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2009年8月

2009年8月30日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」 サヴァリッシュ&ゲルデス

Shiroishi_church 電線に教会の尖塔、そして迫る夕闇。

日常のありふれた何気ない1枚。

気に入ってます。

Tannhauser_sawallisch

本ブログ2度目のワーグナー・チクルスやってます
単品では何度も出してはいますが、オランダ人前の初期3作も含めた全オペラを連続取り上げるのは、その作風の変化を楽しむのにとても意義がある。
とかいいながら、ワーグナーの場合すべての作品が重なりあうようにして同時期に構想されたり、作曲されていたし、リングのような長大4部作などは、間に他の作品が入り込んでたりするので、「トリスタン」以降の楽劇作品は、見ようによっては、すべての作品が巨大な流れの中でひとつにまとまっているかのような思いを抱く。

それに対して、中期ロマンテックオペラ3作は、後期に花開くドラマムジークへの序奏でもあり、初期3作で試みた当時のオペラスタイル(ベルカント、国民オペラ、ブッファ、グランドオペラ)をさらに発展させつつも、ライトモティーフの活用や番号の廃止で、ドラマと音楽がより緊密に結びつき、緊張感とロマン性がおのずとあふれる作品となっている。

こんな風にそのスタイルの違いを楽しむのも、またワーグナーの魅力であり、ハマってしまう原因のひとつ。

タンホイザー」は、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦のロマン的オペラ」という長いタイトルが当初のもの。
パリからドレスデンに移ったワーグナーは、「リエンツィ」と「オランダ人」の成功でその地で宮廷指揮者の職を得て、順風満帆のなか、「タンホイザー」を仕上げた。
1845年のことで、初演は大成功。
その後、聴衆の理解をさらに深めるように改訂をして、これが「ドレスデン版」となる。
管弦楽作品として聴かれる序曲が15分間演奏され、その後ヴェヌスブルクの音楽が少し入る版である。
1861年にパリでの上演を依頼された際に、序曲の途中からヴェヌスブルクの音楽になだれ込み怪しいバレエを挿入したり、歌合戦の一部を割愛したのが「パリ版」である。
さらに、ドレスデンとパリの両版の折衷版が「ウィーン版」とも呼ばれ、これがまた「パリ版」などと称されているからややこしやぁ。
指揮者や演出家によって、いろんなミックスバージョンがあるから、さらにややこしやぁ。
 スウィトナーがベルリン時代、日本で上演したものは、第1幕の終わりが少し尻切れトンボみたいだったが、どういう版だったのだろうか??

今回のタンホイザーは、60年代のものをふたつ。
ともに、不世出のヘルデンテノール、ヴォルフガンク・ヴィントガッセンがタイトルロールを歌ったもので。

Th1961_a 62年のバイロイト・ライブであるサヴァリッシュ盤は、61年から始まったヴィーラント・ワーグナーの演出2年目のもので、ドレスデンとパリの折衷版ともいえるウィーン版で、バレエの振り付けにモーリス・ベジャール、ヴェーヌスに「黒いヴェーヌス」として評判をとったレース・バンブリーが歌ってセンセーションを引き起こしたもの。
今見れば何のことはないかもしれないが、舞台中央に微動だにしないヴェーヌスが立ち、背景には蜂の巣のようなものが垂れ下り、そのまわりを、あやしくエロテックに蠢くダンサーたち。過去に遡って観てみたい舞台のひとつ。

この頃のヴィントガッセンは歌手としてピークに達しており、その後のベームとのトリスタンやジークフリートは絶頂期からややピークを過ぎたあたり。
ここで聴くタンホイザーの声は威勢もよく、ドラマティックな威力も抜群で、意気揚揚とヴェーヌスに三行半を叩きつけ、歌合戦でも夢中だし、ローマ物語もヤケのやんぱちになってしまうところが凄まじい迫真の歌唱となっている。
ライブゆえの傷もややあるが、最後までスタミナ十分なところも当時の大歌手の実力をまざまざと見せつけてくれるもの。

Tannhauser_gerdes 一方、69年のDGスタジオ録音は、どうも威勢があがらない。
最初から疲れたタンホイザーなのである。ギンギンに威力漲る二役のニルソンに押されいて、「頼むから許して下され」的な、哀れさそう1幕。
歌合戦では、遠い昔の栄華を懐かしむような思い出のど自慢のよう。
ところがこのお疲れモードのヴィントガッセンのタンホイザー、3幕のローマ語りでは、多大な効果を発揮する。さんざん辛酸を舐め、人生に疲れ切った男の苦しげな独白はあまりに堂に入りすぎていて聴き入ってしまう。
こんな風に書いたけれど、ドラマを読み込んだ歌い回しや肉太の声の魅力は、やはりヴィントガッセンならではの名唱といえましょう。
 このDG盤は、ニルソンの強靭さと冷凛さを併せ持ったヴェーヌスとエリーザベトの二役、F・ディースカウのいい人だけど、ウマすぎるウォルフラム、気品あふれるT・アダムのヘルマンをはじめ、端役にもラウベンタールヒルテソーティンレンツなどの実力派をそろえた豪華なもので、歌の魅力ではタンホイザー諸盤に引けを取らない。
 このDG盤の弱点は、よく言われるように、指揮者にある。
名歌手たちがそれぞれに自在に歌うなか、交通整理以上のことをしておらず、ここでもっと!、そこは違うだろ!と、やきもきさせてくれる。
このレコードが出た時、「おっ、ケルテスじゃん」と思ったら「ケ」じゃなくて「ゲ」だった。
オットー・ゲルデスは、当時はDGのプロデューサーとして、おもにカラヤンの録音に多く携わっていた人で、「リング」にもその名前がクレジットされている。
もともとは指揮者でもあったので、同時期に、ベルリンフィルを指揮して「新世界」やバンベルク響とヴォルフ、ベルリン・ドイツ・オペラと「オテロ」抜粋などを録音している。
音楽仲間からは、きっと人気があったのだろうし、ここでの指揮は、普通でまっとう。
余計なことはしていないし、音楽の良さも正直に伝わってくるからよしとしよう。
 これもまたよく噂されるように、予定されていた指揮者が降りてしまい、その急場をゲルデスでしのいだということ・・・・。誰だろう、Kじゃなく、Bだと思いますね、わたしは。

一方、サヴァリッシュの指揮は、これがまた目が覚めるほどに鮮度が高く活きがよろしい。続けて聴いてみると、その違いが歴然とする。
音楽がすべて息づいていて、それがドラマにしっかり奉仕していて気の抜けたところが一瞬たりともない。この素晴らしい指揮ぶりは、同時期の3作に共通して言えることで、時にその意欲が空転してしまいオケが走りすぎてしまうところもある。
サヴァリッシュのこの清新な指揮ぶりは、後年になるとさらに磨かれ、知的でスタイリッシュな演奏がドラマテックな音楽を生んでゆくことになる。
Th1962_siriya  バイロイトの響きを捉えた録音も素晴らしく、DGのイエス・キリスト教会の響きともまた大いに異なる趣きが楽しい。
 サヴァリッシュ盤のキャストは、DGのベテラン勢に比べて、当時の若手だが、アニア・シリアのひたむきな歌唱が素晴らしいし、ヴェーヌスのバンブリーの深く強いメゾも素敵だ。
深みがあるけど、ハーゲン刷り込みのグラインドルほか、当時の常連さんばかり。
ヴェヒターの友愛に満ちた声は、FDよりは役柄にぴったり。
 
 そのヴェヒターのウォルフラムが3幕、ヴィルコンメン~と、ヴェーヌスに引っ張られるタンホイザーを踏みとどまらせようと、「エリーザベト!」と一声発する。
この場面から、極めて感動的な音楽となり、オーケストラのフォルテッシモのあと、救済を歌う合唱が始まり、エリーザベトの自己犠牲によって救われたタンホイザーはこと切れ、合唱が高まりゆく感動をますます高揚させてくれる。
ピッツの指揮する合唱の素晴らしい威力をここでも味わえる。

 舞台でもCDでも、最後の場面は涙なくしては聴けないわたし。
この前のドレスデンの来日公演のコンヴィチュニー演出では、エリーザベトは聴衆に見える場所で刃物で自決しちゃうし、あらわれたヴェーヌスはアル中になっていて、死んだタンホイザーとエリーザベトを抱きしめちゃう。
ひとりぼっちになった、ウォルフラムはヴェーヌスにちょっと未練を残しつつ、寂しく舞台の上のほうへ登ってゆく。というおもろい演出で、泣けなかった(笑)

 サヴァリッシュ盤

 タンホイザー:ヴォルフガンク・ヴィントガッセン ヘルマン:ヨーゼフ・グラインドル
 エリーザベト:アニア・シリア      ウォルフラム:エーベルハルト・ヴェヒター
 ヴァルター:ゲルハルト・シュトルツェ  ビテロルフ:フランツ・クラス
 ハインリヒ:ゲオルク・パスクーダ    ラインマル:ゲルト・ニーンシュテット
 ヴェーヌス:グレース・バンブリー    牧童:マルガレーテ・ガルデッリ

   ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団
         ウィルヘルム・ピッツ指揮 バイロイト祝祭合唱団
                     演出:ヴィーラント・ワーグナー
                            (1962 バイロイト)

 ゲルデス盤

 タンホイザー:ヴォルフガンク・ヴィントガッセン ヘルマン:テオ・アダム
 エリーザベト:ビルギット・ニルソン ウォルフラム:D・フィッシャー=ディースカウ
 ヴァルター:ホルスト・ラウベンタール  ビテロルフ:クラウス・ヒルテ
 ハインリヒ:フリードリヒ・レンツ      ラインマル:ハンス・ゾーティン
 ヴェーヌス:ビルギット・ニルソン     牧童:カテリナ・アルダ

   オットー・ゲルデス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
                  ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
                            (1969 ベルリン)

こうして歌手の共通する2つの録音を聴いてみて、オペラにおける指揮者の重要性を改めて感じた次第。
でもちょっと疲れましたよ。

タンホイザーの過去記事

「カイルベルト1954バイロイト盤」
「ドレスデン国立歌劇場来日公演2007」

「新国立劇場公演2007」
「クリュイタンス1955バイロイト盤」
「ティーレマン2005バイロイト放送」

 

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2009年8月29日 (土)

柴田南雄 交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」 若杉 弘指揮

Mizunaigawa 神奈川県の丹沢を流れる水無川。
毎年、車でかなり上流まで登り、河原でバーベキューを楽しむ。
だが、年々、水量が減少していて、広い河原に何本か別れていた流れも1本しかなくなってしまった。

