松村 禎三 「沈黙」 若杉 弘 指揮
遠く、海に沈む夕日。
壮絶な光景に、私はあたりが暗闇が支配するまで、立ち尽くして見入ってしまった。
この海を渡って、日本人も漕ぎ出して行ったし、海外からも、未知の日本へやってきた人々もたくさんいる。
今でこそ簡単なこと。昔を思えば、さぞかし苦難に満ちたことであろう。
海を渡って、禁教の国に布教にやってきた宣教師たち。
異国好きの信長は布教を許し、諸武将のなかにも熱心なキリシタン信者も生まれた。
しかし、秀吉は自分の意にならない武将を頑迷なキリスト信仰によるものという思いにさいなまられ、禁教のおふれを出す。
こうして過酷なキリシタン弾圧が行われた。
目の届く関西・中部は、歴史ある仏教の土壌がしっかり根付いている。
関東は外洋から遠い。
だから、九州、ことに長崎に多くの宣教師が上陸し、弱者としての農民や漁民がキリスト教に救いを見出し、キリシタンとして忍び暮らした。
しかし、奉行をはじめとする当局は、宣教師・キリシタンたちに容赦がなかった・・・・・。
遠藤周作の名著「沈黙」は、そうした時代を背景とした、宣教師の物語である。
私は、この小説を高校生の時に読んで衝撃を受けた。
大学、社会人と、時おり読み直しては、その衝撃の深さを増していった。
神の存在・不存在と、真のキリスト者の姿、個々の人間存在の弱さ、裏切りと後悔・・・・、こんなあまりにも深い問題が淡々とした物語の中に、読む人ひとりひとりの心に訴えかけてくる。
その小説をオペラ化したのが、松村禎三(1929~2007)。
1993年初演のこのオペラは、氏が10年の歳月をかけて夫人とともに台本作成から作り上げた深刻極まりない名作。
解説によれば、遠藤周作さんも、この作品を嫁に出したようなものだから、存分にあなた自身の「沈黙」にして欲しいと語ったという。
また松村氏は、キリスト者でない自分が、この題材をオペラにすることへの畏れ、そして作るにあたって国内外のミサに参列したり、殉教の地を訪れたり、キリシタンの方々にも会ったりもしたそうだ。
こんな背景もあり、松村禎三のオペラ「沈黙」は題材こそ小説「沈黙」であるが、作品として
は別物の「沈黙」であるかもしれない。
全2幕16場の2時間に、小説のすべてがおさまるはずもないが、筋立てはほぼ同じ。
活字と違い、耳で味わうこの「沈黙」。
宣教師たちは標準日本語、信徒たちは長崎方言。
言葉は明晰でわかりやすく、だからよけいにリアリティに富んでいる。
歌もあり、歌うような語りもあり、語りそのものある。
日本語による新ウィーン楽派のシュプレヒティンメのような感じ。
奉行のいやらしいまでの残虐さ、主人公ロドリゴの血を吐くような心情の吐露、転び人フェレイラの悩み・・・・。いずれも迫真的なまでにそうした歌唱を伴って描かれている。
チェンバロも加わったオーケストラは、大編成で、清らかな和音から、大迫力の弾圧や罵りの不協和音、宣教師の独白における無調のしらべ、等々ドラマテックなもの。
歌もオケもとても聴きやすく、2時間にわたってこの音楽に釘付けとなり、心揺さぶられること必定である。
第1幕
エピローグ的な場面。
キチジローの両親と妹が炎のなか磔とされていて、キチジローはもだえ苦しむ。
マカオの教会。
若い宣教師ロドリゴが弾圧吹き荒れる日本への渡航をしようとしており、それをとどめる神父ヴァリニャーノ。恩師フェレイラの音信も途絶えている。
渡航の案内人にマカオにいる唯一の日本人キチジローが案内人に選ばれる。
長崎のトモギ村。
密航に成功したロドリゴと喜ぶ村人たち。ミサが行われキチジローは英雄扱い。
ところが、村人3人とキチジローが役人に捕えられ、踏み絵を試される。
3人はかたくなに拒むが、キチジローは言われるがままにマリア様は淫売と叫び、聖像に唾するのであった・・・。
3人は満ちゆく海で磔刑に処せられる。その中のひとりモキチの許嫁オハルは狂乱したように神に祈る。「神さまはおんなさとやろうか?」、神の存在への疑問を歌う。
しかし、モキチは「ハライソに参ろう・・・」と歌い、こと切れる。
逃げ行くロドリゴ。何もできずに悩み苦しむ。そこへ、キチジローがあらわれ、転んだことへの許しを必死に乞う。しかし、彼の裏切りによりロドリゴはその場で役人に捕らわれる。
