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2009年10月

2009年10月31日 (土)

パトリシア・プティボン オペラ・アリア・コンサート Ⅰ

Opera_city_2 パトリシア・プティボンが今年もやってきてくれた。

しかも、前回はピアノでのソロリサイタルだけだったのに、今回はオーケストラをバックにしたコンサートを1回やってくれちゃう。
そして、そのコンサートに行ってきました。

普通なら、序曲があってアリアがあってという繰り返しで、徐々に盛り上がってゆき、最後に極めつけの大アリアをもってくるのだけれど、今宵のプティボンのコンサートは、そうした既成の概念にとらわれない、実にユニークなものであった。
聡明で知的な彼女ならではといってもいいかも知れない。
大きくとらえると、前半は18世紀の独オーストリアの古典の音楽。
そして後半が、20世紀アメリカ(フランスも)の音楽。
既知の名曲ばかりを並べるのでなく、本邦初演もあったりして、ともかく新鮮な思いを抱かせるステキなコンサートは、ソロリサイタルでも同じこと。
プティボンの守備範囲は広大で、いまや何が得意で素晴らしいとかじゃなく、手掛けるものすべてを、抜群の歌唱力と、圧倒的な表現力でもって説得力ゆたかに、そして誰しもを引きこんでしまう女性的な可愛い魅力に満ち溢れている稀有の歌手なのだ。
おまけに、こうしてライブで接すると、そのお顔の表情の底知れない豊かさと、指先のひとつまでに歌が心情をこめて表現されていることに驚きを覚えるし、プロ中のプロ魂も感じる。でもそれが天然なところが、パトリシアのいいところだな。

私は保証します。
彼女の歌や姿を聴き、ご覧になったならば、必ずやその虜になってしまうことでありましょう。  

  モーツァルト 「コシ・ファン・トゥッテ」序曲
           アリア「大いなる魂と高貴なる心」
  リジェル    交響曲第8番 1楽章

  ハイドン    「月の世界」~フラミーニアのアリア
                 「人には分別があります」
           「薬剤師」~ヴォルピーノのアリア
                 「ご機嫌よう、親愛なるセンプリーニオ」
  
モーツァルト  交響曲第22番
          「ポントの王ミトリダーテ」 アスパージアのアリア 

                 「重い苦しみ」

   バーバー   弦楽のためのアダージョ

           4つの歌から、「この輝ける夜に、きっと」

  パクリ     「3つのラブソング」           
                            「美
と愛」「永遠の間ずっと」「これが愛」
  バーンスタイン 「キャンディード」序曲
            「着飾って、きらびやかに」
  コープランド  「アパラチの春」~終曲
  アーレン(デュプラ編)          
            「虹の彼方に」

  (アンコール)
  コール・ポーター 「Everytime we say good-bye」


        ソプラノ:パトリシア・プティボン

    ディヴィット・レヴィ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
                      (2009.10.31@オペラシティ)

指揮者レヴィは、コンロンのもとで研鑽を積んだオペラ指揮者とのこと。
せかせかと登場し、パフォーマンスも豊か。そして指揮を始めたら、その姿はまるで、井上ミッチーその人でありました。(頭の具合も!)
この人の活気あふれる指揮は、前半のモーツァルトやハイドンにのびやかな推進力を与えていたし、初聴きのシュトルム・ウント・ドランク的な緊張感に満ちたリジェルの曲などは大いに楽しめた。
 後半は一転、キャンディードで大爆発。コープランドやバーバーはしんみりと聴かせてくれるなかなかの実力者と見た。
しかし、少しオーケストラを鳴らしすぎか。
ホールの特性もあって、よく響くものだから、時にデリケートな歌にのめり込んでゆく、プティボンの声を消してしまうところがあったのは残念。

Petibon2009_3  プティボンは、いたって神妙にモーツァルトとハイドンを歌いだしていた。
でもひとつのアリアの登場人物の心情に共感しきって陰影の濃い歌唱を紡いでゆく。
ハイドンにこんな深い世界が、そしてモーツァルトの初期作がこんなに色濃く歌われるなんて、驚き。
でもデフォルトでもなんでもなくって、先に記したとおり、一人の女性がその思いを普通に表現している感じで作り物でも何でもない。
そう、人工的なものが一切感じられない、不純物のないピュアな歌声とその表現なのだ。コロラトゥーラの完璧さと、反して不安定感のまったくない低音域の魅力。
もう完璧なのだ。
ハイドンの「薬剤師」のアリアは、CDでも収録されているが、歌いながら伸びたり縮んだり、顔の表情も豊かに、ブッフォ的な楽しみが数分の曲で味わえましたよ。

そして後半、バーバーらしい抒情に満ちた「この輝ける夜に、きっと」には泣けた。
ただでさえ、弦楽のためのアダージョで神妙になっていたのに、こんな田園的な癒しの音楽はいけない。パトリシアのどこまでも伸びやかな美しい声がまたたまらない。
ついで連続してうたわれた、フランスのパクリという作曲家の2005年の作品も美しい。
1曲目は、ウィンドマシンが正直うるさかったが、静的でしんみりと聴かせる桂曲に思えた。美・愛・永遠などの普遍的な言葉に込めたパトリシアの思いの丈が聴き取れたものだ。この作品は、次回のコンサートでもピアノ版で歌われるから楽しみ(ウィンドマシンがないし)。
 それで、ですよキャンディードの、口あんぐりのすんばらしい歌。
ナタリー・デッセイとドーン・アップショウがこれまで最高と思っていたけれど、パトリシアが最高
序曲のときに、指揮者ミッチー似のレヴィ氏を追いかけてでてきちゃった彼女。
えんじのタイを持ってでてきて、これまでの白のタイと変えろという。
しっかり替えてあげて、「こっちの方がいい」と退場。場内笑いに包まれる。
こんな演出すべてが、続く音楽にみんな奉仕してしまうところが彼女らしいところ。
小さな帽子をかぶって、白いスカーフを首にまいて、ヨタヨタと歌いながら出てくる。
オケの面々をそれぞれ見つめながら、歌いつつ、喜怒哀楽の移り変わりの激しいこのアリアを目も眩むばかりの変幻自在ぶりでもって歌いまくる。
もう、われわれ聴衆は、目も心も彼女に奪われてしまっている。
最後は、晴れやかに超越のすべてを尽くし歌い終えるが、白いスカーフ(タオル?)を指揮者氏の輝くおつむに投げて被せてしまった(笑)
 ここで大熱狂。立ち上がる人も数人。なんという舞台人なのでありましょうか

冒頭に書いたように、ここで終わらないのが、パトリシア。
「アパラチアの春」で、アメリカのよき時代の夕べの家族のひと時のような、苦難のすえに得た幸せを象徴するかのような音楽を堪能した。
懐かしいい雰囲気で曲が静かな終結を迎えつつあるなか、パトリシアは静かに登場し、曲はそのまま、「虹のかなたへ」に引き継がれた。
そう、「オズの魔法使い」のジュディ・ガーランドの歌です。
これまたいけない。
こんなコンサートの終わり方はステキすぎる。
アパラチアの春のあとに、虹の彼方に・・・。
全曲、ソットヴォーチェで、囁き歌いかけるような歌唱で、私は涙があふれてくるのを止めようがなかったのであります。
もう語ることはありません。
会場の皆さんは、きっと同じ思いに浸され、静かに余韻に浸るのみでありました・・・・。

アンコールには、レヴィ氏がピアノを弾き、コール・ポーターの名曲を。
彼女は、ラメの小粋なノートブックを片手に、ステージに腰を降ろして、これも情感こめて静かに歌いました。
黒いドレスに、ゴールドのネックレス。
赤毛のカーリーヘア。
今宵も、パトリシア・プティボンに、すっかり心を持ってかれましてよ。
招聘元の彼女の記事は、こちら
日本の文化を愛し、われわれ日本人の音楽の嗜好も、おそらく考えての今回の演目。
脱帽のほかなく、ますます活躍する彼女を応援したい気持ちで一杯だ。
来年のザルツブルクでは、アーノンクール(!)の指揮で、「ルル」に出演するらしい。
クリスティとアーノンクールの薫陶も彼女の豊かな音楽性の背景にあるであろう。
今日の終演後のサイン会の列はすごかった!
しっかりいただきましたよ、ことしも。
その模様は、また明日・・・。

プティボン過去記事

デビューCD「フレンチタッチ」
 「バロックオペラアリア集」
 「来日公演2008年4月」①
 「来日公演2008年4月」②
 「恋人たち オペラアリア集」

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2009年10月29日 (木)

ブラームス 交響曲第1番 コンヴィチュニー指揮

Einsatz 知る人は知り、そして懐かしいでしょ、この光景。

ここは惜しまれつつ2年前閉店した、大阪キタにあった、クラシック音楽バー「EINSATZ」でございます。

マスター、こんな古ネタ出してすいません。
ベートーヴェンの死に顔に見つめられ、こんなムジークフェラインのような内装のお店で、クラシックを聴きながら一杯飲めてしまうという、クラヲタのんべの極楽のような場所だった。
レコ芸に出てた宣伝をみて、飛び込んだ店で、大阪出張の大いなる楽しみだった。
マスター含め、こちらでお近づきになった方々とは、楽しい交流が続いております。

そして、近々マスターは、コレクターアイテムのレアー音源や復刻CDの販売に乗り出すとの由。その暁には、こちらでまたお知らせいたしますので、お楽しみに

Brhams_sym1_konwitschny アインザッツで聴かせてもらった驚きの音源の数々。
それらの中で、大いに感銘を受けた1枚がこれ。
ついに入手しましたよ。

コンヴィチュニー指揮する、ライプチヒ・ゲヴァントハウスによるブラームス交響曲第1番がそれ。

この1枚は、コンヴィチュニーのボックスセットにも入ってないし、国内ではCD化されていない様子で、ジャケットにはDDRとあるから、旧東ドイツプレスということになる。
ちなみに、わたくしの自慢の1枚、ジークフリート牧歌などが入ったスウィトナーのワーグナー集も、このレーベルだった。

演奏は、今のドイツが過去に置き忘れてきてしまった、剛直でかつ格調高い響きが堪能できる重厚なものである。
堂々として揺るぎない歩みで圧倒される第1楽章、渋いが、思いのほか歌にあふれている第2楽章。素っ気ないが管の音色に味のある第3楽章。
そして、巨大な終楽章が待っている。
主部に入るまでの、深~い低音域、そしてテンポを少しづつ揺り動かして緊張感を高めてゆくピチカート。その高まりの中に登場するホルンであるが、これがまたカッコよくない。
そのあとを受けるフルートやトロンボーンのコラールも合わせて渋すぎなのである。
弦でかの有名な主題が登場しても、まったくの平常心で、あわてず騒がず、じっくりしたものである。弦楽器も朗々とよく歌っているが克明な響きを刻んでいるので、表面的にならない。コーダの加速も音楽的で、うまく聴かせようなんて思いがさらさらなく、コラールもさりげない。だが、最後のトゥッティは思い切りため込んで思いの丈を込めた和音を鳴らしていて胸にズシリと響く。

50年代終わりごろの録音と推定されるが、響きもよく多少の混濁感はあるが、録音状態は万全。
こんな素晴らしい演奏を放っとくなんてもったいない。

最近は、コンヴィチュニーといえば、演出家の方しか頭に浮かばなくなってしまったけれど、親父を忘れちゃいけないところだった!
61歳という早世が残念に思われるとともに、奇抜だが音楽をよく理解した息子の演出の素養は、偉大な親父の影響下にあるわけだな。

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2009年10月27日 (火)

「シンフォニック・フィルム・スペクタキュラー」 現田茂夫指揮

Hills_2  六本木ヒルズ。

東京国際映画祭が開催中の時の一枚。

仕事中でも、カメラを持って街を歩く。
さりげなく撮ると結構いい1枚が撮れたりするから気が抜けない。
それといつ「にゃんこ」が姿をあらわすかしれないのだ

Symphonic_film_genda 現田&神奈川フィルのコンサート会場にて購入した1枚は、「シンフォニック・フィルム・スペクタキュラー」というシリーズものの中の1枚。

ハリウッド映画のオリジナルオーケストラスコアやサントラ収録時のスコアを実際に使って演奏したもので、録音もシリーズ化していて、今日の1枚はNO.4と銘打たれているが、続編もいくつかあるみたいだ。

全然知らなかった。
オーケストラは日本フィルハーモニーで、シリーズには、現田氏の指揮以外に、沼尻氏も登場している。
本場アメリカのオケでも、こうした試みはないと思われるからユニークこのうえないシリーズといえよう(誰?)

     「十戒」組曲
     「エデンの東」フィナーレ
     「ウエストサイド物語」セレクション
     「砲艦サンパウロ」序曲
     「チャイナ・タウン」メインタイトル
     「パピオン」テーマ
     「風とライオン」メインタイトル
     「パットン大戦車軍団」間奏曲
     「ウエスタン組曲」~「赤い河」「ジャイアンツ」「白昼の決闘」「ローハイド」
                 「真昼の決闘」「アラモ」「OK牧場の決闘」
     「シェーン」組曲
     「ダンス・ウィズ・ウルブス」
     「大いなる西部」メインタイトル

       現田 茂夫 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
                      (2004.4@東京芸術劇場)

聴いたことある馴染みの曲や、初聴の曲もあり。
「十戒」では、チャールトン・ヘストンのモーゼの姿が、「エデンの東」では、ジェイムス・ディーンのはにかみが、「パピオン」では不屈のステーヴ・マックイーンと風変わりなダスティン・ホフマンが、「シェーン」では心優しい無口な男アラン・ラッドとあの少年が・・・。

次々に現れる名旋律に、スクリーンの思い出がよみがえる・・・。
もっとも実際の映画館で観たのは「十戒」ぐらいで、あとはテレビやビデオを通じてだけど。
男ばかりが主人公だけど、みんな強くて優しかった。
今現在の主人公たちは、もっと複雑な存在で、役者もいろんな役を演じざるを得ないから、強烈な個性が失われつつあるようだ。
これは、音楽の世界、ことにオペラ歌手たちにも言えること。
ジェイムズ・ボンドも、ショーン・コネリーかロジャー・ムーアしか脳裏にないし。

こうして、ハリウッドのスコアを忠実に演奏しているものをまとめて聴いていると、正直単調に陥ってくるのも事実。
やはり、映像あってのそのスコアでありかもしれない。
「ウエストサイド・ストーリー」は、別な人の編曲版だが、これはもうバーンスタイン本人のシンフォニックダンスを聴きなれているものだから、そちらに何歩も譲るくらいの違いがあると思った。

現田さんは、こうした音楽は本当にうまい。
聞かせどころをしっかり押さえていて、無理なく音楽のよいところだけを聴かせてくれちゃう。欲をいえば、現田さん特有の華やかさがちょっと欠けているところかな。
重厚な日フィルということと、私の好きでない芸術劇場ホールの詰まったような音にもよるのかもしれない。
まぁ、贅沢言っちゃいけません。
楽しめる1枚でした。

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2009年10月25日 (日)

モンテメッツィ 「三王の愛」 N・サンティ指揮

Jouvaud頂きもののスィーツ
オヤジのくせして、甘いものにも目が入ないあたし。
お家に持って帰って、子供たちと競って食べちまいました。
まるで餌に群がるハイエナ家族のように・・・。

井村屋(肉まん!)がやってる、フランス菓子のブランド「JOUVAUD」というお店のものらしい。
手前のゼリーのようなものは、フランスの伝統菓子パット ドゥ フリュイというしろもの。
こりゃ美味。まるで果汁を食べるかのお味に食感にございました。

Montemezzi_lamore_dei_tre_re

 

 

 

 

 

 

 

今日のオペラは、イタリアの作曲家イタロ・モンテメッツイ(1875~1952)の「三王の愛」。

ヴェルディ以降のイタリアオペラ作曲家。
イタリアオペラ界では、当然に、ポスト・ヴェルディを求めていた。
音楽界あげての動きだっただけに、作曲家たちには、そのプレッシャーも相当なものだったろう。