梅雨らしさがなくなって、普通の雨がなくなり、南方化しつつあるゆえか。
山ヒルの大量発生、木々枯れ、鹿の下山・・・・。
丹沢山系も変化しつつある。
Ryujin

山道の途中にある「竜神の泉」。
名水の里、秦野盆地湧水群のなかのひとつ。
実家では、近所の方々とこちらまで足をのばしこの水を汲んでいる。
この水で煎れたお茶やコーヒーは格別にございます。

Shibata_yuku_kawa_no_2  柴田南雄(1916~1996)の交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」を聴く。
日本の音楽と少し縁遠いわたしなどは、柴田さんというと、音楽評論やFMでの解説といった方が馴染みがある。
一番印象に残っているのは年末のバイロイト放送の解説。
70年代はずっと柴田さんの解説だったように記憶している。その語り口は優しく、ユーモアにもあふれていて、ドイツ語の発音も独特のものがあって、今思うととても懐かしい。

その柴田さんも亡くなって早や13年。
指揮する若杉弘さんも、先ごろお亡くなりになり、日本の音楽界もさらに若返りが進んでいるのを実感する。

この交響曲は、1975年の作品で、昭和50年にあたり類ない激動の昭和半世紀を振り返り、かつ何よりも、柴田氏の10歳から60歳の50年の自分史を重ね合わせた作品であるとしている。
このCDのご自身の解説しか頼るものがないので、以下そちらを参考に曲の概略を。

第1部 音楽史・自分史
 第1楽章 いにしえ風の音楽で今様の旋律も
 第2楽章 新古典主義風の音楽で、突然出てくるものだからギャップが大きい
 第3楽章 スケルツォ 1930年代、ファシズムが近づくが音楽は少し楽天的。
       三文オペラ、会議は踊る、宝塚ソングなどの引用
 第4楽章 後期ロマン派風のメロディアスな音楽。映画音楽のようにも聴こえる
 第5楽章 60年代。12音技法が用いられ、一番現代音楽っぽい。

第2部 「方丈記」による。シアターピース風上演を要する
 第6楽章 「ゆく河の」 今様のモティーフを旋律に、方丈記を歌詞にした無限カノン
 第7楽章 「方丈記の口説」 聴衆の間に入った合唱団がひとりひとり方丈記を
       読み上げる。天変地異の様子も口説され、オーケストラは咆哮しまくる。
 第8楽章 「終曲」 方丈記冒頭が静やかに歌われ、その後うごめくオーケストラに
       のって、ひとりひとりが再び語る。
       それもひと段落すると、無伴奏合唱が歌う方丈記の一節。
   
       淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
       久しくとどまりたる例えなし。
       ゆく河の流れは絶えずして・・・・・

       この極めて感動的な合唱のあと、オーケストラによる曲の冒頭部分が
       再び繰り返され、静かに曲を閉じる。

方丈記に読まれる天変地異は、強風(竜巻か?)や大地震のことで、そのありさまは、今の我々には想像もつかない凄まじさであったろうが、それは淡々としていて、達観しているものだ。
何事も、ばたばたと騒ぎすぎる今の世の中。
悠久の書を読み、かつこうした音楽も聴くなどして穏やかに過ごしたいものである。
この交響曲、引用もありいろいろ詰め込みすぎとも言えようが、歌好きの私としては、オケの鳴りっぷりの良さも相まって、とても楽しく、そして興味深く聴いた。
願わくは、ホールで体感してみたいもの。

若杉さんの追悼も含んで、取り上げました。

        若杉 弘 指揮 東京都交響楽団
                  京混声合唱団
                                          (89.1 東京文化館)

※9月7日(月) 新国立劇場にて、故若杉弘さんを偲ぶ会が開かれます。
 

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2009年8月28日 (金)

バッハ カンタータBVW51「全地よ、神にむかいて歓呼せよ」 ルチア・ポップ

Tokyo_tower_20090828 今日の東京タワー。
8月の金・土は、2時間だけこんな風にライトアップされている。
ダイヤモンドヴェールだそうな。
9月もまた趣向をこらしたヴェールをまとうという。

毎日大変だけど、美しいものには心が和みます。

Popp_bach 今日は、ルチア・ポップの歌う、バッハのカンタータ BWV51「全地よ、神にむかいて歓呼せよ」を聴こう。
こうして久しぶりにバッハのカンタータを聴くと、心が洗われ、清々しい気分になる。

かつて、リヒターの選集やヴィンシャーマン、ガーディナーなどで、数あるカンタータをそこそこ集めて聴いたものだが、ここ数年すっかりご無沙汰をしてしまっている。
演奏のスタイルも変わりつつあり、古楽奏法もすっかり定着し、まったく当たり前のこととなった今、アナログ的な演奏によるバッハが妙にまた新鮮に聴こえる。
そして歌うのが、最愛のルチア・ポップとあってはなおさら。
優しく、ぬくもりあふれるポップの歌声は、受難曲あたりだとかえってその親しみある声が少し浮き上がってしまうように感じるのだが、このソプラノのためのカンタータは歌わせどころがふんだんにあるので、バッハの音楽を味わうとともに、ポップの歌声も味わうというところで、とても楽しめる。

三位一体節後第15日曜日用のカンタータとして、1730年9月17日に演奏されたと言われるが、それも諸説あってはっきりしないという。
しかし、バッハの書いた音楽は真実の音として今のわれわれの耳に、心にしっかり届いている。
トランペットも活躍するこの曲、一見華やかだが、そう聞こえるのは最初と最後のアリア。
ソプラノの目覚ましい技巧とトランペットが、心を沸き立たせてくれる素晴らしいアリアだが、中間のレシタティーボとアリアはバッハ特有の、音楽に祈りが昇華したような清らかな曲で、朝のさわやかな祈りの気分に満たされている。

      いと高き者よ、汝の慈しみを
     いまよりのち朝ごとに新たにしたまえ

            S:ルチア・ポップ
            Tr:ドーン・ラインハルト

    マリウス・フールベルク指揮 アムステルダム室内管弦楽団

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2009年8月27日 (木)

メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」 マリナー指揮

6 先週末の私の住む町の花火大会。
花火の写真を撮るのは実に難しい。

3 瞬間を捉えるのは何事も難しい。
つまるところ、人間の目で見るのが一番美しいもんだ。

4 せっかくのハート出現なのにボケボケ。
一応、載せときます。

Mendelssohn_midsummer_night_dream_m

朝晩めっきり涼しくなりましたな。
今年の夏は気候も含めてイマイチだった。
だから、まだ夏は終わらせたくない。
そして音楽も真夏の音楽を今日も聴きます。

ご存じ、メンデルスゾーンの劇音楽「真夏の夜の」。
1809年生まれ、1947年没。
今年生誕200年のメンデルスゾーン。
私の生誕200年の記憶で一番鮮烈なのが、ベートーヴェン。
クラシック聴きはじめでもあり、1000円の廉価版が出だしたこともあり、そしてなによりも万博があって、錚々たる演奏家が来日した。
 だから、その後の200歳作曲家の印象はあんまりない。
今後、私の中で凄そうなのは、そう、2013年のワーグナー200歳祭り。
この年は、没後130年も兼ねた年にもあたる。
それまで、元気でいなくちゃ。つーか、かの聖地に行ってみたい。

話がメンデルスゾーンから逸れちまいました。
シェイクスピアの同名の喜劇を題材に書かれた劇音楽。
同じ素材のブリテンのオペラはこちら
13曲からなるこの作品、序曲だけは17歳、他は34歳に書かれているが、いつものメンデルスゾーンらしく、まったく均一なムードと音楽の統一感にあふれている。
屈託なく伸びやかで、陰りない朗らかなな音楽は、聴く者を幸せな気分にさせてくれる。

   序曲
 1.スケルツォ
 2.情景と妖精の行進曲
 3.二人のソプラノのための歌と女声合唱曲
 4.間奏曲
 5.夜想曲
 6.結婚行進曲
 7.プロローグ
 8.葬送行進曲
 9.ベルガマスク舞曲
10.情景とフィナーレ

一般に序曲を含めたこの11曲が録音されることが多いようである。
単体でも素晴らしく均衡のとれたロマンあふれる序曲。
夢幻に満ちたスケルツォ、ソロの掛け合いが楽しい3曲目、ホルンが森の響きをかもしだす美しい夜想曲、いまや一瞬マーラーの5番かと思ってしまう出だしの結婚行進曲。
この曲は中間部がよろしい。ユーモアも感じる終曲。
いい曲であります。

こうした曲は、まさにマリナーにぴったり。
清潔で、どこまでも見通しよく、厭味がまったくなくて後味もすっきり。
場合によっては、すいすいスラスラと通り抜けてしまうことのあるマリナーも、ここではメンデルスゾーンの音楽にまったく同化してしまったかのような指揮ぶりで、相性のよさ以上のものを感じる。お国もの的な意識もあるのか、ジェントルで上品なメンデルスゾーンは、疲れた体にとても心地よく響いた。
オケは、フィルハーモニア感(ホルン素晴らしい)。
ソロは、アーリーン・オジェーアン・マレーのこれまた清潔コンビ。

気がつけばこの曲、ほかにプレヴィン&ウィーンとアバド&ベルリンを所有している。
いずれも好きな指揮者たちであり、メンデルスゾーンへの適正を持った人たち。

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2009年8月25日 (火)

コルンゴルト 「死の都」から「マリエッタの歌」 ヘンドリックス

Shoro_1 16日、お盆の送り、灯篭流しを見かけた。
実家より帰宅中、藤沢市の引地川にて。

橋の上から眺めてたけれど、来る来るわ、じゃんじゃん流れてくる。

Shoro_2 橋の反対側は浅瀬で流れが急になっていて、ここで男衆が数人で灯篭をキャッチして回収しているが、大量に襲いくる灯篭に四苦八苦しているのを見るのもまた楽しいもの(失礼)でありました。

Korngold_symphony_most 忙しいです。
仕事も、息子の宿題も・・・・。
眠いです。
疲れがたまってます。
お酒もなるべく飲まないようにしてます。
親類の不幸がまたあったりで、この2ヵ月で3件。
地震も毎日ゆらゆらします。
電車も始終止まったり遅れたりしてます。
車の運転のしすぎで足がかったるいです。

