに暑いと、ブルックナーやショスタコのシリーズも触手が伸びない。
マーラーの誕生日も気になるけれど、今週は耳に馴染みのよい名曲ウィーク。
一方、暑いほど、本場を意識して気合いが入るワーグナー。さまよえるクラヲタならではでございます。

アビニョンとアルル、県は違えど、ともに南仏プロヴァンス地域にある街。
街といっても、そこそこの規模で、日本の市のクラスで、人口も6~9万人規模あるみたい。
かの地も、いま、ものすごく暑いらしい。

ドーテの戯曲に付けられた劇音楽としての「アルルの女」。
「カルメン」と同じく、妖艶な美女に魅せられてしまった真面目男の悲劇の物語だけれど、全27曲から編まれた第1と第2組曲の8曲は、そんな悲劇は置いといて、南仏ムード満載のメロディの宝庫で、そのまばゆい明るさは、原曲とは別ものといってよい完全なるオーケストラ・ピースであろう。

すっかりおなじみのチョン・ミュンフンの91年の録音。
当時、パリのバステューユオペラの音楽監督として辣腕を奮っていて、DGに鮮烈な録音を次々になし遂げていた。
そのチョンが複雑な政治事情で、というかオペラの世界につきものの伏魔殿的な事情で退任を余議なくされたことは、とても残念なことであった。
その後の彼が、さらに反骨者魂をもって精力的な活動をしていることは承知のとおり。
 
躍動感に情熱、知的な抑制、そのバランスの素晴らしさがチョン・ミュンフンの素晴らしいところ。だからオペラや劇的な作品に最高の適正を示す。
このビゼーもまさに、そんなチョン・ミュンフンの独壇場。
あえて言うと、ここに収録されたなかでは、このアルルより、劇的なカルメンの方がいい。
機能的なオーケストラが、弦を中心にきらめいて聴こえるのも楽しい。

フランスのオーケストラは、日本人をはじめ、東洋人、ロシア人など非ヨーロッパ系の指揮者も積極的にチーフに迎えるけれど、イギリスのオーケストラはなかなかそういうことにならない。ドイツ、イタリアといった正統へ傾きがちな英国オケ。
おもしろいですな。

 過去記事

 アバド&ロンドン響

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月 6日 (月)

スメタナ 「モルダウ」 ミュンシュ指揮

Luncheon1 いやぁ、今年の梅雨は蒸し暑いです。
先日、久しぶりに神保町を歩いていて、ランチどうしようということで悩んでしまった。
長くおなじみも街だけれど、ここから竹橋よりは、かつて某社グループによる地上げで細々した店がみんないなくなってしまった。

それらを探して足を棒のようにしてしまったこともあった。
なくなってしまったんだ。
おいしい蕎麦屋に、定食屋、中華、そして昼飯がおいいしい料亭・・・・・。

靖国通りは変化なし。老舗ビアホールのランチョン、20年以上前から行ってる。
テレビにもよく出るマスターに息子さん、みーんな変わんない。

話は変わるけど、今日、東京駅の丸の内側をうろうろしてたら、若い女性がススーッとよってきて、「新人研修中なのですが、名刺交換をさせていただけないでしょうか」と来た。
え、ぇえーっ?? あんたいきなり見知らぬ人の名刺交換なんてさぁ・・・・。
急いでるから勘弁、と断ったけど、違う場所でもにこやかに私のような人に接近して行こうとする女性を見かけた。
いったいなんだろね?? けしからん客先情報集めだろ、あほくさ。

Munch_moldau

有名オーケストラ曲を。
スメタナの交響詩「モルダウ」
連作交響詩「我が祖国」の第2曲。

「我が祖国」を全曲通じて聴く喜びと、感動を知ってしまうと、一番有名な「モルダウ」だけを取り出して聴くことがあまりなくなってしまった。
 でも、疲れた月曜にこんな聴き古した名曲を懐かしい演奏で聴いてみると、なんていい曲だろう、なんて素晴らしい旋律だろうと、心から思ってしまう。
名曲の名曲たる由縁なり。

「モルダウ」と呼ぶと、単独のこの曲のイメージ。
原語の「ヴルタヴァ」と呼べば、「我が祖国」の2曲目という存在のイメージ。
これ一曲でも、川の源流から森を抜け、都会を抜けて大河川へと合流して行く様が見事に描かれていて、起承転結が明確な立派な交響詩。
でも、「わが祖国」第1曲の「高い城」の旋律が回帰されたりして、連作を聴いた耳で聴くと、その場面をとても重要に聴くこともできる。