生年順にあげると。
 
  ★ヴェルディ(1813~1901) 

  ・ボイート(1842~1918)
  ・カタラーニ(1854~1893)
  ・レオンカヴァルロ(1857~1919)
  ・プッチーニ(1858~1924)
  ・マスカーニ(1863~1945)
  ・チレーア(1866~1950)
  ・ジョルダーノ(1867~1948)
  ・モンテメッツィ(1875~1952)
  ・アルファーノ(1875~1954)

 

こうして見るとほとんどの作曲家が、1800年代半ば以降に生まれ世紀をまたいで活躍している。いわゆる世紀末なのに、そうした言われ方をしないのが面白い。
この中から、プッチーニがダントツで踊りでている訳だが、他の作曲家たちは、それぞれ多作家なのに、ひとつの作品でしか有名でない。
ところが、下のふたり、モンテメッツィとアルファーノはまったく知られていない。
それでも、「トゥーランドット」を完遂させたアルファーノは「シラノ・ド・ヴェルジュラック」が上演されつつある。
でも、モンテメッツィは気の毒にも、まったくネグレクトされたまま。
私も、この一作品しか知らないが、ここにその素晴らしい音楽をご案内したいと思う次第でございます。

 

私がこの世代の作曲家に大いに惹かれるのは、そこにプッチーニがいるばかりでない。
「カヴァ・パリ」や「アンドレア・シェニエ」も経て、チレーアを知ったからである。
そう、76年のNHKイタリア・オペラで上演された「アドリアーナ・ルクヴルール」を観劇した高校生の私は、同時に観た「シモン・ボッカネグラ」の渋い世界とともに、チレーアの儚くも美しい音楽にすっかり魅せられてしまった。
 それは、ヴェリスモといえば生々しくも、極端にドラマテックな音楽とイメージしていたのに、声高に叫ぶことのない抒情味の勝ったもの。

気に入ったチレーアと同じような作風の人はほかにいないか?
それが、カタラーニとモンテメッツィであった。
前者は「ラ・ワリー」を聴いたし、後者がこの「三王の愛」。
そしてモンテメッツィはイタリアのワグネリアンでもある。
しかし、ドラマと音楽との緊密さは認めつつも、ワーグナーのような壮麗で分厚いオーケストレーションは見られず、雄弁さはほどほどに、淡々としたシンフォニックな劇付随音楽のようにも思える。
こうした中で、甘味な抒情が随所に花咲くようにして溢れているのだから、オーケストラ好き・オペラ好きにはたまらないのだ。

イタリアン・ワグネリアンと呼ばれるのは、むしろこの「三王の愛」の愛憎ゆらめくストーリーが、「トリスタンとイゾルデ」を思わせるからであろうか。
全3幕、100分足らずの作品ながら無駄なものが何もなく、凝縮されたドラマに精緻な音楽がしっかりと納まっている。

して、そのあらすじを。

ところは、10世紀のイタリア。
3王というのは、舞台となるイタリアの地アルトゥラ国を北方からきて征服し善政を布いたアルキバルド王。そしてその息子のマンフレート。そして被征服国の前王子アヴィート。
この3人。そして今や、アルキバルド王は、盲目の人となっている。

 

第1幕
 盲目のアルキバルト王は、かつての被征服民の召使フラミーノに、息子が城に帰ってくるのが見えるかと問うている。
フラミーノは、征服されることもなければ、かつての若王アヴィートと、今マンフレートと政略結婚を強いられたフィオーラとは今頃は幸せな日々を過ごしていたろうと独白する。
 そのフィオーラは、城内で人目を避けてかつての恋人アヴィートと逢引している。
老王に、いまだれかと話していたのか?と問われるフィオーラだが、夫を待っていたと嘘をつく。
しかし、盲目で感の鋭くなっている王は、怪しむ。
そこへ、マンフレートが帰ってくる。王に彼女の様子を聞く息子。
息子は、フィオーラを愛してやまないのだ。
老王は、堪えながらも息災にしていた・・・と答え、息子は喜んで妻フィオーラを抱きしめる。親父王も、実はフィオーラを陰ながら愛していて、こんな様子が見えなくてよかったと独白する・・・・。

 

第2幕
 帰還も束の間、すぐに戦いに赴くこととなったマンフレート。
かたくなな妻に、せめて塔の上に立って、自分にヴェールを振って送り出して欲しいと懇願し、思いの丈を情熱的に歌う。
それに心を動かされたフィオーラは、別れの挨拶を約束し、塔に登ってゆく。
その途中にあらわれた、アヴィート。
これ以上今の夫を裏切れないと別れを告げるフィオーラに、「信じられな~い」と、かつての恋人の足下で、その足を抱きすくめて今も変わらぬ熱い心のうちを歌う。
これにほだされ、ついに折れてしまい城壁を降りるフィオーラ。
ここで、「トリスタン」ばりの熱く激しい2重唱が交わされる。。。。
 そこに老王が召使に伴われ登場。すばやく逃げるアヴィート。
「何をしていたのか」と問う王に、ついに「恋人といたのです」とフィオーラ。

「相手の名を?」何度もしつこく問う王(パリアッチみたいだ)に、フィオーラは「dolce morte!」~「甘き死!」と答える。
これにかっとなった王は、フィオーラの首を絞めて殺してしまう・・・・。
 城壁に見えなくなった妻を案じて引き返してきた息子マンフレートは、この惨状を見て絶望に打ちひしがれる息子。
王は、きっと憎っき輩を見つけ出してみせると誓う。

 

第3幕
 城内の礼拝堂の納骨室。
フィオーラを囲み悲しみにくれる人々。かつての住民たちである。
そこへ、アヴィートが忍んできて人々は驚く。一人にしてくれとアヴィート。
彼はここで恋人の死を悲しんで長いアリアを歌い、冷たくなった唇に口づけをする。
すると、彼は目まいを感じ、そこへマンフレートが現れる。
彼女のその唇には、父王が相手を見つけるために猛毒を塗ったのだ、と語る。
「それなら、その死を楽しむしかない・・・」とアヴィート。
マンフレートは、「死ぬ前に、彼女はお前を愛していたか教えてほしい」と問う。
アヴィートは、「命よりも深く・・・、もう復讐は達成したろう」と倒れ、マンフレートは彼を受け止め横たえてやる。
そして「私を深い孤独におとしめないでくれ、永遠にあなたのそばにいたい」とフィオーラに口づけするマンフレート。
 悶絶する息子を前に、アルキバルト王は、「取り返しのつかない闇」と絶望の声をあげる・・・・・。

 モンテメッツィ 「三王の愛」

  フィオーラ:アンナ・モッフォ     アヴィート:プラシド・ドミンゴ
  マンフレート:パブロ・エルヴィラ  アルキバルド:チェーザレ・シエピ
  フラミーノ:ライランド・デイヴィス

    ネロ・サンティ 指揮 ロンドン交響楽団
                 アンボロジアン・シンガース
                 合唱指揮:ジョン・マッカーシー
                        (1976.7 @ロンドン)

Mofo3

 

 

 

 











 70年代半ばといえば、ここに歌うモッフォシエピはもう全盛期を過ぎていた頃だが、よくぞこんな凄い組み合わせを実現させたものだ。
3人の王に愛され翻弄され死を選ぶ運命の女性を、モッフォはよく歌っている。
確かに、音程はやや不安定だし声も荒れているが、その存在感は素晴らしいものがあって、あのカルメンのように体当たり的な歌唱が聴かれる。
死ぬ場面の悶絶ぶりはかなりリアルで、まさに虫の息。さすが名女優。
 存在感では、シエピの健在ぶりも目立つもの。録音時50代半ばだからまだまだ。
激情と諦念ぶりを味わい深い声で見事に歌いだしていて、要となっている。
このベテランに挟まれて、ドミンゴエルヴィラのピチピチとしたイキのいい声は、聴きごたえあり。ドミンゴは何を歌ってもうまいもんだ。

今や、お馴染みサンティの雰囲気豊かな指揮も味わえるし、ロンドンのオケのイタリアオペラは、私はニュートラルで癖がなく大好きなのだ。

プッチーニや、カヴァ・パリばかりでなく、このあたりのオペラももっと上演してほしいものだ。音楽は、マーラーやシュトラウスに馴染んだ我々聴き手には、極めてすんなりと受け入れられること請け合いだから。
まだまだ未開拓のオペラがたくさんあり、お宝が隠れているはず。
これもまた、オペラの楽しみなり

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2009年10月24日 (土)

NHK交響楽団定期演奏会 プレヴィン指揮

Nhk_hall_2 今日は寒く感じるような曇り空。喧騒の渋谷もちょっと寂しく感じた。
公園通りのパルコでは、マイケル・ジャクソン似の人が踊ってましたよ。

アンドレ・プレヴィン指揮のNHK交響楽団演奏会。
今回の演目は、自作の本邦初演に、協奏曲、本格シンフォニーという王道プログラム。

 プレヴィン      「オウルズ」(日本初演)

 モーツァルト     ピアノ協奏曲第23番イ長調
    
               Pf:池場 文美

 ショスタコーヴィチ  交響曲第5番

       アンドレ・プレヴィン指揮 NHK交響楽団
                  (2009.10.22@NHKホール)


自作の「オウル」は2008年初演のボストン響の委嘱作で、オウルとは「ふくろう」のこと。
イングランドの自宅近くの森で見つけた2羽の衰弱したふくろうを愛護団体に届け出たプレヴィン。やがて元気になり森に帰ったという。
こうした出来事に触発され音楽にした心優しいプレヴィン。
森のつがいの動物たちを表すかのように、管楽器が常にペアを組んでさえずっている。ときに同じ楽器同士、ときにフルートとピッコロ、クラリネットとバスクラリネットといった案配で。そして音楽は旋律にあふれ、クリーンで柔和な、とても聴きやすいもので、聴いていて優しい気分に満たされていく。
プレヴィンの人となりがそのまま音になったかのような素敵な作品でありました。
その和やかなムードはイ長調のモーツァルトの協奏曲にそのまま引き継がれた。

池場さんは、正直名前も知らなかったピアニストだが、プログラムによれば、プレヴィンの前妻ムターのプローベやコレペティトールをつとめているという。
こうした関係から、本日のソリストになったのかもしれないが、これがまた素晴らしいピアノだった。
まず、プルトを3ないしは4に刈り込んだ室内オーケストラサイズのN響をプレヴィンが指揮しはじめると、それはもう柔らかく温もりに富んだほほ笑むモーツァルトの響きだった。
モーツァルトのイ長調作品は、その明るく伸びやかなところがどれも好きだが、その代表格のピアノ協奏曲をプレヴィンの指揮でこうして聴けるなんて、本当に贅沢なものだ。
N響は、プレヴィンのこのモーツァルトに惚れ込んだのではないかしら。
スウィトナー以来、こんな素敵なモーツァルトをN響で聴かせる人はいなかったから。
2楽章のオペラのアリアのような悲しみの表現、3楽章のブッファ的ともいえるピチカートの弾け具合。
こんな素晴らしい背景を得て、池場さんはさすが合わせものの達人と思わせるくらいに、プレヴィンと同質化している。巨大なホールにクリアに響き渡る美しい音。
2楽章は、一転、短調の悲しみの旋律をピアノがあまりにも繊細に弾くものだから、こちらも思わず涙ぐんでしまったし、終楽章のオケとお互い聴きあうような演奏ぶりがとても好ましかった。
普通に美しく優しいモーツァルト。
とても気持ちがよかった。
休憩中のロビーも、みなさんお顔がほころんでいたし、メロディを口ずさんでる方もいらっしゃったくらいだもの。

さて、メインのショスタコーヴィチ第5交響曲
楽しみだったけど、そうでもない。
一番有名なこの曲で、ショスタコに入ったのに、今は苦手、というか心に響かなくなってしまった曲。
今日もなぜかぼんやり聴いてしまった。
プレヴィンの演奏、手持ちのシカゴとのCDとほぼ同じに思った。
表情は若々しくフレッシュで、オケも含めてほぼ完璧な出来栄え。
抒情的な部分の美しさが、オケのソロの技量も含めて際立っていたが、唯一気に入ってる3楽章の長大なラルゴが、近くに座ったご婦人のビニール袋カサカサ攻撃に会い、まったく精彩なくなってしまった。怒る気もしない・・・。

Previn_2 今日のプレヴィンは、初日聴いたシュトラウスよりは元気そう。
前回は長旅の疲れもあったのかもしれない。
サントリー定期は聴けないので、2回のコンサートを総括すると、R・シュトラウスとモーツァルトに尽きる。
賞味期限切れだとか、もう少し早ければ、などという声も聞かれるし、見た目老いの目立つプレヴィンだけれども、まだまだ全然大丈夫との認識。
ただし、選曲は、大物でなく、モーツァルトやメンデルスゾーン、シュトラウスの後期作品、英国ものなど、瀟洒なプログラムがよいのではないかと。

これだけ日本を愛してくれてる巨匠。ファンとしては大いに歓迎。
そしてまだ80歳。日本でさらなる名演の数々を築きあげていって欲しいと強く願っている。

最後の拍手に応えて、舞台袖に下がってゆくマエストロの後姿をずっと見つめていた私であります。

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2009年10月23日 (金)

ウェーベルン オーケストラのためのパッサカリア アバド指揮

Makhari 千葉市の幕張副都心

高速で帰宅中にパシャリ。
お月さんもいい感じで撮れました。

昔は高層ビルといえば、霞が関ビル。
そのあと、新宿の副都心が開発され、いまや都内は高層ビル・高層マンションだらけ。

そして首都圏の3都市~横浜、千葉、さいたま、にも副都心ができましたな。
いずれも、ビジネスと商業、住居のバランスが取れた街。
こういう光景は結構好きであります。
幕張の自慢は、商業系。
イオンの本社、カルフール、コストコ、三井アウトレット、あと少し上れば、ららぽーとにIKEA

Abbado_webern

今週は、私のフェイバリット4人指揮者を取り上げていて、最後は「にゃんこ」を挟んで、クラウディオ・アバドであります。

アバドとの付き合いは、もう何度もここに書いてきたけど、長いのです。
1972年にボストン響とのスクリャービン&チャイコフスキーを聴いて打ちのめされて以来37年間。
ずっとアバドを聴いてきた。
クーセヴィッツスキー・コンクールで優勝したアバドの楽壇デビューは1959年だが、スワロフスキー門下として同門で朋友のメータと同じくウィーンとの縁が大きい。
その後、ミトロプーロス指揮者コンクールではコシュラーと優勝を分け合い、バーンスタインのもとでも学んだ。
そして、カラヤンに認められザルツブルク音楽祭に伝説的なデビューを飾るのが67年のこと。マーラーの「復活」がその曲目。
故郷のスカラ座の指揮者となり、ウィーン・フィル、ロンドン響、シカゴ響(首席客演)、ウィーン国立歌劇場、ベルリン・フィル、ルツェルンという超一流ポストを歴任したことは、みなさんご存じのとおり。
カラヤンと同じような、こんなすごい地位を昇りつめていくなんて、最初は予想もできなったこと。
でもアバドは権謀術策を尽くしたりしてこんな地位を掴んでいった訳ではさらさらなく、オケやハウスから請われるようにして自然のなりゆきでなっていった。
野望や嫉妬とは無縁のアバドは、平気でその地位を投げ出してしまう。

音楽することだけを純粋に考えているそんなアバド。
その最大の功績は、若手演奏家の育成。
ECユースオケ、ヨーロッパ室内管、マーラー・ユーゲント・オケ、マーラー・チェンバー、モーツァルト・オケなどなど。

かつては考えられない新時代の指揮者と呼べるのではなかろうか。
オペラハウスから叩き上げて実績をつけて地位を築いてゆくのが昔の指揮者のあり方。
ベームもカラヤンも、カルロスもそう。
アバド以降の指揮者たちは、コンクールで名をあげてからオペラに入って行くパターンとなったが、名門の出アバドは、労せずして根っからのオペラ指揮者でもあった。