と、まぁ、ここまで弱音を吐けばいいでしょう。

今日、携帯に送られてきたコラムによると、「ブログは心理学に通ず」とあった。
書くことで毎日の生活の印象が変わる→日記療法に準ずる効果。
そう、ネタ集めで日々が活性化するわけですな。
それと、認知療法効果もあるそうな。
 でも更新しなくちゃならないプレッシャーも生まれうるから、やはり縛られすぎず、気楽にやることですな。

時間のない今宵は、私の大好きなアリアをひとつ。
コルンゴルトのオペラ「死の都」から「マリエッタの歌~わたしに残された幸せは」。
世紀末を生き、世紀末音楽から脱却できず忘却されてしまったコルンゴルト。
あまりに甘味でとろけるような美しさに満ちたこのアリアは、主人公パウルが、愛するいまは亡き妻と実在するマリエッタを重ね合わせてしまい、幻にさまようというこのオペラの核心とでもいうべき名旋律である。

ウェルザー・メストフィラデルフィア管による交響曲の余白、といってはもったいないくらいの名唱が、バーバラ・ヘンドリックスの歌。
「6つの素朴な歌」から4曲と、「マリエッタの歌」が収録されている。
彼女の人懐こいチャーミングな歌声は、健康的にすぎる場合もあるが、このコルンゴルトではその歌声が懐かしさと憧れに満ちて聴こえて、素晴らしく音楽にマッチングしている。
濡れそぼったような抒情とでも言おうか。
雨に煙るブリュッセルの河を眺めて少し前のことを振り返っているような気分にさせてくれる。

ちなみに、私のあと好きな「マリエッタの歌」の歌手は、B・シルズ、フレミングにデノケ、オッターなど。
パウルが最後に歌う同じ歌も素敵すぎで、わたしはカラオケで歌いたいくらい。
こちらはなんといっても、R・コロ、そしてこの役のスペシャリストT・ケルル。
ケルル氏は、来シーズン、新国でドン・ホセを歌いますよ。

過去記事
 「ラニクルズ&ウィーン国立歌劇場の死の都」

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2009年8月22日 (土)

ヒルデガルト・ベーレンスを偲んで

Salvia 去る18日、来日中に亡くなってしまったヒルデガルト・ベーレンスを偲んで彼女のもっとも得意としたワーグナーを聴く。

サルビアの花。
晩夏から秋にかけて、今がその盛り。
子供の頃は、その密をよく吸ったものだ。
今はなんだか怖いし、埃っぽいような気がして・・・。

Gotterdammerung_levine

享年72歳、しかも現役で活躍中だっただけに、その早すぎる死は極めて残念なこと。
カラヤンに発掘され、「サロメ」でセンセーショナルを引き起こしたのは1977年。
40歳にして、注目され世界の第一線に踊りだしたベーレンス。
それまでは、デュセルドルフを中心に活躍していたというから、もしかしたら若杉弘さんと共演していたかもしれない。

77年のザルツブルクライブは、FMで放送され、カセットテープに録音して長く聴いたものだったが、いつの間にか消失。
カラヤンの指揮がどうもきれいすぎて、印象がイマイチだったけど、ベーレンスのまさに少女のような新鮮なサロメはいまだに耳に残っている。(でもレコード・CDは未購入)
そして、サロメとともに、本来のドラマでは少女のようだったイゾルデ。
ベーレンスのイゾルデも、ペーター・ホフマンの素敵なトリスタンとともに、ピーンと張りつめた声の緊張感の魅力とともに、かげりのない若々しい魅力に満ち溢れた理想の歌唱であり、声のマッチングも抜群のカップルであった。
惜しむらくはバーンスタインの指揮が、ユニークで立派ではあるけれど、二人の歌唱とはやや異質に思われること。ベームやサヴァリッシュのようなストレートなワーグナーの方がよかったかも。

イゾルデの録音のあと、ベーレンスはバイロイト音楽祭にブリュンヒルデで登場する。
83年、シェローのあとを受けたピーター・ホールの演出とショルティの指揮。
リアルすぎる演出と劇場の音響を掴みきれなかったショルティの指揮が評判がいまひとつだったのに加え、ベーレンスのブリュンヒルデは、ひとり絶賛された。
翌年は、P・シュナイダーが急場を救いさらに翌年の85年は、このプロダクションのピークを記録する素晴らしい演奏だったと思う。
今でも、その録音は私の大切な「リング」のひとつで、知的にペース配分されたベーレンスの安定した歌唱は、最初から最後まで、どこをとってもみずみずしい情感にあふれ、かつドラマティックな力強さにも事欠かない素晴らしいものである。
加えて、賛否あったニムスゲルンのウォータンが滑らかでとても好きだった。
このときの映像がごくわずかにビデオに残してあるのだが、いまやどこにあるのか不明。
いずれ発掘したこちらで公開したいと思ってます。

このブリュンヒルデの素晴らしさは、その後のサヴァリッシュのミュンヘン上演と、レヴァインのメト上演にも同じように聴かれ、それぞれに映像も伴っていて演技派でもあったベーレンスの姿もしっかりと確認できるのがうれしい。
今日は、レヴァインとメトの「リング」から、「神々の黄昏」第3幕を聴いてます。

私にとっての、最高のブリュンヒルデとイゾルデは、どうしてもニルソンをおいて語れないのだけれど、ベーレンスはそのニルソンを唯一忘れさせてくれる存在だったといっていいかもしれない。(リゲンツァもその一人)
 どんなに強く歌っても、優しく明るさも伴った声は、けっして威圧的にもならないし、私には魅力であるけれど、皆さんが指摘するG・ジョーンズのような絶叫にもならない。
91年の初来日が、私の唯一のベーレンス体験。
小沢・新日の定期への登場で、やはりブリュンヒルデの自己犠牲を歌った。
コンパクトな小沢さんの指揮の一方、小柄ながら風格あふれるブリュンヒルデを余裕をもって歌っていたベーレンスだった。

ワーグナーに残された音源はあとは、ゼンタ。
こちらは長く廃盤で聴いたことがない。
クンドリーの録音もなされなかったのが残念だし、後期のシュトラウス作品も歌って欲しかった。

私にとって、ベーレンスはワーグナー歌手一本でありましたが、シュトラウスやレオノーレ、アガーテにプッチーニ、そして歌曲などもこれから確認していきたいと思っております。
亡くなってみて、その偉大さに気づき、残念がるのも虚しいことではありますが、歌手の場合、声として記録が残るので、これまで何人もの歌手を心に、そして耳に留めてきたと同じくして、ベーレンスの歌声もきっと末永く忘れえぬものとして私の中に残っていくことと思います。
改めまして、ご冥福をお祈りいたします。


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2009年8月21日 (金)

ベルリオーズ 歌曲集「夏の夜」 スーザン・グラハム

Wabisuke_4仙台から帰ってきた。
昨晩は、「侘び助」で一杯。
こちらは、料理もおいしく、お酒も良いものがたくさんあって、目が廻ってしまう。

毎月、鬼平犯科帳に出てくる料理が供されるのもうれしい。
こちらは、そのうちのひとつ、夏野菜の煮物。
江戸時代は、井戸で煮物を冷やして楽しんだという。
風流ですな。
そして、こちらの煮物、とても優しい味でござった。
最近さぼりぎみの、「さまよえる神奈川県人」に近々公開します。
仙台に行かれたら、是非「侘び助」へどうぞ。

Berlioz_les_nuits_dette_suzan_graha
今年の夏は、公私ともに忙しくて、気がついたらもう夏も終わりに近づいてきた。
夏らしさが少なかったせいもあるけど、去る夏を思うと寂しいもの。

遅ればせながらの夏の音楽シリーズ、今日は、私の好きなベルリオーズの歌曲集「夏の夜」を一人静かに聴きましょう。

イタリアやドイツに比べたら、フランスに名歌曲が生まれるのはずっと遅かった。
 しかし、この6つの歌曲からなる「夏の夜」こそがフランス語のディクションを大事にした「メロディ」というフランス歌曲のいわば出発点となったわけだし、オーケストラ伴奏歌曲というのも画期的なスタイルだった。

1841年、ベルリーズはピアノ伴奏版で作曲し、その後1843年と少し間をおいて1855年にオーケストレーションを施し、今の形が出来上がった。
ベルリオーズ自身は、6曲の歌手の指定をしていて、メゾ・ソプラノまたはアルトないしはバリトン、そしてテノールとなっている。
ところが、なかなか歌手をそろえるのも大変だろうし、一人の歌手でも詩の内容からしても全然違和感がないから、女声によって歌われるのがほとんど。
バリトンやテノールによる録音もあるが、私は聴いたことがありません。
美しいメゾで聴くことに慣れちゃったから、きっとずっこけるかもしれないし・・・。

詩は、フランスの詩人テオフィル・ゴーティエによるもの。
まさにロマンにあふれ、夢見るような内容。
その詩に、ベルリオーズはなんと美しく馥郁たる音楽を付けたことだろうか!

 1.ヴィラネル
 2.ばらの精
 3.入り江のほとり
 4.君なくて
 5.墓地で、月の光
 6.未知の島

    新しい季節がめぐってきて、
   寒さが遠のいたら
   僕たちふたりで、ねぇ
   森へスズランを摘みに行こうよ
   摘んでいる僕たちの足元では
   真珠のような露が朝に震えているようだよ
   聞きにいこうよ、つぐみが鳴くのを・・・・
              (ヴィラネル)


1曲目の「ヴィラネル」が大好き。歌曲集のタイトルとは関係なく、これは春の訪れを喜ぶ幸せに満ちた桂曲で、フランス語の語感とメゾの声域が生み出す艶めかしいくらいに甘やかな雰囲気が堪らなくいい。
オケも軽やかなスタッカートが、幸福感に拍車をかける。
それと明るいのは、6曲目の「未知の島」。舟歌である。
若い男が乙女を船旅に誘っている。どこへ旅立つのか・・・。でも乙女は愛の戒めを語る。
不思議な明るさをもった終曲は、そっと終わってしまう。
中間の4つは、内容的には暗い雰囲気だけれど、ベルリオーズの見事な音楽は、実に雄弁で、「ロメオ」や「ファウスト」並みの作品に勝るとも劣らない。
これらは、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲」をも思い起こすことができる。

テキサス育ちのアメリカのソプラノ、スーザン・グラハム
素直でクセのまったく見当たらない声でありながら、時おり香り立つような味わい深い声も聴かせてくれる。クレヴァーな彼女、フランスものを得意にしていて、私のような仏語オンチにも、その語感の美しさと完璧ぶりはよくわかる。
彼女、声域は広く、メゾソプラノとしての活躍も目立つが、オペラ歌手としても一流なだけに表現の幅がとても豊かで安定しているのも強み。とても余裕がある一方で繊細さも充分なのだ。
 ジョン・ネルソンコヴェントガーデン・オーケストラも実に雰囲気がよろしく、ベルリオーズの美しい世界を見事に描きだしていると思う。