この曲で好きな場面は、村人たちのダンスから、月の光に輝く川面を思わせるような幻想的なところ。昔から好き。

この曲を始めて真剣に聴いたのが、ミュンシュ指揮のフランス国立放送管弦楽団のレコード。中学生の頃、入会していた会員制頒布レコードの「コンサートホール」レーベルの17センチレコードだった。
まず、このジャケットがいい。
いまだに素晴らしいジャケットだと思う。
CD化され多少潤いは出たが、このレーベルの音のつまったようなモコモコ感はあまり変わらない。
でもここから響く自分的に懐かしい響き。
冒頭のフルート、それに応える弦のピチカート、緩やかな波のようなさざ波の上に、名旋律が奏でられる。
剛毅なミュンシュが、思いきり心を尽くして、フランスの香高いオケから歌に溢れた演奏を引き出してみせた演奏。
さきの、私の好きな場面は、この演奏が一番。
弾むリズムに、紗幕のかかったようなシルキーな弦による月光の場面、ひなびたブラス。

久々に河の流れに身をまかせ、ゆったりと過ごせましたぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

ワーグナー 「恋愛禁制」 サヴァリッシュ指揮

Kotstukaidon_1

これ、すき家じゃありませんよ。

その名も「国会丼」でありま~す。
国会議事堂の隣にある国会図書館の食堂で食べれるのですよ。
牛丼とスパイシーカレーの合いがけなのだけれど、間に温泉卵が乗っかっているところがすき家と違うところ。

なんでも自民・民主の「ねじれ国会」をイメージしてるとか・・・・。
お味は、@500円を加味するとまずまずのものでございました。
牛丼とカレー、まぁ、どっちもどっちですなぁ。温泉卵はどちらにもよく合うし・・・・。

Das_liebesverbot

 

 

 

 

 

 

 

ワーグナーの完成されたオペラ第2作目は、「愛禁制」。
恋愛ご法度、色恋は禁止、というとんでもない法律にまつわる、はなはだバカバカしい内容のオペラ。

序曲だけは、いくつかCDになっているけれど、全曲盤は正規には、このサヴァリッシュ盤が唯一。

前作「妖精」のあとすぐにとりかかり、1836年に完成された。ワーグナー23歳の若さ。
シェークスピアの「尺には尺を」という戯曲に基づいて、ワーグナー自身が台本を書いたもので、イタリアのパレルモを舞台にした完全な喜劇作品。
毎度深刻なワーグナーらしからぬ、陽気でイタリアーンな雰囲気の音楽。
カスタネットやトライアングルが鳴りまくるその序曲を初めて聴いたとき、なんじゃこれ??的な思いになった。
全曲は、全2幕、2時間30分、CD3枚の大作で、そのすべてが序曲的なハチャムチャイメージではなく、随所に後年のワーグナーらしい響きが聴き取れるのがうれしい。
後年、ワーグナーはこのオペラを「若気のいたりで、恥ずかしい」と言ったとされるが、イタリアオペラやフランスグランドオペラの影響下にあった、前作「妖精」よりも、ずっと進化しているように感じる。

     ワーグナー 歌劇「恋愛禁制」

登場人物

総督フリードリヒ  国王外遊中で、王代行を務める。
          恋愛禁止令を発布した人物。
若い貴族ルツィオ  禁制に怒る人物。イザベラと恋仲になる。
 〃 クラウディオ ルツィオの友人。イザベラの兄、禁制に触れ逮捕される。
 〃 アントニーノ    〃
 〃 アンジェロ     〃
イザベラ       両親を亡くし、修道院に入る。
           しかし、兄逮捕の報を受け兄を救いに。
マリヤナ      修道院で一緒になったイザベラの幼馴染。
          フードリヒのかつての恋人。
ブリゲラ      フリードリヒの手先の衛兵隊長
ドーレッラ     女給で、のちイザベラの待女
ポンティオ     給仕で、のち看守
ダニエリ      居酒屋の店主

 