好きなものだから、一度こうしたことを書いておきたかったアバド。
ウィーンの街とは切っても切れないから、マーラーや新ウィーン楽派は超得意。

ウィーンフィルとの蜜月時代に、新ウィーン楽派の3人の作品が録音されたことは、本当にありがたくも貴重なこと。
アバドの精緻なウェーベルンは、若い頃から絶品で、73年にウィーン・フィルと初来日したおり、ベートーヴェンやブラームスに混じって、ウェーベルンの5つの小品を演奏したが、これまた評論家筋からはけちょんけちょん。
オケに乗ってるだけ、振ってるだけと。
ただ、ウェーベルンだけは絶賛された。
弱音で歌うという、当時としては考えらないリリシズムをウェーベルンの音楽でやってのけたのだから。
74年のシェーンベルク・イヤー(100歳)に、アバドはウェーベルンをたくさん指揮していて、FMで「パッサカリア」が放送された。
これがまあ、あきれ返るほどの歌に満ち溢れた美しい演奏で、むせかえるほどのウィーンフィルの美音も放送録音ながら、はなはだ素晴らしく捉えられていた。
今でも私の大切な音源のひとつである。

そして、正規録音は90年。
若い情熱は、より自在な音色の配列に重きを置くようになってクールさが増したし、再弱音から強音までのダイナミクスの幅がきわめて大きい。
ウェーベルンの習作期最後のこの作品は、後期ロマン派の香りが色濃いが、トリスタンやマーラー、ツェムリンスキーの流れをしっかり汲んでいる一方、緻密な対位法や休止の効果的な使用など、のちのウェーベルンの顔もしっかり刻まれている。
本当のアバドらしさは、「5つの小品」や「6つの小品」、「変奏曲」などに出ていると思うが、
今宵は濃密なパッサカリアを聴きたかった。
最後のクライマックスの頂点で、ホルンがこの曲の重要な楽想のひとつをオーケストラの上に、一本奏でて、それが残像のように残るのだが、この場面、ウィーンフィルならではの美しさで、諸盤のなかで、アバドが最高だと思う。

この曲も夜の音楽であります。

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「にゃんにゃん」のはずかしい・・・・・

1 とある駐車場にて休憩中のわたくし。

と、そこへ現れましたね、にゃんこが。

でもどこか、へっぴり腰じゃぁござんせんか(笑)

2 あ、そう。
そうだったのね。
お食事中の方、すいませんね。
こんな画像をお見せしちゃって。

3

あ~~気持ちエエにゃぁ~
う~んん

Nyanko_toilet そして、のぞき見する、ワタクシと目があったのございます。

5 でぇーーーーツ
驚愕の表情。

でも、あんた、面白いガラしてるねぇ。

7 途中じゃやめられない。
きれい好きのにゃんこは、ちゃんと始末をして、そそくさと去っていきましたとさ。

にゃんにゃん、こんな恥ずかしいところ覗いちゃって、ごめんね、ゴメンネ~

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2009年10月21日 (水)

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 ハイティンク指揮

Jiro_20091021 ドッカーン
明日は人間ドックだというのに、これですよ

「いま、あんまり並んでないからさぁ、○○さ~ん、行きましょうよう」と仕事仲間の悪魔のお誘いが・・・・・。

「あたしゃ、7年ぶりの人間ドックなのよ。明日、二郎したでしょ、と指摘されたらどうしよう・・・・」

気が付いたら行列に並んでおった。

これで小。
本日は、盛りがすごかった。
慶応高校生がたくさんいたからかしらね。
苦ぢ~ぃい・・・・。
明日の検査にそなえて、酒も2週間飲まなかった。

でも、二郎食っちゃったから、やけくそだ、音楽も凶暴なヤツ行こうーか

Shostakovich_sym11_haitink_2 ショスタコーヴィチの交響曲シリーズは、10番でずっと止まっておりました。
6月の21日でございますよ。
4か月も放置してしまった。
別に嫌いになった訳じゃないのよ。
夏になったし、ちょっと暑苦しかっただけ。

というわけで、交響曲第11番「1905年」を。

雪解けの直前作10番から4年。
スターリンの死により、その恐怖政治がフルシチョフにより暴かれ、これまでの正が邪となってゆく。
どこぞの政権交代なんぞより、はるかにドラマテックな出来事であったろう。
ショスタコーヴィチも、これまでの体制を脱却した音楽の非スターリン化の声を上げざるをえなくなるわけだが、いつものようにどこに本音があるかわからない。

それでも、新体制が望むような記念碑的な交響曲を書くこととなり、その題材を40年前のツァーリズムによる民衆の大量殺りくの悲劇と、その後の革命に求めることとなった。
結果、10月革命は、次の12番の交響曲に持ち越され、11番では、革命の契機となった1月の「血の日曜日事件」を中心にすえ、その凄惨な様子と死者への哀悼、そして来るべき勝利への輝かしい歩みが、まるで一幅の長大な交響詩となって描かれることとなった。

   第1楽章「王宮広場」
   第2楽章「1月9日」
   第3楽章「永遠の追憶」
   第4楽章「警鐘」

これらは連続していて、緩・急・緩・急が交互に訪れる。
聴いていて、その大音響と息詰まるような大迫力を感じるのは、第2楽章の殺戮の模様だ。
若い牧師に率いられて、時の皇帝ニコラス2世に請願書を持って宮殿にデモ行進をした。
その数は、14万人というからものすごい。
この市民・労働者にむけて、軍は一斉射撃を行い3000人を虐殺。
ロシア革命の契機となった。

この音楽をなんとたとえよう。「春の祭典」も「中国の不思議役人」も真っ青のド迫力。
ド迫力サウンドは、2楽章前半の請願の行進の熱烈、終楽章の民衆の怒りをあらわすオケの大咆哮にも充分聴かれる。
静かな部分も多い作品だから、音量を上げて聴いたりすると、とんでもないことになる。
スピーカーは破け、アンプはお釈迦に、近隣から苦情が、はては家族離散の悲劇が待っている。まさに、血の日曜日となることは必須ゆえ、心して聴かねばならない11番なのだ。
 こんな激しい部分ばかりでなく、1楽章冒頭の悲劇を予見させるかのようなヒンヤリ・クールな朝の雰囲気や、3楽章のまさにレクイエムのような沈痛な葬送行進曲など、ショスタコーヴィチらしさがたっぷり味わえる。

全曲に使われたのは、当時歌われた革命歌で、民衆に親しまれていたものという。
これはまさにお得意のパロディーだし、衛兵のトランペットはまさにマーラーの旋律そのものも聴かれる。
そして、自作の権力や民衆をあらわすライトモティーフもとても有効に使われていて、大音響に惑わされないで聴くほどに、発見や味わいのある緻密な構成ともなっている。

ソ連、ロシア系の演奏家が演奏すると、没頭感がありすぎてプロパガンダ的になってしまいそうだけど、80年代以降、ハイティンクに代表されるような欧米系の演奏は、スコアをしっかり見つめショスタコーヴィチの音楽のみにスポットをあてた演奏が主体となってきたと思う。
この曲を初めて聴いたのは、ハイティンクのこのCD。
やたらに立派で、マーラーやブルックナーを手がけるかのような誠実な姿勢を音楽に対して貫いた演奏。いつものコンセルトヘボウの音だし、録音もホールの響きもきわめて素晴らしい。
この演奏以外も、いくつか聴いたがどうもしっくりこない。

私のショスタコーヴィチ・シリーズは、ハイティンクだらけになってしまった。
フェイヴァリット指揮者、ハイティンクのショスタコは、20年前順次国内発売されたとき、1枚1枚楽しみながら揃えていった。
思えば、ハイティンクのCDで、ショスタコに開眼したのだった。
当時、マーラーを聴きつくし、ポスト・マーラーはショスタコだろうという思いだったし、故若杉さんもそう話しておられた。
インバルも手掛ける前、ソ連系以外がショスタコの非有名曲を録音するなんて、とても珍しいことだったし、ハイティンクとコンセルトヘボウがフィリップス以外のレーベルに登場するなんてことも驚きだった。
またまた昔話で恐縮でありますが、ショスタコーヴィチの西側演奏のパイオニアは、わがハイティンクなのであります。

ショスタコ・シリーズ次は、もうひとつの革命だぁ

その前に、これまた愛しのプレヴィンの5番を聴きに行きます。
それも「革命」と呼ばれている名曲だった。

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2009年10月20日 (火)

バルトーク 管弦楽のための協奏曲 マリナー指揮

Lamune またヘンなことしてみました。
へんてこラムネ集合です。

ありえな~いシリーズか

この中で許せなかったのは、シュークリームだ。
シュークリームを飲むなんて、ありえな~い。

画像はありませぬが、「イカスミ」、「ラベンダー」、「杏仁」、「たこ焼き」、「ハスカップ」などを飲んだことがありますよ。
ほかにへんなドリンクあれば、教えて下さいましね。
あ、ちなみに、クリオネは入っておりません。

Bartok_orchestra_konzert_marriner こちらは、サー・ネヴィル・マリナー指揮する、ありえな~い、バルトークオケコン
またまたヘンなこと思いついた。
マリナーのありえへんシリーズ。
私のような世代だと、マリナー=アカデミー室内管弦楽団というイコール図式が刻み込まれている。
それだけ、あの「四季」は衝撃的だったし、70年代初めの室内オーケストラ・ブームの火付け役のコンビだったわけだ。

そのマリナーが、大オーケストラのシェフになっていろんな曲を指揮するようになり、ついには、アカデミーも多様な編成に対応するマルチなオケになって、マリナーとアカデミーのレパートリーは格段に広がりを見せたのだ。

これもまた私の昔話だけど、室内オケから見守ってきて、フルオケを指揮するようになったマリナーが好きで、昨晩と同じく評論家ウケはよろしくなく、悔しい思いをしたものだ。
それでも、「惑星」「エルガー」「アルル・カルメン」などは大絶賛された。
それらは確かにオケの魅力も相まって、爽快極まりない胸のすくような演奏だ。
でも、マリナーはどんな曲を指揮してもマリナーの刻印を感じ取ることができる。

ヴァイオリン出身だけに、弦楽を主体とした響きをオーケストラ演奏においてもこだわるが、そのこだわりある緻密な弦のアンサンブルは、どのオケでも見事に揃えられていて、その上に木管と金管がすっきりと乗っかっている。
だからどの楽器も突出することなく、バランスがとてもよく、例によって私の好む中庸の美がそこにある感じ。
曲によっては、すいすいサラサラとしすぎの場合もあるが、私のようにワーグナー+後期ロマン派男には、血流の流れがとてもよろしく感じて、そんなマリナーの個性も大好きなのだ。
しかし、最近は、マリナーも力のこもった劇的な演奏をするようになった(と思う)。
2年前のN響のブラームスは、驚くほど気合がこもってた。
来年、86歳になるが、元気に来日してくれることだろう。

さて、このオケコンは、一瞬ありない取り合わせだが、シュトットガルトとの来日でも演奏していて、こうして聴いてみると全然普通にバルトークである。
でも、スピード感や熱気・迫力を求めるとはぐらかされることになるが、細部まで透明感があり、バルト-クの緻密なスコアが透けてみえるよう。
それは、ブーレーズのような分析的な緻密さとは異なる、磨きあげられた音の連なり具合の緻密さに思う。
オーケストラの各楽器が競いあう感も緊迫感もどちらも少なく、合奏の妙を楽しく聴かせてくれて、上品ですらある。
当然にして、3楽章の「悲歌」が重苦しさから解放されたような演奏でユニークであり、その美しさは絶品だと思う。
 こんなバルトークも好きだな。
オーケストラは、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
1990年、ヘンリーウッドホールでの素晴らしいフィリップス録音であります。

マリナーの、マリナーらしからぬレパートリー、いままでもブルックナー、ワーグナー、ブラームス、チャイコフスキー、R・シュトラウスなどなど取り上げてきました。
まだまだ用意してありますよ

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2009年10月19日 (月)

ベートーヴェン 交響曲第5番 プレヴィン指揮

Azuki_pepsi おえーッ

こんなん出ました

変わり種ペプシ、この秋はなんと、「あずき」でござんした。
あたしは、子供の時から炭酸飲料が好きで、悪い大人となった今も、昔ほどじゃないが結構飲んでる。
記事でも、「きゅうりペプシ」、「しそペプシ」などを書いてますよ。
 しっかし、今回は予想もしなかった、あずき攻撃。
そのお味は・・・・・、蜜豆の汁と小豆を一緒に飲んで炭酸のしゅわしゅわにしたみたいだ。
なははははぁ~。
お試しあれ。

Beetohoven_sym5_2 来日中のアンドレ・プレヴィン
今日は、発売当時、ありえな~いと無視されてしまった、ベートーヴェン交響曲第5番を聴きます。

私の好きな指揮者を現役に限ってあげれば、アバド、ハイティンク、プレヴィン、マリナー
こうして見ると私の嗜好がわかってくるようなものだが、いずれも若い頃、評論家ウケのよくなかった指揮者。
ちょっと天の邪鬼指向のあるワタクシだから、そんなことはねぇ、応援すると誓い、ずっと見守ってきたのがこの4人。とりわけ、アバド歴は長い。

生真面目で、優等生的に映る彼らが、胸には熱い情熱を秘めていて、時にその情熱を一挙に燃え上がらせる演奏をするところがたまらなく好きだし、柔らかく繊細な音楽作りも共通している。

プレヴィンは、この4人の中では一番ソフィスティケイトされた音楽づくりをするが、ラフマニノフなど自家薬籠的な曲では情熱の塊りのような演奏をするし、それはロンドンのオケでもウィーンフィルでも同じプレヴィン・サウンドを引き出すところが、しっかりとした個性を持っていることの証だと思う。
先日のN響のコンサートでも痛感したこと。

Previn この第5交響曲は、7番と並んで、ロンドン交響楽団時代のプレヴィン初のベートーヴェンの交響曲録音だった。
73年の録音で、ロイヤル・フィルとの再録音の15年前。
これが出たとき、評論家の先生がたからは、けちょんけちょんの評価を得た。
私は、ずっと後年になって聴いたのだが、この決然とした交響曲が苦手な私には、全然OKの演奏で、聴いていて「運命」を聴いているとまったく意識させないベートーヴェンらしくないプレヴィンの第5であったのだ。
演奏時間は、37分30秒。
「運命」じゃなくて、「ベートーヴェンの5番」と呼ぶに相応しい穏健で順当な演奏は、生ぬるく感じる方もいるかもしれない。
でもその解釈は、爽やかさを纏いつつも、思ったより入念で、日頃聴きなれないフレーズが浮かびあがってきたり、低音を強調してみたりと強弱のバランスも面白く、なかなかにユニークなのだ。
それが如実にわかるのが第1楽章。全然威圧的じゃなくて、遅いのに颯爽としてる。
第2楽章のうねり具合も、しなやかなもので、聴いていて体が動いてきてしまう、そんな演奏なんだ。
3楽章から終楽章、普通ならバーン、バーンと決めるところが、ごく普通に突入。
じっくりと落着きを保ちつつ着実なフィナーレを迎えるが、ここにおいてちょっとした小爆発が起きて、おっ、と思わせて終結する。
ロンドン響は実にうまくて、機敏なもの。
ロイヤルフィル盤は、未聴で比較はできないが、旧盤の方がゆったりとしているはず。
あまたの高名なる第5演奏を聴き古した耳には、きっと新鮮に聴こえるプレヴィンの第5でありました。

プレヴィンのロンドン響との演奏は、そのほとんどがEMI時代のもので、この1枚も含め、多くが廃盤のまま。
リマスターを施して、是非、各種再発してもらいたい。

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2009年10月18日 (日)

重要なお知らせ

日々さまよう弊ブログをいつもご覧いただき、ほんとうにありがとうございます。
本日より、しばらくの間、皆様から頂戴するコメントとトラックバックに関しまして、承認制とさせていただきたいと思います。