この曲、先ごろ亡くなった、ベーレンスも録音していたはずで、一度聴いてみたいと思っている。

Cosmos200908

宮城県内を走行中、路傍でもうコスモズが咲いておりました。

まだ夏よ、終わらないで。
特に、東北から北は、梅雨終結もないままに秋が来ちゃうなんて、困ります。

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2009年8月20日 (木)

ヒルデガルト・ベーレンス亡くなる・・・

Behrens_2 ドラマテック・ソプラノのヒルデガルト・ベーレンスが、18日、来日中に都内の病院で亡くなったとの報に今朝接した。
まだ72歳。草津夏期国際音楽祭に毎年来日していて、私も一度は行きたいと思いつつ、その機会をこれで失ってしまった。

カラヤンに見出され、「サロメ」に抜擢された時は、まだ無名の歌手だったと記憶する。
以来、ワーグナーやR・シュトラウス、ドイツオペラには欠かせない名歌手となった。
小柄で華奢な体から、繰り出す素晴らしい声は明晰で、かつ暖かく女性的。
私は、一度だけ、小沢征爾との共演でワーグナーを聴いたことがある。
文化会館に響きわたるその声に、大いに感銘を受けた。

彼女のワーグナーをいずれあらためて取り上げてみたい。

親しみあふれる不世出の歌手ベーレンスさん、謹んでご冥福をお祈りいたします。

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2009年8月19日 (水)

アルヴェーン スウェーデン狂詩曲「夏至の徹夜祭」 ヤルヴィ指揮

Aquavit_ikea スウェーデンのお酒、アクアビット

他の北欧諸国やドイツでも作られ、飲まれている。

ジャガイモの蒸留酒で、これに香草で風味付けをして、薫り高く仕上げたもの。
結構キツくて、ストレートで呑ると胸が熱くなる。
でも癖になるうまさですよ。
ウォッカのように、北国の人々が寒い冬を乗り切るために編み出した強いお酒。

IKEAで購入。
こんな風に一杯引っかけながら、ブログを起こしている酔っ払いブロガーざんす。

Alfven_midsommarvaka_jarvi スウェーデンの作曲家、ヒューゴー・アルヴェーン(1872~1960)は後期ロマン派の流れを組みつつ、自国の風物や自然をしっかりと感じて、音楽に取り込んだ民族主義的な側面もしっかり持った人。

スウェーデン狂詩曲「夏至の徹夜祭」は、残暑もほどほどになり、晩夏に聴くには、ちょっと遅すぎるかもしれない。

3曲あるスウェーデン狂詩曲の中で一番有名で、冒頭の楽しげなクラリネットによる明るい旋律は誰もが聞いたことがあるであろう。

暗く長い冬に比べて、夏は日の沈まない光に満たされた季節という。
一度行ってみたいものであります。

明るい調子の音楽で踊り戯れる若者たち。
民族楽器フィドルの音色に乗せてもう大騒ぎ。
でも、その中から若い恋人ひと組が抜けだし、やがて夜明けが訪れる。
さぁ、もの思いに沈んだ二人は、賑やかな踊りに再び加わり明るく楽しい祭りはまだ果てることなく続いてゆく・・・・。

こんなイメージの音楽は、北欧の夏のサラッとした爽やかさと、夏を謳歌する開放感とに満ちていて、暑い日本の夏にいるわれわれを羨ましい気分にさせてくれる。

アルヴェーンは、第4交響曲の悩ましくも美しい音楽が私は大好きだが、こうした軽いタッチの曲も本場の情緒がとても溢れていてうれしいものだ。

ヤルヴィストックホルムフィルの交響曲シリーズの余白に収録された演奏。
歌い回しがあっさりしつつも、透明感ある音色は北欧独特のオケのものと感じる。

あちらの夏至祭は、きっとアクアビットらっぱ飲み、サーモン、チーズ、肉団子、すぐりの実、食べ放題の楽しいものなんだろな。
そういえば、日本のIKEA店舗でも夏至祭りをやっているはず。
来年は行かなくちゃ。

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2009年8月18日 (火)

ディーリアス 「夏の庭園で」 ワーズワース指揮

Obuse 夏のイングリッシュガーデン。

英国庭園のいいところは、フランスや日本の整然とした均衡の美しさと違って、自然に任せてしまったかのようなさりげない美しさにあふれているところ。

見ようによっては、荒々しいくらいに放置されて見えるけど、その自然さがいい。

Delius_wordwaorth

残暑に聴く音楽。
今日は、最愛の作曲家のひとり、フレデリック・ディーリアスの「夏の庭園で」を。
私は、ディーリアスのこの一幅の夏の抒情詩にような美しい作品が大好きで、もうこれで3度取り上げたことになる。
もちろん、いずれも夏であります。

何度も記すことだが、四季折々に、ディーリアスは感興あふれる桂品を残していて、それらは、四季に恵まれたわれわれ日本人の感性にもぴたりと寄り添ってくれるようなものばかり。
実際は、英国や、フランス、ドイツ(若い頃はアメリカでも)で作曲されたわけだから、日本の四季ともいささか異なり、冬が長く、春から夏への変化は劇的ともいえるほど、そして秋は短く冬との境目がわずか・・・・。ディーリアスの音楽からは、こんな風にあちらの四季を想像しているけれど。

「夏の庭園で」は、1906年に愛する妻イェルカのために書いた作品で、これはワーグナーが妻コジマに書いた「ジークフリート牧歌」にも通じる、愛に満ちた儚くも美しい音楽なのである。
かつても揚げたとおり、今回もスコアに寄せられた、ロセッティの詩歌をここに載せましょう。

「すべてわが花盛り。春と夏が歌っているあいだに、花盛りのすべてを汝に与えん」

とりどりの花咲く庭に、蜂の羽音。
蝶も飛び交い、緑の庭は幸せに満ちている。
その幸せをジワジワとかみしめ、そして夏を謳歌し、のびやかに讃歌を歌う・・・・・。
 なんて美しく愛らしい音楽なのだろう。
昨晩の「牧神」と同じように、感覚的な音楽でもあり、私はまたもやホワ~ンとして、呆けたように聴き入ってしまうこととなった。

バレエの指揮者のように思われちゃってるバリー・ワーズワース指揮するロンドン交響楽団の演奏は、とても素敵なもの。
この人、オペラも振れるし、レパートリーも広いはずだから、B・トムソン、ハンドレーそしてヒコックス亡き後の英国音楽の貴重な担い手となっていって欲しいと切実に思う。

「夏の庭園で」 過去記事

「ハンドレー&ハルレ管」
「バルビローリ&ハルレ管」

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2009年8月17日 (月)

ドビュッシー 「牧神の午後への前奏曲」 アバド指揮

Oiso_pine 帰省中に撮った大磯の松並木
東海道の昔から変わらぬ姿。
真夏の昼間の眩しい日差しを受けて影はクッキリ涼しげ。

 

こんな街道沿線でも海の見える云々とかで、マンションが計画中で、建設反対の幟もちらほら。
このあたりは昔からマンション計画は反対を浴びて挫折する鬼門なのになんでやるのかね?
吉田茂邸も全焼しちゃうし、どうもいいことない。

 

Abbado_debussy 「ものうい真夏の昼さがり、シシリアの岸辺、森かげにまどろんでいた牧神が、夢からさめて笛を吹く。」

 

残暑を楽しむ音楽を聴きましょう。
たまりにたまった仕事に、先延ばししてた出張、子供の宿題のサポート・・・、あぁ時間がない。
こんな時でも週末にワーグナーを聴いちゃうという芸当をお見せしますのでお楽しみに。

仕事再開の本日、短めに、でも内容は濃い1曲。
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」をば。

この曲は、中学生の時に聴いた。
曲の内容も知り、夏休みのうだるような一日、昼のさなかによく何回も聴いて、ホワ~ンとしていたものだ。
冒頭、フルートの吹けば簡単に思われるメロディから始まり、曖昧で模糊、夢かうつつかと思われる具合に進行する。こうした雰囲気が、日の中や木漏れ日のように徐々に光の加減を変えていって、いろんなイメージを映し出してゆく。
私は、その流れに身を委ねて、ふわふわと、そして陶然としているだけで、この曲の10分間が流れ過ぎていってしまう・・・。

象徴派詩人マラルメの詩をモティーフにしたこの前奏曲。
最初は「間奏曲」と「終曲」も付けて3曲の作品になる予定だったというが、この「前奏曲」だけでもう充分。
ワーグナーに傾倒したドビュッシーのワーグナーへの決裂の前奏曲でもあった。

アバドロンドン交響楽団音楽監督時代の最後の頃(86年)の録音のこのCD。
「海」が好きでそればかり集めていたら、おのずと「牧神」も付いていて、たくさん揃えてしまった。このアバド盤は、違うカップリングだけれど、このコンビのイメージ通り、明るいブルー系のクリアーなドビュッシーで、夢幻な雰囲気よりは地中海的な明晰さを感じる。
そして微細なまでにデリケートで歌心にも満ちたアバドの牧神は、のちのベルリンフィルとの録音とともに、私の好きな「牧神」のひとつ。

 

夏の昼食に、ビールを飲んで、そうめんを食べて、胡瓜かじって、この曲を聴いてまどろむのを夢みて、これより寝ます。お休みなさい。

 

 

 

 

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2009年8月12日 (水)

ダンディ 「フランス山人の歌による交響曲」 ティボーデ&デュトワ

Toya 夏のリゾートにはこんな光景が似合う。
ラベンダーの一種。

Toya1 このところ遠くにいってないので、過去ネタから。
サミットを控えた洞爺湖。
こうした水と山の風景を見ると、グリーグやシベリウスといった北欧系の音楽を思い起こしてしまう。

Dndy_symphonie_dutoit

でも、今日は山の音楽を聴きましょう。
フランスのヴァンサン・ダンディ(1851~1931)の「フランス山人の歌による交響曲」。

ピアノソロを伴った交響曲はユニークで、協奏曲のようにピアノ主体でもなく、ピアノもオーケストラの一員でるかのような、ピアノ付きオーケストラのための交響曲といった感じだ。