    フリードリヒ:ヘルマン・プライ     
    ルツィオ  :ウォルフガンク・ファッスラー

    クラウディオ:ローベルト・シュンク  
    アントニーノ:フリドーリヒ・レンツ

    アンジェロ :キース・エンゲン    
    イザベラ  :ザビーネ・ハース

    マリヤナ  :パメラ・コバーン    
    ブリゲッラ :アルフレッド・キューン

    ドーレッラ :マリアンネ・ジーベル  
    ポンティオ :ヘルマン・ザペル

    ダニエリ  :ライムント・グリュンバッハ

 ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
                   バイエルン国立歌劇場合唱団
        演出:ジャン・ピエール・ポネル
                   (83.7.9 ミュンヘン)

第1幕

 第1場
パレルモの歓楽街で、兵士たちが酒場や遊郭を壊していて、中から若い貴族たちが逃げ出してくる。店主と給仕、女給がブリゲッラに逮捕されて出てくる。
皆でくってかかるが、総督フリードリヒが出した遊興歓楽姦淫禁止令を読み上げられ、唖然とする。そこへ、クラウディオが、恋人と一緒に寝たばかりに逮捕され、死刑を求告されるとして引ったてられてきて、皆で彼を救う手立てはないかと考える。

 第2場
修道院の中。クラウディオの妹イザベラと3年ぶりに会った幼馴染のマリヤナ。
マリヤナは、かつて貧乏なドイツ人と密かに結婚していたが、彼が王に認められ出世してしまった、それが今のフリードリヒ、と語る。
そこへ、ルツィオが、兄逮捕&死刑の報をもってやってくる。しかし、ルツィオはイザベラに一目惚れして、求婚するが、今はそれどころじゃないと、イザベラは皆で出てゆく。

 第3場
法廷。ポンティオに追放令が出て、ドーレッラに禁酒法違反の罪を問うたところで、アントーニオが現れ、せめて謝肉祭だけは許可して欲しいと誓願するが、フリードリヒは嘆願書を破り捨てる。
次いでクラウディオの審理に入るが、若気の過ちという本人の主張を退け、死刑を宣告。
そこへ、イザベラが登場して、お願いの筋これありで、人払いを頼む。
イザベラはフリードリヒに、ただ一人の肉親の兄を助けて欲しいと訴えるが、フリードリヒは頑として受け入れない。怒ったイザベラは、恋をしたこともない男だ、と蔑む。
一方、フリードリヒは、イザベラの美貌に目がくらみ、兄の味わった快楽を共に分かち合うなら許してつかわそう・・・。と言うものだからイザベラは怒るが、マリヤナを身代わりにしようというアイデアが浮かび、密会を約束する。

 

第2幕

 第1場
牢獄の中庭。クラウディオのもとにイザベラが訪れ、兄の命乞いをしたら貞操を求められたと話すと、兄は怒り狂うが、でも生きていたいからそうしたら、と妹に言うのでイザベラもこれには怒る。
そして、フリードリヒとマリヤナに、仮装して謝肉祭に来るようにとの手紙をしたため、ドーレッラに託す。
そこへ、ルツィオがやってきて、首尾を聞きイザベラは守ると言い、彼女を喜ばせる。
看守になったポンティオを買収して、兄に出る令状を真っ先にイザベラに渡すようにさせ、準備は整う。

 
第2場
フリードリヒの部屋。連絡を心待ちにする心情を歌いつつ、待ちに待った手紙がやってきて、カーニバルに出かければ、イザベラに会えると喜ぶ。
でも法は曲げられない。兄クラウディオの放免状でなく、死刑執行書を書き、自分も今宵、同じ運命になるどろうが構わないと歌う。
ブリゲッラとドーレッラが現れ、二人して仮装して出かけようと示し合わせる。ふたりは急接近したのだ。(この場面は語り)