よくご覧いただいてらっしゃる皆様には、お分かりいただける実情かと存じます。
いつもお伺いしておりますブログでも同じような処置を施されました。

趣味で始めた音楽ブログ、いまでは日々の日課でもあり、大切なストレス発散のツールともなってます。
そしておかげさまで、仲間もたくさん増えました。

私は記事を書くにあたって、好きな曲・演奏者だから取り上げておりまして、言葉も読む方の気持ちや、お考えを配慮して選んでいるつもりです。
コメントを頂戴する皆様にもいつも良識溢れる言葉とご対応をいただいておりまして、本当に楽しい交流ができていると確信しております。
ただこのところのチェーン・コメントには、正直辟易としております。
お互いの立場、気持ちを察することのできない方とは交流できません。
まことに、あいすいません。

ということでございます。

常連様や、初めてご覧いただく方々には、しばしご不便をおかけしますが、よろしくご理解のほどをお願い申し上げます。

でも記事をあげるペースは変わりませんよ。

ねこシリーズ、週末オペラ、ワーグナー全作品制覇、ショスタコ、RVW、ブリテン、レクイエム・・・、いずれも完結を目指します

Imgp2324

よろしくにゃぁ~

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2009年10月17日 (土)

NHK交響楽団定期演奏会 プレヴィン指揮

Nhk NHK交響楽団の首席客演指揮者となった、アンドレ・プレヴィンの就任後初コンサート。

   リーム             「厳粛な歌」
  

   R・シュトラウス  歌劇「カプリッチョ」から「月光の音楽~最後の場」

                     伯爵令嬢:フェリシティ・ロット

                          「家庭交響曲」
 

              アンドレ・プレヴィン指揮 NHK交響楽団
             コンサートマスター:篠崎 史紀
                     (2009.10.17NHKホール)
 


Nhkso200910 お得意のシュトラウスをメインに、現代ものを冒頭に据えるプログラム。
N響に来るときは、自作や武満作品を最初に演奏することが多い。
そして2年ぶりのプレヴィン、久しぶりに出会った前回は、その老齢ぶりに驚いたけれど、今回も足どりは少したどたどしく、腰かけての指揮が終わったあとは、かなり辛そうに見えた。指揮台を降りるときも、楽員が支えている。
相変わらずその指揮は動きが少なく手先をクルクルこね回すわかりにくいものだが、出てくる音はプレヴィンらしい、柔和で耳あたりのいいサウンドだから、名指揮者というのはすごいものだと思った。
そこにいるだけで、優しいプレヴィン・オーラが漂い、以前正面から拝見したときに思ったが、眼鏡の奥の眼光が実に鋭いのである。今日も、ときおり譜面から顔をあげては、オケを見渡しておりました。

若い頃から、ちょっと猫背で首が悪かったプレヴィン。ブロムシュットやマリナー、ハイティンクらはしゃんとしているから、とても気の毒。
でも今日の演奏会を聴いて、N響のようにプレヴィンの意を汲めるオーケストラと共演していけばまだまだ健在ぶりを発揮できるのだ、と確信し、安心もした。

1曲目、リームの作品は、サヴァリッシュの委嘱初演によるもので、ブラームスを意識した現代作品らしからね聴きやすいもので、かつ内省的。ヴァイオリンを欠くところもブラームスの渋さを思わせるが、ときおり、ベルクやツェムリンスキーのような響きも聴きとれて、ブラームスつながりを感じさせてくれて面白かった。

そして期待の「カプリッチョ」。
「最後の場」としか表記されてなかったけれど、ホルン独奏を伴う「月光の音楽」からしっかり演奏されましたよ。
もうここから私はウルウルきてしまった。コケやすいこのホルン、今日はまず万全の滑り出し。そしてその素敵な旋律がオーケストラに徐々に引き継がれてゆき、甘味な夜の音楽となっていった。その後の執事の歌は省略で、伯爵令嬢の登場となる。

背のスラッとした、デイム・フェリシティ・ロットのシュトラウスといえば、あのカルロスとの伝説的な「ばらの騎士」だ。気品ある舞台姿とリリカルで明晰な声を持つシュトラウス歌いとして最適の彼女。
巨大なホールでは、こうした繊細な心情を歌いこむ曲は不向きながら、プレヴィンの絶美とも思える好サポートを得てとても細やかに、そして情感を込めて歌ってくれたデイム・フェリシティ。
ほんとは、もう少しオーケストラを刈り込んで少数にして、そして小ぶりなホールで親密な雰囲気の中に聴いてみたかった。
でもしっかり、私の頬を涙がつたってましたよ。あまりに美しい音楽ゆえ。

休憩後の「家庭交響曲」は、「カプリッチョ」の枯淡の境地の音楽からすると、やはり若くて元気のいい、幸福みなぎるものだ。
正直、音楽の素晴らしさでは「カプリッチョ」にはまったく敵わない。
でもそこは、生で聴くシュトラウスのオーケストラ作品の楽しさ。
大編成のオケが、ステージをびっしり埋め尽くすのを見るのは壮観。
今年同じような光景をここで目にしたのが、デ・ワールト指揮する「アルプス交響曲」だった。
でも曲が違うから当たり前ながら、デ・ワールトはN響からズシリと重い重厚サウンドを引き出したのにくらべ、プレヴィンのシュトラウスは腰が軽く、どちらかといえば軽やか。
その指揮や指示を後ろから見ていると、ともかく良く歌わせるようにしていたし、木管のちょっとしたフレーズなどにもキューを出していてスムースで流れのよい曲作りになっていた。
こうした休みなく続く大曲を、きれいに楽しく聴かせることにかけてはプレヴィンは本当にうまい。
 圧巻は、第3楽章の夫婦の愛を描いた場面。
オーケストラが一体になって歌い上げるシュトラウスらしい熱い盛り上がりに感動。
そして、最後のめくるめくフィナーレは、速度を保ったままジワジワと幸せを噛みしめ実感してゆくような手堅い演奏で、それでも私はこのエンディングが好きなものだから、手を握り締めて興奮しながら聴き入ってしまった。

指揮を終えたプレヴィンは、最初疲れた表情を浮かべていたが大拍手に応えて、次に登場したときは、満足の表情で笑みを浮かべておりました。
いつもの優しいプレヴィンであります。

来週は、ショスタコ5番を聴きます。

でも、サントリーホールでのオール・モーツァルト・シンフォニーは、きっと素晴らしいのだろうな。サントリー定期の会員がうらやましいぞ。

帰宅後、手持ちのCDで今宵のコンサートを思い出しております。

Previn_rstrauss_opera Popstein_strauss

Previn_domestica
来シーズンは、11月にプレヴィンが登場してくれる。
そしてですよ、9月には、ネヴィル・マリナーも3つのプログラムを指揮するらしい


過去記事

「シルマー&フレミングのカプリッチョ」
「サヴァリッシュ&シュヴァルツコプフのカプリッチョ」
「プレヴィン&ウィーンフィルのばらの騎士ほか」

「プレヴィン&ウィーンフィルの家庭交響曲」
「カラヤン&ベリリンフィルの家庭交響曲」

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2009年10月16日 (金)

バックス ピアノ三重奏曲 ボロディン・トリオ

Byoubugaura4 イギリスのドーバーの断崖を思わせるような岩壁。

こちらは、千葉県です。
飯岡から銚子にかけての屏風ヶ浦。

もう少し飯岡よりに行くと、岩ガキがとれる。
大きな身の濃厚なカキ。
日本じゃないみたい。

Bax_bridge_piano_trio

アーノルド・バックス(1883~1953)は、私の好きな英国作曲家のひとり。

ロンドンっ子でありながら、ケルトに魅せられ、生涯スコットランドやアイルランドを愛し、ロンドンに拠点を置きながらも始終かの地へ赴き、亡くなったときもアイルランドにあった。

オペラやオラトリオを除く、あらゆるジャンルに作品を残している。
いずれも3楽章形式の7曲の交響曲を軸に、幻想的ないくつもの交響詩や、映画音楽(オリバーツイストまで!)、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲など、どれも最初はとっつきが悪いが、聴きこむほどに味わいの増す、そしてその語り口を覚えてしまうと、たまらなく好きになってしまうのがバックスの音楽なのだ。

室内楽曲においても、さまざまなスタイルの作品があるバックス。
珍しいところでは、ハープやホルンを使った曲や木管のための作品もある。
オーソドックスなものでは、ヴァイオリン・ソナタや弦楽四重奏や五重奏、そしてピアノ五重奏に、こちらのピアノ三重奏曲

この曲は、室内楽作品としては、もっとも最後に書かれていて、1945年頃の円熟期のもの。友人のピアニスト、ハリー・イサックスに捧げられている。
バックスが、王道スタイルのピアノ三重奏をなかなか作らなかったのは、ドヴォルザークの「ドゥムキー」のような名作を書けないと思っていたようだ。
しかし、ここに聴くバックスのトリオは、バックスらしいムードがばっちりあふれていて、立派に存在を誇れる作品だと思う。
3楽章形式で、1楽章はスコッチ・スナップというリズムを多様したり、美しくも幻想的かつ詩情味豊かな緩除楽章を挟んで、妖精たちが踊るようなバックス独特の弾むような3楽章で完結する桂品であります。

ボロディン・トリオの芯のしっかりした響きはとてもいい。

バックスもディーリアスと同じように、ひっそりと楽しむ類の音楽で、あんまり有名になってほしくない。
だめな人にはダメな音楽で、晦渋さもあるものだから、人を寄せ付けないところもあるのだ。それはそれでいいのかもしれない。
 ちなみに、カップリングされたブリッジの作品は、さらにミステリアスな雰囲気の音楽。

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2009年10月15日 (木)

R・シュトラウス 「家庭交響曲」 カラヤン指揮

Nikujyaga肉じゃが

美しい配色であります。
こんなおいしい食べ方誰が考えたんだろ。

家庭料理・和食の定番。
こんなおかずで、ちゃぶ台を家族で囲む。
いまや食卓に家族が集まるなんてことがなくなってしまった。
我が家もばらばら。
休日も個食で、みんな好き勝手なものを食べる。
あんまりよくない近頃の日本の家庭の食事。

Sym_domestica_karajan

ここまできて、ありありのこじつけにお気づきでしょう。
何でも音に出来ちゃった作曲家、R・シュトラウスが自分の家庭を音楽にしちゃった。
家庭交響曲」であります。
自分のことを書いた「英雄の生涯」が34歳、この「家庭交響曲」が39歳。
酸いも甘いも噛み分けた年代で書いたのならともかく、まだ30代であるところがシュトラウスらしいところ。
そして、交響詩をさんざん書いてから、オペラの森へと投じてゆくわけで、人間の心理描写に関してさらにその世界を深めてゆくことになる。
だから、シュトラウスのオーケストラ作品をひととおり聴いたら、15作のオペラもぜひ聴いていただきたい。
円熟のオーケストラ技法を背景に、美しいドラマや歌が繰り広げられるその世界は、一度知ったらもう抜けだせなくなる。
ワーグナーを聴きつくし、私には、そのあとにやってきたシュトラウスのオペラは、最初は刺激的な分厚いサウンドと甘味な旋律ばかりに目がいったけれど、それはほんの一面で、もっと軽妙で、洒脱で澄み切った音楽の宝庫であったのだ。

あ、思わずオペラの方に話が行ってしまった。

でも、ある意味、シュトラウスの交響作品は、オペラなのであります。
この「家庭交響曲」もまさにそう。
連続する4つの楽章に、主人、妻、子供、伯父、伯母などが、それぞれにライトモティーフを与えられて登場して、家庭の悲喜こもごもを描きつくすのだ。
子供が、伯父さんや、叔母さんを見て、「パパそっくり」、「ママそっくり!」なんて言うところまで、音楽になっちゃってるし。

こうした、家庭や夫婦を描いたオペラは、口うるさい妻をついに叱り、愛をとりもどし、子供の大切さも気づいた夫婦の「インテルメッツォ」、生まれくる子供たちを讃えるお伽話「影のない女」、あと番外編では、シュトラウスの女性感が垣間見られる「無口な女」などがある。

第1楽章:快活な主人の旋律ではじまり、家庭の人物がまず紹介される。
第2楽章:子供と両親、子供は母親の子守歌で寝てしまう。幸せな優しい様子。
第3楽章:夫婦の愛情、夜であります。熱く甘味なり~
第4楽章:子供が元気に起きてくる。夫婦喧嘩は激しいフーガ。子はかすがい、仲直り。
      素晴らしき円満なる家庭なり

いろんなモティーフが複雑にからみあい、あらゆる事象が音楽になっていて、これを解説することなんか不可能。
全般に明るいムードに包まれた、まさに幸せの交響曲といえようか。
オーケストラの奏者たちにも超絶技巧が要求されていて、生で聴いたらさぞかし楽しいのではないかと。
最後の終結部は、まるでオペラの大フィナーレのような素晴らしい盛り上がりで、私はいつも夢中になってしまうエンディングなのであります。

土曜日に、プレヴィンとN響で聴いてまいります。
おまけに、F・ロットも登場して、「カプリッチョ」を歌ってくれるというご馳走付き

さて今日のCDは、カラヤンベルリン・フィルの1973年の録音で。
パリに来演したおり、パリ管の本拠、サル・ワグラムで録音された珍しいもの。
シュトラウスを何度も録音したカラヤンだったけれど、「家庭」はこれ1回だけ。
その後もあまり演奏していないと思う。
その年の来日で、この曲を演奏するはずだったが、この作品で不可欠のオーボエダモーレ奏者が来日不能となり、演目は「英雄の生涯」に変更された。
中学生のわたし、そんな出来事を鮮明に覚えていて、カラヤンと因縁ある「家庭交響曲」というイメージが植え付けられた。
Sym_domestica_karajan2 ここでの演奏は明るく、聴きようによっては派手。
録音も混濁が目立ちいまいち。これらは、きっとパリのホールの影響かと思っている。
カラヤンとベルリンならもっと出来るはずとの印象はぬぐいきれないけれど、まるでオペラを聴くかのような起承転結の鮮やかさは、さすがにカラヤン。
楽しく聴けることに変わりはなく、私には愛着ある1枚であります。

この曲は、プレヴィン、マゼール、メータ、サヴァリッシュなどを聴いております。
そういえば、ハイティンク御大は、家庭交響曲をやりませんね。
シカゴで演ってくれたら最高なんですが

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2009年10月14日 (水)

アンニュイな「にゃんにゃん」

1 いつぞや、私の影に怯えた「にゃんこ」。

今度も、声をお掛けしました。

「ねぇ、カメラの紐はここだよん。遊ぼうよう」

しかし、まったく反応せず、物思いに沈んでらっしゃる。

2 全然反応なし。

彼女の身になにかあったのか?

3
次の日、今度は毛づくろい。

これまた呑気なもんだ。

4 よく見ると、尻尾を噛んでる。

ストレスがたまってるのかしらん?