第2幕
牢内にいるロドリゴ。日本の風土にはキリスト教はなじまないと、長崎奉行は厳しく諭す。
そして通詞は、フェレイラがすでに転びバテレンとなり、名前も変えていると語る。
すでに捕えられた村人たちが登場。なぜパードレがここに・・。死にゆくオハルに秘蹟を与えるロドリゴ。オハルは、愛するモキチと神の幻影を見て昇天する。
海辺で、ロドリゴの前で村人たちを蓑巻きにして海に放り込むと奉行がロドリゴを脅す。
村人の転びでなく、卑劣にもロドリゴの転びを求める奉行井上。
進んで殉教を選択する村人たち。そして死に行く村人たちは神を見たが、ロドリゴには見えない。
牢に師フェレイラがやってくる。
この国は沼地のようにすぐに根が腐ってしまう。神も大日如来も同じになっている。
日本人には神の存在を考える力がないと語り、ロドリゴは出ていけ、と追い出してしまう。
処刑の決まったロドリゴは長崎の街を引き回される。石を投げつけられ愚弄される。
しかし、キチジローの許しを乞う声も聞こえる・・・。
処刑を前に、覚え苦しむロドリゴ。
そこに聴こえるうめき声。ロドリゴは肥え太った門番たちの鼾であろうと、自分の聖なる夜が汚されるとしてやめろと叫ぶ。
そこに先のフェレイラが登場。
これは、鼾ではない。耳の後ろに穴をあけられ穴に宙づりにされた信徒たちの苦しみの声なのだと語る。
自分もかつて、これを聴き、彼らのために転んだ。自分だけが苦しんでいるのではない。
教会の汚点となるのが怖いのか。彼らはお前のために苦しんでいるのだ・・・」と。
翌朝、「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」というフェレイラの言葉についに折れ、ロドリゴはイエスの踏み絵を前にする。
「イエスよ、これがあなたのお顔なのか。ずいぶん疲れ果ててしまった・・。あなたのお顔の二つの眼をいま、私の足でふさごうとしている・・・・。
あなたはとうとう何も語りかけてくれなかった。あなたのために血がこんなに流されているのに。あなたも十字架の上で血を流している。あなたにできるのはそれだけは。
人間がこの世に地獄をつくりだし、滅ぼしあうその時にさえ、あなたはなにもしようとしないのか。主よあなたは本当におられるのか!」
イエスへの愛と失望を激情的に歌う上げ、ついに踏み絵に足をかける。
そしてその足のあまりの痛みにイエスの絵を抱きかかえるようにして、倒れ伏してしまう。
その後は浄化されたような清らかな音楽が流れるなか、このオペラは幕を閉じる。
そこに、神はあらわれたのあろうか・・・・・。
ロドリゴ:田代 誠 フェレイラ:直野 資
ヴァリニヤーノ:大島 幾雄 キチジロー:宮原 昭吾
モキチ:小林 一男 オハル:釜洞 祐子
おまつ:秋山 雪見 少年 :青山智恵子
じさま:桑原 英明 老人 :有川 文雄
キョウキチ:土師 雅人 井上筑後守:池田 直樹
通詞 :水野 建司 役人 :峰 茂樹
牢番 :志村 文彦 刑吏 :藤沢 敬
修道士:高松 洋二
若杉 弘 指揮 新星日本交響楽団
二期会合唱団/東京混声合唱団
ひばり児童合唱団
演出:鈴木 敬介
(93.11.4・6 日生劇場)
原作では、ロドリゴが踏み絵に挑むときに、その絵のイエスが「お前のその足の痛みを私が一番よく知っている。その痛みを分かち合うために、私はこの世に生まれ十字架を背負ったのだから・・・・。」と語りかける。
その後も、キチジローを通してイエスの声がロドリゴに語りかける。
沈黙の意を悟ったロドリゴは、最後のキリシタン司祭として自覚する。
オペラの舞台では、踏み絵のイエスが語る場面は描きにくく、ロドリゴの独白と、その後の清らかな音楽でもって、事が達成されたことを現わしている。
CDの音源だけでは、この感動的な場面がちょっともの足りなく、実際の舞台ではさぞや、と思わせる。涙もろい私はきっと泣きぬれてしまうであろう。
裏切りと、それを悔い悩むキチジローの姿は、そっくりユダの姿でもあり、われわれの心にも棲む人間の弱さでもある。
キリスト者として、神を見たであろう遠藤周作。