 
第3場
パレルモの街の目抜き通り。人々は禁制を破って謝肉祭に浮かれ騒いでいる。
そこへプリゲッラが現れ、謝肉祭は禁止だ、と叫ぶので、人々は不承不承立ち去る。
ブリゲッラはさっそく仮装して、ドーレッラを探しにゆく。
イザベラとマリヤナが現れ、マリヤナを励まし、イザベラは去り、マリヤナも期待を胸にした歌を歌い去る。
仮装したフリードヒがそわそわと現れ、それと知ったルツィオにかわかわれる。
そこへ、マリアナが合図を送り、フリードリヒはそそくさと付いてゆく。ルツィオはイザベラだと思っているから、これを追いかけようとするが、運悪くドーレッラがやってきて、ブリゲッラと勘違いしてこれを離さない。しかたがなく、接吻をしてごまかし走り去るルツィオ。
これを見ていたイザベラはショックを受ける。まったくややこしい。
そこへ、死刑執行の書面が届き、これを見たイザベラは怒り、ルツィオに復讐を頼むが、ルツィオはすっかり誤解しているので乗り気でない。
 そこへ、一組の男女が捕えられてくる。
仮面を取れば、男はフリードリヒ、女は自らをその妻と名乗る。
イザベラは、これまでのいきさつを洗いざらい話し、フリドーリヒが嘘をついたと詰るが、フリードリヒは自分を死刑にしろと開き直る。
 そこで、人々は恋愛禁制の法律は破り捨てたから無効だ、と言ってフリードリヒを許す。
クラウディオも登場し、ルツィオもイザベラに謝罪し、修道院に帰ろうとするイザベラは、皆に止められ、かわりにルツィオの胸に飛び込む。
そのとき、国王帰国の知らせが入り、王を迎えようと謝肉祭は大いに盛り上がる。

以上が概略あらすじである。音楽の友・別冊の「ワーグナーとリング」を参照させていただきました。
こんな内容をざっと頭において聴けば、なかなかによく書けていて面白いオペラなのである。

Das_liebesverbot_2


















主役は総督フリードリヒ。この筋からしたら、まったくの悪代官で、「お主も悪よのう~」とか、襖の奥にはお布団が引いてあって、アレ~っのシーンに登場してしまうようなタイプ。
でも、それは逆に人間らしい欲をもった側面であり、フリードリヒを覆っているのは、頑迷で融通の効かない思いこみの激しい性格。
これはある意味、滑稽でもあり、そうした意味では、後のマイスタージンガーのベックメッサーを思わせる。
だから、この役柄は、ヘルマン・プライ、その人をおいてほかに見当たらないくらいにピッタリなんだ。
同じ頃、ベックメッサーで新境地を開き、さらにはヴォツェックにも挑戦する予定だったが、この録音の5年後、88年に59歳の若さで亡くなってしまった。
何度も書くけど、ルチア・ポップとともに、プライの早世は歌の世界の最大の損失だ。
 第2幕2場における、フリードリヒの独白は、ワーグナーがバリトンに与えた数々の名モノローグに匹敵する素晴らしいもので、欲望に揺れ動く心境と厳格な法の番人として死を決してしまう心情が歌いこめられていて、プライのよく通る美声と躍動感、その圧倒的な説得力ある歌唱に惚れぼれとしてしまう。

もう一人の主役が、イザベラ。
獅子奮迅の大活躍ぶりは、自己犠牲は伴わないけれど、舞台を引っ張る強靭なソプラノ。
一方で軽やかさも必要だから難しい役柄。
ミュンヘンを中心にワーグナーやシュトラウスの主役を歌い続けたザビーネ・ハース、日本にもやってきているし、おなじみだけど、音源が少ない。「影のない女」くらいかも。
やや音程にブレがあるけれど、すっきりとしたとてもきれいな声で、重々しい一時代前の歌唱と異なる。
サヴァリッシュとのトリスタンなど、音源化してもらえないだろうか。

二人の若い貴族はテノール。ファッスラーシュンク
二人とも声がでかく、どちらも立派なヘルデンテナーだけれど、ここでは軽めのノリの役柄。これまたちゃんとした録音が少ない二人が残念。

真面目でかわいらしいマリヤナのコバーン、ほかのオモシロ・コミカル役の歌手たち。
いずれも当時ミュンヘンやバイロイトで活躍し、その名を目にした人たちばかり。

こうした万全の布陣で、ポネルがどんな演出を付けたのか大いに気になるところ。
この年、ワーグナーの没後100年を記念してその全作品を指揮したサヴァリッシュ
その精力的な活動と意志の強さ、ワーグナーにかける情熱には誰しも頭が下がったはずだ。
この後、シュトラウスのオペラも全曲上演してしまったサヴァリッシュ。
やはり劇場運営に疲れてしまったのか、フィラデルフィアでコンサート指揮者に専念することとなってゆく。
それはともかく、ここで聴くオーケストラの積極的かつ有機的な響きは、この珍しいオペラをまったく自分たちの音楽として易々と演奏しているように聴こえる。

序曲と最後のカーニバルの場面が、まるで打楽器協奏曲のようで派手ハデしいけれど、それ以外はかなり真っ当で、明るいながらもしっかりワーグナーしている面白いオペラであります。
こちらも、東京オペラプロデュースの上演歴が2度あり、「妖精」とともに再演を切に望みます

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年7月 4日 (土)

なぞの「にゃんにゃん」

Mita_nyan1 都心の駐車場で見つけた怪しいナゾの生物

都会に舞い降りたエイリアンか?