ダンディもこの時代のフランス系の作曲家の例にもれず、フランク一派に属し、この交響曲も3楽章形式で、循環主題をもとにした構成となっている。
ダンディは、番号付きも含めて、全部で5つの交響曲を残しているが、この「フランス山人」が一番有名。
あとは、CDでたぶんもっているけれど、あんまり印象がない。
 ダンディといえば、だいたいこんな印象で地味なことこのうえない。
ダンディで検索すると「ダンディ板野」の方が先に出ちゃうんだ・・・。
というか、まったく出てこない。

でも、クラシックファンとしては、この作品だけでもダンディは脳裏に刻まれる存在なのである。
この曲だけがこんなに有名になったのは、もしかしたら、ミュンシュの録音があったからではないだろうか?
ミュンシュとボストン響、シュヴァイツァーのピアノによる名演奏は何度も再発されて、われわれを癒し続けている。カップリングが、ショーソンの交響曲であることも魅力。
私がクラシックを聴き始めた頃、RCAレーベルから、雪を頂いた山に日本RCAお得意の金字の習字文字でこの曲のタイトルが書かれた豪華見開きジャケットが出ていて、ケンペのアルプス交響曲、プレヴィンの海の交響曲などとともに、夏の清涼剤のようにして販売されていたものだ。
 いまでもそのCDは、ショーソンとともに私の大切な1枚だが、デュトワモントリオールとともに、蜜月時代、あまりにも素晴らしい録音を残してくれた。(89年)
録音の素晴らしさが、その清涼感にまた拍車をかけている。

Montlozere ダンディは子供時代から慣れ親しんできた、セヴェンヌの山々を思い、その麓のペリエに滞在しつつ、この作品を書いた。そこで知った牧歌がこの曲のイメージとなっており、この曲は「セヴェンヌ交響曲」とも呼ばれている。
ピレネー山脈の一角、ギザギザした高原のような高い山々が続く場所みたい。

音楽もまた、このような風景を見事に描きだしてやまず、まさにこれはリゾート音楽のようで、「アルプス交響曲」と双壁の存在といっていい。

冒頭、イングリュシュ・ホルンの懐かしい旋律が、弦楽のたおやかな背景の上に奏でられると、部屋の温度はもうマイナス3度はクールダウンする。
ともかくさわやかな第1楽章。山々の描写的な音楽であるとともに、とても感覚的な音楽でもある。
柔らかで牧歌的な第2楽章は、木陰でのんびり昼寝をきめ込むのにうってつけの音楽。
そして、リズミカルな終楽章を聴いているとグリーグの協奏曲かと思うくらいに爽快な気分に満たされる。この楽章は、全曲の総括のようにあらゆる旋律が繰り出され完結感もばっちりだし、軽く炭酸の利いた清涼飲料水を飲んだかのような心地よさに満たされてしまう。
決してビールではないのですよ。これが。

このような爽やかな音楽にアルコールはいけません。

こんなイメージにぴったり寄り添ったデュトワの指揮と、ティヴォーデのピアノ。
言うことありませぬ。

さて、こんな気分のまま、わたくし、明日から休みに入ります。
普通に実家に帰らせていただくだけですが、更新はしばし休憩いたします。

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2009年8月11日 (火)

ヴォーン・ウィリアムズ 「海の交響曲」 ハイティンク指揮

Bay2外洋に漕ぎ出さんとする船。
といっても、こちらは連絡船みたいだからそんな大きな航海ではないけれど、横浜の大桟橋を出てベイブリッジを背景にしたその姿はとてもサマになる。

人間は、海を脅威としつつも、その先には未知の世界や希望があると、ずっと信じてきた。
今の世の中のように、通信手段も進化し、世界のどこにでもアクセスができるようになっても、海はやはり神秘と憧れの源だ!

夢も希望も薄くなった現代こそ、海に思いを託して、そう音楽好きなら、海を歌った音楽に身を任せるのもいい。

Sea_symphony_haitink その名も「海の交響曲」。

ラルフ・ヴォーン・ウィリアムズRVW)の交響曲第1番である。
RVWも過去の先達と同じように9曲の交響曲を残した。
でも宿命的な9という数字に抑え込まれた9曲でなくて、長生きしたRVWが普通に交響曲を9曲書きました的な結果としての番号である。

9つの作品は、驚くほど多様で、多彩。
今泣いたと思ったら、もう怒ったり、泣いたりで、番号ごとに様相があまりに異なる。
自然の賛歌あり、田園あり、戦争あり、モダニズムあり・・・・。
でもその根底には英国作曲ならではの、抒情と民謡に根ざしたカントリータッチの懐かしい雰囲気が必ず聞こえる。
その配分がRVWの魅力であり、交響曲以外の分野では、そうした特徴が全開になった作品が多くて、それらがまたたまらない魅力となっているのだ。

1910年の完成。その完成には7年を費やした。初の交響曲に力が入ったのであろうし、その間も有名な作品をたくさん書いているから、ほんとにじっくりと腰を据えて作曲したのであろう。
ホイットマンの「草の葉」を元にした、壮大でありながら望郷と憧れに満ちた合唱交響曲。
オラトリオのようでもあるけれど、4つの楽章にはっきり分かれている。

「すべての海、すべての船によせる歌」
「ただ一人夜の浜辺に立って」
「スケルツォ 波」
「冒険者たち」


この曲の印象は、幣ブログのプレヴィン盤の記事をご参照ください。
いまもまったく同じ気持ちで聴いております。
外洋に旅立つ壮大な1楽章、深遠な深みを見せる第2楽章、スケルツォの3楽章は、今回よく聴いたらツェムリンスキーを思わせるような大胆な和声を聴かせるカ所があった。
そして長大な終楽章。この感動的な音楽をなんと表現したらいいのだろうか。
寄せては引く波のように、静かに始まりつつも、途中輝かしい盛り上がりを見せ、眩しいくらいの瞬間を迎えるが、最後には静かに、静かに船が遠くへ去って行くかのように、音楽は余韻を残しつつ消えてゆく。
いつも涙なしでは聞けない素晴らしい音楽。目を閉じれば、夕日の沈む海と外洋に浮かぶ船が見える・・・・・。

その詩は、とても印象深いので、あらためてここに再渇。

「アジアの園からくだり、アダムとイヴが、その多くの子孫達が現れる。さまよい、慕い、絶えず模索し、疑問を抱き、挫折し、混沌として、興奮し、いつも不幸な心を持ち、”どうして満たされない心は、おお偽りの人生はどこに?”」

「行け、おお魂よ、ただちに錨をあげよ!・・・・向こう見ずな、おお魂よ、私はお前と、お前は私と一緒に探検する。・・・われわれは水夫もまだ行こうとしなかったところにむかい、船も、われわれ自身も、すべてを賭ける。・・・おおわが勇敢な魂よ!おお遠く船を進めよ!」

    S:フェリシティ・ロット   Br:ジョナサン・サマーズ
   
  ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
                   ロンドン・フィルハーモニック合唱団
                       (89.3@アビーロードスタジオ)

RVWにも全集を作り上げてしまったハイティンク
ドイツ系の音楽ばかりでなく、アムステルダムとロンドンの二都に基盤を置いて長く活躍しただけに、英国ものもとても得意にした。
弦主体に重厚な低音を築き、そこにふくよかな響きを乗せてゆくハイティンクの音楽が、このRVWのピタリとくる。
ロンドンフィルのいくぶんくすんだ音色も、ハイティンクと一体化している。
二人のノーブルな歌手に、ロンドンでも一番かもしれないロンドンフィル合唱団。

ヴォーン・ウィリアムズの交響曲シリーズは、ハイティンクの素晴らしい1番で始まった。
じっくりいきます。

夏は、海と山。明日は山いきます。

「海の交響曲」過去記事

「プレヴィン&ロンドン交響楽団」
「大友直人&東京交響楽団 演奏会」

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2009年8月10日 (月)

ブリテン 「真夏の夜の夢」 ディヴィス指揮

Ibusuki_sea


















夏の海に浮かぶ月。
なかなか神秘的な1枚となり満足であります。

今年はやたらと雨が多いけれど、晴れた真夏の夜、ゆったりと夏の音楽を聴くのも楽しい。

Britten_midsummer_nights_dream_davi

 



 







  ブリテン 歌劇「真夏の夜の夢」      

シェークスピアのこの喜劇に付けられた音楽。
一番有名なのは、メンデルスゾーンの劇付随音楽。
そして、パーセルの劇音楽もあるが、オペラではリテンが作曲したものが内容的にも随一の作品であろうか。
17作品あるブリテンのオペラ系作品のなかで、1960年に作曲された11番目のオペラ。
「ねじの回転」のリブレットを担当したマリー・マイファンウィ・パイパーに意見を聞いたりしたものの、結局は朋友ピーター・ピアーズとの共同での自作台本をてがけることとなった。
ピアーズの意見だったらしい・・・。(その後、パイパーは「オーウェン・ウィングレイヴ」と「ベニスの死す」の台本を担当している。

シェイクスピアの原作にかなり忠実にしたがった仲良し二人の台本は、さすがにオペラのツボをしっかり押さえていて、劇中劇やふんだんに取り入れられたダンスや行進曲。
洒脱でシニカルなシェイクスピアのユーモアが、ブリテンのオペラに完璧なまでに取り込まれた。
そして、そこにブリテンが付けた音楽も精妙極まりない巧みなもので、真夏の一夜の幻と見まかうような繊細で幻想的なムードがばっちり。
合わせて、この作曲家の常套的な語法に貫かれていて、ほかのオペラ作品と同じようにリズムと大胆な和声、そしてクールな抒情の交錯する素晴らしくも霊感に満ちた音楽なのである。

第1幕

 ところはアテネ近郊。
妖精の王オベロンと妃である妖精の女王タイターニア、インドから拝借してきたお小姓をめぐって譲るの譲らないのと夫婦喧嘩をしている。
オベロンは悔しくて意地悪をしようと、妖精パックを呼びつけ、それを寝ている間にまぶたに付けたら目覚めたその時に見たものに恋してしまうという薬草を取ってこさせる。
 一方、人間界では、この国の貴族4人組(うち一人は父親に結婚を反対されている)が登場する。
ライサンダーとハーミアは恋仲(彼女が父に反対されている)、ディミトリアスとヘレナの4人だが、ディミトリアスはハーミアを好きで、ハーミアの父は彼を推しているからややこしい。
森の中、ライサンダーとハーミアは駆け落ちをすることに決し、そのあとを残りの二人が追いかけてくる。ヘレナは自分のことなんてちっとも思ってくれてないと文句たらたら。
それを立ち聞きしていたオベロンは気を利かしてディミトリアスに薬草を試そうと思う。