にゃんこ社会も大変なんだな。
いつでも相談にのるぜ。

1130721550767

と、いただきものの画像ですが、こちらの「にゃんこ」も申しておりまする。

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2009年10月12日 (月)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ジョルダン指揮

Evening 自宅から見た昨日の夕焼け。

これから空気もますます澄んで冷たくなり、きれいな夕焼けが見られるようになる。

藍色と淡い赤が美しい。

本ブログ2度目のワーグナー全曲制覇。
今回は、ほとんど上演も録音もない初期の3作も含めてのこと。
音楽を聴きはじめてこのかた、そしてワーグナーに魅せられてこのかた、何度同じことを繰り返してきたことだろう。
 人生半ばをゆうに過ぎ、不安な日々も続くこともあって、この先、長大なワーグナーの世界を何度味わえるのだろうかと思うと、いま観て聴いてる瞬間がとても愛おしくなる。
それは、今聴く音楽すべてに言えることだけど、ワーグナーだけは特別。

Tristan_jordan そんなことを思ったのも、切なく美しい「トリスタン」の映像を観たからかもしれない。

2005年のシーズンに、スイス、ジュネーヴ大劇場で上演された「トリスタンとイソルデ」。
演出はフランスの映画監督兼舞台監督、俳優のオリヴィエ・ピー、指揮はこのあと亡くなってしまった、アルミン・ジョルダンというプロダクションのDVD。

DVDの印象に移る前に、今回のシリーズでは、作品のなりたちを。

ローエングリン」でワーグナーは、歌劇・ロマンティシュオーパーという呼称に別れを告げ、楽劇・ムジークドラマという自ら考え出したスタイルに踏み出すこととなった。
 歌手があって、歌があって、音楽がある。
それが歌劇であり、場合によっては曲の進行によって番号が振られていて個別に音楽も調性も分断されている。
 楽劇は、歌手も歌も音楽(オーケストラ)も劇もすべて一体化して、音楽は途切れることなく延々と進行してゆく。
聴衆は、いやでも音楽とドラマが一体化した舞台に集中せざるをえなくなり、それらを統括する指揮者や演出家の立場が重要になることは必然である。
加えて、曲が途切れることなく音楽が雄弁になった分、音楽が超大化した。

ドレスデンで安住かと思われたワーグナーは、革命活動に身を投じ逮捕を逃れリストの助けを借りたりして逃亡し、チューリヒに亡命した。留守中に「ローエングリン」がリスト指揮により初演されたわけだが、スイスでは「ニーベルンクの指環」の構想が実を結びつつあり、台本作成に勤しみ完成させ、「ラインの黄金」「ヴァルキューレ」「ジークフリート」2幕まで作曲も完成させた。
通常のハウスでは上演できないことも重々分かってきてたし、ショーペンハウエル哲学を知って意志と表象という世界に影響を受けつつあったワーグナー。
「リング」の作曲をいったん取りやめ、「トリスタン」構想に打ち込むこととなる。
ヴェーゼンドンク夫妻に知り合い、チューリヒに住まわせてもらったものの、妻ミンナに怒られ、ヴェネツィア、ルツェルンと転々として、トリスタンを完成させる。
ローエングリン初演後9年を経た1859年のことだが、贅沢なワーグナーは借財ばかりで金もなく、そのあくどい性格もたたって、なかなか初演してもらう劇場がない。
そこであらわれた救世主が、かのルートヴィヒ2世で、そのおかげをもって、「トリスタン」は1865年にミュンヘンでビューローの指揮で初演されることとなった。
このビューローの妻が、リストの娘コジマで、コジマに生まれた娘にイゾルデの名前をつけたものの、この子の父はワーグナーであったというからムチャクチャなオヤジなのだ。

Tristan_jordan_1 ワーグナーの作品のなかでも、この「トリスタン」ほど人を引き付けてやまないオペラはない。
その半音階進行の大胆な和声や不協和音的な効果、ライトモティーフの充実した使用とどこまでもやまない無限旋律。
後年の作曲家たちに絶大な影響を与えたのは、この「トリスタン」と「パルシファル」であろうか。

現在のわれわれ聴き手も、「トリスタン」の呪縛に、いまもはまっているのである。
歌手やオケの能力の格段の向上や、舞台機構の進化などにより、いまや「トリスタン」や「リング」はどこでも普通に上演されるようになってきたわけで、至難といわれた日本人だけでの上演も行われるようになり、ますます身近な存在となってきた感がある。
DVDの数もやたらと多く、オペラのなかでも相当な数になってきているはずだ。

いよいよ「トリスタン」の番となって、何を聴こうかと悩んだけれど、NHKBSで、藤村美穂子さんのリサイタルが放送されているのを観てあっさり決定したのが、彼女がブランゲーネで登場しているDVDだった。
 
  トリスタン:クリフトン・フォービス イゾルデ:ジャンネ・ミシェル・シャルボネ
  クルヴェナール:アルベルト・ドーメン ブランゲーネ:藤村 美穂子
  マルケ王:アルフレート・ライター    メロート:フィリップ・ドゥミニ
  水夫・牧童:デイヴィッド・ソーデュ   舵取  :ニコラス・カレ

     アルミン・ジョルダン指揮 スイス・ロマンド管弦楽団
                      ジュネーヴ大劇場合唱団
                       (2005.2 @ジュネーヴ大劇場)

メタリックブラックのモノトーンが基調の舞台。
静的・動的、いずれも歌手の動きは特徴的で、まるで映画俳優のような細かな動作や表情を要求されていて、歌手たちはこれに見事にこたえている。
 印象的な場面はたくさんあったけれど、面白かったところだけをいくつか、あとは是非ご覧になって下さい。

1幕
Tristan_jordan_2_b 怒りまくるイゾルデは赤毛のちりちり、ブランゲーネも赤毛で、二人は妹と姉のような関係に見える。投げ捨てた白いドレスをブランゲーネが拾い上げて、なだめながらドレスをまさぐると、横になったイゾルデは恍惚の表情を浮かべて身もだえる。
この演出は、恋人ふたりの動きがエロイが、2幕のマルケ乱入以降それも消えてしまう。
タントリスの歌では、壁に白ペンキで、タントリスとトリスタンの文字を丁寧に書いてくれるし、頭がい骨の髑髏をスーツケースから取り出したりする。
2杯目の杯を飲もうとしていると、船は港に到着し、白百合の束を抱えたマフィアの親分みたいなマルケが待ち受けている。

2幕
Tristan_jordan_2_c 黒の寝室で待ち受けるイゾルデ。白いネオン管にコートを掛け暗くするのが逢引の合図。
ベットに横たわって、興奮しながらトリスタンを待つ。
やってきたトリスタンはイゾルデの服を脱がせにかかり、下に着ていたのは、先の白いドレス。
部屋を黒の寝室(夜)から、真白でなにもない部屋(昼)に、そして二重唱では暗闇に光る丸い泉のようなものを見入りながら歌う。
やがてまた部屋を移動。ここは窓の外では炎がオレンジ色に燃え盛っている。
さらに部屋を移動すると、朽ち果てた寝室。ここで二人は死にたい、死にたいと歌う。
(百合の花も枯れ果ててるし)またまた部屋移動は、白い窓が閉鎖された部屋。
さらにまた最初の黒い寝室で、マルケ王御一行様が到着となる。
部屋がせり上がり、上下にスペースができた。
マルケは金持ち風の毛皮のコートで、まさに大ボス。メロートや他の面々は、黒いスーツに黒いシャツとタイ。狩り出し用にシェパード2匹がお供です。
 トリスタンは、メロートが懐から出したナイフを自ら押さえ、自分の胸に突き立てる。
このときの舞台上の人物たちが、みな表情が異なっているところが秀逸である。

3幕
Tristan_jordan_3 あたり一面は水。
そこにベットがあり、血に染まったトリスタンが横たわり、寝具も枕も血だらけ。
少年が地球儀をもって出てくる。トリスタンの自らの幻影なのであろう。
この少年は、何度も水の中からあらわれ、剣、コーンウォールの城、船などを次々に運んでくる。
そして、深い水の中から、白いドレスの女性も何度も現われては消える。
トリスタンの母であろう。死んだ父まで、ぬぉーっと出てくる。
ともかく舞台はすべて水びたし。
 血にまみれて死と恋人に焦がれるトリスタンは、迫真的であり不気味でもある。
舞台奥から、水に反射して美しく光る照明を背にイゾルデが到着。
スリリングで、実に美しい場面である。
トリスタンは手を差し伸べるが届かずに、倒れこと切れる。
 マルケ軍団がやってきて、トリスタンの亡骸の前に恍惚となるイゾルデをしり目に、奥では激しい乱闘が繰り広げられる。組のものはみな強い。
好人物クルヴェナールはひっそり死に、その間、カメラはマルケの顔を大写しにしたまま。
このあたりからカメラワークに欲求不満が募ってくる。
暗がりの中、ステージが上にせり上がり、大きなスポットが舞台上を照らすが、画面がイゾルデの顔の大写しになったり、モノクローム画像大写しになったり、指揮者の腕から先になったりと、超忙しい。
いったい舞台がどうなっているかわからん。
せっかく、これまで美しい舞台だとおもっていたのに、最後がどうも興ざめなのだ。

映像で見る場合も、ピーは監督として腕を振るったのであろう。
正直、よけいなことと思わざるをえない。
せっかくの詩的なきれいな舞台だったのに。
カメラワークが音楽から乖離して、ぶち壊してしまう典型かと思う。
メトのトリスタンもそうだった。
舞台に映像を多く取り入れたパリのトリスタンも逆の意味で、音楽がお留守になってしまったことがあった。
なかなか難しいものである。
ピーの言わんとしたところは、若い二人の恋人を狭い空間に押し込めて、周りの人物や事象とは別次元の存在にしてしまったところにあるのかも。
唯一、ブランゲーネだけは、その両方に足がかりをもっているような存在。
そして水は、トリスタンの母なる存在か・・・。それとも単なる美しい効果だけの・・・。

歌手は、いま欧米で活躍する一流どころをそろえていて聴きごたえがとてもある。
なんといっても、藤村さんのブランゲーネが素晴らしすぎる。
大声の歌手たちに混じって、繊細さと鋭敏さを兼ね備え、しかも暖かい声は立派に自己主張している。アメリカ人たちよりも、ドイツ語の発声は美しい。
Tristan_jordan_3_b 大型アメリカ人の恋人たちは、見た目がデカイが、歌はなかなかに機敏なもので、絶叫とならないシャルボネのイゾルデがなかなかいい。
先輩のポラスキに、お顔も似ていて、ちょっと怖い系だが、イゾルデやエレクトラの第一人者となりつつある。
フォービスは、見た目、ケビン・コスナーを大きくしたような感じで、悲劇的なヒーローの雰囲気を醸し出しているうえ、バリトンがかった暗めの声もよい。
この点ではワーグナー歌手の及第点だが、高域に輝きがあまりに不足で、歌の表情もやや空虚に響く思いがした。でも近頃では出色のトリスタンでもあるのも事実で、期待。
 アバドのトリスタンでも歌ったドーメンのクルヴェナールは、こちらも暗めの声質ながら貫禄ありすぎでよい。
マルケ王のライターは、ホッターやヴァルナイに学んだドイツの期待のバスでその深みと若々しい表情はなかなかのもだった。

最後に、故ジョルダン指揮するスイス・ロマンドが描きだした美しいオーケストラのパレットを特筆にしておきたい。
スイス・ロマンドは、ジュネーブ大劇場のピットに入っているからオペラはお手の物。
かつてシュタインが指揮者のとき、FMで数々のオペラが放送され、トリスタンも録音したものだ。フランス語圏にあるゆえ、フランス系のオケとの認識も強いが、ワーグナーの響きを巧まずして出しているし、一方で、2幕の二重唱のブランゲーネの警告の場面。
ここでの精緻な美しさには、ドビュッシーの響きを聴きとることができた。
ジョルダンの的確で明るい響きを求める指揮によるところも大きいと思う。

ちなみに、パトリシア・プティボンが歌う「ルル」もジュネーヴで、演出もピーさんですよ。

以上、長~い記事となってしまったのも、大好きなワーグナーに、一番好きな「トリスタン」ゆえ。
記事数もこれで、14本目。
音源・映像19、エアチェック・録画30以上・・・・。
聴けば聴くほど、ほかの演奏も気になってくる。
バカだねぇ。

・トリスタン過去記事

 大植バイロイト2005
 アバドとベルリン・フィル
 
バーンスタインとバイエルン放送響
 P・シュナイダー、バイロイト2006
 カラヤン、バイロイト1952
 
カラヤンとベルリン・フィル
 ラニクルズとBBC響
 バレンボイムとベルリン国立歌劇場公演
  レヴァインとメトロポリタン ライブビューイング
 パッパーノとコヴェントガーデン
 ビシュコフとパリ・オペラ座公演
 飯守泰次郎と東京シティフィル
 ベームとバイロイト1966

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2009年10月11日 (日)

ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」 ヤンソンス指揮

Fuji_3 最近、連休って多くないですかね?

この前、大型連休があったばかり。
そして来月も3連休が2回もあるし。

私のような貧乏性は、休みばかりあると焦りを感じてしまうことがある。

でも、まぁ、天気もいいし、音楽をのほほんとたくさん聴けるからいいか。

Fuji_1
飛行機の上から、富士山をパシャリ。
9月の写真だから、まだ地肌が見えていて、人ごととは思えないけど、数日前に初冠雪を記録してるそうな。
深まる秋でございます。

こう見ると、立派な火山ですよ。
飛行機で東京から西に向かう場合は、右側に座って下さい。

Bruckner_sym34_2 来日間近のマリス・ヤンソンスが今年は連れてこない来日降り番のコンセルトヘボウブルックナーを録音した。

いつも高めのこの自主制作レーベル。
今回に限っては、3番4番の2CDで2000円を切るお買い得品。
即、買いましたよ。

ヤンソンスのブルックナーは、バイエルンとの来日公演で2007年に7番を聴いている。
その時は、オーケストラも素晴らしかったし、ヤンソンスの屈託のないブルックナーがとても気に入ったものだった。

今回は、バイエルンよりもブルックナーやマーラーの演奏にかけては伝統のあるコンセルトヘボウを指揮してるだけに興味津々。
でも、私たちの耳には、ハイティンクの素晴らしいブルックナーがしっかりと刻まれているので、必ず比較してしまうことになっていけない。

だからまず、あの素晴らしいフィリップスの一連の音たちを耳から締め出しておいて、この新しいブルックナー演奏に取り組むとしよう。

冒頭のホルンから美しいホールの響きが印象的。
そして盛り上がりをみせ、オーケストラがフォルテに達するが、ここまでもそうだが、全曲通して慌てず騒がず、実に落ち着いた演奏である。
毎度のヤンソンスで、音楽の流れがとてもよく呼吸が自然で、オーケストラも気持ちよさそうに弾いているのがわかるから、表情も生き生きとしている。
1楽章後半の再現部分で、第一主題を木管が歌い、ヴァイオリンはトレモロ、チェロとビオラが美しく伴奏する。こうしたさりげない場面で、ハッと思わせる美しい瞬間がある。
こうした細部は随所にあって全曲の67分間が築きあげられているが、全体には流動感あふれる滑らかな印象がある。

日曜の晴れた昼下がりに聴いている。
青くて高い空にはちぎれ雲が浮いている。
こんな素敵な秋の空をぼんやり眺めていても、けっして音楽が邪魔しない。
あ、いや音楽を聴いているんだった。
外の景色は二の次だ。
でもこんなことを思いながら、聴けてしまう。
ここに聴くブルックナーは、3番もあわせて、極めてレベルの高い素晴らしい演奏だと思う。
私が長く聴いてきた伝統あるブルックナー演奏や、アバドやヤルヴィが描きつつある大胆なブルックナーとも違う。
汎ヨーロッパ的な、普遍的なブルックナー。スコアを信じ、突き詰めて完璧に演奏しました、という感じ。
これはこれでよいのだが、もっと揺り動かされたい。
ライブだと、もう少し違うノリを共感できるのだが、自宅で、しかも青空なんて見ながら聴いちゃうと、もう少し何かが欲しくなる。若いころヤンソンスには、もっと覇気と大胆さがあったのだが、今や、それに代わる何かが欲しいほうな気もする。それは極めて高次元で贅沢な話しだけれども。

録音のせいもあろうか、重心は上のほうにあって、響きは少し軽めに感じる。
中間色も薄いようだ。
私の貧弱な装置にも原因があるかもしれず、ちゃんとしたSACDで聴いたらどうなのだろう。ライブとは思えない素晴らしい録音なのだから。
そうしたらまた印象が変わるかもしれない。