一日本人として、神に迫ろうとした松村禎三。
「神の愛」というテーマでは遠藤作品の方に分が多分にある。
松村作品は、演出や強靭な指揮者の助けを必要とするかもしれない。
しかし、音楽で神の存在や、その姿に近づくことが出来た稀なる作品であろう。
最初に聴いたときは、小説と同じように強い衝撃を受けた。
そのあと何度か聴くたびに、オハルの嘆きのアリアに感動し、ロドリゴの独白に共鳴し、最後の浄化の音楽に涙ぐむようになった。
そう、普通にオペラとして受け入れることができるようになった。
ロドリゴの田代さんと、奉行の池田さんが迫真の歌唱。
釜洞さんのオハルも泣かせる。
若杉さんの劇場空間での表現力とその統率力はここでも抜群の威力を発揮している。
スコセッシ監督の手で映画化がされるようだが、なかなか実現しないようである。
その映画化の内容は、われわれ日本人には、ちょっと辛いものになりそうな気が・・・。
島国で、自国だけの力でのほほんと生きてきた日本ゆえの悲劇でもある。
そのあたりの理解を持って描いてくれないと、クジラやイルカのようなことになってしまいそう。
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コメント
こんばんは。
当方も大変心に響く音楽でした。再演があれば、聴きに行きたいと思います。遠い帆も、再演して欲しいものです。当時、三回行きました。昨日、ひかりごけ、聞きました。マクベス夫人でいっぱいの当方では、とても受容できませんでした。今、平松英子の恋歌にはまっています。
投稿: Mie | 2009年9月13日 (日) 22時28分
おー
松村禎三先生ですか。。。
昔々
私が大学生の時
そのころ習っていたN響の先生からもらったチケットで
N響の定期を聞きました。
たしか
岩城宏之氏の指揮で
神谷郁代さんのピアノで
松村禎三氏のピアノ協奏曲を初演していました。
それはそれは
タイクツでタイクツで。。。
とにかく私にはタイクツでタイクツで。。。
あ~あ、、ならんわい(落語のあくび指南)
でした。
そうか、
巨匠松村禎三はオペラにも手をだしているか。。。
オペラ好きの私でさえ食指の伸びない松村氏の
オペラを聞きたいと思うくらい
さまよえる様は
オペラを好きなんですね^^
えらい!
というか
マネできない。。。。
投稿: モナコ命 | 2009年9月14日 (月) 21時22分
Mieさん、こんばんは。
触発されて、私も聴きました。
そして、大いに感銘を受けました。
そう、やはり舞台で体験してみたいものです。
三善晃ですか、また気になる作品を教えてくださって・・・。次なるターゲットにしましょう!
ひかりごけの初演のレポートを読んで、中学生だった自分もちょっと退いたものですが、いまならいけそうです。
平松さんをこのところ実演で聴いておりますが、清楚で実によろしいです。
投稿: yokochan | 2009年9月14日 (月) 23時30分
モナコ命さま、こんばんは。
氏のピアノ協奏曲は私も聴いたことがあります。
確かに私にも厳しいものはありました。
しかしですよ、オペラとなると違いますね。
やはり歌はいいです。ドラマはいいです。
一度ご賞味ください。
なかなかに深いものがありましたよ。
投稿: yokochan | 2009年9月14日 (月) 23時37分
本文の末尾に「島国で、自国だけの力でのほほんと生きてきた日本ゆえの悲劇でもある。」とあるが、なぜ「悲劇」なのかがわからない。むしろ、逆に唯一神に頼らざるをない世界こそが「悲劇」ではないのか、と言いたくもなるではないか。それと「自国だけの力で」という部分は歴史認識として間違いです。また「のほほんと生きてきた」というのはいつの時代をいうのでしょうか。まさか戦国時代でも「のほほんと生きてきた」なんていうのではないでしょうね。
投稿: | 2012年6月 2日 (土) 07時13分
名無しさん、コメントどうもありがとうございます。
はい、いちいちごもっとも。
あくまで、ヘボな持論ですから、あしからずお見捨ておきください。
投稿: yokochan | 2012年6月 2日 (土) 12時24分