どれ、ズームアップしてその姿態を確認してみようではないか

Mita_nyan2 おっおーつ!

カンガルーかっ!

いや、なんのことはない、「ねこ」でした

それにしても、尻尾、長ぇ~、手、長ぇ~~。

Cat3

はぁーん

それがどうしたってんだ

と、ひとんちの「にゃんにゃん」S君再登場の図

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年7月 3日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第4番 ロストロポーヴィチ指揮

Abukuma_1 福島県から宮城県に流れる阿武隈川。
宮城県側の丸森というあたりの河川敷。
こんなところ、今後絶対来ないな、と思い、道路の切れ目を見つけて降りて見た。
眩し~い

Abukuma_2

反対側の下流に目を転じると、あんれまぁ、橋が・・・・。

解体中かと思ったら逆で、架けている途中のようだった。
珍しい景色でしょ。

Tchaikovsky_rostoropovich_2何を思ったか、急にチャイコフスキー第4交響が聴きたくなった。

5番は、始終聴いているし、ラジオを付けると鳴っていたりする最人気曲だ。
6番は、ちょっと食傷ぎみ。
1番は大好きだけど、今聴くには暑すぎる。
2番は軽薄すぎるし、3番も寒くないとね・・・。
マンフレッドは引きずりまわされて疲れちゃうし。

だから4番かっ

考えたら4番は、アンバランスで身勝手な交響曲だ。


長大で幻想的な第1楽章は深刻で胸毛のあるロシア人が頭抱えて、それこそ胸をかきむしって悩んでいるみたいな苦渋の音楽。でも哀愁さそう旋律に夢心地となる場面も・・・。
さらにメランコリックな第2楽章がそれに追い打ちをかける。
あぁ、愛しいあの方はどーして?? なーんて気分で、これまた悩んでください。
 一転、ピチカートの3楽章は明るく、さっきまでにお悩みはいずこに。
あっけらかんと終わってしまい、怒涛の終楽章へ。
終わりよければすべてよし。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ。
ガンガンいくよ、がんがんとね。ちょっと立ち止まってこれまでを振り返り、冒頭に少し帰ってみて悩んでみたと思ったら、すくっと立ち上がり、「さぁ皆さんご一緒に」的にハチャムチャ大フィナーレが怒涛のように押し寄せ、何事もなかったかのように、聴くわれわれを興奮の坩堝に陥れて勝手に終わってしまう。

これだよ、この独りよがり的な交響曲第4番が面白いのだ。

今日は、望郷の思いあふれるロストロポーヴィチロンドン・フィルハーモニーの76年の演奏で。
ロストロさんは、この曲を約45分かけて演奏している。
通常40分から42分くらいの演奏が多いなかでは、長めの演奏タイムだが、さほど長いとは感じさせない。
思いを込めてじっくり歌いあげる部分とダイナミックにたたみかける部分とのメリハリが豊かだからだろうか。
終楽章は、お祭り騒ぎを期待するも、空しく裏切られ、インテンポで着実なエンディングが用意されていて以外だったりする。
濃厚になりすぎる一歩手前で立ち止まってしまった感もあって、少し残念。
以前取り上げた5番の方が熱いぞ!
ロシアのオーケストラだったらうるさくなったり野放図になってしまうところが、ロンドンでも一番くすんだ音色をもっていたLPOとのコンビはいい。
だから、ロシア系の演奏というよりは、ヨーロッパのチャイコフスキーになっている。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月 2日 (木)

ハイドン トランペット協奏曲 ハーセス&アバド

Pepsiso_2 今年の夏の限定ペプシは、「しそ」。

去年は、ブルーハワイ、一昨年はキューカンバー(きゅうり)だった。

楽しいのう

一口飲めば、まるで「しそ」。
おいしそーでしょ・・・・、でもないか

Cso 今日は、ハイドントランペット協奏曲
1796年、ハイドン64歳の最充実期のこの作品。

改良が進んでメカニックになったトランペットを想定して書かれた曲だけに華やかなソロが目立つ。
一方のオーケストラは、シンフォニーのように鳴りのよさがあって、とてもよく書かれている。
さすがはハイドン。