 ハイティンクがコンセルトヘボウを辞して早や20年。ハイティンクがオーケストラとともにじっくりと熟成成長してきた証はCDにしっかり残されているし、それを今は大いに楽しめる訳だし、オーケストラは生き物である訳だから、変化して当然。
だから、シャイーを経て、ヤンソンスとコンセルトヘボウの今をしっかりと刻んでいって欲しい。バイエルンとともに、ふたつの名門に集中し、ほかのオケはひとまずお休みにして、オペラにも時間を注いでほしいものだ。

11月の来日公演は、行かずに、聴かれた方々の印象を楽しみにしております。
前にも書いたが、有名ソリストのおかげでチケット高すぎ。
2004年以来毎年聴いてきたマリス君も、今年は一回お休みです。

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2009年10月10日 (土)

「マーラー夫妻、コルンゴルド歌曲集」キルヒシュラーガー

Tokyo_tower_1 今日(土曜日)の東京タワー。

週末は、ダイヤモンドヴェールと称したイルミネーションになって、10月は赤のようなピンクのような色。
明日、明後日は、よりカラフルになるみたい。

今日は、たまった仕事を片付けて会社に夜10時まで。
誰もいないことをいいことに、ずっと音楽をかけっぱなし。

「ハウエルズのスターバト・マーテル」、「ブリテンのポール・バニヤン」、「レオンカヴァルロのボエーム」、「ベルクのルル」、こんなに聴いてしまった。これなら仕事もはかどるってもんだ。

Angelica_kirchschlager
日付も変わったけれど、土曜日ということで。

ザルツブルク生まれのウィーンの名花、アンゲリカ・キルヒシュラーガー(Ms)の歌を聴く。

このCDは、96年録音の彼女のデビューアルバムで、デビューにしては、おっそろしく玄人好みの選曲がなされている。
というか、しっかり筋の通った考えられたプログラムになっている。

グスタフ・マーラーの初期の歌と、その妻アルマ・マーラーの作品に、コルンゴルトの渡米後の歌曲。
アルマもコルンゴルトも、ツェムリンスキー門下の同門。
グスタフは、コルンゴルトの音楽を評価してウィーンで推した人物。
ウィーンがらみの3人だし、いずれもアメリカに渡ることでも共通してる。

マーラーの若書きには、後の交響曲や歌曲集にあらわれる旋律の片鱗も見て取れるが、ちょいと青臭いところが玉に傷か。
でも、軍楽風だったり、葬送風だったり、なだらかな自然賛歌だったりと、いかにもマーラーらしさがしっかり味わえるすぐれもの。

コルンゴルドに関しては、ここに歌われた2つの曲集がアメリカ後で、充実期にあったので、大変に聴きごたえがある。
遅れてきた濃厚なロマンティシズムも味わえるし、映画音楽にも一脈通じそうな聴きやすい旋律の作品もある。そう、都会的でありながら、ウィーンの森や街に憧れを抱いているような懐かしい雰囲気も感じる歌曲たちである。
シェイクスピアの詩につけた作品は英語で歌われている。

美貌の主アルマの歌曲。(以下は解説書を参考にしました)
アルマは小さい頃からしっかり音楽を学び、ツェムリンスキーにも師事しただあけって、グスタフと知り合う前には、そこそこの作品を残していたらしい。
22歳にして、20歳上(ひゃ~)のグスタフと結婚後は、旦那に作曲を禁じられてしまう。
これは今にして思えば、とても残念なことだけど、亭主のスコアを清書したり、アドバイスをしたりと、これまたアルマがいなければ大変なことになったかもしれないのだ。
そもそも、6番の交響曲は生まれなかったわけだし。
 マーラー死去後はグロピウスや作家ヴェルフルと再婚し、ナチス登場後は、アメリカに渡ったアルマでアリマス。すごい人生ですな。
ちなみに1879年生まれ、1964年没と、グスタフが死んで半世紀も長生きされた強~い女性。
で、若書きのその作品。
ロマンティックなもので、詩の内容はシリアスでも、その音楽は意外と明るく感じる。
なかでも、デーメルの詩による「静かな町」は、ドビュッシーを思わせる、ときおり転調する特徴的なピアノに乗って、なかなか味わい深い歌が付けられていて、私は結構気にいった。

 コルンゴルト   「5つの歌」
 
 アルマ・マーラー 「静かな町」「父の庭」「なま温かい夏の夜」
            「おまえのもとでは打ち解けられる」
            「ぼくは花のもとをさまよう」

 コルンゴルト   「道化の歌」
             (シェイクスピア 十二夜より) 

 マーラー      「若き日の歌」

       Ms:アンゲリカ・キルヒシュラーガー 

       Pf:ヘルムート・ドイチュ
                (96.5 @エステルハージー宮)

キルヒシュレーガーの瑞々しい歌声を聴くと、心が洗われるような気持ちになる。
陰りなく、明るい声は、音符や言葉ひとつひとつにすみずみまで光があたり輝いているように聴こえる。
私はまだ彼女の実演に接したことがないが、この声なら、きっとホール一杯に響きわたるであろう。とても通りがよさそうな声なのだ。
そして、メゾだけど、ソプラノの音域も無理なく響いていて、音域がやたらと広く、余裕が感じられる。
このCDの中では、曲も彼女の歌も、コルンゴルトが一番好きだな。
最近出た、ヴォルフもよさそうだし、オクタヴィアンが聴いて(見て)みたい。

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2009年10月 9日 (金)

神奈川フィルハーモニー定期演奏会 湯浅卓雄指揮

Landmark 最大級の台風は、関東に大風をもたらし、8日は、電車も動かなくて、家で待機。
でも、私は横浜へ行かなくてはならないのだ!

神奈川フィルオール英国もの。
英国音楽を愛するものとしては、神奈フィルだし、絶対絶対行かなくてはならない。
台風のバカヤローである。

電車の動くのを待ち、15時30分に、千葉の家を出たはいいが、遅れがひどくまったく時間が読めない。会社に寄って、なんて思ってたらとんでもない。
桜木町にたどりついたのは、開演20分前。
席に着いたら、指揮者のプレトークが終わるところでありました。

Img  エルガー 序曲「コケイン」

  ヴォーン・ウィリアムズ オーボエ協奏曲

 ブリテン 6つの変容から
        (アンコール)

     オーボエ:渡辺 克也

 エルガー 交響曲第1番イ長調

     湯浅 卓雄 指揮

  神奈川フィルハーモニー管弦楽団
   コンサートマスター:石田 泰尚
     (2009.10.8@みなとみらいホール)

アンコールの無伴奏オーボエ曲まで含めて、すべて英国一色。
英国で長く活躍する、指揮者湯浅卓雄氏の面目躍如たる素晴らしすぎるプログラミング。

オケが出そろい、コンマス石田氏登場。
おやっ、髪の色が。うーむ、前の色を見慣れちゃっていたものだから、すこーし違和感が。
こちらで、イメチェンぶりを確認してみて。

ロンドンっ子が見たロンドンの街を描いたエルガーの「コケイン」。
コンサートでは初めて聴く曲だが、オルガンが入るとは知らなかった。
バルビローリなどのおっとりした、よき時代のロンドン賛歌を聴いてきた私には、今宵の「コケイン」はたいそう賑やかで、きらびやかに聴こえた。
古き良きロンドンは、高層ビル立ち並ぶTheシティなのだ。
このキラめく音は、指揮者のものか、いや、やはりオーケストラとホールの持ち味なのであろう。朝から活気あふれるロンドンの街が目に浮かぶ。 
 指揮棒を持たすにテキパキと振る湯浅さんは快活なエルガーの側面を巧みに描き出して、いにしえでない、今を活きるコクニー達を感じさせてくれて、楽しい聴きものであった。
ニュー石田氏も中身は従前のとおり、弓で拍子をとったりと見せてくれます。

続く、ヴォーン・ウィリアムズ(RVW)のオーボエ協奏曲
こうして、エルガーの間に挟まれると、同じ英国作曲家でも、その作風の違がよくわかる。
エルガーはどこを聴いてもエルガーの響きがして、まるで金太郎飴みたいだけど、RVWは、多面的で斬新な不況和音あり、田園抒情あり、民謡調あり、教会旋律あり、喜劇あり・・・。そのどれもが好きなRVWだけれども、一番は、英国のなだらかな風景を思わせる抒情的な側面。
このオーボエ協奏曲もまさにそうした雰囲気が満載で、20分足らずの3つの楽章は終始ゆったりとしたほのぼのムードなのだ。
交響曲でいえば、3番や5番のに通じる世界。
ずっと吹きっぱなしのオーボエはここぞという聴かせどころがないかわり、弦楽だけのオーケストラの上に軽やかに飛翔するようで、渡辺さんの完璧な技巧とホールの隅々に届く温かなオーボエの音色は、うっとりするくらいの美しさ。
音楽も、その演奏も3楽章がとても素敵なもので、私は涙が出そうになった。
アンコールのブリテンでも、渡辺さんのオーボエの音色はグローリアス!
輝いてましたね。

後半は、私の大好きなエルガーの第1交響曲
あらゆる交響曲の中でトップ3に入るくらいに好き。
冒頭のモットーが、ゆるやかに始まり、徐々に音量をあげて盛り上がってゆく。
ここを聴いただけでもうウルウルときてしまうワタクシ。
主部に入ってのめくるめく展開も堪らないし、第2楽章の中間部の滝の飛沫を浴びるかのような涼しげな雰囲気。
3楽章の高貴な憂愁、そして終楽章終結部に現れる、冒頭のモットー主題。
ここにおいて、わたしは、どんな演奏でも感極まってしまうのだ。

ここまで、思い入れのある曲を、湯浅=神奈川フィルがどう聴かせてくれるか。
わくわくとしながら聴きはじめたが、どうもしっくりこない。
横へ横へ伸びてゆくような感じで、縦の線がピシッと決まらない。
モットー主題も意外とあっさりと流されてゆくようだ。
尾高さんや、大友さんの演奏が懐かしい・・・。

でも主部に入ってスピードがあがると、先の「コケイン」と同様に推進力あふれる強い演奏になって、徐々に私の方の気分も乗ってくるものがあった。
このところ、充実してきた神奈フィルの中間セクションがしっかりと支えているから、内声部に厚みがあってエルガーの音楽の持つ輝かしさと陰りの対照の妙が、とても映えて聴こえるように思った。
2楽章の活気も素晴らしいもので、石田ヴァイオリンの輝きもやはり特筆もの。
そして、この演奏の圧巻は、3楽章。
泣き濡れたような極美の旋律を、神奈フィルの弦セクションのきれいな音色で聴けるとは!ここに本日のハイライトがあったと思う。都会的な洗練された美しさではあるが、こんなにきれいな3楽章を私はちょっと聴いたことがない。
湯浅さんの指揮は、エルガーの音楽を慈しむようにゆったりと指揮をしていた。
最後のホルンとトロンボーンの儚い合いの手も見事に決まっておりました。
ついに終楽章。
ここでも明るく力強く、最後の勝利へ向かって突き進む。
そして、やって来ましたよ。最後のモットー主題が。
少し味気ない感じもしたが、そこはもう生演奏だから、一生懸命しかも感動しながら弾いている神奈川フィルのメンバーたちや、湯浅さんの大きな指揮ぶりを見ていると、もう胸が詰まってきてドキドキしてきた。
見事なエンディングに、わたくし、ブラボー一声献上

終わってみれば、元気で煌めくようなエルガー1番も悪くないと思った。
まぁ、大好きな曲だからこそ、どんな演奏でも楽しんでしまうという訳ですな。

追)神奈川フィル&石田ヴァイオリンで、RVWの「揚げひばり」を熱望

Beer アフターコンサートは、毎度おなじみ反省会、というか飲み会

黄色と黒をジョッキ内で混ぜていわゆるハーフ&ハーフ。

Yokohama_bar今回もよく飲みました。
東京方面終電時間をにらみながら2軒目も参加。
英国を聴いたから、やっぱりウイスキーを飲まなくちゃ完結しないですな。

怒涛の音楽会通いは、これであと1週間お休み。
お酒も少し休みましょう。
故某元大臣のようになっちゃ困るし。

エルガーの交響曲第1番の過去記事

 「マリナー/アカデミー管弦楽団」
 「尾高忠明/NHK交響楽団」
 バルビローリ/フィルハーモニア管」
 「
大友直人/京都市交響楽団 演奏会
 「
尾高忠明/BBCウェールズ響
 
ノリントン/シュトットガルト放送響
 
プリッチャード/BBC交響楽団

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2009年10月 7日 (水)

ヴェルディ 「オテロ」 新国立劇場公演

Operapalace 新国立劇場、シーズンオープニング演目、ヴェルディの「オテロ」を遅ればせながら、最終日に観劇。

初日の9月20日から、10月6日まで2週間以上、世界的な歌手を押さえたプロダクションを年間維持できるようになった我らが劇場も、それこそ世界に通じるハウスになってきたのではないかと、つくづくにして思う。

先日訪れたびわ湖ホールが評論家諸氏を除いても、地元や関西、名古屋までの聞き手に愛され、オペラを楽しむ土壌がしっかり根付いた親密な雰囲気に満たされているのを実感し、そこに故若杉さんの築き上げてきたものの結実を見た思いだった。
行政のめんどくさい話も克服する力を見た。

Img やっぱり、オペラはこうでなくっちゃ
そして、やっぱりヴェルディはいい

ルルに取り憑かれてしまった後遺症から、頭の中はベルクの音楽に満たされていて、始まるまでどうなるかと思っていたけれど、冒頭の一撃で、まさに稲妻に打たれたが如く、ヴェルディの世界にあっさりと引き込まれてしまった。

それにしても、ヴェルディの最後期の作品の音楽の充実の極みといったらどうだろうか。
オテロは、永年聴いてきたが、こうして舞台で接してみて、その弛まぬ旋律の宝庫ともいうべき音楽作りに感嘆し、そこが人を引き付けてやまないのを強く感じた。
そして、前期のものほど単純だが、中期以降は、そこに人間ドラマを強く滲ませるようになった。

その心理劇ともいえる人間ドラマの真骨頂が「オテロ」であろうか。
文学作品に題材を求め続けてきたヴェルディだが、やはりシェイクスピアとボイートの台本を得たところが大きい。
 そして、今日の上演で、ヴェルディがワーグナーにこんなにも接近していたことがわかったことも大きい。ライトモティーフの多用と分厚いオーケストレーションに。

  オテロ:ステファン・グールド  デスデモーナ:タマーラ・イヴェーリ
  イヤーゴ:ルチオ・ガッロ    カッシオ:ブラゴイ・ナコスキ
  ロドヴィーゴ:妻屋 秀和     エミーリア:森山 京子
  ロデリーゴ:内山 信吾      モンターノ:久保田 真澄
  伝令 :ダン・ジュンボ

   リッカルド・フリッツァ、石坂 宏  指揮
     東京フィルハーモニー交響楽団 新国立劇場合唱団
   演出:マリオ・マルトーネ
                    (2009.10.6@新国立劇場)

見てください、指揮者が二人
生まれてはじめて。オペラを二人の指揮者が担当するなんて!
フリッツァが急に体調を崩し、1・2幕で降板。
25分間の休憩が、途中アナウンスも入って時間を要するとのこと。
会場はざわついた。私は、舞台に張った水でも決壊したのかと案じた(笑)
そこで、指揮者交代のアナウンスが入り、約15分遅れで石坂氏の登場となった。

ところがこちらの石坂さん、すんばらしい指揮ぶりで、オケも歌手も急場をやり遂げたいという思いと、千秋楽ということも手伝って、後半3・4幕はまったくテンションの高い緊迫の舞台になった。
代役以上の仕事をこなした石坂さんは、新国の音楽ヘッドコーチを務め、ドイツ各地の劇場で長く活躍するオペラのベテラン指揮者だったのだ。
3幕の全員による大ユニゾンなどは、痺れるほどの感銘を受けた。
一方で押さえるべきところはしっかりとしていて、デスデモーナのアリアでの歌手の呼吸を読み込んだしなやかな伴奏には大いに感心もした。
劇場という世界は、こうして水準を落とすことなく急場にしっかり対応ができる仕組みが常に施されているわけで、これまた感心。
 正指揮者の方のフリッツァもむろんよかったが、ちょっと鳴らしすぎじゃないかと思った。
東フィルがこんなに分厚くガンガン鳴るのを聴くのはないもの。
時おりジャンプもしてたし、威勢のいい指揮は、後半と好対照。
飛んだ(?)ハプニングだったが、結果オーライ。
カーテンコールには、ちょっと不調そうなフリッツァと石坂さん、出てきました。
指揮者ふたりをこんな風に見るのも初めてですよ!
(他の方々のブログにて、右肩が上がらなくなってしまったとのこと。職業病ですな)

