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2009年10月 7日 (水)

ヴェルディ 「オテロ」 新国立劇場公演

Operapalace 新国立劇場、シーズンオープニング演目、ヴェルディの「オテロ」を遅ればせながら、最終日に観劇。

初日の9月20日から、10月6日まで2週間以上、世界的な歌手を押さえたプロダクションを年間維持できるようになった我らが劇場も、それこそ世界に通じるハウスになってきたのではないかと、つくづくにして思う。

先日訪れたびわ湖ホールが評論家諸氏を除いても、地元や関西、名古屋までの聞き手に愛され、オペラを楽しむ土壌がしっかり根付いた親密な雰囲気に満たされているのを実感し、そこに故若杉さんの築き上げてきたものの結実を見た思いだった。
行政のめんどくさい話も克服する力を見た。

Img やっぱり、オペラはこうでなくっちゃ
そして、やっぱりヴェルディはいい

ルルに取り憑かれてしまった後遺症から、頭の中はベルクの音楽に満たされていて、始まるまでどうなるかと思っていたけれど、冒頭の一撃で、まさに稲妻に打たれたが如く、ヴェルディの世界にあっさりと引き込まれてしまった。

それにしても、ヴェルディの最後期の作品の音楽の充実の極みといったらどうだろうか。
オテロは、永年聴いてきたが、こうして舞台で接してみて、その弛まぬ旋律の宝庫ともいうべき音楽作りに感嘆し、そこが人を引き付けてやまないのを強く感じた。
そして、前期のものほど単純だが、中期以降は、そこに人間ドラマを強く滲ませるようになった。

その心理劇ともいえる人間ドラマの真骨頂が「オテロ」であろうか。
文学作品に題材を求め続けてきたヴェルディだが、やはりシェイクスピアとボイートの台本を得たところが大きい。
 そして、今日の上演で、ヴェルディがワーグナーにこんなにも接近していたことがわかったことも大きい。ライトモティーフの多用と分厚いオーケストレーションに。

  オテロ:ステファン・グールド  デスデモーナ:タマーラ・イヴェーリ
  イヤーゴ:ルチオ・ガッロ    カッシオ:ブラゴイ・ナコスキ
  ロドヴィーゴ:妻屋 秀和     エミーリア:森山 京子
  ロデリーゴ:内山 信吾      モンターノ:久保田 真澄
  伝令 :ダン・ジュンボ

   リッカルド・フリッツァ、石坂 宏  指揮
     東京フィルハーモニー交響楽団 新国立劇場合唱団
   演出:マリオ・マルトーネ
                    (2009.10.6@新国立劇場)

見てください、指揮者が二人
生まれてはじめて。オペラを二人の指揮者が担当するなんて!
フリッツァが急に体調を崩し、1・2幕で降板。
25分間の休憩が、途中アナウンスも入って時間を要するとのこと。
会場はざわついた。私は、舞台に張った水でも決壊したのかと案じた(笑)
そこで、指揮者交代のアナウンスが入り、約15分遅れで石坂氏の登場となった。

ところがこちらの石坂さん、すんばらしい指揮ぶりで、オケも歌手も急場をやり遂げたいという思いと、千秋楽ということも手伝って、後半3・4幕はまったくテンションの高い緊迫の舞台になった。
代役以上の仕事をこなした石坂さんは、新国の音楽ヘッドコーチを務め、ドイツ各地の劇場で長く活躍するオペラのベテラン指揮者だったのだ。
3幕の全員による大ユニゾンなどは、痺れるほどの感銘を受けた。
一方で押さえるべきところはしっかりとしていて、デスデモーナのアリアでの歌手の呼吸を読み込んだしなやかな伴奏には大いに感心もした。
劇場という世界は、こうして水準を落とすことなく急場にしっかり対応ができる仕組みが常に施されているわけで、これまた感心。
 正指揮者の方のフリッツァもむろんよかったが、ちょっと鳴らしすぎじゃないかと思った。
東フィルがこんなに分厚くガンガン鳴るのを聴くのはないもの。
時おりジャンプもしてたし、威勢のいい指揮は、後半と好対照。
飛んだ(?)ハプニングだったが、結果オーライ。
カーテンコールには、ちょっと不調そうなフリッツァと石坂さん、出てきました。
指揮者ふたりをこんな風に見るのも初めてですよ!
(他の方々のブログにて、右肩が上がらなくなってしまったとのこと。職業病ですな)