そのあと、村の職人たちがワイワイとやってきて近々行われる領主の結婚式に出す劇のリハーサルなどを面白おかしくやっている。

さらに次の場。駆け落ちのライサンダーとハーミアが疲れて眠ってしまう。
そこにあらわれた妖精パックは、命じられた相手をライサンダーとディミトリアスとを間違えて薬草のしぼり汁を塗ってしまう。やがてあらわれたヘレナに起こされたライサンダーは目覚めて即、ヘレナを好きになってしまう。一人目覚めたハーミアはライサンダーを捜しにゆく。
 そこにやってきた妖精の女王ティターニアと妖精たち。疲れて寝てしまうと、オベロンはしぼり汁をひと塗り。妖精の子守唄とともに静かに眠る・・・・。


第2幕
織工ボトムを中心とする職人たちが森にやってくる。
彼らはまたまた、誰が何の役だとかなんとかドタバタしてる。
その中からパックはボトムをうまく誘い出し、間抜けなロバの顔にしてしまう。
やがて眼ざめたティターニアは、ボトムのロバ姿とご対面。
晴れて恋に陥るのであります。
妖精たちも周りで戯れ、リコーダーにのった稚拙でシンプルな音楽を奏で、ボトムがその音楽に乗せて歌い踊る。やがて全員まどろみはじめる。(ここでの間奏曲の素晴らしさ)
 オベロンはパックに、件の4人を連れてこさせる。
そこで始まる喧々諤々の騒動。ハーミアは信頼してた友達のヘレナを責める。
ヘレナはハーミアに親の操り人形だと言ってしまい、男子も巻き込んですごい言い争いになってしまう・・・。(ドラムを伴ったスリルあるオーケストラは興奮を誘う)
 ここまで見たオベロンは、パックを引きずりだしてその間違いを怒りなんとかしろと!
パックは、4人を声色などを駆使して、それぞれ恋人同士にして集め、眠らせてしまう。
妖精たちの美しい子守唄のなか、パックはライサンダーのまぶたにしぼり汁をタラリ。

 

第3幕
森の朝、さきの4人に加え、ロバ姿のボトムとティターニアの6人が眠っている。
ストリングスによる前奏曲が徐々に厚みを増してゆく素晴らしい音楽。
オベロンはティターニアを優しく起こし、仲直りをして、音楽に合わせて踊る。
その後、目覚める4人は、みな一人づつ爽やかでまるで生き返ったかのような思いを歌にして、素晴らしい4重唱となる。
 さて、ボトムは普通の姿に戻るも、まだ混乱が覚めやらず、いずこかへ去る。はてさて・・・・。
職人仲間5人は、ボトムをいないとあわてて探しつつも、後釜はどうのこうのと言っている。そこへボトムの声がして、やってきたものだから、あなたがいないと始まらないと、おべんちゃらを言う面々・・・。
 街には、領主テセウスと婚約者ヒッポリタ(アマゾンの女王!)が帰ってきて、婚礼の祝宴をあげることに。
ハーミアの結婚も許され、ここに3組の婚姻がととのった。
職人たちの劇がにぎにぎしく始まる。古典的な劇中劇。
ライオンや月、ご婦人やwall(?)などの賑やかなもの。
エピローグは宮廷風の舞曲でのダンス。
やがて0時の鐘がなり、領主は散会を歌う「Sweet friend, to bed」。
皆がさったあと、妖精4人が歌い、オベロンとティターニアが仲良く唱和して物語の大団円となる。
でも、これで終わりじゃないよ。
狂言回しのパックが最後は登場して、口上を述べる。

妖精の仕業はみなさん、ありますよ~!

だいたいこんな感じでしょうか。
対訳がないため、創造で補いましたよ。
やはりオペラは舞台を見なくては。
若杉さんが二期会で2000年に上演(森麻紀ティターニア!)、大阪カレッジが昨年上演、そしてこの9月、名古屋二期会が上演。

    オベロン :ブライアン・アサワ   
    ティターニア:シルヴィア・マクネアー

    パック   :カール・アーガソン   
    テセウス :ブライアン・アナタイン・スコット

    ヒッポリタ :ヒラリー・サマーズ   
    ライサンダー:ジョン・マーク・エインズリー

    ディミトリアス:ポール・ウィーラン 
    ハーミア:ラビー・フィロジーン

    ヘレナ  :ジャニス・ワトソン   
    ボトム:ロバート・ロイド

    クィンス :グィゥン・ハウエル   
    フルート:イアン・ポストリッジ

    スナッグ :スティーブン・リチャードソン 
    スナウト:マーク・タッカー

    スターヴリング:ニール・デイヴィス
    妖精:蜘蛛の巣、豆の花、からしの種、我・・・・ボーイ・ソプラノ

  サー・コリン・デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団
                 ロンドンチルドレンコーラス
                (96.12@ロンドン・バービカン)

作曲者自身の録音から36年を経て、この曲を普通にオペラの一作として演奏した、ある意味オーセンテックな録音。
クールだけど、音楽の枠組みをしっかり築きつつも、いつしかオペラテックな感興にあふれた演奏をつくりあげる、サー・コリン・デイヴィス
初演時のアルフレッド・デラーのカウンターテナーも一時代前のものと思わせてしまうくらいに、滑らかである意味女性的すぎるアサワ。これは逆に、完璧なまでにすごくて、かえって妖精夫婦が、女同士みたいに聞こえちゃうくらい。
録音当時絶頂期にあったマクネアーのコケトリーで、かつ完璧な技巧を伴った歌も素晴らしい。2幕で、眠りに就くまえのモノローグなどは極めて美しい。
若い4人組に、職人6人、王様二人、いずれも実力派揃い。
当時まだそんなに活躍してなかった、ポストリッジエインズリーはとりわけ耳を惹く。
滑らかな歌声でイタリアものも得意の、R・ロイドのバスが味わい深く気にいった。

ブリテンの自作も含めて、このデイヴィス盤も、ハイティンクのグラインドボーンDVDも、いずれもいまは廃盤。
夏の休日、外の豪雨も気付かずに、この素敵なオペラに聴き入ってしまった。

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2009年8月 8日 (土)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 ライナー指揮

Byoubugaura1

千葉県の九十九里浜のずっと北、銚子の手前、飯岡町の刑部岬。
10Kmに及ぶこの断崖絶壁は「屏風ヶ浦」。
長年にわたる自然の脅威。
この岬の手前は、岩ガキが有名。
大ぶりで濃厚なミルク味を楽しめる飯岡のカキ、一度食べてみたいなぁ。

Byoubugaura2 Byoubugaura3

Reiner_hollander ワーグナー・サイクルやってます。
オランダ人以降では2度目。
ブログを始める前には、朝飯前的に連続聴いていたけれど、こうして文章を伴って聴くとなると、なれ親しんだワーグナーとはいえ生半可ではない。
真剣に聴くという行為を生みだしてくれたのもブログの効能か。
おかげで、未聴CDの山また山。

今回は、初期3作を含む全作品踏破なので、ワーグナーを聴く喜びもひとしお。
どの演奏で行こうかなと思ったら、オランダ人の場合、あまり所有してないうえ、短いものだから、もうかなり取り上げていて手持ち音源は残りわずか。
過去記事は最後をご照覧ください。

 オランダ人:ハンス・ホッター   ゼンタ :アストリッド・ヴァルナイ
 ダーラント:スヴェンニルソン   エリック:セット・スヴァンホルム
 マリー  :ヘルタ・グラーツ    舵手  :トマス・ヘイズワルト

  フリッツ・ライナー指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団/合唱団
                     (50.12@メトロポリタンオペラハウス)

ワーグナーのオペラを音楽のスタイルのありかたと時代で分けるとすれば。

 ①初期オペラ・・・「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」
 ②中期ロマンテックオペラ・・・「オランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」
 ③後期ドラマムジーク・・「トリスタン」「マイスタージンガー」「リング」「パルシファル」

①をじっくりと聴いてから②の慣れ親しんだ世界に戻ったわけだけれど、①の世界でワーグナーが当時のトレンドを機敏に吸収しつつ、あらゆるオペラのスタイルを実験的にも極めてから「オランダ人」へと至った経緯がとてもよくわかって、ワーグナーへの理解がまた深まった気持ちが強いのである。
明らかなステップアップは、示導動機、ライトモティーフが多用され、それがしっかり板についたこと。
そしてオペラの題材を神話ないしは伝説に求めたこと。
後年の定番となるこれらが、この「オランダ人」でもってしっかりと刻印が押されている。
加えて、登場人物たちの心理的な掘り下げが深くなり、ドラマが奥行きを増している。
これは自作の台本と音楽、両方に言えること。
おかげで、登場人物たちの個性が豊かになり、いまや演出家たちに多彩な舞台を提供することができるようになった。
 根暗で執念深いオランダ人、一途すぎて怖すぎのゼンタ、俗物の典型ダーラント、絵に書いたような恋する万年青年エリック。

ライナーのオペラ指揮者としての実力をまざまざと見せつけてくれるこのナクソス盤。
一貫してキビキビとしたテンポをとり、厳しいまでの緊迫感を生んでいる。
オランダ人の演奏は、ユルいよりも、こうしたスキのないテンポで追い込んだものの方がいい。後年のベームしかり、ショルティしかりである。
 そしてこのCDの売りは、ホッターのオランダ人。
この若々しい声には驚きだ。陰りも力強さも神秘感も、そして高貴さも、どれも過不足なく歌いだしている。
ホッターの最盛期は、50年代なのであろう。
ショルティのリングでは、ややその声に陰りが見られる。
70年代に入ると、シゴルヒ(ルル)やティトゥレル(パルシファル)で味わい深い歌を聴かせてくれたり、亡きヴィーラント・ワーグナーの演出を語り継ぐ貴重な存在となった。
不世出の名歌手である!
 それに加えて、ヴァルナイのゼンタやスヴァンホルムのエリックが聴けちゃうのもうれしい。どちらも耳にビンビン響く豊饒な声であり、かつ知的なところは、今でも十分通用する。

放送録音がもととなったこの音源。
音は極めて鮮明で、鑑賞にまったく支障ないもの。
観衆の雑音も盛大に入っていて雰囲気ありすぎ。笑いもあるのはどういうことかしら?