肝心の舞台の印象を。
Ki_20002292_5 演劇・映画系からオペラ演出に入ってきたマルトーネは、舞台をキプロス島からヴェネツィア風の街並みに移し、煉瓦積の洋館が左右に並び、真ん中がオテロ夫妻の館=寝室という構成が全幕を通じとられている。
そして、それらの下は運河で、実際に水が張られていて驚き。
水ものは好きなので、どうなるかと思っていたら、イヤーゴはここにジャバジャバと入っていって邪悪なクレドを歌う。
水辺から緑色の泥をすくって、オテロ邸の壁に死をあらわす十字を書いてしまう。
アリアの終わりには、バケツで水を汲んで、その十字にバシャァーっと掛けて一応キレイにしました。そして、汚れたお手々は、バケツできれいに洗いましたとさ。

 なーんて具合に、この演出、思い切り「」で遊んでくれます。

Ki_20002292_12 デスデモーナは柳の歌を、白い寝具をたくしあげながら水辺で歌うし、極めつけは、オテロの最後。
運河の真ん中に長剣を持って立ちつくすその姿は、追い込まれて死を決した悲壮感が出ていて、私は、「忠臣蔵」討ち入りで、池の中で奮闘死する清水一学か、はたまた体型的は弁慶のように思えてしまった。
でもって、短剣で自決したオテロは、水の中に倒れ、これまた水の音をたてながらデスデモーナの亡骸ににじり寄り、水の中に果てるのでありました。
 まだあります、水がらみ。
興奮したオテロが投げてしまうハンカチは水の中。これをイヤーゴは艀にある長い棒で手繰り寄せエミーリアに取ってやるものの、これを奪い取り、後のオテロのハンカチ妄想のツールとして使うわけだが、このあたりのやり取りがとても面白かった。
 この水に浸された運河、オテロの心情を映すかのように時に波立ったりもするし、上かたご覧になっていたIANISさんのお話では、色も微細に変わっていたという。
その水に光があたり、建物にその揺らめきが放射したシーンは極めて美しかった
大掛かりな「水」の装置だったが、この演出の重要なモティーフであったことは間違いない。

もうひとつ、「」とくれば「」。
1幕の初めの有名な「焚き火の合唱」では、ほんものの火が、それも2ヶ所で焚かれた。
ひとつは、そのまわりでダンサーが踊り、もうひとつは、そこで肉の串焼きをやっていた(笑)。
そのうえ、上では音楽に合わせて花火が弾けるわけだから、世界でも一番厳しい東京消防当局がよくぞ許可をしたもんだ。
すぐそこに水がたっぷりあるから「よし」とされたのかしらん。
ちなみに、花火は数えたら15発(多分)。その効果のほどは、なんとも・・・であります。

ともかく「絵的」には、美しい見ごたえのある舞台でありました。

Ki_20002292_10a 一方、英雄の悲劇と、それを操る悪意という求心的なモットーはというと、登場人物たちが「美しい絵」の中に装置のようにはめ込まれてしまったかのような動きに終始し、薄れてしまった感がある。
 オテロの妄想を具体化した、デスデモーナとカッシオとのいちゃつきや、生足ゴックンの場面をわざわざ再現してみせて、これは混乱をまねくし、過ぎたるは・・・・・、の思いがあった。
そんな中では、タマちゃんこと、タマール・イヴェーリの芯の通った素晴らしい歌や可愛らしさもあってか、デスデモーナの純粋性はとてもよくあらわされていて、先にあげた柳の歌のシーンは感動的だった。
思えば、デスデモーナの死も、ワーグナーの自己犠牲にかぶるような気がするが、いかがでしょうか?

私のような世代にとって、オテロといえば、デル・モナコ。あの目の玉ひんむいた迫真の演技に崩壊寸前のすさまじい歌唱。そこには、ゴッピの悪漢イヤーゴも常にある。
それを唯一忘れさせてくれたドミンゴも、カルロスの指揮とともに忘れえないもの。
 そんなイメージがこびり付いたオテロ役だが、観客の中からノシノシと現れたグールド
そして「Esulutate!」 の一声は・・・・、それはジークフリートが熊を駆り立てて登場したかのような「ホイホー!」の声だった。
私には、ジークフリートやタンホイザーで染み付いたグールドの声、声はぶっとくてデカイが、独特の発声にひとり違和感がある。ワーグナー歌いのそれなのだ。
グールドの唯一のイタリアものの持ち役なんだそうな。
巨漢だから、悩みも壮大に見え、とてもハンカチ1枚に踊らされる風には見えない。
デル・モナコやドミンゴがオテロという人物に入り込んで、もうどうにも止まらない特急列車嫉妬号と化していたのに比べ、グールドは鈍行列車嫉妬号。
だがやがて、後半3幕あたりから、ジークフリートは影をひそめ、いやまったく気にならなくなってきて、その力強い声に迫真の演技が加わりこりゃすごいぞ、と思うようになってきた。強いテノールの声を聴くことは、大いなる喜びなのだ。
耳が慣れればなんのことはない。かつてのヴィントガッセンも歌ったヘルデン・オテロも悪くない。

Ki_20002292_6a マルトーネ演出がイヤーゴを物語の中心に据えているのは明らかで、妙に小心のオテロに比べ、知的で冷徹な人物として存在していた。
わたし的には、一直線オテロと悪徳イヤーゴの丁々発止の吠えまくりを見たかったところ。3幕で興奮のあまり気を失うオテロをイヤーゴは傍らで冷たく見下ろすだけで、足で蹴って転がすことはなかった~もちろん、グールドがデカすぎて無理だったかも。
そして、イヤーゴの憎しみは、イケメンのカッシオにも強く向けられていたところが面白い。ムーア人とヴェネツィアから信任厚いカッシオ、そのどちらにも嫉妬するイヤーゴ像を、期待のガッロは完璧に歌い演じていた。
西部の娘では憎々しい保安官だったけど、思えば前回のドン・ジョヴァンニもクールだったなあ。おまけに同じヴェネツィアだし。
歌唱としては、ガッロとイヴェーリが一番安定していて、カッシオはビジュアルだけよかった。
それと、毎度素晴らしい新国合唱団の緻密かつ圧倒的な力強さ。

指揮者交代という、珍しいおまけ付きのオテロ、人物像の描き方にもっと厳しさが欲しかったものの、私は充分楽しみましたよ。
ヒロイックなオテロの死とラストは、まるで自身が書いたレクイエムのような素晴らしい音楽だが、幕がしずしずと降りはじめと、最後の音がまだ残っているのに拍手が起きてしまった。
毎度ながら、拍手は感動の表現としても、その余韻に静かに浸ることができないものだろうか。
ワーグナーやシャトラウスでこれをやられたらたまったものじゃない!

今シーズンは、オテロとヴォツェック、影のない女と、故若杉さんがオペラ劇場に必須の作品として是非とも取りあげたかった演目が目白押し。
オテロとヴォツェックは、いずれも若杉さんの指揮で観劇したことがある。
1975年、私の記念すべき初オペラ体験が、このオテロでありました。
最近亡くなった中山悌一氏の訳詞をはじめ、いまや懐かしい歌手たちの熱い歌唱に、高校生のワタクシは興奮しまくり。そして若杉さんは、COOLだった。
古い切り抜きなどを整理してたら当時のチラシ発見。
ここに公開いたします。

Otello_nikikai1975_a Otello_nikikai1975_b













Daikokuya  終演後は、IANISさんと、新宿へ出て思い出横丁界隈で一献。

オペラ好きの話は尽きることなく心地よい酩酊に包まれました。

すると、私の頭の中には、ヴェルディの音楽を押しのけるようにして、ベルクのルルが鳴りはじめたのだ。

もう11月の「ヴォツェック」  まで待ちきれないよ!

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2009年10月 5日 (月)

ベルク 「ルル組曲」 アバド指揮

Biwako_sepia_2 琵琶湖に月。
セピア処理してみました。

昨日観劇したベルクの「ルル」。

完全に悩殺されてしまった。
帰宅後、新幹線で書いた記事に手をいれながら、「ルル」をつまみ聴き。

一夜明けても、私の頭の中はルルだらけ。
どうしたらいいんだろ。
明日は、またまた無謀にも、新国の「オテロ」千秋楽があるというのに。
気分が切り変わらないよ。

Berg_lulu_abbado













こうなりゃ、とことん。

ベルク(1885~1935)は、「ルル」を2幕までで、3幕を不完全なままで、悪性腫瘍により世を去った。
残された3幕からの抜粋部分2曲を、第2幕からの3曲の後につなげて、ルル組曲(交響曲とも)とした。
親父クライバーによる初演であった。

2幕から、ルルの魔性が本格的に音楽にもにじみ出てくるので、これら5つの曲は、オペラの雰囲気を30分で味わえる寸法となっている。

1.ロンド  2.オスティナート 3.ルルの歌  4.変奏曲    5.アダージョ

ベルクは、登場人物たちにそれぞれ12音音列によるライトモティーフを付けていて、登場人物から他の登場人物に基礎音列を関連づけて導き出されているという。
そのすべては、私にもわからない。
もっと聴きこんで味わいつくしたいと思っている。
それだけ、ベルクの音楽は魅力的で、昨日の舞台を経験して、ルル願望は満たされはしたものの、もっと知りたい「ルル」なのであります。
ホールで頂戴したパンフレットには、かなり読みでのある記事が満載で、まだ読破はしていないものの、目からウロコの部分も多々ある。

ベルクを愛するアバドは、若い頃からずっとベルクに取り組んできて、「ヴォツェック」には執念とも呼ぶべき取組み方を見せスカラ、ウィーン、ベルリンと指揮し続けた。
「ルル」もウィーン時代に手がける予定があったが、ベルリン着任により実現しなかったのが残念。ベルリン時代に何故「ルル」を取り上げなかったかは不明。
でも、70年のロンドン響、94年のウィーンフィルと2度に渡って、こちらの「ルル組曲」を録音していて、そのどちらもが素晴らしく密度の濃い演奏となっている。

ロンドン盤は、ニュートラルですっきりと整理され、知的で切れ味鋭い演奏だが、ウィーン盤は、その印象はそのままに、より濃密でダイナミックレンジの広い味わい深い演奏になっている。
24年の歳月とともに、オーケストラの持ち味が大きく作用しているのだ。
どちらもアバドらしい、歌心にあふれているが、そこに甘味なベルク節がおのずと載ってくるのがウィーンフィルならでは。
むせかえるようなホルンの咆哮、唸りをあげてむせび泣くヴァイオリン。
切り裂きジャックによる、ルル殺害の大音響も決して威圧的にならない。
そのあとの、ゲシュヴィッツ令嬢のルルへの愛情吐露に続く、オペラのエンディングの虚ろな響きにも歌がある。
録音も今もって絶品で、ムジークフェ色が立ち上ってくるようだ。

Lulu2_a

















こちらが、1970年のベルリン・ドイツオペラ来日公演の写真のうちの1枚。

ゼルナーの演出は、ベームのレコードジャケットと同じもので、これらを眺めつつ、未知なる「ルル」に想像をめぐらせていたワタクシである。

この時の演目は、「コシ・ファン・トゥッテ」「魔弾の射手」「ローエングリン」「ファルスタッフ」「モーゼとアロン」「ルル」という玄人じみたもので、指揮者も音楽監督マゼールにヨッフム、ホルライザー、マデルナ。
歌手は、FD,リゲンツァ、マティス、ローレンガーなど今思えば素晴らしい方々。
ルルは、当時の第一人者キャサリン・ゲイヤー。
小学生のわたしは、訳も分からず、テレビ放映された「ローエングリン」を見ていた。
ピットにいるマゼールが、ヴィーラント演出のブルーの光りをあびて、指揮していたのをまだ覚えている。

また、昔話をしてしまった。
こんなことの積み重ねで、音楽好きが昂じていった訳であります。
いまもまだ「ルル」聴いてまんねん。
「オテロ」はどうなる? え?

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びわ湖ホール「ルル」紀行

Kyoto_tower 日曜日に、びわ湖ホールがある大津まで、日帰り。

関東から行くと、米原から行くよりは、のぞみで一気に京都へ行き、琵琶湖線で膳所(ぜぜ)まで行って、徒歩15分。

京都タワーの前には、鉄腕アトムが飛んでましたよ。

Shinpukusaikan_5 京都で下車して、食事。
そう、高名なる京都ラーメンの両雄が並ぶ場所へ。

「第一旭」は何度も食べたので、もう10年は行ってない「新福菜館」へ。

まっ黒けのスープは意外とあっさりの旨口。
山盛りの九条葱とたっぷり煮込んだチャーシューがまた合う。



Otsu_church 世俗的なラーメンを食べてしまい、このあと「魔性の女のオペラ」を見るので、身を清めよう。

膳所では、和と洋の素晴らしくマッチングした「大津教会」へ。
青い瓦屋根に十字架。
内部も素敵な教会でありました。Biwako_hall_2

ホール前で、シャボン玉で遊ぶ子供たち。

Biwako_hall

ほんとは、撮っちゃいけないのかしら。
おどおどしてピンボケの開幕20分前のホールの様子。

Biwako_night_5

終演後の琵琶湖の様子。
噴水がライトアップされてますよ。

Kyoto_soba 最後は、京都駅の蕎麦屋で、鴨南蛮をつまみに一杯。
贅沢な日曜日を過ごしてしまった。

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2009年10月 4日 (日)

ベルク 「ルル」 沼尻竜典オペラセレクション

Biwako



















ベルクの「ルル」を観劇、@びわ湖ホール。

Lulu_biwako

















待望のオペラに待望のホール。
湖を臨む最高に美しいシテュエーションのホール。
今日は眩しいくらいの天気にも恵まれ、周辺の散策も楽しいし、ホールから見た湖面もキラキラとまばゆい。

そして「ルル」は、1970年万博の年にベルリン・ドイツオペラが上演した時の写真をずっと持っていて、一体どんな風なんだろうと、想像を膨らませていた。
岩波文庫でヴェーデキントの原作「地霊」「パンドラの箱」も高校時代に読んだし、そうして私も「ルル」の魔性に取り憑かれた男の一人と化していたのである。

日生も新国も逃してしまい、なかなかその舞台にありつけず、グライドボーンの映像(シェーファーの素晴らしさ!)やブーレーズやベームの音源だけで渇を満たしてきた。

ようやくにして巡り会うことができた「ルル」。
その実際の舞台。
故若杉さんが情熱を傾けたびわ湖ホールは座席数約1800と程よい規模で、このような緻密な作品にとても適していると思われる、ホールに入った時、無理してやって来てよかったと実感した。

Wakasugi

若杉さ
の偉業を偲ぶ一角があり、書き込みあるスコアや指揮棒が展示されておりました。

今回のびわ湖プロダクションは、6年前の日生劇場のものとは、ほぼ同じスタッフによるものながら、佐藤信氏の演出は再演でなく、新版とのこと。
そして、当然のことながら、チェルハ補筆による3幕版による上演。

   ルル:飯田みち代     ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:小山由美
   アルヴァ:高橋 淳     
   劇場の衣裳係・ギムナジウムの学生・ボーイ:加納悦子
   医事顧問官・銀行家・教授:片桐直樹
   画家・黒人:経種廉彦   シェーン博士・切り裂きジャック:高橋 祐樹
   シゴルヒ:大澤 建      猛獣使い・力業師:志村文彦
   公爵・従僕:清水徹太郎  侯爵:二塚 直紀
   劇場支配人:松森 治   15歳の少女:中嶋 康子
   少女の母:与田 朝子    女流工芸家:江藤 美保
   新聞記者:相沢 創     召使:安田 旺司