肝心の舞台の印象を。
Ki_20002292_5 演劇・映画系からオペラ演出に入ってきたマルトーネは、舞台をキプロス島からヴェネツィア風の街並みに移し、煉瓦積の洋館が左右に並び、真ん中がオテロ夫妻の館=寝室という構成が全幕を通じとられている。
そして、それらの下は運河で、実際に水が張られていて驚き。
水ものは好きなので、どうなるかと思っていたら、イヤーゴはここにジャバジャバと入っていって邪悪なクレドを歌う。
水辺から緑色の泥をすくって、オテロ邸の壁に死をあらわす十字を書いてしまう。
アリアの終わりには、バケツで水を汲んで、その十字にバシャァーっと掛けて一応キレイにしました。そして、汚れたお手々は、バケツできれいに洗いましたとさ。

 なーんて具合に、この演出、思い切り「」で遊んでくれます。

Ki_20002292_12 デスデモーナは柳の歌を、白い寝具をたくしあげながら水辺で歌うし、極めつけは、オテロの最後。
運河の真ん中に長剣を持って立ちつくすその姿は、追い込まれて死を決した悲壮感が出ていて、私は、「忠臣蔵」討ち入りで、池の中で奮闘死する清水一学か、はたまた体型的は弁慶のように思えてしまった。
でもって、短剣で自決したオテロは、水の中に倒れ、これまた水の音をたてながらデスデモーナの亡骸ににじり寄り、水の中に果てるのでありました。
 まだあります、水がらみ。
興奮したオテロが投げてしまうハンカチは水の中。これをイヤーゴは艀にある長い棒で手繰り寄せエミーリアに取ってやるものの、これを奪い取り、後のオテロのハンカチ妄想のツールとして使うわけだが、このあたりのやり取りがとても面白かった。
 この水に浸された運河、オテロの心情を映すかのように時に波立ったりもするし、上かたご覧になっていたIANISさんのお話では、色も微細に変わっていたという。
その水に光があたり、建物にその揺らめきが放射したシーンは極めて美しかった
大掛かりな「水」の装置だったが、この演出の重要なモティーフであったことは間違いない。

もうひとつ、「」とくれば「」。
1幕の初めの有名な「焚き火の合唱」では、ほんものの火が、それも2ヶ所で焚かれた。
ひとつは、そのまわりでダンサーが踊り、もうひとつは、そこで肉の串焼きをやっていた(笑)。
そのうえ、上では音楽に合わせて花火が弾けるわけだから、世界でも一番厳しい東京消防当局がよくぞ許可をしたもんだ。
すぐそこに水がたっぷりあるから「よし」とされたのかしらん。
ちなみに、花火は数えたら15発(多分)。その効果のほどは、なんとも・・・であります。

ともかく「絵的」には、美しい見ごたえのある舞台でありました。

Ki_20002292_10a 一方、英雄の悲劇と、それを操る悪意という求心的なモットーはというと、登場人物たちが「美しい絵」の中に装置のようにはめ込まれてしまったかのような動きに終始し、薄れてしまった感がある。
 オテロの妄想を具体化した、デスデモーナとカッシオとのいちゃつきや、生足ゴックンの場面をわざわざ再現してみせて、これは混乱をまねくし、過ぎたるは・・・・・、の思いがあった。
そんな中では、タマちゃんこと、タマール・イヴェーリの芯の通った素晴らしい歌や可愛らしさもあってか、デスデモーナの純粋性はとてもよくあらわされていて、先にあげた柳の歌のシーンは感動的だった。
思えば、デスデモーナの死も、ワーグナーの自己犠牲にかぶるような気がするが、いかがでしょうか?

私のような世代にとって、オテロといえば、デル・モナコ。あの目の玉ひんむいた迫真の演技に崩壊寸前のすさまじい歌唱。そこには、ゴッピの悪漢イヤーゴも常にある。
それを唯一忘れさせてくれたドミンゴも、カルロスの指揮とともに忘れえないもの。
 そんなイメージがこびり付いたオテロ役だが、観客の中からノシノシと現れたグールド
そして「Esulutate!」 の一声は・・・・、それはジークフリートが熊を駆り立てて登場したかのような「ホイホー!」の声だった。
私には、ジークフリートやタンホイザーで染み付いたグールドの声、声はぶっとくてデカイが、独特の発声にひとり違和感がある。ワーグナー歌いのそれなのだ。
グールドの唯一のイタリアものの持ち役なんだそうな。
巨漢だから、悩みも壮大に見え、とてもハンカチ1枚に踊らされる風には見えない。
デル・モナコやドミンゴがオテロという人物に入り込んで、もうどうにも止まらない特急列車嫉妬号と化していたのに比べ、グールドは鈍行列車嫉妬号。
だがやがて、後半3幕あたりから、ジークフリートは影をひそめ、いやまったく気にならなくなってきて、その力強い声に迫真の演技が加わりこりゃすごいぞ、と思うようになってきた。強いテノールの声を聴くことは、大いなる喜びなのだ。
耳が慣れればなんのことはない。かつてのヴィントガッセンも歌ったヘルデン・オテロも悪くない。