バイロイトでは、後期作品だけでの上演がまっさかり。
ネットで聴いたけれど、シュナイダーの熟練のトリスタンとガッティの美しいパルシファルがよかった。(リングは未聴、カテリーナ演出は今年もブーが盛大)

次回は「タンホイザー」です。

「さまよえるクラオタ人」の「さまよるオランダ人」の過去記事

「デ・ワールト指揮 二期会公演」
「バイロイト2005年度」
「ショルティ指揮シカゴ交響楽団」
「新国立歌劇場2007年公演」
「コンヴィチュニー指揮ベルリン国立歌劇場」
「ベーム指揮バイロイト音楽祭1971年」
「サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場DVD」

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2009年8月 7日 (金)

ロンバーグ 「学生王子」 カーメン・ドラゴン指揮

Kikuchi_hiroki_2今日は、北埼方面に行ってきた。
熊谷まで新幹線、そこから車で群馬、羽生と走りまわる。
 いつも最高気温でおなじみの熊谷。確かに暑い、暑かった!
 でも、ラーメンを食べるであります。
きくちひろき」という主人の名前のラーメン店。
 どれもうまそうだったが、あっさり醤油をチョイス。
見た目のとおり、澄み切ったスープがとてもさっぱり、でも出汁がしっかり効いていて、とってもおいしゅうございました。

Fly 昨日(木曜)、テレビの県民ショーを見ていたら、埼玉北部のB級グルメ、「フライ焼き」をやっていた。
しかも、今日行く予定にしていた、「イオンモール羽生」が登場していた。
これには驚き。
じゃあ、ってんで、ご覧のとおり買ってみました、お家まで持って帰って食べてみました。
薄べったいお好み焼きのようなものの中に、焼きねぎと、香ばしく焼いたひき肉少々。一口目は、なんじゃこりゃ、だったけど、食べ進むと結構うまいことに気が付く。妙にうまい。
車で郊外を走ると、「焼きそば・フライ」というのぼりを掲げた店が結構ある。
各県、ところ変わればいろいろにございますなぁ。
 ちなみに、今日はここのイオンで、舛添要一大臣がやってきて演説しておりました。
岡田AEONで。
到着まで、地元県議が前座を務め、小泉改革の4年前の選挙はなんだったのか、民主党を批判するばかりでは勝てない、等々、相当な自己批判精神でもって訴えかけていた。
なんだかねぇ~。

Carmen_dragon 今宵はかるく、ロンバーグです。
Sigmund Romberg、ジグマンド・ロンバーグ(1887~1951)。
ハンガリー生まれ。
ヨーロッパからアメリカに渡り、ミュージカルで大成功した。
大好きなコルンゴルドもそうだが、戦争をはさんで、ヨーロッパから移住した音楽家たちが、アメリカ文化の一翼を担い、ハリウッド映画音楽やミュージカルの先駆となったのは、とても興味深い。
 これもまた、歴史に戦争がなければ、ヨーロッパとアメリカの関係が文化的にどうなっていたいたろうか。

ロンバーグは旋律の宝庫。
めったに聴かないジャンルだけれど、お馴染みの旋律が滔々と流れては尽きない。
「アルト・ハイデルベルク」を原作とするブロードウェイミュージカルで、マリオ・ランツァ(懐かしい)が映画では歌っていた。
なかでもセレナードが超有名だし、珠玉の名旋律といってもいい。
「学生王子」「砂漠の歌」「アップ・セントラルパーク」「ニュー・ムーン」。
これらが収められた1枚は、ナイトキャップ的にも聴ける、楽しくも懐かしいものだ。
「ニュー・ムーン」の「恋人よ我に帰れ」と「One Kiss」などは極めてロマンテックなもので、これらを聴くと、シュトラウスのウィーンのワルツ、R・シュトラウスの爛熟などを思い起こすことができちゃう。

カーメン・ドラゴンと聴いて、「おお、懐かしい」と思われる方も多いかと思う。
私は、AMラジオのFEN放送で彼が受け持った日曜の番組をよく聴いていて、そのマイルドで素敵な声とともに思い出すことができる。
「Hellow, This is Carmen Dragon」という挨拶。

作曲家兼指揮者として、まさにハリウッドで大活躍したドラゴン。
かの地で、グレンディール交響楽団を結成し、このCDのハリウッド・ボール響の母体でもあるし、ワルターのコロンビア響もこちらが母体。
ヨーロッパから流れてきた名手もたくさん在籍した凄腕のオーケストラ。
 ロンバーグのミュージカルをクラシカルに編曲し、このハリウッド・ボール響と録音したドラゴン。このコンビはたくさんの録音をキャピタルに残していて、そのいずれもが、たかがライトクラシカルとバカにできないほどの完成度の高い素敵な演奏になっているので、是非とも復刻していただき、多くの方に聴いていただきたいものであります。

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2009年8月 6日 (木)

マーラー 交響曲第8番「千人の交響曲」 若杉 弘 指揮

Tateyama_1房総、館山の北条海岸の夕日。
まだ梅雨の時期。

雨上がりに厚い雲の間から今しも沈む太陽が光彩陸離たる光景を描きだした。

私は30分あまりも立ち尽くし、見とれてしまった。
いい写真も撮れましたので、またご紹介したいと思います。

Wakasugi_8 先日、惜しまれつつも亡くなった若杉弘さん。
唯一持っているマーラーが、交響曲第8番「千人の交響曲」   
日本人で初めて、マーラー全集を録音した若杉さん。
そのレパートリーは、驚くほど広かった。

ジャンルでは、あらゆるオーケストラ作品にオペラ全般、和洋現代音楽。
時代では、古典から現代まで。
ほんとにオールマイティな人だった。
そんな中でもとりわけ得意にしていたのが、ワーグナーを源流とする後期ロマン派、新ウィーン楽派のあたりではなかろうか。
それに加えて、十字軍的な活動ともとれる現代作品への積極的な取り組み。

追悼記事にも書いたけれど、私は若杉さんを日本が生みだした最高のオペラ指揮者と思っていて、そのオーケストラピットでのお姿は鮮明に覚えている。
作品を完全に手のうちにいれて、歌手へのキュー出しもマメに行いつつ、譜面を見ながらの指揮でもオケへの指示も的確にこなす姿は、まるで千手観音か聖徳太子かとも思われるくらいに鮮やかなものだった。
これだけ細やかに振れる指揮者は、本場でもあまりいないものだから、ドイツのハウスからも声が掛って当然だった。

そんな若杉さんの声楽大曲のうまさがまざまざと味わえるのが、この千人。
都響とのチクルスの一環は、1991年の録音。
録音のせいか、オーケストラと合唱ばかりが目立ってしまうが、テキパキと曲が進行する中にも、絶妙の間合いでもって、聴き手を唸らせる場面が続出するし、大編成のオーケストラが混濁しないで、隅々まで透明感を保っているのもさすがである。
耳のいい若杉さんならでは。

    S、罪深き女:佐藤しのぶ     S、贖罪の女:渡辺美佐子
    S、栄光の聖母:大倉由紀枝   A、サマリアの女:伊原 直子
    A、エジプトのマリア:大橋 ゆり   T、マリア崇拝の博士:林 誠
    Br、法悦の神父:勝部 太     B、瞑想の神父:高橋 啓三

            若杉 弘 指揮 東京都交響楽団
                   晋友会合唱団、東京放送児童合唱団
                       (91.1.24@サントリーホール)

90年当時、活躍中の一流どころをそろえた歌手の歌声が、実はこの録音でははなはだ聴きにくい。遠くで歌っている印象しかなく、オケばかりが鮮明にとらえられた録音に起因するもの。今の録音技術をもってすれば、こんな大編成のライブなんて易々とできるのに残念なことだ。
大好きだった勝部さんの歌声も埋没、わたくしー、とばかりのギラギラの佐藤さんの声も埋没。林さんのリリカルな声は意外にもオケの上の方から舞い落ちるような感じで聞こえる。正直、いまの日本人歌手を聴きなれた耳からすると、辛いものもあるのが事実だが、私などは、こうした顔ぶれによる若杉さんや朝比奈さんのリングを聴いてきただけに、感慨もひとしおである。

全体にともかく感動的な雰囲気に満たされた若杉さんお得意のマーラーの8番。
ファウストの第二部の後半、ハープに乗ったヴァイオリンの美しい歌に導かれる旋律が歌われるあたりから、神秘の合唱、そしてエンディングにいたるあたりはあまりにも感動的な場面が続出して、実際にホールにいて手を握り締めて聴いているかのような思いにおちいる。

あらためて、若杉さんの偉大な足跡を偲ぶとともに、このところいろいろあった自分自身の気持ちにもぴったりと寄り添って力づけてくれた演奏であり、マーラーの音楽でありました。

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2009年8月 5日 (水)

マーラー 交響曲第4番 アバド指揮

Flower_1きれいな花々。
関東が梅雨の真っ盛りの頃、娘のピアノ発表会で戴いた花束。
何年もやっていると、発表会なんて親も子も慣れちゃって、さて行きますかね、なんて気楽なものになる。

でも、普段自分の音楽ばっかり聴いている親は、娘が何を弾くかなんてことも知らなかったし、練習も聴いたこともなかった。
クラヲタのくせにヒドイのであります。
 さて本番、やはり呑気なことはいってらんない。
ヒヤヒヤもので聴いていたけど、なかなかどうして、ひとりのピアニストを聴くようにこっちも真剣になってしまったし、彼女も音楽に没頭しているのがよくわかり、娘のピアノに感銘を受けてしまった。親ばかだけど、聴き方が違ってきたかも。

そして、きれいな花々を、1か月後には、親しい人に手向けることになろうとは思いもしなかった・・・・。
Abbado_mahler_schoenberg_2

マーラー交響曲第4番を視聴。
「大いなる喜びへの賛歌」なんて呼んだら古すぎるかしら?
いつからか、この名称は消えてしまった。
70年代半ばくらいにだろうか。
マーラーが付けたわけでもないからということだけど、私のような70年代男には、とても懐かしい雰囲気のする表題だった。

私のこの曲、初レコードは、アバドウィーンフィルの1回目の録音のもの。
「復活」はシカゴを選択し、4番はウィーンフィルと録音したアバドの意図どおり、ウィーンフィルの美音がぎっしり詰まった名盤は、いまも私のフェイヴァリット。
加えて、フリッカことF・シュターデの甘やかな歌が花を添えている。
アナログ録音のよさが、ムジークフェラインザールの柔らかな響きを見事にとらえてもいた。

あのウィーンでの録音から、ベルリンフィルとの2度目の録音(これも素晴らしいけど、フレミングの歌がちょっと・・・)を経て30年。
2006年にふたたび、ウィーンにアバドのマーラーの4番が響き渡った。
こんどは、アバドが心血を注ぐ若い演奏家たちと。