       沼尻 竜典 指揮 大阪センチェリー交響楽団
              演出:佐藤  信
                    (2009.10.4@びわ湖ホール)


「ヴォツェック」もそうだか、甘味な響きに満ちたベルクの音楽は、極めて緻密に作曲されており、やはり「ヴォツェック」と同じく、全体がシェーン博士の死を境にルルの絶頂と没落がシンメトリーとなって構成されている。
それを明確に隔てるのが、ルルの逮捕劇と脱出を映像で描くという原作品の指示だが、そのシネマは、ルルの肖像が徐々に焼けて行き、その上に文字で物語る仕組みとなっていて、ゲシュヴィッツ令嬢による救出劇が語られと、焼けた肖像は逆戻しとなって、ルルが復元する仕組みとなっていた。グライドボーンのDVDでは、かなりリアルな実映像で、下着の交換など興ざめだっただけに、今回のシンプルさは大変好ましいと思った。
ベルク自身が書いた台本はかなり詳細なもので、特異な演出の入り込む余地はなかなか難しいのではないかと思うが、初めて接する私には、今回の演出はシンプルでわかりやすく、とても好ましかった。
 先のDVDは、舞台はまったくの殺風景で味気ないものだが、人物の動きや演技が相当に際どいものだったが、今回はさほどでなく、ごく常識的。
このあたりは、欧米人と日本人との感覚の違いか・・・・。

舞台は本格劇場としての奥行きや機能を活かしたもの。舞台奥には、「廃墟」を撮り集めた写真集からの画像が場ごとに切り替えられて据えられていて、まるで心霊スポットのよいな、荒れ果てた病院のような内部のものや、朽ち果てたアパートメントの外観。
最終場ではその画像に雨が降りそぼるという、全編、殺伐たる背景が展開された。
その中の1枚、レッドツェッペリンの「天国への階段」のジャケットと同じものがあったと思ったが、そう思ったのは私だけだろうか。これらの画像は、ルルを初めとする登場人物たちの救われない心象風景と見てとったがいかに。
終演後のカーテンコールには、青い地球と変わっておりました。

その画像を背景に舞台奥にはバンドが時折登場し、指揮者もついて劇中音楽を奏でる。
このリアルさと、舞台とは別次元の存在に演出意図を見たような気がする。
舞台にはいくつかモニターテレビが置かれ、ピットで指揮する沼尻さんが最初から最後まで映しだされている。
舞台照明は場によって変わったが、いずれも低めに下がっていて、その枠組みもむき出しでまる見え。
半透明のガラス扉が、いくつか据えてあって、そのほかは何もない。
この扉が、玄関でもあり、別室の入り口であったりする。
また、上階への階段は殺風景な鉄製で、回廊もむき出し。地下は舞台の奈落そのもの、登場人物たちは上へ下へと忙しい。

冒頭登場し前口上を述べる猛獣使い。背景では薄暗い中で、ルル役のダンサーが数人の男たちからちょっかいを出されたりするパントマイムが行われている。
やがて、登場人物たちを動物に見立てた話しを受け、顔を布で覆ったルルが連れ出されてくる。このとき出てくる黒子のような仮面3人が、以降時おり登場してはルルを導いたりしていた。
このように、本題オペラをスタジオ内の劇中劇のようにして見立てた演出ではないかと思った次第。

人物たちは、結構クールに描かれていて、無機質な存在。
プログラムにある「ファム・ファタール」~「魔性の女」としての「ルル」は、私には表情のない、そして当然心のない、人形のような存在として思われた。
アルヴァに、あなたのお母さんを毒殺したと独白し、その父たるシェーン博士も銃で撃ってしまうルル。
でもそんな悪どい魔性とは違う、次から次に現れる男や運命に、淡々として従ってゆく哀れさそう美しい存在。

「私の主人ですって・・・、もし、この世に私が誰かのものであるなら、私はあなたのものですわ・・・」
さらに、「私は世間に自分以上のものを示そうとはしなかった、世間が見る通りでいいの・・・あるがままでいいの・・・」
シェーン博士とのやりとりで歌うルル。甘味な調べに乗って歌われる。
迷える子羊ルルは、こんな風にせざるを得ない・・・・。

そのルルを見事に歌い演じた飯田みち代さん。あまりに素晴らしかった。
彼女の声を初めて聴いたが、その涼やかで凛とした声は、その美しいお姿とともに、ルルのイメージにぴったり。ドイツ語の響きもとても心地よい。
ルルは、劇中何度も衣装や髪型を変えて登場しなくてはならないが、そのいずれもきれいだった。とくに悩ましい踊り子姿に、緑の和着物を羽織った姿はとても魅力的。
ソファから逆さまになり、足を両開きにするなど、アクロバテックな動きもあり、歌以外にも日頃の鍛練がうかがえ、オペラ歌手というものは今や大変な仕事なのだな、と実感。

歌手では、あと何といっても小山さんの様似になりすぎのゲシュヴィッツ令嬢。
いつも小山さんが出てくると舞台が締まる思いがするが、今回もそう。
それと、高橋淳さんのアルヴァ。この人はこういう特徴的な役柄は本当にうまい。
黒田さん体長不良で降板を受けてのもうひとりの高橋さんは、初めて知る歌手だったが、ルルに一番もてあそばれる葛藤する難しい役柄を良く歌い演じていたと思う。
ほかの皆さんも立派なものでした。

そして、舞台とオケを孤軍奮闘、引っ張ったのが沼尻氏。
すっかり手のうちに入ったと思われるルルの調性と十二音が入り乱れる複雑な音楽を完璧に振り分けていたと思う。
演出の背景もあり、ややこじんまりとしていたかもしれないが、こうしたホールの緊密な空間ではこうした音楽作りの方がいい。
オケは、最初は手探り状態だったが、実によく健闘していた。

若杉さんの路線をしっかりと踏みしめている沼尻氏。
来年は、「ボエーム」のあと、セレクションでは「トリスタンとイゾルデ」()が予告されております。

Biwako_night_1



















終演後、火照った顔を冷やそうと湖に出てみたら、素敵なイルミネーションと、美しい月が湖面に輝いておりました。

こんな光景を見ながら大津駅まで歩く。
私の頭のなかは、ベルクの音楽でいっぱいだ。
ついに「ルル」を観たけれど、まだまだ私はその呪縛から逃れられそうにない。
パトリシア・プティボンがルルに挑戦するという。
あのキュートな彼女が、どんなルルを作り出すのだろうか・・・。

Biwako_night_3_2

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2009年10月 3日 (土)

ショパン 24の前奏曲 ポリーニ

Taian_jelly_2 おいしそうな食後のデザート。

晩夏・初秋のお味。

赤いのはとても甘いスイカ。
黒いのは丹波の黒豆。
上の大きな丸いのは、イチジク。
緑はメロン。
みつ豆がジュレになったかのような感覚。
美味にございました。

9月、久し振りに寄らせていただいた、大阪島之内の日本料理店「太庵」にて。

Chopin_preludeds_pollini

雨と晴れが交互に訪れるこの頃。
○心と秋の空。
たしかに、でございますね。
○は男も女も、どっちも一緒。

ショパンの憂いもいくぶん躁鬱ぎみで、泣いたり笑ったりと忙しい。
でも基本は短調なのかなぁ、ショパンは。

ショパンの作品数はそんなに多くないから全曲はわりと簡単に揃えられる。
でも39歳で亡くならなければ、もっと多くの作品が残されたはず。
モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、みんな今の感覚では短命だった。
しかし、残された音楽はとんでもなく内容が濃いのが天才たる所以か。

ショパンの憂いには、中学・高校時代、極めてハマった。
アルゲリッチとアバドの協奏曲に始まり、アシュケナージのソナタ、ホロヴィッツのバラードやポロネーズ、ルービンシュタインの即興曲、そして、ポリーニの練習曲に前奏曲であります。
いやぁ、ここに書くことも恥ずかしいくらいに、青春(きゃぁ、きゃぁ~)の甘い感情に浸るのに、ショパンはまさにうってつけでありましたねぇ。
今やショパンは、過ぎ去った大昔の青春を思い出すよすがであるとともに、ほろ苦い悔恨や、先が見えてしまった現在ある自分の姿を見据えなくてはならないという厳しさを強く意識させる音楽になった。

ムーディなだけで聴くことができない、厳しい音楽。
ショパンは、詩的だけでない音楽的な作品であることにも気がついてきた。

懐かしい1枚の、ポリーニ「24の前奏曲」を取り出してみた。
そして数十年ぶりに聴いてみた。

バッハを尊敬していたショパンは、「平均律」と同じように調性を移行させながら緊密な構成の前奏曲集を残した。
それぞれ短いが、5度循環の緻密な全体構成が全体をひとつの作品のように見せていて、どれか一曲ではなくて、聴ききだしたら全部聴かないと止まられなくなる。
これらがバラバラに書かれたというから、これまた驚き。
かのジョルジュ・サンドと過ごしたマジョルカ島でも数曲書かれている。

そしてポリーニのピアノの硬質でありながら、明晰さを伴った明るい響きを聴いていると、造形の見事なイタリアの彫像を思い起こしてしまう。
そこにみずみずしい清潔感もあるものだから、極めて美しくも音楽的なショパンがここに聴かれることになる。

音楽も演奏も、あんまり素晴らしいものだから、昨晩から4回も聴いてしまった。
土曜日の今朝も聴いている。
さっきまで薄日が差していたのに、窓の外はまた雨が落ちてきた。
今日もお天気は気まぐれだ。

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2009年10月 2日 (金)

レハール 「メリーメリー・ウィドウ」祝祭版 新国立劇場公演

Dsc00952 新国立劇場エントランス。

勅使河原 茜さんの秋色の見事な作品。

Img_2 レハールの「メリーメリー・ウィドウ」、シーズンオープニング「オテロ」の合間に、こんな公演がありました。
平成21年度(第64回)文化庁芸術祭祝典、国際音楽の日記念・・・・、というお堅い冠が施されている。
S席5000円、それ以外は3000円と格安。
でも、一般発売が少なく、チケットはすぐに売り切れ。

それもそのはず、皇太子殿下が来臨されました。
我々民衆は拍手をもってお迎え。
私の席は3階で、殿下は2階センター。
お帰りの際にのぞき見したら、そのご尊顔を拝することができて妙に幸せ(?)
音楽監督代行の尾高さんがアテンドされていらっしゃった様子でありました。

今回は、現田茂夫さんの新国デビュー、しかもいかにも得意そうなレハールとあって、「勝手に神奈川フィルを応援する会」のはしくれとして、幹事長にもお声掛けして観劇に挑んだ次第にございます。

劇場に入ると、オケピットに蓋がしてある。
おや、オーケストラは上に上がるのね。
プログラムを見ると、「メリー・ウィドウ」にはさまれるように、オーケストラ演奏や「こうも」、「椿姫」が上演されるという。
「メリー」がひとつ多いから何ぞやと思ったらそういうことなんだ。
Img_0002
プログラムはこんな感じ。

出演者たちは、女性は自前とも思われるドレス、男性はタキシード。
「こうもり」に登場の双子(新説!)オルロスフキーやロザリンデのみ既存の上演の衣装の模様。
簡潔なアールヌーヴォ風の舞台装置もたぶん「こうもり」の代用。

というわけで、リーズナブルでありながら、盛りだくさんの内容で、次々とあらわれる音楽のご馳走に舌鼓を打ったのです。

未亡人ハンナが、かつての恋人ダニロとパリで再会し、よりを戻すという「メリー・ウィドウ」の基本ドラマに、ガラパフォーマンス風にほかのオペラが挟まる。
オペラ好きなら堪らない趣向に、オーケストラ好きも楽しめちゃう。
カットだらけでけしからん、なんていう向きもありましょうが、劇場という空間で、リラックスしつつ笑いと音楽に興じる。
これ、最高の贅沢なり。
そして、盛りだくさん詰め込みすぎて、メリーウィドーはいずこへ? の感もなきにしもあらずだったが、ともかく楽しく、面白かったから「よし」である。
 日本語によるセリフもユーモアたっぷり。さすがにきわどいセリフはなかったものの、指揮者までもが劇の中で活躍。
金持ちのハンナが、パリで外国人と結婚してしまったら、外貨として流出してしまい、破綻しかねないポンテヴェドロ国。
「証券会社の影響を受けたどこかの国と違い、我が国は、緩やかな後退にあるのだ」というポンテヴェドロ公使。会場は爆笑。皇太子さまもお笑いになったのかしら?
「マエストロやオーケストラのギャラも払えないかも・・・」、に現田さんやオケは反応し、帰ろうとし、公使は慌てて、信用状のようなものを手渡す。
こんなシーンが2回もあって笑えたし、現田さん、居眠りするダニロに白い布をかけて、指揮棒でもって、床を打ち、チーン・ぽくぽくとやったもんだから、これまた爆笑。
 こんな仕掛けがたくさんありましたよ。

  「メリー・ウィドウ

          ハンナ:中嶋 彰子     カミーユ:ディヴィッド・ロビンソン
     ダニロ:与那城 敬     ヴァランシエンヌ:九嶋 香奈枝
     ツェータ男爵:町 秀和   ボグダノヴィッチ:青山 貴
     カスカーダ:北川 辰彦    サン・ブリオッシュ:村上 公太
     クロモウ:岡 昭宏       プリチッチ:駒田 敏章
     大使秘書:藤木 大地


  「椿姫

     ヴィオレッタ:安藤 赴美子 アルフレート:ディヴィッド・ロビンソン

  「こうもり

     アイゼンシュタイン:桝 貴志  ロザリンデ:吉田 珠代
     オルロフスキー:清水 華澄   オロロフスキー:増田 弥生
     ファルケ:青山 貴        アデーレ:大西 恵代
     イーダ:鷲尾 麻衣

    現田 茂夫 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
               新国立劇場オペラ研修所修了生・研修生(合唱)
                       (10.1@新国立劇場)

あれっ?
オロロフスキー?
オルロフスキー公爵は、実は双子だった(のだそうです~笑)。
私のお気に入りメゾ清水さんと、体型は違うけど、濃い目の増田さん(以前フリッカ歌ってた)のオロロが出てきて笑えましたねぇ。
若手中心の実力派歌手の皆さん、とてもよかった。
中でも、オネーギン、エーネアスと観てきた注目の与那城さん、やはり舞台映えするし声の存在感も増した感じ。
それとやはり実績ある中嶋さんは、最初から最後まで声が輝いていて、ダントツだった。

それで、現田さんに、こうした音楽を振らせたら素晴らしい。
それがまさに実感できた。
ヴィリアの歌の聴き馴染んだオーケストラがなんと新鮮に響いたことか。
ハンナとカミーユの二重唱のとろけるような美しさ、ダニロの真打登場シーンでのしなやかで甘い旋律、それぞれ震えるほどにキレイ。
神奈川フィルとともに大きくなった現田さん、今後、活躍の場がますます広がってゆきます。そして、新国にも本格上演で是非、再登板していただきたいもの。
かつて、にゃんこ達(にゃんこ会議・クリックして下さい)が予想したように!

終演後、アフターオペラはオペラシティの居酒屋で。
短期決戦で飲みすぎちゃいました。
どうもお世話になりました。

  

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2009年10月 1日 (木)

オヤジ顔の「にゃんにゃん」

1道端にたたずむにゃんこ先生。

車の中から見つけて撮ったものだから、そのご尊顔はわからなかった。

で、お家でパソコンで見たみたら・・・。

顔がオヤジだったっしゃ。
色の按配もよろしい。
いょっ、オヤジ、いい味出してんね

2 「ふん、うるせぇやい

立ち去るオヤジにゃんにゃんでございました。

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