Ki_20002292_6a マルトーネ演出がイヤーゴを物語の中心に据えているのは明らかで、妙に小心のオテロに比べ、知的で冷徹な人物として存在していた。
わたし的には、一直線オテロと悪徳イヤーゴの丁々発止の吠えまくりを見たかったところ。3幕で興奮のあまり気を失うオテロをイヤーゴは傍らで冷たく見下ろすだけで、足で蹴って転がすことはなかった~もちろん、グールドがデカすぎて無理だったかも。
そして、イヤーゴの憎しみは、イケメンのカッシオにも強く向けられていたところが面白い。ムーア人とヴェネツィアから信任厚いカッシオ、そのどちらにも嫉妬するイヤーゴ像を、期待のガッロは完璧に歌い演じていた。
西部の娘では憎々しい保安官だったけど、思えば前回のドン・ジョヴァンニもクールだったなあ。おまけに同じヴェネツィアだし。
歌唱としては、ガッロとイヴェーリが一番安定していて、カッシオはビジュアルだけよかった。
それと、毎度素晴らしい新国合唱団の緻密かつ圧倒的な力強さ。

指揮者交代という、珍しいおまけ付きのオテロ、人物像の描き方にもっと厳しさが欲しかったものの、私は充分楽しみましたよ。
ヒロイックなオテロの死とラストは、まるで自身が書いたレクイエムのような素晴らしい音楽だが、幕がしずしずと降りはじめと、最後の音がまだ残っているのに拍手が起きてしまった。
毎度ながら、拍手は感動の表現としても、その余韻に静かに浸ることができないものだろうか。
ワーグナーやシャトラウスでこれをやられたらたまったものじゃない!

今シーズンは、オテロとヴォツェック、影のない女と、故若杉さんがオペラ劇場に必須の作品として是非とも取りあげたかった演目が目白押し。
オテロとヴォツェックは、いずれも若杉さんの指揮で観劇したことがある。
1975年、私の記念すべき初オペラ体験が、このオテロでありました。
最近亡くなった中山悌一氏の訳詞をはじめ、いまや懐かしい歌手たちの熱い歌唱に、高校生のワタクシは興奮しまくり。そして若杉さんは、COOLだった。
古い切り抜きなどを整理してたら当時のチラシ発見。
ここに公開いたします。

Otello_nikikai1975_a Otello_nikikai1975_b













Daikokuya  終演後は、IANISさんと、新宿へ出て思い出横丁界隈で一献。

オペラ好きの話は尽きることなく心地よい酩酊に包まれました。

すると、私の頭の中には、ヴェルディの音楽を押しのけるようにして、ベルクのルルが鳴りはじめたのだ。

もう11月の「ヴォツェック」  まで待ちきれないよ!

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コメント

 こんばんは。ひさしぶりに同じ公演に当たったようですね。スカラ座のドン・カルロよりは良くわかりました。しかし、いまだに、ドン・カルロとオテロには言葉が出てきません。でも、第4幕はとても感動しました。

 指揮者が交代したのにも、火が出たのも、水がいっぱい張ってあるのも驚きました。しかし、通常は前傾しているはずの舞台で、水を張った部分は水平でないといけないのだから、1階に座っている人には、はたしてちゃんと見えているのか、不思議だったのですが、どうなのでしょう。私は3階センターでした。

投稿: にけ | 2009年10月 7日 (水) 23時33分

まず、すみませんでした。一杯飲むために(それもこれも、フリッツァ氏の急病のため-しかし、危機を如何に回避するかが一流と以下の違いですね・・・真鍋氏のカラヤンの追想をまとめた新書読むと分かります-新国、一流劇場の仲間入りです)、お宅に返さず、会社に一泊させてしまったこと、深くお詫び申し上げます。なんとか年末までに2年分ためた分をホームページの再開でお返ししますので、お許しを・・・。これに懲りず、11月の「ヴォツェック」で、またお付き合いお願いします。
しかし、やはり「オテロ」は凄い作品ですなぁ。

投稿: IANIS | 2009年10月 7日 (水) 23時36分

カーテンコールに現れたフリッツァの右腕が力なくだらりと下がったまま隣の人と肩も組めない様子を見て、早く病院へ行かなくていいのか!?と心配になってしまいました。責任感がそれを許さなかったのでありましょう。前半のうるさいくらいのダイナミックな鳴りっぷりには東フィルを見直すこと頻りでした。(実はつい先日のプレトニョフのチャイコフスキーもまた聞き違えるほどの充実ぶりでした。いったい何があったのかと思ってしまいます)
照明により透明度を失い濁っていく水、徐々に押し寄せて水面埋め尽くしていく靄、波立つ水面、そして妄想の場面での壁や天井への水の反映、これらはオテロの内面変化を表現していると見ました。またオテロがついには身を沈めてしまう運河の水は、張り巡らされたイヤーゴの奸智の罠の象徴ともとれますね。
1幕終わりの愛の二重唱は「トリスタン」に匹敵する夜の音楽となっていて聴きごたえがありました。イヤーゴのクレド、デズデモナの柳の歌とアヴェ・マリア、そしてオテロの絶命の場面と聴きどころがいずれも素晴らしい歌唱だったので満足度の高い公演になったと思います。
アクシデントがあったとはいえ、新国にとってはよいスタートが切れたのではないでしょうか。

投稿: 白夜 | 2009年10月 7日 (水) 23時51分

にけさん、こんばんは。
同じ日に観劇したのですね。
スカラ座は、いけなかったのですが、新国の水準は実に高いものがあったと思いますね。

で、火も水も驚きでしたねぇ。
私は1階の12列目でしたが、水面はよく見えましたよ。
でも色の変化がイマイチわかりませんでした。
映像でも見てみたい舞台であります。

投稿: yokochan | 2009年10月 8日 (木) 01時07分

IANISさん、昨晩はどうもお世話になりました。
いえいえ、全然。
アフターオペラは、こうでなくっちゃ。
アフターコンサートも常に飲んだくれてますので、事務所ライフも楽しいものです。
あのあと、よせばいいのに、つけ麺しちまいました・・・・。

そして、そうですよ。
閉館状態の貴ホームページ、再開を楽しみにしております。
アフター・ヴォツェックもよろしくお願いいたします。

投稿: yokochan | 2009年10月 8日 (木) 01時11分

白夜さん、こんばんは。
同じ日の観劇でしたね。
そうですか、プレトニョフの演奏会でも凄かったですか。
ミニバレンボイム、エッティンガーを指揮者に迎えるようで、何だか楽しみな東フィルです。
そして、指揮者って大変なお仕事ですね。

水に心象を語らせた舞台は、美しいものでしたね。
私も同じ印象です。
そう、あの1幕の二重唱は書きもらしましたが、本当に素敵なものでした。トリスタンの世界、まさにそう思います!

充実の新国、今シーズンも楽しませてくれそうですね。
これも若杉さんの財産なのでしょう。
すべて観劇したいですが、財布と時間が許してくれそうにありません(笑)

投稿: yokochan | 2009年10月 8日 (木) 01時17分

こんにちは
ハプニングは劇場の楽しみのひとつですね!

yokochan さんはまさに芸術の秋、観劇続き、
すごいです。

1階のほぼ最前列で見ました。水面は印象的ではありませんでした。オテロが死ぬ場面では浅い水の中だとわかりましたけど・・ 演出が意図したと言う照明効果も感じませんでした。すぐに今回は前すぎだわと思いました。


投稿: edc | 2009年10月 8日 (木) 16時46分

euridiceさん、こんにちは。
そうなんです、ハプニングでした。
おかげで、30分くらいずれてしまい、飲む時間が少なくなってしまいました(笑)

ちょっと観すぎかとも思いましたが、好きな演目が集中してしまったものですから、やむをえません。
オペラは観劇する場所によって全然見え方が違いますから、その印象まで異なってしまうのですね。
ずぶぬれの歌手たちがちょっと気の毒でした。
デスデモーナは濡れた足で、そのままベットに入ってまして、とても気になりました(笑)

投稿: yokochan | 2009年10月 9日 (金) 18時08分

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