     ソプラノ:ユリアーネ・バンゼ

  クラゥディオ・アバド指揮 グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケトラ
                    (2006.4 ウィーンムジークフェライン)

この演奏会の半年後の10月、アバドとルツェルンがやってきた。
あの微笑みを絶やさない中にも鬼気迫る壮絶演奏を繰り広げたアバド。

Snapshot20090805103006 このマーラーの4番では、終始、柔和な表情で若者たちを自在に引っ張ってゆく。
ルツェルンの凄腕メンバーたちとは、音楽仲間たちとの共同作業に加えて、アバドの求める音楽に思い切り共感してまるきりの一体化が見られる。
若いマーラーの名を冠したオケとの間では、いつもどおりの指揮ぶりに見えるアバドの指揮だけれど、オケの側からは指揮台に絶対的な存在があって、それを仰ぎみながら演奏しているからルツェルンの神がかり的な一体化とは異なる意味での指揮棒の元への一体化がここに見られるように思う。

Snapshot20090805102731 実際、奏者たちはみんな楽譜がすっかり頭に入っているゆえ、ほとんど全員アバドを見ながら演奏している。
相当に弾きこんでいると思われるし、おじいさんのような世代のアバドへの尊敬の念にあふれた眼差しに音楽することの素晴らしさを感じ取ることができる。
 こんなことを感じ取ることができるのは、DVDの強み。
そしてアバドはアバドで、いつもどおり夢中になりながら、音楽が好きでしょうがないといった顔つきで無心に指揮している。
その表情の若々しさは、孫のようなオケのメンバーとなんら変わらない。

76年のレコード録音よりテンポは若干速め。思い入れもなく、むしろ淡泊に感じるくらいにすっきりしたマーラーとなった。
オケにいい意味で色がなくクリアなだけに、この思いは強い。
1楽章、2楽章。スイスイと音楽は運ばれる。
Snapshot20090805104043 美しい緩徐楽章の第3楽章もあまりに明晰で、透明感に満ちていて、最後にフォルティッシモに達する場面も思い入れなく、普通にクライマックスを迎える。この演奏の全体の流れからしてここでの過度の力の集中は無用に思われるから、これまた自然のなりゆき。
歌が入る終楽章になるとポルタメントが使われたりするし、歌も劇的な要素の一因となるのでかなりの色が出てくる。
それでも、フレミングだったら濃厚な表情に傾いてしまうところだったが、バンゼには歌いすぎがなく、リートのような渋い世界をさりげなく繰り広げて見せてくれているから、この演奏の方向にしっかりとおさまっているからいい。

地上には天上の音楽に比較できるものは何もない・・・、と歌いつつ、ハープや低弦だけを残し静かに消え去るとき、自分の出番を終えた楽員たちは、全員アバドの棒に食い入るように見入っている。
アバドは、棒を止めそのままに、左手は胸のあたりに持っていって音楽の余韻に浸っている。まるで、祈っているみたいに。

アバドのマーラーは、ますます自在の境地に向かっているようだ。
いい意味で軽やかに、透徹感がますます磨かれている。
今年のルツェルンでは、今度は音楽祭のオケとこの曲や1番を演奏する。
今度はどこまでの高みに達するのだろうか。
 彼らは、9月に北京でルツェルン音楽祭IN北京を行うらしくて、日本からもチケットが買える。A席2万円は高いんだか安いんだか・・・・・。

Snapshot20090805102743 ところで、鈴担当の女子、かわいいです。

このコンサート、前半はシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」。
こんなプログラミングもアバドらしい。
そして、この曲、われわれアバド・ファン待望の初録音であります。
こちらはまた近々UPします。

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2009年8月 4日 (火)

グリーグ 「ペール・ギュント」 ポップ&マリナー

Hamanako浜名湖です。
少し前、車で名古屋出張を敢行したときの帰り。
浜名湖SAからの眺め。
夕焼けスポットだそうな。
何度も書いてますが、日の沈む夕焼けが大好き。
海に、山に、平野に。

Grieg_peer_gynt_marriner

グリーグ「ペール・ギュント」全曲を聴く。
イプセンの劇作品に付けられた劇音楽は全23曲。
そこから8曲が選ばれ、第1と第2の組曲が編まれたというわけ。

この組曲版、中学校の音楽の授業で初聴き。
それもこれも「朝」が一番印象的だった。
いかにも朝のすがすがしい始まりを告げるような音楽は、大人も子供も大好きかもしれない。

長じて大人になって聴くと、ソプラノのついた「ソルヴェイグの歌」が心に染み入るようになり、歌を聴くには、組曲よりは全曲盤を好むようになった。

        ソプラノ:ルチア・ポップ
   
 サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールス
                     アンブロジアン・シンガーズ

放浪家、いや北欧の海の男たちは冒険家というのだろうか、そのペール・ギュントを待ちわびるソルヴェイグの心情を歌った名品は、まさに名曲の名曲たる由縁の音楽。
私にとって「ペール・ギュント」の中で燦然と輝く名品。
それが、このCDでは、ルチア・ポップの歌で聴けるわけだ。
ポップの純粋無垢の歌声が、この曲ほど切なく聴こえるものはない。
いつも誉めてばかりのルチア・ポップ。このグリーグも素敵にすぎる。

全部で12曲が選ばれたこちらのマリナー盤。
完全全曲では語りが必要だったり、曲の精度が少し落ちたりなので、まずは順当な選曲。
オケの清涼感とさりげないクールさは、マリナー&アカデミーの真骨頂。
ソルヴェイグの歌は全戯曲で3曲あるが、そのうち終曲にあてられたものは、ペール・ギュントの最後の旅、そう、ソルヴェイグの膝にだかれて死んでゆく。
まさに子守唄。
深淵ではないけれど、優しく、さりげなくも愛おしい音楽であります。

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2009年8月 1日 (土)

フォーレ レクイエム  コルボ指揮

Horaibashi どこまでも続く橋。
こちらは、静岡県島田市、大井川にかかる「蓬莱橋」。

世界一長い木の橋。
全長897mあります。
ずっと先は黄泉の世界みたい。

今日は、あまりに悲しい日だった。
それも夜だけ。

20時からのミューザ・サマーフェスタ。
今宵は、金さん指揮する神奈川フィルの番だった。
それもバーンスタインばかり。しかも石田ヴァイオリンで、セレナードが聴けるという。
チケット売り出し早々に購入し、楽しみにしていた。

が、しかし、運命は無常だった。
8時始まりだから、7時過ぎに出よう、とか思っていながら仕事をダラダラとしてしまい、気がついたら7時25分。やべぇ、とばかりに駅へ向かい、京浜東北線のホームに駆け降りると1本行ったあと。
次は、蒲田止まりじゃん。その次じゃもう間に合わない・・・・・。
あちゃあーーー。でも一応行こうかと、蒲田行きに乗り、蒲田で待つことに。
しかし、川崎駅の雑踏を抜けてホールの席までにたどりつく頃には、「キャンディード」が始まっちゃう・・・・。
もう若くないし、思い切り走れないし、汗だくになっちゃうし、とかなんとか考えていたら、もうすっかり萎えちゃって、諦めちゃって、反対側の電車にそそくさと乗り換えたのであります。

チケット代2000円よさらば、なさけない自分にがっかりしつつ電車に揺られていたら、携帯が鳴った。電車だから出ないでおいたら、留守電が録音された。
車中、それを聴いたら愕然としてしまった。
従姉が亡くなってしまった。

Faure_requiem_corboz そんな悲しい時に、フォーレレクイエムほど心の襞に染み入るように、そして心の空白感をも優しくなだめてくれる音楽はない。

フォーレの音楽に、私は一時かなりのめり込み、歌曲に室内楽、ピアノ作品にと、そのほとんどを聴きつくした時期があった。
フォーレといえば、このレクイエムと「ペレアスとメリザンド」くらいしか知らなかったのに、である。
 きっかけは、フランスに実際に行ってみて、その文化に直接触れてみて、エスプリに満ちた音楽を心も耳も求めていたから。
 だから他のフランス作曲家たちもたくさん聴いた。
でも、フォーレはエスプリとかじゃなくて、音楽の一途感が真っ直ぐだったので、聴く私も陶酔にも似た酔いを覚えるようになった。
この感覚はいったいなんだろう。
日曜の夕方などに、葡萄酒をちょっとたしなみながら聴くフォーレのヴァイオリン・ソナタやピアノの重奏曲、弦楽四重奏、チェロソナタ・・・・。
ワーグナーへの陶酔は、心も体も数十年来慣れ親しんだものだが、それとはまったく違うたぐいの陶酔感。
 それは、無為の自然体がなすがままの感覚であり、それはフォーレを始めとするフランスやラテン系の作曲家たちの体に染みついたカトリック的な篤い信仰心なのであろうか。

このレクイエムが、亡き人を、そして残された人を優しくいたわるような滋味にあふれているのも、そうしたフォーレ独特の陶酔感を導き出されるが故であろうか。

人は死ぬ時に、麻薬の症状にも似た体を麻痺、そして高揚させる何かを分泌するとかいうことを読んだことがある。
不謹慎ながら、亡くなった方のお顔は、ご尊顔とでも形容したいくらいに美しく平安に満ちている。
神様がすべてを解き放つように仕向けてくれるのだろうか。

フォーレのこの音楽が、そうした作用を、送られる人、送る人々それぞれにしてくれるような気がしてしまう。
多くの方がそう思うように、私も、死出へのはなむけには、このレクイエムを欲したい。
あとは、まだたくさんあります。それはまたいずれ。

ミシェル・コルボの演奏は、フォーレのこのレクイエムの演奏に優しさと自然さとを持込み、当時はその言葉さえなかった「癒し」と音楽を結びつけてしまった記念碑的な1枚なのだ。
ボーイ・ソプラノが今聴くとあざとく感じられるかもしれないが、まったく無垢で自然体のこの演奏にはまったくもって相応しい選択であったことは、依存がないと思う。

もうこれ以上、言葉は要りませんね。この作品と演奏には。。。。

私の従姉は、私とひとつ違い。
このところ伯母が亡くなったり、親族じゃないけど、若杉さんが亡くなったりと、私にとって悲しい別離が相次いでいて、死と不遇が私の周りで渦巻いているよう・・・。
それでもこうして、ブログを起こしてしまう。
ブログの効能は、いい意味で自分に対して冷静でいられること。
こんな独り言も、どこかで読んでいただけているという不思議な満足と連帯感。
こんな私的な記事をどうぞお許しください。

諸所あり、数日更新はお休みいたします。

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