フンメルと並んで、髄一のトランペット協奏曲の名曲。
あとは、ヴィヴァルディ、テレマン、ずっと下ってトマジ、ジョリヴェあたりだろうか。
トマジの曲は、神奈川フィル定期で聴いたことがあった。ジャジーな雰囲気が粋な曲だった。
でも、モーツァルトは、何故にトランペット協奏曲を書かなかったんだろ?

15分たらずの演奏時間、変ホ長調の屈託ない明るい協奏曲は、中身はともかく、メロディも一聴して覚えてしまう親しみ溢れるものだ。
これが、シカゴ交響楽団の名手、アドルフ・ハーセスの手にかかると、フレンドリー感はそのままに、多彩で鮮やかな音色を難なく次々に繰り出してみせて、舌を巻くどころか唖然とさせてくれる。
ショルティ時代を飾った、「ザ・シカゴ」のような音色のハーセスだけに、ピーンと突き抜けるような響きがあまりに素晴らしい。
マーラーの5番、展覧会、ツァラトゥストラなどなどに、刷り込みのようなその音色。
すごいものです。

アバドシカゴ響の品のいいバックも弾みがよろしく素敵なのである。

このCDは、アバドがシカゴの首席客演指揮者時代の貴重な1枚で、ほかはいずれもモーツァルトで、グレヴェンジャーのホルン、エリオットのファゴット、スティルのオーボエのそれぞれ協奏曲が聴ける。
シカゴ、ベルリン、ウィーン、ドレスデン、パリ、管の名手が多いオーケストラ。
名人揃いのオーケストラ、指揮者は楽なのだろうか、それとも大変なんだろうか・・・

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年7月 1日 (水)

モーツァルト ファゴット協奏曲 ツェーマン&ベーム

Tomato ははっ、これ見てくださいよ。
静岡方面に行くと、変わりダネのサイダーやラムネがたくさんある。
カレー、山葵、お茶などなど。
そして見つけた「マトサイダー」。

青臭くて甘いトマトジュースの炭酸バージョン。
結構うまい、いける

ちなみに、我が家のコップは、ワンカップ酒ばかり(笑)

Photo 今日も管楽器の協奏曲を。
ファゴット協奏曲は、そう多くはなくて、モーツァルトの作品が一番であろう。

モーツァルトは、ファゴットのために4つ、ないしは5つの協奏曲を書いたとされるが、現存するのは、K191の変ロ長調の1曲のみ。
ザルツブルク時代1774年の作品とされ、だとすると18歳であります。
いつもながら、アマデウスの早熟の才には驚き。

モーツァルトの時代、ファゴットはどんな音色だったのだろうか。
ファゴットはどちらかというと地味な楽器だし、オーケストラの中でも控え目な存在になりがち。
バロック時代の通奏低音では重要な役回りだったし、ヴィヴァルディもさかんに協奏曲を残したから、地味な存在になってしまったのはロマン派以降か。
それでも、作曲家たちは、オーケストラの中で、ファゴットしかできない多彩な作品を書いた。でも協奏曲は少ない・・・。
 ファゴットで協奏曲以外、一番ピーンとくる曲は・・・・、「春の祭典」、「道化師の朝の歌」、「幻想交響曲」、「カルメン」、「悲愴」などなど。いずれもナイスなファゴットじゃありませんか!!

そして、モーツァルトの協奏曲。
20分あまりの3楽章で、あっという間だけれど、全体に流れるギャラントな雰囲気は、ファゴットという楽器を、一人の騎士のように颯爽とした紳士に仕立てあげてしまった感がある。
明晰で軽快に吹きまくるファゴットを聴いていると快感をさえ覚える。

ウィーン生まれのツェーマン、75年のウィーンフィル来日以来、すっかりおなじみの奏者。
柔らかくも流麗なファゴットは、ベーム指揮するウィーンフィルの仲間たちと、楽しそうにほのぼのとした世界を築きあげている。
あ~、のんきでのほほん、いいなぁ~。
それにしても、モーツァルトのメロディの天才ぶりといったらないです。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »